新地西町には、古い建物がいくつか残っています。中でも交差点の角にあってひときわ目を引くのが「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されているこちらのお宅です。
入口付近。カフェー調の装飾が残っています。
「下関観光社交組合員証」のプレートが残っています。
水色のタイル。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.49
新地西町には、古い建物がいくつか残っています。中でも交差点の角にあってひときわ目を引くのが「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されているこちらのお宅です。
入口付近。カフェー調の装飾が残っています。
「下関観光社交組合員証」のプレートが残っています。
水色のタイル。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.49
下関駅から国道191号線が北へ向かった新地西町交差点の近くに古い旅館の建物が連なっています。
中央の建物は、ピンク色のタイルで覆われています。
タイルの競演です。*1
モダンな木製の窓枠。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.48
明治時代、下関には、稲荷町、裏町(2ヶ所)、豊前田、竹崎、今浦、新地の計6ヶ所に遊廓があり、町のほとんどを花街が占めていたと言われるほど、下関は「女郎立国」で、高杉普作ら当時の豪傑先生たちも女郎相手に逸情を弄んだとされます。*1
没落した平家一門の女官たちが色を売って生活を支えたのが遊廓の起こりであるため、それだけに由緒もありました。*1 遊女は年中素足でいるのが一般的でしたが、下関の遊女は格式が高く、足袋をはいていました*2
赤間町の「東京第一ホテル下関」の近くの道路沿いに末廣稲荷神社の鳥居があります。
稲荷町には、この末廣稲荷神社だけが当時を伝えるものとして残されています。
稲荷神社にある案内板。「稲荷町は、日本の廓の発祥の地とも言われております。」と紹介されています。
先帝祭の賑わいから比べると、非常に寂しい感じのする稲荷神社です。
【参考文献】
*1 沢忠宏:先帝祭を支えた「関の廓」盛衰史(沢忠宏,1985)P.26
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.46
今回は、下関(山口県下関市)の町並みと風俗を散歩します。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦(関門海峡)で平家は源義経を総大将とする源氏に破れ、わずか8歳だった案徳天皇も入水され、平家は滅亡しました。
下関は、遊女発生の地と言われています。壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが、自らの生活のために春をひさぐようになったという伝承です。それでも女官たちは、毎年の案徳天皇の命日には帝の御影堂(みえいどう)に参拝しました。*1
江戸時代になって稲荷町に遊廓ができると、廓の主人がこの伝承を後世まで伝えようとお抱えの遊女たちに参拝を続けさせました。これが先帝祭として現在に伝えられています。*2
先帝祭は、毎年5月3日に赤間神宮で行われます。大入り満員の状況で、警察官立会いにより入場制限が行われるほどでした。
先帝祭は、豪華絢爛な衣装をまとった5人の太夫が市中をパレードし、案徳天皇を祭っている赤間神宮を参拝するもので、神宮内の水天門から本殿へかけられた天橋を渡って参拝する「上臈参拝」でクライマックスを向かえます。*2
「上臈参拝」で外八文字を披露する3番太夫。顔の向きはそのまま、胸を反るようにして片手をさっと突き出して肩を引き、前に進んでいきます。観客から拍手が沸き起こります。
【参考文献】
*1 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.47
*2 しものせき海峡まつり実行委員会:「第22回しものせき海峡まつり」パンフレット
糸川べりを下っていくと、やがて太平洋に出ます。糸川沿いにソープランドが2軒並んでいます。蔦が生い茂り、時代を感じさせる建物です。
海沿いの道路は南国のような雰囲気ですが、その道路に面して「SoapLand」の看板があります。
近くに商店会の看板があります。飲食店や商店店の店名に共にソープランドの店名があります。
看板にかすかに残る「トルコ」の文字。
糸川沿いを河口近くまで歩いていきます。このあたりまで来ると、傾斜はほとんどありません。
交差点の角に小さなスナックがあります。
タイルで装飾された円柱があります。ピンク色に塗られています。
側面の壁にもタイルの装飾があります。
糸川から西側に路地を一歩入り込んだところに、度肝を抜くデザインの建物があります。
浮き出た屋号の「千笑」の文字が強烈な印象を与えています。
側面にもあります。
入口には、タイルの装飾があります。
熱海市街を糸川が流れます。
糸川べりの私娼街は、「寝てたべる」というので「牛」とよばれていました。その後、糸川べりにそば屋が多かったことから、「牛」は「ざるそば」という隠語で呼ばれるようになりました。「ちょっとそばを食べにいこう」というのが、女を買いに行くという意味となっていました。*1
現在の糸川べりは、八重桜が植えられ、草花が咲く遊歩道となっています。
娼家は、表向き2階建て、実は3階建てというものが多かったそうです。つまり、屋根裏部屋にあたる隠し3階が存在していました。また、階段も2ヶ所あり、いざというときに逃げ出しやすくなっていました。*2
【参考文献】
*1 熱海市史編纂委員会:熱海市史(熱海市.1968)P.248-P.249
*2 熱海市職員組合連合会:道標62号(1984.7)P.3
今回は、熱海(静岡県熱海市)の町並みと風俗を散歩します。
熱海は、全国でも屈指の芸者街です。現在熱海には、250名余りの芸者が活躍していて、これは全国の芸者の約1割に相当します。*1
熱海市中央町に熱海芸妓組合歌舞練場があります。
毎年4月28日と29日の2日間、歌舞練場で「熱海をどり」が開催されます。「熱海をどり」は、熱海芸妓衆による芸能公演で、日本古来の伝統芸能が華やかに披露されます。*1
歌舞練場の前には、芸者さんたちの名前が書かれたのぼりが並んでいます。
最初の演目は、長唄の「羽根のかむろ」。吉原のかむろ(花魁の小間使いをする10才前後の少女)が正月に羽つきに興じるというものです。*2
【参考文献】
*1 熱海芸妓組合:華園(「熱海をどり」パンフレット)P.7,P.21
*2 熱海芸妓組合:「第18回熱海をどり」プログラムP.14
中華街の中に、パーマ屋があります。「大勝パーマ」と書かれた大看板がひときわ異彩を放っています。隣に真新しい建物があるので、余計に目立ちます。
2階のデザインもすばらしいです。「キング・オブ・パーマ屋」と呼んでもいいぐらいです。
建物の右側に路地が続いています。奥深い場所に物干し台のようなものが見えます。
建物の側面にある入口。ひし形の窓がついた木製ドア。
横浜中華街を散歩します。中華街の東側に位置する南門シルクロードに古い建物があります。
レトロな感じの旅館です。
「旅館オリエンタル」。
斜めに付いている取っ手が昭和の時代を感じさせます。営業中の札がかかっていますので、今でも現役のようです。泊まってみたい旅館です。
横浜公園の日本庭園の入口近くに「岩亀石灯籠」があります。
案内板によると、「岩亀石灯籠」は、妙音寺(港区三春台)から、横浜市に寄贈されたもので、岩亀楼にちなむ石灯籠です。
岩亀楼は、港崎遊廓において中心的存在で、外国人遊廓がこの岩亀楼を中心にして元締めのような形で運営されていきました。外国人が娼妓を妾にするときは、岩亀楼の許可をとらなければなりませんでした。*1
石灯籠に「岩亀楼」の文字が刻まれています。
港崎遊廓の岩亀楼は、純日本様式に西洋様式を加味したもので、二層楼は異人館と和人館に区別され、廓内第一楼としての建築の美しさを誇りました。*2
