鹿児島(立小便看板)天文館。入口に木製看板。新宿街の隣にある狭い路地。

新宿街の隣にある狭い路地。

入口に「この通りに小便をするな」と書かれた木製看板があります。

文化通りと二本松通りが交差するあたり。

「立小便するな」の大きな張り紙。

参考文献

参考記事

鹿児島(新宿街)天文館。袋小路の両側に飲み屋が軒を連ねています。。

歓楽街の「天文館」の通りに、思わず立ち止まってしまう、うらぶれた路地があります。

見上げると「新宿街」と書かれた看板が2つ。

奥行50mほどの袋小路の両側に飲み屋が軒を連ねています。*1

密集度の高い路地。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.6-P.7

参考文献

参考記事

鹿児島(裏町通り共同ビル)雑居ビルの1階を貫くトンネル路地。

鹿児島の歓楽街「天文館」に古い雑居ビルがあります。

雑居ビルの裏側は、裏町通りと呼ばれています。東南アジアのどこかの通りを思わせるような光景です。*1

雑居ビルの1階を貫くトンネル路地。

別の路地の入口。「ひげ船長」と書かれた看板がいい感じです。

【参考文献】
*1 清水哲男;浜地克徳 絵:天文館物語(シーナ,2009)P.10-P.11

参考文献

参考記事

鹿児島(林芙美子文学碑)幼少の頃、桜島で過ごした女流作家。

今回は、鹿児島(鹿児島県鹿児島市)の町並みと風俗を散歩します。
鹿児島の象徴と言えば、噴煙あげる桜島です。桜島へは鹿児島港からフェリーで約15分です。

桜島の古里温泉に女流作家の林芙美子文学碑があります。

幼少時代のフミ子像。「幼少の頃、フミ子はここ桜島で過ごした」と刻まれています。
幼少時代の芙美子は、桜島の大噴火に遭遇しています。芙美子は、遅くとも大正3年10月には、鹿児島の叔母や祖母のもとに預けられていましたが、この桜島大噴火は、大正3年1月12日から約2年間も続きました。*1

大正の中ごろから昭和にかけてカフェーというものが大いに発達し、そこで働く女給が芸者に代わって都市インテリたちの新しい魅力の対象となりました。かつて女給をしたことのある女流作家は多く、一流どころでは、宇野千代、林芙美子、平林たい子、佐多稲子などがいます。*2

【参考文献】
*1 廣畑研二:甦る放浪記(論創社,2013)P.48
*2 大宅壮一:週刊読売(1958.2.25)P.26 「女流作家の愛情行路」

参考文献

参考記事

水俣(大園の塘)六ツ角交差点付近。夜に活気を見せるところでした。

水俣市街の旭町の繁華街を北上すると通称六ツ角と呼ばれる六差路の交差点にいきつきます。この場所には、昭和9年に河川改修の前までは(写真左奥の国道3号線方向から写真の後方にかけて)古賀川が流れていて、現在の六ツ角の場所には、永代橋が架かっていました。
永代橋は、江戸時代からの水俣の象徴的存在で、永代橋上流の左岸には、大園の塘(うぞんのとも)といわれた歓楽街がり、料亭や妓楼が建ち並んでいました。水俣では堤防のことを塘(とも)と呼びました。大園の塘、大廻り(うまわり)の塘、百閒の塘、古賀ん塘などです。永代橋から古賀観音堂付近までの道筋(写真の後方)を古賀ん塘と呼び、古賀ん塘に沿った辺には、料亭や芸者の検番などもあり、博聚園という少し洒落た2階建ての店がありました(現在のM’sCITY付近)。*1

大園の塘があった通りには、現在は、ビジネホテルや居酒屋が建ち並んでいます。
当時、大園の塘は永代橋を挟んだ古賀ん塘とは、対照的な賑わいをみせていました。すなわち、古賀ん塘が昼に活気を見せれば、大園の塘は夜に活気を見せるところでした。古賀ん塘は、鹿児島本線が開通するまでは、日本チッソ工場で生産されるカーバイドや肥料の積み出しが盛んでした。大園の塘はこれらの船員や地元商家の旦那方などで賑わいを見せました。

「聞書水俣民衆史 第三巻 村の崩壊」*2 の口絵写真に記載されている「もと女郎屋の建物を旅館に改造した旭屋旅館」は、ナイトクラブ「おあしす」の向かい側(ビジネスホテル「藤」の隣)にありました。*3

旅館「双葉荘」。

【参考文献】
*1 水俣市史編さん委員会:新水俣市史 民俗・人物編(水俣市,1997)P.1012-P.1018
*2 岡本達明,松崎次夫:聞書水俣民衆史 第3巻 村の崩壊 (草風館,1996)P.15
*3 ゼンリン:水俣市(ゼンリン,1984)P.65

参考文献

参考記事

水俣(そば屋の脇のスナック)トンネルのようになっている路地。

水俣市浜町のそば屋の脇の小さな飲食街。

「ひかり」、「なぎさ」、「とも」などの店の看板が2階部分に並びます。

スナック「ひかり」の裏側の路地。

トンネルのようになっている路地を抜けると(写真左側)、スナック「洋子」がある通りに出ます。

参考文献

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水俣(狸小路)スナックが密集する一画。肥薩おれんじ鉄道の線路沿い。

水俣市桜井町の肥薩おれんじ鉄道の線路沿いに、スナックが密集する一画があります。

狸小路と名付けられたスナック街です。

スナック街の共同トイレ。

夜の様子。

参考文献

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水俣(夕焼け横丁)昭和を感じるスナック街。

水俣市大黒町の肥後銀行水俣支店の前に「夕焼け横丁」と名付けられたスナック街があります。

駐車場脇に横たわる横丁の建物。

昭和レトロを感じるスナック街です。

味わいのある看板。

参考文献

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水俣(駅前の横丁)チッソ水俣工場正門前。芸者の絵が描かれたドア。

今回は、水俣(熊本県水俣市)の町並みと風俗を散歩します。
肥薩おれんじ鉄道の水俣駅から延びる駅前の通りを行くと、駅と正対する位置にチッソ(株)水俣工場の正門があります(写真右奥)。
通りの脇(写真左側)には、古びた飲食店街があります。

現在は、営業中の店舗は少ないようですが、古いからある飲み屋街のようです。

スナックの建物の右横が横丁の入口になっています。

芸者の絵が描かれたドア。

参考文献

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中洲(長浜屋台)団地が建ち並ぶ住宅街。鮮魚市場西門近く。

中洲の西(地下鉄空港線で赤坂駅下車)の福岡市鮮魚市場西門近くに、長浜ラーメンの屋台街があります。
周囲は、団地が建ち並ぶ住宅街です。

屋台は、道路の両側の歩道に建ち並びます。

屋台通りに暖かい灯りが連なります。

屋台ならではの味わいを満喫できる場所です。

参考文献

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中洲(南新地の屋台)博多の夜。屋台は、専用の駐車場で待機。

博多の夜と言えば、屋台です。

夜になると、どこからともなく屋台がやってきて、あっという間に屋台村が出現します。

昼間は、この通り、跡形もない状態に戻ります。

屋台は、専用の駐車場で待機しています。

参考文献

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中洲(アダルトショップ)歓楽街に点在。24時間年中無休。

中洲の歓楽街には、アダルトグッズやDVDの販売店が点在しています。

こちらの店舗は、現在は別の店に入れ替わっているようですが、「DVDショップ」の看板だけが残っています。

24時間年中無休のアダルトショップですが、さすがに早朝からは営業していないようです。

夜は営業しています。

参考文献

参考記事

中洲(無料案内所)夜になると活気が出ます。

中洲の歓楽街には、多数の無料案内所があります。

解りやすい地図は、安心して町を歩くための有益な情報です。

南新地のソープ街への入口あたり。

夜になると、活気が出てきます。

参考文献

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中洲(料亭「老松」)80余年の歴史。芸妓出身である初代女将の源氏名に由来。

