全国 > 東京都 > 中央区 築地銀座京橋日本橋新川新富町人形町 日本橋人形町二丁目 1キラク 2歯科医院のゴミ箱 3㐂寿司 4末廣神社 日本橋箱崎町 5高尾稲荷社 日本橋小網町 6思案橋 7桃乳舎 日本橋人形町三丁目 8浜田家 日本橋中洲 9金刀比羅宮 築地4丁目 築地6丁目 築地7丁目 10旅館大宗 11看板建築 新川2丁目 12於岩稲荷田宮神社 銀座二丁目 13名店「三州屋銀座店」 八丁堀三丁目 14レトロな商店街 新富1丁目 15正金アパート 16路地 17花街跡 18新島原遊廓跡地 京橋三丁目 19京橋柳町遊里跡地 20江戸歌舞伎発祥の地 日本橋人形町一丁目 21小春軒 22よし梅本店 23元吉原 新川1丁目 24新川大神宮 25料理屋「増田や」跡 八丁堀二丁目 26雀荘 築地2丁目 27天婦ら「おかめ」 月島3丁目 28和風スナック 29西仲通り商店街 佃1丁目 30日の出湯 八重洲一丁目 31老舗割烹「嶋村」 32アダルトグッズ店 33理容室跡 34雀荘 35花街跡 36麻雀クラブ富士 37八重洲の飲み屋街 38ビデオボックス 日本橋本町一丁目 39鳥萬 40大勝軒 八重洲二丁目 41老舗カレー店 銀座八丁目 42金春小路 438丁目並木通り近く 44金春湯 45カフェー跡 銀座七丁目 46路地の中の自動ドア 47豊岩稲荷 48RAA本部跡地 銀座三丁目 49白いバラ 銀座四丁目 50出世地蔵尊 51キャバレー美松跡地 52シネパトス 銀座五丁目 53三愛ビル 54三原小路隣の袋小路 銀座六丁目 55東京温泉跡地 日本橋本町四丁目 56理髪店

銀座(名店「三州屋銀座店」)1968年創業の老舗割烹。

銀座2丁目の並木通りにある細い路地の突き当りに、名店「三州屋銀座店」があります。奥まった場所にあるから昼から呑むには都合がいいそうです。*1

1968年創業の老舗割烹です。*1

名物は鳥豆腐、カキフライなど。*1

店の入口から、路地を振り返ったところ。

参考文献

*1 ぴあ: 東京昼酒場100 (ぴあ,)せっかく酔うなら昼間から…
P.21 1968年創業。モダンに移り変わる銀座の片隅で変わらぬ味わいが魅力の老舗割烹。 銀座並木通りにあ…

銀座(金春小路)かつては置屋や待合が並ぶ花街。

かつて、置屋や待合が並ぶ花街だった銀座8丁目の金春通り。近くには、銭湯の金春湯もあります。※1
金春小路(こんぱるこうじ)と書かれた小さな看板。

小路の入口は非常に小さく目立ちません。

かつての花街の路地は、現在はバーやクラグが引き継ぐ夜の街の路地となっています。*1

L字型の路地はさらに奥へ続き、反対側の通りへ出ます。

参考文献

*1 岡本哲志: 銀座を歩く (学芸出版社,2009)江戸とモダンの歴史体験
花街の路地を巡る
P.164-P.167 煉瓦街からはじまる銀座の路地の歴史は、戦後、空地に短いI型の路地を通し、両側に飲食店を…

参考記事

※1 銀座(金春湯)文久3年開業の歴史ある銭湯です。2007-10-11

銀座(路地の中の自動ドア)通り抜けできます。

銀座七丁目の豊岩稲荷※1 から煉瓦街時代のI型路地をさらに北へ向かいます。

突如、現れる自動ドア。

自動ドアには「通り抜けできます。」と書かれてあります。ドアを開けて中へ入ると喫茶店の店内に通じていて、その奥にまた自動ドアがあります。

銀座グリーン97のビル内に作られた銀座通りから裏通りに抜ける短いⅠ型路地。写真の左右方向に自動ドアあがあって、豊岩稲荷から続く古いI型路地と交差します。

参考文献

*1 岡本哲志: 銀座を歩く (学芸出版社,2009)江戸とモダンの歴史体験
現代と向き合う路地
P.44 銀座グリーン97という緑色の外装のビルには、銀座通りから裏通りに抜ける短いⅠ型路地が設けられた…

参考記事

※1 銀座(豊岩稲荷)130年以上前の銀座煉瓦街時代の名残。2019-06-11

銀座(豊岩稲荷)130年以上前の銀座煉瓦街時代の名残。

銀座七丁目に130年以上も前の煉瓦街建設のときにできた、最も銀座らしい路地空間がいまも健在です。*1

この路地は、煉瓦街建設のときにつくられたI型路地で、銀座通りや裏通りに面する通用口として機能し続けてきました。Ⅰ型路地を進むと、朱色に塗られビルの壁のところに豊岩稲荷があります。この稲荷は古くから水商売の人たちの信仰されてきました。*1

お稲荷さん。お供え物の油揚げは豊富です。

江戸時代初期からある稲荷神社です。

参考文献

*1 岡本哲志: 銀座を歩く (学芸出版社,2009)江戸とモダンの歴史体験
路地裏の濃密な空気を感じて
P.40 130年以上も前の煉瓦街建設でできた、最も銀座らしい路地空間が銀座七丁目にいまだ健在である。この…

