五条会館の近くにある落ち着いた感じの洋風の建物。
側面には、アールデコ調の丸窓がデザインされています。
路地に入ったところにある洋風の旧お茶屋さん。
幾何学的なデザインが施されています。
五条会館の近くにある落ち着いた感じの洋風の建物。
側面には、アールデコ調の丸窓がデザインされています。
路地に入ったところにある洋風の旧お茶屋さん。
幾何学的なデザインが施されています。
国道1号線沿いの五条大橋のたもとから脇道を入ると五条会館(旧五条楽園歌舞練場)があります。
現在は、さまざまな催し物に活用されています。
異空間に迷い込んだような静けさが広がります。
3階建ての壮大な木造建築。
今回は五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。五条の風俗散歩は、2006年5月に引き続き、今回で2回目です。
2010年10月28日と11月18日の二度に渡る京都府警による一斉摘発ですべてのお茶屋(ちょんの間)が休業しました。現在は、五条楽園の看板や案内図が撤去され、再開の目処はたっていません。*1
以前は、このあたりに「五条楽園」と書かれた大きな看板があり、五条楽園の入口であることを示していましたが、その看板が無くなっています。
支柱があった場所には、コンクリートで穴を埋められ痕跡が残されています。
ここにあった「五条楽園」の大アーチも撤去されていました。
上の口橋の脇にある支柱の跡と思われる痕跡。
【参考記事】
*1 ズバ王(vol.99 2011.4.9)P.264-P.265「京都五条楽園も終焉か」
総武線の高架沿いに、お城のラブホテルがあります。
城郭を模したラブホテルの特徴である「狭間胸壁」(兵士が身体の一部を隠したままで射撃したり戦ったりするための隙間)と「張り出し狭間」(持ち送り支持構造の間に開いた床の開口部から攻撃者に向かって岩石を落とすための穴)がしっかりとデザインされています。*1
城郭を模したラブホテルの3つ目の特徴である「小塔」(狭間胸壁の上に、建物の外周に沿って不規則に配置されている円錐形の屋根を頂く構造物)はありません。
屋上には、「狭間胸壁」がデザインされています。
窓には、像と欄干。
【参考記事】
*1 風俗みちくさ 「中世の城郭を模した風俗建築(その1:ラブホテル建築の場合)
西船橋でよく見かける18歳未満入店お断りの看板。店の名前は書かれていません。
このビルの4階に店があるようです。
駅前の商店街から西へ延びる通り。
別の場所にも同様の看板。デリヘルの紹介所でしょうか。
西船橋駅前の商店街裏の路地。
錆びついた「個室マッサージL」の看板があります。現在、「ファッションヘルス」もしくは単に「ヘルス」と呼ばれている業態は、当初は「個室マッサージ」、「ファッションマッサージ」などと呼ばれていました。
正面へ回っていると、「個室マッサージL」らしい店舗は無く、どうやら看板だけが残っているようです。2階に大看板の跡があるので、店舗は2階にあったのかもしれません。
1985年(昭和61年)、新風営法の施行により、キャバレーなどの従来の風俗営業から、個室付浴場(ソープランド)、ストリップ劇場、個室ヌード、個室マッサージ、ラブホテル、レンタルルーム、ポルノショップなどが「風俗関連営業」に区分され、営業時間は、午前0時閉店に規制され、客引きも取締の対象となったため、業者は大きな痛手を被りました。ところが、個室マッサージだけが増加という珍現象が起きました。新法で認知されたことにより、業者がそれ一本に絞り込んだ結果でした。*1
【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.339-P.342
今回は、西船橋(千葉県船橋市)の町並みと風俗を散歩します。JR西船橋駅前にランドマークのようにそびえている早稲田予備校西船橋校の手前にキャバレービルがあります。
キャバレービルは、駅前のメイン通りにあります。
キャバレーなどが入居する総合レジャービルです。
2Fフィリピン、3Fロシア、4F日本...フロア毎に国が分かれています。5Fは麻雀、6Fはカラオケです。
新世界通りの東側の小路。
「18歳未満の方入店お断りします」にプレート。新旧2枚のプレートが並んでいます。
「酒場戸田村」の看板がいい味出してます。
飲み屋が建ち並んでいるのは小路の片側のみです。
スナックやパブなどが密集する旭町の歓楽街に飲み屋横丁の新世界通りがあります。
50mぐらいの長さの横丁です。
裸電球がぶらさがるアーチ。
昭和の雰囲気が漂います。
元城町の新地跡近くの交差点に共同で使用されていたと思われる流し台があります。最近は、ほとんど見ることがなくなった風景です。
鮮やかな青色のタイルです。
コンクリートブロックを3つ積み上げてその上に流し台を置いたシンプルな造りです。
埃がかぶっていますが、鮮やかなタイルの装飾は健在です。
清水の遊廓は、元は江尻志茂町(現在の清水銀座商店街)にありましたが、都市計画のために大正15年10月、巴川畔(現在の巴川橋際)に移転しました。*1
写真は、巴川橋から遊廓があった方向を見たところ。
昭和11年の市街図*2 には、現在の元城町の巴川橋の近くに「遊廓」と記された場所があり、その場所には、1本だけ幅の広い道路があります。この付近が遊廓のメインの通りだったのかもしれません。
1978年の住宅地図*2 によると、この付近には、八千代旅館、玉泉旅館など、数軒の旅館が建っていました。
電柱には、「廊」と書かれたプレート。遊廓の「廓」であればここが遊廓であったことの状況証拠となりうるのですが...
【参考文献】
*1 郷土出版社:清水いまむかし(郷土出版社,1987)P.29
*2 山田金十:清水市全図並都市計画街路網(山田金十,1936)
*3 日本住宅地図出版:清水市(日本住宅地図出版,1978)P.76
江尻町にある商店街の「清水銀座」。約500m続く大規模な商店街です。商店街の西側に「銀座小路」の入口があります。
居酒屋などが建ち並ぶ路地。
裏側には、「銀座小路」、「スナックA地点」と書かれた看板があります。
店名が並んだ看板。
今回は、清水(静岡県静岡市清水区)の町並みと風俗を散歩します。
静岡県の清水港は全国屈指の遠洋漁業基地です。清水港から陸にあがって清水次郎長の船宿跡を横目に道を歩き、海産物問屋の倉庫のある一画を抜けると普通の住宅街となりますが、そこに「南風プロモーション」という日本で最古級(1976年頃)の自販機エロ本の出版社がありました。自販機本というのは、エロ本自販機専用に開発されたB5版サイズ64ページのエロ本のことで、南風プロモーションはその版元でした。*1
南風プロモーションが制作した自販機本の表紙*2 には、「静岡県清水市水市三光町1-3」と住所が記載されています。実際にその場所へ行ってみると、そこには出版社らしき雰囲気はありません。
南風プロモーションがあったと思われる場所にはマンションが建っていました。
エロ本自販機の発祥は、酒のツマミの自販機にヒントに、「エロ本もオカズなんだから、自販機で売ったらどうだろう」と思いついたのがはじまりでした。*1
清水は珍味の生産が盛んな町なので、「エロ本→オカズ→珍味→自販機→エロ本」という因果の連関が清水において成り立ったわけです。
【参考文献】
*1 川本耕次:ポルノ雑誌の昭和史(筑摩書房,2011)P.74
【参考URL】
*2 南風プロモーション:LOVE YOU(年代不詳) 川本耕次:「B5版64ページの夢」より
環状七号線から脇道を入ったところ。
商店の軒下に名糖牛乳の牛乳箱があります。
名糖ホモビタ牛乳。木製の牛乳箱の朽ち具合が、箱の古さをを物語っています。
牛のマークのロゴ。
西新井では、犬の糞看板をあちこちで見かけます。関原の商店街にある喫茶店の入口。
梅島二丁目。
明美湯にて。
最近は、コンビニのゴミ箱に犬の糞を捨てる人が増えているようです。
梅田四丁目にある銭湯の明美湯。大きな建物です。
入口には、「人工温泉」の看板。
「明美」というと、スナックの店名かママさんの名前を連想してしまいます。ロケットのような形の煙突。
牛乳石鹸の暖簾。
環状7号線から、1本路地を入ったところに、銭湯の「たぐち湯」の建物があります。