中洲中島町に、老舗料亭の「老松」があります。
創業は昭和2(1927)年で、老松の店名は、芸妓出身である初代女将の源氏名に由来します。80余年、ここ中洲中島町で料亭を続けています。*1
戦前の地図*2 によると、料亭「老松」の隣には、料亭「竹葉」、さらに、上野、加代という屋号の店がありました。この付近は花街だったようです。

建物は昭和20(1945)年の博多大空襲で焼けた後、戦後の昭和22(1947)年に再建されました。*1

玄関付近。

歴史を感じさせる建物です。

【参考URL】
*1 料亭「老松」:老松の歴史
【参考文献】
*2 咲山恭三:博多中洲ものがたり 後編(文献出版,1980) 戦前(昭和十年~十二年頃)中洲(北部)詳細地図

参考文献

参考記事

中洲(國廣稲荷神社)ビルの谷間に埋もれてしまっています。

中島浜新地の近くに、小さな稲荷神社があります。

中洲國廣稲荷神社由来が記されている案内板。
江戸末期、天保年間、筑前黒田藩は、藩の財政立て直しの為、中島浜新地(現中島町付近)に歓楽地帯を設置し、芝居や富くじを催したのが、現在の中洲町のはじまりでした。
新地の繁栄にともない、天保5年(1834)それまでは小さな社であった中洲稲荷神社が改築され、立派な神殿や石灯篭が寄進され、境内には、地元有志や芸妓の名を彫った玉垣もできました。(案内板より)

現在はビルの谷間に埋もれてしまっています。

狛犬の台座に刻まれた寄進者にアサヒビール園の名があります。
アサヒビール園は、大正12年の中洲大火災の翌年に、跡地にできたビヤホールです。*1

【参考文献】
*1 咲山恭三:博多中洲ものがたり 後編(文献出版,1980)P.134-P.135

参考文献

参考記事

中洲(北新地の碑)中洲の歓楽街発祥の地。

今回は、中洲(福岡県福岡市)の町並みと風俗を散歩します。
繁華街からは離れた中洲の北端に小さな公園があります。

浜新地(北新地)の碑。かつてのこのあたりは北新地と呼ばれた花街だったところで、中洲の歓楽街発祥の地です。

旧町名を示す電柱の表示。

江戸歌舞伎の宗家7代目市川団十郎が天保5年(1834年)に浜新地で豪華な歌舞伎を興行したことを記念する碑。

参考文献

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伊万里(伊万里町甲の路地)料理屋やスナックが密集する一画。

伊万里市街の伊万里町甲。

大通りから少し入っところの四つ角にスナックがあります。

中央市場の隣の和風スナック。

タイルで装飾されたレトロな雰囲気の居酒屋の建物。

参考文献

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伊万里(遊廓跡地)明治10年頃に隆昌を極め不夜城を現出。

相生橋を渡った御船屋(現在の船屋町)には、御船屋遊廓があって、明治10年頃に隆昌を極め不夜城を現出しました。写真の通りの両側に、一力、いろは、末永屋、三浦屋、丸国、松月(のちの七福)、花月、などの貸座敷が9軒建ち並び、娼妓30名、芸妓28名の規模でした。*1*2

かつての松月(のちの七福)と思われる建物(七福旅館)。

当時の面影が残る唯一の建物です。

奥行のある大きな建物です。

【参考文献】
*1 伊万里市郷土研究会:烏ん枕 第81号(2008,伊万里市郷土研究会)P.27,P.30 「伊万里町町並み復元図(三)」
*2 伊万里商工会:伊万里案内(伊万里商工会,1927)P.73,P105

参考文献

参考記事

伊万里(相生橋)伊万里行進曲。お舟屋女郎衆の涙雨。

今回は、伊万里(佐賀県伊万里市)の町並みと風俗を散歩します。
伊万里の市街地をゆったり流れる伊万里川には、様々な多くの橋が架かっています。いずれの橋にも欄干には、豪華な伊万里焼の陶器や人形などが飾られています。

相生橋の南側にある 佐賀銀行の壁にはからくり時計が設置されており、定刻になるとからくり人形が動き出し ます。

からくり人形の演奏曲目は時刻によって異なります。15:00の演奏曲目は、「伊万里行進曲」です。
♪ 船を出しゃらば夜深にだしゃれ
♪ お舟屋女郎衆の涙雨
♪ 伊万里港は入船出船
♪ 並ぶ三橋恋の橋…
歌詞に登場する「船屋町」は花街として栄えました。三橋とは、市街地と花街をつないだ「相生橋」、「延命橋」、「幸橋」を指しています。*1

船屋町の遊廓は、相生橋を渡ってすぐ左に入った場所にありました。

【参考文献】
*1 西日本新聞社文化部:愛しのご当地ソング(書肆侃侃房,2006)P.64-P.67

参考文献

参考記事

長崎丸山(「福地桜痴生誕の地」の碑)桜痴の吉原好きは有名でした。

崇福寺にのぼる道の途中に「福地桜痴生誕の地」がたっています。*1

福地桜痴は、大政奉還後、大蔵省の役人となりましたが、その後は新聞記者に転身しました。*1

桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原にでかけ帰らなかったという逸話が残っています。「桜痴」という号も深い仲になった吉原の芸者「桜知」の名に由来しています。*1

吉原で知り合った渋沢栄一の紹介で伊藤博文と出会い、それが大蔵省に入るきっかけとなりました。*1

吉原弁財天の入口の石柱には、福地桜痴の詩が刻まれています。*2
春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)
秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)
【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学7 近代化ものがたり1(長崎文献社,2007)P.54
【参考記事】
*2 風俗散歩(入谷~吉原):吉原弁財天

参考文献

参考記事

長崎丸山(崇福寺駅)川の上に設置されている駅。

長崎の市電の終着駅の崇福寺駅。川の上に設置されている駅です。

駅からは、川沿いにせり出し建物が見えます。

逆方向から見たところ。写真の右奥の市電の車両が見える場所が正覚寺下駅です。

建物の反対側。飲食店が連なる長屋風の建物です。

参考文献

参考記事

長崎丸山(中の茶屋稲荷社)遊女・冨菊の銘。

江戸中期、寄合町の遊女屋築後屋は、次第に勢力をのばし「角の築後屋」「中の築後屋」「新築後屋」「築武築後屋」と4軒もの店を構えるようになりました。うち、「中の築後屋」は、中の茶屋を開き、引田屋の花月楼とともに丸山を代表する茶屋(料亭)となりました。明治時期に入り築後屋は廃業。昭和46年に類焼、庭園だけになりました。*1

中の茶屋の庭園奥には、小さな祠があって、稲荷神をお祀りしています。中の茶屋の鎮守で、鳥居には「保食大神(うけもちのおおかみ)」記され稲荷神を表しています。*1

寛政2年(1790年)に奉納された手水鉢。 *1

築後屋の抱え(所属)の遊女・冨菊(とみぎく)の銘を見ることができます。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.26

