京島三丁目には、長屋住宅が散在しています。
木製の物干し竿受けがあります。
昭和の住宅の風景です。
かつては、長屋住宅が連なっていたのだと思います。
京島三丁目には、長屋住宅が散在しています。
木製の物干し竿受けがあります。
昭和の住宅の風景です。
かつては、長屋住宅が連なっていたのだと思います。
キラキラ橘商店街から、西側へ路地を入ったところ。
昔からあると思われる長屋の建物が、健在です。
一階の入口。
2階には物干し台。
今回は、鳩の街(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
京島三丁目付近は、長屋の建物が多く残っているエリアです。その中でも特に長大長屋群が十軒橋通りの北側にあります。
青色のトタンの長屋。
長屋と長屋の間の路地。
製造業を営んでいるお宅。
高円寺駅北口の商店街から路地を一本入った住宅街に小杉湯があります。
破風屋根の下の欄間の木彫り(写真下部)は屋久杉(現在は、伐採禁止)の両面彫り、鯉の木彫り(写真中央)は硬いケヤキ材を使用しています。夜になるとライトアップされます。(小杉湯の案内板より)
今回の改装で、くっきりと浮かびあがるようになったそうです。
昭和8年の創業ですが、最近改装されました。
待合室からは、破風屋根を支えるケヤキの柱を見ることができます。
今回は、高円寺(東京都杉並区)の町並みと風俗を散歩します。
JR高円寺駅南口周辺には、数多くの居酒屋があります。
ガード下近くにも居酒屋がたくさんあります。
レトロな感じの建物。
この居酒屋の店内では、ナンパ行為禁止です。
洲崎の東側(東陽一丁目)に古いアパートが残っています。
アパートの看板に、旧地名である「洲崎弁天町」の表示が残されています。文字のデザインもレトロです。*1
南開橋近くの民家。
古い住宅地図が残されています。昭和の時代のものと思われますが、現在と比べるとバーやスナック、銭湯などが多かったようです。
【参考文献】
*1 舟橋左斗子、山口スネ夫:散歩の達人(弘済出版社,1996.11)P.27「旧赤線の今を歩く」
旧洲崎遊廓の東側の通り。
ここに、現在も原型をとどめている建物があります。
見事なファザードを持った建物です。
3つあった入口のうち、中央の入口のみが使用され、他の2つの入口は閉じられています。*1
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.15
大通りに面した商店街には、旧町名である「弁天町」の名前が残っています。
ここに毎日長蛇の列ができるラーメン屋があります。
この店は、タンメンがおすすめです。*1
シンプルな塩味です。キャベツがたっぷりなのが特徴です。
*1 散歩の達人(1996.11)P.27「旧赤線の今を歩く」
いなげの浜に隣接する稲毛海浜公園は、デートスポットであるらしく、アベックを狙う犯罪が多発している模様です。
いわゆる「アベック狩り」というやつでしょうか。
野球場のバックネット裏の松林には、痴漢・暴漢注意の看板。くぼ地の地形になっていて、人目につきにくい場所です。
テニスコート裏にも同じ看板。
「野球場裏はハッテンの場所」という情報もあります。*1
【参考文献】
*1 斎藤靖紀:別冊宝島(1996.11)「ウラ東京観光 決定版!」P.184-P.186 「ゲイのための無料ハッテンバ紹介」
昭和30年代まで海岸線だった稲毛浅間神社付近*1 から数キロ離れたところに現在の海岸線である「いなげの浜」があります。
休日は家族連れで賑わいます。
海岸の東側の日焼けスポット。
ムック本によると、公園東側にある球場周辺の松林内は、ハッテンスポットとのことです。*2
【参考文献】
*1 風俗散歩(稲毛):稲毛浅間神社(2007.9)
*2 斎藤靖紀:別冊宝島(1996.11)「ウラ東京観光 決定版!」P.184-P.186 「ゲイのための無料ハッテンバ紹介」
今回は、稲毛(千葉県千葉市)の町並みと風俗を散歩します。国道14号線沿いに「ビジネスホテルきらく」の看板があります。
「きらく」がある場所には、「海気館」と呼ばれる別荘式の旅館がありました。昭和の初期、稲毛が千葉文化の中心でした。「海気館」ゆかりの作家としては、森鴎外、島崎藤村、田山花袋、徳田秋声、有吉佐和子、松本清張などがいます。*1
昭和30年頃まで、稲毛一帯は自然の海岸線を生かした一大リゾート地でした。特に春から夏にかけては、潮干狩り、海水浴のメッカとして、海のない埼玉県、栃木県、群馬県など関東近県から毎年何十万という人々がここを訪れました。*1
「きらく」の近くには、稲毛浅間神社があります。
祭礼用の海中岩。昔は、ここが海岸線でした。
昭和の初期、東京から1時間内外で行けるところで、松林のある風景の良い海岸は、ここだけでした。*2
稲毛浅間神社内にその面影を残す松林があります。
【参考文献】
*1 財団法人千葉市文化振興センター:(カルチャー千葉36号)P.34-P.36「海気館いまむかし物語」
*2 松川二郎:東京近郊日がへりの行楽(誠文堂,1930)P.266
千葉市花柳界の代名詞になっている蓮池ですが、現在は”蓮池通り”にその名が残されています。*1
料理屋の「歌舞伎」は、昭和の初期から続く老舗です。
今も昔の面影を残しています。
蓮池と書かれた暖簾。
【参考文献】
*1 松谷富彦・小池淳達:蓮池・女人聞き書き抄 (吾妻町青蓮会,1978)P.89-P.96 付録の地図「昭和10年頃の蓮池周辺」
千葉市中央3丁目から4丁目にかけては、千葉市花柳界の代名詞になっている蓮池があった場所です。*1
木更津街道から来る大通りが銀座通りと交差するあたり、明治22年創業の刃物専門店があります。
刃物専門店前の歩道に「蓮池の碑」があります。「蓮池の碑」は3度の移転を繰り返し、現在の場所にありあます。
この碑面には、徳田秋声の傑作「縮図」の一節が刻まれています。「蓮池の埋め立てだという蓮池の花街は、駅から二丁ばかり行った通りにあった。その辺には洋食屋かカフェ、映画館もあり、殷賑(いんしん)地帯で、芸者の数もいま銀子のいる東京のこの土地と甲乙で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭も幾つかあった。...」*2
裏面には、蓮池由来記が書いてあります。「蓮池とは千葉市花街の代名詞であり、現在大千葉市中心吾妻町商店街として栄えております。その昔は広い蓮田を次々と埋め立て料亭、待合、芸妓置屋等が建ち、ここのみが三業の許可地として年を遂うて繁栄を極めるに至りました。...」*2
【参考文献】
*1 財団法人千葉市文化振興センター:(カルチャー千葉36号)P.30-P.33「花街の碑のゆくえ」
*2 松谷富彦・小池淳達:蓮池・女人聞き書き抄 (吾妻町青蓮会,1978)P.89-P.96 付録の地図「昭和10年頃の蓮池周辺」
