礼文(香深遊廓跡地)厳島神社の鳥居の先。坂を上ったところには、劇場。

今回は、礼文(北海道礼文郡礼文町)の町並みと風俗を散歩します。
香深は、礼文島の東海岸に位置し、香深港は、現在では礼文島唯一の玄関口です。
昭和15年の資料*1 に、香深の貸座敷業「三浦屋」「金盛楼」の記載があります。
礼文島南側の香深の市街地から道道765号線の坂道を登りと、右手に厳島神社の鳥居が見えてきますが、この先が貸座敷があった場所です。*2

北側(写真右側)に、「三浦屋」「金盛楼」、南側(写真左側)に松月楼がありました。*2

松月楼があったと思われるあたり。*2

この坂を上ったところには、劇場がありました。*2

【参考文献】
*1 渡辺利三郎:銃後の香深(渡辺利三郎,1940)広告欄
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第395號

参考文献

参考記事

東岩瀬(常盤遊廓跡地)明治初期の貸座敷は、港の入口に集中。

今回は、東岩瀬(富山県富山市東岩瀬町)の町並みと風俗を散歩します。
明治初期の東岩瀬の貸座敷は、船の出入りする港の入口に集中していましたが、日露戦争後(明治38年)、御郡所の跡地の松原町へ移りました。*1*2
文政11年(1828年)の市街図*3 には、巒昌寺(岩瀬梅本町)の北側に御郡所が記載されていて、昭和の市街図*4 の同様の場所には、貸座敷の楼名が記載されています。

現在の松原町。

南側の通り。

現在、当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 道正弘:近代史研究 第17号(富山近代史研究会,1994.3)P.35「東岩瀬常盤遊郭の盛衰」
*2 東岩瀬郷土史会:東岩瀬郷土史会会報 No.106(郷土史会,2008)P.8-P.11
*3 城川勇:東岩瀬の成り立ちと各町名の由来と変遷(岩瀬自治振興協議会,1997)附図
*4 大日本職業別明細図

参考文献

参考記事

滑川(稲荷神社跡)「廓内青年会」寄進。守護神としての稲荷神社。

「滑川町鳥瞰図絵」*1 によると、かつての常盤遊廓があった場所(真證寺の北側)に隣接して、稲荷神社がありました。
現在、その場所には稲荷神社があったことを示す石柱が建っています。

石柱には、「寄進 廊内青年会」と刻まれています。
明治36年頃から大正11年頃までの十数年の遊廓運営において、会計上の不正行為が発覚するなどしたため、「廓内青年会」のメンバーを中心に改革が進められ、衛生的設備の完備や守護神としての稲荷神社の建立が行われました。*2

石柱が建てられたのは大正12年。「廓内青年会」のメンバーを中心に改革が進められた時期にあたります。写真奥は真證寺です。

「廊」と刻まれていますが「廓」でしょうか。

【参考文献】
*1 滑川市総務部:近代百年のあゆみ 眼でみる滑川市(滑川市,1978)鳥瞰図
*2 滑川市:滑川市誌資料 第6 商工業(滑川市,年代不明)P.24-P.25

参考文献

参考記事

福光(居酒屋「いなほ」)旧遊廓街。奥行のある敷地に続く木塀。

旧遊廓の「丹保家」があった場所*1 に建っている居酒屋「いなほ」。

奥行のある敷地に続く木塀。

裏門。

屋根の上の鯱。

【参考文献】
*1 福光町:福光町史(福光町,1971)P.830

参考文献

参考記事

福光(福光遊廓跡)石灯籠が規則正しく並んでいます。

日清戦争後の戦勝気分にのって、料理営業はますます繁盛するようになり、福光町は、明治32年(1899年)、富山県知事から貸座敷営業免許地の指定をうけました。さっそく、明石家、山本家、弥六、一つ松、神田家、桐藤家、松風楼、川原、丹保家、旭楼がこの免許地における草分けとして明治33年(1900年)に営業を始め、末広町と呼ばれました。*1*2

現在は、旅館やスナックが建ち並ぶ一画となっており、当時の雰囲気が残されています。

まるで参道のように、建物の前には、石灯籠が規則正しく並んでいます。*3

現在も多くの旅館やスナックが営業中です。

【参考文献】
*1 福光町:福光町史(福光町,1971)P.829-P.830
*2 福光自治振興会:いつついし(福光自治振興会,1992)P.63-P.64
*3 加藤政洋:現代風俗2002 20世紀の遺跡,「消えゆく花街の景観、廓建築の痕跡」P.47

参考文献

参考記事

輪島(梅乃家)旧遊廓の建物。和風の佇まいの居酒屋。

旧遊廓街の西側にある和風の佇まいの居酒屋「梅乃家」。

地元の方の話によると、かつては「さんしょうろう」という遊廓だったそうです。
昭和初期の市街図*1 を見ると、「三昌」という記述がありますので、「三昌楼」だったのだと思います。

店舗の1階の中央部の中庭。遊廓のような雰囲気です。

輪島の地酒「純米酒 おれの酒」を注文。この後、刺身の盛り合わせと天ぷらそばを頂きました。

【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第二五七號 石川懸

参考文献

参考記事

八尾(遊廓跡)観光資源として保存されています。

八尾の鏡町遊廓跡は、綺麗に整備され観光資源として活用されています。杉下楼は、遊廓街の中心部にあった遊廓です。

反対側の通りにも面しています。

明光楼。このような看板が設置されているので、ひと目でわかります。

遊廓街の入口付近にあった林松楼は、写真のガレージのあたりにありました。*1

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)附図「鏡町繁盛図」

参考文献

参考記事

下諏訪(下諏訪遊廓跡地)御田町交差点の北西側の一画。旅館「大増」。

明治13年、湯田仲町の西はずれの小字塚田地籍に下諏訪遊廓が建てられました。*1

大正2年の「下諏訪町明細図」*2 によると、下諏訪遊廓は、現在の御田町交差点の北西側の一画にあって、遊廓への入口は東側にありました。

入口に近い方から、南側に、ダイマス、ツカダ、コトブキ、北側に、シンツカダ、エビス、マスミがありました。*2
ダイマスがあったと思われる場所に、旅館「大増」があります。

現在は、旅館や飲食店が建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.41
*2 下諏訪町明細図(玉港堂,1913)

参考文献

参考記事

下諏訪(宿場街道資料館)飯盛女に関する展示。中山道の宿場町。

今回は、下諏訪(長野県諏訪郡)の町並みと風俗を散歩します。
西に塩尻峠、北に和田峠という難所をひかえ、さらに甲州街道も合流していた下諏訪宿は、中山道いちばんの宿場町でした。下諏訪町歴史民俗資料館(現:宿場街道資料館)は、下諏訪宿に関する展示が行われています。

2階の飯売女(めしもりおんな)に関する展示。

「飯賣り下女奉公人請け状の事」

1階に展示されている明治41年発行の「下諏訪町明細全図」には、下諏訪遊廓が描かれています。遊廓は、市街地から離れた場所にあり、周囲は田畑や製糸工場があるのみでした。

参考文献

参考記事

塩尻(塩尻遊廓跡地)阿礼神社近くの中山道を北に入ったところ。

今回は、塩尻(長野県塩尻市)の町並みと風俗を散歩します。
中山道の要衝だったころの塩尻には、公許された遊女・飯盛女が230人もいて繁華し、旅人の旅情をなぐさめたと伝えられています。明治になって廃止となり、残った遊廓は一時松本の横田遊廓へ進出しましたが、その後許可されて塩尻の阿礼神社の隣接地八重垣町の六戸で開業しました。*1
大正15年の塩尻村の市街図*2 には、阿礼神社近くの中山道を北に入ったところに、遊廓の場所が記されています。

塩尻遊廓があったと思われるあたり。右側に大和楼、三喜楼、信陽楼、左側に弥生楼、壽楼、潮尾楼、三盛楼がありました。*2

現在は、平凡な住宅街になっています。

写真奥の森は、阿礼神社です。

【参考文献】
*1 郷土出版:思い出のアルバム塩尻(郷土出版,1980)P.40
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「塩尻村」

参考文献

参考記事

上田(飯島商店)上田城の南櫓と北櫓を買い戻して元の位置に戻す運動。

駅前の商店街の「マルブン堂文具店」に、上田城の櫓の買戻しに貢献した飯島新三郎の案内板があります。

飯島新三郎は、「みすゞ飴」の創業者で、上田城保存会の副会長でもあり、当時遊郭に転売されていた上田城の南櫓と北櫓を買い戻して元の位置に戻す運動(上田城址保存会)の中心人物でした。*1*2

上田城北櫓の再建の様子。

現在の「みすゞ飴本舗」

【参考文献】
*1 上田市立博物館:郷土の歴史 上田城(上田市立博物館,1988)P.80
【参考URL】
*2 飯島商店:ホームページ 会社概要

参考文献

参考記事

上田(上田城の櫓)遊廓へ移築→上田城へ再移築。

上田城本丸の南櫓と北櫓は、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されましたが、明治維新後から今日に至るまでの変遷は、波乱に富んだものでした。

廃藩後、明治新政府は上田城を接収、土地や建物を民間に払い下げとした結果、建物のうち、2基の櫓(やぐら)は、上田遊廓の金州楼と万富楼の建物として移築されました。上田遊廓に売られた2棟の櫓は、昭和4・5年頃まで妓楼としての営業を続けた後、廃業しました。現在、本丸入口の左右に並んで立っている2基の櫓(南・北櫓)は昭和戦中から戦後にかけて、遊廓から上田城へ再移築したものです。*1

櫓の内部は見学できるようになっています。

南櫓の梁の下側には、遊廓の建物であったときの痕跡が残っています。

遊廓時代の鴨居あるいは敷居の溝の痕跡。
【参考文献】
*1 上田市立博物館:郷土の歴史 上田城(上田市立博物館,1988)P.77-P.82

参考文献

参考記事

上田(上田遊廓跡地)ほぼ正方形の区画。貸座敷楼を中心に、料理屋、菓子屋、人力車屋。

今回は、上田(長野県上田市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、上田地方の蚕糸業、製糸業、養蚕業の発展は、上田町に活気をもたらし、これら産業界の発展の中で、花柳界が盛況となり、上田町の芸妓は、明治30年頃には、100名を越し、丸堀、連歌町、下道などに芸妓置屋が広まっていました。明治11年、政府の政策もあって上田遊廓が上田町の郊外の常磐城地籍(新地)につくられました。遊廓は、ほぼ正方形の区画をしていて、遊廓内は、大通りと小路からなり、芸妓・娼妓がいる貸座敷楼を中心に、料理屋、菓子屋、人力車屋が周りにありました。*1

