今回は、上諏訪(長野県諏訪市)の町並みと風俗を散歩します。諏訪の市街の南側を衣之渡(えのど)川が流れます。
「全国遊郭案内」によると、上諏訪町字衣之渡には、衣之渡遊郭がありました。*1




*1 南博他編:近代庶民生活誌 第14巻「全国遊廓案内」(三一書房,1993)P.87
今回は、上諏訪(長野県諏訪市)の町並みと風俗を散歩します。諏訪の市街の南側を衣之渡(えのど)川が流れます。
「全国遊郭案内」によると、上諏訪町字衣之渡には、衣之渡遊郭がありました。*1
旧鶴賀新地から権堂町へ向かう通り。
道幅の狭い通りに面してラブホテルがあります。
旧新地の西側の通りにも1軒ラブホテルがあります。
シンプルな看板。
東鶴賀の旧鶴賀新地の跡地の西側の通り。
古い木造建築の民家があります。
まるで、自動車が建物に突っ込んだ状態のまま時間が止まってしまったかのようです。
自動車の中には、ゴミがぎっしりと詰まっています。
旧鶴賀新地の敷地に木造建築の建物があります。
裏の通り(北側)に建物の入口があります。旧新地関係の建物であるかどうかは不明ですが、立派な木造建築の建物です。
入口付近。
東側から見た2階部分。
昭和11年の「長野市中部地図」を見ると、鶴賀新地の場所がはっきりと記されています。
格子状に配置された6つの区画が新地の場所だったようです。
南北に延びる通り。
道幅の広いメインの通りは、権堂町へ向かうあたりから、急に道幅が狭くなります。
今回は、長野(長野県長野市)の町並みと風俗を散歩します。
長野電鉄の権堂駅で下車し、東側へ進むと東鶴賀町に着きます。東鶴賀町は、かつて鶴賀新地があった場所です。
通りに面して、稲荷神社があります。
稲荷神社の敷地内に鶴賀新地の碑があります。
こういう碑があると解りやすいです。
高田には、「高田市街図」*1 を見ると、駅の北側に栄町遊廓の場所が記されています。それによると北本町二丁目の「一本橋」を渡ったところに遊廓がありました。
幅の広い道路で囲まれた一画が、遊廓があった場所です。
現在は、遊廓の面影はありません。
遊廓の北側にあった水路。
【参考文献】
*1 高田市街図(高田新聞社印刷部,1930)
仲町六丁目付近。民家や商店が建ち並びますが、ここでも雁木造りが延々と続きます。
雁木造りの柱に牛乳箱があります。
目立つ位置に取り付けられています。
前と後ろに取り付けられた牛乳箱。
仲町の通り。かつては海産物問屋街だったそうです。
路地に入ると、料亭が何軒か並ぶ一画があります。
黒板塀が美しい、風情のある建物です。
料亭の入口。
今回は、高田(新潟県上越市)の町並みと風俗を散歩します。高田の飲食店は、駅の東側の仲町に集中しています。
雪国らしい雁木(雪よけの屋根)のある飲食店街です。
高田の雁木通りは、16キロにも及び日本一の長さであると言われています。
雁木の下に飲食店が建ち並んでいます。
新地跡のある弓町への分岐点をさらに南に数分歩くと、大きな桜の木があります。このあたりは化粧坂と呼ばれています。
古い井戸があります。
化粧坂とは、いかにも遊女の里らしい名前です。このあたりが昔の岩城街道の入口であり、庚申坂の遊廓がありました。
庚申坂の遊廓の移転の話は、明治20頃から出始め、結局明治29年に新町弓町に移転し、「新地」と呼ばれるようになりました。
三春では、旧名の庚申坂も忘れられず、新地と庚申坂の両方の呼び名が昭和31年の赤線廃止まで続きました。
----岩城街道口の地蔵----
三春城下に通ずる旧街道六ヶ所に一体ずつ合わせて六地蔵が立っている。正徳5年(1715年)建立である。傍らに古くから旅人が湯をいやした大井戸がある。番組町から分かれる岩城街道は、登り坂で、頂上に庚申様を祀る堂があり、庚申坂と呼ばれていた。文政9年(1826年)、小川にかかる石橋の修理の際、温泉同様の水が湧き出し、湯場として繁盛した。明治29年湯場は、弓町に移転し、遊廓庚申坂、または新地と呼ばれ、昔の庚申坂は古庚申坂と呼ばれるようになった。
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.127-P.128
弓町にかつて新地の遊廓だった建物が現存しています。*1
廃屋になっている建物もありますが、昔の面影が残っています。
一番手前の建物の入口付近。
建物は全部で3軒あります。こちらは2軒目の建物。
一番奥にある建物。
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.128
今回は、三春(福島県田村郡)の町並みと風俗を散歩します。
磐越東線三春駅で下車し、約1km行くと三春町の中心部です。
さらにそこから県道門沢三春線を進み、Y字路を右へ進むと、左側に庚申坂と呼ばれる坂の入口があります。
この地には、昔、せり場があり、付近には遊廓もあり、繁盛しました。
庚申坂(新地)への入口。この坂を登ると、遊廓(新地)があった場所に行き着きます。
堂前町の交差点。
斜めに配置された入口のドア。手すりは斜めの2本配置されています。
「いらっしゃいませ」の看板。
昭和初期、大阪府議会が、「遊廓のトイレと消毒所はタイル張りにすること。」と決議したのがきっかけで、全国の遊廓にまたたくまにタイルが普及しました。*1
「日本のタイル」*1 には、昭和6、7年に出入りの業者が施行したとされる、三春町の庚申坂遊廓の「島屋」のトイレ内部のタイル張りの写真が掲載されています。