この記事を参照している記事

銀座(路地の中の自動ドア)通り抜けできます。2019-06-12

銀座(三愛ビル)1963年開業の銀座のランドマーク。

1963年開業の三愛ドリームセンターは、現在も銀座のランドマークとして君臨しています。

2階の喫茶店の窓際席からは、銀座の景色を楽しめます。

3階のビルからは下着姿の女性が交差点を見下ろしています。

2階の喫茶店からの眺める銀座の風景。

銀座(出世地蔵尊)昭和27年のキャバレー「美松」の火事で移転。

銀座三越の屋上。

中央がお堂。左側に石像があります。

お地蔵さんは、現在の三越の裏手にあたる空地にあって、人々の信仰の対象になっていましたが、戦後になると、お地蔵さんは、キャバレー「美松」※1 の中庭につくられた祠に安置されました。ところが、昭和27年の秋に「美松」が火事に遭い、お地蔵さんは行き場をなくしました。昭和43年になってやっと安住の地を三越屋上に得ることができました。*1

お堂の中には、小さなお地蔵さん。

参考文献

*1 枝川公一: 銀座四丁目交差点 (二見書房,2000)
P.232-P.239 銀座三越の屋上には、見逃すことのできない歴史が「鎮座」している。銀座出世地蔵。これこそ…

参考記事

※1 銀座(キャバレー美松跡地)現在の三越百貨店新館がある場所。2019-06-08

銀座(キャバレー美松跡地)現在の三越百貨店新館がある場所。

現在の三越百貨店新館がある場所には、かつて大型キャバレーの「美松」がありました。

昭和15年(1940年)、まだキャバレーという言葉がなかった時代(当時はカフェーと呼ばれていた。)に、大阪で「赤玉」などをやって当てた榎本正・明三兄弟が、女給が何百人もいるような「銀座会館」「美松」などの店をつくり、東京中を席巻しました。*1*2

戦後も1946年に営業を再開し、戦後を象徴する名門キャバレーとなりました。

昭和37年、保証金の高騰を理由に突然閉鎖。その後、三越に売却されました。

参考文献

*1 福富太郎: 昭和キャバレー秘史 (河出書房新社,1994)
東京のカフェーもエロ・サービス
P.47 関東大震災から昭和5年ころまでは、キャバレーという言葉はまだなく、すべてカフェーと呼ばれてい…
*2 福富太郎: 昭和キャバレー秘史 (河出書房新社,1994)
キャバレー史年表
1940年 3月 キャバレー「美松」(榎本正。銀座三越裏)開店 1945年 8月28日 進駐軍特殊慰安施設協会…

この記事を参照している記事

銀座(出世地蔵尊)昭和27年のキャバレー「美松」の火事で移転。2019-06-09

銀座(三原小路隣の袋小路)2階建ての長屋形式の店舗。

今回は、銀座(東京都中央区)の町並みを散歩します。
三原小路近くに今も奇跡的に残る袋小路があります。
明治の終わりころ、この付近には、質商「江島屋」が所有する大規模な土地がありましたが、質商は、農地解放とともに施工された戦後の財産税でことどとく土地を失い、この路地が誕生しました。*1

半世紀ほど時間が巻き戻ったようなゲート状の看板。*1

袋小路になった路地。

2階建ての長屋形式の店舗。周囲のビルとの景観のギャップの大きさには感動します。

参考文献

*1 岡本哲志: 銀座を歩く (学芸出版社,2009)江戸とモダンの歴史体験
裏通りと路地が呼応し、空間が息づく 銀座五丁目東側
P.61 明治の終わりころ、現在のあづま通りと三原通りの間のブロックには、質商「江島屋」の田村藤兵衛が…

日本橋(老舗カレー店)開業50周年

東京駅八重洲地下街にあるカレー店。
店内の張り紙によると、今年で開業50周年だそうです。

東京駅で290円は驚愕です。

人気No.1はチキンカツカレーだそうです。

チキンカツカレーを注文。
スプーンは、昔の学校給食ではお馴染みの、先端がフォーク状になっている先割れスプーンです。

日本橋(鳥萬)戦前の建物。4階建てのように見える3階建て。

大勝軒※1 の向かい側。同じく戦前の建物の「鳥萬」があります。

食料品の店舗だったようです。

鳥萬の文字。

4階建てのように見える3階建て。

日本橋(大勝軒)昭和32年の建築。緑のタイル。

日本橋本町一丁目に残る中華料理店の建物。
昭和32年の建築です。

建物の側面。一面が緑色のタイルで覆われています。

鮮やかな青いタイルで装飾された「大勝軒」の文字。

1階部分は洋風の雰囲気です。

日本橋(老舗割烹「嶋村」)嘉永3年(1850年)創業。金ぷら

八重洲一丁目の繁華街。日本橋花街の雰囲気を受け継ぐ老舗割烹「嶋村」が現在も営業中です。

創業嘉永3年(1850年)の老舗です。

名物の金ぷらなど、昼のランチもあるようです。

年季の入った提灯。

日本橋(アダルトグッズ店)TENGAあります。

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
八重洲一丁目の繁華街。1階に赤い看板の中華料理店。

アダルトグッズの看板。

1階の中華料理店と同じ赤い看板です。

TENGAあります。

日本橋(理容室跡)木々が生い茂る中のサインポール。

八重洲一丁目の繁華街。

ビルの谷間の木々が生い茂る中に、理容室のサインポールだけが置き去りになっています。

隣は雀荘が密集する路地。※1

現在、1階は喫茶店ですが、以前は理容室だったのかもしれません。

日本橋(雀荘)オフィス街の中に10軒近く。

日本橋は、近隣にオフィス街が多いためでしょうか。とにかく雀荘の多さは群を抜いています。

レトロな看板。

空卓/満卓の看板。ホテルのようです。

狭い路地の奥にある麻雀クラブ。

日本橋(花街跡)横丁や路地に遊興の歴史。

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の八重洲一丁目付近は、江戸時代の市街造成期からの古い町並みです。明治維新後は、新時代を代表するような近代諸会社とこれと全く対照的な下町の商店や芸者屋・待合が奇妙に混在する町でした。*1