明治35年の「上田遊廓地図」*1 に記載されている「琴平神社」が現存します。

「琴平神社」前の大通り。「上田遊廓地図」によると、道の左側には、雑貨商の滝川、奥村、寺島、貸座敷の第二喜多川楼、新中村楼、右側には、料理屋の新月亭、貸座敷の葛城楼、大中村楼がありました。*1

「新地」と書かれた電柱番号札。

【参考文献】
*1 尾崎行也,佐々木清司:上田歴史地図(郷土出版社,1983)P.58-P.59,P.64-P.65,P.93

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

上田(浮世橋)遊廓への道。旧北国街道沿い。

佐久(いわんだゴールデン街)岩村田の中心街。昼間は閑散としています。

岩村田の中心街に、レトロな横丁があります。

その名も「ゴールデン街」。

昼間は閑散としています。

横丁の奥まったあたり。

参考文献

参考記事

佐久(大門跡)明治41年起工。岩村田遊廓の遺構。

養蚕・製糸業が隆盛期をむかえた大正時代から昭和初期にかけて、岩村田は商業と養蚕の神、鼻顔稲荷神社を中心として繁栄しました。稲荷橋の南西側には遊廓があり、夜ともなれば遊廓の赤い灯が夜空にくっきりと浮かびました。*1*2
遊廓の入口には、大門がありました。*3

遊廓は、明治22年に建築が始まり、大門は、明治41年に作られました。遊廓は、昭和12年に取り壊されるまで続きました。*3

大門建設にあたり、寄進した企業名でしょうか。

道路から見た大門。

【参考文献】
*1 楜沢 竜吉:思い出のアルバム佐久(郷土出版,1979)
*2 福井一喜:地域研究年報37(2015)「長野県佐久市岩村田地区における商業空間の変容」P.239
*3 金澤正昭:歴史に学ぶ岩村田の昔 岩村田小学校開校130周年記念(金澤正昭,2002)位置略図,P.36

参考文献

参考記事

佐久(岩村田宿みち案内)遊廓大門の跡。史跡・名所。

今回は、佐久(長野県佐久市)の町並みと風俗を散歩します。

JR小海線の岩村田駅前の案内板「岩村田宿のみち案内」。

鼻顔稲荷神社近くに、「遊廓大門の跡」があることが示されています。

書かれているマークよると、「遊廓大門の跡」は、史跡・名所に分類されています。

参考文献

参考記事

大村(大村遊廓跡地)おおむら温泉が隣接。

おおむら温泉ときわ旅館は、田の平にあって、当時大村地方の温泉旅館はここ1軒でした。近くには、遊廓街があったこともあり、町の有力者や軍人の将校などが多く利用し、賑わっていました。*1
おおむら温泉は、遊廓の北側に隣接していました。*2

田の平の名が残る電柱のプレート。

遊廓があったと思われる通り。

古い町並みが残っています。

【参考文献】
*1 郷土出版社:目で見る諌早・大村の100年(郷土出版社,2002)P.33
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)長崎県

参考文献

参考記事

花巻(花巻遊廓跡地)明治18年、貸座敷免許地指定。

明治18年、貸座敷免許地指定になるまでのの頃の裏町は、ほとんど百姓家ばかりしかなく、鍵町(坂本町)には、前々から小料理屋などがあったので、この方が指定地になりかかったところ、里川口町の有力者の滝川金太郎、八重樫治太郎、他が、県庁に運動した結果、翌19年に裏町が勝利を得て、明治22年には、八重樫治太郎が真っ先に「千歳楼」を開業、その後、続々開業者が出て繁盛しました。*1

遊廓の中心部と思われる十字路。

昭和20年の戦災後は、一軒もなくなって57年間の花柳界は終わりを告げました。*1
稲荷神社の案内板には、このあたりが激しい戦災にみまわれたことが書かれています。

貸座敷事務所があったあたり。*2

【参考文献】
*1 熊谷章一:花巻市上町の歴史 形成と発展(花巻市上町商業協同組合,1972)P.78-P.80
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1937)

参考文献

参考記事

佐倉(佐倉遊廓跡地)弥勒新地。妙経寺の境内の裏手。

今回は、佐倉(千葉県佐倉市)の町並みと風俗を散歩します。
佐倉市弥勒町の妙経寺の隣には、遊廓がありました。当時の町並みを再現した市街図によると、遊廓があった場所は、妙経寺の境内の裏手で、三谷屋ふとん店(写真奥)の手前です。

当時は、道路(弥勒通り)から入ったところに、大門がありました。*1

「弥勒新地」と呼ばれた遊廓がいつごろ開かれたかについての詳細は不明ですが、佐倉に歩兵部隊が屯営するようになった頃(明治16年頃)だと伝えられています*1

荒川(若葉)楼、成田楼、志村楼、弥勒楼、日暮楼、東楼がありました。

【参考文献】
*1 新佐倉真佐子を作る会:佐倉お茶の間風土記(新佐倉真佐子を作る会,1979)P.96-P.97,附図

参考文献

参考記事

深谷(遊廓跡地)毎日毎夜多くの人たちが遊びにきました。

今回は、深谷(埼玉県深谷市)の町並みと風俗を散歩します。
今は昔、大正末期まであった深谷の遊廓、「深谷と云えば女郎屋、女郎屋と云えば深谷」と知れわたり、近在は元より、相当遠隔の地からも遥々毎日毎夜多くの人たちが遊びにきました。大正の頃の遊廓は、相生町に9軒、本町に1軒、稲荷町に6軒ありました。*1
明治35年の市街図*2 によると、相生町の安中商店付近には、貸席(貸座敷)の関口楼がありました。

松本楼があったあたり。

酒蔵の田中藤左衛門のあたり、須藤染物店の隣には、芸妓屋と貸席がありました。*2

貸席(貸座敷)があったと思われる場所は、駐車場になっています。

【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22
*2 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所)P.49

参考文献

参考記事

梁川(梁川遊廓跡地)広瀬座が隣接。北隣は広瀬川。

今回は、梁川(福島県伊達市)の町並みと風俗を散歩します。
明治十年代、田町の保原街道入口(現在の田町の十字路近辺)に数軒の遊廓が営業を行っていましたが、明治30年頃から北本町3番地に遊廓が集められることになり、明治36年の記録によると、木羽楼、角輪楼、大豆楼、田川楼、新田川楼の5軒が営業していました。*1
遊廓の北隣は広瀬川で、当時は両岸は小高い土手で、すぐ道路から川岸に下りられました。お不動様(写真左側)の北隣(写真右側)には、「広瀬座」(明治20年竣工)があって、歌舞伎芝居や芝居が演じられました。*2
現在は、大きな堤防が築かれ、昔を偲ぶことができないほど変貌しています。

大正13年頃の新町遊廓の様子を描いた図「大正13年頃の新町かいわい」*3 によると、遊廓は、角輪(かくわ)楼、木羽楼、があって、遊廓の南側は広場になっていて、桜の木が植えられていました。
広場があったと思われるあたりは、現在は製材所の敷地になっています。

遊廓裏の通り。ゆるやかなカーブを描いています。

旧遊廓の敷地の南端にある旅館。

【参考文献】
*1 中村敏男:郷土やながわ第六号(1991)P.7-P.15 「明治~大正 梁川花街繁盛由来」
*2 石井孝平:郷土やながわ第一号(1984)P.7-P.11 「広瀬座界隈の今昔」
*3 八巻一:郷土やながわ第三号(1987)P.85-P.89 「梁川の遊廓考」

参考文献

参考記事

会津若松(磐見町遊廓の石碑)大正4年秋の植樹記念。

笠間稲荷神社の敷地の隣に、石碑が建っています。

この石碑は、大正4年秋の大正天皇即位を記念した植樹の際、磐見町で営業していた山田楼、小松楼、菊勢楼、八幡楼、泉楼、吉田楼、新小松楼、松島楼、松風亭、常磐の十店が、建てたものです。*1

磐見町遊廓と軍隊とは持ちつ持たれつのあいだがらで、その石碑の題額は「六十五聯隊長陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級山内正生」となっています。*1
市中に散在していた娼家を磐見町に集めたことなどが書かれいます。

石碑の下部に「堀江町」の名が確認できます。
会津若松の遊里は、鶴ヶ城築城、城下町形成時に、遊女町として堀江町ができましたが、会津藩初代藩主の保科正之の代(承応元年)に廃止されました。*1

【参考文献】
*1 中村とし: 民衆史研究3号(1979.01)P.2-P.17 「会津遊廓史」

参考文献

参考記事

会津若松(笠間稲荷神社)荒木呉服店の屋敷社。

荒木呉服店の建物の裏側へ回ると稲荷神社の鳥居が見えます。

笠間稲荷神社。

笠間稲荷神社は、案内板の説明によると、かつての遊廓街旧磐見町にある荒木呉服店の屋敷社で、商売繁盛の神様として遊女たちをはじめ多くの参拝客を集めていました。

お堂の内部。願主に荒木氏の名前が見えます。

参考文献

参考記事

会津若松(磐見町遊廓地)七日町。新地区と呼ばれた一画。

今回は、会津若松(福島県会津若松市)の町並みを風俗を散歩します。
会津若松の七日町(なぬかまち)には、磐見町遊廓がありました。*1
明治29年2月、若松市は市の発展のために、兵営設置の建白書を陸軍大臣に提出しました。早晩軍隊が若松市に常駐するのを見越した業者は、明治34年、磐見町遊廓をつくり、市内のところどころに散らばっている娼家を一ヶ所に集めて、「新地区(しんちく)」と呼ばれる一区画ができあがりました。*2
町の真ん中には川が流れ柳の木が植えられ、多くの検番や遊廓がありました。*3

旅館だっと思われる建物。

遊廓街の西端にある荒木商店の建物。

呉服屋さんの名残の看板。

【参考文献】
*1 鈴木三郎:最新若松市地圖.改訂14版(鈴木屋書店,1933)
*2 中村とし: 民衆史研究3号(1979.01)P.2-P.17 「会津遊廓史」
*3 七日町通りまちなみ協議会:七日町のいまむかし(七日町通りまちなみ協議会,1983)P.3

参考文献

参考記事

多度津(新地跡地)かつての歓楽街。妙應寺へ向かいの通り。

多度津市遊廓は、多度津新地にあって、貸座敷は19軒ありました。*1
明治37年の略図*2 によると海岸線沿いに「廓街」(当時の海岸線は、桃陵公園のある桃山の近く)があって、その北東側(えびす神社があるあたり)に「新地」の記載があります。

県道21号線から妙應寺へ向かいの通りの入口。料亭があります。

少し進むと当時の古い建物が残る一画に行きつきます。
天保9年に現在の多度津港の位置に港の中心が移り、それによって活気を呈した地域です。船宿、遊廓建築、町屋の建築が残っています。*3

