神田須田町二丁目の「肉の万世秋葉原本店」の東側の一画。ビルとビルの間に、狭い空間があります。
生活用の通路となっているようです。
長い側溝。
マンションの1階部分を貫通しています。
神田須田町二丁目の「肉の万世秋葉原本店」の東側の一画。ビルとビルの間に、狭い空間があります。
生活用の通路となっているようです。
長い側溝。
マンションの1階部分を貫通しています。
神田須田町の京浜東北線の「第一柳町橋高架橋」。高架下が倉庫のスペースになっています。
「たばこのむな」の注意書き。
最近は使われなくなりましたが、昔は、たばこを「のむ」という言い方が使われていました。
南隣の「平永町橋高架橋」。こちらは、「禁煙」の注意書きです。
神田須田町の柳原通り※1 を南側に入った路地。このあたり問屋街だったと思われます。右側の建物には、株式会社西田文庫と書かれていました。
左側の建物は、ビデオ&本。
「大人の夢をかなえる!!」成人向けの店舗だったようです。
店名の「ドリーム」の「ド」の濁点部分には、ハートのマーク♡♡がデザインされています。
建物脇の路地。
今回は、神田須田町(かんだすだちょう、東京都千代田区)の町並みを散歩します。
秋葉原の万世橋を渡り、すぐに左へ曲がり、山の手線のガードをくぐると。柳森神社の前(柳原通り)に出ます。今は神田須田町二丁目ですが、このあたりは、元柳原町と呼ばれていました。柳原は、明治には古着市場であり、その後、既製服問屋街になりました。柳原通りは昭和初期にはかなりにぎやかだったそうです。この一画には、昔からの看板建築の商店が残っています。この付近は戦災の時に焼けないで残りました。*1
写真は、岡昌(おかしょう)裏地ボタン店(昭和3年築)。*2昭和通りに出る少し手前の右手に残るしゃれたファザードの一軒は、海老原商店という服地店です。*1*3*4
海老原商店は昭和初期(1927)につくられました。*1*3
2階窓下には、白漆喰による海老原商店の文字看板*3
上部には、ネオ・クラシックやアール・デコがミックスされたような装飾が上部についています。*1
釧路駅前の飲食街「鉄北センター」※1※2 の東側の棟。
テレホンクラブの看板。
テレホンクラブ「モンロー」。マリリン・モンローにちなんだ店名でしょうか。
現在は休業中のようです。店の前には荷物が山積みにされています。
鉄北センター※1 は、東西に2棟あって、現在営業中の店舗が多いのは、こちらの西側の棟です。
反対側(南側)から。
レトロ感漂うスナック店。
夜の鉄北センター。
釧路駅の北側の若松町2丁目。駅前の通りは鉄北幹線通りと呼ばれています。道路沿いに、「鉄北センター」の建物があります。
西側から見た建物の壁面。2階建て建物が延々と続きます。
西側の入口。
夜の鉄北センター。
釧路市大町にある銭湯の草津湯。
建物は、改築していますが、創業は大正8年だそうです。*1
奥行のある建物です。
反対側。
釧路市米町3丁目にある銭湯の岬湯。
正面はこちら側です。
裏側からは、立派な煙突をみることができます。
最近、惜しくも休業となったようです。張り紙が貼られていました。
釧路の久寿里橋通り。久寿里橋は、釧路川に架かる橋で幣舞橋の1本上流です。
かつての飲み屋街「城山歓楽街」の跡が残っています。
かつての栄華がしのばれます。
「城山歓楽街」は2棟あって、こちらは、西側の棟です。
釧路の栄町の歓楽街「栄楽街」。
すでに、閉店してしまっているようですが、「キャバーレー大学」の看板。
看板は、オレンジ色で統一されています。
18歳未満の方、入店お断りです。
釧路市の歓楽街、栄町2丁目の遊楽街センター。昭和の雰囲気が残っています。
遊楽街センターA(左側)、遊楽街センターB(右側)、の2棟が隣り合って配置されています。この2棟の天井部分が一体となっていて、一つの横丁建築になっています。
店舗は、現在も営業中です。
逆方向から。
大正10年代から昭和初期にかけての生田原は、第一次世界大戦後の経済不況と農業の断続冷害凶作で、商業界は低迷の苦境を余儀なくされましたが、鉱山の操業という起死回生の天恵に救われ、再び活況を取り戻しました。*1