【参考文献】
*1 川元祥:開港慰安婦と被差別部落(三一書房,1997)P.91
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)P.516
今回は、関内(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
関内駅前には、日本のプロ野球の横浜ベイスターズが本拠地として使用している横浜スタジアムがあります。スタジアムは、横浜公園の敷地内にあります。
横浜公園は、公園内に碑によると、明治9年(1876年)に設置された日本最古の公園です。
横浜公園ができる前、この場所には港崎(みよざき)遊廓がありました。
1858年(安政5年)、徳川幕府とアメリカとの間で日米修好通商条約が結ばれましたが、そのときアメリカから総領事として派遣されたタウンゼント・ハリスは、アメリカ軍兵士の慰安のため、徳川幕府に遊廓の建設を希望しました。幕府はこれを受け、駒形屋遊廓を建設し、これが後の港崎遊廓の前身となりました。港崎遊廓は壮大な規模で、現在の横浜スタジアムの敷地全体がほとんどすっぽり遊廓でした。*1
遊廓の正面は、横浜スタジアムの外野の外にあり、そこから東北方向に1キロも行かないところに横浜港があり、横浜港に立つと真正面に港崎遊廓が見えました。*1
写真は、日本大通りから横浜スタジアム方面を見たところです。
幕末の開港当時、日本大通りの南東側(写真左側)に外国人が暮らすための居留地設けられ、北西側(写真右側)が日本人居住地でした。*2
【参考文献】
*1 川元祥:開港慰安婦と被差別部落(三一書房,1997)P.65,P.83,P.95
*2 横浜開港資料館:横浜・歴史の街かど(神奈川新聞社,2002)P.18-P.19
錦糸町のラブホテル街周辺のビルの狭間に木造の建物が残されている場所があります。
木の香りが漂う路地です。ラブホテルの看板もあります。
軒下に牛乳箱が残っていました。
興真牛乳の牛乳箱です。赤い星印が強烈です。
駅前の大通り。証券会社のビルなどが建ち並ぶ中に、「旅館」の看板があります。
路地を入るとスナック街があります。
1軒だけ旅館があります。こういう場所に旅館があるのは、めずらしいと思います。
入口付近。
錦糸町は、フィリピン、ロシア、ルーマニアなどの外国人パブが多いのが特徴です。
外国人バプが軒を連ねる通りに、自動販売機があります。
国際テレホンカードの自動販売機です。「外国人パブで働く女性へのプレゼント」というフレコミのようです。
「フィリピンへの国際電話は、プリペイドカードがお得」だそうです。
錦糸町は、競馬の町です。場外馬券売場WINSがあり、中央競馬のある日は近くの道路は歩行者天国になります。
歩行者天国の歩道は、お酒を飲む人たちで、活気にあふれています。
路地にも立ち飲み屋があります。
「競馬中継」の看板のある立ち飲み屋。
今回は、錦糸町(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。
JR錦糸町駅南口にある商店街の入口のアーチ。客引き禁止の垂れ幕があります。
風俗店が入るビルの1階。客引き禁止の張り紙があります。外国語の貼り紙もあります。
駅前の公衆電話ボックス。最近、ピンクビラは見かけなくなりましたが、錦糸町では復活の兆しです。
駅前にある町会の掲示板。テレクラのビラが貼ってありました(写真右下)。
明治、大正年間、土浦の花街は、田町(現在の城北町)、鷹匠町(現在の中央二丁目)、中城町、三好町(現在の桜町一丁目)などに、散在していて、いわゆる売笑婦を抱えて客を寄せていました。*1
田町は、現在の城北町にあり、中城と並ぶ盛んな町でした。
お茶屋は、「丸新」、「恵比寿屋」、「葭川」、「蛇の目」、「朝日屋」、などがありました。現在も建物が残る宮内畳店の向い側には、「福田楼」がありました。*2
近くに、「築地川遊歩道」があります。この遊歩道は、昔、流れていた築地川の跡地を利用したものです。遊歩道の入口に、観光用の散歩コースを説明した歩道のタイルが立てかけてありました。(写真の左下)。この説明によると、このあたりでは、昭和30年頃まで藍染が盛んに行われ、藍で染めた布地を川にさらす風景を見ることができたそうです。
このあたりは、昭和30年」ごろまで藍染めが盛んにおこなわれ、ここを流れていた田町川では藍で染めた布地をさらす風景を見ることができました(案内板より)。
大正14年、風紀上の対策として、散在していた料亭、芸妓置屋は、新たに造成した埋立地に集団移転することになりました。埋立地は広かったため、新しい町名と区割りが必要になり、栄町、敷島町、朝日町、匂町、小桜町が生まれました。これらの新町名は、本居宣長の和歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな」から採用されと言われています。こうして、桜川べりの埋立地に新町が誕生し、その中に三業指定地区が設けられました。*1
【参考文献】
*1 本堂清:土浦町内ものがたり(常陽新聞社,1989)P.500-P.504
*2 佐賀進,佐賀純一:土浦の里(筑波書林,1981)P.184-P.185
ソープランドの裏手に、今は休業していると思われる古びたスナックがあります。
「赤線跡を歩く」*1 にも掲載されていた「BARすずらん」。
シンプルなデザインのドア。
「カフエー」のプレートが残っています。
【参考文献】
木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.168-P.169
風俗店が乱立する風俗街の中に古びたスナック街があります。
同じ通りをもう少し進んだところ。
さらに進むと、スナック街は十字路になっています。
逆方向から。
今回は、土浦(茨城県土浦市)の町並みと風俗を散歩します。
土浦市街の南側を流れる桜川沿いの土手(桜川堤)は、古くからの桜の名所で、風情ある散歩道から桜を楽しむことができます。
桜川堤の向こう側(現在の桜町二丁目)は、かつての三業指定地区でした。現在はソープランドなどの風俗街となっています。
満開の桜とソープ看板の競演です。土浦の桜は、東京よりも1週間ぐらい遅れて見頃となるようです。
ヘルスの看板も見えます。
前回歩いた田町遊廓*1をもう一度散歩します。
前回、蔦に覆われていてその全貌を知ることができなかった旅館だった建物*2 は、蔦がすべて取り払われていました。
側面に回ってみます。
こちら側も木々が取り払われて、すっきりとしました。
【参考記事】
*1 旧田町遊廓大門通り(2005,10)
*2 旧田町遊廓の旅館だった建物(2005,10)
戦国時代の終わり、関東を治めていた後北条氏が滅ぼされると、豊臣秀吉の命を受け徳川家康が新たな領主となりました。このとき、北条氏の支城であった八王子城*1 はすでに落城しており、もとの八王子城下の宿々は、現在の八王子に移転しました。基幹道路の両側には、東から横山宿、八日市宿、八幡宿の三宿が置かれました。*2
三宿の移転が始まった1590年(天正18年)には、すでに市が開かれ、市神社*3 が祀られていました。
現在の八日町の交差点近くに、八日市宿跡の碑があります。
碑には、八王子宿の様子を示す銅版画があります。
横山宿の市は、表通りを3分し、東から四日場、十四日場、二十四日場と三分され、順次に市が立ちました。その中で、東端の四日場(現在の横山町1丁目のダイエー八王子店あたり)は町のはずれに位置するため毎月4日の市も寂れがちで、宿民たちを困窮させました。そこで、苦肉の策として、横山宿内に分散している飯盛旅籠を四日場に集めようとの案が出されましたが、この案は移動の費用を負担しきれなかった四日場側の事情で実現しませんでした。*2
明治30年の八王子大火後、甲州街道沿いの遊女屋は、八王子北部の田町に移転し、田町遊廓と呼ばれるようになりました。*2
【参考文献】
*2 樋口豊治:江戸時代の八王子宿(揺籃社,1990)P.14,P.59-P.61,P.131,P.177,P.207,P.227
