洞川(山上ヶ岳)女人禁制。険しい山岳を駈けゆく決死行。

今回は、洞川~下市(奈良県吉野郡)の町並みと風俗を散歩します。
2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。①熊野信仰の中心地「熊野三山」、②修験道の拠点「吉野、大峯」、③真言密教の根本道場「高野山」の三つの大霊場とこれらを結ぶ「熊野参詣道(三重県、和歌山県)」、「大峯奥駈道(奈良県)」、「高野山町石道(和歌山県)」と呼ばれる参詣道が、世界で2例目の「道」の文化遺産としてユネスコから認定を受けました。*1

大峯山(山上ヶ岳、標高1719m)は、修験道(しゅげんどう)の霊場で、現在も女人禁制を守る山として知らています。女人禁制(にょにんきんせい)とは、狭い意味では信仰にかかわる慣行で、女性に対して社寺や山岳の霊地や祭場への立入りを禁じるもので、山の境界は「女人結界(にょにんけっかい)」と呼ばれました。*2

「女人禁制」は、江戸時代以降、奇妙な性風俗を生み出しました。女性を聖地から排除しておきながら、聖地で修行を終えた男性は、聖地の近くに設けられた遊廓で「精進落とし」と称して買春をしました。*3
「女人禁制」については、「伝統文化」か「女性差別」かの議論が現在も続いています。

山を神聖視し修行の場とする修験道の本質は、険しい山岳を駈けゆく決死行にあります。*1
日本三大荒行のひとつである山上ヶ岳の「西の覗き」は、肩に命綱をかけられ断崖絶壁の上から逆さまに下ろされた状態で合掌しなければならないのですが、その状態でいろいろな訓戒をして、それをよく守るという約束をさせられます。*1*3
「親孝行するかッ!」「奥さんを大事にするかッ!」「女遊びしないかッ!」などの質問に、必死で「ハーイ、ハーイ」と絶叫します。

【参考文献】
*1 伊勢文化舎:聖地巡礼 熊野・吉野・高野山と参詣道(伊勢文化舎,2004)P.23,P.110-P.114
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.2
*3 源淳子:「女人禁制」Q&A(解放出版社,2005)P.8,P.134

参考文献

参考記事

玉島(夢の浮橋)遊廓の入口にある石橋。歴史的な遺蹟。

仲買町から西町の方へ歩きます。この付近は町並み保存地区に指定されていて、歴史的な遺蹟については、看板が立てられています。

川でもないのになにやら橋らしきものがあります。石に刻まれた文字は「夢の浮橋」と読み、ここから先には遊廓がありました。*1*2

江戸の末期の回船問屋の名前が彫られています。*2

遊廓が途切れたところにも橋があって、その橋は「地獄橋」と呼ばれています。*1

【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.136
*2 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.62

参考文献

参考記事

宮内(共同墓地)西側の一画に多数の無縁墓。

吉備津駅背後の山の斜面に共同墓地があります。

その西側の一画に、多数の無縁墓が整理されています。この中には、遊女の墓も含まれています。

墓地最上部段には、宮内の豪商と言われた真野家の墓があります。

共同墓地から見た宮内。

【参考文献】
*1 岡山市教育委員会文化課:岡山市の歴史みてあるき(岡山市教育委員会,1977)P.293

参考文献

参考記事

宮内(吉備津神社)寛政頃の歌舞伎役者寄進の玉垣。

「吉備の中山」の山麓に、吉備津神社が鎮座しています。

巨大な本殿。室町時代に再建されました。

江戸時代の都会のシンボルは「遊廓」と「芝居」の2つですが、吉備津神社の門前町の宮内でもすでに江戸時代初期からさかんに芝居が行われていました。*1
ところが、天保年間、水野忠邦の「天保の改革」により、芝居など華美な遊興施設の廃止が断行されたため、名優たちは、生活にも困るようになりました。この窮地を救ったのが、宮内の大親分の岡田屋熊次郎で、熊次郎親分は、銭にものをいわせて、名優たちを宮内に迎え入れたことから、当時の名優のほとんどは宮内に集まりました。北随身門近くの玉垣には、寛政頃の名優たちの名前が刻まれています。*2

中村歌六、嵐冠十郎が寄進した玉垣。*2

【参考文献】
*1 藤井駿:おかやま風土記(日本文教出版,1956)P.141-P.146「江戸時代の遊里としての備中の宮内」
*2 荒木祐臣:備前池田藩秘史(日本文教出版,1976)P.46,P.48

参考文献

参考記事

秩父(稲荷神社)寄進者に「芸妓組合」。台座に「秩父町料理店組合」。

下町(もとまち)の旧花街の一画に、稲荷神社があります。

周囲は住宅地となっていて、花街の名残はありません。

寄進者に「芸妓組合」や「料理店組合」の名前があります。

狛狐の台座に「秩父町料理店組合」の名前が彫られています。

参考文献

参考記事

川崎(宗三寺の遊女の供養塔)川崎貸座敷組合。

川崎遊廓は、元東海道五十三次中の川崎宿の宿場女郎であったものが、明治37年に現在の指定地へ移転したものです。*1
宗三寺の墓地の西側の角に、遊女の供養等があります。

供養等には、「川崎貸座敷組合」と刻まれています。

高塚、藤屋、三浦屋、金波楼、太田屋、三好楼、三日月楼、など、「全国遊廓案内」*1 に記載されている楼名が確認できます。

川崎今昔会が建てた供養の碑(裏側)。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.34「全国遊廓案内」

参考文献

参考記事

柏木田(妙栄寺)色っぽい戒名。小説「血族」。

山口瞳さんの小説「血族」によると、主人公の私(山口瞳さん本人)の母の生家(羽仏家)は、柏木田遊廓で女郎屋を営んでいました。「血族」には、羽仏本家の菩提寺の妙栄寺が登場します。*1

墓地は、石段を登った小高い丘にあります。

羽仏本家の墓のあるあたり。

山口瞳さんの母方の祖父母の墓。
「血族」の中で、山口瞳さんは、「この墓の右側に、ぐんと小さくなった墓が並んでいて、女郎と思われる「紅顔院妙裏日艶信女」という戒名、番頭か妓夫太郎と思われる「快楽恒然信士」という戒名が刻まれていて、この色っぽいとしか言いようのない戒名に私は慄然とした。」と述べています。*1
付近を探しましたが、それらしき墓石は見あたりませんでした。

【参考文献】
*1 山口瞳:血族(文芸春秋,1979)P.185-P.186

参考文献

参考記事

八代(河童のオブジェ)河童渡来の伝承の地。八代の球磨川河口に上陸。

河童の起源には諸説ありますが、その一つは、「河童たちは中国の黄河上流から海を渡り、九州の八代の球磨川河口に上陸して棲みついた。」という渡来説です。*1*2
球磨川沿いには、「河童渡来碑」がありますが、さらに、町のいたるところに河童のオブジェなどがあります。

居酒屋の脇にある巨大な河童のオブジェ。

居酒屋の建物の壁面には、河童とともに人間の女性も描かれています。

何ともエロい姿です。

【参考文献】
*1 和田寛:河童伝承大事典(岩田書院,2005)P.605
*2 黄桜株式会社:黄桜ホームページ 黄桜ギャラリー「かっぱの起源

参考文献

参考記事

大磯(化粧井戸)遊女虎御前の伝説。

今回は、大磯(神奈川県中郡大磯町)の町並と風俗を散歩します。
江戸時代の大磯宿は、東海道五十三次の第8番目の宿駅として栄えました。また、大磯は、中世(鎌倉時代)の文学「曽我物語」において、曽我十郎と虎御前にまつわる数々の史跡や言い伝えが残されています。*1

鎌倉時代の大磯の中心は、化粧坂(けわいざか)近くにありました。現在も旧東海道として、昔の面影を残しています。

虎御前が化粧をする際に使用したといわれる化粧(けわい)井戸が残されています。

虎御前は、遊女として、尼として、その生涯の大半を大磯で過ごしました。*1

【参考文献】
*1 大磯町:おおいその歴史(大磯町,2009)P.54,P.96

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

島田(島田髷の展示)」島田市博物館常設展。

光(室積の遊女の歌碑)遊女が普賢菩薩になった話。

室積は、かつて北前船の寄港地として、瀬戸内海で有数の港町として栄えました。その南端にある象鼻ヶ岬は、御手洗湾を望む風光明媚な観光スポットです。

象鼻ヶ岬の突端に大師堂(旧海蔵寺)があります。

大師堂の境内に、性空上人(平安時代中期の天台宗の僧)にかかわる「遊女の歌碑」があります。現在の碑は新しいものですが、右隣にあるものが、以前の歌碑です。*1

性空上人は、生身の普賢菩薩を拝みたいと祈念していたところ、ある日夢の中で「摂津国(現在の兵庫県)の江口に行くべし」とお告げがありました。性空上人がその地を訪ねると、遊女が「周防なる室積の中の御手洗に風は吹かねどもっさら波立つ」と歌い出し、上人が目と瞑るとその遊女が普賢菩薩となりました。*1*2
なぜ、遊女が普賢菩薩になるのか、その理由を脇田晴子さんは、「遊女の『癒し』の機能といったものに対する男性たちの都合の良い憧憬(しょうけい)の表れで、身を犠牲にして男たちに奉仕する美しい女たちは、男の目から見れば、観音とも普賢とも映ったに違いない。」と考察しています。*2
尚、室積には、大黒屋とゑびすやの2軒の遊女屋があり、このうち大黒屋については、大黒屋十五朗、本名佐内十五朗という人物が室積南町で遊廓を経営していました。*3