検番があったあたり。*2

旧花街の南端。「浮舟」は、昭和の初めからある老舗です。*3

日本橋芸者の起源は、安永6年(1777年)、平松町(現高島屋辺り)に芸者がいたことが、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に書かれています。*2

参考文献

*1 白石孝: 日本橋街並み繁昌史 (慶應義塾大学出版会,2003)P.11,P.27
P.11 日本橋の南詰から中央通りを高島屋・丸善の方向にむかった町々は、江戸市街造成期からの古い町であ…
*2 上村敏彦: 東京花街・粋な街 (街と暮らし社,2008)
丸善の裏手にあった日本橋花柳界
P.105 日本橋芸者の起源は古い。「女芸者の時代」によれば、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に、常…
*3 武揚堂編集部: あの日の日本橋 (武揚堂,2007)昭和25年から30年代の思い出と出会う : 地図と写真でたどる (地図物語)
付録地図(火災保険地図)に昭和初期の町並みの記載。 ・料理店「浮舟」

築地

人形町(小春軒)山県有朋のお抱え料理人が創業。

「玉ひで」など老舗料理店が並ぶ通り沿いに建つ洋食屋の「小春軒」は創業100年の老舗です。*1

小春軒は、築地精養軒のコック見習いを振り出しに西洋料理の修行をし、明治の元勲山県有朋のお抱え料理人となった小島種三郎が創業した洋食店です。「芸者さんが多い街はハイカラなものが流行る」と聞き、日本橋人形町に開業したそうです。*1

四代にわたって続くこだわりは「作り置きをせず、できたてを食べていただくこと」。店のモットーは「気取らず美味しく」。*1

海老フライとビールを注文。

参考文献

*1 竹内誠: *日本橋・銀座の400年 (ミヤオビパブリッシング,2013)ビジュアルアーカイブス : 東京都中央区
創業100年の洋食屋 小春軒物語
P.148 明治二十八年(1895)、築地精養軒のコック見習いを振り出しに西洋料理の修行をした初代小島種三郎…

人形町(金刀比羅宮)新田新作

中央区日本橋中洲11−1にある金刀比羅宮。
江戸時代の明和8年(1771)に中流を埋め立て中洲ができ、天明7年(1787)に吉原が火事で焼けた後、ここが遊廓街となり大繁盛しました。*1

中洲の割烹が寄進した玉垣。

芳町芸妓組合。

元明治座社長の新田新作。
大相撲を廃業した力道山は、新田新作に引き取られました。*2

参考文献

*1 大野光政: *江戸百景今昔 (本の泉社,2009)江戸を楽しみ、大正を知り、現代を歩く
みつまたわかれの淵
P.38 両国橋から大川を南へ下ると、新大橋の下流に大きな洲があった。南西には富士山がそびえ、その下に…
*2 大下英治: *力道山の真実 (祥伝社,2004)永遠の力道山
プロレスに目覚める
P.38 プロレス王として力道山の海の親となる一代の侠客、新田新作と出会ったのは、昭和23年5月、小結に昇…

この記事を参照している記事

池上(力道山の墓)大相撲からプロレスに転身。2019-01-30

人形町(浜田家)芳町唯一の料亭

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
浜町・芳町は明治の始め頃から賑わったいわゆる三業(待合、置屋、料理屋)地でした。*1

現在、一軒のみ営業する料亭「玄治店(げんやだな)濱田家」。

建物の東側。

夜の様子。

参考文献

*1 都市出版: 東京人 15(6) (通号 154) (都市出版,2000.6)料亭で江戸東京を味わう--芳町「濱田家」/新橋「花蝶」/神楽坂「うを徳」 (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪)
P.38 浜町・芳町は明治の始め頃から賑わったいわゆる三業(待合、置屋、料理屋)地だ。隆盛期には芸者さ…

人形町(思案橋)吉原へ行こうか、芝居に行こうか。

日本橋小網町。現在の首都高速道路の江戸橋JCTの近くには、江戸時代、思案橋がありました。*1
思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓(元吉原)があり、この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二丁目の芝居に行こうかと思案したので、思案橋の名がつけられたと云われています。*2

近くには、小網神社があります。

しかし、「思案橋がこの場所にあったというのは誤まりで、正しい思案橋の場所は荒布橋があった場所。」とする論考があります。*3
荒布橋があったのは、現在の小舟町交差点のあたりです。

たしかに、ここからだと現在の人形町交差点までは、一本道です。

参考文献

*1 26 神田川御蔵可・神田一円・日本橋・八丁堀北 台東区/干代田区/墨田区/中央区/江東区: *復元・江戸情報地図 (26 神田川御蔵可・神田一円・日本橋・八丁堀北 台東区/干代田区/墨田区/中央区/江東区,1996)
26 神田川御蔵可・神田一円・日本橋・八丁堀北 台東区/干代田区/墨田区/中央区/江東区
P.59 思案橋、荒布(あらめ)橋の位置の記載。
*2 石本馨: *大江戸橋ものがたり (学研,2008)
思案橋
P.108 思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓があった。この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二…
*3 江戸名所100選: 江戸名所100選 (秋田書店,1973)
P.78 思案橋の疑問 思案橋は、一に小網橋ともいう。日本橋から、東堀留川へ分岐する、その分岐点に架け…