いよいよ祭りのメインイベントである神輿の渡御(とぎょ)の時間が来ました。まず、黒光りする男根神輿の「舟神輿」です。
「舟神輿」は、江戸時代、みかんの商いで巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門に因み、日立造船(株)神奈川工場の有志により奉納されました。*1
圧巻は、このエリザベス神輿。浅草橋にある女装クラブ「エリザベス会館」が寄贈した神輿で、神輿の担ぎ手は、エリザベス会館の会員である女装した男性です。*2
3つの神輿(舟神輿、かなまら神輿、エリザベス神輿)が町をねり歩きます。
「でっかいまら、かなまら!でっかいまら、かなまら!」と女装した男性たちの掛け声と共に、神輿は進みます。
担がれている神輿は、上下に揺れるので、ピンクの男根が空に向かってピストン運動しているように見えます。
【参考文献】
*1 金山神社:かなまら祭配布資料(2007)
*2 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29
今回は、川崎大師(神奈川県川崎市)の町並みと風俗を散歩します。
京急川崎大師駅から徒歩3分のところに、金山神社があります。
毎年4月の第一日曜日は、「かなまら祭」が開催される日です。今年は、満開の桜が出迎えくれました。
祭りにかかせないのが神輿ですが、ここの神輿は奇妙な形をしています。
「かなまら祭」は、川崎宿の飯盛女たちが、商売繁昌と梅毒除けを願って、金山神社の御神体である男根を持ち出して、神社で花見をしながら宴会を開いたのがはじまりとされています。日本ではあまり知られていない祭りですが、海外では、「京都祇園祭」や「ねぶた祭」よりもはるかに有名な祭りです。*1
【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.27-P.29
駒形の北西の川辺町に、かつて飲み屋街だったと思われる一画があります。
その名も「ロマンス街」。ロマンスのロの字の部分がハート型にデザインされています。看板に矢印が書かれていますので、この場所が飲み屋街の入口だったようです。
1階部分に3軒の店が並んでいます。
建物は1棟しか残っていませんが、周囲は駐車場などになっていますが、当時はこのような建物がズラっと並び、飲み屋街を形成していたのではないでしょうか。
入口のドア。ピンク系の色に塗られています。
二丁町遊廓は、戦災により消失したため、終戦後は駒形地区に赤線が発生しました。二丁町遊廓の後身ともいうべき駒形地区は、前後10年たらずの間に発展し、静岡の一大歓楽街となりましたが、昭和32年の売春防止法によって姿を消しました。*1
【参考文献】
*1 静岡新聞:ふるさと百話2巻(静岡新聞,1998)P.130-131
今回は、静岡(静岡県静岡市)の町並みと風俗を散歩します。
葵区の駒形通6丁目の駒形通り。鉄筋コンクリート4階建てのビルがあります。
1階の入口。
そのビルの1階の入口を入ったところの壁に、小さな箱が取り付けられています。
長田牛乳の牛乳箱です。
ビルの入口のドアに取り付けられているのは、珍しいです。
二本松の隣の江戸町。古い町並みが残っています。
建物の壁に、白い箱が設置されています。
箱の側面に、「火の用心」と書かれています。
正面には、「消火器具」と書かれています。蓋の開閉部分に、「江戸町」の文字がかかっている粋なデザインです。
中には、消化用のホースが収納されています。
長野県下で一番初めにできた遊廓は、明治9年に開業した松本の横田遊廓*1 ですが、これよりやや遅れ、飯田遊廓が、明治15年に認可を受け、開業しました。その後、明治40年に二本松遊廓と改められ、昭和の時代まで続きました。*2
遊廓の入口には大門があり、大門を入ると、小料理屋や湯屋が軒を連ね、その次(写真右手前の曲がり角)に久保田楼がありました。遊廓の真ん中は、広場のように広くなっていました。*2
久保田楼は、数奇屋造りの美しい佇まいで、重要文化財級の建物でしたが、2002年に取り壊されました。*3
久保田楼があった場所には、現在はアパートが建っています。かつての久保田楼の写真*4 に写っていた松の木と同じ樹形の松の木が現在も残っています。
遊廓に入るには、大門から入る通路の他に、お忍びで入ることができる3本の通路がありました。そのうちの1本、南側の下馬場町通りからの通路脇には、深川楼がありました。*2
現在この場所は駐車場になっています。
遊廓の突き当たりにあったお稲荷さま(明治29年5月勧請)は、現存しています。*2
【参考文献】
*2 村沢武夫:飯田情話(南信州新聞社,2006)口絵,P.76-P.77
*3 林安直:信州かやぶき民家(しなのき書房,2006)P.252
【関連記事】
*1 横田遊廓跡地(2007.3)
二本松にある普門院天満宮。寂れた感じがします。
鳥居の脇にあるスナック。
飯田遊廓は、別名二本松遊廓と呼ばれていました。遊廓の入口のところに天満宮が祀られていて、その境内に二本の松が高くそびえていたことから、いつの間にか飯田遊廓のことを二本松と言うようになりました。
当時の二本松の写真*1 と比べると、樹形は異なっていますので、植え替えられたものかもしれません。
二本松は、飯田遊廓の代名詞でした。
【参考文献】
*1 村沢武夫:飯田情話(南信州新聞社,2006)口絵
くつわ小路から二本松へ向かう途中に料理屋だったと思われる廃屋があります。
小料理の看板。
向かいの建物。
和風の建物ですが、看板は「Bar」と書かれており、洋風です。
今回は飯田(長野県飯田市)の町並みと風俗を散歩します。
昔から「飯田の町は女の町」と言われていただけあって、大正年間から昭和初年にかけ人口2万人たらずのところに芸妓が380人、料理屋に働く人500人、娼婦など500人、妾などを合わせると、相当なものだったそうです。*1
現在の繁華街は、駅の南東側に広がっていて、道路は格子状に整然と区画されています。駅前の観光案内所で受け取った観光地図に「くつわ小路」と書かれているのが目にとまったので、まず、この界隈を散歩してみます。
情緒のある料理屋風の建物が残っています。
小路の片側は崖になっています。
向こう側に見えた建物。こちらから見ると5階建てのようにも見えます。
【参考文献】
*1 村沢武夫:飯田情話(南信州新聞社,2006)P.57
西堀地区に銭湯があります。一見、何の変哲もないビル型銭湯のように見えますが、レンガの塀でがっちりと守られていて、レトロな雰囲気が漂っています。
塩類鉱泉「塩井の湯」。「塩類を多分に含んだ鉱泉」とのことです。
外観は、洋館のようなデザインです。右から「塩井乃湯」と書かれています。
脱衣場のロッカー。また、天井は白い色の洋風の柄です。和洋折衷のとにかく凄い銭湯です。
西堀地区に小さな公園があります。入口は、1mぐらいの幅で、気がつかずに通りすぎてしまいそうです。
大手児童遊園と書かれています。
寺の隣の細長い敷地に作られた小さな公園です。
西堀地区は、昭和41年(1966年)に長野県議会において、トルコ風呂設置許可地域に指定されていましたが、その後、松本市は、西堀地区に大手児童遊園を設置。西堀地区は、事実上トルコ風呂禁止区域となりました。*1
【参考資料】
*1 松本女性史の会:“買春”許すまじ 松本市トルコ風呂建設反対の記録(銀河書房,1984)P.19
西堀地区に、トルコ風呂を開業しようとした業者とそれを阻止した住民の戦いの痕跡が残されています。
1980年、西堀地区にトルコ風呂建設の話が持ち上がりました。業者側は、住民の反対を押し切って、「サウナ北欧」をトルコ風呂に改装し、翌年(1981年)1月下旬の開業を目指しました。*1
業者側は、許可が下りなくても看板を掲げることは法律的に規制されないことから、改装工事が終わった建物の屋上へ強引に「トルコ姫」の看板を掲げ、信州大学経済学部の大谷毅助教授の協力を得、「歓楽街も活力に」と題するビラを町内に配布し、アピールを行いました。*1
これに対し住民側は、「広報まつもと」に「トルコは行進曲だけでいい」と題する記事を掲載するなどして反対運動を続けました。*1