【参考文献】
*1 國廣哲也:光市史跡探訪 第1集(光市文化財研究会,1987)P.22
*2 脇田晴子:女性芸能の源流 傀儡子・曲舞・白拍子(角川書店,2001)P.110-P.112
*3 光市地方史研究会:光地方史研究29(光市立図書館,2003)P.6,P.9

参考文献

参考記事

光(島田市)遊女小屋や見世物小屋が立っていました。

島田市(しまだいち)は、その地名の通り、現在の島田市郵便局(写真、左側手前)から熊野神社前に至る約250mの道路を媒体として定期的に市が立っていた場所です。*1
天明8年(1788年)の紀行文「江漢西遊日記」の9月28日の項に、「此処には、市町(いちまち)とて芝居もあり、遊女なども来り居(いる)と云。....芝居を出て右の方に行けば、明家(あきや)を俄(にわか)に竹と打付けて、コウシ(格子)として遊女四五人並ぶ。何れも赤き装束なりき。」という記述があります。夜遅くまで、かなりの人出で賑わい、それを当て込んで遊女小屋や見世物小屋が立っていました。*1*2

同じ場所から南側を見たところ。

熊野神社方面へ向かって50mぐらい歩いてみますが、市が立っていた頃の面影は残っていないようです。

脇道を入ったところ(大雲寺付近)にある民家。

【参考文献】
*1 國廣哲也:光市史跡探訪 第1集(光市文化財研究会,1987)P.52-P.53
*2 司馬江漢:江漢西遊日記 東洋文庫461(平凡社,1986年)P.90-P.93

参考文献

参考記事

光(伊藤公資料館)初代総理大臣は女好き。旧千円札の顔。

岩田駅から島田駅方面へ向かって山陽本線沿いの道を約2Km。さらに、山間部の道路を1.6Km行くと伊藤公資料館があります。

今年は、伊藤博文没後100年にあたります。

初代総理大臣伊藤博文と言えば、旧千円札の顔として有名です。

伊藤博文のもう一つの顔は、彼の一生を通じての女好きでした。花柳界の美女を何人も引き入れて、それだけ取り上げても長編小説ができあるほどでした。*2
薩長連合が成立したとき、博文は長崎の薩摩藩邸へしばしば出かけましたが、薩摩が目的か女郎屋が目的かがわからないほど、長崎丸山の遊廓へ通いました。このときの指導者は高杉晋作で、晋作は、軍艦を買うために藩から預かってきた軍用金で妓楼を買いきって豪遊しました。明治初年、横浜の富貴楼*5 が一時政治の中心となったことがありましたが、このとき博文が愛した女はおびただしい数にのぼりました。その後博文は、本格的に新橋で遊びはじめました。「紅燈秘話新橋三代記」*4 によると、いきあたりばったり手当たり次第に手を出したといいます。*3

【参考URL】
*1 光市観光協会:伊藤公資料館
【参考文献】
*2 星新一:明治の人物誌(新潮社,1978)P.99
*3 末永勝介:近代日本性豪伝 伊藤博文から梶山季之まで(番町書房,1969)P.15-P.43
*4 つや栄:紅燈秘話新橋三代記(妙義出版,1957)P.27-P.31
【参考記事】
*5 風俗散歩(桜木町):料亭「富貴楼」跡地(2007.8)

参考文献

参考記事

徳山(大津島)回天の母お重さん。回天のレプリカの展示。

徳山港からフェリーに乗って、大津島へ向かいます。大津島には、「回天」の訓練基地がありました。「回天」は、魚雷を改造し、中に人間が入って操縦することができるようにした特攻兵器です。

回天記念館前には、回天のレプリカが展示されています。

隊員たちから「回天の母」として親しまれていた、旅館「松政」のお重さんの説明パネルが展示されています。
戦局が厳しくなった昭和19年11月、「松政」*1 で、若い12名の士官の会合がありました。お開きの時間が近づいたとき、大広間から聞こえてきた「同期の桜」の大合唱は、お重さんの胸を激しく揺さぶるような魂のこもったものでした。この日が回天の隊員の壮行会であったことをお重さんが知ったのは、翌年3月の新聞を見たときで、隊員28名の写真の中に顔見知りの隊員の顔を見つけたとき、お重さんはその写真の上にボロボロと涙を落としたといいます。いくらお国のためとはいえ、お重さんにはあまりにむごいことのように思われました。*2

回天訓練基地へ向かうトンネルが現在も残されています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(徳山):旅館「松政」(2009.10)
【参考文献】
*2 小川宣:語り継ぐ回天(赤坂印刷,2005)P.232-P.233

参考文献

参考記事

徳山(遠石八幡宮)侠客の親分が寄進した大鳥居。

今回は、徳山(山口県周南市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、遠石では、徳山藩最大のイベントである祭市が頻繁に行われ、旅茶屋の芸子たちには、遠石八幡宮での芝居興行終了後の踊り舞などの仕事が付与されました。室積(山口県光市)や大阪からは、遊女も集まりました。*1
この頃の遠石の遊廓は、ふだんは客は少なく、祭りのときになると大勢の客が集まり、どこからか遊女が集まり、仮部屋を作って畳を敷くというものでした。藩政時代は、貸した畳を単位にして税金を徴収しました。*2

遠石の遊廓は、大正2年、才ノ森(現在の栄町の商工会議所のあるあたり)に移転しました。遠石八幡宮の参道の大鳥居は、才ノ森遊廓の「大光楼」の楼主だった国廣藤太郎という侠客(きょうかく)の親分が、昭和2年に50歳を祝って寄進したものです。*2

遠石八幡宮からは、山陽新幹線と石油コンビナートが見えます。

1904年(明治37年)、沿岸に海軍燃料廠(しょう)が設けられ、徳山の発展の基礎が築かれました。戦後、その跡地に出光石油化学(株)が進出し、埋め立てにより工場の敷地も拡充され、現在に至っています。

【参考文献】
*1 吉積 久年:山口県地方史研究第92号(2004.11)P.1-P.16「徳山遠石の祭市と芝居興行 明和期から終焉の文久期まで」
*2 前田麦二:徳山の思い出(マツノ書店,1985)P.40,P.42

参考文献

参考記事

標津(野付半島)歓楽街伝説の謎を追って。

砂浜草原が広がる野付半島。後方に知床連峰が見えます。

幻の歓楽街伝説を追って、野付半島を南下します。30分ほど歩くと、ここから先は車両乗入れ禁止となります。

さらに歩くこと約1時間。野付半島の南端部にたどり着きました。わずかに漁業施設が点在するのみで、周囲は一面の草原と湿地です。

さらに道を進むと、周囲に湿地が増え、歓楽街「キラク」があったとされる砂嘴(さし)からは徐々に遠ざかってしまいます。「キラク」があった方角を遠望し、この地点から引き返すこととします。

【参考文献】
*1 なるほど知図帳日本編集部:歴史の足跡をたどる日本遺構の旅(昭文社,2007)P.20-P.27

参考文献

参考記事

熊本(蓮台寺)白拍子だった「檜垣」の供養塔。二本木遊郭の結びつき。

二本木遊郭があった場所から徒歩20分ほど南にある蓮台寺。

ここに、白拍子だった「檜垣」の供養塔があります。*1

「年ふればわが黒髪も白河の水はぐむまで老いにけるかな」
檜垣の若い頃の話は、これといって残っていませんが、美しかった黒髪もすっかり白くなった晩年に、白川べりで旧友と交わるという、零落した身の上を詠んだものです。*1

供養塔を囲む玉垣の入口の2本石柱には、二本木遊郭の楼名が刻まれています。白拍子だった「檜垣」の墓に詣でると、下の病気をしないとか、安産をし、母乳の出が良くなるとかで、今も甘酒や餅が供えられているそうです。平安時代の白拍子「檜垣」と二本木遊郭の結びつきを感じます。*1

【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.355-P.358

参考文献

参考記事

佐賀(思案橋)長崎街道にあります。たばこやさん。

佐賀市内を旧長崎街道が横断しています。

長崎街道を東へ進むと、思案橋があります。

思案橋は、「遊廓へ”行こうか戻ろか”と思案したので名付けられた」という遊郭への門前橋であることが多いのですが、佐賀の思案橋も例外ではなく、ここから南に折れたところに今宿遊廓がありました。

