千代田町4丁目にある寿司の「万両」。
一枚板の銘木の香るカウンター席。高級感があります。
同業者や取引先の名前が刻まれた額。歴史を感じさせます。
万両丼(海鮮丼)を注文。
千代田町4丁目にある寿司の「万両」。
一枚板の銘木の香るカウンター席。高級感があります。
同業者や取引先の名前が刻まれた額。歴史を感じさせます。
万両丼(海鮮丼)を注文。
前橋市街の繭市場通りの四つ角に建つ中華料理の「風雷」。外壁に蔦が絡まり、風格を感じます。
年季の入った看板。
カウンター席とテーブル席。
チャーシューメンを注文。
前橋の中心街にあるオリオン通り。繭市場通りと交差するあたりには、映画館のオリオン座がありました。
ダンスホール。
同じビルの1階の飲食店。
「明るく楽しいオリオン通り」。
前橋市街を流れる広瀬川沿いに、小さな緑地帯があります。長い円柱状の棒が突き出しています。
円柱状の棒の先に物体が安置されています。
このオブジェは、岡本太郎が制作した「太陽の鐘」です。
オブジェは、鐘と鐘をつくための鐘突き棒(鐘木=しゅもく)が一体となっています。
1970年大阪万国博覧会のときに、制作された「太陽の塔」と同じデザインの顔が鐘に描かれています。
「太陽の鐘」は、静岡県の「日通伊豆富士見ランド」で1966年に制作され、1999年まで設置されていましたが、その後、前橋市が寄贈を受け、中心市街地を流れる広瀬川河畔に設置されました。設置場所は約1.5m隆起した丘の上。鐘を撞く撞木(しゅもく)は約24m。周辺は樹木や地被植物に覆われています。*1*2
1966年に日本通運株式会社が静岡県内に開設したレジャー施設「日通伊豆富士見ラ…
伊豆長岡駅で下車タクシーで10分ばかり走って、日通富士パークウエイに入る。走…
前橋中央駅の西側。萱町通りから袋町通りへ向かう通りの一つ。
スナックが連なる一画。
フィリピンパブもあります。
店の入口に、フィリピンの国旗。
中央前橋駅前の中央ビル※1 のある「上電横丁」。
アサヒビールの看板が掲げられた「月之友酒店」。
3階建ての特徴のある建物です。
高く積まれたビールケース。
今回は前橋(群馬県前橋市)の町並みを散歩します。
上毛電鉄の中央前橋駅前に建つ中央ビル。
3階建ての建物の最上階の雀荘。麻雀牌が描かれています。
1階の店舗の入口。
建物の北西側。1階に「美やこ食堂」※1。
林屋食堂※1の裏側(北側)。
かつて、渋川の寄居町にあった大規模なスナック街※2※3 は、再開発により、住宅地になりましたが、クラブ「ふじ」は、その頃からあったスナックです。
クラブふじのホステス募集の張り紙。
反対側(西側)から。
渋川の寄居町の東の坂下町。商店が連なっています。
御食事処の「はやしや」。
店内は店内は庶民的な雰囲気。ラーメン450円など、とにかく安いです。
オムライスの大盛を注文。ものすごい量です。
平沢川沿いの右岸に建つスナック街。左岸のスナック※1 は無くなってしまいましたが、こちら側は健在です。
スナック「モナミ」。
入口が奥まった場所にあるスナック。
対岸から見ると、スナック街は長屋ではなく、1軒1軒が独立し建屋であることが解ります。
今回は、渋川(群馬県渋川市)の町並みを散歩します。
白ポストは、以前は駅の南側に重厚感のある箱が設置されていましたが※1、駅の北側に移動となり、箱もスリムなものに変更されています。
「有害図書回収箱」という名称は以前のままです。※1
屋根部分に傾斜がつけられた独特の形状です。
JR本庄駅から線路沿いを北西に約200mのところに、中華料理「みんみん」があります。
店のオープンは1964(昭和39)年です。*1
お薦めは酢豚。メディアで取り上げられるほどの一品です。
昭和の雰囲気を残す店内。
酢豚とビールを注文。
昔ながらの甘酸っぱい味で、ボリューム充分です。日本酒やビールのつまみにしても合うぜいたくな一品で、50年くらい前から変わらない味だそうです。*1
P.11
「中華料理みんみん」のお薦めは酢豚。見習いの頃からの料理だから50年…
本庄市中央に、密教の聖地として知られる普寛霊場があります。
本庄普賢様の玉垣には、江戸の昔から公家や大名に始まり、町火消し、日本橋、築地、神田の市場関係者、吉原遊廓の遊女に至るまで上下の別なく名前が刻まれています。*1
普寛様は、京保16年(1731)に生まれ、享和元年(1801)に本庄の地で亡くなりました。*1
新吉原の楼名が刻まれています。
稲荷横丁の十字路※1 から東へ下る緩やかな坂道。