曲がりくねった道が続きます。このあたりはかつての歓楽街でした。*4

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.144 「全国遊廓案内」
*2 米田明三:多度津町文化財保護協会会報 第20号 P.7-P.12(1977) 「明治37年5月28日丸亀連隊の御用船へ乗船時の多度津港略図」
*3 新開国弘:多度津町文化財保護協会会報 第23号 P.17-P.21「多度津町町人地における町屋の特色」
*4 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.88-P.89

参考文献

参考記事

善通寺(善通寺町遊廓跡地)砂古裏

「全国遊廓案内」*1 によると、善通寺町遊廓は、善通寺町字砂古浦にあって、妓楼は、寿楼、花月楼、第二寿楼、房栄楼(ふさえいろう)、朝日楼、豊楼、陽貴楼、大正楼、吾妻楼、勇誠楼、いろは楼の11軒がありました。
大正11年の「最新善通寺市街図」*2 に遊廓の位置が記されています(現在の善通寺町西山のあたり)。
現在は住宅街となっていますが、道幅が広くなっている一画もあります。古い住宅地図*3 によると、この付近は「砂古裏」と呼ばれていたようです。

稲荷神社の鳥居。

「房栄屋旅館」があったあたり。*3
房栄楼から転業した旅館があったのかもしれません。

背後には、筆ノ山が望めます。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.144 「全国遊廓案内」
*2 最新善通寺市街図(1922)
*3 善隣出版社:善通寺市・琴平町・多度津町(善隣出版社,1971)P.27

参考文献

参考記事

洲本(洲本遊廓跡地)洲本港の入口の漁師町。現在の洲本市海岸通。

今回は、洲本(兵庫県洲本市)の町並みを風俗を散歩します。
明治12年に免許された洲本遊廓は、洲本港の入口の漁師町と呼ばれてた場所(現在の洲本市海岸通)にあって、終戦後まで同じ場所で営業されていました。*1*2

昭和4年発行の市街図*3 には、大谷ずし(現在の大谷食品店)の北側の一画(現在の淡路第二プリンスホテルや旅館小柳があるあたり)に「遊廓」の記載があります。

「小柳旅館」脇の通り。

アルサロ「ミススモト」があった通り。*4

【参考文献】
*1 新見貫次:写真集明治大正昭和洲本(国書刊行会,1979)P.111
*2 新見貫次:兵庫史学(1963.02,通号32)P.46-P.55 「州本遊廓」
*3 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第164号「兵庫県及び徳島県」
*4 関西図書出版社:洲本市(関西図書出版社,1970)P.10

参考文献

参考記事

藤枝(藤枝新地遊廓跡地)上伝馬町の遊廓に代わって、新たに「新地遊廓」が公認。

明治37年1月の火事で全焼した上伝馬町の遊廓に代わって、新たに「新地遊廓」が公認されました。入口には、大門があって、清水屋、千葉屋などが有名でした。*1

1958年の住宅地図*2 の広告欄に記載の割烹旅館「山泉」に新地と書かれていることから、山泉旅館があった場所が新地だったようです。

山泉旅館があった敷地の裏側。

電柱の「新地」のプレート

【参考文献】
*1 静岡郷土出版社:目で見る志太100年史(静岡郷土出版社,1990)P.62
*2 大畑宜吉:藤枝市明細図(東海地図出版社,1957)P.9,P.36

参考文献

参考記事

藤枝(食売旅籠跡地)藤枝宿。現在の商店街の中心部。

藤枝宿の食売旅籠は、栗田屋、鈴木屋、山城屋、みそや、なべ屋、武蔵屋、まるや、油屋、江戸屋、鍋屋、笑子(えびす)屋、村田屋、山中屋、の13軒を超えていました。*1
写真は、武蔵屋、まるや、油屋があったあたり)*2

現在の商店街の中心部。みそや、なべ屋、がありました。*2

栗田屋、鈴木屋、山城屋、があったあたり。(写真左は、新明宮。)

東大サッカー部の記録*3 によると、昭和33年の第38回全日本選手権(天皇杯)が藤枝で開催され、そのときの東大サッカー部の宿泊所に、売春防止法で商売換えをしたばかりの十九万(トクマン)というお女郎屋さんが割り当てられました。
割烹・旅館「十九万」があったあたりは、現在はマンションに建て換わっています。*4

【参考文献】
*1 江戸町名俚俗研究会:地方図特集2 東海道藤枝宿町並明細図 東海道島田宿家並明細図 東海道袋井宿略図及青楼変遷図 ほか2編(江戸町名俚俗研究会,1966)P.6
*2 野本寛一,八木洋行:ふるさと百科藤枝事典(国書刊行会,1984)P.28
*3 東京大学運動会 ア式蹴球部:闘魂(東京大学運動会 ア式蹴球部,1988)P.59-P.61 小山富士夫「農学部の合宿所」
*4 大畑宜吉:藤枝市明細図(東海地図出版社,1957)P.9

参考文献

参考記事

藤枝(旧藤枝宿)大井川の川越で繁盛した旅籠屋。

今回は、藤枝(静岡県藤枝市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代の藤枝宿は、大井川の川留めが解けると川越で繁盛した宿場町で、旅籠屋には当然飯盛女もいました。*1

現在の上伝場町付近が藤枝宿の中心でした。

問屋場跡。現在は藤枝交番になっています。

ふとん店の艶っぽい看板。

【参考文献】
*1 今井金吾:今昔東海道独案内(日本交通公社出版事業局,1994)P.131-P.132

参考文献

参考記事

静岡(二丁町遊廓跡地)現在は静岡県地震防災センター敷地。

二丁町遊廓は、戦災によって完全に消失し、二丁目の跡は、静岡県地震防災センター(静岡市葵区駒形通5丁目9−1)の敷地となりました。*1

大門と裏門を結ぶ通りに妓楼は無く、引手茶屋、見番、芸者屋、周旋業、台屋(食べ物屋)などが軒を並べ、比較的静かな通りでした。*2

現在、この通りは「しあわせ通り」と呼ばれています。

地震防災センター裏の通り。

【参考文献】
*1 漆畑弥一:ふるさと百話(静岡新聞社,1998)「駿府の花街」P.131
*2 小長谷澄子:静岡の遊廓二丁町(文芸社,2006)P.85-P.86

参考文献

参考記事

富士宮(茨木遊廓跡地)現在の富士宮グリーンホテルのあたり。

JR富士宮駅前通り(国道139号線)を少し東へ行くと、北角に富士宮グリーンホテルがあって、ホテルの横を北に向かう町並みは、以前は「清水町」と言いました(現在は、東町と中央町に分かれいます)。しかし、清水町は、小字(こあざ)名である「茨木(バラキ)」という名前で市民に広く知られていた遊廓があった場所でした。*1
昭和3年の市街図*2 には、現在の富士宮グリーンホテルのあたりに、「遊廓」の記載があります。

明治27年(1893年)、大宮町(富士宮の旧名)議会で遊廓の設立について検討されました。議会は、「当大宮町は、近年になって蚕糸業をはじめとする工業が盛んになり、諸国から商人や青年が集まり、金回りが良いので町中で遊ぶ者が増え、それに伴い私娼が増加し、風俗が乱れつつある。これらのことを考えると、必要悪ではあるが、遊廓の設立を許可することが妥当。」と県に対して答申しました。*1

遊廓は、北側から、松井楼、深本楼、住吉楼の三軒で、娼妓の数は24名でした。昭和7年の「大宮町大火」で、豪華を誇った三軒の遊廓は焼失しましたが、翌昭和8年、深本楼の建物は復活しました。残りの松井楼、住吉楼は、再開されることはありませんでした。*1
昭和35年の住宅地図*3 によると、このあたりに、転業旅館と思われる「深本旅館」がありました。

現在、遊廓の北側に数軒の居酒屋やスナックがありますが、付近は住宅街で、遊廓があった当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 佐野里見:岳南朝日(1992.12.9)P.4 「ふるさと再発見 バラキ物語」
*2 秋山不二男:商工案内 大宮町地図(日本地理附図研究所,1928)
*3 関東明細地図編集社:富士宮市住宅明細図(関東明細地図編集社,1960)P.15

参考文献

参考記事

八戸(新むつ旅館)折鶴の釘隠し。豪華な食事。

この日は、新むつ旅館に宿泊です。

折鶴の釘隠し

旅館に隣接していた土蔵(明治 40年建造)を解体した際に発見された大工の墨書。当時の遊興料、コメ、地酒などの料金も記されており、当時の貴重な資料です。*1

皿数の多い豪華な食事。この後、白菜のお新香とイカの塩辛がサービスです。

【参考URL】
*1 新むつ旅館:ホームページ

参考文献

参考記事

八戸(新むつ旅館)輪違模様と呼ばれる見事な細工。

小中野の旧遊廓街だった道幅の広い道路に、当時の遊廓の建物を利用した「新むつ旅館」があります。

前回、新むつ旅館へ宿泊しましたのは、6年前の2008年。*1
その間、土台の改修工事などが行われ、現在も営業が継続されています。

軒先の装飾は、「輪違模様」と呼ばれる見事な細工が施されています。*2

夜の新むつ旅館。

【参考記事】
*1 風俗散歩(八戸):新むつ旅館(2008.9)
【参考文献】
*2 rakra(2008.1)

参考文献

参考記事

八戸(小中野遊廓跡地)鍵の手の街路。道の幅が広くなっています。

陸奥港駅の方から橋を渡って遊廓があった小中野に入ると、鍵の手のある街路が伸びています。*1
周囲の道路と比べ、この鍵の手の街路だけが、道の幅が広くなっています。

町のほぼ中央に残る戦前に建てられたと思われるお宅。*1
昭和6年の市街図*2 によると、二つ目の通りには、東楼、旭楼、観月楼、国楼、五明楼がありました。

さらに行くと二つめの鍵の手が現れます。*1

鍵の手を抜けた三つめの通り。ここには、花月楼、錦楼、新喜楼、山内楼がありました。*2

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.50-P.51
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「八戸市」

参考文献

参考記事

五戸(五戸遊廓跡地)新丁の遊廓。遊廓の入口にアカメ橋。

大正時代の五戸町は、この地方の商業町として毎日のように人手がありました。特に、十七、二十七の市日には、大混雑の繁昌振りで、大道商人もたくさん出ました。五戸町新丁にいつ遊廓ができたのか詳細は不明ですが、明治末期には12軒が店開きしていて、約50年続いて戦後の売春防止法が施行されて、廃業しました。遊廓の入口には、アカメ橋がありました。遊廓の女達は、そこまで朝帰りの客を送り、後でその客にアカメと指で目を大きく開いて、客人をけいべつすることから、アカメ橋の名がつきました。*1

