神田須田町(ビル街の路地)マンションの1階部分を貫通。

神田須田町二丁目の「肉の万世秋葉原本店」の東側の一画。ビルとビルの間に、狭い空間があります。

生活用の通路となっているようです。

長い側溝。

マンションの1階部分を貫通しています。

参考文献

参考記事

神田須田町(「たばこのむな」の注意書き)京浜東北線の高架下。

神田須田町の京浜東北線の「第一柳町橋高架橋」。高架下が倉庫のスペースになっています。

「たばこのむな」の注意書き。

最近は使われなくなりましたが、昔は、たばこを「のむ」という言い方が使われていました。

南隣の「平永町橋高架橋」。こちらは、「禁煙」の注意書きです。

参考文献

参考記事

神田須田町(ビデオ店跡)大人の夢をかなえる。

神田須田町の柳原通り※1 を南側に入った路地。このあたり問屋街だったと思われます。右側の建物には、株式会社西田文庫と書かれていました。

左側の建物は、ビデオ&本。

「大人の夢をかなえる!!」成人向けの店舗だったようです。
店名の「ドリーム」の「ド」の濁点部分には、ハートのマーク♡♡がデザインされています。

建物脇の路地。

神田須田町(海老原商店)昭和初期につくらた看板建築。

今回は、神田須田町(かんだすだちょう、東京都千代田区)の町並みを散歩します。
秋葉原の万世橋を渡り、すぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐると。柳森神社の前(柳原通り)に出ます。今は神田須田町二丁目ですが、このあたりは、元柳原町と呼ばれていました。柳原は、明治には古着市場であり、その後、既製服問屋街になりました。柳原通りは昭和初期にはかなりにぎやかだったそうです。この一画には、昔からの看板建築の商店が残っています。この付近は戦災の時に焼けないで残りました。*1

写真は、岡昌(おかしょう)裏地ボタン店(昭和3年築)。*2昭和通りに出る少し手前の右手に残るしゃれたファザードの一軒は、海老原商店という服地店です。*1*3*4

海老原商店は昭和初期(1927)につくられました。*1*3

2階窓下には、白漆喰による海老原商店の文字看板*3
上部には、ネオ・クラシックやアール・デコがミックスされたような装飾が上部についています。*1

参考文献

*1
海野弘新編東京の盛り場アーツアンドクラフツ2000
P.250 万世橋をこしてすぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐる。ここは柳原通りというらしい。町名も…
*2
交通新聞社散歩の達人 No.179交通新聞社2011
レトロ商店スケッチ散歩
P.30 岡昌裏地ボタン店(昭和3年築) 明治30年創業の老舗は、初代が「岡昌夫」だから「岡昌」。この辺…
*3
江戸東京たてもの園東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文江戸東京たてもの園2018
海老原商店 千代田区神田須田町二丁目 1928年(昭和3)
海老原家は、茨木健取手の出身で、1887年(明治20)頃に上京し、古着屋を開業した。震災後、既製品の洋服…
*4
日本文芸社荷風!vol.23日本文芸社2010.1
神田界隈「建物」探訪旧・神田区に戦前の建築物を探して
P.30 看板建築は、関東大震災以後、急速に広がった商業建築で、防災を考慮して木造家屋の正面を銅板やタ…

