瀬戸内町(公衆トイレ)シャワー室が併設。市バス停近く。

住用町の市バス停近くにブロック塀で仕切られた公衆トイレがあります。

シャワー室が併設されているのが特徴です。

ブロック塀の向こう側にトイレが整然と配置されています。

手洗い場には、鏡が取り付けられています。

参考文献

参考記事

瀬戸内町(ムチャカナの碑)ウラトミ伝説。青久。

瀬戸内町の嘉徳(歌手の元ちとせさんの出身地)から林道を約10km行ったところに、青久部落への分岐点があります。

林道を約3km下ると、青久部落に到着します。
現在、民家は1戸のみですが、昭和20年代は30戸が生活する村でした。琉球時代に築かれた防風用の石垣が現在も残る原始の世界を思わす場所です。*1

青久部落の石垣の西側の小高い丘に「ムチャカナの碑」があります。

江戸末期、瀬戸内町の生間で派遣役人の現地妻(アンゴ)になることを拒んだ美女ウラトミが舟で流されましたが、幸運にも喜界島に漂着しました。*2
ウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナが生まれ、ムチャカナも母に似る美人で、島の男たちの評判を一身に受けるようになりました。ところが、これが他の娘たちの妬みを買いました。ある日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行きました。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落としました。これを知った母ウラトミは娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇につつまれた運命の幕を閉じました。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
【参考記事】
*2 風俗散歩(瀬戸内町)生間のウラトミの碑

参考文献

参考記事

瀬戸内町(ウラトミの碑)生間。ウラトミ伝説。

奄美に単身で派遣される役人たちは、必ずといってよいほどアンゴ(現地妻)を持ちました。アンゴとは島での妾のことです。派遣役人たちは村々を回って美しい女を物色し、強引に自分のアンゴにしました。容貌のいい娘を持った島の親たちのなかには、進んで派遣役人に我が子を差し出す親もいました。アンゴを出した家や地区は相当な恩恵を受けることができたためです。*1

しかし、アンゴになるのを拒否して自分の愛娘を舟で流し、数奇な運命を送った「ウラトミ伝説」も伝えられています。ウラトミは、瀬戸内町加計呂麻島の生間の生まれ。村一番の美人との評判が高かったので、代官の目に留まり、「上意」が伝えられましたが、ウラトミはこれを拒絶しました。この代償はあまりに大きく、面目のつぶれた代官は地区全体に重税を課しました。娘の貞操は守りたいし世間への申し訳に困った両親は、愛娘を行きながら葬ることとし、わずかな食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟にのせて流しました。数日後、幸運にもウラトミの舟は、喜界町小野津に漂着しました。やがてウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナも生まれ人もうらやむ幸福な生活を送りました。*1

生間のはずれの高台のムチャカナ公園にウラトミの碑があります。

ただ代官の欲求を健気に拒否し続けた島娘に思いを致すには十分な静寂が辺りを包んでいます。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191

参考文献

参考記事

瀬戸内町(嶽の湯)脱衣場には木製のロッカー。

古仁屋の町の中心部にある銭湯。四角い形のビル銭湯です

入口には「嶽の湯」と書かれています。牛乳などの飲み物の保冷庫が見えます。

暖簾にも「嶽の湯」。「嶽」という字は「岳」の旧字です。
木曽の御嶽山などは、この「嶽」が使われることがあります。

脱衣場には木製のロッカー。

参考文献

参考記事

瀬戸内町(屋仁川通り)名瀬の「屋仁川」と同名。

今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1

「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。

ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1

「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。

【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14

参考文献

参考記事

名瀬(ビデオシアター)目立つ黄色の建物。大島高校前のバス停近く。

名瀬市街の国道沿いの大島高校前のバス停近く。

目立つ黄色の建物です。

ビデオシアター名瀬。

アダルトDVDも販売されています。

参考文献

参考記事

名瀬(ブロック塀)塀が境界面であることを表す表記。

名瀬のブロック塀には、この塀が境界面であることを表す表記が彫られているものを多く見かけます。

こちらの塀には、塀が作られた年月が記されています。

幸町の住宅地で見かけたブロック塀。

←が書かれていて、塀のどちらの側が外面であるかが示されています。

参考文献

参考記事

名瀬(理容室)水色を基調とした木造の建物。

奄美市名瀬幸町にある理容室。すばらしい木造の建物です。

水色を基調とした爽やかな明るい店構えです。

道路を挟んだ反対側には白を基調とした木造の理容室があります。

明治時代の擬洋風建築のような趣のあるモダンなデザインです。

参考文献

参考記事

名瀬(看板建築のスナック)屋仁川通りの交差点の角。

屋仁川通りの交差点の角に、看板建築の建物があります。

1階には、スナックが3軒。

左側のスナックは、通路を進んだ奥に入口があります。

夜になると明かりが灯ります。

参考文献

参考記事

名瀬(スナック街)昔の雰囲気を残す建物。屋仁川。

昭和33年の売春防止法の施行により、赤線廃止後は屋仁川の料亭料理屋は衰退し、バーが雨後の竹の子のように出現しました。*1

現在の屋仁川通りは、バーやスナックが建ち並ぶ歓楽街になっています。

昔の雰囲気を残すスナックの建物。

看板は取り外されていますが、スナックの建物だったのだと思います。

【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.17

参考文献

参考記事

名瀬(屋仁川通り)長い間愛されてきた名所。

名瀬の「ヤンゴ」は、旅人の憩いの場所として長い間愛されてきた名所です。「ヤンゴ」というのは、「屋仁川」の方言読みで、もとは川の名前でした。名瀬の料理屋は、はじめは町の中心部にありましたが、料理屋が町の中にあるのは風紀上よくないという理由で、明治44年、屋仁川通りへの移転通達が出されました。*1

現在、屋仁川(ヤンゴ)通りには、ピンク色のゲートができていて、「やんご生誕100年記念」*3 と書かれています。
戦前まで名瀬では、料理屋のことを「ヅリヤ」と呼んでいました。「ヤンゴ」は屋仁川全体の名称で、「ヅリヤ」は料理屋そのもを指す言葉でした。男たちは、「ヤンゴに行こう」という言い方をし、女房たちは「ヅリヤウナグのところか」などという言い方をしました。屋仁川の女(ウナグ)のことを「ヅリヤウナグ」と言ったのは、沖縄、奄美に徳川時代からいた「ヅレ(遊女)=沖縄では尾類(じゅり)とも言う」をあとで出現した屋仁川の酌婦に対して呼び名にしたものです。*1
「ヅレ」の本来の能は、歌舞をもって各地を巡り、アソビ(歌三味線の酒宴)の庭に列なることでしたが、大正時代中期に「ヅレ」は姿を消し、彼女たちに代わって、名瀬、古仁屋のヤンゴー地域に巣食う酌婦が出現しました。*2

昭和二十二、三年頃のヤンゴの料理屋は、屋仁川通りの道筋の東側の方に多く散在していました。*1

今の園田商店のところの四辻を右折したあたりが料理屋街の中心地でした。*1

【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.7,P.16-P.25,P.56
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
【参考URL】
*3 観光ネットワーク奄美:奄美便り「やんご生誕100年祭 大やんご祭り

参考文献

参考記事

名瀬(おがみ山公園)山と海のはざまに密集する名瀬の市街地。

今回は、名瀬(鹿児島県奄美市)の町並みと風俗を散歩します。
名瀬の背後に位置する「おがみ山」には、展望公園があります。

坂道を登っていくと、徐々に展望が開けていきます。(写真中央に、ティダモール中央通りのアーケードが見えます。)

展望台からは、山と海のはざまに密集する市街地が名瀬湾を囲むように広がっている様子が見て取れます。

公園の高台には、復帰記念碑が建てられています。
終戦後、奄美大島は本土から分離され、8年の長きにわたって米国の政権下に置かれ、1953年(昭和28年)12月25日に本土に復帰しました。

参考文献

参考記事

琴平(美容室)美しい木造の佇まい。銀座美容。

琴平には、美容室や理容室が数軒あります。

交差点の角にある理容室。

木造の佇まいが美しい美容室。

「銀座美容」と書かれた看板。

参考文献

参考記事

琴平(スナック)地元の人に利用されるこじんまりとした盛り場。

昭和33年(1958年)に琴平新地遊廓の歴史は閉じましたが、その後もその跡地はソープランドやバー・スナックが散在する「夜の街」という性格を現在も持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、現在は地元の常連客が主になっています。*1

表参道脇にあるラウンジ。

稲荷神社の隣のスナック。

参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした盛り場へと変遷していきました。*1

【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原

参考文献

参考記事

琴平(赤線跡)白と黒のコントラストが美しい建物。

新地への入口があった路地*1 は、当時の雰囲気が保たれています。

赤線跡の建物。*2

白と黒のコントラストが美しい建物です。

向かい側の和風の建物。

【参考記事】
*1 風俗散歩(琴平):新地への入口
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002)P.89

