飛田(太子地蔵尊跡地)2010年3月に撤去。「太子」という町名の起源。

西成区萩之茶屋の地下鉄堺筋線の動物園前駅近く。

ビルの谷間に、小さな空地があります。

ここには、「太子地蔵尊」と、「飛田墓地無縁塔」がありましたが、2010年3月に撤去されてしまいまいた。江戸時代の元和年間(1615年~24年)、飛田に墓地が移され、刑場も置かれました。「太子地蔵尊」はもともと墓地内にあったお地蔵さんで、「太子」という町名の起源にもなりました。*1

長い間、地元で地蔵の世話をしてこられた方が亡くなった後、地権者が地蔵と石碑を排除して更地にしてしまい、どこかに移築したのか廃棄したのか、まったく不明です。悔やまれて仕方がありません。*1

【参考文献】
*1 趙博:パギやんの大阪案内ぐるっと一周〈環状線〉の旅(高文研,2012)P.146-P.147

参考文献

参考記事

飛田(簡易旅館)ビジネスホテルも混在。飛田本通商店街の西側。

飛田本通商店街の西側に 簡易旅館が密集している一画があります。

旅館街のメインストリート。

中心部にある大きな旅館。

最近は、安いビジネスホテルも混在しています。

参考文献

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飛田(旅館「明楽」)温泉マーク。豪華な家具、明るい洋室。気楽できれいな日本間。

大坂環状線と阪神高速が交差するあたり。 てんのじ村記念碑(上方演芸発祥の地)の近くに古い旅館の建物があります。

建物脇の路地を入った奥まった所が旅館の入口です。

豪華な家具、明るい洋室。気楽できれいな日本間。

温泉マーク。

参考文献

参考記事

飛田(和光浴場)多数の張り紙。朝から営業しています。

飛田新地の北側、山王の住宅街。

銭湯の和幸浴場があります。

露天風呂の他、たくさんの種類の風呂があって、のんびりできます。
浴場の中には、次にように書かれた貼り紙が多数貼られています。
「他人の体に触れたり必要以上に近くに座ったり、何度も異常に接近したり、目にして不快な行為をしたり、このような行為をした方は今後入浴をお断りし、警察に通報致します。」

銭湯は、朝から営業しています。

参考文献

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飛田(オーエス劇場)大衆演劇。入場料は、1300円とリーズナブルです。

飛田本通商店街を通天閣を世にした入り、少し行くと左手(東側)の路地に「オーエス劇場」の看板が見えます。

小沢昭一さんの「私は河原乞食・考」*1 に、かつての「トビタOSヌード劇場」のことが書かれていますが、現在の大衆演劇「オーエス劇場」の前身だと思われます。

入場料は、1300円とリーズナブルです。

「オーエス劇場」の道を挟んだ反対側の建物も風情があります。

【参考文献】
*1 小沢昭一:私は河原乞食・考(岩波書店,2005)P.63

参考文献

参考記事

飛田(飛田新地料理組合)町への強い想い。飛田会館。

今回は、飛田(大阪市西成区)の町並みと風俗を散歩します。
山王地区の商店街から、「飛田新地料理組合」と記された大きな看板が見えます。この先は、飛田新地の店がずらっと並ぶ一画です。

飛田新地料理組合。

組合執行部はボランティアで、どれだけ町への想いが強いかが参加基準です。*1

商店街の側には、「飛田会館」と書かれた門があります。

【参考文献】
*1 週刊文春 2011. 7.28

参考文献

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新世界(ビデオ旅館)ビデオを見ながら泊まれる旅館。

新世界の繁華街に「ビデオ旅館」があります。

近くには、ビデオ試写室。

ビジネスホテルもあります。

ビデオを見ながら泊まれる旅館のようです。

参考文献

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新世界(成人映画館)カップルシート。階段にはポスター。

新世界の歓楽街の中心部にある成人映画館があります。

カップルシートがある映画館です。

階段にはポスターが貼られています。

映画館の入口付近。

参考文献

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新世界(旅館街)風情のある路地。通天閣の南西側。

通天閣の南西側。

数軒の旅館が密集するエリアがあります。

レトロな雰囲気のホテルの看板。

ホテル街の路地は風情があります。

参考文献

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新世界(通天閣の北側)放射状の街路。パリをモデルとした洋風の街区。

今回は、新世界(大阪市浪速区)の町並みを風俗を散歩します。
新世界は、明治時代、第5回内国勧業博覧会の跡地に計画された街区ですが、現在もその当時の道路の形が残っています。
新世界の北半分は、パリをモデルとした洋風の街区で、通天閣に通じる放射状の3つの道路があります。
3つの道路は、東から「合邦(かっぽう)通り」、「玉水通り」、「恵美須通り」と呼ばれ、各街路は、それぞれにテーマ性をもったショッピングモールでした。街路に面した1階部分をすべて洋風の店舗とし店舗様式は、近世ドイツ式に統一されていました。*1

東の「合邦通り」。現在は静かな住宅街になっています。

西の「恵美須通り」。現在は、商店街となっていて、地下鉄堺筋線恵美須駅の入口があります。

中央の「玉水通り(現春日通り)」には、かつてはお茶屋が建ち並んで、ぼんぼりが揺れ、奈良の春日大社の万灯籠のようだといわれ、春日通りと命名されました。*2

【参考文献】
*1 橋爪紳也:大阪モダン(NTT出版,1996)P.80
*2 通天閣観光株式会社:通天閣50年の歩み(通天閣観光,2007)P.8-P.9

参考文献

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京橋(鴫野湯)モダンな建築。「ゆ」の看板。

大坂環状線の東側、城東区鴫野(しぎの)西2丁目は、巨大マンションが建ち並ぶ住宅地ですが、1本路地を入ったところに、「ゆ」の看板を見つけました。

銭湯の鴫野湯。

和風の建築ですが、デザインはモダンです。

ロケットのような煙突。少し斜めに建っています。

参考文献

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京橋(共同トイレ)JR環状線と第二寝屋川が交差するあたり。

京橋駅の南側、JR環状線と第二寝屋川が交差するあたりは、かつて「アパッチ部落」と呼ばれた在日コリアンの根城でした。*1

JR環状線のガード。

線路脇には、住宅地が続いています。

ガード下の共同トイレ。

【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.140-P.141

参考文献

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京橋(ラブホテル街)環状線と国道に囲まれたエリア。

京橋駅近くのJR大坂環状線と京阪国道(国道1号線)とNTT西日本に囲まれたエリア(都島区東野田町)は、ラブホテル街になっています。

ラブホテルの集積度はかなり高いです。

洒落たラブホテルが建ち並びます。写真奥は、JR大坂環状線です。

ホテル街の北端のあたり。

参考文献

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京橋(立小便禁止)京橋市街の路地裏。中国語。多数の鳥居の絵。

京橋市街の路地裏。

多数の鳥居の絵が描かれています。

ブロック塀の張り紙。

中国語で何か書かれています。

参考文献

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京橋(和風ラブホテル)昭和レトロな豪華な看板。京橋の繁華街。