参考文献

参考記事

長崎丸山(山頭温泉)かつて遊廓があった界隈に建つ銭湯。

丸山の入口を山ノ口とよぶのに対し、丸山の上手を山頭といいます。*1

山頭には、山頭温泉という銭湯があって、丸山が盛んな頃、山頭温泉の利用者は丸山の芸者衆や女性たちが中心で、寄合町の社交場でもありました。*1

かつて遊郭があった界隈に建つ銭湯です。

玄関のアール状のひさし。

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.25

参考文献

参考記事

長崎丸山(古い建物)店の屋号。丸山の見番の裏手。

丸山の見番の裏手の台地には、古い建物が残っている一画です。

生活感の漂う路地。

古いモルタルの建物。

店の屋号が書かれています。*1

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.66

参考文献

参考記事

長崎丸山(柳小路通り)場末感が漂います。スナックが密集。

柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。

思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。

スナックが密集する一画。

赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。

参考文献

参考記事

長崎丸山(思案橋横丁)ネオンが煌めく通り。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
思案橋近くの思案橋横丁は、観光客も多い賑やかな通りです。

道の両側には、飲食店が建ち並んでいます。

1軒だけ風俗店があります。

ネオンが煌めく通りです。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

長崎丸山(よこはま)思案橋横丁の老舗ちゃんぽん店。

長崎稲佐(ウィンルキンズの墓)墓碑に刻まれた芸妓の名。

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。
長崎居留地には、外国人男性と遊女や芸妓との間での恋愛もありました。 そのうちの一に、グスターフ・ウィンルキンズと玉菊の恋愛物語があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓

アメリカ人のウィンルキンズは、貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者で、1869年(明治2年)に37歳で死去しました。

花クルスの見事な墓碑。

墓碑には、墓碑を建てた恋人の日本人芸妓「玉菊」のが刻まれています。

【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学 近代化ものがたりⅢ(長崎文献社,2008)P.52-P.53

参考文献

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長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所。

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

参考文献

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長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア海軍マタロス休息所から発展。

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

東側のメインの通りの南隣の路地。

古いアパートの建物。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」

参考文献

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この記事を参照している記事

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地 北側の通り)現在は名残はありません。

篠山(旧篠山町駅前附近)篠山銀座と呼ばれました。

篠山鉄道(現在は廃止)の篠山町駅前附近は、篠山銀座と呼ばれ、オノイ食堂、クロネコ、天女、太陽、ライオン等のカフェーが軒を並べていました。女給さんの数も多い店は、12~13人。その繁昌ぶりは、芸妓、仲居を遥かに凌ぐものがありました。*1

カフェー太陽、オノイ食堂が並んでいた通り。*2

現在もスナック店が点在しています。

料理店の裏側の路地。
この付近には、カフェーライオンがありました。*2

【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)P.282-284
*2 大日本職業別明細図 篠山町

参考文献

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篠山(洋風の妓楼跡)玄関まわりを洋風にしつらえた建物。

京口新地跡には、もう1軒当時のものと思われる建物があります。

玄関まわりを洋風にしつらえた古い建物です。*1

背後からみると、かなり大型の建物であることが解ります。

玄関の様子。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.58

参考文献

参考記事

篠山(大正楼跡)阿部定が在籍していた妓楼。

篠山の京口新地には、当時の妓楼と思われる建物が残っています。

阿部定事件の阿部定が在籍していた妓楼「大正楼」と思われる建物。*1*2
昭和2年、阿部定は自らの意志で芸妓から娼妓へ身を落とし、大坂の飛田遊廓へ流れ着きましたが、前借金が多くプライドの高い阿部定は店をいつくも鞍替えし、昭和5年に丹波篠山の大正楼へ移されました。*3*4
交差する道路に当たる一画をスパッと切り落として玄関にし、その道から来る客もキャッチしようという遊廓特有のつくりと考えられます。*5

玄関の家紋。

瓢箪の装飾が施されています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.59
*2 木村聡:実話ナックルズ(ミリオン出版,2010.7)P.64-P.65
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.71-P.75
*4 粟津潔,井伊多郎,穂坂久仁雄:阿部定(田畑書店,1976)P.243
*5 丸山友岐子:はじめての愛(かのう書房,1987)P.74

参考文献

参考記事

篠山(京口橋)歩兵連隊の設置に伴い遊廓設置。

今回は、篠山(兵庫県篠山市)の町並みと風俗を散歩します。
明治40年、篠山町付近に兵営が設置されることに伴い、その附帯施設として遊廓の設置が検討されました。遊廓の設置場所は、県警の「兵営より一里を隔離すること」を条件に物色の結果、篠山市糯ケ坪に決まりました。*1
大正5年の 「篠山町及附近之圖」*2 には、歩兵第七十連隊と京口新地が記されています。

戦後、遊廓は辛うじて残存していましたが、ついに亡び、代わりに町長のかけ声でヘルスセンターの「丹波篠山温泉」が建ちました。場所は、元遊廓の入口の田を埋め立ててつくられました。しかし、ヘルスセンターは、開業まもなく赤字つづきで閉鎖となりました。*3*4

京口橋を渡って、水路に沿って進むと遊廓ががあった一画にたどり着きます。

遊廓があった場所は水路に囲まれています。

【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)285-P.288
*2 西羅日出男:篠山案内記.3版(西羅日出男,1916)
*3 水上勉:日本の風景を歩く 丹波・丹後(2000,河出書房新社)P.32-P.37
*4 日本住宅地図出版:多紀郡篠山町・丹南町・今田町・西紀町(日本住宅地図出版,1980)P.12

参考文献

参考記事

福知山(櫻湯)姿見は女湯だけにあります。

櫻湯の脱衣場。

木製のロッカーには、柳行李(やなぎごうり)の脱衣籠がずらりと並びます。これは、伝統的な京都式です。*1

女将さんと話をしているうちに、女湯を特別に見せて頂けることになりました。姿見(大きな鏡)は男湯には無く、女湯だけにあります。

風呂場の入口のステンドグラス。

【参考文献】
*1 FASTNER(2013.8)P.34 激渋銭湯を訪ねて

参考文献

参考記事

福知山(櫻湯)渋い外観。音無瀬橋近く。明治時代の建物。

福知山市街のはずれ(音無瀬橋近く、福知山市西長)に渋い外観の銭湯があります。

外観は洋風のデザイン。女将さんの話によると、明治時代に建てられたそうです。

医院のような入口。

夜の雰囲気は格別です。

参考文献

参考記事

福知山(スナック)ごめん。アオイ通り商店街。長屋風の建物。

アオイ通り商店街にあるスナック。店の名は「ごめん」。

店の正面は、赤く塗装されています。

城下通り近くの長屋風の建物に入居するスナック。

夜になると、あかりが灯ります。

参考文献

参考記事

福知山(御霊神社の灯籠)猪崎新地の関係者が寄進。

今回は福知山(京都府福知山市)の町並みと風俗を散歩します。
福知山市街に鎮座する御霊神社は宝永2年(1705)の創祀の歴史ある神社です。

御霊神社の鳥居の脇に灯籠が2基。台座と柱の部分だけが残されています。

猪崎新地(福知山遊廓)の関係者が寄進した燈籠です。

もう1基の灯籠には女性の名前が刻まれています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(福知山)猪崎新地

参考文献

参考記事

綾部(松本湯)POLA化粧品。暖簾が美しい入口です。

綾部市新宮町にある銭湯の松本湯。

暖簾が美しい入口です。

特徴的なのは、建物の左側の角のPOLA化粧品。銭湯に化粧品の店舗が併設されていたのでしょうか。

建物の裏側。

参考文献

参考記事

綾部(月見町のスナック)旧花街。和風の建物。

月見町の旧花街には、スナックの店舗も点在しています。「スナック松葉」は和風スナックのようです。

落ち着いた感じの店舗。

西側の方には、お洒落な店舗が連なっています。

和風の建物スナック「ドン・ファン」。奥み見える和風の建物は、公民館です。

参考文献

参考記事

綾部(花街跡)現在は観光スポットになっています。

今回は、綾部(京都府綾部市)の町並みと風俗を散歩します。
大正時代の市街図によると、月見町には芸妓置屋業組合事務所がありました。*1

石畳の通りの両側には、料亭風の建物が建ち並び、現在は観光スポットになっています。

「三芳」という屋号の店。

京町家で見かける「忍返し」。

【参考文献】
*1 木谷彰佑:大日本職業別明細図 綾部町(東京交通社,1933)

