市川市の国分2丁目。県道の西側に石乃湯への入口があります。

めずらしい形状の煙突。

入口。

石乃湯は、2023年10月公開の映画「アンダーカレント」のロケに使用されました。*1

市川市の国分2丁目。県道の西側に石乃湯への入口があります。

めずらしい形状の煙突。

入口。

石乃湯は、2023年10月公開の映画「アンダーカレント」のロケに使用されました。*1

2023年10月 市川(田中屋)伝統的日本家屋。古くからのそば屋。
市川手児奈通りの真間川近くの交差点にある寿し「林屋」。創業明治7年の老舗です。

建物は、赤色に塗られています。

奥には、座敷もあります。

ちらし寿しとビールを注文。箸袋に書いてある「鮨会館林屋」が正式店名のようです。

今回は、市川(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR市川駅の北側にある八幡神社。周囲は玉垣に囲まれています。

「市川睦会」と刻まれた玉垣。
昭和36(1961)年の住宅地図*1 に、睦会マーケットの見取り図が掲載されています。現在のダイエーがあるあたりで、睦会の事務所は、駅前寄りの場所にありました。
永井荷風は、ここに越して間もない昭和21年からしばしば食料品(わかさぎの佃煮・衣かつぎ・てんぷら・鰻蒲焼など)を買いにマーケットに出掛けました。*2

「市川二業組合」と刻まれた玉垣。
現在の真間2丁目11の手児奈通りに面したところにありました。*3

「白藤」。風化して読み取れませんが、店の前に建っている石柱※1 と同じ「関西料理白藤」と書かれていると思われます。

何でもそろい何でも安いマーケットサービス本位の睦会
駅前に睦会の事務所…
市川
荷風が市川に越してきた昭和21年頃は、現在のJRは省線と呼ばれ、市川…
13図
・市川二業組合
西三町にあるかつ丼と鰻の店「釜平」。

暖簾には、かつ丼、うなぎと書かれていますが、実はソースかつ丼の名店です。

ソースかつ丼(大盛)とビールを注文。

丼に山盛りのご飯とかつは、ものすごいボリュームでした。

板谷坂から、北側へ入ったところに、旅館の建物が残っています。

割烹旅館「若柳」。
「若柳」は、大正11年元日の「いはらき新聞」の広告欄に「大田町割烹店組合」として紹介されています。*1

建物は、崖の途中に建てられています。

東側から見ると、「若柳」の建物が急峻な地形の上に建っていることがわかります。

P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…
板谷坂※1 の北側の崖に建つ建物。

地上部分は2階建て。

南側は切れ落ちているので、高度を感じます。

坂の下から見上げると、3階建て以上の高度を感じます。

常陸太田市中心部は、「鯨ケ岡」と呼ばれる台地の上に成り立っているため、台地に登り降りする道はいずれも急傾斜です。*1
板谷坂は、常陸太田の代表的な坂道です。

ここからの眺めはすばらしく、眉美千石とも言われていました。「番屋」と書かれた古文書もあることから、佐竹時代は、東方から街へ入るときの見付として役割もあったと考えられています(石柱の説明文より)。

かなりの急傾斜で下っています。

東側から見た板谷坂。

今回は、常陸太田(茨城県常陸太田市)の町並みを散歩します。
常陸太田市中心部は、台地(高低差は30m以上)の上に位置し、台地の姿が鯨の形に似ていることから、台地は「鯨ケ岡」と呼ばれおり、台地上に位置する商店街は、古くからの中心商店街です。*1

「鯨ヶ丘ふれあい広場」の先にある東三町の商店街は、現在は「東通り商店街」と呼ばれています。
東三町は西三町とともに歓楽街を形成していました。*1

大正末期から昭和初期にかけての太田町は、商業隆盛と相まって花街も繁盛しました。大正11年元日のいばらき新聞の広告欄の「大田町割烹店組合」には、「釜萬楼」「万泉」「万梅」「二ツ木」「一寸亭」「若富十」「若柳」「朝日座」の名が紹介されていています。*2
元「釜萬楼」と思われる「釜萬」は東三町の板谷坂(ばんやさか)との交差点の角にありました*3

「釜萬」の隣には、「一寸亭」と芸妓置屋の「大黒屋」がありました。*4

P.3
常陸太田市中心部は、久慈川の沖積低地に阿武隈山地の南端部から細長く…
P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…
交差点の角に「釜萬」、少し入ったところに「割烹旅館若柳」
P.88
東三丁目表通りの家並
里見公園駐車場。里見公園のお花見広場※1 の東側に位置します(写真奥は江戸川)。

駐車場の東側は、里見公園の崖が迫っています。
駐車場があったあたりには、1976(昭和51)年まで、料理旅館「鴻月」が営業していました。*1*2

鴻月は当初、里見八景園の一事業でしたが、閉園・終戦後も営業を続けていました。*1

遊覧客の多くは、鴻月が経営していた渡し舟を使ってやって来たため、鴻月では桟橋をのばして客を迎え入れました。また、渡しの他にも遊船事業を行っており、鴻月は、遊覧船も数隻所有していました。*1

■遊園地事業
現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけ…
現在、里見公園となっている場所には、大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地(当時の遊園地は庭園や池泉、演芸場、茶店、動物小屋、見世物小屋等を主とする娯楽施設)がありました。*1
当時の遊覧客は、里見八景園や江戸川土手等を散策し、は、足休めに国府台三業へ立ち寄ることが多く、花柳界は年中不断に繁昌しました。*2

「里見八景園」だった頃の名残でしょうか。園内には、庭園のような景観が残されています。

お花見広場(花器使用可能区域)。
「里見八景園」は、創業と同時に千本の桜を植樹し、春には花見客で大変賑わったそうです。*1

里見公園の南側の塀に掲示された絵図(玉蘭斉貞秀「利根川人東岸一覧」、明治元年)。国府台の崖の部分(写真左側)は、かなり誇張された表現になっています。

■遊園地事業
現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけ…