下田市街にある稲田寺。
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鶴松の墓。
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お吉と鶴松は恋仲でしたが、お吉に、アメリカ総領事ハリスの妾になる話が持ち上がり、役人たちは無理やり二人の愛情を引き裂いて、お吉は仕方なくハリスに仕えることを承諾しました。
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鶴松の一生を説明した案内板。
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下田市街にある稲田寺。
鶴松の墓。
お吉と鶴松は恋仲でしたが、お吉に、アメリカ総領事ハリスの妾になる話が持ち上がり、役人たちは無理やり二人の愛情を引き裂いて、お吉は仕方なくハリスに仕えることを承諾しました。
鶴松の一生を説明した案内板。
今回は、下田(静岡県下田市)の町並みと風俗を散歩します。
「唐人お吉記念館」は下田の観光スポットです。
お吉は、14歳で芸妓となり、美貌の持ち主だったため、総領事ハリスのもとへ妾として奉公にあがることになりました。
お吉の墓。
”らしゃめん”となったお吉は、世間から罵声と嘲笑を浴び、晩年は貧困の中に身をもちくずし、明治24年、自らの命を絶ちました。
東陽町の運転免許センター前の通り。
現在は、企業のビルが建ち並ぶ場所ですが、2005年、ここに洲崎球場跡の碑ができました。
プロ野球草創期に、1年間で100試合近くの公式戦が行われた有名な球場ですが、埋立地につくられたため、海水が満ちてきて試合が中止になったなど、強烈なエピソードを持っています。*1
球場のすぐそばには洲崎遊廓がありました。堅物というイメージの強い巨人軍の沢村栄投手もたまに試合後に通っていたそうです。*1
*1 佐野正幸:あの頃こんな球場があった(草思社,2006)P.193-P.199
飲み屋街※1 の中央にある細い隙間は、トイレへの入口です。
人がようやく通れる幅の通路を進むとトイレのドアがあります(写真右奥)。
トイレのドア。
手洗い場。
洲崎橋跡の右手(西側)の通り。
こじんまりとした一杯飲み屋が軒をつらねている一画があります。
映画「洲崎パラダイス」の舞台となったと思われる飲み屋街です。*1
スナック店が建ち並びます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.14-P.17
都営洲崎住宅に隣接する東陽一丁目第二公園。ここに、洲崎遊廓の娼妓の供養碑があります。
ここは、警視庁洲崎病院の跡地です。*1
白菊の花にひまなくおく露は なき人しのぶなみだなりけり
昭和六年十一月九日
信州善光寺大本願大宮尼公台下御親修
洲崎遊廓開始以来先亡者
追善供養執行記念
善光寺より僧を招いて、開業以来廓で亡くなった無数の娼妓の霊をなぐさめるための法要を行った際の供養碑です。*1
洲崎遊廓の建物は、戦災ですべて焼失しましたが、そのような状況の中、戦前の様子を知る唯一の手がかりとなるものです。
【参考文献】
*1 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.276-P.279
旧洲崎遊廓の敷地の電柱には、2種類のプレート貼り付けられています。
一つは「南海」、そしてもう一つは「遊園」です。
亀戸の私娼街だった亀戸遊園地(現在は住宅街)の電柱には、「遊園地」と書かれたプレートがありましたが、洲崎の遊園地も亀戸遊園地*1 と同じように、『大人向け遊園地』という意味の名前だったのでしょうか。
手書きの「遊園」のプレート。
「遊園」のプレートがあるのは、戦後復興したと言われる東半分のエリアのみです。西側半分側の電柱のプレートはすべて「仙印」と書かれています。
【参考文献】
*1 風俗散歩(亀戸):「遊園地」と書かれた電柱のプレート
今回は、洲崎(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
旧洲崎遊廓の南端にある南開橋。汐浜運河にかかる橋です。
運河を渡る南開橋は高い位置にあるので、ここから洲崎遊廓があった方向を眺めると、橋からは下り坂になっています。
現在、汐浜運河となっている場所は、昔は海でした。
モクレンの花が満開です。
国道293号線沿い。
銭湯の末広湯があります。
入口には、趣のある手書きの看板。
材木置き場。
遊廓内には、北東にお酉様(大鳥神社)、南東に椿森稲荷神社がありました。
このうち、椿森稲荷神社は、戦後、青木医院の西に再建されました。
ここに、明治43年に建てられた記念碑があります。
碑の裏面の寄付人名簿に、「金二十円 各楼内働一同」とあります。新地の昔を知ることが出来る貴重な資料です。*1
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
明治41年頃、石橋町にあった竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、下材木町にあった新藤楼の五軒が下田町の田んぼの中にできた廓に移転させられました。遊廓は新地と呼ばれ、五軒の遊廓だけの”五軒町”が生まれました。はじめは、奈佐原からも一軒加わる予定だったので、それが実現していれば”六軒町”となっていたかもしれませんでした。*1
電柱には、「新地」と書かれたプレート。
新地の東側を流れていた木島用水は、現在は暗渠になっています。
新地の南側の通り。古い民家の建物が残っています。
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
東武日光線の新鹿沼駅近くの国道293号(例弊使街道)沿いは、鹿沼宿の本陣や脇本陣などが集まっていました。石橋町から下材木町にかけては、多くの旅籠屋(旅館)があって、なかには、飯盛女を置いて、売春行為をさせる遊女屋もありました。*1
大沢楼があった足利銀行鹿沼支店付近。*1
竹沢楼は、現在の合同タクシー付近にありました。*1
石橋町から下材木町方面を見たところ。
明治41年頃、現在の下田町二丁目付近に遊廓(新地)が建設されましたが、このとき、旧旅館街から、竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、新藤楼の五軒が移転したため、新地は、”五軒町”と呼ばれました。
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.179-P.182
今回は、鹿沼(栃木県鹿沼市)の町並みと風俗を散歩します。
JR鹿沼駅前に、「もういらない!みんなでなくそうポルノ自販機」と書かれた大きな看板があります。
堂々とした看板。
地元の市民団体が建てたようです。
大垣駅前の高屋町に、ラーメン店や居酒屋、スナックが並ぶ一画があります。
2本ある小路のうちの西側の小路。