参考記事

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神田須田町(ビデオ店跡)大人の夢をかなえる。

釧路(テレホンクラブ)鉄北センター。。マリリン・モンローにちなんだ店名

釧路駅前の飲食街「鉄北センター」※1※2 の東側の棟。

テレホンクラブの看板。

テレホンクラブ「モンロー」。マリリン・モンローにちなんだ店名でしょうか。

現在は休業中のようです。店の前には荷物が山積みにされています。

釧路(鉄北センター)飲食街。東西に2棟あります。

鉄北センター※1 は、東西に2棟あって、現在営業中の店舗が多いのは、こちらの西側の棟です。

反対側(南側)から。

レトロ感漂うスナック店。

夜の鉄北センター。

釧路(鉄北センター)釧路駅前。2階建て建物が延々と続きます。

釧路駅の北側の若松町2丁目。駅前の通りは鉄北幹線通りと呼ばれています。道路沿いに、「鉄北センター」の建物があります。

西側から見た建物の壁面。2階建て建物が延々と続きます。

西側の入口。

夜の鉄北センター。

釧路(草津湯)創業は大正8年。大町にある銭湯。

釧路市大町にある銭湯の草津湯。

建物は、改築していますが、創業は大正8年だそうです。*1

奥行のある建物です。

反対側。

参考文献

*1
釧路浴場組合釧路の銭湯釧路浴場組合 リンク
創業:大正8年 2代目

参考記事

釧路(岬湯)米町の銭湯。最近、惜しくも休業。

釧路市米町3丁目にある銭湯の岬湯。

正面はこちら側です。

裏側からは、立派な煙突をみることができます。

最近、惜しくも休業となったようです。張り紙が貼られていました。

参考文献

参考記事

釧路(城山歓楽街)飲み屋街跡。久寿里橋通り。

釧路の久寿里橋通り。久寿里橋は、釧路川に架かる橋で幣舞橋の1本上流です。

かつての飲み屋街「城山歓楽街」の跡が残っています。

かつての栄華がしのばれます。

「城山歓楽街」は2棟あって、こちらは、西側の棟です。

参考文献

*1
日本住宅地図出版釧路市・附.釧路村 1976日本住宅地図出版
P.200 「城山歓楽街」の記載。 ・東側の棟:あきみ、順子、マリ、知恵、他 ・西側の棟:まき、美千代、…

参考記事

釧路(キャバレー大学)栄楽街。看板は、オレンジ色で統一。

釧路の栄町の歓楽街「栄楽街」。

すでに、閉店してしまっているようですが、「キャバーレー大学」の看板。

看板は、オレンジ色で統一されています。

18歳未満の方、入店お断りです。

参考文献

参考記事

釧路(遊楽街センター)隣り合う2棟。栄町2丁目。

釧路市の歓楽街、栄町2丁目の遊楽街センター。昭和の雰囲気が残っています。

遊楽街センターA(左側)、遊楽街センターB(右側)、の2棟が隣り合って配置されています。この2棟の天井部分が一体となっていて、一つの横丁建築になっています。

店舗は、現在も営業中です。

逆方向から。

参考文献

参考記事

生田原(北の王金山跡)現在も残る遺跡。現在の生田原神社の南側。

大正10年代から昭和初期にかけての生田原は、第一次世界大戦後の経済不況と農業の断続冷害凶作で、商業界は低迷の苦境を余儀なくされましたが、鉱山の操業という起死回生の天恵に救われ、再び活況を取り戻しました。*1
現在の生田原神社の南側に北の王金山跡の入口があります。

林道をしばらく歩くと、眼下に眺望が開けた場所へ出ます。

そこからすぐのところに残るコンクリート造りの建造物。

四角い窓が見えます。

参考文献

*1
生田原町*生田原町史生田原町1981
商業界の盛衰
P.524 鉄道開通と林業の勃興 大正3年、鉄道が開通すると、物資の需給は増大の一途をたどり、翌4年には…

参考記事

※1生田原(市街地図)生田原駅。昭和29年発行の「生田原市街地図」。

生田原(スナック店)玄関の隣の丸窓が印象的です。

カフェーの「日輪」*1※1※2があった通りの交差点の角。スナックが2軒建っています。

交差点の角にあるスナックは、昭和55年の市街図*2では「ムーラン」という屋号でした。

玄関の隣の丸窓が印象的です。

旧「銀月」。*2

参考文献

*1
生田原町*生田原町史生田原町1981
生田原町生田原町史資料:町制記念・生田原町市街図 昭和29年発行生田原町
「カフェー日輪」の記載。 (現在の遠軽町生田原418)
*2
生田原町*生田原町史生田原町1981
生田原町生田原町史資料:生田原町戸別明細図 昭和55年発行生田原町1980
交差点の角に、「ムーラン」、踏み切りの近くに「銀月」。

参考記事

※1生田原(カフェー跡)お食事の店。現在は休業中。※2生田原(市街地図)生田原駅。昭和29年発行の「生田原市街地図」。

生田原(カフェー跡)お食事の店。現在は休業中。

大正3年、生田原に鉄道が開通すると、翌4年には200戸におよぶ集散地市街が形成され、加えて第一次世界大戦の勃発は、空前の好景気をもたらし、上生田原市街では北区を「料理屋街」と称し、料理店や飲食店が軒をつらね、芸妓や酌婦48名をかぞえたそうです。*1

