名鉄線の豊川駅の隣の駅、稲荷口駅から約500m。住宅街の中に大衆食堂の「大善食堂」があります。

壁に書かれた「めし」の文字。

大衆食堂らいしい雰囲気です。

オムライス(大盛)とビールを注文。巨大なオムライスに驚愕しました。

名鉄線の豊川駅の隣の駅、稲荷口駅から約500m。住宅街の中に大衆食堂の「大善食堂」があります。
壁に書かれた「めし」の文字。
大衆食堂らいしい雰囲気です。
オムライス(大盛)とビールを注文。巨大なオムライスに驚愕しました。
名鉄豊川線の豊川駅から2つ目の諏訪町駅近くにあるキャバレーの建物。
複雑な形をしています。
赤と白。
1階と2階があるようです。
昭和の雰囲気漂う看板。
飲食店「みほ」がある小路※1 の1本西側の小路。
料理屋が2軒並んでいます。
料理屋の「小松屋」。
レトロな佇まいです。
小路(写真左側)の裏側は広い駐車場になっています。写真の右側は、飲食店「みほ」※1 がある小路に連なる建物の裏側。
豊川の駅前通り。商店街の南側に細い路地が続いています。
飲食店「みほ」。
斜めドア。
かつては、賑やかな通りだったのかもしれません。
今回は、豊川(愛知県豊川市)の町並みを散歩します。
豊川稲荷の開帳(昭和29年)や豊橋博以降、昭和30年代、豊川の参拝客はうなぎのぼりに増加し、昭和38年には自動車時代を迎え、豊川稲荷の観光化が目立つようになりました。*1
豊川稲荷の門前通りには、レトロな飲食店やみやげもの屋が軒を連ねます。
こちらの飲食店は、現在はかき氷などの甘味類の店になっています。
駅前の西本町通り沿いの飲食店。
バーの看板。
旧御油宿から、「御油の松並木」を過ぎると旧赤坂宿です。その間約500mです。
長福寺近くにあるうなぎ屋さん。
江戸時代、この付近は、女郎置屋が建ち並ぶ一画でした。*1
井戸水の中で泳がせた国産のうなぎを使用しているそうです。(張り紙より)
うな丼と缶ビールを注文。
東海道五十三次宿時代の御油※1 は、大小名参勤交代、上下の旅人によって殷賑を極めました。遊女屋は、中町、中上町、伝馬町に全盛の頃は30軒余りありました。*1
現在は、当時の面影を残す建物は少なくなってきています。*1
イチビキ醤油手前の元女郎屋の建物。*1
中町の銭屋(女郎屋)があったあたり。*1
今回は、御油(ごゆ、愛知県豊川市)の町並みを散歩します。
御油は、江戸時代、東海道五十三次の中でも「御油に赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」と俗謡にも謡われるほど、飯盛で街道筋に聞こえた遊興の宿場でした。*1
写真は、かつての御油宿の入口にあたる旧御油橋です。
江戸時代の御油宿の様子は、歌川広重の木版画「東海道五拾三次之内36御油《旅人留女》」に描かれています。
御油の宿では日暮れにもなると、「留女(とめおんな)」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きがさかんでした。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが・・」とあります。*2
明治に入ると交通手段の主役が鉄道に移り、それについれて旧御油宿は次第にさびれていきました。御油橋を渡る旧東海道沿いは裏通りとして利用されています。*1
拳母(現在の豊田市のこと)には、カフェー(いわゆる特殊飲食店)が集団的に一画を形成していました*1。
特殊飲食店街は「観月境」と呼ばれ、昭和33年の赤線廃止まで続き、最盛期には、80~90人ほどの女性が働き、午前1時ころまで営業していました。現在では月見町という地名にその名残があります。*2
現在の月見町。
当時の屋号*3 を引きつぐビジネスホテル。
赤線廃止直後の1965年の住宅地図*4によると、旅館小楽があったのは、現在のビジネスホテルがある場所の1本北側の通りでした。
喜楽亭※1 は、内部を見学(無料)することができます。
庭園。
1階の渡り廊下の意匠。
2階の大広間。
豊田産業文化センターの敷地に喜楽亭建物が建っています。新明町にあった喜楽亭※1 が閉店後、移築されたものです。*1
創業は明治時代。贅を凝らした料理屋の建築を間近に見ることができます。*1
2階部分。
建物の前の庭園を含め、周囲を一周できます。
