両替町付近には、風俗店などの無料案内所が密集しています。

たこ焼き店を併設した無料案内所。

交差点の角に複数の無料案内所が連なっています。

無料案内所にて。

両替町付近には、風俗店などの無料案内所が密集しています。

たこ焼き店を併設した無料案内所。

交差点の角に複数の無料案内所が連なっています。

無料案内所にて。

両替町にあるバーやスナックが入居する雑居ビル。

レトロな雰囲気を醸し出しているらせん階段。

昭和42年発行のガイドブック*1 によると、両替町には、「キャバレー金時」「クインビー」「ソワール」「エスポアール」などの高級バーがありました。

ショーのご案内。

【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
静岡の歓楽街、両替町。昔からの飲み屋街の一つである「ちゃっきり横丁」の入口です。

残念ながら、向こう側半分は最近になって解体されたらくし、更地になっています。

以前は、ここに横丁の建物がありました。

中央部分には、横丁らしい雰囲気がわずかに残されています。

二丁町遊廓の開祖、勘右衛門は、正保四年(1647年)に病死し、明泉寺(静岡市葵区上石3−1)に葬られています。

勘右衛門の墓は、墓地へ入るとすぐ右手の隅にあります。

墓の表面中央に桔梗の紋をつけ、右側に釋祐念(勘右衛門)左に釋妙久(妻)の法名が彫られています。*1

墓は、弘化二年、九代目の加右衛門という人が建てたものです。

参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.141-P.142
二丁町遊廓は、戦災によって完全に消失し、二丁目の跡は、静岡県地震防災センター(静岡市葵区駒形通5丁目9−1)の敷地となりました。*1

大門と裏門を結ぶ通りに妓楼は無く、引手茶屋、見番、芸者屋、周旋業、台屋(食べ物屋)などが軒を並べ、比較的静かな通りでした。*2

現在、この通りは「しあわせ通り」と呼ばれています。

地震防災センター裏の通り。

【参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.131
*2 小長谷澄子:静岡の遊廓二丁町(文芸社,2006)P.85-P.86
今回は、静岡(静岡県静岡市)の町並みと風俗を散歩します。
静岡市街の駒形通りを入った静岡県地震防災センター南側に稲荷神社があります。

稲荷神社内に、「双街記念之碑」があります。双街とは、二丁の町という意味で、駿河の花街として知られた「二丁町遊廓」のことです。二丁町は、もともと七丁あったものが五丁江戸に移って)吉原になり、残ったのが二丁だから二丁町となったという言い伝えがあります。*1

題字は篆書体*2 で「静岡雙街(双街)紀念之碑」と書かれています。
当初は、表面に「つわもの共の夢の跡」と大書し、副題として「二丁町遊廓跡」と記す構想もあったようです。*1

二丁町遊廓の歴史は、天下の権を握った徳川家康が慶長十年(1605年)、将軍職を子秀忠に譲って、駿府に隠居した時代にさかのぼります。
駿府城拡張のため、多くの将士や役夫が駿府の町に集まり、城下の繁盛と共に女が原因の喧嘩口論が絶えなかったため、家康は遊女や歌舞伎女を一カ所に集めて営業させ取り締まった方が治安が保てるだろうと考えました。たまたま、家康の鷹匠を務めていた伊部勘右衛門が老齢のため辞職を願い出てきたので、家康や老後の仕事に安倍川の土地を与え遊廓をつくらせ、これを勘右衛門に支配させました。これが二丁町遊廓の始まりです。*1

【参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.130-P.142,P.257
【参考URL】
*2 フォントファクトリー 大和篆書体
神田橋から南へ折れたところの通り。奥に見える鳥居は神田宮神社です。昭和6~7年頃の市街図*1 によると、この通りに右側には芸妓業の「若杵家」がありました。

富士宮五業組合の建物。

五業組合の看板。飲食や旅館関係の組合事務所も兼ねているようです。

この界隈は、「琴音みち」と命名されています。

【参考文献】
*1 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
最盛期、高しま家と並んで50人の芸妓を擁していた新杵家は、佐野歯科医院があったあたりにありました。*1
昭和19年~21年頃の市街図に「新杵家」の記載があり、平成11年の市街図では、佐野医院に変わっています。*2

現在は住宅地になっています。

富士宮には、小路にさまざまな名前がつけられていて、ここは「三味音みち」と呼ばれています。

花街らしい雰囲気が残っている小路です。

【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
*2 神田区誌編纂委員会:神田区誌 かんだ今と昔(富士宮市神田区,2000)P.193-P.195
富士宮(旧大宮町)の花街は、大正時代に、常盤家、新杵家、高しま家が開業した頃から隆盛期を迎え、昭和12年の最盛時には百数十人の芸者がいました。その原因は、生糸(絹の原料)の生産で、大宮町には、繭の取引や、繭を用いての製糸工場が多くなり、高級料亭が整理しました。最盛期には、高しま家と新杵家が50人ずつの芸者を擁していました。高しま家の料亭の門だった長屋門。が現在も残っています。*1

長屋門は、「歴史の館」として整備されています。*2

現在は、日本庭園風に整備されています。料亭があった場所にはレストランが営業中です。

地元の方の話によると、このあたりには、料亭専用の風呂があって、若い旦那衆がこぞって芸者さんを見に来たそうです。

【参考文献】
*1 遠藤秀男:懐かしの富士宮(羽衣出版,2009)P.68-P.69
【参考URL】
*2 富士宮市:ホームページ 長屋門「歴史の館」
JR富士宮駅前通り(国道139号線)を少し東へ行くと、北角に富士宮グリーンホテルがあって、ホテルの横を北に向かう町並みは、以前は「清水町」と言いました(現在は、東町と中央町に分かれいます)。しかし、清水町は、小字(こあざ)名である「茨木(バラキ)」という名前で市民に広く知られていた遊廓があった場所でした。*1
昭和3年の市街図*2 には、現在の富士宮グリーンホテルのあたりに、「遊廓」の記載があります。

明治27年(1893年)、大宮町(富士宮の旧名)議会で遊廓の設立について検討されました。議会は、「当大宮町は、近年になって蚕糸業をはじめとする工業が盛んになり、諸国から商人や青年が集まり、金回りが良いので町中で遊ぶ者が増え、それに伴い私娼が増加し、風俗が乱れつつある。これらのことを考えると、必要悪ではあるが、遊廓の設立を許可することが妥当。」と県に対して答申しました。*1

遊廓は、北側から、松井楼、深本楼、住吉楼の三軒で、娼妓の数は24名でした。昭和7年の「大宮町大火」で、豪華を誇った三軒の遊廓は焼失しましたが、翌昭和8年、深本楼の建物は復活しました。残りの松井楼、住吉楼は、再開されることはありませんでした。*1
昭和35年の住宅地図*3 によると、このあたりに、転業旅館と思われる「深本旅館」がありました。