京橋の繁華街のど真ん中に、昭和のレトロ感を大切にしたラブホテルがあります。

すぐ近くにもう1軒のレトロなホテル。

昭和レトロな豪華な看板。

洋風の入口。

参考文献

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京橋(サンピアザビル)全館が風俗店。1階の入口には、看板が乱立。

京橋駅前の「サンピアザビル」。

1階の入口には、看板が乱立しています。

ビルの中央には、らせん階段があって豪華な雰囲気です。

全館が風俗店です。

参考文献

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京橋(グランシャトー)総合娯楽ビル。京橋駅前のランドマーク。

今回は、京橋(大阪市都島区、城東区)の町並みと風俗を散歩します。
京橋駅前にランドマークのように建つ「グランシャトー」のビルがあります。外観は城郭を模した奇抜なデザンインになっています。

「グランシャトー」は、サウナ、パチコンコ、ゲームセンターなどが入る総合娯楽ビルです。ビル横には、「シャトー商店街」があります。

「ナイトクラブ香蘭」の中入口。

夜の様子。

参考文献

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桜ノ宮(差し入れ屋)大坂拘置所近く。大坂拘置所の手前。

JR桜ノ宮駅から、北側に徒歩約15分。大坂拘置所の手前に「差し入れ屋」があります。

「差し入れ屋」は、朝の面会の時間が近づくと大勢の人々の買い物姿が見受けられます。

「差し入れ屋」は数軒が並んでいます。こちらは「放免屋」という屋号の店。

大坂拘置所の入口。

参考文献

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桜ノ宮(ラブホテル街)集積度の高いラブホテル街。

桜ノ宮のラブホテル街。建物はすべて大型で、集積度の高いラブホテル街です。

建物のデザインもメルヘンチックです。

価格もリーズナブルです。

一年中クリスマス気分が味わえるホテル。

参考文献

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桜ノ宮(毛馬桜之宮)古典的なムードをたたえたリバーサイドのホテル街。

現在の大阪で、川の土手沿いにあるラブホテル街を探すと、十三と桜ノ宮ということになりますが、そのうち桜ノ宮は、古典的なムードをたたえたリバーサイドのホテル街です。*1

桜ノ宮ホテル街の古典的ムードは、毛馬桜之宮(桜宮神社)によって演出されています。
このあたりは、昔から桜の名所として知られていて、明治18年の大洪水によって一度荒廃しましたが、その後、大阪市によって毛馬桜ノ宮公園として整備され、多くの市民に愛されています(案内板より)。

毛馬桜之宮の参道のすぐ近くまでラブホテルが迫っています。

土手から緩やかな坂を下るとラブホテル街の中心部です。(写真左側は、毛馬桜之宮)

【参考文献】
*1 中沢新一:大坂アースダイバー(講談社,2012)P.200

参考文献

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桜ノ宮(桜ノ宮公園)リバーサイドホテル。

今回は、桜ノ宮(大阪市都島区)の町並みと風俗を散歩します。
桜ノ宮公園は、明治18年の大洪水の後、整備された河川公園で、この地は、昔から桜の名所として知られていました。

公園の南側に位置する桜ノ宮橋。かつては銀橋と呼ばれていました。
戦後いち早く(昭和20年代半ば)、銀橋の近くに連れ込みホテルが建ち始めました。最初は木造ホテルで、最も有名だった「銀橋ホテル」は、木造二階建て、全室タイル風呂、テレビ付きでデビューしました。場所は、「桜宮ホテル」、「銀橋御苑」とともに、橋の下流にありました。*1

国道1号線沿いのラブホテルは、やがて北のエリアに進出し、西日本一のラブホテル街が形成されました。*1

大川の対岸から見ると、桜ノ宮公園の向こう側にラブホテル群が見えます。まさに、リバーサイドホテル*2 です。

桜ノ宮のホテルの歴史は、「さかのぼれば太閤秀吉の時代の夜鷹にはじまる。」という説もあります。秀吉が大阪城を築く際に全国からたいへんな数の労働者が動員され、その男たちを慰めたのが桜ノ宮付近にたむろしていた夜鷹だったわけです。*1
明治になると、対岸に造幣局がつくられ、その中に見事な桜並木が植えられて、年に一度、桜の季節になると一般公開されるようになり、一段と発達しました。造幣局の「通り抜け」は、大阪庶民の春の一大イベントとなり、対岸には料理屋や連れ込み宿などができました。*2
【参考文献】
*1 近藤利三郎:なつかしの関西ラブホテル60年裏のうらのウラ話(レベル,2006)P.22-P.25
*2 中沢新一:大坂アースダイバー(講談社,2012)P.200

参考文献

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今市(日光珈琲)明治時代に建てられた遊廓の建物。

報徳二宮神社近く、「玉藻小路」と名前のついた小さな長屋の一角。

喫茶店の「日光珈琲」があります。

店舗は明治時代に建てられ、増改築を繰り返し、一時は遊廓としても使われていました。*1

名物のスープカレーを頂きました。

【参考文献】
*1 下野新聞社: とちぎのまち歩き~ほんのりカフェ時間~(下野新聞社,2009)P.44-P.45

参考文献

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今市(瀧尾神社の燈籠)今市遊廓の関係者が寄進した燈籠。

東武日光線の上今市駅近くに、瀧尾神社歩道橋があります。道路標識には、「 日光まで7Km」と書かれており、この先から日光街道杉並木(写真右奥)が始まります。

文化財の石鳥居。

境内の奥まったところに、今市遊廓(新地)の関係者が寄進した燈籠があります。*1

新地一同と刻まれています。

【参考文献】
*1 今市史談会:今市史談第11号(今市史談会)P.66-P.71

参考文献

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今市(今市遊廓跡地)上今市駅の東方。新地通り。

遊廓のある新開地が朝日町にあって俗に新地と呼ばれていました。現在の東武鉄道上今市駅の東方にあたります。大正11年の「今市絵図」によると春日町今市営林署(現在の広域行政センター)の筋向かいから浄泉寺の下を経て北に延び新地に至る道が画かれているのが新地通りでした。*1
明治40年の「栃木県営業便覧」にも瀧尾神社の東側一本目の道路に「新地通り」の記述があります。*2

新地通りを進むと、東武鉄道の踏切です。

「今市絵図」*2 に、大正期の新地が描かれていますが、この絵図によると、堀に囲まれ新地の周囲は、田畑が広がっていました。

大正4年の国土地理院の地形図*3 には、堀に囲まれ建物が点在する一画が描かれています。

【参考文献】
*1 渡辺武雄:今市の懐旧(渡辺武雄,1991)P.106-P.108
*2 今市市歴史民俗資料館:今市の移り変わり(今市市歴史民俗資料館,1985)P.11-P.12,P.18-P.49
*3 大日本帝國陸地測量部:1/25,000地形図「今市」(大日本帝國陸地測量部,1915)

参考文献

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今市(旅館の看板)今市市駅前の商店街。休憩もOKの旅館。

今回は、今市(栃木県日光市)の町並みと風俗を散歩します。

今市市駅前の商店街に、旅館の看板に従って路地を入ると老舗旅館日光屋があります。
昭和30年当時、今市市内には、芸妓置屋の梅松の家、山陽家、新春の家、年寿々本、年都、春の家、文春の家などがあり、当時の旅館としては、木村屋、つたや、あたみ館、日光屋、村上屋、本多屋、白川屋、からかさ屋、かどや、福田屋、日の出屋などがありました。*1