参考文献

参考記事

宮津~伊根(舟屋の内部)地面が斜めに切り取られています。

山側に平入りの母屋、道をへだてて海側に妻入りの舟屋がならびます。母屋のまん前の舟屋が同一人物の所有です。*1

海の中に建てられているように見える舟屋は、実は水際ぎりぎりに建てられ、舟をひきあげやすいように、地面が斜めに切り取られており、海水が2メートルほど中まで入り込む構造になっています。*1

舟屋は、舟や漁具の格納庫であり、漁具・漁網の干場であり、出漁準備の作業場でもあります。魚の料理場や干物の干場にもなります。

昔の舟屋は藁ぶきで、板や土の壁はつくらず、わらや古縄を下げた風通しのいい造りになっており、二階も低く床板をはらず、足場板を並べただけのものでした。*1

【参考文献】
*1 和久田幹夫:舟屋むかしいま(あまのはしだて出版,1989)P.4-P.8

参考文献

参考記事

宮津~伊根(伊根湾の舟屋)水際ぎりぎりに建っています。

宮津からバスで約1時間、丹後半島を北上していくと、伊根湾にたどり着きます。

 深い入り江となった伊根湾を取り囲むように建ち並ぶ船小屋(舟屋)は、その数230軒。全国でも類を見ない船小屋のメッカです。*1

伊根の船小屋は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。*1

この地域では船小屋は「舟屋」と呼ばれ、特徴ある2階建ての小屋が水際ぎりぎりに建っています。*1

【参考文献】
*1 INAXギャラリー企画委員会:舟小屋(INAX出版,2007)P.58-P.60

参考文献

参考記事

宮津~伊根(宮津酪農組合の牛乳箱)リンゴの置物。四軒町のトンネル路地。

前掲の四軒町のトンネル路地(ろーじ)。牛乳箱が見えます。

宮津酪農組合の牛乳箱。箱の上にリンゴの置物が載っています。

隣の路地にあった宮津酪農組合の牛乳箱。こちらはかなり風化しています。

宮津牛乳の牛乳箱(伊根町にて)。

参考文献

参考記事

宮津~伊根(旧花街のスナック)カフェー風の玄関を持つお宅。

旧花街街には、スナックも点在しています。

メインストリートと交差する通りに面したスナック。

カフェー風の玄関を持つお宅。*1

「酒場」のプレート。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99

参考文献

参考記事

宮津~伊根(四軒町)花街時代の面影が残っています。

新浜通りの和風スナックのトンネル路地(ろーじ)。四軒町と呼ばれています。

入口を逆方向から見たところ。

宮津ぴんと館は、当時の建物が再現されています。

木格子窓に当時の面影が残っています。*1*2

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
【参考URL】
*2 丹後広域観光キャンペーン協議会:のんびりぶらぶらホームページ 宮津市街地

参考文献

参考記事

宮津~伊根(新浜通り)千本格子の花街の風情が残る通り。

新浜通りは、千本格子の花街の風情が今も残る通りです。
「全国女性街ガイド」*1 によると、新浜の遊廓は(京都の)島原遊廓そのままの遊廓であったと描写されています。

花街のメインストリート。*2

古い建物が軒をつらねます。*2

このあたりには、検番(新浜歌舞練場)がありました。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店)P.176
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99

参考文献

参考記事

宮津~伊根(宮津節の碑)縞の財布が空となる。海からも陸からも多くの遊客。

今回は、宮津(京都府宮津市)の町並みと風俗を散歩します。
「丹後の宮津」は、日本三景の「天橋立(あまのはしだて)」にむすばれ、情緒の港町ともいわれました。また、色町のさかんであることも有名で、天保13年(1842年)に魚屋町海岸に「新浜廓」をひらいたことから、一段と幕末の「丹後の宮津」を売り出し、当時流行の「縞の財布」の底をはたこうと、海からも陸からも多くの遊客が集まりました。*1

宮津桟橋近くの国道176号線沿いに、宮津節の碑があります。
♪二度と行こまい丹後の宮津
♪縞の財布が空となる
♪丹後の宮津でピンとだした

宮津節の碑のある場所のすぐ隣の波止場児童遊園に「見返り柳」があります。

当時を偲ぶよすがとなっています。

【参考文献】
*1 岩崎英精:丹後の宮津(天橋立観光協会,1963)P.4-P.5

参考文献

参考記事

新富町(正金アパート)昭和の初期からあるアパート。

新富一丁目の新大橋通り沿いに、正金アパートがあります。

昭和の初期からあるアパートです。*1

玄関付近。

1階には、飲食店がはいっています。

*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

参考文献

参考記事

新富町(路地)昔ながらの路地。飲食店の看板。

新富町には、昔ながらの路地が残されています(新富一丁目)。

鰻屋のある路地の入口。以前はこの付近に待合がありました。*1

飲食店の看板のある路地。

風情のある木造母屋。

【参考文献】
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

参考文献

参考記事

新富町(花街跡)新富座の開業とともに芸妓、置屋が増加。

新島原遊廓が廃止となった後もこの地に踏みとどまる芸妓や置屋があり、引手茶屋で残った者たちは旅館を開業したので芸妓の出先となりました。やがて新富座の開業とともに芸妓、置屋が増え、花街は脚光を浴びました。*1

現在も花街時代の名残の料亭「躍金楼(てっきんろう)」が営業中です。

料亭「松し満 」。

見番があったあたり。*2

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*2 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

参考文献

参考記事

新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。

今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1

新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2

新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3

新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289

参考文献

参考記事

笠間(第一御神燈)新吉原京壱、吉六。笠間簡易裁判所近。

笠間駅近くに、笠間稲荷神社の御神燈があります。地震で崩壊してしまったのでしょうか。台座だけが残っています。場所は、笠間簡易裁判所近くのさくらガス(株)の隣の敷地です。

「第一御神燈」と書かれた台座には、寄進者の名が刻まれています。

新吉原京壱、吉六と刻まれています。

吉原、土手、いろは、と読み取れます。

参考文献

参考記事

笠間(笠間稲荷神社の奉納額)吉原講。五拾軒、仲の町、の茶屋の名前。

笠間稲荷神社の講(こう=同一の信仰を持つ人々による結社)は、江戸時代から盛んでした。講は、いずれも商売繁盛を主な信仰としたもので、明治時代になるとさらに発展し、講の周期が満期となったり祈願成就すると額を奉納する場合もありました。*1
境内の絵馬殿に、これらの奉納額が納められています。

「吉原講」の奉納額

五拾軒、仲の町、の茶屋の名前が確認できます。

別の場所にあった向島の関係者の奉納額。

【参考文献】
*1 笠間市史編さん委員会:図説笠間市史(笠間市,1988)P.165

参考文献

参考記事

笠間(荒町の飲み屋街)古びた看板が連なり、場末感が漂います。

笠間稲荷神社のある町の中心部から南西方向に離れた場所に飲み屋街が密集する一画があります。
この付近は、旧町名で「荒町」と呼ばれていました。*1
古びた看板が連なり、場末感が漂います。