栄町のソープランド街の中心部。広大な敷地のソープランド街に店舗が点在しています。
栄町のトルコ全盛時代と較べると、現在のソープランドの軒数は少し減少しているように思われます。それを印象づけるソープランドの廃墟があります。
建物の上部。下から見上げると大きな建物であることが解ります。
王朝風の豪華な造りです。
今回は、千葉(千葉県千葉市)の町並みと風俗を散歩します。
栄町のソープランド街の中には、古いスナックが数多くあります。休業中の店も多いようです。
営業中のソープランドの隣にある和風スナック。
風情のある建物。現在は休業中のようです。
休業中の店の入口。
三崎港から横須賀方面へ向かうと、かつて景勝地として知られた八景原があります。ここは、断崖絶壁となっていて、立ち入り禁止の看板が立っています。
そこには、供養塔が海に向かって建てられています。
ここは、明治時代、遊女たちが投身自殺をした場所のようです。
眼下には、美しい海が広がっています。
三崎港近くの通り矢と呼ばれる場所に来ました。船の修理所などがある場所です。
古いアパートの窓に取り付けられている木製消化器箱。
この町には、消火器箱がたくさんあります。
大きく赤い箱は目立ちます。
北条花街があった狭塚川沿いに、昔料亭だったと思われる建物が残っています。 現在は、仕出弁当屋として営業中です。
門構えは立派です。
歴史を感じさせます。
横から見ると、かなり奥行きのある建物であることがわかります。
北条湾に注ぐ狭塚(さづか)川下流の諏訪町のあたりは、遊廓から温泉街へと姿を変えていった場所です。*1
このあたりは、かつて北条花街があった場所です。
飲食店風の建物。
昭和33年に売春防止法が施工され、狭塚川の下流両岸にあった三崎花街は消滅し、その後北条温泉街として再出発しましたが、風呂へ入り、酒食を楽しむ人は多くはありませんでした。*1
【参考文献】
*1 辻井善弥:横須賀・三浦今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.68
今回は、三崎(神奈川県三浦市)の町並みと風俗を散歩します。
一本帆柱の回船や漁船が近海を航行していた頃の非難港や風待ちの港に、なくてはならいものは、遊廓と日和山(ひよりやま)であったと言われています。*1
「続セピア色の三浦半島」 に掲載されている大正2年の写真には、こんもりとした丘のような日和山が写っています。日和山とは、出港時に船頭が、日和山に登って風の向きや日和を判断した場所のことで、天気予報のない時代には、日和見(ひよりみ)はかかすことのできないものでした。*1
下の写真は、同じ場所から見た現在の風景(城ヶ島大橋から撮影)ですが、日和山らしき丘は見当たりません。役割を終えて住宅地に変わってしまったようです。
三崎港の南側にある城ヶ島の遊ヶ崎から見た三崎港方面。
三崎漁港に船がたくさん入った頃は、北条湾に沿って走る市道に面して、町工場や水産会社並んでいましたが、現在は少し寂しくなったようです。*2
北条湾の様子。漁船が停泊しています。
【参考文献】
*1 辻井善弥:続セピア色の三浦半島(郷土出版社,1996)P.75-P.76
*2 辻井善弥:横須賀・三浦今昔写真帖(郷土出版社,2003)P.3
歌舞伎町の新宿区役所通り近く。
通りには、ラブホテルがあります。デリバリー系の風俗店にも活用されている模様です。
ラブホテルの脇の路地に、木製の電柱が残されています。
電柱に、「横断歩道は手をあげてわたろうよ!」の貼り紙があります。歌舞伎町の怪しい通りで、このような清く正しい貼り紙にお目にかかるとは思いませんでした。
アダルトDVDショップの多さは、歌舞伎町の町並みを特徴づけています。コマ劇場裏には、店舗が密集したエリアがあります。
DVDショップが連続するあたり。
風林会館近く。
店構えに派手さはありません。
新宿区役所の裏手にストリップ劇場があります。
入口付近。ピンク色の看板があります。
歌舞伎町のストリップ劇場は、中国人(主に台湾、香港経由)女性観光客に人気があり、客席の大半を占める事も珍しくありません。彼女たちが、海外から着てまで日本のストリップを見たがる理由は、日本のアダルトビデオが大量に流れ込んでいるためと言われています。*1
看板をよく見ると、「5200日元」と料金表示が中国人向けに書かれています。
看板には、英語(StripLive)、韓国語(ハングル文字)、中国語(脱衣舞)の3カ国で、書かれています。
余談になりますが、ソープランドは、中国語で「按摩洗澡間」と書くそうです。*2
【参考文献】
*1 週刊新潮(200.8.31)P.52 「中国人観光客が「占領」歌舞伎町ストリップのかぶりつき」
*2 坂戸みの虫:淫詞褻語(太平書屋,1981)P.13
今回は、歌舞伎町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
歌舞伎町二丁目。職安通りから斜めに明治通りに抜ける道路は、ラブホテル街の中心部ですが、その中でポッカリと空き地になっている場所があります。この場所には、「ホテル東峰」がありました。
昭和30年代の半ば、この近辺は、”温泉マーク”、”さかさくらげ”などど呼ばれた連れ込み旅館が並ぶ旅館街でした。昭和30年代の後半からは、旧来の”連れ込み”のイメージを払拭した鉄筋のホテル街が形成され、「ホテル東峰」もその一角に進出しました。
「ホテル東峰」跡地の隣に、同じ時代に開業したと思われる「楽苑」があります。
真新しいブティックホテルが建ち並ぶ歌舞伎町では、貴重な存在です。
レトロな感じの入口付近。
【参考文献】
*1 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.51-P.53
日ノ出町駅前の交差点に「ストリップ浜劇」と大きく書かれた建物があります。
町並みに溶け込んでいる感じがします。
歴史を感じさせる入口。
「夜9時よりビール無料飲み放題」の嬉しいサービスがついています。
日ノ出町駅近くに、映画館の大きな看板があります。
光音座1と光音座2に分かれています。
光音座2の看板。
近くにある映画館の「かもめ座」。
野毛の飲食街。
飲み屋街が密集する一画です。
2軒ならんだ店舗。黒い柱が3本レイアウトされています。
柱は黒いタイルで装飾されています。
現在の野毛は近代的な商店街ですが、かつての闇市を思わせるようなバラック風の建物もあります。
レトロなラーメン屋さんですが、ちょっとデザインが派手目です。
看板に書いてあるメニューは、かなり刺激的です。
このお店のお勧めメニューは、こちらのようです。
中央1丁目は、古くからの商店街です。
2階部分が石造りのモダンな感じの建物。
1階は、理容室です。
年代物のサインポール。
木更津銀座は、古からの商店街です。
木更津銀座の中心街。交差点近くにある明朗会計の店。
入口。
「熟女」看板。