思案橋のたばこやさん。

参考文献

参考記事

長崎丸山(見返り柳、思切橋)花街入口のシンボルです。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
見返り柳は、花街からの帰り道、男たちが未練を断ち切れず、振り返る姿から名付けられました。見返り柳は、京都島原の花街入口にある柳がはじまりと言われ、その後、江戸の吉原や長崎丸山に伝わり、いつしか花街入口のシンボルとなりました。*1

見返り柳と思切橋の案内板。

橋銘が刻まれた思切橋の欄干。
思切橋は、山の口を流れていた小さな溝にかかる橋でした。思案橋で行こうか戻ろうかを思案し、ここで思い切って花街へ繰り出す。あるいは、花街からの帰り道、思いを断ち切って家路を急ぐなどど言われるようになり、いつしか思切橋と名付けられました。*1

江戸時代、丸山は現在の丸山町と寄合町の総称でした。長崎人はシンプルに「山」と呼んでいたため、これが丸山の入口を山の口という所以でもあります。*1

【参考文献】
*1 長崎文献社:長崎丸山に花街風流うたかたの夢を追う(長崎文献社,2007)「長崎游学マップ3」P.13

参考文献

参考記事

宇和島(凹凸寺資料館)お前とわたしは石臼夫婦。

北新町から須賀川沿いを歩いていくと、凹凸神堂があります。
凹凸神堂は、世界最高の性文化財資料館です。*1

お前とわたしは石臼夫婦。重ねて廻して子をつくる。

石臼を散りばめた庭園があります。

中央の大きな石臼の上には、男性のシンボルが...。

【参考URL】
*1 多賀神社、凹凸神堂ホームページ

参考文献

参考記事

高松(東浜恵比寿神社)玉垣の妓楼の名前が残っています。

ソープランド街の南側に、東浜恵比寿神社があります。

正面の鳥居の左右の柱には、「一天泰平」、「萬民快楽」と刻まれています。*1

玉垣には、新地睦会に所属する戦後の特飲店45軒の屋号が刻まれています。*1

右から、「敷島」、「三日月」、と彫られています。「敷島」は、八重垣遊廓時代にもあった妓楼の屋号です。*2
「三日月」は、1970年の住宅地図*3 に記されている「旅館三日月」*4のことでしょうか。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.84
*2 南博:近代庶民生活誌.第14巻(三一書房,1993)P.143 「全国遊廓案内」
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 高松市(善隣出版社,1971)P.13
*4 風俗散歩(高松):城東町の赤線時代の建物(2009.5)

参考文献

参考記事

本牧(根岸外人墓地)片翼の天使の像。

JR京浜東北線山手駅のすぐ近くにある根岸外国人墓地。

明治35年に開設されました根岸外国人墓地は、現在は、きれいに整備されていますが、長い間、忘れ去られていた外国人墓地でした。昔、ここには小さな木の十字架がびっしりと立てられていました。そのほとんどは、戦後間もない時期に死んだ嬰児で、進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれたハーフです。その数900体。*1

1999年、片翼だけの「天使の翼」を模した像が建立されました。*1

おびただしい数の十字架は一掃されましたが、片翼の天使は、歴史の真実を語り伝えてくれています。*1

*1 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会:横浜タイムトリップ・ガイド(講談社,2008)P.116,P.127

参考文献

参考記事

真栄原(亀甲墓)道路の両側に2基あります。

沖縄には、亀甲墓(かめのこうばか)と呼ばれる独特の形状のお墓が町のあちこちにあります。
大山から真栄原に至る途中の大謝名二丁目にある亀甲墓は、道路に面した見やすい場所に2基、向き合うように並んでいます。

亀甲墓は、俗に母胎をかたどったものであると言われています。人は死ぬと再び元のところへ戻るという期元思想のあらわれといわれています。*1

道路を挟んだ向かい側に、もう1基あります。

こちらの亀甲墓は、白く塗られているのが特徴です。

【参考文献】
*1 渡邊欣雄,岡野宣勝,佐藤壮広,塩月亮子,宮下克也:沖縄民俗辞典(吉川弘文館,2008) P.144-P.145

参考文献

参考記事

盛岡(大国神社)津志田遊廓と同時に設置された神社です。

津志田は、盛岡から南東に約4キロにある町です。町を南北に国道4号線が貫いています。
江戸時代、盛岡藩は、津志田に藩公認の遊廓を文化・文政期(1810~1820年)と嘉永期(1850~1854年)の二度にわたって設置しました。*1

遊廓があった場所の南端にあたるの津志田の交差点の角に大国神社があります。
大国神社は、遊廓と同時に津志田の総鎮守として設置されました。*1

社の中には遊女や楼主がおさめた献額(絵馬)があります。遊女たちの「諸顕成就」献額は、金色できらびやかだが、裏には苦界に身を沈めた宮古、鍬ヶ崎の遊女名が連なっていたそうです。*2

大国神社の案内板。「当時津軽町と称したこの地は遊廓が繁盛した。」と説明されています。

同じ盛岡藩内には、鍬ヶ崎に非公認の遊廓がありましたが、鍬ヶ崎の遊女は、津志田遊廓に出稼ぎに行くこともあったそうです。*1
【参考文献】
*1 武林 弘恵:歴史.105(2005.9)「盛岡藩の遊廓をめぐる社会関係について」P.71,P.97
*2 小島俊一:陸中海岸こぼればな史(トリョーコム,1986)P.95-P.96
*3 風俗散歩:鍬ヶ崎遊廓(2008.9)

参考文献

参考記事

瀬上(青柳神社)男上(男根)と女神(女陰)が原型をとどめています。

瀬上駅近くに青柳神社があります。

森林の中に大きな社があります。

境内の社の裏手に、多くの石祠がありますが、そこに性崇拝の跡が見られます。やはり、遊廓町としての名残と思われます。*1

女神(女陰)。

【参考文献】
*1 小林金次郎:ふくしま散歩 福島郷土文化風物誌 県北編 改訂版(西沢書店,1977)P.184

参考文献

参考記事

新町(於菊稲荷神社)遊女が献額した絵馬が残されています。

旧中仙道から北側に路地を入ったところに、於菊稲荷神社があります。

於菊稲荷神社の名称の由来は、今から250年前に隆昌を誇った新町宿の大黒屋とう宿屋にいた遊女のお菊からきています。お菊は重い病にかかりましたが、この社で一心に祈願したところ病が回復しました。*1

遊女が献額した絵馬が残されています。

かむろつき遊女の参詣図

【参考文献】
*1 「上州路」編集部:月刊上州路 No.251 P.38「新町の観光スポット」(1995.3)
*2 千木良英一:月刊上州路 No.251 P.16-P.17「新町宿のれこれ」 (1995.3)

参考文献

参考記事

福島(福島稲荷神社)狛犬の台座に「見番」の文字。

料亭街近くに福島稲荷神社があります。稲荷神社としては、規模が大きい方だと思います。

大きな狛犬があります。

狛犬の台座に「三業組合 福島見番」の文字が見えます。

待合や料亭の屋号が多数刻まれています。

参考文献

参考記事

柏崎(金刀比羅神社)妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。

金刀比羅神社には、妓楼の屋号が刻まれた玉垣が残っています。明治42年刊行の「柏崎華街志」の「柏崎華街細見記」*1 には、「港楼」、「豊島楼」、「都楼」など、20の妓楼の屋号が掲載されています。
港楼の玉垣。

豊島楼の玉垣。

金刀比羅神社は、2007年(平成19年)7月16日に発生した「新潟県中越沖地震」で被害を受け、翌月の8月9日に玉垣の撤去作業が行われました。*2
撤去された玉垣の跡が残っています。

山積みにされた玉垣。「都楼」と刻まれています。今回の地震で貴重な玉垣が多数失われたようです。

【参考文献】
*1 小田金平:柏崎華街志(1909) 附録P.5-P.6
*2 神道青年全国協議会ホームページ:新潟県中越沖地震対策本部の設置

参考文献

参考記事

柏崎(金刀比羅神社)遊廓の歴史を記す碑があります。

遊廓跡地の西隣に金刀比羅神社があります。

金刀比羅神社は、遊廓と密接な関係があったようです。神社の敷地に遊廓の歴史を記す碑があります。

境内に大きな社殿はありません。2007年(平成19年)7月の新潟県中越沖地震の影響かもしれません。

神社の境内から、遊廓跡地方面を見たところ。

-----新花町と金刀比羅神社(碑文)-----
柏崎の花街は、明治時代、現在の西本町にありました。西から風が吹く柏崎にとって盛り場が町の西側に位置するのは火種を常に風上に抱えている状態であり、度々大火に見舞われました。付近一帯の貸座敷がすべて消失した1911年の桐油屋火事を契機に県からこの地に貸座敷運営許可を与えられ、四国讃岐の本殿より遷宮された金刀比羅宮を基点に遊廓や料理店などが新たに建設されました。

