本牧(本牧十二天緑地)戦後は米軍が接収。

今回は、本牧(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。本牧十二天緑地は、横浜開港以来、外国人が訪れるようになった風光明媚な浜辺です。現在、その場所は公園になっていて、案内板が建っています。

戦後は、米軍に接収され、十二天山の上部には、給水タンクが設置されました。

案内板に掲示されていた「横浜全図(明治3年)」。
横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本牧の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。*2

十二天山の遠望。
本牧の海は、かつては十二天の海とも呼ばれ、外国人居留民は、この海で海水浴を楽しみました。それが次第に日本人の間にも伝わり、海辺には、茶店や脱衣場が開かれるようになりました。やがては酒と女が入り込むようになり、〇〇屋、△△楼と呼ばれていた屋号が、〇〇ホテル、△△ハウスと洋風に改められ、風俗営業へと移行し、明治の中頃に「チャブ屋」と呼ばれるようになりました。*2

【参考文献】
*2 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)

参考文献

*1
横浜市本牧十二天緑地 案内板横浜市
黒船来航と横浜開港2015

嘉永六(1853)年の黒船の来航と、それに続く安政六(1859)年の横浜開港は、…

参考記事

和田町(横浜温泉黄金湯)天然化石海水型。

和田町駅の西側の仏向町にある横浜温泉黄金湯。

「天然化石海水型」と看板に書かれています。

落ち着いた感じの脱衣場。

風呂釜。

参考文献

参考記事

磯子(久木町の理容店)鮮やかな水色の看板。

磯子区久木町の住宅街。


レトロな理容室。


鮮やかな水色の看板に、サインポールが映えます。


店の前に置かれている鉢植えも水色に統一されています。

参考文献

参考記事

平塚(よねの湯)特殊な形状の煙突。

平塚市立野町にある銭湯のよねの湯


郊外の住宅地の中にある銭湯です。


水色の暖簾をくぐると、男湯と女湯で左右に分かれています。


煙突。上部が火の見櫓のような特殊な形状をしています。

参考文献

参考記事

平塚(寿司店)旧平塚遊廓近く。40年前から営業。

旧平塚遊廓の南側。

寿司店。

40年前から営業している店です。

ちらし寿司とビールを注文。

参考文献

参考記事

久慈(寿湯)男湯と女湯の間に螺旋階段のある珍しい建物。

久慈の歓楽街の北側(久慈市巽町1丁目)にある銭湯の寿湯。

建物の中央部分(男湯と女湯の間)に螺旋階段のある珍しい建物です。

入口部分のタイルの装飾。

裏側から見た銭湯の外観。大きな建物です。

参考文献

参考記事

久慈(喫茶「モカ」)喫茶兼スナックの「リアス」のモデル。

久慈駅近くにある「喫茶モカ」。 連続テレビ小説「あまちゃん」に登場する喫茶兼スナックの「リアス」のモデルとなったとされる喫茶店です。*1*2

店内には、あまちゃんの出演者のサイン色紙などが多数あります。

名物のナポリンタンを頂きました。

もう一つの名物のたまごサンドをテイクアウト(JR八戸線の車内にて)。

【参考文献】
*1 おとなの週末 11巻 12号 通巻134号 (2013年12月)P.74-P.75
*2 岩手日報(2016.9.15)

参考文献

参考記事

瀬棚(立象山公園 )展望台からの眺める市街。

今回は、瀬棚(北海道久遠郡せたな町)の町並みと風俗を散歩します。
瀬棚市街から見える立象山。特徴的な形をしています。

立象山の頂上部分は、公園になっていて、展望台からは市街を一望できます。

写真中央奥に見える直線道路の場所には瀬棚遊廓がありました。*1

瀬棚遊廓があった通り。

【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海ブックス,1983)P.25

参考文献

参考記事

室蘭(老舗そば屋)裏浜町。昭和の初期から続く老舗です。

裏浜町の通り。

そば屋の「更科」。昭和の初期から続く老舗です。

落ち着いた雰囲気の店内。

天ぷらそばと日本酒を注文。

参考文献

参考記事

苫小牧(松乃湯)苫小牧橋の袂にある銭湯。

浜町の苫小牧橋の袂にある銭湯の松の湯。

苫小牧で現在も残る数少ない銭湯のうちの1軒です。

北海道らしい佇まいです。

夜の様子。

参考文献

参考記事

磐田(中泉歴史公園)門柱に使用されていた石柱は、現在は公園のベンチ。

磐田市田町にある中泉歴史公園は、中泉の郷士(江戸時代の武士階級)であった秋鹿(あいか)家の庭園だった場所で、公園内には、扇子池があります。*1

公園に設置されている案内看板。

中泉には、明治30年に遊廓が設置され、昭和の初期の貸座敷には、常盤楼、新常盤楼、三浦楼、森徹栄、などがありました。*2
1969年の住宅地図*3 には、現在の中泉歴史公園の北側に、森幸一、第一常盤楼、第二常盤楼、三浦楼、第三常盤楼の名があります。
このうちの1軒であったと思われる建物の入口の門柱の写真が掲示されています。

門柱に使用されていた石柱は、現在は公園のベンチとして使用されています。

【参考文献】
*1 磐田史談会:磐田ものがたり(谷島屋書店,1988)P.34-P.35
*2 日本遊覧社:全国遊廓案内(日本遊覧社,1930)P.219(0115)
*3 善隣出版社:磐田市住宅地図(善隣出版社,1969)