堂々とした外観です。
表へ回ってみますが、何か様子が変です。銭湯は廃業してお寺に換わっていました。
もともと銭湯の建物は、お寺とみまごうばかりの重厚な「宮造り」の建築様式を取り入れた建物が多い*1 ので、銭湯の建物がお寺の建物として再利用されるというのは納得のいく話です。
【参考文献】
*1 町田忍:銭湯の謎(扶桑社,2001)P.58
環状7号線の道路沿い。
大人のおもちゃの店があります。
店名は「おしどり」。仲の良い夫婦をイメージしたのでしょうか。
看板の色と同じ黄色のシャッターは閉じられたままです。
今回は、西新井(東京都足立区)の町並みと風俗を散歩します。
環状7号線の交差点近くに自販機コーナーがあります。
隣の空き地に、現在は使われていない成人向け雑誌自動販売機が放置されています。
DVDなどの販売で、最近まで使用されていた自販機のようです。
免許証識別装置が組み込まれています。
大正時代、足尾銅山が全盛だった頃、渡良瀬川の川を渡った向原地区に、遊廓の「斎藤楼」がありました。
江戸・明治の吉原のような籬(まがき)のある遊廓は、足尾では「斎藤楼」1軒だけでした。*1
大正2年(1913年)発行の足尾全体の鳥瞰図「足尾銅山全圖」*2 には、渡良瀬川の崖の上に張り出すように斎藤楼の建物が描かれています。
大正5年(1916年)発行の足尾町商業案内便覽圖*3 に「斎藤楼」の位置が記されています。現在の足尾橋の約100m下流のこのあたりに橋があり、遊廓はこの道を進んで右へ入った高台にありました。
遊廓があった向原地区は、現在は住宅地になっています。
向原地区の全景。
【参考文献】
*1 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
*2 森田淳:足尾銅山全圖(1998,森田淳) 大正2年発行の足尾銅山全圖の復刻版
*3 足尾商業案内便覽圖復刻委員会:足尾町商業案内便覽圖(足尾商業案内便覽圖復刻委員会,1992) 大正5年発行の足尾町商業案内便覽圖の復刻版
足尾銅山全盛時代には30軒からの妓楼がありましたが、大火で全滅し、その後は、芸者とダルマ(私娼)が生まれました。*1
通洞駅前の案内板には、「明治40年発行 栃木県営業便覧」による松原地区の町並みが掲載されていて、地図には、「末広屋 芸者」「大和屋 芸妓」「中橋 芸者屋」などの記述があり、この一帯が花街だったことがわかります。
芸者屋の末広屋があったと思われるあたり。
見番に籍を置く芸妓たちは娼婦ではありませんでしたが、鉱山の町という場所柄だけに芸妓一筋に貫いたという話はあまりなく、お座敷の宴会が終わったあと、懇ろになった芸妓と奥の小座敷にしけこんで、交わりをしました。数年前に火事で焼けてしまいましたが、姿見橋近くの割烹旅館「一丸」の奥の方にも小座敷がいくつもありました。*2
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929)P.214-P.215
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.151-P.152
トタンの仕切り板に囲まれて大便用の個室が3つ並んでいます。
染付古子便器の大便器が当時のままで残されています。ここには、トイレットペーパーは無く、昔の浅草紙(落紙)を思わせるようなチリ紙が置かれています。
わが国において、用便後に紙で拭くのが全国的に一般化したのは昭和30頃で、それ以前の農山漁村では、植物の葉などを使用しており、紙の使用は都市部のみでした。足尾銅山は、山の中にあったとはいえ、膨大な数の尻を拭く葉っぱは到底得られず、明治の初期から紙で拭いていました。*1
花柄がデザインされた小判形大便器。
染付古子便器の場合、大便器には、角形と小判形の2種類がありました。角形の大便器は、下の箱、金隠しともに四角い形で、江戸時代の木製便器を模してつくられました。小判形の大便器は、金隠しが丸い形で下の箱が小判形のもので、陶器土で四角い形をつくるのが難しいため石膏型でこの形になりました。*2
夏場の便所は大変だったそうで、便槽にはたくさんのウジ虫がはい回り、換気の設備がないので刺激臭が鼻だけでなく目にもきました。大勢の人が使うので日ごとに糞尿の液面は上昇し、それにつれて例の「おつり」の危険性も高くなりました。冬場になると今度は便が凍ってうず高い山になり、お尻に触れそうで不安になりました。*1
【参考文献】
*1 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.7 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
*2 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4
青色のトタン板に囲まれた共同便所。
掃除の行き届いた男子用のトイレに、染付古便器が2つ並んでいます。
「染付古便器」は、白地の素地に酸化コバルトで絵付けし焼成したもので、明治中期から昭和初期にかけて瀬戸(愛知県)や信楽(滋賀県)でつくられました。小便器には、①朝顔形(口が手前に向けて開いた小便器)と②向高(向こう側が高くなった置便の底に穴をあけたもの)の2種類があり*1*3 、写真のものは①朝顔形です。*1
鉱夫長屋の便所では、装飾のない小便器が使われることが一般的でしたが、足尾銅山の場合は、花柄の小便器も使われました。*2
現在からみると、実用品というより工芸品の趣があります。*2
【参考文献】
*1 INAXライブミュージアム企画委員会:染付古便器の粋(INAX出版,2007)P.4
*2 本田 正男:鉱山研究(2010.3)P.2 「鉱山便所考 鉱夫の便所・役宅の便所」
【参考URL】
*3 株式会社LIXIL:INAXライブミュージアム 窯のある広場・資料館 染付古便器について
砂利道、石垣、木製電柱などがそのまま残る社宅の風景。
木製消火器箱が社宅の風景に溶け込んでいます。
長屋の棟毎に、1~2か所づつ取り付けられています。
ペンキ塗りたての消火器箱。「消火器」の白い文字が書かれる前の段階です。
今回は、足尾(栃木県日光市足尾町)の町並みと風俗を散歩します。
東京から約3時間半の場所に、銅山の遺構を有する足尾町があります。足尾がもっとも栄えた時期は大正5年で、人口は3万8千人。県内では宇都宮に次ぐ人口規模でした。川沿いの平地や斜面には規則的に並んだ平屋の長屋住宅が現在もいくつかの地区に残されています。*1
渡良瀬地区(足尾駅の北東にある渡良瀬橋を渡った向こう側の地区)は、大正・昭和の風景と町並みが残り、今なお生活が息づいている地域です。*1
足尾銅山では、ひとり者の坑夫は飯場住まいで、結婚して所帯を持つとこの長屋に住むことができました。当時の近郷近在の農家の娘たちは、足尾の坑夫の嫁となり、足尾の長屋の新居で暮らすことが夢でした。長屋が建って間もない頃は、建物も新しいし、新婚にとっては六畳ひと間でも夢のような文化住宅で、家賃のいらない長屋住宅で貯金もできました。しかし、坑夫の仕事が大変に辛いものであり、いずれは珪肺(けいはい)という職業病に侵され、まかり間違えば早く後家になるなどということは、娘の頃は考えも及びませんでした。*2
足尾の長屋のつくりは、江戸の長屋のつくりとほぼ同じで割り長屋(建物の棟方向に壁を造って区分)でした。足尾の場合は一棟五軒が圧倒的に多く、立地条件に合わせて建てられました。*2
長屋には共同の水場もあります。
共同浴場もあります。
【参考文献】
*1 伊東 孝:CE建設業界(通号692,2010)知られざる「100年」プロジェクト 足尾銅山(その2)大正・昭和の風景と街並みが息づく町
*2 三浦佐久子:足尾万華鏡(随想舎,2004)P.93,P.95
江戸時代の初期、富山の色町は、飯盛女が許可されていた旅籠町、自然発生的にできた岡場所の稲荷町、北新町の3か所でした。1841年(天保12年)、旅籠町の妓楼をすべて北新町へ移したことから北新町は城下最大の色町となりました。*1
その後、北新町は、維新を迎えて誕生した桜木町*4 に一部が移ったため、ややさびれましたが、それでも桜木町につぐ繁栄を保っていました。しかしここもすっかり町なかに取り囲まれ、なにかと悪影響が出てきたので、1895年(明治28年)、富山県庁はこの色町を清水町に移転することを命じました。*1