参考文献

参考記事

琴平(新地への入口)アーチの支柱は今も残ります。

琴平新地は、一般の民家や旅館に隣接していて、塀や柵に囲まれることはありませんでした。

しかし、参詣者用に2か所の入口が設けられていて、そのうちの1か所にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶらさがっていました。そのアーチの支柱は今も残ります。*1

旅館脇に支柱の一部と思われる痕跡が残されています。

もう一つの新地への入口は、現在の新町商店街の中ほどにありました。*1

【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原

参考文献

参考記事

琴平(夜の街)遊廓の跡地。表参道をそれた裏小路。

表参道をそれて裏小路に入ると、ソープランドやスナックが散在する一角が出現します。

このあたりは栄町と呼ばれ、今でこそ人通りは少ないが、数十年前までは琴平屈指の盛り場として賑わいを誇り、現在の表参道沿いをすら凌駕していました。賑わいの理由は、参詣者の目当ての一つである遊廓があったためです。*1

昭和33年の売春防止法施行以降、遊廓の歴史は閉じましたが、その後も跡地は、ソープランドやバー、スナックが散在する「夜の街」という性格を現在も持ち続けています。*1

栄町の西側を流れる金倉川から見ると、川沿いにソープランドの建物が連なる景観に驚かされます。

【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原

参考文献

参考記事

琴平(花街跡)石段の数の多さで有名な金刀比羅宮。

今回は、琴平(香川県仲多度郡)の町並みと風俗を散歩します。
琴平には、山腹の社殿までの石段の数の多さで有名な金刀比羅宮、通称「こんぴらさん」があります。

表参道には参詣者が常に往来し、それに面して大型旅館・ホテル、参詣者向けの土産物屋が並びます。

古い門前町としての琴平の遊廓は、金山寺町(現在の通町、小松町)にあって、茶屋、賭場、富くじ小屋、芝居小屋などが建ち並ぶ遊興の地でした。しかし、一般の商店や旅館との混在は風俗上有害であるという理由から遊廓は明治33年(1900年)に、現在の栄町に移転され、新地と呼ばれることになりました。*1

金山寺町は、色街という性格は失いましたが、「琴検」と通称された芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けましたが、時代の推移とともに衰退し、昭和56年(1958年)に検番も廃止されました。*1
地元の方の話によると、最後に検番があったのは、現在の饅頭屋の「灸まん」がある場所でした。

【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原

参考文献

参考記事

下津井(黒田牛乳の牛乳箱)「K乳」のマーク。

下津井の西町。

牛乳箱のある古い民家。

黒田牛乳の牛乳箱です。箱の中央に「K乳」のマークが配置されています。

木造の建物には、木製牛乳箱がよく似合います。

参考文献

参考記事

下津井(共同井戸群)生活空間をなりたちを嗅ぎ取ることができます。

下津井は海岸線に沿って、軸となる道が通り、その両側に町並みが形成される近世港町の典型的な都市構造となっていますが、実はそれ以前の中世に背後の丘陵に向かって井戸と祠のある生活空間がひろがっていました。*1
下津井の町並みにはいくつもの井戸が点在し、「下津井共同井戸群」として文化財登録されています。

生活空間をなりたちを嗅ぎ取ることができます。

同じ場所の奥まったところにある別の井戸。

同じような井戸が何カ所かあります。

【参考文献】
*1 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.347

参考文献

参考記事

下津井(遊廓跡)元遊廓と思われる木造三階の建物

下津井港に北前船がくるようになったのは、18世紀後半からで、秋になると何十艘という船団を組んできたので、これを迎える港町はてんてこ舞いの忙しさでした。北国の船頭をもてなすために地元の遊女のほかに他の港から応援を求めたり、港の素人娘をかり集めたりしました。*1

下津井の花街は、祇園神社の裾野の西町付近にひろがっていました。*2

「下津井懐古」*1 に掲載されている元遊廓と思われる木造三階の建物。

西町の奥の道がカーブするあたりに建っています。

【参考文献】
*1 中西一隆,角田直一:下津井懐古(手帖舎,1989)P.42,P.64-P.65
*2 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.345 「下津井の都市構成図」

参考文献

参考記事

下津井(祇園神社)遊女が寄進した玉垣。見晴しのよい所。

下津井で見晴しのよい所といえば、祇園神社です。

石段を登ると、瀬戸内海と瀬戸大橋を一望できる大パノラマが眼前に広がります。

祇園神社の玉垣には、加賀、能登、越中、越後の商人、船頭に交じって、寄付をした遊女の名も刻まれています。*1

本殿の玉垣に芸妓の名前が刻まれています。入舟内小繁、三長内小三、川高内小美可、島津内玉一などの名が見えます。*2

【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船 寄港地と交易の物語(無明舎出版,2002)P.37
*2 角田直一:北前船と下津井港(手帖舎,1992)P.167-P.168

参考文献

参考記事

下津井(まだかな橋跡)「まだ(遊廓に)あがらんかな」。

今回は、下津井(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
下津井は、瀬戸内の代表的な近世の港町です。古い町並みの入口にあたる場所に「まだかな橋」の碑が建てられています。

まだかな橋跡。親柱が残されています。

江戸時代、入港してきた北前船などの船頭に、「まだ(遊廓に)あがらんかな」と声かけた婆がいたことから、この名が付けられました。

最近、建てられたと思われる「まだかな橋跡の碑」が道路の反対側にあります。

参考文献

参考記事

日比(白ポスト)日比市民センター前の入口。

日比のハス停から日比港へ向かう途中の道。

日比市民センター前に白ポストがあります。

入口から入ると白ポストが目に入るように配置されています。

道路からは白ッポストの側面が見えます。

参考文献

参考記事

日比(八千代湯跡)モダンな造りの銭湯。古い町並み。

緩やかなカーブを描いて、古い町並みが続いています。。

昭和10年の日比町住宅明細図にも記載されている銭湯の八千代湯の建物が現在も残っています。

モダンな造りの銭湯です。

女湯の掲示が見られることから、この建物が銭湯であったことが解ります。

参考文献

参考記事

日比(ちどり旅館)元旅館。繊細な格子を持つ建物。

山側の通りの中ほどに、元旅館の建物が残っています。

繊細な格子を持つ建物です。

現在も旅館の屋号の表示が残されています。

建物脇の路地。

参考文献

参考記事

日比(遊廓跡)古い町並みが残っています。

日比には、所々に古い町並みが残っています。

元妓楼の栄楼と思われる建物。*1

二階部分に手摺のあります。

遊廓の面影を残す和風建築です。

【参考文献】
*1 山田平次郎:日比町住宅明細圖(備讃民報社,1935)

参考文献

参考記事

日比(日比港)北前船の寄港地。背後に日比港が見渡せる日和山。

今回は、日比(岡山県玉野市)の町並みと風俗を散歩します。

日比は、北前船の寄港地で、かつては商家や遊廓が並び、船が入ると賑やかな港町情緒を漂わせていました。*1
日比港の背後には、眼下に日比港が見渡せる日和(ひより)山があって、日比の遊廓から芸者を連れ出した船乗りたちは、ここで「日和申し」と称して飲食を楽しみました。*2

現在の日比港。江戸時代は、日比と対岸(写真奥)の向日比の二つの集落に分かれていました。

日比町住宅明細圖*3 によると、遊廓は海岸線に沿って並んでいたようです。

【参考文献】
*1 山陽新聞社:岡山県民の明治大正(山陽新聞社出版局,1987)P.259
*2 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.36
*3 山田平次郎:日比町住宅明細圖(備讃民報社,1935)

参考文献

参考記事

岡山(岡山日活)千日前商店街の南端にある映画館。

「千日前商店街」は、南北に連なる長大な岡山表町商店街の一部で、その南端に位置します。

「千日前商店街」のアーケードが尽きるあたりに、「岡山日活」があります。

成人映画のポスターが貼られた解りやすい店構えです。

シニアは900円と良心的な価格設定です。

参考文献

参考記事

岡山(表町2丁目のバー街)旧内山下元町5丁目。

今回は岡山(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
岡山市の市街地にあって最大かつ伝統的な街「表町」は、さまざま表情をもった商店街です。北側から南へ、上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町、西大寺町、千日前、新西大寺町と有り「表八ヶ町」と通称され、現在でもこの名で呼ばれることがあります。*1
この「表八ヶ町」の東の裏通りにあたるのが、旧町名で「内山下元町5丁目」(現在の表町2丁目4,5、内山下1丁目12,13)で、バーや喫茶店の多い町です。*2*3