この場所だけ道路幅が特別広い理由は、明治40年3月12日の新丁大火の後、各家庭が道路前の土地を2メートルずつ寄付して大幅な道路になりました。*2

南側からみた新丁。

新丁の南側にある新明宮。
遊廓の女性達は、家掃除や雑巾がけを済ませ、玄関を必ず水洗いをし、その後、新明宮やこうへん様(当時あったお堂)を拝みに行きました。*2

【参考文献】
*1 三浦榮一:流れる五戸川 続8 (三浦榮一,1997)P.58-P.60 「新丁の遊郭はいつごろ出来たか」
*2 三浦榮一:流れる五戸川 続13(三浦榮一,2002)P.383-P.385 「新丁の思い出(続)」

参考文献

参考記事

二戸(福岡町遊廓跡地)水晶川付近。現在は暗渠になっています。

今回は、二戸(岩手県二戸市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の二戸市街は、1972年、福岡町が二戸市に合併される以前は、「福岡町」と呼ばれていました。大正9年の「福岡町案内俯瞰図」*1 によると、福岡町遊廓は、水晶川の北側の現在の長嶺にありました。大正14年の市街図*2 には、水晶川の北側に、福田楼、第一よか楼、第二よか楼の3軒の妓楼が記されています。

水晶川があった場所は、現在は暗渠になっています。

5年後の昭和5年の市街図*3 には、金盛楼、よか楼の2軒の妓楼名が水晶川の南側に記されています。

金盛楼があったと思われるあたり。

【参考文献】
*1 二戸市史編さん委員会:二戸市史(二戸市,2001)P.248-P.249,P.628
*2 木谷賀:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)「福岡町」
*3 大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1930)「福岡町」

参考文献

参考記事

小千谷(小千谷遊廓跡地)船岡町と栄町の間あたり。

明治40年、工兵第13大隊が設置されることが内定したころ、その受け入れ態勢の一環として、遊廓の開業が「その筋」望まれていて、明治42年に開業しました。小千谷町には、旧幕藩時代以来全国から綿商人等の入り込む殷賑の町として、当然のことながら料亭の女中、飯盛女等が蜜淫売をする風習があり、このような素地の上に遊廓が設置されたのでした。*1
遊廓の敷地は、船岡町と栄町の間あたりにありました。*2

「小千谷町勢一覧」に掲載されている鳥瞰図*3 には、通り入った道が鍵型に左に曲がる場所に遊廓の場所が示されています。

左へ曲がった先。広い道路は行き止まりになっています。

当時、遊廓の業者は、佐藤与市(松川屋)、濁川仁久治(緑屋)、山本金右エ門(住の浦)、佐藤吉二郎(若松)、関嘉吉(松尾楼)の合計5軒が参加申し込みをして許可を得ました。*4
1975年の住宅地図を見ると、この付近に、同姓同名で山本金右エ門、同姓で濁川、佐藤、関、の住宅があります。

【参考文献】
*1 小千谷市史編修委員会:小千谷市史(小千谷市,1967)P.405-P.407
*2 小野坂庄一:小千谷・北魚沼今昔写真帖(郷土出版社,2001)P.11 「小千谷市街地地図」
*3 小杉達太郎:小千谷文化(1994.03)135号 P.12-P.13「昭和六年の回顧 小千谷町勢一覧に見る」
*4 吉村宗松:船岡町九十年の歩み(吉村宗松,2000)P.25-P.26

参考文献

参考記事

新潟(常盤町遊廓跡地)横七番町通り。昭和5年当時、妓楼が半減。

「貸座敷家並み図」*1 によると、かつての新潟遊廓の二本柱だった十四番町遊廓と常盤町遊廓は、いずれも横七番町通りに接した場所にあって、本町通十四番町から数えて北東方向へ3本目の通りに常盤町遊廓がありました。

常盤町遊廓は、明治、大正時代は、十四番町遊廓と比べ地の利の悪いこともあって、不況の深刻化した昭和5年当時、妓楼が半減しました。*2

能登屋があった思われる場所。「貸座敷家並み図」*1 によると、大正中期は、北側から、東楼、村上屋、隅田川、第二鷲尾、井坂楼、能登屋、と隙間なく建ち並んでいましたが、昭和5年には、村上屋、隅田川、能登屋、と半減しています。

昭和32年の住宅地図*2 によると、この場所には、銭湯の「ときわ湯」がありました。。「貸座敷家並み図」*1 では「風呂屋」と記述されています。

【参考文献】
*1 藤村誠:新潟の歴史を語る 昭和63年度郷土史講座(1988,新潟市郷土資料館)P.20-P.24 「新潟遊廓の変遷を語る 十四番町と常盤町」
*2 日本地図編集社:新潟市住宅明細地図(日本地図編集社,1957)P.11

参考文献

参考記事

新潟(十四番町遊廓跡)和風、洋風をとりまぜた家並み。

明治21年、古町通五番町と西堀通五番町(俗称:脱奔( ダッポン)小路)の貸座敷を全焼する火災が発生しました。以前から、新潟市内無く所に散在している貸座敷を北辺の一郭にまとめようと企図していた県は、この火事を好機として、遊廓統合に着手しました。その後、明治31年までに、横七番町以北の新遊廓指定地への移転が完了し、「新潟遊廓」が誕生しました。ところが、移転直後の明治31年の火事で本町通十四番町の貸座敷はすべて全焼した結果、一部の楼主が隣接の常磐町へ移転し、常盤町遊廓が誕生。新潟遊廓は、十四番町と常盤町の二本柱となりました。*1

上の写真とは逆方向(浄信院を背にして)から見たところ。写真左側の角にあった水田楼は、建物内部はもちろん、店の格子先はで全部朱塗りで統一され、これをまねる妓楼が続出しました。大正期、新潟遊廓の外観は、和風、洋風をとりまぜた家並みでした。*1

新潟遊廓の各妓楼は、競って建物の増改築を行いました。中でも特筆すべきは、十四番町の小林楼(その後「巴屋」、写真右手前の位置)は、大正から昭和初年まで最も繁栄した貸座敷の一つで、店張りをする部屋に大姿見を設備し、25人の娼妓が美しく映ずるように工夫し、さらに洋風の大建築をして、玄関から靴ばきのまま出入りできる部屋を7部屋設けました。*1

かつての常盤楼の跡には、大きなマンションが建っています。*1

【参考文献】
*1 藤村誠:市史にいがた第14号(新潟市,1994)P.4-P.22 「新潟における花街の変遷」

参考文献

参考記事

四ツ谷(元吉原以前の傾城屋跡地)「異本洞房語園」の記述。

今回は、四ツ谷(東京都千代田区、新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
吉原遊廓の成立を書いた最古の資料「異本洞房語園」には、「慶長の頃迄、御城下定りたる遊女町なし、傾城屋所々にありし中にも、軒をならべ集り居たる場所、三四ケ所あり、麹町八丁目に十四五軒、鎌倉河岸に同断、大橋の内柳町に廿余軒...」と書かれています。麹町八丁目とは、現在の麹町四丁目付近です。*1

現在、この付近には、千代田区 町名由来板ガイドがあります。

遊廓は、元和3年に日本橋(元吉原へ)移転しました。*1

名由来板ガイドが設置されているのは、麹町4丁目と五丁目の境界付近です。

【参考文献】
*1 石崎芳男:よしわら「吉原」(早稲田出版,2003)

参考文献

参考記事

利尻(鬼脇遊廓跡地)ヤムナイ橋へも行ってみました。

利尻島の遊廓は、明治12年頃、鴛泊(おしどまり)に遊廓があり、明治32年に道庁告示により鬼脇村字ヤムナイ(清川)にも遊廓が設けられました。*1
利尻島郷土資料館の鬼脇市街略図*2 によると、橋を渡った先に遊廓がありましたが、ここからどのくらいの距離の場所にあったかは不明です。この道の先は行き止まりになっています。

清川の鬼脇中学校近く。ここから南側(この写真を撮った方向の逆方向)へ折れると鬼脇橋へ出ます。

鬼脇市街略図*2 に記載のあったヤムナイ橋「止内橋」へも行ってみました。

現在のヤムナイ橋は、鬼脇の市街から約1km離れた場所にあり、1枚目の写真の道の先に遊廓があったとは考えにくく、遊廓があった場所の詳細は不明です。

【参考文献】
*1 利尻富士町史編纂委員会:利尻富士町史(利尻富士町,1998)P.1358
【参考記事】
*2 風俗散歩(利尻):利尻島郷土資料館「明治末期 大正初期 鬼脇市街略図」

参考文献

参考記事

増毛(遊廓跡地)増毛町の史跡の標柱。畠中町4丁目。

畠中町4丁目。増毛の遊廓があった場所には、増毛町の史跡の標柱が設置されています。

明治15年、貸座敷料理店を開くため、裏町の町割りがされ、増毛新廓と名付けられました。

増毛市街案内図*1 によると、標柱が設定されている四つ角には、松嶋楼がありました。

遊廓や料亭、見番が建ち並んでいた通り。

【参考文献】
*1 安田俊平:増毛市街案内図(北陽社,1930)

参考文献

参考記事

浦河(浦河遊廓跡地)ウロコベツ川の河畔。奥座敷に当たる場所。

浦河に遊廓が許可されたのは、明治30年。場所は常盤町の奥、ウロコベツ川の河畔にありました。このあたりは、当時の浦河市街地から考えれば、ちょうど奥座敷に当たる場所です。*1

昭和9年の浦河港大観*2 の附図「浦河町市街浦河港俯瞰図」に、田中楼と桃花楼の位置が記されています。

「浦河町市街浦河港俯瞰図」*2 によると、田中楼と桃花楼があった場所は、森林事務所の先、ウロコベツ川の流れが道路から離れ、再び道路に近づくあたりですので、このあたりかもしれません。

田中楼の建物は、一部二階建てで、客部屋は9つほどありました。これに楼主の茶の間や寝間、台所、風呂などが続き、上からみると口の字型につながっていました。昭和5年浦河港の完成は、浦河に未曾有の繁栄をもたらしましたが、浦河遊廓もその恩恵を十分に受けました。浦河の成人男性以上の男でここに足を踏み入れぬ者はありませんでした。*1

【参考文献】
*1 グルッペ21うらかわ:浦河百話(共同文化社,1992)P.396-P.401
*2 浦河漁業組合:浦河港大観(浦河漁業組合, 1934)

参考文献

参考記事

石岡(石岡遊廓跡地)新地八軒。鈴の宮稲荷神社の隣。

石岡市国府2丁目の通り。

鈴の宮稲荷神社。

石岡民俗博物館の展示資料によると、石岡の遊廓「新地八軒」は鈴の宮稲荷神社の隣にありました。

金丸通り商店街。

参考文献

参考記事

石岡(ふるさと歴史館)妓楼紀州屋の女将いく。新地八軒。

今回は、石岡(茨城県石岡市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の西のはずれにある石岡市立民俗資料館。

元治元年(1860年)、水戸藩内抗争から発展した天狗党は、筑波山に挙兵しますが、それより以前、石岡の遊廓「新地八軒」は、天狗党幹部の藤田小四朗や竹内百太郎の同志糾合のための足場となっていました。