人形町(桃乳舎)芸術的な看板建築。桃のマーク。

日本橋小網町の首都高速江戸橋ジャンクション近く。閑静なビル街の中に佇む芸術的な看板建築。

桃乳舎。

上部には、桃のマーク。

カレーライスを注文。

人形町(高尾稲荷社)高尾大夫の霊を祭っている稲荷神社。

人形町の南。日本橋箱崎町のビル街の中に高尾稲荷社があります。

吉原の遊女、高尾大夫の霊を祭っている稲荷神社です。*1

石柱は、掘削の際に土中から掘り出された遺物を転用しているそうです。

箱崎北新堀町会が設置した縁起。

参考文献

*1 高尾稲荷社: *江戸史跡事典 上巻 (新人物往来社,2007)千代田区・中央区・品川区・目黒区・大田区・世田谷区・北区
高尾稲荷社
P.95 (日本橋箱崎町10-7) 万治2年(1659)12月のことだったという。かつて吉原の三浦屋で評判だった才…

人形町(キラク)1951年開業。年季の入った看板と暖簾。

人形町交差点。地下鉄の入口のすぐ隣にある洋食店の「キラク」は、1951年開業の老舗です。*1

年季の入ったキラクの看板と暖簾。

一番人気のビーフカツ。*1(これだけで2,600円もします。)

今回は、ハンバーグとビールを注文。
マカロニサラダと千切りキャベツ、パセリが添えてあるのは、昔と変わっていません。*1

参考文献

*1 新潮社: 週刊新潮 8月30日号 (新潮社,1990)ビーフカツ40年人形町「キラク」人気の秘密
人形町の交差点にほど近い、今の場所に店を開いたのが昭和26年のことだそうだ。この店一番の人気メニュー…

人形町(歯科医院のゴミ箱)特注の備え付けタイプ。

喜寿司の隣の歯科医院の建物※1。傍らにコンクリゴミ箱が設置されています。(写真右下)

備え付けタイプです。

左側は、ゴミ箱スペース。上蓋が付いています。

右側のボックスは、上部からゴミが落ちてくる仕組みです。

人形町(㐂寿司)かつての花街の記憶が残る建物。

人形町2丁目。かつての花街だったエリアです。喜寿司(㐂寿司)は、花街の面影が残る建物です。

たくさんの大きな看板。

隣の歯科医として使われていた建物は、もとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」でした。*1

物干し台。

参考文献

*1 大島健二: *下町の名建築さんぽ (エクスナレッジ,2017)ARCHITECTURAL HERITAGE GUIDE IN OLD TOWN OF TOKYO タイトルでNDLオンラインを再検索する
日本橋 㐂寿司 わずかに残る花街の記憶
P.140 奥のたてものは歯科医として使われていたがもともとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」であったという。…

この記事を参照している記事

人形町(歯科医院のゴミ箱)特注の備え付けタイプ。2018-11-12

人形町(よし梅本店)戦火を免れて残った店。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
大観音寺脇の路地※1 にひっそりと佇む「よし梅本店」。戦火を免れて残った店の風情は江戸の粋が薫る人形町ならではです。*1

入口が路地になっていています。

かすれて、かろうじて「よし梅」と判読できる門標。

反対側の通りから。

築地(日の出湯)佃小橋から見える煙突付きマンション。

月島西仲通り商店街※1 の北側に位置する佃島は、関東大震災にも第二次世界大戦にも被害を免れた。昔ながらの下町の面影を残す地域です。*1
佃小橋から大きな煙突付きマンションが見えます。

近くには「つり船」の店。

ビルの1階が銭湯です。

大栄マンションの東側は堀です。

参考文献

*1 林順信: *東京路上細見2 (平凡社,1987)日本橋・人形町・銀座・築地・佃島
東京ふるさと佃島
佃島の由来を簡単に記しておこう。徳川家康が天下人となるに及んで、佃村の漁民を江戸に招き、海川漁獲の…

参考記事

※1 築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。2018-10-20

築地(和風スナック)沢の鶴の看板。月島三丁目。

月島三丁目。もんじゃストリートから通りを入ったところ。

和風の建物。

沢の鶴の看板。和風スナックなので、日本酒でしょうか。

月島の商業の発展*1 とともに、歓楽街的な要素も出現したのだと思われます。

参考文献

*1 京橋月島新聞社: 月島発展史 (京橋月島新聞社,1940) リンク
第三編 明治以後の月島
第八章 月島の商業 リンク
P.191 日露戦争に因る軍需工業の躍進に伴って月島全島の好況と人口の増加を招来せしものと考えられる。

参考記事

※1 築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

西仲通り商店街(もんじゃストリート*2)は、日露戦争後の人口に伴い、自然発生的にできたもので、道の真ん中に露店が出ていたのが特徴でした。*1
西仲通り商店街には、2階部分に昔ながらの屋号が残っている「看板建築」商店が残っています。*2※1

一歩路地に入ると、昔ながらの生活空間の雰囲気が残っています。

渡り廊下のある路地。

最近は、開発が進み、周辺は高層マンションが林立しています。

参考文献

*1 京橋月島新聞社: 月島発展史 (京橋月島新聞社,1940) リンク
第三編 明治以後の月島
第八章 月島の商業 リンク
P.191 日露戦争に因る軍需工業の躍進に伴って月島全島の好況と人口の増加を招来せしものと考えられる。
*2 志村秀明: 月島再発見学 (アニカ,2013)まちづくり視点で楽しむ歴史と未来
P.151-P.153 長屋の配列と間取り 路地一本あたりに、二十四軒の長屋住宅が建つのが標準である。二軒長屋…

