加古川町本町の国道2号線近く。
金沢牛乳の牛乳箱があります。
兵庫牛乳の牛乳箱。
二世帯住宅でしょうか。2つある玄関にそれぞれ牛乳箱が取り付けられています。
加古川町本町の国道2号線近く。
金沢牛乳の牛乳箱があります。
兵庫牛乳の牛乳箱。
二世帯住宅でしょうか。2つある玄関にそれぞれ牛乳箱が取り付けられています。
検番筋の東側の駐車場。駐車場と言えば犬糞看板です。
「愛犬のウンチ気になりませんか。」と優しく問いかける看板です。
木造母屋に取り付けられた立小便禁止看板。
本町二丁目の公園にある看板。「ボクのウンチ気になります。」と、犬の立場からコメントされています。
国道から路地を少し入ったところにある銭湯があります。
現在は休業中のようです。
友栄湯。旧町名の友栄町にちなんだ名前だと思われます。
銭湯の裏側は、長屋が連なる路地になっています。
加古川駅前の大通りと国道2号線が交差した角に、松月旅館があります。周囲には広い道路ができて開発が進んでいますが、昔ながらの風情を保っています。
側面から見ると、奥行のある建物であることがわかります。
入口には、白い質素な暖簾があります。
裏通りにも入口があります。
ベルデモール街の裏の細い路地。長屋の建物は駐輪場として活用されています。
飲食店の建物の裏側にあたります。
折りたたまれた梯子がある建物。
どのようにして使われていたのでしょうか。不思議な光景です。
検番筋から路地を入るとスナックが建ち並ぶ一画があります。
紫色が鮮やかなスナックの建物。
玉屋という屋号の店。
風情のある路地。
加古川の検番筋に「みどり旅館」があります。
1階はうなぎ屋になっています。屋号は旅館と同じ「うなぎのみどり」です。
レトロな看板。
旅館脇の路地は、検番筋を横切ってずっと続いています。
今回は、加古川(兵庫県加古川市)の町並みと風俗を散歩します。
駅前のベルデモール街から寺家町通りを西に向かって、一筋目の北行き道路を通称「検番筋」と呼んでいます。昭和32、3年頃までは、ダンスホールやバー・キャバレーに飲食店等がひしめく、加古川町内の一大歓楽街でした。当時を偲ぶ場所を探すとすれば、スナックが集合するビアンテビル周辺の路地裏に、その名残が僅かに見られます。*1
ビアンテビルには、多数のスナック店が入居しています。
ビアンテビルの対面には、風情のある割烹料理店の建物があります。
加古川芸妓共同事務所があったと思われるあたり。*2
この付近が検番筋と呼ばれていたのだと思います。
検番筋の周辺は、現在も飲食店が集しています。
【参考文献】
*1 新・かこがわ事典編集委員会:新・かこがわ事典(神戸新聞総合出版センター,2006)P.102-P.103
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 加古川
高砂町細工町の民家。
側面開閉型の牛乳箱だったのでしょう。蓋の部分が無くなっています。
宝梅園牛乳。
全国牛乳処理工場名簿(全国乳業年鑑・昭和37年版)には、宝梅園農場株式会社(宝塚市小林町)の記載があり、宝梅園は現在の宝塚市にあった梅園でした。
側面開閉型の牛乳箱なので上蓋はきっちりと閉じられています。
高砂遊廓は、明治の初年頃に私娼が変化して遊廓になったもので、貸座敷が5軒(初開楼、高砂楼、相生楼、松鶴楼、陽気楼)ありました。*1
大日本職業別明細図*2 に記載されている「相生楼」があったあたり。
高砂センター街の南側。
このあたりに高砂芸妓組合事務所がありました。*2
さらに南側には、高砂町料理組合事務所がありました。*2
高砂貸座敷業組合があったあたり。*2
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.128 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 高砂町
高砂センター商店街近くの旧次郎助町に稲荷神社があります。
稲荷神社に次郎助町の案内看板があります。次郎助町(じろうすけまち)は、かつては遊廓やお茶屋で賑わい栄えた花街でした。
玉垣には、「高砂芸妓組合事務所」と刻まれています。
「高砂料理組合事務所」の名もあります。
高砂町の中心部に、入口に「高砂センター街」と書かれた看板のあるアーケードがあります。
アーチ部分は、明るい黄色で覆われていて、生鮮食料品店などが営業している活気のある商店街です。
店の上部にはレトロな看板が残されていて、歴史を感じさせます。
反対側のアーケードの入口。「次郎助町センター」と書かれています。
旧国鉄高砂線の線路跡沿いを行くと銭湯の梅ヶ枝湯があります。モルタル造りの銭湯です。
建物の裏側は圧巻です。木造建築でありながら、煙突は重厚なレンガ造りで、増改築を繰り返した結果、3階建ての建物になっています。
夜になると、大きな暖簾が出ます。
木製のロッカー。
高砂駅の駅ビルの裏側の旧国鉄高砂線の跡地が緩やかなカーブを描いて続いています。現在は、駐輪場になっています。
表側から見ると2階建てに見えた建物は3階建ての奥行の狭い建物です。
絵に描いたようなトタンの芸術。
錆びついた階段が、いい味を出しています。
今回は、高砂(兵庫県高砂市)の町並みと風俗を散歩します。
結婚式やめでたいとき謡われる、「たかさごやこの浦舟に帆を上げて・・」ではじまる謡曲「高砂」の発祥の地である高砂市では、昭和63年7月にブライダル都市宣言を行いました。*1
駅ビルは曲線を描いています。このビルの後方(現在は駐輪場)には、かつて国鉄高砂線の線路が曲線を描いて通っていました。
ブライダル都市らしく、駅前の古いビルには、高砂良縁センターの看板があります。
ビルの脇に橋のように見える遺構があります。水路がビルの下を流れていたのか、それとも、ここに何かの洗い場があって、それと道路を隔てるためのものでしょうか。