清水田んぼを埋め立てて作られた東新地(あずましんち)は、南町、仲の町、北の町と三筋の町に区画され、東廓(ひがしのくるわ)とも呼ばれました。桜木町から移った妓楼もあって、桜木町をしのぐ不夜城になりましたが、規模の小さいものがほとんどで、格式のある妓楼はみな桜木町に残りました。そこで必然的に、桜木町は芸をうる芸妓本位を特色にし、東新地の方は、からだを売る娼妓本位を特色とし、ふたつの廓はそれぞれの特色を分け合いながら発展をつづけました。*1
「いたち川流域に繁栄した戦前の町並」*2 を見ると「加賀屋」、「楽園」など、現在の料亭の屋号が記されています。村田屋は、東新地の頃から営業しているそば屋さんです。
料亭「川柳」。*2
阿部定事件(昭和11年に起きた猟奇的殺人事件)の犯人の阿部定は、事件発生の約10年前、この東新地の平安楼という芸妓屋で働いていました。*3
【参考文献】
*1 坂井誠一:わが町の歴史・富山(文一総合出版,1979)P.179-P.183
*2 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004) 付録の地図,P.276
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.60
【参考記事】
*4 風俗散歩(富山):桜木町
鼬(いたち)川の東側を流れる奥田用水。この奥田用水の東側に東遊郭(東新地)がありました。
かつては、川幅も広く水量も豊で、架かる橋の名が見返り橋、橋ぎわに柳があって、廓の街としては舞台がすべて揃っていました。*1
奥田用水沿いのこの場所には、数年前まで「ちんまの湯」と呼ばれた銭湯の建物が残っていましたが、現在は駐車場になっています。「ちんまの湯」という変わった名前は、昔、この辺りから馬に乗って帰るときの賃(料金)からきているそうです。*1
花街東新地があった当時、銭湯の人の出入りは大変だったようで、銭湯の奥さんの話によると、昭和33年に売春防止法が施行される前までは夜遅くまで人が歩いていて、灯もきれいで、銭湯も3時頃まで営業し、着物を着たきれいどころもよく来ていたそうです。*1
銭湯の隣には古い美容室の建物があります。
【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.273-P.274
富山市街を流れる鼬(いたち)川と奥田用水の間に、町中にポツンと金刀比羅神社があります。
明治41年建立の標柱。
東廓中と彫られています。
鳥居の裏側には、「東廓二業組合」。つまり、遊廓の関係者がこれを寄進したことを示しています。昔は、現在の4倍くらいの広さで、向かって右には庭と大木があり、お参りの人が多く、裏がすぐ遊廓だったため、その人達もよくきていい雰囲気でした。*1
【参考文献】
*1 島原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.232-P.233
松川沿いの大通り。標識柱に、ピンクビラのものと思われる剥がし跡があります。ここから桜木町の歓楽街はすぐそこです。
桜木町の歓楽街。居酒屋や風俗店が軒を連ねています。
この付近の標識柱には、必ずと言ってよいほど剥がし跡があります。
密集度の高い剥がし跡。
キャバレーやスナックがひしめく桜木町の歓楽街には、無料案内所がたくさんあります。
ピンクや赤の派手な装飾の店舗があちこちにあります。
スナック、キャバクラ、クラブ、デリヘル。業種は多彩です。
こちらは、落ち着いたモノトーンの配色。
明治維新後、桜木町に新しい色町が誕生しました。当時魚津にあった新川県庁は、風俗取締りと文教上の理由から、市内各所にある色町を一か所に集めることを考えました。適地を物色して。目を付けたのが当時廃城となり遊休地となっていた、富山城東の出丸跡でした。*1*2
現在の桜木町の歓楽街の中心部に、桜木町の歴史を説明した案内板があります。富山市郷土博物館の特別展図録に掲載された資料「越中之国富山桜木町一覧」の絵図の説明書きとして、桜木町の歴史が解説されています。
この説明にあるように、千歳御殿(東の出丸の隣にあった旧富山藩主前田利保の隠居所)の庭園部分の景観を活用して桜木町の色町がつくられました。
1872年(明治5年)に県の命令で、芸娼妓・貸座敷のたぐいはここへ移されました。
現在は、ネオンきらめくキャバレー街となっています。
【参考文献】
*1 坂井誠一:わが町の歴史・富山(文一総合出版,1979)P.179-P.183
【参考URL】
*2 富山市郷土博物館:富山城址の変遷 (3)東出丸・千歳御殿の解体
今回は、富山(富山県富山市)の町並みと風俗を散歩します。
富山駅前に、「シネマ食堂街」と呼ばれる一角があります。*1
シネマ食堂街は、昭和34年、‘映画館と食堂街’という新しい一角として誕生しました。*2
当時は朝から客の絶える間なく深夜まで賑わいました。映画は成人向きに変わり、現在は、二十数店が営業中です。*2
通りには、飲食店の看板が並び立ちます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.122
【参考URL】
*2 シネマ食堂街ホームページ
魚津市中央通りの商店街。
入口付近に牛乳箱があります。
本田乳業の牛乳箱。魚津の乳業メーカーです。
コーヒー。
大正3年、それまで鴨川町などにあった遊廓を移転して旭新地ができました。眺望絶佳の地に貸座敷が17軒の他、料理屋がありました。*1
旭新地があった場所は、日本カーバイド工業の敷地に隣接した海岸の近くのひらかれた街路の形の場所です。*2
昭和30年の魚津市街の地図*3 には、「新地」と表示された正方形の街路の一画があります。
木造家屋が道路の左右に並んでいます。
「新地」と書かれた電柱のプレート。
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.409-P.410
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.123-P.124
*3 魚津市(魚津市,1955)
電鉄魚津駅前の現在の新宿と呼ばれている界隈は、魚津の中心的な商店街です。
駅前の路地に、飲み屋横丁には、昭和の雰囲気が残っています。
写真の奥に見えるのは、富山地方鉄道の高架です。
全国花街めぐり*1 によると、魚津の花街は、旧町名で、田方、東小路、本江町にまたがった区域にありました。このうちの田方は現在の新宿のあたりでした。
魚津市内を流れる鴨川の周辺には飲食店が建ち並んでいます。
「全国花街めぐり」*1 に「五六十年前大町の船着場(港)から轉じて馬場、鴨川の両町に一廓をなす...」という記述がある通り、現在の鴨川町あたりは遊廓街でした。
鴨川沿いに設置されている案内板によると、京都の遊廓街のほとりに流れる鴨川からのその名をとって鴨川と称し、その遊廓街を(京都のそれにちなんで)撞木町と称していました。
鴨川沿いには、現在もスナックが建ち並んでいます。
鴨川町の遊廓は、大正3年に旭新地へ移転しました。*1
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.409-P.410
今回は、魚津(富山県魚津市)の町並みと風俗を散歩します。
JR魚津駅構内に白ポストが設置されています。
駅前に設置されることが多い白ポストですが、魚津駅の場合は、駅構内に設置されています。
箱には、富山県の花「チューリップ」がデザインされています。
箱の上部に、「有害図書はここに入れて」と書かれた矢印がデザインされています。
福井には、栄新地という赤線がありました。場所は、現在の有楽町付近です。*1*2*3
現在は歓楽街の面影はなく、バーが1軒あるのみです。
閑静な住宅街。
1970年の住宅地図*4 を見ると、この通りの両側にバーやクラブ、旅館などが建ち並んでいています。赤線廃止後もしばらくの間は歓楽街だったようです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.131 「渡辺寛 よるの女性街・全国案内版」