今市市駅近くの通り。

旅館の看板がありますが、近くに旅館はありません。休憩もOKの旅館だったようです。

【参考文献】
*1 渡辺武雄:今市の懐旧(渡辺武雄,1991)P.84

参考文献

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鬼怒川温泉(秘宝殿)鬼怒川お竜。坂東武者出征前夜。

鬼怒川秘宝殿は、純和風の秘宝館です。TBSのテレビ番組「別冊アサ秘ジャーナル」で紹介されました。館内は、撮影OKです。

入口正面の展示品の「鬼怒川お竜」。藤純子演じるお竜を参考にして制作されたものと思われます。*1

「坂東武者出征前夜」。戦におもむく前夜。坂東武者夫婦が別れを惜しむ姿を具現化したものです。*1

豊臣秀吉の5P。*1

【参考文献】
*1 酒井竜次:I love秘宝館(八画,2009)P.72-P.81

参考文献

参考記事

鬼怒川温泉(鬼怒川秘宝殿)ゲームコーナーが併設。龍王峡駅から徒歩3分。

東武鉄道鬼怒川温泉駅から3駅の龍王峡駅から徒歩3分のところに、鬼怒川秘宝館がありあります。

秘宝館には、大人の売店とゲームコーナーが併設されています。

大人の売店とゲームコーナーは無料です。
大人のUFOキャッチャー。

「鬼怒川モンロー」。

参考文献

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鬼怒川温泉(ブロンズ像)くろがね橋。箱根・彫刻の森公園にも展示されている作品。

鬼怒川温泉のくろがね橋。温泉街の中心部です。

彫刻家の峯孝の代表作「プリマベラ(春)」(1972年)のブロンズ像があります。

箱根・彫刻の森公園にも展示されている作品です。

下から見上げてみました。

参考文献

参考記事

鬼怒川温泉(花の町)道路の幅が広くなった一画。1階がタバコ屋さん。

「全国女性街ガイド」*1によると、鬼怒川温泉には、花の町に16軒の赤線がありました。
現在も「花の町」という地名が存在し、道路の幅が広くなった一画があります。

1階がタバコ屋さんになっている建物。

飲み屋だったと思われる建物。

花の町。

【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.103

参考文献

参考記事

鬼怒川温泉(京町)かつては、スナックなどの飲食店舗が密集。古い住宅地図。

京町の付近に掲示されてた住宅地図を見ると、かつては、スナックなどの飲食店舗が密集していたようです。

現在の京町は、歓楽街的な雰囲気はありません。カラオケスナックが1店舗だけあります。

「松葉」という屋号の店舗があったあたり。

この付近には、料理屋などがあったのかもしれません。

参考文献

参考記事

鬼怒川温泉(京街坂)本町行灯通りから。電柱番号札に、「京町」の名。

温泉街の中心部からやや南にはずれた場所にある「本町行灯(あんどん)通り」。

本町行灯(あんどん)通りから「京街坂」と名付けられた坂道があります。

「全国女性街ガイド」によると、鬼怒川温泉には、京町と花の町の2か所に赤線がありました。*1
電柱番号札に、「京町」の名があります。この付近に赤線があったのかもしれません。

現在の京街坂に歓楽街の面影はありません。

「全国女性街ガイド」には、「赤線は、”暴力の街”、”ヤマの女”として有名で花の町<通称ヤマという>に16軒52名。町はずれの京町に11軒27名いる。二つとも暴力的に引っ張り、最近は川のたもとまで客呼びにきているから要心。泊は宿へ呼ぶと二千円に素泊まり五百円<万事思い上がった暴利>とられるが、押しかけると千円でオンの字。情緒なし。」と紹介されています。*1
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.103

参考文献

参考記事

鬼怒川温泉(ホテル廃墟)名物のかっぱ風呂。鬼怒川の流れやロープウェイなど一望。

今回は、鬼怒川温泉(栃木県日光市)の町並みと風俗を散歩します。
鬼怒川温泉は、東武鉄道鬼怒川線の鬼怒川温泉駅から鬼怒川公園駅に至る南北約2kmの範囲にあります。滝見橋から眺めると鬼怒川の両岸にホテル街を見ることができます。

道路の東側が旅館の入口です。この付近のホテルは鬼怒川温泉の中では古く、現在は廃業しているホテルがほとんどです。

名物の「かっぱ風呂」の看板。

かっぱ風呂は、円型の大浴場で、ここからは鬼怒川の流れやロープウェイなど一望できます。

参考文献

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板橋(板橋遊廓跡地)中島楼、川越楼、武蔵楼。

板橋遊廓は、商店街の中に散在していました。現在、その面影を見ることはありません。
現在の板橋三丁目のりそな銀行の東隣あたりには、中島楼がありました。*1

当時のままの建物が残されている岡部医院(板橋三丁目)の対面あたりには、川越楼がありました。*1

王子新道に近いあたりには、武蔵楼がありました。*2

現在の靴屋の「きんぱや」の付近には、宿場一と言われた旅館「伊勢孫」がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.40-P.43
*2 日本文芸社:荷風!Vol25(2010.7) P.48-P.53
*3 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.84-P.86

参考文献

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板橋(花の湯)立派な唐破風。石像と燈籠。

板橋の仲宿通りに、銭湯の花の湯があります。唐破風が前面に押し出されているので、すぐに見つけることができます。

唐破風の右側が入口になっています。

花の湯の煙突。

待合室には、布袋様?の石像と燈籠があります。

参考文献

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板橋(観明寺)柏木楼、芸妓一同が寄進した玉垣。

観明寺は、板橋の仲宿の商店街に面した場所にあるお寺です。

境内に鎮座する稲荷神社。

遊廓の柏木楼が寄進した玉垣があります。

「芸妓一同」の名が刻まれた玉垣。

参考文献

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板橋(遍照寺)遊女道中の扁額。商店街沿い。

板橋仲宿にある遍照寺。入口は商店街沿いにありますが、注意して見ないと通りすぎてしまいそうです。

板橋遊廓の千代本楼の遊女道中の扁額が納められています(案内板より)。

石畳の路地がしばらく続きます。

奥にはお堂がありますが、中の様子をうかがい知ることはできません。

参考文献

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この記事を参照している記事

板橋(紙風船)コンクリート造りの3軒長屋。

板橋(板橋)区の名前になっている橋。明治時代と変わらぬ風景。

今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みと風俗を散歩します。
板橋旧中山道が下り坂となり、石神井川をまたぐ小橋がありますが、これが区の名前にもなっている「板橋」です。

橋の右端にある日本橋からの距離表示だけが、明治時代と変わらぬ風景です。*1

石神井川の流れ。

現在の橋は、昭和47年に架け替えられたものです。*1

【参考文献】
*1 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.86

参考文献

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黒磯(丸大横丁)新地仲町通り。ビルが1棟だけの横丁。

黒磯遊廓に通じる新地通りは、現在は新地仲町通りと呼ばれています。

新地仲町通りに、丸大横丁と呼ばれる飲食店街があります。

ビルが1棟だけの横丁です。

スナックや飲食店が入居するビルです。

参考文献

参考記事

黒磯(黒磯遊廓跡地)新地仲通り。十字路のところに遊廓。

今回は、黒磯(栃木県那須塩原市)の町並みと風俗を散歩します。
黒磯遊廓は、現在の新地仲通りにありました。警察署(現在の黒磯駅前交差点)から北西方向に「新地通り」が伸び、その先の十字路のところに遊廓がありました。*1

