八幡町の北側は、戦後の時代を連想させる飲み屋横丁になっています。

スナックが寄り添う建物。

細く長い横丁。

モダンなつくりの看板。

八幡町の北側は、戦後の時代を連想させる飲み屋横丁になっています。
スナックが寄り添う建物。
細く長い横丁。
モダンなつくりの看板。
明治元年(1868年)官軍の奥羽鎮撫(ちんぶ)総督に就任した九条道孝が、官兵1300人を率いて盛岡に到着すると、官兵のために茶屋を許しました。これが八幡町の花街(貸座敷)の元となりました。*1*2
八幡町に隣接する松尾町に料亭風の建物が数軒ある一画がありますが、ここが花柳界のあるところで、それ以前は遊廓の中心部でした。*3*4
交差点のところに、モダンな建物があります。
側面から見たところ。
建物正面の装飾は、木材でできています。
【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語2-八幡町かいわい-(熊谷印刷出版部,1974)P.97
*2 森ノブ,多田代,岩手県文化財愛護協会編:三盛岡市の歴史 下 (熊谷印刷出版部,1992)P.55
*3 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.91
*4 木村聡:赤線跡を歩く【完結編】(自由国民社,2007)P.87
今回は、盛岡(岩手県盛岡市)の町並みと風俗を散歩します。
盛岡市内の商店街。八幡神社へ向かう途中の南大通1-1付近。
「赤線跡を歩く【完結編】」に写真が掲載されている古い写真館の建物があります。
正面のレリーフが印象的です。
思わず、下から見上げてしまいます。
鍬ヶ崎上町の北側の鍬ヶ崎仲町に、銭湯の七滝湯があります。
温泉マークのある銭湯です。「しちたきゆ」ではなく、「ななたきゆ」という読むようです。
入口付近。
木製のロッカーが健在です。
鍬ヶ崎上町から西側の斜面を登ったところに常安寺別院があります。常安寺別院からは、宮古湾を遠望することができます。港町らしい風景です。
坂道の途中に、黄色牛乳箱があります。(写真左側)
伊藤牛乳の牛乳箱。
箱の側面には、「宮古市新川町」と書かれています。地元の牛乳メーカーでしょうか。
地元の方の話によると、現在の消防駐屯所のあたりまで通り沿いに遊廓の建物が建ち並んでいたそうです。
駐屯所の近くにレトロな洋風建築の建物があります。
1階部分はモダンなデザインになっています。
入口部分に「はまなす」という屋号が見えます。
鍬ヶ崎遊廓は、近世の頃は現在の日影町附近にありましたが、幕末から明治にかけて遊廓は、鍬ヶ崎上町に移動しました。*1
明治18年、貸座敷営業許可地に指定されたとき、娼妓は47名で、この数は岩手県全体の約半数でした。*2
鍬ヶ崎上町1丁目のプチホテル海幸園の近くに、当時のものと思われる建物が残っています。
地元の方に話しをお伺いしたところ、現存しているのはこちらのお宅1軒のみだそうです。
堂々とした木造建築です。
入口附近。
【参考文献】
*1 沢内勇三:鍬浦史話(郷土史同好会,1955)p.85
*2 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.102
今回は、宮古(岩手県宮古市)の町並みと風俗を散歩します。 宮古は三陸海岸に面する都市で、景勝地の浄土ヶ浜を有し、観光地としても有名です。
宮古市街と浄土ヶ浜の中間に位置する鍬ヶ崎は、宮古港の一部です。江戸時代には回船問屋が繫昌し、船舶の寄港が頻繁となるにつれて花柳街が繫昌するようになりました。
1868年、江戸から函館を目指す新島襄は、鍬ヶ崎港に寄港しましたが、江戸を出発するときの所持金の二十両のうちのほとんどを鍬ヶ崎の遊廓で散財したのではないかという説があります。*1
新島襄が宿泊した伊勢屋があった場所。*1
伊勢屋があった場所からこの路地を行くと遊廓があった通りに出ます。
新島襄(にいじまじょう)は、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者で、福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。
新島襄は、「函館紀行」の中で、鍬ヶ崎に寄港したときの状況を次のように記しています。
「予上陸し伊勢屋清兵衛の家に宿す。予鍬ヶ崎の様子を見るに驚く事あり。如何となれば家毎妓二三人或四五人あり、(中略) 此地の人物、陽ハ粗ニして陰ハ獗猖(しょうけつ)なる事甚し、是悪むべき風俗……」
この「是悪むべき風俗」の次の約20行が欠損部分となっており、これは新島襄の神聖さを傷つけてはならないと考えた誰かが、カミソリで切りとったものと考えられています。*1
【参考文献】
*1 本井康博:同志社談叢(2001.3)「岩手県宮古市鍬ヶ崎 新島襄の寄港地」口絵、P.131
国道45号線を北へ向かいます。
「男性専科浴場」と書かれた大看板。実は、ここが東北の男たちを虜にする伝説のソープランドです。*1
岩手県には、ソープランドが少なく、盛岡市内に1軒と、ここ種市に1軒あるのみです。
急な坂をどんどん登っていきます。
残念ながら、ソープランドがあった場所は、更地となっていました。地元の方に話しをお伺いしたところ、今年の2月頃に突然閉店となり、しばらくは建物が残っていたのですが、最近、取り壊されたそうです。