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.74 「福井市街全図」
*3 福井市:福井市史.資料編 別巻(福井市,1989) P.222-P.223 福井市街図・福井市都市計画予定図
※福井市街図・福井市都市計画予定図には、古い道路と都市計画後の道路が重ね合わせて示されているので、現在の場所を推定することができます。
*4 善隣出版社:福井市(善隣出版社,1971)
今回は、福井(福井県福井市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、現在の福井市立足羽小学校のかいわいに花街があって、多くの遊女や芸人たちが住んでいました。*1
日本遊里史*2 には、福井市玉井町に遊廓があったことが記載されています。
玉井町は旧地名で、現在は存在しませんが、昭和24年の「福井市街図・都市計画予定図」*3 を見ると、足羽小学校の北東に玉井町の記載があります。
幕末の国学者で歌人の橘曙覧(たちばなのあけみ)は、この花街に通い始め、売れっ子の遊女「やお」のとりこになり、ついに実家(商店)の大金を持ち出して彼女と駆け落ちしてしまいました。その後、二人は見つけられて福井へ戻されましたが、曙覧の花街通いは結婚した後も止まらず、やおとの関係は続きました。このようなことは、当時の庶民ならよくあることですが、国学者の橘曙覧といえでも、やはり聖人でもなければ賢人でもなかったという証だったといえます。*1*4
曙覧が子供たちのために書き残した家訓があって、これが足羽小学校の校歌の中に歌い込まれています。*1
「うそつくな」「もの欲しがるな」「からだだわるな(なまけるな)」という3つの戒めは、自分の欲望を抑えて誠実にいきることが曙覧の生涯であったことを表しています。*4
九十九橋南詰め付近に曙覧の生家跡の碑があります。若き日の曙覧はここから花街に通いました。
【参考文献】
*1 福井女性風土記 P.164-P165
*2 上村行彰:日本遊里史(文化生活研究会,1929)P.576
*3 福井市:福井市史.資料編 別巻(福井市,1989) P.222-P.223 福井市街図・福井市都市計画予定図
※福井市街図・福井市都市計画予定図には、古い道路と都市計画後の道路が重ね合わせて示されているので、現在の場所を推定することができます。
*4 上坂紀夫:こころ豊かに曙覧を歩く(福井県,2000)P.2,P.3,P.16
西成区には、町のあちこちに安売り自販機が設置されています。
その中でも激安なのが、缶ジュース1本50円の自販機です。
激安自販機に必ず品揃えされている「サンガリア」の缶ジュース。350ml入りで50円です。通常は120円の有名メーカーの缶コーヒーも、ここでは1本70円です。
「いち、にい、サンガリア、にい、にい、サンガリア」のCMでおなじみでした。
西成区の商店街で多く見かけるのが立小便禁止の貼り紙です。
手書きの鳥居のマークもあります。
鳥居のマークと貼り紙。
電柱の手書きの貼り紙。
「萩の茶屋婦人会」の名前でつくられたプレート。
飛田新地の北側の商店街。
昭和の雰囲気の残る末廣旅館。
美しいタイルの円柱。
玄関もふんだんな装飾が施されています。
「飛田本通り商店街」を南へ行くと「飛田本通り南商店街」です。
「紳士の社交場」の看板があります。
現在は営業していないようですが、昔懐かしいアルサロがあります。
看板も凝っています。
今回は、飛田(大阪府大阪市西成区)の町並みと風俗を散歩します。
動物前駅から飛田新地に至る飛田本通り商店街は、旅芸人の面影を残している通りです。途中の「オーエス劇場」という名の芝居小屋を過ぎ、西側に路地を入ると「松乃木大明神」という名の稲荷神社があります。
商店街の路地裏の住宅地のど真ん中にあって、探すのに苦労する場所です。
ここに、三味線の胴の形を猫塚があります。猫塚は、三味線の皮にされた猫の供養塚です。周りには、浪速節語りなどの遊芸民やテキヤの親分の興行主が寄進した小さな碑がずらりと並んでいます。*1
玉垣には、浪曲師の名前が刻まれています。
【参考文献】
*1 沖浦和光:旅芸人のいた風景(文藝春秋,2007)P.232
「王将」の歌で有名な将棋の坂田三吉ゆかりの「ジャンジャン横丁」は、「将棋クラブ」が建ち並ぶ将棋のメッカです。
「ジャンジャン横丁」から、東側に路地を入ると、そこには「餃子の王将」..ではなくて「ホテルの王将」があります。
入口にはタイルの円柱。
2階部分の豪華な装飾。
屋上にはレトロなネオン広告塔が残されています。
大阪のシンボル「通天閣」。
この通天閣の股の下に、銭湯の「ラジウム温泉」があります。
この銭湯のウリは、通天閣を見上げる展望を満喫できる露天風呂です。
露天風呂からは、ちょうどこのような角度で通天閣を仰ぎ見ることができます。露天風呂へ向かう入口のドアには、なぜか「ホモ行為一切お断りします」と書かれた貼紙がありました。
新世界は、明治36年の勧業博覧会の会場跡地を再開発して誕生した街ですが、事業を担当した大阪土地建物株式会社は、当時の大阪随一の盛り場だった千日前に勝るとも劣らない歓楽街を作ることを目的とし、劇場・寄席、料理店、旅館などの建設に力を入れた結果、街全体が紅街化しました。*1
「新世界全圖」*1 によると、この付近は当時「いろは小路」と呼ばれた場所で、ここには南陽演舞場がありましたが、現在は、映画館の国際劇場となっています。
現在ではほとんど見られなくなった絵看板がここでは健在です。
アール・デコ建築を思わせる洋風の建築です。
地下は、成人映画専門です。
【参考文献】
*1 水内俊雄,加藤政洋,大城直樹:モダン都市の系譜(ナカニシヤ出版,2008)P.174-P.180
今回は、新世界(大阪府大阪市浪速区)の町並みと風俗を散歩します。
通天閣のすぐ横にある芝居小屋の「浪速クラブ」は、わずか百席ほどの小さな劇場で、その外形は中世の河原に建てられた芝居小屋に似ています。明治維新以降の都市計画の進展につれて、近世の遊芸民が集住していた地区が次々に解体され、遊芸民は姿を消しましたが、唯一、その面影を残しているのが、いわゆる「大衆演劇」の芝居集団といえます。現在でも30数組の一座が全国を旅して回っています。*1
昼と夜の2回公演で、演目は日替わりなので、一か月の興行でざっと60本の出し物を演じるわけで、台本はすべて座長の頭の中にあって脚本は文字化されておらず、新作もぶっつけ本番です。*1
料金も格安で1200円。最後の総踊りの一時間半だけなら600円です。*1
この日は、愛京花「長谷川武弥劇団」の公演。芝居小屋の演目といえば、各地を渡り歩く博徒・侠客を 主人公とした人情話などが一般的ですが、この日の演目は、お笑いモノでした。
【参考文献】
*1 沖浦和光:旅芸人のいた風景(文藝春秋,2007)P.8-P.11,P.232-P.236
阪和商店街の奥まったあたり。
飲み屋横丁でよく見かける公衆トイレがあります。
赤文字の目立つ看板。
トイレの入口は、幅の狭いドアがあるのみです。
天王寺駅前商店街から東に、昭和の闇市の雰囲気の残る商店街があります。
路地は2筋あって、回遊することができます。
2筋の路地を横断する通路。
ビール会社のイメージガールのポスターが貼られています。
駅前に「天王寺駅前商店街」があります。
アーケードが延々と続きます。道路の挟んだ向こう側は、茶臼山のラブホテル街です。
アーケードの支柱の1本に「街娼の客待ち客引きお断り」の貼り紙があります。
もう1ヶ所、銀行の前の支柱にも同じ貼り紙がありました。
今回は、天王寺(大阪府大阪市天王寺区)の町並みと風俗を散歩します。
天王寺駅から北側を見ると、目に入るのが茶臼山のラブホテルの建物です。
中でもひときわ目をひくのがこの天守閣です。
実際のホテルは、通常のビル構造となっていて、城郭様式の建築ということではありません。
つまり、ビルの屋上に天守閣を模したオブジェが乗っかっているわけです。
札幌駅の北東(東区北7条東9丁目)に「サッポロビール博物館」があります。
2階に、ビールのポスター広告が展示されています。年代順に右から左に並べられているので、ポスター広告の変遷をみることができます。