十字路付近のみ道路の幅が広くなっている場所があります。

「黒磯町地位等級略図」*1 によると、遊廓があった交差点付近は人家の密集地帯であった四等地に区分され、「新地通り」周辺は、空地が多く人家が点在する五等地に区分されていました。

「新地」と書かれた電柱番号札。

【参考文献】
*1 黒磯市誌編さん委員会:黒磯市誌(黒磯市,1980)P.675-P.676 「黒磯町地位等級略図」

参考文献

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四日市(思案橋)徳川家康に由来。JR関西線の踏み切りを越えた浜町。

JR四日市駅の北側の国道164号を東に向かって、JR関西線の踏み切りを越えた浜町に「思案橋」があります。

日本中に「思案橋」と名づけられた橋は、多々ありますが、どれも遊廓と切っても切れない関係にあります。つまり、江戸吉原の思案橋をはじめとして、一般的には各地の遊里の入口近くに見られる橋を「思案橋」と称しています。それは、「遊廓へ行こうか戻ろうか思案を重ねて、そのあげくに渡らずにおれぬことから、この名がある。」と言われています。ところが、四日市「思案橋」については、遊廓との結びつきで考えると、遊廓があった場所と橋の場所が離れすぎていて、思案して決断する場所としては、不適当と言えます。*1

四日市「思案橋」は徳川家康に由来します。天正10年(1582)6月2日未明、本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受け50歳の生涯を終えた時、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、もしくは海を渡るか「思案」したことが、その名の由来となっています。

現在は、橋のオブジェと碑があります。

【参考文献】
*1 四日市市港地区連合自治会:思案橋記念誌(四日市市港地区連合自治会,1988)P.16-P.39

参考文献

参考記事

四日市(三和商店街)飲み屋の看板

三和商店街には、たくさんの出入口があります。食堂の看板がある路地のような通路も入口の一つです。

商店街の天井部分には、屋根の骨組の構造が見えます。

古い商店の看板。

夜になると飲み屋の看板に明かりが灯ります。

参考文献

参考記事

四日市(三和商店街)かつてのマーケット。商店が集まる長屋があります。

JR四日市駅の北側に、商店が集まる長屋があります。

東側に、商店街の入口があります。

明るい商店街。「三和商店街」と書かれた錆びた看板。地元の方の話によると、三和商店街は、かつてのマーケットで、商店などが集まっていたそうです。

西側の入口。

参考文献

参考記事

四日市(にっかつロッポニカ)成人映画館。雑居ビルの3階。

諏訪栄町商店街と隣接する繁華街にある雑居ビルの3階に、「ロッポニカ」の看板を掲げる成人映画館があります。

成人映画2本立てです。

歴史を感じる「にっかつロッポニカ」の看板。

3階の入口まで階段を登る途中にポスターが貼られています。

参考文献

参考記事

四日市(客引き禁止看板)西新地。中国語、韓国語、英語。

四日市の歓楽街は、近鉄四日市駅周辺に立地する二番街や西新地がそのの代表です。風俗店や飲食店が密集する通りには、客引き禁止看板が設置されています。

外国語(中国語、韓国語、英語)の客引き禁止看板。

歓楽街の中心的位置にある諏訪公園の前。

歓楽街の北側のはずれ(西新地4丁目)に隣接する住宅街にも客引き禁止看板が設置されています。

参考文献

参考記事

四日市(貸座敷跡地)北町。旧東海道の街道筋。

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の四日市北町は、旧東海道の街道筋であった場所で、遊廓街であり活気がありました。*1

当時からの商店の建物などが、往時の街道筋の雰囲気を伝えています。

貸座敷「いろは」があったあたり。向かい側(写真左手前)には、銭湯の桜湯がありました。*1*2

三滝橋から見た北町。

【参考文献】
*1 旧四日市を語る会:旧四日市を語る第17集(旧四日市を語る会,2006)P.83-P.90
*2 旧四日市を語る会 編. 旧四日市を語る第1集(旧四日市を語る会,1991)附図

参考文献

参考記事

一身田(三階建て)美しい黒塗りの板壁。かつての遊廓街の通り。

かつての遊廓街の通りに、木造三階建ての建物があります。

細い路地を入ると、3階建ての部分が現れます。

美しい黒塗りの板壁。

逆方向から見ると、三階建て部分が天守閣のようにそびえ立っているのが解ります。

参考文献

参考記事

一身田(遊廓跡地)旧大勢楼。現在の一身田大古曽。

橋向の旧遊廓地帯の南側(現在の一身田大古曽)。

この付近にも水茶屋だった建物がありました。*1 現在は、駐車場になっています。

この付近には、古い町並みが残っています。

地元の方の話によると、この付近には、旧遊廓の大勢楼があったそうです。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

参考文献

参考記事

一身田(一身田遊廓跡)水茶屋だった建物。伝統的な形態を保持している民家。

寺内町一身田には、伝統的な形態を保持している民家が割合多く存在しています。

こちらの建物は、明治の初め頃、水茶屋として建築されて営業していたものを明治25年にうなぎ屋に改造したもので、現在は住居として使われています。*1

こちらの建物も元水茶屋で、(写真の奥にもう1軒の小型の家があって、2軒合わせて1棟になっています。

古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

参考文献

参考記事

一身田(黒門)黒門の南側に遊廓街がありました。

今回は、一身田(いしんでん、三重県津市一身田町)の町並みと風俗を散歩します。
この町は、弥生時代から続く農業集落でしたが、15世紀に専修寺が建てられると、それを中心に町が発展し、16世紀には町の周囲に壕が作られ、宗教都市(一般に寺内町と呼ばれます。)の様相を呈するようになりました。壕で囲まれた町への入口は3つしかなく、橋のたもとには、それぞれ、「黒門」「赤門」「桜門」と 呼ばれる門があって、夜は閉じられて不審者の侵入を許しませんでした。壕の外には、橋向と呼ばれる遊廓地域も生まれました(案内看板より)。

