佐賀関(100年以前の屋号の建物)江戸時代の屋号が建ち並ぶ町並み。

今回は、佐賀関(さがのせき、大分県大分市)の町並みと風俗を散歩します。

現在の地図に重ねて、100年以前の屋号の建物の位置が赤枠で記されています。

佐賀関の中心街。

建物の前には、看板が設置されているので、解りやすいです。
写真の平野屋元呉服店で、現在は佐賀関郵便局です。郵便局の道を挟んだ反対側(現在の井口天真堂薬局のあたり)には、妓楼(遊廓)の「今利」がありました。*1
佐賀関では、遊廓のことをカッセキ(貸席)といい、昔は100人ぐらいの女性がそこで働いていました。その関係から、佐賀関には呉服屋さんが多くありました。*2

【参考文献】
*1 佐賀関郷土史研究会:佐賀関郷土史 2,3合併号(佐賀関郷土史研究会)P.2-P.8
*2 大分市教育委員会:佐賀関地区 大分市伝統文化調査報告書4(大分市教育委員会,2011)P.71

参考文献

参考記事

口之津(原城跡)島原遊廓の名前の由来。天草四郎時貞。

口之津から島鉄バスで約20分、原城前のバス停で下車。そこから原城跡までは徒歩約10分です。
原城は、島原の乱最後の舞台となった場所です。

京都の島原遊廓の名前の由来は、島原の乱というのが定説です。六条三筋町の遊郭が強制移転させられたとき、その命令があまりに唐突であったため業者は大混乱しました。その混乱の状況が島原の乱のようだったので、新遊廓を「島原」と称したというわけです。*1

原城跡の碑。

島原の乱の総大将となった天草四郎時貞の像。島原遊廓の命名のきっかけをつくった人物です。

【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.25

参考文献

参考記事

口之津(苧扱川)おこんご。木綿以前の代表的な繊維。おこぎばし。

口之津の南大泊に、「苧扱川(おこんご)」という奇妙な地名があります。かつて遊廓があった場所としても知られています。*1*2
「苧扱川」は、苧麻(ちょま、木綿以前の代表的な繊維で現在も栽培される)をしごいて(扱くは、粉をこぎ落すの意)繊維をとる仕事をした川であることから言いならわした地名と考えられています。*1

「旧口之津町字界」を見ると、この付近を「苧扱川」が流れ、「苧扱川」という字区画があったことがわかります。*1
写真の橋の左側がおこんご遊廓跡地*2 です。

「苧扱川(おこんご)」の下流へむかうと、「苧扱橋」がかかっています。

「おこぎばし」と発音するようです。

【参考文献】
*1 口之津史談会:口之津の歴史と風土(口之津史談会,2007)P.38-p.42,P.56-P.66
【参考記事】
*2 風俗散歩(口之津):おこんご遊廓跡地(2016.6)

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

津島(苧之座)苧麻の商人たちの町。

口之津(屋号をつけた商家の町並み)遊廓発祥地。多くは単に流行的な屋号。

口之津には、古くから屋号をつけた家が多く見られます。*1

多くは単に流行的な屋号とも推察されます。*1

遊廓発祥地の肥前屋(後に苧扱川にて遊廓)があったあたり。*1

同じく、遊廓発祥地の大坂屋があったあたり。*1

【参考文献】
*1 太玄興正:口之津港変遷史(昭和堂,2012)P.106,附図「口之津村御案内」

参考文献

参考記事

口之津(歴史民俗資料館)からゆきさんの展示。村岡伊平治。

口之津港近くにある「口之津歴史民俗資料館」。からゆきさんの展示コーナーがあります。からゆきさんは、口之津から始まったとされています。島原ではからゆきさんのことを語ることはタブーとされていますが、口之津だけは例外で、口之津歴史民俗資料館には「からゆきさんコーナー」があり、からゆきさんの遺品などが展示されています。

シンガポールの娼館跡や日本人墓地にあるからゆきさんのお墓など、からゆきさんのことが説明されています。

女衒(ぜげん)、村岡伊平治。村岡伊平治は、明治20年(1887年)、中国の上海へ渡った際、誘拐されて奥地に監禁されていた日本人女性55名を救出しました。これらの女性たちは、士族や商家出身の美人揃いで、年齢は14歳から19歳までした。皆、外国の生活にあこがれ、騙されて連れてこられ、支那人に処女を奪われたのでした。村岡伊平治の行動は、ここまでは良かったのですが、救出した女たちの処置に困り、香港、シンガポール、カルカッタなどの東南アジア各地に女郎として売り飛ばしてしまい、これに味をしめて、村岡伊平治は、女衒家業に乗り出すことになりました。*1
村岡伊平治は、前科者を使って誘拐団を組織し自分はその親分にすわりました。村岡伊平治が扱った女の数は、明治22から27年までの5年間、シンガポールで手がけた数だけでも3,222人にのぼりました。*2

からゆきさんが帰国に際して、着物など身の回りのものを入れてきたブリキ製のトランク。ローマ字と日本語で記名してあります。*3

【参考文献】
*1 河合譲:村岡伊平治自伝(南方社,1960)P.34-P.35
*2 日本残酷物語. 第1部(平凡社,1959)P.364
*3 口之津史談会:口之津の歴史と風土5号(2007)P.129

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口之津(口之津港ふ頭)石炭の積み出しで賑わっていた頃の口之津港の写真。

今回は、口之津(くちのつ、長崎県南島原市)の町並みと風俗を散歩します。
島原の南端にある口之津港は、天草の鬼池港とは島鉄フェリーで約30分で結ばれている玄関口です。明治時代、口之津港は、石炭の積み出し港として空前の賑わいを見せていました。

ふ頭の防潮壁に、石炭の積み出しで賑わっていた頃の口之津港の写真が掲載されています。

おこんご(苧扱川)遊廓の記載があります。「税関」があった場所には、現在は口之津資料館が建っています。

おこんご(遊廓)方面の遠望。

参考文献

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島原(湊新地のレンガ塀)表と裏の世界の結界。駐車場となっている一画。

湊新地は、明治3年に造成され、明治12年頃、それまで島原市内の南風泊や川尻に散在していた遊廓を移転させて遊廓街がつくられました。*1*2
その後、昭和32年に赤線廃止になるまで湊新地遊廓は存続し、昭和34年に島原外港ができるまでは、湊新地が島原の港としての中心的役割を担いました。*2

湊新地を歩いていると、レンガ塀があることに気づきます。

湊新地は港町と遊廓街という表と裏の世界が一つの島に共存していたことから、レンガ塀が表と裏の世界を分けていたと考えられています。*2

現在は、駐車場となっている一画。大きなレンガ塀が残されています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(島原):湊新地遊廓跡地(2010.1)
【参考文献】
*2 川野好美,他:日本建築学会大会学術講演梗概集(2010.9)「島原・湊新地の空間構造と遊廓建築」

参考文献

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神宮前(「鍵の手」の小路)神宮小路の北側。

神宮小路の北側。道幅の狭い小路があります。かつては呑み屋街だったようです。

逆方向から。

小路は中央部で「鍵の手」になっています。

居酒屋の看板があります。

参考文献

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神宮前(神宮小路)ひょうたんの絵柄。

神宮小路のメインストリート(神宮前商店街の東側の通り)。

壁面にひょうたんの絵柄がデザインされています。

北側から。

「二十歳未満お断り」のプレート。

参考文献

参考記事

神宮前(薬局の看板)神宮前商店街。産制相談。

今回は、神宮前(愛知県名古屋市熱田区)の風俗と町並みを散歩します。
神宮前商店街には、古くからの店舗が多く建ち並んでいます。

薬局の前の「精力剤」の看板。

店舗は閉店し、自販機コーナーになっていますが、「精力剤」「産制具(コンドーム)」と大きな文字で書かれた看板が残されています。

「精力剤」の看板の裏側は「産制相談」。
日本で初めての「産児制限相談所」は、愛児女性協会が昭和30年に芝公園に開設されました。その後、この時期にはさまざまな相談所が雨後の筍のようにでき、中には、人の弱みにつけ込んで利を積もうとする奸商(かんしょう)の類も少なくありませんでしたが、それは裏を返せば、商売としての避妊マーケットが成立しつつあったことの表れでした。*1

【参考文献】
*1 荻野美穂:「家族計画」への道(岩波書店,2008)P.49-P.51

参考文献

参考記事

大須(飲み屋街)長屋風の建物の奇抜な意匠。

かつての大須新地と思われる飲み屋街は、1階が店舗、2階が住居空間の長屋風の建物が連なっています。

タイルで装飾された店舗。

奇抜な意匠の店舗

古風な窓枠。

参考文献

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大須(戦後生まれた飲食街)旧墓地だった場所。

かつての北野新地近く。旧墓地だった場所に古い飲み屋街があります。

昭和38年の名古屋タイムズに、明王殿(大光院)の旧墓地跡に戦後生まれた飲食街「”新地”は戦後の新名所」と題し、次のような記事があります。*1
一杯飲み屋からバーなど約百軒がぎっしり並び、夜は不夜城となる。木造二階建の床がきしむような長屋を改造して階上を居間、階下が店となっており、ケバケバしい化粧をした女が客のそでをひく。「あそこは遊ばせる」という風評があるだけにそれ目あてにくる客もあるとか。

東側の一画。

呑み屋街の裏側(公園側)。

*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.48

参考文献

参考記事

大須(新天地通り)盛り場・大須の看板だった映画館街。

今回は、大須(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
大須の歴史は古く、大須の街を栄させたのは観音さまであり、遊廓でしたが、明治末期から大正、昭和と盛り場・大須の看板だったのは映画館でした。新天地通りは、映画館4館が建ち並ぶ映画館街で、北端の日活シネマ、続いて大須大映、名古屋劇場、万松寺日活と並んでいました。*1

現在は、電気街になっています。

映画館4館の中央にあった名古屋劇場は、昭和47年の焼失し、昭和52年、東京のアメ横、秋葉原の電気街の店を誘致して「ラジオセンター・アメ横共同ビル」をオープンさせ、のちの「大須電脳街」を形成しました。*1

駐車場から見た新天地通り。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:大須レトロ(樹林舎,2010)P.120,P.126

参考文献

参考記事

栄(むつみ小路)プリンセス大通りを南に入った左側。

プリンセス大通りを南に入った左側にあるむつみ小路。
むつみ小路は、栄小路は、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。*1

奥まったあたりの建物。

夜は、飲み屋街として賑わいます。

むつみ小路の看板。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

参考文献

参考記事

栄(栄小路)戦後の街づくりに貢献。

栄のプリンセス大通り(丸栄と明治屋栄ビルの間の通り)を南に入ったすぐ右側に栄小路があります。
南呉服町と住吉町を結ぶ東西約90mの小路で、当時は約16の飲食店が軒を連ねました。八幡屋、夜来香本店は、当時から営業していた飲食店です。*1

現在も残る八幡屋。

北側は、駐車場になってしまったので、現在は片側だけの小路です。

夜の栄小路。
栄小路は、むつみ小路、松竹小路(現在は消滅)とともに、戦後の街づくりに貢献しました。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.74-P.75

参考文献

参考記事

今池(スナック店)フラメンコダンサー。

スナック店などが建ち並ぶ今池の繁華街。

フラメンコをコンセプトにした店でしょうか。

2階部分のフラメンコダンサーの像。

横から見ると板状です。

参考文献

参考記事

今池(ニューヘルスビル)近くに「今池特浴」。

今池5丁目。「ウェルビー今池(写真右側)」の道路を挟んだ向かい側は、スナックなどが入るビルです。(写真左端は、「キャバレー花園」の看板)

ニューヘルスビル。

「ヘルスビル」と言えば、「道後ヘルスビル」*1 を思い出します。

古い市街図を見ると、この場所(「キャバレー花園」の隣)には、スーパー銭湯と思われる「ニューヘルスセンター」があり、これがビルの名称になったと考えられます。どうやら、風俗店の”ヘルス”とは無関係だったようです。
餃子の王将の隣(写真左上)には、「今池特浴」の名があります。こちらは、風俗店だったのでしょうか。

【参考記事】
*1 風俗散歩(道後温泉):道後ヘルスビル(2009.5)

参考文献

参考記事

今池(今池地下街)エンゼルマークの喫茶店。

今池交差点の北西側の角に位置する新今池ビルの地下に、「今池地下街」があります。
地下鉄今池駅の12出口の隣が地下街への北側の入口です。曲線を描いた通路を進みます。

現在は、商店のほとんどは閉店しています。

飲食店街の看板。

森永のエンゼルマークが残る喫茶店。

参考文献

参考記事

今池(今池交差点)今池ブロードウェイのオブジェ。

今回は、今池(愛知県名古屋市千種区)の町並みと風俗を散歩します。

今池交差点に、今池の歴史とが掲載された案内が設置されています。

昭和49年当時の写真。新今池ビルに、「今池劇場」と「今池地下劇場(成人映画館)」の看板が見えます。

交差点に設置された水着の女性のオブジェ。「今池ブロードウェイ」と書かれています。

参考文献

参考記事

筒井町~車道(車道大市場)大正時代から続く商店街。

筒井町の南側(地下鉄桜通線の車道駅の南側)に車道商店街があります。
車道市場は、大正時代から続く商店街です。*1

車道大市場。寿司店の「龍文(たつふみ)」は、現在も営業中です。

市場の建物の隣にレストランや料理屋の建物が建ち並んでいます。

建物の裏側は空地になっています。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.26-P.27

参考文献

参考記事

丸の内(長者町繊維街)看板が連なります。

長者町繊維街は、丸の内から錦までを南北に貫く長い通りです。大きな看板が連なります。

主人が先頭に立って働く”現金取引”、”薄利多売”の商法は、長者町を日本有数の問屋街へと発展させる原動力となり、大正末期から昭和にかけての繊維卸問屋街時代を迎えました。*1

現在も繊維問屋が建ち並びます。

洋服の専門問屋。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127

参考文献

参考記事

円頓寺(中央菓子卸市場)残念ながら取り壊し予定。

駄菓子屋街*1 の西側。高速道路の明道町JCTの近くに、中央菓子卸市場のレトロな建物が建っています。

残念ながら取り壊し予定だそうです。*2

反対側の入口。

大量の菓子が並べられています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(円頓寺):駄菓子屋街(2016.4)
【参考文献】
*2 谷充子:休みをとってでも行きたい問屋街さんぽ(G.B.,2016)P.126-127

参考文献

参考記事

円頓寺(菓子問屋街)「嫁入り菓子」をここで買えます。

円頓寺商店街の北側。西区新道は菓子王国名古屋を象徴する問屋街です。幕末には、駄菓子製造地として知られ、日露戦争後、小資本の家内工業として本格的に発展し、最盛期には、お店が500軒余ありました。*1

子供が小遣いで買える10円~の菓子が主流です。*2

駄菓子は、単価が安いので、冠婚葬祭はもとより、子供会や地区のイベントなど幅広いニーズで利されます。名古屋では「嫁入り菓子」を結婚式で配るそうですが、それをここで買えます。*2

石原さとみさんの「果汁グミ」のCMポスターが貼られた菓子問屋。

【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.144
*2 谷充子:休みをとってでも行きたい問屋街さんぽ(G.B.,2016)P.126-127

参考文献

参考記事

円頓寺(円頓寺銀座街)昭和の雰囲気が残る路地裏

円頓寺商店街の中央付近。スペイン食堂「BAR DUFI」脇を南へ入ったところに、「円頓寺銀座街」があります。

昭和の雰囲気が残る路地裏です。

現在は、営業していない店舗もあります。

バーのような店の入口。

参考文献

参考記事

堀田(エビス大黒市場)昔ながらの手作りコロッケ。

名鉄堀田駅の北側にあるエビス大黒市場。

肉屋さんの「昔ながらの手作りコロッケ」。コロッケとハムカツは40円。串カツとメンチは50円です。

肉屋さんですが、パン粉をつけた状態のコロッケも販売しています。注文してから揚げてくれます。

コロッケ、ハムカツ、メンチを1個ずつ注文。揚げたて3個が130円です。

参考文献

参考記事

堀田(松田橋)八丁畷にできた色街。

今回は、堀田(愛知県名古屋市瑞穂区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄名城線の堀田駅の150mほど南の松田橋の交差点の北西側の角に、八丁畷公園があります。

「八丁畷(はっちょうなわて)の由来と松田橋遺構」の案内板。

終戦後、「松田橋」という色街(私娼)ができました。*1
「八丁畷を語る集い」*2 の中で、古老が次のような思い出を語っています。「戦後になりますと、あそこに松田橋と言う名前を付けて遊廓ができて、名古屋の三つの可笑しな遊廓・・・・新栄町と熱田の羽城と松田橋が遊廓で名前が通った処なんです。その当時、遊廓を通ると蒲団がずらっと干してありました。ところが一歩向う側へ行ったら田圃ですわ。」

現在の松田橋交差点。頭上を名古屋高速が通ります。

【参考文献】
*1 瑞穂区制施行50周年記念事業実行委員会:瑞穂区誌(瑞穂区制施行50周年記念事業実行委員会, 1994)P.435
*2 瑞穂区郷土史跡研究会:美豆保第4号(1988)P.6「八丁畷を語る集い」

参考文献

参考記事

名駅(堀川の自然を守るガチョウ)天王崎橋付近。

今回は、名駅(愛知県名古屋市中村区)の町並みと風俗を散歩します。
名古屋市街を南方向へ流れる堀川は、生活排水が流れ込み、水質汚染が進んでいます。

天王崎橋のたもと。ラブホテル(ピンク色の建物)脇の敷地に、ガチョウが暮らしています。

ガチョウが暮らす小屋の上にはラブホテルの看板。小屋の脇には、水質浄化を訴える看板が設置されています。

同じ看板は、川沿いのフェンスにも掲げられています。「ガチョウも一生懸命この堀川で生きて行こうとしています。堀川の自然を守り続けているガチョウ達のためにも私達が立ち上がらなければならないのです。」

参考文献

参考記事

青梅(映画看板の街)原節子主演の「晩春」。

青梅・映画看板の街。町のあちこちに映画看板が飾られています。

原節子主演の「晩春」。原節子は、生涯独身を通し、「永遠の処女」と呼ばれました。

美容室に掲げられたオードリー・ヘプバーンの看板。

祇園囃子(ぎおんばやし)は、1953年に公開された祇園のお茶屋舞台の映画です。若尾文子が、舞妓を演じています。

参考文献

参考記事

青梅(根岸横丁)ビルを通り抜ける横丁。

「青梅中央ビル」※1 の1階部分は、横丁のようなトンネルになっています。

駅前の看板によると、この通路は、「根岸横丁」と呼ばれています。

横丁のそば屋さん。

横丁の反対側から。近くに根岸歯科医院があるので、根岸横丁と呼ばれるようになったのでしょうか。

富田(豊富川)暗渠から水路へ。善兵衛の橋。

豊富は、富田の町の中心部を流れる川です。
「善兵衛の橋」は、明治末期に橋のたもとに開業した川魚料理の「うなぎや善兵衛」にちなんで名付けられました。駅前の富田中央通りの下を暗渠となって流れていた豊富川は、「善兵衛の橋」から暗渠を出ます。*1

市街を流れる豊富川。

鳥出神社の正面の道へつながる「宮橋」。

豊富橋付近で、豊富川は直角に曲がります。
忘れ去られたように、豊富橋の標柱が片側だけ残っています。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.133,P.136-P.137

参考文献

参考記事

富田(東海道富田宿)女傑「おこと」の店。現在の寺村薬局の所。

今回は、富田(三重県四日市市)の町並みと風俗を散歩します。

嘉永年間(1848-53年)頃から、現在の近鉄富田駅前通りと旧東海道が交差する四つ角(現在のマルショウ化粧品)に居酒屋の「おことの店」がありました。おことは、天保8年(1837年)の生まれで、評判の美貌に加えて才知に富み、生来の義侠心強く、侠客肌の女としてその名を知られていました。おことは、「お琴さん」として浪曲「血煙荒神山(蛤屋の喧嘩)」のヒロインとなりました。*1