初期のポスターに登場するのは、和服の女性です。
その後は、モダンなスタイルの女性。
現代になると、女優や俳優が登場しました。
札幌駅の北東の北8条通りに、さっぽろふるさと文化百選に選定されている「北海湯」の建物があります。1907年(明治40年)頃から開業した銭湯で、現存する銭湯の建物では札幌市では最も古いものの一つです。現在は貸しスタジオとなっています。
煉瓦造りの建物は当時大変モダンなものでした。
切妻の正面の2階部分にアーチ窓が設けられているのが特徴です。
1階部分にはガラスの装飾が施されていています。
薄野発展史の中で忘れてならないものの一つに豊川稲荷神社があります。明治27年、酒造業者の波多野与三郎が、東海の霊場豊川から商売繁盛の守護神の豊川稲荷の分霊を迎え、誕生しました。
当時の寄進者の名は今なお朽ち果てた門柱や玉垣に残されています。花柳界に勤める女性たちのほとんどは、縁起をかつぎました。
境内には「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」があります。
薄野の発展とともに豊川稲荷神社が歩んだ歴史を物語っています。
【参考文献】
*1 熊谷秀一:札幌遊里史考史考(麗山荘,1975)P.42-P.47
明治4年薄野に遊廓ができましたが、開拓使岩村判官は、「酒色を以って命となす」という労務政策に確信をいだき、「御用遊廓(御用女郎屋)」と呼ばれた妓楼「東京楼」を建て遊女を招きました。*1
開拓使時代、働く人々の娯楽としては、酒と女が第一であり、あまり固苦しいことでは労働者は集まらなかったため、このような粋な計らいがされました。*2
かつての薄野遊廓があった付近は、現在はこのようなビル街になっています。
この付近には、西花楼、源嘉楼、金華楼、三四楼と並んでいました。*3
検番があったあたり。*3
【参考文献】
*1 熊谷秀一:札幌遊里史考史考(麗山荘,1975)P.18
*2 読売新聞社:さっぽろ大路小路(読売新聞社,1972)P.70
*3 金子信尚:札幌區商工新地圖(金子信尚,1910)
薄野の繁華街は、現在はほとんどがビルになっていて、木造の建物は非常に少なくなっています。
南5条西4丁目に、「赤線跡を歩く.完結編」*1 に写真が掲載されている飲み屋の建物が残っていました。
道路を挟んだ向かい側の飲み屋街。
裏の小路。
小路を抜けると新宿通りに出ます。
新宿通りは、昔は「三等小路」と呼ばれていました。明治25年、薄野の大火で887戸が焼失する惨事となりましたが、札幌警察署は、再建を望む白首屋を南五条と南六条の仲通りに設営しました。公娼を一等、二等と階級づけるとすれば、私娼は三等なので三等小路と呼ばれたそうです。*2
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.34
*2 熊谷秀一:札幌遊里史考史考(麗山荘,1975)P.31-P.33
岩見沢の繁華街の二条西三丁目付近。
看板の文字がかすれて読みにくくなっていますが、「祇園小路」という横丁があります。
ビルの内部の路地を通りぬけると、その奥ににもう一つのビルがつながっており、路地が続いています。
2つ目のビルの先にも路地は続いていて、路地の行き止まりの奥にスナックがあります。
大正14年、岩見沢の大火で三条遊廓が焼失し、その頃、繁華街に混在する遊廓に風紀上の理由から非難の声もあがっていたことから、遊廓は、大火後の昭和3年に元町へ移転しました。*1
このあたりに大門があって、左側に4軒、右側に3軒の遊廓があり、元町遊廓は7軒街と呼ばれました。*2
遊廓の三方は蛇行した幾春別川に囲まれていましたが、そのうちの一方は埋め立てられて元町公園となっていて、辛うじて昔の川の跡を推測することができます。*3
このあたりには、長平橋という橋がありました。遊廓の土地の所有者の石黒長平氏が遊客の便を考えて幾春別川に橋を掛けたことから長平橋と呼ばれていました。遊廓の入口にあった大門から北西に幾春別川を横断して北本町の端に通じていましたが、昭和17年に老朽化のため撤去されました。*4
現在、遊廓の建物は解体されて、当時の面影はありません。唯一、豊水楼の建物が最近まで倉庫として残っていました。*2
その建物も解体され、現在は高齢者専用賃貸住宅が建っています。
【参考文献】
*1 岩見沢の女性史『あかだもの里』編纂委員会:あかだもの里(北海道女性の自立プラン岩見沢推進協議会,1994)P.32
*2 郷土史を学ぶ会:郷土史いわみざわ.第1集(郷土史を学ぶ会,1987)P.140-P.143
*3 和田高明:まるごとポケットガイド郷土かるた(和田高明,2006)P.43
*4 郷土史を学ぶ会:郷土史いわみざわ.第3集(郷土史を学ぶ会,1995)P.36
岩見沢の遊廓は、元町→三条→元町と移転を繰り返しました。
1885年(明治18年)頃には、「新吉原」と称する岩見沢市における最初の遊廓が元町にありましたが、その後、町の発展に伴いその中心が現在の市街に移ったため、遊廓も追随し、明治30年以降、三条西二丁目に移転しました。*1*2
下の写真の通りの右側に(奥から)末吉楼、榮楼、清月楼と並んでいました。*3
遊廓があった場所は、現在も繁華街となっていて「三条小路」という横丁があります。
居酒屋やスナックが建ち並びます。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 岩見沢の女性史『あかだもの里』編纂委員会:あかだもの里(北海道女性の自立プラン岩見沢推進協議会,1994)P.28-P.29
*2 郷土史を学ぶ会:郷土史いわみざわ.第1集(郷土史を学ぶ会,1987)P.138
*3 佐藤文次郎,笹島薫:岩見沢繁昌記(佐藤文次郎,1915)P.46-P.48,岩見沢商工家新地図略図
今回は、岩見沢(北海道岩見沢市)の町並みと風俗を散歩します。
三条の盛り場に、岩見沢では一軒だけ残る木造料亭の割烹酔月(すいげつ)があります。*1
「酔月」は、岩見沢市中心部にある割烹料理店で、大正3年の創業、かつて炭鉱が栄えた頃に接待や宴会で使われていた老舗です。現在の建物は昭和8年建築当時の遊廓建築の雰囲気を残しています。*2
付近は遊廓を含む花街でしたが、大正末の大火後、遊廓は郊外の元町中の島に移転しました。*1
「赤線跡を歩く.完結編」*1 と同じアングルから。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.35
【参考URL】
*2 北海道空知総合振興局地域政策課:そらち産業遺産と観光「割烹酔月」
歌志内上歌には、住友歌志内砿の厚生施設だった「上歌会館」があって、炭鉱従業員とその家族の憩いの場として、映画やショーが連日行われていました。*1
「上歌会館」は、炭鉱の衰退とともに廃屋となっていましたが、1984年(昭和59年)から放映されたテレビドラマ「昨日、悲別で」で脚光を浴び、「悲別(かなしべつ)ロマン座」として建物を全面改修し、全国から観光客が殺到しました。*1
座席数は370。大きく張り出した切り妻の三角屋根が特徴です。*1
1977年(昭和52年)公開の映画「幸福の黄色いハンカチ」でも「上歌会館」が少しだけ登場します。「悲別ロマン座」がブームになる7年前の貴重な映像です。
加藤登紀子やさだまさしを呼び盛大なコンサートを開いたこともありましたが、ブームは去り、客足は年々減少。市の財政難もあり、町の再興をかけた「悲別ロマン座」も風前のともしびとなっています。*1
【参考文献】
*1 :北海道新聞空知「炭鉱」取材班:そらち炭鉱遺産散歩(共同文化社,2003)P.225-P.227
歌志内にある食堂。
窓ガラスに、ジンギスカン、ホルモン、ナンコと書かれています。
「なんこ」は、秋田県北部では馬肉を指します。鉱山の働き手に伝わった馬肉料理が道内の炭鉱で馬の腸を使った家庭料理の代名詞になりました。馬は炭鉱が電化される前の主要な動力源でしたが、その馬は庶民の栄養源でもありました。*1
なんこ鍋は馬の腸のため、少しくさみがありますが、もつ煮に似た味で美味しく頂けます。
なんこ鍋は歌志内の名物料理で、市内の居酒屋やスナックなどの人気メニューになっています。