【参考文献】
*1 俺の旅(ミリオン出版,2007.9.25)P.70
今回は、種市(岩手県九戸郡洋野町)の町並みと風俗を散歩します。
JR八戸線種市駅で下車します。
種市(たねいち)は、岩手県の最北端に位置する、太平洋に面していた町です。
種市駅前。タクシーが留まっているだけの平凡な駅前ロータリーです。
八戸駅-久慈駅間の列車は、1日9往復です。
湊橋近くに、「赤線跡を歩く完結編」*1 に写真が掲載されている自転車屋さんがあります。
モダンなデザインの建物です。
木製のドア。
2階部分には、モダンな装飾が施されています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 続々・消えゆく夢の街を訪ねて 完結編(自由国民社,2007)P.51
小中野の隣の陸奥湊駅で下車し、新井田川沿いを散歩します。川沿いにホテルがあります。
その名も「ホテルリバーサイド」。残念ながら廃業していました。
裏口へ回ると、「カーホテル」と書かれています。懐かしい響きです。
各部屋の入口には、世界各国の都市名が書かれています。手前から、京都、モンテカルロ、ベニス、グルノーブル、サンフランシスコ、ヴェルサイユと部屋が並んでいます。
小中野の町並みを散歩していると、古いスナックの建物に出会いました。
入口の凝ったデザイン。
1つの建物に何軒かのスナックが入っている長屋の建物です。
側面はオレンジ色です。
新陸奥旅館の玄関に入ると目の前にY字型に分かれる階段があります。
2階の部屋と部屋を結ぶ空中廊下。
大広間。
部屋には、大福帳と貸座敷遊客名簿。貴重な資料です。
貸座敷遊客名簿には、客に身体的特徴、衣服、相手をした遊女の名前、遊興費などが克明に記録されています。*1
【参考文献】
*1 rakra(2008.1)
八戸駅から2駅隣の小中野駅から徒歩10分ほどの場所に東北屈指の歓楽街と言われた小中野新地がありました。
新むつ旅館は、明治30年、貸座敷「新陸奥楼」として開業しました。ただの遊廓ではなく、20畳の宴会場と5つの部屋があり、芸者2人、遊女3人を抱え、芸者遊びが出来る遊廓でした。昭和32年の売春防止法施行後は、建物をそのまま生かし旅館として時を刻んできました。*1
同じ通りを北側から見たところ。
昭和のはじめに建てられたと思われる旅館。
【参考文献】
*1 rakra(2008.1)
今回は、八戸(青森県八戸市)の町並みと風俗を散歩します。
新幹線の駅がある八戸駅からJR八戸線に乗り、2駅目の本八戸駅で下車します。
本八戸駅前にあるスリップ劇場。ストリップ劇場にしてはめずらしく派手な装飾のない建物です。
雰囲気のあるブリキの塀。
入口のゲートには、小沢代表のポスタ。
入口附近。
毎年8月の最終土曜日に浅草サンバカーニバルが開催されます。パレードは、馬道通りから雷門通りにかけて行われます。
浅草サンバカーニバルは、1980年、俳優の伴淳三郎さんの発案で始まりました。*1
今年は、あいにくの雨(時々豪雨)の中でのパレードとなりました。
パシスタと呼ばれるパレードの中のソロダンサー。どこのチームも魅力的です。
タンガと呼ばれる衣装で、背中にたくさん羽を背負っています。
【参考URL】
*1 浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)ホームページ
花やしきから、北へ、ひさご通りに入ります。ひさご通りの中程、米久のあるあたりに看板があります。
近くにラブホテルがあるので、「街娼」が出没するのも納得できます。
この附近には、明治~大正時代、十二階(凌雲閣)があり、十二階の周辺は、「十二階下」と呼ばる魔窟でしたが、現在もこの伝統が受け継がれているのかもしれません。
ひさご通りの入口附近に、もう一つの看板があります。文言はほとんど同じですが、一箇所だけ、「街娼」が「娼婦」という言葉に置き換わっています。
よく見ると「娼婦」の隣に、誰が書いのか「男」の文字。
浅草観音温泉に入ってみます。
銭湯は、男湯と女湯の入口が分かれているのが普通ですが、ここの銭湯の入口は一つです。ロッカーがたくさん並ぶ廊下を過ぎるとその先で、男湯と女湯の入口があります。
バンビの乗り物があります。しかし、横には、「バンビさんは動きません。」の貼紙。
脱衣所にある「マナーのお願い」の貼紙。
コンクリート造りで、天井が高いのが印象的です。天井は緑色、柱は赤色に塗られています。中央に円形のタイル張りの湯船があり、タイルで人魚の姿が描かれています。
浅草寺本堂の前を西へ向かうと浅草観音温泉の建物が見えてきます。建物の屋上には、「浅草観音温泉」と書かれた大看板があります。
左に、浅草ビューホテル、右に花やしきのタワーが見えます。
蔦の絡まる銭湯。
「男は黙ってサッポロビール」の看板。三船敏郎のCMが懐かしいです。
入口の横に、「極端に不潔な方、入場お断り」の貼紙があります。
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。
仲見世の風景。
さまざまな店が並び、賑わいを見せています。
仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。