木更津の遊廓があったと思われるあたりには、飲食店や旅館が建っています。
旅館いせや。
昭和の時代の雰囲気が残る旅館です。
旅館組合の会員章。
「大木更津」*1 によると、「仲片町の海岸には、遊廓があって、辛うじて華やかなりし昔の木更津の船着場風情を止めてゐる。新鈴木楼、中村楼、京都楼の三妓楼あり。(中略)江戸へ帰る船の旅人と窓の女とが、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しむだであらう情趣を思ひ浮かべて限りなく興の湧くのを覚ゆるのである。」と記されています。
仲片町は、現在の中央二丁目付近です。
高崎繁雄さんの「木更津地名散歩」によると、仲片町公会堂のあったあたりは、昭和十年代は海だったところで、船着場になっていて、高崎さんは、「子供心に異様に冷たい雰囲気を感じて通り抜けた俗にいう岡場所の店さきに商品のように並んだ女性の無表情な顔を思い出すことがある。」と述べています。*2
南片町浜通りから西へ延びる通り。未舗装の道が緩やに下っています。
未舗装の道を進んだ先(仲片町公会堂の裏手)は、広い空き地(児童公園)になっています。
「大木更津全図」*1 には、貸座敷の場所が記載されていますが、仲片町公会堂の裏手あたりのように思えますが、精密な地図でないため、正確な場所は不明です。
2枚目の写真の一本南側の通り。南片町浜通り方向を見たところ。
【参考文献】
*1 石川空山,石崎白水:大木更津(木更津日報社,1939)P.47,付録「大木更津全図」
*2 高崎繁雄:木更津地名散歩⑥(新千葉新聞に掲載)(1976.3.1)
旧中片町(現在の中央三丁目)に人参湯があります。ピンクの板壁が印象的です。
銭湯と風俗店の看板。(近くに風俗店があるようです。)
玄関では福助さんがお出迎えです。
福助さんのタイル絵は、他に、横浜の末広湯でも見ることができます。*1
脱衣場には、大きな熊手が飾られています。最近、改装したらしく、浴槽などの設備や天井のペンキは新しいものでです。富士山のペンキ絵には、「本栖湖、17.8.8」と記されていましたので、2年前の平成17年8月に改装されたものと思われます。
スナックが連なる富士見町の飲食街の中に建つ古びた旅館。
2つの棟がつながっているところに、玄関があります。
鍵の手になった路地を回り込むともう一つの入口が現れます。
反対方向から見た裏口。
今回は、木更津(千葉県木更津市)の町並みを散歩します。
駅前から西にのびる富士見通りから路地を入ったところに、昭和の面影を残す飲み屋街があります。
路地の両側にスナックが建ち並んでいます。
明るく楽しい店。
風俗営業(バー)のプレート。
調布の隣駅の京王多摩川駅から5分ほど歩くと多摩川に出ます。広い河川敷は、野球やサイクリングをする人々の憩いの場となっています。
多摩川沿いに京王閣輪場があります。
この場所には、戦前は東京近郊最大の規模を誇っていたレジャーランド「京王閣」がありました。*1
京王閣は、鉄筋コンクリート3階建ての近代建築で、大浴室、音楽室、美容室、喫茶室、大食堂、ビリヤード場などがありました。*2
また、終戦直後、京王閣には、「京王閣ニューキャッスル」とう名の占領軍向けの慰安施設が作られました。*3
洋風建築の京王閣はダンスホールをひらき、慰安婦の他に、専属のダンサーをおいていました。ダンサーが兵隊を興奮させておいて、その兵隊を2階のベットルームで待つ慰安婦のもとへ送り込む巧妙な分業組織でした。もともと家族づれであそびに行く京王閣は、戦争中子どもが疎開したたため、遊休施設になっていたのでした。*4
昭和の初年代から十年代にかけて、想像をこえた“旅行ブーム”の時代があり、その一つに“川遊び”“舟遊び”がありました。車のない時代、人々は二子多摩川から京王多摩川まで、京王多摩川から登戸まで、とういうように新緑の中を、あるいは涼をもとめて歩きました。*2
二子多摩川周辺、京王多摩川周辺、登戸周辺には、和風旅館が軒を並べていました。つげ義春は、「無能の人」において、「ひと昔前まではお花見、舟遊びが盛んだった所でうなぎもとれたんですよ。」「その宿屋や料亭が今では連れ込み宿に転業しているわけですな。」という会話を記し、土手ぎわのあやしげな旅館を描いています。*5
【参考URL】
*1 京王グループホームページ
【参考文献】
*2 松川二郎:日がへりの行楽(金正堂,1930)P,110-P.111
*3 聞き書き集編集委員会: 調布の里ものがたり(調布市生活文化部女性課,1999)P.71-P.86
*4 神埼清:決定版・神埼レポート 売春(現代史出版会,1974)P.141-P.142
*5 高野慎三:つげ義春を旅する(ちくま書房,2001)P.262-P.267
甲州街道と交差する鶴川街道から京王多摩川駅に向かったところにあるいなり橋児童公園付近は、静かな田園風景が残っている所です。
漫画家のつげ義春の作品「退屈な部屋」や「夏の思い出」の背景に登場する木造アパートの「ひなげし荘」はこの付近にありました。*1
実際、つげ義春は、調布市下石原の「ひなぎく荘」を仕事部屋にし、「夏の思い出」を書き上げているので、この「ひなぎく荘」が、漫画の「ひなげし荘」のモデルだと言われています。現在、「ひなぎく荘」は無く、その場所には近代的なアパートが建っています。*1
近くには、「夏の思い出」に登場するひき逃げ被害者の女性が倒れていた場所と思われる畑があります。*1
かつては、ホタルやカエルがいた小川。*1
<「夏の思い出」のストーリー>*1
ある日、主人公の男は風呂屋からの帰りに、ひき逃げの現場を目撃し、畑の中に倒れた女性に近づき声をかけるが返事がありませんでした。そして、なぜか男は、倒れた女性のパンティの中に手を差し入れるのでした。
事件が遠のいたある日、男が自転車に乗って散歩に出かけると包帯をしたひき逃げの被害者に出会います。そして、男は、パンティの中に手を差し入れたときの感触を思い起こし、「なつかしいな」と実感するのでした。
【参考文献】
*1 高野慎三:つげ義春を旅する(ちくま書房,2001)P.252-P.263
調布の売春業は、布田五宿(国領宿、下布田宿、上布田宿、下石原宿、上石原宿)と呼ばれる宿場町の飯盛旅籠として江戸時代に始まり、その後、貸座敷業として発展し、明治時代に21軒の妓楼を数えました。その後衰退しましたが、敗戦後、調布特飲街(仲町特飲街)として勢いを盛り返しました。*1
現在の仲町通りは、スナックなどの飲食店と住宅地が混在する通りです
町並みは新しく、赤線時代を連想させる建物は残っていません。
赤線街の中心部である交差点には、現在はホテルが建っています。
漫画家つげ義春の「退屈な部屋」という作品に登場する「丸窓の家」は、このあたりにありました。*2*1 聞き書き集編集委員会: 調布の里ものがたり(調布市生活文化部女性課,1999)P.71-P.86
