今回は、高田馬場(東京都新宿区)の町並みを散歩します。

高田馬場の駅付近は、戦後急増したバラック建ての老朽家屋が密集していましたが、昭和37年、駅前再開発が始まり、駅前広場の中央に女神の像が設置されました。*1

完成当時は、周囲に噴流水が設けられたそうです。*1

再開発の経緯を記す碑が建てられています。

今回は、高田馬場(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
高田馬場の駅付近は、戦後急増したバラック建ての老朽家屋が密集していましたが、昭和37年、駅前再開発が始まり、駅前広場の中央に女神の像が設置されました。*1
完成当時は、周囲に噴流水が設けられたそうです。*1
再開発の経緯を記す碑が建てられています。
今回は、鶯谷(東京都台東区)の町並みを散歩します。
JR鶯谷駅は、吉原ソープランド街への最寄り出来です。南口の駅前ロータリのタクシー乗り場は、吉原からの送迎者が発着する場所でもあります。
北口の駅前。こちらも待ち合わせ場所としてよく利用されます。
富士銀行前の交差点も送迎者の発着場所として利用されているようです。
張り紙。
三沢は基地の町です。基地の入口には、「U.S. AIR FORCE(アメリカ空軍)」と「航空自衛隊三沢基地」の2つの看板が並んでいます。
基地近くには、アメリカ村と呼ばる外国人のお客さんが多く集まるバーが点在している一画があります。
高層マンションのような外観の基地の宿舎。
米軍基地専用線跡。
今回は、小作(おざく、東京都羽村市)の町並みを散歩します。
JR青梅線小作駅東口周辺には、居酒屋やパブ・クラブが入居する雑居ビルが乱立しています。
西方向にある巨大風俗ビル。
ラーメン屋などの飲食店が入るビル。
大通り沿いの大型ビル。
出雲大社前駅の北側。高浜川へ向かう通りは、古い飲食街の風情の残る通りです。
現在も料理屋が営業中です。
酒、おでん、ラーメンの店。
昭和7年の市街図*1 によると、この付近には、「大和や」「赤玉」「丸竹」などの屋号が見られ、賑わいを見せた通りだったと思われます。
五所川原駅前の東町は、かつて、歓楽街の中心でした。東町の歓楽街は、昭和23年に小料理屋の「富喜」が最初で、のちに、東町が歓楽街となる主要役割を果たしました。「富喜」は、最初駅の人夫などの休憩所のような形で経営され、この庶民的な酒場が人気を拍しました。これに刺激され、当時水田地帯であった東町に続々小飲食店が建てられ、昭和28年、大型のバーの「らんぶる」が完成すると東町は一気に歓楽街となりました。*1
現在、飲食店はまばらです。
東町の衰退は、市役所が移転したことが遠因だったと言われています。*2
北側の一画。
この先に「らんぶる」がありました。*3
スナックの建物。
【参考文献】
*1 兵庫昭一郎:五所川原三百年史 経済編(青森民友新聞社,1966)P.188-P.190
*2 東奥日報(1977.5.11)津軽の町内めぐり121
*3 東交出版社:最新版住宅明細図 五所川原市 木造町 板柳町 鶴田町 金木町 柏村(1969)P.8
今池5丁目。「ウェルビー今池(写真右側)」の道路を挟んだ向かい側は、スナックなどが入るビルです。(写真左端は、「キャバレー花園」の看板)
ニューヘルスビル。
「ヘルスビル」と言えば、「道後ヘルスビル」*1 を思い出します。
古い市街図を見ると、この場所(「キャバレー花園」の隣)には、スーパー銭湯と思われる「ニューヘルスセンター」があり、これがビルの名称になったと考えられます。どうやら、風俗店の”ヘルス”とは無関係だったようです。
餃子の王将の隣(写真左上)には、「今池特浴」の名があります。こちらは、風俗店だったのでしょうか。
【参考記事】
*1 風俗散歩(道後温泉):道後ヘルスビル(2009.5)
今回は、今池(愛知県名古屋市千種区)の町並みと風俗を散歩します。
今池交差点に、今池の歴史とが掲載された案内が設置されています。
昭和49年当時の写真。新今池ビルに、「今池劇場」と「今池地下劇場(成人映画館)」の看板が見えます。
