遊廓があった横町通り沿い。

小さな神社があります。神社の名前は記されていません。

「坂城の宿場と遊廓」*1によると、明治16年に遊廓設置についての願書が提出されましたが、そのときの惣代に、馬場吾三郎、佐々木長一郎の名前がありますが、この2名の名が玉垣に刻まれています。

明治27年6月建立。遊廓の設置の関係者は、当時の町の有力者だったことがわかります。

【参考文献】
*1 中沢勇:坂城の宿場と遊廓(信濃書籍出版センター,1978)P.42
遊廓があった横町通り沿い。

小さな神社があります。神社の名前は記されていません。

「坂城の宿場と遊廓」*1によると、明治16年に遊廓設置についての願書が提出されましたが、そのときの惣代に、馬場吾三郎、佐々木長一郎の名前がありますが、この2名の名が玉垣に刻まれています。

明治27年6月建立。遊廓の設置の関係者は、当時の町の有力者だったことがわかります。

【参考文献】
*1 中沢勇:坂城の宿場と遊廓(信濃書籍出版センター,1978)P.42
坂城の遊廓は、横町裏の天領時代の陣屋跡地に選定されました。*1

現在は、遊廓の痕跡は残っていません。

陣屋跡であることを物語る石垣(駅前の案内板より)が残っています。

遊廓の入口は、坂城駅側にもあって、駅からは斜めに板橋がかけられていました。夕方の列車の停車時には、娼妓たちが出迎えに、また朝方には客を送ってきて、駅の待合室はなまめかしい雰囲気が漂い賑やかでした。*1

【参考文献】
*1 中沢勇:坂城の宿場と遊廓(信濃書籍出版センター,1978)P.42,P.49-P.51
今回は、坂城(長野県上田市)の町並みと風俗を散歩します。
坂木宿ふるさと歴史館は、宿場時代を再現した建物の中に、坂城宿の歴史に関する資料が展示されています。

坂城宿は、北国街道の宿場として100軒以上の建物が建ち並ぶ大きな宿場でした。

坂城宿は、長野県の中では権堂宿と並び早い時期から飯盛旅籠が設置された宿場でした。

坂城宿の模型。写真の横に延びる通りが立町。写真の左側の通りが遊廓があった横町です。

東武浅草駅前に、地下街への入口があります。

昭和の匂いの残る地下街。居酒屋や占いの店などが並んでいます。

700円の理髪店。

アダルトビデオもあります。

千束通り商店街から東側に入ったところに銭湯の曙湯があります。

なだらかな曲線の唐破風(からはふ)屋根と懸魚(けぎょ)と呼ばれる彫刻。

銭湯の後ろ側へ回ると煙突が見えます。

美しい漆喰塗りの塀。料亭のような佇まいです。

ひさご通りの西側に、ビジネスホテルが密集する一画があります。

商店やスナックなどが建ち並んでいます。

ホテルの大看板。

ホテルの提灯。

ロック座は、昭和22年にオープンし、23年よりストリップを開始し、昭和58年に休館となりますが、その後復活しました。*1

経営母体を替えながら、今でも同じ場所場所で営業を続けているストリップ劇場です。*1
昭和20年代に次々と造られた浅草のストリップ劇場は、浅草座や美人座などストリップ専門の小屋もありましたが、ロック座は、ストリップショー1時間半に軽演劇1時間という時間割を定めて演劇に力を入れていました。ロック座の初代軽演劇部門の初代座長は伴淳三郎でした。*2

女性は、割引です。

懐かしいアイスキャンディー売りの自転車がとまっていました。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の浅草(武揚堂,2007)P.37,付録地図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.207
「食道街」は、浅草の中でも、飲食街が中心となった繁華街です。

スカイツリーの方角に「ホテル」と書かれた大看板があるのが気になります。

外国人用のゲストハウスのようです。

建物の屋上に設置された広告大看板。

国際通りから新仲見世通り方面へ入ったところに、大人のオモチャ屋さんがあります。

うっかりすると、通り過ぎてしまいそうですが、町並みにレトロな店舗が溶け込んでいます

「ビデオ」の看板。

ショウウィンドウ。品揃えが豊富です。

浅草の雷門通り。この日は、三社祭の日でした。

雷門通りの南側、国際通りの東側は、旧浅草田原町一、二、三丁目から、雷門通りの北側の旧浅草北田原町の一帯は、紙漉き(かみすき)を業とする人たちが住んでいたことから、紙漉町と呼ばれていました。旧町名の案内板には、このことが記述されています。
トイレットペーパーが普及する以前まで使われていたネズミ色をしたチリ紙(別名、「落とし紙」、「便所紙」)のことを「浅草紙」と呼びますが、紙漉町は、「浅草紙」の発祥の地です。

紙漉町の紙漉場の多くは、その後、山谷堀の周辺に移転しました。浅草紙の漉家にとって山谷堀は、紙漉きのための用水を供給してくれる大切な水資源でした。現在の東浅草一丁目に、”紙洗橋”の欄干が残っていますが、これは、山谷堀の漉家が堀端に水槽を設けて、紙漉きの作業の工程の一つである”冷やかし”(原料を 水につけておく作業)を行っていたことを示すものです。山谷の漉家で働く男たちは、”冷やかし”の間の二時間あまりの時間を利用して山谷堀をわたって新吉原に潜入し、偵察に出かけるのを楽しみにしていました。これが、「買わずに帰る」”冷やかし”の語源となりました。*1

雷門通りを挟んだ北側には、「旧浅草北田原町」の案内板。雷門通りをはさんで南北二町に分けられたため、南側が田原町三丁目、北側が北田原町三丁目(現在の浅草一丁目)になったと説明されています。

【参考文献】
*1 會田隆昭:浅草紙の三〇〇年–江戸=東京北郊に於ける漉返紙業の歴史地理(百万塔/紙の博物館, (113),2002.10)P.79-P.82
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
5月22日に東京スカイツリーが開業し、浅草からの展望は大きく変わりました。