現在も表町2丁目4,5付近は、スナックやバーが建ち並んでいます。

ポリバケツや洗濯機が置かれた路地の奥に「スタンド」の看板。上には洗濯物。エアコンの室外機の上には一升瓶が置かれています。

スナックのある路地。

【参考文献】
*1 協同組合連合会 岡山市・表町商店街連盟:おもてちょう「表町商店街の歴史
*2 内山下地区連合町内会:2004年度版「内山下地区連合町内会」の地図
*3 岡山新聞社編集局:現代岡山町誌(岡山新聞社,1958)P.9-P.10

参考文献

参考記事

中島町(牛乳箱)オハヨー牛乳。東中島の川沿いの通り。

東中島の川沿いの通り。

岡山市に本社のあるオハヨー乳業(株)の牛乳箱です。かすかに「オハヨー牛乳」らしき文字が読み取れます。

西中島の民家。黒板壁に牛乳箱が取り付けられています。

こちらの箱は「オハヨー牛乳」の文字がはっきりと書かれています。

参考文献

参考記事

中島町(物干し台)水上デッキ状の構造物。物干し台。

東中島・西中島には、川沿いに水上デッキ状の構造物が数多く見られます。

川沿いの部分には、物干し台と思われる構造物が連なっています。

板で囲まれた個室状になっているものもあります。

気持ち良く眺めを楽しめそうです。

参考文献

参考記事

中島町(東中島)元旅館の建物。昔の雰囲気が残っています。

東中島にもかつての遊廓街を思わせる建物が残っています。

こちらの建物は、旅館でした。

現在は商店になっている建物。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 03-238.jpg

2階部分に昔の雰囲気が残っています。

参考文献

参考記事

中島町(お好み焼き「歩」)「肉すき、水たき」の看板。

西中島のお好み焼き屋の建物。

中橋側から見た建物の反対側。川にせり出すように建っています。

往時を偲ばせる木造建築です。

すすけた「肉すき、水だき」の看板。

参考文献

参考記事

中島町(西中島遊廓跡)当時の雰囲気が残されている一画。

中島に遊廓の許可がおりた時期につきては諸説ありますが、中島にあった宿屋が料理屋となり、そこの仲居などが芸者の鑑札を貰ったことなどが混線して明治6年頃に遊廓の許可になったと言われています。*1

東中島・西中島には、現在も遊廓の遺構と思われる建物が残っていて、中でも西中島には、当時の雰囲気が残されている一画があります。

入口に屋号が残る建物。

道の両側に建物が並んでいます。

【参考文献】
*1 岡長平:色街ものがたり(日本文教出版,1969)P.60

参考文献

参考記事

中島町(旭川の中州)文禄の頃からの旅籠町。

今回は、中島町(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
東中島・西中島は、岡山市内を流れる旭川の中州です。古代より海からの小舟が着岸する船着町であり、また、西国街道(山陽道)の通り道となっていたことから、文禄の頃から旅籠町でした。*1
東中島・西中島は、かつての遊廓があった場所で、当時は、京橋西岸から見ると不夜城のような明かりが見えました。京橋は、岡山で橋といえば、まず京橋があげられるほど歴史も古く、有名な橋ですが、大正6年に近代的な鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。*2

小橋から見た東中島。

中橋が東中島と西中島をつないでいます。

北側から見た東・西中島。

【参考文献】
*1 岡山大学附属図書館:絵図で歩く岡山城下町(吉備人出版,2009)P.66-P.74
*2 山陽新聞社:岡山県民の明治大正(山陽新聞社出版局,1987)P.260

参考文献

参考記事

烏山(新地踏切)新地の近くにある踏切。烏山の新地。

大正12年、国鉄烏山線が開通し、それに伴う交通量の増大により烏山旭遊廓は全盛期を迎えました。同年代の宇都宮の亀遊廓、栃木の合戦場遊廓とならんで県内で2、3位を争う繁昌ぶりでした。*1

旭遊廓は通称「烏山の新地」と呼ばれていました。*1

新地の近くにある踏切なので、「新地踏切」と名づけられたようです。

忘れれらた郷土史*1 によると、「旭遊廓の大門の位置は、JR烏山線踏切すぐの東側にあった。」と書かれていますので、このあたりから大門が見えたのだと思います。

【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.99,P.102

参考文献

参考記事

烏山(旭遊廓跡地)新道路の開通。現在は、遊廓の面影はありません。

旭遊廓の開設初期の道路は、妙光寺の南に通じる街道を東に入る道を行くか、福田川寿司店の北側を東へ抜ける道しかありませんでした。*1

この不便さから、新道路の開通が計画され、現在の妙光寺前から旭遊廓への道路が開通しました。この道路の開通によって旭遊廓の店構えは一変し、烏山旭遊廓の名は遊廓先進地であった喜連川、黒羽、太田原などをしのいで関東一円に宣伝されていきました。*1

旭遊廓の地(現在の初音15,16,17の一画)は、今でこそ南北に通じる道路が出来たためにその痕跡は留めていませんが、北は稲荷崖に対面した崖になっており(写真の方向)、南側も福田川が底流する崖、東側も崖という三方が崖に囲まれた土地でした。*1

現在は、遊廓の面影はありません。

【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.87,P.95-P.97

参考文献

参考記事

烏山(山あげ会館)遊廓の芸能。中央通路両側に桜並木。

今回は、烏山(からすやま、栃木県那須烏山市)の町並みと風俗を散歩します。
山あげ会館に行くと、「忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓」*1 を購入することができます。

「山あげ会館」では、国の重要無形民俗文化財に指定されている「山あげ祭」のことをジオラマや映像で説明してくれます。
山あげ祭でほとんど毎年のように上演されている演目に、「将門(忍夜恋曲者、しのびよるこいはくせもの)」があります。これは、江戸時代の天保7年に江戸の市村座で初演されたもので、平将門とは直接の関係は無い一種の遊廓の芸能です。*1

明治5年、烏山新馬旅籠として金井町筋と田町筋に遊女屋が開業しましたが、この遊女屋のうちの5軒が明治34年頃、旭遊廓として集団移転(現在の初音15,16,17の一画)して営業を始めました。*1
2階の展示コーナーには、大正8年に描かれた旧烏山町の図屏風*2 が展示されていて、この屏風に旭遊廓が描かれています。

これを見ると、中央通路両側に桜並木と南側にボンボリが描かれています。北側から、福山楼、福二楼、福川楼と遊廓が建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.14
*2 森幸三:図屏風(旧烏山町) (山あげ会館蔵,1919) P.14,P.86-P.87,P.104

参考文献

参考記事

先斗町(木屋町の路地)ビデオ試写室、フェティッシュクラブの看板。

木屋町の繁華街に「ビデオ試写室」の看板があります。

看板のある場所の路地の入口には、SMフェティッシュクラブの看板。現在は廃業した店舗の看板だけば残されているようです。

フェティッシュクラブの看板。

路地の奥に光る「ビデオ試写室」の看板。

参考文献

参考記事

先斗町(高瀬川沿い)料理屋と風俗店が混在しています。

四条大橋のたもとの西石垣(さいせき)通りは、古くからの料理屋が並ぶ通りですが、今では、ヘルス通りと呼ばれています。*1

料理店と風俗店が混在した奇妙な風景になっています。

木屋町通りと西石垣通りが合流するY字路。料理屋(写真手前)の隣に風俗店(写真左奥)が並んでいます。

高瀬川にかかる於石橋を渡った路地の商店街。商店の隣に風俗店(写真奥)があります。

【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.20)P.81 「東西性風俗街道 京都神戸編」

参考文献

参考記事

先斗町(土佐稲荷岬神社)坂本竜馬も詣でた稲荷神社。

木屋町の西側に土佐稲荷岬神社があります。
木屋町や先斗町のママの信仰が厚く、幕末は土佐藩邸とかかわりを持った稲荷神社です。*1

先斗町の関係者が寄進した玉垣があります。

幕末は坂本竜馬も詣でたと言われています。(案内板より)

「先斗町遊廓中」と書かれた石柱。

【参考文献】
*1 京都新聞社:新・都の魁(京都新聞社,1989)P.34

参考文献

参考記事

先斗町(先斗町遊廓跡)ノッペラボーだったのが名前の由来。

今回は、先斗町(ぽんとちょう、京都市中京区)の町並みと風俗を散歩します。
先斗町は、鴨川と高瀬川の間の細長い地域にある花街です。「ぽんと」の語源は、この細長い土地の先の方(鴨川に面した側)ばかり家が建って西の方はノッペラボーだったので「先斗(ばか)りの町」と言われ、いつか音読みで「せんと町」さらになまって「ぽんと町」と呼ばれるようになりました。遊廓としての先斗町の歴史は、永宝2年(1674年)にさかのぼります。最初は宿屋が多く、その飯盛女が時に旅客と戯れ、やがて求めに応じて体を売るようになり遊所が形成されました。*1

四条通りの鴨川西詰の交番横に「先斗町」と書かれた看板があります。ここからずっと北に延びているのが先斗町通りです。*2

通りは狭く、肩が触れ合う風情です。

通り沿いに、先斗町の花街が広がっています。

【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.92-P.94
*2 太田達,平竹耕三:京の花街(日本評論社,2009)P.184-P.185

参考文献

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宮川町(大黒湯)温泉マークのネオン管。銭湯の右側は廊地。

宮川町の南の山城町に、銭湯の大黒湯があります。

入口は、2つ。男湯と女湯、それぞれ暖簾がかかるのだと思います。

銭湯の右側は、廊地(ロージ)になっています。

温泉マークのネオン管。

参考文献

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宮川町(酒屋)レースクイーンの等身大パネル。

宮川町の南側の商店街に酒屋さんがあります。

一見何の変哲もない商店ですが....