今回は、豊田(愛知県豊田市)の町並みを散歩します。
昭和40年頃の拳母(現在の豊田市街)には「喜楽亭」「魚十」「澤屋」「福好」「喜多善」「大見屋」「魚兼」「住吉」「くろ猫」「清こま」などの料理屋がありました。*1
豊田市街の神明町には、小料理屋、小料理屋兼旅館が軒をつらね、格子づくりの置屋が何軒もありました。*2
喜楽亭があったあたり。*3*4
いちらく(一楽)、タクシーの黒船などがあった新明町の通り。*2*4
袋小路には、数えきれないほどの芸者置屋、稽古場があったそうです。*2
町の商店街の四つ角のたばこ屋。
たばこの自販機の上半分のシャッターが開くと有人のたばこ屋さんに変わる仕組みです。
ディスプレイ部分。
芝浦のマーク。
かつては、波止浜の中心街だった本町の通り。通りの中ほどに、美容院の建物があります。
1階はタイル貼りのバーが併設されています。
2階は紫色です。
カラフルなタイル。
波止浜の本町通り。
昭和30年代の終わりころには、本町は、波止浜の町の中心でした。*1
洋酒の店。
2階にスナックが入っているビル。
1階は、飲食店だったようです。
波止浜の仲之町の通り沿いに、タイル貼りの理容室の建物があります。
建物の全面がタイルで覆われています。
ひさし部分。
水色にピンクのライン。
今回は、波止浜(はしはま、愛媛県今治市)の町並みを散歩します。
江戸時代の波止浜は、製塩の町で、同時に瀬戸内海航路の潮待ち・風待ちの港町としても発展しました。*1
小高い山の上(写真左上)には、戦前、一茶亭というわら屋根の旅館があって、町や港を見渡すことができる旅館なので、船で波止浜に来た人や芸者さんと遊んだりする人がここに泊まったそうです。*2
現在、丘の上は、駐車場になっています。
駐車場から造船所のドックのクレーンが見えます。
井戸。波止浜の町は埋め立てて造成されたたため、飲料水や生活用水を確保することは重要でした。*3
今治市の本町六丁目。海に近いあたりに銭湯の大黒湯があります。
道路沿いの銭湯。
入口の円柱は、松山の祇園湯※1 と同じ特徴です。
見ていると目が回りそうなタイルの装飾。
栄町の歓楽街の隣の通り(今治市室屋町2丁目)。ここにかつてのキャバレーの建物が残っています。
「明星観光」と大きな文字で書かれた商業ビル。黒とオレンジのコントラストが強烈です。
現在は、「カラオケランド明星」が営業中です。
入口には、キャバレーの看板。かつての栄華が偲ばれます。
今治市街の歓楽街、共栄町に残る今治ラヂウム温泉本館。その特異な外観の建物は、今治で戦前より残るランドマーク的な存在です。*1
ホテルと温泉が一体となった娯楽施設です。現在は閉館している模様です。
レンガ造りの煙突。
売店。
今治駅前にある台湾料理・飲茶店の「碧空」。
古風な佇まいの店です。
地元の方の話によると、戦後まもなく開業し、当時の流行の先端をいくバーだったそうです。
ビールとおつまみを注文。
今治駅前の青線跡の建物。※1 木造二階建てです。
18歳未満お断りのプレート。
年季の入ったスタンドの入口。
窓が壊れた廃屋は、内部が露出している状態です。水着の女性のポスターが貼られています。
今回は、今治(愛媛県今治市)の町並みを散歩します。
今治駅前に残る長屋建物。地元の方の話によると、かつては数軒の旅館があって、非公認の女性街だったそうです。
南側から。
営業中のスナックもあります。
北側にももう一軒あります。
道後温泉駅前にある道後稲荷神社。
百度石。
大阪南地が寄進した玉垣。
南地は、1872年に指定された五花街(曽根崎新地、南地、新町、堀江、松島)の一つで、五花街のうちでも華やかで濃艶な花街でした。*1
他にも、料理屋が寄進した玉垣があります。
道後温泉から瀬戸風峠※1 を超え、さらに北側(松山市下伊台町) へ進むと、住宅街の北側に「道後城」の城跡があります。西側は赤鯉池、東側は山に囲まれています。
五層の天守。
大規模な石垣。
城跡は、元ラブホテルの建物で、2009年に競売にかけられました。*1
今回は、道後(愛媛県松山市)の町並みを散歩します。
道後温泉の北側郊外。ため池の脇の山道を登ります。
1本道の山道が続きます。
道後温泉から歩きはじめて約1時間。ようやく瀬戸風峠に到着しました。