【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38
瀬上駅近くに青柳神社があります。
森林の中に大きな社があります。
境内の社の裏手に、多くの石祠がありますが、そこに性崇拝の跡が見られます。やはり、遊廓町としての名残と思われます。*1
女神(女陰)。
【参考文献】
*1 小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.184
全国遊廓案内によると、瀬上町遊廓には、今加楼、備中楼、八幡楼、花月楼、今出楼、普豊楼の6軒の貸座敷があり、約45名の娼妓がいたそうです。*1
国道4号線沿いの「瀬上中央」バス停から北へ50メートル。信号機のところを右に入ったところに、花月楼の建物が現存しています。*2*3
花月楼は、昭和15年頃に、石倉造りの部屋を増築し、13人ものお姉さんたちに揃いの飾り着をつくり、歌いはやし踊らせたそうです。*3
裏口の上部に「花月」の文字が確認できます。
表側へまわると、石蔵の前は広い敷地になっています。
【参考文献】
*1 南博編:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.41
*2 薄井三男:福島公娼史(薄井三男,1993)
*3小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.181-P.183
今回は、瀬上(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
JR福島駅から阿武隈急行線に乗り換え、3つ目の駅が瀬上ですが、今回は、一つ手前の福島学院前で下車します。国道4号線沿いに歩くと瀬上宿の看板があります。このあたりが、かつての宿場町だったようです。
付近は、ビジネスホテルが1軒あるだけで、宿場町の面影はありません。
「瀬上中央」バス停。
「瀬上中央」バス停から50mほど北の薬師前という地名のあたり。国道わきに古い石造りの建物が見えます。
旧中仙道から北側に路地を入ったところに、於菊稲荷神社があります。
於菊稲荷神社の名称の由来は、今から250年前に隆昌を誇った新町宿の大黒屋とう宿屋にいた遊女のお菊からきています。お菊は重い病にかかりましたが、この社で一心に祈願したところ病が回復しました。*1
遊女が献額した絵馬が残されています。
かむろつき遊女の参詣図
【参考文献】
*1 「上州路」編集部:月刊上州路 No.251 P.38「新町の観光スポット」(1995.3)
*2 千木良英一:月刊上州路 No.251 P.16-P.17「新町宿のれこれ」 (1995.3)
新町駅近くに古い銭湯があります。
入口付近。何とも言えない荒廃した雰囲気です。
建物の隣の広場には、雑然と物が置かれています。
脱衣場も雑然としています。
JR新町駅前に、小規模なスナック街があります。
古い旅館の建物があります。
歴史を感じる看板。
美しい板塀です。
今回は、新町(群馬県高崎市)の町並みと風俗を散歩します。
JR新町駅前の国道沿いにレンタルビデオショップがあります。
ビデオ鑑賞だけでなく、お昼寝としても利用できるようです。
品揃えも豊富です。
ビデオ鑑賞やお昼寝は、ショップから30mほど離れ別棟(1枚目の写真のショップの左上に写っている建物)で行います。郊外型の立地を生かした業態といえるかもしれません。
小池駅から東側のコンビニのミニストプのところの交差点を西に曲がると、赤線があった有楽町に行き着きます。
当時の建物が現存しています。
落ち着いた感じの和風の建物がずらっと並びます。
1軒だけ洋風のアパート風の建物がありました。
豊橋鉄道渥美線の小池駅近くに古い旅館が2軒あります。
そのうちの1軒、大黒屋は当時のままで現在も営業中の旅館です。
玉川旅館。
風情のある入口付近。
JR豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗り、2駅先の小池駅で下車します。小池駅の西側の通り。
広い通りに面して、制服屋があります。
高級女学生制服。
ショーウィンドウ。
豊橋に古くから存在する吾妻遊廓は、明治43年に吉田の宿場から遊廓になりました。*1
昭和2年の「豊橋市街地図」を見ると、吾妻町の正方形の区画の東側、つまり、赤線があった東田仲ノ町のあたりに、「遊廓」の2文字が記されています。
戦後は赤線に移行しました。*2
売防法以降は、料理屋に転向し、仲居という名の接客婦を置いた時期があり、その結果、取り締まり当局の集中攻撃を受け徹底的に検挙されてしまい、その後は普通の旅館に転向したと言われています。*3
現在も現役で営業中の旅館が何軒かあるようです。
往時を偲ばせる建物が残っています。
*1 全国遊廓案内
*2 木村聡:赤線跡を歩く2 P.102-P.103
*3 全調査 東海道 酒・女・女の店P.202
市電の競輪馬場前駅の南側に東田仲ノ町公園があります。
競輪馬場前駅から道路を歩くと、突然、緑が多いY字路に出会います。ここが東田仲ノ町公園です。
公園の向こう側は赤線地帯でした。現在も和風の旅館が建ち並びます。
公園の中には、神社があります。
今回は豊橋(愛知県豊橋市)の町並みと風俗を散歩します。
豊橋は、路面電車のある町です。JR豊橋駅前に市電の駅があります。
市電が町を走ります。
