日暮里駅周辺は、最近になって再開発が行われた結果、高層ビルや高層マンションが林立する町並みとなりましたが、西日暮里方向には、昔からあるラブホテル街が健在です。

日暮里駅北側。

日暮里のラブホテル街は高架沿いに発達しています。

「風俗デリバリーの利用OK」。

日暮里駅周辺は、最近になって再開発が行われた結果、高層ビルや高層マンションが林立する町並みとなりましたが、西日暮里方向には、昔からあるラブホテル街が健在です。
日暮里駅北側。
日暮里のラブホテル街は高架沿いに発達しています。
「風俗デリバリーの利用OK」。
舎人ライナーの高架が横切る日暮里駅前の近代的な町並みに混じって、古びた旅館の建物が1軒あります(写真奥)。
繊維街として発展した頃の日暮里には、このような旅館がたくさんあったのかもしれません。
モルタル造りの建物。
玄関付近は、竹で装飾されています。
JR日暮里駅前の放射11号線から三河島通り(尾竹橋通り)に交差する付近までの日暮里中央通りの両側は、日暮里繊維問屋街と呼ばれ、ここは、大正から昭和初期にかけて「東の日暮里、西の吹田」と呼ばれた繊維ウエイスト工業の中心地でした。繊維ウエイスト工業というのは、古繊維、つまりボロ繊維を専門に集めて加工し再製品化するリサイクル業のことで、再生工場はそのまま問屋としての機能を持っていました。最近のヤングたちの古着志向はリサイクルへの希望と言えます。*1
さらに、近年のコスプレ人気により、コスプレ用素材を専門に扱う店も現れ、秋葉原から近いこともあり、活況を呈しています。下の写真は、ステージ衣装やよさこい衣装などを専門に扱う「奥山」さんです。
日暮里駅前の店。
日暮里繊維問屋街は学生やミセスが足しげく通う町です。
ダンス用衣装専門の店もあり、艶めかしい雰囲気が漂います(西日暮里にて)。
【参考文献】
*1 婦人画報社:のぞいてみたい東京の六大問屋街(婦人画報社,1998)P.25-P.34
谷中のおせんべい屋さん。下町ではよく見る風景です。
おせんべい屋さんの脇には、ラブホテルの看板。
カーブを描く路地の奥にラブホテルがあります。
古い煉瓦塀が周囲を遮断していて、隠れ家的な雰囲気を醸し出しています。
今回は、日暮里(東京都荒川区)の町並みを風俗を散歩します。
JR日暮里駅の西側にある「夕焼けだんだん」は、谷中では有名な夕焼けの絶景スポットです。
夕焼けだんだんの階段の上に、「富士見ホテル」の大看板があります。
細い路地をいくと、奥に富士見ホテルがあります。
ひっそりとしたホテルの入口。
本町商店街から、北側に入ると、飲食店で賑わっていた頃の痕跡を随所に見かけることができます。
風情のあるお好み焼き専門店。
丸窓のある料亭風の建物。
軒下には、十八歳未満立ち入り禁止のプレートがありました。
本町商店街から、北側に路地を折れると、旅館の建物が見えてきます。
現在は、休業中のようですが、昭和初期のものと思われる建物です。
趣きのある木製の看板。
旅館の周囲の路地には、当時の雰囲気が残っています。
墨俣町本町の商店街に古い銭湯の建物が残っています。
めずらしい洋風建築の銭湯です。建物は、大垣市景観遺産に指定されています。
まるで赤線建物を思わせるカラフルなタイル建築です。
正面玄関に描かれた美しいタイル絵。
墨俣の町の入口には、商店街らしいアーチがあります。
北側の通り(墨俣一夜城跡近く)は、かつては料亭などが建ち並ぶ花街だった場所です。
現在は、花街の面影はありません。
現在の本町商店街。昭和54年の商業統計によれば、墨俣町には、小売業124軒、飲食料品小売業29軒、飲食店37軒などがあり、料理屋、歯科医院が多いことが、他の町村では見られない墨俣町の特徴でした。*1
【参考文献】
*1 すのまたのあゆみ編集委員会:すのまたのあゆみ(墨俣町教育委員会,1982)P.208-P.209
今回は、墨俣(岐阜県大垣市)の町並みと風俗を散歩します。
墨俣一夜城跡は、歴史資料館になっていて、墨俣の歴史を知る資料が展示されています。
墨俣の町並みの展示。
昭和11年たまり水の被害を少なくするため、長良川堤にそって水路が作られました。そのため、多くの家々が移転し、墨俣宿ををしのぶ町並みの一部消えてしまいました(地図に赤線で示されているのが現在の堤防です)。
天守閣から見た墨俣の町並み。
高山昭和館のある通り。このあたりは、町全体が昔の雰囲気を残しています。
「理髪」と書かれた看板のある理容室。
こちらの理容室は、休業中のようですが、色とりどりのペンキで装飾されています。
当時のままの佇まいです。
市内を流れる宮川に架かる中橋。擬宝珠や欄干をそなえる美しい橋です。
川沿いに、銭湯の中橋湯があります。
特徴のある煙突。
お湯は熱すぎず、ゆっくりできます。
末広町の二番街に、銭湯の桃の湯があります。
木造建築の銭湯です。
鮮やかな緑色の暖簾。
外観と同じように内部もレトロ感たっぷりです。
商店街で見かけた飛騨牛乳の牛乳箱。高山市街ではよく見かける牛乳箱です。
「ウルトラ・ハイ」と書かれています。
木製牛乳箱、プラスチック製牛乳箱、ヤクルト、郵便受け。
「飛騨牛」と言えば”ブランド牛”ですが、「飛騨牛乳」は”銘乳”です。
花岡遊廓跡地の東側に位置する末広町は、歓楽街となっています。
歓楽街は、「二番街」と呼ばれています。