参考文献

参考記事

浜松(夏目食堂)地元の餃子屋さん。客席は2卓。

遠州鉄道の助信駅の東側。中区新津町ある「夏目食堂」。地元の浜松餃子の店です。

老夫婦が2人でやっている小さな店です。客席は2卓しかありません。そのうちの1卓はほぼ荷物で覆われているため、実質は1卓です。

焼き餃子は、1人前300円。持ち帰り餃子(冷凍餃子)は200円です。

焼き餃子とビールを注文。ビールは缶ビールです。

参考文献

参考記事

新居(飲み処かちどき)ボートレース浜名湖。

新居駅北川にある「ボートレース浜名湖」。

入口へ向かう途中に飲み喰い処「かちどき」があります。

店の名物の「かちどき」は、常連さんのほとんどが頼みます。今回はトマト杯でいただきました。

アルコール度数20度。360ml。強烈です。

参考文献

参考記事

大鰐(若松会館)公衆浴場。橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所。

大鰐温泉の入口にあたる相生橋。

橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。

1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。

大人入浴200円です。

参考文献

参考記事

木造(佐野商店)ニッポンビールの琺瑯看板。

木造桜川の商店。

歴史を感じさせる大きな木造建築です。

玄関脇のたばこ屋。

酒類の琺瑯看板。
「ニッポンビール」は、「サッポロビール」の前身です。

【参考URL】
*1 サッポロビール(株):公式ホームページ 歴史・沿革

参考文献

参考記事

木造(音屋食堂)趣のある木造母屋。丸い電灯。

木造有楽町に残る音屋食堂の建物。

入口の丸い電灯。

趣のある木造母屋です。

音屋食堂の看板。

参考文献

参考記事

木造(神武食堂)駅前の店。人気メニューの担々麺。

今回は、木造(青森県つがる市)の町並みと風俗を散歩します。木造駅の駅舎の外壁には、遮光器土偶が貼り付けてあります。

駅前にある神武食堂。

森沢明夫氏の著書「津軽百年食堂」にも取り上げられた食堂で、煮干し風味の中華そばなどが人気を博しています。*1

人気メニューの担々麺を注文。ボリュームのある挽き肉が特徴です。

【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.111

参考文献

参考記事

焼津(アパートの建物)弁天地区。銀水楼の隣のアパート。松㐂寮。

焼津弁天地区。銀水楼の隣のアパート。

カラフルな玄関です。

隣の旅館風の建物。

松㐂寮。

参考文献

参考記事

焼津(銀水楼)屋号が残っています。タイルの円柱。

弁天地区の旧赤線区域の一本西側の通り。

旅館と思われる建物が残っています。

タイルの円柱。

銀水楼の屋号。

参考文献

参考記事

焼津(ふたば食堂)昭和通り。前身は、お洒落な洋風飲み屋。

今回は、焼津(静岡県焼津市)の町並みと風俗を散歩します。
焼津港は、徳川家康から大型船の使用を許可されたことをきっかけに発展しました。昭和に入ると、近代的な漁港が建設され、港町の「浜通り」が形成されました。「昭和通り」は、浜通りの西側に明治時代に形成された繁華街で、芝居小屋や映画館毎夜十時頃まで賑わいました。*1

ふたば食堂の前身は、洋風な飲み屋で、建物も西洋館で女中さんは、フリルのついた洋服を着て、当時としてはお洒落な店でした。*1

オムライス(大盛り)を注文。

オムライスの中身はケチャップライスです。

【参考文献】
*1 焼津市総務部市史編さん室:浜通りの民俗(焼津市,2004)P.22-P.24

参考文献

参考記事

吉原(土手の伊勢屋)明治22年、吉原大門に創業。

「土手の伊勢屋」は、明治22年、吉原遊廓の出入口「吉原大門」に創業。当時、店の前に「土手」があったことから「土手の伊勢屋」と呼ばれました。創業より、吉原を訪れるお客様、吉原に努める牛太郎(客引き)などで、吉原遊廓への出前などで、お店は繁盛しました。*1

登録有形文化財にも指定された建物は、東京大空襲で焼け残った木造建築です。*1

天丼(イ)と日本酒を注文。

柱時計。

【参考文献】
*1 土手の伊勢屋:パンフレット

参考文献

参考記事

吉原(「土手」の屋号)昔の名残が看板に息づいています。

江戸時代、吉原へ通じる道は、土手になっていて、その土手は日本堤と呼ばれていました。*1
現在の「土手通り」沿いには、屋号に「土手」とつく店が多くあり、日本堤の土手はなくなっても、昔の名残が看板に息づいていると言えます。*2
天丼が有名な「土手の伊勢屋」は、行列ができる人気店です。

馬肉の店。

土手の薬屋。

「堤」と書いて「どて」と読みます。

【参考記事】
*1 風俗散歩(吉原):土手通り(2011.4)
【参考文献】
*2 洋泉社:図説江戸吉原の本(洋泉社,2012)P.99

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

吉原(美乃屋)とんかつ専門店。老舗店が建ち並ぶ通り。

吉原(鶴の湯)ラドン風呂の装置と傘入れ。

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
土手通りを紙洗橋交差点から南西方向に折れ、100mほどのところに銭湯の鶴の湯があります。

レトロな雰囲気の残る銭湯です。

入口。

ラドン風呂の装置と傘入れ。

参考文献

参考記事

小樽(楽々亭)深夜営業専門店。赤提灯が似合うラーメン屋。

花園のスバル通り。繁華街の中心部です。

赤提灯が似合うラーメン屋さんの「楽々亭」。深夜営業専門店です。

とんこつ味噌ラーメンを注文。日本酒も頂きました。

花園の夜は更けていきます。

参考文献

参考記事

小樽(小町湯)明治10年頃湯屋が全身。北海道最古の公衆浴場。

小樽市信香町にある小町湯温泉は、北海道最古の公衆浴場です。*1

明治10年頃の小樽の古地図に土場町(現在の信香町)に湯屋の記載があり、それが小町湯の前身といわれています。*1

夜の小町湯温泉。

小町ゆ温泉。

【参考文献】
*1 小町湯温泉の名刺

参考文献

参考記事

小樽(藪半)白鳥家別邸の石蔵を座敷として再生。

キャバレー「現代」跡地*1 の2軒隣に、蕎麦屋の「藪半」があります。

店の奥にある石蔵座敷。昭和49年に、隣接する白鳥家別邸(建物は後にキャバレー「現代」*1 )の庭内にあった石蔵を「藪半」内に、座敷として再生したものです。*2

石蔵座敷の内部。

鰊そばと倶知安の地酒「北力」を注文。

【参考記事】
*1 風俗散歩(小樽):キャバレー「現代」跡地(2016.12)
【参考文献】
*2 小野洋一郎:小樽歴史探訪.最新版(共同文化社,1999)P.18-P.21

参考文献

参考記事

倶知安(満足食堂)味とボリュームが大満足。

倶知安の繁華街にある「満足食堂」。黄色い看板が目印です。

営業時間は17:30~24:30。深夜営業専門店です。

カツカレーとビールを注文。カツは注文が入ってから衣をつけて揚げます。かなり大きな皿ですが、これでも普通盛りです。

しかも、深さのある皿です。

参考文献

参考記事

函館(津軽屋食堂)終戦後開業。小鉢は、ほとんどが100円代。

大門横丁の隣にある津軽屋食堂。開業は終戦後まもなくで、ショーケースの中から好きな惣菜を選んで組み合わせ、自分好みの定食を作るスタイルは当時のままです。*1

ショーケースに並んでいる小鉢は、ほとんどが100円代です。

カツ丼(670円)と日本最北(増毛)の地酒「國稀」を注文。それと、ショーケースから、白菜のおひたし(100円)を頂きました。カツは作り置きしていません。注文が入ってから衣をつけてカツを揚げます。

ショーケースから塩辛の小鉢(80円)を追加。お腹の具合と相談しながら頂けるので便利です。

【参考文献】
*1 ぶらんとマガジン社:HO(2012.6,vol55)P.73

参考文献

参考記事

函館(高橋掬太郎歌碑)酒は涙か溜息か。割烹冨茂登。

護国神社坂下グリーンベルトに高橋掬太郎の歌碑が建てられています。

酒は涙か溜息か 心のうさの捨てどころ...