参考文献

参考記事

川崎大師(地べた祭り)主役はエリザベス会館の人たち。

エリザベス会館の人たちは、かなまら祭りでは人気者です。撮影をせがまれ、それに応じています。

女装している人たちは、何の違和感もなく、かなまら祭に溶け込んでいます。

神輿が戻ってくると、地べた祭りが始まります。エリザベス会館の人たちが中心となって、地べたに座って酒盛りをするという企画です。

地べた祭は、この光景は奇妙なタイムスリップのような感覚を覚えます。かなまら祭の起源は、川崎の娼婦たちが神社の男根を持ち出し、境内で宴会を開いたのがはじまりとされます。祭りの主役が娼婦から女装愛好家に代わり、今、ここで繰り返されているわけです。*1

【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29

参考文献

参考記事

川崎大師(かなまら祭での宮出し)紀伊國屋神輿。エリザベス神輿。かなまら神輿。

今回は、川崎大師の町並みと風俗を散歩します。
毎年、4月の第1週の日曜日にかなまら祭が行なわれます。

まずは、紀伊國屋神輿。かなり大型です。

続いてエリザベス神輿。こちらはずいぶんと小振りです。担ぎ手はエリザベス会館*1 の皆さんたちです。

最後にかなまら神輿。神輿を左右に大きく揺さぶるパフォーマンスは見ごたえがあります。

参考文献

参考記事

亀戸(天祖神社)私娼宿の組合の名が刻まれた玉垣。

亀戸天神の裏手に天祖神社があります。

「城東三業組合」の玉垣があります。

亀戸には、私娼宿の組合である「亀戸遊園地組合」がありました。組合の規約として1軒に2人以上の私娼を置かないというのが原則でした。*1
「亀戸遊園地」の玉垣が2本、「亀戸遊園地 総代 吉田金兵衛」の玉垣が1本、全部で3本あります。
「楽天地」、「新天地」という名前はよく聞きますが、「遊園地」というのは初めて耳にする呼び名です。もちろん、この「遊園地」は大人向けの遊園地です。

亀戸3丁目 女性の名前の玉垣。

【参考文献】
*1 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

亀戸(遊園地跡)電柱に遊園地のプレ-ト。

亀戸(香取神社)鳥居の柱に亀戸三業組合。

亀戸駅の北側に亀戸七福神の一つである香取神社があります。桜が満開です。

東側の鳥居の柱に「昭和三年十一月 亀戸三業組合」と刻まれています。
亀戸が花街として発展したのは、寛政年間で、水野越前守の大改革により、深川から亀戸に逃げ延びた芸者たちにより形成されたのが始まりで、その後、亀戸天満宮(亀戸天神)に参詣する人たちを相手にするようになり、急激に発展しました。*1

東側の玉垣にも「亀戸三業組合」があります。

「天神裏有志者」の玉垣。亀戸には、明治43年頃から既に私娼宿が出来ていて、大正8、9年頃が全盛で、私娼は1,000人位いたと推測されています。*2
玉垣の「天神裏有志者」とは、私娼宿の有志かもしれません。

【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930) 「亀戸花街の沿革」
*2 道家斉一郎:売春婦論考(史誌出版社, 1928)P.180-P.181

参考文献

参考記事

熊本(二本木神社)寄進者名が右から書かれています。

熊本市街の南側に位置する二本木町に二本木神社があります。ここに、明治時代にできた二本木遊廓の名残をみることができます。

本殿への石畳参道を中に一対の狛犬が相対しています。

台座に、「二本木娼妓有志者中」と寄進者名が右から書かれています。*1

寄進年月は、明治三十九年十月です。
終戦当時、陸軍中尉だった二本木遊廓を知るTさんは、「召集令状がくると皆二本木へ行きよりましたなぁ。あの頃の客は兵隊がほとんどで、それも明日は戦地へ向かうという時は行きましたな。戦後になると米軍が行きよりましたな。太とか黒人兵が意気揚々と歩きよりました。」と当時の様子を振り返っています。*1

【参考文献】
*1 猪飼隆明:遅咲きの女たちの遺言(熊本出版文化会館,2006)P.359-P.360

参考文献

参考記事

島原(天如塔の周囲の玉垣)からゆきさん出身の成功者の名。

大師堂の天如塔の周囲の玉垣のうち、入口の階段の所の玉垣が最も大きな玉垣です。
この玉垣の正面側に名が刻まれている阿南トンキン(ベトナム)の和田氏は、当地域における日本娼楼の先駆者でした。また、「高谷マサ」は、数多いからゆきさんの中でも飛びぬけた成功者でした。*1

バンコクから寄進の玉垣。
「富士ホテル」、「旭ホテル」は、いずれも「ホテル」と名乗ってはいますが、実態は日本人が経営する女郎屋でした。*1

シンガポールからの寄進による玉垣に名を刻む米井虎一郎は、侠客の一人であったと伝えられ、日本人共同墓地を管理・運営するために組織された共済会の有力メンバーでした。*1

同じく、シンガポールからの寄進の東境セイ(玉垣では東京セイ)は、からゆきさん出身でしたが、女郎屋の経営者となりそこで貯えた資金をいち早くゴム栽培事業に投資して大儲けをしました。本田シツはマバラー街54番、原ロツタは、スプリング街21番で娼家を経営していました。*1

シンガポールでは、女郎屋の経営者は女性に限られるという当局の方針があり、「からゆきさん」出身の女性が富を貯え社会的に上昇していくきっかけを与えていましたが、多くの場合、男(チンタあるいはピンプ(=嬪夫)と呼ばれた)の側が実権を持っていました。この中で東境セイだけが、実験を持った女郎屋の女経営者でした。*1
【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号42)(1993)「島原市の大師堂への寄進者の初歩的調査–「からゆきさん」研究の基礎史料」P.5-P.6,P.10-P.11,P.20-P.25

参考文献

参考記事

島原(からゆきさん寄進の玉垣)東南アジアの都市の名と共に刻まれています。

大師堂の天如塔(からゆきさんの塔)の周囲には、たくさんの玉垣があります。天如塔の底面は正八角形になっていて、角の部分には大きめの玉垣が配置され、ここには寄進した額の大きなからゆきさん関係者の名前が刻まれています。
玉垣(120人)と周囲の石柱(12人)のに刻まれた外国在住者を分類すると、マレーシア(34人)、ベトナム(26人)、シンガポール(25人)、インドネシア(14人)、ビルマ(14人)、中国(8人)、タイ(4人)、韓国(3人)、ロシア(2人)となります。*1

アンナンは、ベトナムの総称で、漢字では、通常「安南」ですが、ここでは「阿南」と書かれています。トンキンは、ベトナム北部を指す呼称です。*1

写真の玉垣は、マレーシアの地名が刻まれています。*1
コウラカンサ(クアラ・カンサー Kuala Kangsar)
トロノ(Tronoh)
スポテノ
タパン(タパ Tapah)

同じく、マレーシアからの寄進の玉垣。
カラン(Karang)
カラシコワラ
マラッカ(Malacca)
スレンバン(Serenban)
の地名が確認できます。*1

【参考文献】
*1 倉橋 正直:愛知県立大学文学部論集. 一般教育編. (通号40)(1991)「からゆきさんの遺跡–島原の大師堂」P.30-P.33

参考文献

参考記事

島原(理性院大師堂)からゆきさんの遺跡である天如塔があります。

島原市内の南側の大師通りに、理性院大師堂があります。

本堂の横を行くと、灯台のような形をした奇妙な塔が現われます。
この塔は、「天如塔」、別名を「からゆきさんの塔」と言います。*1
「からゆきさん」とは、「唐人行(からひとゆき)」または、「唐ん国行(からんくにゆき)」という言葉が縮まったもので、幕末から明治期を経て第一対戦の終わる大正中期までの間、主に東南アジア方面にまで出かけて行って、外国人に肉体をひさいだ海外売春婦のことです。*2
玉垣には、寄進者のからゆきさんとその関係者の名前が刻まれています。

天如塔と玉垣は島原市の有形文化財に指定されています。

天如塔を建立したのは、島原で活動していた僧の広田言証師です。広田言証師は、1906年末から2年半、インドへ巡礼したとき、東南アジアの各地でからゆきさんと出会い、不幸にして異境の地で果てた娘たちのために供養を行いました。これが娘たちの帰依を呼び、からゆきさんたちの心ののよりどころとなり、多額の寄進を得、そのお金を日本に持ち帰り、天如塔を建立しました。*1

【参考文献】
*1 倉橋正直:島原のからゆきさん(共栄書房,1993)P.94-p.100,P.159-P.170
*2 山崎朋子:サンダカン八番娼館(筑摩書房,1972)P.7