二階部分に手すりのある建物。
紫色のスナックの看板が郷愁を誘います。
旭遊廓の南側のはずれに、旅館風の大きな建物があります。
3軒の建物がつながっています。
重厚な造り。
東側から。
旭遊廓跡地には、当時の面影を伝える残る古い建物がわずかに残っています。
古い建物は、西側の通りに残っています。
「売物件」の札の立つ古い建物。
花街の風情が残っています。
今回は、大垣(岐阜県大垣市)の町並みと風俗を散歩します。
全国遊廓案内*1 によると、大垣市藤江町には、旭遊廓がありました。*2
現在は、遊廓の面影は残っていませんが、遊廓の敷地らしい道幅の広い道路が南北に2本通っています。
「旭廊支」と書かれた電柱番号札。(「廊」ではなく、「廓」だと思われます。)
東側にもう1本の道路。
こちらの電柱番号札は、「旭廊東分」となっており、このあたりが遊廓の東側のエリアだったと考えられます。
同じ中部電力管轄の清水市でも、遊廓跡地に「廊」と書かれた電柱のプレートを見かけました*3。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.85 「全国遊廓案内」
*2 大垣市:大垣市史(大垣市,2009)付図「昭和12年大垣商工街図」
【参考記事】
*3 風俗散歩(清水):「廊」と書かれたプレート(2011.11)
豊年祭は、男根の持つ爆発的なエネルギーを豊穣、豊作に結びつけた珍しい祭りです。男達が男根をかたどった神輿を担いで町を練り歩きます。神輿の行列の先頭を行くのが、このリアルな幟です。
巫女さんが男根を触らせてくれます。
男根の神輿。全体の形状が反っていて、リアル感があります。
亀頭のカリの部分の造形が見事です。
田縣神社の絵馬。安産や子宝祈願が最も多いようですが、願い事はさまざまです。
絵馬には、神輿の絵が描かれています。
巨根祈願。
中には、このような変わった願い事も。
豊年祭で付き物なのが、土産物屋です。中でも「さずかり飴」は人気商品です。
大小さまざまな「さずかり飴」が売られています。
「ばな珍」は、玉も付いた特別仕様です。
小牧駅前で売られていた「Hチョコレート」。
今回は、小牧(愛知県小牧市)の町並みと風俗を散歩します。
田縣神社は、古来より、恋愛、子宝、安産、縁結び、夫婦円満、商売繁昌、の神様として、全国また世界各国の人々から注目されている神社です。
田縣神社を特色づけているのは、男根崇拝です。
男根の形をした自然石も境内のあちこちに置かれています。
奥の院のさらに奥に、珍宝窟があります。「玉さすり賽銭いれて珍となる」と書いてあり、お金を入れるといい音が響きます。
【参考URL】
*1 粟田孝浩:田縣神社 公式ホームページサイト「ようこそ田縣神社へ」
南草津駅からバス約10分の場所にある清浄寺に、遊女梅川の墓があります。
梅川は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃の「冥途の飛脚」のモデルとなりました。
道路から少し入ったところに清浄寺があります。
遊女梅川の墓。
清浄寺の近くに、梅川終焉の地があります。
遊廓の敷地の角にある出世地蔵・水子地蔵
東新地の遊女の信仰を集めていたようです。
奉納額に「草津東新地東樓(楼)」と書かれています。
石柱の裏側に山貞(やまて)楼の文字が彫り込まれています。
山貞楼は、北側の奥から2軒目にあった妓楼です。*1
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
遊廓跡地には、妓楼の面影を残す建物が残っています。
通りの南側には、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼の順で並んでいました。*1
唯一、当時の妓楼の屋号が残る開盛楼。位置も当時のままと思われます。
南側の中ほどにある建物。
北側に位置する束田タバコ・菓子店は、初期から存在しました。*1
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
草津新地の起源は、明治33年で、東(あづま)新地と呼ばれ、東横町の南、字小二俣の水田の地に形成されました。 草津新地の最盛期は、第一次大戦中の好景気の時期(大正8年前後)でした。当時の東新地の構成は、道路を挟んで貸座敷が合計16軒並んでいました。新地は、売春防止法が施行される昭和33年まで続きました。*1
「大日本職業別明細図」*2 によると、「遊廓」、「東新地遊事ム所」の記載があります。
中央の道路には、藤・しだれ柳の分離帯がありました。*1
吉冨楼があったあたり。
中央の道路がいかに広いかは、新地の周囲の道路の道幅が狭いことにより、実感できます。
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
*2 東京交通社:大日本職業別明細図.大津市他(東京交通社,1937)
草津駅前の駅ビルの南側に、飲み屋が密集する一画があります。
密集する看板。
周囲はビルが建っていますが、ここがだけが昔の面影を残しています。
「ばんから横丁」の入口に展示してある大路二丁目の昭和初期の頃の写真。
駅前のビルの地下1階に飲食街の「ばんから横丁」があります。
「ばんから横丁」は、昭和30年代の草津の駅前の町並みを再現した飲食街で、あちこちに配置された看板や電柱などの小物は当時のホンモノを使用しています。(案内板より)
スタンド、居酒屋、スナックなどがリアルに再現されています。
「女中さん急募、住み込み優遇します」と書かれた貼り紙。
今回は、草津(滋賀県草津市)の町並みと風俗を散歩します。
草津駅東口の階段を降りたところに白ポストがあります。
白ポストの箱としては、珍しいスリムタイプです。
「ゴミ箱ではありません。(吸殻、新聞、ゴミなどは入れないでください。)」と書かれていまが、中には、新聞紙などが入れられているようです。
反対側の西口にも同型の白ポストがあります。
長等3丁目の北国橋近くの通り。
側面に「火の用心」と書かれた大型の消防器具庫があります。
箱の上部には、スピーカーのような装置。
古い民家の建物の前に設置されています。
長等1丁目にある「ミチ美容室」。
レトロな佇まいです。文字がかけて「_チ美容室」になっています。
中央1丁目にある「松本理髪館」。
入口が斜めになっていて、いい雰囲気です。
遊廓があった柴屋町(馬場町)は、その後は夜の歓楽街となりました。*1
1966年刊行の「あじ・やど・おんな」*2 によると、柴屋町のクラブ・バーの建物は、300年の間栄えた遊廓の建物をそのまま使った古い店で、大津絵から抜け出たような色の白い京女が酌をしてくれたそうです。
旧赤線だったことから、店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもありました。*3
写真右手前のあたりには、花街会館がありました。*4
現在の柴屋町の歓楽街。
ひところと比べると店舗はまばらですが、所々に、スナックが密集している路地があります。