バドワイザーレースクイーンの等身大パネルがあります。

BUDWEISER RACING。

参考文献

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宮川町(ロージ)家の中に路地。宮川筋の南側の西御門町付近。

家の玄関には何らかの形で土間がありますが、京都の家は、家の中に細い廊下のような土間が家の奥深くまで続きます。家の中に路地があるようなもので、「通り庭」「ロージ」「廊地」などと呼ばれています。*1
宮川筋の南側の西御門町付近は、ロージが密集するエリアです。

路地の使われ方で多いのは、自転車や原付を置くスペースとしての利用です。

上の写真の路地のすぐ隣にある路地。

隣は空き地となっていますが、路地は健在です。

【参考文献】
*1 山本良介:京町家の遺伝子(学芸出版社,2006)P.150-P.155

参考文献

参考記事

宮川町(花街に隣接するラブホテル)とてつもない発想の店名。

宮川町の花街には、数軒のラブホテルが隣接しています。祇園の安井神社周辺のラブホテル街*1 と同様、花街の待合から転業したのかもしれません。

宮川町の花街の北端にあたる宮川筋三丁目の交差点にラブホテルがあります。(写真左)

鴨川に面した宮川筋二丁目。和風の料理屋の建物の隣はラブホテルです。

ホテル「と、いうわけで。」 。

80年代の後半から、新築ホテルは、とてつもない発想の店名をつけることが流行しました。
「ひっくりかえったおもちゃ箱」(久留米市)
「と、いうわけで。」「イポパパラニ」(京都市)
「G7」(新宿区)
「風がはこんだ物語」(大阪市)
「勉強部屋」(奈良市)
「よい子CLUB」(千葉市)
「かぼちゃの馬車」「風クラブ海がすき」「ぶたぶた子ぶたのぶー」(泉大津市)
「そしてちゃぺる物語」「いねむりのネコ」(堺市)
「ちゅういんがむ」(滋賀県)
「南風のトレーナー」(奈良県)
「ゴジラの花束」(加古川市)
「24℃」(香川県)
などの変わった名のホテルが出現しました。*2

【参考記事】
*1 風俗散歩(祇園):安井神社周辺のラブホテル街(2011.12)
【参考文献】
*2 近藤利三郎:なつかしの関西ラブホテル60年裏のうらのウラ話(レベル,2006)P.182-P.184

参考文献

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宮川町(舞妓変身スタジオ)店の前には巨大な人形。

宮川町の入口。花街の入口を示す看板に舞妓さんの写真が描かれていますが、これは、舞妓変身スタジオの案内看板です。

舞妓変身スタジオでは、舞妓や芸妓の衣装、カツラ、お化粧などすべて本物の舞妓のように変身させくれます。本格的な髪結いで、衣装も質の高いものを用意している店や価格は手軽であるがカツラを被る店など様々な店があります。*1

この変身のためにわざわざ新幹線に乗って京都にくるお客さんもいいるそうです。祇園や八坂神社近くでは、「あっ、舞妓さんだ!」と写真を撮りに行くと、実は変身舞妓だったりします。*1

5年前にも訪れた舞妓変身処「舞香」*2 の店の前には巨大な人形が置かれていました。

【参考文献】
*1 相原恭子:未知の京都(弘文堂,2007)P.175
【参考記事】
*2 風俗散歩(宮川町):舞妓変身処(2006.5)

参考文献

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宮川町(花街)夜になると艶めかしい雰囲気に包まれます。

宮川町は、もと”男色”の街でした。寛永6年(1629年)、遊女歌舞伎が禁止されると若衆歌舞伎が脚光をあびるようになり、宮川筋に若衆の宿が軒をならべ始めました。若衆とは12歳から18歳くらいまでの元服前の美童のことです。若衆歌舞伎の興行で出演する美少年は、終演ともなれば客に呼ばれて座敷へ出向き、酒宴のとりもちなどをやっていましたが、”売色”に転じることもありました。*1
この美しい若衆たちが、歌舞伎の女形の起こりであると言われています。*2

現在の宮川町は花街で、2007年1月現在、お茶屋37軒、芸妓40人、舞妓28人を擁しています。*2
夜になると艶めかしい雰囲気に包まれます。ときおり、三味線の音色が漏れ聞こえてきます。

鮮やかな照明の演出です。

入り組んだ路地にもお茶屋が並んでいます。

【参考文献】
*1 渡会恵介:京の花街(大陸書房,1977)P.232-P.239
*2 相原恭子:未知の京都(弘文堂,2007)P.56

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宮川町(阿国歌舞伎発祥の地の碑)南座の西側。阿国の銅像。

南座の西側に、「阿国歌舞伎発祥の地の碑」があります。

1603年、出雲の阿国は、先鋭的な伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露。喝采を浴びました。

交差点の反対側には、阿国の銅像があります。

六条三筋町(六条柳町)で廓を経営する佐渡嶋、林又一郎は、阿国の「かぶきをどり」を真似て、四条河原に舞台をつくり、専属の遊女の総踊りを三味線伴奏で上演しました。遊女歌舞伎の登場です。観客は総踊りの彼女らの中からセックスの相方を選ぶことができました。*1
女の肉体だけが対象とされる娼婦とは異なり、遊女歌舞伎における遊女は、その前後に遊芸があり、遊芸に彩られた女の肉体を前提に性的営みが行われました。遊女歌舞伎は、寛永6年(1629年)頃から禁止令が出され、遊女たちは排除され、1640年には、六条柳町の遊廓が島原に移転を命じられました。遊女歌舞伎は、阿国が切り開いた歌舞伎の歴史を「舞台」と「遊里」とに二分する分岐点として位置づけられます。*2

【参考文献】
*1 篠田正浩:河原者ノススメ(幻戯書房,2009)P.44-P.45
*2 高野敏夫:遊女歌舞伎(河出書房新社,2005)P.80,P.96,P.362-P.369

参考文献

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宮川町(南座)元和年間の芝居小屋。昔から現在の位置に建っています。

今回は、宮川町(京都市東山区)の町並みと風俗を散歩します。
鴨川の四条大橋東詰めに、くっきりと南座が浮かんで見えます。南座は、元和年間(1615年~1623年)に公許された7つの芝居小屋のうちの一つで、現存する唯一のもので、その昔から現在の位置に建っています。*1

南座の12月の顔見世(新規の顔ぶれで行う最初の興行)は、最も歴史が古いことで有名で、劇場正面には役者の名前が勘亭流で書かれた「まねき」と呼ばれる木の看板が掲げられ、京都の年末の風物詩となっています。

建物の西側。

日が沈むと、まねき看板と古風な赤い提灯が一層美しく輝いて見えます。

【参考文献】
*1 中川芳三:昭和の南座(松竹,1991)P.2

参考文献

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祇園(辰巳稲荷)お茶屋さんの信仰を集めます。

祇園新橋通りに、お茶屋さんの信仰を集める辰巳稲荷神社があります。

石柱には、花街の関係者と思われる名前が掘られています。

朱の鳥居と玉垣が、統一的な通りの景観にメリハリをつけて引きしめています。*1

近くの巽橋で舞妓(のモデル?)さんが記念撮影を行っていました。

【参考文献】
*1 京都新聞社:新・都の魁(京都新聞社,1989)P.42

参考文献

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祇園(ラブホテル街)待合から発展。安井神社周辺。

安井神社周辺には、ラブホテル街が隣接しています。鳥居をくぐって参道を歩いているとすぐ脇がラブホテルです。

北側の鳥居を出ると東側にラブホテル街が連なっています。

待合か料理屋だったと思われる和風の建物の両脇はラブホテルです。

大正期以降、安井神社周辺には雇仲居(やとな)が出入りする貸席街が存在していました。雇仲居については、織田作之助の小説「夫婦善哉」や「それでも私は行く」に描かれていて、雇仲居の仕事は「宴会でお酌をするだけ」「芸もいらない」というのが条件で、「明かし」と称される泊まりがありました。*1
このようにして発展した京都の貸席(待合)ですが、「馴染み客だけの利用を待っていては効率が悪い」と、いち早く同伴ホテルに転業したのが、安井のホテル街の前身でした。*2