現在、遊廓の北側に数軒の居酒屋やスナックがありますが、付近は住宅街で、遊廓があった当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 佐野里見:岳南朝日(1992.12.9)P.4 「ふるさと再発見 バラキ物語」
*2 秋山不二男:商工案内 大宮町地図(日本地理附図研究所,1928)
*3 関東明細地図編集社:富士宮市住宅明細図(関東明細地図編集社,1960)P.15
今回は、富士宮(静岡県富士宮市)の町並みと風俗を散歩します。

富士宮駅の北口に、白ポストが設定されています。

塗装がされていない金属色の白ポストです。白ポストの文字のみ白色です。

天板に書かれた解りやすい表記。

小中野の鍵の手の街路の裏手。バス停の「浦町」があるあたり。

ここに古い飲み屋街が残っています。

和風スナックや居酒屋などの店舗が並んでいます。

現在、営業中の店は少ないようです。

この日は、新むつ旅館に宿泊です。

折鶴の釘隠し

旅館に隣接していた土蔵(明治 40年建造)を解体した際に発見された大工の墨書。当時の遊興料、コメ、地酒などの料金も記されており、当時の貴重な資料です。*1

皿数の多い豪華な食事。この後、白菜のお新香とイカの塩辛がサービスです。

【参考URL】
*1 新むつ旅館:ホームページ
小中野の旧遊廓街だった道幅の広い道路に、当時の遊廓の建物を利用した「新むつ旅館」があります。

前回、新むつ旅館へ宿泊しましたのは、6年前の2008年。*1
その間、土台の改修工事などが行われ、現在も営業が継続されています。

軒先の装飾は、「輪違模様」と呼ばれる見事な細工が施されています。*2

夜の新むつ旅館。

【参考記事】
*1 風俗散歩(八戸):新むつ旅館(2008.9)
【参考文献】
*2 rakra(2008.1)
陸奥港駅の方から橋を渡って遊廓があった小中野に入ると、鍵の手のある街路が伸びています。*1
周囲の道路と比べ、この鍵の手の街路だけが、道の幅が広くなっています。

町のほぼ中央に残る戦前に建てられたと思われるお宅。*1
昭和6年の市街図*2 によると、二つ目の通りには、東楼、旭楼、観月楼、国楼、五明楼がありました。

さらに行くと二つめの鍵の手が現れます。*1

鍵の手を抜けた三つめの通り。ここには、花月楼、錦楼、新喜楼、山内楼がありました。*2

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.50-P.51
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「八戸市」
鷹匠小路を進むと、昭和の雰囲気が残る「たぬき小路」の入口があります。

提灯が連なります。

JR東日本のポスターに出演を続ける吉永小百合さんの「八戸の横丁編」は、「たぬき小路」で撮影されました。*1

小路を奥へ進むと鍵型に横丁が曲がって、奥の「五番街」へ続いています。

【参考文献】
*1 東日本旅客鉄道株式会社:トランヴェール(2013.8)P.38-P.39
夜の「れんさ街」。

昭和の雰囲気を感じる横丁です。

横丁がTの字になっている場所。中華料理屋のネオンが怪しい雰囲気に感じます。

裏通りにある「洋酒喫茶プリンス」。

今回は、八戸(青森県八戸市)の町並みと風俗を散歩します。
八戸には、その名にふさわしく八つの横丁があります。古い順に、たぬき小路、長横町れんさ街、ハーモニカ横丁、ロー丁れんさ街、五番街、花小路、みろく横丁、八戸昭和通り。

長横町れんさ街の入口。案内板に、れんさ街の歴史が説明されています。
れんさ街は、昭和30年、商店が軒を連ねる横丁として、産声をあげました。かつては周囲に映画館も集中していました。やがて飲食店が集まり出し、現在のような町並みが出来上がりました。(案内板より)

「れんさ名店街」という呼び方もあるようです。

「ロー丁れんさ街」は、漢字では「牢丁連鎖街」。藩政時代の牢屋の場所に、戦後、鎖のように飲食店が連なりました。*1
。現在は、商店が少なくなり、駐車場になっています。

【参考文献】
*1 東日本旅客鉄道株式会社:トランヴェール(2013.8)P.38-P.39
五戸川の近くの住宅街。

「まきば」と書かれた牛乳箱があります。

小岩井牛乳の牛乳箱。

側面には、小岩井ヨーグルトと書かれています。

大正時代の五戸町は、この地方の商業町として毎日のように人手がありました。特に、十七、二十七の市日には、大混雑の繁昌振りで、大道商人もたくさん出ました。五戸町新丁にいつ遊廓ができたのか詳細は不明ですが、明治末期には12軒が店開きしていて、約50年続いて戦後の売春防止法が施行されて、廃業しました。遊廓の入口には、アカメ橋がありました。遊廓の女達は、そこまで朝帰りの客を送り、後でその客にアカメと指で目を大きく開いて、客人をけいべつすることから、アカメ橋の名がつきました。*1

この場所だけ道路幅が特別広い理由は、明治40年3月12日の新丁大火の後、各家庭が道路前の土地を2メートルずつ寄付して大幅な道路になりました。*2

南側からみた新丁。

新丁の南側にある新明宮。
遊廓の女性達は、家掃除や雑巾がけを済ませ、玄関を必ず水洗いをし、その後、新明宮やこうへん様(当時あったお堂)を拝みに行きました。*2

【参考文献】
*1 三浦榮一:流れる五戸川 続8 (三浦榮一,1997)P.58-P.60 「新丁の遊郭はいつごろ出来たか」
*2 三浦榮一:流れる五戸川 続13(三浦榮一,2002)P.383-P.385 「新丁の思い出(続)」
五戸町小堂にある延命寺。

境内の一角に「公先堂(コーセン堂)」があり、ここに、石製・木製の男根が奉納されています。

縄文時代の石棒と思われる長さ1m弱の石製男根。

こちらには、複数の男根が奉納されています。

今回は、五戸(青森県三戸郡五戸町)の町並みと風俗を散歩します。
五戸町の中心部。地酒の「菊駒」の大看板が目を引きます。その後方に銭湯の煙突が見えます。

銭湯の「鶴の湯」。

現在は、休業中のようです。

建物の後ろ側。

かつて水晶橋があったと思われる場所に、銭湯の「藤の湯」があります。

営業時間は、午後3時から8時半までです。

油田型の煙突。

銭湯の左側は、材木置き場になっています。

二戸には、小規模ながら歓楽街もあります。

趣のあるスナックの建物。「クラブエレクトーン」という店名です。エレクトーンの演奏を楽しめる店でしょうか。この一画には、複数の店舗が軒を連ねています。

スナック店の看板。

夜の観光。

今回は、二戸(岩手県二戸市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の二戸市街は、1972年、福岡町が二戸市に合併される以前は、「福岡町」と呼ばれていました。大正9年の「福岡町案内俯瞰図」*1 によると、福岡町遊廓は、水晶川の北側の現在の長嶺にありました。大正14年の市街図*2 には、水晶川の北側に、福田楼、第一よか楼、第二よか楼の3軒の妓楼が記されています。