郡山駅近くの旭町通りに、銭湯の旭湯があります。ビル型の銭湯ですが、少し老朽化しているようです。
郡山には、電話帳に載っている銭湯が2軒あるのですが、この銭湯は電話帳に載っていません。入るのにちょっと勇気がいる銭湯です。
なぜか、入口に「出会いパーティ」の貼紙。
内部は、お世辞にもきれいとは言えない状態で、雑然としています。
がらんとした浴槽。床のタイルは、ところどころ、剥げていいて老朽化が進んでいます。
郡山市の中心部に麓山(はやま)公園があります。この公園は、文政年間(1818~1829年)に、庶民の手で作られたという珍しい生い立ちの公園です。*1
文政年間の郡山は宿場町として栄え、多くの飯盛女たちが遊客を招くほどの振興の町でした。このときの殿様は、二本松藩9代藩主の丹羽長富でしたが、遊び好きだった長富は、この地に別邸を建築する計画を立てました。しかし、子女を寵愛し政務を怠る日々が続いたため、家臣に諌められ、文政8年に別邸建築の話はお流れとなりました。長富は、藩主を隠退しましたが、自力で庭園を建設しようという郡山町民の意気が燃え上がり、庭園建設が実現したのでした。*1
麓山公園の出島になっているところに、二基の句碑が立っています。
これは、文化・文政時代に栄えた佐渡屋という旅籠屋の遊女の「鶴司(つるじ)」と「あやめ」が詠んだ句碑です。*1
鶴司が詠んだ句。
「巳の日にも小松引きせんわが背子と」
側面には、佐渡屋内鶴司と記されています。反対側の側面には、文政九年(1836年)と刻まれています。*1
こちらは、「あやめ」が詠んだ句碑。
「みつくさし瑞沼山のおとこへし」と刻まれています。*1
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.17-P.22
慶長9年(1604年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、そのとき郡山宿が開村しました。*1
本町一丁目2と14の間の通りは、ここだけがわずかに屈曲していて、郡山宿の面影を感じることができます。
「史料で見る女たちの近世」*1 によると、郡山宿の旅籠屋には飯盛女がいて、現在の本町一丁目の野田文具店から井上園茶店にかけての道路上に引手茶屋がありました。
井上園茶店付近。
今でも古い商店が残っています。
【参考文献】
*1 草野喜久:史料で見る女たちの近世(歴史春秋出版,2004)P.242,P.274
今回は、郡山(福島県郡山市)の町並みと風俗を散歩します。JR福島駅は、新幹線が停車する駅だけあって、駅舎は立派です。
ローカル線のプラットフォームへの乗り換え途中の地下道に、白ポストがあります。
正面には、オ-ソドックスな標語。
影に隠れて見えない側面には、三ない運動の標語。
狸小路という名の飲み屋街。
レトロな雰囲気の飲み屋街です。
奥まったところにある公衆トイレ。客引き禁止看板や、立小便禁止看板があります。
逆側から見たところ。
仲間町の路地。古い民家があります。
森永の牛乳箱があります。
箱の側面には「フルーツヨーグルト」。
箱の中央部分の「ホモ」のマーク。
福島の花街は、仲間町にあって、現在は、この付近は、現在は、北裡商店街と呼ばれていますが、かつては北裡花街がありました。
花街らしいアーチがあります。
現在も料亭が数軒あります。
わずかながら花街の面影が残っている路地。
料亭街近くに福島稲荷神社があります。稲荷神社としては、規模が大きい方だと思います。
大きな狛犬があります。
狛犬の台座に「三業組合 福島見番」の文字が見えます。
待合や料亭の屋号が多数刻まれています。
今回は、福島(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
駅の南側に位置する矢剣町には、「一本杉遊廓」がありました。道幅が旧に広くなる一画があります。
道幅の広い道路は、しばらく行くと元の狭い道幅に戻ります。
逆方向から見たことろ。奥に見えるのは、新幹線の福島駅です。
東側には、新幹線の高架が見えます。
柏崎は、1949年に温泉が噴出し、湯の街として発展してました。
スナックやマッサージ店が軒を連ねます。
ピンサロらしき店。
アーチを逆から見たところ。
金刀比羅神社には、妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。明治42年刊行の「柏崎華街志」の「柏崎華街細見記」*1 には、「港楼」、「豊島楼」、「都楼」など、20の妓楼の屋号が掲載されています。
港楼の玉垣。
豊島楼の玉垣。
金刀比羅神社は、2007年(平成19年)7月16日に発生した「新潟県中越沖地震」で被害を受け、翌月の8月9日に玉垣の撤去作業が行われました。*2
撤去された玉垣の跡が残っています。
山積みにされた玉垣。「都楼」と刻まれています。今回の地震で貴重な玉垣が多数失われたようです。
【参考文献】
*1 小田金平:柏崎華街志(1909) 附録P.5-P.6
*2 神道青年全国協議会ホームページ:新潟県中越沖地震対策本部の設置
遊廓跡地の西隣に金刀比羅神社があります。
金刀比羅神社は、遊廓と密接な関係があったようです。神社の敷地に遊廓の歴史を記す碑があります。
境内に大きな社殿はありません。2007年(平成19年)7月の新潟県中越沖地震の影響かもしれません。
神社の境内から、遊廓跡地方面を見たところ。