昭和29年発行の「生田原市街地図」*2※1 に記載のあった「カフェー日輪」は、地元の方の話によると、写真の「お食事の店」に改築され、現在は休業中とのことです。

お食事の店。

上生田原市街は大正9年の大火災や大戦景気の反動不況により、一時商店街しましたが、昭和初期にかけて、鉱山が操業し、再び活況を取り戻しました。鉱山が商店をうるおわせたことと符合するものに、サービス業、特に料理飲食店の繁昌がありました。

参考文献

*1
生田原町*生田原町史生田原町1981
商業界の盛衰
P.524 鉄道開通と林業の勃興 大正3年、鉄道が開通すると、物資の需給は増大の一途をたどり、翌4年には…
*2
生田原町*生田原町史生田原町1981
生田原町生田原町史資料:町制記念・生田原町市街図 昭和29年発行生田原町
「カフェー日輪」の記載。 (現在の遠軽町生田原418)

参考記事

※1生田原(市街地図)生田原駅。昭和29年発行の「生田原市街地図」。

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生田原(スナック店)玄関の隣の丸窓が印象的です。

生田原(市街地図)生田原駅。昭和29年発行の「生田原市街地図」。

今回は、生田原(北海道紋別郡遠軽町)の町並みを散歩します。生田原駅構内には、オホーツク文学館と図書館が併設されています。

図書館の入口に、昭和29年発行の「生田原市街地図」*1 が掲示してあります。

当時は、カフェーがあったようです。

北の王鉱山の全景。

網走(中川記念武道館)網走市名誉市民、中川イセ。

網走市街の南側の郊外(網走市南11条西2丁目)。ここに、網走市名誉市民の中川イセ※1 に関連すると思われる「中川記念武道館」があります。

中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1

日本大東流合気武道本部の建物として利用されています。

中川イセは、柔道三段。荒くれ人夫を一本背負いで投げ飛ばしたことがあるほど腕前でした。*1

参考文献

*1
山谷一郎岬を駈ける女はたもと出版1992
中川イセ略歴
P.270 中川イセ略歴 ・1901年(明治34年)8月26日山形県干布村荻野戸(ほしぬのむらおぎのと)に生まれ…

参考記事

※1網走(中川稲荷)網走の女傑、中川イセに因んだ稲荷。

網走(ときわ湯)市街の中心部。綺麗な銭湯。

網走市街の中心部にある銭湯のときわ湯。

最近改装されたのでしょうか。綺麗な銭湯です。

年季の入った煙突。

夜の銭湯。

参考文献

参考記事

網走(飲食街「楽天地」の壁面)隣の建物が撤去され更地に。

網走市街にある飲食街の楽天地ビル。隣の建物が撤去され更地になったため、壁面がむき出しの状態となっています。

老朽化が目立ちます。

天井部分。

奥まった場所にある公衆トイレ。

網走(北盛亭跡地)花街の象徴だった豪華な2階建て。

明治時代に繁栄した網走遊廓は、昭和に入ると繁栄は影を秘め、それに替わってそば屋と料亭が繁昌し、料亭では北盛亭が網走では一番大きく、当時野付牛(北見市)の梅の家と並んで、道東でも屈指と言われていました。*1
北盛亭は、南3東4交差点付近にありました。*2

北盛亭があった場所には、現在、石碑が建てれています。

石碑には、「2階建ての豪華な造りで、花街の象徴だった。」と書かれています。

近くには、網走川が流れています。

参考文献

*1
山谷一郎網走私史 第3集山谷一郎1995
あばしり紅灯街変遷史明治大正編
P.33 昭和編 昭和2年の頃は、町にまだカフェーと呼ぶものが一つもなかった。遊廓も四軒ほど残っていたが…
*2
北陽社網走市街明細図北陽社1929
現在の網走市南三条西に、 ・網走遊廓の金松楼、越中楼、北越楼、巴楼など ・割烹の北盛亭 の記載。