【参考文献】
*1 高砂市:ホームページ「ブライダル都市」
JR蒲田駅東口の中央通りは、飲食店が建ち並ぶ繁華街です。
「エステ」の大看板。
高級感があります。
隣の通りのアカスリ店。
エステの店舗が密集しています。
柳通りには、多数のラブホテルも立地しています。
53年もの長きの間、営業してきた老舗ホテルも廃業しました。
モダンな曲線のデザインのホテル。表玄関には、「駅前再開発事業施行地区」を示す看板が取り付けられています。
裏玄関。路地の表側と裏側でそれぞれ玄関を持っているのが、柳通りのラブホテルの特徴です。
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
京急蒲田駅前の歓楽街「柳通り」。
京急蒲田駅前の一画は再開発計画が進んでいます。
道の両側にスナックが建ち並んでいますが、現在は閉店している店舗が多いようです。
「御自由にどうぞ」と書かれた貼り紙(写真左下)とともに、LPレコードが路上に並べられていました。
吉祥寺の南口から井の頭公園にかけての界隈には、「旅荘」が多くありました。*1
現在は、閑静な住宅街ですが、当時の名残と思われる旅館があります。裏口は塀で囲まれています。
井の頭公園の東側にあるひょうたん橋から坂を上がったあたりにも、旅荘がありました。昭和40代の旅荘は、現在のファッションホテルとは異なり、一見料理屋風の建物でした。写真の左側に旅荘「利根川」、右側に旅荘「安楽」がありました。*1
旅荘「安楽」があった通り。
【参考文献】
*1 土屋恂:吉祥寺消えた街角(河出書房新社,2004)P.103,P.106
吉祥寺駅から井の頭公園へ向かう坂道。
坂を下りきったところに、風情のある旅荘があります。
旅荘の裏側のお客様入口。
昭和初期の雰囲気を伝える佇まいです。
ハモニカ横丁は、右から「仲見世通り商店街」「中央通り商店街」「朝日通り商店街」と続き、最後に通りのサインのない「祥和会」と続きます。ただし、この「祥和会」の一部は、かつては小さな飲み屋が連なっていた横丁だったことから、「のれん小路」と称して、今のそのサインは残されたままです。*1
「のれん小路」の飲み屋連店は、新宿東口の和田組マーケットの建て方を参考にしているように見受けられます。間口一間、奥行1.5間の簡易なバラックは、L字型のカウンターの中におかみさんやご主人が一人入り、客は4~5人程度が座るサイズでした。*1
飲み屋が連なっていた頃の雰囲気が残っています。
「のれん小路」 と中央の通りが交差するあたり。
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.35-P.36
吉祥寺駅前のハモニカ横丁は、終戦直後の闇市の姿がそのまま残っている横丁です。
漬物屋の清水屋がある通り。
鮮魚店もあります。
ハモニカ横丁の周囲を高いビルが取り囲んでいます。
「近鉄裏」がピンクゾーンというレッテルを貼られるのは、近鉄百貨店ができた1974年頃からで、たった1年間の間にピンクサロンが50軒ほど出現し、呼び込みが道をふさぎました。やがてその存在はl世界中に発信されるようになり、成田から「近鉄裏」に直行する外国人も増え、「近鉄裏」は世界のアンダーワルドの一つに数えられるようになりました*1
このような状況に対処するため、行政側では武蔵野市の土屋市長が先頭に立ち、ピンクゾーンに近接した所に図書館を設ける計画が実行されました。図書館から200メートルの範囲では、風俗営業ができないためです。*1
図書館のある通りには、客引き禁止の看板が建てられいます。
飲食店脇の客引き禁止看板。
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.91,P.101
近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)の東側は、いわゆる「近鉄裏」と呼ばれるピンク街でした。
現在、近鉄裏のピンク街があった場所のほとんどは空地となり、銭湯の「よろづ湯」だけがぽつんと1軒営業中です。
昭和の雰囲気を今に伝える銭湯です。
高いビルに囲まれた銭湯の煙突。
吉祥寺の近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)裏には、1960年代の再開発以前の時期から社交飲食店が集積していました。その姿は、「本町ビル飲食店街」という飲み屋横丁にみることができます。、「本町ビル飲食店街」の看板の下には、ビルの1階部分に通路をとった横丁が続いています。*1
奥行のある飲み屋横丁。
横丁の向こう側には、小路をはさんでさらに次のビルも同じように横丁が続いています。
向こう側のビルから本町ビル飲食店街を見たところ。
建物と建物を貫通してできた20世紀初頭のパリのパサージュ(路地)と仕組みは同じです。*1
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.82-P.94
忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)にあった貸座敷は、忠海港に隣接する海岸脇の川下(かわしも)地区へ移転しました。
元旅館の建物。裏側から見ると大きさが実感できます。
海寄りの長屋の建物。
「川下」の名の残る電柱番号札。
今回は、忠海(広島県竹原市)の町並みと風俗を散歩します。
忠海は、竹原市の東に位置し、瀬戸内海を結ぶ重要な港として発展しました。忠海駅前には、江戸時代の面影を残す商家が残っています。
明治17年示達の貸座敷営業許可地に、忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)が指定されましたが、街中であったため、川下地区へ移転となりました。
旅館の建物。