3つあった門のうち、南東側にあった黒門の跡。

黒門跡にあった「橋向通」の案内看板。遊廓街があったことが説明されています。

黒門の南側が遊廓街があった橋向と呼ばれた地域でした。

参考文献

参考記事

多治見(横丁)呑スケ止マレ。長屋に居酒屋やスナックなどの店舗と住宅が混在。

遊廓があった広小路の北側に、飲み屋横丁を思わせる路地があります。

長屋に居酒屋やスナックなどの店舗と住宅が混在しています。

飲み屋横丁を抜け、南側へ折れると、広小路の向こう側には、「玉突」や「多治見温泉」などがある一画に至ります。

「呑スケ止マレ」の看板。

参考文献

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多治見(多治見温泉)風格のある看板。新羅神社の隣。

広小路の商店街の南側、新羅神社の隣に銭湯の多治見温泉(現在は廃業)の建物があります。

風格のある多治見温泉の看板。

建物を後ろ側から見ると、銭湯らしい造りになっていることが解ります。

建物脇の煉瓦。

参考文献

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多治見(玉突)遊廓跡近く。昭和の町並みが残された一画。

広小路の商店街の西側。遊廓があったと思われるあたりから、南に折れると昭和の町並みが残された一画があります。

「玉突」と書かれた看板が残されている建物。

かつて、おのあたりは繁華街だったのだと思います。

店の入口。

参考文献

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多治見(社交喫茶)銭湯脇の路地。銭湯脇の路地。

広小路から北側に一本入った道路沿いに、中華屋などが入居する古い雑居ビルがあります。

ビル横の道は、銭湯脇の路地へ続いています。

古い飲食店の建物。

「社交喫茶」という言葉が流行った時代があったようです。

参考文献

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多治見(広小路の銭湯跡)「御婦」「御殿」。

広小路の商店街の東側に、銭湯跡の建物があります。

入口が2か所あるので、銭湯の建物だったことが解ります。女湯は「御婦」、男湯は「御殿」と書かれています。

銭湯脇の路地。

銭湯脇の路地に、物置がありました。

参考文献

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多治見(銀座センター)昭和の薫りただようかつての歓楽街。

多治見広小路の東寄りに、昭和の薫りただようかつての歓楽街 「銀座センター」があります。

幅の狭い路地が約50m続きます。

壁にハートのマークが描かれているスナック。

鮮やかに装飾されたドア。

参考文献

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多治見(多治見遊廓跡地)西ヶ原治療院跡

今回は、多治見(岐阜県多治見市)の町並みを風俗を散歩します。
多治見に遊廓ができたのは、明治22年で、町の有力者が原野だった新田西ヶ原(現在の坂上町)に遊廓を開いたのが始まりで、5軒が開業しました。その後、明治33年、中央線が開通してから、もっと駅に近い町の中心部(現在の広小路町)に移転して西ヶ原遊廓と呼ぶようになりました。*1

西ヶ原遊廓の入口には石柱(石門)があって、現在の岐阜相互銀行多治見支店がある場所に芸妓の健康を管理する治療院がありました。23
石門は、西ヶ原通りの入口(西)と出口(東)に建っていて、娼妓さんたちは、その中だけ歩くことが許されていました。*1

このあたりに、石柱(石門)があったのだと思います。

治療院があった銀行の向かい側には、稲荷神社があります。遊廓関係者がお参りしていた稲荷神社かもしれません。
売春防止法施行の前年にあたる昭和32年に遊廓は廃止になりました。*4

【参考文献】
*1 岐阜県男女共同参画課女性史編集室:この道を生きて 岐阜県女性史聞き書き集 東濃・飛騨編(岐阜県男女共同参画課女性史編集室,2000)P.71-P.73 「西ヶ原遊廓について」
*2 郷土出版社:思い出のアルバム 多治見(郷土出版社,1984)P.144-P.145
*3 笠井美保:写真集明治大正昭和多治見(国書刊行会,1991)P.10
*4 安藤貞男:多治見・土岐・瑞浪の今昔(郷土出版社,2009)P.18-P.19

参考文献

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浜松町(船宿)江戸時代の情緒を感じる風景です。

浜松町駅の南側の金杉橋に、船宿が建ち並んでいる一画があります。

船宿の脇の路地。

屋形船の船着場。ここから隅田川方面へ向かう屋形船に乗船できます。

金杉橋から見る風景。江戸時代の情緒を感じる風景です。

参考文献

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浜松町(讃岐稲荷神社)スターの玉垣。鶴田浩二、伴順三郎。

浜松町駅の南側にある讃岐稲荷神社。

玉垣に、「新明三業組合」の名があります。

鶴田浩二、伴順三郎、などのスターが寄進した玉垣があります。

「銀座おそめ」は、川端康成、白州次郎、小津安二郎などの有名人らが集まる伝説のバーでした。マダムのおそめ(本名:上羽秀)は、元京都の芸妓で、小説のモデルにもなりました。*1

【参考文献】
*1 石井妙子:おそめ(新潮社,2009)

参考文献

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浜松町(芝神明花街跡)芝大神宮の近くの料亭街の。

芝大神宮の前の通りの1本東側の通り。

ここにも、芝神明の料亭街がありました。*1

道路を隔てた南側の芝大門2丁目にも料亭が点在していました。*1

料亭が建ち並んでいた路地。*1

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 港区芝浜松町・東京湾口方面(1951~1961)

参考文献

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浜松町(芝神明花街跡)神明三業組合があったあたり。

芝大神宮の境内は都内随一の盛り場があった場所で、江戸時代は、芝海老芸者と呼ばれていました。*1
芝大神宮の前の通りの両側には料亭が並び、写真の左奥に神明三業組合がありました。*2*3

料亭だった建物。

黒板塀に囲まれた木造の建物。かつての花街の雰囲気が残っています。

神明三業組合があったあたり。

【参考文献】
*1 加藤藤吉:日本花街志(四季社,1956)P.332-P.333
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.210-212
*3 都市整図社:火災保険特殊地図 港区芝浜松町・東京湾口方面(1951~1961)

参考文献

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浜松町(小便小僧)着せられている衣装は毎月着せかえられます。

今回は、浜松町(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
浜松町駅の山手線外回り・京浜東北線南行ホーム(3・4番線ホーム)の田町寄りに小便小僧があります。

小便小僧に着せられている衣装は毎月着せかえられます。5月は鯉のぼりと金太郎の衣装です。

小便小僧の由来は、こちらの石碑の通りです。

発車(発射)オーライ。

参考文献

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熊本(肥後ずいき)水前寺公園の土産物店。瑞喜の華。

水前寺公園は、肥後藩主細川家によって筑造されました熊本の名所です。入口には、公園を境内とする出水神社の鳥居があって、ここから公園の入口までが参道になっています。

参道の両側には、土産物店が並んでいます。

今回は入門用として、クリームの「瑞喜の華」を購入。
箱を開けるとチューブの「瑞喜の華」が入っていて、「ホカク用 革製品に使用すれば一段と若返り艶が出てきます。医療用、化粧品には使用しないでください。」と書いた説明書きが添えられています。

熊本のゆるキャラ「熊もん」と一緒に記念撮影。

【参考文献】
*1 渡辺信一郎:江戸の閨房術(新潮社,2005)P.216-P.218
*2 蕣露庵主人:秘薬秘具事典(三樹書房,2003)P.237-P.244

参考文献

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熊本(子飼商店街)昔ながらの商店街。水前寺清子の出生地。

熊本市の北東部に位置する子飼(こかい)商店街。

歌手の水前寺清子さんの出身地です。

昔ながらの商店街です。

上野のアメ横に似た雰囲気の商店街です。

参考文献

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熊本(繊維問屋街)昭和そのままの姿。河原町。

河原町にある繊維問屋街。

繊維問屋街の入口。

昭和に建てられた問屋街がそのままの姿で残っています。

学生服の看板。

参考文献

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熊本(世安橋)ゆこか二本木戻ろか下宿ここが思案の思案橋。