現在の生田原神社の南側に北の王金山跡の入口があります。
林道をしばらく歩くと、眼下に眺望が開けた場所へ出ます。
そこからすぐのところに残るコンクリート造りの建造物。
四角い窓が見えます。
カフェーの「日輪」*1※1※2があった通りの交差点の角。スナックが2軒建っています。
交差点の角にあるスナックは、昭和55年の市街図*2では「ムーラン」という屋号でした。
玄関の隣の丸窓が印象的です。
旧「銀月」。*2
大正3年、生田原に鉄道が開通すると、翌4年には200戸におよぶ集散地市街が形成され、加えて第一次世界大戦の勃発は、空前の好景気をもたらし、上生田原市街では北区を「料理屋街」と称し、料理店や飲食店が軒をつらね、芸妓や酌婦48名をかぞえたそうです。*1
昭和29年発行の「生田原市街地図」*2※1 に記載のあった「カフェー日輪」は、地元の方の話によると、写真の「お食事の店」に改築され、現在は休業中とのことです。
お食事の店。
上生田原市街は大正9年の大火災や大戦景気の反動不況により、一時商店街しましたが、昭和初期にかけて、鉱山が操業し、再び活況を取り戻しました。鉱山が商店をうるおわせたことと符合するものに、サービス業、特に料理飲食店の繁昌がありました。
今回は、生田原(北海道紋別郡遠軽町)の町並みを散歩します。生田原駅構内には、オホーツク文学館と図書館が併設されています。
図書館の入口に、昭和29年発行の「生田原市街地図」*1 が掲示してあります。
当時は、カフェーがあったようです。
北の王鉱山の全景。
網走市街の南側の郊外(網走市南11条西2丁目)。ここに、網走市名誉市民の中川イセ※1 に関連すると思われる「中川記念武道館」があります。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1
日本大東流合気武道本部の建物として利用されています。
中川イセは、柔道三段。荒くれ人夫を一本背負いで投げ飛ばしたことがあるほど腕前でした。*1
網走市街の中心部にある銭湯のときわ湯。
最近改装されたのでしょうか。綺麗な銭湯です。
年季の入った煙突。
夜の銭湯。
網走市街にある飲食街の楽天地ビル。隣の建物が撤去され更地になったため、壁面がむき出しの状態となっています。
老朽化が目立ちます。
天井部分。
奥まった場所にある公衆トイレ。
明治時代に繁栄した網走遊廓は、昭和に入ると繁栄は影を秘め、それに替わってそば屋と料亭が繁昌し、料亭では北盛亭が網走では一番大きく、当時野付牛(北見市)の梅の家と並んで、道東でも屈指と言われていました。*1
北盛亭は、南3東4交差点付近にありました。*2
北盛亭があった場所には、現在、石碑が建てれています。
石碑には、「2階建ての豪華な造りで、花街の象徴だった。」と書かれています。
近くには、網走川が流れています。
今回は、網走(北海道網走市)の町並みを散歩します。
JR石北本線の網走駅前にある、老舗大衆食堂「長浜」。市街の中心部には本店があります。
麺類や丼物など、和食のメニューが中心です。
和風の店内は、ゆったりとしていてくつろげます。
かつ丼とビールを注文。
宗谷本線の風連駅から約300m。名寄市風連町仲町にある松葉屋食堂。
元祖札幌ラーメンの認定証。
ラーメンの種類は豊富です。
チャーシューラーメンを注文。
名寄市西3条南6丁目。現在も市街の中心部で、その中には古い商店街が残っています。
「どんぐり小路」。1階には居酒屋などの飲食店が入っています。
建物の裏側。屋根裏部屋もあり、一部は3階建てです。
大規模なトタン建築です。
名寄の有楽センター※1 の向かい側には、スナック店が建ち並んでいます。
一軒屋の建物の1階がスナックです。
木造の建物。
南側に西側へ入ったところにあるスナック。
名寄のかつての花街だった場所(現在の西4条南5丁目付近)の南北の通りは、「錦通り」と命名されています。
錦通りに建つ飲食ビルの「遊楽センター」
1階が店舗。2階が居住スペースです。
夜の様子。