【参考文献】
*1 :北海道新聞空知「炭鉱」取材班:そらち炭鉱遺産散歩(共同文化社,2003)P.221-P.223
北海道の開拓を最底辺で支えたのは、アイヌ、囚人、”タコ”労働者、強制連行された朝鮮人と中国人でした。朝鮮人の強制連行は昭和14年(1939年)に始まり、特に労働力不足だった炭鉱、鉱山、土建業に連行が強行されました。その発端は、1937年に勃発した日中戦争(支那事変)で、戦争が激化・長期化するにつれて連行数は激増し、北海道だけでも数ヶ月間で10,396名を連行したという記録が残っています。歌志内の場合、朝鮮人寮と中国人寮は歌神地区にありました。*1
社会福祉法人北海道光生舎「クリーン・セブン」の看板があります。
この付近には、朝鮮人のための慰安所があり、強制連行した朝鮮人女性が慰安婦にあてられました。*2
祥雲橋の向こう側に、現在の光生舎があります。
以前は、このあたりに光生舎のクリーニング工場があり、その北隣に朝鮮人慰安所がありました。*1*3
【参考文献】
*1 杉山四郎:語り継ぐ民衆史(北海道出版企画センター,1993)P.119-P.130
*2 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海出版,1984)P.218-P.222
*3 ゼンリン:歌志内市(ゼンリン,1985)P.27
歌志内に遊廓開業の許可がおりたのは、明治35年でした。遊廓が繁栄したのは明治末期から大正中頃までで、旭川の第七師団が機動演習といって、この地域まで行軍し宿泊した夜に遊廓に遊びにいきました。また、次々と開鉱する炭鉱の坑夫たちも、ここでお金を使いました。
遊廓は、沢町の奥の坂を登ったあたりにありました。土地が少し高くなっていて、太い門柱が建てられ、遊廓はその奥にありました。*2
沢町にお住まいの吉田吉太郎さんの話によると、吉田さんの自宅の前には、木造の駆梅院(医師が女郎たちの健康診断を行う場所)がありました。*3*4
沢町の中間あたりには、芝居小屋や映画館のある繁華街でした。
【参考文献】
*1 杉山四郎:古老が語る歌志内(歌志内歴史資料収集・保存会,1997)P.31-P.34
*2 杉山四郎:語り継ぐ民衆史. 続(北海道出版企画センター,1997)P.276-P.277
*3 杉山四郎:古老が語る民衆史(みやま書房,1985)
*4 ゼンリン:歌志内市(ゼンリン,1985)P.40
今回は歌志内(北海道歌志内市)の町並みと風俗を散歩します。
かつては石炭産業で栄えた歌志内ですが、現在は静かな町並みとなっています。
市街には、スナックが数店舗点在します。
コンクリート造りのスナックの建物。
タイルで装飾された店の入口。
余談になりますが、歌志内出身のストリッパーのナンシー・ルミさんは、18歳の頃、「てい子の店」というスナックを歌志内に開業しましたが、19歳のとき(昭和45年)、「ダンサーになりたい。」という自分の夢の実現に向けて札幌に旅立ちました。このとき、歌志内の炭砿は、空知炭砿、住友歌志内炭砿の二山を残すのみとなっていて、人口もピーク時の46,000人から19,000人に減少していました。*1
【参考文献】
*1 藤井さとる:ストリッパー「ナンシー・ルミ」物語(文芸社,2008)P.59
昭和の初め、留萌遊廓には、日勝亭、丸一楼、桃開楼、一二三楼、北越楼などの遊廓、恵比寿屋、菊谷、今新、喜楽亭、富久元などの料亭が建ち並び、そのまわりには、カフェータツミ、ミニオン、カフェー太陽、第一モンパリ、ギンザ、藤美などの洋風カフェーが取り囲んでいました。*1
そのうちの一軒、料亭の「富久元」と思われる遺構が残っています。
どっしりとした和風の建物です。
料亭時代の面影が感じられる2階部分。
建物の裏側へ回ると、「富久元」の屋号が見えます。
【散歩地図】
【参考文献】
*1 福士廣志:留萌いまむかし(留萌市開基120年・市制施行50年開港60年記念事業実行委員会,1997)P.112-P.113
積丹半島の西海岸の北側に位置する留萌は、追鰊(おいにしん:鰊が群れで北へ回遊する習性を持つことを利用し、漁民が鰊を追って北へ移動すること)や出稼ぎで息永く繁栄しました。*1
初期の留萌の歓楽街は、現在の港町1・2丁目に点在していましたが、新市街地の計画の進展に伴い、明治30年代に、旧南山手通り(現在の幸町3・4丁目通り)に移され、新廓として留萌の一大歓楽街の核となりました。*2
明治43年の「留萌町市街地全圖」*3 には、山手通の63番地から92番地に遊廓があったことが示されています。
現在地も坂道になっていますが、遊廓のある頃はまだ勾配のある坂で、盆踊りの時期になると坂の上で何百人という踊りの輪ができました。夜十時頃には子供を帰して、女郎さんも入って夜明けまで踊り明かしました。*1
その後、新廓を中心とした歓楽街は、戦後の赤線廃止に至るまで日夜紅灯を灯し続けましたが、売春禁止法施行以降、歓楽街は錦町、開運町付近に移りました。*2
【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海出版,1984)P.49-P.51
*2 福士廣志:留萌いまむかし(留萌市開基120年・市制施行50年開港60年記念事業実行委員会,1997)P.112-P.113
*3 藤井清太郎:留萌町市街地全圖(谷口新聞舗,1910)
「有楽トンネル」*1 を出ると、左側に居酒屋やスナックが並ぶ横丁があります。
天井から日光が入る構造になっていますが、その構造を支える木材の支柱が恐竜の背骨のように、連なっています。
建物の屋根が出っ張っている部分が、横丁の天井部分です。
建物を西側から見たところ。写真の右下が「有楽トンネル」*1 の入口です。
【参考記事】
*1 風俗散歩(留萌):有楽トンネル(2011.9)
留萌市街の繁華街は、開運町に集中しています。開運町3丁目に「有楽トンネル」と名づけられた奇妙な空間があります。
トンネルの入口に所有者の名前が彫りこまれています。
トンネルの中にある和風スナック。
トンネルを出ると飲み屋が雑居している建物の裏側に出ます(写真左下が有楽トンネルの出口)。
今回は、留萌(北海道留萌市)の町並みと風俗を散歩します。
近年、いわゆる「萌えおこし」(萌えを意識したイメージキャラクターを前面に押し出した地域おこしの手法)が全国各地で盛んに行われています。*1
北海道においても、増毛町から豊富町までの指定バス路線が乗り放題となる「萌えっ子フリーきっぷ」が発売され、1日券にはバスガイドの制服,2日券にはメイド服姿の少女があしらわれています。*2
「萌」の字を冠している「留萌」だけに、駅前には、自然発生的とも思われる「萌え看板」が多数出現しています。
地元のFM放送局の窓ガラス。
ケアセンターの「る・もえーる」。「留萌・萌える」が「る・もえーる」(フランス語の「ル(le)」は英語のtheにあたる定冠詞)に変化したのでしょうか。萌えるネーミングです。
【参考文献】
*1 井手口彰典:地域総合研究(2009.9)P.57-P.69「萌える地域振興の行方–『萌えおこし』の可能性とその課題について」
【参考URL】
*2 沿岸バス株式会社:公式ホームページ「萌えっ子フリーきっぷ」
滝川市街の平和公園に、ブロンズ像があります。その名も「若き立像’88」。
作者は笹戸千津子さんです。
後ろから見た立ち姿も美しいです。
下半身。
今回は滝川(北海道滝川市)の町並みと風俗を散歩します。
滝川市は味付けジンギスカン発祥の地と言われていますが、その元祖「松尾ジンギスカン」の本店が、滝川市明神町3丁目にあります。*1
松尾ジンギンスカンの北東側の隣の一画には、大正末期から昭和まで遊廓がありました。*2*3
現在、遊廓跡地は、市立中央保育所などの施設や住宅地になっています。
このあたりは、娼妓組合の事務所がありました。*2
遊廓の近くには、望月川という川が流れていました。その望月川の名残とも言える「望月川橋の碑」が建設会社の建物の前栽の中にあります。*3
【参考URL】
*1 滝川市ホームページ「松尾ジンギスカン本店」
【参考文献】
*2 横山善作:瀧川町明細案内図(横山印刷所,1940)