「酒は涙か溜息か」は高橋掬太郎が作詩し、古賀政男を曲をつけ、ミリオンセラーとなりました。高橋掬太郎は、大正11年から昭和8年まで函館日日新聞の記者をしていましたが、その頃よく恵比寿町のカフェや蓬莱町の料理店に行っていました。掬太郎は、恵比須町の大学という喫茶店の2階に下宿していましたが、この喫茶店は、蓬莱見番の芸者をたくさんかかえていた割烹中庄の親戚でした。*1

護国神社坂下に現在もある割烹冨茂登(ふもと,写真右)に、東京から出てくるたび掬太郎は立ち寄りました。女将さんは、元蓬莱見番の芸者で、掬太郎が、冨茂登という店名をつけました。

【参考文献】
*1 木下順一: 函館街並み今・昔(北海道新聞社,2001)P.40-P.41

参考文献

参考記事

大釈迦(観光ホテル「夢野温泉」)艶っぽい看板。

国道101号線沿いの狼野長根公園近くに、レトロな外観の「観光ホテル夢野温泉」があります。

玄関には、艶っぽい看板。

レトロな館内。宿泊もできます。

脱衣場。

参考文献

参考記事

五所川原(とんとん食堂)川端町の大衆食堂。

川端町の歓楽街にある「とんとん食堂」。

ラーメンなど、中華料理が中心の大衆食堂です。

落ち着いた店内。

チャーシュー麺とビールを注文。ビールには、野菜炒めが付きます。

参考文献

参考記事

一戸(鳥越ドラインブイン)ラーメン280円。建物の左側半分は旅館。

一戸市街から国道4号線を3kmほど北上した「八木沢橋」バス亭近くに、「鳥越ドラインブイン」があります。

建物の左側半分は、旅館になっています。

名物のラーメンは280円です。

ラーメン(大盛り)と缶ビールを注文。

参考文献

参考記事

一戸(ニューハワイ)歓楽街の名残。かつて遊廓があった場所。

今回は、一戸(岩手県二戸郡一戸町)の町並みと風俗を散歩します。
一戸駅から駅前の通りを北東へ進み、万代橋を渡って街道から右へ折れた所にある袋町(現在の北舘)は、かつて遊廓があった場所です。*1

遊廓があった頃の歓楽街の名残でしょうか。付近にはスナックなどの飲食店が散在していたようです。*1*2

「ニューハワイ」の看板。

いらっしゃいませ。

【参考文献】
*1 一戸町町誌編纂委員会:一戸町誌 下巻(一戸町,1986)P.298,P.302
*2 日本住宅地図出版:二戸市・一戸町・浄法寺町(日本住宅地図出版,1979)P.42

参考文献

参考記事

水沢(一力)生そばと洋食。異質の組み合わせ。

水沢の寺小路の歓楽街にある「一力」。

「生そば」と「洋食」という異質の組み合わせです。

丼物や定食、カレーライスもあります。

かつ丼と水沢の地酒「天瓢(てんぴょう)」を注文。洋食屋を名乗るだけあって、カツの味は絶品でした。

参考文献

参考記事

倉敷(えびす湯)美観地区の北側。「ゆ」と書かれた灯り。

倉敷市の美観地区の北側(鶴形2丁目)に銭湯のえびす湯があります。

「ゆ」と書かれた灯り。歴史を感じます。

太い煙突。

ロッカーには、漢数字で番号が書かれています。

参考文献

参考記事

倉敷(萬福食堂)コップは大関のワンカップ。

倉敷市羽島にある萬福食堂。

芸能人も多数訪れる店です。

水を飲むコップは、大関のワンカップ。

やきぶたラーメンを注文。

参考文献

参考記事

岡山(ことぶき食堂)オムライス。岡山の地酒「賀眞」。

今回は、岡山(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
岡山駅前商店街の昭和レトロな食堂「ことぶき食堂」。

店内の棚には、岡山の地酒「賀眞」の瓶が3本置かれています。

さっそく日本酒を注文。棚に置いてあった一升瓶でコップに並々とついでくれます。店内のガラスケースからセルフサービスでおかずやおつまみをチョイスすることもできます。

食堂飲みは、オムライスで〆ます。

参考文献

参考記事

犬山(旅館「桝屋」)7文字の回文「やすまるますや」。

犬山町は、「日本ライン」の中心地として、また、桜の名所として観光・行楽客が多く、料亭も昭和初期には40軒を上回るほどとなりました。その主なものは、彩雲閣(犬山遊園地)、岩の茶屋(犬山遊園地)、迎帆楼(西谷)、観水(西谷)、枡屋(西谷)、田中屋別館(犬山橋畔)、八勝閣(犬山橋畔)、三宜亭(犬山橋畔)、木村(犬山公園)、五月(犬山公園前)、などでした。*1
迎帆楼は、現在取り壊されて建設中です。

木曽川畔には、旅館街が形成されていました。

現在は休業中の枡屋。

右から読んでも左から読んでも、「やすまるますや」

【参考文献】
*1 犬山市教育委員会,犬山市史編さん委員会:犬山市史(犬山市,1995)P.205

参考文献

参考記事

犬山(芝居小屋「呉服座」の建物)博物館明治村。

犬山駅からバスで約1時間。博物館明治村に到着です。

明治村は、明治時代の貴重な建物を移設・保存するこをと目的に開園されました。

大阪府池田市にあった芝居小屋の呉服座。重要文化財です。*1

内部は、当時のまま、保存されています。

【参考URL】
*1 博物館明治村:呉服座(重要文化財)

参考文献

参考記事

犬山(開進亭)老舗のレストランのえびかつ丼。

今回は、犬山(愛知県犬山市)の町並みと風俗を散歩します。
西図師の角にある開進亭は、犬山の町では老舗のレストランです。大正時代は新道(市街地北東部)にあり、昭和元年くらいにここへ移りました。*1

昭和の雰囲気が残ります。

レトロな洋食屋のイメージが漂います。

メニューに「new」と書かれていた「えびかつ丼」の大盛りとビールを注文。

【参考文献】
*1 山本耕一:美人の町・犬山シリーズ・町のトポロジー・其の1(沢田造景研究所,1986)P.41

参考文献

参考記事

広島(音戸温泉)歓楽街の中にあります。

薬研掘の南側にある音戸温泉。歓楽街の中にあります。

同じビルには、フィリピンパブの看板。

広島の名湯です。

入口には、木製の看板。

参考文献

参考記事

広島(キャバレーロンドン)現在はフィリピンクラブが営業中。

薬研掘のキャバレーロンドン。

レトロな大看板。

おなじみの看板です。

現在は、フィリピンクラブが営業中です。

参考文献

参考記事

広島(アラスカ)夜の飲食街地区。中新地通り。老舗洋食店。

今回は、広島(広島県広島市)の町並みと風俗を散歩します。
広島の夜の飲食街地区として賑っている流川・薬研堀地区にある中新地通り。

繁華街の中にある老舗洋食店の「アラスカ」。

昭和レトロな雰囲気の店内。

オムライスは絶品です。

参考文献

参考記事

牛窓(寿司勝)元遊女屋の「恵比寿屋」。

牛窓の関町にある「寿司勝」。バスターミナルの正面に位置します。地元の方の話によると、この建物は、元遊女屋の「えびすや」で、隣の「照月楼」の建物がつながっていて、3階建の照月楼を2階建てに改築する際に、この建物も2階建てに改築したそうです。
明治3年頃の「遊廓畧図」*1 を見ると、この場所に「恵比寿屋」の記載があります。

店内。

各種定食は650円。こちらの刺身定食は980円でこの豪華さ。牛窓の地酒「千寿」もいただきました。

夜のメニューもリーズナブルです。

【参考文献】
*1 刈屋栄昌:牛窓夜話 前編(牛窓郷土研究会,1958)P.49

参考文献

参考記事

牛窓(川源別館)旧「角市」。明治時代。

牛窓に女郎屋が誕生し、花街がいつ頃できたか、今のところこれを立証する文献はないが、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の「医学天正期」に戦国大名の宇喜多直家が、梅毒で苦しみ療養したことが記述され、これは倭寇が異国から牛窓に移入したものだと説いており、牛窓が日本花柳病の根源地だと指摘しているから、その頃牛窓にはすでに女郎屋があったと推察されます。明治時代の下行場の遊廓は、東側の角市、北側の奈良亀、福本屋、玉津屋、西側の小野屋、山松の6軒でした。そのうちの角市は、現在の「川源別館」です。*1

南側から。

川源別館は、割烹料亭として営業中です。

裏側の木戸。風情があります。

【参考文献】
*1 刈屋栄昌:牛窓風土物語(牛窓郷土研究会,日本文教出版 (製作),1973)P.21,P.64

参考文献

参考記事

上関(いなり湯)室津市街。温泉マーク。雰囲気のある路地。

室津の市街に残る銭湯の「いなり湯」。

温泉マークが描かれています。

銭湯の脇は、雰囲気のある路地になっています。

煙突。

参考文献

参考記事

上関(新地)割烹旅館「山水」跡地。福浦港付近の海岸線。

今回は、上関(山口県熊毛郡上関町)の町並みと風俗を散歩します。
上関は、室津半島の先にある長島の北東端に発達した港町で、かつては、帆船が潮待ち、風待ちをする寄港地として賑わいをみせたところです。*1

昭和11年の市街図*2 によると、福浦港付近の海岸線に貸座敷の「山水亭」がありました。

1990年の住宅地図*3 によると、このあたりに同じ屋号の割烹旅館「山水」がありました。「山水亭」の名残かもしれません。

海岸線に沿った道路とは別に山側にもう1本道が続いています。
このあたりは、「新地」という地名で呼ばれていました。*3

【参考文献】
*1 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.37,P.91
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社, 1937)第450号 山口県
*3 ゼンリン:熊毛郡No.2田布施町・平生町・上関町(ゼンリン,1990)P.136

参考文献

参考記事

湯本温泉(公衆浴場の「恩湯」)赤い瓦屋根とネオン看板。

今回は、湯本温泉(山口県長門市)の町並みと風俗を散歩します。

音信川沿いにある公衆浴場の「恩湯」(おんとう)は、赤い瓦屋根と「湯本温泉」のネオンが特徴です。

なつかしさが漂うネオン看板。

源泉かけ流しの公衆浴場です。

参考文献

参考記事

仙崎(小便小僧)遊廓街の北側の道幅の狭い路地。

旧遊廓街の北側の昔からの道幅の狭い路地。

民家の前に小便小僧が立っています。

ベルギーの小便小僧のレプリカでしょうか。

現在、水(小便)は出ていません。

参考文献

参考記事

仙崎(仙崎湯)旧遊廓街へ向かう途中。円型の窓を持つ洋風の建物。

みすゞ通りの商店街で見かけた仙崎の市街図に、銭湯の仙崎湯跡が記載されています。

場所は、遊廓街へ向かう道の途中です。

仙崎湯跡。建物は、蔦で覆われています。

円型の窓を持つ洋風の建物です。

参考文献

参考記事

仙崎(金子みすゞのブロンズ像)みんなちがってみんないい。

仙崎生まれ育った童謡詩人金子みすゞのブロンズ像。金子みすゞ記念館から「 みすゞ通り」を約150m北上した場所にあって、像の周辺は庭のように整備されています。

代表作「わたしと小鳥とすずと」。

安倍首相の揮毫。「みんなちがってみんないい」

金子みすゞは、26歳の若さでこの世を去りました。夫が遊廓でもらった病気(淋病)を移されたことや、娘の親権問題が原因で服毒自殺したとされています。*1*2

【参考文献】
*1 矢崎節夫:童謡詩人金子みすゞの生涯(JULA出版局,1993)P.296,P.323,P.339
*2 西村祐見子: 別冊太陽(2003.4 通号122)「金子みすゞの生涯」P.116

参考文献

参考記事

仙崎(王子山公園)龍宮みたいに浮かんでる。

今回は、仙崎(山口県長門市)の町並みと風俗を散歩します。
仙崎は、山口県長門市街の北側に位置する半島の町で、山陰本線支線の仙崎駅から半島の先端までは、歩いて30分ほどです。市街の中央の通りは、仙崎出身の童謡詩人、金子みすゞの名をとって、みすゞ通りと呼ばれています。

