大門通りを南に進むとロータリーのある交差点があります。

東側の角にある立ち飲み屋の建物。

北側の角には、古い建物が残っています。

赤線跡を歩く2*1 によると、南側の角には、妓楼らしき建物がありましたが、現在はマンションに建て変わっています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社, 2002)p.34-P.35
大門通りを南に進むとロータリーのある交差点があります。
東側の角にある立ち飲み屋の建物。
北側の角には、古い建物が残っています。
赤線跡を歩く2*1 によると、南側の角には、妓楼らしき建物がありましたが、現在はマンションに建て変わっています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社, 2002)p.34-P.35
大門通りと川端通りを結ぶ路地に妓楼だったと思われる建物があります。*1
奥行きのある大きな建物です。
2階と3階部分。
現在は、アパートとして使用されています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社, 2002)p.34-P.35
今回は、新柳町(福岡県福岡市中央区)の町並みと風俗を散歩します。
もともと遊廓の柳町は現在の石堂川の河口付近にありましたが、九州帝国大学の誘致のために、明治42年(1910年)に風紀上隔離する目的で住吉町に移転させることが市議会で決議され、新柳町と名付けられました。*1
新柳町があった場所は、那珂川の西側、現在の清川1丁目付近です。
終戦後は、往年の新柳町の繁栄を取り戻すべく「おいらん道中」が企画されるなどして、未曾有の人出を生み出したこともありましが、昭和34年の売春防止法施行以後は、火の消えたような寂れ方となりました。*1
那珂川沿いの川端通りに、花街の面影を残す料亭の「三光園」があります。
高い塀が延々と続きます。
入口付近。
【参考文献】
*1 田中美帆:福岡地方史研究(2005.7)p.58-P.59
京成電鉄小岩駅の近くに、銭湯の地蔵湯があります。
銭湯の建物の裏口付近。2階に汲み取り式トイレがある構造です。
銭湯の入口。
脱衣場と風呂場の間の窓ガラスに女性の絵が描かれています。
南小岩8丁目の住宅街。この付近には、数多くの犬糞看板を見かけます。
手書きの貼り紙もあります。
いろいろなタイプの貼り紙があります。
「東京都新生活運動拠点地区」作成のホーロー看板。
JR小岩駅南口からのびるフラワーロードを行くと国道14号線に出ます。右折して進むと二枚橋の交差点に出ます。
二枚橋の東側に郵政公社の宿舎がありますが、ここは、終戦直後に進駐軍相手の慰安所「東京パレス」が作られた場所です。
「東京パレス」の仕組みは次の通りです。まず、五十円の入場料を払って中へ入るとダンスホールがあります。ここでチケットを買うと、専属バンドのジャズ演奏をバックに女性と踊ることができます。夜9時になってダンスホールが終わると、2階の喫茶店街へ移動し、そこには、女性の部屋もありました。*1
アメリカ人記者が、占領下の日本の様子を書いた「ニッポン日記」*2 によると、ダンスホールの女性は、西洋のガウンを着て、下には何も着ていなかったとそうです。
宿舎の敷地の裏側(北側)には、親水緑道があって閑静な住宅街となっています。
【参考文献】
*1 人情講談(睦書房,1952.8)P.163
*2 マーク・ゲイン:ニッポン日記 上(筑摩書房,1951)P.186
今回は、小岩(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
JR小岩駅南口を出てすぐ左手に地蔵通りの入口があります。
日本語、中国語、英語で書かれた客引き禁止看板。地蔵通りにはこの看板が10ヶ所近くに設置されています。
狭い道幅の路地に飲食店や風俗店が建ち並ぶ繁華街です。路地はゆるやかに曲線を描いていて、この写真のようなY字路もあります。
古い商店の建物と客引き禁止看板。
散歩雑誌等で紹介されている牛乳店と貸本屋の建物。
雪印牛乳の看板はほとんど判読できない状況です。
谷中の現役の牛乳店。
ホモちゃんマークに出会うことができました。
根津神社の近くに銭湯の山の湯があります。
根津生まれの荒川センさんの話によると、山の湯近くに昔共同便所があり、子供のころ順番を待っていたら、中から梅毒で鼻の欠けた、顔立ちの異様にくずれた元お女郎さんの老婆が出てきて、腰を抜かしたそうです。山の湯の近辺には、遊廓で働いていた人のたまり場のようなものがありました。*1
山の湯は、根津神社へ行く道の途中にあります。
瓦屋根のある佇まい。
歴史を感じさせる銭湯です。
【参考文献】
*1 森まゆみ:不思議の町根津(筑摩書房,1997)P.220
今回は根津(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
「明治の東京」*1 によると、「藍染橋(在の根津一丁目の交差点付近)までは、引手茶屋であったらしく、橋から先が娼楼の区域で、権現の方へ曲がっている八重垣町の方に大楼があったのではなかろうかと思う。」と紹介されてます。*2*3
根津神社近くの商店。根津遊廓のことを記した銅版のプレートがあります。
根津遊廓は明治21年をもって、洲崎に移転したため、現在、その名残はありません。
しかし、遊廓的な雰囲気は移転後も残っていました。 「不思議の町根津」*1 によると、今の根津小学校の近くで、夕方になると日本髪を結って、白粉をつけた2、3人出てきて客を引いていました。*4
遊廓移転後の明治29年、根津神社内に残っていた旧大八幡楼の建物を利用して、温泉旅館「紫明館」ができました。そして、数年前までは日本医科大学の看護婦寮でした。町の歴史を長く知る人たちは、「あそこはよっぽど女に縁の深い土地に違いない。」と噂しています。*4
現在、看護婦寮があった場所は日本医科大学大学院になっています。
【参考文献】
*1 馬場孤蝶:明治の東京(丸ノ内出版,1974)P.8-P.9 中央公論社昭和17年刊の複製