交差点に設置された水着の女性のオブジェ。「今池ブロードウェイ」と書かれています。
今回は、相模原(神奈川県相模原市)の町並みと風俗を散歩します。
JR相模原駅前には、小規模な歓楽街があります。
風俗店の看板。
レトロな看板もあります。
キングコース、¥10,000.-です。
今回は、千日前(大阪市中央区)の町並みと風俗を散歩します。
戎橋は、道頓堀の繁華街の中心部に位置します。
周辺には、グリコのネオン看板など、道頓堀の名物がたくさんあります。
東側には、ドンキホーテの巨大観覧車が見えます。
太田駅前の商店街「南一番街」は、近年、シャッター通り化した商店街に風俗店が入居し、商店街が風俗街化するという特殊な現象が起きました。
「南一番街」は、昭和43年(1968年)、もともと田畑だった土地を開発してつくられ、運営には、地元の商店主で構成される「太田商業推進共同組合」が組織されました。昭和52年代に入り、スーパー大手のユニーが、太田駅前に大型店「ベルタウン・ユニー」(現在はドンキホーテ)を作る計画がもちあがり、当初は「太田商業推進共同組合」はこれに反対しましたが、話し合いの結果、半分をユニーが、残りの半分を「太田商業推進共同組合」の商店主達店を構えることで決着しました。ところが、いったん大型店ができてしまうと、商店主は、出資した大型店に意識が集中してしまい、商店主の子供達も大型店で働くようになったため、南一番街からは気持ちが離れ、後継者も居なくなりなりました。こうして「南一番街」が徐々に歯抜け状態になり、あるとき、商店主は、風俗店業者に店舗を貸し始めました。*1*2
風俗店が進出した結果、商店街が風俗街化しました。
派手な看板の風俗店が乱立しています。
駅の南側は、飲食店・風俗店の密集地帯です。
【参考文献】
*1 今泉智裕:ハビタット通信((4)2006)P.28-P.31 「太田ファスト風俗街」
【参考URL】
*2 清水まさよし:太田市長とれたて日記「ユニー、ベルタウン撤退とまちなか活性化」
浅草の六区ブロードウエイ商店街。
現在のウィンズ浅草のあるあたりから西側は、昭和の初期までは、浅草公園があった場所で、ひょうたん池と呼ばれる大きな池があり、ブロードウエイ商店街のつきあたり(現在、パチンコ店がある場所)には、明治・大正時代、凌雲閣(りょううんかく)がありました。
最近になって、パチンコ店の前に凌雲閣の銅版の碑が設置されました。
東京タワー、東京スカイツリーと並んで、東京三大ツリーと呼ばれているそうです。
凌雲閣、またの名を(十二階建てだったので)「浅草十二階」は、高さ52mの高塔で、東京タワー(333m)のわずか6分の1以下の高さですが、明治一の高塔で、東京のランドマークでした。現在のタワーから比較すれば、低い塔である凌雲閣からの眺めは近景を見たときに人の形がはっきり分かる程度で、つまり、その展望台は、「人をみるという感覚」「人に見られるという感覚」を感じることのできる「適切な低さ」を持っていました。石川啄木の明治41年8月21日の日記には、浅草十二階から望遠鏡で下を見下ろしたとき、細い小路で男が淫売婦に捉るところが見える」という話が書かれています。1
「路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、”チョイト” ”様子の良い方” ”チョイト、チョイト、学生さん” ”寄ってらっしゃいな”」
当時、東京の私娼窟の中心は、浅草十二階下界隈でした。私娼4,000人(吉原の登録娼妓数2,409名の約1.7倍)、銘酒屋、新聞縦覧所(取締の目を逃れるため密淫売業者が編み出した業態カムフラージュの一つ)、小料理店の名目で、私娼を抱える店は700店に及んでいました。2
【参考文献】
*1 細馬宏通:浅草十二階(青土社,2001)P.8-P.11,P.236
*2 竹村民郎:廃娼運動(中央公論社,1982)P.63
天保13年(1842年)から明治中期にかけて、歌舞伎(芝居)の町として栄えた浅草猿若町は、江戸文化・風俗発祥の地といわれています。*1