しかし、浅草のシンボルと言えば、この通称うんこビルです。

うんこの先っぽ。

上から見たうんこ。

温泉街にある千曲市総合観光会館の前にブロンズ像があります。

ブロンズ像の題は、「髪」。

温泉街らしい美人像です。

下の方から。

戸倉上山田温泉の南側のはずれに、温泉資料館があります。

温泉に関する貴重な展示品がたくさんあります。

当時の温泉の芸妓の展示コーナー

戸倉上山田温泉の芸妓の写真。

上山田温泉の西側に、大衆演劇場の「信州大勝館」があります。

この日も、昼、夜の2回、公演が行われていました。

この建物は、以前はストリップ劇場の「信州ロック座」でした。今でも看板だけが残っています。

ビルの屋上の大看板。「ヌード」と書かれた文字が見えます。

温泉街につきものの「射的」ですが、戸倉上山田温泉にも3軒ほどあります。

思い出の町通りには、2軒あります。

新世界通りの四つ角にある「射的」。

「遊技場」のプレート。

「思い出の町」は、戸倉上山田温泉の歓楽街の中心部です。

上山田温泉にカフェーができたのは昭和の初めですが、「思い出の町」は戦後にできた歓楽街です。売春婦は、戦後盛んになりましたが、現在は禁止されています。*1
売春防止法施行の影響は大きく、その翌年は客が3割減少し、約半数の赤線業者がしました。廃業した特飲店は、バーや飲食店、芸妓屋、ヌードショーホールに転業しました。*2

「喫茶スナック」のある路地。

路地を1本入ったところのスナック街。

【参考文献】
*1 乙部泉三郎,高野博夫:長野県戸倉上山田温泉のあゆみ(観光文化社,1960)P.85
*2 アサヒ芸能(1958.10.19)P.10-P.11
上山田温泉本通りの南側の一画。

古びたスナックの建物があります。

以前は、このあたりも歓楽街だったのかもしれません。

哀愁をおびたスナックの看板。

戸倉温泉の銀座通りは、千曲川寄りの戸倉温泉通りと上山田温泉本通り(温泉街のメインの通り)を結ぶ通りです。

上山田温泉本通り側には、「銀座通り」と書かれた通りの入口を示す看板があります。

銀座通りは、かつてカフェや料亭が建ち並ぶ花街でした。
上山田の芸妓屋は、銀座通りの「エビス屋」が始まりと言われています。*1

通りの随所に華やいだ雰囲気が見られます。

【参考文献】
*1 乙部泉三郎,高野博夫:長野県戸倉上山田温泉のあゆみ(観光文化社,1960)P.85
今回は、戸倉泉(長野県千曲市)の町並みと風俗を散歩します。
戸倉駅から、バスで5分の場所に戸倉温泉はあります。

風情のある町並み。

かなり大きなゲートです。

千曲河畔通りと書かれたゲートがあります。

1955年、利賀村に「利賀少年自然の家」が完成しました。

前庭には、富山県婦人会から寄贈された「母子ブロンズ像」が飾られています。

この像は、トルコ風呂建設を阻止し、次代に生きる子供たちに健全な郷土を伝え得た県内婦人たちの記念碑とも言えるものです。*1

母子象には、「どの子にも愛の手を」という婦人会の願いをこめた言葉が刻まれています。

【参考文献】
*1 とやまの女性史
トルコ風呂は、近くの八乙女山(標高751m)にちなんだ名前がつけられる予定でした。

八乙女山周辺は、ハイキングコースになっています。

八乙女山の頂上。

八乙女山からは、日本の原風景「砺波平野の散居村」を遠望できます。

昭和50年(1975年)、富山県南砺市利賀村の栃原から下原にまたがる一帯に一大「トルコ風呂」街建設計画が持ち上がりました。しかし、この計画は、富山県や世論の反対に会い、トルコ風呂建設計画は中止となりました。
トルコ風呂の建設が予定されていた場所は、計画中止後は肉用牛牧場となりましたが、現在はその施設も無くなっています。

現在、この付近は、観光開発され、スキー場ができています。

この計画の裏には、歯止めの利かない過疎化を何とか食い止めようとした村の苦渋の選択がありました。「トルコ風呂誘致」によって一大歓楽街が生まれれば、村の過疎化を食い止めることができると考えたわけです。
利賀村は、富山県のトルコ風呂の営業が可能な区域(禁止除外区域)に指定されていて、この場所は、JR越中八尾駅からバスで片道1時間(1日2本)で、冬場には、3~4mの雪が積もる場所で、とてもトルコ風呂の営業が成り立つとは思えない山間僻地でした。
このような場所にトルコ風呂建設が計画されたとは信じられないような話です。

栃原の隣の下原にもトルコ風呂建設が計画されていました。

今回は、五箇山(富山県砺波市)の町並みと風俗を散歩します。
1995年に世界遺産に登録された五箇山地方は、合掌造り集落に代表されるように、周囲を山と川に囲まれ、独自の文化を育んできました(写真は相倉地区)。

相倉合掌造り集落から国道156号線を南西に5kmほど行ったところに、「民謡の里」と名づけられた公園のおうな場所がありますが、 ここに「お小夜塚」があります。
元禄3年(1690年)、加賀藩で藩士4人が職務を果たさず遊女と遊興にふけっていたことから、五箇山に配流(はいる)となる事件がおきました。このとき、遊女の「お小夜」も連座となり五箇山に流されました。お小夜塚の場合は、罪の軽い平流刑だったため、家を自由に出入りすることができたため、その美貌からたちまち配流の地でも憧憬の的となりました。

やがて、お小夜は吉間という男と愛し合うようになり、吉間の子を身籠ってしまいました。罪人の身で妊娠したことが藩にばれれば、吉間や村の人に迷惑がかかることから、苦悩の末、お小夜は、村の端を流れる庄川に身を投げました。

「女郎ヶ池」。二人が愛をかわした場所です。

余目駅前の商店街。

バス停の前にコンドームの自販機があります。

以前、鶴岡で見かけた自販機*1 と同型ですが、こちらの方が年数が経過しているように見えます。

販売されている商品は、「Kansai(寛斎)」です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(鶴岡):コンドームの自販機(2008.11)
トルコ風呂論争の舞台となった常万児童公園(この写真の奥)に隣接して、皇大神社があります。

神社の境内の東側の奥まった一画に、道祖神社があります。

鳥居のすぐ後方に、石でできた男根が2つ。

血管が浮き出ていてリアルです。

国道47号線から100mぐらい入ったところに、常万児童公園があります。

トルコ風呂を排除する目的で、行政側が意図的につくった公園です。

児童公園と書かれたプレートはどこにもありませんが、遊具は設置されています。

公園から国道側を見ると、問題となったトルコ風呂の建物が見えます(写真奥)。

今回は、余目(山形県東田川郡庄内町)の町並みと風俗を散歩します。
かつて、山形県において、トルコ風呂開業阻止のため、児童公園が設置され訴訟事件となったことがありました。風俗営業法では、官公庁や学校、図書館、児童福祉施設などの敷地から半径200メートル以内でのトルコ風呂の営業することを禁止しているため、この規制を逆手にとって、行政側が意図的に公園を作ってトルコ風呂を排除しようとしたわけです。
この事件において、仙台高等裁判所は、昭和49年7月8日の判決で、「山形県知事の児童遊園地認可は、控訴会社(トルコ風呂業者)が現行法上適法になし得るトルコ風呂営業を阻止、禁止することを直接の動機、主たる目的としてなされたものであることは明らかであり、法の下における平等の理念に反するばかりでなく、憲法の保障する営業の自由を含む職業選択の自由ないしは私有財産権を侵害するものであって、行政権の著しい濫用と評価しなけらばならない。」とし、行政側が敗訴しました。さらに、昭和53年5月26日の上告審においても、最高裁判所は「行政権の著しい濫用であり、国家賠償法一条一項にいう公権力の違法な行使にあたる」と判示しました。*1