熊本市街を流れる白川の旧二本木遊廓近くにかかる世案橋(またの名を思案橋と言います)は、色っぽい物語に富んだ橋です。

この橋は、大門から練りこんでは知ったものに出会うという懸念から、白川の渡し船から登楼する遊客が増え、この橋がかけられました。

世安橋は、二本木遊廓とは切っても切れぬゆかりの橋となりました。

「ゆこか二本木戻ろか下宿ここが思案の思案橋」という唄さえ出来ました。

【参考文献】
*1 豊福一喜:熊本夜話(九州新聞社出版部,1929)P.179-P.181

参考文献

参考記事

熊本(モダンな建物)二本木。アーチ型の窓。タイルの装飾。

今回は、熊本(熊本県熊本市)の町並みと風俗を散歩します。
旧二本木遊廓の東雲楼跡を過ぎると、モダンな建物が現れます。*1

1階部分は、店舗になっています。

2階には、アーチ型の窓が並んでいます。

タイルの装飾。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.59

参考文献

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別府(海沿いのラブホテル)別府湾が見える露天風呂。

国道10号線沿いの「なかよし公園」の東側にラブホテル街があります。別府の繁華街からは約1kmの距離です。

ラブホテル街の向こう側(東側)は海(別府湾)です。

海を望む露天風呂のあるホテルもあるようです。

写真の右側が海、左側がラブホテル街です。

参考文献

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別府(梅園温泉)路地裏温泉。繁華街のど真ん中。

別府市元町の繁華街「梅園通り」に梅園温泉の入口があります。繁華街のど真ん中という独特な立地の路地裏温泉です。

人ひとりがやっと通れるほどの狭い路地を進みます。

スナックのママさんがはいるため、夜0時まであいています。(案内看板より)

脱衣所と円型の浴槽が隣合わせになっていて、浴槽の隅には湯槽があって源泉がボコボコと音を立てて出ています。浴槽のお湯は熱めですので、体が温まります。

参考文献

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別府(別府南映劇場)温泉街の成人映画館。

温泉街の成人映画館。

別府南映劇場。温泉街に溶け込んでいます。

3本立てで、料金は1500円です。

夜になると、人通りが増えて賑やかになります。

参考文献

参考記事

別府(風俗案内所)元町の竹瓦温泉の周辺。

元町の竹瓦温泉近くの風俗街。

風俗無料案内所があちこちにあります。

ソープ・ヘルス専門の案内所。

夜の案内所。

参考文献

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別府(裏銀座)居酒屋、スナックと風俗店が混在。

別府の栄町の銀座裏通り。緩やかなカーブを描いて幅の狭い路地が続きます。

昭和30年代、別府温泉には、7,000人のホステスがいて、情こまやかな接客ぶりは評判でした。中でも意にかなったホステスを自由に選択できる「セレクト喫茶」なるバーが人気で、銀座裏通りや柳町のバー街にありました。*1

現在は、居酒屋やスナックとファッションヘルスなどの風俗店が混在する通りになっています。

新宮通りに近いあたり。

【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.108-P.119

参考文献

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別府(すずめ旅館)北部旅館街。古くからの旅館が現在も営業中。

今回は、別府(大分県別府市)の町並みと風俗を散歩します。別府駅の北東側に位置する北部旅館街(仲間通り)は古くからの旅館が現在も営業中です。

そのうちの1軒、すずめ旅館は、宿泊(素泊まり)2500円です。看板には、「御泊り」の他に「御休憩」もあります。昔は、休憩のみの利用もできたのだと思います。

豪華なソファーと大きなダブルベッド。艶っぽい雰囲気の調度品など歴史を感じさせる旅館です。

夜になると、別府タワーのネオンが望めます。

参考文献

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門司(天神社大明神)遊女屋が寄進した鳥居。

田の浦は、江戸時代、風待ちの港として栄え、色街があり、付近に遊女の墓がありました。案内板に記載されている遊女の墓は、おそらく、現在は地蔵寺に移転されたものと思われます。

天神社大明神は、菅原道真が九州で初めて上陸した所に、鳥居が建てられたと伝えられるものです。

鳥居には、「文政5年(1822年)正月吉日と彫られ、永文字屋内真砂が寄進したと残されています。

永文字屋は当時の遊女屋の屋号と思われますが、鳥居の文字は判読困難なほど風化していて、かすかに、”真砂”の文字だけが読み取れます。

参考文献

参考記事

門司(バー「直湖」)栄小路。小路への入口はY字路のようになっています。

門司市街は、格子状に整然と区画されているのが特徴ですが、例外的に昔のままの小路が残っている場所があります。栄小路はその一つで、小路への入口はY字路のようになっています。

栄小路は、中央部分で大きくカーブしています。

バー、居酒屋などのが建ち並んでいます。

栄小路がカーブしているところにあるスタンドバー「直湖」。
現在、地蔵寺にある遊女の墓は、バー「直湖」の女性経営者が、田の浦にあった遊女の墓の見捨てられたような状態を悲しみ、地蔵寺の住職に頼んで墓を移設してもらったものです。*1

【参考文献】
*1 羽原清雅:「門司港」発展と栄光の軌跡(書肆侃侃房,2011)P.352

参考文献

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門司(地蔵寺の遊女の墓)門司の風待ちの港として繁栄した田の浦。

門司市街庄司町の高台にある地蔵寺。

江戸時代、門司の風待ちの港として繁栄した田の浦には、色街がありました。田の浦の真楽寺と聖山に遊女たちの墓がありましたが、現在は地蔵寺に移されています。*1

1753年から1839年までの5基の墓があります。*1

地蔵寺からは、門司市街が見渡せます。江戸時代に遊里があった田の浦は、関門橋(写真右奥)の向こう側です。

【参考文献】
*1 羽原清雅:「門司港」発展と栄光の軌跡(書肆侃侃房,2011)P.352

参考文献

参考記事

門司(古びた飲食店の建物)当時の賑やかさが伝わってきます。

門司区栄町にある大衆中華料理店「朋友」の建物。

郷愁を感じさせる1階部分の看板。

1つの木造母屋に複数の店舗が入居していたようです。

いろいろな看板が取り付けれられていて、当時の賑やかさが伝わってくるようです。

参考文献

参考記事

門司(木造の建物群)新町の旧赤線街南側。新しい住宅に。

今回は、門司(福岡県北九州市門司区)の町並みと風俗を散歩します。

新町の旧赤線街*1 の南側には、木造の建物が残っています。

向かい側の駐車場から見た外観。

前回(2008年5月)の散歩で見かけた赤いタイルの建物は駐車場に、木造の建物は、新しい住宅(写真奥)に建て替わっていました。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.44-P.45