今日でこそ歌舞伎は伝統芸術とか文化遺産とよばれていますが、それは明治以降のことで、江戸時代の歌舞伎の社会的地位は低く、江戸で二悪所といえば、吉原遊廓と歌舞伎芝居街のことをさしていました。歌舞伎は、水野忠邦の天保の改革により、廃絶まで考慮されましたが、北町奉行・遠山景元(遠山の金さん)の進言により、猿若町にのみ許されることになりました。*1
現在の猿若町。
江戸猿若町守田座跡の碑。
【参考文献】
*1 新美武:浅草猿若町(新美商店,1973)P.3,P.22, P.58-P.64
地下鉄有楽町駅を地上に出ると、皇居を望む丸の内です。
ここには、第一生命本館、帝国劇場、明治生命ビルなど、昭和の激動期を見つめてきた近代建築物が多く残っています。
明治生命ビルは、昭和9年(1934年)竣工。ギリシヤ・ローマ建築を思わせる建築形式です。敗戦後、マッカーサーが一部会議室として使用しました。*1
マッカーサーがGHQ(連合軍最高司令部)の本部を置いたのは、明治生命ビルの300m南にある第一生命ビル(現DNタワー21)です。マッカーサーの執務室なども保存されています。*1
東京宝塚劇場は、1934年、東京での宝塚歌劇の拠点となる劇場として誕生。その後、立替工事を行い、2001年、リニューアルオープンしました。3
敗戦後は、アニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場は、他の接収施設とは多少事情が異なりました。観客は米軍の将校、兵隊でしたが、舞台上や舞台裏で日本人が活躍し、戦後の日本のエンターテイメントの発祥の地となりました。2
【参考文献】
*1 小林一郎:目利きの東京建築散歩(朝日新聞出版,2010)
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.149-P.153
【参考URL】
*2 宝塚歌劇団:宝塚歌劇ホームページ劇場案内
今回は、原宿(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
原宿の繁華街の歴史は、進駐軍時代にさかのぼります。終戦になると、代々木の練兵場に進駐軍将校の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)ができ、この進駐軍将校とその家族が買い物をする店が、原宿の表参道に発生しました。中でも人気を集めたのが、昭和25年に原宿の渋谷川(穏田川)のほとりに出てスーペニアショップ(進駐軍相手のみやげ店)の看板をあげた「キディランド」でした。兵士たちは、朝鮮戦争が始まってからは、日本を休息地としていたので、パーティが多く催され、そのときの仮装用品をまかなうキディランドは人気のある店で、帰国するときのみやげものもこの店で調達していました。このように、原宿に英字看板の店ができると、娘たちの人気を集め、たちまちのうちに原宿は新しい街となっていきました。*1
表参道の歩道に、「さんどうばし」と書かれた石柱があります。これは、穏田川が流れていた頃の橋の名残です。
穏田川は、現在は暗渠になって上はコンクリートで固められて、「キャットストリート」と呼ばれています。
部分的に石垣が残っていて、かつては川が流れていたことを伝えています。
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.121-P.147
長者町は、1890年に新たに開拓された町で、別名「新地」とも呼ばれました。三筋の主道路が東西に伸び、7ヶ所に共同井戸が造られました。*1*2
現在も、弁天通りの東寄り(日枝神社近く)に共同井戸の一つが活躍中です。
山王町仲よし公園から東方は、その昔人家がなくて、畑や野原になっていて更に松林(長者林と呼ばれていました。)が花水川のあたりまで続いていました。*2*3
明治時代、現在の東町1丁目から3丁目に至る一帯の老松の中には、屋敷や旅館があり、多くの天下の名士たちがたちが来遊されました。*2
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、「長者林の辺りには、商店が軒を並べ遊女も多くいて鎌倉・腰越からは海岸を経て来り遊んだ」と、この地が繁華の地であったことが記されています。*2