参考記事

※1 武蔵小金井(看板建築展)江戸東京たてもの園2018-05-06

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築地(日の出湯)佃小橋から見える煙突付きマンション。2018-10-22
築地(和風スナック)沢の鶴の看板。月島三丁目。2018-10-21

築地(旅館大宗)純和風。周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

築地7丁目のアパホテルのある通り。

純和風の旅館があります。

周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

丸い竹に書かれた「旅館大宗」

築地(看板建築)3階建て。正面から見ると2階建て。

築地市場の東側。築地6丁目、7丁目付近には、看板建築が多く残っています。
こちらの商店だったと思われる建物は、正面から見ると2階建てです。

背面から見ると、屋根裏部屋部分*1 は、3階建て部分であることがわかります。

こちらも正面は2階建て、横から見ると3階建てです。

三角屋根部分が3階部分になっている食品会社の建物。

参考文献

*1 東京都江戸東京博物館: *東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文 (江戸東京たてもの園,2018)
バラックの街並み
被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学…

築地(築地場外市場)寺院の建物と市場の建物がつながっています。

築地場外市場。豊洲移転後も賑わっています。

古い建物が建ち並びます。

築地場外市場の中にある円正寺。寺院の建物と市場の建物がつながっているように見えます。

最近、火災で焼失した付近。マンサード屋根を持つ3階建ての建物です。

築地(天婦ら「おかめ」)昭和初期からある料理屋です。

築地2丁目の通り。現在はビル街ですが、かつては築地の花街の中心部だったあたりです。この付近には、待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」がありました。*1

ビル街の中の一軒家。

現在も営業中です。

入口の丸窓。

参考文献

*1 都市整図社: 火災保険特殊地図 中央区[11] (都市整図社,)魚市場方面 1947年 築地方面 1949~55年 明石町方面 1950年
現在の中央区築地2丁目に、 待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」の記載。 現在の築地駅北西の…

築地(料亭「新喜楽」)芥川賞や直木賞の選考会場。

今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1

高い塀が続きます。

表札は、「割烹」となっています。

裏口。

参考文献

*1 上村敏彦: 東京花街・粋な街 (街と暮らし社,2008)
伝統の芸を誇る新橋花柳界
花街の復興と演舞場再建
P.51 戦時中には強制疎開で取り壊されたり、廃業した料亭・待合も多く、戦災で被害を受けなかったのはわ…

銀座

京橋

日本橋

新川

新富町

人形町

新川(於岩稲荷田宮神社)花柳界や歌舞伎関係者が参詣。

新川二丁目にある「於岩稲荷田宮神社」は、四ツ谷の 「於岩稲荷田宮神社」同様、「東海道四谷怪談」の主人公「お岩」の伝承を持つ神社です。新川二丁目の田宮神社は、歌舞伎俳優の初代市川左団次が明治の中頃、芝居小屋の近くに置きたいと希望して生まれました。*1

花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑わいました。

明治座寄進の賽銭箱。

鳥居。この参道の奥にはお百度石と稲荷社があります。

【参考文献】
*1 塩見鮮一郎:四谷怪談地誌(河出書房新社,2008)P.13-P.14

新川(新川大神宮)酒問屋が信仰。待合と芸妓屋が集中していた場所。

新川1丁目8付近は、最も待合と芸妓屋が集中していた場所でした。*1
周囲のビルに囲まれて新川大神宮があります。

新川大神宮は、寛永2年創建の古社で、明暦の大火後、現在地に移転し、酒問屋に信仰されました。*1

新川は、隅田川に通じる水路を有することから、酒問屋が櫛比(しっぴ)し、殷賑を極め今日に至るまで酒類の一大市場となりました。(案内板より)
新川の花街は、船問屋、酒問屋が接待で繁昌した花街でした。*1

寄進者のほとんどは、酒問屋です。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.117-P.118

新川(料理屋「増田や」跡)現在は居酒屋チェーンの店舗。

今回は、新川(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新川の花街は、昭和10年頃が最も活気がありました。日本橋川に架かる湊橋を霊岸橋の間の河岸沿い(新川1-1,1-2)に料理屋の「大和屋」と待合「大国屋」「おつね」など14軒が、永代通り南側の新川1-3には「増田ヤ」と待合1軒がありました。*1
写真は、霊岸橋から亀島川を南西方向(下流)に見たところで、この写真の左側が、新川1-3のあたりです。

川沿いに面した和を感じる1軒屋。1953年の住宅地図*2 によると、この場所には、料理屋の「増田や」がありました。

和風の佇まい。

現在は、居酒屋チェーンの店舗になっています。

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.118
*2 都市製図社:火災保険特殊地図 中央区越前堀方面(1953年, 都市製図社)

新富町(正金アパート)昭和の初期からあるアパート。

新富一丁目の新大橋通り沿いに、正金アパートがあります。

昭和の初期からあるアパートです。*1

玄関付近。

1階には、飲食店がはいっています。

*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

新富町(路地)昔ながらの路地。飲食店の看板。

新富町には、昔ながらの路地が残されています(新富一丁目)。

鰻屋のある路地の入口。以前はこの付近に待合がありました。*1

飲食店の看板のある路地。

風情のある木造母屋。

【参考文献】
*1 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

新富町(花街跡)新富座の開業とともに芸妓、置屋が増加。

新島原遊廓が廃止となった後もこの地に踏みとどまる芸妓や置屋があり、引手茶屋で残った者たちは旅館を開業したので芸妓の出先となりました。やがて新富座の開業とともに芸妓、置屋が増え、花街は脚光を浴びました。*1