明治後期になってからは、「おことの店」は現在の寺村薬局の所に移りました。*1

おことが住んでいた頃は、裏通りで芸妓置屋からときおり三味線の音が聞こえていました。*1

【参考文献】
*1 生川益也:富田をさぐる 増補版(中日新聞生川新聞店,1985)P.141-P.145

参考文献

参考記事

瀬戸(宮前地下街)深川神社参道沿いの飲食街。

今回は、瀬戸(愛知県瀬戸市)の町並みと風俗を散歩します。
名鉄瀬戸線の終着駅の尾張瀬戸駅から東へ約500m。深川神社(写真左奥)の参道沿いに飲食街があります。

宮前地下街。地上にあるのですが、名前は「地下街」です。

繁盛店の焼きそば屋さん。

隣接する公園を地上とすれば、飲食街は地下街に位置します。

参考文献

参考記事

府中(競馬場前の呑み屋街)オケラ街道。ディープな昭和酒場。

東京競馬場の西門からJR府中本町駅へ向かう通り(オケラ街道)にある呑み屋街。

ディープな昭和酒場です。

競馬ファンご用達のお店。テレビの競馬中継も見ることができます。

焼き鳥とビールを注文。

参考文献

参考記事

府中(宮西国際通り商店街)1階に飲食店が入る共同ビル。

今回は、府中(東京都府中市)の町並みと風俗を散歩します。
京王線府中駅の南西側の歓楽街。「宮西国際通り商店街」と呼ばれています。

1階に飲食店が入る共同ビル。

1階のパブ。

建物脇のスナックの看板。

参考文献

参考記事

荒木町(車力門通り)荒木町三業地の入口。

今回は、荒木町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
車力門通りは、江戸時代、松平摂津守屋敷の裏門に通じる通路で、物資が荷車で運び込まれていたことから、名付けられました。明治になって荒木町三業地の入口になり、賑わった通りで、今でも飲食街になっています。*1

車力門通りは、新宿通り(下記地図の右側)から荒木公園(金丸稲荷神社付近)を経て、外苑東通り(地図の左側)へつながっています。

車力門通りの飲食街。

荒木町の中心部の荒木公園付近。

【参考文献】
*1 安本直弘:四谷散歩(みくに書房,1989)P.57-P.58

参考文献

参考記事

いわき(平和通り共同ビル)昭和の雰囲気。

いわき市街の田町の南側。平和通りにある商店街共同建築。

1階が商店。2階が住居部分です。

建物の半分はリニューアル(手前部分)されています。

裏側のトタン部分が昭和の雰囲気です。

参考文献

参考記事

二本松(若葉通り)ビル軒下。ビールメーカーの名。

二本松の歓楽街にある「若葉通り」。

若葉通りの看板には、「サントリー」「サッポロ」。

ビルの軒下の飲食街です。

反対側の看板には、「キリンビール」「ロバートブラウン」

参考文献

参考記事

富岡(スナック街)二町通り。派手な看板建築。

二町通りには、昭和の感じさせるスナック街があります。

派手な看板建築のスナック店。

鮮やかな青色です。

道路に面したスナック店。入口がトンネルのような形状になっています。

参考文献

参考記事

小坂(銀山町)小坂町の北側。小坂町の商業集落のはじまり。

今回は、小坂(秋田県鹿角郡小坂町)の町並みと風俗を散歩します。
小坂町は、JR奥羽線の大舘駅の東方(バスで約1時間)にあって、小坂鉱山で栄えた町です。
小坂町の商業集落のはじまりは、明治4,5年頃の銀山町(小坂町の北側)で、次いで尾樽部(小坂町の南側)でした。*1

現在の尾樽部の通り。

銀山町には、現在も精錬所が稼働しています。

字名の「銀山町」は、小坂鉱山が銀山として栄えたことを示しています。*2

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.37

参考文献

参考記事

能代(へいわ通り)西通町。軒下のスナック街。

西通町(旧出戸町本町)のスナック店。

スナック店の脇の「へいわ通り」。

軒下のスナック街。

「へいわ通り」を抜けるとスナック街の裏通りに出ます。

参考文献

参考記事

能代(出戸町本町)かつての歓楽街。割烹「宮茂登」が現存。

能代の西通町。*1
旧町名で出戸町本町というこの通りの両側には、料亭、食堂、カフェー、劇場などが建ち並ぶ歓楽街でした。*2

「能代港町明細案内図」*2 に記載されている割烹「宮茂登」が唯一、現存しています。

出戸町本町の南側の通り。

道の両側にスナックが建ち並んでいます。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*2 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図

参考文献

参考記事

能代(稲荷小路)かつての私娼の町。現在は、スナックが建ち並ぶ繁華街。

柳町に隣接する稲荷小路のはかつての私娼の町でした。*1

現在は、スナックが建ち並ぶ繁華街になっています。

古い商業ビル。

商業ビル脇の小路。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65

参考文献

参考記事

横手(馬口労町のスナック街)スナックや居酒屋が密集。

馬口労町の南西側に、スナックや居酒屋が密集する居酒屋あがあります。

横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*1 によると、この場所に料亭と思われる「花月」がありました。

通りはカーブを描きながら続きます。

脇道のスナック。

【参考文献】
*1 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖

参考文献

参考記事

横手(二ノ堰川に架かる橋)木製の欄干。二ノ堰川の痕跡。

今回は、横手(秋田県横手市)の町並みと風俗を散歩します。
馬口労町の近く。現在は暗渠となっている二ノ堰川に橋が残されています。「赤線跡を歩く 完結編」*1 に紹介されている「きみまち橋」から約200mほど下流の橋です。

橋の欄干部分は、木製です。

反対側(下流)は、二ノ堰川の痕跡が残されています。

写真奥に見える茶色の建物は、「横手市ふれあいセンターかまくら館」です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.71