スナックや居酒屋が点在しています。
バーの建物。
花岡遊廓の中心部だったと思われるあたり。
旅館の「かみなか」があります。遊廓時代の面影を感じさせる建築です。
旅館の「かみなか」の建物は、明治中期の建物で、国の登録有形文化財に登録されています。館内いたるところに創建当時の面影が残されており、現在高山市に残っている建築様式としては一のものです。*1
旅館裏の路地には、遊廓時代を偲ばせる空間が残っています。
【参考URL】
*1 旅館の「かみなか」:ホームページ
今回は、高山(岐阜県高山市)の町並みと風俗を散歩します。
高山の遊廓(大名田町(おおなだちょう)花岡遊廓)は、現在のJR高山線と国分寺の間にありました。
昭和11年発行の市街図*1 でみると、「花岡廓」と記された一画があります。
花岡遊廓の許可地は、3,500坪あって、妓楼は12軒、娼妓は52名いました。*2
遊廓の跡地には、旅館や割烹料亭などが点在しています。
板壁が美しい割烹料亭。
遊廓の北側飲食店街。
【参考文献】
*1 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.121
*2 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.86 「全国遊廓案内」
各務原駅近くの駐車場。車止めのコンリートブロックが置かれています。
コンリートブロックには、店の屋号が書かれています。
コンクリートブロックには、「犬の糞お断り」と書かれたものもあります。
犬の糞お断り。
名鉄各務原市役所前駅から、南へ航空自衛隊岐阜基地の方向へ向かって進むと、小さな歓楽街となっている一画があります。
スナックが数軒と風俗店と思われる風俗店が集まっています。
軒下の電球。
「マドンナ」の「ン」の文字は、ハートのマークでデザインされています。
今回は、各務原(かかみがはら、岐阜県各務原市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄岐阜駅から約15分の各務原市役所前駅。
改札口の手前に白ポストがあります。
銀色に輝く金属製の白ポスト。
「ゴミ・タバコの吸い殻等は入れないでください。」と書かれています。
手力の国道沿い。自動車の便が良いことから、レンタカー、車検場、中古車販売、廃棄物処理業者などの、自動車関連の施設が、道路沿いに密集しています。
これらの自動車整備関係の施設に混じってラブホテルが立地しています。どちらも自動車に縁の深い施設ですが、ここでは両者が同じ場所に立地しています。
道路から一歩入ると、そこはラブホテル街です。
ラブホテルに隣接する廃棄物置き場。
旧手力園の跡地。
レトロな理容室があります。
昔のままの佇まい。
現在も営業中のようです。
旧手力園跡地に、古い長屋の建物があります。
スナックだったと思われる店舗が併設されています。
建物の側面には、ひょうたんの絵が描かれています。
軒下の灯り。
今回は、手力(岐阜 県岐阜市)の町並みと風俗を散歩します。
岐阜の金津遊廓は、明治期に誕生し、約50年におよぶ歴史を積み重ねましたが、戦時中の昭和18年、「金津遊廓の建物をまるごと川崎航空機の寮に提供せよ。」という通達が当時の知事から出され、これに伴い、遊廓は、手力(てぢから)に移転しました。 戦時中は享楽機関の営業が停止されている建前上、「遊廓」を名乗ることができなかったため、「手力特殊飲食店街(通称:手力園)」と呼ばれていました。*1
写真の商店の向こう側が手力園があった場所です。
現在は、住宅街となっています。
付近には水路が巡っています。
商店もある生活感のある住宅街です。
【参考文献】
*1 加藤政洋:敗戦と赤線(光文社,2009)P.115-P.129
市役所の近くに、川越市に唯一残る銭湯の旭湯があります。
道路沿いに面したレトロ銭湯です。お客が多くかなり繁昌している模様です。
人力車がデザインされた暖簾。
銭湯脇は駐輪場スペースになっています。
蔵造りの町並みが広がり、観光客が絶えない川越の「一番街」から西に折れると、料亭の「山屋」があります。「山屋」は、明治初年からここで営業を続ける料亭で、大正から昭和初期の、花柳界が最も華やかだった時期の面影が今も残る店として知られています。*1
緑に囲まれた料亭。
川越は芸どころで、ちゃんとした芸者さんが何人もいました。芸事にうるさく、風紀が厳しかった川越では、芸者が男性客と寝ることは許されませんでした。
料亭「山屋」の前の通りは、観光地である「一番街」から少し入ったところですが、ここには、昔の情緒が残っています。大正期の洋風建築で有名な埼玉りそな銀行川越支店(写真右奥)が見えます。
【参考文献】
*1 朝日新聞さいたま総局:さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景(さきたま出版会,2009)P.128-P.129
川越と言えば、東京の原風景を今に伝える蔵造りの町並みです。休日には多くの観光客で賑わいます。
通りから一本路地を入ると、観光地とは思えないような生活感のある空間が残っています。
商店の看板建築。
緑で囲まれた理容室。
喜多院近くの長屋風の建物。
軒下に牛乳箱があります。
かすれて読みにくくなっていますが、「全酪牛乳」と読み取れます。
生活感のある風景です。
喜多院裏のお堀。
犬糞看板があります。
シャッターに貼られたオシッコ禁止の貼り紙。
なぜか、税込315円と書かれた値札が貼りついています。
当時の面影が残る旧市村旅館。
現在も往時の木造家屋が残っています。
旅館近くの細い路地。
旅館の裏口。風情のある石畳が印象的な風景です。
今回は、川越(埼玉県川越市)の町並みと風俗を散歩します。
川越には、喜多院の手前、西小仙波町に、遊廓が存在しました。*1
喜多院へ通じ道路には、旅館だった建物があります。
同じ建物を側面から見たところ。
現在、食事処となっている建物。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.100-P.101
遊廓があった横町通り沿い。
小さな神社があります。神社の名前は記されていません。
「坂城の宿場と遊廓」*1によると、明治16年に遊廓設置についての願書が提出されましたが、そのときの惣代に、馬場吾三郎、佐々木長一郎の名前がありますが、この2名の名が玉垣に刻まれています。
明治27年6月建立。遊廓の設置の関係者は、当時の町の有力者だったことがわかります。
【参考文献】
*1 中沢勇:坂城の宿場と遊廓(信濃書籍出版センター,1978)P.42
坂城の遊廓は、横町裏の天領時代の陣屋跡地に選定されました。*1
現在は、遊廓の痕跡は残っていません。
陣屋跡であることを物語る石垣(駅前の案内板より)が残っています。
遊廓の入口は、坂城駅側にもあって、駅からは斜めに板橋がかけられていました。夕方の列車の停車時には、娼妓たちが出迎えに、また朝方には客を送ってきて、駅の待合室はなまめかしい雰囲気が漂い賑やかでした。*1
【参考文献】
*1 中沢勇:坂城の宿場と遊廓(信濃書籍出版センター,1978)P.42,P.49-P.51
今回は、坂城(長野県上田市)の町並みと風俗を散歩します。
坂木宿ふるさと歴史館は、宿場時代を再現した建物の中に、坂城宿の歴史に関する資料が展示されています。
坂城宿は、北国街道の宿場として100軒以上の建物が建ち並ぶ大きな宿場でした。
坂城宿は、長野県の中では権堂宿と並び早い時期から飯盛旅籠が設置された宿場でした。
坂城宿の模型。写真の横に延びる通りが立町。写真の左側の通りが遊廓があった横町です。
東武浅草駅前に、地下街への入口があります。
昭和の匂いの残る地下街。居酒屋や占いの店などが並んでいます。
700円の理髪店。
アダルトビデオもあります。
千束通り商店街から東側に入ったところに銭湯の曙湯があります。
なだらかな曲線の唐破風(からはふ)屋根と懸魚(けぎょ)と呼ばれる彫刻。
銭湯の後ろ側へ回ると煙突が見えます。
美しい漆喰塗りの塀。料亭のような佇まいです。
ひさご通りの西側に、ビジネスホテルが密集する一画があります。
商店やスナックなどが建ち並んでいます。
ホテルの大看板。
ホテルの提灯。
ロック座は、昭和22年にオープンし、23年よりストリップを開始し、昭和58年に休館となりますが、その後復活しました。*1
経営母体を替えながら、今でも同じ場所場所で営業を続けているストリップ劇場です。*1
昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*2
女性は、割引です。
懐かしいアイスキャンディー売りの自転車がとまっていました。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.37,付録地図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207
「食道街」は、浅草の中でも、飲食街が中心となった繁華街です。
スカイツリーの方角に「ホテル」と書かれた大看板があるのが気になります。
外国人用のゲストハウスのようです。
建物の屋上に設置された広告大看板。
国際通りから新仲見世通り方面へ入ったところに、大人のオモチャ屋さんがあります。
うっかりすると、通り過ぎてしまいそうですが、町並みにレトロな店舗が溶け込んでいます
「ビデオ」の看板。
ショウウィンドウ。品揃えが豊富です。
浅草の雷門通り。この日は、三社祭の日でした。
雷門通りの南側、国際通りの東側は、旧浅草田原町一、二、三丁目から、雷門通りの北側の旧浅草北田原町の一帯は、紙漉き(かみすき)を業とする人たちが住んでいたことから、紙漉町と呼ばれていました。旧町名の案内板には、このことが記述されています。
トイレットペーパーが普及する以前まで使われていたネズミ色をしたチリ紙(別名、「落とし紙」、「便所紙」)のことを「浅草紙」と呼びますが、紙漉町は、「浅草紙」の発祥の地です。
紙漉町の紙漉場の多くは、その後、山谷堀の周辺に移転しました。浅草紙の漉家にとって山谷堀は、紙漉きのための用水を供給してくれる大切な水資源でした。現在の東浅草一丁目に、”紙洗橋”の欄干が残っていますが、これは、山谷堀の漉家が堀端に水槽を設けて、紙漉きの作業の工程の一つである”冷やかし”(原料を 水につけておく作業)を行っていたことを示すものです。山谷の漉家で働く男たちは、”冷やかし”の間の二時間あまりの時間を利用して山谷堀をわたって新吉原に潜入し、偵察に出かけるのを楽しみにしていました。これが、「買わずに帰る」”冷やかし”の語源となりました。*1