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.46-P.47
駅前にある商店街の百店街。大きなゲートがあるので、すぐにわかります。
飲食店が密集する通り。
スナックやバプの他、風俗店も散在しています。
旧甲州街道側の入口。
今回は、調布(東京都調布市)の町並みと風俗を散歩します。
京王線調布駅からは、相模原線(多摩川、橋本方面)が分岐します。
赤線跡研究家の木村聡さんは、つげ義春の作品「退屈な部屋」の舞台の調布の町並みを歩いています。「退屈な部屋」の主人公が自転車で渡ったと思われる踏切。*1
同じく、作品の中の一コマに似た蓮慶寺付近の風景。
旧甲州街道を渡った仲町通りの入口。作品の中には、「角谷食品店」がありましたが、現在はコンビニ店になっています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.47
郡山駅の南側の閑静な通りに、”世界のバーレスク”と謳われた「郡山ミュージック」*1 があります。
花電車ショー、SMショーなどの楽しい企画の他、毎週日曜日には、観客参加の大喜利なども企画されました。*1
入口付近。
お客様本位であることが、伝わってくる看板。
【参考文献】
*1 児玉貞治朗:ストリップ全解(大洋書房,2000)P.3-P.5
郡山駅の南側の住宅地に銭湯の不動湯があります。
建物の側面にカタカナで「フドーユ」と書かれています。
迫力のある正面入り口。
大きな電球と中央部分の丸太が特徴です。
駅から南側に徒歩10分ぐらいのことろにある堂前町に、盛り場があります。
レトロな建物の居酒屋。
中華店などが入る長屋風の建物。
赤線研究家の木村聡さんは、堂前町の盛り場について、「赤線地帯の一つだったのではないか。」と推察しています。*1
ある店の入口付近。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.104
郡山市街から少し離れた高台の赤木町にはかつて遊廓があり、現在は遊廓の大門だけが残されています。*1
「明治参拾四年九月建立」と書かれています。
周囲は、マンションなどの住宅街となっています。
門を通る車。
【参考文献】
木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.108
今回は、郡山(福島県)の町並みと風俗を散歩します。
駅前から、商店街が続いています。
商店街を5分ほど歩いた所に、成人向け映画館の「大勝館」があります。
かなり目立つ大きな看板。
映画館の入口付近に、ホモちゃんマーク*1 入りの森永牛乳の保冷箱がありました。
【参考記事】
*1 風俗雑感:ホモ牛乳
あけぼの町飲食店街の規模からいって、公衆トイレは必須です。
飲み屋の建物に囲まれた中庭のような場所にあります。
綺麗に清掃されています。
トイレから外を見たことろ。
整備された新庄駅前(西口)から徒歩3分ほどのところ(若葉町のあたり)に、飲み屋街があります。
大きなアーチがあります。なぜか道路に対して横向きに設置されています。ビール会社の看板が賑やかです。
3階建ての建物もあります。
路地は、昭和の雰囲気が漂っています。
酒田港近くのフェリー乗り場に海鮮市場があります。
水揚げされたばかりの魚が並べられています。
海鮮市場の2階に食堂「とびしま」があります。
赤線跡研究家の木村聡さんは、「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」の中で、酒田を訪れたときの感想を「料亭「小幡」を発見したことと、食堂「とびしま」の海鮮丼の味とボリュームに感激したことが最大の収穫」と述べています。*1
私も同じ海鮮丼を注文(1,050円)してみました。ごはんは少なめですが、刺身のボリュームは凄いです。
【参考文献】
*1 木村聡:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」P.293
ある古い民家の入口付近。
鹿野牛乳の牛乳箱。六ツ葉のクローバー?とでも呼べそうな特徴のあるマークです。真ん中の「K」は、鹿野の「K」でしょうか。
菊水旅館の裏口にあった伊藤牛乳の牛乳箱。牛のマークです。
酒田の牛乳箱は、種類が豊富です。ある旅館の入口にあった田村牛乳の牛乳箱。可愛らしい女の子のキャラです。
日和山公園に、料亭「小幡(こはた)」の建物が残っています。*1
料亭「小幡」は、昭和4年刊行の「全国花街めぐり(松川二郎著)」に、「山海の景勝をあつめて眺望絶佳設備また最もよく整ひ、庄内随一といはれる代表的料亭」と写真入りで紹介されています。*2
建物の左側半分は、レンガ造りの洋風の建物で、右側半分は和風の建築です。
下から見上げると迫力があります。
現在は、休業中ですが、営業していた当時の看板が残されています。
【参考文献】
*1 木村聡:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」P.292
*2 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.697
日和山公園の東側、船場町の菊水旅館付近は、かつて遊廓があった場所です。*1
菊水旅館。
付近は、近代的な建物にばかりで、昔の妓楼のような建物は残っていません。
船場町からさらに道を下っていくと、酒田港へ出ます。
【参考文献】
*1 木村聡:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」P.292
今回は、酒田(山形県酒田市)の町並みと風俗を散歩します。
最上川の河口に位置し、庄内米をはじめとする水運で栄えた酒田には、もともと遊所が3ヶ所ありました。文化10年(1813年)、港に面した船場町と、市街の中央にある今町(現在の日吉町)がまず公許され、次に郊外の高野浜も公許されましたが、明治27年の庄内大地震後、高野浜一ヶ所に統合され、娼妓と芸妓の両方を置く新しい遊廓が作られました。*1
北新町に、村社稲荷神社があります。
道路に面した掲示板のところに、旧町名を示す柱が立っていて、このあたりが高野浜であることがわかります。
稲荷神社の中に、「弘法大師の腰掛石」というのがあります。
掲示板には、弘法大師がこの石の上に腰をおろし、海岸の風景を望見し「高野浜」と命名したと書かれています。
【参考文献】
*1 木村聡:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)「秋田紀行 遊廓跡をたずねて」P.290-P.291
加茂緑町から海に向かって歩くと、加茂港にでます。
かにの即売所があります。
加茂港は、天然の良港として発展し、江戸時代には庄内の一大門戸として栄えました。
小さな港ですが、かつては、賑わいをみせていたのだと思います。