スナックが1軒あります。
明治30年、市街地の北部に後の朝日遊廓に発展する貸座敷の免許地指定されました。朝日遊廓の初期の営業者数は、12軒でしたが、日清・日露戦争後の明治43年には58軒と、十数年で5倍近くに増加しました。*1
写真のこのあたりには、遊廓の表門がありました。*2*3
裏門があったあたり。*2*3
遊廓の中心部。現在は病院が建っています。
遊廓の西側の通り。*2*3
【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 呉市史編さん室:呉・戦災と復興(呉市,1997)付図「呉市街地復元図(昭和16年当時)」
*3 池田幸重:呉案内記(田島商店,1907)P.104
中通の歓楽街は、れんが通りと直行する数本の細街路で形成されています。麗女通の北東側には「有楽街」と名付けられたエリアがあって、ここにはスナックやキャバレーが密集しています。
今では珍しくなったグランドキャバレー。
夜になると艶めかしい雰囲気になります。
夜の有楽街。
今回は、呉(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。
呉市は、明治後期を通じて軍港を有する都市としての性格を強めつつ都市化が進みました。「麗女通」と名付けられた通りは、「夜の歓楽郷」と呼ばれた「中通」のなかでも「カフェー喫茶店街」を形づくっていた通りで、作家の菊池寛が遊んだことでも知られています。*1
「麗女通」は「うるめどおり」と読みます。
軍港内にあった麗女(うるめ)島にちなんで名付けられました。1
麗女(うるめ)島は、神話に登場する市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、紫式部(源氏物語の著者)、弁天様(七福神の一つで海辺や水辺にまつられる美しい女神)などのうるわしい女性がかかわり持った島で、このことが、「うるめ島」の地名の由来であるとされています。2
現在は、海上保安大学校の沖合に、大麗女島と小麗女島があります。
現在の麗女通は風俗店や飲食店が密集する歓楽街の中心地になっています。
麗女通はれんが通りと交差し、東側へ続いています。
【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 久保田利數:川原石ものがたり(呉尚古の会,1972)P.1-P.10
音戸町遊廓の南端に、開廓記念碑があります。遊廓が開設されたことを記念した碑が建っているのは、珍しいケースと言えます。
台座には、遊廓開設者の名前が刻まれています。
明治四十年開廓と彫られています。
開廓記念碑は、遊廓のメインストリートを見つめるようにして建っています。
音戸町は、関西における六大港の一つだったため、遊女も昔からいましたが、音戸町遊廓ができたのでは、明治38年で、貸座敷8軒、娼妓85人の規模でした。*1
音戸町鰯浜の通りから、北側へ入ったところが遊廓への入口です。
遊廓があった通りの突当りには、芝居小屋の音戸座がありましたが、現在は跡形もありません。平成16年頃までは、写真右手前のあたりに名残のある古い民家がありましたが、現在は無くなっています。*2
逆方向から見たところ。
高台に登ると、瀬戸内の海と音戸大橋が見渡せます(写真右手前が音戸町遊廓)。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.135-P.436 「全国遊廓案内」
*2 千田武志:呉・江田島今昔写真帖(郷土出版社,2004)P.64
古い町並みが残る音戸町鰯浜。
レトロな銭湯があります。
「桜湯」と書かれた京行燈。
建物の下部は、煉瓦造りです。
今回は、倉橋島(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。倉橋島は、呉市の南方の瀬戸内海に浮かぶ島で、呉とは音戸大橋でつながっています。
音戸町鰯浜には、古い町並みが残っています。(写真奥に見えるのは、音戸大橋のループ式の取付道路です)
音戸大橋西詰近くに、元アイドル歌手の城みちるさんの生家の城谷本店があります。*1
丸型の郵便ポストが映える美しい民家です。
城みちるさんは、1973年12月、「イルカに乗った少年」でデビューし、甘い歌声とマスクでいちやくスターダムにのぼり、翌年にはレコード大賞新人賞をとりました。3年後の20歳のときに、父親の家業の電器屋を継ぐために、突然、芸能界を引退しましたが、その後、芸能界への復帰を果たし、現在も歌手・タレントとして活躍されています。*1*2*3
【参考文献】
*1 週刊明星(1976.9.12)P.173-P.174 「ヤングアイドル城みちる引退の陰に秘められた伊藤咲子との交際」
*2 週刊平凡(1976.9)P.38-P.39 「城みちるが突然、歌手の座を捨て引退」
*3 週刊平凡(1986.3)P.108-P.109 「『イルカにのった少年』から12年 あの城みちるが電気店主を捨て芸能界復帰へ」
登富町商店街近くの美容室。自転車置き場の看板の脇に牛乳箱があります。
通津牛乳の牛乳箱。通津は岩国市の町名です。牛乳箱には子供の顔が描かれています。
岩国駅前の旧10番町バー街の近く。
カミムラ牛乳の牛乳箱。「牛乳は美と健康のカップル」です。
岩国のローカル新聞である「興風時報」の記事によると、岩国では登富町界隈に遊廓があって、大正末までに8軒ほどの貸座敷がありました。日中戦争が始まる頃になると、帝人や東洋紡などの大工場の操業もあって、岩国の町は景気が良く、遊廓は賑わっていました。*1
登富町商店街の奥まったあたりには、古い町並みが残されています。
氷屋さんのあるあたり。
旧町名「新地」の看板があります。
【参考文献】
*1 藤目ゆき:女性史からみた岩国米軍基地(ひろしま女性学研究所,2010)P.22