【参考文献】
*1 加藤政洋:京の花街ものがたり(角川学芸出版,2009)P.206-P.208,P.251
*2 近藤利三郎:なつかしの関西ラブホテル60年裏のうらのウラ話(レベル,2006)P.31-P.34

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祇園(安井金毘羅宮)花街関係者が詣でる神社。たくさんの絵馬。

祇園の花街に近くに悪縁切り・良縁結びで有名な安井金毘羅宮があります。
花街の周辺には、関係者の信仰を集める神社が立地していることが多いのですが、安井金毘羅宮もそのうちの一つでした。江戸時代の学者の本居宣長は、たびたび安井金毘羅宮に足を運び、祇園や宮川町の芸妓に交じって「うかれめ(=遊女)」の姿を見ることを密かな愉しみとしていました。*1

境内には、願いを記した短冊がびっしりと掛けられた石があります。

たくさんの絵馬。

料理旅館「きのゑ」が寄進した灯篭。

【参考文献】
*1 加藤政洋:京の花街ものがたり(角川学芸出版,2009)P.74-P.76,P.246-P.254

参考文献

参考記事

祇園(石塀小路)下河原遊廓の名残。高級料亭や料理旅館が並びます。

今回は、祇園(京都市東山区)の町並みと風俗を散歩します。
八坂神社の南楼門から始まる下河原通りには、高級料亭や料理旅館が並びます。
慶長10年(1605年)、北政所(きたのまんどころ)が夫の豊臣秀吉の菩提を弔うために高台寺を創建、舞芸に達者な女性がこの地召し出され、のちに下河原遊廓となりました。下河原遊廓は、明治に廃絶しましたが、現在もこの界隈に料亭、旅館が多いのはその名残です。*1
下河原の舞芸者は、白拍子の流れを汲む者たちで、彼女たちは高台寺の家来の扱いを受け年貢などは免除されていました。*2

下河原通りの中間あたりに、石塀小路の入口があります。

お茶屋、料理旅館、料亭、スナックなどが建ち並ぶ路地です。石畳の道は風情があります。

この小路の誕生は大正初期。石原裕次郎ら芸能界、歌舞伎役者、医師、室町の旦那らが出入りしました。*1

【参考文献】
*1 小学館:ビジュアル・ワイド京都の大路小路(小学館,2003)P.266-P.267
*2 加藤政洋:京の花街ものがたり(角川学芸出版,2009)P.145

参考文献

参考記事

五条(五条楽園跡)アールデコ調の丸窓。落ち着いた感じの洋風の建物。

五条会館の近くにある落ち着いた感じの洋風の建物。

側面には、アールデコ調の丸窓がデザインされています。

路地に入ったところにある洋風の旧お茶屋さん。

幾何学的なデザインが施されています。

参考文献

参考記事

五条(五条会館)壮大な木造建築。旧五条楽園歌舞練場。

国道1号線沿いの五条大橋のたもとから脇道を入ると五条会館(旧五条楽園歌舞練場)があります。

現在は、さまざまな催し物に活用されています。

異空間に迷い込んだような静けさが広がります。

3階建ての壮大な木造建築。

参考文献

参考記事

五条(アーチの支柱跡)旧五条楽園入口。上の口橋。支柱の跡と思われる痕跡。

今回は五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。五条の風俗散歩は、2006年5月に引き続き、今回で2回目です。
2010年10月28日と11月18日の二度に渡る京都府警による一斉摘発ですべてのお茶屋(ちょんの間)が休業しました。現在は、五条楽園の看板や案内図が撤去され、再開の目処はたっていません。*1
以前は、このあたりに「五条楽園」と書かれた大きな看板があり、五条楽園の入口であることを示していましたが、その看板が無くなっています。

支柱があった場所には、コンクリートで穴を埋められ痕跡が残されています。

ここにあった「五条楽園」の大アーチも撤去されていました。

上の口橋の脇にある支柱の跡と思われる痕跡。

【参考記事】
*1 ズバ王(vol.99 2011.4.9)P.264-P.265「京都五条楽園も終焉か」

参考文献

参考記事

西船橋(お城のラブホテル)城郭を模したラブホテルの特徴。

総武線の高架沿いに、お城のラブホテルがあります。

城郭を模したラブホテルの特徴である「狭間胸壁」(兵士が身体の一部を隠したままで射撃したり戦ったりするための隙間)と「張り出し狭間」(持ち送り支持構造の間に開いた床の開口部から攻撃者に向かって岩石を落とすための穴)がしっかりとデザインされています。*1

城郭を模したラブホテルの3つ目の特徴である「小塔」(狭間胸壁の上に、建物の外周に沿って不規則に配置されている円錐形の屋根を頂く構造物)はありません。
屋上には、「狭間胸壁」がデザインされています。

窓には、像と欄干。

【参考記事】
*1 風俗みちくさ 「中世の城郭を模した風俗建築(その1:ラブホテル建築の場合)

参考文献

参考記事

西船橋(店名の無い看板)18歳未満お断り。駅前の商店街から西へ延びる通り。

西船橋でよく見かける18歳未満入店お断りの看板。店の名前は書かれていません。

このビルの4階に店があるようです。

駅前の商店街から西へ延びる通り。

別の場所にも同様の看板。デリヘルの紹介所でしょうか。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

西船橋(女流棋士の店)予備校の大きなビル。

西船橋(個室マッサージL)看板だけが残っています。

西船橋駅前の商店街裏の路地。

錆びついた「個室マッサージL」の看板があります。現在、「ファッションヘルス」もしくは単に「ヘルス」と呼ばれている業態は、当初は「個室マッサージ」、「ファッションマッサージ」などと呼ばれていました。

正面へ回っていると、「個室マッサージL」らしい店舗は無く、どうやら看板だけが残っているようです。2階に大看板の跡があるので、店舗は2階にあったのかもしれません。

1985年(昭和61年)、新風営法の施行により、キャバレーなどの従来の風俗営業から、個室付浴場(ソープランド)、ストリップ劇場、個室ヌード、個室マッサージ、ラブホテル、レンタルルーム、ポルノショップなどが「風俗関連営業」に区分され、営業時間は、午前0時閉店に規制され、客引きも取締の対象となったため、業者は大きな痛手を被りました。ところが、個室マッサージだけが増加という珍現象が起きました。新法で認知されたことにより、業者がそれ一本に絞り込んだ結果でした。*1

【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.339-P.342

参考文献

参考記事

西船橋(駅前のキャバレービル)総合レジャービル。

今回は、西船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。JR西船橋駅前にランドマークのようにそびえている早稲田予備校西船橋校の手前にキャバレービルがあります。

キャバレービルは、駅前のメイン通りにあります。

キャバレーなどが入居する総合レジャービルです。

2Fフィリピン、3Fロシア、4F日本...フロア毎に国が分かれています。5Fは麻雀、6Fはカラオケです。

清水(旭町の小路)新世界通りの東側の小路。新旧2枚のプレート。

新世界通りの東側の小路。

「18歳未満の方入店お断りします」にプレート。新旧2枚のプレートが並んでいます。

「酒場戸田村」の看板がいい味出してます。

飲み屋が建ち並んでいるのは小路の片側のみです。

参考文献

参考記事

清水(新世界通り)旭町の飲み屋小路。旭町の歓楽街。

スナックやパブなどが密集する旭町の歓楽街に飲み屋横丁の新世界通りがあります。

50mぐらいの長さの横丁です。

裸電球がぶらさがるアーチ。

昭和の雰囲気が漂います。

参考文献

参考記事

清水(共同の流し台)鮮やかな青色のタイル。コンクリートブロックを3つ積み上げ。

元城町の新地跡近くの交差点に共同で使用されていたと思われる流し台があります。最近は、ほとんど見ることがなくなった風景です。

鮮やかな青色のタイルです。

コンクリートブロックを3つ積み上げてその上に流し台を置いたシンプルな造りです。

埃がかぶっていますが、鮮やかなタイルの装飾は健在です。

参考文献

参考記事

清水(清水新地遊廓跡地)「廊」と書かれたプレート。

清水の遊廓は、元は江尻志茂町(現在の清水銀座商店街)にありましたが、都市計画のために大正15年10月、巴川畔(現在の巴川橋際)に移転しました。*1
写真は、巴川橋から遊廓があった方向を見たところ。

昭和11年の市街図*2 には、現在の元城町の巴川橋の近くに「遊廓」と記された場所があり、その場所には、1本だけ幅の広い道路があります。この付近が遊廓のメインの通りだったのかもしれません。

1978年の住宅地図*2 によると、この付近には、八千代旅館、玉泉旅館など、数軒の旅館が建っていました。

電柱には、「廊」と書かれたプレート。遊廓の「廓」であればここが遊廓であったことの状況証拠となりうるのですが...