裏側の駐車場から見たところ。
最終的に、住民・行政側が業者の意向を制し、トルコ風呂は開業しませんでした。これにより、長野県民は、トルコ風呂(ソープランド)ゼロ県という栄誉を勝ち取ることができました。
現在も「トルコ姫」は開業していません。
【参考資料】
*1 松本女性史の会:“買春”許すまじ 松本市トルコ風呂建設反対の記録(銀河書房,1984)P.96-P.137
西堀地区は、その名の通り、松本城の西側の堀の外側に置かれた町ですが、現在は、スナックなどが建ち並ぶ繁華街となっています。その中でひときわ目立つ存在の古い3階建ての建物がありあす。
建物横の看板。
裏側から。
1階の通路。
近代公娼制度に基づき、明治10年に横田遊廓が建設されましたが、その陰で、裏町(松本城の東隣)などに芸者置屋街がありました。
西堀地区には、昭和の初期の頃から私娼窟があり、戦後は「特殊飲食店」として政府が認める「赤線地域」となり、10軒ほどの店がありました。
昭和31年の売春防止法が制定以降、西堀地区は夜の食堂街として栄え、暴力バーや暴力団の事務所が入り込みました。それに対して、住民たちの間で暴力追放運動が起こりました。*1
【参考文献】
*1 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)P.17-P.18
今回は、松本(長野県松本市)の町並みを散歩します。
長野県は、明治10年の臨時県民会において公娼制度の実施に踏み切り、横田(松本城の東側)に遊郭が建設されました。*1
地元の古老にたずねたところ、横田遊廓は現在の「新浅間温泉」にあったそうです。
松本繁昌記*2 の「松本市街全図」に、横田遊廓の場所が記されていますが、現在の地図と重ね合わせてみると、その場所は、新浅間温泉にほぼ一致します。
新浅間温泉(写真左下のエリア)には、舶來亭、ホテル末広、万年旅館など数軒の旅館があります。道路は格子状になっていて、遊廓の特徴を残しています。
周囲とは明らかに異なる道幅の広い通りがあります。ここが遊廓のメインの通りだったのかもしれません。
「舶來荘」という屋号の旅館。松本繁昌記*2 によると、横田遊廓には同じ屋号の妓楼「舶來亭」がありました。
明治時代、自由民権派の中に、遊廓建設に反対する意見もありました。中でも上条鎧司は、女性解放に関心を持ち、家庭教育の重要性を考えました。上条鎧司は、塩尻の遊女を逃亡させ、妻として生涯を共にしたことでも知られています。*1
この明治時代の女性解放運動が、昭和のトルコ風呂騒動を勝ち抜いた住民運動につながったと言われています。*3
【参考文献】
*1 松本市:松本市史 第2巻 歴史編4(松本市,1997)P.89-P.91
*2 山内実太郎:松本繁昌記(山麓舎,1982)P.29,P.194
*3 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)
中央高速道の伊那インターチェンジ近く。林に囲まれて、ラブホテルが3軒建ち並ぶエリアがあります。
背後には、中央アルプス(駒ケ岳方面)が望めます。
USAという名前のラブホテル。
この場所は、伊那市街から河岸段丘を登った台地であるため、南アルプスが良く見えます。ホテルUSAのネオンの右側に見えるのが仙丈岳(3033m)、左が甲斐駒ケ岳(2967m)です。高原の別荘の風情です。
町の中心部に銭湯があります。風情のある木造の建物です。
生活感が漂う建物です。
菊の湯の看板。珍しい形です。
ラドン浴室。
伊那市街の中心部。伊那ステーションホテル(休業中)の脇に、「映画喫茶中劇」があります。
映画館の入口がある2階は、駐車場になっています。壁面(写真左側)には、おそらく、3本立ての映画のポスターが貼られていのではないでしょうか。
映画館の入口。
「18才未満の方は入場ができません。」と書かれていますので、成人向け映画専門であったと思われます。平成13年5月に休業していました。
伊那駅前にある食堂の「うしお」。
伊那市街の飲食街には、「ローメン」のお店の看板が数多く見られます。なかでも「うしお」は、地元では知らない人はいない有名店です。
うしおのローメンは、「普通盛」、「大盛」、「超大盛」、「超超大盛」の4種類があります。
店内はたいへんな賑わいで、客は必ずと言ってよいほどローメンを注文します。「超」あるいは「超超」とだけ言うのが、地元の人の注文の仕方です。
「超超」とビールを注文。見た目はそれほど大盛に見えませんが、皿が深いため、かなりボリュームがあります。
ローメンの具は、キャベツと羊肉です。焼きそばに似ていますが、太麺に特徴があり、味は焼きそばほどソース味が強くなく、麺の食感も異なります。空腹と栄養を満たすことを最優先に考えた食べ物といった印象を受けました。
ローメンの名の由来は、中国語の「チャーローメン」(チャー(炒め)、ロー(肉)、メン(麺)の合体語)からきており、その後、ラーメンが全国的に普及したのに伴いゴロの良さから「ローメン」と呼ばれるようになりました。*1*2
「萬里」の店の前にある「ローメン発祥の地」の碑。ここにローメンの生い立ちなどが記されています。
それによると、ローメンは、戦後の混乱と食糧難が続いていた昭和30年に考案されました。冷蔵庫の無い時代、日持ちをよくするために考え出された蒸し麺と、当時は食べる習慣のなかった羊肉を用いたローメンは、味と栄養を求める多くの人の支持を受け、あっという間に広まったそうです。
【参考資料】
*1 権兵衛街道活性化協議会:伊那路・木曽路GUIDEBOOK(2006)
*2 食と健康(2003.12)P.24
今回は、伊那(長野県伊那市)の町並みと風俗を散歩します。
伊那は、南アルプスと中央アルプスに挟まれた伊那盆地の北部に位置する町です。
伊那市からは南アルプスが見えます。
市街を流れる小沢川が天竜川に合流するあたり。写真右側が仙丈ケ岳、左側が甲斐駒ケ岳。
市街を流れる小沢川の清流。源流は中央アルプスです。
福路町の遊廓跡は、牛乳箱の宝庫です。
保存状態良好な森永牛乳の牛乳箱。
前面に販売店の名前のあるめずらしい牛乳箱。側面には「エース牛乳」と書かれています。
側面にホモちゃんマーク*1 がデザインされています。森永の牛乳箱は、正面にエンゼルマークがデザインされているものがほとんどですので、これはめずらしい牛乳箱です。
ホモちゃんの歌というのもあったそうです。
宣伝の歴史からいっても、コマーシャルソングの草分けで、昭和28年に、ラジオ放送で全国に流されました。*2
ホモちゃんの歌(サトーハチロー作詞 2節以下省略)*2
こんこんこんちは ごきげんさん
ボクはホモちゃん みんなの子
だんだん誰とも仲良しこよし
おとなり おむかい あの子にこの子
どの子もまけずに ぐんぐん
またのびた
【参考文献】
*2 森永乳業50年史編纂委員会:森永乳業五十年史(森永乳業,1967)P.279
【参考記事】
*1 ホモ牛乳
花しょうぶ通りと芹川に挟まれたところにある歓楽街が袋町と呼ばれています。ここには、かつて遊廓がありました。いくつもの細い路地が走り、袋小路となっているため、「袋町」と呼ばれるようになったとも言われています。*1
この袋小路は、「金亀横丁」と呼ばれています。
キャバクラと古い建物が混在しているのが、現在の袋町の風景です。
金亀横町を抜けた北西側の通り。
江戸時代、彦根藩では娼妓遊女を立藩以来禁令で、厳重に取り締まっていました。明治新政府になり、各地に遊廓ができるようになり、彦根においても明治4年に遊廓が公認されました。*2
その後、遊廓は次第に増加し、昭和4年(1929年)には、69軒に及びました。*3
画家の上田道三さんは、袋町の貸座敷を描いています。*1 *4
【参考文献】
*1 彦根史談会:城下町彦根 淡海文庫25(サンライズ出版,2002) P.125,P.128
*2 宮田思洋:彦根史話(彦根史話刊行会,1965)P.162-P.163
*3 大野紘一郎:彦根いまむかし(サンブライト出版,1986)P.86
*4 彦根市ホームページ:町の風景(上田道三 画)