スナックだったと思われるピンク色の建物。
1階部分は石材で装飾されています。
反対方向から。
銀座2丁目の通称「稲荷横丁」の十字路。
交差点の向こう側(写真右奥)には、「はじめや」食堂がありましたが※1、現在は駐車場になっています。
クラブ「東京」
奥行きのある木造母屋。前面部分は看板建築になっています。
三交通りを少し進んだところにある「食堂モンキー」。
ボリュームがあることで有名な店です。
カウンター席とテーブル席があります。
とんかつ定食を注文。大きな肉が無くなってしまったとのことで、小さなかつが2段重ねです。
本庄駅から三交通りへ入る入口。
「スナック天国」の看板。
蕎麦屋とスナックの併設店です。
蕎麦屋の右側がスナック天国の入口です。
かつての盛り場の三交通り※1。
三交通りの東寄りの城立寺の向かい側のあたりに、「三交通り呼稱(こしょう)記念碑」が建っています。
碑の裏面には、三交通りの由来について書かれています。
ーーーーーーーー碑の裏面ーーーーーーーー
現在、昼夜の別なく人車の往来繁(しげ)き此の通りも大正時代にありては沿道の店舗も疎にして、市街地としての形態未だ備(そな)はらざりし為め、大正十年三月有志相寄り至急沿道を整備を町理事者に陳情すると共に活発なる運動を展開。漸(ようや)くその目的を達成したるを以て沿道の繁栄と住民の福祉増進を目的として会を結成し会長に飯島弥平氏を推薦した。茲(ここ)に於いて氏は本町、七軒町、仲町、三ヶ町の交叉せる地点を以て会名を三交会とし通りを三交通りと呼び、橋名を三交橋と呼ぶ事に定めて町理事者の承認を得て以来四十有余年、年と共に殷賑を極め今日に至った 有志計り由来を略記して茲に三交通り呼称記念碑を建立した。
昭和三十九年四月二十二日
「三交会」のマークでしょうか。
今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
本庄駅北口交差点から北西へ伸びる通称「三交通り」。
三交通りを西へ進むと紅葉屋通りにぶつかります。
紅葉屋通りと交差する地点に、道路面にモニュメントが埋め込まれています。
三交通りの由来が説明されています。昔は「親不孝通り」の俗称もあった盛り場でしたが、地元で結成された三交会の活動もあり、現在は、健全な飲食街となりました。
御岳神社は古くから子孫繁栄、夫婦和合の神様として敬われている。創立は南北朝時代と言われ、ご神体は石棒で、神社南側の民家に安置されていて、長さ57cm太さ47cm(周長)、重さは23kgあり、普通の石棒より丸みが太く石質もよく、破損もしていない貴重な品です。その型にならってか、大小さまざまな石棒が人知れず奉納され、あまりの多さに氏子が時折片付けることもある。このあたりでは秋山の大魔羅(まら)様と呼ばれ親しまれています(案内板より)。
祠いは、木製の大きな男根2体。その奥には、無数の男根が納められています。
高さ50cmほどの石棒。案内板に書かれている「民家に安置されている石棒」に近い大きさです。
仲町交差点近くにある「きんそば」。創業100年近くの老舗です。
日焼け感のあるサンプル。
座敷とテーブル席があります。
五目そばを注文。
児玉郵便局の近く。旧配水塔が建っています。
本庄市児玉町の市街は、扇状地地形のため生活用水が潤沢ではなかったため、水道施設は永年の悲願でした。この配水塔は昭和6年に竣工しました(案内板より)。
入口から上に向かって階段室が伸びています。
入口のドア。「配水塔」と書かれています。
今回は、児玉(埼玉県本庄市)の町並みを散歩します。
児玉駅前の国道沿い。
古い木造の旅館の「田島屋旅館」があります。
今の建物ができたのは100 年位前で、2階と3階が客室で、3階には、三島由紀夫や吉田健一(総理大臣吉田茂の息子)が泊まったそうです。*1
建物の奥まで板張りの壁の続きます。奥の部分は三階建てです。
3階は特別なお客さんが泊まる部屋だったそうです。*1
P.27
【田島屋旅館】
筑紫本店の向かいには古い木造の旅館がある。田島屋…
倉賀野駅前から200m南下したところにある栄橋。橋の下は、現在は暗渠化している五貫堀川の跡です。
現在は遊歩道になっていて、栄橋の下をくぐることができます。
五貫堀川は、長野堰幹線用水路を分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水路です。蓋をして渠化される以前、水車が設けられ、魚捕りもできました。*1