現在も花街時代の名残の料亭「躍金楼(てっきんろう)」が営業中です。

料亭「松し満 」。

見番があったあたり。*2

【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*2 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)

新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。

今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1

新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2

新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3

新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289

日本橋(理髪店)昭和5年築の看板建築。モダンなデザイン。

日本橋本町四丁目は、かつての町並みや雰囲気が残るエリアです。

中でも「理髪久保田」は、昭和5年築の看板建築です。

モダンなデザインです。

現在も営業中です。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

日本橋(麻雀クラブ富士)昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。

東京駅前はオフィスビルが林立するビジネス街ですが、雀荘が密集しているエリアでもあります。

昭和の雰囲気そのままの「麻雀クラブ富士」。

昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。*1

玄関部分。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

日本橋(八重洲の飲み屋街)八重洲のあの日。

建設中の八重洲一丁目のこの場所に、数年前まで料亭「安芸」*1 がありましたが、取り壊され新しいビルが建設中です。工事用フェンスに「八重洲一丁目飲食街」と書かれている通り、建設中のビルの裏手に飲み屋街があります。

看板が連なる飲み屋街。写真右側は工事用フェンスです。

工事用フェンスには、「八重洲のあの日」と題し、江戸時代から現在に至るまでのこの界隈の変遷が地図で示されています。

1950年頃の火災保険特殊地図。この地図によると、この付近は「中央ホテル別館」や料理屋が建ち並ぶ一画でした。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

日本橋(ビデオボックス)都会の真ん中に密集。

今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
日本の中心オフィス街の東京駅八重洲口にほど近い日本橋の繁華街。雑居ビルの中に入るビデオBOXの看板をあちこちに見かけます。

サラリーマンの仕事の疲れを癒す憩いの場になっているようです。

薬局の2階にあるビデオ見放題の店。

レトロな電飾看板。

京橋(雀荘)幻想的な水色の建物。モダンな玄関の部分。

八丁堀二丁目に、雀荘の建物があります。水色の建物が幻想的です。

入口付近。

玄関の部分もモダンです。

建物脇の路地もいい雰囲気です。

京橋(レトロな商店街)戦前の看板建築がひっそりと残る一画。

地下鉄八丁堀駅近く。ビル街の中に戦前の看板建築がひっそりと残る一画があります。写真の一番右側の建物は、旧神田美容院の建物です。*1

路地の入口。

銅板建築の建物。

都会のど真ん中にして、この石畳の路地。自販機の安室奈美恵さんのポスターとのアンバランスが何ともいえません。国旗掲揚塔があります。

【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」

京橋(京橋柳町遊里跡地)吉原の元祖。関が原の合戦後。

都営地下鉄浅草線宝町駅の出口前は、昭和通りと鍛冶橋通りが交差する宝町三丁目交差点です。

江戸時代初期、この交差点の角の秋田銀行が入っているビルと昭和通りを挟んだ向かい側のビルの京橋二丁目東南部の地域に、京橋柳町遊里がありました。12

関が原の合戦(1600年)後、徳川家康が江戸開発に着手してすぐの頃に、麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋に遊里ができ、その後、京橋の遊里は、人形町に移転し「よし原町」と呼ばれました。つまり、京橋の遊里と人形町の「よし原町」は、同時に存在しなかったことになりますが、一部は京橋に残って酒肴を出しながら売春をかねる家や、柳の下にたたずんで男に声をかける比丘尼もいました。炭町には、なかなか人形町の吉原へ行きたがらないメンバーが寛永3年(1626年)まで残っていました。*3

京橋川(現在の首都高速環状線)の西寄り(現在の首都高速西銀座JCT付近)には、「比丘尼橋」という名前の橋がかかっていて、この一帯は歓楽街でした。*3

【参考文献】
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.48,P.50
*3 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.27,P.30

京橋(江戸歌舞伎発祥の地)江戸三座。猿若中村座。

今回は、宝町~八丁堀(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。

八重洲通りと中央通りの交差点(日本橋と京橋の中間)には、「中橋」がかかっていました。中橋は、江戸歌舞伎発祥の地とされています。これを記念して京橋に「江戸歌舞伎発祥の地」の碑が建てられてあります。*1

寛永元年(1624年)、猿若中村勘三郎がこの地に「中村座」の芝居櫓をあげ、ここが江戸歌舞伎発祥の地となりました。
中橋の歌舞伎は、慶長期(1596年~1615年)は遊女歌舞伎で、派手に売笑していました。*2

その後、猿若座は、江戸城に近いという理由から今の人形町に移転しました。*3

*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 石崎芳男:元吉原考(近代文芸社,1994)P.64-P.65
*3 足立直郎:歌舞伎劇場女形風俗細見(展望社,1976)P.32-P.33

銀座(8丁目並木通り近く)銀座の柳にピンクビラ。

銀座8丁目の並木通り近く。「金春通り」の看板の近くの支柱に、ピンクビラが貼られています。渋谷で見かけた支柱*1 と同じように、”あばた状態”になっています。

電話ボックスに、多数のピンクビラが置かれていました。

町内会の掲示板とピンクビラ。

銀座の柳とピンクビラ。

【参考記事】
*1 風俗散歩(渋谷):丸山町のピンクビラ(2007.6)