バー「たか」跡。*4
【参考文献】
*1 「角川日本地名大辞典」編纂委員会:角川日本地名大辞典(角川書店,1979)P.579
*2 福村弘二:あじ・やど・おんな(東栄堂,1966)P.130-P.131
*3 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.312
*4 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
桶屋町は、道路を隔てて東西に延びています。東の桶屋町は、昭和初期の建物が並ぶ住宅街となっています。格子の窓や、二階には木の手すりも多く残っています。*1
三代続く医者のお宅。*1
西の桶屋町は、遊廓があった柴屋町に接しているため、飲食店が軒を連ねています。建物には、昔、芸者置屋さんだった雰囲気が残っています。*1
桶屋町は、揚屋町として栄えました。遊客は、この揚屋へあがり、置屋から遊女を呼び出し、遊興を楽しみました。*1
【参考文献】
*1 大津の町家を考える会:大津百町物語(サンライズ出版,1999)P.62
貞享5年(1688年)の「日本永代蔵」に「柴屋町より白女よび寄、客の遊興昼夜のかぎりもなく」とあり、大津の柴屋町(現在の長等2、3丁目)は、賑わいのある評判の遊廓でした。町の東西南北には大門があり、廓内に約30軒がありました。
「旅館えびすや」と思われる建物。*2
かつては、妓楼だったのかもしれません。
「料理きくや」と思われる建物。*2
【参考文献】
*1 地名辞典(岐阜県)
*2 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
薬局の建物にあるトンネル路地(ろーじ)。
この近くには、花街組合の建物がありました。*1
トンネルを抜けると2階建ての長屋が連なる路地が続いています。
この付近には、「松の家」「グリル花柳」「クラブ古都」「ニューコンパ」などのバーやクラブがありました。*1
路地は、コの字型に曲がって、元の通りへ戻ります。
路地の曲がり角のあたり。
【参考文献】
*1 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
今回は、大津(滋賀県大津市)の町並みと風俗を散歩します。
京阪電気鉄道石山坂本線の三井寺駅で下車し、柴屋町を目指して南下すると、途中に交差点があります。
交差点を西側からみたところ。交差点の角には、かつてスチームバスセンターがありました。
現在は、料理屋の建物が建っています。
近くには、料理屋の「豆信」。登録有形文化財に指定されている建物です。
長浜の黒壁スクエアに、海洋堂フィギュアミュージアムがあります。海洋堂は、ガレージキット・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する有名企業です。
フィギュアとは、さまざまな、キャラクター人形を指します。
美少女フィギュアのゾーン。美少女フィギュア造型の第一人者BOME氏の作品を中心に展示されています。
美少女戦士セーラームーンのセーラー戦士たち。
ゲーム「いきなり はっぴいベル」より「鷺ノ宮柑子」。
近年、フィギュアは、アニメやゲーム作品に登場する美少女タイプが多様化し、「保存用」「観賞用」「実用」というという言葉や概念で区別されるようになりました。*1
【参考文献】
*1 斎藤環:戦闘美少女の精神分析(筑摩書房,2006)P.66-P.70
南片町の妙法寺周辺には、スナックや料理屋が点在していて、色町の風情を感じます。
和風の佇まいがよく似合います。
「和風スナック」と書かれた料理屋の建物。
新しい建物ですが、こちらも「和風スナック」と書かれています。
長浜遊廓は、長浜町字南片町にありました。*1
大日本職業別明細図*2 によると、このあたりが南片町で、この付近には、遊廓事務所もありました。
風情のある通り。この通りの奥には、「みゆき」「弥生」「かをる」「シルバー」「美知子」「多恵」などの店が入る「東仲見世」*3 という名の飲み屋街の建物がありましたが、現在は取り壊されて更地になっています。
「高崎屋」という旅館の建物。「全国遊廓案内」*1 によると、同名の屋号の妓楼がありました。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.117 「全国遊廓案内」
*2 日本交通社:大日本職業別明細図 長濱町(日本交通社,1936)
*3 日本住宅地図出版:長浜市(日本住宅地図出版,1980)P.61
今回は、長浜(滋賀県長浜市)の町並みと風俗を散歩します。
JR長浜駅のエスカレータ横に白ポストがあります。
白と青の美しいコントラスト。「白ポスト」の文字が鮮明に描かれています。
「ゴミ箱ではありません。」の注意書き。
歌舞伎町の繁華街の中心部。
「白川郷」という屋号の旅館があります。
ホテル白川郷の前身は、1958年に、岐阜県白川郷の「合掌造 り」を新宿歌舞伎町に移築し復元した「割烹白川郷」です。1992年に「ホテル白川郷」として生まれ変わりました。*1
歌舞伎町には、「春秋会」と呼ばれるホテル経営者のグループがあって、グループのメンバーは、すべて岐阜県大野郡荘川村中野から移り住んだ人たちでした。川村中野は、合掌づくりで有名な白川郷と境を接した集落で、昭和35年の御母衣(みほろ)ダムの完成により、現在は、ほぼ全域が水の底に沈んでいます。*2
【参考URL】
*1 有限会社白川郷:「ホテル白川郷」公式ホームページ「白川郷名称の由来」
【参考文献】
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.68-P.70
新宿区役所裏の老舗のファッションヘルス店のある路地。
「レンタールーム」と書かれた元旅館の看板。
青いタイルで全面が装飾されています。
宿泊料3500円の貼り紙。
今回は、歌舞伎町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
歌舞伎町公園前の通り。飲食店などが入る雑居ビルが建ち並んでいます。
「美少女戦士コスプレエンジェル」。風俗店と思われる看板ですが、それらしき店舗はすでにありません。店舗が閉店した後に看板だけが取り残されたようです。
「リボンの騎士」、「セーラームーン」などの「戦闘美少女」は、わが国固有の表現ジャンルで、アニメ系コスプレ風俗が一部で流行りました。*1
1Fにパチンコ店が入るビル。ビルの角の上部に「ローラン」と書かれています。
ノーパンしゃぶしゃぶの店として有名だった「ローラン」。現在は看板だけが残っています。
【参考文献】
*1 斎藤環:戦闘美少女の精神分析(筑摩書房,2006)P.8,P.80
川反通りの中心部。夜になると賑わう場所です。
交差点の角にある居酒屋の「AKB23」。アイドルグループの「AKB48」を真似たと思われるネーミングですが、看板に小さく書かれている通り、店名のAKB は Akita(秋田)、Kawabata(川反)、Bijin(美人)の頭文字らしいです。