今回は、加茂(山形県鶴岡市)の町並みと風俗を散歩します。鶴岡駅からバスに乗り、加茂港の手前の加茂緑町に着きました。
享和3年(1803年)、幕府は、鶴岡、酒田に加えて加茂の旅籠屋のみに遊女を置くことを許可しました。明治10年頃には、水戸屋、平屋、松代屋、小松屋、茂沢屋、吉川屋、うなぎ屋、笹屋のいわゆる女郎屋と呼ばれる家が8軒ありました。わずか500戸足らずの加茂に遊女を置くことが許可されたのは、船での人の出入りが非常に多かったためです。*1
吉川屋、うなぎ屋、小松屋があったあたり。*1
昭和59年までは、2軒の妓楼跡の建物が残っていました。*2
現在はその面影はまったくありません。
路地に入ると古い民家が残っています。
ここから少し歩くと、日本海に出ます。
【参考文献】
*1 加茂郷土史編纂委員会:加茂港史(1966)P.388,P.390
*2 秋野庸太郎:聞き書加茂湊遊廓(みちのく豆本の会,1991)口絵
新潟港に近い山ノ下に昭和の雰囲気の残る飲み屋街があります。
「Bar」の文字がかすかに残っている店があります。
裏側の路地。
装飾が施されたドアと窓。
古町八番町を折れて東新道の通りに入ると、昭和のはじめころの花街の情緒がただよってきます。ここに大きく位置を占める料亭「鍋茶屋」の白い壁が印象的です。
料亭「鍋茶屋」の歴史は古く、創業は明治維新の前夜。黒船が来港し、新潟港が横浜、神戸、函館、長崎などとともに国際港化を迫られてきた前後でした。*1
料亭の入口近くに人力車が置いてあります。門前で人力車を降りる芸者さんの姿が目に浮かぶようです。
東堀前通りから、料亭の建物の裏側を見たところ。
【参考文献】
*1 新潟日報事業社:新潟芸妓の世界(1973,新潟芸妓)P.13
十四番町の遊廓跡の通りの入口のあたりに、銭湯があります。遊廓跡には銭湯があることが多いですが、ここでも例外ではないようです。
入口は平凡な雰囲気です。昼1時半から営業しています。
建物の側面。2階建てなのか、3階建てなのか、内部の構造がどうなっているのか知りたくなります。
脱衣場にはロッカーがありません。貴重品は番台で預かってくれます。
新潟市十四番町遊廓は、本町通り十四番町、四ツ谷町一丁目、東堀町十三番町、寄附町西受地町、にまたがっていました。*1
寄附町は、現在は住宅街になっています。
「赤線跡をあるく2」に掲載されている「妓楼の跡と思われる建物」*2 が現在も残っています。
正面からみると、どっしりとし風格のある建物です。
側面から見たところ。
【参考文献】
*1南博:近代庶民生活誌.第14巻「全国遊廓案内」(三一書房,1993)P.94
*2木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.105
駅から信濃川を渡った稲荷町に、湊稲荷神社があります。
伝承によれば、男の方は右の高麗犬、女の人は左の高麗犬を、願意(ねがいごと)を心にねんじながら回し、祈願したといわれております。
高麗犬の台座は回転する仕組みになっていて、実際に手で回すことができます。(けっこう力がいります。)
和船の出入りで新潟港がにぎわっていたころ、港に入る船の船乗りは花柳界に遊び、その夜、遊女に送られて船に帰るのが新潟の風俗でした。
遊女たちは、毎夜船乗りが遊びに来てくれることを願い、夜中、ひそかに湊稲荷神社に行き、
社頭の高麗犬の頭を西の方に向け、西風が吹いて港口が荒れ、
海がしけて船が出帆できず、船乗りが夜ふたたび遊びに来てくれることを祈りました。
昔、遊廓があった古町の周辺は、現在は飲食街や住宅街になっています。
交差点の角に成人向け映画館「映劇大要」が営業しています。
最近ではあまり見かけなくなったオールナイトの映画館です。
入口付近は、衝立がたててあり、中の様子を伺い知ることができません。
暖簾があり、銭湯のような風情です。
駅前の繁華街のメインストリートに、大人のおもちゃ屋さんがあります。
明るい雰囲気の看板。
同じ建物の隣は、八百屋の入口があります。
もちろん、未成年者の入店お断りです。
今回は、新潟(新潟県新潟市)の町並みと風俗を散歩します。
新潟駅前のロータリから東へ1区画のところ。飲食店が密集しています。
外側が白く塗られたレトロな看板があります。「個室ヌード」と書いてあります。
看板の裏側を見ると、「ヘルス」の文字が書き加えられています。
別の店で見かけた看板。
百軒店(ひゃっけんだな)は、旧中川伯爵邸の跡地を丸ごと再開発したもので、大正期までは、文字通り数多くの店が並び賑やかでした。*1
開発当初は出入口が2箇所だけで、新吉原を思わせる囲い込み空間を作り出していました。メインの通りには、演舞場や映画館(写真右手)、劇場(写真左手)がありましたが、現在は寂れてマンションに建て替わっています。*2
マンションには、売買春を防止するために立入り検査をすることがある旨の貼り紙があります。
「ピンクビラ投げ入れお断り」の貼り紙もあります。
別のマンションの入口にある貼り紙。
【参考文献】
*1 鈴木健司:渋谷の考現学(NHK出版,2007)P.41
*2 岡本哲志:江戸東京の路地(学芸出版社,2006)P.107-P.109
道玄坂の坂の中腹に百軒店(ひゃっけんだな)への坂の登り坂があります。ここは渋谷駅側から来た場合の円山町への入口でもあります。
この場所のシンボルと言えば、坂道の途中にあるストリップの老舗「道頓堀劇場」です。1970年に開業しました。
入口にある大看板は、圧巻です。
「キャバレー日の丸」も同じような配色の看板であったことを思い出しました。*1
入口付近。
【参考記事】
*1 池袋(日の丸)
かつて花街だった円山町には、昔の面影が残る建物がわずかに残っています。
おでんやの「ひで」は、奥座敷があり、現在でも芸者を呼べる店として知られています。*1
お好み焼き屋「すずめの御宿」は、かつての料亭の趣を残した建物です。戦後すぐに建てられた芸妓屋置屋を改装したと言われています。*1
レトロな造りが時代を感じさせます。
【参考文献】
*1 鈴木健司:渋谷の考現学(2007,NHK出版)P.51,P.55
円山町のラブホテル街。若いカップルやデリヘルに利用されているようです。
現在も少量ながら、電柱にピンクビラが貼り付けられています。
電柱や街路灯の支柱は、ピンクビラが貼られては剥がされを繰り返したためか、塗装が剥げてあばた状態になっています。
通学路の電柱に貼られたピンクビラ。
円山町は、お洒落なラブホテルと花街の面影が残る料亭の建物が混在します。
十字路の近くに道玄坂地蔵があります。
東電OL殺人事件でで殺害された泰子さんは、昼間は東京電力に勤務し、夜はこの道玄坂地蔵の前で1日4人のノルマを自らに課し、客を引いていました。*1
ゴビンダ容疑者は、道玄坂地蔵のことを「お寺」と呼んでいました。彫られている「卍」のマークを記憶に留めていたのかもしれません。*2