個性ある装飾の店舗が並んでいます。

飲み屋街の中心部。両側に平屋建ての飲み屋街が続きます。

西側の通り。

【参考文献】
*1 郵政省:笠間局郵便区全図(郵政省,1951)

参考文献

参考記事

笠間(横丁通り)お酒と軽食。古い旅館やスナックが点在。

門前通りから南側に延びる「横丁通り」には、古い旅館やスナックが点在しています。

横丁通りを抜けたところにある軽食屋。

お酒と軽食。

城山稲荷神社の近くのスナック店。

参考文献

参考記事

笠間(昭和館)活動写真と寄席を主に上映し賑わいました。

荒町の通りから細い道を入ったところに、映画館の「昭和館」と思われる建物が残っています。*1

建物の脇には、「昭和館食堂」と書かれた看板が残っています。

切符売り場付近は、鮮やかな緑色のタイルで装飾されています。

「昭和館」は昭和5年にでき、活動写真と寄席を主に上映し賑わいました。昭和9年、昭和館は荒町大火で焼失しましたが、荒町の北側に場所を移して昭和12年に再建されました。*2

【参考文献】
*1 郵政省:笠間局郵便区全図(郵政省,1951)
*2 笠間市史編さん委員会:図説笠間市史(笠間市,1988)P.188-P.189

参考文献

参考記事

笠間(芸妓組合)門前通りの南側。喜楽横丁会。

笠間には、現在約40人の芸者さんがいて、21軒ある旅館・料亭でいつでも、粋に芸者さんと楽しい一時を過ごすことができます。*1
笠間稲荷の周辺には、旅館や割烹料理屋が点在していて、門前通りの南側には、芸妓組合があります。

芸妓組合。看板に「喜楽横丁会」と書かれています。
この付近は、旧町名で喜楽町と呼ばれていました。*2

街路灯にも「芸妓組合」。

芸妓組合(写真右手前)の南側には、割烹料理屋が密集する一画があります。

1979年の雑誌記事*3 によると、笠間の花街の芸者(総勢100名)は粒がそろっているうえ、玉代が2時間5500円と安く、気に入りの姐さんと一晩ゆっくり楽しんで大三枚から四枚。近くの筑波大学生だと”学割”が利いて大二枚でOKでした。
【参考URL】
*1 笠間旅館組合、笠間料亭組合:笠間の粋な過ごし方
【参考文献】
*2 郵政省:笠間局郵便区全図(郵政省,1951)
*3 産業経済新聞社:週刊サンケイ(1979.2.8)P.156-P.157 国会議員、筑波大生も愛用する東京の奥座敷・笠間花街色模様

参考文献

参考記事

笠間(駅前横丁)しゃれたお酒にいい女。笠間駅前。

今回は、笠間(茨城県笠間市)の町並みと風俗を散歩します。
JR水戸線笠間駅前に「駅前横丁」の大看板があります。

笠間稲荷神社などがある笠間の中心街は、駅から約2kmぐらい離れた場所にあります。駅前ロータリー付近は閑散としていますが、唯一この「駅前横丁」に飲み屋が密集しています。

居酒屋やスナックが建ち並びます。

しゃれたお酒にいい女。

参考文献

参考記事

巣鴨(おとめ湯)中庭のある銭湯。2013年6月休業。

巣鴨駅近くにある銭湯のおとめ湯。
1954年に創業し、中庭のある銭湯として親しまれながら、今年6月に60年の歴史に幕を下ろしました。*1

正面入り口の唐破風・蒔絵は、当時の銭湯経営者が華やかさを競った名残です。*1

内部の様子(9月1日の見学会にて撮影)。

洗い場からは、中庭を鑑賞することができます。

【参考文献】
*1 東京新聞 2013年8月18日

参考文献

参考記事

巣鴨(駅近くのラブホテル)線路沿いの道路に面した入口。

巣鴨駅近くの山の手線の線路沿いは、小規模なラブホテルエリアになっています。

公園の隣にあるラブホテル。

巣鴨駅前の陸橋から見えるホテル。

線路沿いの道路に面して入口があります。

参考文献

参考記事

巣鴨(南口一番街)長屋風の建物。スナック街。

「巣鴨駅南口一番街」の南側は、飲み屋街になっています。

1階にスナックが入居し2階が居住スペースとなっている長屋風の建物。

昭和レトロなスナック店が連なります。

道を挟んだ反対側のビルの1階にもスナック店が入居しています。

参考文献

参考記事

巣鴨(地蔵通り商店街)巣鴨名物「お地蔵様の赤パン」。

今回は、巣鴨(東京都豊島区)の町並みと風俗を散歩します。
巣鴨地蔵通り商店街は、昔ながらのもてなしの心を大切にした商店街として愛され続けています。

巣鴨でかつて一大ブームとなった、赤パンツの店。

巣鴨名物「お地蔵様の赤パン」。

さまざまなタイプの赤い下着が販売されています。

参考文献

参考記事

明野(明野劇場)ストリップ劇場の廃墟。平成6年6月閉館。

HOTEL「Villaマツノミ」の裏に、ストリップ劇場「明野劇場」の廃墟があります。コンクリート造りの建物の周辺には草が茂っていて、入口の「明野劇場」の文字がかろうじて確認できる状態です。

そもそもこの小屋は、昭和40年代に「明野第一劇場」という名前で芝居小屋として出発しました。やがて大人のためのヌードシアターとして発展。一条さゆりや愛染恭子も踊りにきました。しかし、平成6年6月、客の不入りと官憲の摘発が原因で閉館。翌平成7年1月に火事で全焼しました。*1

ストリップ劇場お決まりのステージ。

トイレ。

【参考文献】
*1 中田薫,中筋純:廃墟本3(ミリオン出版,2009)P.182-P.187

参考文献

参考記事

明野(新井新田のモーテル群)入口に看板。メルヘンチックなホテル。

県道45号(つくば真岡線の)沿いの新井新田付近。道路に面してラブホテルがあります。

県道がカーブするあたりに、ホテルの案内看板があります。ここが入口のようです。

突如、メルヘンチックなホテルが現れます。

さらに、森の中の道を進むと、別のホテルが現れます。いずれもモーテルの形式です。

参考文献

参考記事

明野(森の中のモーテル)二人の愛。ホテルが密集するエリア。

今回は、明野(茨城県筑西市)の町並みと風俗を散歩します。
県道45号(つくば真岡線の)沿いの新井新田付近は、ホテル(モーテル)が密集するエリアです。

森の中のレトロなホテル。この周辺には、同様のホテルが数軒密集しています。

ハートのマークの看板。手書き看板が郷愁を誘います。

二人の愛(看板の裏面に書かれています)。

参考文献

参考記事

麻布(ゲイシャ缶)日本製の缶詰を印象づけた「芸者印」。

南麻布の有栖川公園近くにある食品スーパーの「ナショナル麻布」は、周囲が大使館に囲まれているため 客層のほとんどは外国人です。

ここでは、通常のスーパーでは扱われていないGEISHA(ゲイシャ)缶が販売されています。
GEISHAブランドの缶詰は、コンビーフでおなじみの野崎産業(現在は川商フーズ)が明治44年(1911年)にカニ缶詰にGEISHAブランド貼り付けして、販売を開始し、翌45年に米国で商標登録を行ったものです。1
現在では、水産缶詰と野菜缶詰はアメリカにおいてはトップクラスのシェアを築いており、西アフリカにおいてはツナとサバを中心に、それぞれの地域で高いシェアを維持しています。
2