参考文献

参考記事

安浦(理容室)緑のタイル。木製の窓枠。

住宅街の中にスナック、銭湯などが点在する旧カフェー街。

理容室「良美軒」の建物。

玄関部分は緑色のタイルで装飾されています。

木製の窓枠がいい感じです。

参考文献

参考記事

安浦(日の出浴場)宝船のタイル絵。あずま通り。

あずま通りの中ほどに、銭湯の日の出浴場があります。

こじんまりとした暖簾が郷愁を誘います。

玄関部分には、宝船のタイル絵があります。

裏側から見た銭湯の建物の全景。

参考文献

参考記事

安浦(旧カフェー街)路地裏に青いタイル。

旧カフェー街の路地裏に青いタイルが残っています。*1

建物の側面のかなり広い面積が全体が鮮やかなタイルで覆われています。

庇部分の下側は色の異なるタイルが使用されています。

こちらの部分は、薄い黄色のタイルです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.73

参考文献

参考記事

安浦(あずま通り)入口のアーチは無くなっています。

旧カフェー街のメインの通りだったあずま通りの入口。ここには、数年前まで飲み屋街の入口を示すアーチがありました。*1

現在アーチは、撤去されていますが、電柱のすぐ後ろにアーチのものと思われる支柱の跡が残っています。

現在は、住宅街となっていますが、1軒だけ歓楽街の痕跡と思われるスナックがあります。看板には、「AMERICAMS WELCOME」と書かれています。

カフェー街の東端。もう一つのアーチがあったと思われる場所から。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.73

参考文献

参考記事

安浦(安浦神社)玉垣にカフェーの屋号。

今回は、安浦(神奈川県横須賀市安浦町)の町並みと風俗を散歩します。

安浦神社を取り囲む玉垣。この玉垣に、かつての安浦のカフェーの屋号が刻まれています。

「甲子」、「日吉家」、「花の家」、「八千草」は、いずれも「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」*1 で確認できる屋号です。

「水明」はカフェー街の中ほどの海寄りの場所に、「蝶々」は北西端にありました。*1

【参考文献】
*1 横須賀警察署史発行委員会:横須賀警察署史(横須賀警察署,1977)P.121-P.150
「特殊風俗業態(安浦カフェー街)分布図」(P.123)をみると、北西側から南東側に向かって、蝶々、朝日、信濃家、久喜、みさき、みそら、田丸家、立花家、初音、浦島、岡本、浜の家、紅葉、みどり、吉野家、水明、甲子、羽衣、小島家、竹吉、千久代、川栄、松竹、花の家、菊の家、岡島家、春の家、八千草、笹本、富久実、清月、新駒、日吉家、双葉、武本、利久、三松、一松、みその、川柳、高砂、三浦家、花月、などの屋号が確認できます。

参考文献

参考記事

吉野町(三業組合跡)隣に料亭「鈴本」。

日本橋花街の南側のエリア(現在の二葉町2丁目付近)にも料亭や置屋が密集していました。1957年の住宅地図を見ると、レストラン「モリヤ」は当時からこの場所で営業しており、その隣には、日本橋三業組合兼日本橋芸妓学校がありました。さらにその隣には、料亭「鈴本」があって、現在は屋号を受け継いだ鈴本ビル(写真右奥の工事中の建物)が建っています。*1

「日本橋三業組合」と思われる建物。

周囲は、マンションなどに建て替わっていますが、1軒だけ当時のままで残っています。

当時の様子が偲ばれます。

【参考文献】
*1 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.24

参考文献

参考記事

吉野町(日本橋花街跡地)アーチがあった場所

今回は、吉野町(神奈川県横浜市南区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の吉野町二丁目交差点に、花街だった頃の遺構と言える「日本橋」と書かれた花街の入口を示すアーチがありました(現在は、撤去されています)。*1
日本橋花街は、大正初年頃から市内各所に増えだした横浜の花街の一つでした。*2

「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていた旅館「明美」の建物はなくなり、現在は駐車場になっています。

料亭「みどり」があった付近。*3

「料理店」のプレート。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.71
*2 横浜市:横浜市史稿(臨川書店,1985)P.545
*3 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.22-P.24

参考文献

参考記事

神楽坂(くらら劇場)ギンレイ劇場の建物の西側。

神楽坂の東隣。軽子坂(かるこざか)の坂の下にあるギンレイ劇場。

ギンレイ劇場の建物の西側は成人映画館の「くらら劇場」になっています。

入口へは、階段で地下1階に降ります。

近日上映のご案内。

参考文献

参考記事

神楽坂(熱海湯)緑に囲まれた玄関。駐車場の奥に銭湯。

神楽坂の見番通りに面した駐車場の奥に銭湯の煙突が見えます。

路地の階段を下っていくと、銭湯の熱海湯があります。

緑に囲まれた玄関。

堂々とした木造建築です。

参考文献

参考記事

神楽坂(兵庫横丁)「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所。

神楽坂の魅力は、石畳と黒塀にあります。兵庫横丁は、神楽坂情緒を醸し出す通りです。

旅館「和可菜」。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所として知られる、往年の名女優小暮実千代が経営していた旅館です。

現在でも芸者さんが出てきそうな路地です。

人がすれ違うのがやっとという石畳の階段。

【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版角川出版企画センター ,2010)P.202

参考文献

参考記事

神楽坂(稲荷神社)当時の栄華が偲ばれます。

神楽坂通り(早稲田通り)から見番横丁へ向かう通りの途中に伏見火伏稲荷があります。このあたりは、本多横丁界隈の牛込花柳街とともに、毘沙門天裏の神楽坂花柳街として賑わいを見せていた地域です。

現在も、賽銭と花、そして油揚げが供えられています。

玉垣の料亭や芸者置屋、待合の名前に、当時の栄華が偲ばれます。

田中角栄元首相がいくつかのエピソードを残した料亭「松ヶ枝」の名が彫られた玉垣があります。

参考文献

参考記事

神楽坂(見番横丁)昭和24年に東京神楽坂組合に統合。

神楽坂通り(早稲田通り)から、南側に路地を入ったところに、見番横丁があります。

神楽坂の三業組合は、新検(牛込三業会)と旧検(神楽坂検番)に分かれていました。両検番は戦後に統合して、昭和24年(1949年)に東京神楽坂組合となりました。*1

東京神楽坂組合の建物。

かつては、この道の両側に置屋や料理屋が建ち並んでいました。

【参考文献】
*1 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.68

参考文献

参考記事

神楽坂(寺内公園)神楽坂花街発祥の地。

今回は、神楽坂(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
神楽坂を登ると毘沙門天(善国寺)の斜め右側に、平安時代初期から明治の終わり頃まで続く行元寺という由緒ある寺がありました。行元寺の門前町には、岡場所があって、売女は「山猫」と呼ばれ江戸市中に知られていました。神楽坂に花柳界ができたのは、幕末に近い安政4年で、場所はこの行元寺門前町と伝えられていますが、神楽坂芸者の発祥が山猫であったかどうか詳しいことは分かりません。*1

2000年頃、行元寺跡地に超高層マンションを建設する話が持ち上がり、反対運動が起きましたが、結局マンションは計画通り完成しました。*2

この場所には、行元寺が武家地として借地していた時の路地が区道として生きていましたが、マンションの建設により、区道(路地裏)はまとめて消失し、マンション脇に新しい区道が付け替えられました。区道の付け替えで生まれたささやかな新宿区立公園を地元民たちは、行元寺にちなみ「寺内公園」と命名しました。*3

寺内公園には、その由来を記した案内板が設置されています。明治33年、寺内(じない)公園あたりに待合の「吾妻屋」が開業し、これをさかいに、寺内の貸武家地跡は置屋、料理屋、待合ができ花柳界が形成されていきました。*3