*2 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.70-P.72
*3 林順信:東京路上細見①(平凡社,1987)P.174
*4 森まゆみ:不思議の町根津(筑摩書房,1997)P.104,P.219-P.220
五反田の駅のガード下は、立ち飲みやが多く、サラリーマンたちの憩いの場となっているようです。中でも、池上線のガード下は、絵になる風景がひろがっています。
路地の入口の角の立ち飲み屋さん。
路地には、居酒屋などが建ち並びます。
逆方向から見たところ、向こう側にソープランドの看板が見えます。
五反田の花街が開業したのは、大正10年で、当時は田んぼだった場所に麻布から4軒の芸者屋が移ってきたのが初まりです。その後、大正14年に、三業地の指定を受け、昭和5年には、芸者屋50余軒、料理屋28軒、待合60軒、芸者の総数200余名を数える繁栄を示しました。1
現在は大型のビルが林立し、花街の面影はありませんが、唯一、目黒川沿いにある料亭風の旅館の建物が、当時の雰囲気を伝えています。2
旅館の入口付近。
重厚な雰囲気の塀が延々と続きます。
定員2名の部屋。
【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930)
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,)P.117
JR五反田駅西口から100mぐらいのところの路地。古い店舗が軒を連ねています。
路地からは、JR山の手線が見えます。
レストランの建物の脇に消火器箱があります。
都内では、めずらしい木製の箱です。
今回は、五反田(東京都品川区)の町並みを散歩五反田の有楽します。五反田の歓楽街「有楽街」の近くに、昔の雰囲気が残る路地があります。
カラオケ店の隣に古い民家があります。
明治の牛乳箱。
JR五反田駅から徒歩5分の大都会に、牛乳箱が残されているは貴重です。
旧花街の一画。
古びた旅館の建物が残っています。
御同伴、御食事の看板。
裏口もあります。
湯島天神下の旧花街は、春日通りをはさんで、南北に二分されていますが、その南半分の区画の真ん中200メートルばかりの路地は、「おばけ横丁」と呼ばれていました。このあたりは、花柳界華やかなりし頃、仕舞屋(しもたや)風の芸者置屋が軒を並べていました。「おばけ横丁」とは、一方(春日通りから北半分)に料亭や料理屋が立ち並んでいて賑やかだったことに比べての閑静さをいったものです。*1
全国芸妓芸妓屋同盟会があったあたり。湯島天神下(下谷)の花街は、東京でも最大規模の花街でした。*1
湯島天神下の花街は昭和30年頃まで全盛を極めましたが、以降はだんだんと客離れが目立つようになり、スナックなどに転業しました。
ピンサロやトルコ風呂などの風俗店も進出しましたが、長続きしなかったようです。*1
「湯島トルコ」があった場所*1 は、現在は、駐車場になっています。
【参考文献】
*1 神崎宣武:盛り場のフォークロア(河出書房新社,1987)P.77,P.96,P.141,P.221
地下鉄千代田線湯島駅近く。日本語、韓国語、中国語で書かれた客引き禁止看板。
東京都の条例改正に伴い、店の前に従業員が立つことが禁止されることになりました。これによって客足が遠のいては困るので、このような説明書きがされているのでしょうか。
明るく楽しい町づくり。
ボッタクリ禁止看板。隣に賃貸マンションのビラがありました。
今回は、湯島(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
上野広小路近くの繁華街。バラエティショップがあります。
店の看板にはバラエティショップと書かれていますが、いわゆる大人のおもちゃ屋さんです。
手作り感のあるショウ・ウィンドウ。白色の蛍光灯とにアルミホイルが使われています。
ドクター中松が発明。
立川には、羽衣町と錦町の二ヶ所に赤線地帯がありました。1
錦町は、JR立川駅から東側に歩いて10分ほどの所にあります。昭和27年刊行の風俗雑誌2 には、「錦町の赤線の建物は洋風のカフエー式で、女達はいずれも洋装、ドレスを引きずっている女もいるし、またぐらまで見えるようなショートパンツの女の子もいる。若い16、7のあどけないのから、23、4の脂ののりきった連中が、ガムを噛みながらきゃッきゃッと男達の腕にからみついてくる。」と当時の様子が紹介されています。
錦町楽天地のメインストリート。
現在は閑静な住宅街になっています。
電柱の地域表示。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.52-P.53
*2 人情講談(睦書房,1952.9)P.162「東京赤線地帯・現地ルポ」
高松町には、商店街に混じってスナックの建物があります。
色鮮やかな建物。
風俗店のような入口。
階段を登ると、2階はスナックです。
立川駅南口のシネマ通り。
戦後米兵たちで賑わった通りですが、*1 現在は、商店街になっています。
赤線跡を歩く*1 に掲載されている四角形の窓を持つスナック。
モダンなデザインです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.99
今回は、立川(東京都)の町並みと風俗を散歩します。JR立川駅南側は、繁華街になっています。
1階にコンビニ、2階に大人のコンビニ。
1階のコンビニの横に大人のコンビニ(2階)とビデオ鑑賞(3階)の入口があります。
大人のコンビニは、当然のことながら、18歳未満及び高校生は入店できません。
JR線のガード近く、ソープランドの「角海老」があります。
店の建物の上に角海老の大看板があります。JRの電車から見えるように、看板は電車の側を向いています。
建物の壁面に立て看板が並びます。
落ち着いた感じの入口。
「角海老」の看板が、町並みに溶け込んでいます。
松戸の「角海老」も線路沿いにあったことを思い出しました。*1
【参考記事】