雷門通りを挟んだ北側には、「旧浅草北田原町」の案内板。雷門通りをはさんで南北二町に分けられたため、南側が田原町三丁目、北側が北田原町三丁目(現在の浅草一丁目)になったと説明されています。
【参考文献】
*1 會田隆昭:浅草紙の三〇〇年–江戸=東京北郊に於ける漉返紙業の歴史地理(百万塔/紙の博物館, (113),2002.10)P.79-P.82
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
5月22日に東京スカイツリーが開業し、浅草からの展望は大きく変わりました。
しかし、浅草のシンボルと言えば、この通称うんこビルです。
うんこの先っぽ。
上から見たうんこ。
温泉街にある千曲市総合観光会館の前にブロンズ像があります。
ブロンズ像の題は、「髪」。
温泉街らしい美人像です。
下の方から。
戸倉上山田温泉の南側のはずれに、温泉資料館があります。
温泉に関する貴重な展示品がたくさんあります。
当時の温泉の芸妓の展示コーナー
戸倉上山田温泉の芸妓の写真。
上山田温泉の西側に、大衆演劇場の「信州大勝館」があります。
この日も、昼、夜の2回、公演が行われていました。
この建物は、以前はストリップ劇場の「信州ロック座」でした。今でも看板だけが残っています。
ビルの屋上の大看板。「ヌード」と書かれた文字が見えます。
温泉街につきものの「射的」ですが、戸倉上山田温泉にも3軒ほどあります。
思い出の町通りには、2軒あります。
新世界通りの四つ角にある「射的」。
「遊技場」のプレート。
「思い出の町」は、戸倉上山田温泉の歓楽街の中心部です。
上山田温泉にカフェーができたのは昭和の初めですが、「思い出の町」は戦後にできた歓楽街です。売春婦は、戦後盛んになりましたが、現在は禁止されています。*1
売春防止法施行の影響は大きく、その翌年は客が3割減少し、約半数の赤線業者がしました。廃業した特飲店は、バーや飲食店、芸妓屋、ヌードショーホールに転業しました。*2
「喫茶スナック」のある路地。
路地を1本入ったところのスナック街。
【参考文献】
*1 乙部泉三郎,高野博夫:長野県戸倉上山田温泉のあゆみ(観光文化社,1960)P.85
*2 アサヒ芸能(1958.10.19)P.10-P.11
上山田温泉本通りの南側の一画。
古びたスナックの建物があります。
以前は、このあたりも歓楽街だったのかもしれません。
哀愁をおびたスナックの看板。
戸倉温泉の銀座通りは、千曲川寄りの戸倉温泉通りと上山田温泉本通り(温泉街のメインの通り)を結ぶ通りです。
上山田温泉本通り側には、「銀座通り」と書かれた通りの入口を示す看板があります。
銀座通りは、かつてカフェや料亭が建ち並ぶ花街でした。
上山田の芸妓屋は、銀座通りの「エビス屋」が始まりと言われています。*1
通りの随所に華やいだ雰囲気が見られます。
【参考文献】
*1 乙部泉三郎,高野博夫:長野県戸倉上山田温泉のあゆみ(観光文化社,1960)P.85
今回は、戸倉上山田温泉(長野県)の町並みと風俗を散歩します。
戸倉駅から、バスで5分の場所に戸倉温泉はあります。
風情のある町並み。
かなり大きなゲートです。
千曲河畔通りと書かれたゲートがあります。
1955年、利賀村に「利賀少年自然の家」が完成しました。
前庭には、富山県婦人会から寄贈された「母子ブロンズ像」が飾られています。
この像は、トルコ風呂建設を阻止し、次代に生きる子供たちに健全な郷土を伝え得た県内婦人たちの記念碑とも言えるものです。*1
母子象には、「どの子にも愛の手を」という婦人会の願いをこめた言葉が刻まれています。
【参考文献】
*1 とやまの女性史
トルコ風呂は、近くの八乙女山(標高751m)にちなんだ名前がつけられる予定でした。
八乙女山周辺は、ハイキングコースになっています。
八乙女山の頂上。
八乙女山からは、日本の原風景「砺波平野の散居村」を遠望できます。
昭和50年(1975年)、富山県南砺市利賀村の栃原から下原にまたがる一帯に一大「トルコ風呂」街建設計画が持ち上がりました。しかし、この計画は、富山県や世論の反対に会い、トルコ風呂建設計画は中止となりました。
トルコ風呂の建設が予定されていた場所は、計画中止後は肉用牛牧場となりましたが、現在はその施設も無くなっています。
現在、この付近は、観光開発され、スキー場ができています。
この計画の裏には、歯止めの利かない過疎化を何とか食い止めようとした村の苦渋の選択がありました。「トルコ風呂誘致」によって一大歓楽街が生まれれば、村の過疎化を食い止めることができると考えたわけです。
利賀村は、富山県のトルコ風呂の営業が可能な区域(禁止除外区域)に指定されていて、この場所は、JR越中八尾駅からバスで片道1時間(1日2本)で、冬場には、3~4mの雪が積もる場所で、とてもトルコ風呂の営業が成り立つとは思えない山間僻地でした。
このような場所にトルコ風呂建設が計画されたとは信じられないような話です。
栃原の隣の下原にもトルコ風呂建設が計画されていました。
今回は、五箇山(富山県砺波市)の町並みと風俗を散歩します。
1995年に世界遺産に登録された五箇山地方は、合掌造り集落に代表されるように、周囲を山と川に囲まれ、独自の文化を育んできました(写真は相倉地区)。