参考記事

網走(「浜長」網走駅前店)老舗大衆食堂。

今回は、網走(北海道網走市)の町並みを散歩します。
JR石北本線の網走駅前にある、老舗大衆食堂「長浜」。市街の中心部には本店があります。

麺類や丼物など、和食のメニューが中心です。

和風の店内は、ゆったりとしていてくつろげます。

かつ丼とビールを注文。

参考文献

参考記事

名寄(松葉屋食堂)元祖札幌ラーメン。

宗谷本線の風連駅から約300m。名寄市風連町仲町にある松葉屋食堂。

元祖札幌ラーメンの認定証。

ラーメンの種類は豊富です。

チャーシューラーメンを注文。

参考文献

参考記事

名寄(どんぐり小路)古い商店街に残るトタン建築。

名寄市西3条南6丁目。現在も市街の中心部で、その中には古い商店街が残っています。

「どんぐり小路」。1階には居酒屋などの飲食店が入っています。

建物の裏側。屋根裏部屋もあり、一部は3階建てです。

大規模なトタン建築です。

参考文献

参考記事

名寄(スナック店)有楽センターの向かい側。

名寄の有楽センター※1 の向かい側には、スナック店が建ち並んでいます。

一軒屋の建物の1階がスナックです。

木造の建物。

南側に西側へ入ったところにあるスナック。

名寄(有楽センター)かつての花街に建つ飲食ビル。

名寄のかつての花街だった場所(現在の西4条南5丁目付近)の南北の通りは、「錦通り」と命名されています。

錦通りに建つ飲食ビルの「遊楽センター」

1階が店舗。2階が居住スペースです。

夜の様子。

参考文献

参考記事

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名寄(スナック店)有楽センターの向かい側。

名寄(花街跡地)現在のグランドホテル藤花付近。

明治36年には、名寄には、りっぱな料烹街が名劇(現在のグランドホテル藤花、写真左奥)付近に出現していました。創設者は、その後の割烹「むらさき」の初代村崎久治と名劇先々代の沢井仁十郎で、所有していた旭川の遊廓街を売り払い、遊廓街の建設を目的に名寄に乗り込んできました。*1
割烹「むらさき」は、写真の右手前の道を入ったところにありました。*2

ところが、当時、遊廓街から遊廓街まで二十里以上なければならないという法律があり、遊廓街の建設計画はオジャンになり、料烹街になり、桜木町と命名されました。*1

当時4条通りには、川が流れていて、付近には、カマメシの天豊、料亭の平、北見屋、端、むらさき、清野、丸吉、花菱、丸福、などがありました。*3*4

検番(のちの芦口商店の場所)があったあたり。*2*3

参考文献

*1
名寄新聞社*なよろ百話名寄新聞社1967
桜木町
P.31 桜木町は、一夜にしてでき上った...といのはオーバーだが、そんな調子ででき上った私設市街であった…
*2
市立名寄図書館*名寄歴史地図史料集市立名寄図書館1990
名寄市市街案内図 昭和33年
・西五条の通りの北側に、「名寄劇場」「名寄横丁」の記載 ・その1本南側の通りに、「芦口商店」の記載…
*3
名寄新聞社*なよろ百話名寄新聞社1967
桜木町散歩
P.37 当時4条通りには、川が流れていた。橋を渡ると桜木町。いまの名劇(現在のグランドホテル藤花)前…
*4
東京交通社大日本職業別明細図 第385號 北海道東京交通社1934
名寄町市街図
割烹「かねとら」「福の家」「清野」「花菱」の記載。