青海島の王子山公園からは、仙崎の半島の全容を眺めることができます。

金子み すゞの「王子山」に、「 わたしの町はそのなかに、龍宮みたいに浮かんでる」と詠まれています。

金子み すゞ「王子山」。

参考文献

参考記事

遠野(旅館「福山荘」)どぶろくがサービスでつきます。

この日は、旅館福山荘に宿泊。昔ながらのレトロな旅館です。

広くて豪華な部屋。

夕食は、お膳に置きくれないくらいの皿数の多さです。

コップ一杯のどぶろくがサービスでつきます。プチプチと音をたてて泡が出ていました。

参考文献

参考記事

釜石(鶴の湯)入口にアジサイ。「鶴女湯」「鶴男湯」。

釜石市街になる銭湯の「鶴の湯」。

油田型の煙突。

入口には、アジサイが咲き誇っています。

「鶴女湯」「鶴男湯」と表示されています。

参考文献

参考記事

気仙沼(亀乃湯)震災後、復興を果たしました。

今回は、気仙沼(宮城県気仙沼市)の町並みと風俗を散歩します。

気仙沼市魚町1丁目の亀乃湯は、震災後、見事に復興を果たしたことで、テレビや雑誌で報道されている銭湯です。

周囲に他の商店は、ほとんど見当たりません。

立派な煙突。

参考文献

参考記事

塩釜(美容室)古い建物が多く残る本町の商店街。

塩釜市本町の商店街には、古い建物が多く残っています。

レトロな美容室。

横からみると、看板建築であることがわかります。

側面には、小さなドアや窓が密集しています。

参考文献

参考記事

塩釜(塩釜神社前の碑)好色一代男、塩釜甚句。

今回は、塩釜(宮城県塩釜市)の町並みと風俗を散歩します。
塩釜神社前の通りには、塩釜にちなんだ石碑が並んでいます。

井原西鶴の「好色一代男」巻三の「口舌の事ふれ」に塩釜が登場します。
仙台藩内での遊女町は、万治年間(1658-1660年)に禁じられていましたが、港町であった塩釜と石巻は黙認されていました。文化文政(1804-1829年)の記録では、塩釜には、216人の遊女と26軒の遊女屋、14軒の小宿屋敷がありました。好色一代男が描かれた天和2年(1682年)には、塩釜がすでに遊女町として知れ渡っていたことが伺えます(案内板より)。

塩釜甚句が、歌われるときは、芸妓などにより威勢のいい振付の踊りが演じられます。塩釜甚句のもとになった「アイヤ節」は、九州天草地方で歌われていた「ハイヤ節」*1 が、日本海を北上し太平洋沿岸に移入されたものです(案内板より)。

塩釜甚句の歌詞には、仙台街道(塩釜街道)を塩釜に向かう旦那衆が遊女に恋い焦がれる心情や三味線、太鼓の音で賑わっていた塩釜の様子を伺うことができます(案内板より)。

【参考記事】
*1 風俗散歩(牛深):ハイヤ節の碑(2012.8)

参考文献

参考記事

千厩(小角食堂)大正14年創業。名物のあんかけかつ丼。

千厩の小角食堂は、大正14年創業。

店内は、レトロな雰囲気です。
名物のあんかけかつ丼は、テレビ、新聞、雑誌等で幾度となく取り上げられました。(店の貼り紙より)

あんかけかつ丼(850円)を注文。味は、ソースかつ丼と同じですが、ソースがあんになっているのが特徴です。

店の裏口。駐車場からのお客様は、こちらから入ります。

参考文献

参考記事

若柳(美容室)花嫁看板。ノスタルジックな雰囲気。

若柳の本吉街道は、看板建築の建物が建ち並ぶ商店街です。

パーマ(美容室)の看板。

ノスタルジックな雰囲気が漂います。

別の美容室の花嫁看板。

参考文献

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若柳(菅原写真館)昭和6年の「若柳町全図」にも記載。

若柳の中心部は、若柳側の北側の川北元町から本吉街道にかけてのあたりです。

菅原写真館は、昭和6年の「若柳町全図」にも記載されている写真館です。

マンサード屋根の建物が特徴です。

北側の用水路から見た写真館。

参考文献

参考記事

若柳(ブロンズ像)レオタード像。若柳橋の近く。

若柳橋の近くにブロンズ像があります。

格調高いブロンズ像です。

裸像のように見えますが、レオタード像です。

後方から。

参考文献

参考記事

佐賀関(テルミ美容室) 鮮やかな黄緑色のタイル。錆びた看板。

佐賀関の臼杵湾側。古い美容室の建物が残っています。

テルミ美容室。錆びた看板がいい雰囲気です。

鮮やかな黄緑色のタイル。

窓枠は、ねずみ色。

参考文献

参考記事

島原(宝来泉浴場)島鉄バスターミナル近くにある銭湯。コンクリート造り。

島鉄バスターミナル近くにある宝来泉浴場。

現在は、休業中です。

コンクリート造りの銭湯です。

バスターミナル側から。

参考文献

参考記事

伝馬町(裁断橋跡)飯盛女が生んだ都都逸。

旧東海道(伝馬町通り)が国道247号線と交差するあたり。裁断橋跡の碑があります。

寛政12年(1800年)、熱田の築出(つきだし)に鶏飯屋(けいはんや)なる新奇な茶店が出来ました。その店の女中の一人に「お亀」と呼ばれる人気者がいて、まもなく「お亀」の名が熱田の飯盛女の総名となりました。鶏飯屋の流行につれて、築出一帯は、「新長屋」と呼ばれる遊里となり、その流行にあおられて、享和3年(1803年)に、神戸(ごうど)が遊里化し、いにしえからの伝馬町とあわせ3箇所が競う状況となりました。神戸は1等地、伝馬町が2等地、新長屋は3等地でした。これらの飯盛女たちはすべて「お亀」と呼ばれました。*1


築出は、現在の裁断橋跡付近*2 、神戸は、熱田荘のあたり*3 にありました。大正時代の裁断橋の写真(案内板より)。

同じ場所に都都逸発祥の地の碑があります。
その頃、飯盛女(お亀)にまつわるこんな流行唄がありました。
お亀買う奴あ天窓で知れる 油付けづの二つ折れ
そいつはどいつじゃどいつじゃ ドドイツドイドイ
この唄の囃子言葉の「ドドイツドイドイ」が都都逸の由来になったと言われています。江戸では「都都逸節」、大阪では「よしこの節」、名古屋では「名古屋節」と呼び名が違っていました。よしこの節は四国に伝わり、徳島の阿波踊りで唄われる「踊るアホウに見るアホウ、同じアホなら踊らにゃ損そん」という有名な唄がうまれました。*4