道路との併走区間が延々と続きます。
競輪場前駅にて。
上諏訪駅の北側の湖岸通り三丁目付近は、観光ホテルが建ち並ぶエリアです。温泉地には、ストリップ劇場があることが多いですが、上諏訪にもありました。フランス座です。
夜になると、ネオンが煌々とともります。
入口付近。
「ヌード劇場フランス座」の看板。
大手花街の路地を入ったところに、大手見番があります。
現在も見番として存続しているようです。
邦楽教室としても営業中です。
夜の様子。
JR上諏訪駅の南側にある通称大踏切。この踏切を渡るとすぐにY字路があります。右は並木通りへ向かう通り、左は大手の通りです。
大正後期には、この通り沿いに料亭が並んでいました。*1
逆方向から見たところ。奥に大踏切があります。
大手の通りから路地に入ったところにあるスナック。
【参考文献】
*1 藤森弘子:まぼろしの花街大手(長野日報社,2007)P.23
衣乃渡橋近くを歩いていると、木造民家や倉庫のような建物が点在する広場*1 に出ました。
場所は、「並木地区公民館衣乃渡分館」の隣です。地元の方に話をお伺いしたところ、このあたり一帯は、遊廓街だったと教えてくれました。
敷地内はほとんどが未舗装です。
小さな稲荷神社もあります。
広場の西端にある木造民家。
【参考URL】
*1 赤羽康男、山田毅:臼井吉見の「安曇野」を歩く17 尚江と女性たち
(「市民タイムス」ホームページ)
今回は、上諏訪(長野県諏訪市)の町並みと風俗を散歩します。諏訪の市街の南側を衣之渡(えのど)川が流れます。
「全国遊郭案内」によると、上諏訪町字衣之渡には、衣之渡遊郭がありました。*1
旧鶴賀新地から権堂町へ向かう通り。
道幅の狭い通りに面してラブホテルがあります。
旧新地の西側の通りにも1軒ラブホテルがあります。
シンプルな看板。
東鶴賀の旧鶴賀新地の跡地の西側の通り。
古い木造建築の民家があります。
まるで、自動車が建物に突っ込んだ状態のまま時間が止まってしまったかのようです。
自動車の中には、ゴミがぎっしりと詰まっています。
旧鶴賀新地の敷地に木造建築の建物があります。
裏の通り(北側)に建物の入口があります。旧新地関係の建物であるかどうかは不明ですが、立派な木造建築の建物です。
入口付近。
東側から見た2階部分。
昭和11年の「長野市中部地図」を見ると、鶴賀新地の場所がはっきりと記されています。
格子状に配置された6つの区画が新地の場所だったようです。
南北に延びる通り。
道幅の広いメインの通りは、権堂町へ向かうあたりから、急に道幅が狭くなります。
今回は、長野(長野県長野市)の町並みと風俗を散歩します。
長野電鉄の権堂駅で下車し、東側へ進むと東鶴賀町に着きます。東鶴賀町は、かつて鶴賀新地があった場所です。
通りに面して、稲荷神社があります。
稲荷神社の敷地内に鶴賀新地の碑があります。
こういう碑があると解りやすいです。
高田には、「高田市街図」*1 を見ると、駅の北側に栄町遊廓の場所が記されています。それによると北本町二丁目の「一本橋」を渡ったところに遊廓がありました。
幅の広い道路で囲まれた一画が、遊廓があった場所です。
現在は、遊廓の面影はありません。
遊廓の北側にあった水路。
【参考文献】
*1 高田市街図(高田新聞社印刷部,1930)
仲町六丁目付近。民家や商店が建ち並びますが、ここでも雁木造りが延々と続きます。
雁木造りの柱に牛乳箱があります。
目立つ位置に取り付けられています。
前と後ろに取り付けられた牛乳箱。
仲町の通り。かつては海産物問屋街だったそうです。
路地に入ると、料亭が何軒か並ぶ一画があります。
黒板塀が美しい、風情のある建物です。
料亭の入口。
今回は、高田(新潟県上越市)の町並みと風俗を散歩します。高田の飲食店は、駅の東側の仲町に集中しています。
雪国らしい雁木(雪よけの屋根)のある飲食店街です。
高田の雁木通りは、16キロにも及び日本一の長さであると言われています。
雁木の下に飲食店が建ち並んでいます。
新地跡のある弓町への分岐点をさらに南に数分歩くと、大きな桜の木があります。このあたりは化粧坂と呼ばれています。
古い井戸があります。
化粧坂とは、いかにも遊女の里らしい名前です。このあたりが昔の岩城街道の入口であり、庚申坂の遊廓がありました。
庚申坂の遊廓の移転の話は、明治20頃から出始め、結局明治29年に新町弓町に移転し、「新地」と呼ばれるようになりました。
三春では、旧名の庚申坂も忘れられず、新地と庚申坂の両方の呼び名が昭和31年の赤線廃止まで続きました。
----岩城街道口の地蔵----
三春城下に通ずる旧街道六ヶ所に一体ずつ合わせて六地蔵が立っている。正徳5年(1715年)建立である。傍らに古くから旅人が湯をいやした大井戸がある。番組町から分かれる岩城街道は、登り坂で、頂上に庚申様を祀る堂があり、庚申坂と呼ばれていた。文政9年(1826年)、小川にかかる石橋の修理の際、温泉同様の水が湧き出し、湯場として繁盛した。明治29年湯場は、弓町に移転し、遊廓庚申坂、または新地と呼ばれ、昔の庚申坂は古庚申坂と呼ばれるようになった。
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.127-P.128
弓町にかつて新地の遊廓だった建物が現存しています。*1