参考記事

名寄(おでん屋「ふなちゃん」)。駅前から西に2本目の通り。

今回は、名寄(北海道名寄市)の町並みを散歩します。
JR宗谷本線名寄駅前。駅前から西に2本目の通り(西1条)を入ったところ。

隣の美容室の建物に寄り添うようにして、ラーメン屋の建物が建っています。地図によると、「ふなちゃん」という屋号の店のようです。この日は暖簾は出ていませんでした。

看板には、「ラーメン、おでん」と書かれています。

北海道らしさが残る煙突のあるトタン屋根の木造建築です。

参考文献

参考記事

帯広(「紀の川楼」跡地)木賊原遊廓。西7条本通り北四丁目付近。

西7条本通り北四丁目付近は、廓への通りでした。*1

紀の川楼があったあたり。*2 のちに国鉄寮となりました。*1
昭和30年頃と思われる住宅地図*3 には、「鉄輪荘」の記載があります。

日の出楼があったあたり(写真右側)。*2

新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と並んでいた(写真左側)通り。*2

参考文献

*1
花垣有介郷土史秘話(第一回)木賊原遊廓盛衰記月刊十勝ジャーナル 報道解説評論十勝ジャーナル社1973.7
P.46 帯広の開拓当初は、天候にも著しい変化のある土地の労働は、開拓者にとって長続きはせず、ある意味、…
*2
小野善也廓ばなしあれこれ 木賊原遊廓について郷土十勝 通巻第13号帯広市教育委員会1978
P.2 木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にあった。 当時の位置関係は次のようにな…
*3
帯広広告社帯広市大観帯広広告社
P.20 西五条に、「保健所寮」、西六条に「鉄輪荘」の記載。

参考記事

帯広(駆梅院跡地)木賊原遊廓。西6条北3丁目の遊園地。

木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にありました。*1

北3丁目線に面して東から西に大正楼、一心楼、日の出楼、と並び、その北側小路を挟んで、新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と東から西に並んでいました。*1

西6条北3丁目の遊園地になっているところには駆梅院がありました。*1

その後帯広保健所寮になっていたが、いまはありません。*1

参考文献

*1
小野善也廓ばなしあれこれ 木賊原遊廓について郷土十勝 通巻第13号帯広市教育委員会1978
P.2 木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にあった。 当時の位置関係は次のようにな…

参考記事

帯広(元祖豚丼の店)鰻丼にヒントを得たのがはじまり

今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みを散歩します。
帯広駅前にある豚丼専門店の「ぱんちょう」。元祖豚丼の店として知られています。*1

ばんちょうは、中国語で飯屋の意味。鰻丼。鰻のように甘辛いタレにヒントを得て、「ぱんちょう」の主人が思いついたのが豚丼のはじまりだそうです。*1

店の建物の壁面には、古い市街図。

豚肉8枚のせ、ごはん大盛を注文。満足のボリュームでした。

参考文献

*1
飯窪敏彦うちらのソウルフード(第3回)帯広の豚丼Tashinami(18):2013.Spr 文藝春秋2013
元祖豚丼のぱんちょう ばんちょうは、中国語で飯屋の意味。帯広豚丼はこの店から始まった。丼のふたを取…

参考記事

札幌(老舗ラーメン店)創業は昭和28年。サッポロ西山ラーメン。

すすきのの交差点(札幌市中央区南5条西5丁目)にある老舗ラーメン店。

創業は昭和28年です。
東宝後楽(映画館)横で、多くの屋台ラーメン屋と並んでいた頃から営業しています。*1

暖簾には、「サッポロ西山ラーメン」の文字。

醤油ラーメンと缶ビールを注文。

参考文献

*1
北海道新聞社これが札幌ラーメンだ北海道新聞社1994.10
芳蘭
P.45 尻のポケットに手をやるとサイフが無い。シマった。劇場でスラれた。名刺を渡そうとしたが、主人ら…

参考記事

札幌(すすきのゼロ番地地下飲食街)地下1階。昭和の歴史空間。

すすきの市場※1 の建物の地下1階部分は飲食店街になっています。

バーや小料理屋がひしめく飲食店街。*1

まさに、昭和の歴史空間です。

通路の両側からは、歌声が漏れ聞こえてきます。

参考文献

*1
読売新聞社さっぽろ大路小路札幌いまとむかし読売新聞社1972
ススキノ0番地街
P.82-P.83 「ススキノ0番地街」――ネオン街ど真ん中、南六西四に、東西百メートルにわたる地上五階地下一…

参考記事

※1札幌(すすきの市場)異色のゲタばき住宅。2階-5階は住宅公団のアパート。

札幌(すすきの市場)異色のゲタばき住宅。2階-5階は住宅公団のアパート。

ススキノのネオン街ど真ん中に、東西百メートルにわたる地上五階地下一階の細長いビル「すすきの市場」の建物があります。*1

2階-5階は住宅公団のアパートになっています。*1

長く続く廊下。

1階は、市場機能を有しています。

参考文献

*1
読売新聞社さっぽろ大路小路札幌いまとむかし読売新聞社1972
ススキノ0番地街
P.82-P.83 「ススキノ0番地街」――ネオン街ど真ん中、南六西四に、東西百メートルにわたる地上五階地下一…