事件直後、泰子さんに感応する同年代の女性たちのこの地蔵の参詣が絶えませんでした。彼女たちは「ヤスラー」と呼ばれ、地蔵も「泰子地蔵」と呼ばれました。*1
地蔵の唇は赤く塗られていますが、これはヤスラーの誰かが塗ったものではと言われています。*3
【参考文献】
*1 佐野眞一:東電OL症候群(新潮社,2003)P.103
*2 佐野眞一:東電OL殺人事件(新潮社,2003)P.416
*3 真樹龍彦:東電OL殺人事件行 迷宮のヒロイン(沖積舎,2005)P.55
今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
京王井の頭線神泉駅は、渋谷の隣の駅で、各駅停車のみがとまる駅です。
江戸期の記録によると、このあたりは神泉谷と呼ばれていました。*1
その名の通り、道玄坂上からくだった谷のような地形になっていて、神泉駅は、トンネルから出たところにあります。
神泉には、弘法湯という名前の湯があり、しだいに、湯のかたわらに休憩所や旅館ができ、芸妓も入るようになりました。明治20年頃から芸妓屋が近辺に開業し、花街となりました。*1
この花街は、後に円山花街となりました。*2
歌手の三善英史さんの「円山・花町・母の町」のヒットにより、円山町が花街であったことは広く知られるようになりました。三善英史さんの実母は芸者さんで、つまり、「円山・花町・母の町」は自叙伝的な曲で、三善英史さんにしか歌えない心にしみいる名曲でした。*3
日本中を驚かせた東電OL殺人事件の現場となった喜寿荘は、神泉駅のすぐ近くにあります。
【参考文献】
*1 竹内誠:東京の知名由来辞典(2006,東京堂出版)P.203-P.204
*2 渋谷区史
*3 鈴木健司:渋谷の考現学(2007,NHK出版)P.49-P.52
旧道から脇道を一本入ったところに倉賀野神社があります。
境内の入口の玉垣は、もともとは、冠稲荷神社(三光寺稲荷)にあったものが移されたものだそうです。*1
倉賀野宿の飯盛女は、寛保2年(1742年)に1軒2人づつを旅籠屋に置くことが許可されたのがはじまりで、明治中頃までその営業を続けました。*1
「升屋内はな、やす、ふじ」、「金沢屋内里津、ひろ、きん」、「新屋奈美、玉屋内ふじ」などと刻まれた玉垣がそのまま残っています。*1
升屋内はな、やす、ふじ。
また、元紺屋町の糀(こうじ)屋藤治郎、田町の桐屋三右衛門、ほか、高崎宿の名ある商家、職人の名もあります。*2
【参考文献】
*1 高崎郷土花街史 P.51-P.52,P.61
*2 倉賀野神社入口にある案内板
旧道沿いのお宅。宿場町らしい風情のある佇まいが残っています。
栗本牛乳の牛乳箱があります。
牛乳箱としては珍しい、横ストライプのデザインです。
別のお宅にあった、栗本牛乳の牛乳箱。こちらは、保存状態良好です。
今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
倉賀野駅は、JR高崎線高崎駅の1つ隣(東京寄り)の駅です。
改札口近くに白ポストがあります。丸型です。
「悪書」と書かれています。
郵便ポストの似た丸型のポストです。
柳川町中部地区の北側、ゑびす通りから路地を入ったところに銭湯があります。建物の形に特徴があります。
「本町支店湯」。
酒蔵で見かけるようなタイプの煙突。迫力があります。
脱衣場のロッカーは大きめで使いやすいです。
柳川町は、柳通りを境にして東側を東部地区、西側を中部地区と呼んでいます。飲食街として発展したのは東部地区でしたが、昭和の初期に芸妓街として発展したのは中部地区でした。*1
その中部地区には、わずかに古い旅館風の建物が残されています。
ゑびす通りの南側にある路地。
割烹旅館「信田」だった建物が残されています。*2
このあたりの建物は、おおかた芸妓屋でした。*2
建物の表側(ゑび通り)にまわってみると、美しい板壁が残されていました。
【参考文献】
*1 はせちゅう:柳川町花街物語(文芸社,2002)P.346-P.348
*2 根岸省三:高崎郷土花街史(1981)P.158
オリオン座の西側には、スナックが建ち並ぶ路地が続いています。
東側(写真左側)は、オリオン座との境の塀が続いています。
塀に、客引禁止看板が貼られています。
客引き・たちんぼう。
柳川町は、明治以降、乙種料理店街として繁栄しました。乙種料理店というのは従来の料理店を甲種とし私娼の宿を乙種料理店として区別したもので、乙種料理店が通称だるま屋と言われた私娼街です。*1
現在の柳川町はスナックやバーが密集するエリアとなっています。
グランドサロン「ホームラン」。
この路地を進むと、オリオン座の裏側の通りにでます。
電気館裏に、木造スナックが密集している一画があります。(写真奥の白い壁が電気館)
木造スナック。
スタンド「美樹」「寿奈賀」。
電器館(写真左側)との間に路地があって、その奥にある「吉野」「渚」の看板があります。
電気館通りには、その名の通り映画館の電気館がありますが、残念ながら平成13年から休館中となっています。*1
電気館は、大正2年(1913年)から高崎で初めての映画上映館としてのモダンな建物の日活電気館でした。毎日多くの映画愛好者の人たちで電気館通りは賑わい、電気館は、柳川町花街のシンボル的存在でした。*1
「STAGE-1」。何かの飲食店だったのでしょうか。
裏口の階段付近。看板が置き去りにされていました。
【参考文献】
*1 はせちゅう:柳川町花街物語(文芸社,2002)P.22-P.25
今回は、高崎(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
高崎中央銀座アーケード通りにある映画館の「高崎オリオン座」。
2003年2月28日に閉館しました。
閉館した当時のポスターが残されています。
オリオン1、オリオン2、オリオン3。
神田川から通りを一本入ったところに、篠塚稲荷神社があります。
正面の石柱。東京柳橋組合の名前があります。
側面の玉垣。両国花火組合、料亭の「いな垣」、「田中屋」の名前が刻まれています。
両国花火は江戸の年中行事になり、主催者である柳橋の名前は全国に知れわたりました。両国花火は、柳橋の広告塔のようなものでした。*1
【参考文献】
*1 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.72-P.73
柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1
柳橋から、北へ進み、総武線のガードをくぐると、蔵前高校へつづく一本道の途中に、料亭「いな垣」があります。
「いな垣」は、柳橋のみならず東京を代表する格式の料亭でした。*1
昭和20年代から40年代、「いな垣」をはじめとする柳橋の奥座敷で、毎夜、要人たちが日本の将来を話し、戦後の高度経済成長の道筋が決定されました。国賓のお忍びの接待は決まって「いな垣」で、この店の前まで皇族、総理大臣、大使館などの黒塗りの車が並びました。*2