当時、野崎兄弟商会の責任者であった野崎末男氏は、日本製の缶詰であることを強く印象づける必要があると考えました。日本の言葉で広く外国に知られているのは、フジヤマ、ゲイシャ、ヨシワラなどですが、フジヤマはあまりに通俗的であり、ヨシワラは食料品の商標として感心できないので、ゲンシャなら優美華麗で響きも良いことから、ここに「芸者印」が生れ出ました。*3
缶の側面には、芸者さんが描かれています。

びん長まぐろ(ホワイトミート)のまぐろ水煮缶詰。野菜スープ、サラダ油入りで、たいへん美味しく頂けます。

【参考文献】
*1 野崎産業株式会社社史編纂事務局:野崎産業100年史(野崎産業,1995)P.9
*3 真杉高之:食品と容器(1984,VOL25,No.11)P.558-P.559
【参考URL】
*2 川商フーズホームページ

参考文献

参考記事

麻布(元麻布の裏道)開発の一方で、隙間的空間。

元麻布二丁目の狸坂を下りきると、Xの形に道路が交差している場所に出ます。

2000年代に入り、麻布周辺は超高層マンションや大型複合施設による開発空間が多く誕生していますが、一方で、その袂に隙間的、裏道的と呼べるような空間も形成されています。*1

交差点から東へ延びる道には、緑が多い住宅街に混じって古い民家や隠れ家的な店舗、事務所などが散在しています。*1

交差点には、細い抜け道が合流しています。この抜け道を行くと、長屋の建物が連なる一画*2 に出ます。抜け道の隣には、高級住宅地の入口への通路があるので、これらも合わせると六叉路のようにも見えます。

【参考文献】
*1 横山 順一:専修人間科学論集. 社会学篇(2011.3)P.163-P.179「港区元麻布の「裏道」を生きる人々の活動実践への注目から」
【参考記事】
*2 風俗散歩:麻布(2013,9)元麻布の長屋

参考文献

参考記事

麻布(レトロ電柱)切断された電信柱。トマソン。

長屋が連なる元麻布の路地に、レトロ電柱が残されています。

現在も消火器箱を取り付ける支柱として活用されています。

電柱のてっぺん部分には、かつての街路灯を思わせるデザインが残されていますが、現在は、蛍光灯の街路灯が取り付けられています。

同じ通りに、約50cmほどの長さに切断されたレトロ電柱があります。現在は、手前に設置してあるゴミ置き場の看板を固定するための紐を結ぶ支柱として活用されています。根元からちょん切られずに、現在も残っているのは貴重な遺構であると言えます。
トマソン(無用の長物)の命名者の赤瀬川原平さんは、切断された電信柱や樹木のことを、有名な猟奇事件の技法にならって、「阿部定」型トマソンと分類しました。*1*2
写真のレトロ電柱は、レトロ版「阿部定」と分類できそうです。

【参考文献】
*1 赤瀬川原平:路上観察学入門(筑摩書房,1993)P.241
*2 赤瀬川原平:超芸術トマソン(筑摩書房,1987)P.133

参考文献

参考記事

麻布(元麻布の長屋)高層マンションとのアンバランスな対比。

元麻布の本光寺の南側に、古くからの長屋が連なる一画があります。
長屋と高層マンションとのアンバランスな対比が印象的です。

もう一つ北側の路地には、昭和の雰囲気がそのまま残されています。

生活感の漂う空間。

「押賣物貰ひ一切御断り」のホーロー看板。現在は、ほとんど見かけなくなりました。*1

押賣(押し売り)は、玄関に居座り、「買ってくれるまで帰らないからな」とバックの中からゴムひもや歯ブラシを取り出し、拒もうものなら、「おれは刑務所から出てきたばかりなんだよ」とすごみをきかせます。そのぐらいなら、買ってやろうかとも思いますが、それがべらぼうに高く、ゴムひもなどは、伸ばしながら測るので、1メール買っても80センチぐらいにしかなりません。押し売りが商売になっていた時代、考えようによっては、いい時代でした。*1
【参考文献】
*1 なぎら健壱:町の忘れもの(筑摩書房,2012)P.216-P.217

参考文献

参考記事

麻布(小山湯)大正十年建築。現在は休業中です。

麻布十番の古川の東側に広がる住宅街の路地の突当りに銭湯の小山湯があります。
小山湯は、大正十年建築の都内で一番古い銭湯でしたが、平成18年に廃業しました。屋号の小山湯は、かつてこの地が三田小山町と呼ばれていたからと推察されます。*1

入口が独立して付属している構造は、他にあまり類を見ない様式です。*1

2階部分の装飾が見事です。花街の建築を見ているようです。
東京に宮造り銭湯が登場したのは、大正12年の関東大震災の復興期なので、小山湯は、それ以前の建築様式で建てられました。*1

銭湯脇の石段を登ると、煙突が見える場所に出ます。

【参考文献】
*1 町田忍:銭湯遺産(戎光祥出版,2008)P.53

参考文献

参考記事

麻布(古川の東側の住宅街)風情のある木造母家。

地下鉄南北線の麻布十番駅の東側に、古川が流れています。

古川の東側は、古くからの住宅街で、風情のある木造母家が建ち並んでいます。(写真奥に見えるのは、首都高速道路です。)

川沿いからさらに東側へ入ると、昭和の暮らしぶりを感じる住宅街が残っています。

袋小路になっている場所からは、銭湯の小山湯の煙突が見えます。

参考文献

参考記事

麻布(花街跡地)昭和12~13頃が最も賑わいました。

今回は、麻布(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
麻布三業地は、大正2年に許可され、戦前は、昭和12~13頃が最も賑わいました。空襲により麻布十番のほとんど全域が消失しましたが、昭和31年頃から2~3年間は、戦後で最も繁盛した時期でした。*1

花街は、現在の網代公園の南側(現在の麻布十番2丁目~3丁目)にありました。数年前まで、この付近に「白水」という屋号の料亭だったお宅の塀がかろうじて残っていましたが*2、現在はマンションに建て替わっています。

このあたりには、見番(麻布三業組合)がありました。*3

見番の南側の路地にも両側に料亭がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.151-P.154
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.118
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)港区 麻布十番方面・溜池方面

参考文献

参考記事

棚尾(衣浦海底トンネル)犬糞の貼り紙。歩行者用のトンネル。

三河湾の碧南市側と半田市側を結ぶ衣浦トンネルは、自動車専用の有料道路の他に、歩行者用のトンネルがあります。

海底トンネルの入口部分の階段の踊り場に「犬の糞お断り」の張り紙があります。

海底のトンネルは約500m。内部は非常に涼しいです。

海底トンネルの中央部分。ここにも「犬の糞お断り」の張り紙があります。

参考文献

参考記事

棚尾(元理髪店の建物)棚尾本通りの商店街。

棚尾本通りの商店街に古い長屋風の大きな建物があります。

元理髪店の建物です。

建物の前面は、タイルの装飾が施されています。

「理容」と書かれています。

参考文献

参考記事

棚尾(花街跡)料理屋や旅館などが集まる繁華街でした。

今回は、棚尾(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄三河線の碧南駅の南東の棚尾の本通りから南へ一歩入った通りから八柱神社の北側周辺は、かつては料理屋や旅館などが集まる繁華街でした。

棚尾本通りに面した「太郎吉饅頭屋」の向かい側には、料理旅館の「大坂屋」がありました。

「太郎吉饅頭屋」手前の道を左折したあたりには、銭湯の「栄湯」がありました。

「栄湯」の前の路地を一本入ったところに「芸奴組合」がありました。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:碧南市・高浜市(日本住宅地図出版,1977)P.73-P.74