参考文献

参考記事

福知山(新地裏の荒廃した神社)猪崎新地の名前が彫られています。

旧猪崎新地(福知山遊廓)の奥まったところに、城山へ続く石段があります。

石段を登っていくと、荒廃した神社があります。

燈篭に、「明治四十四年十二月吉日 猪崎新地 芸妓中...」と書かれています。遊廓の関係者が寄進したものと思われます。

神社から、旧猪崎新地方面を見たところ。遠くに音無瀬橋が見えます。

参考文献

参考記事

吉原(吉原神社)松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑。

仲之町を裏門に向かって進むと、吉原神社*1 に行き着きます。

普段は人影まばらな吉原神社ですが、浅草名所七福神の一つであるため、初詣の人たちで賑わっています。

料亭松葉屋の取り壊しに伴い、松葉屋の庭にあった久保田万太郎の句碑が、吉原神社に移されました。*2
久保田万太郎は、浅草田原町の生まれの文人で、浅草の雷門の近くにも句碑があります。おそらく料亭の松葉屋に頻繁に遊びにきていたのでしょう。

「この里におぼろふたたび濃きならむ」と刻まれています。普段は見えず、水をかけると白く細い文字が黒い石肌に浮かびあがる「白粉彫り」という技法で彫られています。*1
この日は、すでに水がかけられていたのでしょうか。最初から白い文字がくっきりと現れていました。右下に小さく、「万」の一字があります。

【参考記事】
*1 風俗散歩:入谷~吉原(2005.9)吉原神社
【参考文献】
*2 石井妙子,渡辺憲司:東京人(都市出版,2007.3)P.46 「遊女の残り香を探して」

参考文献

参考記事

新宿(成覚寺の旭地蔵)男女の戒名が刻まれています。

新宿二丁目、靖国通りに面して成覚寺(じょうかくじ)があります。ここは、新宿の遊女たちと関係深い寺で、一名「投げ込み寺」といわれました。*1

入口の石段を下ってすぐ左側の塀下に旭地蔵があります。旭地蔵は、内藤新宿の遊女と武士や町人たちが、なさぬ恋を悲しんで玉川上水へ身投げして心中した者たちのために建られた供養塔でした。*1

台座には18名の男女の戒名が並べて刻んであります。*1

「貸座敷」と刻まれています。

【参考文献】
*1 芳賀善次郎:新宿の今昔(紀伊國屋書店,1970)P.70-P.72

参考文献

参考記事

東向島(啓運閣願満稲荷)スーパーの奥にあります。

いろは通りに面したスーパ-マーケット。多くの買い物客で賑わっています。
昭和30年代までは、この場所に「玉の井文映」という映画館がありました。現在のスーパーはその建物を利用しています。*1

スーパーの奥に、稲荷神社があります。

病死した玉の井の娼婦や水子の供養をする稲荷神社です。*1

永井荷風の記念碑があり、荷風が描いた地図が掲示されています。

【参考文献】
*1 小針美男,川本三郎:追憶の東京(河出書房新社,2006)P.10

参考文献

参考記事

栗橋(静御前祭り)祭りの目玉は、静御前のパレード。

この日(10月20日(土曜日))は、静御前祭りが行われていました。祭りの目玉は、静御前のパレードです。

白拍子の一団。

静御前。
栗橋駅前には、静御前の墓があり、中田には、菩提寺である光了寺があります。*1*2

みんな揃って記念撮影。

【参考記事】
*1 風俗散歩(栗橋):静御前の墓(2005.11)
*2 風俗散歩(栗橋):光了寺(2005.11)

参考文献

参考記事

門前仲町(雲光院)吉原の創始者の墓があります。

三好二丁目の雲光院。

門を入ったすぐ右手に、庄司甚内の墓があります。*1

庄司甚内は、吉原の創始者です。江戸の発展を見て、京都や大阪と同じように遊廓をつくることを、慶長17年(1612年)に幕府に申請、元和3年(1617年)に許可を得て、現在の東京都中央区に遊里を建設し、吉原花街を開設しました。*1*2
吉原は、明暦3年(1657年)に消失し、浅草千束村に新しい遊廓がつくられ、これを新吉原と称しました。

庄司甚内は、正保元年(1644年)69歳で没し、雲光院に葬られました。

【参考文献】
*1 江東区教育委員会:江東区の歴史(江東区教育委員会,1976)P.137
【参考記事】
*2 風俗散歩(人形町):元吉原(2005.11)

参考文献

参考記事

門前仲町(深川不動尊)洲崎パラダイスの額。

根津遊廓や洲崎遊廓では、成田不動尊(千葉県成田市)の信仰が盛んでした。明治2年、成田山の出張所が吉祥寺の境内に設けられ、明治11年には、不動堂が建設され、遊廓を含めた花街関係者の間で深川不動尊信仰が浸透していきました。*1

不動尊の本堂内を見回すと右手に大きな額があり、洲崎パラダイスの講中の名前が刻まれています。

額の中央には、奉納成田山 内陣五講....」、額の右側には、店の名が記述されています。

額の左側には、遊廓の関係者の名前が記されています。

【参考文献】
1* 岡崎征男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1978)P.285-P.295

参考文献

参考記事

門前仲町(牡丹住吉神社)玉垣に洲崎の名前が刻まれています。

門前仲町の東寄り。巴橋をわたったあたりに牡丹住吉神社があります。

ビルとビルの間に住吉神社があります。案内板によると、このあたりは、深川七場所のひとつである佃があり、後に、辰巳花街として栄えました。

玉垣には、寄進した料理屋などの名前が刻まれています。

洲崎、二楽の名前があります。洲崎の人たちが信仰していたようです。

【参考文献】
*1 中沢けい:私だけの東京散歩 下町・都心篇(作品社,1995)P.31

参考文献

参考記事

三崎(八景原)遊女らの供養等。断崖絶壁。

三崎港から横須賀方面へ向かうと、かつて景勝地として知られた八景原があります。ここは、断崖絶壁となっていて、立ち入り禁止の看板が立っています。

そこには、供養塔が海に向かって建てられています。

ここは、明治時代、遊女たちが投身自殺をした場所のようです。

眼下には、美しい海が広がっています。

参考文献

参考記事

新潟(湊稲荷神社)回転する高麗犬。実際に手で回すことができます。

駅から信濃川を渡った稲荷町に、湊稲荷神社があります。

伝承によれば、男の方は右の高麗犬、女の人は左の高麗犬を、願意(ねがいごと)を心にねんじながら回し、祈願したといわれております。

高麗犬の台座は回転する仕組みになっていて、実際に手で回すことができます。(けっこう力がいります。)

和船の出入りで新潟港がにぎわっていたころ、港に入る船の船乗りは花柳界に遊び、その夜、遊女に送られて船に帰るのが新潟の風俗でした。
遊女たちは、毎夜船乗りが遊びに来てくれることを願い、夜中、ひそかに湊稲荷神社に行き、
社頭の高麗犬の頭を西の方に向け、西風が吹いて港口が荒れ、
海がしけて船が出帆できず、船乗りが夜ふたたび遊びに来てくれることを祈りました。

参考文献

参考記事

倉賀野(倉賀野神社)飯盛女が寄進した玉垣が残されています。

旧道から脇道を一本入ったところに倉賀野神社があります。
境内の入口の玉垣は、もともとは、冠稲荷神社(三光寺稲荷)にあったものが移されたものだそうです。*1

倉賀野宿の飯盛女は、寛保2年(1742年)に1軒2人づつを旅籠屋に置くことが許可されたのがはじまりで、明治中頃までその営業を続けました。*1
「升屋内はな、やす、ふじ」、「金沢屋内里津、ひろ、きん」、「新屋奈美、玉屋内ふじ」などと刻まれた玉垣がそのまま残っています。*1

升屋内はな、やす、ふじ。

また、元紺屋町の糀(こうじ)屋藤治郎、田町の桐屋三右衛門、ほか、高崎宿の名ある商家、職人の名もあります。*2

【参考文献】
*1 高崎郷土花街史 P.51-P.52,P.61
*2 倉賀野神社入口にある案内板

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

倉賀野(倉賀野神社)文久3年、三国屋つねが寄進した常夜灯。

浅草橋(篠塚稲荷神社)玉垣に料亭の名前が刻まれています。

神田川から通りを一本入ったところに、篠塚稲荷神社があります。

正面の石柱。東京柳橋組合の名前があります。

側面の玉垣。両国花火組合、料亭の「いな垣」、「田中屋」の名前が刻まれています。

両国花火は江戸の年中行事になり、主催者である柳橋の名前は全国に知れわたりました。両国花火は、柳橋の広告塔のようなものでした。*1

【参考文献】
*1 牧太郎:東京人(2000.6)「柳橋」江戸からの芸者町の灯が消えた (特集 芸者さんに会いたい 新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、東都五花街探訪) P.72-P.73