新地八軒の見取り図。

とくに、妓楼紀州屋の女将いくは、小四朗から「おふくろ」と呼ばれ慕われていました。

参考文献

参考記事

北見(ピアソン記念館)北見市の誇り。遊廓設置阻止に成功。

今回は、北見(北海道北見市)の町並みと風俗を散歩します。
北見の歓楽街の北側(幸町7丁目)にあるピアソン記念館。

ピアソン宣教師夫妻は、1888年(明治21年)に来日、伝道をつづけました。北見では、略註付旧・新約聖書出版の偉業を成し遂げ、遊廓設置阻止に成功し、多くの婦女子を救いました。

婦人穚凡会記録には、遊廓設置に反対した記録が残されています。道内において開拓地遊廓が設置されたなかったのは、野付牛(北見)だけであり、これは北見市の誇りです。

ピアソン記念館内に展示されていた北見市街図。割烹「梅の家」があったこの一画は、北見の花街の中心でした。

参考文献

参考記事

深川(佐藤遊廓跡地)明治33年に開業。現在は緑町公園。

深川の遊廓は、明治33年に開業し、またの名を佐藤遊廓といいました。
遊廓が廃止される頃(昭和30年頃)は、六条二番・三番に西岡楼、深川楼、全盛楼、鶴川楼、蛇の目楼、稲川楼、旭楼の計7楼がありました。*1
郷土史家の杉山四朗さんが、現地を訪れ「遊廓があった場所はこのあたり…」と想像してみた場所。*2

現在は、緑町公園になっています。

六条二番と三番の境界の道路。写真の左側は緑町公園。

六条三番に隣接する深川神社(写真右側)がある通り。

【参考文献】
*1 田輝海:写真集明治大正昭和深川(国書刊行会,1980)P.95
*2 杉山四郎:族・語り継ぐ民衆史(北海道出版企画センター,1997)P.300-P.301

参考文献

参考記事

油津(東遊廓跡地)昭和のころは海ぎわにその家並み。

油津市街には、通りの名が書かれた看板があちらこちらに設置されています。
「花街通り」の看板には、付近に東遊廓があったことが説明されています。

東遊廓は、油津の東海岸にありました。昭和ヒトケタのころは、埋め立ててなかったので、海ぎわにその家並みがありました。海からながめると、向かって左から菊屋、大黒屋、丸山楼、布袋屋、石坂屋と立ちならんでいました。写真は、昭和6年発行の油津町商工会案内に掲載されている「海上ヨリ見タル東遊郭」から転載されたものと思われます。*1

花街通りの看板は、さらに奥へ続きます。

看板の矢印によるとこのあたりまでが花街通りだったようです。

【参考文献】
*1 日南市産業活性化協議会:油津(鉱脈社,1993)P.245-P.248

参考文献

参考記事

延岡(麦原新地)五ヶ瀬川の北岸。遊廓跡地。五ヶ瀬川沿い。

延岡の遊廓は、明治21年に設置が認可され、綿幸、宝来屋、麹屋が最初の妓楼でした。*1
場所は、五ヶ瀬川の北岸で、紺屋町から四・五町(一町は109m)の所にあって、麦原新地と呼ばれていました。*2
大正12年の「延岡市街地圖」*3 を見ると、紺屋町の通りをそのまま東側へ進み、日豊本線の線路を超えた線路脇のとろこに寺院があり、その寺院の東隣の五ヶ瀬川沿いに、「新地遊廓」の記載があります。

「延岡市街地圖」に記載されている線路脇の寺院が来迎寺(写真の右手前)だとすると、遊廓はこの寺院の奥にあったことになります。

寺院の奥の通り。

五ヶ瀬川からの遠望。

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂, 1929年)P.637-P.638
*2 宮本啓介,塩伝次郎:新撰大延岡案内(平和印刷所,1926)P.167-P.168
*3 延岡市街地圖(1923)延岡市立図書館所蔵

参考文献

参考記事

宮崎(吾妻新地遊廓跡地)石造りの塀と門。通用門上部の紋章。

宮崎の遊廓は、宮崎市吾妻町にありました。*1
昭和5年の古地図*2 には、大淀川に面したあたりに「吾妻新地遊廓」の記載があります。
現在は、道路南側(写真右側)にマンションが建ち並び、北側には観光ホテル(写真左側)があります。*3

「赤線跡を歩く2」*3 で、「妓楼か料亭の通用口だったのだろうか」と紹介されている石造りの塀と門。通用門の部分には、自販機がはめ込まれています。

通用門上部の紋章。

付近の電柱のプレートには、「新地支」と書かれています。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.160
*2 地図資料編纂会:昭和前期日本都市地図集成(柏書房,1987)P.120「宮崎市街地図」
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.78-P.79

参考文献

参考記事

三島(三島遊廓跡地)旧宿場の西南の清住町の地を買収して三島遊廓を設置。

江戸時代から300年の歴史を持つ三島町中通りの三島宿場女郎は、大正時代には、時代に減少傾向となりましたが、大正末期に各地に遊廓設置の機運が高まったことを機会に、三島遊廓の設立が検討され、町の風紀上最も影響の少ないと考えられる旧宿場の西南の地(現在の清住町)を買収して三島新地、すなわち三島遊廓を設置しました。*1

三島遊廓があったと思われる場所。
三島遊廓設置時点で、その貸座敷業組合員は、稲妻楼、尾張楼、万寿楼、井桁楼、新喜楼の五楼に減少し、戦時中にもかかわらず最後まで営業を続けたのが新喜楼経営の村岡氏でした。

電柱のプレートには、「新地」の名が確認できます。

旧三島遊廓の近くにある貯水池。

【参考文献】
*1 三島市誌編纂委員会:三島市誌 中巻(三島市,1959)P.433-P.434

参考文献

参考記事

徳島(南新地)秋田町遊廓跡地。タイルで装飾された旅館の建物。

今回は、徳島(徳島県徳島市)の町並みと風俗を散歩します。
徳島市の二軒屋町駅近くには秋田町遊廓がありました。昭和11年発行の市街図には、現在の秋田町6丁目付近に「遊廓」の文字が記されています。*1
秋田町遊廓は戦後は赤線に移行して、「南新地」と呼ばれるようになりました。*2
1953年の住宅地図*3 には、この付近に「南新地」の記述があります。

バス停近くにある飲み屋(スタンド初菊)跡*3。

タイルで装飾された旅館の建物。

古い住宅地図*3*4 には「さがのや旅館」と記載されています。

【参考文献】
*1 日下伊兵衛:徳島市街全圖(日下伊兵衛,1936)
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 徳島市・鳴門市(日本住宅地図出版株式会社, 1960)
*4 日本精密地図出版社:徳島精密市街地図(日本精密地図出版社,1953)

参考文献

参考記事

丸亀(新堀遊廓跡)旅館が建ち並ぶ通り。三吉旅館。

新堀遊廓跡*1 は、現在は旅館などが建ち並ぶ通りとなっています。

旧遊廓の西端にある三吉旅館。

港に通じる路地の左右に木造の建物が対峙しています。*1

「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているなまこ壁のある氷屋さんの建物は無くなって、駐車場になっていました。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.87

参考文献

参考記事

丸亀(新堀遊廓跡)タイルで装飾された建物。アーチ状のデザイン。

丸亀には、福島と新堀、二つの遊廓が湾を隔てて対峙していました。*1

新堀遊廓跡にタイルで装飾された建物が残されています。

鮮やかな青のタイル。

アーチ状のデザインの玄関。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.87

参考文献

参考記事

丸亀(福島遊廓跡)明治20年頃に設立。タイルで装飾された建物。

今回は、丸亀(香川県丸亀市)の町並みと風俗を散歩します。
福島遊廓は、明治20年頃に設立され、昭和初期には16軒の妓楼がありました。*1

道路に面して、鮮やかなタイルで装飾された建物があります。

玄関付近。

船がデザインされた窓。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.86

参考文献

参考記事

宿毛(遊廓跡地)松田川新地。自然災害と運命を共にした遊廓。

全国遊廓案内(昭和5年)によると、宿毛遊廓は、高知線須崎駅から宿毛まで汽船で行き、貸座敷の軒数は2軒と紹介されています。
昭和10年の「宿毛町明細圖」*1 には、一富士楼、新玉楼、万幡楼、昭和楼の四楼の屋号が記されており、宿毛の遊廓はこの時期に繁栄したようです。

その後、宿毛の遊廓は、自然災害と運命を共にすることになります。宿毛市史の災害の項目に「大正9年の台風によって、松田川新地(現大井田病院付近)の堤防が決壊し、百々鶴楼外四楼が瞬間に流失した」と、遊廓が消失したことが記されています。*2

遊廓があったと思われるあたり。

度々氾濫した松田川の堤防。

【参考文献】
*1 宿毛町商工会:宿毛町明細圖(東京交通社,1935)
*2 宿毛市史編纂委員会:宿毛市史(宿毛市教育委員会,1977)P.1186

参考文献

参考記事

高知(玉水新地跡)緑色のタイル。時の面影を残す旅館の建物。

玉水新地跡。

用水路の北側には、当時の面影を残す旅館の建物が、今も健在です。

鮮やかな緑色のタイル。

奥行のある大きな建物です。

参考文献

参考記事

高知(旧玉水新地の用水路)小さな橋がいくつもかかっています。

玉水新地は、明治から戦後にかけて高知市街の西のはずれにあった遊廓です。
用水路のを挟んだ南北の両側に妓楼が建ち並んでいました。

用水路には小さな橋がいくつもかかっています。

橋は、ひとつひとつが異なる形をしています。

橋の上からの眺め。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

高知(掛川町)青線があった地域

神田(湯女風呂跡地)井原西鶴が描いた勝山がいた場所。

江戸には、湯女を置いている風呂屋が200軒余あったといわれ、優れた湯女も出ました。代表的なのは、井原西鶴が「好色一代男」の中で描いた勝山でした。勝山がいた湯女風呂は、神田佐柄木町(現在の神田淡路町交差点の近く)にあった旗本堀丹後守の屋敷前にあり、男たちがここに集まり派手な風俗を競いあったので、その風俗を歌舞伎にうつして丹前風と呼ばれました。*1

佐柄木町周辺にあった湯女風呂は俗に「丹前風呂」と呼ばれました。*1
淡路町の町名由来看板に江戸時代の古地図が掲載されています。佐江木町は、淡路町交差点の南側にあったことが解ります。

淡路町の町名由来看板に、丹前風呂のことは書かれていませんでしたが、淡路町からは少し離れた美土代町(みとしろちょう)」の町名由来板に、丹前風呂のことが書かれています。