水晶川があった場所は、現在は暗渠になっています。

5年後の昭和5年の市街図*3 には、金盛楼、よか楼の2軒の妓楼名が水晶川の南側に記されています。

金盛楼があったと思われるあたり。

【参考文献】
*1 二戸市史編さん委員会:二戸市史(二戸市,2001)P.248-P.249,P.628
*2 木谷賀:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)「福岡町」
*3 大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1930)「福岡町」
明治40年、工兵第13大隊が設置されることが内定したころ、その受け入れ態勢の一環として、遊廓の開業が「その筋」望まれていて、明治42年に開業しました。小千谷町には、旧幕藩時代以来全国から綿商人等の入り込む殷賑の町として、当然のことながら料亭の女中、飯盛女等が蜜淫売をする風習があり、このような素地の上に遊廓が設置されたのでした。*1
遊廓の敷地は、船岡町と栄町の間あたりにありました。*2

「小千谷町勢一覧」に掲載されている鳥瞰図*3 には、通り入った道が鍵型に左に曲がる場所に遊廓の場所が示されています。

左へ曲がった先。広い道路は行き止まりになっています。

当時、遊廓の業者は、佐藤与市(松川屋)、濁川仁久治(緑屋)、山本金右エ門(住の浦)、佐藤吉二郎(若松)、関嘉吉(松尾楼)の合計5軒が参加申し込みをして許可を得ました。*4
1975年の住宅地図を見ると、この付近に、同姓同名で山本金右エ門、同姓で濁川、佐藤、関、の住宅があります。

【参考文献】
*1 小千谷市史編修委員会:小千谷市史(小千谷市,1967)P.405-P.407
*2 小野坂庄一:小千谷・北魚沼今昔写真帖(郷土出版社,2001)P.11 「小千谷市街地地図」
*3 小杉達太郎:小千谷文化(1994.03)135号 P.12-P.13「昭和六年の回顧 小千谷町勢一覧に見る」
*4 吉村宗松:船岡町九十年の歩み(吉村宗松,2000)P.25-P.26
小千谷市街の中心部にある船岡公園。船岡山の山頂にあります。

戦後はすべて廃業しましたが、船岡山山頂の北側に、旭楼、庄内屋、八勝楼の三料亭がありました。

八勝楼は文化人が多くここで遊興しました。そのことと関連があるのでしょうか。山頂には、文学碑がいくつか設置されています。

山頂からの眺め。

【参考文献】
*1 広井忠男:小千谷文化』(2007.03)186・187号 P.74-P.84 「花街の民俗 小千谷花柳界と芸妓」
今回は、小千谷(新潟県小千谷市)の町並みと風俗を散歩します。
小千谷市街の本町の交差点を南に折れ、坂を下っていくと、料亭の「東忠」があります。

戦前、戦後ともにその最盛期には50名近くいた小千谷の芸妓達は、今やその十分の1の数名になりました。時代の大きな流れに加え、中越震災がその減少を加速させ、数多くあった料亭も「東忠」一軒となりました。*1

入口はこちらからです。

湯殿川と料亭「東忠」。

【参考文献】
*1 広井忠男:小千谷文化(2007.03)186・187号 P.74-P.84 「花街の民俗 小千谷花柳界と芸妓」
遊廓の近くにある開運稲荷神社。

願いがかなうとされる「こんこん様」の石像があります。

案内板の説明によると、遊廓の遊女も信仰したそうです。

「こんこん様」の台座に刻まれた「貸座敷一同」。

かつて、新潟の花街といえば、古町、下町、沼垂の3か所がありました。このうち、下町の花街は、十四番町と常磐町の間に挟まれた場所にありました。*1

この路地を入ったところには、「坂井家」「新白根」「姫の家」などがありました。*1

昭和の雰囲気が残る路地。

こちらの酒屋の脇の路地の奥には「西月」がありました。*1

【参考文献】
*1 藤村誠:新潟の花街(新潟日報事業者,2011)192-P.199
「貸座敷家並み図」*1 によると、かつての新潟遊廓の二本柱だった十四番町遊廓と常盤町遊廓は、いずれも横七番町通りに接した場所にあって、本町通十四番町から数えて北東方向へ3本目の通りに常盤町遊廓がありました。

常盤町遊廓は、明治、大正時代は、十四番町遊廓と比べ地の利の悪いこともあって、不況の深刻化した昭和5年当時、妓楼が半減しました。*2

能登屋があった思われる場所。「貸座敷家並み図」*1 によると、大正中期は、北側から、東楼、村上屋、隅田川、第二鷲尾、井坂楼、能登屋、と隙間なく建ち並んでいましたが、昭和5年には、村上屋、隅田川、能登屋、と半減しています。

昭和32年の住宅地図*2 によると、この場所には、銭湯の「ときわ湯」がありました。。「貸座敷家並み図」*1 では「風呂屋」と記述されています。

【参考文献】
*1 藤村誠:新潟の歴史を語る 昭和63年度郷土史講座(1988,新潟市郷土資料館)P.20-P.24 「新潟遊廓の変遷を語る 十四番町と常盤町」
*2 日本地図編集社:新潟市住宅明細地図(日本地図編集社,1957)P.11
明治21年、古町通五番町と西堀通五番町(俗称:脱奔( ダッポン)小路)の貸座敷を全焼する火災が発生しました。以前から、新潟市内無く所に散在している貸座敷を北辺の一郭にまとめようと企図していた県は、この火事を好機として、遊廓統合に着手しました。その後、明治31年までに、横七番町以北の新遊廓指定地への移転が完了し、「新潟遊廓」が誕生しました。ところが、移転直後の明治31年の火事で本町通十四番町の貸座敷はすべて全焼した結果、一部の楼主が隣接の常磐町へ移転し、常盤町遊廓が誕生。新潟遊廓は、十四番町と常盤町の二本柱となりました。*1

上の写真とは逆方向(浄信院を背にして)から見たところ。写真左側の角にあった水田楼は、建物内部はもちろん、店の格子先はで全部朱塗りで統一され、これをまねる妓楼が続出しました。大正期、新潟遊廓の外観は、和風、洋風をとりまぜた家並みでした。*1

新潟遊廓の各妓楼は、競って建物の増改築を行いました。中でも特筆すべきは、十四番町の小林楼(その後「巴屋」、写真右手前の位置)は、大正から昭和初年まで最も繁栄した貸座敷の一つで、店張りをする部屋に大姿見を設備し、25人の娼妓が美しく映ずるように工夫し、さらに洋風の大建築をして、玄関から靴ばきのまま出入りできる部屋を7部屋設けました。*1

かつての常盤楼の跡には、大きなマンションが建っています。*1

【参考文献】
*1 藤村誠:市史にいがた第14号(新潟市,1994)P.4-P.22 「新潟における花街の変遷」
新津屋小路に、約160メートルにわたって長屋が連続する「人情横丁」があります。

人情横丁の創立は1951年。堀を埋めた跡地に、露天商が移転してきて店を開いたのが人情横丁の始まりです。当時は、生鮮商品中心の約80軒が店を連ね、人が前に進めないほど賑わいました。(案内板より)