「AKB48」のような制服で接客してくれるようです。
こんな感じです。
川反には、たくさんの風俗無料案内所があります。
無料案内所は、大町五丁目に集中しています。
三丁目橋を渡ってすぐのところにあるすずらん通り。
かつては、この場所に秋田市料亭会館の建物があり*1、花街の中心地とも言える場所でしたが、現在は、無料案内所に建て替わっています。料亭での宴席が中心だった時代から、バーやキャバレーなどの飲食店中心の時代へ変わってきたこを物語っています。
横町通りにある無料案内所。写真の右側がソープランド街の入口です。
【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:秋田市(日本住宅地図出版,1980)P.48
川反(大町)四丁目から五丁目にかけてが川反飲食店の最も賑わう中心地でした。五丁目には、大町側に入る迷路のような行き止まりの路地がいくつもあって、そこにも小さな酒場がすき間なく並んでいました。*1
「川反五丁目小路」は、その名の通り、川反(大町)五丁目にある小路で、「かっぱ小路」の隣にあります。路地の片側一部はビルに建て替わっていて、昔の面影は無くなりつつあります。
「いつもあなたを待ってます。」と書かれた看板。
夜の川反五丁目小路。
【参考文献】
*1 無明舎出版:40年前の秋田市(無明舎出版,2003)P.75
昭和30年代の川反は、バーやキャバレーが次々に創業し、夜の雑踏の流れは、すれ違うのにも苦労するほどで、美経小路、かっぱ小路、祇園小路等の穴場を徘徊する若い紳士やギター片手の流し芸人で活気に溢れていました。*1
かっぱ小路の入口は、川反通り沿いにあって、小路の両側の建物は健在で、昔の雰囲気が残っています。
看板が密集する小路。
奥の行き止まりのところに、「かっぱ小路」の看板。
雪国の横丁は、夜の雰囲気も格別です。
【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.10-P.11
現在、秋田市料亭組合に加盟している料亭は、志田屋、濱乃家、あきたくらぶ、川寿、銀なべ、いくよ、東光くらぶ、松下、かめ清、の9店があります。*1
そのうちの1軒「濱乃家」が川反通りにあります。
料亭「濱乃家」。
門柱に「濱乃家」の屋号。
川反の殷賑を支えるエネルギーを感じる空間です。
【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.9
今回は、秋田(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田市川反(かわばた)は、古い歴史を持つ市民遊興の地として、全国的に名声が轟いています。*1
川端(川反)は、秋田市内の旭川の岸に芸者屋・料亭等軒を並べた一廓にあって、元は米町にあった遊廓と一緒だったのが、明治20年頃の大火の際、遊廓は市街外れの南鉄砲町に遷され、芸者屋は分離して旭川橋畔川端に移ったものです。*2
二丁目橋交差点を渡った川反通りの入口にあたる歩道脇に、「川反さいぐきたなあ」(=川反へようこそ)」と書かれた大きな行灯(あんどん)が設置されています。
川反芸者は、純粋な秋田っ子でなければならず、それ故、子供の頃から養子入籍をさせて舞妓に、舞妓から芸妓に仕立て上げ、移入はほとんど無かったことから、舞妓が多いのが特色で、特有の「川端情緒」なるものが醸し出される原因の一つはここにありました。*2
「全国花街めぐり」の著者の松川次郎さんは、秋田美人と川反芸者について、「新潟から秋田、津軽に一大美人系があり、色白く皮膚は滑らかで頭髪が美しく、性格はしとやかで東京風のおきゃんな面白い芸者は稀であるが、情合は甚だ濃厚。」*2 と述べています。
【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.8
*2 松川二郎 著:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.708-P.717
土崎港にある佐原商店。数種類の自販機が並んでいます。
珍しいハンバーガーの自販機。「チーズ」と「テリヤキ」の2種類があって、いずれも200円です。
電子レンジで温められたホカホカのハンバーガーが食べれます。
ハンバーグを頂いた後は、うどんに挑戦です。
男鹿水産の自販機*1 では残念ながら食べれなかった「天ぷらうどん」を食すことができました。価格は200円です。
雪の降る中、暖かい食べ物をとると元気が出ます。
【参考記事】
*1 風俗散歩(男鹿):男鹿水産前のうどんの自販機(2012.2)
土崎港近くの県道56号線沿い。
銭湯の「塩乃湯」があります。現在は休業しているようですが、貴重な西洋風の近代建築です。
奥行のある建物です。
銭湯でありながら、見事な看板建築の建物です。
土崎港、新柳町に遊廓が置かれることが許可されたのは、文政4年(1821年)で、文政7年頃には揚屋が12軒もありました。新柳町の最も繁栄したのは明治の中期で、同25年以降になると、港に和船が入らなくなって景気が急速に後退しました。*1
新柳町があったのは、現在の土崎港南二丁目あたりでした。*2
土崎の花街は、いまのスーパーのジャスコのある所にあって、検番、置屋もあって賑やかでした。*3
現在、花街があったあたりは、住宅街となっていて当時の面影はありません。
【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.69
*3 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.19
今回は、土崎(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
土崎は、古くから秋田第一の貿易港で、雄物川の河口あたりは、物資の集散地として繁栄しました。藩政期には、稲荷町の裏通りは、多くの揚屋まがいの宿があって、多くの”浜女(私娼)”を抱えて、金遣いの派手な船乗りを相手に束の間の春を売る歓楽街となっていました。*1
文政4年(1821年)、正式な遊廓は新開地の新柳町と定められましたが、その後も稲荷町は公然たる私娼の町として栄え、昭和初期には、8軒の料理屋に40人ほどの酌婦がいました。*2
道路沿いに、妓楼風の建物があります。*2
風情のある2階部部分。
【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)P.286 木村聡「秋田紀行 遊廓後跡を訪ねて」
船川港のあけぼの町には、スナックが点在しています。
かつての色町を思わせる風景です。
雰囲気のある入口。
スナックが数軒入る建物。
船川港のあけぼの町(通称奥町)には、飲食店が道の両側に軒を連ねて立ち並び、その一角に十指に余る二階建て作りの料理屋(割烹といった)がありました。そこで働く女中の中に「女郎」と言われる女が居て、当時入港の多かった貨物船の乗組員や近郊近在の若者達の遊び場所として繁昌を極めました。*1