参考文献

参考記事

角館(富士通名店街)モダンなデザインのスナック店。

角館の市街にある富士通名店街。

モダンなデザインのスナック店。

スナック貴江子。

長さは100mに満たない小規模な飲食街ですが、昭和の雰囲気が残っています。

参考文献

参考記事

阿仁(阿仁前田駅)森吉山自然公園のゲート。

秋田内陸線阿仁合駅から北へ3つ目の駅、阿仁前田駅で下車します。

駅前の商店街にある森吉山自然公園のゲート。

森吉山は阿仁マタギが活躍した山で、現在も日本有数の秘境に数えられます。その森吉山の北面にひっそりと隠れている「桃洞の滝」を目指します。

阿仁前田駅から車で約50分で、森吉山野生鳥獣センターへ到着。目指す「桃洞の滝」は、ここから徒歩で約1時間です。

参考文献

参考記事

阿仁(郷土文化保存伝承館)民俗芸能「阿仁からめ節」の展示。阿仁鉱山の碑。

今回は、阿仁(あに、秋田県北秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田内陸線阿仁合駅近くには、かつて、阿仁鉱山がありました。藩政時代に大規模に開発され、明治維新後は、従業員3000人の多きに達しましたが、その後は鉱量枯渇となり、昭和54年に閉山しました。

銀山下新町の郷土文化保存伝承館があります。

伝承館前に建てられている阿仁鉱山の碑。

伝承館には、鉱山関係資料や当時の風俗が展示されており、当時の民俗芸能の「阿仁からめ節(あにからめぶし) 」の展示もあります。
「阿仁からめ節」の歌詞のなかには江戸吉原の花魁であった高尾小紫(たかおこむらさき)の名がみえて、阿仁鉱山全盛時代ころの若い娘達が手拭いの頬被りと赤い紐のついた前掛け姿で働く様子が再現されています。*2

【参考文献】
*1 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.39-P.42
【参考URL】
*2 国際教養大学地域環境研究センター:秋田民俗芸能アーカイブス「阿仁からめ節

参考文献

参考記事

黒石(新興街)入口には、飲食運転追放の標語。

黒石市の保福寺の近く。

「新興街入口」の看板があります。

入口には、飲食運転追放の標語が掲げらいます。掲げられています。

「新興街」と言えば、青森の「第三新興街」*1 を思い出しますが、黒石の「新興街」も味わいのある通りです。

【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街

参考文献

参考記事

黒石(甲徳兵衛町の横丁)建物が覆いかぶさっていている呑みや屋横丁。

甲徳兵衛町の通りからは、横丁の建物がいくつか建ち並んでいます。

両側から建物が覆いかぶさっていている呑みや屋横丁。

建物は2階建てです。

建物の背面。

参考文献

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黒石(甲徳兵衛町)、居酒屋やスナックが密集する歓楽街。

黒石の歓楽街の甲徳兵衛町。規模は小さいですが、居酒屋やスナックが密集しています。

スナックの看板が乱立します。

夜になるとタクシーが行列を作ります。

艶やかなネオン街。

参考文献

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弘前(MEIJIYAゴールデン街)複雑に入り組むビル内の小路。

弘前の歓楽街の中心部にあるMEJIYAゴールデン街。

ビルの中の小路は、複雑に入り組み、階段があったり、独特の雰囲気です。

この通路から、明治屋グランドビル、ニュー明治屋センター、VIVID、さらに明治屋会館につながっています。

ニュー明治屋センター。飲食店や風俗店がびっしりです。;

参考文献

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弘前(弘前中央食品市場)一戸時計店の左側。

弘前市土手町の商店街にある一戸時計店(写真右側)は、「ひろさき懐かし地図」*1 にも記載されている趣のある建物です。

一戸時計店の左側に弘前中央食品市場の入口があります。

生鮮は惣菜などの食糧品が販売されています。

市場は奥まで続いています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(弘前):ひろさき懐かし地図

参考文献

参考記事

弘前(ひろさき懐かし地図)遊廓の妓楼名が記載されています。

今回は、弘前(青森県弘前市)の町並みと風俗を散歩します。

駅前の観光案内所で配布されている「ひろさき懐かし地図(マップ)」。昭和10年の弘前の街へタイムスリップすることができます。

昭和10年に発行された「弘前市案内圖」の復刻版です。現存する商店などの建物が色分けされて示されています。

北横町にあった遊廓の妓楼名が記載されています。

参考文献

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田名部(神社横丁)戦後の闇市があった場所。

田名部神社の西側に位置する神社横丁は、もともとは戦後の闇市があった場所で、昭和の時代は、数軒の魚屋を中心に、餅屋、古本屋、駄菓子屋、食堂などが軒を連ねていました。*1

呑みや横丁の雰囲気は十分です。

裏側の通り。

神社横丁の北側のスナック街。

【参考文献】
*1 まるごと青森:神社横丁はしご酒

参考文献

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田名部(国道沿いの横丁)「はまなす通り」「天きん通り飲食街」。

今回は、田名部(たなぶ、青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の南側(横迎町1丁目)の国道沿いに、「はまなす通り」「天きん通り飲食街」の横丁の建物が建ち並んでいます。

さらに西へ進むと、「ミナト通り遊飲街」。

横丁の裏側は、雰囲気のある路地でつながっています。

田名部神社の南側にある「田名部横丁」。

参考文献

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大湊(三善通り)カラフルなスナックの建物。

大湊新町のスナック街は、小松野川沿いから西側へ続いています。

「三善通り」のゲート。

カラフルなスナックの建物が建ち並ぶ歓楽街です。

反対側の「三善通り」のゲート。

参考文献

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大湊(小松野川近くのスナック街)三叉路付近。

今回は、大湊(青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
大湊の市街の中心部を小松野川が流れます。

小松野川と国道338号線が交差するあたりの三叉路付近には、スナックが密集しています。

西側の通り。スナック店の共同建築。

明治35年(1902年)に、海軍基地が設置されてから、今日に至るまで、軍隊(自衛隊)と歓楽街は、密接な関係を持っています。

参考文献

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七戸(スナック熱海)2階への階段を上ります。

スナック熱海の建物。1階には、別のスナックが3店舗ほど。

スナック熱海(2階)への入口。

階段を上るとスナック熱海です。

大型の店舗です。

参考文献

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七戸(ふれあい横丁)スナックが密集。入口のゲート。

七戸町の遊廓跡地の近くにある「ふれあい横丁」。

スナックが密集しています。

夜になると、ネオン看板が灯ります。

入口のゲート。

参考文献

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七戸(七戸町市街案内俯瞰図)七戸町観光交流センター。

今回は、七戸(青森県上北郡七戸町)の町並みと風俗を散歩します。
JR七戸十和田駅に併設の七戸町観光交流センターには、大正天皇が皇太子時代に同町を訪れた時に使われたとされる「高等官馬車」が展示されています。

他にも、当時の写真や市街の鳥瞰図が展示されています。

七戸町市街案内俯瞰図。大正8年当時の市街の様子が示されています。

町の東側のはずれに、「新地遊廓」の記載があります。

参考文献

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三戸(桐萩)名前の由来となった切通し。遊廓ができてからつけられた名前。