【参考文献】
*1 郷土出版社:清水いまむかし(郷土出版社,1987)P.29
*2 山田金十:清水市全図並都市計画街路網(山田金十,1936)
*3 日本住宅地図出版:清水市(日本住宅地図出版,1978)P.76

清水(銀座小路)商店街から入る横丁。裏側にはスナックA地点。

江尻町にある商店街の「清水銀座」。約500m続く大規模な商店街です。商店街の西側に「銀座小路」の入口があります。

居酒屋などが建ち並ぶ路地。

裏側には、「銀座小路」、「スナックA地点」と書かれた看板があります。

店名が並んだ看板。

参考文献

参考記事

清水(港町の出版社跡地)自販機本のふるさと。

今回は、清水(静岡県静岡市清水区)の町並みと風俗を散歩します。
静岡県の清水港は全国屈指の遠洋漁業基地です。清水港から陸にあがって清水次郎長の船宿跡を横目に道を歩き、海産物問屋の倉庫のある一画を抜けると普通の住宅街となりますが、そこに「南風プロモーション」という日本で最古級(1976年頃)の自販機エロ本の出版社がありました。自販機本というのは、エロ本自販機専用に開発されたB5版サイズ64ページのエロ本のことで、南風プロモーションはその版元でした。*1

南風プロモーションが制作した自販機本の表紙*2 には、「静岡県清水市水市三光町1-3」と住所が記載されています。実際にその場所へ行ってみると、そこには出版社らしき雰囲気はありません。

南風プロモーションがあったと思われる場所にはマンションが建っていました。

エロ本自販機の発祥は、酒のツマミの自販機にヒントに、「エロ本もオカズなんだから、自販機で売ったらどうだろう」と思いついたのがはじまりでした。*1
清水は珍味の生産が盛んな町なので、「エロ本→オカズ→珍味→自販機→エロ本」という因果の連関が清水において成り立ったわけです。

【参考文献】
*1 川本耕次:ポルノ雑誌の昭和史(筑摩書房,2011)P.74
【参考URL】
*2 南風プロモーション:LOVE YOU(年代不詳) 川本耕次:「B5版64ページの夢」より

参考文献

参考記事

西新井(名糖の牛乳箱)牛のマーク。ホモビタ牛乳。

環状七号線から脇道を入ったところ。

商店の軒下に名糖牛乳の牛乳箱があります。

名糖ホモビタ牛乳。木製の牛乳箱の朽ち具合が、箱の古さをを物語っています。

牛のマークのロゴ。

参考文献

参考記事

西新井(犬の糞看板)コンビニのゴミ箱にも。

西新井では、犬の糞看板をあちこちで見かけます。関原の商店街にある喫茶店の入口。

梅島二丁目。

明美湯にて。

最近は、コンビニのゴミ箱に犬の糞を捨てる人が増えているようです。

参考文献

参考記事

西新井(明美湯)ロケットのような形の煙突。人工温泉。

梅田四丁目にある銭湯の明美湯。大きな建物です。

入口には、「人工温泉」の看板。

「明美」というと、スナックの店名かママさんの名前を連想してしまいます。ロケットのような形の煙突。

牛乳石鹸の暖簾。

参考文献

参考記事

西新井(たぐち湯跡)お寺の建物として再利用。

環状7号線から、1本路地を入ったところに、銭湯の「たぐち湯」の建物があります。

堂々とした外観です。

表へ回ってみますが、何か様子が変です。銭湯は廃業してお寺に換わっていました。

もともと銭湯の建物は、お寺とみまごうばかりの重厚な「宮造り」の建築様式を取り入れた建物が多い*1 ので、銭湯の建物がお寺の建物として再利用されるというのは納得のいく話です。

【参考文献】
*1 町田忍:銭湯の謎(扶桑社,2001)P.58

参考文献

参考記事

西新井(大人のおもちゃ屋)おしどり夫婦。

環状7号線の道路沿い。

大人のおもちゃの店があります。

店名は「おしどり」。仲の良い夫婦をイメージしたのでしょうか。

看板の色と同じ黄色のシャッターは閉じられたままです。

参考文献

参考記事

西新井(成人向け雑誌自販機)DVDを販売。

今回は、西新井(東京都足立区)の町並みと風俗を散歩します。
環状7号線の交差点近くに自販機コーナーがあります。

隣の空き地に、現在は使われていない成人向け雑誌自動販売機が放置されています。

DVDなどの販売で、最近まで使用されていた自販機のようです。

免許証識別装置が組み込まれています。

参考文献

参考記事

足尾(遊廓跡地)籬のある遊廓は足尾では1軒だけでした。

大正時代、足尾銅山が全盛だった頃、渡良瀬川の川を渡った向原地区に、遊廓の「斎藤楼」がありました。
江戸・明治の吉原のような籬(まがき)のある遊廓は、足尾では「斎藤楼」1軒だけでした。*1
大正2年(1913年)発行の足尾全体の鳥瞰図「足尾銅山全圖」*2 には、渡良瀬川の崖の上に張り出すように斎藤楼の建物が描かれています。

大正5年(1916年)発行の足尾町商業案内便覽圖*3 に「斎藤楼」の位置が記されています。現在の足尾橋の約100m下流のこのあたりに橋があり、遊廓はこの道を進んで右へ入った高台にありました。

遊廓があった向原地区は、現在は住宅地になっています。

向原地区の全景。

【参考文献】
*1 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
*2 森田淳:足尾銅山全圖(1998,森田淳) 大正2年発行の足尾銅山全圖の復刻版
*3 足尾商業案内便覽圖復刻委員会:足尾町商業案内便覽圖(足尾商業案内便覽圖復刻委員会,1992) 大正5年発行の足尾町商業案内便覽圖の復刻版

参考文献

参考記事

足尾(松原地区)明治40年の地図に芸者屋の記載。

足尾銅山全盛時代には30軒からの妓楼がありましたが、大火で全滅し、その後は、芸者とダルマ(私娼)が生まれました。*1

通洞駅前の案内板には、「明治40年発行 栃木県営業便覧」による松原地区の町並みが掲載されていて、地図には、「末広屋 芸者」「大和屋 芸妓」「中橋 芸者屋」などの記述があり、この一帯が花街だったことがわかります。

芸者屋の末広屋があったと思われるあたり。

見番に籍を置く芸妓たちは娼婦ではありませんでしたが、鉱山の町という場所柄だけに芸妓一筋に貫いたという話はあまりなく、お座敷の宴会が終わったあと、懇ろになった芸妓と奥の小座敷にしけこんで、交わりをしました。数年前に火事で焼けてしまいましたが、姿見橋近くの割烹旅館「一丸」の奥の方にも小座敷がいくつもありました。*2

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929)P.214-P.215
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152

参考文献

参考記事

足尾(大便用の個室) 社宅の共同便所。浅草紙を思わせるなチリ紙。

トタンの仕切り板に囲まれて大便用の個室が3つ並んでいます。

染付古子便器の大便器が当時のままで残されています。ここには、トイレットペーパーは無く、昔の浅草紙(落紙)を思わせるようなチリ紙が置かれています。
わが国において、用便後に紙で拭くのが全国的に一般化したのは昭和30頃で、それ以前の農山漁村では、植物の葉などを使用しており、紙の使用は都市部のみでした。足尾銅山は、山の中にあったとはいえ、膨大な数の尻を拭く葉っぱは到底得られず、明治の初期から紙で拭いていました。*1

花柄がデザインされた小判形大便器。
染付古子便器の場合、大便器には、角形と小判形の2種類がありました。角形の大便器は、下の箱、金隠しともに四角い形で、江戸時代の木製便器を模してつくられました。小判形の大便器は、金隠しが丸い形で下の箱が小判形のもので、陶器土で四角い形をつくるのが難しいため石膏型でこの形になりました。*2

夏場の便所は大変だったそうで、便槽にはたくさんのウジ虫がはい回り、換気の設備がないので刺激臭が鼻だけでなく目にもきました。大勢の人が使うので日ごとに糞尿の液面は上昇し、それにつれて例の「おつり」の危険性も高くなりました。冬場になると今度は便が凍ってうず高い山になり、お尻に触れそうで不安になりました。*1

【参考文献】
*1 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.7 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
*2 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4