*1 風俗散歩(松戸)2006.6
亀有三丁目の通り。
ソープランドがあります。
建物の側面に「トルコ」と書かれた看板が残っています。
裏側から見たところ。
赤羽のピンサロ街に、古い建物が残っています。
艶っぽい女性です。
建物の上部にはキャバレー「ウラシ」の文字。
ウラシちゃんのスカートはハートの形をしています。
今回は、赤羽(東京都北区)の町並みを風俗を散歩します。
JR赤羽駅近くには、たくさんの路地や横丁があります。そのうちの一つ。明店街。
商店が並ぶ路地。
「ミルクホール」の看板のあるお店。牛乳屋さんではなさそうです。
「通りぬけ」の看板。
スナックが密集する寄居町の北側にある若松旅館。
老舗旅館です。
暖かみのある木造旅館。2階部分に丸窓があります。
年季の入った看板。
寄居のスナック小路※1※2 の奥から東へ派生した路地。
小料理屋きよみ。
場末感が漂います。
隣には、スナックくじゃく。
寄居町のスナックが建ち並ぶ小路※1。
バー京は、ピンク色が印象的な店構えです。
スパロー。
反対側にある店舗
餃子の案直軒の隣のスナック。
寄居町の「四つ角」交差点の一つ北側から北西方面に伸びる路地。
「東京サイハテ観光」*1 の中里さんは、この小路のことを「すぐに終わる短い道だが、トタンにモルタル、色もいいし、それにカーブもあり、ここには路地の要素がギュッと詰まっている。」と評しています。
スナック群は数年前に店を閉めましたが、そうと知らなければ今夜も店が開くと思うほどのそのままの状態です。*1
逆方向(北側)から。
【参考文献】
*1 中野純,中里和人:東京サイハテ観光(交通新聞社,2008)P.79-P.78
四つ角の北側の寄居付近は、旧花街で、かつては3軒の映画館が並び、とても栄えていました。*1
当時の名残と思われる和風の建物があります。
かなり大きな建物です。
現在は区画整理中のため、あちこちに更地が広がっています。更地の中に古い建物が散在する奇妙な光景です。
【参考文献】
*1 中野純:東京サイハテ観光(交通新聞社,2008)P.76-P.77
渋川の四つ角と呼ばれる交差点の近く。古い銭湯の建物があります。左側は和風建築、右側はコンクリート製です。
大きな建物です。上部の装飾に特徴があります。
入口付近。休業中であるのが残念。
煙突。
渋川の市街を流れる平沢川。
平沢川の左岸のスナック街。
アキ、千代子、おとみさん。
「おとみさん」の裏側。
今回は、渋川(群馬県渋川市)の町並みと風俗を散歩します。
渋川は、伊香保温泉の入口に位置する町です。渋川駅からは、赤城山が望めます。
渋川駅前。
「悪書追放」と大きく書かれた白ポストがあります。
幅も奥行きもたっぷりサイズの大型です。隣のコインロッカーと比べるとその大きさがわかります。
「全国遊廓案内」によると、宇都宮城址の南側の河原町に、宇都宮遊廓がありました。*1
昭和11年発行の「宇都宮市街付近図」*2 には、格子状に区画された道路に「遊」、「廓」の2文字が記されています。
その遊廓の名残でしょうか。格子状に区画された道路の北側に「しんち食堂」という名の食堂があります。
格子状に区画された道路を東側から見た所。付近の道路と比べ明らかに道幅が広くなっています。
外郭の道路から見ると、遊廓があった場所(写真右側)は高台になっています。
「新地」の名が残る電柱。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌第14巻(三一書房,1993)P.26-P.27
*2 宇都宮市街付近図(1936年(昭和11年)発行)
宇都宮城址近くの本丸町。静かな住宅街です。
宇都宮の赤線は、中河原(現在の中央五丁目)と「新地」の2ヶ所にありました。*1
木造2階建ての民家。
「赤線跡を歩く(ちくま文庫版)」*2 に写真が掲載されている街頭消火器のある家です。
木村聡さんは、中河原のバーのママさんから聞いた情報をもとに、「新地」はこのあたりにあったとしています。*2
「街頭消火器」の名にふさわしい、大型の箱です。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性・街ガイド(季節風書店,1955)P.103
*2 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.175
宇都宮市街の中央を流れる釜川沿いにある本町はクラブなどが建ち並ぶ繁華街です。
2つの店舗が同居している建物です。左側の店は、1階用の2階用の2つの入口があります。
建物の奥行きは、2メートル程でしょうか。1階から2階へ上がる階段がどうなっているのか興味があります。建物の角には、看板が取り付けられていたと思われる金具の跡が残っています。
「カフエー」のプレート。「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されている中河原(中央5丁目)のカフエーのプレートと同じタイプのものです。
オリオン通り。宇都宮の市街で最も賑やかな通りです。
オリオン通りに面して、2階にレストラン、3階に風俗店が入っているビルがあります。
入口付近。窓際にたて看板がたてかけられています。
たて看板に「西川口流」と書かれています。宇都宮においても埼玉県の流派が健在です。
江野町のソープランド街のはずれの路地。
古びたスナックの建物があります。
入口のドアの上部。
カフエーのプレートがあります。
宇都宮の盛り場は、東武宇都宮駅の近くのオリオン通りの周辺にあります。
かつての花街であった江野町には、その名残とも思われるスナック街があります。
狭い路地を行くと、古びたスナックがあります。
路地は奥まで続いています。
ソープランド街の近くにあるスナック。
今回は、宇都宮(栃木県宇都宮市)の町並みと風俗を散歩します。
宇都宮の名物と言えば餃子ですが、餃子以上に有名なのが、新幹線沿いのラブホテル群です。東京方面から東北新幹線に乗って宇都宮駅に到着する間際、車窓から大規模なラブホテル群が目に入ります。
新幹線の高架のすぐ隣に、ホテル「ガイア」があります。