当時の住宅地図*2 には、余目町の常万に「トルコハワイ」と記された建物があります。

現在もその当時のものと思われる建物が残っています。

建物の裏側。

【参考文献】
*1 松本女性史の会:”買春”許すまじ(銀河書房,1984)P.72-P.74
*2 ゼンリン:東田川郡余目町・立川町(ゼンリン,1990)P.13
インターチェンジ沿いには、「ホテル京浜」以外にも数棟のホテルが立ち並んでいます。

複雑な形をした歩道橋の向こう側にホテルが見えます。

インターチェンジの南側。

人目をひく概観のホテル。

今回は、今井町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
戦後のモータリゼーションの進展に伴い、日本でもアメリカのモーテルを真似たホテルが道路沿いに建てられました。
日本初のモーテルは、石川県の「モテル北陸」であると言われていますが、「モテル北陸」はドライバーの休息を目的としたものであったため、本格的な日本初のモーテルは、横浜の東名高速道路のインターチェンジ近くにつくられた「モテル京浜(ニュー京浜)」でした。

ガレージ式ラブホテル。

入口を示す看板。

道路から見ると目立ちます。

大田駅の北側は、南側とは異なり風俗店はありません。富士重工業(「スバル」ブラ前ンドの自動車などを製造)の工場の周辺には、古びたスナックがあります。

居酒屋風の古い建物。

駅の北側は、再開発の計画があるらしく、広大な空き地となっていますが、西側の一画は商店街が残っています。

駅の南側の東寄りに、旅館、スナック、美容室が同居する長屋風の建物が残っていました。

「南一番街」の西側のエリアは、パブなどの風俗店が密集するエリアです。

パブの看板。

新しい店舗が多い中で、唯一レトロなつくりの店舗があります。

建物の側面には、「素人専門店」と書かれた貼り紙が貼られています。

太田駅前の商店街「南一番街」は、近年、シャッター通り化した商店街に風俗店が入居し、商店街が風俗街化するという特殊な現象が起きました。
「南一番街」は、昭和43年(1968年)、もともと田畑だった土地を開発してつくられ、運営には、地元の商店主で構成される「太田商業推進共同組合」が組織されました。昭和52年代に入り、スーパー大手のユニーが、太田駅前に大型店「ベルタウン・ユニー」(現在はドンキホーテ)を作る計画がもちあがり、当初は「太田商業推進共同組合」はこれに反対しましたが、話し合いの結果、半分をユニーが、残りの半分を「太田商業推進共同組合」の商店主達店を構えることで決着しました。ところが、いったん大型店ができてしまうと、商店主は、出資した大型店に意識が集中してしまい、商店主の子供達も大型店で働くようになったため、南一番街からは気持ちが離れ、後継者も居なくなりなりました。こうして「南一番街」が徐々に歯抜け状態になり、あるとき、商店主は、風俗店業者に店舗を貸し始めました。*1*2

風俗店が進出した結果、商店街が風俗街化しました。

派手な看板の風俗店が乱立しています。

駅の南側は、飲食店・風俗店の密集地帯です。

【参考文献】
*1 今泉智裕:ハビタット通信((4)2006)P.28-P.31 「太田ファスト風俗街」
【参考URL】
*2 清水まさよし:太田市長とれたて日記「ユニー、ベルタウン撤退とまちなか活性化」
今回は、太田(群馬県太田市)の町並みと風俗を散歩します。
太田は、スバルでお馴染みの富士重工業の城下町です。

町名は「スバル町」。

スバル最中。

瓦せんべいを購入。

住宅街の中にイスムラ寺院のモスクのようなドームが見えます。

広大の敷地と高級感あふれる豪華な外観。「モテル」と書かれた看板が見えます。

相模線の線路沿いにあります。

大通りからの入口を示す看板。

今回は、寒川(神奈川県高座郡)の町並みと風俗を散歩します。寒川駅は、JR東海道線の茅ヶ崎駅から相模線に乗り換えて3つ目の駅です。

駅前に「てんとう虫ポスト」が設置されています。

色は赤なので、白ポストとは呼ばずに「てんとう虫ポスト」と呼ぶようです。動物をアレンジした白ポストとしては、ヤギやひつじがありますが、てんとう虫の箱は珍しいと思います。

てんとう虫は、アブラムシなどを食べる益虫(人間にとって役だつ昆虫)です。

ペリー上陸の碑の手前に喫茶店があります。

こちらの店主の方は、縄地金山の女郎に関する本を書かれているそうです。

喫茶店の内部には、昔の下田を知る貴重な資料が展示されています。

縄地金山は、ペリー上陸の碑から見えるこの山の方角にありました。

ペリーロードの東端から路地を入ったところに、銭湯の昭和湯があります。

ビル型の銭湯ですが、「昭和湯」のロゴ、温泉マーク、などレトロ感があります。

鮮やかな紺色の暖簾。

昭和湯の看板。

総領事タウンゼント・ハリスのもとへ侍妾(じしょう)として奉公にあがったお吉ですが、維新後は芸妓として流浪の果てに下田へ戻り、料理屋「安直楼」を開業します。

安直楼は、最初は盛況でしたが、次第にお吉の前歴などの風評をまき散らされて、客足が遠のき、2年後に廃業しました。

安直楼の後は、寿司店として営業していました。

現在、資料館としての営業は中止しているようです。

下田の弥次川界隈は、ペリーロードと名づけられて散策の小径となっています。ここは旧遊廓でした。

周辺には風情ある建物が残っています。

ペリーロードの中心部にある柳橋。

「ペリー提督遠征記」にもペリーロードは登場するようです。

下田市街にある稲田寺。

鶴松の墓。

お吉と鶴松は恋仲でしたが、お吉に、アメリカ総領事ハリスの妾になる話が持ち上がり、役人たちは無理やり二人の愛情を引き裂いて、お吉は仕方なくハリスに仕えることを承諾しました。

