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全国 > 長崎県 > 長崎市 長崎戸町長崎稲佐長崎丸山浜町 1トルコライスの店 長崎稲佐 長崎丸山 長崎戸町 本石灰町 2見返り柳、思切橋 3公衆トイレの路地 4思案橋 5思案橋の小路 6思案橋横丁 7よこはま 曙町 8ウィンルキンズの墓 戸町一丁目 9戸町港 10戸町市街 11戸町遊廓跡の建物 122階建ての木造家屋 13理容室 旭町 14旭町の美容室 丸尾町 15ロシア村跡地 大鳥町 16お栄本宅跡 弁天町 17稲佐遊廓跡地 18稲佐遊廓跡地 19稲佐遊廓跡地 北側の通り 寄合町 20「三島屋」の建物 21山頭温泉 22遊廓時代の石塀 船大工町 23銅座市場前の川 24キャバレー跡 25柳小路通り 26船大工町の小路 銅座町 27銅座市場 28銅座市場跡 29「小便禁ず」の貼り紙 30シバヤンジ通り 油屋町 31崇福寺駅 32「福地桜痴生誕の地」の碑 33ツル茶ん 中小島一丁目 34中の茶屋稲荷社 丸山町 35花街跡の碑 36丸山町の楼閣 37古い建物 出島町 38出島 築町 39白ポスト

長崎丸山(白ポスト)長崎市の中心地のバス停。

長崎市街の「中央橋」バス停。名前の通り長崎市の中心地にある橋です。

バス亭「中央橋」に設置されている白ポスト。

有害図書類回収ポスト。

丸型です。

長崎丸山(ツル茶ん)大正14年創業のトルコライスの店。

長崎市街の思案橋近くにある「ツル茶ん」。

大正14年創業の老舗喫茶店です。

名物はトルコライスです。

ミルクセーキ。

長崎丸山(よこはま)思案橋横丁の老舗ちゃんぽん店。

長崎市街の思案橋横丁※1 にある中華レストラン「よこはま」。

創業60年だそうです(店の看板より)。 

長崎チャンポンは、明治時代、長崎に住んでいた中国人たちによって作られ、中国からの留学生たちに栄養がありしかもボリュームもあるので大変喜ばれていました。その後、長崎ならではの新鮮な山海の幸と工夫が加えられて、長崎中に広まり、長崎の郷土料理として育ちました。※1

「よこはま」のネオン塔。

参考文献

*1 中華レストランよこはま 中華レストランよこはま ホームページ リンク
麺とスープに多彩な具がしっとりと溶けあった 味わいは、まさに絶品! 長崎名物よこはま特製チャンポン…

参考記事

※1 長崎丸山(思案橋横丁)ネオンが煌めく通り。2013-11-10

長崎丸山(シバヤンジ通り)当時の人は「芝居小屋の地」を「シバヤンジ」と呼んでいました。

銅座町の繁華街に、「シバヤンジ通り」と名付けられた飲み屋の路地があります。
銅座付近には以前、芝居小屋が点在しており、当時の人は「芝居小屋の地」を「シバヤンジ」と呼んでいたそうです(案内看板より)。

路地はL字型に曲がって続いています。

反対側(西側)から。

夜の様子(上の写真と同じ場所)。

長崎丸山(「小便禁ず」の貼り紙)銅座町の繁華街。永見徳太郎通り。

長崎市街の銅座町の繁華街。「永見徳太郎通り」と名付けられた通りがあります。

通りの奥まった場所。

側溝のある塀。

小便禁止の貼り紙。

長崎丸山(銅座市場跡)現在は取り壊されています。

数年前まで、この付近にあった銅座市場は、現在は解体され、市場の下の動座川が見える景観になっています。

川の両脇の建物は残されたままです。

銅座川。

逆方向から。

長崎丸山(船大工町の小路)船大工町へ通じる風情のある小路。

長崎丸山町から船大工町へ通じる小路。

階段を下りながら角を曲がっていきます。

風情のある石段。

反対方向から。

長崎丸山(遊廓時代の石塀)寄合町の玉泉神社。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
かつての遊廓だった丸山。寄合町に玉泉神社があります。