参考文献

参考記事

衣浦(成人向け雑誌自販機)18歳未満の方お断り。

新川町駅前の商店の脇に、古い自動販売機があります。

ボタンで商品を選ぶ方式です。

週刊誌の自動販売機。

「18歳未満の方は、この雑誌を読むことはできません。」と書かれていることから、成人向けの週刊誌が販売されていた自販機であると考えられます。

参考文献

参考記事

衣浦(長屋の大衆食堂)ユニークな看板建築。

名鉄三河線の新川町駅前の商店街に、飲食店が入る長屋の建物があります。

大衆食堂の建物。

物干し台のような形状のユニークな看板建築です。

丼物一式、うどん、そば。

参考文献

参考記事

衣浦(ラブホテル)旧湯本本館跡地。階段の左側。

崖上にある吉文旅館から下るコンクリート階段の左側は、湯本旅館があった場所です。

現在、この場所には大きなラブホテルがあります。

かつての絶景の地「衣浦温泉」は、住宅とラブホテルが混在する町並みに変貌しています。

建物の裏側(崖上側)。こちらにもホテルの入口があります。

参考文献

参考記事

衣浦(旅館「吉文」跡)青色のタイルの円柱。

崖上から旅館「吉文」跡の建物を眺めます。建物の裏側に装飾はなく、黒塗りの板壁がむき出しの状態です。

側面の壁に「吉文」の「吉」と思われる文字が確認できます。

周囲の電柱の番号札には、「吉文」と書かれています。施設の名前(屋号)が電柱番号札に記載されるのは、珍しいケースです。

建物裏側にある青いタイルの円柱。

参考文献

参考記事

衣浦(旅館「吉文」跡)鱗のようなガラス窓。

旧海岸線であった低地から登るコンクリートの階段。その崖の上に、旅館「吉文」の建物が残っています。
古い住宅地図1 によると、旅館「吉文」は、湯本旅館の南隣とこの場所の2か所に記載があります。片方が本館で片方が別館だったのかもしれません。
料理旅館「吉文」は、昭和29年12月に開業しました。
2

旅館の東側の端に円筒状の部分を持つ特異な建造物です。

鱗のようなガラス窓の並びは当時としては、奇抜なデザインだったに違いありません。

建物は、崖の上に南向きに建っています。

【参考文献】
*1 善隣出版社:碧南市・高浜市(善隣出版社,1971)P.14
*2 碧南市史編纂委員会:碧南市史(碧南市,1974)P.952

参考文献

参考記事

衣浦(旧「八千草」)旅館だった建物。

衣浦温泉の旧旅館街には、昔の面影が残る建物がいくつかあります。

旧「八千草」。旅館だった建物です。

南西方向から見た外観。

2階部分は、窓が二段になっています。

参考文献

参考記事

衣浦(温泉街の痕跡)現在も残る「衣浦温泉組合」の行灯。

今回は、衣浦(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次世界大戦の頃、山神町に、東端の海軍航空隊兵士の慰安所設置が要望され、昭和19年に15業者によって、特殊飲食店街が作られ、一時は、市内の一大歓楽街でした。終戦後の昭和29年頃から料理旅館への転業を計画した業者たちが昭和30年に温泉開発を計画してボーリングを行いました。昭和31年に温泉が認可され、温泉街として再スタートしました。当時は、湯本本館が各旅館に配湯していましたが、昭和60頃には湯量も減り、配湯は中止となりました。*1

現在も「衣浦温泉組合」と書かれた行灯が残り、温泉街の名残が見られます。

「寸楽」という屋号が書かれた行灯。

衣浦温泉の名が残る駐車場の看板。

【参考文献】
*1 碧南事典編さん会:碧南事典(碧南市,1993)P.81-P.82

参考文献

参考記事

余市~積丹(女郎小岩)女性の姿・形によく似た岩。

「島武意海岸入口」のバス停で下車し、駐車場があるところから分岐する「積丹岬自然遊歩道」を歩きます。

積丹出岬灯台まで、0.3Km、今回の目的地である「女郎小岩」までは、1.9Kmです。

積丹出岬灯台を過ぎると、道は本格的な登山道となり、「熊出没注意」の看板などもあって、緊張が走ります。

約1時間ほどで、「女郎小岩」に到着。
今回、「女郎」→「遊女」というインスピレーションで散歩しましたが、「女郎小岩」は、遊女とは関係が無く、北海道各地に伝わる義経伝説(奥州、平泉で討たれて亡くなったはずの義経が実は生き延びており、蝦夷地へ逃れ、更に大陸へ渡りチンギス・ハーンに成ったというお話)の中の一つ「シララ姫の悲恋物語」に基づくものです。「女郎小岩」は、シララ姫の化身と信じられ、義経を恋い慕うかのように立っています。
女性の姿・形によく似た岩です。写真左下の船と比べると、かなり大きな岩であることがわかります。

参考文献

参考記事

余市~積丹(神威岬)女人禁制。昔から海の難所。

積丹半島の神威岬周辺は、昔から海の難所とされていて、女人を乗せた船の通行が禁じられていました。*1

開拓時代の北海道において、出稼人の多く集まるところに、それを相手とする遊里が生まれるのは常で、松前、江差をはじめ各漁場には、娘子軍(遊女)が集まり、性の安売りが開始されていました。ところが、小樽においては例外で、漁場に次第に滞在者が多くなっても、久しく娘子軍(遊女)が姿を見せませんでした。これには、「神威岬から北へ(小樽も含まれる)女人が渡れなかったこと。=女人禁制という歴史の壁」が原因していたと考えられています。*2

神威岬の突端までは遊歩道が整備されています。

神威岬の先にある「神威岩」。その特異な形から、チャレンカの化身と言われています。

【参考文献】
*1 野中長平:風土記稚内百年史(野中長平,1977)P.47-P.48
*2 小寺平吉:北海道遊里史考(北書房,1974)P.123-P.125

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余市~積丹(余市川温泉)宇宙飛行士毛利衛氏が生まれた温泉。

余市橋を渡ると、「宇宙の湯、余市川温泉」と書かれたビルが見えます。

銭湯の余市川温泉。キャッチフレーズは、「宇宙飛行士毛利衛氏が生まれた温泉」です。

建物の屋上には、今にも飛び立ちそうなスペースシャトルのモニュメントが取り付けられています。胴体部分の側面には、アルファベットの「YoichigawaOnsen」と温泉マーク、水平尾翼には日の丸が描かれています。

2階は食堂になっています。ビールとチキンかつ定食(600円)を注文しました。テレビを見ながらのんびりと過ごせます。

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余市~積丹(桜小路跡)貸席、料亭、見番がありました。

明治時代、鰊(ニシン)で栄えた余市町の殷賑は、沢町(円山公園の麓)にありましたが、明治39年に函樽鉄道の余市駅が開業すると、駅と沢町との交通は、大川町を経由してのものだったため、繁栄は、大川町に移ってきました。*1
このあたり(名店街家具センターのある通り)には、映画館の「余市座」がありました。*2

大川町に気風で知られた女将中井千代が経営する料亭「千代の家」があり(写真右手前のあたり)、そこを中心に貸席、割烹料亭などが増え、盛り場「桜小路」が評判となりました。*1

この付近(現在の大関書店の裏)には、見番がありました。*2

昭和8年の余市大火のとき、「桜小路」の飲食街と余市座は全焼し、ニシン不漁の時期とも重なり、復興することができませんでした。*1

【参考文献】
*1 余市文芸編集委員会:余市文芸(34号,2009.03)P.28-P.29
*2 余市町郷土研究会:草莽(3号,1998.10)「大正15年当時大川町市街地復元地図」