両岸は石垣で固められ、ゆるやかな弧を描いて続いています。
旧中山道の下をくぐって、さらに上流に続いています。
五貫堀
長野堰幹線用水路を倉賀野堰で分水した倉賀野地区の水田を潤すす用水…
今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
旧中山道の南側。五貫堀川跡の暗渠沿いに、冠稲荷神社(別名:三光寺稲荷)があります。
冠稲荷神社は、延宝二年(1674)に勧進が行われ、江戸から官位をとって祀ったのが始まりと伝えられ、旅籠や飯盛女の信仰を集めました。*1
明治42年、倉賀野神社に合祀され、飯盛女の名が刻まれた石玉垣も移されました。*1
倉賀野神社に合祀された後、町の人の夢にお稲荷さんが現れ、「元の場所に戻りたい」と泣くということから、この場所に再建されました。
冠稲荷神社(かんむりいなりじんじゃ。別名:三光寺稲荷)
磯部温泉名物 磯部せんべいの「栄泉堂」の近く。
コンクリ製ゴミ箱が残っています。
前面の木製の扉の保存状態も良好です。
上方から。
磯部温泉の中心部。
スナックなどが5軒建ち並びます。
1972年の住宅地図によると、このあたりに「磯部温泉劇場」がありました。
建物の裏側。
磯部駅前の長屋風の建物。
「いまい食堂」は、自家製麺が自慢の店です。
ラーメン、チャーハン、そば・うどん、丼もの。
チャーシューメンを注文。
今回は磯部(群馬県安中市)の町並みを散歩します。
磯部駅前に「日本最古の温泉記号発祥の地」の碑があります。
さかさくらげのマーク。
万治4年(1661)、付近の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と中野谷村就野論裁断之覚」の添付図に磯部温泉を記した温泉記号が2つ描かれていました。*1
これが日本で使われた最古のものと判明。磯部温泉は温泉記号発祥の地となりました。*1
昭和レトロな「中央ぎんざ商店街」のアーケードの入り口近く。
老舗喫茶の「コンパル」。
ビルの2階が喫茶店です。
アキスミルクティーを注文。
柳川町の旧芸妓屋街。割烹信田※1 があった場所の南側に、芸妓や街だった頃の風情の残る一画があります。
割烹前田屋。
割烹前田屋から南側の路地を入ったところ。
ここには、「ひばり」という屋号のおそらく芸妓屋がありました。*1
このあたりには、芸妓屋が密集していました。*1
柳川町のかつての旧乙種料理街は、現在は大規模なスナック街となっています。※1
高崎オリオン座(写真右側)の裏側の路地は南側から北側へ抜ける一本道の路地の両側には、バーやスナックが建ち並んでいます。
以前は、このあたりに「客引禁止看板」がありましたが、現在は無くなっています。※2
和風スナック。このまま進むと新紺屋町方面です。
電気館裏にある居酒屋「佐武」。
以前は、この建物の向かい側は、木造長屋のスナックが密集する一画でしたが※1、現在は駐車場になっています。
駐車場から見た旧「紅つる」。
2階部分の格子窓。
P.235
高崎電気館裏:「紅つる」
高崎市若松町にある松島軒は、昭和12年創業の昔ながらの定食屋さんです。黄色いカレーライスやラーメンなどが名物のようです(看板より)。
出前サービスもあるようです。店の前に出前用のバイクがとまっています。
店内は、テーブル席が4つほどとカウンター席です。
黄色カレーライスを注文。中華スープがつきます。
下仁田駅近くのきよしや食堂。
秘伝のタレで作るカツ丼が名物です。
サクッと歯触りのよいころもに、あっさりと甘いしょうゆ味のたれ、ボリュームたっぷりの肉。きよしや食堂のカツ丼は昭和12年の開店以来、この味を守ってきました。*1
下仁田でカツ丼と注文すればどの店もしょうゆ味のたれがかかって出てきます。卵をかけたのは「玉子煮カツ丼」と呼ぶそうです。*1
サクッと歯触りのよいころもに、あっさりと甘いしょうゆ味のたれ、ボリュームた…
下仁田市街の南側(鏑川(かぶらがわ)に近いあたり)。
風呂店の建物が残っています。
小間物、日用品、雑貨の看板もあります。
日立ホームバス。
上町通りの商店街にあるカシワヤ薬局。
大正5年発行の「下仁田町商工業名鑑案内図」*1 に「柏屋商店」の名で記載のある薬局です。
「花柳丸」と書かれた古い商品看板。
「猛悪なるばい毒淋病の良剤」との説明書きがあります。
ビリヤード場跡に森永牛乳の牛乳箱が残っています。
赤丸白抜きのエンゼルマーク。森永の牛乳箱の中では希少性の高いデザインです。※1