廃屋になっている建物もありますが、昔の面影が残っています。
一番手前の建物の入口付近。
建物は全部で3軒あります。こちらは2軒目の建物。
一番奥にある建物。
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.128
今回は、三春(福島県田村郡)の町並みと風俗を散歩します。
磐越東線三春駅で下車し、約1km行くと三春町の中心部です。
さらにそこから県道門沢三春線を進み、Y字路を右へ進むと、左側に庚申坂と呼ばれる坂の入口があります。
この地には、昔、せり場があり、付近には遊廓もあり、繁盛しました。
庚申坂(新地)への入口。この坂を登ると、遊廓(新地)があった場所に行き着きます。
堂前町の交差点。
斜めに配置された入口のドア。手すりは斜めの2本配置されています。
「いらっしゃいませ」の看板。
昭和初期、大阪府議会が、「遊廓のトイレと消毒所はタイル張りにすること。」と決議したのがきっかけで、全国の遊廓にまたたくまにタイルが普及しました。*1
「日本のタイル」*1 には、昭和6、7年に出入りの業者が施行したとされる、三春町の庚申坂遊廓の「島屋」のトイレ内部のタイル張りの写真が掲載されています。
郡山駅近くの旭町通りに、銭湯の旭湯があります。ビル型の銭湯ですが、少し老朽化しているようです。
郡山には、電話帳に載っている銭湯が2軒あるのですが、この銭湯は電話帳に載っていません。入るのにちょっと勇気がいる銭湯です。
なぜか、入口に「出会いパーティ」の貼紙。
内部は、お世辞にもきれいとは言えない状態で、雑然としています。
がらんとした浴槽。床のタイルは、ところどころ、剥げていいて老朽化が進んでいます。
郡山市の中心部に麓山(はやま)公園があります。この公園は、文政年間(1818~1829年)に、庶民の手で作られたという珍しい生い立ちの公園です。*1
文政年間の郡山は宿場町として栄え、多くの飯盛女たちが遊客を招くほどの振興の町でした。このときの殿様は、二本松藩9代藩主の丹羽長富でしたが、遊び好きだった長富は、この地に別邸を建築する計画を立てました。しかし、子女を寵愛し政務を怠る日々が続いたため、家臣に諌められ、文政8年に別邸建築の話はお流れとなりました。長富は、藩主を隠退しましたが、自力で庭園を建設しようという郡山町民の意気が燃え上がり、庭園建設が実現したのでした。*1
麓山公園の出島になっているところに、二基の句碑が立っています。
これは、文化・文政時代に栄えた佐渡屋という旅籠屋の遊女の「鶴司(つるじ)」と「あやめ」が詠んだ句碑です。*1
鶴司が詠んだ句。
「巳の日にも小松引きせんわが背子と」
側面には、佐渡屋内鶴司と記されています。反対側の側面には、文政九年(1836年)と刻まれています。*1
こちらは、「あやめ」が詠んだ句碑。
「みつくさし瑞沼山のおとこへし」と刻まれています。*1
【参考文献】
*1 山崎義人:ふくしま散歩<県中・県南版>(不二出版,1977)P.17-P.22
慶長9年(1604年)に徳川幕府の命により奥州街道が開設され、そのとき郡山宿が開村しました。*1
本町一丁目2と14の間の通りは、ここだけがわずかに屈曲していて、郡山宿の面影を感じることができます。
「史料で見る女たちの近世」*1 によると、郡山宿の旅籠屋には飯盛女がいて、現在の本町一丁目の野田文具店から井上園茶店にかけての道路上に引手茶屋がありました。
井上園茶店付近。
今でも古い商店が残っています。
【参考文献】
*1 草野喜久:史料で見る女たちの近世(歴史春秋出版,2004)P.242,P.274
今回は、郡山(福島県郡山市)の町並みと風俗を散歩します。JR福島駅は、新幹線が停車する駅だけあって、駅舎は立派です。
ローカル線のプラットフォームへの乗り換え途中の地下道に、白ポストがあります。
正面には、オ-ソドックスな標語。
影に隠れて見えない側面には、三ない運動の標語。
狸小路という名の飲み屋街。
レトロな雰囲気の飲み屋街です。
奥まったところにある公衆トイレ。客引き禁止看板や、立小便禁止看板があります。
逆側から見たところ。
仲間町の路地。古い民家があります。
森永の牛乳箱があります。
箱の側面には「フルーツヨーグルト」。
箱の中央部分の「ホモ」のマーク。
福島の花街は、仲間町にあって、現在は、この付近は、現在は、北裡商店街と呼ばれていますが、かつては北裡花街がありました。
花街らしいアーチがあります。
現在も料亭が数軒あります。
わずかながら花街の面影が残っている路地。
料亭街近くに福島稲荷神社があります。稲荷神社としては、規模が大きい方だと思います。
大きな狛犬があります。
狛犬の台座に「三業組合 福島見番」の文字が見えます。
待合や料亭の屋号が多数刻まれています。
今回は、福島(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
駅の南側に位置する矢剣町には、「一本杉遊廓」がありました。道幅が旧に広くなる一画があります。
道幅の広い道路は、しばらく行くと元の狭い道幅に戻ります。
逆方向から見たことろ。奥に見えるのは、新幹線の福島駅です。
東側には、新幹線の高架が見えます。
柏崎は、1949年に温泉が噴出し、湯の街として発展してました。
スナックやマッサージ店が軒を連ねます。
ピンサロらしき店。
アーチを逆から見たところ。