岩国の錦帯橋の近くの岩国二丁目に、登富町商店街と呼ばれるレトロな商店街があります。
商店が建ち並んでいた頃の案内板。
現在は、静かな商店街です。
反対側のアーチ。岩国市小売市場と呼ばれていたようです。
岩国の下川地区は、基地の影響を大きく受けた地域で、看板がアルファベットで書かれた商店が米軍基地の正門まで続いています。
基地正門前の通り。
洋服屋は特に、アルファベットで書かれた商店が目立ちます。
パブ・スナックが建ち並ぶ一画。
【参考文献】
*1 宮田伊津美:岩国・柳井今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.23
駅前横丁の中ほどのあたりにあるキャバレー(タレントパブ)。
入口の脇に「岩国初!!初来日」の看板。
建物側面には、自販機が2台あります。
自販機と同じ赤色の掲示板に店内の写真が掲載されています。
駅前横丁の西側に続く通りは、岩国の歓楽街の中心です。
外国人パブなどを中心に、スナックや飲食店が建ち並びます。
中国美人の店。入口の上部には自動車のオブジェ。
アルファベットで書かれた看板で飾られたスナック店。
岩国駅前に、「10番町」と呼ばれていたバー街がありました。
かつてのバー街は、現在は長屋風の住宅地に変貌しています。
わずかにバー街の痕跡が残っています。
一つ奥の通り。スナックの看板が一つだけ残っていました。
【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.208-P.213
今回は、岩国(山口県岩国市)の町並みと風俗を散歩します。
JR岩国駅前のバス停脇に、白ポストがあります。
金属製で重厚感のある箱で、際立った存在になっています。
その存在感のためか、鳩の糞の張り紙の貼り場所ともなっていいます。
箱の側面には、頑丈な鍵が取り付けられています。
糸崎港に面した遊廓跡の裏手には、古い町並みが残っています。
海辺近くの町並み。
壊れた母屋がそのままの状態で放置されていました。
医院だった建物。糸崎遊廓の検梅は、尾道遊廓の駆梅院からの出張検梅でした。*1
【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324
今回は、糸崎(広島県三原市)の町並みと風俗を散歩します。
糸崎は、JR山陽線の駅でいうと、新幹線が停車する三原駅の隣の駅です。駅から徒歩10分ほどの距離にある糸崎港は、古くからの良港で、港の東側の松浜には遊廓がありました。
海辺側からみた松浜遊廓跡。各遊廓は、L字型、ロの字型とさまざまな間取りがありましたが、1階は台所、炊事場、風呂などがあり、2階は娼芸妓(ベッピンさん)の部屋でした。*1
木江や御手洗と同様に糸崎にもチョロ(遊女が小船に乗って船員が寝泊まりする船に出稼ぎに行きましたが、その小船をチョロといいました。)がありました。*1
当時の雰囲気が残る古い建物が連なっています。
【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324
姫路駅前広場の再開発に伴い、駅の横断通路も改装中です。
商店街の通路脇に白ポストが設置されています。
水色の文字で描かれています。
紋章が描かれている白ポストは珍しいと思います。厳格な印象を受けます。
野里の商店街の南端に位置する「野里銀座商店街」。
看板には、「いつも楽しいお買い物センター」と書かれてして、楽しそうな雰囲気です。
この日は土曜日だったためか、シャッター通りと化しています。
魚屋さんが1軒だけ営業中です。
野里商店街は、梅ヶ枝町の南側に南北に連なる商店街です。
歴史ある商店街には、古い建物が残っています。
古いたばこ屋さん。
「こばた」と読んでしまいそうな看板。
今回は、姫路(兵庫県姫路市)の街並みと風俗を散歩します。
姫路市梅ヶ枝町には、かつて遊廓がありました。*1
1920年発行の「姫路市新地図」*2 の梅ケ枝町付近には、「遊廓」の文字が記されています。
貸座敷が11軒あったそうですが、現在は住宅地になっています。
古い建物も何軒かあります。
奥行のある木造の母屋。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌14(三一書房,1993)P.128 「全国遊廓案内」
*2 大淵善吉:姫路市新地図(駸々堂旅行案内部,1920)
明石駅前の商店街から路地を入ったところに、木造建築の写真館があります。
玄関部分はタイルで装飾されています。
色鮮やかなタイル。
路地はコの字方型になっていて、再び商店街に出ます。写真奥は魚の棚商店街です。
明石駅前の桜町には、高度成長期に、旅館、スタンド、スナック、バー、そしてキャバレーなどが集まって一大「社交街」を形成しました。*1
現在は、居酒屋やスナック店などが営業しています。
「花街ビル」という名前のビルもあります。
「銀座横丁」、「さくら小路」、「白雲通り」などの通りや小路が連なっています。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38111
高層マンションが建ち並ぶなか、かつての遊廓であった建物があります。
昭和30年代に貸座敷から旅館に転用され、その後、住宅に転用されたものです。*1
歴史を感じさせる木造の建物です。
1階部分の格子には、遊廓建築の特徴が残されています。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38
今回は、明石(兵庫県明石市)の町並みと風俗を散歩します。
JR明石駅を下車し、南側のフェリー乗り場の方へ向かって歩くと、錦江橋(きんこうばし)があります。
明石港に面した出島状の中崎には、江戸時代、お茶屋があって風光明媚な場所であったようです。