【参考文献】
*1 名古屋市教育委員会:名古屋叢書 第16巻(愛知県郷土資料刊行会,1982)P.22
*2 編集考房とその仲間たち=土曜倶楽部十準構成員:名古屋いまむかし(編集考房,1978)P.148
*3 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.151
*4 玉川スミ:ドドイツ万華鏡(くまざさ出版社,1999)P.54-P.55

参考文献

参考記事

栄(屋上観覧車)現存する日本最古。

栄町交差点の南東の角にある名古屋栄三越。

屋上に遊園地があります。

屋上遊園地には、小さな観覧車があります。

現存する日本最古の屋上観覧車で、2007年に登録有形文化財に指定されました。高さ12m、直径が9.5m。2005年7月に営業を終了しました。*1

【参考文献】
*1 福井優子:ニッポンの観覧車(イカロス出版,2009)P.78

参考文献

参考記事

錦(栄交差点小便小僧像)ベルギー政府から寄贈

2014年9月25日、栄町商店街は、ベルギーの首都ブリュッセルの有名繁華街ルイーズ通りと姉妹提携を結びました(案内看板より)。

姉妹提携を記念して、2015年8月22日、ベルギー政府から栄町商店街に小便小僧像が寄贈され、栄交差点に設置されました。*1
小便小僧の起源とされているのは、ブリュッセルに設置されているフラマン人彫刻家ジェローム・デュケノワ(Jérôme Duquesnoy)により1619年に製作された像ですが、寄贈された小便小僧はそのレプリカと思われます。

この日は、小便は出ていませんでした。

小便小僧とベルギー国旗がデザインされたワインも展示されています。

【参考URL】
*1 産経新聞:産経フォト(2015.8.22)<ahref=”http: www.sankei.com=”” photo=”” daily=”” news=”” 150822=”” dly1508220034-n1.html”=”” target=”_blank”>名古屋・栄に「小便小僧」ベルギー政府から寄贈

参考文献

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錦(風俗雑誌「シティヘブン」)厚さを10年前と比較。

今回は、錦(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦の風俗散歩は、前回(2006年7月)に引き続き、今回で2回目です。

10年前は、コンビニで購入した風俗雑誌「シティヘブン」の冊子の厚さに驚愕しました。*1

今回も、コンビニで「シティヘブン」を購入。しかし、10年前に比べると、冊子の厚さは、かなりスリムになっています。スマホなどの端末機器が普及したことが影響しているのでしょうか。

駐車場の看板広告は盛況です。

筒井町~車道(洋食屋「ラク亭」)選べるソース。

映画館の「東松竹映劇」跡地のマンションの西向かいにある洋食屋の「ラク亭」。

オムライスのソースは4種類から選べます。

店内の冷ケースには、キリン、アサヒ、サッポロのビールが並べられています。

オムライス(大盛り)とアサヒビール(大瓶)を注文。トマトソースとケチャップソースの違いを訪ねたところ、「トマトソースは自家製、ケチャップソースは、うちで作っていません。」とのことなので、トマトソースを選択しました。

参考文献

参考記事

川崎大師(料亭「恵の本」)かなまら巻。かなまら祭コラボ。

川崎大師の門前にある料理屋の「恵の本」。
かつて、このあたりは、名物の江戸前もの地ハマグリを使った蛤鍋を扱う料亭が、江戸時代に27軒、昭和でも16軒がこの界隈に賑わっていましたが、今は創業350年の「恵の本」)だけです。

かなまら祭コラボ企画の「かなまら巻」。

かなまら巻は、太巻き1本とお稲荷さん2個のセットです。日本酒も注文しました。

太巻きの断面。

参考文献

参考記事

円頓寺(勝利亭)洋食文化の草分け。トマトソースの開発。

円頓寺商店街にある洋食店の「勝利亭」。創業百年と名古屋の洋食文化の草分けとして親しまれた老舗です。店名は、日露戦争の勝利を祝って付けられました。初代の主人は、カゴメ(名古屋市中区)の創業者が日本で初めて発売したトマトソースの開発にも携わったと伝わっています。*1

歴史を感じるレトロな店内。

テーブルには、トマトケチャップのボトルが置かれています。

チキンオムライス(大盛り)とビール(大瓶)を注文。オムライスの中身はケチャップライスですが、さらにトマトケチャップをかけてみました。

【参考文献】
*1 中日新聞(2009.1.28夕刊)「円頓寺の老舗2代目・野口さん 93歳 伝統の味 守り死去」

参考文献

参考記事

稲栄(草津湯)旧遊廓内の銭湯。英語表記。

稲栄遊廓跡地内の錦神社の隣にある銭湯の草津湯。

昭和12年(1937年)の 「稲栄錦町遊廓明細図」*1 にも記載されている銭湯です。

「草津湯」の英語表記。

近くには、燃料と思われる廃材置き場がありました。

【参考文献】
*1 稲川勝二郎:歓楽の名古屋(趣味春秋社,1937)P.46-P.47「稲栄錦町遊廓明細図」

参考文献

参考記事

青梅(赤塚不二夫記念館)ギャグゲリラ。トキワ荘のジオラマが展示。

昭和レトロ商品博物館に隣接する赤塚不二夫記念館。

赤塚不二夫、手塚治虫ら著名な漫画家が居住していたことで有名なトキワ荘のジオラマが展示されています。

トキワ荘の赤塚不二夫の部屋をイメージした展示。漫画本の上に板を置いて机の代わりにしていました(案内板より)。

2階の漫画本コーナー。
「ギャグゲリラ」は、1982年に最終回を迎えるまで、10年間「週刊文春」に連載された時事漫画です。*1
母親の過保護のすさまじさを描いた「あるときは ….」という作品(多羅尾伴内のもじり)では、あるときは清掃員のおばさん、あるときは、タクシーの運転手に変装して息子を誘惑から守ります。また、あるときは、片目の売春おばさん!!。息子を守るために街娼婦になります。*2

【参考文献】
*1 名和広:赤塚不二夫というメディア(社会評論社,2014)P.229,P.232
*2 関井光男:國文學 解釈と教材の研究(學燈社,1981.04)P.162「現代マンガの手帖 赤塚不二夫」