この峠は、標高210mで、松山市街地を見下ろす絶好の場所です。市街地の中心に位置する松山城から北東の方角に約3km離れていて、最も手前に見えるビル群は、かつて伊台・五明方面から道後や城下に通じる交通の要衝でした。(案内板より)
松山市祇園町にある銭湯の祇園湯。
タイルで装飾された入り口。中央の大きな円柱が特徴です。
最寄りの駅はいよ鉄のいよ立花駅ですが、松山市街からも徒歩で行ける位置です。
年季の入った感じの脱衣場。
三番町二丁目の「キャバレームーン」のある通り※1 の北側の通り。
キャバレー三昧。
夜になると開店します。
赤と緑のネオン看板。
今回は、松山(愛媛県松山市)の町並みを散歩します。
三番町二丁目の南側の歓楽街。飲食店が立ち並びます。
キャバレー「ムーン」。昭和40年の市街図*1 にも記載されている老舗です。
クラブムーンの大看板。
ハワイの看板。付近にハワイの店舗は見あたりません。
多度津の東浜。多度津港近くにある大衆食堂の水田食堂。
昭和を感じさせる店内。
なべ焼きうどんを注文。
年代物の栓抜き。
多度津町の市街を流れる桜川。川沿いにマッサージ店があります。
あん摩やの大看板。
マッサージ店。
あん摩やの暖簾。
多度津は、木製牛乳箱が豊富です。
らくれん牛乳。
縦に2つ。
横に2つ。
多度津市街には、コンクリゴミ箱が多数残っています。
写真は、旧花街の路地の入口のゴミ箱。
駅近くの住宅地。
木製の蓋のゴミ箱。
地蔵堂脇のコンクリゴミ箱。
明治三十七、八年頃の内湛浦と附近の略図*1 には、稲荷神社下の通り※1 から西浜の港に面した通りに「廓街」の記載があり、「廓街」はL字型に伸びていたと思われます。
西浜の遊廓街の入り口のあたりには、大島楼、岡本楼、朝日楼がありました。※2
旧開化楼と思われる建物。※2
すぐ後ろには、崖が迫っています。
当時の風格を残しています。
多度津町住宅明細地図※1 によると、稲荷神社の下のこのあたりに、芝居小屋の辨天座(旧翁座)がありました。
歓楽街の中心部だった通り。
旧「カフェミステ」。
大型の建物です。
多度津町立資料館に昭和年発行の「多度津町住宅明細地図」が展示されています。
当時の市街の様子の詳細をうかがい知ることができる貴重な資料です。
花街があったあたり。
稲荷神社(辨天社)の坂を下ったあたりに、芝居小屋の「辨天座(旧翁座)」銭湯の柳湯の名が見えます。同じ通り沿いに、小松楼、カフェミステなどの屋号があり、この付近が歓楽街であったことがわかります。
西浜の海岸沿い。海岸沿いの通りに、大島楼、岡本楼、朝日楼、開化楼、久永楼、石川楼などの屋号が確認できます。
今回は、多度津(たどつ、香川県仲多度郡多度津)の町並みを散歩します。
多度津町立資料館には、多度津にゆかりのある文化財等の資料が収集されています。*1
「多度津のくらし」の展示コーナー
芝居小屋翁座の模型。
解説文によると、翁座は、西浜の稲荷神社下の花柳町の真ん中にあって、道頓堀の一流の劇場を模倣して建立されたそうです。
明治37,8年頃の市街図には、正一位稲荷大明神の下(妙應寺の西)に翁座の記載があります。*2
坂出の商店街「サンロード」沿い(坂出市本町2丁目)にある「どんや食堂」。
昔ながらの大衆食堂です。
メニーは、うどん、寿司、そば、そうめん。
うどん、ちらし寿司、缶ビールを注文。
坂出港の南側(坂出市西大浜北)はビジネスホテルとラブテホル混在して立地するエリアです。
築地橋南交差点近くにある巨大ラブホテル。
長大な入口のゲート。
坂出プラザホテル近くにある巨大ラブホテル。
坂出プラザホテルの大きさに負けていません。
沖湛甫南岸にある金刀比羅宮。かつての栄華をしのばせる神社です。*1
右側の像。
小さいですが、男根が刻まれていますので、雄ということでしょうか。
反対側の像には、シンポルらしきものはありません。
坂出には、売春防止法が施工される昭和33年(1958)まで沖湛甫に遊廓がありました。日の出・奴・新栄などの店があり、外国の船員さんも来ていました。*1
遊廓は、沖湛甫の南岸に建ち並んでいました。
奥行のある古い建物。
旅館「潮風」。
今回は、坂出(香川県坂出市)の町並みを散歩します。
坂出市郷土資料館の建物は、大正8年に建設された坂出商業学校の建物で、大正初期の建築様式をとどめています。*1
資料館前の庭に白ポストが設置されています。駅前に設置されているケースが多い白ポストですが、資料館前の庭に設置されているのは珍しいです。