中崎には、戦前は遊廓があって14の楼が「明石貸座敷業組合」をつくっていましたが、戦後は赤線に移行しました。*1
電柱のプレートには、「シンチ」と書かれています。
1958年の売防法施行後、貸座敷の多くは旅館などに転業したほか。大規模なヘルスセンター、ボーリング場、ローラースケート場ができるなど、新たなスタートをきりましたが、現在はマンションが立地する住宅地に変貌しました。ヘルスセンターの廃墟は2000年に取り壊され、「明石海浜ヘルスセンター」の名にちなんだ「ヘルス明海」という駐車場になりました。*1
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38
津山市街の中心部に、古い木造の建物があります。
看板に「西村旅館」と書かれています。
重厚な木造建築です。
細長い煙突。煙突の下部に「火口用」と書かれています。
東新町の「大曲り」(道が鍵型に曲がっている場所)。
軒下に中元牛乳の牛乳箱があります。
津山駅前近くの寂れた感じの商店街。
ケンコウ牛乳の牛乳箱。金太郎のマークが印象的です。
保存地区に指定されている東新町の町並み。
古い銭湯の建物が残っています。
壁面に「福寿湯」と書かれています。
銭湯の脇の小路。
東新町は、出雲街道の中でも、近世、最も栄えていました。
旧天神橋袂の吉井川には船着場があり、船が着くと多くの下船客のために便所がいっぱいになるほど繁盛しました。*1
東新町には、肥後屋、若狭屋、高尾屋、松本屋などの屋号の船宿があって、船宿では料理を出し、性的な待合機能もありました。*1
旧天神橋から東新町へ向かう途中の道。
【参考文献】
*1 森栗茂一:河原町の歴史と都市民俗学(明石書店,2003)P.396-P.397
津山遊廓があった通り(写真奥は津山城址)。
通りに面して木造のスナックの建物があります。
現在は、営業していないようです。
スタンド「ひとみ」の看板。清酒「加茂五葉」は津山の地酒です。
津山市の宮川大橋の袂にある材木町には、江戸時代、(騎射の稽古のための)追廻馬場がありました。
明治維新後、市中においてみだりに芸妓を引き寄せる者があり、風紀が乱れ弊害が出ていたことから、明治4年、津山藩庁は、追廻馬場を集娼地と決め、追廻は後の津山遊廓へと発展しました。*1*2
津山遊廓跡地(「近代岡山の女たち」*2に掲載されている写真と同じアングル)。
付近には、古い建物も残っています。
本琳寺(写真奥)近くの通り。
【参考文献】
*1 津山市史編さん委員会:津山市史(津山市,1974.)P.149-P.152
*2 岡山女性史研究会:近代岡山の女たち(三省堂,1987)P.268-P.280
本琳寺境内に、昭和3年に建立された遊女の供養塔があります。*1
津山遊廓組合事務所の名が読み取れます。
供養塔には、津山遊廓の沿革が記されています。
灯籠に、仲居一同と彫られています。
【参考文献】
*1 津山市史編さん委員会:津山市史(津山市,1974.)P.149-P.152
今回は、津山(岡山県津山市)の町並みと風俗を散歩します。
県北に位置する津山市は、17世紀につくられた城下町です。市街の西側に本琳寺があります。
本琳寺の前に、かつての津山遊廓の入口であった思案橋があります。
かなり風化が進んでいますが、「思案橋」と読み取れます。
遊廓は、思案橋の東側(写真の右奥)にありました。
階段を上ると、湯原観光劇場の入口です。
ロビーの天井には、飾り付けがされています。
ショーが行われていた舞台。
当時の生々しい様子がそのまま残されています。
湯原温泉の北東側の道を進みます。
赤と白の縞模様に塗装された「湯原観光劇場」の建物。
「湯原観光劇場」の看板。
入口の階段。
今回は、湯原温泉(岡山県真庭市)の町並みと風俗を散歩します。
湯原温泉は、JR姫新線、中国勝山駅からバスで1時間、中国山脈の山ふところ、旭川の上流にある温泉郷です。
温泉郷の北西側は旅館街で、昔ながらの射的もあります。
湯原温泉の宿泊者数は、昭和40年代にピークを迎え、狭い温泉街の中に飲食店やスナックなどが20軒程、ストリップ小屋が12軒と言った様相でした。芸者の置屋や検番も多く、芸者数は120名を越えたこともあり、夕刻ともなると旅館のお座敷に向かう芸者衆の艶姿が温泉街の風情を盛り上げました。*1
案内板には、ストリップ劇場だった湯原観光劇場が記載されています。
北東側の町並み。
【参考URL】
*1 プチホテルゆばらリゾートホームページ「湯原温泉の近代史」
温泉街には、接客サービスに携わる人が多いことから、あちこちに理容室や美容室があります。
手作り感のある理容室の看板。大きな看板なので目立っています。
居酒屋などが入居している建物。
建物の1階正面は、レトロな美容室です。
温泉街の中心部のニュー福桝ホテルがあるあたり。
ストリップ劇場だった「東洋ショー劇場」の建物が残っています。
入口の看板だけが残されています。
かつては、軒下にさまざまな装飾が施されていたのだと思います。
湯郷温泉の表通りは、レジャー施設中心の家族的雰囲気ですが、温泉街の中心部には、居酒屋やスナックが点在し、大人の雰囲気です。
和風の建物のスナック。昔の温泉街の面影を残しています。
夜の動物園。
ナイトシアターもあります。
今回は、湯郷(ゆのごう)温泉(岡山県真庭市)の町並みと風俗を散歩します。
湯郷温泉は、湯原温泉、奥津温泉とともに美作三湯と呼ばれています。JR姫新線の林野駅から吉野川沿いに進むと、湯郷温泉の入口です。
湯郷温泉は、古くは湯治客温泉として栄え、共同浴場の庶民的ムードでしたが、中国自動車道の開通により拡大戦略をとったために、一時期は遊興色が強くなりましたが、現在は、「家族で楽しめる温泉街」を通しての街づくりを推進しています。
温泉街には、ボーリング場、パチンコ店などのレジャー施設が点在しています。