参考記事

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札幌(すすきのゼロ番地地下飲食街)地下1階。昭和の歴史空間。

市川(夫婦石)市川真間駅

京成電鉄市川真間駅。

の線路沿いに、鏡石(夫婦石)があります。

案内板の説明によると、わが国では古くから、男女の性器に似た石を並べ、その年の豊穣を祈祷する風習があり、この石は、その男女の性器に似た石、つまり夫婦石の片割れの女性器の方ではないか、ということです。

中央部分が窪んでいます。

参考文献

参考記事

市川(名妓の碑)蓜島正次氏の呼びかけにより、1986年に建立。

真間川沿いにある浮嶋弁財天(市川市真間2丁目)のお堂の左脇に、「名妓の碑」が建っています。

市川の花柳界を支えてきた、今はなき名妓たちに思いを馳せ、昭和60年に建立されました。*1*2

蓜島正次氏(「里見八景園」の創設者の子息*3)らが世話人となり建立を呼びかけ、1986(昭和 60)年4月13日に建立されました。碑文は、国府台女子学院院長の平田博永氏が撰し、料亭栃木屋※1 の女将で書家でもある鈴木アイ子さんが揮毫しました。*1*2

碑には 24 名の芸妓の名も連ねられています。*2

参考文献

*1
西川智泰真間の里真間山周辺の文学史跡亀井院2000
P.83-P.84 名妓の碑 浮嶋弁財天のお堂の左脇に、かつて類を見ない珍しい碑が建っている。「名妓の碑」がそ…
*2
千葉商科大学政策情報学部朽木ゼミナール市川細見記千葉商科大学政策情報学部朽木ゼミナール2015.10.17 リンク
三業の発展

市川市にあった三業組合には、国府台の市川三業組合(国府台三業組合)と真間組…

*3
木ノ内博道市川 里見公園新聞木ノ内博道 リンク
第74号2011.11.30 リンク

■遊園地事業
現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけ…

参考記事

※1市川(栃木家)かつての花柳界の料亭

市川(料亭「大松」)現在は駐車場

京成電鉄の線路沿いの大松パーキング(駐車場)。

駐車場の片隅に、大松の建物が残されています。

現在は、カルチャーサロンの建物として利用されているようです。

料亭として営業中の頃の住宅地図。

参考文献

参考記事

市川(料亭「白藤」)関西料理

市川真間駅へ向かう道沿いに建つ「白藤」。

庭へ続く美しい石畳。

入口の白藤の石柱。「関西料理」と彫られています。
白藤の初代は昭和5年に関西から関東へやってきた最初の関西料理人の一人でした。*1

黒板壁が見事です。

参考文献

*1
吉清英夫座談会「市川の花柳界」月刊いちかわエピック2008.5

P.22-P.29
『県内にひとつとなった見番』
市川の花柳界は戦前まで、夜の…

参考記事

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市川(八幡神社)二業組合寄進の玉垣。

市川(レトロなラブホテル)