参考文献

参考記事

足尾(染付古便器)青色のトタン板に囲まれた共同便所。

青色のトタン板に囲まれた共同便所。

掃除の行き届いた男子用のトイレに、染付古便器が2つ並んでいます。
「染付古便器」は、白地の素地に酸化コバルトで絵付けし焼成したもので、明治中期から昭和初期にかけて瀬戸(愛知県)や信楽(滋賀県)でつくられました。小便器には、①朝顔形(口が手前に向けて開いた小便器)と②向高(向こう側が高くなった置便の底に穴をあけたもの)の2種類があり*1*3 、写真のものは①朝顔形です。*1

鉱夫長屋の便所では、装飾のない小便器が使われることが一般的でしたが、足尾銅山の場合は、花柄の小便器も使われました。*2

現在からみると、実用品というより工芸品の趣があります。*2

【参考文献】
*1 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4
*2 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.2 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
【参考URL】
*3 株式会社LIXIL:INAXライブミュージアム 窯のある広場・資料館 染付古便器について

参考文献

参考記事

足尾(社宅の消火器箱)社宅の風景に溶け込んでいます。

砂利道、石垣、木製電柱などがそのまま残る社宅の風景。

木製消火器箱が社宅の風景に溶け込んでいます。

長屋の棟毎に、1~2か所づつ取り付けられています。

ペンキ塗りたての消火器箱。「消火器」の白い文字が書かれる前の段階です。

参考文献

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足尾(渡良瀬地区の社宅跡)大正・昭和の風景と町並み。

今回は、足尾(栃木県日光市足尾町)の町並みと風俗を散歩します。
東京から約3時間半の場所に、銅山の遺構を有する足尾町があります。足尾がもっとも栄えた時期は大正5年で、人口は3万8千人。県内では宇都宮に次ぐ人口規模でした。川沿いの平地や斜面には規則的に並んだ平屋の長屋住宅が現在もいくつかの地区に残されています。*1

渡良瀬地区(足尾駅の北東にある渡良瀬橋を渡った向こう側の地区)は、大正・昭和の風景と町並みが残り、今なお生活が息づいている地域です。*1
足尾銅山では、ひとり者の坑夫は飯場住まいで、結婚して所帯を持つとこの長屋に住むことができました。当時の近郷近在の農家の娘たちは、足尾の坑夫の嫁となり、足尾の長屋の新居で暮らすことが夢でした。長屋が建って間もない頃は、建物も新しいし、新婚にとっては六畳ひと間でも夢のような文化住宅で、家賃のいらない長屋住宅で貯金もできました。しかし、坑夫の仕事が大変に辛いものであり、いずれは珪肺(けいはい)という職業病に侵され、まかり間違えば早く後家になるなどということは、娘の頃は考えも及びませんでした。*2

足尾の長屋のつくりは、江戸の長屋のつくりとほぼ同じで割り長屋(建物の棟方向に壁を造って区分)でした。足尾の場合は一棟五軒が圧倒的に多く、立地条件に合わせて建てられました。*2
長屋には共同の水場もあります。

共同浴場もあります。

【参考文献】
*1 伊東 孝:CE建設業界(通号692,2010)知られざる「100年」プロジェクト 足尾銅山(その2)大正・昭和の風景と街並みが息づく町
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.93,P.95

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富山(東新地跡)桜木町をしのぐ不夜城。いたち川流域。

江戸時代の初期、富山の色町は、飯盛女が許可されていた旅籠町、自然発生的にできた岡場所の稲荷町、北新町の3か所でした。1841年(天保12年)、旅籠町の妓楼をすべて北新町へ移したことから北新町は城下最大の色町となりました。*1
その後、北新町は、維新を迎えて誕生した桜木町*4 に一部が移ったため、ややさびれましたが、それでも桜木町につぐ繁栄を保っていました。しかしここもすっかり町なかに取り囲まれ、なにかと悪影響が出てきたので、1895年(明治28年)、富山県庁はこの色町を清水町に移転することを命じました。*1

清水田んぼを埋め立てて作られた東新地(あずましんち)は、南町、仲の町、北の町と三筋の町に区画され、東廓(ひがしのくるわ)とも呼ばれました。桜木町から移った妓楼もあって、桜木町をしのぐ不夜城になりましたが、規模の小さいものがほとんどで、格式のある妓楼はみな桜木町に残りました。そこで必然的に、桜木町は芸をうる芸妓本位を特色にし、東新地の方は、からだを売る娼妓本位を特色とし、ふたつの廓はそれぞれの特色を分け合いながら発展をつづけました。*1

「いたち川流域に繁栄した戦前の町並」*2 を見ると「加賀屋」、「楽園」など、現在の料亭の屋号が記されています。村田屋は、東新地の頃から営業しているそば屋さんです。

料亭「川柳」。*2

阿部定事件(昭和11年に起きた猟奇的殺人事件)の犯人の阿部定は、事件発生の約10年前、この東新地の平安楼という芸妓屋で働いていました。*3

【参考文献】
*1 坂井誠一:わが町の歴史・富山(文一総合出版,1979)P.179-P.183
*2 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004) 付録の地図,P.276
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.60
【参考記事】
*4 風俗散歩(富山):桜木町

参考文献

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富山(ちんまの湯跡地)東新地の銭湯。隣には古い美容室。

鼬(いたち)川の東側を流れる奥田用水。この奥田用水の東側に東遊郭(東新地)がありました。
かつては、川幅も広く水量も豊で、架かる橋の名が見返り橋、橋ぎわに柳があって、廓の街としては舞台がすべて揃っていました。*1

奥田用水沿いのこの場所には、数年前まで「ちんまの湯」と呼ばれた銭湯の建物が残っていましたが、現在は駐車場になっています。「ちんまの湯」という変わった名前は、昔、この辺りから馬に乗って帰るときの賃(料金)からきているそうです。*1

花街東新地があった当時、銭湯の人の出入りは大変だったようで、銭湯の奥さんの話によると、昭和33年に売春防止法が施行される前までは夜遅くまで人が歩いていて、灯もきれいで、銭湯も3時頃まで営業し、着物を着たきれいどころもよく来ていたそうです。*1

銭湯の隣には古い美容室の建物があります。

【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.273-P.274

参考文献

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富山(金毘羅神社)東廓二業組合。明治41年建立の標柱。

富山市街を流れる鼬(いたち)川と奥田用水の間に、町中にポツンと金刀比羅神社があります。

明治41年建立の標柱。

東廓中と彫られています。

鳥居の裏側には、「東廓二業組合」。つまり、遊廓の関係者がこれを寄進したことを示しています。昔は、現在の4倍くらいの広さで、向かって右には庭と大木があり、お参りの人が多く、裏がすぐ遊廓だったため、その人達もよくきていい雰囲気でした。*1

【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.232-P.233

参考文献

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富山(桜木町の標識柱)ピンクビラのものと思われる剥がし跡。

松川沿いの大通り。標識柱に、ピンクビラのものと思われる剥がし跡があります。ここから桜木町の歓楽街はすぐそこです。

桜木町の歓楽街。居酒屋や風俗店が軒を連ねています。

この付近の標識柱には、必ずと言ってよいほど剥がし跡があります。

密集度の高い剥がし跡。

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富山(無料案内所)業種は多彩です。キャバレーやスナックがひしめく桜木町。

キャバレーやスナックがひしめく桜木町の歓楽街には、無料案内所がたくさんあります。

ピンクや赤の派手な装飾の店舗があちこちにあります。

スナック、キャバクラ、クラブ、デリヘル。業種は多彩です。

こちらは、落ち着いたモノトーンの配色。

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富山(桜木町)歓楽街の歴史。かつての富山城東の出丸跡。

明治維新後、桜木町に新しい色町が誕生しました。当時魚津にあった新川県庁は、風俗取締りと文教上の理由から、市内各所にある色町を一か所に集めることを考えました。適地を物色して。目を付けたのが当時廃城となり遊休地となっていた、富山城東の出丸跡でした。*1*2

現在の桜木町の歓楽街の中心部に、桜木町の歴史を説明した案内板があります。富山市郷土博物館の特別展図録に掲載された資料「越中之国富山桜木町一覧」の絵図の説明書きとして、桜木町の歴史が解説されています。
この説明にあるように、千歳御殿(東の出丸の隣にあった旧富山藩主前田利保の隠居所)の庭園部分の景観を活用して桜木町の色町がつくられました。

1872年(明治5年)に県の命令で、芸娼妓・貸座敷のたぐいはここへ移されました。

現在は、ネオンきらめくキャバレー街となっています。

【参考文献】
*1 坂井誠一:わが町の歴史・富山(文一総合出版,1979)P.179-P.183
【参考URL】
*2 富山市郷土博物館:富山城址の変遷 (3)東出丸・千歳御殿の解体