お城のような塔を持つラブホテル。
平成通りと新幹線が交差するあたりにあるホテル「ノーブル」。
ホテル「La MIEUX(ラミュウ)」。最上階の特別室からの眺めは、さぞかしすばらしいことでしょう。
豪華ラブホテルの脇を新幹線が走り抜ける光景は、未来都市を思わせます。
東北新幹線が開業した1982年の住宅地図*1 で確認すると、この頃新幹線の高架沿いにラブホテルは無く、やや離れたところに、ホテル「アローハ」とホテル「エスボヌール」の2軒があったのみでした。その後、新幹線の高架沿いを中心に大規模なラブホテル街が形成されたようです。
【参考文献】
*1 宇都宮市(南部版)(日本住宅地図出版,1982)
熊本市街の南側に位置する二本木町に二本木神社があります。ここに、明治時代にできた二本木遊廓の名残をみることができます。
本殿への石畳参道を中に一対の狛犬が相対しています。
台座に、「二本木娼妓有志者中」と寄進者名が右から書かれています。*1
寄進年月は、明治三十九年十月です。
終戦当時、陸軍中尉だった二本木遊廓を知るTさんは、「召集令状がくると皆二本木へ行きよりましたなぁ。あの頃の客は兵隊がほとんどで、それも明日は戦地へ向かうという時は行きましたな。戦後になると米軍が行きよりましたな。太とか黒人兵が意気揚々と歩きよりました。」と当時の様子を振り返っています。*1
【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.359-P.360
今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
二本木遊廓へ向かう道路沿いに残る石柱の脇に、旅館兼スナックの建物が建っています。
スナックの隣が旅館の入口です。
旅館の入口。
昭和レトロな旅館の案内看板。
崎津の町並みは、落ち着いた雰囲気です。
崎津は、売春をする漁業集落でもありました。
天草の観光・秘境イメージを意図した天草小唄に、
出湯、白鷺、ドライブ疲れ、あした牛深、今宵は崎津村
熱い情けの一夜をあかし、出船わかれの涙雨
と歌われていますが、これは観光売春がそれとなく暗示されているものです。*1
町の中心部にある仲町区公民館。
天草では、昭和30年頃までは夜這い的な雰囲気が残っていました。しかし、夜這いの拠点である青年宿が、次第に公民館に移されて集まることができなくなり、この時代になると、男たちは買春に関心を持つようになり、夜這いは衰退しました。*1
下町区公民館。
天草における夜這いは、天草五橋が開通(1965年)した頃以後は、昔話としてのみ語られました。また、天草五橋をバイク3時間かけて熊本のトルコ風呂まで行ったものの帰り道の侘びしかったことという体験談が語られるようになりました。かくして、「田舎には何も楽しかことのなか」状況になり、過疎化が始まることになりました。*1
【参考文献】
*1 森栗茂一:夜這いと近代買春(明石書店,1995)P.124,P142,P.155-P.158
本渡からバスで約1時間ほど南に行ったところにある崎津。小さな港があります。
港に面して、天主堂があります。海には山が迫っていて、山の上には、チャペルの鐘展望公園のオブジェが見えます。
崎津出身のからゆきさんの聞き書「サンダカン八番娼館」の著者の山崎朋子さんは、「崎津天主堂で、一心に祈り続ける老夫婦の姿に接し、心を打たれ、からゆきさん研究への決意を新たにかき立てられた。」と書いています。*1
山の上の教会(チャペルの鐘展望公園)からの眺め。美しくて静かな風景です。
「サンダカン八番娼館」は、イギリス領北ボルネオの港市サンダカンの娼家で青春を送ったおサキさんの聞き書です。おサキさんは、「崎津の天主堂の下からこまんか(小さい)舟に乗って、高浜まで行ったんじゃわ。」と語っています。その後、おサキさんは、高浜から長崎へ行き、長崎から約3ヶ月かけてボルネオに渡りました。*1
【参考文献】
*1 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.6,P.79
本渡の市街地にある「天劇サウナ」。
入口付近。左の通路を行くと奥にサウナの入口があります。
サウナの入口横にあるサロンのドア。ちょっと怪しげな雰囲気です。
裏通りの看板。
本渡市街から北西方向に約3Kmほど離れた場所に、「軽井沢」と書かれた看板があります。
看板に導かれてさらに進むと、また看板があります。道はどんどん登っていきます。
山道が峠にさしかかったあたりに、ラブホテルの入口の坂道がありました。秘境のラブホテルです。
坂を登りきると、ガレージ型のホテルがあります。
スナックが散在する通り。近くに旅館もあるようです。
瓦屋根の家屋の1階部分を改造したスナック。
こちらも瓦屋根の家屋ですが、1階部分は派手なデザインに改装されています。ピンク色の壁の中央に白い川のようなものが流れています。人の顔のようにも見えます。
入口の側面には、丸い窓があります。往時はどのようなお店だったのでしょうか。
今回は、天草(熊本県)の町並みと風俗を散歩します。
天草最大の都市、本渡(ほんど)の飲み屋街は、天銀街のアーケードを抜けたあたりに散在しています。
「全国女性街ガイド」*1 によると、本渡の赤線の様子を「市内に散在する飲み屋の女の大半はねる。」と紹介していますが、現在、その飲み屋がどのあたりにあったのかは不明です。
スナックが点在する通り。
壁が斜めに傾いたデザインの店。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.193
島原市街の南側(蛭子町)。国道251号線路沿い。
島原牛乳の木製牛乳箱。箱の側面には「ミネビタ牛乳」と書かれています。
別の場所(深江駅近く)にあった同型の島原牛乳の牛乳箱。
縦型の島原牛乳の牛乳箱。
島原市街から、雲仙温泉方面へ道路が延びています。島原市の隣町である深江町は、1990年の雲仙普賢岳の噴火のとき被災しましたが、現在は復興しています。
雲仙岳の五合目に相当するこの場所にアパートがあります。