金刀比羅神社には、妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。明治42年刊行の「柏崎華街志」の「柏崎華街細見記」*1 には、「港楼」、「豊島楼」、「都楼」など、20の妓楼の屋号が掲載されています。
港楼の玉垣。
豊島楼の玉垣。
金刀比羅神社は、2007年(平成19年)7月16日に発生した「新潟県中越沖地震」で被害を受け、翌月の8月9日に玉垣の撤去作業が行われました。*2
撤去された玉垣の跡が残っています。
山積みにされた玉垣。「都楼」と刻まれています。今回の地震で貴重な玉垣が多数失われたようです。
【参考文献】
*1 小田金平:柏崎華街志(1909) 附録P.5-P.6
*2 神道青年全国協議会ホームページ:新潟県中越沖地震対策本部の設置
遊廓跡地の西隣に金刀比羅神社があります。
金刀比羅神社は、遊廓と密接な関係があったようです。神社の敷地に遊廓の歴史を記す碑があります。
境内に大きな社殿はありません。2007年(平成19年)7月の新潟県中越沖地震の影響かもしれません。
神社の境内から、遊廓跡地方面を見たところ。
-----新花町と金刀比羅神社(碑文)-----
柏崎の花街は、明治時代、現在の西本町にありました。西から風が吹く柏崎にとって盛り場が町の西側に位置するのは火種を常に風上に抱えている状態であり、度々大火に見舞われました。付近一帯の貸座敷がすべて消失した1911年の桐油屋火事を契機に県からこの地に貸座敷運営許可を与えられ、四国讃岐の本殿より遷宮された金刀比羅宮を基点に遊廓や料理店などが新たに建設されました。
今回は、柏崎(新潟県柏崎市)の町並みと風俗を散歩します。
新花町には、柏崎遊廓がありました。地図で見ると、四角形に区切られた区画があります。
近くには、柏崎温泉のバスの停留所があります。
通りの幅はかなり広く、中央分離帯は緑地帯になっています。
メインの通りが交差するあたり。
長岡駅の西側に位置する殿町三丁目界隈は、飲食店などが集中する繁華街です。
花の町通りのアーチに、「客引き排除推進のまち」と書かれた垂れ幕があります。
この看板は、繁華街のあちこちにあります。
ある雑居ビルの看板。
長岡の新遊廓跡地に、数軒の旅館が現在も営業中です。
豪華な木造建築の旅館。
向かい側にもう1軒あります。
旅館風の建物のお宅。
今回は、長岡(新潟県長岡市)の町並みと風俗を散歩します。
長岡市文治町(現在の山田3丁目付近)は、かつての長岡遊廓(新遊廓)があった場所です。*1
長岡の遊廓の歴史は古く、元和2年に先手村(現在の千手町)に18軒の茶屋を許可したことに始まります。*2
また、石内町にも遊廓ができ、これを「北廓」と呼び、先手村の遊廓は「南廓」と呼ばれるようになりました。明治40年(1907年)風紀上の問題から「北廓」と「南廓」を文治町に移転し、「長岡新遊廓」と称しました。*2*3
昭和18年の長岡市の市街地図*4 を見ると、文治町のところに「遊」「廓」の2文字が記されていています。長岡花街誌*2 に掲載されている「新遊廓地図」と見比べてみると、現在も当時の区画が残されていることがわかります。
西仲之町、東仲之町と呼ばれた東西の通りと久松小路、助六小路と呼ばれた南北の通りが交差するあたり。遊廓の中心部であったと思われます。
文治町の旧地名は、公民館の名前に残されています。
【参考文献】
*1 南博、他 編:近代庶民生活誌 第13巻(三一書房,1992)P.92「全国遊廓案内」
*2 永田直治郎:長岡花街誌(面白社,1912) 口絵,P.6-P.9
*3 細貝隆司:長岡郷土史(長岡郷土史研究会,1993)P.106-P.117
*4 地図資料編纂会編 :昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)p.98
浜松駅の東側の駅前から八幡橋に至る間は、商業地区です。
比較的新しい「サザンクロス」商店街。
サザンクロス商店街の隣にある「サッポロ街」。
サッポロ街の中に入ります。上部から光が差し込む構造になっています。
昭和の雰囲気が残る空間です。
浜松駅の東側。八幡橋周辺は、商店が並ぶエリアです。
1階にファッションブティックが入っているビル。
2階は、「赤い靴」という店名の風俗店です。
募集看板。40才までの方。
浜松駅の西側の千歳町の一画は大規模な飲食街です。ピンサロと思われる風俗店が多数あります。
派手な看板が人目を引きます。
風俗に栄養ドリンクはかかせません。
女の子からのメッセージ。
駅の中心部に近い旅籠町。二葉遊廓ができる前までは、旅籠町が色町でした。
旅籠町屋台置き場の近くに、ラブホテルの看板があります。
住宅街の中にあります。
風情のあるラブホテルの佇まいです。
入口付近。
今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。
浜松には、かつて二葉遊廓(二葉園)がありましたが、現在は、鴨江町の旅館街にその名残を留めるのみとなっています。
赤線廃止後は、鴨江旅館街として、ステッキガール専門の旅館として営業していました。*1
逆方向から見たところ。メインの通りの中央部分には緑地帯が設けられています。
現在も営業しているビジネス旅館「豊本」は、遊廓時代に、営業していた「豊本楼」*2 の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査 東海道 酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.179-P.181
*2 南博:近代庶民生活誌14(三一書房,1993)P.81「全国遊廓案内」
吉田町の永大橋の近くに銭湯の吉田温泉があります。五角形の形の建物が印象なコンクリート造りの銭湯です。
入口はシンプルです。何ともいえない雰囲気です。
建物の後ろ側。煙突は珍しい四角形の形状です。
内部はガランとしています。余分な設備は何一つなく、円形の浴槽が中央に1つあるだけ。特異な空間です。
沼津駅前の「京極街」は道路の南側の2棟と対峙する北側の棟(写真右側)。計3棟からなる飲み屋街でした。※1
中央に通路がある横丁タイプ。
天井からは光が差し込みようになっています。
スナックや料理屋の看板。
十五番街のゲート※1 東側に、「京極街」と名付けられた飲食建物群があります。道路の南側に2棟(写真手前と奥)、北側に1棟(写真左側の「朱美」の看板のあるところ。)あります。
1階に飲食店、2階は居住スペースです。
東側の建物。
南側の2棟。建物は、ピンク色に近い肌色で統一されています。
沼津駅南口の繁華街の「十五番街」。
「いらっしゃいませ」のゲート。
十五番街の中心部。L字型に折れ曲がる道の角の建物には、スナックなどの店舗の看板が密集しています。
南側にもゲートがあります(写真右下)。
今回は沼津(静岡県沼津市)の町並みと風俗を散歩します。
JR沼津駅北口駅前のリコー通り。
ビルにソープの看板があります。
2階に居酒屋、3階に宴会場が入り、そして、4階にソープランド。5階はダンス&パブ、6~7階はホテル、屋上はビアガーデンになっています。「娯楽の殿堂」とも言えそうなビルです。
4階入口。
小倉駅前の繁華街に、成人映画館があります。向かい側にはビジネスホテルがあります。
名画座Ⅰと名画座Ⅱがあります。
名画座Ⅰは、成人映画館。
名画座Ⅱは薔薇族専門です。
伊藤文學さんは、1971年に男性同性愛専門誌「薔薇族」を創刊し、社会的少数者としての同性愛者の立場を訴え、その後「薔薇族」という言葉は、同性愛者の代名詞として定着しました。
小倉駅周辺には、おとなのおもちゃ屋さんが乱立しています。
駅前のビルの角にあるこちらの店舗はレトロ感が漂っています。
入口の階段。
京町の店。
ピンクの看板が印象的な店。
京町のちょんの間街には、「コンパニオン募集」などの貼紙があちこちに貼られています。今尚、現役である証とも言えそうです。
「アルバイト募集」の貼紙。
郵便ポストにも貼紙。
「新京町料飲協同組合」の貼紙。
京町の飲食街の西側のエリア。
昔のままの建物が残っています。
現在も営業中の店があるようですが、昼間なので、詳細については確認できませんでした。
角にある飲食店。
ソープランド街の南隣にあたる京町に、スナックや小料理屋が密集した一画があります。このあたりに青線があったとの説*1 もあります。
料理屋の看板が残っています。
建物の左側を回り込んだあたり。
「貸部屋あります。」の看板。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005) P.316
新町(現在の錦町2丁目)の路地。
カフェー調の建物の建物が残っています。*1
美しい赤色のタイルです。
植木の緑色との相性も抜群です。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45
門司港駅の東側の新町(現在の錦町2-21の小児科病院の裏手の狭い路地)に、赤線街がありました。*1
入口は、鍵の手のように路地が曲がっています。
古い木造の建物が連なっています。
1階部分は華やかな感じになっています。
裏側の通りから見ると、木造3階建てであることが解ります。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45
JR門司港駅の北側の東本町。金属製のアーチがあります。
このあたりには、馬場遊廓がありました。*1
昭和3年の「門司新市街圖」には、現在の現在の東本町2-4のあたりに「遊廓」と記されています。*2
料理店がはいっている古い建物。
「馬場」と書かれた電柱のプレート。
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002) P.44-P.45
*2 大淵善吉:門司新市街圖(1928)
甲宗八幡神社は、源平合戦の時代から伝わる、由緒ある神社です。
残念ながら、近隣治安状況の悪化のため、裏参道(裏階段)は封鎖されています。
鳥居のある裏参道(裏階段)のすぐ隣にラブホテル「バンビ」があります。ラブホテルの存在が治安状況の悪化に関連しているのかもしれませんが、詳細については不明です。
封鎖された裏階段。
門司で有名なものと言えば関門トンネルですが、その関門トンネルの入口の山腹にラブホテルの大看板があります。
関門トンネルの手前の右を入るとホテルに到着です。
ホテルの全景。アパートのような建物です。
入口付近。
今回は、門司(福岡県北九州市門司区)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島本線始発駅である門司港駅は、駅舎のみならず門司港駅一帯が「レトロ」地区として有名です。
電話ボックスもレトロなデザインですが、その右隣にもう一つレトロなボックスがあります。
レトロ調の白ポストです。
ポストの上にデザインされているのは、国指定重要文化財の「旧・門司三井倶楽部」の建物でしょうか。
芳和荘の内部に入ると眼前に飛び込んでくるのが、この光景です。建物は2階建てで、口の字型になっています。建物の遊廓時代は、「長州楼」と呼ばれていたそうです。
正方形の建物の内側には廊下があって、ぐるりと一周できます。
遊廓建築の特徴と言える中庭。
2階の欄干の板には、文字が彫られています、何と書いてかるかは、宿泊すると、翌朝、芳和荘のご主人が教えてくれます。
築100年近く建つ萩市松本川近くにある芳和荘。元遊廓の建物です。*1
築100年の木造建築です。
歴史を感じさせる看板。
北側からの遠望。
【参考ホームペ^ジ】
*1 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)
今回は、萩(山口県萩市)の町並みと風俗を散歩します。
東萩駅から萩橋を渡って、弘法寺の前を通りすぎると、浮島橋があります。この浮島橋の北側の新堀川沿いに遊廓がありました。
昭和9年発行の「萩市街地図」*1には、遊廓の場所が記されています。現在の浜崎町のあたりです。
遊廓は、「弘法寺」の俗称で呼ばれていました。*2
現在の新堀川沿いは、住宅地となっています。新堀川の東側(写真の右側)に遊廓があり、現在、川沿いにある家は、昔は無く、舟から直接遊廓にあがれたそうです。
遊廓だった場所に、現在も残っている旅館「芳和荘」。*3
萩の町並みを紹介する観光地図「浜崎伝建おたからマップ」が町のあちこちに貼られていますが、「昔の遊廓。中も見れます。」と芳和荘のことが紹介されています。
【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「萩市街地図」
*2 上村行彰編 :日本遊里史(春陽堂,1929)P.582
【参考ホームペ^ジ】
*3 萩温泉旅館協同組合:今月の旅館紹介(芳和荘)
湯田温泉の湯の町通りを北へ進むと、一富士旅館、入舟旅館の看板が見えてきます。
昭和6年の「山口市街図」を見ると、この付近に「遊」、「廓」の2文字が記されています。この付近だけ、道幅が広くなっている箇所があります。
湯の町通りから来た道と比べると、道幅は、かなり広いです。
建物は、古くからこの地にあったと思われる木々に囲まれています。
湯田温泉の湯の町通りと錦川通りが交差するあたり。昔の温泉街の雰囲気を感じる場所です。交差点の近くにくすり屋があります。
くすり屋の隣の部分。
よく見ると、「大人のオモチャ、九州民芸」と書かれています。古典的民芸秘具を販売していたのでしょうか。
この交差点から北へ行くと、昔、遊廓があった場所に行き着きます。
今回は、湯田温泉(山口県山口市)の町並みと風俗を散歩します。 湯田温泉は、交通の便も良く、中国地方屈指の温泉歓楽街です。
湯の町通りと県道204号線が交差するあたり。湯田温泉の中心部です。写真の右手前には、中原中也記念館があります。松田屋ホテルの豪華の建物に圧倒されます。
中也通り。温泉旅館もあります。この道を真っ直ぐ行くと、高田公園に行き当たります。
錦側通り。このあたりが湯田温泉の古い町並みでしょうか。
スナックが建ち並ぶ、温泉街らしい町並みです。
防府駅北側にある天神商店街。江戸時代はお殿様が通った萩往還の道筋です。
防府天満宮の参道沿いに銭湯の錦湯があります。ちょうど、らんかん橋の隣です。
近代的なビル建築ですが、看板に愛嬌があって、何となくあたたかい感じがします。
女湯の入口にある張り紙。
脱衣場は驚異的な狭さです。
防府駅近く、天神一丁目の「新天地」と呼ばれる繁華街があります。
ちょっと寂れた雰囲気のスナック街。
スナック街にある旅館風の建物。
新天地飲食ビル街。空き店舗が多いです。
三田尻には、かつての色町の名残でしょうか、スナックだった古い建物が残っています。
建物は、和風です。
スナック明日香。
売地に残るスナックの看板。
「全国遊廓案内」によると、防府には三田尻遊廓があり、「開地遊廓」とも呼ばれていました。*1
三田尻交番の近くには、スナックが点在していて、かつては、繁華街であったと思われます。
電柱の「開地」のプレート。
三田尻からは、工業地帯の煙突が望めます。
風情のある町並みが残っています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137
今回は、防府(山口県防府市)の町並みと風俗を散歩します。
JR防府駅からバスに乗り、バス停「堀口通」で下車します。
「全国遊廓案内」によると、駅から乗り合い自動車で「堀口」で下車して直ぐの場所に、三田尻町遊廓がありました。*1
堀口通の商店街。この付近は、萩往還の終着点にあたり、江戸時代は商業地区でした。
堀口の東隣の三田尻本町の精肉店。
精肉店脇の路地。奥に見える石垣は、萩往還の終着点に築かれたお茶屋の「英雲荘」です。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.137