参考文献

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富山(シネマ食堂街)昭和34年に誕生しました。

今回は、富山(富山県富山市)の町並みと風俗を散歩します。
富山駅前に、「シネマ食堂街」と呼ばれる一角があります。*1

シネマ食堂街は、昭和34年、‘映画館と食堂街’という新しい一角として誕生しました。*2

当時は朝から客の絶える間なく深夜まで賑わいました。映画は成人向きに変わり、現在は、二十数店が営業中です。*2

通りには、飲食店の看板が並び立ちます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.122
【参考URL】
*2 シネマ食堂街ホームページ

参考文献

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魚津(牛乳箱)麻雀店の建物。魚津市中央通りの商店街。

魚津市中央通りの商店街。

入口付近に牛乳箱があります。

本田乳業の牛乳箱。魚津の乳業メーカーです。

コーヒー。

参考文献

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魚津(旭新地跡)正方形の街路。木造家屋が道路の左右に並んでいます。

大正3年、それまで鴨川町などにあった遊廓を移転して旭新地ができました。眺望絶佳の地に貸座敷が17軒の他、料理屋がありました。*1

旭新地があった場所は、日本カーバイド工業の敷地に隣接した海岸の近くのひらかれた街路の形の場所です。*2
昭和30年の魚津市街の地図*3 には、「新地」と表示された正方形の街路の一画があります。

木造家屋が道路の左右に並んでいます。

「新地」と書かれた電柱のプレート。

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.409-P.410
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.123-P.124
*3 魚津市(魚津市,1955)

参考文献

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魚津(電鉄魚津駅前の飲食店)かつての花街。飲み屋横丁には、昭和の雰囲気。

電鉄魚津駅前の現在の新宿と呼ばれている界隈は、魚津の中心的な商店街です。

駅前の路地に、飲み屋横丁には、昭和の雰囲気が残っています。

写真の奥に見えるのは、富山地方鉄道の高架です。

全国花街めぐり*1 によると、魚津の花街は、旧町名で、田方、東小路、本江町にまたがった区域にありました。このうちの田方は現在の新宿のあたりでした。

参考文献

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魚津(鴨川町)かつての遊廓街。京都の鴨川が名の由来。

魚津市内を流れる鴨川の周辺には飲食店が建ち並んでいます。

「全国花街めぐり」*1 に「五六十年前大町の船着場(港)から轉じて馬場、鴨川の両町に一廓をなす...」という記述がある通り、現在の鴨川町あたりは遊廓街でした。
鴨川沿いに設置されている案内板によると、京都の遊廓街のほとりに流れる鴨川からのその名をとって鴨川と称し、その遊廓街を(京都のそれにちなんで)撞木町と称していました。

鴨川沿いには、現在もスナックが建ち並んでいます。

鴨川町の遊廓は、大正3年に旭新地へ移転しました。*1

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.409-P.410

参考文献

参考記事

魚津(白ポスト)駅構内に設置されています。

今回は、魚津(富山県魚津市)の町並みと風俗を散歩します。
JR魚津駅構内に白ポストが設置されています。

駅前に設置されることが多い白ポストですが、魚津駅の場合は、駅構内に設置されています。

箱には、富山県の花「チューリップ」がデザインされています。

箱の上部に、「有害図書はここに入れて」と書かれた矢印がデザインされています。

参考文献

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福井(栄新地跡地)現在は面影はなくバーが1軒のみ。

福井には、栄新地という赤線がありました。場所は、現在の有楽町付近です。*1*2*3

現在は歓楽街の面影はなく、バーが1軒あるのみです。

閑静な住宅街。

1970年の住宅地図*4 を見ると、この通りの両側にバーやクラブ、旅館などが建ち並んでいています。赤線廃止後もしばらくの間は歓楽街だったようです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.131 「渡辺寛 よるの女性街・全国案内版」
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.74 「福井市街全図」
*3 福井市:福井市史.資料編 別巻(福井市,1989) P.222-P.223 福井市街図・福井市都市計画予定図
※福井市街図・福井市都市計画予定図には、古い道路と都市計画後の道路が重ね合わせて示されているので、現在の場所を推定することができます。
*4 善隣出版社:福井市(善隣出版社,1971)

参考文献

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福井(足羽小学校)花街に通った国学者橘曙覧。

今回は、福井(福井県福井市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、現在の福井市立足羽小学校のかいわいに花街があって、多くの遊女や芸人たちが住んでいました。*1
日本遊里史*2 には、福井市玉井町に遊廓があったことが記載されています。
玉井町は旧地名で、現在は存在しませんが、昭和24年の「福井市街図・都市計画予定図」*3 を見ると、足羽小学校の北東に玉井町の記載があります。

幕末の国学者で歌人の橘曙覧(たちばなのあけみ)は、この花街に通い始め、売れっ子の遊女「やお」のとりこになり、ついに実家(商店)の大金を持ち出して彼女と駆け落ちしてしまいました。その後、二人は見つけられて福井へ戻されましたが、曙覧の花街通いは結婚した後も止まらず、やおとの関係は続きました。このようなことは、当時の庶民ならよくあることですが、国学者の橘曙覧といえでも、やはり聖人でもなければ賢人でもなかったという証だったといえます。*1*4
曙覧が子供たちのために書き残した家訓があって、これが足羽小学校の校歌の中に歌い込まれています。*1

「うそつくな」「もの欲しがるな」「からだだわるな(なまけるな)」という3つの戒めは、自分の欲望を抑えて誠実にいきることが曙覧の生涯であったことを表しています。*4

九十九橋南詰め付近に曙覧の生家跡の碑があります。若き日の曙覧はここから花街に通いました。

【参考文献】
*1 福井女性風土記 P.164-P165
*2 上村行彰:日本遊里史(文化生活研究会,1929)P.576
*3 福井市:福井市史.資料編 別巻(福井市,1989) P.222-P.223 福井市街図・福井市都市計画予定図
※福井市街図・福井市都市計画予定図には、古い道路と都市計画後の道路が重ね合わせて示されているので、現在の場所を推定することができます。
*4 上坂紀夫:こころ豊かに曙覧を歩く(福井県,2000)P.2,P.3,P.16

参考文献

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飛田(激安自販機)いち、にい、サンガリア。350ml入りで50円。

西成区には、町のあちこちに安売り自販機が設置されています。

その中でも激安なのが、缶ジュース1本50円の自販機です。

激安自販機に必ず品揃えされている「サンガリア」の缶ジュース。350ml入りで50円です。通常は120円の有名メーカーの缶コーヒーも、ここでは1本70円です。

「いち、にい、サンガリア、にい、にい、サンガリア」のCMでおなじみでした。

参考文献

参考記事

飛田(立小便禁止の貼り紙)手書きの鳥居のマーク。

西成区の商店街で多く見かけるのが立小便禁止の貼り紙です。
手書きの鳥居のマークもあります。

鳥居のマークと貼り紙。

電柱の手書きの貼り紙。

「萩の茶屋婦人会」の名前でつくられたプレート。

参考文献

参考記事

飛田(末廣旅館)美しいタイルの円柱。飛田新地の北側

飛田新地の北側の商店街。

昭和の雰囲気の残る末廣旅館。

美しいタイルの円柱。

玄関もふんだんな装飾が施されています。

参考文献

参考記事

飛田(アルサロ跡)大人の社交場。飛田本通り南商店街。

「飛田本通り商店街」を南へ行くと「飛田本通り南商店街」です。

「紳士の社交場」の看板があります。

現在は営業していないようですが、昔懐かしいアルサロがあります。

看板も凝っています。

参考文献

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飛田(猫塚)三味線の胴の形。玉垣には、浪曲師の名前。

今回は、飛田(大阪府大阪市西成区)の町並みと風俗を散歩します。
動物前駅から飛田新地に至る飛田本通り商店街は、旅芸人の面影を残している通りです。途中の「オーエス劇場」という名の芝居小屋を過ぎ、西側に路地を入ると「松乃木大明神」という名の稲荷神社があります。

商店街の路地裏の住宅地のど真ん中にあって、探すのに苦労する場所です。

ここに、三味線の胴の形を猫塚があります。猫塚は、三味線の皮にされた猫の供養塚です。周りには、浪速節語りなどの遊芸民やテキヤの親分の興行主が寄進した小さな碑がずらりと並んでいます。*1

玉垣には、浪曲師の名前が刻まれています。

【参考文献】
*1 沖浦和光:旅芸人のいた風景(文藝春秋,2007)P.232

参考文献

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新世界(ホテル王将)将棋クラブが建ち並ぶ将棋のメッカ。

「王将」の歌で有名な将棋の坂田三吉ゆかりの「ジャンジャン横丁」は、「将棋クラブ」が建ち並ぶ将棋のメッカです。
「ジャンジャン横丁」から、東側に路地を入ると、そこには「餃子の王将」..ではなくて「ホテルの王将」があります。

入口にはタイルの円柱。

2階部分の豪華な装飾。

屋上にはレトロなネオン広告塔が残されています。

参考文献

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