*3 杉山四郎:語り継ぐ民衆史. 続(北海道出版企画センター,1997)P.293-P.298
明治30年、十勝線(現在の富良野線)と天塩線(現在の宗谷本線)の鉄道工事が始まったことに伴い、職工や人夫を目当てに曙一条・二条の六丁目に曙遊廓ができましたが、その後、明治33年に第七師団が移駐が開始されると、「曙では遠い」という理由から、明治40年に石狩川と牛朱別川(うしゅべつがわ)に囲まれた場所(現在の東一条二丁目付近)に中島遊廓が新設されました。しばらくの間、2つの遊廓が両立する時期が続きましたが、曙遊廓の方は、大正11年に市立旭川商業学校が開校し、学生の出入りが頻繁になっため、消滅しました。*1
現在は、バス通りのある住宅地になっています。
大門があったあたり。*1
「赤線跡を歩く(完結編)」*2 に掲載されている写真と同じ場所。
1993年頃まで、この場所に旭川印刷工業(株)の2階建ての建物がありました。昭和31年に印刷所用に内外部を改修し、昭和34年から会社の社屋として使用されていましたが、外観では南棟が遊廓建築の面影を残していました。*3
「あさひかわの建物」*3 によると、旭川印刷工業(株)の建物は元「昇月楼」だったとされていますが、「大正10年前後の中島遊廓配置図」*1 を見ると、昇月楼は道を挟んだ反対側に位置し、旭川印刷工業(株)があった場所*4 には北越楼がありました。
【参考文献】
*1 木野工:旭川今昔ばなし(続)(総北海,1985)P.45-P.57,P.117
*2 木村聡:赤線跡を歩く.完結編(自由国民社,2007)P.42
*3 川島洋一:あさひかわの建物(旭川振興公社,1986)P.12-P.13
*4 日本住宅地図出版:旭川市(日本住宅地図出版,1975)
旭川市内の八条通り7丁目には、通称「ハチナナ」と呼ばれる赤線がありました。*1
道路沿いに、この赤線跡と思われるスナック街があります。*1
スナックの入口。
「ハチナナ」は、別名「稲荷小路」とも呼ばれていました。*1
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.26-P.29
五条通8丁目に、ビル街の中にかろうじて残る昭和の風景「夢路小路」があります。
飲み屋街の片側だけが残り、反対側は車の駐車スペースになっています。
絵はがき「旭川街角スケッチ③昭和のにぎわい」*1 で描かれている風景です。
看板を支えているのは金属製の金具なのですが、その金具は母屋から突き出た木製の支柱によって複雑に支えられています。
【参考文献】
*1 スケッチ研究会:旭川街角スケッチ3(あいわプリント)
三条通り5丁目付近。繁華街に観光センターと書かれた看板があります。
昼間のビルは、静まりかえっています。
コンパニオン募集の看板。
夜になると、「個室付浴場」のネオン看板が点灯します。
三条通り5丁目付近。飲食店や風俗店が集まるエリアです。
「五番街」と書かれた看板のみが残っています。本来、ここには、路地があったのだと思いますが、現在は閉鎖されて、代わりにドアが取り付けられています。
「トマソン」とも言えそうな「無用看板」です。
建物の後ろ側にまわってみると、路地であった部分がふさがれていることがわかります。
今回は、旭川(北海道旭川市)の町並みと風俗を散歩します。
旭川市内一の盛り場である「サンロク」とは3条通6丁目一帯のことで、この付近は飲食店や風俗営業の店がしのぎを削っています。*1
4条通6丁目の道路に面した氷販売店の隣に「パリ街」*1 があります。
現在も飲食店が営業中です。
パリ街のテナント募集中の貼り紙。
夜になると「パリ街」の看板に灯りがともります。
【参考文献】
*1 木村聡:荷風!大人の新宿(日本文芸社,2004.7)P.109-P.110「赤線跡を歩く 北海道旭川編」
皆生温泉名物の大人のおもちゃ屋さん。
いろいろなものが陳列されています。
夜になると温泉街らしさをかもしだします。
遠くからでも目につく看板。
今回は、皆生温泉(鳥取県米子市)の町並みと風俗を散歩します。
皆生温泉は、1890年(明治23年)に地元の漁師が海中に温泉が湧いているのを発見したのを機に、温泉地としての開発が進められ、戦後には、団体客が多く訪れるようになり、今日に見られるような温泉街に発達しました。
1981年(昭和56年)には日本で最初のトライアスロン競技が開催され、その発祥の地として毎年大会を開催しています。
その発祥の地を記念してブロンズ像が建てられています。
皆生トライアスロンの碑。
大正3年(一説には元年)、米子町がそれまで市内各所に散在していた”性的放射場”を風紀上好ましからずとしてこの一郭に集め、花園町をつくりました。それ以前はヨシの生い茂る荒れ畑でした。通りの中央には、桜並木があって、両側に格子戸の茶屋が軒をつらね、それぞれ屋号の入ったチョウチンが掲げられていました。*1
大正13年発行の日本交通分縣地圖*2 の「米子町」には、花園町に「遊」「廓」の二文字が記されており、このあたりが遊廓であったことがわかります。
中央の通りは、周囲の道路と比べて道幅が広くなっています。
昭和33年、売春防止法の施行とともに、新地の紅い灯は消え、茶屋は旅館や下宿に転業しました。美しかった桜並木も切られてしまいました。*1
現在は、夜間営業のスーパーマーケットが出来、赤灯ならぬ蛍光灯を明々とともして繁盛しています。*1
【参考文献】
*1 影井亮文:米子点描(今井書店,1983)
*2 大阪毎日新聞社:日本交通分縣地圖.其10 鳥取縣(大阪毎日新聞社,1924)
江戸時代、灘町は海運交通の要・米子港に面していて、船着場がありました。
船着場には、自然遊興の施設がふえますが、米子に飯盛女をおくことが許されたのは、境港よりは遅く18世紀後半でした。*1
全国遊廓案内*2 によると、灘町遊廓は、米子市灘町二丁目にあって、乗合自動車で「荒神前」で下車したところにありました。
明治30年頃までは、「月波楼」、「紙屋」などが全盛を極めて灘町遊里を背負って立っていました。「月波」は、田口機械店があった場所から灘町荒神社へ出るまでの道路の近くにありました。*3
田口機械店は数年前までありましたが、現在は新しい住宅が建設中です。
荒神社までの道沿いに古い町並が残っています。
灘町荒神社。
「米子界隈」*3 によると、「紙屋』は、この通り(田口機械店から荒神社へ向かう通り)の途中の沖半のところを吉祥院の方へ曲がったところにあった。」と書かれています。沖半(おきはん)も、全国遊廓案内*2 に記されている妓楼名ですので、このあたり一帯が灘町遊廓であったと考えられます。
大正3年に灘町の遊里は、花園町へ移転しました。*1*3
【参考文献】
*1 船越元四郎:米子ぶらり歴史散歩(米子ぶらり歴史散歩刊行会,2006)P.68
*2 南博:近代庶民生活誌.第14巻(三一書房,1993)P.141
*3 野坂寛治:米子界隈(「米子界隈」刊行会,1969)P.292-P.293
米子市灘町に京都風で数寄屋普請の屋敷の遺構「灘町後藤」があります。港に近い内町にある後藤家の住宅「国指定重要文化財」と区別するために「灘町後藤」とよばれています。当初は住宅として使われましたが、終戦後、一時期進駐軍が利用しました。また、昭和31年以降、十数年間は料亭「好日荘」として活用されました。*1
漫画家の水木しげるさん夫妻はこの「灘町後藤」で結婚式を挙げました。(「ゲゲゲの女房」*2 に、「式場は米子の灘町後藤のお屋敷でした。」と書かれています。)
広大な敷地の3面(東、南、西)は板塀(犬矢来つき)で囲まれています。現在は、人が住んでいないこともあって、痛みが進んでおり、早急な修繕がのぞまれています。*1
北側から見た2階建ての主屋。
東側には、洋館と裏門があります。*1
【参考文献】
*1 鳥取県教育委員会:鳥取県の近代化遺産(鳥取県教育委員会,1998)P.177-P.179
*2 武良布枝:ゲゲゲの女房(実業之日本社,2008)P.42
米子市灘町に銭湯の弁天湯があります。
ビル型銭湯ですが、古い町並みによく溶け込んでいます。
鮮やかな暖簾。
シンプルな脱衣所。
朝日町の路地。
軒下に牛乳箱があります。その下には猫がいます。
米子牛乳の牛乳箱。
郵便ポスト代わりに大切に使われています。