「いな垣」の門前では、人力車から降りる芸者さんの姿を見ることができました。*2
昭和40年頃から柳橋の料亭が次々に廃業しますが、その中で「いな垣」は「お出先」(芸者が入る料亭のこと)を続けました。長いこと横綱審議委員会の会場を努め、平成に入ってからも「いな垣」はテレビの画面に何度も登場しました。*2
しかし、1999年、残念ながら「いな垣」は閉店し、江戸時代から200年間続いた柳橋は事実上廃業しました。柳橋が廃業した理由は、①東京から個人事業者が少なくなったこと、②柳橋が政界との距離を置くようになったこと、などがあげられますが、最大の理由は、③隅田川の汚染、でした。*2
江戸時代、「柳橋新誌」の著者の成島柳北が説いた芸者のあるべき姿とは、「気前好く振るい舞い、自尊の気概を見せ、その場その場に相応しい身の置きかたをしながら、当意即応の応対が出来る」という侠女と才女の理想を合わせたようなもので、惚れた男に尽くし、加えて美貌であることでした。*1
昭和の後期の元「いな垣」の女将で柳橋芸妓組合の組合長を務めた西川春喜久(はるぎく)さんの証言によると、お客様同士(接待する側とされる側)の心が通じあうのを助けるのが芸者の役割で、話の相槌が打てて、必要なときに必要な受け答えができるのが名妓の資格だそうです。*1
時代とともに名妓の資格は、若干の変化があったようですが、成島柳北が示したが精神は、柳橋の場合は平成の時代まで受け継がれていたようです。
【参考文献】
*1 岩下尚史:名妓の資格(雄山閣,2007)P.244-P.245,P.258-P.268
*2 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.70-P.74
現在の柳橋は、昔の花街の面影はほとんど感じられてないほど、町並みの雰囲気は変わってしまいました。数は少ないですが、現在も営業中の料亭が残っています。
亀清楼は、柳橋を渡った角の目印の場所にある由緒ある看板の店です。
黒板壁が美しい料亭「伝丸」。
昼間は、ランチが楽しめます。
とんかつ百万石。
安政6年(1856年)に刊行された成島柳北の「柳橋新誌」は、柳北がこの地に遊び、金と嘘とが支配する中にこそ思わぬ真実と純愛もあることを放蕩を通して知った体験に基づいたもので、刊行当時、大評判となり、明治以降も影響力を持ちました。*1
「柳橋新誌」には、「柳橋の妓は、芸を売る者なり。女郎にあらざるなり。而して往々色を売る者あり。何ぞや。深川の遺風あるを以って然るか。而して深川は即ち公に売り、此は即ち私に売る。」と書かれています。*2
江戸時代、深川には、色と芸をかねる「女郎芸者」がいましたが、柳橋は芸を売る芸者で、女郎ではありませんでした。しかし時々、深川の真似をして色を売る者もいました。*3
深川では芸者の売春が公然化していましたが、柳橋では売春しないという建前が一応あったわけです。*2
【参考文献】
*1 岩下尚史:芸者論(雄山閣,2006)P.96-P.100
*2 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.350-P.351,注釈8
*3 田中優子:芸者と遊び-日本的サロン文化の盛衰(学習研究社,2007)P.77
柳橋から見る船宿と神田川の眺め。
柳橋に住む芸者の実態を描いた「柳橋新誌」*1 に「皆ここを過ぎる者なく、五街(吉原のこと)の娼しに遊び、三場(歌舞伎三座のこと)の演劇を観、・・・皆水路を此に取る。故に船宿の戸、舟子(せんどう)の口(人数)、星羅雲屯(ほしのごとくつらなりくものごとくたむろし)、・・・」と書かれているように、この当時の江戸の重要な交通手段であった猪牙(ちょき)と呼ばれた小舟は、この柳橋の船宿から出ました。*2
神田川沿いに、船宿が並びます。
昭和の初期は、この道沿いに料亭があり、芸者さんが歩く風景が見られました。*3
【参考文献】
*1 佐竹昭広:新日本古典文学大系100(岩波書店,1989)P.339
*2 佐藤悟:國文学(1990.08)「柳橋 成島柳北「柳橋新誌」P.93
*3 日本文芸社:荷風(2007.6)P.32
今回は、柳橋(東京都墨田区)の町並みと風俗を散歩します。
柳橋は、神田川の出口に位置し、両国橋という大きな橋を近くに控えた江戸時代からの水陸の交通の要衝でした。また、墨田川の船遊びや吉原や深川に遊びに行く人たちにとっては好適な足場でもありました。*1
柳橋の名は、柳原堤(やなぎはらどて)の末端に架設されたことが由来とされています。柳原堤は、江戸城の凶位(きょうい)にあたるため、陰気を防ぐために陽木とされる柳が植えられていました。*2
現在は、鉄橋の橋が架かっています。
花街らしく、橋の欄干にはかんざしがデザインされています。
【参考文献】
*1互笑会:柳橋界隈(互笑会,1953)P.96
*2 加藤藤吉:柳橋沿革史(柳橋開橋祝賀会事務所,1929)P.10
山ヶ野金山史跡を流れる天降川沿いにゆるやかな坂道を登っていくと、恵比寿堂があります。ここから右に折れ、橋をわったったところに「田町遊廓跡」があります。
一面の田んぼで、案内板がたっているだけの場所です。
「色道大鏡」*1 の「薩摩國山鹿野遊郭図」によると、「うどん丁」と呼ばれた飲食街があり、飲食営業のかたわらで買春をやっていたと考えられています。*2
「色道大鏡」の作者である藤本箕山も来山しました。*1
【参考文献】
*1 藤本箕山,新版色道大鏡刊行会:色道大鏡(2006,八木書店)P.433,解題 P.28
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.174
JR肥薩線の大隈横川駅で下車し、タクシーで県道50号線を西へ30分ほど行くと、山ヶ野入口です。県道から少し入ったところに山ヶ野金山郵便局があり、郵便局の脇に山ヶ野金山の案内板があります。案内板の地図の通り、金山の史跡は、この一帯に散在しています。
山ヶ野金山の発掘は、寛永17年(1640年)に開始され、その後一時中断しましたが、明暦2年(1656年)に再開。この頃、田町に遊廓ができ、長崎、門司とともに九州三大遊廓の一つと言われました。*1
全国的に金の産出が落ち込んでいく状況にあって、18世紀後半には、山ヶ野金山は佐渡金山の3倍の産出量を誇った江戸期有数の金山でした。*2
火入坑跡。鉱山跡らしいスケールの大きな史跡です。
精錬所跡。
*1 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.174
*2 藤本箕山,新版色道大鏡刊行会:色道大鏡(2006,八木書店)解題 P.28
今回は、山ヶ野(鹿児島県霧島市)の町並みと風俗を散歩します。
JR肥薩線の大隈横川駅の駅舎は100年以上前に作られた木造駅舎です。
現在は無人駅になっています。