この玉泉神社の南側と東側には、遊廓時代からあった石塀が現在残っています。

南側の石塀。

東側の石塀。

参考文献

*1 長崎国際観光コンベンション協会 長崎さるく
新地・丸山界隈 長崎さるくモデルコース
・遊廓時代の石塀の解説。

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地 北側の通り)現在は名残はありません。

マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

旅館松月

逆方向(東側)から。

長崎稲佐(お栄本宅跡)日露戦争当時、ステッセル将軍が滞在。

国際親善の女傑と言われた「稲佐お栄」※1 の本宅は、旭町から稲佐山への急斜面を上ったところにある鳥岩(からすいわ)神社の近くにありました。*1

当時、日露戦争において旅順のロシア軍が降伏し、ステッセル将軍(旅順要塞地区司令官)は捕虜として長崎に到着。お栄宅に滞在しました。*1

お栄本宅跡の敷石。*1

鳥岩神社からの遠望。

参考文献

*1 松竹秀雄 稲佐風土記 長崎文献社 長崎の対岸 (新長崎郷土シリーズ ; 第1巻) 1985
(2)女傑、稲佐お栄
P.151 お栄こと道永エイは、万永元年の出生、明治13年、満20才のと肥州屋のおかみお豊の紹介によって長崎…

参考記事

※1 長崎稲佐(ロシア村跡地)お栄が建てたホテル「ヴェナス」。2019-11-27

長崎稲佐(ロシア村跡地)お栄が建てたホテル「ヴェナス」。

幕末から日露戦争の前年(明治36年)までは船津浦・稲佐郷はロシア海軍士官の止宿地域で「ロシア村」と呼ばれていました。*1

ロシア村の案内板。

平戸小屋郷異国人休息所*1 があった場所(写真右側)。

女傑、稲佐お栄が建てたホテル「ヴェナス」跡地。
ロシア語を話せるお栄は、女実業家、社交界の花形として君臨し、ホテルル・ヴェスナを建設。幕僚たちの酒宴とダンスの歓楽の宿場となりました。*2

参考文献

*1 松竹秀雄 ながさき稲佐ロシア村 長崎文献社 2009
いわゆる「ロシア村」
P.6 ロシアの作家グザーノフの文に「稲佐はロシアの船乗りにとっては昔から馴染みの土地であった...下級…
*2 松竹秀雄 稲佐風土記 長崎文献社 長崎の対岸 (新長崎郷土シリーズ ; 第1巻) 1985
(2)女傑、稲佐お栄
P.151 お栄こと道永エイは、万永元年の出生、明治13年、満20才のと肥州屋のおかみお豊の紹介によって長崎…

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長崎稲佐(お栄本宅跡)日露戦争当時、ステッセル将軍が滞在。

長崎稲佐(旭町の美容室)古くからの商店街。

今回は、長崎稲佐(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
長崎湾に近い旭町には、古くからの商店街があります。

似たようなデザインの店舗が連なっています。

美容室の部分だけが看板建築です。

長屋風の商店街の1階の美容室。

長崎戸町(理容室)調髪館。入口に、斜めの取っ手。

遊廓街だった戸町一丁目の通りにある理容室。

「調髪館」と書かれています。

入口のドアには取っ手が斜め取り付けられています。

水色の窓枠。

長崎戸町(2階建ての木造家屋)奥行のある町屋風の建物。

遊廓跡と思われる木造3階建物※1 の隣にある2階建ての木造家屋。
こちらも奥行のある建物です。

町屋風の建物。

2階部分。

華やいだ雰囲気です。

長崎戸町(戸町遊廓跡の建物)木造三階建て。

戸町一丁目の海岸一帯は昭和初期までここは遊廓地帯で、狭い道を挟んで木造三階建てを主とした大きな家が二十軒ほども競い建っていました。*1
現在もその名残と思われる木造三階建ての建物が残っています。

かつての雰囲気と名残を感じます。

奥行のある建物です。

高台の上る道路の途中から。

参考文献

*1 嘉村國男 長崎町人誌 第6巻(さまざまのくらし編 住の部 2) 長崎文献社
古きよき時代の戸町一丁目
P.296 今はここの海岸一帯は造船関係の工場や駐車場となり、様相を一変しているが、昭和初期までここは遊…

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長崎戸町(2階建ての木造家屋)奥行のある町屋風の建物。

長崎戸町(戸町市街)道路が弧を描いています。

戸町一丁目の旧繁華街は、丸い半島の形状に合わせて、道路が弧を描いています。

3階建ての店舗。

道路の形状に合わせて建物もカーブしています。

国分町近くにある造船所。

長崎戸町(戸町港)中小の造船所があります。

今回は、長崎戸町(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。国道交差点からほんのわずかに歩いたときにかかる鶴見橋から戸町港が見えます。