この付近に丹前風呂がありました。

【参考文献】
*1 神保五弥:浮世風呂(毎日新聞社,1977)P.20-P.25

参考文献

参考記事

直方(旧一心楼)往時の雰囲気が残っています。

二字町遊廓の跡地は、空地が目立ちますが、わずかに当時の木造建築が残っています。

旧一心楼と思われる建物。*1

往時の雰囲気が残っています。

南側は、緩い坂になっています。

【参考文献】
*1 直方市史編さん委員会:直方市史 下巻(直方市,1978)P.516

参考文献

参考記事

直方(二字町遊廓跡地)尾崎溜池の東側。八千代楼跡地。

二字町遊廓は、現在の尾崎溜池の東側にありました。

旧二字町遊廓全景。この通りが遊廓のメインの通りと思われ、右側手前から、松月楼、源開楼、敷島楼、大正楼、左側に、曙楼、新玉楼、三笑楼、喜鶴と妓楼が建ち並んでいました。*1

「赤線跡を歩く2」*2 に掲載されている写真と同じアングル。

八千代楼跡地。*1

【参考文献】
*1 直方市史編さん委員会:直方市史 下巻(直方市,1978)P.516
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.52-P.53

参考文献

参考記事

直方(大門)坂の途中にあります。二字町遊廓跡。急坂を登った山の上。

今回は、直方(福岡県直方市)の町並みと風俗を散歩します。
直方は古くからの交通の要衝で、炭鉱の町として、石炭列車を編成する貨物駅として、直方は筑豊の商業の中心で、直方の二字町(にじまち)には遊廓がありました。*1
直方駅の南。直方西小学校を過ぎ、「スーパーささき」のある交差点が遊廓があった場所への入口です。

遊廓は、急坂を登った山の上にありました。*1

みかげ石で造られた大門が坂の途中にあります。*1

上の2文字は「遊廓」と読めます。*1

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.52-P.53

参考文献

参考記事

田川(田川遊廓跡地)栄町。当時の面影はありません。

田川の女性街は、田川伊田駅と田川後藤寺駅を結ぶ通り沿いの栄町にありました。

五木寛之の「青春の門」では、主人公の信介の母タエは栄町のカフェで働いていたという設定です。

町の東のはずれにある古い建物。

女性街だったと思われる通りは、現在は住宅街となっていて当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.54-P.55

参考文献

参考記事

川口(新地跡)乙種料理店。現在は、商店街。

昭和15年の資料*1*2 によると、川口の乙種料理店(新地)は、幸町2丁目にありました。
現在は、商店街となっています。

乙種料理店の鶴亀があった場所。*2

同じく、乙種料理店の大坂屋があった場所*2 は、現在はスーパーになっています。

新地組合事務所があった場所*2 は、現在は公園になっています。

【参考文献】
*1 川口商工會議所:川口商工人名録 昭和15年版 (川口商工會議所,1940)P.135-P.137
*2 都市地図社:川口市住宅地図 幸町二丁目11.B(都市地図社,1940)

参考文献

参考記事

飛田(慰霊碑 と 慈母観音 )飛田遊廓発祥の地。慈悲共生。

「鯛よし百番」の斜向かいに、「慰霊碑」 と 「慈母観音 (無縁仏)」があります。碑には、「慈悲共生」と刻まれています。

慰霊碑・慈母観音は、いろいろな事情により飛田遊廓で働き、居住をしていた多くの男女 (遊女) の方々が様々な事情や世間の風評で、遊郭外に移住することもままならず亡くなられた霊が安らかなれと願い建てられたものです。(案内板より)

案内板には、「飛田(遊廓)新地料理組合の歴史」が書かれています。
明治45年の「南の大火」によって、難波新地が消失し、その後、原っぱ同然だった天王寺東松田西松田の一部に通称「飛田遊廓」が指定されました。戦中は大きな被害を受けましたが、戦後は赤線として復興しました。昭和33年「売春防止法」後は、料理組合として誕生しました。

「慰霊碑」の裏側は、飛田遊廓発祥の地の碑になっています。

参考文献

参考記事

烏丸(白梅図子遊廓跡地)本禅寺の北側。今出川から南二筋目を西へ行く道筋。

河原町通りの今出川から南二筋目を西へ行く道筋。この先には、京都御所があります。*1

現在は住宅街ですが、この御所に近い場所に白梅図子遊廓がありました。*1

通りの南側は、本禅寺です。

通りの中間あたりの本禅寺の北側の土地が新夷町、すなわち白梅図子遊廓の跡です。*1

【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.119-P.121

参考文献

参考記事

烏丸(二条柳町)豊臣秀吉の肝いりで作られた遊里。

今回は、烏丸(京都府京都市)の町並みと風俗を散歩します。
天正17年、柳馬場(やなぎのばんば)通りと二条通りとの道筋に、豊臣秀吉の肝いりで、「二条柳町」という遊里が作られました。遊里のまわりには、きれいな柳の並木が形成されていました。*1

路上の案内板にも、遊里のことが書かれています。

柳馬場通りと二条通りが交差するあたり。 現在は、遊里の面影はありません。

二条通り。

*1 小学館:ビジュアル・ワイド京都の大路小路(小学館,2003)P.35

参考文献

参考記事

佐世保(勝富遊廓跡)彫り物細工が施された窓。

勝富遊廓跡の北側の通り。

当時の風情を偲ぶことが出来る建物があります。

洋風の彫り物細工が施された窓。

現在は、アパートとして使われています。

参考文献

参考記事

佐世保(勝富遊廓跡地)遊客の多くは海軍の上級士官でした。

小佐世保川沿いの小佐世保、須佐、高天の三町に挟まれた三角地点に、かつて勝富遊廓(別名小佐世保遊廓)がありました。勝富遊廓の前身は、木風遊廓で、明治24年4月、勝富遊廓へ移転しました。全盛期には、部屋数が三十余もあるような豪壮な建物が建ち並んでいました。遊客の多くは海軍の上級士官でした。*1

勝富遊廓の中心部。この付近には、勝富遊廓の事務所や券番がありました。*2

「昭和十年代 佐世保市内地番図」*2 によると、通りに面して、高松楼、幸昇亭がありました。

勝富町は、傾斜地を造成し、半円状に形作られました。*3

【参考文献】
*1 池田和博:させぼの歴史を歩く(ライフ企画社,1996)P.177-P.179
*2 昭和十年代 佐世保市内地番図(佐世保市立図書館蔵)P.29
*3 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.74-P.75

参考文献

参考記事

呼子(呼子遊廓跡地)帆船の停泊地として名高かった呼子港。

今回は、呼子(佐賀県唐津市呼子町)の町並みと風俗を散歩します。
「呼子町史 ふるさと呼子」*1 には、呼子の遊廓跡の場所が図示されています。それによると、遊廓は、殿ノ浦の田嶋神社のある通りの北側、旅館街を含む海沿いの通りにありました。

藩政時代より明治期にかけて、帆船の停泊地として名高かった呼子港において、殿ノ浦は娼妓の町として、昭和30年代まで紅燈の灯が点り、その賑わいは有名でした。遊廓としての実態は、昭和33年4月の「売春禁止法」施行まで続きました。*1
現在も、古い町並みが残っています。

通りには、商店も建ち並んでいます。

1軒だけあるスナック。

【参考文献】
*1 呼子町史編さん委員会:呼子町史 ふるさと呼子 (唐津市,2005)P.50-P.51

参考文献

参考記事

唐津(西遊廓跡地)廊内。笹と鳥の透かし模様の入った石塀。

唐津には、満島の他にもう一つ、佐志に遊廓がありました。*1
古地図*2 に、「西遊廓」と記されている通りに、遊廓の面影はありません。

なだらかな坂道をしばらく行くと、石塀を持つ古い建物があります。*1

笹と鳥の透かし模様。*1

「廊内」と書かれた電柱番号札。(「廓」ではなく、「廊」です。)

【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331
*2 野田哲雄:新版唐津市街全図(野田哲雄,1931)

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

北千住(遊廓跡地の電柱標識)「廓」「廊」「くるわ」。

唐津(満島遊廓跡)唐津城が間近に見えます。

割烹旅館のある満島の通り。*1

当時の面影を残す建物です。

唐津城が間近に見えます。

唐津城から見た満島。写真、右下は舞鶴橋。左奥は、虹の松原。

【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.324-P.331

参考文献

参考記事

本庄(飯玉新地)昭和3年、本庄町の貸座敷が移転。

本庄市東台2丁目。居酒屋などの飲食店が数店舗あります。

この先の交差点を右折した一画は、かつて「新開地」と呼ばれた場所でした。

昭和3年秋、本庄町の貸座敷は、台町の新開地に移転しました。戦後は、アメリカ軍の本庄進駐に伴い、「慰安所」が設けられました。*1

新開地は、懸賞募集した「飯玉新地」と名付けられました。*1

【参考文献】
*1 本庄市史 P.176-P.187

参考文献

参考記事

本庄(遊廓跡地)本庄郵便局付近。貸座敷の杉山楼、関口楼、山幸楼。

今回は、本庄(埼玉県本庄市)の町並みと風俗を散歩します。
明治・大正時代、本庄は県北の養蚕地帯の中心都市でした。本庄では、蚕糸の海外輸出から糸ヘンに関するあらゆる業種と仲買、買継業者の数が多く、これらの商取引に付随して利用される料亭、貸座敷、芸妓置屋が多数存在したのもこの町の特徴でした。*1

現在の本庄郵便局があるあたりには、貸座敷の杉山楼、関口楼、山幸楼がありました。*1

山幸楼があったあたり(足利銀行近く)。

「埼玉県営業便覧」には、当時の繁華街の店列図(家並図)が記載されており、この店列図には、それぞれの商店の業種、屋号、店主名が銘記されています。山幸楼の店主は、橋本録郎と記されています。*1
「橋本」の名を配した鬼瓦。「山+文字」形式と思われる紋章の「Λ」の下に描かれているのは、「幸」の文字でしょうか。

【参考文献】
*1 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所,1902)

参考文献

参考記事

水俣(大園の塘)六ツ角交差点付近。夜に活気を見せるところでした。

水俣市街の旭町の繁華街を北上すると通称六ツ角と呼ばれる六差路の交差点にいきつきます。この場所には、昭和9年に河川改修の前までは(写真左奥の国道3号線方向から写真の後方にかけて)古賀川が流れていて、現在の六ツ角の場所には、永代橋が架かっていました。
永代橋は、江戸時代からの水俣の象徴的存在で、永代橋上流の左岸には、大園の塘(うぞんのとも)といわれた歓楽街がり、料亭や妓楼が建ち並んでいました。水俣では堤防のことを塘(とも)と呼びました。大園の塘、大廻り(うまわり)の塘、百閒の塘、古賀ん塘などです。永代橋から古賀観音堂付近までの道筋(写真の後方)を古賀ん塘と呼び、古賀ん塘に沿った辺には、料亭や芸者の検番などもあり、博聚園という少し洒落た2階建ての店がありました(現在のM’sCITY付近)。*1