明治36年には、名寄には、りっぱな料烹街が名劇(現在のグランドホテル藤花、写真左奥)付近に出現していました。創設者は、その後の割烹「むらさき」の初代村崎久治と名劇先々代の沢井仁十郎で、所有していた旭川の遊廓街を売り払い、遊廓街の建設を目的に名寄に乗り込んできました。*1
割烹「むらさき」は、写真の右手前の道を入ったところにありました。*2
ところが、当時、遊廓街から遊廓街まで二十里以上なければならないという法律があり、遊廓街の建設計画はオジャンになり、料烹街になり、桜木町と命名されました。*1
当時4条通りには、川が流れていて、付近には、カマメシの天豊、料亭の平、北見屋、端、むらさき、清野、丸吉、花菱、丸福、などがありました。*3*4
検番(のちの芦口商店の場所)があったあたり。*2*3
今回は、名寄(北海道名寄市)の町並みを散歩します。
JR宗谷本線名寄駅前。駅前から西に2本目の通り(西1条)を入ったところ。
隣の美容室の建物に寄り添うようにして、ラーメン屋の建物が建っています。地図によると、「ふなちゃん」という屋号の店のようです。この日は暖簾は出ていませんでした。
看板には、「ラーメン、おでん」と書かれています。
北海道らしさが残る煙突のあるトタン屋根の木造建築です。
西7条本通り北四丁目付近は、廓への通りでした。*1
紀の川楼があったあたり。*2 のちに国鉄寮となりました。*1
昭和30年頃と思われる住宅地図*3 には、「鉄輪荘」の記載があります。
日の出楼があったあたり(写真右側)。*2
新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と並んでいた(写真左側)通り。*2
木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にありました。*1
北3丁目線に面して東から西に大正楼、一心楼、日の出楼、と並び、その北側小路を挟んで、新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と東から西に並んでいました。*1
西6条北3丁目の遊園地になっているところには駆梅院がありました。*1
その後帯広保健所寮になっていたが、いまはありません。*1
今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みを散歩します。
帯広駅前にある豚丼専門店の「ぱんちょう」。元祖豚丼の店として知られています。*1
ばんちょうは、中国語で飯屋の意味。鰻丼。鰻のように甘辛いタレにヒントを得て、「ぱんちょう」の主人が思いついたのが豚丼のはじまりだそうです。*1
店の建物の壁面には、古い市街図。
豚肉8枚のせ、ごはん大盛を注文。満足のボリュームでした。
すすきのの交差点(札幌市中央区南5条西5丁目)にある老舗ラーメン店。
創業は昭和28年です。
東宝後楽(映画館)横で、多くの屋台ラーメン屋と並んでいた頃から営業しています。*1
暖簾には、「サッポロ西山ラーメン」の文字。
醤油ラーメンと缶ビールを注文。
すすきの市場※1 の建物の地下1階部分は飲食店街になっています。
バーや小料理屋がひしめく飲食店街。*1
まさに、昭和の歴史空間です。
通路の両側からは、歌声が漏れ聞こえてきます。
ススキノのネオン街ど真ん中に、東西百メートルにわたる地上五階地下一階の細長いビル「すすきの市場」の建物があります。*1
2階-5階は住宅公団のアパートになっています。*1
長く続く廊下。
1階は、市場機能を有しています。
京成電鉄市川真間駅。
の線路沿いに、鏡石(夫婦石)があります。
案内板の説明によると、わが国では古くから、男女の性器に似た石を並べ、その年の豊穣を祈祷する風習があり、この石は、その男女の性器に似た石、つまり夫婦石の片割れの女性器の方ではないか、ということです。
中央部分が窪んでいます。
真間川沿いにある浮嶋弁財天(市川市真間2丁目)のお堂の左脇に、「名妓の碑」が建っています。
市川の花柳界を支えてきた、今はなき名妓たちに思いを馳せ、昭和60年に建立されました。*1*2