家賃・月額20,000円。背景に「宿泊」と書かれた白い文字が見えます。以前は、ホテルだったようです。
ガレージ方式のアパートです。
大師堂の天如塔の周囲の玉垣のうち、入口の階段の所の玉垣が最も大きな玉垣です。
この玉垣の正面側に名が刻まれている阿南トンキン(ベトナム)の和田氏は、当地域における日本娼楼の先駆者でした。また、「高谷マサ」は、数多いからゆきさんの中でも飛びぬけた成功者でした。*1
バンコクから寄進の玉垣。
「富士ホテル」、「旭ホテル」は、いずれも「ホテル」と名乗ってはいますが、実態は日本人が経営する女郎屋でした。*1
シンガポールからの寄進による玉垣に名を刻む米井虎一郎は、侠客の一人であったと伝えられ、日本人共同墓地を管理・運営するために組織された共済会の有力メンバーでした。*1
同じく、シンガポールからの寄進の東境セイ(玉垣では東京セイ)は、からゆきさん出身でしたが、女郎屋の経営者となりそこで貯えた資金をいち早くゴム栽培事業に投資して大儲けをしました。本田シツはマバラー街54番、原ロツタは、スプリング街21番で娼家を経営していました。*1
シンガポールでは、女郎屋の経営者は女性に限られるという当局の方針があり、「からゆきさん」出身の女性が富を貯え社会的に上昇していくきっかけを与えていましたが、多くの場合、男(チンタあるいはピンプ(=嬪夫)と呼ばれた)の側が実権を持っていました。この中で東境セイだけが、実験を持った女郎屋の女経営者でした。*1
【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号42)(1993)「島原市の大師堂への寄進者の初歩的調査–「からゆきさん」研究の基礎史料」P.5-P.6,P.10-P.11,P.20-P.25
大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、たくさんの玉垣があります。天如塔の底面は正八角形になっていて、角の部分には大きめの玉垣が配置され、ここには寄進した額の大きなからゆきさん関係者の名前が刻まれています。
玉垣(120人)と周囲の石柱(12人)のに刻まれた外国在住者を分類すると、マレーシア(34人)、ベトナム(26人)、シンガポール(25人)、インドネシア(14人)、ビルマ(14人)、中国(8人)、タイ(4人)、韓国(3人)、ロシア(2人)となります。*1
アンナンは、ベトナムの総称で、漢字では、通常「安南」ですが、ここでは「阿南」と書かれています。トンキンは、ベトナム北部を指す呼称です。*1
写真の玉垣は、マレーシアの地名が刻まれています。*1
コウラカンサ(クアラ・カンサー Kuala Kangsar)
トロノ(Tronoh)
スポテノ
タパン(タパ Tapah)
同じく、マレーシアからの寄進の玉垣。
カラン(Karang)
カラシコワラ
マラッカ(Malacca)
スレンバン(Serenban)
の地名が確認できます。*1
【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号40)(1991)「からゆきさんの遺跡–島原の大師堂」P.30-P.33
島原市内の南側の大師通りに、理性院大師堂があります。
本堂の横を行くと、灯台のような形をした奇妙な塔が現われます。
この塔は、「天如塔」、別名を「からゆきさんの塔」と言います。*1
「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐ん国行(からんくにゆき)」という言葉が縮まったもので、幕末から明治期を経て第一対戦の終わる大正中期までの間、主に東南アジア方面にまで出かけて行って、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦のことです。*2
玉垣には、寄進者のからゆきさんとその関係者の名前が刻まれています。
天如塔と玉垣は島原市の有形文化財に指定されています。
天如塔を建立したのは、島原で活動していた僧の広田言証師です。広田言証師は、1906年末から2年半、インドへ巡礼したとき、東南アジアの各地でからゆきさんと出会い、不幸にして異境の地で果てた娘たちのために供養を行いました。これが娘たちの帰依を呼び、からゆきさんたちの心ののよりどころとなり、多額の寄進を得、そのお金を日本に持ち帰り、天如塔を建立しました。*1
【参考文献】
*1 倉橋正直:島原のからゆきさん(共栄書房,1993)P.94-p.100,P.159-P.170
*2 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.7
今回は、島原(長崎県)の町並みと風俗を散歩します。京都-長崎を結ぶ寝台特急あかつき号に乗り、諫早(いさはや)駅に朝8時に到着。島原鉄道に乗り換えて約70分。島原駅で下車します。
駅前から島原城の天守閣が望めます。
島原城をデザインした駅舎
駅舎の前に、白ポストがあります。
鉄製の頑丈なポストを壊す人はいないだろうと思いますが、このような注意書きがポストの上部に書かれています。
福知山市街の北東部にある広小路。レトロな商店街です。
広小路の由来を説明する看板があります。
江戸時代から、広小路は有力商人が軒を並べる城下町の顔でした。
明治10年頃、下柳町川沿いを中心に貸座敷12軒ほどが公認され、芝居小屋もできて、広小路は歓楽街の要素も加わりました。大正時代になると、芝居小屋は近代映画館に変わり、西洋料理店やカフエが進出し、歓楽街、商店街として繁栄し現在に至っています。
貸座敷があった下柳町近くの路地。古い旅館があります。
現在の下柳町は、車の通行量の多い道になっています。
旧猪崎新地(福知山遊廓)の奥まったところに、城山へ続く石段があります。
石段を登っていくと、荒廃した神社があります。
燈篭に、「明治四十四年十二月吉日 猪崎新地 芸妓中...」と書かれています。遊廓の関係者が寄進したものと思われます。
神社から、旧猪崎新地方面を見たところ。遠くに音無瀬橋が見えます。