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余市~積丹(黒川の歓楽街)色彩豊かなスナックの店舗。

黒川の歓楽街。色彩豊かなスナックの店舗が建ち並びます。

印象的な看板建築の建物。

長屋風の飲食店舗。

夜になると、看板に明かり灯ります。

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余市~積丹(歓楽街の入口)黒川の歓楽街の入口。余市ビリヤード。

黒川の歓楽街の入口に、古い木造建築の居酒屋があります。建物脇の路地を入るとその奥にも木造母屋建ち並んでいます。

「みづほ」という屋号。

裏側は、トタンの芸術です。

奥の木造母屋のガラス窓。「余市ビリヤード」と読めます。

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余市~積丹(キャバレーハクチョウ跡)現在はデイサービス施設。

今回は、余市(北海道余市郡)~積丹(北海道積丹郡)の町並みと風俗を散歩します。
余市の黒川町には、スナックや居酒屋が建ち並ぶ歓楽街があります。

歓楽街中心部に、かつての「キャバレーハクチョウ」の建物があります。*1*2

現在は、「よいち銀座はくちょう」という名のデイサービス施設になっています。*1

裏側から見ると、歴史のある建物であることがわかります。

【参考URL】
*1 社会福祉法人よいち福祉会:ホームページ【参考文献】
*2 日本住宅地図出版:余市郡余市町(日本住宅地図出版,1982)P.17

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岩内(古びた映画館)しぶがき隊の若い頃。

岩内の道の駅近くの歓楽街。

古びた映画館があります。

映画館「ニューシネマ」の入り口。

しぶがき隊の若い頃のポスター。みんな若いです。

映画「ヘッドフォンララバイ」シブがき・17・隊夢トンネルは、シブがき隊の2作目の主演映画。可愛かずみさんが不良グループから助け出した少女「理奈」という役割で登場しました。

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岩内(小松湯)残念ながら休業中です。

岩内市街、ショッピングプラザ・ヤダのある通りに、銭湯の小松湯があります。

建物は新しく、最近改装したように思われる銭湯ですが、現在は休業中のようです。

奥行きのある建物です。

北海道の木造建築をイメージしたデザイン。

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岩内(牛乳箱)近くに販売所もありました。岩内町の乳業会社。

岩内の薄田遊廓があった住宅街。

倉島牛乳の牛乳箱があります。倉島牛乳は、北海道岩内郡岩内町の牛乳で、経営は、倉島乳業株式会社(本社は岩内町)です。

箱の側面には、「バター」と書かれています。

近くにあった倉島牛乳の販売所。

【参考URL】
*1 倉島乳業株式会社ホームページ

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岩内(薄田遊廓跡地)大火の後に移転。道道840号線の薄田橋。

岩内市街を南北に通る道道840号線に、薄田橋という名の橋があります。ここは、かつて薄田遊廓があった場所です。
薄田遊廓は、明治 二十三年の岩内大火の後、市街に散在していた娼家が移転してできました。*1
昭和5年の「岩内市街図」*2 には、末廣楼、豊精楼、北辰楼などの妓楼名が記載されています。

交差点を東側に折れたあたりには、病院がありました。*2

このあたりには、当時全盛を誇った村上楼がありました。*3

逆方向(南側から)見た薄田遊廓跡地。

【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海出版,1984)
*2 岩内町郷土館:昭和5年 岩内市街図(復刻)
*3 岩内町郷土館:明治44年 岩内港明細地図(復刻)

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岩内(青橋跡の石碑)明治時代の歓楽街。現在の御崎付近。

岩内の明治時代の繁華街は、青橋(現在の御崎付近)にありました。*1
「明治の中心街青橋」の石碑があります。

石碑の裏側(民家のブロック塀で見づらくなっていますが)には、「明治は岩内の鰊全盛時代で、その頃、青橋の通りは、商家、妓楼入り交って、殷賑を極めていましたが、明治二十三年の大火後、娼家は薄田遊廓に移転となったこと」などが書かれています。

北海信用金庫の玄関の左に、一本の古い柳の木が残っています。これは薄田橋から中央通りをずっと川が流れていて、川の片側にしだれ柳が並木になって植えられていたものの名残です。*1

現在の大橋家具店あたりに明治から昭和にかけて「金精楼」という料理屋がありました。*2
「金精楼」は、薄田遊廓のの妓楼「村上楼」とともに、岩内の全盛時代に花柳界で名声を謡われました料理店でした。*1*2

【参考文献】
*1 佐藤 十郎:余滴 復刻版(ぱとりあ岩内,2012)今昔場所案内,P.97-P.99,P.296
*2 岩内町郷土館展示物

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岩内(うきよ公園)大正時代に命名。歓楽街の中心部。

歓楽街の中心部には、公園があります。

うきよ公園となづけられた公園の周囲には、飲食店ががみが密集しています。

この界隈は、大正時代に浮世通りと命名されました。

うきよ公園にある包丁塚の碑。

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岩内(うきよ通り)新旧のスナック店が混在。

今回は、岩内(北海道岩内郡岩内町)の町並みと風俗を散歩します。
岩内は、積丹半島の南側に位置し、かつては鰊漁で繁栄した町です。海に近い「うきよ通り」には、スナックや居酒屋が密集しています。

新旧のスナック店が混在しています。

趣のあるスナック店の入口階段。

うきよ公園前のスナック街。

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稚内(弁天仲見世)港三丁目の古い飲み屋街。

稚内市街を南北に貫く道道106号線(オロロライン)の港三丁目交差点付近(稚内駅と南稚内駅の中間あたり)に古い飲み屋街があります。

ほとんどの店舗は閉店しています。

かつては、賑やかな飲み屋横丁だったのだと思います。

北側の建物の裏側。

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稚内(遊廓跡地)常盤通り。明治時代、稚内は、新興の港町として発展。

今回は、稚内(北海道稚内市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、稚内は、新興の港町として栄え、商店や旅館が発展しました。遊里は、町はずれの常盤通り(現在の港四丁目、五丁目)に置かれ、福嶋楼、山本楼、北盛楼、堀江楼などが軒を並べました。*1

「稚内市街図」*2 によると、遊廓はこのあたりにありました。

「常盤」の名が残る電柱のプレート。

山本楼の古写真*1 の背景には山が描かれています。旧常磐通りの西側には同じような形の山があります。

【参考文献】
*1 稚内市百年史編さん委員会:稚内百年史(稚内市,1978)P.112-P.117
*2 渡邊紫郎:最新稚内市街圖(渡邊紫郎,1925)

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鶴橋(鶴橋卸売市場)ホルモン専門。屠場直売。

鶴橋商店街を歩くと、キムチなどの韓国文化と日本文化が混じりあったような印象を受けます。

その中で特徴的なのが、内臓肉を扱った精肉店です。さまざまな部位の内臓肉が販売されています。それだけ、需要が多いことを示していると言えます。

豚足などの肉を扱う専門店。

ホルモンの看板。「屠場直売」と書かれている通り、屠場から直接仕入れるルートを持っていることが強みです。

参考文献

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鶴橋(鶴橋卸売市場)迷路のように入りくんだ商店街。

今回は、鶴橋(大阪市生野区)の町並みと風俗を散歩します。
駅近く(西側)の鶴橋は、焼肉やキムチの店が集まる商店街というイメージですが、これはこの三十年ほどの傾向で、元来の鶴橋は、東側の一画に見られるように、プロ向けの食材などが集まる卸売市場です。

小売商が、衣料、雑貨品を仕入れるために訪れる問屋街として発展してきたという鶴橋の歴史を感じます。*1

迷路のように入りくんだ商店街。

鶴橋卸売市場中央会と書かれた看板があります。

【参考文献】
*1 藤田綾子:大阪「鶴橋」物語(現代書館,2005)P.7

参考文献

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