蓜島正次氏(「里見八景園」の創設者の子息*3)らが世話人となり建立を呼びかけ、1986(昭和 60)年4月13日に建立されました。碑文は、国府台女子学院院長の平田博永氏が撰し、料亭栃木屋※1 の女将で書家でもある鈴木アイ子さんが揮毫しました。*1*2
碑には 24 名の芸妓の名も連ねられています。*2
京成電鉄の線路沿いの大松パーキング(駐車場)。
駐車場の片隅に、大松の建物が残されています。
現在は、カルチャーサロンの建物として利用されているようです。
料亭として営業中の頃の住宅地図。
市川真間駅へ向かう道沿いに建つ「白藤」。
庭へ続く美しい石畳。
入口の白藤の石柱。「関西料理」と彫られています。
白藤の初代は昭和5年に関西から関東へやってきた最初の関西料理人の一人でした。*1
黒板壁が見事です。
料亭栃木家※1 の西側。ビル街の路地を入ると、隠れ家的なホテルが佇んでいます。
周囲には木々が植えられていて、温かみのある雰囲気です。
ちょうど、果樹が見頃です。
レトロなネオン看板。
国道14号線沿いの北側。京成電鉄市川真間駅までの間がかつての市川花柳界の料亭であったエリア場所です。
ビル街の中の料亭の黒壁。
料亭栃木家。現在も営業中です。
入口。
市川駅前のアイ・リンクタウン展望施設は無料の展望施設です。*1
駅前からも見える※1 高層マンションの45階にあります。
展望施設のフロアに「昭和3年の市川町全景」が掲示されています。
明治18年に国府台に陸軍教導団が移転し、市川の町の発展の契機となりました。古地図には、導団が廃止されたあとに駐屯した陸軍の野戦重砲大7連隊の名が見えます。*2
市川の花柳界は戦前まで、夜の社交場、文化サロンとして賑わいました。*3
古地図には、料理屋の栃木屋、大松の名があります。
P.22-P.29
『県内にひとつとなった見番』
市川の花柳界は戦前まで、夜の…
今回は、市川(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR市川駅北口を出て西側へ線路沿いの路地を入ったところにあるホテルシャトー。
隠れ家的で静かな雰囲気です。
線路を挟んだ南側には、高層マンション「アイ・リンクタウン」。
高層マンション「アイ・リンクタウン」のエレベータから見たシャトー。本館と別館に分かれています。
名鉄線の豊川駅の隣の駅、稲荷口駅から約500m。住宅街の中に大衆食堂の「大善食堂」があります。
壁に書かれた「めし」の文字。
大衆食堂らいしい雰囲気です。
オムライス(大盛)とビールを注文。巨大なオムライスに驚愕しました。
名鉄豊川線の豊川駅から2つ目の諏訪町駅近くにあるキャバレーの建物。
複雑な形をしています。
赤と白。
1階と2階があるようです。
昭和の雰囲気漂う看板。
飲食店「みほ」がある小路※1 の1本西側の小路。
料理屋が2軒並んでいます。
料理屋の「小松屋」。
レトロな佇まいです。
小路(写真左側)の裏側は広い駐車場になっています。写真の右側は、飲食店「みほ」※1 がある小路に連なる建物の裏側。
豊川の駅前通り。商店街の南側に細い路地が続いています。
飲食店「みほ」。
斜めドア。
かつては、賑やかな通りだったのかもしれません。
今回は、豊川(愛知県豊川市)の町並みを散歩します。
豊川稲荷の開帳(昭和29年)や豊橋博以降、昭和30年代、豊川の参拝客はうなぎのぼりに増加し、昭和38年には自動車時代を迎え、豊川稲荷の観光化が目立つようになりました。*1
豊川稲荷の門前通りには、レトロな飲食店やみやげもの屋が軒を連ねます。
こちらの飲食店は、現在はかき氷などの甘味類の店になっています。
駅前の西本町通り沿いの飲食店。
バーの看板。
旧御油宿から、「御油の松並木」を過ぎると旧赤坂宿です。その間約500mです。
長福寺近くにあるうなぎ屋さん。
江戸時代、この付近は、女郎置屋が建ち並ぶ一画でした。*1
井戸水の中で泳がせた国産のうなぎを使用しているそうです。(張り紙より)
うな丼と缶ビールを注文。
東海道五十三次宿時代の御油※1 は、大小名参勤交代、上下の旅人によって殷賑を極めました。遊女屋は、中町、中上町、伝馬町に全盛の頃は30軒余りありました。*1
現在は、当時の面影を残す建物は少なくなってきています。*1