古新聞、家庭ゴミ等を入れると、刑法「偽計業務妨害罪」若しくは軽犯罪法「不法投棄罪」違反として処罰されます。
丸型ポスト。
高松市街の片原町駅近く。フェリー通りに面したところに、大きな建物の風俗店があります。
建物とほぼ同じ大きさの大看板。
看板を取り付ける支えも重厚です。
夜になるとネオンが輝きます。
高松市御坊町の西福寺近くの道路。歓楽街の中心部からは外れたエリアです。
下からは到底見ることができない場所にそれは有ります。
最上段のビデオ店の看板脇の貼り紙。
18才未満の方の利用はお断りします。青少年の福祉を阻害する行為(淫行等)をした者は、条例により罰せられることがあります。
と書かれています。
通常の位置から眺めると、肉眼で読むことは困難です。;
高知の中心街「ライオン通り」と交差する「古馬場通り」。看板が密集しています。
この付近が歓楽街の中心です。
「女学院」の看板。
付近に「女学院」という名の店舗は見当たりません。看板だけが取り残され、“無用看板”となっています。
華下天満宮脇の小路に掲示されている「古天神味の店」の案内図。トイレの場所を教えてくれています。
呑み屋横丁のトイレ。
綺麗に掃除されています。
ドアに貼られた堀北真希さんのシール。虫歯予防ハミガキのCM当時のものです。
百閒町の華下天満宮の小路「古天神味の店」※1 に残る大人のオモチャ屋さん。
大人のオモチャ「ポルノショップ」百閒町店。
現在は、閉店しているようです。
張形(はりかた、おとなのオモチャ)は、さかのぼれば古代ギリシアでも象牙、革製のものが使われていて、日本でもリップスティック状のものはありましたが、電動バイブのようなものとしては、「熊ん子」が元祖で、大阪万博の頃に登場しました*1。
クリバイブから伸びる舌のような突起が、熊の口のデザインになっています。本体うねりの部分には顔が刻まれ、「民芸品」の「電動こけし」として、昔は、温泉街の路地裏のお店などで販売されていました。*2
今回は、高松(香川県高松市)の町並みを散歩します。
高松市街の百間町にある「華下天満宮」前の小規模な飲み屋街「古天神味の店」。
居酒屋やスナックが建ち並ぶメインの通り。
裏側の通り。
古びたスナックの入口。
高知市帯屋町1丁目の飲み屋小路。落ち着いた感じのスナック店が建ち並びます。
窓に特徴のある「壁」という店。
小路は、L字型になっていて、大通りへ抜けれます。
夜の様子。
堺町の中央緑地沿い。昼間は閑散としています。
大人のおもちゃ屋さん
陳列している商品。
「ピンク堂」の看板。
高知市与力町(堺町の西側)の交差点の角にあるレトロな「マキ美容室」の建物。
横から見ると、驚くほど狭小な建物であることがわかります。
入口付近。こちらは、「サロンK」という屋号です。
カラフルなタイルの装飾。
高知市南はりまや町。鏡川の堤防に近いあたり。
あん摩マッサージ屋さん。
インパクトのあるR(アール)あんま乳房マッサージの看板。
こちらが出入り口のようです。
潮江橋から見る鏡川河畔(高知市天神町)は、観光ホテルとラブホテルとが混在し、奇妙な風景をつくりだしてています。*1
派手な色のラブホテルの建物。
古城を模した建物もあります。
夜になると、鏡川におちるネオンの影が美しい夜景を演出します。
高知市南はりまや町にある料亭「得月楼」は、宮尾登美子著の「陽暉楼」の舞台なった料亭です。*1
創業者の松岡寅八は、幼年時代から商売を仕込まれ、明治5年に独力で陽暉楼をはじめ、更に得月楼を創業(明治11年・1878・谷干城命名)。後に本店を稲荷町に移し、中店を浦戸に置いて、数カ所に出店して発展させました。現在の得月は中店です。*2*3
見事な庭園。
昼のランチはリーズナブルな価格で、個室でゆっくりできます。
かつての青線街「掛川町」※1 は、現在の堺町8,9,11,12,13付近と思われ、1983年の住宅地図を見ると、スタンドやスナック、トルコ風呂などが密集しています。*1
写真の左手前の交差点の角(現在は駐車場)には、スタンド朱美、スタンドひとみ、スタンド姿、がありました。
スタンド小吉の建物。
昭和33年の売春防止法施行以降、掛川町の特飲街は、旅館、スタンドなどに転業し、従来通りの賑わいを呈していました。(この建物が青線であったかどかは不明です。)*2