相倉合掌造り集落から国道156号線を南西に5kmほど行ったところに、「民謡の里」と名づけられた公園のおうな場所がありますが、 ここに「お小夜塚」があります。
元禄3年(1690年)、加賀藩で藩士4人が職務を果たさず遊女と遊興にふけっていたことから、五箇山に配流(はいる)となる事件がおきました。このとき、遊女の「お小夜」も連座となり五箇山に流されました。お小夜塚の場合は、罪の軽い平流刑だったため、家を自由に出入りすることができたため、その美貌からたちまち配流の地でも憧憬の的となりました。
やがて、お小夜は吉間という男と愛し合うようになり、吉間の子を身籠ってしまいました。罪人の身で妊娠したことが藩にばれれば、吉間や村の人に迷惑がかかることから、苦悩の末、お小夜は、村の端を流れる庄川に身を投げました。
「女郎ヶ池」。二人が愛をかわした場所です。
余目駅前の商店街。
バス停の前にコンドームの自販機があります。
以前、鶴岡で見かけた自販機*1 と同型ですが、こちらの方が年数が経過しているように見えます。
販売されている商品は、「Kansai(寛斎)」です。
【参考記事】
*1 風俗散歩(鶴岡):コンドームの自販機(2008.11)
トルコ風呂論争の舞台となった常万児童公園(この写真の奥)に隣接して、皇大神社があります。
神社の境内の東側の奥まった一画に、道祖神社があります。
鳥居のすぐ後方に、石でできた男根が2つ。
血管が浮き出ていてリアルです。
国道47号線から100mぐらい入ったところに、常万児童公園があります。
トルコ風呂を排除する目的で、行政側が意図的につくった公園です。
児童公園と書かれたプレートはどこにもありませんが、遊具は設置されています。
公園から国道側を見ると、問題となったトルコ風呂の建物が見えます(写真奥)。
今回は、余目(山形県東田川郡庄内町)の町並みと風俗を散歩します。
かつて、山形県において、トルコ風呂開業阻止のため、児童公園が設置され訴訟事件となったことがありました。風俗営業法では、官公庁や学校、図書館、児童福祉施設などの敷地から半径200メートル以内でのトルコ風呂の営業することを禁止しているため、この規制を逆手にとって、行政側が意図的に公園を作ってトルコ風呂を排除しようとしたわけです。
この事件において、仙台高等裁判所は、昭和49年7月8日の判決で、「山形県知事の児童遊園地認可は、控訴会社(トルコ風呂業者)が現行法上適法になし得るトルコ風呂営業を阻止、禁止することを直接の動機、主たる目的としてなされたものであることは明らかであり、法の下における平等の理念に反するばかりでなく、憲法の保障する営業の自由を含む職業選択の自由ないしは私有財産権を侵害するものであって、行政権の著しい濫用と評価しなけらばならない。」とし、行政側が敗訴しました。さらに、昭和53年5月26日の上告審においても、最高裁判所は「行政権の著しい濫用であり、国家賠償法一条一項にいう公権力の違法な行使にあたる」と判示しました。*1
当時の住宅地図*2 には、余目町の常万に「トルコハワイ」と記された建物があります。
現在もその当時のものと思われる建物が残っています。
建物の裏側。
【参考文献】
*1 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)P.72-P.74
*2 ゼンリン:東田川郡余目町・立川町(ゼンリン,1990)P.13
インターチェンジ沿いには、「ホテル京浜」以外にも数棟のホテルが立ち並んでいます。
複雑な形をした歩道橋の向こう側にホテルが見えます。
インターチェンジの南側。
人目をひく概観のホテル。
今回は、今井町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後のモータリゼーションの進展に伴い、日本でもアメリカのモーテルを真似たホテルが道路沿いに建てられました。
日本初のモーテルは、石川県の「モテル北陸」であると言われていますが、「モテル北陸」はドライバーの休息を目的としたものであったため、本格的な日本初のモーテルは、横浜の東名高速道路のインターチェンジ近くにつくられた「モテル京浜(ニュー京浜)」でした。
ガレージ式ラブホテル。
入口を示す看板。
道路から見ると目立ちます。
大田駅の北側は、南側とは異なり風俗店はありません。富士重工業(「スバル」ブラ前ンドの自動車などを製造)の工場の周辺には、古びたスナックがあります。
居酒屋風の古い建物。
駅の北側は、再開発の計画があるらしく、広大な空き地となっていますが、西側の一画は商店街が残っています。
駅の南側の東寄りに、旅館、スナック、美容室が同居する長屋風の建物が残っていました。
「南一番街」の西側のエリアは、パブなどの風俗店が密集するエリアです。
パブの看板。
新しい店舗が多い中で、唯一レトロなつくりの店舗があります。
建物の側面には、「素人専門店」と書かれた貼り紙が貼られています。
太田駅前の商店街「南一番街」は、近年、シャッター通り化した商店街に風俗店が入居し、商店街が風俗街化するという特殊な現象が起きました。
「南一番街」は、昭和43年(1968年)、もともと田畑だった土地を開発してつくられ、運営には、地元の商店主で構成される「太田商業推進共同組合」が組織されました。昭和52年代に入り、スーパー大手のユニーが、太田駅前に大型店「ベルタウン・ユニー」(現在はドンキホーテ)を作る計画がもちあがり、当初は「太田商業推進共同組合」はこれに反対しましたが、話し合いの結果、半分をユニーが、残りの半分を「太田商業推進共同組合」の商店主達店を構えることで決着しました。ところが、いったん大型店ができてしまうと、商店主は、出資した大型店に意識が集中してしまい、商店主の子供達も大型店で働くようになったため、南一番街からは気持ちが離れ、後継者も居なくなりなりました。こうして「南一番街」が徐々に歯抜け状態になり、あるとき、商店主は、風俗店業者に店舗を貸し始めました。*1*2
風俗店が進出した結果、商店街が風俗街化しました。
派手な看板の風俗店が乱立しています。
駅の南側は、飲食店・風俗店の密集地帯です。
【参考文献】
*1 今泉智裕:ハビタット通信((4)2006)P.28-P.31 「太田ファスト風俗街」
【参考URL】
*2 清水まさよし:太田市長とれたて日記「ユニー、ベルタウン撤退とまちなか活性化」
今回は、太田(群馬県太田市)の町並みと風俗を散歩します。
太田は、スバルでお馴染みの富士重工業の城下町です。
町名は「スバル町」。
スバル最中。
瓦せんべいを購入。
住宅街の中にイスムラ寺院のモスクのようなドームが見えます。
広大の敷地と高級感あふれる豪華な外観。「モテル」と書かれた看板が見えます。
相模線の線路沿いにあります。
大通りからの入口を示す看板。
今回は、寒川(神奈川県高座郡)の町並みと風俗を散歩します。寒川駅は、JR東海道線の茅ヶ崎駅から相模線に乗り換えて3つ目の駅です。
駅前に「てんとう虫ポスト」が設置されています。
色は赤なので、白ポストとは呼ばずに「てんとう虫ポスト」と呼ぶようです。動物をアレンジした白ポストとしては、ヤギやひつじがありますが、てんとう虫の箱は珍しいと思います。
てんとう虫は、アブラムシなどを食べる益虫(人間にとって役だつ昆虫)です。
ペリー上陸の碑の手前に喫茶店があります。
こちらの店主の方は、縄地金山の女郎に関する本を書かれているそうです。
喫茶店の内部には、昔の下田を知る貴重な資料が展示されています。
縄地金山は、ペリー上陸の碑から見えるこの山の方角にありました。
ペリーロードの東端から路地を入ったところに、銭湯の昭和湯があります。
ビル型の銭湯ですが、「昭和湯」のロゴ、温泉マーク、などレトロ感があります。
鮮やかな紺色の暖簾。
昭和湯の看板。
総領事タウンゼント・ハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがったお吉ですが、維新後は芸妓として流浪の果てに下田へ戻り、料理屋「安直楼」を開業します。
安直楼は、最初は盛況でしたが、次第にお吉の前歴などの風評をまき散らされて、客足が遠のき、2年後に廃業しました。
安直楼の後は、寿司店として営業していました。
現在、資料館としての営業は中止しているようです。
下田の弥次川界隈は、ペリーロードと名づけられて散策の小径となっています。ここは旧遊廓でした。
周辺には風情ある建物が残っています。
ペリーロードの中心部にある柳橋。
「ペリー提督遠征記」にもペリーロードは登場するようです。
下田市街にある稲田寺。
鶴松の墓。
お吉と鶴松は恋仲でしたが、お吉に、アメリカ総領事ハリスの妾になる話が持ち上がり、役人たちは無理やり二人の愛情を引き裂いて、お吉は仕方なくハリスに仕えることを承諾しました。
鶴松の一生を説明した案内板。
今回は、下田(静岡県下田市)の町並みと風俗を散歩します。
「唐人お吉記念館」は下田の観光スポットです。
お吉は、14歳で芸妓となり、美貌の持ち主だったため、総領事ハリスのもとへ妾として奉公にあがることになりました。
お吉の墓。
”らしゃめん”となったお吉は、世間から罵声と嘲笑を浴び、晩年は貧困の中に身をもちくずし、明治24年、自らの命を絶ちました。
東陽町の運転免許センター前の通り。
現在は、企業のビルが建ち並ぶ場所ですが、2005年、ここに洲崎球場跡の碑ができました。
プロ野球草創期に、1年間で100試合近くの公式戦が行われた有名な球場ですが、埋立地につくられたため、海水が満ちてきて試合が中止になったなど、強烈なエピソードを持っています。*1
球場のすぐそばには洲崎遊廓がありました。堅物というイメージの強い巨人軍の沢村栄投手もたまに試合後に通っていたそうです。*1
*1 佐野正幸:あの頃こんな球場があった(草思社,2006)P.193-P.199
飲み屋街※1 の中央にある細い隙間は、トイレへの入口です。
人がようやく通れる幅の通路を進むとトイレのドアがあります(写真右奥)。
トイレのドア。
手洗い場。
洲崎橋跡の右手(西側)の通り。
こじんまりとした一杯飲み屋が軒をつらねている一画があります。
映画「洲崎パラダイス」の舞台となったと思われる飲み屋街です。*1
スナック店が建ち並びます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.14-P.17
都営洲崎住宅に隣接する東陽一丁目第二公園。ここに、洲崎遊廓の娼妓の供養碑があります。
ここは、警視庁洲崎病院の跡地です。*1
白菊の花にひまなくおく露は なき人しのぶなみだなりけり
昭和六年十一月九日