中小の造船所があります。

小菅修船場跡。船を乗せて曳揚げる台の形状から「そろばん」ドックと呼ばれました。

高台から見た戸町港。写真奥は女神橋です。

長崎戸町

長崎丸山

長崎稲佐

長崎丸山(「福地桜痴生誕の地」の碑)桜痴の吉原好きは有名でした。

崇福寺にのぼる道の途中に「福地桜痴生誕の地」がたっています。*1

福地桜痴は、大政奉還後、大蔵省の役人となりましたが、その後は新聞記者に転身しました。*1

桜痴の吉原好きは有名で、さと夫人との結婚当夜も吉原にでかけ帰らなかったという逸話が残っています。「桜痴」という号も深い仲になった吉原の芸者「桜知」の名に由来しています。*1

吉原で知り合った渋沢栄一の紹介で伊藤博文と出会い、それが大蔵省に入るきっかけとなりました。*1

吉原弁財天の入口の石柱には、福地桜痴の詩が刻まれています。*2
春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)
秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)
【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学7 近代化ものがたり1(長崎文献社,2007)P.54
【参考記事】
*2 風俗散歩(入谷~吉原):吉原弁財天

長崎丸山(崇福寺駅)川の上に設置されている駅。

長崎の市電の終着駅の崇福寺駅。川の上に設置されている駅です。

駅からは、川沿いにせり出し建物が見えます。

逆方向から見たところ。写真の右奥の市電の車両が見える場所が正覚寺下駅です。

建物の反対側。飲食店が連なる長屋風の建物です。

長崎丸山(中の茶屋稲荷社)遊女・冨菊の銘。

江戸中期、寄合町の遊女屋築後屋は、次第に勢力をのばし「角の築後屋」「中の築後屋」「新築後屋」「築武築後屋」と4軒もの店を構えるようになりました。うち、「中の築後屋」は、中の茶屋を開き、引田屋の花月楼とともに丸山を代表する茶屋(料亭)となりました。明治時期に入り築後屋は廃業。昭和46年に類焼、庭園だけになりました。*1

中の茶屋の庭園奥には、小さな祠があって、稲荷神をお祀りしています。中の茶屋の鎮守で、鳥居には「保食大神(うけもちのおおかみ)」記され稲荷神を表しています。*1

寛政2年(1790年)に奉納された手水鉢。 *1

築後屋の抱え(所属)の遊女・冨菊(とみぎく)の銘を見ることができます。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.26

長崎丸山(山頭温泉)かつて遊廓があった界隈に建つ銭湯。

丸山の入口を山ノ口とよぶのに対し、丸山の上手を山頭といいます。*1

山頭には、山頭温泉という銭湯があって、丸山が盛んな頃、山頭温泉の利用者は丸山の芸者衆や女性たちが中心で、寄合町の社交場でもありました。*1

かつて遊郭があった界隈に建つ銭湯です。

玄関のアール状のひさし。

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.25

長崎丸山(古い建物)店の屋号。丸山の見番の裏手。

丸山の見番の裏手の台地には、古い建物が残っている一画です。

生活感の漂う路地。

古いモルタルの建物。

店の屋号が書かれています。*1

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.66

長崎丸山(柳小路通り)場末感が漂います。スナックが密集。

柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。

思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。

スナックが密集する一画。

赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。

長崎丸山(思案橋横丁)ネオンが煌めく通り。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
思案橋近くの思案橋横丁は、観光客も多い賑やかな通りです。

道の両側には、飲食店が建ち並んでいます。

1軒だけ風俗店があります。

ネオンが煌めく通りです。

長崎稲佐(ウィンルキンズの墓)墓碑に刻まれた芸妓の名。

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。
長崎居留地には、外国人男性と遊女や芸妓との間での恋愛もありました。 そのうちの一に、グスターフ・ウィンルキンズと玉菊の恋愛物語があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓があります。稲佐悟真寺の国際墓地にウィンルキンズの墓