鶴松の一生を説明した案内板。

今回は、下田(静岡県下田市)の町並みと風俗を散歩します。
「唐人お吉記念館」は下田の観光スポットです。

お吉は、14歳で芸妓となり、美貌の持ち主だったため、総領事ハリスのもとへ妾として奉公にあがることになりました。

お吉の墓。

”らしゃめん”となったお吉は、世間から罵声と嘲笑を浴び、晩年は貧困の中に身をもちくずし、明治24年、自らの命を絶ちました。

東陽町の運転免許センター前の通り。

現在は、企業のビルが建ち並ぶ場所ですが、2005年、ここに洲崎球場跡の碑ができました。

プロ野球草創期に、1年間で100試合近くの公式戦が行われた有名な球場ですが、埋立地につくられたため、海水が満ちてきて試合が中止になったなど、強烈なエピソードを持っています。*1

球場のすぐそばには洲崎遊廓がありました。堅物というイメージの強い巨人軍の沢村栄投手もたまに試合後に通っていたそうです。*1

*1 佐野正幸:あの頃こんな球場があった(草思社,2006)P.193-P.199
飲み屋街※1 の中央にある細い隙間は、トイレへの入口です。

人がようやく通れる幅の通路を進むとトイレのドアがあります(写真右奥)。

トイレのドア。

手洗い場。

洲崎橋跡の右手(西側)の通り。

こじんまりとした一杯飲み屋が軒をつらねている一画があります。

映画「洲崎パラダイス」の舞台となったと思われる飲み屋街です。*1

スナック店が建ち並びます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.14-P.17
都営洲崎住宅に隣接する東陽一丁目第二公園。ここに、洲崎遊廓の娼妓の供養碑があります。

ここは、警視庁洲崎病院の跡地です。*1

白菊の花にひまなくおく露は なき人しのぶなみだなりけり
昭和六年十一月九日
信州善光寺大本願大宮尼公台下御親修
洲崎遊廓開始以来先亡者
追善供養執行記念
善光寺より僧を招いて、開業以来廓で亡くなった無数の娼妓の霊をなぐさめるための法要を行った際の供養碑です。*1

洲崎遊廓の建物は、戦災ですべて焼失しましたが、そのような状況の中、戦前の様子を知る唯一の手がかりとなるものです。

【参考文献】
*1 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.276-P.279
旧洲崎遊廓の敷地の電柱には、2種類のプレート貼り付けられています。
一つは「南海」、そしてもう一つは「遊園」です。

亀戸の私娼街だった亀戸遊園地(現在は住宅街)の電柱には、「遊園地」と書かれたプレートがありましたが、洲崎の遊園地も亀戸遊園地*1 と同じように、『大人向け遊園地』という意味の名前だったのでしょうか。

手書きの「遊園」のプレート。

「遊園」のプレートがあるのは、戦後復興したと言われる東半分のエリアのみです。西側半分側の電柱のプレートはすべて「仙印」と書かれています。

【参考文献】
*1 風俗散歩(亀戸):「遊園地」と書かれた電柱のプレート
今回は、洲崎(東京都江東区)の町並みと風俗を散歩します。
旧洲崎遊廓の南端にある南開橋。汐浜運河にかかる橋です。

運河を渡る南開橋は高い位置にあるので、ここから洲崎遊廓があった方向を眺めると、橋からは下り坂になっています。

現在、汐浜運河となっている場所は、昔は海でした。

モクレンの花が満開です。

国道293号線沿い。

銭湯の末広湯があります。

入口には、趣のある手書きの看板。

材木置き場。

遊廓内には、北東にお酉様(大鳥神社)、南東に椿森稲荷神社がありました。

このうち、椿森稲荷神社は、戦後、青木医院の西に再建されました。

ここに、明治43年に建てられた記念碑があります。

碑の裏面の寄付人名簿に、「金二十円 各楼内働一同」とあります。新地の昔を知ることが出来る貴重な資料です。*1

【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
明治41年頃、石橋町にあった竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、下材木町にあった新藤楼の五軒が下田町の田んぼの中にできた廓に移転させられました。遊廓は新地と呼ばれ、五軒の遊廓だけの”五軒町”が生まれました。はじめは、奈佐原からも一軒加わる予定だったので、それが実現していれば”六軒町”となっていたかもしれませんでした。*1

電柱には、「新地」と書かれたプレート。

新地の東側を流れていた木島用水は、現在は暗渠になっています。

新地の南側の通り。古い民家の建物が残っています。

【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.242-P.246
東武日光線の新鹿沼駅近くの国道293号(例弊使街道)沿いは、鹿沼宿の本陣や脇本陣などが集まっていました。石橋町から下材木町にかけては、多くの旅籠屋(旅館)があって、なかには、飯盛女を置いて、売春行為をさせる遊女屋もありました。*1

大沢楼があった足利銀行鹿沼支店付近。*1

竹沢楼は、現在の合同タクシー付近にありました。*1

石橋町から下材木町方面を見たところ。

明治41年頃、現在の下田町二丁目付近に遊廓(新地)が建設されましたが、このとき、旧旅館街から、竹沢楼、清水楼、柏木楼、小林楼、新藤楼の五軒が移転したため、新地は、”五軒町”と呼ばれました。
【参考文献】
*1 柳田芳男 :かぬま郷土史散歩(1991,晃南印刷出版部)P.179-P.182
今回は、鹿沼(栃木県鹿沼市)の町並みと風俗を散歩します。

JR鹿沼駅前に、「もういらない!みんなでなくそうポルノ自販機」と書かれた大きな看板があります。

堂々とした看板。

地元の市民団体が建てたようです。

大垣駅前の高屋町に、ラーメン店や居酒屋、スナックが並ぶ一画があります。

2本ある小路のうちの西側の小路。

二階部分に手すりのある建物。

紫色のスナックの看板が郷愁を誘います。

旭遊廓の南側のはずれに、旅館風の大きな建物があります。

3軒の建物がつながっています。

重厚な造り。

東側から。

旭遊廓跡地には、当時の面影を伝える残る古い建物がわずかに残っています。

古い建物は、西側の通りに残っています。

「売物件」の札の立つ古い建物。

花街の風情が残っています。

今回は、大垣(岐阜県大垣市)の町並みと風俗を散歩します。
全国遊廓案内*1 によると、大垣市藤江町には、旭遊廓がありました。*2
現在は、遊廓の面影は残っていませんが、遊廓の敷地らしい道幅の広い道路が南北に2本通っています。

「旭廊支」と書かれた電柱番号札。(「廊」ではなく、「廓」だと思われます。)