花しょうぶ通りには、昔の建物が保存され今でも現役で営業中です。理容室や美容室が多く、奇抜なデザインは目を引きます。
2階の部分は洋館のデザインです。
和風の理容室もあります。
モダンなデザインの美容室。
彦根の東南隅にかつて遊廓だった袋町があります。その袋町の入り口にあたる花しょうぶ通りでは、江戸時代の寺院や町家、明治・大正の面影を伝える洋風の建物が一体となった町並みが整備され、歴史を活かした町づくりが試みられています。*1
花しょうぶ通りにある袋町の紹介看板。第一回のNHK大河ドラマの原作として用いられた舟橋聖一さんの歴史小説「花の生涯」の冒頭部分で、袋町遊廓が登場することを紹介しています。
通りの中央あたり。木造の商家が建ち並んでいます。
花しょうぶ通りの看板。
【参考文献】
*1 彦根史談会:城下町彦根 淡海文庫25(サンライズ出版,2002) P.130
今回は、彦根(滋賀県)の町並みと風俗を散歩します。
彦根駅を降りると、初代彦根藩主の井伊直政の銅像が出迎えてくれます。
駅の上りエスカレータの乗り口付近に、白ポストがあります。
駅前にもう一つありました。観光案内所の前です。
丸い形がユニークです。
枚方の桜町にある桜湯。
質素な入口です。
隣りは麻雀クラブです。
銭湯の建物側面に残る煉瓦塀。
旧枚方検番の脇は、「水面回廊」と呼ばれる整備された公園になっています。淀川からの用水路を整備したものだそうです。
地元の人の話によると、検番(写真の左側)の向かいにある立派な建物(写真の右側)は、レンタルビデオショップ「TSUTAYA」の創業者の増田宗昭さん(カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)の代表取締役社長)の自宅だそうです。
2階は全面ガラス貼りになっています。
「増田」と書かれた表札。住宅地図*1 で確認してみると、増田宗三(父親)の名前が記載されています。
社長宅の風格があります。
「TSUTAYA」という店名は、増田宗昭社長の祖父が置屋を経営していて、その屋号が「蔦屋」だったことから、「蔦谷書店」という店の名で1号店をオープンしたことに由来します。
1号店の開店当日、友人から江戸の出版人の蔦谷重三郎の話を聞かされ、「実は祖父がやっていた置屋の屋号でして」というより、「蔦谷重三郎の名にあやかりました。」といったほうが、重厚でよいのではと考え、以来、「TSUTAYA」は、蔦谷重三郎から名をとったということにしているそうです。*2
蔦谷重三郎は、吉原生まれ。安永2年(1773年)に吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の出版・販売を手がけ、後に、本格的に出版業を拡大。洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行しました。
ちなみに、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)のホームページ*3 には、
①祖父が事業(置屋)を営んでいた際の屋号が「蔦屋」であったこと
②蔦屋重三郎にあやかり名付けたこと
の2つの理由から名付けられたと書かれています。
【参考文献】
*1 ゼンリン住宅地図 大阪府枚方市南部(ゼンリン,2005)P.15
*2 増田宗昭:情報楽園会社(徳間書店,1996)P.14
【参考URL】
*3 カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)ホームページ
旧枚方新地のメインの通りの奥まったあたりに、古い建物があります。
当時の面影を伝える建物が少ない旧枚方新地ですが、旧枚方検番の建物が現存しています。
現在は、会社の事務所として使用されているようです。
裏から見たところ。
旧枚方新地(桜新地)の入口あたり。
二階家が軒をつらねます。住宅は建て替えが進んでいて、昔からの建物はほとんど残っていません。
「赤線跡を歩く」*1 で、「中心部にあってひときわ目を引くお宅」と紹介されていた玉水旅館の建物は残念ながら取り壊され、さら地になっていました。
1階が洋風に装飾されている建物。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.202
今回は、枚方(大阪府枚方市)の町並みと風俗を散歩します。京阪本線枚方駅の一つ隣の枚方公園駅で下車。かつての枚方宿の名残を感じる通り。
宿鍵屋資料館。
かつの枚方宿のにぎわいに関する展示。
江戸時代の枚方宿は、現在の枚方公園駅から枚方駅の間の旧道沿いにあり、そこに飯盛女がいました。
天保9年(1838年)には、旅旅籠57軒に飯盛女78人となっており、その他に下女97人が存在していました。*1
その後、明治41年(1908年)に桜新地という行政区ができ、枚方遊廓の貸座敷は、桜新地への移転が進められました。*2
江戸時代後期のシーボルトの旅行記には、当時のにぎわいの様子が記されています。
【参考文献】
*1 宿場町枚方を考える会:枚方宿の今昔(宿場町枚方を考える会,1997)P.46
*2 京都橘女子大学女性歴史文化研究所:伝えたい想い 枚方の女性史(枚方市,1997)P.84
今回は、滝井(大阪府守口市)の町並みを散歩します。
滝井駅から線路沿いの道を歩き、すし屋のところを右折すると、スナックが建ち並ぶ一画があります。
風情のあるスナックの建物。1つの建物の中に4軒の店が同居しています。
スナック香住。
路地にもスナックの看板。
阪神尼崎駅の隣駅の出屋敷駅近くに出屋敷商店街があります。
なぜか多い理容室の看板。
「中通り理容」の看板。出屋敷商店街は別名「出屋敷中通り」とも呼ばれているようです。
「パーマ」と大きく書かれた看板。
尼崎の繁華街には、多数の風俗取締看板が設置されています。かんなみ新地の正面の通りの向かい側のフェンスに設置されている「悪質風俗・追放運動」の看板。
かんなみ新地からやや離れた商店街近くの交差点にある「風俗環境浄化活動実施中」の看板。
「毎月10日は少年を守る日」の看板。少年の非行防止を目的としている模様です。
二十才未満の方入場お断り(かんなみ新地)。
今回は、尼崎(兵庫県)の町並みと風俗を散歩します。
かんなみ新地の路地に入ってみます。生活感漂う路地です。この路地の奥まった所にその箱はあります。
路地に入ったところに、木製消火器箱があります。やはり木製は温かみがあります。
かんなみ新地は、かつて「パーク飲食店」と呼ばれていたようです。
消火器箱のある場所から、正面入口に抜ける通路を見たところ。
阪神尼崎駅から駅前の商店街を出屋敷駅方面に向かい、商店街のアーケードがつきるあたりから南へ折れると、かんなみ新地とよばれる風俗街があります。
駐車場からの遠景。3階建ての建物がびっしりと並んでいます。
2階は女性が住む部屋で、カーテンで仕切られた部屋の脇の狭い通路の先にハシゴがあり、それを登ると天井裏のような部分の3階のプレイルームに行き着くそうです。*1
写真右奥は、三和栄筋のアーケード。
「いらっしゃいませ」の看板。
【参考文献】
シーズ情報出版:日本裏風俗夜遊び読本(シーズ情報出版,1999)P.128-P.129
ラブホテルの入口。「この付近で客引き行為をしている外国人女性との入店はお断り申し上げます。」の看板。かつてこの付近に街娼がたむろしていたことを物語る看板です。
町内会の掲示板。「ビンクビラお断り」の貼り紙が貼られています。
「防犯パトロール実施中」の貼り紙。
西大久保公園内にある警察官立ち寄り所。「防犯パトロール実施中」の貼り紙がたくさん貼られています。
歌舞伎町の背後の百人町一丁目、大久保一丁目界隈は、通称「裏歌舞伎町」とか「裏新宿」と呼ばれていました。「裏歌舞伎町」を象徴的に露出してのが、「ハレルヤ通り」でした。
「ハレルヤ通り」は、この通りは、中央線大久保駅南口を起点に、南米系街娼がたむろしていた山手線、埼京線、西部新宿線のガードを潜り抜け、区立西大久保公園を終点とします。*1
ハレルヤ通りと大久保通りからの通りが交差するあたり。かつてこの場所には街娼がたむろしていました。
同じ通りを大久保通り側から見たところ。つきあたりがハレル通りと合流する地点です。