-----新花町と金刀比羅神社(碑文)-----
柏崎の花街は、明治時代、現在の西本町にありました。西から風が吹く柏崎にとって盛り場が町の西側に位置するのは火種を常に風上に抱えている状態であり、度々大火に見舞われました。付近一帯の貸座敷がすべて消失した1911年の桐油屋火事を契機に県からこの地に貸座敷運営許可を与えられ、四国讃岐の本殿より遷宮された金刀比羅宮を基点に遊廓や料理店などが新たに建設されました。
今回は、柏崎(新潟県柏崎市)の町並みと風俗を散歩します。
新花町には、柏崎遊廓がありました。地図で見ると、四角形に区切られた区画があります。
近くには、柏崎温泉のバスの停留所があります。
通りの幅はかなり広く、中央分離帯は緑地帯になっています。
メインの通りが交差するあたり。
長岡駅の西側に位置する殿町三丁目界隈は、飲食店などが集中する繁華街です。
花の町通りのアーチに、「客引き排除推進のまち」と書かれた垂れ幕があります。
この看板は、繁華街のあちこちにあります。
ある雑居ビルの看板。
長岡の新遊廓跡地に、数軒の旅館が現在も営業中です。
豪華な木造建築の旅館。
向かい側にもう1軒あります。
旅館風の建物のお宅。
今回は、長岡(新潟県長岡市)の町並みと風俗を散歩します。
長岡市文治町(現在の山田3丁目付近)は、かつての長岡遊廓(新遊廓)があった場所です。*1
長岡の遊廓の歴史は古く、元和2年に先手村(現在の千手町)に18軒の茶屋を許可したことに始まります。*2
また、石内町にも遊廓ができ、これを「北廓」と呼び、先手村の遊廓は「南廓」と呼ばれるようになりました。明治40年(1907年)風紀上の問題から「北廓」と「南廓」を文治町に移転し、「長岡新遊廓」と称しました。*2*3
昭和18年の長岡市の市街地図*4 を見ると、文治町のところに「遊」「廓」の2文字が記されていています。長岡花街誌*2 に掲載されている「新遊廓地図」と見比べてみると、現在も当時の区画が残されていることがわかります。
西仲之町、東仲之町と呼ばれた東西の通りと久松小路、助六小路と呼ばれた南北の通りが交差するあたり。遊廓の中心部であったと思われます。
文治町の旧地名は、公民館の名前に残されています。
【参考文献】
*1 南博、他 編:近代庶民生活誌 第13巻(三一書房,1992)P.92「全国遊廓案内」
*2 永田直治郎:長岡花街誌(面白社,1912) 口絵,P.6-P.9
*3 細貝隆司:長岡郷土史(長岡郷土史研究会,1993)P.106-P.117
*4 地図資料編纂会編 :昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)p.98
浜松駅の東側の駅前から八幡橋に至る間は、商業地区です。
比較的新しい「サザンクロス」商店街。
サザンクロス商店街の隣にある「サッポロ街」。
サッポロ街の中に入ります。上部から光が差し込む構造になっています。
昭和の雰囲気が残る空間です。
浜松駅の東側。八幡橋周辺は、商店が並ぶエリアです。
1階にファッションブティックが入っているビル。
2階は、「赤い靴」という店名の風俗店です。
募集看板。40才までの方。
浜松駅の西側の千歳町の一画は大規模な飲食街です。ピンサロと思われる風俗店が多数あります。
派手な看板が人目を引きます。
風俗に栄養ドリンクはかかせません。
女の子からのメッセージ。
駅の中心部に近い旅籠町。二葉遊廓ができる前までは、旅籠町が色町でした。
旅籠町屋台置き場の近くに、ラブホテルの看板があります。
住宅街の中にあります。
風情のあるラブホテルの佇まいです。
入口付近。
今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。
浜松には、かつて二葉遊廓(二葉園)がありましたが、現在は、鴨江町の旅館街にその名残を留めるのみとなっています。
赤線廃止後は、鴨江旅館街として、ステッキガール専門の旅館として営業していました。*1
逆方向から見たところ。メインの通りの中央部分には緑地帯が設けられています。
現在も営業しているビジネス旅館「豊本」は、遊廓時代に、営業していた「豊本楼」*2 の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査 東海道 酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.179-P.181
*2 南博:近代庶民生活誌14(三一書房,1993)P.81「全国遊廓案内」
吉田町の永大橋の近くに銭湯の吉田温泉があります。五角形の形の建物が印象なコンクリート造りの銭湯です。
入口はシンプルです。何ともいえない雰囲気です。
建物の後ろ側。煙突は珍しい四角形の形状です。
内部はガランとしています。余分な設備は何一つなく、円形の浴槽が中央に1つあるだけ。特異な空間です。
沼津駅前の「京極街」は道路の南側の2棟と対峙する北側の棟(写真右側)。計3棟からなる飲み屋街でした。※1
中央に通路がある横丁タイプ。
天井からは光が差し込みようになっています。
スナックや料理屋の看板。
十五番街のゲート※1 東側に、「京極街」と名付けられた飲食建物群があります。道路の南側に2棟(写真手前と奥)、北側に1棟(写真左側の「朱美」の看板のあるところ。)あります。
1階に飲食店、2階は居住スペースです。
東側の建物。
南側の2棟。建物は、ピンク色に近い肌色で統一されています。
沼津駅南口の繁華街の「十五番街」。
「いらっしゃいませ」のゲート。
十五番街の中心部。L字型に折れ曲がる道の角の建物には、スナックなどの店舗の看板が密集しています。
南側にもゲートがあります(写真右下)。
今回は沼津(静岡県沼津市)の町並みと風俗を散歩します。
JR沼津駅北口駅前のリコー通り。
ビルにソープの看板があります。
2階に居酒屋、3階に宴会場が入り、そして、4階にソープランド。5階はダンス&パブ、6~7階はホテル、屋上はビアガーデンになっています。「娯楽の殿堂」とも言えそうなビルです。
4階入口。
小倉駅前の繁華街に、成人映画館があります。向かい側にはビジネスホテルがあります。
名画座Ⅰと名画座Ⅱがあります。
名画座Ⅰは、成人映画館。
名画座Ⅱは薔薇族専門です。
伊藤文學さんは、1971年に男性同性愛専門誌「薔薇族」を創刊し、社会的少数者としての同性愛者の立場を訴え、その後「薔薇族」という言葉は、同性愛者の代名詞として定着しました。
小倉駅周辺には、おとなのおもちゃ屋さんが乱立しています。
駅前のビルの角にあるこちらの店舗はレトロ感が漂っています。
入口の階段。
京町の店。
ピンクの看板が印象的な店。
京町のちょんの間街には、「コンパニオン募集」などの貼紙があちこちに貼られています。今尚、現役である証とも言えそうです。
「アルバイト募集」の貼紙。
郵便ポストにも貼紙。
「新京町料飲協同組合」の貼紙。
京町の飲食街の西側のエリア。
昔のままの建物が残っています。
現在も営業中の店があるようですが、昼間なので、詳細については確認できませんでした。
角にある飲食店。
ソープランド街の南隣にあたる京町に、スナックや小料理屋が密集した一画があります。このあたりに青線があったとの説*1 もあります。
料理屋の看板が残っています。
建物の左側を回り込んだあたり。
「貸部屋あります。」の看板。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005) P.316
新町(現在の錦町2丁目)の路地。
カフェー調の建物の建物が残っています。*1
美しい赤色のタイルです。
植木の緑色との相性も抜群です。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45
門司港駅の東側の新町(現在の錦町2-21の小児科病院の裏手の狭い路地)に、赤線街がありました。*1
入口は、鍵の手のように路地が曲がっています。
古い木造の建物が連なっています。
1階部分は華やかな感じになっています。
裏側の通りから見ると、木造3階建てであることが解ります。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45
JR門司港駅の北側の東本町。金属製のアーチがあります。
このあたりには、馬場遊廓がありました。*1
昭和3年の「門司新市街圖」には、現在の現在の東本町2-4のあたりに「遊廓」と記されています。*2
料理店がはいっている古い建物。
「馬場」と書かれた電柱のプレート。
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002) P.44-P.45
*2 大淵善吉:門司新市街圖(1928)
甲宗八幡神社は、源平合戦の時代から伝わる、由緒ある神社です。
残念ながら、近隣治安状況の悪化のため、裏参道(裏階段)は封鎖されています。
鳥居のある裏参道(裏階段)のすぐ隣にラブホテル「バンビ」があります。ラブホテルの存在が治安状況の悪化に関連しているのかもしれませんが、詳細については不明です。
封鎖された裏階段。
門司で有名なものと言えば関門トンネルですが、その関門トンネルの入口の山腹にラブホテルの大看板があります。
関門トンネルの手前の右を入るとホテルに到着です。
ホテルの全景。アパートのような建物です。
入口付近。
今回は、門司(福岡県北九州市門司区)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島本線始発駅である門司港駅は、駅舎のみならず門司港駅一帯が「レトロ」地区として有名です。
電話ボックスもレトロなデザインですが、その右隣にもう一つレトロなボックスがあります。
レトロ調の白ポストです。
ポストの上にデザインされているのは、国指定重要文化財の「旧・門司三井倶楽部」の建物でしょうか。
芳和荘の内部に入ると眼前に飛び込んでくるのが、この光景です。建物は2階建てで、口の字型になっています。建物の遊廓時代は、「長州楼」と呼ばれていたそうです。
正方形の建物の内側には廊下があって、ぐるりと一周できます。
遊廓建築の特徴と言える中庭。
2階の欄干の板には、文字が彫られています、何と書いてかるかは、宿泊すると、翌朝、芳和荘のご主人が教えてくれます。
築100年近く建つ萩市松本川近くにある芳和荘。元遊廓の建物です。*1
築100年の木造建築です。
歴史を感じさせる看板。
北側からの遠望。
【参考ホームペ^ジ】
*1 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)
今回は、萩(山口県萩市)の町並みと風俗を散歩します。
東萩駅から萩橋を渡って、弘法寺の前を通りすぎると、浮島橋があります。この浮島橋の北側の新堀川沿いに遊廓がありました。