保存状態も良好です。
側面には、「森永ヨーグルト」。
駅前の中央通り※1 をさらに進むと、「〇玉ホール」と書かれたビリーヤード場(撞球場)の建物が残っています。
純日本風の木造家屋です。
入口のガラスには、撞球場(どうきゅうじょう)。
映画のロケで使われたとのことで、綺麗に整備されています。
下仁田駅前の中央通り。
化粧品店があります。
マンダムの看板。※1※2
四つ角に建っています。「布屋」の文字。
下仁田駅前の十字路にこんにゃく料理の「常盤」があります。
常盤館は、もともと、木材、繭やコンニャクなどの取り次ぎで、この地を往来する商人の宿として、大正元年に創業致しました。*1
「全国花街めぐり」*2 によると、下仁田には、戸数500ぐらいの土地で料理店(甲種)32軒、芸者が50名近くいて、常盤館は内芸者(うちげいしゃ)を置いていたそうです。
昭和初期、竹久夢二の旅の宿ともなりました。*1
今回は、下仁田(群馬県甘楽郡(かんらぐん)下仁田町)の町並みを散歩します。
高崎駅から上信電鉄に乗り、終着駅の下仁田駅に到着です。
レトロな駅舎です。
西側から。
周囲や山に囲まれています。
上毛電鉄中央前橋駅前にある美やこ食堂。
手打ちのうどん、そばが名物です。他に定食、丼もの。
店舗はかなり広いです。テーブル席とカウンター席。
天ざるの大盛を注文。蕎麦は平打ちの極細です。
前橋市中心部に位置する前橋市中央児童遊園。
遊園地の入口近くに片流れ屋根の「もくば館」があります。内部電動木馬と一体的に残る遊園施設です。*1
登録有形文化財に指定されています。
現存最古級の5基の電動木馬。*1
1回10円です。大人は乗れません。
臨江閣は、明治43年に本市を主会場に開催された一府十四県連合共進会(博覧会)の貴賓館として建てられました。*1
明治時代の木造建築です。
大広間。
博覧会は60日間開催され、当時前橋の人口が4万5,000人だったのに対し、この共進会には94万4,000人が来場。別館は行事や大会、夜会などに利用され、当時の首相である桂太郎をはじめ、大隈重信や渋沢栄一など多くの貴賓が訪れました。*1
三社神社の鞘堂(さやどう)※1 のうち、水分、雷電両社は、木祠でですが、左端の福守さんだけは男根です。石製、木製の大小さまざまの男根が数多く奉納されています。*1
2段目の棚の木製男根。
願主の氏名らしきものが書かれた男根もあります。(写真左側)
福守小唄。
川崎の若宮八幡宮のかなまら祭の写真も奉納されています。
福守さまは、橘神社の境内の本殿裏、一段高いところに祀られている。一つの鞘堂…
前橋市内から国道17号線を渋川方面へ向かった群馬大学の先の高台に橘神社があります。
橘神社の境内の本殿裏、一段高いところに三社神社が祀られています。
「三社神社の由来」の案内板。三社神社は、水分(みずわけ)神社、雷電神社、福守神社がいっしょになった神社です。
一つの鞘堂(さやどう)が三つに仕切られています。向かって右側が水分神社、中央が雷電神社、左端が福守神社です。*1
前橋市の敷島公園近くに、敷島浄水場配水塔が保存されています。
1929年に造られ、登録有形文化財(建造物)に指定されています。*1
水槽は、かなり大型です。
外側は断熱材で巻かれ、更に銅板で覆われています。*1
給水塔は鉄骨造で、八本の柱を立て水槽を支える構造になっています。*1
水道資料館が近接して建っています。
今回は、前橋の町並みを散歩します。
「大黒寿司」は、JR新前橋駅ロータリーにある老舗の寿司屋さんです。
寿司店ですが、ランチの定食、ラーメン、カレーもあります。
テーブル席の他、カウンター席もあります。
ちらし寿司を注文。
倉賀野は中山道の宿場の一つでした。旅の疲れを休め、骨休めをする旅籠屋や飲み屋が軒を連ね、飯盛女もいました。*1
この寺の墓地の片隅に、無縁仏となったいくつかの墓があります。
「高崎の散歩道」*1に、遊女の墓として紹介されいる墓石。
墓石には、
「越後 新潟平次 娘 きく墓」
「越後 三條裏館村 こよ墓」
「越後 大宮嶌村 女 へて墓」
「越後 三條久兵衛 女 里よ墓」
と刻まれています。*2
無縁仏は、他国出身の娘で、若く死亡した仏さまの墓が多い。出身地を分類すると越後の国が多く、また、没年齢の平均は21才でした。*1
「越後国長岡中源町 権介娘 やの」と刻まれています。*2
P.93
倉賀野は中山道の宿場の一つであった。旅の疲れを休め、骨休めをする旅…
…
⑨主な埋葬者
越後國三…