西大久保公園の東側の通り。ラブホテルが集中する通りです。ここには、タイ、フィリピン系の女性がいつも2~5人のグループでいました。*2
「大空」、「ゴールド」といった昔からあるホテルが並んでいます。*3
やや職安通り寄りにある「ホワイトハウス」、「美里」。
【参考文献】
*1 山谷哲夫:じゃぱゆきさん(情報センター出版局,1985)
*2 野村 健,山口 一臣:朝日ジャーナル(1990,9)P.20-P.24 「潜入ルポ 裏新宿22時の入管法-新大久保”国際村”」
*3 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.63 (初出:別冊宝島(1987年)「都市のなかの異界・ラブホテル街の民俗学」)
職安通りからJR新大久保駅方面へ向かう細い道を行くと、フェンスに囲まれた西大久保公園があります。
数年前までは、夜になると外国人娼婦やイラン人がたむろしていて、一時はフェンスで囲われて立ち入り禁止の状態でした。
現在は、憩いの場となっていますが、少し陰気な雰囲気もあります。それには、訳があります。東京第空襲の後、身元不明の焼死体をここに集めて埋めたという事実です。戦後、その死体は掘り起こされ、墨田川の方にある都の慰霊塔に無縁仏として合葬されました。死体を掘り起こした後の空き地を新宿区は公園にしました。*1
都内の公園でよく見る看板です。
防犯カメラが設置されています。
*1 山谷哲夫:じゃぱゆきさん(情報センター出版局,1985)
今回は、新大久保の町並みと風俗を散歩します。
職安通りは、ここ数年で韓国の店が急増したようです。*1
「大使館」と大きく書かれた看板は、韓国の炭火焼肉店です。
韓流ショップの店。ブロマイドなど、韓流ブームにあやかったグッズ店が並らび、主婦層の客で賑わっています。「美容室」の看板には、ハングル文字の表記もあります。
ホトックとトッポッキのお店。ホトックは、アンコ、チーズ、ハチミツの味があり、値段も200円とお手頃です。
職安通りと言えば、数年前は外国人売春婦がたむろす通りといったイメージがありましたが、現在はまったく様変わりしています。
【参考文献】
*1 新谷尚紀,岩本通弥編:都市の光と闇(吉川弘文館,2006)P.174-P.188
歌舞伎町一丁目の繁華街。しゃぶしゃぶで有名な「ローラン」があります。
店員は、現役女子大生、OL、タレントの卵で、顔を見られると困るのでアイマスクを着用、制服の色は6色あります(看板より)。
姉妹店もあります。
女性募集。
ストリップ劇場の踊り子募集の電光掲示板。「プロダンサー、素人ダンサー募集」とのテロップが流れています。
DX歌舞伎町は、ひっそりとした路地にあります。
従業員通用口。「控え室」でななく、「楽屋」と呼ばれるようです。
「本日初日」の木製看板。大相撲などで、「本日初日」という言葉を耳にしますが、ストリップ劇場でも同じ言葉を使うということを知りました。
コマ劇場から東に入った通り。大人のおもちゃの店が軒を連ねています。
店の入口付近。マリリン・モンローのポスターが貼ってあります。
店のショーウィンドウ。
店の入口の自動ドア越しに見えたマネキン。「万引きは亀甲縛りで退場」の貼り紙。大人のおもちゃ店らしい貼り紙です。
久保の隣の長江一丁目の路地にある玩具店。
キュ-ピー人形が陳列されている棚の脇に牛乳箱が設置されています。
舟橋牛乳の牛乳箱。白い色の牛乳箱です。
箱の側面にも「舟橋牛乳」。
久保2丁目の西側。道幅の狭い小路です。
少し進むと、スナックが密集している一画です。
3階建ての飲食ビル。
小路の出口。ここから道幅が広くなります。
昭和33年3月31日時点の店名とその場所を記した「赤線消ゆる日の地図」*1 によると、以下の30店舗が営業していました。
1.金玉 2.村田 3.喜鶴 4.青い鳥 5.石川 6.東京 7.一力 8.曙 9.山海 10.自由亭 11.鶴亀 12.第一花乃家 13.山吉 14.第二花乃家 15.松千 16.吉口屋 17.鳩の家 18.晴美 19.森常 20.高橋 21.喜八 22.千舟 23.生駒 24.一二三 25.吉野屋 26.三島 27.村上 28.むさし 29.汐見 30.高砂
下の写真は、現在の地図ですが、これを見ると、現在も屋号を引き継いでいると思われる店があります。7.一力 13.山吉 の2軒です。
まず、「一力」ですが、「赤線消ゆる日の地図」*1 に示されている場所と同じ場所に、現在は寿司屋「一力」が営業しています。
現在は、近代的なビルに建て替わっています。
「山吉」があった場所には、現在は薬局の「山吉薬局」が営業中です。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.283
今回は久保(広島県尾道市)の町並みを散歩します。
国道2号線の「楽天地」の表示のある信号機を南側に折れた八坂神社の南西方向一帯は、旧久保遊郭がった場所です。現在でも飲食店が建ち並ぶ繁華街です。
旧遊廓(新開遊里)統括事務所跡。*1
建物の2階部分。
現在は、1階部分はスナックです。
昭和21年以後、2階部分は診療室として使用されました。*1
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.183,P.284
家老渡からバスに乗り、1km程北の三庄六区小用(こよう)に来ました。南側には、弓削島の古法皇山(279.4m)が見えます。
ここには、戦前、戦中の個人内科医院跡が残されています。*1
再び家老渡に戻ります。被免許地から北西500mぐらい行くと、徐々に坂道となります。
斜地に、赤線時代の個人医院がありました。*1 現在は、一般住宅になっています。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
旧遊廓だった場所には、何軒か木造建物が残されていますが、その中でも、忍甲一さんが、「国宝的遺構」*1と絶賛する建物があります。
1階は、家族用の部屋で、2階が娼妓の接遇部屋です。*1
同じ間取りの接客用の部屋が3部屋あります。
入口。*1
裏の小路。*1
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
旧遊廓街の通りには、牛乳箱も豊富です。
「ふるさと牛乳」の牛乳箱。牛乳箱の側面に、中国酪農協同(株)の社名が見えます。
有名ブランドでありながら、目にかかれることが少ないグリコ牛乳の牛乳箱。
こちらは、明治の牛乳箱との併設です。
土生港からバスに乗り、約10分で、因島の南西部の町、家老渡に着きます。
現在の住所でいうと、三庄(みつのしょう)九区です。
家老渡の遊廓の創設は、比較的新しく、大正8年の創設です。*1
広い通り。写真の奥に見えるのは、日立造船所の工場です。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
今回は、家老渡(広島県尾道市因島三庄町)の町並みと風俗を散歩します。
因島(いんのしま)は、かつては全国でも珍しい一島一市でしたが、2006年1月10日、尾道市に編入されました。島内には、村上水軍の史跡などもあり、観光地としても有名です。
家老渡(かろうと)は、島の南東部にあります。
三原港から高速船で31分で島の南部の土生(はぶ)港に到着します。
土生(はぶ)港は、近隣の島とのフェリー航路もある因島の玄関口です。
島の南部には、日立造船所の工場があります。
明神橋を渡ると、海に面した通りに出ます。ここには明神遊廓がりました。*1
妓館の面影をとどめています。
道幅の広い通りです。南側(写真右側)には海が広がっています。
海の見える店。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
明治17年の貸座敷娼妓営業取締規則によると、竹原の遊廓は、榎町、新町(現在の本町3丁目付近)と明神(現在の塩町付近)に定められていました。明神は、現在の竹原港の対岸に位置していて、瀬戸内の海を見渡せる場所にあります。