東側にもう1本の道路。

こちらの電柱番号札は、「旭廊東分」となっており、このあたりが遊廓の東側のエリアだったと考えられます。
同じ中部電力管轄の清水市でも、遊廓跡地に「廊」と書かれた電柱のプレートを見かけました*3。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.85 「全国遊廓案内」
*2 大垣市:大垣市史(大垣市,2009)付図「昭和12年大垣商工街図」
【参考記事】
*3 風俗散歩(清水):「廊」と書かれたプレート(2011.11)
豊年祭は、男根の持つ爆発的なエネルギーを豊穣、豊作に結びつけた珍しい祭りです。男達が男根をかたどった神輿を担いで町を練り歩きます。神輿の行列の先頭を行くのが、このリアルな幟です。

巫女さんが男根を触らせてくれます。

男根の神輿。全体の形状が反っていて、リアル感があります。

亀頭のカリの部分の造形が見事です。

田縣神社の絵馬。安産や子宝祈願が最も多いようですが、願い事はさまざまです。

絵馬には、神輿の絵が描かれています。

巨根祈願。

中には、このような変わった願い事も。

豊年祭で付き物なのが、土産物屋です。中でも「さずかり飴」は人気商品です。

大小さまざまな「さずかり飴」が売られています。

「ばな珍」は、玉も付いた特別仕様です。

小牧駅前で売られていた「Hチョコレート」。

今回は、小牧(愛知県小牧市)の町並みと風俗を散歩します。
田縣神社は、古来より、恋愛、子宝、安産、縁結び、夫婦円満、商売繁昌、の神様として、全国また世界各国の人々から注目されている神社です。

田縣神社を特色づけているのは、男根崇拝です。

男根の形をした自然石も境内のあちこちに置かれています。

奥の院のさらに奥に、珍宝窟があります。「玉さすり賽銭いれて珍となる」と書いてあり、お金を入れるといい音が響きます。

【参考URL】
*1 粟田孝浩:田縣神社 公式ホームページサイト「ようこそ田縣神社へ」
南草津駅からバス約10分の場所にある清浄寺に、遊女梅川の墓があります。
梅川は、近松門左衛門作の人形浄瑠璃の「冥途の飛脚」のモデルとなりました。

道路から少し入ったところに清浄寺があります。

遊女梅川の墓。

清浄寺の近くに、梅川終焉の地があります。

遊廓の敷地の角にある出世地蔵・水子地蔵

東新地の遊女の信仰を集めていたようです。

奉納額に「草津東新地東樓(楼)」と書かれています。

石柱の裏側に山貞(やまて)楼の文字が彫り込まれています。
山貞楼は、北側の奥から2軒目にあった妓楼です。*1

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
遊廓跡地には、妓楼の面影を残す建物が残っています。
通りの南側には、吉富楼、月の家、常盤楼、開盛楼、大富楼の順で並んでいました。*1

唯一、当時の妓楼の屋号が残る開盛楼。位置も当時のままと思われます。

南側の中ほどにある建物。

北側に位置する束田タバコ・菓子店は、初期から存在しました。*1

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
草津新地の起源は、明治33年で、東(あづま)新地と呼ばれ、東横町の南、字小二俣の水田の地に形成されました。 草津新地の最盛期は、第一次大戦中の好景気の時期(大正8年前後)でした。当時の東新地の構成は、道路を挟んで貸座敷が合計16軒並んでいました。新地は、売春防止法が施行される昭和33年まで続きました。*1
「大日本職業別明細図」*2 によると、「遊廓」、「東新地遊事ム所」の記載があります。

中央の道路には、藤・しだれ柳の分離帯がありました。*1

吉冨楼があったあたり。

中央の道路がいかに広いかは、新地の周囲の道路の道幅が狭いことにより、実感できます。

【参考文献】
*1 草津市史編さん委員会:草津市史(草津市,1986)P.633-P.637
*2 東京交通社:大日本職業別明細図.大津市他(東京交通社,1937)
草津駅前の駅ビルの南側に、飲み屋が密集する一画があります。

密集する看板。

周囲はビルが建っていますが、ここがだけが昔の面影を残しています。

「ばんから横丁」の入口に展示してある大路二丁目の昭和初期の頃の写真。

駅前のビルの地下1階に飲食街の「ばんから横丁」があります。

「ばんから横丁」は、昭和30年代の草津の駅前の町並みを再現した飲食街で、あちこちに配置された看板や電柱などの小物は当時のホンモノを使用しています。(案内板より)

スタンド、居酒屋、スナックなどがリアルに再現されています。

「女中さん急募、住み込み優遇します」と書かれた貼り紙。

今回は、草津(滋賀県草津市)の町並みと風俗を散歩します。
草津駅東口の階段を降りたところに白ポストがあります。

白ポストの箱としては、珍しいスリムタイプです。

「ゴミ箱ではありません。(吸殻、新聞、ゴミなどは入れないでください。)」と書かれていまが、中には、新聞紙などが入れられているようです。

反対側の西口にも同型の白ポストがあります。

長等3丁目の北国橋近くの通り。

側面に「火の用心」と書かれた大型の消防器具庫があります。

箱の上部には、スピーカーのような装置。

古い民家の建物の前に設置されています。

長等1丁目にある「ミチ美容室」。

レトロな佇まいです。文字がかけて「_チ美容室」になっています。

中央1丁目にある「松本理髪館」。

入口が斜めになっていて、いい雰囲気です。

遊廓があった柴屋町(馬場町)は、その後は夜の歓楽街となりました。*1
1966年刊行の「あじ・やど・おんな」*2 によると、柴屋町のクラブ・バーの建物は、300年の間栄えた遊廓の建物をそのまま使った古い店で、大津絵から抜け出たような色の白い京女が酌をしてくれたそうです。
旧赤線だったことから、店によっては飲食を抜きにして、ホステスに肉体サービスをさせるところもありました。*3
写真右手前のあたりには、花街会館がありました。*4

現在の柴屋町の歓楽街。

ひところと比べると店舗はまばらですが、所々に、スナックが密集している路地があります。

バー「たか」跡。*4

【参考文献】
*1 「角川日本地名大辞典」編纂委員会:角川日本地名大辞典(角川書店,1979)P.579
*2 福村弘二:あじ・やど・おんな(東栄堂,1966)P.130-P.131
*3 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.312
*4 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
桶屋町は、道路を隔てて東西に延びています。東の桶屋町は、昭和初期の建物が並ぶ住宅街となっています。格子の窓や、二階には木の手すりも多く残っています。*1