【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版,2010)P.111-P.113
*2 松井 大輔,窪田 亜矢:日本建築学会計画系論文集(2012.10)P.2407-P.2414 「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」
*3 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.54-P.55,P.69,P.211-P.213

参考文献

参考記事

渋谷(恋文横丁跡)多くの女性が国籍を超えて結ばれました。

渋谷の道玄坂(東急本店へ向かう道)は、若者で賑わう通りです。

現在のヤマダ電機裏には、恋文横丁と呼ばれた路地がありました。

飲食店とヤマダ電機の建物の間が恋文横丁の入口だった場所で、「恋文横丁 此処にあり き」と書かれた木柱が設置されています。

戦後、代々木にワシントンハイツ(在日米軍施設)ができた時、渋谷の街でアメリカ兵と日本人女性が恋仲になることも少なくありませんでした。しかし、そこには、言葉の壁があり、ラブレターを書こうにも、当時の多くの日本人女性は英文が書けませんでした。そこでこの横丁にあった小さな商店主の菅谷さんという男性が代筆していました。この手紙がもとになり、多くの女性が国籍を超えて結ばれました。史実がもとになって物語ができたのは、1953年。丹波文雄が小説「恋文」を新聞に連載したことが最初でした。のちに、田中絹代監督によって映画化されたことで、話は全国に広まりました。*1

【参考文献】
*1 村松伸,東京大学生産技術研究所村松研究室:シブヤ遺産(バジリコ,2010)P.156-P.157

参考文献

参考記事

渋谷(弘法湯跡地)江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場。

検番(渋谷三業会館)があった円山町の坂道から神泉駅へ向か下り坂が分岐しています。
円山町の背後は急な坂道になっていて渋谷の深い谷底に続いています。かつて、そこに「新泉」という泉が湧いていました。この谷の全域がかつての火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が多数住み着いていました。彼らは泉の湯をわかして「弘法湯」という癒しの湯を提供していました。*1

「弘法湯」は、江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場で、明治18年に佐藤豊蔵という人が経営権を譲りうけ、本格的なお風呂屋として機能し始めました。佐藤家は、のちに弘法湯の近隣地に神泉館という料理旅館を開業しました。料亭ができることによって芸妓屋が開業し、それから円山の花街が広く世間に知られるようになりました。神泉館は空襲で消失し、廃業。その後は銭湯としての「弘法湯」の営業となりました。*2
火災保険地図*3 によると、この駐車場の奥のあたりに銭湯の建物がありました。

道路沿いに、「弘法大師 右 神泉湯道」と書かれた道標のような石碑が残っています。

「明治19年」と刻まれています。

【参考文献】
*1 中沢新一:アースダイバー(講談社,2005)P.64-P.65
*2 倉石忠彦:渋谷をくらす(雄山閣,2010)P.214-P.216
*3 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

参考文献

参考記事

渋谷(芸妓置屋跡)玄関先に庭園。円山町のラブホテル街。

かつて花街であった円山町一帯は、現在はラブホテル街となっていて古い建物はほとんど残っていません。

ラビホテル街に、唯一1軒だけ当時の頃からの建物と思われる民家があります。

風情のある木造建物です。
火災保険地図*1 に「春富久井」という屋号が記載されている場所に残る建物。

玄関先には、庭園があります。

【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

参考文献

参考記事

渋谷(検番(渋谷三業会館)跡地)現在はマンションが建っています。

渋谷の道元坂上付近は、かつては置屋や料亭が建ち並ぶ花街でした。花街の中心となる検番は、道玄坂上の路地を入った場所にありました。
写真の右手前は、戦後からあった氷屋さんです。*1

検番(渋谷三業会館)があった場所には、現在はマンションが建っています。*1

その隣の松木屋は、当時から営業している割烹料亭です。*1

花街らしい雰囲気が残る「万安」。

*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)

参考文献

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渋谷(風俗案内所)道玄坂付近に多く密集。

道玄坂の周辺には、ここ数年で多くの風俗案内所ができました。特に道玄坂小路周辺に密集しています。

1階には、出会いカフェが併設されています。

渋谷最大の案内所。

ビルの地下の案内所。

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渋谷(道玄坂小路)飲食店や風俗店が密集。

文化村通りから道玄坂に抜ける「道玄坂小路」には飲食店や風俗店が密集しています。

老舗の台湾料理店「麗郷」。ここから登る坂道の途中にもヘルス店がありあす。

「麗郷」脇の坂道を登ると老舗のヘルス店の入口があります。

坂の上から見たところ、写真の左手前がヘルス店の入口です。

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渋谷(閉園した屋上遊園地)東急東横店東館。

今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後も落ち着きを見せ始めた昭和26年、東横百貨店屋上(現在の東館、写真左)と現在の西館(写真右)の位置にあった玉電ビル(当時4階建て)の屋上との間に、都会では珍しいロープウェイが出現しました。「ひばり」号と名付けられたこのロープウェイは、もともとは東横百貨店屋上の遊園地の遊戯物の一つで、子供たちには大変な人気でした。「ひばり号」は、認可がおりるまでに時間を要したため、開業時には、玉電ビルの所に新館(現在の西館)を建設することが決まっていたたため、昭和28年に運休し、短命に終わってしまいました。*1

それから60年が経過した現在、渋谷駅周辺は大規模な都市開発が進行しています。渋谷ヒカリエからは、東急百貨店東館の屋上遊園地が見えます。東館が閉館する3月31日、屋上遊園地も閉園となりました。

閉園した屋上遊園地(アスレチック広場「わんぱく島」のあたり)。

屋上遊園地「ちびっ子プレイランド」の様子(最終日の3月31日に撮影)。写真手前は、レール走行乗り物遊具の「機関車トーマス」。

【参考文献】
*1 宮田道一,林順信:鉄道と街・渋谷駅(大正出版,1985)P.138-P.139

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滝野(社町の琺瑯看板)冷暖房完備のホテル。塩田温泉。

加古川線、滝野の隣の社駅近くの道路沿い。社町の市街地からは3kmぐらい離れた場所です。

道路沿いに琺瑯看板がたくさん取り付けられた木造母屋があります。

加西市和泉町のホテルの看板。冷暖房完備が一般的でなかった頃のホテルのPRだと思われます。

塩田温泉(姫路)の看板もあります。

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滝野(花街跡地)名勝「闘竜灘」。江戸期・大正期は、加古川舟運で栄えた町。

今回は、滝野(兵庫県加東市)の町並みと風俗を散歩します。
滝野は、JR加古川線で加古川から約40分の場所にあって、江戸期・大正期は、加古川舟運で栄えた町です。

旧道沿いのこの付近には、芸妓置屋がありました。*1

近年まで割烹旅館として営業していた水月楼の建物。

近くには、名勝「闘竜灘」があります。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 瀧野町

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加古川(金沢牛乳の牛乳箱)2つの牛乳箱。兵庫牛乳。

加古川町本町の国道2号線近く。

金沢牛乳の牛乳箱があります。

兵庫牛乳の牛乳箱。

二世帯住宅でしょうか。2つある玄関にそれぞれ牛乳箱が取り付けられています。

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