参考文献

参考記事

博多(選擇寺)博多における唯一の遊女雪友の墓。

柳町では、元文5年(1740年)に選擇寺(せんちゃくじ)が旦那寺となり、遊廓でなくなった遊女のなきがらは、この寺に葬られました。*1

戒名もなく、無縁墓地に葬られる遊女が多い中、唯一、角屋の遊女雪友(二十才)は墓が建てられています。博多における唯一の遊女の墓です。*1

雪友は、他の遊女とは異なり、別格の扱いをされていたようです。

雪友は、文久元年(1861年)6月27日にこの世を去りました。*1

【参考文献】
*1 井上精三:博多風俗史遊里編(積文館書店,1968)P.67

参考文献

参考記事

下関(赤間神宮の先帝祭)語り継がれる悲哀の歴史。毎年5月3日。

今回は、下関(山口県下関市)の町並みと風俗を散歩します。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦(関門海峡)で平家は源義経を総大将とする源氏に破れ、わずか8歳だった案徳天皇も入水され、平家は滅亡しました。
下関は、遊女発生の地と言われています。壇ノ浦で敗れた平家の女官たちが、自らの生活のために春をひさぐようになったという伝承です。それでも女官たちは、毎年の案徳天皇の命日には帝の御影堂(みえいどう)に参拝しました。*1
江戸時代になって稲荷町に遊廓ができると、廓の主人がこの伝承を後世まで伝えようとお抱えの遊女たちに参拝を続けさせました。これが先帝祭として現在に伝えられています。*2

先帝祭は、毎年5月3日に赤間神宮で行われます。大入り満員の状況で、警察官立会いにより入場制限が行われるほどでした。

先帝祭は、豪華絢爛な衣装をまとった5人の太夫が市中をパレードし、案徳天皇を祭っている赤間神宮を参拝するもので、神宮内の水天門から本殿へかけられた天橋を渡って参拝する「上臈参拝」でクライマックスを向かえます。*2

「上臈参拝」で外八文字を披露する3番太夫。顔の向きはそのまま、胸を反るようにして片手をさっと突き出して肩を引き、前に進んでいきます。観客から拍手が沸き起こります。

【参考文献】
*1 渡辺憲司:江戸遊里盛衰記(講談社,1994)P.47
*2 しものせき海峡まつり実行委員会:「第22回しものせき海峡まつり」パンフレット

参考文献

参考記事

川崎大師(エリザベス神輿)ピンクの男根。でっかいまら、かなまら!。

いよいよ祭りのメインイベントである神輿の渡御(とぎょ)の時間が来ました。まず、黒光りする男根神輿の「舟神輿」です。
「舟神輿」は、江戸時代、みかんの商いで巨万の富を得た紀伊国屋文左衛門に因み、日立造船(株)神奈川工場の有志により奉納されました。*1

圧巻は、このエリザベス神輿。浅草橋にある女装クラブ「エリザベス会館」が寄贈した神輿で、神輿の担ぎ手は、エリザベス会館の会員である女装した男性です。*2

3つの神輿(舟神輿、かなまら神輿、エリザベス神輿)が町をねり歩きます。

「でっかいまら、かなまら!でっかいまら、かなまら!」と女装した男性たちの掛け声と共に、神輿は進みます。
担がれている神輿は、上下に揺れるので、ピンクの男根が空に向かってピストン運動しているように見えます。

【参考文献】
*1 金山神社:かなまら祭配布資料(2007)
*2 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.28-P.29

参考文献

参考記事

川崎大師(金山神社のかなまら祭)満開の桜が出迎えてくれました。

今回は、川崎大師(神奈川県川崎市)の町並みと風俗を散歩します。
京急川崎大師駅から徒歩3分のところに、金山神社があります。

毎年4月の第一日曜日は、「かなまら祭」が開催される日です。今年は、満開の桜が出迎えくれました。

祭りにかかせないのが神輿ですが、ここの神輿は奇妙な形をしています。

「かなまら祭」は、川崎宿の飯盛女たちが、商売繁昌と梅毒除けを願って、金山神社の御神体である男根を持ち出して、神社で花見をしながら宴会を開いたのがはじまりとされています。日本ではあまり知られていない祭りですが、海外では、「京都祇園祭」や「ねぶた祭」よりもはるかに有名な祭りです。*1

【参考文献】
*1 杉岡幸徳:日本トンデモ祭(美術出版社,2005)P.27-P.29

参考文献

参考記事

常盤町(娼妓の墓)清浄光院。台座には、町内会長や幹事の名前。

清浄光院は、小田原遊廓があった場所から15分ぐらい歩いたところにあります。

ここに、かつて小田原遊廓に身を置き、遊廓の中で死んでいった娼妓たちの墓があります。*1*2
非常にいい字で墓碑が刻まれています。

墓碑銘は、「仙台睦之墓」とあり、台座には、町内会長や幹事の名前が刻まれています。*1

墓石の裏に回ると、「心照妙喜信女 明治26年8月16日死」という法名がたった一つだけ刻まれています。

【参考文献】
*1 千葉 由香:別冊東北学(2000.9)「小田原遊廓物語(3)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.389-P.397
【参考URL】
*2 河北新報社:時を語れ東北の20世紀「わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む

参考文献

参考記事

吉原(大鷲神社の酉の市)有名人の売約済みの札。

大鷲神社では、今年の酉の市が行われていました。熊手には有名人の売約済みの札がつけられています。
江戸時代、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていました。*1

演歌歌手の北島三郎。

平沢勝栄副大臣

石原都知事とその息子たち。

参考文献

*1
浅草鷲神社浅草 鷲神社公式ホームページ浅草鷲神社 リンク
御由緒 十一月酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭が執り行われます…

参考記事

吉原(吉原弁財天)花立てに新吉原女子保健組合の文字。

吉原弁財天の中に弁天堂があります。

鉄柵に囲まれている弁天堂には、酉の市の熊手が飾られていました。

弁天堂の鉄柵内の左右に、小さな石の花立が立っています。右側の花立には、「吉原飲食店組合」の文字が読み取れます。

左側の花立てには、「新吉原女子保健組合」の文字が読み取れます。
戦後、GHQの命令により、公娼制度が廃止された結果、前借金で奴隷的に娼妓の身分を拘束することができなくなりました。売笑は自由意志となったので、性病予防制度も従業婦の自主的運営に任されることになりました。これによって誕生したのが「新吉原女子保健組合」です。*1

【参考文献】
*1 新吉原女子保健組合:赤線従業婦の手記(復刻版「明るい谷間」)(土曜美術社,1990)P.189

参考文献

参考記事

真金町・永楽町(大鷲神社の玉垣)桂歌丸さんの玉垣があります。

大鷲神社の玉垣は、最近作られたと思われる新しいものですが、右の角に一本だけ黒御影石でできた古い玉垣があります。

表面の上部には、「遊廓」の二文字が刻まれています。

裏面には、3cm四方の枠入れの穴があり、奉納した年月「明治四十壱年四月納」が刻まれています。大鷲神社は、関東大震災と横浜大空襲により、遊廓とともに消失しましたが、玉垣のうち完全なものを一本だけ再利用したものと推察されています。*1

落語家の桂歌丸さんの玉垣があります。桂歌丸さんが住んでいた家は、真金町の遊廓「富士楼」でした。椎名巌(いわお)少年(本名)は、富士楼を切り盛りしていた祖母に遊廓内で育てられました。巌少年は、店の女の子たちに、「坊や、坊や」と可愛がられたそうです。*2

【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.40,P.77
*2 桂歌丸:週刊文春(2002.11.7)「家の履歴書397」P.70-P.73

参考文献

参考記事

真金町・永楽町(大鷲神社)明治15年に現在地に移されました。

大鷲神社は、はじめ高島町遊廓の中にありましたが、高島町遊廓が真金町・永楽町に移転されることに伴い、明治15年にこの地に移されました。
大鷲神社の祭事に、酉の市があります。今年の酉の市は、11月4日、16日、28日です。

大鷲神社の中に、稲荷神社があります。
稲荷神社の賽銭箱のところに、遊廓の楼主と思われる2名の寄進者の名前が書かれています。

狛犬の裏側にも寄進者の名前が書かれています。松葉本店の松葉幸次郎は、理容館「永真軒」の顧客名簿(昭和18年7月付)に記載されており*1、当時の松葉楼の楼主であった人物であると思われます。

灯篭にも寄進者の名前が書かれています。「第三長盛」と右から書かれています。理容館「永真軒」の顧客名簿に長盛(支店)の名前があります*1 ので、「長盛の三番目の支店」という意味だと思います。下に書かれている名前は、楼主の名前であると推察されますが、判読が困難です。