信州善光寺大本願大宮尼公台下御親修
洲崎遊廓開始以来先亡者
追善供養執行記念
善光寺より僧を招いて、開業以来廓で亡くなった無数の娼妓の霊をなぐさめるための法要を行った際の供養碑です。*1
洲崎遊廓の建物は、戦災ですべて焼失しましたが、そのような状況の中、戦前の様子を知る唯一の手がかりとなるものです。
【参考文献】
*1 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.276-P.279
旧洲崎遊廓の敷地の電柱には、2種類のプレート貼り付けられています。
一つは「南海」、そしてもう一つは「遊園」です。
亀戸の私娼街だった亀戸遊園地(現在は住宅街)の電柱には、「遊園地」と書かれたプレートがありましたが、洲崎の遊園地も亀戸遊園地*1 と同じように、『大人向け遊園地』という意味の名前だったのでしょうか。
手書きの「遊園」のプレート。
「遊園」のプレートがあるのは、戦後復興したと言われる東半分のエリアのみです。西側半分側の電柱のプレートはすべて「仙印」と書かれています。
【参考文献】
*1 風俗散歩(亀戸):「遊園地」と書かれた電柱のプレート
今回は、洲崎(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
旧洲崎遊廓の南端にある南開橋。汐浜運河にかかる橋です。
運河を渡る南開橋は高い位置にあるので、ここから洲崎遊廓があった方向を眺めると、橋からは下り坂になっています。
現在、汐浜運河となっている場所は、昔は海でした。
モクレンの花が満開です。
国道293号線沿い。
銭湯の末広湯があります。
入口には、趣のある手書きの看板。
材木置き場。
遊廓内には、北東にお酉様(大鳥神社)、南東に椿森稲荷神社がありました。
このうち、椿森稲荷神社は、戦後、青木医院の西に再建されました。
ここに、明治43年に建てられた記念碑があります。
碑の裏面の寄付人名簿に、「金二十円 各楼内働一同」とあります。新地の昔を知ることが出来る貴重な資料です。*1
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
明治41年頃、石橋町にあった竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、下材木町にあった新藤楼の五軒が下田町の田んぼの中にできた廓に移転させられました。遊廓は新地と呼ばれ、五軒の遊廓だけの”五軒町”が生まれました。はじめは、奈佐原からも一軒加わる予定だったので、それが実現していれば”六軒町”となっていたかもしれませんでした。*1
電柱には、「新地」と書かれたプレート。
新地の東側を流れていた木島用水は、現在は暗渠になっています。
新地の南側の通り。古い民家の建物が残っています。
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
東武日光線の新鹿沼駅近くの国道293号(例弊使街道)沿いは、鹿沼宿の本陣や脇本陣などが集まっていました。石橋町から下材木町にかけては、多くの旅籠屋(旅館)があって、なかには、飯盛女を置いて、売春行為をさせる遊女屋もありました。*1
大沢楼があった足利銀行鹿沼支店付近。*1
竹沢楼は、現在の合同タクシー付近にありました。*1
石橋町から下材木町方面を見たところ。
明治41年頃、現在の下田町二丁目付近に遊廓(新地)が建設されましたが、このとき、旧旅館街から、竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、新藤楼の五軒が移転したため、新地は、”五軒町”と呼ばれました。
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.179-P.182
今回は、鹿沼(栃木県鹿沼市)の町並みと風俗を散歩します。
JR鹿沼駅前に、「もういらない!みんなでなくそうポルノ自販機」と書かれた大きな看板があります。
堂々とした看板。
地元の市民団体が建てたようです。
大垣駅前の高屋町に、ラーメン店や居酒屋、スナックが並ぶ一画があります。
2本ある小路のうちの西側の小路。
二階部分に手すりのある建物。
紫色のスナックの看板が郷愁を誘います。
旭遊廓の南側のはずれに、旅館風の大きな建物があります。
3軒の建物がつながっています。
重厚な造り。
東側から。
旭遊廓跡地には、当時の面影を伝える残る古い建物がわずかに残っています。
古い建物は、西側の通りに残っています。
「売物件」の札の立つ古い建物。
花街の風情が残っています。
今回は、大垣(岐阜県大垣市)の町並みと風俗を散歩します。
全国遊廓案内*1 によると、大垣市藤江町には、旭遊廓がありました。*2
現在は、遊廓の面影は残っていませんが、遊廓の敷地らしい道幅の広い道路が南北に2本通っています。
「旭廊支」と書かれた電柱番号札。(「廊」ではなく、「廓」だと思われます。)
東側にもう1本の道路。
こちらの電柱番号札は、「旭廊東分」となっており、このあたりが遊廓の東側のエリアだったと考えられます。
同じ中部電力管轄の清水市でも、遊廓跡地に「廊」と書かれた電柱のプレートを見かけました*3。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.85 「全国遊廓案内」