若者が奥町へ行って遊ぶことを山羊買いと言いました。1
一説には、昔は山羊という動物は珍しく、それが何処かで山羊が飼われていたので、若者達がそれを見に行くと称して、実際は船川のあけぼの町へ遊びに行ったことから「山羊買い」と呼ばれたという説があります。1*2
根っからの山羊買い好きの人は、二~三日は「いつづけ」たそうです。*1
旧町名の名残でしょうか。「あけぼの」という店名の店がありました。
【参考文献】
*1 佐藤尚太郎:漁村風土誌(秋田文化出版社,1984)P.86-P.88
【参考記事】
*2 風俗散歩(男鹿):船川
船川港近くにある男鹿水産の建物の前には、たくさんの自販機が並んでいます。
その中でも、ひときわ目立つ存在が、うどん・そばの自販機です。
自販機の前には、七味唐辛子の瓶が紐でぶら下げられています。
この日は残念ながら売り切れでした。
今回は、男鹿(秋田県男鹿市)の町並みと風俗を散歩します。
船川は、北西の風をさえびる良港で、十八世紀中期から船宿がありました。*1
船川が大発展するのは、明治以降で、国家事業として船川築港は明治44年に始まり、昭和6年に完了しました。*1
「男」マークのある漁船。
男鹿の船川が港町として発展し始めた頃、その町の物好きな人が山羊を買いました。当時、男鹿では山羊は野生としては見ることができなかったので、ものすごい評判となり、この珍しい山羊を見物するために男鹿の村々から多くの人たちが集まってきました。ところが、この山羊は意外な大事件を起こしました。それはある村の若者たちが、この山羊を見に行くと称して、ちょこちょこ船川に出ていくのでした。その若者たちの親たちが顔を合わせると、「おいのいの(オレの家)わげ者、時々ふなが(船川)さ山羊見にゆぐでば、ふとげれ(一回)みればいいもの、なんして(どうして)なんぼげれ(何回も)行ぐもんだべか」と不思議がりました。すると、異口同音に他の親たちも「んだ、んだでば(そうだ)、なんだがおがしでば」とがてんがゆかなくなり、ある親の一人がその若者の一人を尾行してみたところ、山羊を見に行くというのはまったくの嘘で、実はその山羊と時を同じにしてできた港町の女郎買いが目的だったことが解りました。それからというもの、男鹿地方で女郎のことをヤギ(山羊)と呼ぶようになりました。*2
【参考文献】
*1 加藤貞仁:(無明舎出版,2002)P.182-P.183
*2 吉田三郎:男鹿風土誌(秋田文化出版社,1979)P.145-P.146
住用町の市バス停近くにブロック塀で仕切られた公衆トイレがあります。
シャワー室が併設されているのが特徴です。
ブロック塀の向こう側にトイレが整然と配置されています。
手洗い場には、鏡が取り付けられています。
瀬戸内町の嘉徳(歌手の元ちとせさんの出身地)から林道を約10km行ったところに、青久部落への分岐点があります。
林道を約3km下ると、青久部落に到着します。
現在、民家は1戸のみですが、昭和20年代は30戸が生活する村でした。琉球時代に築かれた防風用の石垣が現在も残る原始の世界を思わす場所です。*1
青久部落の石垣の西側の小高い丘に「ムチャカナの碑」があります。
江戸末期、瀬戸内町の生間で派遣役人の現地妻(アンゴ)になることを拒んだ美女ウラトミが舟で流されましたが、幸運にも喜界島に漂着しました。*2
ウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナが生まれ、ムチャカナも母に似る美人で、島の男たちの評判を一身に受けるようになりました。ところが、これが他の娘たちの妬みを買いました。ある日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行きました。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落としました。これを知った母ウラトミは娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇につつまれた運命の幕を閉じました。*1
【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
【参考記事】
*2 風俗散歩(瀬戸内町)生間のウラトミの碑
奄美に単身で派遣される役人たちは、必ずといってよいほどアンゴ(現地妻)を持ちました。アンゴとは島での妾のことです。派遣役人たちは村々を回って美しい女を物色し、強引に自分のアンゴにしました。容貌のいい娘を持った島の親たちのなかには、進んで派遣役人に我が子を差し出す親もいました。アンゴを出した家や地区は相当な恩恵を受けることができたためです。*1
しかし、アンゴになるのを拒否して自分の愛娘を舟で流し、数奇な運命を送った「ウラトミ伝説」も伝えられています。ウラトミは、瀬戸内町加計呂麻島の生間の生まれ。村一番の美人との評判が高かったので、代官の目に留まり、「上意」が伝えられましたが、ウラトミはこれを拒絶しました。この代償はあまりに大きく、面目のつぶれた代官は地区全体に重税を課しました。娘の貞操は守りたいし世間への申し訳に困った両親は、愛娘を行きながら葬ることとし、わずかな食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟にのせて流しました。数日後、幸運にもウラトミの舟は、喜界町小野津に漂着しました。やがてウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナも生まれ人もうらやむ幸福な生活を送りました。*1
生間のはずれの高台のムチャカナ公園にウラトミの碑があります。
ただ代官の欲求を健気に拒否し続けた島娘に思いを致すには十分な静寂が辺りを包んでいます。*1
【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
古仁屋の町の中心部にある銭湯。四角い形のビル銭湯です
入口には「嶽の湯」と書かれています。牛乳などの飲み物の保冷庫が見えます。
暖簾にも「嶽の湯」。「嶽」という字は「岳」の旧字です。
木曽の御嶽山などは、この「嶽」が使われることがあります。
脱衣場には木製のロッカー。
今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1
「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。
ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1
「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。
【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14
名瀬市街の国道沿いの大島高校前のバス停近く。
目立つ黄色の建物です。
ビデオシアター名瀬。
アダルトDVDも販売されています。