三代続く医者のお宅。*1

西の桶屋町は、遊廓があった柴屋町に接しているため、飲食店が軒を連ねています。建物には、昔、芸者置屋さんだった雰囲気が残っています。*1

桶屋町は、揚屋町として栄えました。遊客は、この揚屋へあがり、置屋から遊女を呼び出し、遊興を楽しみました。*1

【参考文献】
*1 大津の町家を考える会:大津百町物語(サンライズ出版,1999)P.62
貞享5年(1688年)の「日本永代蔵」に「柴屋町より白女よび寄、客の遊興昼夜のかぎりもなく」とあり、大津の柴屋町(現在の長等2、3丁目)は、賑わいのある評判の遊廓でした。町の東西南北には大門があり、廓内に約30軒がありました。

「旅館えびすや」と思われる建物。*2

かつては、妓楼だったのかもしれません。

「料理きくや」と思われる建物。*2

【参考文献】
*1 地名辞典(岐阜県)
*2 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
薬局の建物にあるトンネル路地(ろーじ)。
この近くには、花街組合の建物がありました。*1

トンネルを抜けると2階建ての長屋が連なる路地が続いています。
この付近には、「松の家」「グリル花柳」「クラブ古都」「ニューコンパ」などのバーやクラブがありました。*1

路地は、コの字型に曲がって、元の通りへ戻ります。

路地の曲がり角のあたり。

【参考文献】
*1 善隣出版社:大津市(善隣出版社,1971)P.4
今回は、大津(滋賀県大津市)の町並みと風俗を散歩します。
京阪電気鉄道石山坂本線の三井寺駅で下車し、柴屋町を目指して南下すると、途中に交差点があります。

交差点を西側からみたところ。交差点の角には、かつてスチームバスセンターがありました。

現在は、料理屋の建物が建っています。

近くには、料理屋の「豆信」。登録有形文化財に指定されている建物です。

長浜の黒壁スクエアに、海洋堂フィギュアミュージアムがあります。海洋堂は、ガレージキット・フィギュア・食玩等の各種模型を製作する有名企業です。
フィギュアとは、さまざまな、キャラクター人形を指します。

美少女フィギュアのゾーン。美少女フィギュア造型の第一人者BOME氏の作品を中心に展示されています。

美少女戦士セーラームーンのセーラー戦士たち。

ゲーム「いきなり はっぴいベル」より「鷺ノ宮柑子」。

近年、フィギュアは、アニメやゲーム作品に登場する美少女タイプが多様化し、「保存用」「観賞用」「実用」というという言葉や概念で区別されるようになりました。*1
【参考文献】
*1 斎藤環:戦闘美少女の精神分析(筑摩書房,2006)P.66-P.70
南片町の妙法寺周辺には、スナックや料理屋が点在していて、色町の風情を感じます。

和風の佇まいがよく似合います。

「和風スナック」と書かれた料理屋の建物。

新しい建物ですが、こちらも「和風スナック」と書かれています。

長浜遊廓は、長浜町字南片町にありました。*1

大日本職業別明細図*2 によると、このあたりが南片町で、この付近には、遊廓事務所もありました。

風情のある通り。この通りの奥には、「みゆき」「弥生」「かをる」「シルバー」「美知子」「多恵」などの店が入る「東仲見世」*3 という名の飲み屋街の建物がありましたが、現在は取り壊されて更地になっています。

「高崎屋」という旅館の建物。「全国遊廓案内」*1 によると、同名の屋号の妓楼がありました。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.117 「全国遊廓案内」
*2 日本交通社:大日本職業別明細図 長濱町(日本交通社,1936)
*3 日本住宅地図出版:長浜市(日本住宅地図出版,1980)P.61
今回は、長浜(滋賀県長浜市)の町並みと風俗を散歩します。

JR長浜駅のエスカレータ横に白ポストがあります。

白と青の美しいコントラスト。「白ポスト」の文字が鮮明に描かれています。

「ゴミ箱ではありません。」の注意書き。

歌舞伎町の繁華街の中心部。

「白川郷」という屋号の旅館があります。

ホテル白川郷の前身は、1958年に、岐阜県白川郷の「合掌造 り」を新宿歌舞伎町に移築し復元した「割烹白川郷」です。1992年に「ホテル白川郷」として生まれ変わりました。*1

歌舞伎町には、「春秋会」と呼ばれるホテル経営者のグループがあって、グループのメンバーは、すべて岐阜県大野郡荘川村中野から移り住んだ人たちでした。川村中野は、合掌づくりで有名な白川郷と境を接した集落で、昭和35年の御母衣(みほろ)ダムの完成により、現在は、ほぼ全域が水の底に沈んでいます。*2

【参考URL】
*1 有限会社白川郷:「ホテル白川郷」公式ホームページ「白川郷名称の由来」
【参考文献】
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.68-P.70
新宿区役所裏の老舗のファッションヘルス店のある路地。

「レンタールーム」と書かれた元旅館の看板。

青いタイルで全面が装飾されています。

宿泊料3500円の貼り紙。

今回は、歌舞伎町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
歌舞伎町公園前の通り。飲食店などが入る雑居ビルが建ち並んでいます。

「美少女戦士コスプレエンジェル」。風俗店と思われる看板ですが、それらしき店舗はすでにありません。店舗が閉店した後に看板だけが取り残されたようです。
「リボンの騎士」、「セーラームーン」などの「戦闘美少女」は、わが国固有の表現ジャンルで、アニメ系コスプレ風俗が一部で流行りました。*1

1Fにパチンコ店が入るビル。ビルの角の上部に「ローラン」と書かれています。

ノーパンしゃぶしゃぶの店として有名だった「ローラン」。現在は看板だけが残っています。

【参考文献】
*1 斎藤環:戦闘美少女の精神分析(筑摩書房,2006)P.8,P.80
川反通りの中心部。夜になると賑わう場所です。
交差点の角にある居酒屋の「AKB23」。アイドルグループの「AKB48」を真似たと思われるネーミングですが、看板に小さく書かれている通り、店名のAKB は Akita(秋田)、Kawabata(川反)、Bijin(美人)の頭文字らしいです。

「AKB48」のような制服で接客してくれるようです。

こんな感じです。

川反には、たくさんの風俗無料案内所があります。

無料案内所は、大町五丁目に集中しています。

三丁目橋を渡ってすぐのところにあるすずらん通り。
かつては、この場所に秋田市料亭会館の建物があり*1、花街の中心地とも言える場所でしたが、現在は、無料案内所に建て替わっています。料亭での宴席が中心だった時代から、バーやキャバレーなどの飲食店中心の時代へ変わってきたこを物語っています。

横町通りにある無料案内所。写真の右側がソープランド街の入口です。

【参考文献】
*1 日本住宅地図出版:秋田市(日本住宅地図出版,1980)P.48
川反(大町)四丁目から五丁目にかけてが川反飲食店の最も賑わう中心地でした。五丁目には、大町側に入る迷路のような行き止まりの路地がいくつもあって、そこにも小さな酒場がすき間なく並んでいました。*1