イチビキ醤油手前の元女郎屋の建物。*1
中町の銭屋(女郎屋)があったあたり。*1
今回は、御油(ごゆ、愛知県豊川市)の町並みを散歩します。
御油は、江戸時代、東海道五十三次の中でも「御油に赤坂吉田がなくば何のよしみで江戸通い」と俗謡にも謡われるほど、飯盛で街道筋に聞こえた遊興の宿場でした。*1
写真は、かつての御油宿の入口にあたる旧御油橋です。
江戸時代の御油宿の様子は、歌川広重の木版画「東海道五拾三次之内36御油《旅人留女》」に描かれています。
御油の宿では日暮れにもなると、「留女(とめおんな)」と呼ばれた女たちの旅籠への客引きがさかんでした。『東海道中膝栗毛』には「両がはより出くる留女、いずれもめんをかぶりたるごとくぬりたてるが・・」とあります。*2
明治に入ると交通手段の主役が鉄道に移り、それについれて旧御油宿は次第にさびれていきました。御油橋を渡る旧東海道沿いは裏通りとして利用されています。*1
拳母(現在の豊田市のこと)には、カフェー(いわゆる特殊飲食店)が集団的に一画を形成していました*1。
特殊飲食店街は「観月境」と呼ばれ、昭和33年の赤線廃止まで続き、最盛期には、80~90人ほどの女性が働き、午前1時ころまで営業していました。現在では月見町という地名にその名残があります。*2
現在の月見町。
当時の屋号*3 を引きつぐビジネスホテル。
赤線廃止直後の1965年の住宅地図*4によると、旅館小楽があったのは、現在のビジネスホテルがある場所の1本北側の通りでした。
喜楽亭※1 は、内部を見学(無料)することができます。
庭園。
1階の渡り廊下の意匠。
2階の大広間。
豊田産業文化センターの敷地に喜楽亭建物が建っています。新明町にあった喜楽亭※1 が閉店後、移築されたものです。*1
創業は明治時代。贅を凝らした料理屋の建築を間近に見ることができます。*1
2階部分。
建物の前の庭園を含め、周囲を一周できます。
今回は、豊田(愛知県豊田市)の町並みを散歩します。
昭和40年頃の拳母(現在の豊田市街)には「喜楽亭」「魚十」「澤屋」「福好」「喜多善」「大見屋」「魚兼」「住吉」「くろ猫」「清こま」などの料理屋がありました。*1
豊田市街の神明町には、小料理屋、小料理屋兼旅館が軒をつらね、格子づくりの置屋が何軒もありました。*2
喜楽亭があったあたり。*3*4
いちらく(一楽)、タクシーの黒船などがあった新明町の通り。*2*4
袋小路には、数えきれないほどの芸者置屋、稽古場があったそうです。*2
町の商店街の四つ角のたばこ屋。
たばこの自販機の上半分のシャッターが開くと有人のたばこ屋さんに変わる仕組みです。
ディスプレイ部分。
芝浦のマーク。
かつては、波止浜の中心街だった本町の通り。通りの中ほどに、美容院の建物があります。
1階はタイル貼りのバーが併設されています。
2階は紫色です。
カラフルなタイル。
波止浜の本町通り。
昭和30年代の終わりころには、本町は、波止浜の町の中心でした。*1
洋酒の店。
2階にスナックが入っているビル。
1階は、飲食店だったようです。
波止浜の仲之町の通り沿いに、タイル貼りの理容室の建物があります。
建物の全面がタイルで覆われています。
ひさし部分。
水色にピンクのライン。
今回は、波止浜(はしはま、愛媛県今治市)の町並みを散歩します。
江戸時代の波止浜は、製塩の町で、同時に瀬戸内海航路の潮待ち・風待ちの港町としても発展しました。*1
小高い山の上(写真左上)には、戦前、一茶亭というわら屋根の旅館があって、町や港を見渡すことができる旅館なので、船で波止浜に来た人や芸者さんと遊んだりする人がここに泊まったそうです。*2
現在、丘の上は、駐車場になっています。
駐車場から造船所のドックのクレーンが見えます。
井戸。波止浜の町は埋め立てて造成されたたため、飲料水や生活用水を確保することは重要でした。*3
今治市の本町六丁目。海に近いあたりに銭湯の大黒湯があります。
道路沿いの銭湯。
入口の円柱は、松山の祇園湯※1 と同じ特徴です。
見ていると目が回りそうなタイルの装飾。