現在の堀の跡が残っています。

現在も「新潟の台所」として市民に親しまれています。

西堀前通六番町の飲食店街の真ん中に巨大な弘法大師像が立っています。
人生の悩みを背負った人たちがやむにやまれず仏にすがるための寺ですが、そのルーツはストリップ劇場でした。寺の住職の岡本治峰さんは、当時のストリップ劇場「オリオン」の経営者で、昭和新道でもキャバレーやダンスホールを華々しく経営していました。その岡本さんが180度の大転身を遂げたのは、昭和30年頃、突然病魔に襲われたことがきっかけでした。結核に加えて糖尿病にもなり、死ぬ目に遭ったことが、岡本さんの仏門への入口でした。3年間、四国巡りを続けた結果、病気はうそのように良くなり、そして岡本さんは「寺を建てよう」という信念が固まりました。*1

総費用は、1億2500万円。寄付はいっさいありませんでした。*1

弘法大師像の下には人間国宝松久朋琳作の仁王像が2体安置されています。*2

唐山開基の弘観音は、岡本治峰さん別名「平岡弘観」のことで、戒名に岡本治峰さんの名前の「治峰」が含まれています。*2

【参考文献】
*1 新潟日報社:にいがた街・ひと・物語(新潟日報事業社出版部,1990)P.65-P.68
*2 財界にいがた:財界にいがた(2013.1)「『新潟三越脇の巨大弘法大師像はストリップ劇場跡地に建つ』のウラを取る」 P.50-P.53
今回は、新潟(新潟県新潟市)の町並みと風俗を散歩します。
古町通5番町は、現在では水島新司マンガストリート。(写真右手前のブロンズ像は、「野球狂の詩」の岩田鉄五郎)として知られていますが、このあたりは、江戸時代からの歓楽街でした。

水島新司マンガストリートのブロンズ像に混じって、歌人の會津八一の歌碑があります。
會津八一は明治14年、新潟市の古町にある料亭「會津屋」の次男として生まれました。八一の生家である會津屋は、ほとんどの文献に料亭と書かれていますが、実際のところは明治21年までは、一般に青楼と呼ばれる、遊女屋と料理屋を兼ねた店でした。會津屋は、二代目の會津金太のときに全盛を極め、一軒で5人もの美妓をかかえていました。金太の一人娘の英(えい)は、明治元年に夫を亡くすと、女手一つで會津屋を守った女丈夫でした。しかし、明治21年の大火で會津屋は全焼し、この大火を好機として、県知事は、古町を貸座敷の営業区域から除外しました。英は決断を迫られましたが、店をたたむのではなく、料理屋として再出発する道を選びました。このとき英の娘イクの生んだ次男八一は8歳でした。*1

歌碑に書かれている歌は1945年(昭和20)、東京大空襲で被災し、傷心を抱いて新潟へ帰郷したときに詠んだものです。

歌碑の向こう側には、現在の歓楽街とも言える昭和新道(ソープランド街)があります。

【参考文献】
*1 工藤美代子:野の人會津八一(新潮社,2000)P.20-P.24
この日は、金沢屋旅館に宿泊です。部屋のあちこちに、日本画や美術品が飾られています。

遊廓だった当時の雰囲気が感じられます。

金色のふすまに日本画。

旅館の内部には、ガラスのはまった飾り棚が1階と2階にあって、レトロな品々が展示してあります。
ロシアの紙幣が額の中に入れられてかけられてあります。およそ90年前、アメリカ船籍の原油船が両津港に入港し、乗組員がこの遊廓で遊び尽したその遊興代をロシア紙幣で支払ったものです。換金不能のロシア紙幣は、ご愛嬌で受け取っておいたのか、あるいはチップ代わりに置いていったものなのか。その真偽はわからないままです。近世において佐渡ヶ島は、外国船もやって来るような変化を遂げていたことを示す資料といえます。*1

【参考文献】
*1 諸島文化・民俗研究会:ニッポン「奇怪島」異聞(宝島社,2009)P.61-P.63
両津の遊廓は、全盛時には、夷町(現在の夷神明町)で20軒、湊街(現在の両津湊)で、10軒でしたが、戦時中に衰運がおとずれ、売春防止法の施行のため消滅した時は、夷町3軒、湊町1軒になっていました。

金沢屋旅館は、唯一、当時の遊廓のままの建物が残されている旅館です。

どっしりとした木造建築は、風格が漂います。

夜の様子。

【参考文献】
*1 両津市立中央公民館:両津町史(両津市立中央公民館,1969)P.127-P.133
相川町の寺町にある法然寺。

山門をくぐると、すぐ左手側に粟島明神の小堂があります。*1

粟島明神は、性病の神様です。堂内に奉納された赤白のミニ腰巻がのぼりばたのようにぶらさがっています。昔、相川の金銀山が栄えた頃、水金町の遊女たちがよくお参りにきたそうです。*1

堂内に奉納された木製の男根。*1

【参考文献】
*1 浜口一夫:佐渡びとの一生(未来社,1993)P.13-P.14
相川の本興寺の墓地。寺の東側のところのかなり広い斜面を利用してつくられています。*1

その台地の上の方に、「情死之墓」と刻んだ墓があります。*1

台石に、「施主水金町宿屋中」と彫られています。*1
風化が激しく、「水金」の部分がかろうじて読み取れます。

安政6年(1856年)の5月2日の午前8時頃、若い男女の心中死体が発見されました。現場検証の結果は、男が短刀でまず女のノドを刺し、返す刀で自分を自分を刺したものと想定されました。男は、虎吉という24歳の青年、女は、水金町の遊女で柳川(やながわ)という20歳の娘で、二人は前日の夜家出し、その夜のうちに果てたのでした。「情死之墓」は心中が行われた場所に建てられたのですが、そこは水金町が一望に見えるところです。水金の歓楽の夜景と三味の音を聞きながら二人はその短い生命を中断したのでした。*1

【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山の底辺(文芸懇話会,1961)P.157-P.169
水金遊廓跡地に、案内板と供養塔が設置されています。
大黒屋の当時の写真などが紹介されています。

水金町遊廓は、享保2年(1717年)に11軒の遊女屋ができてから、昭和20年過ぎまで、およそ230年ほど続きました。この間、経営者にかなり変動がありましたが、くるわの数が11軒を超えることはありませんでした。11軒は公儀から限られてきたわけではなく、自主的に増えるのを制限したもので、新規にくるわを営むものは、権利を買い取って交代しました。*1

水金遊女供養塔。平成21年5月に建立されました。

水金遊廓の見取り図。

【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山(中央公論社,1992)P.242-P.248
相川最初の遊女町は山先町(現在の相川会津町)にありましたが、享保2年(1717年)、相川町北端の水金町へ移転しました。入口(写真奥)には、吉原風に大門が建ち、通路は本町通りと呼ばれ、大門から入ったところに山手へのびるもう一本の小路(写真左側)があり、その本町の東側の角(写真左手前)に「大黒屋」がありました。*1

大黒屋跡。現在は空地になっています。*2

水金川にかかる橋の名前は忍橋といい、一尺四方の丸木六本を束ねた橋になっていましたが、いまは、三日月形に組み合わせた半円形の石橋が残っています。町割りは水金川をはさんで南北(写真の左右)に区画されました。*1