昭和9年発行の「萩市街地図」*1には、遊廓の場所が記されています。現在の浜崎町のあたりです。
遊廓は、「弘法寺」の俗称で呼ばれていました。*2
現在の新堀川沿いは、住宅地となっています。新堀川の東側(写真の右側)に遊廓があり、現在、川沿いにある家は、昔は無く、舟から直接遊廓にあがれたそうです。
遊廓だった場所に、現在も残っている旅館「芳和荘」。*3
萩の町並みを紹介する観光地図「浜崎伝建おたからマップ」が町のあちこちに貼られていますが、「昔の遊廓。中も見れます。」と芳和荘のことが紹介されています。
【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「萩市街地図」
*2 上村行彰編 :日本遊里史(春陽堂,1929)P.582
【参考ホームペ^ジ】
*3 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)
湯田温泉の湯の町通りを北へ進むと、一富士旅館、入舟旅館の看板が見えてきます。
昭和6年の「山口市街図」を見ると、この付近に「遊」、「廓」の2文字が記されています。この付近だけ、道幅が広くなっている箇所があります。
湯の町通りから来た道と比べると、道幅は、かなり広いです。
建物は、古くからこの地にあったと思われる木々に囲まれています。
湯田温泉の湯の町通りと錦川通りが交差するあたり。昔の温泉街の雰囲気を感じる場所です。交差点の近くにくすり屋があります。
くすり屋の隣の部分。
よく見ると、「大人のオモチャ、九州民芸」と書かれています。古典的民芸秘具を販売していたのでしょうか。
この交差点から北へ行くと、昔、遊廓があった場所に行き着きます。
今回は、湯田温泉(山口県山口市)の町並みと風俗を散歩します。 湯田温泉は、交通の便も良く、中国地方屈指の温泉歓楽街です。
湯の町通りと県道204号線が交差するあたり。湯田温泉の中心部です。写真の右手前には、中原中也記念館があります。松田屋ホテルの豪華の建物に圧倒されます。
中也通り。温泉旅館もあります。この道を真っ直ぐ行くと、高田公園に行き当たります。
錦側通り。このあたりが湯田温泉の古い町並みでしょうか。
スナックが建ち並ぶ、温泉街らしい町並みです。
防府駅北側にある天神商店街。江戸時代はお殿様が通った萩往還の道筋です。
防府天満宮の参道沿いに銭湯の錦湯があります。ちょうど、らんかん橋の隣です。
近代的なビル建築ですが、看板に愛嬌があって、何となくあたたかい感じがします。
女湯の入口にある張り紙。
脱衣場は驚異的な狭さです。
防府駅近く、天神一丁目の「新天地」と呼ばれる繁華街があります。
ちょっと寂れた雰囲気のスナック街。
スナック街にある旅館風の建物。
新天地飲食ビル街。空き店舗が多いです。
三田尻には、かつての色町の名残でしょうか、スナックだった古い建物が残っています。
建物は、和風です。
スナック明日香。
売地に残るスナックの看板。
「全国遊廓案内」によると、防府には三田尻遊廓があり、「開地遊廓」とも呼ばれていました。*1
三田尻交番の近くには、スナックが点在していて、かつては、繁華街であったと思われます。
電柱の「開地」のプレート。
三田尻からは、工業地帯の煙突が望めます。
風情のある町並みが残っています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137
今回は、防府(山口県防府市)の町並みと風俗を散歩します。
JR防府駅からバスに乗り、バス停「堀口通」で下車します。
「全国遊廓案内」によると、駅から乗り合い自動車で「堀口」で下車して直ぐの場所に、三田尻町遊廓がありました。*1
堀口通の商店街。この付近は、萩往還の終着点にあたり、江戸時代は商業地区でした。
堀口の東隣の三田尻本町の精肉店。
精肉店脇の路地。奥に見える石垣は、萩往還の終着点に築かれたお茶屋の「英雲荘」です。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137
新小岩駅近くの繁華街には、新旧の風俗店が散在しています。
人妻性感コース。
マッサージ店の看板。
「女性様入口」と書かれた貼り紙。
新小岩のルミエール商店街のアーケードの支柱は、ご覧の通り根元がさびついています。犬の小便は鉄をも溶かす威力です。
ドラッグストアの支柱。
立小便の名所?。
「ニャンとも...」ネコ語で書かれた微笑ましい張り紙です。
JR新小岩駅の北口は、南側のトータリーと比べ、ちょっと寂れた雰囲気です。
一見何の変哲も無い本屋さんです。
店の裏へ回ると、赤く目立たせた裏口があります。アダルトビデオ専用の裏口です。
建物の側面には、個室ビデオの看板があります。
松島三丁目の三叉路から新小岩公園方面へ行く道の途中に、「青葉旅館」の大きな看板があります。
ずいぶん質素な店構えの旅館です。
入口だと思っていたのは、裏口でした。
表へ回ってみると、風情のあるビジネス旅館でした。
松島の赤線跡地の奥まったあたり。以前は、未舗装の砂利道でしたが、古い建物が取り壊されたため、駐車場となりました。
以前は通り抜けできたのですが、駐車場のフェンスでさえぎられています。
現在も営業中のスナック。緑色の塗装が印象的です。
反対側から見たところ。「赤線跡を歩く」に掲載されていた「玉屋」の建物は、新しいビルに建て変わっていました。写真の左手前にあった串あげ小料理「佐竹」の建物も無くなっていました。