栄町の歓楽街の隣の通り(今治市室屋町2丁目)。ここにかつてのキャバレーの建物が残っています。
「明星観光」と大きな文字で書かれた商業ビル。黒とオレンジのコントラストが強烈です。
現在は、「カラオケランド明星」が営業中です。
入口には、キャバレーの看板。かつての栄華が偲ばれます。
今治市街の歓楽街、共栄町に残る今治ラヂウム温泉本館。その特異な外観の建物は、今治で戦前より残るランドマーク的な存在です。*1
ホテルと温泉が一体となった娯楽施設です。現在は閉館している模様です。
レンガ造りの煙突。
売店。
今治駅前にある台湾料理・飲茶店の「碧空」。
古風な佇まいの店です。
地元の方の話によると、戦後まもなく開業し、当時の流行の先端をいくバーだったそうです。
ビールとおつまみを注文。
今治駅前の青線跡の建物。※1 木造二階建てです。
18歳未満お断りのプレート。
年季の入ったスタンドの入口。
窓が壊れた廃屋は、内部が露出している状態です。水着の女性のポスターが貼られています。
今回は、今治(愛媛県今治市)の町並みを散歩します。
今治駅前に残る長屋建物。地元の方の話によると、かつては数軒の旅館があって、非公認の女性街だったそうです。
南側から。
営業中のスナックもあります。
北側にももう一軒あります。
道後温泉駅前にある道後稲荷神社。
百度石。
大阪南地が寄進した玉垣。
南地は、1872年に指定された五花街(曽根崎新地、南地、新町、堀江、松島)の一つで、五花街のうちでも華やかで濃艶な花街でした。*1
他にも、料理屋が寄進した玉垣があります。
今回は、道後(愛媛県松山市)の町並みを散歩します。
道後温泉の北側郊外。ため池の脇の山道を登ります。
1本道の山道が続きます。
道後温泉から歩きはじめて約1時間。ようやく瀬戸風峠に到着しました。
この峠は、標高210mで、松山市街地を見下ろす絶好の場所です。市街地の中心に位置する松山城から北東の方角に約3km離れていて、最も手前に見えるビル群は、かつて伊台・五明方面から道後や城下に通じる交通の要衝でした。(案内板より)
松山市祇園町にある銭湯の祇園湯。
タイルで装飾された入り口。中央の大きな円柱が特徴です。
最寄りの駅はいよ鉄のいよ立花駅ですが、松山市街からも徒歩で行ける位置です。
年季の入った感じの脱衣場。
三番町二丁目の「キャバレームーン」のある通り※1 の北側の通り。
キャバレー三昧。
夜になると開店します。
赤と緑のネオン看板。
今回は、松山(愛媛県松山市)の町並みを散歩します。
三番町二丁目の南側の歓楽街。飲食店が立ち並びます。
キャバレー「ムーン」。昭和40年の市街図*1 にも記載されている老舗です。
クラブムーンの大看板。
ハワイの看板。付近にハワイの店舗は見あたりません。
多度津の東浜。多度津港近くにある大衆食堂の水田食堂。
昭和を感じさせる店内。
なべ焼きうどんを注文。
年代物の栓抜き。
多度津町の市街を流れる桜川。川沿いにマッサージ店があります。
あん摩やの大看板。
マッサージ店。
あん摩やの暖簾。
多度津は、木製牛乳箱が豊富です。
らくれん牛乳。
縦に2つ。
横に2つ。
多度津市街には、コンクリゴミ箱が多数残っています。
写真は、旧花街の路地の入口のゴミ箱。
駅近くの住宅地。
木製の蓋のゴミ箱。
地蔵堂脇のコンクリゴミ箱。
明治三十七、八年頃の内湛浦と附近の略図*1 には、稲荷神社下の通り※1 から西浜の港に面した通りに「廓街」の記載があり、「廓街」はL字型に伸びていたと思われます。
西浜の遊廓街の入り口のあたりには、大島楼、岡本楼、朝日楼がありました。※2
旧開化楼と思われる建物。※2
すぐ後ろには、崖が迫っています。
当時の風格を残しています。
多度津町住宅明細地図※1 によると、稲荷神社の下のこのあたりに、芝居小屋の辨天座(旧翁座)がありました。
歓楽街の中心部だった通り。
旧「カフェミステ」。
大型の建物です。
多度津町立資料館に昭和年発行の「多度津町住宅明細地図」が展示されています。
当時の市街の様子の詳細をうかがい知ることができる貴重な資料です。
花街があったあたり。