名瀬のブロック塀には、この塀が境界面であることを表す表記が彫られているものを多く見かけます。
こちらの塀には、塀が作られた年月が記されています。
幸町の住宅地で見かけたブロック塀。
←が書かれていて、塀のどちらの側が外面であるかが示されています。
奄美市名瀬幸町にある理容室。すばらしい木造の建物です。
水色を基調とした爽やかな明るい店構えです。
道路を挟んだ反対側には白を基調とした木造の理容室があります。
明治時代の擬洋風建築のような趣のあるモダンなデザインです。
屋仁川通りの交差点の角に、看板建築の建物があります。
1階には、スナックが3軒。
左側のスナックは、通路を進んだ奥に入口があります。
夜になると明かりが灯ります。
昭和33年の売春防止法の施行により、赤線廃止後は屋仁川の料亭料理屋は衰退し、バーが雨後の竹の子のように出現しました。*1
現在の屋仁川通りは、バーやスナックが建ち並ぶ歓楽街になっています。
昔の雰囲気を残すスナックの建物。
看板は取り外されていますが、スナックの建物だったのだと思います。
【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.17
名瀬の「ヤンゴ」は、旅人の憩いの場所として長い間愛されてきた名所です。「ヤンゴ」というのは、「屋仁川」の方言読みで、もとは川の名前でした。名瀬の料理屋は、はじめは町の中心部にありましたが、料理屋が町の中にあるのは風紀上よくないという理由で、明治44年、屋仁川通りへの移転通達が出されました。*1
現在、屋仁川(ヤンゴ)通りには、ピンク色のゲートができていて、「やんご生誕100年記念」*3 と書かれています。
戦前まで名瀬では、料理屋のことを「ヅリヤ」と呼んでいました。「ヤンゴ」は屋仁川全体の名称で、「ヅリヤ」は料理屋そのもを指す言葉でした。男たちは、「ヤンゴに行こう」という言い方をし、女房たちは「ヅリヤウナグのところか」などという言い方をしました。屋仁川の女(ウナグ)のことを「ヅリヤウナグ」と言ったのは、沖縄、奄美に徳川時代からいた「ヅレ(遊女)=沖縄では尾類(じゅり)とも言う」をあとで出現した屋仁川の酌婦に対して呼び名にしたものです。*1
「ヅレ」の本来の能は、歌舞をもって各地を巡り、アソビ(歌三味線の酒宴)の庭に列なることでしたが、大正時代中期に「ヅレ」は姿を消し、彼女たちに代わって、名瀬、古仁屋のヤンゴー地域に巣食う酌婦が出現しました。*2
昭和二十二、三年頃のヤンゴの料理屋は、屋仁川通りの道筋の東側の方に多く散在していました。*1
今の園田商店のところの四辻を右折したあたりが料理屋街の中心地でした。*1
【参考文献】
*1 草戸寥太郎:ヤンゴ物語(屋仁川通り物語)-三味線(サンシン)と酒(セー)と女(ウナグ)の情景(奄美協同印刷,1997)P.7,P.16-P.25,P.56
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
【参考URL】
*3 観光ネットワーク奄美:奄美便り「やんご生誕100年祭 大やんご祭り」
今回は、名瀬(鹿児島県奄美市)の町並みと風俗を散歩します。
名瀬の背後に位置する「おがみ山」には、展望公園があります。
坂道を登っていくと、徐々に展望が開けていきます。(写真中央に、ティダモール中央通りのアーケードが見えます。)
展望台からは、山と海のはざまに密集する市街地が名瀬湾を囲むように広がっている様子が見て取れます。
公園の高台には、復帰記念碑が建てられています。
終戦後、奄美大島は本土から分離され、8年の長きにわたって米国の政権下に置かれ、1953年(昭和28年)12月25日に本土に復帰しました。
琴平には、美容室や理容室が数軒あります。
交差点の角にある理容室。
木造の佇まいが美しい美容室。
「銀座美容」と書かれた看板。
昭和33年(1958年)に琴平新地遊廓の歴史は閉じましたが、その後もその跡地はソープランドやバー・スナックが散在する「夜の街」という性格を現在も持ち続けています。赤線当時は参詣客が主でしたが、現在は地元の常連客が主になっています。*1
表参道脇にあるラウンジ。
稲荷神社の隣のスナック。
参詣客を相手にした門前町特有の賑やかな色街から、赤線廃止後徐々に、地元の人に利用されるこじんまりとした盛り場へと変遷していきました。*1
【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原」
新地への入口があった路地*1 は、当時の雰囲気が保たれています。
赤線跡の建物。*2
白と黒のコントラストが美しい建物です。
向かい側の和風の建物。
【参考記事】
*1 風俗散歩(琴平):新地への入口
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002)P.89
琴平新地は、一般の民家や旅館に隣接していて、塀や柵に囲まれることはありませんでした。
しかし、参詣者用に2か所の入口が設けられていて、そのうちの1か所にはアーチが建てられ、「新地入口」と書かれた傘のついた電気がぶらさがっていました。そのアーチの支柱は今も残ります。*1
旅館脇に支柱の一部と思われる痕跡が残されています。
もう一つの新地への入口は、現在の新町商店街の中ほどにありました。*1
【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原」
表参道をそれて裏小路に入ると、ソープランドやスナックが散在する一角が出現します。
このあたりは栄町と呼ばれ、今でこそ人通りは少ないが、数十年前までは琴平屈指の盛り場として賑わいを誇り、現在の表参道沿いをすら凌駕していました。賑わいの理由は、参詣者の目当ての一つである遊廓があったためです。*1
昭和33年の売春防止法施行以降、遊廓の歴史は閉じましたが、その後も跡地は、ソープランドやバー、スナックが散在する「夜の街」という性格を現在も持ち続けています。*1
栄町の西側を流れる金倉川から見ると、川沿いにソープランドの建物が連なる景観に驚かされます。
【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原」
今回は、琴平(香川県仲多度郡)の町並みと風俗を散歩します。
琴平には、山腹の社殿までの石段の数の多さで有名な金刀比羅宮、通称「こんぴらさん」があります。
表参道には参詣者が常に往来し、それに面して大型旅館・ホテル、参詣者向けの土産物屋が並びます。
古い門前町としての琴平の遊廓は、金山寺町(現在の通町、小松町)にあって、茶屋、賭場、富くじ小屋、芝居小屋などが建ち並ぶ遊興の地でした。しかし、一般の商店や旅館との混在は風俗上有害であるという理由から遊廓は明治33年(1900年)に、現在の栄町に移転され、新地と呼ばれることになりました。*1
金山寺町は、色街という性格は失いましたが、「琴検」と通称された芸妓検番が置かれ、娯楽の地として賑わいを続けましたが、時代の推移とともに衰退し、昭和56年(1958年)に検番も廃止されました。*1