今回は、倉賀野(群馬県高崎市)の町並みを散歩します。
JR倉賀野駅から南へ10分ほど歩くと共栄橋に行きつきます。その共栄橋の近くの河川敷に「倉賀野河岸跡」の碑があります。
倉賀野河岸の由来が書かれた碑には、「当河岸は江戸時代初期より利根川の最上流河岸として上野、信濃、越後の広大な後背地を控え江戸との中継地として繁栄を極めたり。…..」と書かれています。
倉賀野河岸は、天明3年(1783年)の浅間山噴火により川が浅くなり舟運が衰え、明治17年の高崎線の開通により、終止符を打ちました(案内板より)。
井戸八幡と八幡宮の境内の崖下(「倉賀野河岸跡」の碑の西側)から共栄橋にかけての川岸が倉賀野河岸でした。*1
近くにあった案内板には、「当時は旅籠屋71軒、茶屋9軒、商家34軒、造り酒屋2軒があり、倉賀野宿の賑やかさは大変なものであった。」と書かれています。
久留里街道(国道410号線)を南に約2Km。西側の田圃の中に、延長寺があります。
お堂の裏手に、小さな石塔が建っています。(写真左下)
石塔の中には、石棒が安置されています。
石棒はかなり大型のもので、高さは1m近くありそうです。
撫でると子宝に恵まれるという言い伝えがあるそうです(案内板より)。
駅前の建物脇の路地※1の中ほどに、喜楽飯店があります。
定食の他、ラーメンなど、メニューが豊富です。
店内。テーブル、椅子、すべてレトロです。
喜楽特製メンを注文。
たっぷりの豚肉には餡がかかっています。
久留里駅前の通り沿い。建物の脇が路地の入口です。
まっすぐな通路。
水場。
反対側は商店の建物に通じています。
久留米街道沿いの商店街を歩いていると、「かき氷」ののぼり旗と隣にレトロなテレビや看板がある店舗があります。
店内には、「初雪」「白雪」「ペンギン」など、たくさんの古いカキ氷器が陳列されていて、まるで博物館のようです。
実際にこのカキ氷器を使ってブロック氷を削って作ったカキ氷を頂くことができます。
ふわふわのカキ氷です。
久留里の商店街の北側にある、そば・うどんの「久留里庵」。
店内は、壁伝いにカウンター席がぐるりと一周しています。
「カレーうどん」がおすすめです。
今回は、ひやむぎを注文。
久留里の町を特徴づけているのは、「久留里の水」です。
久留里街道から神明社に向かう道の途中だけでも10か所近くの井戸があります。
久留里のまちで昔から生活に密着してきた上総堀りの自噴井戸(自ら噴き上がる井戸)による地下水です。平成20年6月に、千葉県下では唯一の「平成の名水百選」に選ばれました(案内板より)。
いつでも、おいしい水が飲めます。
今回は、久留里(千葉県君津市)の町並みを散歩します。
久留里へは、木更津駅からJR久留里線に乗ります。
社内には、久留里の鳥観図が掲載されています。
約100年前の久留里の様子を知ることができます。
50分弱かかって、久留里駅に到着です。
上総一ノ宮駅前の商店街に昭和の佇まいを残す鶏肉店の高田屋があります。
名物のつくね揚げは夕方の4時から販売開始です。
つくね揚は、1個70円。つくね揚専用のタレは別売で、個数にあわせて大中小があります。
夕方4時になると、車が止まり行列ができます。
つくね揚10個とタレ(小)1個を購入。
JR八積駅から睦沢方面へ向かう道路の途中。
交差点近くに、「飛び出し注意看板」と思われる注意看板が建っています。
近くのパーマ屋さんの広告とのタイアップ看板です。
「・・に注意」の部分が壊れてしまっているので、詳細は不明です。
茂原駅近くで見かけた看板と同型ですが、女の子が手に持つ旗の部分は欠落しています。※1
上総一ノ宮の市街の北側を流れる一宮川に架かる一宮橋。
川岸近くに、泡が噴出しています。
西門橋で見かけた気泡と同様のものと思われます。
南関東ガス田の天然ガスを視覚的に理解できる自然湧出現場です。*1
南関東ガス田の天然ガスのポテンシャルの高さを視覚的に理解できる天然ガスの自…
今回は、上総一ノ宮(千葉県長生郡一宮町)の町並みを散歩します。
JR外房線茂原駅南口からバスに乗り、「新地台(あらちだい)」で下車。道路沿いの墓地(写真右奥)の隣に、ヨットのオブジェがあります。
海をモチーフにしたラブホテルのようです。
ホテルの入口。
北西側の入口。
茂原駅から苅谷(いすみ市)を結ぶ南総広域農道から、長南町方面へ分岐した直後にある第二永井トンネル。
美しい長方形のシルエット。
天井はものすごく高いです。内部はコンクリートで固められているので安心です。
反対側から。