料亭栃木家※1 の西側。ビル街の路地を入ると、隠れ家的なホテルが佇んでいます。

周囲には木々が植えられていて、温かみのある雰囲気です。

ちょうど、果樹が見頃です。

レトロなネオン看板。

市川(栃木家)かつての花柳界の料亭

国道14号線沿いの北側。京成電鉄市川真間駅までの間がかつての市川花柳界の料亭であったエリア場所です。

ビル街の中の料亭の黒壁。

料亭栃木家。現在も営業中です。

入口。

市川(昭和3年の古地図)アイ・リンクタウン展望施設

市川駅前のアイ・リンクタウン展望施設は無料の展望施設です。*1
駅前からも見える※1 高層マンションの45階にあります。

展望施設のフロアに「昭和3年の市川町全景」が掲示されています。

明治18年に国府台に陸軍教導団が移転し、市川の町の発展の契機となりました。古地図には、導団が廃止されたあとに駐屯した陸軍の野戦重砲大7連隊の名が見えます。*2

市川の花柳界は戦前まで、夜の社交場、文化サロンとして賑わいました。*3
古地図には、料理屋の栃木屋、大松の名があります。

参考文献

*1
市川市アイ・リンクタウン展望施設市川市 リンク
I-linkタウンいちかわ ザ タワーズ ウエストの45階にある当展望施設は、地上150メートルから360度の大…
*2
市川ジャーナル編集部市川風土記市民の郷土史読本市川ジャーナル社1974
P.208 商店街の形成 市川に商店が軒をならべ、商店街が形成されるには、それに応じた消費人口の増加が必…
*3
吉清英夫座談会「市川の花柳界」月刊いちかわエピック2008.5

P.22-P.29
『県内にひとつとなった見番』
市川の花柳界は戦前まで、夜の…

参考記事

※1市川(シャトー)駅前

市川(シャトー)駅前

今回は、市川(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR市川駅北口を出て西側へ線路沿いの路地を入ったところにあるホテルシャトー。

隠れ家的で静かな雰囲気です。

線路を挟んだ南側には、高層マンション「アイ・リンクタウン」。

高層マンション「アイ・リンクタウン」のエレベータから見たシャトー。本館と別館に分かれています。

参考文献

参考記事

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市川(昭和3年の古地図)アイ・リンクタウン展望施設

豊川(大衆食堂、めし)巨大オムライスに驚愕

名鉄線の豊川駅の隣の駅、稲荷口駅から約500m。住宅街の中に大衆食堂の「大善食堂」があります。

壁に書かれた「めし」の文字。

大衆食堂らいしい雰囲気です。

オムライス(大盛)とビールを注文。巨大なオムライスに驚愕しました。

参考文献

参考記事

豊川(レトロなキャバレー)昭和の雰囲気漂う看板。

名鉄豊川線の豊川駅から2つ目の諏訪町駅近くにあるキャバレーの建物。
複雑な形をしています。

赤と白。

1階と2階があるようです。

昭和の雰囲気漂う看板。

参考文献

参考記事

豊川(料理屋「小松屋」の小路)レトロな佇まい。

飲食店「みほ」がある小路※1 の1本西側の小路。
料理屋が2軒並んでいます。

料理屋の「小松屋」。

レトロな佇まいです。

小路(写真左側)の裏側は広い駐車場になっています。写真の右側は、飲食店「みほ」※1 がある小路に連なる建物の裏側。

豊川(駅前通り南側の路地)飲食店の斜めドア。

豊川の駅前通り。商店街の南側に細い路地が続いています。

飲食店「みほ」。

斜めドア。

かつては、賑やかな通りだったのかもしれません。

参考文献

参考記事

豊川(門前通りの飲食店)飲食店やみやげもの屋。バーの看板。

今回は、豊川(愛知県豊川市)の町並みを散歩します。
豊川稲荷の開帳(昭和29年)や豊橋博以降、昭和30年代、豊川の参拝客はうなぎのぼりに増加し、昭和38年には自動車時代を迎え、豊川稲荷の観光化が目立つようになりました。*1
豊川稲荷の門前通りには、レトロな飲食店やみやげもの屋が軒を連ねます。

こちらの飲食店は、現在はかき氷などの甘味類の店になっています。

駅前の西本町通り沿いの飲食店。

バーの看板。

参考文献

*1
新編豊川市史編集委員会新編豊川市史 第4巻(通史編)豊川市2006.3
P.248-P.249 豊川稲荷の開帳(昭和29年)や豊橋博以降、昭和30年代、豊川の参拝客はうなぎのぼりに上昇し…

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豊川(料理屋「小松屋」の小路)レトロな佇まい。

御油(うなぎ屋)遊女屋があったあたり。旧赤坂宿。

旧御油宿から、「御油の松並木」を過ぎると旧赤坂宿です。その間約500mです。

長福寺近くにあるうなぎ屋さん。
江戸時代、この付近は、女郎置屋が建ち並ぶ一画でした。*1

井戸水の中で泳がせた国産のうなぎを使用しているそうです。(張り紙より)

うな丼と缶ビールを注文。

参考文献

*1
今井金吾今昔東海道独案内日本交通公社出版事業局1994
赤坂より藤川へ