温泉街の中心部。レトロな雰囲気も残っています。
桑名駅前の錦通り。スナックや風俗店が集まる繁華街です。
3階建ての共同ビルが両側に並んでいます。1階に居酒屋やスナックが入居し、2~3階は事務所か居住スペースになっているようです。
密集するスナックの看板。
稲荷神社もあります。
当番表。
遊廓があった本町の北側に、料亭の「船津屋」があります。
「船津屋」は、泉鏡花の小説「歌行燈」の舞台ともなった料亭で、格式の高い料理旅館でした。
歌行燈の碑が建てられています。
「船津屋」の隣にある 料理旅館「山月」は、かつての桑名宿の脇本陣でした。
大日本商業別明細図*1 によると、このあたりは、桑名貸座敷組合があった場所ですが、現在は花街の名残と思われる料理屋が点在しています。
貸座敷組合の南側には、芸妓組合がありました。*1
昭和12年の大桑名案内*2 には、桑名廓案内の項があって、江戸町「東洋軒」の名があります。
現在もこの付近は江戸町と呼ばれています。
西側の通りにある割烹料理店。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「桑名町 西桑名町」
*2 山田林平:大桑名案内(山田林平,1937)P.108
今回は、桑名(三重県桑名市)の町並みと風俗を散歩します。
桑名の遊廓は、本町通りにありました。
(写真は、「遊女物語」*1 に掲載されている写真と同じアングル)。
現在もスナックや料理屋が点在していて、かつての遊里の雰囲気が残っています。
東側の通り(川口町)。
ところどころに、タイルで装飾された建物があり、花街らしい雰囲気です。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.173
大門町商店街の空地。駐車場として使われているようです。
「犬のフンをさせるな」と書かれた看板が立て掛けてあります。
側溝の蓋か何かで使われる鉄板を活用した看板です。とても重厚感があります。
手作り感のある木製の鳥居。
大門町の繁華街の中心部にモダンな近代建築が残されています。
この建物は、昭和11年に大門百貨店として建てられた4階建ての本格的な鉄筋コンクリートのビルで、戦災でも焼け残り、そのまま大門百貨店として営業を再開しました。その後昭和30年に「松菱百貨店」、昭和38年にパチンコ店となりました。*1
現在も1階にパチンコ店が営業中ですが、2階より上は、スチームセンター(サウナ)となっていた時期があったようです。
モダンな建物の外観。往時の頑丈な姿を残しています。
屋上部分には、展望台のような施設があります。
【参考文献】
*1 (株)まちづくり津夢時風:津の街なか案内((株)まちづくり津夢時風)P.29
大門商店街の2階と3階は居住スペースになっています。
2階から3階への階段。
3階からさらにその上にも階段が続いています。
屋上の上にも小さなな部屋が作られています。
大門商店街は、中央の商店街のアーケードとその両側(南北)の飲食店街で構成されています。
北通りの飲食店街は、東西に入口があります。
北通りの飲食店街。
居酒屋やスナックが密集しています。
南通りの飲食店街。2階の居住スペースへつながる階段があります。
今回は、津(三重県津市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代から第二次世界大戦末期の昭和20年7月の津大空襲により、旧市街地全てが焼き尽くされるまで津観音を中心とした一帯は津の商業の拠点として栄え呉服屋をはじめ、一流の店が軒を連ねていました。戦後、大門商店街は復興し、昭和30年頃には、賑わいを見せていました。*1
大門商店街のアーケードの北側に、商業ビルが隣接しています。
このビルは、1階が飲食店、2~3階が居住スペースとなっている長屋型の商店街協同建築で、昭和31年に、津市大門商店街商業協同組合によって建てられました。
建物の奥行は、東西約70mぐらいの大規模なものです。1階部分は、スナックや居酒屋が集中する飲食店街になっています。
【参考URL】
*1 三重ふるさと新聞 大門商店街
不忍池の中の島の北側に、小さい聖天島があります。*1
ここに「ひげ地蔵」と呼ばれる地蔵があります。「ひげ地蔵」は、島に西側に西面して建っていて、前から見ると杖を持ち、マントを羽織っています。12
この土地がもと藤堂家のもので、この像とほぼ同形の役行者像が、染井にある藤堂家の所有地(現在は赤塚山慶学院乗蓮寺)にあったことから、この像は、山岳宗教の修験道の役行者(えんのぎょうじゃ)とみることができます。*1
聖天島の東側には橋が架かっていますが、中に入ることはできません。
ここから、「ひげ地蔵」の背面を見ることができます。「ひげ地蔵」は、後ろから見るとそのマントは亀頭になり、どう見ても男根そのものです。
日本人はもともと性におおらかなで、その国民性を表している石像としては、道祖神が有名ですが、その道祖神のエロスと生殖の象徴性が地蔵へと転写されたものと考えられます。*2
【参考文献】
*1 原浩三:性神探訪(八重岳書房,1970)P.82-P.84
*2 ウィリアム・R.ラフルーア:水子(青木書店,2006)P.160-P.164
不忍池は、江戸時代、有数の出会い茶屋の密集地帯でした。*1
「江戸名所図会」の「不ばずの池、中島弁財天社」や歌川広重「名所江戸百景」の「上野清水堂不忍ノ池」を見ると、池の中央部に中島が築かれ、中島のまわりを、水面に突き出すようにびっしりと建物が取り囲んでいますが、これらはすべて茶屋で、そのうちの何軒かは出会茶屋でした。*1
このあたりにも、かつては茶屋が並んでいたのだと思います。
現在の池畔には観光客向けの茶店が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 永井義男:江戸の下半身事情(祥伝社,2008)P.32