大磯は、鎌倉時代における唯一の花柳界で、鎌倉時代は大磯の全盛期でした。*4
【参考文献】
*1 大磯町:おおいその歴史(大磯町,2009)P.132
*2 「わがまち長者町」刊行会:わがまち長者町(「わがまち長者町」刊行会,1990)P.28-P.29,P.74
*3 田中吉助:愛甲郡中郡全図(田中文洋堂,1915)
*4 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)「全国遊廓案内」P.37
厚生町に、かつて旅館が建ち並んでいた一画があります。
古い建物も残っています。
現在も営業中の「恵比須屋旅館」。
地元の方に話をお伺いしたところ、昔、このあたりには遊廓があり、遊廓内には小さな川が流れていて、遊客は船に乗って遊廓へ来たそうです。
かつては女子大小路と呼ばれていた通りは、クラブの密集地帯です。現在は、「栄ウォーク街」と呼ばれています。
もともと、このあたりは学生街でした。県一高女、中京女子、育英、名電工、淑徳、も遠くなく、昼は学生たちで賑わっていました。
それが戦後になると、ぼつぼつ連れ込み旅館が増えてきて、昭和50年頃には、バー、キャバレー、飲食店、約700軒、働く女性の数、約3千人、特にバーの大型化ともいえるクラブの密集地帯となりました。
現在は、フィリピンパブが多いようです。
昼間の静まりは薄気味悪いほどですが、夜になると賑わいます。
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.286-P.292
「女子大」という地名は、近くに女子大があったことに由来しています。
店名に「女子大」の名が使われているコンビニ。
世界のやまちゃんの店名も「女子大店」です。
女子大らーめん。今でも「女子大」の名は健在です。
西城川に沿った旭町通りは、川の側に堤防である石垣の土手があり、かつて土手の上には普通車がやっと通れるほどの道がありました。町側は桜並木で、土手の石垣の下にも道があり、上下の通りをつなく石段がところどころにあるという独特の趣をもった町並みでした。*1
大きな料亭が集中し、検番もこのあたりにありました。*1
旭町通りの川側の歩道に、地下に埋もれている古い土手の石垣を見せるようにした施設があります。この施設の傍らに昔の写真が何枚か壁にはめ込まれています。
そのうちの1枚、西城川から見た昔の町並みの写真です。
【参考文献】
*1 菁文社:みよし街並み歴史散歩 三次・十日市・八次・酒屋編(菁文社,2007)P.35-P.37
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、明暦の大火により元吉原の遊廓が現在浅草寺の後方に移されたことによって、浅草寺界隈は人手で賑わうこととなりました。
仲見世の風景。
さまざまな店が並び、賑わいを見せています。
仁王門近くに、江戸時代に水茶屋が建ち並び賑わっていたことを示す案内板があります。
表参道が吉原通いの主要通路であったことが、境内の繁栄につながり、参道に沿って水茶店が出現し、水茶屋女が評判となるようになりました。
当時の水茶屋女の容姿の代表的なものとして、衣装には贅を尽くし、特に前掛けに工夫をこらし、江戸の流行の原動力となりました。
【参考文献】
*1 上坂倉次:あさくさ仲見世史話 門前町繁昌記(浅草観光連盟,1985)P.27-P.38
福知山市街の北東部にある広小路。レトロな商店街です。
広小路の由来を説明する看板があります。
江戸時代から、広小路は有力商人が軒を並べる城下町の顔でした。
明治10年頃、下柳町川沿いを中心に貸座敷12軒ほどが公認され、芝居小屋もできて、広小路は歓楽街の要素も加わりました。大正時代になると、芝居小屋は近代映画館に変わり、西洋料理店やカフエが進出し、歓楽街、商店街として繁栄し現在に至っています。
貸座敷があった下柳町近くの路地。古い旅館があります。
現在の下柳町は、車の通行量の多い道になっています。