意外と交通量が多く、何台かの車を通り過ぎました。
長南町の棚毛から長柄町の鴇谷へ向かう道の奥に、鴇谷(とうや)トンネル(大8.10建設、長さ30m、幅2m)があります。*1
トンネルの入口には、「大正10(1921)年開通記念碑」があります。
佐久間惣次郎氏(ドロップの創始者)ら、鴇谷や棚毛の多くの人たちの寄付により開通しました。*1*2
トンネルの出口に馬頭観音文字塔があります。弘化5年(1848年)とは、トンネルが掘られた70年前です。トンネルの上にあった「馬頭観音文字塔」をトンネル出口に置いたもの、と推測されます。*2
逆方向(鴇谷側)から見たトンネル。
P.482
鴇谷(とうや)トンネル(大8.10建設。長30m 巾2m)
トンネル開通…
P.23
鴇谷(とうや)宮下日宮神社先から左折、途切れた道の奥、長南棚毛へぬ…
JR茂原駅南口から小湊鉄道上総牛久駅行きのバスに乗り、大庭入口で下車。そこから1Kmほど北に、大庭隧道があります。
トンネルの入口までは切り通しになっています。
向こう側出口付近。光が差し込んで幻想的です。
反対側から。
入口の切り通し部分を逆方向から。
今回は、長柄(千葉県長生郡長柄町)の町並みを散歩します。
茂原駅南口からロングウッドステーション行きのバスに乗り、終点近くの皿木で下車します。
住宅地の中をしばらく進むとホテル「ピア」があります。
船の形状を模した建物です。
現在は、廃業している模様です。
船の煙突部分。
成東駅の西側。作田川沿いに田園地帯が広がります。
「ふろ」と書かれた看板。
「湯坂酵素ふろ」。
「酵素風呂」は、ヒノキのおがくずの中で体をあたためる風呂だそうです。
総武本線松尾駅から1km弱にある「関東ラーメン」。看板の文字が2つ剥げて「関東メン」になっています。
今年で50年目を迎えます。*1
名物は「揚げ肉ラーメン」。
揚げ肉ラーメンを待つ間。冷奴と漬物がでます。ペットボトルの水はサービスです。冷奴にかかっためんつゆは添加物無しの自家製だそうです。
揚げ肉ラーメン(ロース2枚入り)。
スープはチャーシューを煮込んだ時の醤油をベースに様々な食材を20時間煮込まれたものです。*1
成東駅から南東方向へ県道千葉銚子線をいきます。
一軒屋のスナック店です。
「スナックゆき」の看板。
入口のドア。
旅館の「共楽館」※1 の玄関の右側。
コンクリート製ゴミ箱が置かれたいます。
前面の木製の扉も残っており、保存状態は良好です。
上から。
成東駅から浪切不動院方面へ向かう道の途中。
旅館「共楽館」の創業は明治時代です。*1
現在は廃業していますが、竜宮城のような趣のある佇まいに当時の繁栄ぶりがうかがえます。*1
手入れの行き届いた槙(まき)の木が印象的です。*1
今回は、成東(千葉県山武市)の町並みを散歩します。
成東駅前にある食事処の「結城屋」。
年季の入ったメニューの張り紙。
天ざるとビールを注文。
ボリュームたっぷりです。天ぷらは、なす、にんじん、さつまいも、ピーマン、えび。どれも大ぶりです。
店の脇の通路を抜けるとトイレがあります。
於幾の集落を抜ける道を南へ行くと、 右側に入ったところに鳥居が立つ粟嶋宮があります。
粟嶋大明神は子育て、婦人病、裁縫上達にご利益があると言われ、かつては周辺地域の女性が大勢参詣に訪れ、縁日には大変賑わいました。*1
特徴は、この大きな覆屋(おおいや、社殿を保護する為の建物)です。
この粟嶋宮の覆屋の中には大きな奉納額(絵馬)が数点あります。
その中で「遊女一行参詣図奉納額」は、 この粟嶋宮への信仰とご利益を願った面白い一品です。*1
栗島宮の拝殿へ着飾った女たちが事詣する姿を現した奉納額ですが、女たちは、いい着物に羽繊を着、傘を持っている者や、 犬のチンを連れている者がいたり、髭は嶋田を結い、嘗を付け、足には黒色の高下駄を履いていて、 とても庶民とは言い難い姿です。*2
P.94
於幾の集落を抜ける道を南へ行くと、 右側に入ったところに鳥居が立つ…
P.13
名称:遊女一行参詣図奉納額
作者:不明
願主:成木村 花魁さと…
横芝から多古町へ向かう県道沿い。
休業中のマッサージ店。
テナント募集中の看板。
ピンク色のドア。
上町から多古へ行く県道沿いに、砲弾形の赤い消火栓が見られます。
これは地上式消火栓で、最近では地下式が多くなったため、ほとんど見られなくなってきました。古い町並みによく似合う路傍の置物路傍の置物です。*1
別の場所にあった消火栓。
赤紫色で、少しずんぐりとした形です。