地元の方の話によると、最後に検番があったのは、現在の饅頭屋の「灸まん」がある場所でした。
【参考文献】
*1 前島裕美:お茶の水地理 42 P.77-P.80 「香川県仲多度郡琴平町新地遊廓周辺の復原」
下津井の西町。
牛乳箱のある古い民家。
黒田牛乳の牛乳箱です。箱の中央に「K乳」のマークが配置されています。
木造の建物には、木製牛乳箱がよく似合います。
下津井は海岸線に沿って、軸となる道が通り、その両側に町並みが形成される近世港町の典型的な都市構造となっていますが、実はそれ以前の中世に背後の丘陵に向かって井戸と祠のある生活空間がひろがっていました。*1
下津井の町並みにはいくつもの井戸が点在し、「下津井共同井戸群」として文化財登録されています。
生活空間をなりたちを嗅ぎ取ることができます。
同じ場所の奥まったところにある別の井戸。
同じような井戸が何カ所かあります。
【参考文献】
*1 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.347
下津井港に北前船がくるようになったのは、18世紀後半からで、秋になると何十艘という船団を組んできたので、これを迎える港町はてんてこ舞いの忙しさでした。北国の船頭をもてなすために地元の遊女のほかに他の港から応援を求めたり、港の素人娘をかり集めたりしました。*1
下津井の花街は、祇園神社の裾野の西町付近にひろがっていました。*2
「下津井懐古」*1 に掲載されている元遊廓と思われる木造三階の建物。
西町の奥の道がカーブするあたりに建っています。
【参考文献】
*1 中西一隆,角田直一:下津井懐古(手帖舎,1989)P.42,P.64-P.65
*2 陣内秀信,岡本哲志:水辺から都市を読む(法政大学出版局,2002)P.345 「下津井の都市構成図」
下津井で見晴しのよい所といえば、祇園神社です。
石段を登ると、瀬戸内海と瀬戸大橋を一望できる大パノラマが眼前に広がります。
祇園神社の玉垣には、加賀、能登、越中、越後の商人、船頭に交じって、寄付をした遊女の名も刻まれています。*1
本殿の玉垣に芸妓の名前が刻まれています。入舟内小繁、三長内小三、川高内小美可、島津内玉一などの名が見えます。*2
【参考文献】
*1 加藤貞仁:北前船 寄港地と交易の物語(無明舎出版,2002)P.37
*2 角田直一:北前船と下津井港(手帖舎,1992)P.167-P.168
今回は、下津井(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
下津井は、瀬戸内の代表的な近世の港町です。古い町並みの入口にあたる場所に「まだかな橋」の碑が建てられています。
まだかな橋跡。親柱が残されています。
江戸時代、入港してきた北前船などの船頭に、「まだ(遊廓に)あがらんかな」と声かけた婆がいたことから、この名が付けられました。
最近、建てられたと思われる「まだかな橋跡の碑」が道路の反対側にあります。
日比のハス停から日比港へ向かう途中の道。
日比市民センター前に白ポストがあります。
入口から入ると白ポストが目に入るように配置されています。
道路からは白ッポストの側面が見えます。
緩やかなカーブを描いて、古い町並みが続いています。。
昭和10年の日比町住宅明細図にも記載されている銭湯の八千代湯の建物が現在も残っています。
モダンな造りの銭湯です。
女湯の掲示が見られることから、この建物が銭湯であったことが解ります。
山側の通りの中ほどに、元旅館の建物が残っています。
繊細な格子を持つ建物です。
現在も旅館の屋号の表示が残されています。
建物脇の路地。
日比には、所々に古い町並みが残っています。
元妓楼の栄楼と思われる建物。*1
二階部分に手摺のあります。
遊廓の面影を残す和風建築です。
【参考文献】
*1 山田平次郎:日比町住宅明細圖(備讃民報社,1935)
今回は、日比(岡山県玉野市)の町並みと風俗を散歩します。
日比は、北前船の寄港地で、かつては商家や遊廓が並び、船が入ると賑やかな港町情緒を漂わせていました。*1
日比港の背後には、眼下に日比港が見渡せる日和(ひより)山があって、日比の遊廓から芸者を連れ出した船乗りたちは、ここで「日和申し」と称して飲食を楽しみました。*2
現在の日比港。江戸時代は、日比と対岸(写真奥)の向日比の二つの集落に分かれていました。
日比町住宅明細圖*3 によると、遊廓は海岸線に沿って並んでいたようです。
【参考文献】
*1 山陽新聞社:岡山県民の明治大正(山陽新聞社出版局,1987)P.259
*2 加藤貞仁:北前船(無明舎出版,2002)P.36
*3 山田平次郎:日比町住宅明細圖(備讃民報社,1935)
「千日前商店街」は、南北に連なる長大な岡山表町商店街の一部で、その南端に位置します。
「千日前商店街」のアーケードが尽きるあたりに、「岡山日活」があります。
成人映画のポスターが貼られた解りやすい店構えです。
シニアは900円と良心的な価格設定です。
今回は岡山(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
岡山市の市街地にあって最大かつ伝統的な街「表町」は、さまざま表情をもった商店街です。北側から南へ、上之町、中之町、下之町、栄町、紙屋町、西大寺町、千日前、新西大寺町と有り「表八ヶ町」と通称され、現在でもこの名で呼ばれることがあります。*1
この「表八ヶ町」の東の裏通りにあたるのが、旧町名で「内山下元町5丁目」(現在の表町2丁目4,5、内山下1丁目12,13)で、バーや喫茶店の多い町です。*2*3
現在も表町2丁目4,5付近は、スナックやバーが建ち並んでいます。
ポリバケツや洗濯機が置かれた路地の奥に「スタンド」の看板。上には洗濯物。エアコンの室外機の上には一升瓶が置かれています。
スナックのある路地。
【参考文献】
*1 協同組合連合会 岡山市・表町商店街連盟:おもてちょう「表町商店街の歴史」
*2 内山下地区連合町内会:2004年度版「内山下地区連合町内会」の地図
*3 岡山新聞社編集局:現代岡山町誌(岡山新聞社,1958)P.9-P.10
東中島の川沿いの通り。
岡山市に本社のあるオハヨー乳業(株)の牛乳箱です。かすかに「オハヨー牛乳」らしき文字が読み取れます。
西中島の民家。黒板壁に牛乳箱が取り付けられています。
こちらの箱は「オハヨー牛乳」の文字がはっきりと書かれています。
東中島・西中島には、川沿いに水上デッキ状の構造物が数多く見られます。
川沿いの部分には、物干し台と思われる構造物が連なっています。
板で囲まれた個室状になっているものもあります。
気持ち良く眺めを楽しめそうです。
東中島にもかつての遊廓街を思わせる建物が残っています。
こちらの建物は、旅館でした。
現在は商店になっている建物。
2階部分に昔の雰囲気が残っています。
西中島のお好み焼き屋の建物。
中橋側から見た建物の反対側。川にせり出すように建っています。
往時を偲ばせる木造建築です。
すすけた「肉すき、水だき」の看板。