稲荷神社(辨天社)の坂を下ったあたりに、芝居小屋の「辨天座(旧翁座)」銭湯の柳湯の名が見えます。同じ通り沿いに、小松楼、カフェミステなどの屋号があり、この付近が歓楽街であったことがわかります。
西浜の海岸沿い。海岸沿いの通りに、大島楼、岡本楼、朝日楼、開化楼、久永楼、石川楼などの屋号が確認できます。
今回は、多度津(たどつ、香川県仲多度郡多度津)の町並みを散歩します。
多度津町立資料館には、多度津にゆかりのある文化財等の資料が収集されています。*1
「多度津のくらし」の展示コーナー
芝居小屋翁座の模型。
解説文によると、翁座は、西浜の稲荷神社下の花柳町の真ん中にあって、道頓堀の一流の劇場を模倣して建立されたそうです。
明治37,8年頃の市街図には、正一位稲荷大明神の下(妙應寺の西)に翁座の記載があります。*2
坂出の商店街「サンロード」沿い(坂出市本町2丁目)にある「どんや食堂」。
昔ながらの大衆食堂です。
メニーは、うどん、寿司、そば、そうめん。
うどん、ちらし寿司、缶ビールを注文。
坂出港の南側(坂出市西大浜北)はビジネスホテルとラブテホル混在して立地するエリアです。
築地橋南交差点近くにある巨大ラブホテル。
長大な入口のゲート。
坂出プラザホテル近くにある巨大ラブホテル。
坂出プラザホテルの大きさに負けていません。
沖湛甫南岸にある金刀比羅宮。かつての栄華をしのばせる神社です。*1
右側の像。
小さいですが、男根が刻まれていますので、雄ということでしょうか。
反対側の像には、シンポルらしきものはありません。
坂出には、売春防止法が施工される昭和33年(1958)まで沖湛甫に遊廓がありました。日の出・奴・新栄などの店があり、外国の船員さんも来ていました。*1
遊廓は、沖湛甫の南岸に建ち並んでいました。
奥行のある古い建物。
旅館「潮風」。
今回は、坂出(香川県坂出市)の町並みを散歩します。
坂出市郷土資料館の建物は、大正8年に建設された坂出商業学校の建物で、大正初期の建築様式をとどめています。*1
資料館前の庭に白ポストが設置されています。駅前に設置されているケースが多い白ポストですが、資料館前の庭に設置されているのは珍しいです。
古新聞、家庭ゴミ等を入れると、刑法「偽計業務妨害罪」若しくは軽犯罪法「不法投棄罪」違反として処罰されます。
丸型ポスト。
高松市街の片原町駅近く。フェリー通りに面したところに、大きな建物の風俗店があります。
建物とほぼ同じ大きさの大看板。
看板を取り付ける支えも重厚です。
夜になるとネオンが輝きます。
高松市御坊町の西福寺近くの道路。歓楽街の中心部からは外れたエリアです。
下からは到底見ることができない場所にそれは有ります。
最上段のビデオ店の看板脇の貼り紙。
18才未満の方の利用はお断りします。青少年の福祉を阻害する行為(淫行等)をした者は、条例により罰せられることがあります。
と書かれています。
通常の位置から眺めると、肉眼で読むことは困難です。;
高知の中心街「ライオン通り」と交差する「古馬場通り」。看板が密集しています。
この付近が歓楽街の中心です。
「女学院」の看板。
付近に「女学院」という名の店舗は見当たりません。看板だけが取り残され、“無用看板”となっています。
華下天満宮脇の小路に掲示されている「古天神味の店」の案内図。トイレの場所を教えてくれています。
呑み屋横丁のトイレ。
綺麗に掃除されています。
ドアに貼られた堀北真希さんのシール。虫歯予防ハミガキのCM当時のものです。
百閒町の華下天満宮の小路「古天神味の店」※1 に残る大人のオモチャ屋さん。
大人のオモチャ「ポルノショップ」百閒町店。
現在は、閉店しているようです。
張形(はりかた、おとなのオモチャ)は、さかのぼれば古代ギリシアでも象牙、革製のものが使われていて、日本でもリップスティック状のものはありましたが、電動バイブのようなものとしては、「熊ん子」が元祖で、大阪万博の頃に登場しました*1。
クリバイブから伸びる舌のような突起が、熊の口のデザインになっています。本体うねりの部分には顔が刻まれ、「民芸品」の「電動こけし」として、昔は、温泉街の路地裏のお店などで販売されていました。*2