今回は、横芝(山武郡横芝光町)の町並みを散歩します。
横芝駅から松尾駅方向へ向ったところにある通称「上町三差路」。
三差路の周辺には商家建築の豪壮な町家が、今も10数軒ほど残っています。ここは松尾八田の金比羅様に近く、その門前町であった名残と言われています。*1
昔ながらの町屋。
紳士服店のショーウィンドウが往時を偲ばせてくれます。
道表通りと高砂通りが交差するあたり。
昭和レトロな中華料理店があります。
ラーメン、ご飯もの、などメニューは豊富です。
かつカレーとビールを注文。ボリューム満点です。
新茂原駅から荻原通りを南下したところ。
1階に牛乳店の名残があります。
1940年の明治乳業創業当初から続くマーク。*1
「明治スカット」は、1962年に発売 されました。*1
新茂原駅前の通り。
ブロック塀の上に固定され、支柱にくくりつけられています。
店舗は1階です。
入口に残る「マリン」の張り紙。
茂原駅南口から道表通りを西へ進んだところにある趣きある佇まいの店。
かつランチの立て看板。
メニューはカツ中心です。店は常に賑わっています。
かつライスとビールを注文。
茂原の二宮地区は素掘りトンネルが密集しています。※1
八幡神社の脇に入口のある細田トンネルは、1900年(明治33年)頃に掘られたトンネルです。*1
水を入れた簡単な水準器を使わて掘られたそうです。*1
トンネルは緩やかな曲線を描いていて、出口が見えず暗いので、中央付近に電灯が灯っている。曲げて掘られたトンネルは市内ではこの細田トンネルだけです。*1
八幡神社側の入り口に、石造りの繭にも俵にも似ている道祖神が祀られ、古くから往来した道であったことを物語っています。
茂原駅の西側の庄吉・国府関・押日は、素掘りトンネルが数多く密集して残る地域です。
トンネルの分布が密であるのは、農家の住まいのある谷(やつ)と山丘を越えた谷の両方に耕地があるためです。戸田谷(へたやつ)トンネルは、1923年(大正12年)に彫られたは二宮地区でも古い方のトンネルです。*1
現在は、トンネルの入り口部分は、コンクリートで補強されています。
トンネルの貫通は、農機具や肥料の運搬を容易にし、施肥も十分に出来るようになり、また、見廻りの回数も増えるなどして増収に寄与しました。*1
反対側(東側)。
庄吉・国府関・押日は、住まいのある谷(やつ)と山丘を越えた谷の両方に耕地が…
今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
茂原駅から西側へ向かう通称「茂原街道」沿い。
お寺のお墓の近くに、「必ずシートベルト」と書かれた交通安全人形が建てられています。
手には、「注意」と書かれた黄色い旗。「飛び出し注意」などの横断旗人形としても使えそうです。
ご協力 實相寺。
ホテルの建物※1から北へ一ノ宮川を渡った道路沿いに、めずらしいものがあります。
「ダチョウのたまごあります。」の看板。
ダチョウが3羽。
ダチョウを間近で見ることができます。
上総一宮から一ノ宮川を2Kmほどさかのぼったところにある北川橋。
北川橋の近くにホテルの廃墟が建っています。
中世ヨーロッパのお城を模したメルヘンチックな外観です。
入口の看板。
上総一ノ宮駅北西のしがさ通り。ここまで来ると観光客の姿はありません。
小金庵は、地元の方々でにぎわうそば屋さんです。
そば、丼ものが中心ですが、カレーライスや中華そばもあります。
中華そば(チャーシューをトッピング)とビールを注文。
おそば屋さんらしい和風だしの醤油味です。
風船爆弾は、第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍が、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する作戦を展開したものでした。*1
茨木県大津に部隊本部と放球攻撃の第一大隊を設営され、第二大隊は千葉県一宮。第三大隊は福島県勿来にあって、日本の三カ所から放球されました。*1
一宮の打上げ基地は、打ち上げのためのコンクリート台が数基あり、風船爆弾の運搬のために、打上げ基地に向かって上総一ノ宮駅から引込線(線路、現在の一宮停車線に沿う)が敷かれました。実際の打上げ基地は海側の一帯にありました。*2
看板には、満球テストの様子の写真が掲載されています。
P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…