アーケードをぬけた三叉路付近に、赤線時代の建物が今も残っています。
4軒の店が入っている長屋の建物。*1*2
「赤線跡を歩く」*3 に写っている同じ建物の写真を見ると、一番左の店は、「柳鮨」となっていますが、今は、別の店に変わっています。
「赤線跡を歩く」に掲載されていた「柳鮨」の隣の建物は、無くなっていました。
三叉路付近。
口絵に「丸健」の建物。写真には、左から「YANAGIYA」、「カフエーやよ…
P.13
「柳すし」(YANAGIYA)、「やよい飲屋」(カフエーやよい)の…
P.118
昭和40年頃までは建物が残っていた。(写真:2軒の妓楼はこのあたりに…
今回は、新小岩(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
JR新小岩駅南口から延びる「ルミエール商店街」のアーケードが無くなるあたりに、「丸健」と呼ばれていカフェー街がありました。現在もかすかにその面影を残す路地があります。*1
路地の奥まったあたりにある「かつこ」という名の小料理屋。
路地を逆方向から見たところ。
この路地の裏側には、「山喜」という屋号の料亭風の建物がありましたが*1、残念ながら、取り壊されて駐車場となっていました。
【散歩地図】
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.28-P.29
JR西川口駅の南東方向に、銭湯の富士乃湯があります。
建物の脇へまわってみると、風呂釜が見えました。
粋なデザインの暖簾。
中には、庭園があります。
西川口は、立ち呑み屋さんの多い町です。
立ち呑み屋でも、実際は椅子がある店が多いのですが、西川口の立ち呑み屋さんは、椅子がありません。
駅の西口の五番街の入口にある店。この店は、いつも繁盛しています。
同じ屋号の店が東口にもあります。
ビールとやきとりを注文。
川口商工会議所 街づくり推進課は、仲町中学校と協力し、違法風俗店が出て行って空き家となったビルのシャッターに絵を描いています。*1
庭をテーマとして、梅、月下美人、コスモスなどの絵がシャッターに描かれています。*1
以前は違法風俗店が建ち並んでいたメインの通り。
寂れた街も、花の絵によって徐々に明るさを取り戻そうとしています。
シャッター全面に花の絵が描かれています。
【参考テレビ番組】
*1 NHK総合テレビ ローカルニュース(2008.3.10 20:55)
かつては風俗店が乱立していた西川口ですが、ここ数年の取り締まりの結果、多くの風俗店が撤退を余儀なくされたようです。
町のあちこちには、風俗店が入居していたと思われる空き家のビルが目立ちます。
町全体が寂れてしまったような感じさえあります。
風俗街の中心部にあるビル。
四つ角に立つビル。
西川口の駅から見える風俗ビル。
今回は、西川口(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。
駅前に客待ち禁止区域を説明した看板があります。
なぜか、風俗店の名刺が看板の左下に挟まってます。
ビルの前で見かけた看板。
保土ヶ谷遊廓は、保土ヶ谷橋からすぐの所にあり、貸座敷が7軒あり、娼妓は50人ほどいました。遊廓は、宿場町の時代が残した飯盛女の化身とも言えるものです。*1
保土ヶ谷橋は、現在もあります。
昭和6年の「大日本職業別明細図 保土ヶ谷区」に保土ヶ谷遊廓の位置が記されていますが、それによると遊廓は、保土ヶ谷橋近くの今井川が直角に曲がるあたりの南側にあったようです。遊廓は、西側(八幡神社側)から、「松美楼」、「大松楼」、「松芳楼」、「第一万金楼」、「第二万金楼」、「東家」と並んでいました。
八幡橋から見た今井川。
南側の台地からの眺め。
【参考文献】
*1 南博,林喜代弘編:近代庶民生活誌 第14巻 色街・遊廊2(三一書房,1993)p.35
今回は、保土ヶ谷(神奈川県)の町並みと風俗を散歩します。JR保土ヶ谷駅近くの国道1号線(旧東海道)沿いには、保土ヶ谷宿がありました。
天保(1830年~1843年)末の頃、保土ヶ谷宿には本陣1軒、脇本陣3軒、旅旅籠屋69軒があり、本陣は飯盛女は置いていないが、脇本陣2軒と旅旅籠49軒が飯盛女を置いていました。*1
道路沿いに旧保土ヶ谷宿の様子を説明するプレート(写真、左側)があります。
プレートに描かれている「津の国屋」、「新金子屋」、「沢潟屋」、「つたや」は、飯盛旅籠屋でした。*1
当時の建物が保存されている「金子屋」。「金子屋」は平旅籠でしたが、その隣には、飯盛旅籠屋の「石川屋」、「新玉屋」がありました。*1
現在、ビルが建っているあたりには、飯盛旅籠屋の「村田屋」がありました。*1
【参考文献】
*1 斎藤富一:東海道保土ケ谷宿の飯盛女(近代文芸社,1994)P.37,P.50-P.51
西柳ヶ瀬の表通りには、風俗店や飲食店が入居する雑居ビルが建ち並びます。風俗街のほぼ中央の四つ角にある柳五ビルは、中国エステやスナックなどが入っています。
柳五ビルの2階に、銭湯の柳ヶ瀬浴場があります。
階段を登ると銭湯の入口です。
ビル銭湯でありながら、ロッカーの番号が旧漢字で書かれているなど、内部はレトロ感にあふれています。
西柳ヶ瀬は、風俗店が多いためか、客引禁止の看板があります。
ビルが独自に設置している看板もあります。