今回は、高松(香川県高松市)の町並みを散歩します。
高松市街の百間町にある「華下天満宮」前の小規模な飲み屋街「古天神味の店」。
居酒屋やスナックが建ち並ぶメインの通り。
裏側の通り。
古びたスナックの入口。
高知市帯屋町1丁目の飲み屋小路。落ち着いた感じのスナック店が建ち並びます。
窓に特徴のある「壁」という店。
小路は、L字型になっていて、大通りへ抜けれます。
夜の様子。
堺町の中央緑地沿い。昼間は閑散としています。
大人のおもちゃ屋さん
陳列している商品。
「ピンク堂」の看板。
高知市与力町(堺町の西側)の交差点の角にあるレトロな「マキ美容室」の建物。
横から見ると、驚くほど狭小な建物であることがわかります。
入口付近。こちらは、「サロンK」という屋号です。
カラフルなタイルの装飾。
高知市南はりまや町。鏡川の堤防に近いあたり。
あん摩マッサージ屋さん。
インパクトのあるR(アール)あんま乳房マッサージの看板。
こちらが出入り口のようです。
潮江橋から見る鏡川河畔(高知市天神町)は、観光ホテルとラブホテルとが混在し、奇妙な風景をつくりだしてています。*1
派手な色のラブホテルの建物。
古城を模した建物もあります。
夜になると、鏡川におちるネオンの影が美しい夜景を演出します。
高知市南はりまや町にある料亭「得月楼」は、宮尾登美子著の「陽暉楼」の舞台なった料亭です。*1
創業者の松岡寅八は、幼年時代から商売を仕込まれ、明治5年に独力で陽暉楼をはじめ、更に得月楼を創業(明治11年・1878・谷干城命名)。後に本店を稲荷町に移し、中店を浦戸に置いて、数カ所に出店して発展させました。現在の得月は中店です。*2*3
見事な庭園。
昼のランチはリーズナブルな価格で、個室でゆっくりできます。
かつての青線街「掛川町」※1 は、現在の堺町8,9,11,12,13付近と思われ、1983年の住宅地図を見ると、スタンドやスナック、トルコ風呂などが密集しています。*1
写真の左手前の交差点の角(現在は駐車場)には、スタンド朱美、スタンドひとみ、スタンド姿、がありました。
スタンド小吉の建物。
昭和33年の売春防止法施行以降、掛川町の特飲街は、旅館、スタンドなどに転業し、従来通りの賑わいを呈していました。(この建物が青線であったかどかは不明です。)*2
かろうじて「小」の文字が残っています。前回(2014年)、この付近を歩いたときの記憶では、「一品料理 スタンド小吉」と書かれていたと思います。
料亭の建物を思わせる2階部分。
今回は、高知(高知県高知市)の町並みを散歩します。
高知市の掛川町は、かつて青線(非公認の特飲街)があった場所です。*1
現在はソープランドなどが建ち並ぶ風俗街になっています。
旧町名の掛川町の案内板。案内板によると、「掛川町」は、関ヶ原の合戦後、山之一豊が掛川(現在の静岡県掛川)から入国のとき、職人を移住させたことに由来する地名です。
青線があった時代は、玉水町の赤線※1※2※3と並んで、掛川町の青線と呼ばれていたようです。売春防止法施行により、赤線と青線は解散しましが、掛川町の青線については、半年後街娼がみうけられるようになり、転業した旅館のほとんどが連れ込み宿でした。*1※4
現在の町名は、堺町です。
「掛川」の電柱番号札。
JR鳴門線撫養駅(鳴門駅の一つ隣)の東側の交差点。
古いスナックの建物があります。
スナック「青い鳥」。
現在は、休業中のようです。
ボートレース鳴門近くには、昔ながらの大衆食堂が2軒あります。1軒は「うれしや食堂」※1 、そして、もう1軒がこちらの「うずしお食堂」です。
徳島ラーメンが名物のようです。
店内のショーケースには、小皿に取り分けられた料理。
徳島ラーメンを注文。
前回※1 も散歩した撫養町南浜東浜の飲み屋街。コンクリゴミ箱が設置されています。
隣には、ポリバケツのゴミ箱。新旧のゴミ箱が並んでいます。
保存状態良好です。
きちんと清掃されています。
鳴門駅の北側。住宅街の中にある銭湯の東湯。
鳴門市撫養町小桑島日向谷。看板には、「桑島 東湯」とあります。
現在は、休業中のようです。(貼り紙有り。)
煙突には、「東温泉」と書かれています。