城山公園の麓の猪崎には、猪崎新地(福知山遊廓)がありました。
大正4年刊行の「福知山市街略図」*1 に福知山遊廓の見取り図が記載されていますが、これによると、この写真の通りが遊廓のメインの通りで、10軒の妓楼のうちの5軒が、この通り沿いにありました。
遊廓の中心部であったと思われるあたり。
旅館風の大型の建物が残っています。
別の通りにもう1軒。
【参考文献】
*1 藤本薫:歩兵第二十聯隊と福知山案内 (福知山三丹新報社,1915)「福知山市街略図」
中ノ町飲食街の中ほどに、直角に交わる形で浮世小路があります。
小路への入口の看板。花魁の絵が描かれています。
居酒屋やスナックの店舗が並んでいます。
入口の看板を内側から見たところ。花魁が服を脱いでいます。浮世小路から帰るときは、脱いだ花魁が見送ってくれるという趣向のようです。
中ノ町飲食街。
風俗店が密集しています。
企業戦士たちのやすらぎの店。
夜になると歓楽街は活気を帯びます。
今回は、福知山(京都府福知山市)の町並みと風俗を散歩します。
福知山駅の北側に、明智光秀が祭られている御霊(ごりょう)神社のある御霊公園があります。その御霊公園の南側一帯は、歓楽街の「中ノ町飲食街」です。
御霊神社前に飲食店が建ち並んでいます。
場末の雰囲気が漂う「ナイトイン上海」。
看板の裏側は、「サロン上海」。
仲之町を裏門に向かって進むと、吉原神社*1 に行き着きます。
普段は人影まばらな吉原神社ですが、浅草名所七福神の一つであるため、初詣の人たちで賑わっています。
料亭松葉屋の取り壊しに伴い、松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑が、吉原神社に移されました。*2
久保田万太郎は、浅草田原町の生まれの文人で、浅草の雷門の近くにも句碑があります。おそらく料亭の松葉屋に頻繁に遊びにきていたのでしょう。
「この里におぼろふたたび濃きならむ」と刻まれています。普段は見えず、水をかけると白く細い文字が黒い石肌に浮かびあがる「白粉彫り」という技法で彫られています。*1
この日は、すでに水がかけられていたのでしょうか。最初から白い文字がくっきりと現れていました。右下に小さく、「万」の一字があります。
【参考記事】
*1 風俗散歩:入谷~吉原(2005.9)吉原神社
【参考文献】
*2 石井妙子,渡辺憲司:東京人(都市出版,2007.3)P.46 「遊女の残り香を探して」
今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
昨年(2007年)は、新吉原が誕生(元吉原から移転)してから、ちょうど350年にあたります。これを記念し、2007年11月に、遊廓の入口である大門を再現した街路灯が設置されました。江戸風情を復活させようと町会の働きかけによって実現したものです。”江戸の華”とうたわれた遊廓の歴史は現実の荒波にもまれながら受け継がれています。*1
かつての吉原遊廓の大門があったあたりに設置された「大門(おおもん)」と書かれた街路灯。他に、「角町」、「京町」、「揚屋町」などと書かれた街路灯も各通りに設置されています。
この場所には、花魁(おいらん)ショーで有名な料亭の松葉屋がありましたが、現在は1階に交番が入るマンションになっています。
吉原今昔図*2 によると、松葉屋は昭和20年代には引き手茶屋として営業していました。
花魁ショーは、平成の初め頃まで、月・木・金を除く15時からと毎日19時から、所要時間25分で上演され、「はとバスツアー」にも組み込まれていました。*3
大門があったあたりから大門交差点方面を見ると道路がS字形に曲がっています。ここは、五十軒道と呼ばれていました。
【参考文献】
*1 丹治早智子:東京新聞(2007.11.9 夕刊)P.10 「吉原大門」街路灯で再現
*2 新井一鬼:吉原今昔図(葭之葉会,1993)
*3 散歩の達人(1996.11)P.8-P.9
ピンク映画館の「千本日活」。
映画館らしい映画館が今も健在です。
入場料金は500円です。
夜は、ネオンが美しく輝きます。
今回は、五番町(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。五番町は水上勉さんの小説の舞台となった場所です。
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されている写真の場所は、スナックの建物を除いて、新しい建物に立て変わっていました。昔の面影はなくなりつつあります。
スナックの看板
スナックの建物の隣にある建物。
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されていた元妓楼の建物があった場所は、駐車場になっていました。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2 続・消えゆく夢の街を訪ねて(自由国民社,2002)
上七軒の毘沙門町の路地。木造家屋が残っています。
側面の板が無くなっている牛乳箱。
蓋は、箱の上に置いてありました。
京都に多い井上牛乳の牛乳箱ですが、こちらは、フロント開閉型のタイプです。
上七軒の料亭街の中に上七軒歌舞練場があります。
立派な建物です。
入口付近。
裏口の門柱も立派です。
現在も料亭が並ぶ上七軒。この道を進むと北野天満宮です。
案内板によると、足利氏が北野天満宮の再建のときの残木を利用して、門前に7軒の茶屋を建てたことから、上七軒と呼ばれるようになりました。京都最古の遊里です。
しっとりとした感じの上七軒花街。*1
同じ通りを逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 明田鉄男: 日本花街史(雄山閣出版,1990)P.78-P.79
今回は、上七軒(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。
今出川通りと七本松通りが交差する上七軒交差点。北野天満宮の東側に位置します。
通り沿いに、古いビリヤード場の建物があります。