明神遊廓の名残とも言えるのが、遊廓の入口にあった明神橋です。明神橋は、吉原の大門に相当します。
写真は、近年になって車道用に作られた新明神橋から明神橋を見たところです。明神橋を渡ったその先に、明神遊廓がありました。
明神橋は、数年前までは、今にも崩壊しそうな橋でした。*1 しかし、最近になって、歩行者・自転車専用の橋として新しく架け替えられた模様です。昔の橋の橋げたが残されています。
写真の奥に見えるのは、シルバー人材センターです。
対岸から見た明神橋。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
今回は、竹原(広島県)の町並みと風俗を散歩します。
竹原は、安芸の小京都と呼ばれ、江戸時代の古い町並みが残されていて、当時を偲ばせてくれます。
明治17年の貸座敷娼妓営業取締規則によると、竹原の遊廓は、榎町、新町、明神と定められていました。*1 榎町、新町は、現在の本町3丁目付近、明神は、現在の塩町付近です。
本町3丁目付近を本川が流れます。江戸時代は、ここが港でした。*2
本川の北側は、「安芸の小京都」と呼ばれる古い町並みの残る場所で、現在は、観光スポットになっています。
楠神社付近。
木造3階建ての建物があります。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
*2 竹原市:安芸の小京都たけはら(観光マップ)
大崎上島の北端に位置する鮴崎(めばるざき)に来ました。
鮴崎は、天満、宇浜と並び、おちょろ稼業が定着していました。*1
遊廓があったとされる通り。*1
民俗学者の沖浦先生は、その著書*2 の中で、「三味線や太鼓の音で明け方までさんざめいていた鮴崎の遊女街は、今でもその頃の町並みがほとんど残っている。瀬戸内の港町で、当時の面影がまだ見られるのはここだけだろう。」と述べていますが、町並みは、だいぶ新しくなっているようです。
木造3階建ての民家があります。迫力満点です。
盗賊返しのある民家。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.295,P.315
*2 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.221
木江の天満区とともに、宇浜区も、昭和初期の貸座敷の被免許地で、「おちょろ舟」も存在していました。*1
宇浜区は、木江港の北側。一貫目桟橋付近一帯です。
古い看板が残っています。
逆方向を振り返る。
塩月旅館。重厚な建物です。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.294
木江の厳島神社の隣。徳森旅館が入江にひっそり佇んでいます。
木江の町並みを代表する木造三階建ての建物です。
北側から。
入口。
町のやや北側、迷路のような小路を抜けていくと、突然パッとモダンな建物が現れます。木造建築の建物が多く残る木江の町並みの中では、異色の存在です。
この建物は、昭和8年に建築された映画館「昭栄館」の跡です。「昭栄館」は、昭和42年まで興行していました。*1
入口付近。当時は、たくさんのお客様で賑わっていたのでしょう。
タイル貼りで、ハイカラなデザインです。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.3
木江の農協から宇浜方面へ行く道の途中に、ひときわ目立つ建物があります。
何と、木造五階建ての豪邸です。
この建物は、大正2年、当時造船業を営んでいた長屋源吉さんが、船主などの接待用に建てた料亭です。主材は、木造船の建材だった松と杉。眺めのいい四階には、35畳敷きの大広間があるそうです。*1
昔は、木造船の建造技術があったので、このような建築が可能だったのかもしれません。
正面から見ると4階建てに見えますが、横から見ると小さな最上階部分があります。
たしかに五階建てです。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.3
木江港の南側の天満区には、昔の町並みが残されている通りがあります。
大崎上島の昭和初期の貸座敷の被免許地は、木江の天満区と宇浜区、そして東野の鮴崎(めばる)崎の3ヶ所でした。そして、木江と鮴崎崎にもオチョロ舟がありました。この通りには、遊郭がありました。*1
御手洗の遊郭跡の建物は、かなり修復されていて、観光地という印象でしたが、木江町並みは、当時のままの木造建築が残されており、本物の迫力があります。
一方、路地に入ると、廃屋となっている家もかなりあり、荒廃が進んでいることを感じさせます。
通りには、商店もあります。昔ながらの酒屋さんも多く、地元の醸造メーカーのブランドの看板が見えます。*2
玉屋旅館。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.294
*2 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.4
木江の天満区の古い町並みを歩きます。こちらの建物は、1階が商店であったように見えます。
コカコーラなど、家のあちこちに看板やステッカーが貼ってあります。
オロナミンCのステッカー。残念ながら年代を特定できるような手がかりはありません。
月星(シューズメーカー)のセールのステッカー。
EXPO’70(大阪万国博覧会)ということは、37年間、貼られたままの状態ということでしょうか。保存状態は、良好です。
今回は、木江(広島県豊田郡大崎上島)の町並みと風俗を散歩します。前回散歩した大崎下島の大長(おおちょう)港から大崎上島の天満桟橋までは、高速船で14分です。
まず、大崎上島の最高峰、神峰山 (452.6m)に登ります。登山口である金剛寺から山道に取り付きます。
1時間弱で頂上の展望台に到着します。頂上からは、瀬戸内の眺めを堪能できます。北東方向には、大島上島の東野地区(鮴崎(めばるざき)方面)が見渡せます。
南側には、本州四国連絡橋(来島海峡大橋)と四国(今治)方面が見えます。
眼下には、深い入江状となっている木江港が見えます。高速船が着いた天満桟橋などの天満地区は、手前の山の斜面で隠れて見えませんが、入江の北側の宇浜地区の一貫目桟橋や造船所が見えます。
御手洗は、町並み保存地区(全国重要伝統的建造物群保存地区)に指定されていて、江戸時代の町並みが残されています。
そのうちの1軒。入口に木製牛乳箱があります。
同じブランドの牛乳箱が2つ並んでいます。大家族だったのでしょうか。
国広牛乳。
御手洗港から3分ほど歩いたところに蛭子神社があります。蛭子神社は、航海安全を祈って、元文(1736年)~寛保(1744年)代、豊前小倉から御神体を移して、建てられました。
案内板に、「御手洗港を素通りすれば、あの妓祈るか風変わる。チョロは出て行く、カモメは帰る、色の港に灯はうつる。」と書かれています。
道路一つ隔てた石碑には、「御手洗は居続けどころ、そして神興の据えどころ」と書かれています。「居続け」は、江戸時代では、数夜を差すこともあり、近代公娼期では、12~24時間の以内の滞留のことをいいました。*1
遊女屋の主人、若胡子屋権左衛門が寄進した燈籠。*2
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.295
*2 豊町観光協会:お茶屋若胡屋遺跡と御手洗(豊町観光協会,2003 )P.44-P.45
住吉町の船宿跡に、御手洗最後の船大工で、おちょろ舟のミニチュアをつくりつづける宮本さんの工房があります。*1
工房の中には、遊女やおちょろ舟などの貴重な資料が展示されています。
御手洗遊女の原型は、碇泊する船に対して小舟に積んだ薪、水、食料品(特に野菜などの菜っ葉)などを売って回った菜売り女(なうりめ)と呼ばれる娘や未亡人たちでした。やがて、菜売り女は、小舟から碇泊する大船に乗り移って客をとって回る遊女となり、遊女を乗せた小舟はおちょろ舟と呼ばれるようになりました。*2*7
工房に、作成中のおちょろ舟の模型があります。