横浜の遊廓建設は、「開港条約の締結(1856年)に伴い、必須条件の施設の一要素の一つとして、遊里の設置は、幕府の当事者と某領事との間の非公式折衝に成ったもの*2」とされており、都市建設の中で遊廓が建設されました。*1
作家の山崎洋子さんは、第32回江戸川乱歩賞を受賞した「花園の迷宮」の中で、横浜の遊廓と真金町・永楽町の遊廓について、次のように紹介しています。*3
「横浜の遊廓は、港崎(みよざき)遊廓(万延元年,1860年)に始まる。現在の横浜公園がその場所だ。-中略-だが、色街につきものの大火に何度か襲われ、遊廓はその都度移転した。吉田新田、高島町、そして明治15年に現在の真金町と永楽町の一部に落ち着いた。運河(現在は埋め立てられて大通り公園)を渡った向こうには、私娼街の曙町があり、そこは東京の玉の井同様、迷路のように道が入り組んでいる。しかし真金町は、柳並木の整然とした通りで区切られていた。」
【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.1,P.77
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)
*3 山崎洋子:花園の迷宮(1989,講談社文庫)P.32-P.34

参考文献

参考記事

丹波山(おいらん渕)戦国時代の伝説です。

丹波山のバス停から、青梅街道を柳沢峠方面へ向かいます。このあたりは、丹波渓谷と呼ばれ、青梅街道が開通するまでは未開の地でしたが、今では、道路沿いの渓谷美と紅葉を楽しむことができます。
この写真の橋を渡った先に、おいらん渕があります。

道路がカーブしたところの小さな空き地に、案内板が立てられ、おいらん渕の由来が書かれています。おいらん渕は、戦国武将の武田家が滅亡する際、黒川金山の遊女たちがまとめて始末されたという悲しい伝説が残る場所です。
おいらん渕という名前は、明治時代、現場でこの話を聞いた東京都市議会議員の坪谷水哉議員が命名したという説があります。*1

付近は交通事故の多発地帯として知られていますが、おいらんの亡霊の呪によるものとも言われています。そのため、鎮魂供養の木柱が立てられています。*2

案内板は、どの場所がおいらん渕であるかを明確に示していません*3が、滝の下の極端に狭くなった深い暗いゴルジュがおいらん渕であったのではないでしょうか。

【参考文献】
*1 田島勝太郎:奥多摩・それを繞る山と渓と(山と渓谷社,1935)P.255
*2 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.25
*3 大藪宏:戦国武田の黒川金山(山日ライブラリー,1995)P.158

参考文献

参考記事

丹波山(おいらん堂)昭和63年に再建されました。

丹波山のバス停から15分ほど歩いた奥秋テント村の近くに、「おいらん堂」と呼ばれているお堂があります。

案内板によると、おいらん堂の由来は次の通りです。
戦国時代、甲斐の武田氏を支えた甲州金は、ここから西方約9Kmのところにある黒川金山から産出されたものといわれ、黒川金山には採掘坑夫の慰安のために遊女がいました。
金山閉山のとき、遊女たちから金山の秘密が漏れるのを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、慰安と称してその上で舞を舞わせました。舞の最中、ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも遊女たちを淵へ沈めました。このことから「おいらん淵」の伝説が生まれました。
下流にある奥秋部落には遊女の死体が多く流れつきました。哀れに思った村人たちは、遊女たちの亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬りました。
現在のお堂は昭和63年に再建されたものです。

お堂には、花魁と書かれた位牌が安置されています。

「デク」と呼ばれる木で彫った人形。

参考文献

参考記事

品川(海蔵寺)品川遊廓があった時代の投込寺。

品川には、たくさんの寺がありますが、その中で、投込寺と呼ばれている寺が海蔵寺です。たたずまいは、静かで清楚な寺です。

かって、品川遊郭があった時代、この遊郭で死んだ遊女がこの寺に投込まれました。他に、寺には、品川京浜電鉄轢死者の碑や関東大震災横死者の碑などがあります。

たくさんの石仏や墓石を一つにまとめた供養塔があり、「無縁首塚」と名前がついています。

この供養等の墓誌には、次のように書かれています。
(1)鈴ヶ森刑場で処刑された罪人の首を埋葬
(2)品川遊郭の遊女の霊
(3)品川京浜電鉄轢(れき)死者の霊
(4)品川海岸溺死者の霊
(5)品川行路病横死者の霊
(6)関東大震災横死者の霊
いろいろな、無縁仏を一つにまとめたもののようです。

参考文献

参考記事

八日市(石仏)駐車場の片隅に石仏があります。

旧遊廓の北側の駐車場の角に石仏があります。昔の町らしい風景です。

八日市新地遊廓の中には、無縁仏供養の石仏群がありました。今は移転されていますが、大正末期頃までは、遊廓の中にあり、石仏群の裏には、生蓮寺という寺と寺墓がありました。*1
(写真の石仏が旧遊廓内にあったものかどうかは不明です。)

小さな石仏群。

裏側から見たところ。多数の植木が置かれています。

参考文献

参考記事

今里(朝日湯)住宅街の中の銭湯。府道159号平野守口線。

生野小路郵便局の近く、大阪府道159号平野守口線の住宅街。

商店がまばらに建ち並ぶ通り沿いに、銭湯の朝日湯があります。

温泉マークのある看板。

朝日湯と書かれた煙突。

参考文献

参考記事

吉原(観音様)関東大震災の悲劇。490人が溺死。

大正12年の関東大震災では、弁天池(花園池)に多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起りました。*1

弁天祠の築山に立つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため、大正15年に創立されたものです。*1

観音様。

関東大震災80周年の碑。

【参考文献】
*1 風俗散歩(吉原):弁天池の案内板(2006.7)

参考文献

参考記事

吉原(吉原弁財天の弁天池)金魚が泳いでいます。

吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。

池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。

金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。

日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)

参考文献

参考記事

吉原(吉原弁財天)大門のレプリカ。福地桜痴の詩の復刻。

吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。

右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1

左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2

石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1

*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187

参考文献

参考記事

甲府(オリンピック通り)

今回は、甲府(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
甲府の中心街にあるオリンピック通り。青色のゲートが印象的です。

案内図。

飲食店がひしめき合っています。

反対側から。

参考文献

参考記事

潮来(石材店)ちんこ石があります。

神栖から潮来有料道路で潮来方面へ向かい、鰐川を渡ってすぐのところに石材店の展示場があります。

仏様の手と思われる石のオブジェなど、さまざまな石材の見本が展示されています。

その中で、ひときは目をひくのが、こちらのちんこ石です。亀頭の部分の皺がリアルに再現されています。

ペニスの反り具合もGOODです。残念ながら、まんこ石はありませんでした。

参考文献

参考記事

潮来(遊女供養塔)西円寺

潮来駅の北側の長勝寺の隣に西円寺があります。長勝寺は観光地として有名ですが、西円寺を訪れる人はほとんどいません。

西円寺には、遊女の供養塔があります。

衆生済度(しゅじょう-さいど)遊女の墓と書かれています。大辞泉によると、衆生済度とは、仏語で、「迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと。」だそうです。

墓の隣に遊女の碑(衆生済度遊女の墓建立の誌)があります。

----衆生済度遊女の墓建立の誌----
かつて、一世を風靡した野口雨情の哀感の詩「舟頭小唄」もその背景が遊廓の町潮来であったからこそ、いっそう世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は、奥州から中山道に通ずる要津にあたり、銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆ここを過ぎりければ、水駅として世に顕る。されば、古くから艶色をひさぎて、旅情を慰むるものななどありしならん。
徳川氏、府を江戸に開き、この地水戸の領となりし後は、その盛り旧にも倍し、交通益々頻繁にして、諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ、藩治殊に意を用い、水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し、地方の繁栄を支える傍ら、罪人の検挙等に資せらるとあり、延宝7年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治5年、娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが、実際は、空文化した公娼制度は、賃座敷業に変形し、却って繁栄をみた。
不夜城の妓楼に連ねる源氏名の数々、だが彼女達は好んで入籍したわけではない。年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若き妻女、かどわかされ汚されて売り飛ばされた非力な女等、殆どが善良なる子女であった。彼女達の末路は薄幸であり、殊に病を得て死んだりすると余計憐れであった。墓に刻まれることは稀で、大ていは露の世を生きた証として厄介になった寺の過去帳にひっそりと眠るのが普通だった。中には、畜生道に落ちたとして坂の途中に穴を掘り馬の轡がちゃがちゃ鳴らして埋めたものもあったとか。
遊里の巷に咲いては泡のごとく消えていった哀しい命、これこそ今日の潮来が観光の潮来として全国津々浦々に至るまで人口に及んだ礎であったろうと感慨を深くするものである。
(後略)

参考文献

参考記事

松戸(平潟神社)妓楼の主が狛犬を寄進しています。

平潟遊廓の形跡を残すものに、平潟神社があります。

九十九楼(後の三井家)の名前が刻まれています。

鶴宝菜の楼主、山田文蔵が狛犬を奉納しています。山田文蔵は、立石の農家の出身で、下肥を船で運んで来て、平潟遊廓で遊びを覚えて儲かることを知り、娼婦のおつるを囲い鶴宝菜の名で店を持ちました。*1