「何人も...」という変わった言い回しの看板。
夜になると、客引きの人たちが近寄ってきます。看板の効果はあまり無いようです。
西柳ヶ瀬の西側に、「まさご座ヌード劇場」のアーチがあります。まるで商店街の入口のようです。
アーチをくぐると、まさご座の看板のあるビルが見えます。
ストリップ劇場のまさご座です。建物の側面にローマ字で「MASAGOZA」と書かれています。
入口付近。
今回は、柳ヶ瀬(岐阜県岐阜市)の町並みと風俗を散歩します。
岐阜の繁華街と言えば柳ヶ瀬です。 柳ヶ瀬は、美川憲一の柳ヶ瀬ブルースで、全国的に有名になりました。
明治22年刊行の」「岐阜市街新全図」には、金津遊廓の場所が記されています。それによると、金津遊廓は、柳ケ瀬の西側にありました。
現在は、風俗店などが建ち並ぶ商店街として繁栄しています。
この場所には、柳ヶ瀬トルコがありました。
昭和13年刊行の「大岐阜市全図」を見ると、金津遊廓があった場所は、この頃には大門通りと呼ばれていたことがわかります。
大門通りの名残の電柱番号札。
川崎大師駅近くの食品スーパーのある通り。
銭湯の寿恵弘湯があります。
開店前の入口のシャターには、こんな絵が描かれていました。
魚と蛸が描かれたガラス絵。
エリザベス会館の人たちは、かなまら祭りでは人気者です。撮影をせがまれ、それに応じています。
女装している人たちは、何の違和感もなく、かなまら祭に溶け込んでいます。
神輿が戻ってくると、地べた祭りが始まります。エリザベス会館の人たちが中心となって、地べたに座って酒盛りをするという企画です。
地べた祭は、この光景は奇妙なタイムスリップのような感覚を覚えます。かなまら祭の起源は、川崎の娼婦たちが神社の男根を持ち出し、境内で宴会を開いたのがはじまりとされます。祭りの主役が娼婦から女装愛好家に代わり、今、ここで繰り返されているわけです。*1
【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29
今回は、川崎大師の町並みと風俗を散歩します。
毎年、4月の第1週の日曜日にかなまら祭が行なわれます。
まずは、紀伊國屋神輿。かなり大型です。
続いてエリザベス神輿。こちらはずいぶんと小振りです。担ぎ手はエリザベス会館*1 の皆さんたちです。
最後にかなまら神輿。神輿を左右に大きく揺さぶるパフォーマンスは見ごたえがあります。
亀戸駅北口を線路沿いに西へ行きます。閑静な住宅街です。
東武亀戸線、JR総武線の電車からも見えるこの場所に、女装者たちが集まるクラブ「エリザベス会館」がありました。*1
エリザベス会館は、エリザベス神輿*2 を寄贈したことでも有名です。
現在は、マンションに建て変わっています。
亀戸の商店街や駅ビルの「エルナード」の人たちは、エリザベス(女装愛好者)のよき理解者でした。たとえば、エリザベスのイベントで寿司大会を催すときに、寿司飯だけ売ってくれるお寿司屋さんやエリザベス割引ということで10%オフしてくれるクリーニング屋さんなどがありました。*1
駅ビルの「エルナード」は、現在は「アトレ亀戸」に代わっています。
【参考文献】
*1 内田かおる:別冊宝島 ウラ東京観光(宝島社,1998)P.66-P.71「亀戸に集まる女装者たち」
*2 風俗散歩(川崎大師):かなまら祭(2007.4)
天祖神社周辺の路地には、たて看板が乱立しています。
痴漢・変質者注意の看板。
この界隈には、変態者が出没するようです。
いろいろな看板があります。
天神裏の西寄りの通り。閑静な住宅街です。
工場か倉庫のような建物。
何気なくのぞいた倉庫の中にタイル張りの円柱が残っています。トタン板でカバーされています。12
上部は白のタイルです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.26-P.27
*2 上村敏彦:花街・色街・艶な街 色街編(街とくらし社,2008)P.102
亀戸天神裏の通り。かつての亀戸花街のメインの通りです。
この付近で残る料亭の建物の中では、最も規模が大きいものです。
北側と東側は、高い塀で囲まれています。
整備された庭。
亀戸天神の裏手は、かつて私娼宿があったとされる目抜き通りです。
手書きの「遊園地」
当時の面影はありませんが、この付近の電柱のプレートには、「遊園地」と書かれています。亀戸遊園地*1 の名残と思われます。
「遊園」。
亀戸天神の裏手に天祖神社があります。
「城東三業組合」の玉垣があります。
亀戸には、私娼宿の組合である「亀戸遊園地組合」がありました。組合の規約として1軒に2人以上の私娼を置かないというのが原則でした。*1
「亀戸遊園地」の玉垣が2本、「亀戸遊園地 総代 吉田金兵衛」の玉垣が1本、全部で3本あります。
「楽天地」、「新天地」という名前はよく聞きますが、「遊園地」というのは初めて耳にする呼び名です。もちろん、この「遊園地」は大人向けの遊園地です。
亀戸3丁目 女性の名前の玉垣。
【参考文献】
*1 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181
亀戸駅の北側に亀戸七福神の一つである香取神社があります。桜が満開です。
東側の鳥居の柱に「昭和三年十一月 亀戸三業組合」と刻まれています。