銀座(シネパトス)地下街にあるアダルトショップ

銀座三越から歌舞伎座方面へ向かう途中に、晴海通りが盛り上がった地点があります。ここには、昭和24年まで三原橋があり、その下には三十間堀川が流れていました。現在の三原橋地下街は、その三原橋の跡です。*1

地下街は、防空豪のような異空間です。

地下街には、映画館3館、飲食店4店、床屋1軒がありますが、それらに混じってアダルトショップがあります。

閉店後の店のシャッターに描かれているイラスト。

【参考文献】
*1 浦崎浩實:荷風(日本文芸社2005.6)P.41-P.41「銀座シネパトス」

銀座(金春湯)文久3年開業の歴史ある銭湯です。

銀座8丁目の金春通りのビルの1階に金春湯があります。金春湯の歴史は古く、文久3年(1863年)開業です。*1

場所柄、ご商売の人たちが店の始まる前や後に来ることが多いようです。*2

金春通りの工事現場のフェンスに大正10年頃の金春湯の写真が掲示されていました。
周囲は置屋や待合が並ぶ花街でした。*3

湯船には、12匹の鯉が泳ぐ様が描かれています。12ヶ月(金春湯に)来い(鯉)という意味だそうです。*2
お湯は、「熱い」と「ぬるい」の二択が可能です。「ぬるい」だと、のんびりとつかることができます。左側に「熱い」のプレートが貼られていますが、右側の「ぬるい」のプレートは剥げ落ちてしまっています。

【参考文献】
*2 田中見世子:東京人(都市出版社,2001.4)P.60-P.61「この街に生まれて暮らして」
*3 隼つばめ:荷風!(日本文芸社,2005.6)P.56-P.60「東京平成銭湯三昧」
【参考URL】
*1 こんぱるゆホムページ

銀座(白いバラ)アルサロブ-ムを今に伝える店です。

現在3丁目にあるグランドキャバレー「白いバラ

「白いばら」は、アルバイトサロン(略称:「アルサロ」)が全盛だった昭和29年に「ニュータイガー」から転向し、オープンしました。アルサロは、明朗・安価なシステムに加えて平均年齢19歳前後というピチピチ嬢のにわか仕込のサービスが大衆の人気を集めました。*1

店の前の日本地図のパネルには、在籍の女の子の名札が貼ってあり、出身地がひと目でわかるようになっています。

女性募集の看板。

【参考文献】
*1 福富太郎:キャバレー秘史P.117-P.125

銀座(東京温泉跡地)元祖トルコ風呂。延べ1,600坪の建物。

昭和26年は、わが国の風俗界に新しい風が吹いた年でした。日本で最初のトルコ風呂(現在のソープランド)が東銀座に開店しました。
「戦後性風俗体系」*1 に掲載されている写真によると4~5階建ての建物ですが、現在は新しいビルに建て替わっています。

東京温泉は、延べ1,600坪の建物で、蒸し風呂付の大浴場や30の個室、レストラン、喫茶の設備がある、豪華を極めるレジャー施設でした。東京温泉は、正統マッサージだけでしたが、ミス・マッサージは美人揃いでした。*1
開業前に、トルコ風呂のサービスガールを公募。水着審査のコンテストが行われました。*2

「東京温泉」を「トルコ風呂」と名付けたのは、内外タイムスの整理部の記者でした。トルコ協和国の蒸し風呂を連想したため、記事に「日本で初めてトルコ風呂が」と見出しをつけたことがきっかけです。結果、「東京温泉」に対しては、迷惑を及ぼしました。後になって、広岡敬一さんが「東京温泉」の二代目社長を取材したところ、「冗談じゃないですよ。うちがトルコ売春の元祖のように思われて」と憤慨していたそうです。*1

現在は、カラオケボックス等の店舗が入っています。

【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗体系(2000,朝日出版社)P.83-P.84
*2 井上章一:美人コンテスト百年史(新潮社,1992)P.119

銀座(RAA本部跡地)銀座通りに募集看板が立てられました。

昭和28年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争が終わりました。そのわずか13日後の8月27日、進駐軍のための特殊慰安施設の本部として、RAA(レクレーション・アミューズメント・アソシエーション)の設立式が皇居前広場で行われました。*1*4
「新日本の女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として、進駐軍慰安施設の大事業に参加する新日本女性の率先力を求む」こんな看板が銀座の通りなどに掲げられました。

RAA本部は、銀座7丁目の中華料理屋「幸楽」(現在の銀座ライオンの手前のあたり)にありました。*2*3

その後、RAA本部は、銀座8丁目角の博品館ビルに移転しました。*2*3
この博品館ビルには、昭和39年(当時、観光会館)、福富太郎さんが、キャバレーの「銀座ハリウッド」をオープンさせました。RAA本部のあったビルのオーナーの伊藤弘義社長から、「君ならこの大ビル全館を使いこなせる。」と勧められたのがきっかけでした。「銀座ハリウッド」は、延べ1000坪、全館吹き抜けでした。*2

現在の博品館ビルには、りかちゃんクラブが入っています。内容に違いこそあれ、女性に縁の深いビルと言ってよいのではないでしょうか。

【参考文献】
*1 小林大治郎,村瀬明著:みんなは知らない 国家売春命令(雄山閣出版,1961)P.12-P.15
*2 福富太郎:昭和キャバレー秘史(1994,河出書房新社)P.70-P.71,P.170-P.171
*3 武揚堂:地図物語 あの日の銀座(武揚堂,2007)附図
【参考記事】
*4 風俗散歩(大森):慰安所第1号跡地