中島に遊廓の許可がおりた時期につきては諸説ありますが、中島にあった宿屋が料理屋となり、そこの仲居などが芸者の鑑札を貰ったことなどが混線して明治6年頃に遊廓の許可になったと言われています。*1
東中島・西中島には、現在も遊廓の遺構と思われる建物が残っていて、中でも西中島には、当時の雰囲気が残されている一画があります。
入口に屋号が残る建物。
道の両側に建物が並んでいます。
【参考文献】
*1 岡長平:色街ものがたり(日本文教出版,1969)P.60
今回は、中島町(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
東中島・西中島は、岡山市内を流れる旭川の中州です。古代より海からの小舟が着岸する船着町であり、また、西国街道(山陽道)の通り道となっていたことから、文禄の頃から旅籠町でした。*1
東中島・西中島は、かつての遊廓があった場所で、当時は、京橋西岸から見ると不夜城のような明かりが見えました。京橋は、岡山で橋といえば、まず京橋があげられるほど歴史も古く、有名な橋ですが、大正6年に近代的な鉄筋コンクリート橋に架け替えられました。*2
小橋から見た東中島。
中橋が東中島と西中島をつないでいます。
北側から見た東・西中島。
【参考文献】
*1 岡山大学附属図書館:絵図で歩く岡山城下町(吉備人出版,2009)P.66-P.74
*2 山陽新聞社:岡山県民の明治大正(山陽新聞社出版局,1987)P.260
大正12年、国鉄烏山線が開通し、それに伴う交通量の増大により烏山旭遊廓は全盛期を迎えました。同年代の宇都宮の亀遊廓、栃木の合戦場遊廓とならんで県内で2、3位を争う繁昌ぶりでした。*1
旭遊廓は通称「烏山の新地」と呼ばれていました。*1
新地の近くにある踏切なので、「新地踏切」と名づけられたようです。
忘れれらた郷土史*1 によると、「旭遊廓の大門の位置は、JR烏山線踏切すぐの東側にあった。」と書かれていますので、このあたりから大門が見えたのだと思います。
【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.99,P.102
旭遊廓の開設初期の道路は、妙光寺の南に通じる街道を東に入る道を行くか、福田川寿司店の北側を東へ抜ける道しかありませんでした。*1
この不便さから、新道路の開通が計画され、現在の妙光寺前から旭遊廓への道路が開通しました。この道路の開通によって旭遊廓の店構えは一変し、烏山旭遊廓の名は遊廓先進地であった喜連川、黒羽、太田原などをしのいで関東一円に宣伝されていきました。*1
旭遊廓の地(現在の初音15,16,17の一画)は、今でこそ南北に通じる道路が出来たためにその痕跡は留めていませんが、北は稲荷崖に対面した崖になっており(写真の方向)、南側も福田川が底流する崖、東側も崖という三方が崖に囲まれた土地でした。*1
現在は、遊廓の面影はありません。
【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.87,P.95-P.97
今回は、烏山(からすやま、栃木県那須烏山市)の町並みと風俗を散歩します。
山あげ会館に行くと、「忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓」*1 を購入することができます。
「山あげ会館」では、国の重要無形民俗文化財に指定されている「山あげ祭」のことをジオラマや映像で説明してくれます。
山あげ祭でほとんど毎年のように上演されている演目に、「将門(忍夜恋曲者、しのびよるこいはくせもの)」があります。これは、江戸時代の天保7年に江戸の市村座で初演されたもので、平将門とは直接の関係は無い一種の遊廓の芸能です。*1
明治5年、烏山新馬旅籠として金井町筋と田町筋に遊女屋が開業しましたが、この遊女屋のうちの5軒が明治34年頃、旭遊廓として集団移転(現在の初音15,16,17の一画)して営業を始めました。*1
2階の展示コーナーには、大正8年に描かれた旧烏山町の図屏風*2 が展示されていて、この屏風に旭遊廓が描かれています。
これを見ると、中央通路両側に桜並木と南側にボンボリが描かれています。北側から、福山楼、福二楼、福川楼と遊廓が建ち並んでいました。*1
【参考文献】
*1 大森茂宏:忘れれらた郷土史 烏山旭遊廓(大森茂宏,2007)P.14
*2 森幸三:図屏風(旧烏山町) (山あげ会館蔵,1919) P.14,P.86-P.87,P.104
木屋町の繁華街に「ビデオ試写室」の看板があります。
看板のある場所の路地の入口には、SMフェティッシュクラブの看板。現在は廃業した店舗の看板だけば残されているようです。
フェティッシュクラブの看板。
路地の奥に光る「ビデオ試写室」の看板。
四条大橋のたもとの西石垣(さいせき)通りは、古くからの料理屋が並ぶ通りですが、今では、ヘルス通りと呼ばれています。*1
料理店と風俗店が混在した奇妙な風景になっています。
木屋町通りと西石垣通りが合流するY字路。料理屋(写真手前)の隣に風俗店(写真左奥)が並んでいます。
高瀬川にかかる於石橋を渡った路地の商店街。商店の隣に風俗店(写真奥)があります。
【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.20)P.81 「東西性風俗街道 京都神戸編」
木屋町の西側に土佐稲荷岬神社があります。
木屋町や先斗町のママの信仰が厚く、幕末は土佐藩邸とかかわりを持った稲荷神社です。*1
先斗町の関係者が寄進した玉垣があります。
幕末は坂本竜馬も詣でたと言われています。(案内板より)
「先斗町遊廓中」と書かれた石柱。
【参考文献】
*1 京都新聞社:新・都の魁(京都新聞社,1989)P.34
今回は、先斗町(ぽんとちょう、京都市中京区)の町並みと風俗を散歩します。
先斗町は、鴨川と高瀬川の間の細長い地域にある花街です。「ぽんと」の語源は、この細長い土地の先の方(鴨川に面した側)ばかり家が建って西の方はノッペラボーだったので「先斗(ばか)りの町」と言われ、いつか音読みで「せんと町」さらになまって「ぽんと町」と呼ばれるようになりました。遊廓としての先斗町の歴史は、永宝2年(1674年)にさかのぼります。最初は宿屋が多く、その飯盛女が時に旅客と戯れ、やがて求めに応じて体を売るようになり遊所が形成されました。*1
四条通りの鴨川西詰の交番横に「先斗町」と書かれた看板があります。ここからずっと北に延びているのが先斗町通りです。*2
通りは狭く、肩が触れ合う風情です。
通り沿いに、先斗町の花街が広がっています。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.92-P.94
*2 太田達,平竹耕三:京の花街(日本評論社,2009)P.184-P.185
宮川町の南の山城町に、銭湯の大黒湯があります。
入口は、2つ。男湯と女湯、それぞれ暖簾がかかるのだと思います。
銭湯の右側は、廊地(ロージ)になっています。
温泉マークのネオン管。