参考文献

参考記事

青梅(もりたや食堂)レトロなとんかつ屋さん。

青梅街道の南側に、映画看板が掲げられた古い建物が残っています。

レトロなとんかつ屋さんの「もりたや食堂」

現在は、休業中です。

森田屋。

参考文献

参考記事

富田(富喜湯)前面がコンクリートで装飾された看板建築。建物は木造。

旭町の旧花街*1 に銭湯の建物が残っています。

文字が欠けてしますが、「富喜湯」と判読できます。

前面がコンクリートで装飾された看板建築。建物は木造です。

銭湯は、関西本線の線路脇に建っています。

【参考記事】
*1 風俗散歩(富田):旭新地跡

参考文献

参考記事

瀬戸(日本鉱泉)玄関脇にどらえもん。太い煙突。

尾張瀬戸駅の南東側(銀杏木町)にある日本鉱泉。県道57号線沿いにある珍しい屋号の銭湯です。

玄関付近。

玄関脇には、どらえもん。

建物の背後から。太いコンクリートの煙突が突き出ています。

参考文献

参考記事

府中(旭湯)府中駅近く。裏側へ回ると大きな煙突。

宮西町3丁目にある銭湯の旭湯。大型の建物です。

本日は休業日のため、シャッターが閉じられたままになっています。

建物の側面。

裏側へ回ると大きな煙突を見ることができます。

参考文献

参考記事

藤岡(福富士)かつての成人映画館の前に建つ食堂。

群馬藤岡駅近くにある食堂の「福富士」。

昭和の雰囲気の残る大衆食堂です。やきそば400円、ラーメン450円など、価格は安め。人気の「やきそば」は持ち替えりができ、近所の方が次々と訪れ、買っていきます。

大盛りやきそば(500円)と大瓶ビールを注文。

「福富士」の向かい側(写真右手前)には、明治42年に開設された芝居小屋の「藤盛座」がありました。「藤盛座」は、昭和26年に映画館に改造され、話題作を上映して多くの観客を集めましたが、昭和30年代には、テレビの普及とともに経営が苦しくなり成人映画路線に転換。昭和61年に閉館しました。

【参考文献】
*1 丸山知良:近代芝居小屋考・群馬県(みやま文庫,1994)P.88

参考文献

参考記事

富岡(富士屋)女工さんたちが愛した中華そば

富岡の西銀座通りの東端にある食堂の「富士屋」。

昭和を感じる食堂です。

富岡製糸場の女工さんたちが愛した中華そばがお勧めです。

中華そばを注文。酒類は置いていません。

参考文献

参考記事

浅草(どぜう「飯田屋」)永井荷風がよく訪れた店。

永井荷風は、飯田屋の暖簾をよくくぐりました。夜、芝居がはねてから踊り子たちと来ることもありました。*1

どじょうは、うなぎと比べてビタミンが豊富で精がつきます。*1

ひとりで来店したときの荷風は、ぬたとお銚子一本を注文し、最後は柳川で締めました。*1

まぐろの赤身と独活(ウド)を赤味噌で和えた「ぬた」。くらげが添えられて、異なる食感を楽しめます。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.68

参考文献

参考記事

浅草(アリゾナキッチン)永井荷風に愛された洋食屋。

浅草の洋食屋の「アリゾナキッチン」。

永井荷風に愛された洋食屋です。
荷風は、昼の12時頃に来店し、入口に向かってすぐ左横の席に腰をおろし、水がわりにビールを飲みました。*1

店内には荷風先生の写真が飾られています。

荷風先生が好んで食べていたチキンレバークレオール(若鶏とレバーの煮込み)。*1

【参考文献】
*1 永井永光,水野恵美子,坂本真典:永井荷風ひとり暮らしの贅沢(新潮社,2006)P.67

参考文献

*1
葛城峻横浜花街史稿制作のための準備資料集葛城峻2013
蒔田花街
蒔田見番、料亭「不二菊」、料亭「平作」、料亭「光楽」、料亭「富久本」、等の記載。
芸妓屋組合の一覧
蒔田 この地区最大の料亭「平作」は戦後も長期間営業していた。現在営業中の「松島」は永真遊廓の妓楼「…

参考記事

浅草(蛇骨湯)券売機には、英語、中国語、韓国語の表記。

浅草六区の繁華街の中。銭湯の「蛇骨(じゃこつ)湯」の看板があります。

路地の奥まったところにあります。

蛇骨湯の入口。

券売機には、英語、中国語、韓国語の表記があります。外国人観光客の利用も多いようです。

参考文献

参考記事

浅草(花やしき)日本最古の遊園地。150年以上前に植物園として誕生。

浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1

「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。

花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2

明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。

【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)

参考文献

参考記事

小坂(康楽館)役者たちの無数の落書きが残されています。

小坂町は明治時代すでに水力発電、鉄道、電話、上下水道が揃っていて、当時の最先端をいく町でした。その技術と誇りをかけて建てられたのが康楽館(こうらくかん)です。*1
戦後のテレビの普及に伴い、昭和45年頃に、康楽館での一般興行は中止されます。老朽化が進み、取り壊しが懸念された康楽館の保存と活用を強く訴えたのが、芸能史研究で著名な俳優・小沢昭一氏でした。昭和62年の修復後は、歌舞伎や大衆演劇が上演されています。*2

二階は吹き抜けとなっていて、舞台を客席がコの字に囲んでいます。*2

楽屋には、役者たちの無数の落書きが残されています。*2

由美かおるさんの落書き。修復以降の2008年6月のもので、水戸黄門のキャラクター”疾風のお娟”のイラスト付きです。*2

【参考文献】
*1 沢美也子:にほん全国芝居小屋巡り(阪急コミュニケーションズ,2005)P.54
*2 康楽館:公式ガイドブック(秋田文化出版,2010)P.7,P.10,P.14-P.15,P.22-P.23

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

日立(旧共楽館)日立武道館。正面に千鳥破風、唐破風屋根。

小坂(花園館)大正4年頃に開業した映画館。

小坂町の中島橋近くにある花園館。
「小坂町史」*1 によると、大正4年頃には開業していました。

現在は休業中のようです。

建物の側面。

モダンな造りです。

【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560

参考文献

参考記事

能代(巴湯)見事な看板建築。温泉マークの看板。

能代駅から北側へ向かって歩いていくと、銭湯の巴湯があります。

建物には、商店が併設です。

見事な看板建築です。

温泉マークの看板。

参考文献

参考記事

角館(ママ・ジューサー)ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。

商店街に面した電器屋さん。

ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。その隣に「ママ・ジューサー」の箱が置かれています。

アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。次いで、昭和49年に、押すだけで水の出る「ママポット」、昭和50年に、コックをひねると本当に水が出る「ママナガシ」、続いて、「ママクッキー」「ママウォッシャー」を発売、ママシリーズを確固たるものとし、業界では”リビングトーイ”という新語が生まれました。*1