この中に5~6人が冬はこたつに入っていて、ちょろ押しと呼ばれる男が一人櫓をこいで、御手洗に入ってきた船に近づき、船に近づいたら遊女が顔を出して、指名をもらったら船に乗り移って、朝までいたそうです。*1
つまり、おちょろ舟の特色は、船に出向いて、客の濯ぎものから煮炊きまで面倒をみる一夜妻にありました。*3
おちょろ舟は海上遊廓であり、動く張店であって、翌日の日の出になると、女を引きさらって来る遣手婆でもありました。*4
おちょろ舟の最も古い記録としては、元禄4年(1691年)の「ケンペル江戸参府紀行」の「御手洗寄港紀文」に、「旅する人のために愛の女神を乗せてこぎ廻りたり」と記されています。*5
工房の中におちょろ舟の大漁旗が展示されています。
おちょろの語源については、諸説あるようです。
①小さいという意味の「チョロこい」から名付けられたとする説*7
②「お女郎」が訛ったとする説*6
③「大言海」に出てくる「おちよ舟」が訛ったする説*3
などがあります。
【参考文献】
*1 豊町商工会:みたらい通志(2003.3)P.3-P.6
*2 別冊宝島:行ってはいけない!ニッポン不思議島異聞(2006,宝島社)P.76-P.80
*3 真鍋鱗二郎:海棠記(讃文社,1986)P.219-P.220
*4 井伏鱒二:消えたオチョロ舟(加太こうじ編:日本の名随筆 別巻15 色街(作品社,1992)P.146)
*5 豊町観光協会:お茶屋若胡屋遺跡と御手洗(2003, 豊町観光協会)P.6-P.7
*6 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002)P.92-P.93
【参考CD】
*7 緩急車雲助:巷談 御手洗港の遊女哀歌(2003,KS-music)
近世中期、沖乗り航路の開発に伴い、新興港湾都市として御手洗港が建設され、大崎下島は注目されるようになりました。*1*2
瀬戸内の港町では「おちょろ舟」が付きもので、その中でも、御手洗の「おちょろ」がいちばん有名でした。「おちょろ舟」は、遊女たちを乗せた小さな舟のことです。*1*2
江戸時代に作られた防波堤である「千砂子波止(ちさごはと)」は、チョロ稼業を通年安定させました。*3
御手洗港のある住吉町には、船宿や置屋が建ち並び、歓楽街として発展をとげました。船宿は、御手洗に入港した船の積荷の取引をはじめ、水や薪等の供給、船乗りの宿泊等の一切の世話をするもので、藩ごとに指定の船宿がありました。*4
現在も船宿の建物が残されています。
【参考文献】
*1 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.200-P.226
*2 五木寛之、沖浦和光:辺界の輝き(講談社,2006)P.153
*3 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.316
*4 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.116
今回は、御手洗(広島県豊田郡大崎下島)の町並みと風俗を散歩します。御手洗(みたらい)は、瀬戸内海のほぼ真ん中に浮かぶ大崎下島の港町です。
JR山陽新幹線で三原まで行き、JR呉線に乗換えて竹原駅で下車、駅から、タクシーかバスに乗り約5分で竹原港につきます。竹原港から高速船で約40分、御手洗港に到着します。高速船は、1日8往復運行されています。
御手洗は、江戸時代に潮待ち風待ちの港として栄えた港町でした。江戸時代から昭和初期にかけての貴重な建物も残されており、町並み保存地区に指定されています。*1
現在は、観光地として整備されています。絵地図で書かれた観光スポットの案内板があります。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.2(2003)P.4
第一京浜の裏手に昔の赤線時代の建物がごっそり残る路地があります。その路地に、さらに細い路地が直交しています。
かつては、この路地は賑わい見せていたのかもしれません。
アーケードが痕跡が残っています。
使われていない旅館の入口。
今回は、曙町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。日の出町の駅から伊勢佐木町方面へ向かう途中の末吉町のあたり。古い雑居ビルがあります。
1階に、料理店があります。
料理店のプレートが残っています。
一見さんお断りの注意書き。
思い出横丁の中ほどに、公衆トイレの看板があります。公衆トイレは、この看板のところを右に曲がったところにあります。
隣の狭い路地には、立小便禁止の看板。昔、この横丁がしょんべん横丁と呼ばれていたのは、小便臭かったからかもしれません。
狭い路地の奥まったところに、公衆トイレがあります。
きちんと掃除されていて、綺麗です。
新宿駅前に「思い出横丁」、「やきとり横丁」と看板が掲げられた飲み屋街があります。昔は「しょんべん横丁」と呼ばれていました。
もつ煮がおいしそうな飲み屋や、やきとり屋が軒をつらねています。
線路沿いの横丁は、「やきとり横丁」と呼ばれています。こちらは、明るい雰囲気です。
横丁を横断する狭い路地。人ひとりがやっと通れる幅です。
【参考文献】
*1 泉麻人:青春の東京地図(晶文社,2001)P.209
十二社(西新宿2丁目)には、再開発を免れた一画があり、昔の花街の面影が残っています。
写真は十二社通り西側のビルの裏側ですが、階段の下までが弁天池で、ホテルや旅館のある高くなっている所が池畔で、このあたりに料亭が並んでいました。*1
落ち着いた感じのこじんまりとしたホテルです。
もう1軒旅館がありました。
坂道を下ったところが十二社通りです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.114
新宿中央公園に隣接する場所に熊野神社があります。このあたりは、かつては十二社(じゅうにそう)という地名でした。
境内に案内板があります。これによると、十二社は、池や滝を擁した江戸時代からの景勝地で、明治時代からは遊興地として発展し、第一次大戦後は、約60軒の料亭があったそうです。
案内板に掲載されていた「十二社の池」の写真
「十二社の池」は、十二社通りをへだてて建つ現在はビルが建っているあたりにありました。 *1
現在、「十二社の池」は、バスの停留所の名前に名残を見ることができます。
【参考文献】
*1 熊野神社:「十二社 熊野神社の文化財」案内パンフレット
西新宿8丁目は、昭和の時代の民家やアパートが数多く残る静かな住宅街です。
「ピンクビラお断り」の貼り紙が貼られています。ということは、このような住宅街までピンクビラを貼りに来る業者がいるということでしょうか。
アパートの入口付近。
古いアパートの入口にある郵便受け。
今回は、西新宿(東京都)の町並みと風俗を散歩します。
西新宿と言えば、広大な地下街をイメージします。かつてこのあたりは、ホームレスの人たちの居住地区でした。
新宿エルタワー近くの地下道に、「新宿区立新宿西口地下第二公衆便所」があります。一見何の変哲もない公衆トイレですが....
入口に、「この便所での寝泊りゃいかがわしい行為を禁止します。」の看板があります。看板は女子トイレ側に設置されているので、主に、「寝泊りゃいかがわしい行為」は女子トイレで発生しているのでしょうか。
男子トイレの内部は、それほど広いスペースではありません。
メインストリートから路地を入ったところに、飲食店やスナックが建ち並ぶ歓楽街があります。
スナックなどの店舗が営業しています。
2階建ての建物。
看板が密集しています。
小姓町にある東前稲荷神社。
案内板に小姓町遊廓の歴史が紹介されています。これによると、文政4年(1821年)に山形城主の秋元涼朝(すけとも)により、城下に遊女屋が置かれたのがはじまりで、明治17年に貸座敷業者が終結し、小姓町遊廓となりました。
イチョウの落ち葉が一面を覆っていました。この稲荷神社もイチョウの木と共に歴史を刻んでいるようです。
昔は町の中を、このような小川が縦横に流れていたのかもしれません。