今回は、三戸(青森県三戸郡三戸町)の町並みを風俗を散歩します。
三戸の町並みについて述べる時、どうしても外すことのできないのは、紅灯の巷といわれた「桐萩」です。「桐萩」は、公娼の街として開かれ、昭和33年までは、女郎屋、飲食店などが多くあり、「不夜城」を思わせるものがありました。「桐萩」という名前は、遊廓ができてからつけられたものであるといわれています。「三戸城」築城時の永禄年間(1560年頃)に、今の「城山」を削り、梅内、泉山方面に通れるようにした切通しを「切接ぎ」と呼んだといわれています。*1
写真の左奥が城山。写真右側の道が「桐萩」への入口です。

三戸町通史(1979年)*2 に、「遊廓があった桐萩は、今は二、三の飲食店、食料品店があり、そのほか三戸印刷社があって他はほとんど住宅街となっている。」との記述があります。
城山(写真左奥)の急斜面が迫っています。

同じ頃の住宅地図*3 には、スナックゼン、やきとりたんぽぽ、スナックともこ、酒場しろやま、沖田商店、中村商店、三戸印刷社、などの記載がありますが、今は、三戸印刷社が現存する以外は住宅街になっています。

城山から桐萩を見下ろすと、かなりの急斜面であることを実感できます。

【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.383,P.385
*2 三戸町史編纂委員会:三戸町通史(三戸町,1979)
*3 日本住宅地図出版:三戸郡三戸町(日本住宅地図出版,1983)P.18

参考文献

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士別(寿センター)横丁風のビル。サッポロビールの大看板。

大通東7丁目にある寿センター。スナックや居酒屋が集積する横丁風のビルです。

サッポロビールの大看板。

昭和9年の市街図*1 によると、この付近は「壽町」と呼ばれていました。

夜の寿センター。

大正時代、士別にも遊廓の開業計画があり、その場所は寿町と予定されましたが、実現されませんでした。これは、隣接遊廓との距離制限があって、旭川遊廓から二十里(80キロ)以上はなれていなければならぬ、という規制があったためです。*2*3
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第385號
*2 士別市郷土研究会:士別よもやま話 続(1977,士別市郷土研究会)P.120
*3 泉真泉,荒川荊城:士別発達史(士別発達史編纂事務所,1914)P.127

参考文献

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士別(すずらん街)アーチ型の看板が連続。

士別市の歓楽街(東1条5丁目)。「すずらん街」と書かれたアーチ型の看板が連続しています。

スナックや居酒屋などのカラフルな建物が建ち並びます。

歓楽街を西側へ回り込んだあたり。

広告看板が連なっています。

参考文献

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士別(つくも横丁)三角屋根の横丁。た商業ビルにつながっています。

今回は、士別(北海道士別市)の町並みと風俗を散歩します。
JR北海道宗谷本線の士別駅を下車し、東側へ300mの大通西8丁目に三角屋根の横丁の建物があります。

つくも横丁。

「つくも横丁」は、国道40号線に面した商業ビル「サンシャイン8ビル」につながっています。

夜の「つくも横丁」。

参考文献

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焼尻(フェリーターミナル)待合室に角海老宝石の温度計。

今回は、焼尻(やぎしり、北海道苫前郡羽幌町焼尻)の町並みを散歩します。
焼尻島へは、羽幌港から「高速船さんらいなぁ2」で35分。焼尻フェーリーターミナルに到着します。

ターミナルは、待合室と管理事務所になっています。

管理事務所の柱には、温度計がかけられています。

温度計に、角海老宝石の名があります。角海老宝石は、ソープランド、ボクシングジムなどを経営する角海老グループの宝石店です。

参考文献

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羽幌(スナック街)スナックや居酒屋が密集する歓楽街。

旧遊廓街は、現在はスナックや居酒屋が密集する歓楽街になっています。

「リップ」という名のスナック。

脇道を入ったところにあるスナック。

夜の様子。

参考文献

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羽幌(居酒屋「ほろ」)赤線建築のような意匠。

旧遊廓街から脇道を入ったところにある居酒屋「ほろ」。赤線建築のような意匠です。

建物の後ろ側は木造建築です。

建物の脇のタイルの装飾。

隣の道路からの遠望。

参考文献

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羽幌(居酒屋の建物)南3条飲食街。.その筋の達に依り...。

南3条の羽幌川沿いの通り。旧遊廓街の1本北側の通りです。

飲み屋横丁の建物。

「その筋の達に依り...」

同じ通りの南東方向にある居酒屋「いこい」。印象的な看板建築です。

参考文献

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礼文(海鮮処「かふか」)礼文町全町明細図。かつての遊廓があった通り。

香深の市街には、名物の「ウニ」や「ホッケのちゃんちゃん焼き」が食べれる飲食店が軒を連ねます。

「海鮮処かふか」に、「礼文町全町明細図(昭和37年)」が掲示されていました。

かつての遊廓があった通りの西側(写真上部)は、この頃は住宅地になっています。

船泊港遊廓があったと思われるあたりは、この頃は、割烹料亭などが散在していたようです。

参考文献

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礼文(礼文町郷土資料館)礼文島明細地図。「新遊廓」と記載のある一画。

香深にある「礼文町郷土資料館」。

明細36年に制作された「礼文島明細地図」が展示されています。当時の人口は礼文村5028人、香深村4850人で、計9878人で、両村とも、鰊(にしん)と昆布が主産物でした。(案内板より)