アメリカ人のウィンルキンズは、貿易商社「カール・ニクル商会」の共同経営者で、1869年(明治2年)に37歳で死去しました。

花クルスの見事な墓碑。

墓碑には、墓碑を建てた恋人の日本人芸妓「玉菊」のが刻まれています。

【参考文献】
*1 長崎文献社:旅する長崎学 近代化ものがたりⅢ(長崎文献社,2008)P.52-P.53

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所。

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア海軍マタロス休息所から発展。

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

東側のメインの通りの南隣の路地。

古いアパートの建物。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」

長崎丸山(キャバレー跡)派手な電飾看板。大衆クラブ。

思案橋の繁華街に閉店となった大衆クラブの建物が残っています。

建物の右側が大衆クラブだったようです。

派手な電飾看板。

朽ち果てた電球。

長崎丸山(銅座市場前の川)川沿いに連なる家屋。

銅座町と船大工町の間を流れる銅座川。*1

銅座市場は、銅座川の上にできた市場ですが、市場の南西側の橋からは銅座川を眺めることができます。

川沿いには、建て増しを重ねた家屋が連なっています。

逆方向から見たところ。

【参考文献】
*1 下妻みどり:長崎迷宮旅暦(書肆侃侃房,2008)P.132-P.133

長崎丸山(銅座市場)通り抜けられません。

思案橋横丁の西端。銅座川が交差します。

銅座川の上に建つ銅座市場。隣には案内所の大看板。

銅座市場の看板。

本日は定休日でした。通り抜けられません。

長崎丸山(トルコライスの店)9月16日はトルコライスの日。

長崎には、「トルコライス」とう名物があります。
トルコライスは、長崎のレストランに入ると必ずメニューにある、ピラフ、ナポリタン、トンカツの3種類を並べた”大人版お子様ランチ”です。*1

9月16日はトルコライスの日に制定されています。これは1890年9月16日、トルコの軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県沖で遭難*2 した際、地元の人による救助活動が行われ、日本とトルコの友好関係の起点となっているためです。

トルコライスの発祥については、すでに廃業してしまった「レストラン金子」が最も具体的な理由を持っています。先代のマスターが神戸の将校クラブで働いていた時、現在の原型を開発し、今はなき(長崎の)「レストラン丸善」でメジャーデビューさせました。*1
ボルドーさんの店の前には、これと同様の話が書かれています。

トルコライスの発明者は、「レストラン元船」という店の経営者の松原三代治さんで、昭和33年、着物姿の女性の後ろ姿(襟とうなじの白→ピラフ、裾の朱色→スパケッティ、帯の茶色→トンカツ)を眺めていたとき、新メニューがひらめき、その頃トルコ風呂が流行っており、うんと精力をつけて頑張ってほしいから「トルコライス」と命名しました。*1
文筆家の伊丹由宇さん*1 は、トルコライスについて徹底的に調べようと、長崎まで出かけトルコライスの創始者に辿り着き、この命名の由来を知りましたが、取材当時はトルコ政府の強い要請で、出版界は”その名前”は使わない方針であったため、原稿に書けずにいました。現在はもう問題ないだろう思って最近になって書くことにしたそうです。
トルコライスの発祥については、明治時代の小説家・村井弦斎が書いたグルメ小説「食道楽」や「時事新報(明治26年10月21日)」の中に、「土耳古飯(トルコメシ)」が登場することから、この料理の記憶が生き残ったのが「トルコライス」であるという説もあります。*3

【参考文献】
*1 伊丹由宇:にっぽん「食謎」紀行(ワニ・プラス,2010)P.234-P.238
*3 彦坂 徹:Anatolia news.(2009.2)「トルコ・ライス考」P.47-P.50
【参考記事】
*2 風俗散歩(紀伊大島):トルコの軍艦「エルトゥールル号」遭難慰霊碑(2010.8)

長崎丸山(思案橋の小路)昭和の雰囲気が残る飲み屋街。

思案橋商店街の飲み屋街。前回散歩した公衆トイレの小路*1 をさらに奥に進んだあたりです。

飲み屋の看板が密集しています。

2階建ての長屋の建物が延々と続きます。

昭和の雰囲気が残る飲み屋街です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(長崎丸山):商店街裏の路地(2007.9)

長崎丸山(思案橋)行こうか戻ろうか。円山・旧花街へ通じる石段。

今回は長崎(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
長崎の観光名所「思案橋」は、丸山・旧花街の入口にあります。橋の欄干を型どったモニュメントが交差点の周りに設置されています。このモニュメントは市電の線路と平行になっているので、いかにも電車が「思案橋」をわたっているように見えるのですが、ほんとうは川と平行に電車が走っていて橋はこれとほぼ直角にかかっていました。*1

思案橋があった位置は、思案橋商店街の入口前(写真奥)の西寄りの端です。*1

思案橋があった場所から西に100mほど行くと、円山・旧花街へ通じる石段があります。

石段の登り口に思案橋の由来を説明したプレートがあります。
「長崎名勝図会」によれば、ここに橋がかかったのは1592年(文禄元年)で、そのときの名前は川口橋でした。その後、1642年に遊女屋がいまの丸山にうつってきて、色男たちが「行こうか戻ろうか」と思案するので、いつしか思案橋と呼ばれるようになりました。*1