かろうじて「小」の文字が残っています。前回(2014年)、この付近を歩いたときの記憶では、「一品料理 スタンド小吉」と書かれていたと思います。
料亭の建物を思わせる2階部分。
今回は、高知(高知県高知市)の町並みを散歩します。
高知市の掛川町は、かつて青線(非公認の特飲街)があった場所です。*1
現在はソープランドなどが建ち並ぶ風俗街になっています。
旧町名の掛川町の案内板。案内板によると、「掛川町」は、関ヶ原の合戦後、山之一豊が掛川(現在の静岡県掛川)から入国のとき、職人を移住させたことに由来する地名です。
青線があった時代は、玉水町の赤線※1※2※3と並んで、掛川町の青線と呼ばれていたようです。売春防止法施行により、赤線と青線は解散しましが、掛川町の青線については、半年後街娼がみうけられるようになり、転業した旅館のほとんどが連れ込み宿でした。*1※4
現在の町名は、堺町です。
「掛川」の電柱番号札。
JR鳴門線撫養駅(鳴門駅の一つ隣)の東側の交差点。
古いスナックの建物があります。
スナック「青い鳥」。
現在は、休業中のようです。
ボートレース鳴門近くには、昔ながらの大衆食堂が2軒あります。1軒は「うれしや食堂」※1 、そして、もう1軒がこちらの「うずしお食堂」です。
徳島ラーメンが名物のようです。
店内のショーケースには、小皿に取り分けられた料理。
徳島ラーメンを注文。
前回※1 も散歩した撫養町南浜東浜の飲み屋街。コンクリゴミ箱が設置されています。
隣には、ポリバケツのゴミ箱。新旧のゴミ箱が並んでいます。
保存状態良好です。
きちんと清掃されています。
鳴門駅の北側。住宅街の中にある銭湯の東湯。
鳴門市撫養町小桑島日向谷。看板には、「桑島 東湯」とあります。
現在は、休業中のようです。(貼り紙有り。)
煙突には、「東温泉」と書かれています。
林崎遊廓の起源は、近世末の商人船の多く出入る湊が賑わっていた頃にさかのぼります。松富楼、玉川楼、改進楼、菊水楼、村上楼、金時楼、喜楽楼、丸山楼、衆景楼、がありました。*1
現在、遊廓地の面影はありませんが、所々に大型の民家が残っています。
「一心」という屋号だった建物。*2
昭和4年の市街図*3によると、遊廓地は、道路を超えた東側にも広がっていたようです。(写真奥は撫養城)
今回は、鳴門(徳島県鳴門市)の町並みを散歩します。
鳴門の撫養(むや)川岸の林崎花街※1 は、芝居小屋の清光座(戦後は映画演劇専門館)を中心にして、料亭、旅館、が建ち並んでいました。*1
高松家(高松席、のちの高松旅館)、みよし野(みよし亭)があったあたり。道を挟んだ反対側(写真左側)に「陣幕支店」「清光座」「八木亭」がありました。*1*2*3
古い建物も残っています。
旅館だったと思われる建物。*2。
元置屋の「陣幕」*1 と思われる「旅館陣幕」があったあたり*2
小作駅前の飲食店ビル。このビルの1階に無料案内所が入っています。
かつての小作は、奥多摩方面では、数少ない風俗店のある町でした。*1
ビルには空き店舗もあるようです。
無料案内所。
派手な看板が乱立しています。
今回は、小作(おざく、東京都羽村市)の町並みを散歩します。
JR青梅線小作駅東口周辺には、居酒屋やパブ・クラブが入居する雑居ビルが乱立しています。
西方向にある巨大風俗ビル。
ラーメン屋などの飲食店が入るビル。
大通り沿いの大型ビル。
福生の旧赤線街のメインの通り*1※1 の東隣の通り。道幅の狭い通りにスナックが密集しています。
通りの奥まったところ。
趣のあるの和風スナック。
南端は、メインの通りと繋がっています。
福生のスナック街の東側。古いホテルが建っています。神社が隣にある不思議な空間です。
「ホテル徳川入口」の看板。
神社から逆方向を見たところ。ホテルの裏側は段丘になっていて、建物は連続しています。
丘の上のホテルは、近代的なホテルに生まれ変わっています。
福生駅から東福生駅へ向かう五差路。
交差点の角には、かつて横田トルコがありました。現在は駐車場になっています。
1970年の住宅地図*1 によると、横田トルコには、「トルコレストラン」が併設されていました。
横田トルコの西隣には、横田ニューゲストホテルがありました。*1
牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1