大園の塘があった通りには、現在は、ビジネホテルや居酒屋が建ち並んでいます。
当時、大園の塘は永代橋を挟んだ古賀ん塘とは、対照的な賑わいをみせていました。すなわち、古賀ん塘が昼に活気を見せれば、大園の塘は夜に活気を見せるところでした。古賀ん塘は、鹿児島本線が開通するまでは、日本チッソ工場で生産されるカーバイドや肥料の積み出しが盛んでした。大園の塘はこれらの船員や地元商家の旦那方などで賑わいを見せました。

「聞書水俣民衆史 第三巻 村の崩壊」*2 の口絵写真に記載されている「もと女郎屋の建物を旅館に改造した旭屋旅館」は、ナイトクラブ「おあしす」の向かい側(ビジネスホテル「藤」の隣)にありました。*3

旅館「双葉荘」。

【参考文献】
*1 水俣市史編さん委員会:新水俣市史 民俗・人物編(水俣市,1997)P.1012-P.1018
*2 岡本達明,松崎次夫:聞書水俣民衆史 第3巻 村の崩壊 (草風館,1996)P.15
*3 ゼンリン:水俣市(ゼンリン,1984)P.65

参考文献

参考記事

伊万里(遊廓跡地)明治10年頃に隆昌を極め不夜城を現出。

相生橋を渡った御船屋(現在の船屋町)には、御船屋遊廓があって、明治10年頃に隆昌を極め不夜城を現出しました。写真の通りの両側に、一力、いろは、末永屋、三浦屋、丸国、松月(のちの七福)、花月、などの貸座敷が9軒建ち並び、娼妓30名、芸妓28名の規模でした。*1*2

かつての松月(のちの七福)と思われる建物(七福旅館)。

当時の面影が残る唯一の建物です。

奥行のある大きな建物です。

【参考文献】
*1 伊万里市郷土研究会:烏ん枕 第81号(2008,伊万里市郷土研究会)P.27,P.30 「伊万里町町並み復元図(三)」
*2 伊万里商工会:伊万里案内(伊万里商工会,1927)P.73,P105

参考文献

参考記事

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)絶好の見晴らし場所。

稲佐遊廓の中でも当時からその後も一番大きくて有名な所が、遊廓の中心の十字路の西北角に存在した吉田屋でした。*1

吉田屋支店があった場所には、旧アパート(稲佐荘)の建物があります。*2

タイルで装飾された玄関。

吉田屋は、別に吉田屋本店、吉田屋支店を持ち、その三楼(写真の道路の左側に建ち並んでいました。)からの眺望は、この界隈で一番高所であるため、長崎の街が北から南まで見える絶好の見晴らし場所でした。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 善隣出版社:長崎市(北部)・浦上・城山・西北・滑石・稲佐・立神・木鉢・神島・福田・式見(善隣出版社,1970)P.124

参考文献

参考記事

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地)ロシア海軍マタロス休息所から発展。

今回は、長崎稲佐(長崎市長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
稲佐は、幕末の「安政の五か国条約」による開国でロシア国の軍艦寄港地となり、いわゆるロシア村が形成されました。ロシア村には、ロシア水兵用休息所(マタロス休息所)があり、稲佐遊廓のはじまりとなりましたが、明治37年に日露戦争が勃発すると、ロシア軍の軍艦は一隻も来なくなりました。*1*2
その後、稲佐遊廓は、明治39年に許可となり、妓楼数14軒、娼妓115名の規模となりました。*3

東側のメインの通りの南隣の路地。

古いアパートの建物。

外国人墓地(写真右側)の境界の塀。路を隔てた反対側(写真左側)には、遊喜楼、湊楼がありました。*1

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

【参考文献】
*1 鶴田文史:五足の靴(長崎文献社,2006)P.32-P.36
*2 松竹秀雄:ながさき稲佐ロシア村(長崎文献社,2009)P.108,P.204
*3 博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.158 「全国遊廓案内」

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

長崎稲佐(稲佐遊廓跡地 北側の通り)現在は名残はありません。

篠山(洋風の妓楼跡)玄関まわりを洋風にしつらえた建物。

京口新地跡には、もう1軒当時のものと思われる建物があります。

玄関まわりを洋風にしつらえた古い建物です。*1

背後からみると、かなり大型の建物であることが解ります。

玄関の様子。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.58

参考文献

参考記事

篠山(大正楼跡)阿部定が在籍していた妓楼。

篠山の京口新地には、当時の妓楼と思われる建物が残っています。

阿部定事件の阿部定が在籍していた妓楼「大正楼」と思われる建物。*1*2
昭和2年、阿部定は自らの意志で芸妓から娼妓へ身を落とし、大坂の飛田遊廓へ流れ着きましたが、前借金が多くプライドの高い阿部定は店をいつくも鞍替えし、昭和5年に丹波篠山の大正楼へ移されました。*3*4
交差する道路に当たる一画をスパッと切り落として玄関にし、その道から来る客もキャッチしようという遊廓特有のつくりと考えられます。*5

玄関の家紋。

瓢箪の装飾が施されています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線奇譚(ミリオン出版,2010)P.59
*2 木村聡:実話ナックルズ(ミリオン出版,2010.7)P.64-P.65
*3 堀ノ内雅一:阿部定正伝(情報センター出版局,1998)P.71-P.75
*4 粟津潔,井伊多郎,穂坂久仁雄:阿部定(田畑書店,1976)P.243
*5 丸山友岐子:はじめての愛(かのう書房,1987)P.74

参考文献

参考記事

篠山(京口橋)歩兵連隊の設置に伴い遊廓設置。

今回は、篠山(兵庫県篠山市)の町並みと風俗を散歩します。
明治40年、篠山町付近に兵営が設置されることに伴い、その附帯施設として遊廓の設置が検討されました。遊廓の設置場所は、県警の「兵営より一里を隔離すること」を条件に物色の結果、篠山市糯ケ坪に決まりました。*1
大正5年の 「篠山町及附近之圖」*2 には、歩兵第七十連隊と京口新地が記されています。

戦後、遊廓は辛うじて残存していましたが、ついに亡び、代わりに町長のかけ声でヘルスセンターの「丹波篠山温泉」が建ちました。場所は、元遊廓の入口の田を埋め立ててつくられました。しかし、ヘルスセンターは、開業まもなく赤字つづきで閉鎖となりました。*3*4

京口橋を渡って、水路に沿って進むと遊廓ががあった一画にたどり着きます。

遊廓があった場所は水路に囲まれています。

【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)285-P.288
*2 西羅日出男:篠山案内記.3版(西羅日出男,1916)
*3 水上勉:日本の風景を歩く 丹波・丹後(2000,河出書房新社)P.32-P.37
*4 日本住宅地図出版:多紀郡篠山町・丹南町・今田町・西紀町(日本住宅地図出版,1980)P.12

参考文献

参考記事

新富町(新島原遊廓跡地)外国人のための遊廓。

今回は、新富町(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新富町の地名の由来は、明治維新後、この地に出来た新島原遊廓が3年後に廃止となった後、西側にあった大富町に対して名付けられました。*1

新島原遊廓は、明治維新後、築地の外国人居留地の中に作られた「外国人のための遊廓」で、3年ほどの短い命でした。「新島原」の名は、京都の島原遊廓に由来しています。*2

新富町にある東京都中央都税事務所は、芝居小屋の新富座があった場所です。新島原遊廓が引き払って、町名が新富町と改められた後も「新島原」の名は後年まで俗称として使われました。新富座の芝居は、島原の芝居と呼ばれ、島原へ行くと言えば新富座へ行くことでした。*3

新富座の全盛時には、五丁目に市川左団次、七丁目に尾上菊五郎、坂東彦三郎、中村芝翫(しかん)が住んでいました。*4

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(東京堂出版,2006)P.204-P.205
*2 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.189
*3 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*4 北村一夫:江戸東京地名辞典(講談社,2008)P.288-P.289

参考文献

参考記事

岩内(薄田遊廓跡地)大火の後に移転。道道840号線の薄田橋。

岩内市街を南北に通る道道840号線に、薄田橋という名の橋があります。ここは、かつて薄田遊廓があった場所です。
薄田遊廓は、明治 二十三年の岩内大火の後、市街に散在していた娼家が移転してできました。*1
昭和5年の「岩内市街図」*2 には、末廣楼、豊精楼、北辰楼などの妓楼名が記載されています。

交差点を東側に折れたあたりには、病院がありました。*2

このあたりには、当時全盛を誇った村上楼がありました。*3

逆方向(南側から)見た薄田遊廓跡地。

【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海出版,1984)
*2 岩内町郷土館:昭和5年 岩内市街図(復刻)
*3 岩内町郷土館:明治44年 岩内港明細地図(復刻)

参考文献

参考記事

岩内(青橋跡の石碑)明治時代の歓楽街。現在の御崎付近。

岩内の明治時代の繁華街は、青橋(現在の御崎付近)にありました。*1
「明治の中心街青橋」の石碑があります。

石碑の裏側(民家のブロック塀で見づらくなっていますが)には、「明治は岩内の鰊全盛時代で、その頃、青橋の通りは、商家、妓楼入り交って、殷賑を極めていましたが、明治二十三年の大火後、娼家は薄田遊廓に移転となったこと」などが書かれています。

北海信用金庫の玄関の左に、一本の古い柳の木が残っています。これは薄田橋から中央通りをずっと川が流れていて、川の片側にしだれ柳が並木になって植えられていたものの名残です。*1

現在の大橋家具店あたりに明治から昭和にかけて「金精楼」という料理屋がありました。*2
「金精楼」は、薄田遊廓のの妓楼「村上楼」とともに、岩内の全盛時代に花柳界で名声を謡われました料理店でした。*1*2

【参考文献】
*1 佐藤 十郎:余滴 復刻版(ぱとりあ岩内,2012)今昔場所案内,P.97-P.99,P.296
*2 岩内町郷土館展示物

参考文献

参考記事

稚内(遊廓跡地)常盤通り。明治時代、稚内は、新興の港町として発展。

今回は、稚内(北海道稚内市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、稚内は、新興の港町として栄え、商店や旅館が発展しました。遊里は、町はずれの常盤通り(現在の港四丁目、五丁目)に置かれ、福嶋楼、山本楼、北盛楼、堀江楼などが軒を並べました。*1

「稚内市街図」*2 によると、遊廓はこのあたりにありました。

「常盤」の名が残る電柱のプレート。

山本楼の古写真*1 の背景には山が描かれています。旧常磐通りの西側には同じような形の山があります。

【参考文献】
*1 稚内市百年史編さん委員会:稚内百年史(稚内市,1978)P.112-P.117
*2 渡邊紫郎:最新稚内市街圖(渡邊紫郎,1925)