「川反五丁目小路」は、その名の通り、川反(大町)五丁目にある小路で、「かっぱ小路」の隣にあります。路地の片側一部はビルに建て替わっていて、昔の面影は無くなりつつあります。

「いつもあなたを待ってます。」と書かれた看板。

夜の川反五丁目小路。

【参考文献】
*1 無明舎出版:40年前の秋田市(無明舎出版,2003)P.75
昭和30年代の川反は、バーやキャバレーが次々に創業し、夜の雑踏の流れは、すれ違うのにも苦労するほどで、美経小路、かっぱ小路、祇園小路等の穴場を徘徊する若い紳士やギター片手の流し芸人で活気に溢れていました。*1
かっぱ小路の入口は、川反通り沿いにあって、小路の両側の建物は健在で、昔の雰囲気が残っています。

看板が密集する小路。

奥の行き止まりのところに、「かっぱ小路」の看板。

雪国の横丁は、夜の雰囲気も格別です。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.10-P.11
現在、秋田市料亭組合に加盟している料亭は、志田屋、濱乃家、あきたくらぶ、川寿、銀なべ、いくよ、東光くらぶ、松下、かめ清、の9店があります。*1
そのうちの1軒「濱乃家」が川反通りにあります。

料亭「濱乃家」。

門柱に「濱乃家」の屋号。

川反の殷賑を支えるエネルギーを感じる空間です。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.9
今回は、秋田(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田市川反(かわばた)は、古い歴史を持つ市民遊興の地として、全国的に名声が轟いています。*1
川端(川反)は、秋田市内の旭川の岸に芸者屋・料亭等軒を並べた一廓にあって、元は米町にあった遊廓と一緒だったのが、明治20年頃の大火の際、遊廓は市街外れの南鉄砲町に遷され、芸者屋は分離して旭川橋畔川端に移ったものです。*2

二丁目橋交差点を渡った川反通りの入口にあたる歩道脇に、「川反さいぐきたなあ」(=川反へようこそ)」と書かれた大きな行灯(あんどん)が設置されています。

川反芸者は、純粋な秋田っ子でなければならず、それ故、子供の頃から養子入籍をさせて舞妓に、舞妓から芸妓に仕立て上げ、移入はほとんど無かったことから、舞妓が多いのが特色で、特有の「川端情緒」なるものが醸し出される原因の一つはここにありました。*2

「全国花街めぐり」の著者の松川次郎さんは、秋田美人と川反芸者について、「新潟から秋田、津軽に一大美人系があり、色白く皮膚は滑らかで頭髪が美しく、性格はしとやかで東京風のおきゃんな面白い芸者は稀であるが、情合は甚だ濃厚。」*2 と述べています。

【参考文献】
*1 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.8
*2 松川二郎 著:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.708-P.717
土崎港にある佐原商店。数種類の自販機が並んでいます。

珍しいハンバーガーの自販機。「チーズ」と「テリヤキ」の2種類があって、いずれも200円です。

電子レンジで温められたホカホカのハンバーガーが食べれます。

ハンバーグを頂いた後は、うどんに挑戦です。
男鹿水産の自販機*1 では残念ながら食べれなかった「天ぷらうどん」を食すことができました。価格は200円です。
雪の降る中、暖かい食べ物をとると元気が出ます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(男鹿):男鹿水産前のうどんの自販機(2012.2)
土崎港近くの県道56号線沿い。

銭湯の「塩乃湯」があります。現在は休業しているようですが、貴重な西洋風の近代建築です。

奥行のある建物です。

銭湯でありながら、見事な看板建築の建物です。

土崎港、新柳町に遊廓が置かれることが許可されたのは、文政4年(1821年)で、文政7年頃には揚屋が12軒もありました。新柳町の最も繁栄したのは明治の中期で、同25年以降になると、港に和船が入らなくなって景気が急速に後退しました。*1

新柳町があったのは、現在の土崎港南二丁目あたりでした。*2

土崎の花街は、いまのスーパーのジャスコのある所にあって、検番、置屋もあって賑やかでした。*3

現在、花街があったあたりは、住宅街となっていて当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.69
*3 黒川一男 著:川反いまむかし(無明舎出版,1995)P.19
今回は、土崎(秋田県秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
土崎は、古くから秋田第一の貿易港で、雄物川の河口あたりは、物資の集散地として繁栄しました。藩政期には、稲荷町の裏通りは、多くの揚屋まがいの宿があって、多くの”浜女(私娼)”を抱えて、金遣いの派手な船乗りを相手に束の間の春を売る歓楽街となっていました。*1

文政4年(1821年)、正式な遊廓は新開地の新柳町と定められましたが、その後も稲荷町は公然たる私娼の町として栄え、昭和初期には、8軒の料理屋に40人ほどの酌婦がいました。*2

道路沿いに、妓楼風の建物があります。*2

風情のある2階部部分。

【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.219-P.222
*2 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民(新人物往来社,2006)P.286 木村聡「秋田紀行 遊廓後跡を訪ねて」
船川港のあけぼの町には、スナックが点在しています。

かつての色町を思わせる風景です。

雰囲気のある入口。

スナックが数軒入る建物。

船川港のあけぼの町(通称奥町)には、飲食店が道の両側に軒を連ねて立ち並び、その一角に十指に余る二階建て作りの料理屋(割烹といった)がありました。そこで働く女中の中に「女郎」と言われる女が居て、当時入港の多かった貨物船の乗組員や近郊近在の若者達の遊び場所として繁昌を極めました。*1

若者が奥町へ行って遊ぶことを山羊買いと言いました。1
一説には、昔は山羊という動物は珍しく、それが何処かで山羊が飼われていたので、若者達がそれを見に行くと称して、実際は船川のあけぼの町へ遊びに行ったことから「山羊買い」と呼ばれたという説があります。1*2

根っからの山羊買い好きの人は、二~三日は「いつづけ」たそうです。*1

旧町名の名残でしょうか。「あけぼの」という店名の店がありました。

【参考文献】
*1 佐藤尚太郎:漁村風土誌(秋田文化出版社,1984)P.86-P.88
【参考記事】
*2 風俗散歩(男鹿):船川
船川港近くにある男鹿水産の建物の前には、たくさんの自販機が並んでいます。