亀戸が花街として発展したのは、寛政年間で、水野越前守の大改革により、深川から亀戸に逃げ延びた芸者たちにより形成されたのが始まりで、その後、亀戸天満宮(亀戸天神)に参詣する人たちを相手にするようになり、急激に発展しました。*1
東側の玉垣にも「亀戸三業組合」があります。
「天神裏有志者」の玉垣。亀戸には、明治43年頃から既に私娼宿が出来ていて、大正8、9年頃が全盛で、私娼は1,000人位いたと推測されています。*2
玉垣の「天神裏有志者」とは、私娼宿の有志かもしれません。
【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930) 「亀戸花街の沿革」
*2 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181
今回は、亀戸(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
天神裏の旧赤線区域にある銭湯。
天神湯。
入口には、「ゆ」と書かれた暖簾。
古びた煙突。「サウナ」と書かれているのですが、ほとんど読み取れません。
大門通りを南に進むとロータリーのある交差点があります。
東側の角にある立ち飲み屋の建物。
北側の角には、古い建物が残っています。
赤線跡を歩く2*1 によると、南側の角には、妓楼らしき建物がありましたが、現在はマンションに建て変わっています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社, 2002)p.34-P.35
大門通りと川端通りを結ぶ路地に妓楼だったと思われる建物があります。*1
奥行きのある大きな建物です。
2階と3階部分。
現在は、アパートとして使用されています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社, 2002)p.34-P.35
今回は、新柳町(福岡県福岡市中央区)の町並みと風俗を散歩します。
もともと遊廓の柳町は現在の石堂川の河口付近にありましたが、九州帝国大学の誘致のために、明治42年(1910年)に風紀上隔離する目的で住吉町に移転させることが市議会で決議され、新柳町と名付けられました。*1
新柳町があった場所は、那珂川の西側、現在の清川1丁目付近です。
終戦後は、往年の新柳町の繁栄を取り戻すべく「おいらん道中」が企画されるなどして、未曾有の人出を生み出したこともありましが、昭和34年の売春防止法施行以後は、火の消えたような寂れ方となりました。*1
那珂川沿いの川端通りに、花街の面影を残す料亭の「三光園」があります。
高い塀が延々と続きます。
入口付近。
【参考文献】
*1 田中美帆:福岡地方史研究(2005.7)p.58-P.59
京成電鉄小岩駅の近くに、銭湯の地蔵湯があります。
銭湯の建物の裏口付近。2階に汲み取り式トイレがある構造です。
銭湯の入口。
脱衣場と風呂場の間の窓ガラスに女性の絵が描かれています。
南小岩8丁目の住宅街。この付近には、数多くの犬糞看板を見かけます。
手書きの貼り紙もあります。
いろいろなタイプの貼り紙があります。
「東京都新生活運動拠点地区」作成のホーロー看板。
JR小岩駅南口からのびるフラワーロードを行くと国道14号線に出ます。右折して進むと二枚橋の交差点に出ます。
二枚橋の東側に郵政公社の宿舎がありますが、ここは、終戦直後に進駐軍相手の慰安所「東京パレス」が作られた場所です。
「東京パレス」の仕組みは次の通りです。まず、五十円の入場料を払って中へ入るとダンスホールがあります。ここでチケットを買うと、専属バンドのジャズ演奏をバックに女性と踊ることができます。夜9時になってダンスホールが終わると、2階の喫茶店街へ移動し、そこには、女性の部屋もありました。*1
アメリカ人記者が、占領下の日本の様子を書いた「ニッポン日記」*2 によると、ダンスホールの女性は、西洋のガウンを着て、下には何も着ていなかったとそうです。
宿舎の敷地の裏側(北側)には、親水緑道があって閑静な住宅街となっています。
【参考文献】
*1 人情講談(睦書房,1952.8)P.163
*2 マーク・ゲイン:ニッポン日記 上(筑摩書房,1951)P.186
今回は、小岩(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
JR小岩駅南口を出てすぐ左手に地蔵通りの入口があります。
日本語、中国語、英語で書かれた客引き禁止看板。地蔵通りにはこの看板が10ヶ所近くに設置されています。
狭い道幅の路地に飲食店や風俗店が建ち並ぶ繁華街です。路地はゆるやかに曲線を描いていて、この写真のようなY字路もあります。
古い商店の建物と客引き禁止看板。
散歩雑誌等で紹介されている牛乳店と貸本屋の建物。
雪印牛乳の看板はほとんど判読できない状況です。
谷中の現役の牛乳店。
ホモちゃんマークに出会うことができました。
根津神社の近くに銭湯の山の湯があります。
根津生まれの荒川センさんの話によると、山の湯近くに昔共同便所があり、子供のころ順番を待っていたら、中から梅毒で鼻の欠けた、顔立ちの異様にくずれた元お女郎さんの老婆が出てきて、腰を抜かしたそうです。山の湯の近辺には、遊廓で働いていた人のたまり場のようなものがありました。*1
山の湯は、根津神社へ行く道の途中にあります。
瓦屋根のある佇まい。
歴史を感じさせる銭湯です。
【参考文献】
*1 森まゆみ:不思議の町根津(筑摩書房,1997)P.220