昭和43年、キャバレー十二番舘千属バンドだった高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」がミリオンセラーとなり、追って青江三奈が歌う「長崎ブルース」が大ヒットし、昭和40年代は空前の長崎歌ブ-ムでした。*2
【参考文献】
*1 布袋厚:復元!江戸時代の長崎(長崎文献社,2009)P.114-P.115
*2 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)P.11

長崎丸山(出島)丸山遊女のみが出入り。女中部屋。

出島は、鎖国時代、西洋に開かれた唯一の窓口として、日本の近代化に大きな役割を果たしました。1
出島の表門には、「傾城(けいせい)之外女入事」(遊女以外の女性は、出島に出入りしてはならない。)と書かれた立札があり、厳重な警備がしかれ、出入りできる者はごくごく限られていました。つまり、女性としては丸山遊女のみが、日常的に外国人と接することができたわけです。丸山遊女の存在により、西洋の近代文明は、いちはやく市中に広まり、同時に、日本という国の具体的な姿が遠い西洋に紹介されました。
2

カピタン部屋は、オランダ商館長(カピタン)の事務所や住居として使用された出島で最も大きな建物です。1
1809年に渡来したカピタンのブロムホフは、遊女「糸萩」を出島に呼び入れ、糸萩は、1812年に女児を出産しました。
2

カピタン部屋には、女中部屋が再現されています。

女中部屋は、遊女たちが使用する部屋でした。

【参考文献】
*1 長崎さるく:「出島」パンフレット
*2 白石広子:長崎出島の遊女(勉誠出版,2005)P.5,P.20,P.52,P.93

長崎丸山(公衆トイレの路地)頭上に「トイレ」の大看板。

思案橋商店街の裏側の路地。

頭上の「トイレ」と書かれた大看板。蛍光灯で照らされていますので、解りやすいです。

商店街組合専用のトイレです。1階が男子用、2階が女子用。

立小便禁止の貼り紙。

長崎丸山(丸山町の楼閣)石垣の上に建てられています。

丸山本通りから路地を入ったところに、石垣の上に建てられた楼閣があります。

建物の側面に階段があります。

階段を登ると楼閣の入口がありました。

店の屋号でしょうか。タイルで装飾された大きな文字で描かれています。

長崎丸山(「三島屋」の建物)寄合町遊廓跡。

寄合町の本通り。明治末期の唯一の地図である「長崎丸山町、寄合町全遊廓細見図」*1 によると、当時は、この通りの両側に遊廓がびっしりと建ち並んでいました。

坂の途中に1軒だけ、当時の佇まいを残している建物があります。

「三島屋」という屋号の店だったこの建物は、現在はアパートとして使用されているようです。

玄関付近。

【参考文献】
*1 山口雅生:廓の娘(長崎花月史研究所,1973)

長崎丸山(花街跡の碑)日本三大遊廓の一つでした。

丸山町の東側。料亭杉本家跡(現・料亭青柳)の近くに、長崎丸山花街跡の碑があります。

丸山は、寛永19年(1642)年、幕府の命により、長崎奉行所が長崎市内に散在していた遊女屋を1ヶ所に集め、公認の遊廓をつくったことにはじまります。

丸山は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ日本三大遊廓の一つでした。

丸山とは、丸山町と寄合町をあわせた花街の総称です。L字型の町域でした。現在の丸山公園のあたりがL字の角の部分にあたり、ここから丸山町は東に向かって、寄合町は南に向かって傾斜を持って形成されていました。

長崎丸山(見返り柳、思切橋)花街入口のシンボルです。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
見返り柳は、花街からの帰り道、男たちが未練を断ち切れず、振り返る姿から名付けられました。見返り柳は、京都島原の花街入口にある柳がはじまりと言われ、その後、江戸の吉原や長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなりました。*1

見返り柳と思切橋の案内板。

橋銘が刻まれた思切橋の欄干。
思切橋は、山の口を流れていた小さな溝にかかる橋でした。思案橋で行こうか戻ろうかを思案し、ここで思い切って花街へ繰り出す。あるいは、花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどど言われるようになり、いつしか思切橋と名付けられました。*1

江戸時代、丸山は現在の丸山町と寄合町の総称でした。長崎人はシンプルに「山」と呼んでいたため、これが丸山の入口を山の口という所以でもあります。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)「長崎游学マップ3」P.13