裏春日通りと銀座通りのアーケードが交差するあたり。

ビデオ・パートナー ムサシ。

ムサシ建物の裏側は駐車場になっています。

その左側は、銀座通りのアーケードの裏側です。

裏春日通りと銀座通りのアーケードが交差するあたり。

ビデオ・パートナー ムサシ。

ムサシ建物の裏側は駐車場になっています。

その左側は、銀座通りのアーケードの裏側です。

甲府市の朝日5丁目にある銭湯の喜久之湯温泉。

太宰治も通った名湯です。

「太宰がいた町を歩く」と題した記事が掲載されています。

「毎日午後三時頃まで机に向かい、それから近くの喜久之湯に行く。その間に支度しておいて、夕方から飲み始め、夜九時頃までに、六、七合飲んで。。。ぶっ倒れてしまう。。。」

甲府駅北側の朝日5丁目。

大きなコンクリートの塊。

四つ足の箱が横倒しになっている状態です。

上側には蓋が付いています。ゴミ箱が横倒しの状態で置かれていることが解ります。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府駅の北側にある玄法院には、新柳町遊廓の遺構が残されています。そのうちの一つが手水石※1 ですが、もうひとつ、本堂前の石灯籠に芸妓が寄進したと思われる石の台座が残されています。

台座には、「芸妓中」と刻まれています。

新柳町の芸妓屋と芸者と思われる名前が刻まれています。
新柳町は、遊廓と芸者屋が混在していました。明治28年(1895年)の「新柳町明細地図」には芸者屋「森田」の名が記されています。*1

石灯籠の上部には、昭和廿八年と記されています。台座部分と灯籠部分は、石の風化の具合が異なって見えるので、別の時代のものかもしれません。

1774(安政3)年以降、徳川幕府は期間を限って甲府柳町一丁目(中央四丁目)の…
仲通りをぬけた角に建つスミレ写真館。

スミレ写真館に寿々喜家※1 所蔵の写真が展示されています。

花街があった頃の写真が展示されています。(仲通りレトロギャラリー。)
昭和50年代頃までの青梅駅周辺は、西多摩きっての商業都市として活気にあふれ、三業通りと仲通りの2本の通りは、ひと味もふた味も違った特色を持つ、青梅で一番の商店街でした(案内文より)。

当時の写真。

今回は、青梅(東京都青梅市)の町並みを散歩します。
旧青梅街道から1本北へ入った仲通りは、花街だった頃の名残のある寿々喜家があります。

寿々喜家は、「全国花街めぐり」で、「三層楼で洋食を兼ねている。」と紹介されています。*1

店内には、昔のアルバムなどの貴重な資料も置かれていて、花街だった頃の様子を知ることができます。

うな重の竹(ハーフサイズ)と日本酒を注文。

吉野橋の東側の国道20号線沿い。

中華料理の「福龍」。藤野周辺は、食堂が比較的少ないので、貴重な存在です。

出前もやっています。

天津丼とビールを注文。

旧吉野宿の北側の斜面を登ったところ。

「戸田医師の碑」が建っています。

医療関係では無医に苦しむ地方が多いにもかかわらず、明治の時代に、戸田医師、倉田医師の二名の医者が開業して吉野宿並びに近隣の保健の維持にあたっていました。吉野という宿場がいかに隆盛を極めていたかを立証するものです。*1

「明治三十一年」と読めます。

吉野宿の盛大さを物語る一面として、遊廓があったことが挙げられます。揚屋が2軒あり、交娼の検疫所が設けられ、週一度ずつの検疫が義務付けられていて、与瀬の吉川という医師が出張してこれに当たりました。*1
P.7
警備と医療関係の業
「吉野宿町並復元模型」で復元されていた小猿橋※1 は、現存せず、現在、沢井川には、吉野橋が架かっています。

橋の東詰には、案内板が建っています。

小猿橋は、現在の吉野橋よりやや南寄りにあって、山梨県大月市の猿橋と工法が同じで、それよりも少し小さいことから小猿橋と呼ばれました。宿場の遊廓や飯盛り女からの刎銭(はねせん)等を財源として掛替工事を行っていました(案内板より)。

小猿橋があったと思われるあたり。

博物館「吉野宿ふじや」に、「吉野宿町並復元模型」が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場町として栄えた吉野宿の明治10年頃のたたずまいを模型にしたものです(案内板より)。*1
本陣、脇本陣、旅館(藤屋、若松屋、吉本、吉田屋)
遊廓(栃木楼、中屋、源楼、福本楼、紅葉(かえで?)楼)、商店などの家並みが復元されています。

江戸時代、宿場吉野宿の街道筋に、かいで、常磐、中島、とちぎ、という4軒の飯盛旅籠が点在していましたが、明治29年に大火事があり、その後、飯盛旅籠は新地に集められました。吉野遊廓は、3軒の妓楼(柴田楼、中島楼、常磐楼)と3軒の茶屋(揚屋)があり、交通が発達するにつれ、遠く東京方面からの遊客もみえ、明治、大正、昭和の初期にかけて繁栄しました。*2

模型の左側(吉野宿の西側)には、沢井川を渡るための橋がかけられています。
吉野宿の場合は川に橋を架けるために(ということを名目に)飯盛旅籠の設置を願い出ました。*3

吉野宿本陣五層楼の復元模型。

本陣
脇本陣
旅館(藤屋、若松屋、吉本、吉田屋)
遊廓(栃木楼、中屋…
もともと、宿場女郎(飯盛女)は、宿場を旅人に素通りされたのでは、土地に金が…
慶応元年(1865)5月、幕府は長州征伐の費用として5000両の御用金を布田五宿(…