上野公園にある五条天神社。不忍池がすぐそばにあります。
大きな奉納額(大正十五年と記されています。)
奉納額の右側のほとんどは、待合の店名です。
江戸時代から明治時代にかけて、不忍池畔には、待合茶屋がありました。「東京新繁盛記」には、「名はすなわち茶店にして、その実はみずから酒肉を売るものあり。これを呼んで酔茶店と謂うもまた可なり。あるいは妓と客とを宿し、比翼の枕を貸すものあり。」との記述があり、こうした宿泊は、明治8年頃から盛んになりました。*1
左側には、見番や料理屋の名が書かれています。
【参考文献】
*1 遠藤鎮雄:百年前の東京風俗探訪(学芸書林,1976)P.78-P.79
今回は上野(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
上野駅不忍口前は、昭和雰囲気を色濃く残している場所です。
「上野オオクラ劇場」。”ADULT MOVIES”の看板が目立っています。
現在は、新館に移転しています。
「毎日オールナイト」の看板。
尾久から田端駅へ向かう途中(東田端1丁目)に東灌森稲荷神社(とうかんもりいなりじんじゃ)があります。
案内板によると、手水台は、新吉原の関係者が奉納したもので、手水台の裏面に寄進者の名前がきざまれているそうです。
手水台の裏面を見ると、「新吉原仲町…」と書かれているのが、かろうじて判読できます。
鳥居の柱部分には、「新吉原江戸町壹丁目 尾張屋彦太郎」と刻まれています。
玉垣に田端のカフエーの名があります。
尾久は質屋が多い街です。
こちらの質屋さんは、高い塀で囲まれいます。
塀に書かれた質屋の名。
表通りには、人目を引く大きな看板があります。
かつて待合などがあったあたりは、現在は住宅地になっていますが、ところどころにスナックの建物があって、花街の風情がわずかに感じられます。
寿司屋とカラオケスナック。昭和の雰囲気が残っています。
商店街にある「喫茶&スナック」。
演歌歌手のポスターが所狭しと貼られています。
尾久の東京女子医科大学く。周囲は、商店街と住宅地です。
このあたりは、尾久三業の待合などがあったエリアです。
待合の「満佐喜」があったあたり。阿部定事件の舞台となった場所です。阿部定事件とは、昭和11年、阿部定という31歳の女性が、待合「満佐喜」で男と一週間もいつづけた末にその男を絞殺し、さらに、その股間のイチモツを根元から切り落として懐に携え逃亡したという事件です。*1
現在は、このような事件があった現場とは思えない閑静な住宅街となっています。
【参考文献】
*1 壬生篤:荷風!vol.2(日本文芸社,2004)P.75-P.79 阿部定事件の現場をゆく
あらかわ遊園は、大正11年に開園した遊園地です。
当時のあらかわ遊園の案内には、「東京に最も近き避暑地」と紹介されています。*1
大正時代に開設された遊園地の中には、多摩川遊園地、本牧花屋敷、など付近に寺社が多く集まる地域があり、遊園地の開園と同時期にニ業地あるいは三業地が立地する場合がありましたが、あらかわ遊園の場合も同様で、近くに尾久三業が立地していました。
「遊園地」と書かれた電柱番号札。
墨田川からのあらかわ遊園の遠望。
【参考URL】
*1 あらかわ遊園ホームページ
*2 安野 彰,篠野 志郎:日本建築学会計画系論文集(1998)「遊園地取締規則」にみる明治・大正期の東京近郊の遊園地の概念–都市娯楽施設の史的研究 P.165
今回は、尾久(おぐ、東京都荒川区)の町並みと風俗を散歩します。
尾久は、明治時代以前は農村(ムラ)でしたが、大正時代に急速にマチ化が進行しました。そのきっかけとなったのが、大正2年の王子電車(現、都電荒川線)の開通と翌3年に開業した「寺の湯」でした。*1
寺の湯は、碩運寺の住職松岡大機が鉱泉を掘り当て、「寺の湯」と称した温泉を開業したもので、のちに、「不老閣」として独立しました。やがてその人気にあやかるようにして、この地にいくつもの温泉旅館が開業し、このことが尾久三業の礎となりました。*1
こうして登場した花街・尾久産業地を中心に、その後は尾久地区の商店街が発展しました。*1
付近の電柱番号札には、「新地」の名が見られます。
【参考文献】
*1 八木橋伸浩:都市周縁の考現学(言叢社,1995)P.166-P.167
ニュー新橋ビルの建物の壁面に、アダルトビデオ店の看板が埋め込まれています。
マッサージ店が密集する2階の商店街に、十字路にあるアダルトビデオ店。
通路に面しているアダルトビデオの棚。
成人向けのガチャポン。「オナガチャ」と呼ばれているようです。
今回は、新橋(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
JR新橋駅の西口には、ニュー新橋ビルという巨大な雑居ビルが存在します。ここには、かつて1960年代まで、闇市に起源を持つ東京でも最大規模のバラック飲み屋街が存在しましたが、1961年から71年にかけて市街地改造法に基づく再開発が行われ、ニュー新橋ビルが誕生しました。*1
ビル内には、間口の狭い飲食店やチケットショップが立ち並んでいます。
2階の商店街には、マッサージ店やアダルトビデオショップ、ファッションヘルスなどが建ち並びます。
ニュー新橋ビルができる前にあったバラック飲み屋街は、一般飲食店159軒の他、風俗店(バー、キャバレー、スナックなど)が66軒と飲食・娯楽関係の業態が大半を占めていました。*1
現在も当時のバラック飲み屋街の業態を継承していると言えそうです。
2階には、マッサージ店が乱立しています。店員のほとんどはアジア系です。
【参考文献】
*1 初田香成:都市の戦後(東京大学出版会,2011)P.361-P.383
丸瀬布へ通じる道と遠軽への道の分岐点の先に、かつて繁華街があった昭和区がありました。