銀座(カフェー跡)文士たちが遊んだキャバレーのルーツ。

今回は、銀座(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
明治44年3月、銀座に日吉町に、「カフェ・プランタン」が開店したのが、東京のカフェーの始まりといわれています。*1
「カフェ・プランタン」の維持会員には、森鴎外、永井荷風、高村光太郎、北原白秋、谷崎潤一郎らが名を連ねていました。*2
現在、この場所は、銀座8丁目並木通りの一角、額縁店となっています。*3

「カフェ・プランタン」開店の5ヶ月後の昭和44年8月、尾張町の角に「カフェーライオン」が開店し、30名の女給を置きました。女給サービスの始まりです。ただ、サービスといっても客席につくわけではなく、飲み物や料理を運ぶだけでした。*1
「カフェ・ライオン」は、銀座5丁目の角(現日産ギャラリー)にあり、後に、「銀座ライオン」(銀座7丁目で現在も営業中)となりました。*3

大正13年、「カフェ・ライオン」の筋向かいに「タイガー」が開店。銀座の2大カフェー時代が始まりました。「タイガー」は、関西商法を取り入れ、かなりのエロ・サービスをしました。すると、ライオンの女給たちも、負けじとエロ・サービスをしましたが、まじめな営業をしていた経営者は、客の膝に手を載せたり、膝に腰掛けたりした女給をどんどんクビにしてしまい、「ライオン」の女給は「タイガー」に鞍替えしてしまいました。「ライオン」は衰微し、永井荷風などは、「タイガー」に入り浸りになったといわれています。*1
「タイガー」の女給たちの中には、客からのチップの以外にこっそりと色を売る女もあったといわれ、永井荷風もそれにありついたようです。荷風のここでの経験は、昭和6年、名作「つゆのあとさき」に結実しました。「タイガー」があった場所は、現在は「ニューメルサ」の巨大なビルに変わっています。*3

その後、銀座2丁目に「カフェー黒猫」という上品なお色気のお店が出現しました。*1
「カフェー黒猫」は、廣津和郎の流行小説「女給」のモデルとなった小夜子という女給がいた店で、永井荷風も小夜子を見るために「カフェー黒猫」を訪れています。現在、「カフェー黒猫」があった場所には、「ティファニー&CO」がそびえたっています。*3

昭和3年頃から、銀座のカフェには、関西式のエロ戦術が持ち込まれました。*5
たとえば、「カフェ・ロシヤ」では、2階にプライベートルームを設け、中には長椅子があって内部から錠がおりるようになっていました。*4
「銀座解剖図」によると、「いわく××サービス、いわく五十銭曲芸、いわく××××、いわくポケット戦術、いく賭け事サービス、いわくスペシャル×××」と紹介されています。*5
「ポケット戦術」とは、和服の下はハダカで、その脇から乳や下半身を触らせることで、「スペシャル」とは、フェラチオのことだと言われています。*6
昭和初期の調査によると、警視庁管轄下のカフェーは、約6,000軒、バーが1,500軒、女給が15,000人でした。昭和4年9月から5年4月8ヶ月間に、警視庁管轄下のカフェで、営業停止が126軒、営業禁止が11軒あり、この頃、「カフェー黒猫」も問題を賑わしました。*4
【参考文献】
*1 福富太郎:昭和キャバレー秘史(1994,河出書房新社)P.18,P.47-P.48
*2 三枝進:銀座 街の物語(2006,河出書房新社)p.42
*3 竹馬絵子:荷風(Vol4,2005,日本文芸社) P.11-P.13「荷風の銀座を探すッ!」
*4 高橋桂二:物語・女市場P.140-P.141
*5 石角春之助:銀座解剖図(丸之内出版社,1934)P.297
*6 西本頑司:荷風(Vol4,2005,日本文芸社) P.48「如何にして銀座は『銀座の女』を作りたもうたのか?」

人形町(末廣神社)400年以上の歴史を持つ神社。

人形町2丁目に末廣神社があります。

末廣神社は400年以上の歴史を持つ神社です。元吉原の総鎮守社として信仰されてきました。

神社に日本酒が奉納されています。末廣酒造という会社があるようです。

吉原移転後は、花街として繁栄したようです。

人形町(元吉原)明暦の大火で焼失後移転。大門通り。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みと風俗(跡)を散歩します。人形町は江戸時代、元吉原がありました。場所は、現在の日本橋人形町2~3丁目と日本橋富沢町付近あたりとされています。写真は地下鉄の人形町駅を出たところの交差点です。有名な玉ひでがありますが、元吉原があった時期は玉ひでの創業よりもさらに100年ほど前です。現在は元吉原の面影はまったくありません

元吉原の案内板があります。それによると、元吉原は、江戸時代の始め(元和3年(1617年)に葦(よし)が繁茂する湿地を埋め立てて造成されたことから吉原という名前がついたそうです。しかし明暦3年(1657年)の大火で焼失したことをきかっけに39年間栄えた吉原遊郭は、浅草山谷へ移転するこになりました。移転後の吉原を新吉原、移転前の吉原を元吉原と呼びます。

歌舞伎で有名な玄冶店の碑が人形町の交差点近くにあります。吉原が移転した跡にこの地において歌舞伎や人形浄瑠璃が盛んになり、人形町の地名の由来になったそうです。

現在の吉原にある大門は元吉原にあった大門という名前をそのまま引き継いだものとだそうです。現在の人形町にも大門通りがあり、当時の吉原の名残りを見ることができます。

この風景から400年前の吉原遊郭を想像するのは少し難しいようです。