駅舎は、国の登録有形文化財に指定されています。2つ隣の嘉例川駅と並んで鉄道ファンに人気の駅です。
機銃掃射の跡。
ここから先の肥薩線吉松駅-人吉駅間は、ループ線やスイッチバックなどがり、当時の蒸気機関車が登れる最大勾配の路線です。そのため、途中の車窓は山あり谷ありで、「日本一の車窓」として知られています。
鹿児島市内の名山町に木造家屋の飲み屋街がひしめく路地があります。昭和のなつかしさを感じることができる場所です。*1
後方のビルは、市役所新館です。
なつかしさが残る長屋の佇まいです。
飲食店も営業中です。
【参考文献】
*1 深見聡:鹿児島の史と景を歩く(南方新社,2004)P.38-P.40
甲突町のメインの通りには、旅館やスナックだったと思われる建物が数軒残っています。
タイルの装飾があるお宅。現在はタクシー会社の建物になっています。
甲突町のメインの通りから、脇道に入ると元旅館だった建物が建ち並びます。
戦後間もない時代に建てられたと思われる民家が残っています。木村聡さんの「消えた赤線放浪記」*1 にも掲載されている建物です。
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.341
今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
明治32年、鹿児島市の塩屋村字沖田(現在の甲突町)に沖之村遊廓が設置されました。*1
沖之村遊廓は、甲突川を南の境とし、清滝川を北の境とする場所にありました。その清滝川に、思案橋と呼ばれる橋がかかっています。
思案橋は、ここらでいっぱいやった遊客が、この橋を渡って遊廓へ行こうか、それともこのままおとなしく帰ろうか思い案じる橋で、「思案橋」と名づけられた橋は、江戸の吉原をはじめ、各地の遊里の入口に見られました。*1
思案橋を渡ると、交差点に出ます。交差点の角には、昭和の初期からこの場所にある*2 城南派出所があります。
派出所の脇に「沖之村跡」の碑があります。この碑によると「沖之村」は「おっのむら」と発音するようです。
明治40年の遊廓付近の図*2 によると、この道の両側に妓楼があったはずですが、現在その面影はありません。
【参考文献】
*1 芳即正:かごしま女性解放史(高城書房,2004)P.73,77-P.78,P.84
*2 鹿児島市案内図(白楊舎,1932)折込地図6
旧水茶屋の通りにある質屋の脇の路地。この先に緑色の箱が見えます。
みどり牛乳の牛乳箱。箱の色はもちろん緑色です。
植木鉢で飾られた美しい路地が残っていました。ここにも牛乳箱があります(写真右下)。
牛乳箱も植木鉢で飾られています。
博多における花街は、那珂川沿いの中州、博多、石堂川沿いの水茶屋、相生、4花街がありました。このうちの一つ、水茶屋は、石堂橋から南東にのびる道筋(現在の千代3丁目)にありました。
「赤線跡を歩く2」*1 に掲載されていた写真と同じ場所。料理屋の田中屋があった場所は更地になっていました。
花街の名残を思わせる「水茶屋」という屋号の店があります。
茶房「水茶屋」。
逆方向から。
柳町では、元文5年(1740年)に選擇寺(せんちゃくじ)が旦那寺となり、遊廓でなくなった遊女のなきがらは、この寺に葬られました。*1
戒名もなく、無縁墓地に葬られる遊女が多い中、唯一、角屋の遊女雪友(二十才)は墓が建てられています。博多における唯一の遊女の墓です。*1
雪友は、他の遊女とは異なり、別格の扱いをされていたようです。
雪友は、文久元年(1861年)6月27日にこの世を去りました。*1
【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.67
今回は、大浜(福岡市博多区)の町並みと風俗を散歩します。大浜は、旧博多港に近い、現在の下呉服町、大博町付近です。
このあたりには、江戸時代初期から柳町遊郭があり、東京の吉原と同様、元禄期に全盛を迎えました。明治44年に柳町遊廓は廃止となり、代わりに現在の住吉地区に新柳町遊廓が作られ、遊廓廃止後は旧柳町と呼ばれるようになりました。*1
柳町遊郭は、現在の大浜小学校(平成10年、大浜、奈良屋、御供所、冷泉の四つの小学校が統合され、博多小学校が開校*2)があった場所にありました。*1
柳町遊郭は、竪町の北側の下竪町を右に折れ、カギ型にちょっとまわったところに大門がありました。*1
石堂川(現在の御笠川)から見た大浜小学校跡。校舎はそのまま残されています。
石堂川の川べりまでが柳町遊郭でした。*1
柳町遊廓の名残でしょうか。大浜小学校近くの電柱には「柳」と記されています。
【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.9-P.11,P.193
【参考URL】
*2 博多小学校ホームページ
中洲から那珂川沿いの道を南に行った住吉橋の交差点にある薬局です。
強烈な印象の巨大看板。
天神にある赤ひげ薬局。とにかく巨大です。
絶倫粉エンペラー。
中洲のソープランド街を特徴づけるのは、風俗専門ビルです。MANZOKUビルは清流公園からも見える巨大ビルです。
中州は、全国で唯一、ソープランドの出店が可能な地域だそうです*1 が、これが原因して近代的なビル型ソープランドが誕生したのかもしれません。
楽園ビル。
ビルの1階に入っている高級店の入口。
国体道路沿いにある中州会館。
【参考文献】
*1 週刊スパ(扶桑社,2007.5.22)P.41
今回は、中洲(福岡県福岡市)の町並みと風俗を散歩します。中洲と言えば日本を代表する風俗街です。
ソープランド街としての歴史は古く、1952年に「博多温泉トルコ」が中洲に開業しました。東京の銀座に「東京温泉」が開業した1年後です。*1
博多川から見ると中洲は島のように見えます。
博多川から見る清流公園。
国体道路と博多川で囲まれた場所が中州のソープランド街です。
博多川にかかる南新橋。国体道路側から行くよりも、この橋を渡って行く方が風情があります。
【参考文献】
*1 広岡敬一:トルコロジー(晩声社,1979)があるような気がします。
防火水槽のある路地※1 から脇道に入ったところにある緑色の牛乳箱。
やまぐち県酪のイメージキャラクター「ベルちゃん」のロゴマークは、時代とともに変遷しました。*1
・昭和42年:ベルちゃんが登場!
・昭和50年:シモラク
・昭和55年:酪農牛乳BELLCHAN
・平成6年:やまぐち県酪
こちらの牛乳箱は、酪農牛乳BELLCHANです。
シモラク牛乳+ベルちゃん。
山口県酪+ベルちゃん。
緑色の木の格子と米屋の看板がよく調和しています。
新地西町の奥まったところにある路地。理容室や米屋があります。
この路地を進んでいくと、営業中の食堂があります。
路地の雰囲気と調和した風情のある建物です。
コンクリート製の防火水槽でしょうか。凝った装飾がほどこされています。