*2 大垣市:大垣市史(大垣市,2009)付図「昭和12年大垣商工街図」
【参考記事】
*3 風俗散歩(清水):「廊」と書かれたプレート(2011.11)
豊年祭は、男根の持つ爆発的なエネルギーを豊穣、豊作に結びつけた珍しい祭りです。男達が男根をかたどった神輿を担いで町を練り歩きます。神輿の行列の先頭を行くのが、このリアルな幟です。
巫女さんが男根を触らせてくれます。
男根の神輿。全体の形状が反っていて、リアル感があります。
亀頭のカリの部分の造形が見事です。
田縣神社の絵馬。安産や子宝祈願が最も多いようですが、願い事はさまざまです。
絵馬には、神輿の絵が描かれています。
巨根祈願。
中には、このような変わった願い事も。
豊年祭で付き物なのが、土産物屋です。中でも「さずかり飴」は人気商品です。
大小さまざまな「さずかり飴」が売られています。
「ばな珍」は、玉も付いた特別仕様です。
小牧駅前で売られていた「Hチョコレート」。
今回は、小牧(愛知県小牧市)の町並みと風俗を散歩します。
田縣神社は、古来より、恋愛、子宝、安産、縁結び、夫婦円満、商売繁昌、の神様として、全国また世界各国の人々から注目されている神社です。
田縣神社を特色づけているのは、男根崇拝です。
男根の形をした自然石も境内のあちこちに置かれています。
奥の院のさらに奥に、珍宝窟があります。「玉さすり賽銭いれて珍となる」と書いてあり、お金を入れるといい音が響きます。
【参考URL】
*1 粟田孝浩:田縣神社 公式ホームページサイト「ようこそ田縣神社へ」
南草津駅からバス約10分の場所にある清浄寺に、遊女梅川の墓があります。
梅川は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃の「冥途の飛脚」のモデルとなりました。
道路から少し入ったところに清浄寺があります。
遊女梅川の墓。
清浄寺の近くに、梅川終焉の地があります。
遊廓の敷地の角にある出世地蔵・水子地蔵
東新地の遊女の信仰を集めていたようです。
奉納額に「草津東新地東樓(楼)」と書かれています。
石柱の裏側に山貞(やまて)楼の文字が彫り込まれています。
山貞楼は、北側の奥から2軒目にあった妓楼です。*1
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
遊廓跡地には、妓楼の面影を残す建物が残っています。
通りの南側には、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼の順で並んでいました。*1
唯一、当時の妓楼の屋号が残る開盛楼。位置も当時のままと思われます。
南側の中ほどにある建物。
北側に位置する束田タバコ・菓子店は、初期から存在しました。*1
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
草津新地の起源は、明治33年で、東(あづま)新地と呼ばれ、東横町の南、字小二俣の水田の地に形成されました。 草津新地の最盛期は、第一次大戦中の好景気の時期(大正8年前後)でした。当時の東新地の構成は、道路を挟んで貸座敷が合計16軒並んでいました。新地は、売春防止法が施行される昭和33年まで続きました。*1
「大日本職業別明細図」*2 によると、「遊廓」、「東新地遊事ム所」の記載があります。
中央の道路には、藤・しだれ柳の分離帯がありました。*1
吉冨楼があったあたり。
中央の道路がいかに広いかは、新地の周囲の道路の道幅が狭いことにより、実感できます。
【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
*2 東京交通社:大日本職業別明細図.大津市他(東京交通社,1937)
草津駅前の駅ビルの南側に、飲み屋が密集する一画があります。
密集する看板。
周囲はビルが建っていますが、ここがだけが昔の面影を残しています。
「ばんから横丁」の入口に展示してある大路二丁目の昭和初期の頃の写真。
駅前のビルの地下1階に飲食街の「ばんから横丁」があります。
「ばんから横丁」は、昭和30年代の草津の駅前の町並みを再現した飲食街で、あちこちに配置された看板や電柱などの小物は当時のホンモノを使用しています。(案内板より)
スタンド、居酒屋、スナックなどがリアルに再現されています。
「女中さん急募、住み込み優遇します」と書かれた貼り紙。
今回は、草津(滋賀県草津市)の町並みと風俗を散歩します。
草津駅東口の階段を降りたところに白ポストがあります。
白ポストの箱としては、珍しいスリムタイプです。
「ゴミ箱ではありません。(吸殻、新聞、ゴミなどは入れないでください。)」と書かれていまが、中には、新聞紙などが入れられているようです。
反対側の西口にも同型の白ポストがあります。
長等3丁目の北国橋近くの通り。
側面に「火の用心」と書かれた大型の消防器具庫があります。
箱の上部には、スピーカーのような装置。
古い民家の建物の前に設置されています。
長等1丁目にある「ミチ美容室」。
レトロな佇まいです。文字がかけて「_チ美容室」になっています。
中央1丁目にある「松本理髪館」。
入口が斜めになっていて、いい雰囲気です。