久種湖の近くに、「新遊廓」と記載のある一画があります。遊廓内には、料理屋もあった模様です。

地図の裏面に記載されている実業人名。「新廓内」と記載のある料理屋もあります。

参考文献

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蒲田(スナック街)ウイスキーの瓶のような形状。

西蒲田7丁目の東京蒲田病院の南側に、小規模なスナック街があります。

昭和レトロな店舗が建ち並びます。

建物の角がR形状となっているアパート。

長屋風の建物のつなぎ目の部分の意匠。ウイスキーの瓶のような形状にデザインされています。

参考文献

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蒲田(さかさ横丁)カラフルな飲食ビル。大女優。

蒲田東口中央通りの先にある歓楽街。カラフルな飲食ビルが建ち並びます。

小規模ですが、スナックや居酒屋が密集しています。

さかさ横丁と呼ばれているようです。

「大女優」。映画の町らしい店名です。

参考文献

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福光(スナック店)モダンな色彩。旧遊廓街。

福光の旧遊廓街には、スナック店が散在しています。

遊廓建築と思われる建物の1階が改装されています。

モダンな色彩のスナックの建物。

スナック「花月」脇の通りからの景観。

参考文献

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輪島(朝市通り)炭火コーナー。さざえ1個150円。

輪島の朝市通り。

現在も昔から行われていたような形で”市”が開かれています。

炭火コーナーでは、その場で魚介類を焼いて食べることができます。

朝市でさざえを2つ(1個150円)購入。玄米餅はサービスです。

参考文献

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輪島(スナック店)かつての遊廓街。見事な看板建築。

かつての輪島町遊廓の一画には、スナックが点在しています。

和風の建物の前面がスナック向けに改装されています。

年代を感じさせる木造モルタルのスナック店。

見事な看板建築。見事な看板建築。

参考文献

参考記事

和倉温泉(有楽街)歓楽街の名残。湯の町センター。

温泉街には、かつての歓楽街の名残が見られます。

スナック街「湯の町センター」の建物。建物脇の路地を抜けて通りの反対側へ通じています。

有楽街。

飲食店のアーケードです。

参考文献

参考記事

八尾(おたや階段)坂の下には遊廓街。おたやの由来は御旅屋。

今回は、八尾(富山県富山市八尾町)の町並みと風俗を散歩します。
富山からJR高山本線で約30分。越中八尾駅で下車して鏡町を目指します。かつての遊廓があった鏡町は、八尾町西町の商店街から「おたや階段」と名付けられた石段を下った場所にあります。

坂の下の遊廓街跡。

「おたや」の由来は、現在の島崎美容室から数軒の一帯が「御旅屋(おたや)」と呼ばれる宿泊所であったことによるものです。*1

「おたや階段」の手前には、「おたや地蔵」(1枚目の写真の左奥)があり、御旅屋があった場所には、詩人の野口雨情のおわらの歌詞の石碑があります。坂の下には、遊廓街(鏡町遊廓)があって、旅先での人恋しさに雨情もこの坂を下り、月あかりを背に「おたや地蔵」に手を合わせたとされます。*1
おたや地蔵さんこの坂下は 今宵なつかしオワラ月あかり

【参考文献】
*1 鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会:鏡町のあゆみ(鏡町公民館建設委員会記念誌編集部会,2005)P.54

参考文献

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西浦(西浦温泉)坂を下ったところが、かつての歓楽街。

今回は、西浦(愛知県蒲郡市西浦町)の町並みと風俗を散歩します。
蒲郡温泉郷(三河湾温泉郷)と呼ばれる三谷、西浦、形原、衣浦、吉良の温泉の中で、西浦は、旅館の軒数の多さで際立っています。*1

バスターミナルから、坂を下って行ったところが、かつての歓楽街です。

全盛期の西浦温泉には、検番があって、置屋が30軒、芸者衆は70人くらいいました。*1

丘の上まで旅館で埋め尽くされている風景は、壮観です。

【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.210,P.220

参考文献

参考記事

大森(山王小路飲食店街)大森駅前。入口の階段。

JR大森駅西口を出て、すぐに北へ曲がると「山王小路飲食店街」へ下る階段の入口があります。

「山王小路飲食店街」のゲート。

幅の狭い路地に、居酒屋がスナックが建ち並びます。

飲食店街の奥まったところ。

参考文献

参考記事

佐久(好楽センター)L字型の通路。岩村田駅近くのスナック街。

岩村田駅近くの平屋建ての建物。

「好楽センター」と名付けられたスナック街です。

L字型の通路の両側に、スナックが並んでいます。

反対側の入口。

参考文献

参考記事

佐久(スナック店)レモンジース、ビール、おにぎり。

岩村田市街の北側にスナックが連なる一画がありあります。

和風の民家。

店の入口は、水色を基調としたデザインです。

ハイボール、レモンジース、ビール、おにぎり。

参考文献

参考記事

小倉(京町飲食街跡)現在は駐車場。当時の面影が残るスナック。

かつての京町飲食街への入口。

以前の飲食街は、駐車場に変わっていました。

当時の面影を残す「新京町料飲協同組合」の貼り紙。

唯一、スナック「都」の周辺に、当時の面影が残っていました。

参考文献

参考記事

小倉(旦過飲食街)2階建ての建物が向き合った狭い路地。

旦過飲食街は、2階建ての建物が向き合った狭い路地です。

入口を逆側から見たところ。

反対側の出口。

映画館の「昭和館」と旦過飲食街は、密接な関係があるようです。

参考文献

参考記事

小倉(飲食街入口)旦過市場付近。鍵の手に曲がった路地。

今回は、小倉(北九州市小倉北区)の町並みと風俗を散歩します。
小倉北区の旦過市場付近にある映画館の昭和館があります。「昭和館1」「昭和館2」の2館からなっています。

昭和館の近くに、旦過市場入口があります。塀に、見取り図が描かれています。稲荷神社脇の入口から入ると飲食店街があって、その向こう側が、旦過市場です。

新旦過街の入口の稲荷神社。

鍵の手に曲がった路地を進むと、新旦過街です。

参考文献

参考記事

大村(スナック店)繁華街の洋風モダン建築。看板建築。

大村の繁華街。和風スナックや居酒屋などが建ち並びます。

看板建築のスナック店。

洋風のモダンな建築、

「ナルト」という店だったようです。

参考文献

参考記事

嬉野(スナック「マンダム」)野畠通り。男性化粧品のロゴマーク。

嬉野温泉の野畠通り。

スナックや喫茶店などが「マンダム」。

スナック「マンダム」。店名に男性化粧品の名が使われているのは、めずらしいです。

チャールズ・ブロンソンがCMをやっていた頃(1970年)のロゴマークが使用されています。丹頂は、このCMのヒットのおかげで、社名まで「マンダム」に変更してしまいました。*1

参考文献

*1
世相風俗観察会現代世相風俗史年表1945→2008河出書房新社2009
1970年 フィーリング時代のCM(2)

三船敏郎がタンカーの上でビールを飲むだけという<男はだまって>サッポロビー…

参考記事

この記事を参照している記事

下仁田(布屋化粧品店)中央通りの四つ角。マンダムの看板。「布屋」の文字。
松戸(マンダムの看板)松ノ木通り近くの薬局。

武雄(ぼんぼり)像の顔のスナック。理容室。花屋。

武雄温泉の商店街にあるスナック「ぼんぼり」。

像の顔のような店舗デザイン。

鼻の部分に取り付けられた電球。

建物は3世帯住宅のようになっています。一番左がスナック「ぼんぼり」、真ん中が理容室のような店舗、右側は花屋さんです。

参考文献

参考記事

武雄(武雄遊廓跡)旅館「花月」。正法寺へ向かう道の角。

「全国遊廓案内」*1 によると、武雄町温泉遊廓は武雄温泉場にあって、貸座敷は、花月、一楽、第三国明楼、第四国明楼、第四国明楼、小桜楼、改盛楼、文明楼などがありました。

昭和3年の市街図*2 によると、貸座敷「花月」は、正法寺へ向かう道の角にあって、現在、同じ場所には、旅館「花月」があります。

道の角に沿って、旅館「花月」の建物が長く連なっています。

裏側から見た旅館「花月」。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌.14(三一書房,1993)P.154-P.155 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)佐賀県