「たまや」という屋号の看板が残っていました。

【参考文献】
*1 磯部欣三:佐渡金山(中央公論社,1992)P.242-P.248
*2 浦和光:佐渡の風土と被差別民(現代書館,2007)P.58 和賀正樹「遊行する聖性」
相川郷土博物館は、佐渡金銀山の歴史を中心に展示活動を行っています。

博物館の中に遊女に関する展示コーナーがあります。
佐渡において、遊女は、鉱山という巨大なメカニズムを動かすのに欠くことのできない歯車の一つとして、幕府によって保護され、鉱山労働者によって育てられました。日本最大の金銀山の繁栄のもう一つの歴史と言えます。相川郷土博物館では、昭和50年に遊女をテーマに特別展示を行ったところ好評であったため、その後、常設展示となりました。*1

遊女を再現した展示。

相川にあった水金遊廓の大黒屋の部屋札。

【参考文献】
*1 沖浦和光:佐渡の風土と被差別民(現代書館,2007)P.120-P.123 柳平則子「生活伝承のゆくえ」
今回は、佐渡(新潟市佐渡市)の町並みと風俗を散歩します。
佐渡金山の北沢地区は、明治期に入ってからの佐渡鉱山全体の一大拠点でした。

現在も遺構が残されています。

急斜面の物資運搬を行うための斜車道装置

佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」。相川金銀山の開発の発端となった場所です。

武蔵小杉の今井湯。コインランドリーが併設です。

コインランドリーと銭湯の入口がつながっています。

側面にも入口があって、入口の脇にはクリーニング店が併設です。

水色で「今井湯」と書かれた煙突。

近年、急ピッチで開発進む武蔵小杉駅前。高層マンションが林立しています。

奇跡的に1本だけ残っているレトロ電柱。

昭和遺産と言えそうです。

中央部分のへこみは、何かプレートが埋め込まれていたのでしょうか。

今回は、武蔵小杉(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
開発が進む武蔵小杉は、昭和の雰囲気が残る飲み屋小路です。

その中でも人目を引くのが、この「超ミニスカスッチー」の看板です。

「コパンビル」と書かれた階段が、「超ミニスカスッチー」の店の入口です。

コパンビルの3階には、バドガールの看板。

鮫が橋の北の若葉にある戒行寺坂。

坂の登り口に銭湯の若葉湯があります。

コインラインドリー併設です、

銭湯裏の煙突。今は、隣が空地になっているので、煙突全体を見ることができます。

JR四ツ谷駅から徒歩10分の場所にある新宿歴史博物館。

館内に入り、まず目を引くのが、「内藤新宿」の模型です。

新宿の赤線街を再現した展示。

文化住宅を再現した展示。大正の末から昭和の初めにかけて流行したサラリーマン住宅で、小規模な和風住宅の玄関脇に、洋風の応接間がついていました(案内板より)。

JR四ツ谷駅から大通りを迎賓館を左手に見ながら鮫洲橋坂を下り、右側の南元町公園に沿って右折すると、「せきとめ神」の祠があります。*1

鮫が橋地名発祥の地の碑

玉垣には、料理屋と思われる寄付の痕跡が確認できます。

江戸時代(宝暦以降、寛政改革で取り払いになるまで)鮫が橋は夜鷹の巣窟でした。江戸における出張売春婦としての夜鷹は、本所吉田町から出る女と、この鮫が橋の本拠を置く者に大別され、吉田町の私娼は手拭をかぶり、鮫が橋の女は手拭を用いませんでした。*1

【参考文献】
*1 花咲一男:江戸あらかると(三樹書房,1986)P.99-P.108
今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1

現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。

遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1

名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。

【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)
城山町の交差点にある銭湯の幸の湯。奥行のある立派な建物です。

ひっそりと居を構えています。

電柱のプレートに、銭湯の名があるのは珍しいです。

夜の様子。

駅前のみつわ通り商店街の奥。商店もまばらになり、事務所のビルが建ち並びます。

商店街の中ほどにあるスナック店。

テレクラ「てれ魔くん」。

18歳未満は入場おことわりです。

今回は、小山(栃木県小山市)の町並みと風俗を散歩します。
小山駅の東口と西口には3階(改札階)と1階(地上階)を結ぶエレベータが設置されています。

小山駅構内には、東西を貫通する自由通路とエレベータがあって、自転車利用の通行者が頻繁にエレベーターを利用します。エレベータの利用者を待ち構えるように、白ポストが置かれています。

どっしりとした角形の白ポスト。

エレベータ利用者に狙いを絞った白ポストの設置事例と言えそうです。

鬼脇市街には、随所に消火栓が設置されています。

赤い、台形の木箱です。

防火槽。

給水バルブも同じ目印の台形の赤い木箱です。

鬼脇にある日蓮宗妙泰寺。

かつて、境内には大正初期に建立された秋田谷稲荷明神の稲荷堂があり、鬼脇の遊廓の遊女が信仰していた時期がありました。*1

現在、妙泰寺の境内には、平成十年に新築された稲荷神社があります。

鳥居の奥に小さな稲荷堂があります。

【参考文献】
*1 工藤浄真:利尻研究(1986.05)P.11-P.25「利尻島における稲荷信仰」
利尻島の遊廓は、明治12年頃、鴛泊(おしどまり)に遊廓があり、明治32年に道庁告示により鬼脇村字ヤムナイ(清川)にも遊廓が設けられました。*1
利尻島郷土資料館の鬼脇市街略図*2 によると、橋を渡った先に遊廓がありましたが、ここからどのくらいの距離の場所にあったかは不明です。この道の先は行き止まりになっています。

清川の鬼脇中学校近く。ここから南側(この写真を撮った方向の逆方向)へ折れると鬼脇橋へ出ます。

鬼脇市街略図*2 に記載のあったヤムナイ橋「止内橋」へも行ってみました。

現在のヤムナイ橋は、鬼脇の市街から約1km離れた場所にあり、1枚目の写真の道の先に遊廓があったとは考えにくく、遊廓があった場所の詳細は不明です。

【参考文献】
*1 利尻富士町史編纂委員会:利尻富士町史(利尻富士町,1998)P.1358
【参考記事】
*2 風俗散歩(利尻):利尻島郷土資料館「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」
鬼脇は、利尻島のフェリーターミナルのある鴛泊(おしどまり)から、バスで約30分の場所にある町です。かつてはニシン漁で繁栄しました。
鬼脇の市街の中心部にある利尻島郷土資料館は、かつて鬼脇村役場だった歴史ある建物を利用した資料館です。

館内に地元の古老が記憶にもとづいて作成した「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」が展示されています。市街の中心部には、料亭が建ち並ぶ通りもあり、かつての繁栄が偲ばれます。