もう一つの狛犬は、逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納していますが、鈴木亀右衛門は、娼妓が首を吊って死んだので、それを機に廃業しました。*1

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.39

参考文献

参考記事

松戸(来迎寺)遊女の墓

平潟遊廓跡のすぐ近くに来迎寺があります。

覚月清澄信女という戒名の墓があります。

九十九楼(後の三井家)が建てた、大正13年に亡くなった娼妓の墓です。

墓の側面には、娼妓一同、見世二階一同、と書かれています。今尚、三井家の後裔(菊池丸子さん)が弔っているそうです。*1

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.42

松戸(池田弁財天)平潟遊廓の娼妓が信仰していた弁天様

松戸駅前のソープランド「角海老」から5分ほど歩いた所に、松戸市役所がありますが、市役所の隣の京葉ガスビルのビルの谷間に池田弁財天があります。
鳥居のトンネルがあります。

池田弁財天は、平潟遊廓の娼妓が、下の病気にかからぬよう、お客がうんと入るよう祈った弁天様です。*1 きりん亭猿像さんの、遊女の祈願(池田弁財天霊験記)*2 が紹介されています。

願をかける時は、奉納してある石の蛇の頭を欠いて持って帰り、めでたく成就した時は、新しい石蛇を奉納する慣わしだそうです。*1

現在は、手芸の神とも言われ、華道の先生やお弟子さんが詣でているそうです。*2

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.43
*2 きりん亭猿像:遊女の祈願(池田弁財天霊験記)(松戸史談17号)P.31

参考文献

参考記事

嵯峨野(広沢池の近く)「不許葷辛酒肉入山門」の石碑があります。

広沢池から自転車で5分ほど鳴滝方面へ向かったところに珍石があります。写真に写っているレンタサイルクルの自転車が置いてある道路沿いから10mほど林の中に入ったところです。

「不許葷辛酒肉入山門」と書かれた石碑があります。この石碑は、銀閣寺の南に法然院などで見かける石碑と同じです。「不許葷辛酒肉入山門」(くんしんしゅにく、山門に入るを許さず)とは、「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉などなまぐさものを食べたもの、酒を飲んだものは、山門に入るのを禁止する」という意味だそうです。

しかし、ここは、お寺ではなさそうです。地図を見ると、造園家のお宅があるあたりです。

林の中には、女性器と男性器の形の奇妙な石がたくさん並んでいます。

参考文献

参考記事

吉原(一葉桜まつり)花魁道中。花魁ショー。

吉原のはずれの千束通りを行くと、一葉桜・小松橋通りと交差します。通りには、一葉桜(八重桜の一種)が植えられています。この日は、一葉桜まつりが行われていました。一葉桜まつりは、一葉桜が植えられた2002年から始まり、今年で4回目だそうです。

まつりの目玉は、花魁道中です。もちろん、これは、当時のものを再現したものです。禿(かむろ)、花魁、振袖新造の順です。

ステージが用意されており、そこでは、花魁ショーが行われました。写真は、花魁が杯を飲み干した場面です。

最後に、花魁の撮影タイムがありました。

参考文献

参考記事

東向島(白鬚神社)吉原の松葉屋半左衛門奉納の狛犬。

玉の井から、いったん東向島の駅へ戻り、そこから隅田川方面へ向かって散歩してみることにしました。東向島三丁目に白鬚神社があります。

漢字は、「白髭」ではなく「白鬚」のようです。大辞林には、『「髭」はくちひげ、「鬚」はあごひげ、「髯」はほおひげ、の意で書き分ける』と載っています。

案内板を見ると古い神社であることがわかります。平安時代に、現在の滋賀県にあった白鬚大明神を分霊して祀ったのが起源ですので、なんと千年以上の歴史があることになります。

神社の狛犬は、山谷の料亭「八百善」の八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が奉納したものだそうです。

参考文献

参考記事

人形町(末廣神社)400年以上の歴史を持つ神社。

人形町2丁目に末廣神社があります。

末廣神社は400年以上の歴史を持つ神社です。元吉原の総鎮守社として信仰されてきました。

神社に日本酒が奉納されています。末廣酒造という会社があるようです。

吉原移転後は、花街として繁栄したようです。

参考文献

参考記事

天王町(稲荷神社)玉垣に刻まれたカフェーの名前。

小さな稲荷神社があります。

正面の石柱に「新天地カフェー組合」と刻まれたプレートが取り付けられています。

玉垣に寄進者のカフェーの名前が刻まれています。

尾張屋橋の登り坂の途中から見たところ。

参考文献

参考記事

栗橋(光了寺)静御前の遺物が保存されています

中田のバス停から10分ほど、北に歩いたところに、光了寺があります。

入口の石柱に静御前の文字があります。

光了寺には、静御前の遺物が保存されています。

静御前の伝説は全国各地に残されています。

参考文献

参考記事

栗橋(静御前の墓)大河ドラマで人気です。

今回は、埼玉県の栗橋を散歩します。
JR宇都宮線の栗橋駅の駅前に、源義経の寵愛を受けた静御前の墓があります。

今年は、NHKの大河ドラマ「源義経」が放映されているので、栗橋は義経ゆかりの地ということになっているのでしょう。大河ドラマ新聞記事があちこちに掲示されています。

石原ひとみの似顔絵?を使った酒屋の広告があります。

商店に貼られている商品券取扱店のポスターにも静御前の肖像が使われています。

参考文献

参考記事

北千住(元宿堤稲荷神社)おばけ煙突守護社。

千住には「お化け煙突」と呼ばれる大きな煙突が町のシンボルとなっていたそうです。千住柳町はお化け煙突の麓にあったわけです。
元宿堤稲荷神社はこの「お化け煙突」の守護社となっている神社です。

正式には「千住4本煙突」と呼ぶそうです。

略記に「4本煙突」の由来が説明されています。

狛犬

参考文献

参考記事

入谷~吉原(吉原今昔図)吉原神社。妓楼の配置図。

吉原弁財天のすぐ近くに吉原神社があります。

境内には、「吉原今昔図」が掲示されています。

明治時代から現在に至るまでの、妓楼の配置が描かれています。

吉原遊廓の写真や地図、解説もあります。

参考文献

参考記事

入谷~吉原(愛護地蔵尊)吉原で働いていた女性の水子を供養。

吉原弁財天の中に愛護地蔵尊と呼ばれる吉原で働いていた女性の水子地蔵があります。

「生まれるべく体内に宿りし水子も母なる生命保護のため人工妊娠中絶によって無明の境に失われていく悲憐なる幼い霊を供養する」と石碑に記されています。

愛護地蔵尊の正面の右側の玉垣には角海老の名前が刻まれています。

周りの玉垣。「新吉原カフェー」と記されています。その横の名前はカフェーの店の名前のようです。

参考文献

参考記事

入谷~吉原(花吉原名残碑)吉原弁財天。庄司甚右衛門の碑。

途中、吉原弁財天へ立ち寄りました。ここには数多くの見所があります。

「花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)」は、吉原が、江戸唯一の幕府公認の遊郭であり、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続いていたことを名残惜しむ碑です。

花吉原名残碑の隣には、幕府の許可を得て元吉原を開業した庄司甚右衛門の碑があります。

案内板があるので、これを読むと吉原の歴史を知ることができます。

----花吉原名残碑(はなのよしわらなごりのひ)----
吉原は、江戸における唯一の公許の遊廓で、元和三年(1617年)、葺屋町東隣(ふきやちょうひがしどなり、現中央区日本橋人形町付近)に開設した。吉原の名称は、植物の葭(よし)の生い茂る湿地を埋め立てて町を造成したことにより、はじめ葭原と称したのを、のちに縁起の良いう文字に改めたことによるという。
明暦三年(1657年)の大火を契機に、幕府による吉原遊廓の郊外移転が実行され、同年8月、浅草千束村(現台東区千束)に移転した。これを「新吉原」と呼び、移転前の遊廓を「元吉原」という。
新吉原は、江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華麗な江戸文化の一翼をにない、幾多の歴史を刻んだが、昭和三十三年「買春防止法」の成立によって廃止された。
(後略)

参考文献

参考記事

宝山寺(宝山寺参詣)森の中の幻想的なお寺です。

旅館が立ち並ぶ石段を登り、宝山寺へ参詣することにします。鳥居までは、ゆるやかな石段が続き、幻想的な気持ちになります。とても静かです。

日頃の運動不足がたたり、石段の登りは足腰にこたえます。なんとか本堂に到着。

森の中に寺院が散在しています。生駒市街が見渡せます。

斜面の深い森に吸い込まれるように多宝塔が見えます。

参考文献

参考記事