朝日町の裏(西側)に森山小路と呼ばれる路地があります。安来節を世に広めた功労者として有名な森山清太郎さんの実家がこの近くにあったことから、森山小路と呼ばれるようになったそうです。*1*2
朝日町界隈には、このような幅の狭い路地が縦横に延びていて、スナックが密集するエリアとなっています。
森山小路の裏の路地。
道幅は狭いので、車が入ってくることはできません。
【参考文献】
*1 松田勝三:米子ぶらり放談. 続(松田勝三,1982)P.170-P.172
*2 影井亮文:米子点描(今井書店,1983)
朝日町は、米子の夜の顔です。
朝日町界隈というと、朝日町自身は当然のこととして、東倉吉町や西倉吉町、尾高町や角盤町の一部も入り、この一角にクラブ、バー、スタンド、その他の飲食店が絶対数として圧倒的に密集しています。*1
明治45年(1912年)に、角盤町の女学校を会場として山陰鉄道開通記念全国特産品博覧会が開催されたときに、この通りが会場への通路として使われ、土産品店や飲食店や淫売屋までできたのが、この地帯が繁華街となったはじまりといわれています。12
蝶々型のエプロンを掛けた女がお客にサービスをするカフェーとそれに類似する店舗としては、「喜侭食堂」「麗人会館」「キング」「つたや食堂」「いすみ屋」などがありました。*1
現在は、飲食店ビルがいくつも出現していますが、昔ながらの木造スナックも健在です。
夜になると、ネオンひしめく歓楽街に変わります。
【参考文献】
*1 松田勝三:米子ぶらり放談. 続(松田勝三,1982)P.169-P.170,P.176-P.177
*2 船越元四郎:米子ぶらり歴史散歩(米子ぶらり歴史散歩刊行会,2006)P.74
今回は、米子(鳥取県米子市)の町並みを風俗を散歩します。
旧加茂川は米子市民にとって縁の深い川です。かつては、洗面、洗濯、風呂の水など、生活のあらゆる面に利用されました。 川としての情緒はいまも生々と息づいています。なかでも紺屋町から四日市町にかけて公道橋や小橋(個人所有の橋)が何十も架かっているのは壮観です。*1
東倉吉町から西倉吉町にかけての旧加茂川にかかる覚証院橋周辺は、夜になると朝日町や東倉吉町の歓楽街へ行く人が多く通る古い町並みです。*2
覚証院橋は、江戸時代に覚証院という寺があったことから名前がついた橋です。*2
朝日町へまがる角には、昭和59年に「笑い地蔵」が建立されました。*2
【参考文献】
*1 よなごの宝88選実行委員会:市民が選んだよなごの宝八十八(2010,よなごの宝88選実行委員会)P.84-P.85
*2 杉本良巳:米子・境港・西伯・日野今昔写真帖(郷土出版社,2005)P.56
境港は、漫画家・水木しげるさんのふるさとです。「水木しげるロード」には、水木しげるさんの漫画に登場する妖怪たちのブロンズ像が設置されています。
泥田坊(どろたぼう)は、放蕩息子のおかげで田んぼを失った農民が妖怪化したもので、「田を返せ~」と叫びます。妖怪研究家の多田克彦さんの別説によれば、泥田坊の話は、江戸の遊廓・新吉原が舞台で、「田を返せ」というのは、田を戻せという意味ではなく、「田を耕せ」つまり男女の性交を意味していて、「田を返せ」という泥田坊の声は、客引きの言葉と解釈されるそうです。*1
妖怪には女の妖怪もいます。
高女(たかおんな)は、女郎屋の二階に現れて、人を驚かす妖怪です。*1
轆轤首(ろくろくび)は、遊女、女房、娘などと女性である場合が多く、体から首が完全に分離して活動するものと、細い紐のような首でつながっているものの二形態があります。*1
口裂け女(くちさけおんな)は、昭和50年代に全国の小学生たちの間で噂された怪女で、寂しい公園や薄暗いところに大きなマスクをした女が立っており、通りかかった者に「私きれい?」と尋ねます。返事をすると、「これでも?」といってマスクを外し、耳まで裂けた口を見せて、持っていた鎌や包丁で同じように裂いてしまいます。*1
【参考文献】
*1 村上 健司:妖怪事典(毎日新聞社,2000)P.144,P.208,P.243-P.244,P.365-P.366
点在するスナック街に、「風俗営業(カフェー)」のプレートが貼られた建物があります。
こちらの看板にある通り、数年前まで営業していた歴史のある風俗店だったようです。
昭和24年の開店から50年ということですから閉店したのは、1999年頃ということになります。
色鮮やかなタイルの装飾。
現在は、風俗店の面影はありません。
栄町周辺には、スナックが点在しています。このあたりは、昭和10年の大火の消失区域の北側に位置します。
洒落たスナックの看板。
木造母屋を改造したスナック。
古びたスナックの建物。
末広町は、明治3年に設置された古い町ですが、当時としては時代の最先端を行く商店街が軒をつらねていました。現在も古い町並みが残っています。*1
「パチンコ ナショナル会館」のアーチ。
表側の入口には、大看板が設定されています。
建物の裏側のパチンコの看板
【参考文献】
*1 杉本良巳:米子・境港・西伯・日野今昔写真帖(郷土出版社,2005)P.60
今回は、境港(鳥取県境港市)の町並みと風俗を散歩します。
境港の遊廓の歴史は古く、宝暦13年(1763年)に飯盛置屋の設置が許可されたことにさかのぼります。*1
昭和10年1月12日、この日は東北風の強い日でした。午後7時過ぎ、歓楽街の中心であった桜町(現在の栄町)の遊廓から突如として起こった火の手は、折からの強風にあおられて本町、松ヶ枝町、栄町へと延焼し、境町の繁華街は全焼しました。*2*3
「境港大火の消失区域」の図*3 によると、消失区域の北東端が桜町であったことが記されていますので、ちょうどこのあたりが遊廓があった火元付近です。
この道路の南側(写真の左側)が大火のときの消失区域です。現在は、水木しげるロードなど観光施設が密集するエリアとなっています。
栄町(えいまち)は、現在も存在する地名です。
【参考文献】
*1 小泉憲貞:境港独案内(小泉憲貞,1900)P.50-P.51
*2 境港市:境港市三十五周年史(境港市,1991)P.33
*3 境港市:境港(境港市,1984)P.95
倉吉の旧市街。湊町のあたり。
消火器箱が2つ。郵便受け、電気メータ..いろいろなものが貼りついています。
その中でも黄色の消火器箱が目につきます。
黄色の消火器箱はめずらしいと思います。
倉吉市新町3丁目に銭湯の大社湯があります。
裏側から見ると、四つ角に面した普通の木造家屋ですが、下部に煉瓦が使われています。
ガラス窓に、女湯、男湯の文字。あいにく本日は定休日でした。
「レート白粉」の琺瑯看板。
越殿町の倉吉新地跡に、遊廓であったと思われる建物があります。
独得の装飾があります。
建物の側面部分。
玄関に店の屋号が残っています。
倉吉の遊廓は越殿町にあって、最も多い時で80人もの女性がいました。彼女達は、倉吉や東伯出身の人は少なく、多くは県外者でした。公認の遊廓でないので遊興費は僅かで済み、親切で純朴な美人が多いのがこの廓の面白さでした。*1
倉吉考*1 に写真が掲載されている建物。遊廓時代の雰囲気を伝えています。
建具の格子は美しく見事です。
この場所だけが道路の幅が広くなっています。
【参考文献】
*1 生田昭夫:倉吉考(堂設計室,1980)P.58
倉吉の旧市街の岩倉町は、料亭などの商店が立ち並ぶ賑やかな通りでした。
案内板によると、この通りは、昔からの町人町で、江戸時代には大店も多く、一時期は料亭もたくさんあって、戦前この町の若いもんが出征する時は芸者衆が三味・太鼓で見送ってくれたそうです。
地元の方の話によると、西岩倉町の通りには花街の名残と思われる旅館の建物が最近まで残っていたそうですが、現在はその面影はありません。
大正3年の「倉吉案内記」によると、芸妓検番事務所が越中町(西岩倉町の西隣)にあり、芸妓の総数は42名だったと記されています。*1
東岩倉町の倉吉淀屋の前に駐車場になっている空き地があります。地元の方の話によると、ここに残る礎石は料亭の建物が建っていた名残だそうです。また、この料亭の隣には遊廓があって、格子がついている建物が最近まで残っていたそうです。
【参考文献】
*1 柴田文次郎:倉吉案内記(桑田書店,1928)P.71