一宮の打上げ基地は、打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、…
長生郡睦沢町の中心部にある西門橋。
西門橋の欄干越しに瑞沢川が流れます。
川底から川面に向かって連続的に泡が噴出し発泡している様子をあちこちでみることができます。*1
南関東ガス田の天然ガスを視覚的に理解できる自然湧出現場です。*1
南関東ガス田の天然ガスのポテンシャルの高さを視覚的に理解できる天然ガスの自…
玉前神社の北側にある焼きそば専門店の「かさ屋」。看板や暖簾はありません。
簡素な店内。
メニューは、焼きそばのみです。
スーパージャンボを注文。
上総一宮の玉前神社の裏通り。
玉前神社周辺と門前の商店街には、江戸~昭和期までの歴史的建物が現存しています。*1
吉村理髪店は、江戸時代からの髪結い床で、現在の当主は5代目だそうです。*1
大正時代に改築し、当時のモダンな様子を今も留めています。
今回は、上総一ノ宮(千葉県長生郡)の町並みを散歩します。
JR外房線上総一ノ宮駅の西側の通りの美容室の隣。
井戸まわりはレンガ積みです。
玉前神社近くの三差路。
こちらも同様にレンガ積みですが、高さがあります。井戸の周囲もレンガが敷き詰められています。共同の井戸だったのかもしれません。
横芝から匝瑳市へ向かう国道126号線から北側に一本入った農道沿い。
ホテル「ラベンダー」の看板。
各部屋の位置を示した見取り図を兼ねた看板です。ランプの点滅で満空を表示していたようです。
隣は墓地です。
横芝駅前にあるお食事処「寿々喜」。
ゆったりとしたテーブル席で落ち着けます。
ここでは、地元グルメの「滋養めし」をいただくことができます。
もつは、日持ちしないため、通常はボイルして出荷されますが、横芝町には食肉センターがあるので、生もつのまま店で煮込みむことがでるので、味が格段に違います。*1
「滋養めし」の名前の由来は、横浜でドイツ人からハム・ソーセージの製造技術を学んだ横芝町出身の大木市蔵氏が、大正12年の関東大震災において、被災した方々にふるまった、塩漬け肉と野菜を使った汁かけ丼「滋養飯」から名付けられました。*1
今回は、横芝(千葉県山武郡横芝光町)の町並みを散歩します。
JR総武本線横芝駅は千葉県に現存する最古の駅舎です。1897年(明治30)6月1日に開業し、戦禍にも合わず建て替えられることなく現在に至っています。*1
横芝駅舎は、寺社や武家屋敷で見られる入母屋造の屋根が特徴。通常の入母屋造とは違って軒を深くするために支柱を立て、広い屋外スペースを確保しています。*1
内部。
駅舎と電車。
JR総武本線松尾駅近くの国道126号線沿いにある「仲よしドライブイン」。看板の文字に歴史を感じます。
入口のドアに「かつお入荷しました」の張り紙。
店内はレトロ感満載です。
「かつおニンニク醤油づけ定食」を注文。器の中に厚切りのかつおが10切れぐらい浸かっていてボリューム満点です。
成東山不動院長勝寺本堂の直下に、「成東山不動鉱泉」の碑が建っています。
明治34年、ここに、鉱泉旅館「成東館」が開業。尾崎紅葉、伊藤佐千夫等多くの文人も滞在しました。現在は、「鉱泉井戸」の跡が残されています。*1
「成東館」は、昭和5年頃に廃業、わずか30年足らずで歴史に幕を閉じました。
成東山不動院長勝寺本堂からの眺め。
今回は、成東(千葉県山武市)の町並みを散歩します。
成東駅の南側。作田川近くに長屋風の建物があります。
居酒屋が営業中です。
5軒分ぐらいの規模の建物。現在は看板はまばらです。
建物脇のトイレ。
JR八日市場市から山側へしばらく行った小高(おだか)地区に八坂神社があります。
拝殿には、所狭しと男女の性器を形どった石や木が奉納されています。
形状や色はさまざまです。
江戸時代に奉納された大型の楕円の石もあったそうですが、*1、この石のことかもしれません。
春海の掩体壕の案内板に、「椿にも掩体壕が残っている」と書かれていますが※1、 干潟駅から国道126号線を西に進み、交差点を北に入ったところに、それらしきものが残っています。
住宅地の中の広場に残るコンクリート製の構造物。
形状は掩体壕と同じですが、戦闘機を格納するには小さすぎます。防空壕か弾薬などの保管庫だったのかもしれません。
内部。
干潟駅から北へ約2Km。旭市との境の田んぼの中に、2基の掩体壕が残っています。*1
保存状態は良好です。
案内板も設置されています。
秋田川から見た掩体壕。