市街図によると、資料館(旧役場)の前の一つ南側の通りを西側へ進んで橋を渡った先に、遊廓があったようです。

遊廓手前の橋の下を流れる川を南へたどったところに、「ヤムナイ橋」の名が記されていますが、現在のヤムナイ橋は、ここから約1kmも離れた場所にある橋なので、この橋は鬼脇橋(鬼脇市街の東端に現存する橋)のことかもしれません。

今回は、利尻(北海道利尻郡)の町並みと風俗を散歩します。
利尻島へは、稚内からフェリーで110分です。

乗船してしばらくすると、前方に利尻岳の雄姿が望めます。

利尻岳の山肌が眼前に迫ってきます。

利尻島の玄関口「鴛泊(おしどまり)港」に到着。美しい「ペシ岬」が見えます。

現在の増毛港近くには、かつて入船町と呼ばわれた商船の貨物積込みの陸揚げ地点でした。

「入船町浜茶屋跡」の標柱が設置されています。

ここでは、船頭、船子を相手とした花街に類する営業が行われていました。

現在の益子港。

畠中町3~4丁目。かつての歓楽街に、スナックが散在しています。

ギャンブレル屋根のスナック。

スナックの看板を支える柱は木製です。

スナックもっちゃん。

遊廓があった畠中町4丁目。寿司屋の隣に、銭湯の増毛湯があります。

増毛湯は、昭和5年の市街図にも記載されています。

北海道らしい五角形のギャンブレル屋根の建物です。

現在は休業中のようです。

【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
増毛遊廓は、格式のある花街で、客が芸者と床を一緒にすることはありませんでした。花街跡として、松島見番と思われる建物*1 が残っています。

玄関付近。

増毛楼があった場所。*2

対角の場所には、藤見楼がありました。*2

【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.508-P.510
*2 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
畠中町4丁目。増毛の遊廓があった場所には、増毛町の史跡の標柱が設置されています。

明治15年、貸座敷料理店を開くため、裏町の町割りがされ、増毛新廓と名付けられました。

増毛市街案内図*1 によると、標柱が設定されている四つ角には、松嶋楼がありました。

遊廓や料亭、見番が建ち並んでいた通り。

【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
千石蔵は、日本最北の酒蔵として知られる國稀酒造が所有する蔵で、現在は、にしん船やにしんの資料の展示室になっています。

展示室の休憩コーナーに、増毛町市街案内図(昭和5年)*1 のコピーが展示されています。南が上向きで描かれています。

当時の繁華街だった畠中町3~4丁目界隈。交差点の角に遊廓の松嶋楼、その対角に、松島見番。松島見番の向かいに銭湯の増毛湯があります。通りを東側へ進むと、共立見番、金盛楼、石川楼、藤見楼、増毛楼があります。他にも料理屋と思わえる店が建ち並んでいたことがわかります。

もう一つ展示されているが、昭和30年の「増毛町市街明細図」。こちらは、北が上向きで描かれています。銭湯の増毛湯はそのままですが、遊廓は、割烹料理屋などに変わっています。

【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)
今回は、増毛(北海道増毛郡増毛町)の町並みと風俗を散歩します。増毛は、JR留萌線の終着駅の町です。
増毛の駅前には、古くからの町並みが残っています。

駅前で目を引くのは、駅舎と向かい合うようにして建っている昭和8年建築の「旅館 富田屋」です。2階と3階の全面には、ガラス張りの縁側があります。*1

富田屋の隣に建つ「風待食堂」は、雑貨屋だった「多田商店」の建物で、現在は、観光案内所として利用されています。「風待食堂」は、昭和56年に公開された映画「駅 STATION」で駅前食堂として登場したときの名残です。*1

「風待食堂」のはす向かいに並ぶ「海榮館」「増毛館」も昭和初期の面影をとどめている建物です。*1

【参考文献】
*1 渡辺一史:北の無人駅から(北海道新聞社,2011)P.469-P.470,P.486-P.489
浦河に遊廓が許可されたのは、明治30年。場所は常盤町の奥、ウロコベツ川の河畔にありました。このあたりは、当時の浦河市街地から考えれば、ちょうど奥座敷に当たる場所です。*1

昭和9年の浦河港大観*2 の附図「浦河町市街浦河港俯瞰図」に、田中楼と桃花楼の位置が記されています。

「浦河町市街浦河港俯瞰図」*2 によると、田中楼と桃花楼があった場所は、森林事務所の先、ウロコベツ川の流れが道路から離れ、再び道路に近づくあたりですので、このあたりかもしれません。

田中楼の建物は、一部二階建てで、客部屋は9つほどありました。これに楼主の茶の間や寝間、台所、風呂などが続き、上からみると口の字型につながっていました。昭和5年浦河港の完成は、浦河に未曾有の繁栄をもたらしましたが、浦河遊廓もその恩恵を十分に受けました。浦河の成人男性以上の男でここに足を踏み入れぬ者はありませんでした。*1

【参考文献】
*1 グルッペ21うらかわ:浦河百話(共同文化社,1992)P.396-P.401
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)
銭湯のえびす湯。

浜町の中心部にあります。

昭和40年頃は、住民だけでなく船で浦河港に入る漁師たちも来て、多い日には300人もの客を迎えて芋の子をあらうような混雑ぶりでした。*1

入口には、えびす様のタイル絵。

【参考文献】
*1 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.401
浦河市街にある映画館の大黒座。大正7年の創業です。*1

当時、浦河の最も一般向きな娯楽機関としては、大衆館、大黒屋の2館がありました。大衆館は松竹、新興キネマの製作品を上映、大黒座は日活系に属していました。*2

魚期市中の賑わう際は、ほどんど毎夜ぶっ通しの興行で、映画の他に地方民謡・レビュー、浪花節等の出し物を配合した興業でした。*2
様々な旅芸人一座が全国を回っていた時代、会場は、大黒座のような映画館でした。*3

小規模な映画館が存続にかかわる岐路に立たされている中、大黒座はデジタル映写機器を導入し営業を継続しています。*1

【参考URL】
*1 浦河大黒座 公式サイト
【参考文献】
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)P.53
*3 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続浦河百話(同文化社,2013)P.318-P.321
今回は、浦河(北海道 浦河郡浦河町)の町並みと風俗を散歩します。
浦河の浜町には、昔、料亭があって、歌や踊り、三味線、太鼓などで客を楽しませる芸者さんをたくさん抱えていました。*1
料亭(割烹)は、「若松」「海月」「藤本」「一力」「ぎおん」、カフエーは、「クロマツ」「若松」「大洋」「キング」「坊ちゃん」「アケミ」「銀座会館」「エリモ」「ミナト」「末広」「明月」「金星」「嬢ちゃん」「一二三家」「マスミ」「酒場殿様」「思い出」などがありました。*2

料亭「海月」があったあたり。*1
浦河の花柳界の殷賑を極めた理由の一つに、「若松」と「海月」がきっこうして互いに譲らなかったことがあげられます。*2

料亭「若松」があったあたり。*2

浜町通りの中心部の交差点。この付近にカフエー「坊ちゃん」がありました。*2

*1 石田明:街並に生きた人びと 昭和初期の浦河(石田明,1992)P.185-P.187
*2 小野寺信子,河村和美,髙田則雄,続浦河百話編集委員会:続 浦河百話(浦河町,2013)P.399-P.404
大通りに面した場所にあるホテル「叶屋」。大正14年の大日本職業別明細圖にも記載されている老舗旅館です。