昭和区の最盛期の1936年(昭和11年)頃には、ここに11軒のカフェーと称する遊廓が軒を連ねていました。鉱山街の最南端の泉町から民間の昭和区に入る所には、見張り所があって検問していたので、鉱山街から来る人は川を越えて隠れながら通う人もいました。しかし検問は名ばかりで見ぬふりをしていました。*1
地図によると、藻別川が蛇行して道路に接近するあたりが、昭和区があった場所です。
遊廓は、「花月」、「三日月」、「銀座」などという名で、特に「花月」は、二階建てで一番大きい店でした。客は、まず一階で飲み、気に入った遊女と室内階段を使って二階は上がりました。遊廓は、戦争が勃発した1941年には皆無くなりました。「花月」は、紋別市街に出て、遊廓で儲けたカネで駅前に近い土地を買い占めました。*1
旧昭和区からは、「元山大露頭」が見えます。「元山大露頭」は、金山発見の発端となった大鉱脈で、ここには樹木が生えていないため、遠くから眺めても確認できます。
【参考文献】
*1 黒沼秀一:望郷の鴻之舞(黒沼秀一事務所,2012)P.178-P.179
*2 黒沼秀一:鴻之舞北深く(黒沼秀一事務所,2012)P.32
鴻之舞金山があった山あいの道路沿いに、「鴻之舞金山資料館」があります。資料館の建物は、廃屋同然だった上藻別駅逓(かみもべつえきてい)の建物を復活させたもので、2009年に国の登録有形文化財に指定されました。駅逓とは、開拓時代の北海道の特有の官設の宿泊施設で、郵便物の輸送の役割も持っていました。*1*2
館内には、当時の鴻之舞金山の様子がジオラマで再現されています。
芸者「金八」の展示。
鴻之舞からの交通路を遠軽路線か丸瀬布路線かのどちらを選ぶか問題になったとき、現地に派遣された調査官をあらゆる努力をはらってもてなしたのが「金八姐さん」でした。そして、道路誘致は丸瀬布に決まり、開通した道路の峠に金八峠とその名をつけることになりました。*2
住友鴻之舞鉱業所では鉱山街地域には風俗営業の出店を認めなかったため、鉱山街に隣接した民間の昭和区に11軒の遊廓をはじめ、第一館と呼ばれる劇場、遊技場、飲食店などが建ち、鉱山労働者にはなくてはならない存在になっていました。華やかになった昭和区は百戸を超えました。*2
泉町までが、鉱山街で、昭和区は、手前から1号、2号、3号…と名付けられ、繁華街は1号にありました。
【参考文献】
*1 黒沼秀一:鴻之舞北深く(黒沼秀一事務所,2012)P.32
*2 黒沼秀一:望郷の鴻之舞(黒沼秀一事務所,2012)P172,P.198,P.214
紋別市街から丸瀬布(まるせっぷ)方面に向かって約30kmほど内陸部に入ったところに、かつて東洋一を誇った金山「鴻之舞金山」」がありました。全盛期は、戦前・戦中で、細長く伸びる山あいに沿って住宅、商店が軒を連ね、テニスコートやプール、劇場までありました。*1
旧鉱山町の中心部にあった製錬所に、高さ約50m大煙突の遺構が残っています。この煙突は、「望郷の煙突(徴用された労働者から通称)」と呼ばれ、遺跡のシンボルとなっています。*2
煙突の周囲に残る建物の遺構。
火力発電所などの複合施設でした。*2
【参考文献】
*1 北海道新聞(1995.1.8)P.3 「写された記録14 鴻之舞金山」
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.82
紋別市街にポツンと一軒だけある建物。一階は喫茶店で、二階は理容室です。
レトロな佇まいです。
建物には、煙突などがあって、北海道らしさを感じます。
コーヒーとトーストを注文。この後、サラダをサービスで付けてくれました。
紋別市街にある廉売(れんばい)飲食街。
建物の中は、まるで映画のセットのような飲食街です。
屋根つきの飲食街。寒い日でも暖かそうです。
建物はL字型になっていて、もう一つの入口も道路に面しています。
紋別の歓楽街「はまなす通り2番街」の北側には、1番街があります。
1番街にある「ニュースナック桂子(けいこ)」の路地。スナックが密集しています。
夜の様子(1番街)。
「ニュースナック桂子(けいこ)」の路地。オホーツクの寒さが染み渡ります。
今回は、紋別(北海道紋別市)の町並みと風俗を散歩します。
紋別には、歓楽街の「はまなす通り」があります。北側に、「はまなす通り一番街」のゲートがあります。
一番街の南側に続く二番街は、飲食店が密集した賑やかな通りです。
看板の密集度が高い一画があります。
楽天地ビル。
網走神社の境内社である網走護国神社。
網走護国神社の敷地の中に中川稲荷があります。
中川稲荷は、網走の女傑、中川イセに因んだ稲荷です。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1
現在でも山形県人会の人たちが参拝されているようです。
【参考文献】
*1 山谷一郎:岬を駈ける女(はたもと出版,1992)P.270
網走市街の南四条。銭湯の一ノ湯があります。
昭和3年の「網走市街明細図」*1 にも記載されている銭湯です。
立派なビル型の銭湯ですが、現在は休業中です。
入口は、男湯と女湯で分かれています。
コンクリート製の四角い煙突。
【参考文献】
*1 昭和3年(1928)発行の『網走市街明細図』(復刻版)
道路沿いに残る古い飲み屋街。
「男専ロマン書房」。大人向けの書店のようです。
建物の裏側は空地になっています。
「ロマン書房」の看板。ロの字は、ハートマークでデザインされています。大人のおもちゃやアダルトビデオも取り扱っている模様です。
網走市南五条西に、楽天地と呼ばれる飲食ビルがあります。
横丁の奥には、「楽天地組合」と書かれた看板があります。
夜の様子。
スナック、居酒屋がびっしり。
夜になると、網走の歓楽街は、賑わいを見せます。
ネオン看板が煌々と輝きます。
魅惑的な店構え。
レトロなスナック店もあります。