その中でも、ひときわ目立つ存在が、うどん・そばの自販機です。

自販機の前には、七味唐辛子の瓶が紐でぶら下げられています。

この日は残念ながら売り切れでした。

今回は、男鹿(秋田県男鹿市)の町並みと風俗を散歩します。

船川は、北西の風をさえびる良港で、十八世紀中期から船宿がありました。*1

船川が大発展するのは、明治以降で、国家事業として船川築港は明治44年に始まり、昭和6年に完了しました。*1

「男」マークのある漁船。

男鹿の船川が港町として発展し始めた頃、その町の物好きな人が山羊を買いました。当時、男鹿では山羊は野生としては見ることができなかったので、ものすごい評判となり、この珍しい山羊を見物するために男鹿の村々から多くの人たちが集まってきました。ところが、この山羊は意外な大事件を起こしました。それはある村の若者たちが、この山羊を見に行くと称して、ちょこちょこ船川に出ていくのでした。その若者たちの親たちが顔を合わせると、「おいのいの(オレの家)わげ者、時々ふなが(船川)さ山羊見にゆぐでば、ふとげれ(一回)みればいいもの、なんして(どうして)なんぼげれ(何回も)行ぐもんだべか」と不思議がりました。すると、異口同音に他の親たちも「んだ、んだでば(そうだ)、なんだがおがしでば」とがてんがゆかなくなり、ある親の一人がその若者の一人を尾行してみたところ、山羊を見に行くというのはまったくの嘘で、実はその山羊と時を同じにしてできた港町の女郎買いが目的だったことが解りました。それからというもの、男鹿地方で女郎のことをヤギ(山羊)と呼ぶようになりました。*2
【参考文献】
*1 加藤貞仁:(無明舎出版,2002)P.182-P.183
*2 吉田三郎:男鹿風土誌(秋田文化出版社,1979)P.145-P.146
住用町の市バス停近くにブロック塀で仕切られた公衆トイレがあります。

シャワー室が併設されているのが特徴です。

ブロック塀の向こう側にトイレが整然と配置されています。

手洗い場には、鏡が取り付けられています。

瀬戸内町の嘉徳(歌手の元ちとせさんの出身地)から林道を約10km行ったところに、青久部落への分岐点があります。

林道を約3km下ると、青久部落に到着します。
現在、民家は1戸のみですが、昭和20年代は30戸が生活する村でした。琉球時代に築かれた防風用の石垣が現在も残る原始の世界を思わす場所です。*1

青久部落の石垣の西側の小高い丘に「ムチャカナの碑」があります。

江戸末期、瀬戸内町の生間で派遣役人の現地妻(アンゴ)になることを拒んだ美女ウラトミが舟で流されましたが、幸運にも喜界島に漂着しました。*2
ウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナが生まれ、ムチャカナも母に似る美人で、島の男たちの評判を一身に受けるようになりました。ところが、これが他の娘たちの妬みを買いました。ある日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行きました。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落としました。これを知った母ウラトミは娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇につつまれた運命の幕を閉じました。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
【参考記事】
*2 風俗散歩(瀬戸内町)生間のウラトミの碑
奄美に単身で派遣される役人たちは、必ずといってよいほどアンゴ(現地妻)を持ちました。アンゴとは島での妾のことです。派遣役人たちは村々を回って美しい女を物色し、強引に自分のアンゴにしました。容貌のいい娘を持った島の親たちのなかには、進んで派遣役人に我が子を差し出す親もいました。アンゴを出した家や地区は相当な恩恵を受けることができたためです。*1

しかし、アンゴになるのを拒否して自分の愛娘を舟で流し、数奇な運命を送った「ウラトミ伝説」も伝えられています。ウラトミは、瀬戸内町加計呂麻島の生間の生まれ。村一番の美人との評判が高かったので、代官の目に留まり、「上意」が伝えられましたが、ウラトミはこれを拒絶しました。この代償はあまりに大きく、面目のつぶれた代官は地区全体に重税を課しました。娘の貞操は守りたいし世間への申し訳に困った両親は、愛娘を行きながら葬ることとし、わずかな食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟にのせて流しました。数日後、幸運にもウラトミの舟は、喜界町小野津に漂着しました。やがてウラトミは村の青年と結婚。愛娘ムチャカナも生まれ人もうらやむ幸福な生活を送りました。*1

生間のはずれの高台のムチャカナ公園にウラトミの碑があります。

ただ代官の欲求を健気に拒否し続けた島娘に思いを致すには十分な静寂が辺りを包んでいます。*1

【参考文献】
*1 名越護:奄美の債務奴隷ヤンチュ(南方新社,2006)P.186-P.191
古仁屋の町の中心部にある銭湯。四角い形のビル銭湯です

入口には「嶽の湯」と書かれています。牛乳などの飲み物の保冷庫が見えます。

暖簾にも「嶽の湯」。「嶽」という字は「岳」の旧字です。
木曽の御嶽山などは、この「嶽」が使われることがあります。

脱衣場には木製のロッカー。

今回は瀬戸内町(鹿児島県大島郡)の町並みと風俗を散歩します。
瀬戸内町は、奄美大島の南側に位置し、古仁屋は瀬戸内町の中心地です。市街の西側に「屋仁川通り」と呼ばれる通りがあります。*1

「屋仁川(ヤンゴー)」は、名瀬の「屋仁川」と同名です。
「奄美に生きる日本古代文化」*2 に、「ズレ(遊女)に代わるべき存在が、名瀬町と古仁屋町のヤンゴー(屋仁川)なる地域に巣食う酌婦である。」と説明されおり、ヤンゴー(屋仁川)という呼び名は酌婦がいる一帯の呼び名で、名瀬のヤンゴーと同様、古仁屋にもヤンゴーがあったことが解ります。

ヤンゴと呼ばれる一帯は、古仁屋市街の北西部の現在の町田商店の道路向かい側にあって、木造二階建て瓦葺の料亭が17~18軒ほど集まっていました。軍の進出でヤンゴ街は経済振興策となりました。*1*3
経営者には、奄美大島出身者と徳之島出身者が半々くらいであったが、女将は一人を除いて全員徳之島出身でした。料亭のなかで、「喜楽」や「朝日亭」が大きな料亭で、とくに「喜楽」では本店と支店を併せて50人ほどの遊女がいて、野菜、茶、イモなどを自給で賄っていました。*1

「昭和10年代の古仁屋における商店・事業所の分布図」*1 によると、写真の町田商店の奥に、「ミカド」、「暁」、その右側に、「若松」、「奄美屋」、さらにその奥に「喜楽」がありました。

【参考文献】
*1 編纂委員会:瀬戸内町誌歴史編(瀬戸内町,2007)P.559-P.566
*2 金久正 著:奄美に生きる日本古代文化.復刻(南方新社,2011)P.134
*3 富島甫:しまがたれ第6号(1998)「我が街古仁屋青春回想」P.14