内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1
当時の珍しい写真も展示されています。
外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)
今回は、福生(東京都福生市)の町並みを散歩します。
朝鮮戦争の頃の米国本土からの米軍人家族移住策により、基地内における米軍人家族用の新規居住が困難となったため、1951年、当時の基地の司令官が、米軍人家族用の一戸建て賃家である「ハウス」の建設を福生市に要請しました。これが、アメリカンハウスです。*1
ハウスは、米軍によって規格化された平屋の一軒家で、全室が洋間であることと、平均10畳のリビングと庭があることを特徴としていました。*1
外壁は、水色やピンク色に塗装されています。
最近は、店舗に転用されている事例もあるようです。
江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1
本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1
こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。
中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。
江戸東京たてもの園に移築されている居酒屋の「鍵屋」。
鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられ、その後、明治から大正、昭和初期まで酒の小売り店を営み、戦後の1949年(昭和24)、本格的に居酒屋として営業を始めました。金杉通りと言問通りがぶつかる角近くにあり、地の利に恵まれていました。*1
戦後の「酒はカストリ」の時代から店のメニューはしだいに増え、鰻の子のくりから焼き(=うなぎの串)や煮奴(にやっこ)、味噌田楽などそれぞれの肴が絶品と言われました。主人の清水幸太郎氏は無口で黙々と仕事をし、この店では女性だけの客、飲みすぎの客は断られました。
木製の熱燗機。
カブトビールのポスター。
カブトビールは、明治時代に、既存4大ビールメーカーに挑戦した愛知県半田市のビールです。*2
江戸東京たてもの園、丸二商店の建物。
銅板で装飾された看板建築の建物です。*1
建物脇の路地も当時の情景が再現されています。
防火用水とゴミ箱。
木製ゴミ箱。コンクリ製ゴミ箱と形状は同じです。
JR中央線武蔵小金井駅北口からバスで5分。小金井公園の敷地の中に、江戸東京たてもの園があります。
江戸東京たてもの園は、1993年、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的に開園しました。*1
商店などの建物が建ち並ぶ東ゾーンの奥にある銭湯の子宝湯。1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられました。*2
格天井(ごうてんじょう)など、脱衣場は日本の伝統建築の空間。浴室はタイル張りなど、洋風の雰囲気が強い、いわゆる「東京型銭湯」の特徴*2 を持ち合わせています。
ガラス戸を介した縁側。*2
東京学芸大の東側。道路沿いを進むとまるで軍艦のような外観の煙突を持つ建物が現れます。
鉄筋コンクリート3階建てです。
建物は、工事用事務所も兼ねているようです。
雑然とした感じの銭湯の入口。
今回は、武蔵小金井(東京都小金井市)の町並みを散歩します。
JR中央線武蔵小金井駅北口を出て約300m。けいやき通りに映画館の名画座がありました。*1
名画座は、ふとん店の東隣の敷地にありました。
1970年代は、主にポルノ映画が上映されていました。
1977年の雑誌「ぴあ」を見ると《田中絹代さんを偲んで》と題し「サンダカン八番娼館・望郷」が上映されている他、《日活ロマンポルノ決定版》では、宮下順子さんや谷ナオミさんの作品が上映されています。*2
現在は、駐車場になっています。
多摩モノレール泉体育館駅近くの青柳公園へ向かう道の途中。
「青少年に有害なビラ・チラシお断り」の看板があります。
場所は、閑静な住宅街。
かつて、住宅街や商店街に貼られたピンクビラやチラシに反対する運動や禁止看板の設置が行われましたが*1、立川でも類似の運動があったのだと思われます。