参考文献

参考記事

今市(今市遊廓跡地)上今市駅の東方。新地通り。

遊廓のある新開地が朝日町にあって俗に新地と呼ばれていました。現在の東武鉄道上今市駅の東方にあたります。大正11年の「今市絵図」によると春日町今市営林署(現在の広域行政センター)の筋向かいから浄泉寺の下を経て北に延び新地に至る道が画かれているのが新地通りでした。*1
明治40年の「栃木県営業便覧」にも瀧尾神社の東側一本目の道路に「新地通り」の記述があります。*2

新地通りを進むと、東武鉄道の踏切です。

「今市絵図」*2 に、大正期の新地が描かれていますが、この絵図によると、堀に囲まれ新地の周囲は、田畑が広がっていました。

大正4年の国土地理院の地形図*3 には、堀に囲まれ建物が点在する一画が描かれています。

【参考文献】
*1 渡辺武雄:今市の懐旧(渡辺武雄,1991)P.106-P.108
*2 今市市歴史民俗資料館:今市の移り変わり(今市市歴史民俗資料館,1985)P.11-P.12,P.18-P.49
*3 大日本帝國陸地測量部:1/25,000地形図「今市」(大日本帝國陸地測量部,1915)

参考文献

参考記事

板橋(板橋遊廓跡地)中島楼、川越楼、武蔵楼。

板橋遊廓は、商店街の中に散在していました。現在、その面影を見ることはありません。
現在の板橋三丁目のりそな銀行の東隣あたりには、中島楼がありました。*1

当時のままの建物が残されている岡部医院(板橋三丁目)の対面あたりには、川越楼がありました。*1

王子新道に近いあたりには、武蔵楼がありました。*2

現在の靴屋の「きんぱや」の付近には、宿場一と言われた旅館「伊勢孫」がありました。*3

【参考文献】
*1 上村敏彦:花街・色街・艶な街(街と暮らし社,2008)P.40-P.43
*2 日本文芸社:荷風!Vol25(2010.7) P.48-P.53
*3 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.84-P.86

参考文献

参考記事

黒磯(黒磯遊廓跡地)新地仲通り。十字路のところに遊廓。

今回は、黒磯(栃木県那須塩原市)の町並みと風俗を散歩します。
黒磯遊廓は、現在の新地仲通りにありました。警察署(現在の黒磯駅前交差点)から北西方向に「新地通り」が伸び、その先の十字路のところに遊廓がありました。*1

十字路付近のみ道路の幅が広くなっている場所があります。

「黒磯町地位等級略図」*1 によると、遊廓があった交差点付近は人家の密集地帯であった四等地に区分され、「新地通り」周辺は、空地が多く人家が点在する五等地に区分されていました。

「新地」と書かれた電柱番号札。

【参考文献】
*1 黒磯市誌編さん委員会:黒磯市誌(黒磯市,1980)P.675-P.676 「黒磯町地位等級略図」

参考文献

参考記事

四日市(貸座敷跡地)北町。旧東海道の街道筋。

今回は、四日市(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。
現在の四日市北町は、旧東海道の街道筋であった場所で、遊廓街であり活気がありました。*1

当時からの商店の建物などが、往時の街道筋の雰囲気を伝えています。

貸座敷「いろは」があったあたり。向かい側(写真左手前)には、銭湯の桜湯がありました。*1*2

三滝橋から見た北町。

【参考文献】
*1 旧四日市を語る会:旧四日市を語る第17集(旧四日市を語る会,2006)P.83-P.90
*2 旧四日市を語る会 編. 旧四日市を語る第1集(旧四日市を語る会,1991)附図

参考文献

参考記事

一身田(遊廓跡地)旧大勢楼。現在の一身田大古曽。

橋向の旧遊廓地帯の南側(現在の一身田大古曽)。

この付近にも水茶屋だった建物がありました。*1 現在は、駐車場になっています。

この付近には、古い町並みが残っています。

地元の方の話によると、この付近には、旧遊廓の大勢楼があったそうです。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

参考文献

参考記事

一身田(一身田遊廓跡)水茶屋だった建物。伝統的な形態を保持している民家。

寺内町一身田には、伝統的な形態を保持している民家が割合多く存在しています。

こちらの建物は、明治の初め頃、水茶屋として建築されて営業していたものを明治25年にうなぎ屋に改造したもので、現在は住居として使われています。*1

こちらの建物も元水茶屋で、(写真の奥にもう1軒の小型の家があって、2軒合わせて1棟になっています。

古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 津市教育委員会:一身田寺内町 町並み調査報告書(津市教育委員会,1989)P.86-P.87,P.102-P.104

参考文献

参考記事

多治見(多治見遊廓跡地)西ヶ原治療院跡

今回は、多治見(岐阜県多治見市)の町並みを風俗を散歩します。
多治見に遊廓ができたのは、明治22年で、町の有力者が原野だった新田西ヶ原(現在の坂上町)に遊廓を開いたのが始まりで、5軒が開業しました。その後、明治33年、中央線が開通してから、もっと駅に近い町の中心部(現在の広小路町)に移転して西ヶ原遊廓と呼ぶようになりました。*1

西ヶ原遊廓の入口には石柱(石門)があって、現在の岐阜相互銀行多治見支店がある場所に芸妓の健康を管理する治療院がありました。23
石門は、西ヶ原通りの入口(西)と出口(東)に建っていて、娼妓さんたちは、その中だけ歩くことが許されていました。*1

このあたりに、石柱(石門)があったのだと思います。

治療院があった銀行の向かい側には、稲荷神社があります。遊廓関係者がお参りしていた稲荷神社かもしれません。
売春防止法施行の前年にあたる昭和32年に遊廓は廃止になりました。*4

【参考文献】
*1 岐阜県男女共同参画課女性史編集室:この道を生きて 岐阜県女性史聞き書き集 東濃・飛騨編(岐阜県男女共同参画課女性史編集室,2000)P.71-P.73 「西ヶ原遊廓について」
*2 郷土出版社:思い出のアルバム 多治見(郷土出版社,1984)P.144-P.145
*3 笠井美保:写真集明治大正昭和多治見(国書刊行会,1991)P.10
*4 安藤貞男:多治見・土岐・瑞浪の今昔(郷土出版社,2009)P.18-P.19

参考文献

参考記事

熊本(世安橋)ゆこか二本木戻ろか下宿ここが思案の思案橋。

熊本市街を流れる白川の旧二本木遊廓近くにかかる世案橋(またの名を思案橋と言います)は、色っぽい物語に富んだ橋です。

この橋は、大門から練りこんでは知ったものに出会うという懸念から、白川の渡し船から登楼する遊客が増え、この橋がかけられました。

世安橋は、二本木遊廓とは切っても切れぬゆかりの橋となりました。

「ゆこか二本木戻ろか下宿ここが思案の思案橋」という唄さえ出来ました。

【参考文献】
*1 豊福一喜:熊本夜話(九州新聞社出版部,1929)P.179-P.181

参考文献

参考記事

高砂(高砂遊廓跡地)次郎助町。高砂センター街の南側。

高砂遊廓は、明治の初年頃に私娼が変化して遊廓になったもので、貸座敷が5軒(初開楼、高砂楼、相生楼、松鶴楼、陽気楼)ありました。*1
大日本職業別明細図*2 に記載されている「相生楼」があったあたり。

高砂センター街の南側。
このあたりに高砂芸妓組合事務所がありました。*2

さらに南側には、高砂町料理組合事務所がありました。*2

高砂貸座敷業組合があったあたり。*2

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.128 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)兵庫県No.167 高砂町

参考文献

参考記事

忠海(忠海遊廓跡地)「川下」の名の残る電柱番号札。

忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)にあった貸座敷は、忠海港に隣接する海岸脇の川下(かわしも)地区へ移転しました。

元旅館の建物。裏側から見ると大きさが実感できます。

海寄りの長屋の建物。

「川下」の名の残る電柱番号札。

参考文献

参考記事

呉(朝日遊廓跡地)日清・日露戦争後に発展しました。

明治30年、市街地の北部に後の朝日遊廓に発展する貸座敷の免許地指定されました。朝日遊廓の初期の営業者数は、12軒でしたが、日清・日露戦争後の明治43年には58軒と、十数年で5倍近くに増加しました。*1
写真のこのあたりには、遊廓の表門がありました。*2*3

裏門があったあたり。*2*3

遊廓の中心部。現在は病院が建っています。

遊廓の西側の通り。*2*3

【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 呉市史編さん室:呉・戦災と復興(呉市,1997)付図「呉市街地復元図(昭和16年当時)」
*3 池田幸重:呉案内記(田島商店,1907)P.104

参考文献

参考記事

倉橋島(開廓記念碑)遊廓開設者の名前。明治四十年開廓。

音戸町遊廓の南端に、開廓記念碑があります。遊廓が開設されたことを記念した碑が建っているのは、珍しいケースと言えます。

台座には、遊廓開設者の名前が刻まれています。

明治四十年開廓と彫られています。

開廓記念碑は、遊廓のメインストリートを見つめるようにして建っています。

参考文献

参考記事

倉橋島(音戸町遊廓跡)瀬戸内の海と音戸大橋。

音戸町は、関西における六大港の一つだったため、遊女も昔からいましたが、音戸町遊廓ができたのでは、明治38年で、貸座敷8軒、娼妓85人の規模でした。*1
音戸町鰯浜の通りから、北側へ入ったところが遊廓への入口です。

遊廓があった通りの突当りには、芝居小屋の音戸座がありましたが、現在は跡形もありません。平成16年頃までは、写真右手前のあたりに名残のある古い民家がありましたが、現在は無くなっています。*2

逆方向から見たところ。

高台に登ると、瀬戸内の海と音戸大橋が見渡せます(写真右手前が音戸町遊廓)。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌(三一書房,1993)P.135-P.436 「全国遊廓案内」
*2 千田武志:呉・江田島今昔写真帖(郷土出版社,2004)P.64

参考文献

参考記事

糸崎(糸崎遊廓跡)古くからの良港。港の東側の松浜。

今回は、糸崎(広島県三原市)の町並みと風俗を散歩します。
糸崎は、JR山陽線の駅でいうと、新幹線が停車する三原駅の隣の駅です。駅から徒歩10分ほどの距離にある糸崎港は、古くからの良港で、港の東側の松浜には遊廓がありました。

海辺側からみた松浜遊廓跡。各遊廓は、L字型、ロの字型とさまざまな間取りがありましたが、1階は台所、炊事場、風呂などがあり、2階は娼芸妓(ベッピンさん)の部屋でした。*1

木江や御手洗と同様に糸崎にもチョロ(遊女が小船に乗って船員が寝泊まりする船に出稼ぎに行きましたが、その小船をチョロといいました。)がありました。*1

当時の雰囲気が残る古い建物が連なっています。

【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324

参考文献

参考記事