入口付近の窓に「玉」と書かれています。
2階部分の看板。
阪急十三駅の西側にの通称しょんべん横丁。十三のディープスポットです。大衆居酒屋「十三屋」は昼間から賑わっています。
少し奥へ進むと、「アナバ」(吾菜場と書きます。)。圧倒的なカオス感。
反対方向から。
阪急線の壁(写真左側)と飲み屋街の間の狭い路地。
十三の栄町(さかえまち)繁華街。多数の案内所があります。
「たこナビ」「ジャパネットたかお」、ネーミングもユニークです。
名案内「コナン」。
アルサロ「ふうりゅう」近くの案内所。
ストリップ劇場「十三ミュージック」の裏手の路地。音楽と威勢の良い掛け声が建物(写真右手)からもれ聞こえてきます。(写真の奥は木川本町商店街)
大田牧場の牛乳箱がありました。
ポストと仲良く並んでいます。
ストリップ劇場近くの別のお宅の壁に取り付けられていた牛乳箱。何とも絵画的です。
十三駅前の道路に青色のワゴン車が止まっています(写真左下)。この車はストリップ劇場の「十三ミュージック」の送迎車です。
木川本町商店街の隣にあります。
入口の看板。「素人娘」がウリです。
夜になるとネオンがきれいです。
今回は十三(大阪府)の町並みと風俗を散歩します。十三駅前にあるアーケード。
アーケードをくぐると、風俗街です。
派手な看板が並びます。
まるでパチンコ屋のようなネオンサインです。
天王新地の周辺は、静かな住宅街です。
共同の井戸があります。
正面に向こう側には、4階建てのアパート。
国道26号線側から見たところ。坂を下ったところに長屋が連なっています。
天王新地を歩いてみます。スナック風の建物が道の両側に並んでいます。
突き当たりを右に曲がったところ。
全体は、コの字型になっているので、さらに右に曲がると、一周できます。この道をまっすぐ行くと再び国道24号線へ出ます。
逆方向から見たところ。
和歌山市内を南北に貫く柳通りを北上し、JR紀伊本線を越えると、地蔵の辻と呼ばれる交差点(国道24号線)に出ます。和歌山駅から歩くと20分ほどかかります。
天王新地がある場所は、地蔵の辻の交差点が目印です。昭和15年の「大和歌山市街地図」*1 を見ると、すでに「天王新地」の記述がありますので、赤線時代より以前に存在していたようです。
国道24号線沿いに「天王新地」のバス停があります。現在も「天王新地」という呼び名は生き続けいているるようです。
電車で行く場合は、和歌山駅と和歌山市駅の中間にある「紀和」という無人駅から徒歩3分ぐらいで天王新地に着きます。
国道24号線沿いに新地の入口を示すアーケードが建っています。「天王料理組合」と書かれています。アーケードは2つ建っています。
アーケードをくぐると少し坂になっています。この坂を下りきったところの両脇に店があります。*2
【参考文献】
*1 和歌山市史編纂委員会:和歌山市史第5巻(和歌山市,1975)「大和歌山市街地図(昭和15年9月9日由良要塞司令部検閲済み)」
*2 シーズ情報出版:日本裏風俗夜遊び読本(シーズ情報出版,1999)P.139-P.140
和歌山市南部の高松に、成人映画館の建物が残っています。
入口の切符売り場。「成人映画に付18歳未満の方入場出来ません。」と書かれた看板があります。
「各種定食350円より」。安いです。
入口の階段。当時は賑わいを見せていたのだと思います。
飲食店がまばらにある向之芝。
DVDショップがあります。
2階部分に取り付けられた大きな看板。
看板に、「DVD 薄消し」と書かれています。
和歌山のソープランド街は、東ぶらくり丁と交差する大門川沿いの通りにあります。このあたりは、雑賀町と呼ばれています。川沿いに古いソープランドの建物が並びます。
1999年刊行のムック本*1 に掲載されている写真を見ると、建物の裏側にもソープランドの看板がありましたが、現在は取り外されています。
ソープランドの看板が乱立する中、昔の「トルコ」の文字が残された古い看板があります。一瞬病院かと思うような錯覚になりました。
和歌山といえば、暴れん坊将軍・徳川吉宗公のふるさとです。こちらの看板にも「トルコ」の文字が残っています。
【参考文献】
*1 シーズ情報出版:日本裏風俗夜遊び読本(シーズ情報出版,1999)P.142
今回は、和歌山(和歌山県和歌山市)の町並みと風俗を散歩します。
市内の中心部にある繁華街「ぶらくり丁」を南北に横切り和歌浦湾に注ぐ大門川に架る雑賀橋詰に「和歌山ブルース」の歌碑があります。
「和歌山ブルース」は、昭和40年代に発表され、古都清乃さんの歌声にのせて、当時レコードセールスは70万枚を突破しました。
歌碑の中心部に「和歌山ブルース」と書かれています。夜になるとこの部分が光るそうです。
円形のベンチは、レコードをデザインしたものです。歌詞や楽譜が書かれています。
歌碑には、センサーが内蔵されていて、近づいただけで「和歌山ブルース」がスピーカーから流れます。半径50メートルぐらいは届きそうな大音量で1番から3番まで続けて演奏されます。もちろん、いったん始まると途中で止めることはできません。
甲府市朝日4丁目。
この付近は、旧町名で元穴山町。穴山信君の屋敷があった場所です。(案内板より)
美しい黒い板塀のお宅。
雪印の牛乳箱。
雪印つよい子牛乳。
天神町で見かけた古びた雑誌屋さん。
店の前に、古びた自販機が4台も並んでいます。
このボタンを押して雑誌を選ぶ仕組みだったようです。
現在でも、成人向け雑誌の自販機を地方都市なでで見かけることがありますが、この自販機では、プレイボーイなどの週刊誌が販売されていたようです。
朝日町にある飲み屋街の「新天街」。全面タイル貼りの公衆トイレがあります。
小便をするところもタイル貼りです。
きちんと整理された清掃用具。
清掃当番表。
甲府駅の北側の朝日町に、飲食店街の「新天街」があります。
飲食店の看板が連なります。
飲食店街全体が、アーケードになっています。
横から見たところ。3階建てです。
甲府の遊廓は、明治時代、増山町にあり、「新柳町遊廓」と呼ばれていました。明治40年、廓内から出火した大火により、22の妓楼のほとんどが焼けたため、まもなく穴切(現在の宝1丁目)に移転しました。*1