著者(風きよし)が独自の目線で書いた散歩本。
…P.120-P.121
ピンクピラとは、繁華街やラブホテルの電柱や標識柱に貼られて…
戦後の進駐軍の性処理問題へ対応は、米軍の人種差別のため、白人兵士用の羽衣町特飲街と、富士見町(西立川駅前)の黒人兵士専用のバーに2分されていました。*1
白人用の特飲街と黒人用特飲街が2分されるのは、かつての沖縄でも同様の状況が見られました。※1
立川の場合は、東の方は白人が、西立川寄りは黒人街にと変わりました。そして黒人専用のバーとして西立川駅の入口に「玉川」が誕生しました。*1
1970年の住宅地図*2 を見ると、駅近くに同じ屋号の「ホテル玉川」の記載があります。
「ホテル玉川」があった場所は、現在は、食品スーパーの建物が建っています。
屋上からの遠望。
昭和記念公園(戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川基地跡地)の緑が見えます。
今回は、立川(東京都立川市)の町並みを散歩します。
立川の赤線は、錦町※1 と羽衣町の2ヶ所にありました。*1*2
戦後は、旧日本陸軍の将校宿舎に立川パラダイスが作られましたが、やがて閉鎖されると、兵隊達は羽衣町の特飲街へと流れ、戦前からの飲食店街までバーへと一変しました。*3
現在も格子状の道路の形状が残っています。
1970年の住宅地図*4 見ると、この付近には、荻原荘、稲生荘、千秋荘などの屋号の記載があります。転業アパートと思われる屋号の記載があります。
錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観でした。*5*6
写真は、旧特飲街の東端。
旧特飲街の南端は、商店街と接しています。
西東京市南町1丁目にある松の湯。商店街の中にあります。
都内では少なくなりつつあるレトロ銭湯です。
簡易な懸魚。
ロケットのような形をした煙突。
田無駅北口から田無小学校へ向かう道を入ります。
レトロな喫茶店の「フジカフェ」。
店内は、混雑しています。隣の席と隔てる板にメニューが貼られています。
トースト(ダブル焼きサンド)は、ツナ、ポテト7、ハムチーズエッグ、チキンカレー、ハンバークの5種類の中から2種類を選択できます。
西武新宿線東伏見駅の西隣の柳沢(やぎさわ)駅の商店街にのレトロなパチンコ店。
モダンなデザインの建物です。
建物の裏側へ回ると駐車場からの出入口。
777ののネオン看板。
東伏見4丁目交差点の看板※1 に導かれて、青梅街道を西へ進み、東伏見稲荷神社近くが、ホテルへの入口です。
広大な庭園を持つホテル。
かつては、モーテルだったようです。*1
レトロな電飾看板。
「旅荘」と書かれています。
都道4号線(青梅街道)と都道7号線(五日市街道)が分岐する東伏見4丁目交差点から、南側の7号線へ入ります。
道路沿いに、伏見ホテルの看板が建っていますが、付近にホテルは見当たりません。
看板に記載された十字のマーク。「この先の十字路を右へ曲がる」ことを示しているようです。
看板の裏側を見ると納得できました。誤って7号線へ入ってしまったドライバー向けの看板のようです。
今回は、東伏見(東京都西東京市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東伏見駅北口。この付近は、西東京市が合併する前は、保谷市だった地域です。
ロータリーには、バスが発着します。
ロータリーの向こう側からも見える「ちかん禁止」看板。
重要な部分は、赤文字です。
三鷹駅の南側。三鷹市下連雀3丁目に、周囲をビルに囲まれた銭湯の春の湯があります。
マンションの建物の1階のビル銭湯。
これより先、土足禁止です。
清潔な店内。
三鷹駅北口の中町新道沿いにある喫茶店の「ブルボン」。昭和39年の住宅地図*1 にも掲載されている店です。
レトロな外観。
非常に落ち着きます。
ナポリタンとビールを注文。ボリューム満点です。
八丁通り(武蔵の警察署の前の通り)から三鷹駅北口に至る一画は、スナックや飲食店が集まる八丁商和会*1 のエリアで、かつての特飲街があった場所※1 もこのエリアに含まれます。
周囲は、高層マンションや居酒屋チェーンの本社ビルなどが建ち並びます。
駐車場脇に、ひっそりと佇む八丁稲荷。