この日は、工芸展が開催されていました。

裏口から見た旅館の外観。風格があります。

叶屋の手書き看板。

かつて料亭などが建ち並んでいた境川東側の通り。わずかに居酒屋やスナックなどが点在しています。

看板に書かれている「白菊」は、この通りのすぐ近くに蔵元がある地酒メーカーです。

「丸実チキン」。鶏肉店のようですが、店内にテーブルもあります。

「やきとり」の提灯。

今回は、茂木(栃木県芳賀郡茂木町)の町並みと風俗を散歩します。
大正14年の茂木町の市街図*1 によると、逆川の東側の役場周辺に、三河家、増村家、白井家、瓢家などの料亭がありました。

三河家があったと思われるあたり。

料理店のプレートが残っています。

逆川の西側の小学校の北側には、芸妓見番の他、新三河、住吉家、若船家、新若船、福本などの料亭がありました。*1
茂木芸妓見番株式会社は、大正10年に設立。大正12年1月「下野新聞」の謹賀新年の広告には、町内の料理屋の一覧が示されるなど、賑わいを見せました。*2

【参考文献】
*1 木谷賀:大日本職業別明細圖 栃木町・馬頭町・氏家町・烏山町・茂木町・益子町・真岡町・久下田町・壬生町・藤岡町・矢板町・鹿沼町・大田原町・西那須野・古峯原(東京交通社,1925)
*2 茂木町史編さん委員会:茂木町史 第6巻 通史編2(茂木町,2000)P.354-P.355
門前通りの東側。

モダンなデザインの建物があります。

入口のドアに「サ」「ウ」「ナ」の3文字。

2階部分の窓。洒落たデザインです。

門前通りを北側に入ったところに、スナックが密集した一画があります。

昭和を思わせるモダンなスナック店。両側の店舗とは建物がつながっています。

反対側から見たところ。

長屋風のスナック店。

今回は、真岡(栃木県真岡市)の町並みと風俗を散歩します。
真岡の警察署があった裏のあたりは、有名な芸者屋の町でした。*1
右に向かってゆるやかに曲がる道がありますが、ここが「門前」と呼ばれていた通りの入口です。

長蓮寺と般若寺の2つの寺院の門が通りに面していたので、門前の名で呼ばれるようになりました。*2

門前通りは、真岡の町が開かれる頃の道が残されている通りです。周囲の道路が東西と南北に通っている中で、門前通りだけは南西から東北にゆるやかなカーブを描いています。これは門前通りが計画通りではなく、自然の道であることを物語っています。*2

門前通りの奥まったあたりにあるスナック。

【参考文献】
*1 田村豊幸:栃木県真岡町のこと(近代文芸社,1982)P.58-P.63
*2 真岡市史編さん委員会:真岡市史案内 第5号(真岡市教育委員会,1986)P.74-P.79 「真岡の町、周辺の道路の変遷」
桜町3丁目の医院。交差点に面したところにあります。

駐車場の敷地の小さな池があって、そこに、小便小僧が立ってます。

この日は、水は出ていませんでした。

気持ちよさそうです。

明治42年発行の「土浦名勝案内」によると、「田町は粋人町として明治20年頃は花に酔い、柳に戯れる人の出入多かりし」あって、賑わいが続いていました。

阿弥陀堂周辺は、かつての盛り場でした。(町名由来柱の説明より)

田町は、水戸街道に沿い、南は堀を隔てて武家町である築地に接していて、田町川(築地川)及び北門に通じる水路があるので船頭達を客とする料亭や旅籠屋が発達しました。(町名由来柱の説明より)

阿弥陀堂の隣の古い飲食店の建物。かつての盛り場の名残かもしれません。

【参考文献】
*1 永山正,土浦市企画部広報課:土浦町内誌(土浦市教育委員会,1989)p.32-P.34
中城町は、土浦の代表的な町人町です。

中城町で一番古い伝説を持っているのは、天満宮です。

史料によると、天満宮では毎年3月11日から5日間、馬市(駒市)が開かれていました。駒市で金をつかんだ早速散在したとみえて、俗に食傷新道という花柳街が生まれて、明治の末に日進楼、霞月楼などが設けられる環境がつくられていました。*1

日進楼、霞月楼の名が刻まれた玉垣。

【参考文献】
*1 永山正,土浦市企画部広報課:土浦町内誌(土浦市教育委員会,1989)p.12-P.14
桜町の風俗街には、スナックなどの飲食店が混在しています。

大通りに面したスナック店。

ヘルス店隣の飲食店だったと思われる建物。

古い市街図が残っています。現在は無くなっている風俗店の店名が数多く確認できます。

今回は、土浦(茨城県土浦市)の町並みと風俗を散歩します。

JR土浦駅東口の階段下に白ポスト。箱の側面には、「伸びよう伸ばそう青少年」の標語。

白ポストは西口にはなく、東口だけにあります。

右側の箱の側面。

石岡駅前のカラオケスナックなどが入るビル。

「コンパニオン」、「仲居さん」と書かれた看板。

反対側の通路から見たところ。

よくみると、下に「募集」の文字。コンパニオン、仲居さんの募集看板でした。

石岡市国府2丁目の通り。

鈴の宮稲荷神社。

石岡民俗博物館の展示資料によると、石岡の遊廓「新地八軒」は鈴の宮稲荷神社の隣にありました。

金丸通り商店街。

石岡市街にある本浄寺。

ここに、天狗党幹部の小四朗が「おふくろ」と慕った女将のいくの墓があります。*1

紀州屋いくの墓。*1

墓石の風化が激しく、解読できません。

【参考文献】
*1 石岡市史編纂委員会:石岡の歴史 市制三十周年記念 (石岡市,1984)P.169-P.172
今回は、石岡(茨城県石岡市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の西のはずれにある石岡市立民俗資料館。

元治元年(1860年)、水戸藩内抗争から発展した天狗党は、筑波山に挙兵しますが、それより以前、石岡の遊廓「新地八軒」は、天狗党幹部の藤田小四朗や竹内百太郎の同志糾合のための足場となっていました。

新地八軒の見取り図。

とくに、妓楼紀州屋の女将いくは、小四朗から「おふくろ」と呼ばれ慕われていました。

北海道北見市美芳町7丁目にある銭湯の美好湯。サウナの看板が印象的です。

北国らしいビル銭湯です。

入口には、牛乳石鹸の暖簾。

銭湯の煙突。

北海道北見市北7条西4丁目の交差点。

カラオケスナックが入るプレハブ風の建物。

テレクラの看板。現在は休業中のようですが、看板だけが残っています。

別のカラオケスナック店の「グレース」の看板。

1969年に出来た飲食専用の「スカイビル」。

ビルの上部には、「B1キャバレー」の大看板。

現在、地下1階にキャバレーはありません。

看板だけが取り残されているようです。

1965年(昭和40年)に本格的に始まる北見市の中部地区土地区画整理事業の関係で、1966年(昭和41年)、稲荷神社付近の料理店が、同区画整理のため取り壊され、稲荷神社は5条から幸町に移転。稲荷神社跡は、現在のロータリーに姿を変えました。*1