穴切遊廓は、穴切神社の北側。現在の宝1丁目にありました。「甲府市街全図」*2 に、整然と区画された穴切遊廓が記されています。
遊廓があったと思われる一画。
旧地名である「アナギリ」のプレート。
南側には、黒板壁が美しいお屋敷がありました。
【参考文献】
*1 山梨県立図書館:甲州文庫史料第1巻(山梨県立図書館,1973)P.284
*2 甲府商業会議所:甲府案内(甲府商業会議所,1918)「甲府市街全図」
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みと風俗を散歩します。
甲府駅前の「電化ビル」脇に飲食街だったと思われる一画が残っています。入口のアーチに今でも残る蛍光灯が印象的です。
角が丸みをおびた建物。
飲み屋街だった建物は、現在は、片側に残っていませんが、かつては両側にあったのかもしれません。
周辺は、近代的なビル街です。
甲州街道と明治通りが交差するあたりに、雷電稲荷神社という変わった名の稲荷神社がありますが、そこが新宿四丁目の旅館街の入口です。
ここは、旭町のドヤ街でしたが、現在は、「新宿四丁目ビジネス旅館街」と看板に書かれています。
今でも小さな旅館が立ち並ぶ風景が見られます。*1
3階建てのように見える旅館。
道なりに進むと、やがて高島屋前に出ます。
【参考文献】
*1 木村聡:荷風!特集大人の新宿(日本文芸社,2004)P.58-P.60「古雑誌記事に”新宿”を読む!」
花園神社に立ち寄ります。この日は酉の市の日でした。東側入口に仮設小屋が見えますが、これは、酉の市の日に建てられる見世物小屋です。
「演劇大百科事典」によると、見世物とは、「寺社の境内や盛り場で臨時に掛小屋芸能及び種々の珍奇なものを見せて、入場料をとる興行物」のことをいい、かつては、女相撲やストリップも仮設で興行されていました。仮設小屋の起源は室町時代にまでさかのぼると言われています。*1
蛇おんなの看板。
呼び込みのおばさんが、熱弁をふるいます。
【参考文献】
*1 鵜飼正樹:見世物小屋の文化誌(新宿書房,1999)P.15,P.26,P.50
新宿二丁目から延びる都電の軌道跡の道を10分ほど歩いたところに、西向天神社があります。
神社の境内の片隅に、藤圭子が歌った「新宿の女」の歌碑があります。
藤圭子は、1969年に「新宿の女」でデビューし、アルバムチャート20週連続1位という快挙を成し遂げました。現在は宇多田ヒカルのお母さんとして有名です。
この歌碑の由来として、「昭和44年9月25日『新宿の女』で、この西向天神より二人の若者が旅立っていき、石坂まさをと藤圭子の名は時代を刻み、伝説として語られるようになった。」と記されています。
同じく、石坂まさを作詞・作曲で藤圭子が歌った隠れた名曲に「女町エレジー」があります。「女町エレジー」は、宝山寺(生駒新地)の女性をテーマとした曲です。*1
【参考記事】
*1 風俗雑感(音楽):「藤圭子の遺伝子」
新宿二丁目、靖国通りに面して成覚寺(じょうかくじ)があります。ここは、新宿の遊女たちと関係深い寺で、一名「投げ込み寺」といわれました。*1
入口の石段を下ってすぐ左側の塀下に旭地蔵があります。旭地蔵は、内藤新宿の遊女と武士や町人たちが、なさぬ恋を悲しんで玉川上水へ身投げして心中した者たちのために建られた供養塔でした。*1
台座には18名の男女の戒名が並べて刻んであります。*1
「貸座敷」と刻まれています。
【参考文献】
*1 芳賀善次郎:新宿の今昔(紀伊國屋書店,1970)P.70-P.72
ゲイバーなどが立ち並ぶ二丁目の一画には、ボーイ募集やモデル募集の貼紙があちこちに貼られています。
ボーイ募集の貼紙。
ビデオモデル募集。
ビデオショップの前の大型看板。
今回は、新宿の町並みと風俗を散歩します。新宿二丁目は、かつて赤線があった場所ですが、最近はゲイの街として、生まれ変わっています。
ビデオ店も専門的な品揃えがされています。
おしゃれなブリーフが並べられている店。
DVD店の入口。男性の裸のマネキン人形が飾られています。
数年前までちょんの間があった初音町。北側にスナックが建ち並ぶ路地があります。
裏側の路地には、昔の雰囲気が残されています。
旅館の看板が残されています。
入口付近にかつての旅館の面影が残されています。
今回は、黄金町(神奈川県横浜市中区)の町並みを散歩します。
かつて、ちょの間があった初音町の京急の高架下。
現在は、建物が完全に撤去されています。
大岡沿いの部分は、かつての名残がわずかに残っています。
店舗は、新しい店舗に改装されていいます。
今回は、黄金町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。その名もズバリ「黄金劇場」。堂々とした店構えです。
正面から見たところ。
入口付近。
歴史を感じる看板。
阪東橋駅近くの伊勢佐木町6丁目に小規模な飲食小路があります。
円柱を持つ黄色い建物。
黒いタイル。
店の屋号と思われるネオン管
第一京浜沿いには、ヘルス店に混じって、古本屋が乱立します。アダルト系のDVDや雑誌のバックナンバーが中心の品揃えです。
白い色が印象的な店。
2軒並んでいます。
2階がヘルス店の古本屋。
第一京浜裏手の路地には、赤線時代の建物がごっそり残る一画があります。
今回散歩したところ、半年程前まであった古いお宅と元旅館の建物*1 が無くなっていました。中央部の一画がぽっかりと空き地になっています。
路地の北側には、円柱を持つお宅が健在です。
道を挟んだ向かい側の建物が無くなり更地になったため、建物の全貌を見れるようになりました。
【参考記事】
*1 風俗散歩(曙町):第一京浜裏手の路地(2006)
中華料理屋「一番」の隣に、古い家があります。*1
回転式の窓がたくさんあります。
まるで絵画を見ているようです。
何に使われていたのでしょうか。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)p.129