八丁の名が残る稲荷神社です。
特飲街の女性たちも信仰したのかもしれません。
八丁特飲食街の北側。この通りを進むと横河電機の工場です。
古いアパートの建物。
ここには、飲食店「バークロンボ」「はしご」「紅鶴」がありました。*1
腰廻りの石材。
八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。
八丁通り沿いにあります。
1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。
2階部分。料亭らしき佇まいです。
今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて「八丁特飲街」として賑わった飲み屋街があり、「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店がありました。*1
南側の路地に入ると、現在もその雰囲気が残っています。
昭和39年(1964年)の住宅*2 には、「花月」「ふたば」など、特飲街時代の屋号を引き継いだ店が確認できます。
電柱番号札に残る「八丁」の名。
1956年5月、売春防止法が国会を通過し、全国各地の草の根からの廃娼運動の結果、1957年12月19日、業者側は遂に廃業声明を発表するに至りました。*3
昭和初期、太閤通りの南側の現在のNTT西日本中村ビルと中村郵便局がある場所に、総合レジャーランドの「名古屋花壇」がありました。*1
名古屋花壇(中村温泉パラダイス)は、昭和3年(1928年)に開設された遊園地で、舞台付き大食堂、遊技施設などの大規模建物と、屋外の遊園地、花壇などが設置されていました。*2
昭和4年(1929年)の世界大恐慌の影響で廃園に追い込まれました。*2
跡地は昭和12年(1937年)に中村区の仮庁舎になり、現在は中村郵便局 になっています。*2
旧中村遊廓。現在のピアゴ中村店の西側の一画に当時の妓楼と思われる建物が残っています。*1*2
建物の左側は改築されて洋風の店舗になっています。
「福春」の屋号。
「TSURUNOYA」と書かれています。*1
中村遊廓の特徴である四隅の廓の中心に向かう斜めの道。*1
現在は風俗店(旧「三角荘」)があります。
四隅のうちの南東部分にあたるこの場所の電柱番号札には、「遊廓北分1」と書かれています。
「遊廓北分1」の電柱番号札を起点に、旧遊廓の南東から北東にかけて、「遊廓北分2」「遊廓北分3」…..と続き、最後は「遊廓北分8」で終わっています。
ちょうど、四隅の北東部分にあたる場所です。写真の空地の部分は、「ホテル太閤」がありました。
かつての中村遊廓があった大門町。妓楼と思われる重厚な建物が残っています。*1
現在は風俗店として使われているためか、北側は看板建築のような造作となっています。
現存している遊廓時代の建物のうちの一つです。*1
裏入口はこちらです。
風俗店の看板。
中村遊廓の南東に、成人映画館の「中村映劇」があります。
敬老優待割引、あります。
レトロなネオン看板。
「汚物、生理用品など捨てる方」注意看板。
旧中村遊廓の南側の一画。名古屋市中村区賑町。
60年以上も赤ちょうちんを守ってきた居酒屋「善ちゃん」。お世辞にもきれいな店とは言えません。*1
入口脇には、錆びた飲食店の看板。
お食事処「善ちゃん」の提灯。
大門横丁※1 の一本北側の通り。呑み屋街の入口を示す「大門小路」の大看板。
コの字型に呑み屋街が続いています。
反対側の入口にも「大門小路」の大看板。
西側にも入口があります。
今回は、中村(愛知県中村区)の町並みを散歩します。旧中村遊廓の南側。昭和の哀愁の残る大門横丁が今も健在です。
レトロ感漂うアーケード。
反対側から。緩やかにカーブしています。
近くには、高層マンション。
吉祥寺東町1丁目。繁華街からはずれた住宅地にある「まるけん」。遠くからでも「まるけん」の看板を確認できます。
大衆食堂「まるけん」。
こじんまりした店内は、地元の人たちで満員です。
かつ丼とビールを注文。
東急百貨店の西側。商店やブティックもまばらになり、住宅街になるあたり。吉祥寺では、よろづ湯※1 と並ぶレトロ銭湯の弁天湯があります。
弁天湯の煙突。
脱衣場の窓には、裸婦が磨りガラスで描かれています。
レトロなかさ入れ。