1968年(昭和43年)、映画、ボウリング、料飲店街が入った娯楽センター「東宝ビル(4階建て)」が5条西2に完成しました。*1

翌1969(昭和44年 )、木造平屋建ての「稲荷小路」が料飲店ビルに集約(稲荷小路都市改造)、札幌以北では初という料飲店だけが入った「スカイビル」が5条西3にお目見えしました。*1

スカイビルに次いで、エイトビル、ユニオンビル、プラザジョイフルビルなど次々と料飲店テナントビルが誕生しました。*1
写真はエイトビル。

【参考文献】
*1 北海道社交飲食環境衛生同業組合:北海道社交飲食環境衛生同業組合北見大会記念誌(北海道社交飲食環境衛生同業組合,1996)P.83
戦後、市内の飲食店街は、市勢の発展とともに盛り返し、稲荷小路、銀座街、狸小路、稲荷仲店、千歳小路など、飲み屋小路(横丁)が誕生しました。

狸小路は、昭和29年、あけぼのマーケット跡にできた「狸小路」は、現在は「狸小路名店街」となっています。

横丁は、トンネル路地になって続いています。

反対側の入口。

【参考文献】
*1 北海道社交飲食環境衛生同業組合:北海道社交飲食環境衛生同業組合北見大会記念誌(北海道社交飲食環境衛生同業組合,1996)P.77-P.78
大正十年、野付牛(北見)の町は、ハッカと木材景気で沸き立ち、歓楽街も大へんにぎわっていました。そんななかで、明治42年創業の割烹「梅乃家」が十万円を投じて六百坪の大建築を落成しました。大正14年発行の「北海道及花街」によると、梅乃家は単に一流であるばかりでなく、「全道地名料理店番付」の小結の地位を占めていました。*1

梅乃家のゆかりの品として、幸町の稲荷神社拝殿前の灯籠があります。

その裏にこの灯籠を寄進した梅谷豊三郎と芸妓の桃太郎、萩子、千代香、小萩、茶目、富士丸などの名が辛うじて判読できます。

もう一つの灯籠。花月亭、大正亭などの名が判読できます。ピアソン記念館に展示されていた「野付牛明細圖(昭和4年発行)」*2 に記載されている料亭かもしれません。

【参考文献】
*1 清水昭典:ふるさとの歴史を訪ねて(北見市,1996)P.264-P.266
【参考記事】
*2 風俗散歩(北見):ピアソン記念館
今回は、北見(北海道北見市)の町並みと風俗を散歩します。
北見の歓楽街の北側(幸町7丁目)にあるピアソン記念館。

ピアソン宣教師夫妻は、1888年(明治21年)に来日、伝道をつづけました。北見では、略註付旧・新約聖書出版の偉業を成し遂げ、遊廓設置阻止に成功し、多くの婦女子を救いました。

婦人穚凡会記録には、遊廓設置に反対した記録が残されています。道内において開拓地遊廓が設置されたなかったのは、野付牛(北見)だけであり、これは北見市の誇りです。

ピアソン記念館内に展示されていた北見市街図。割烹「梅の家」があったこの一画は、北見の花街の中心でした。

江別市の歓楽街(5条5・6丁目)のはまなす温泉。

現在は、休業中のようです。

サウナ&ラドン。効能が多い温泉です。

油田型の煙突。

江別市の歓楽街は、5条5・6丁目にあります。

5条会館。

水色のタイルで装飾された雑居ビル。

スナック・パブ専用です。

江別市街の五条一丁目通り。写真の左奥に見える森は、王子製紙江別工場の敷地です。

昭和レトロな飲食街ビル。

昔ながらの横丁の雰囲気です。

密集する飲み屋の看板。

かつて遊廓があった六軒町にある理容室。

正面から見ると右側と左側に色分けされているように見えます。

上の写真の拡大写真。正面に屋号か記されて、右側半分が「理容院」。左側半分が「美容院」となっています。

左側の美容室部分の窓。タイルで装飾されています。

今回は、江別(北海道江別市)の町並みと風俗を散歩します。
江別の条丁目地区は、江別駅前から北西方面に位置し、東は千歳川、西は江別神社、南が函館本線、北は王子製紙に囲まれた母町(ぼちょう)と呼ばれる街区です。母町と呼ばれたのは、明治11年の開村以降、石狩川沿岸農村の消費都市として栄えた江別街区の発祥の地であったからです。明治30年代に入ると貸座敷(遊廓)や本格的な劇場・千歳座が開業し、昭和39年に着工の富士製紙江別工場(現王子製紙)の進出がこの街区の面貌を大きく変えました。*1
当時の市街地図*2*3 によると、遊廓(貸座敷)は、現在の江別市5条3丁目の一画にありました。

王子製紙の進出により、当初、郊外であった貸座敷地区は、人家のどまんなかになり、江別小学校の通学路に面し、妖女が太股を露わにしていました。*1

貸座敷は六軒で、千歳楼、寿楼、若竹楼、武蔵楼、栄楼、改進楼で、この一画を六軒町と呼びました。六軒町には料亭や飲み屋が軒を並べました。*1

五条4丁目と3丁目の間の通り。

【参考文献】
*1 藤倉 徹夫:えべつ百話 下(ユベオツ書房,2007)P.75-P.79
*2 江別市役所総務部:えべつの歴史=増刊号=(江別市,2005)P.13
*3 江別市役所総務部:えべつ昭和史(江別市,1995)P.833
深川の遊廓は、明治33年に開業し、またの名を佐藤遊廓といいました。
遊廓が廃止される頃(昭和30年頃)は、六条二番・三番に西岡楼、深川楼、全盛楼、鶴川楼、蛇の目楼、稲川楼、旭楼の計7楼がありました。*1
郷土史家の杉山四朗さんが、現地を訪れ「遊廓があった場所はこのあたり…」と想像してみた場所。*2

現在は、緑町公園になっています。

六条二番と三番の境界の道路。写真の左側は緑町公園。

六条三番に隣接する深川神社(写真右側)がある通り。

【参考文献】
*1 田輝海:写真集明治大正昭和深川(国書刊行会,1980)P.95
*2 杉山四郎:族・語り継ぐ民衆史(北海道出版企画センター,1997)P.300-P.301
深川市4条6の交差点。

昭和の雰囲気を残す理容室の建物です。

建物の側面のドア。

北空知料飲店組合のプレート。美容室の建物に飲食店が併設されていたようです。

深川市4条6にある居酒屋&スナック貝。

長屋風の建物の飲み屋。

深川市3条6の郵便局の隣にあるスナック「おれの店」。古い住宅地図*1 には「ニューハワイ」と記載されています。

すなっく「おれの店」の看板。

【参考文献】
*1 深川市街戸別明細図(北海道立図書館所蔵)