「ママ・ジューサー」も、そのシリーズの1点です。
本物のジューサーやミキサーのように、野菜や果物を圧搾・粉砕してジュースを作るのではなく、水を混ぜるだけの遊びです。(箱の説明書きより)

【参考文献】
*1 柳谷省吾:実業の世界(1979.4)P.118-P.120 モスクワ五輪のマスコット玩具で国内独占販売の”金メダル”を獲得

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

島田(おもちゃの展示)“消える魔球”が搭載された野球盤。

角館(旅館「やまや」)山谷初男の生家。珍優から「国盗り物語」の赤兵衛役。

今回は、角館(秋田県仙北市)の町並みと風俗を散歩します。
角館駅前にある旅館「やまや」は、俳優の山谷初男の生家です。*1

山谷初男さんは、ポルノ界の珍優から「国盗り物語」の赤兵衛役でスターになった俳優です。*2

1階には食堂があって、店内には、山谷初男さんの写真が飾られています。

稲庭うどんと日本酒「出羽鶴」を注文。

【参考文献】
*1 「旅館やまや」カタログ
*2 松島利行:サンデー毎日(1973.2.25)ポルノ界の珍優が「国盗り物語」でスターになった!

参考文献

参考記事

阿仁(理容室)「押し売り物もらい一切お断り」のプレート。

阿仁町の商店街。

理容室と思われる昭和レトロな建物です。

いろいろな形の小さな窓が複雑に組み合わされています。

「押し売り物もらい一切お断り」のプレート

参考文献

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大曲(商店)緑の円柱。古いお菓子屋さんの建物。

大曲市街の丸子川を渡ったあたり。

古いお菓子屋さんの建物が残っています。

モダンな装飾です。

鮮やかな緑色の円柱。

参考文献

参考記事

黒石(理容室の建物)水色のタイルで統一されています。

中村旅館(旧遊廓)の前の通りを南側へ進むと商店が建ち並んでいる一画があります。

年代を感じる理容室の建物。

水色のタイルで統一されています。

軒下のテントは、理容室のサインポールと同じ配色。

参考文献

参考記事

弘前(石場旅館)戦時中、兵士を送る家族と面会するための旅館。

弘前市街にある石場旅館は、明治12年小間物屋と旅籠を兼ねた店として開業されました。*1
地元の方の話によると、戦争中は、出征する兵士を送る家族と面会するための旅館として使われたそうです。

玄関を入ると、柱時計が出迎えてくれます。

木製の太鼓橋は圧巻です。

夜の様子。

参考文献

参考記事

田名部(葦の湯)田名部川沿い。油田型の煙突が二基。

田名部川沿いに油田型の銭湯の煙突が二基見えます。

銭湯の「葦の湯」。

銭湯の設備は重厚です。

脱衣場の丸籠と体重計。

参考文献

参考記事

田名部(寿湯)新大橋近くの温泉浴場。レトロな煙突。

田名部川の新大橋近くにある銭湯の寿湯。温泉浴場です。

銭湯の前の畳屋の建物に、寿湯の看板があります。

銭湯脇の材木置き場。

レトロな煙突。

参考文献

参考記事

田名部(映画監督川島雄三の碑)洲崎パラダイス赤信号。

田名部川にかかる大橋を渡ると、徳玄寺があります。

山門をくぐった境内の中に、日本映画の異才と言われた映画監督川島雄三の碑が建っています。

横並びに彫られた井伏鱒二の訳詞が森繁久彌の揮毫で刻まれています。*1

川島雄三は、むつ市に生まれ、松竹大船撮影所に入社し、その後、日活、東京映画、宝塚映画などを渡り歩きました。*1
代表作には、「洲崎パラダイス赤信号」などがあります。芝木好子原作の「洲崎パラダイス」を映画化したもので、赤線地帯「洲崎」を描いた作品です。

【参考文献】
*1 阿部誠也:あおもり文学の旅(北方新社,2006)P.147-p.149

参考文献

参考記事

七戸(さかた温泉)源泉かけ流しの温泉銭湯。

七戸市街の南西部にある「さかた温泉」。

源泉かけ流しの温泉銭湯です。

館内は、広くてくつろげます。

青森県の銭湯でよく見かける券売機。年中無休。朝5時から夜10時までで、入浴料は良心的な値段(270円)です。

参考文献

参考記事

三戸(理容室・美容室)塔のような形のデザイン。

三戸の市街には、古い建物が多く残っています。塔のような形のデザインを持つ建物の隣には、洋風の理容室があります。

長屋風の建物。鮮魚店の隣に美容室。

カラフルなデザインの理容室。

モダンな美容室。

参考文献

参考記事

遠矢(南蛮酊)ザンタレ定食。鶏もも肉が4枚分。

JR釧路線の遠矢駅近くにある「南蛮酊 」。

もともとは、釧路市の歓楽街、末広町で開業した洋風居酒屋「なんばん亭」でした。*1

名物のザンタレ定食に挑戦。
北海道では、鶏のから揚げをザンギといいます。そのザンギをでタレにからめているのでザンタレというのでが、「南蛮酊 」のザンタレは、1人前に使う鶏もも肉が4枚分(約700グラム)もあって、一人で一人前を食べきるのは不可能な量です。*1

ザンタレ定食は1300円ですが、これはザンタレ950円と定食350円を足した金額です。通常は、ザンタレハーフ(600円)を3~4人で頼んで、これにライスを一人づつつけてちょうど良い量です。

【参考文献】
*1 北室かず子:いとしの大衆食堂(北海道新聞社,2013)P.264-265

参考文献

参考記事

士別(スーパーマン像)足元には、ソフトクリーム。

士別の国道40号線沿いの喫茶店。

店の前に等身大のスーパーマン像。足元には、コンクリートブロックとソフトクリーム。

スーパーマンは、惑星クリプトンからの遺児で、普段は新聞社デイリープラネット社で記者として働いているという設定です。

2階には、ギターを演奏する女性のフィギュア。

参考文献

参考記事

羽幌(太田理容院)デザインは当時のまま。

羽幌町南大通にある理容室の「太田理容院」。

地元の方の話によると、建て替えられていますが、建物のデザインは当時のままだそうです。

手のこんだ意匠。

鮮やかな青色が印象的です。

参考文献

参考記事

礼文(船泊湯)日本最北の銭湯。営業は、午後4:00から。

礼文町の船泊は、稚内の市街よりも、北に位置するので、日本最北の町と言うことができます。

最北の町にある銭湯の「船泊湯」は、日本最北の銭湯です。

営業は、午後4:00からです。

銭湯の裏側。

参考文献

参考記事