参考文献

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この記事を参照している記事

武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡

花巻(スナック街)アパートの1階部分がスナック。

花巻の双葉町を中心にスナックや居酒屋が散在しています。

この建物はアパートですが、建物の1階部分がスナックになっています。

「こいこい通り」と名付けられた飲み屋街。

建物の2階部分は居住スペース。1階はスナック街です。

参考文献

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花巻(豊沢町)「裏町」の記述。宮沢賢治の実家跡。

今回は、花巻(岩手県花巻市)の町並みと風俗を散歩します。
豊沢町(旧花巻川口町)は、明治から大正の初期にかけての花巻の商店街の中心で、その次の上町、それから鍛冶町の順でした。かつての豊沢町は、朝早くから活気のある町で、そして、夜は花巻一の歓楽街である裏町への通り道として遅くまで賑わいました。
豊沢町に、宮沢賢治の実家跡があります(写真左奥)。

宮沢賢治と豊沢町のことを説明した案内板。

「大正10年頃の豊沢町絵図」。*1
豊沢町の東側に「裏町」の記述があります。

豊沢町の案内板。花巻史談12号の「豊沢町今昔」*1 からの抜粋と思われます。

【参考文献】
*1 永田圭一:花巻史談(第12号,1987)P.31-P.35 「豊沢町今昔」

参考文献

参考記事

盛岡(平興酒店)かくうち。コップ酒やってます。

盛岡市紺屋町にある「平興酒店」。店の中にテーブルが見えます。

「コップ酒やってます。」の貼り紙。いわゆる「かくうち」です。道路を挟んだ向かい側には、酒蔵の「菊の司」があって、ここでは、菊の司が飲めるようです。

酒屋の店内。菊の司をはじめ、いろいろなお酒があって、「菊の司辛口」210円、「にごり酒」220円、など10種類から選べます。おつまみは、豆腐、おでん、味噌でんがく、せんべい、チーズ、ソーセージ、缶詰類から選べます。お酒以外は持ち込み可だそうです。

「菊の司辛口」を注文。

参考文献

参考記事

盛岡(盛岡バスセンター)市街の中心部。中華そば550円。

市街の中心部にある盛岡バスセンター。

昭和レトロなビルディングです。

営業している店舗が少ない中、ラーメン屋だけが営業中です。

中華そば(550円)を注文。

参考文献

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盛岡(桜山神社前商店街)「じゃじゃ麺」の元祖。

桜山神社の門前の桜山神社前商店街(東大通商店街)は、戦後、大陸から引き揚げてきた人たちが、この境内にバラックを建てて住みつき、生計を立てるために店を出したのが始まりと言われ、一時は闇市として賑わいました。*1*2*3

開町当時は、160区画で始まり、盛岡厚生市場協同組合というのを作って団結しました。*1
昭和44年、お城側に並んでいた30数軒の桟橋店舗はすべて移動し、歩道から亀ヶ池やお城の石垣が眺められるようになりました。*2

盛岡の三大麺(わんこそば、盛岡冷麺、盛岡じゃじゃ麺)の一つである「じゃじゃ麺」の元祖の店「白龍(ばいろん、写真右)」は、桜山商店街にあります。*3

建物と建物の間の風景。

【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語9 内丸・大通かいわい(熊谷印刷出版部,1979)P.60-P.64
*2 真山重博:もりおか歴史散歩(東北堂,2009)P.195-P.196
*3 松田十刻:めん都もりおか(もりおか暮らし物語読本刊行委員会,2010)P.116-P.117

参考文献

参考記事

大沢温泉(自炊部)懐かしい雰囲気の売店。年代を感じさせる廊下。

今回は、大沢温泉(岩手県花巻市)の町並みを風俗を散歩します。
JR花巻駅からバスに乗って約30分。大沢温泉に到着します。温泉地の名前そのものが旅館の名前になっている大沢旅館。

玄関を入ったすぐ左側に、懐かしい雰囲気の売店があります。

年代を感じさせる廊下。

古い道具たちに囲まれた帳場待合。売店で買ったものであれば持ち込みOK。お風呂につかった後にのんびり休憩できます。

参考文献

参考記事

佐倉(闇市の展示)小麦粉の代わりに、穀物やところてん。

戦後の闇市の展示コーナー。

「代用うどん」の貼り紙が見えます。

「代用うどん」の説明。小麦粉の代わりに、穀物やところてんなどが使われていました。闇市では、このような代用品が数多く出回りました。

三味線。うどんが3本のみです。

参考文献

参考記事

佐倉(千葉県桜町鳥瞰)若葉楼。明治時代の古い町並み。若葉楼の名。

佐倉市街の成田街道沿いは、明治時代の古い町並みが保存されています。

明治時代の呉服屋の旧駿河屋。建物内部が公開されています。

「千葉県佐倉町鳥瞰」が展示されています。

弥勒新地付近。遊廓の若葉楼の名が確認できます。

参考文献

参考記事

深谷(ファッション店)ドレスを着たマネキン。深谷駅前。

深谷駅前にあるレディースファッション店。

バニーガールの写真。

建物の北側の側面には、ドレスを着たマネキンが陳列されています。

同じビルに入居しているのでしょうか。ランジェリーパブの看板がありました。

参考文献

参考記事

深谷(見返りの松の碑)遊女との別れを惜しんだ旅人。

「見返りの松」は国道17号(写真右側)と旧中山道(写真左側)の交差点(深谷市原郷)に現存しています。江戸時代、深谷宿では「飯盛り女」と呼ばれる遊女が置かれ、宿場のはずれにあるこの松のから宿場の方を振り返り、前の晩の遊女との別れを惜しんだ旅人も多かったことから、「見返りの松」と呼ばれたようです。*1

「見返りの松」の石碑。

石碑の裏側には、青楼華やかな頃の様子が書かれています。

江戸時代、深谷宿のはずれに、松、杉あわせて400本があり、並木道となっていました。

【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22

参考文献

参考記事

国分町(東一市場)入口に赤色のゲート。居酒屋などの飲食店。

国分町の勾当台公園駅近くにある東一市場。入口には、赤色のゲートがあります。

居酒屋などの飲食店が軒をつらねます。

夜の様子。

東一市場の反対側(西側)は商店街になっています。

参考文献

参考記事

福島(駅前の共同ビル)1階に商店や飲食店。2階と3階は居住スペース。

福島駅前の大通りの「商店街共同建築」。

1階には、商店や飲食店などが入居しています。2階と3階は居住スペースです。

ビルの中ほどにある階段。

逆側から見たところ。写真右奥は、JR福島駅です。

参考文献

参考記事