大井町(住宅街の中のホテル)仙台坂上の交差点近く。

大井町の池上通りの仙台坂上の交差点から、西へ入ったところ。閑静な住宅街が続きます。

大井町に1軒だけあるラブホテル。

シンプルな入口。

午前と午後はフリータイム制です。

参考文献

参考記事

大井町(洋食店「ブルドック」)巨大オムライス。

大井町の東小路飲食店街にある老舗洋食屋の「ブルドック」。

芸能人も数多く訪れています。

店構えは、洋食店の雰囲気。

オムライスの大盛とビール(中瓶)を注文。ものすごいボリュームでした。

参考文献

参考記事

大井町(飲み屋横丁のトイレ)公衆トイレではありません。組合員専用。

大井町の東小路の飲み屋横丁。横丁でよく見かけるトイレがここにもあります。

綺麗に清掃されたトイレ

公衆トイレではなく、組合員専用だそうです。

水を流してください、と書かれた看板。

参考文献

参考記事

大井町(飲み屋横丁「東小路」)2本の小路を横に横断する通路。

大井町の東小路の飲み屋横丁。

2本の小路を横に横断する通路。

スナックもあります。

立ち飲み屋チェーンの晩杯屋。

参考文献

参考記事

大井町(東小路商店街)周囲は開発が進んでいます。

今回は、大井町の町並みを散歩します。

建物の側面。

隣が空き地になっている一画。

周囲は開発が進んでいます。

参考文献

参考記事

蒲田(屋上遊園地)観覧車は1968年開園当初から営業。

蒲田駅前の東急プラザ蒲田店には、屋上遊園地があります。

蒲田に屋上遊園地が出来たのは1968年。開園当初から観覧車が営業していました。その後2014年に、「かまたえん」としてリニューアルオープンしました(案内板より)。

観覧車からの眺め。以前と比べ遊具が少なくなりましたが、蒲田の憩いの場として営業中です。

観覧車の頂上付近からの遠望。

参考文献

参考記事

蒲田(御園神社)石原慎太郎氏、ホテル王城、寄進の玉垣。

西蒲田7丁目にある御園神社。

玉垣に蒲田の地元企業など寄進者の名前が刻まれています。

元東京都知事の石原慎太郎氏。

ホテル王城。
ホテル王城は、当時でも数少なかった回転ベッドを備えた昭和のエロスが色濃く漂う老舗ホテルでした。*1
現在、ホテル王城は、別のホテルに建て替わっています。

参考文献

*1
鉄人社東京裏地図裏モノJAPAN8月号別冊 行かなきゃ損する都内B級スポット200選鉄人社2007
⑮蒲田・大井町駅付近 ホテル「王城」
今でではすっかり見ることのなくなった回転ベッドを、今でも楽しめることができる。ベロアの貼られたカベ…

参考記事

蒲田(「二業」の電柱標識)「二葉」と誤記も。

蒲田の二業地跡の電柱標識。当時の名残を示す「二業」の名前が確認できます。

手書きの「二業」。

かつての待合が集中していた一画。問題の電柱標識はここにありました。

この一画はすべて「二業」と書かれていますが、1本だけ「二葉」がありました。。おそらく、何かの都合で取り換えたときに誤記が発生したのでしょう。
電柱標識プレートには、遊廓の「廓」を廊下の「廊」と誤記した事例などを見かけることがあります。※1※2

蒲田(二業地跡地)かつての待合の雰囲気が残る建物。

かつての蒲田二業地は、現在は、住宅地となっていて、当時の名残はありません。

唯一、旅館だったと思われる建物が残っています。

石の塀。

かつての待合の雰囲気が残る建物。*1

参考文献

*1
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
蒲田花柳界と蒲田音頭
P.231 ・旧見番があった場所にある2階建ての建物。 ・待合の雰囲気が漂う建物。

参考記事

蒲田(二業地見番跡)現在も残る旧見番の建物。

今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
蒲田の二業地は、京急蒲田駅から南へ500mほど離れた場所(現在の南蒲田四丁目20-24番地)に昭和2年に開設の許可が出されました。*1

現在も旧見番の建物が残っています。*2

かなり大きな2階建ての建物です。

花街の雰囲気が残っています。

参考文献

*1
蒲田町史編纂会蒲田町史市郡合併記念蒲田町史編纂会1933 リンク
P.319 蒲田二業地は、昭和2年4月19日、許可となり、其の後直ちに地均し(じならし)に着手し、芸妓屋では…
*2
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
蒲田花柳界と蒲田音頭
P.231 ・旧見番があった場所にある2階建ての建物。 ・待合の雰囲気が漂う建物。

参考記事

吉原(万治高尾の墓)春慶院。墓には「万治」の文字。

旧吉原遊廓の東側。台東区東浅草2丁目にある春慶院。

ここに、万治高尾の墓があります。

墓には「万治」の文字が確認できます。

高尾太夫は、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたともいわれますが、いずれも三浦屋四郎左衛門方の抱え遊女でした。(案内板より)

参考文献

参考記事

吉原(小便禁止看板)電柱に鳥居のマーク。

吉原の江戸町通りの一本隣の通り。

「小便をしないでください」の看板。

五十軒道裏の通りで見かけた鳥居のマーク。

犬が寄ってきそうな電柱です。

参考文献

参考記事

吉原(あしたのジョー像)土手通り。顔には絆創膏。

吉原の土手通り。

いろは会商店街の入口付近に、数年前、あしたのジョー像が設置されました。

顔には絆創膏。

ライバルの力石が見せた「両手ぶらり戦法」は衝撃的でした。

参考文献

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吉原(美乃屋)とんかつ専門店。老舗店が建ち並ぶ通り。

吉原(浅草ホテル跡)1993年頃まで営業。

吉原ソープランド街の江戸二通りと角町通りの間の通りに旅館の建物が現在も残っています。

1993年頃までは、「浅草ホテル」として営業していました。*1

2階部分

現在も残る看板。

参考文献

*1
葭之葉会吉原今昔図 吉原現勢譜葭之葉会1993

参考記事

吉原(おはぐろどぶ跡)ソープ街周辺の段差。

かつての吉原遊廓であった吉原ソープ街の外周部分はおはぐろどぶと呼ばれた堀があった部分です。現在もその名残の段差が随所に残っています。※1

北西側の道路は、段差が顕著に残っている場所の一つです。

吉原交番の近く。おはぐろどぶ跡から道路に向かう場所が坂道になっています。

花園通り(南東側)の段差。ソープ街へ通じる細道です。

参考文献

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吉原(カツ専門店「日の出」)GHQからの手紙。

千束3丁目にある名物カツ専門店。

昭和の洋食店の雰囲気です。

店内には、先代がホテルの料理人だった頃GHQから頂いた手紙が展示されています(写真上部)。

とんかつライスを注文。

参考文献

参考記事

吉原(太田ハム)下町のハム。工場の看板建築。

今回は、入谷~吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
入谷一丁目にある太田ハム。地元の有名企業です。

看板には、「HAMBACON&SAUSAGE」と書かれています。

太田ハムの看板。

隣には、肉の石川。

参考文献

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津田沼(樋ノ口弁財天)地元歌手の中村晃子が再建。

国道14号(千葉街道)の鷺沼1丁目の交差点にある樋ノ口弁財天。後ろに見える煙突は銭湯の鷺沼温泉※1 です。

樋ノ口弁財天は、歌手の中村晃子が再建したそうです。中村晃子は、1968年に「虹色の湖」にてレコードデビューし、80万枚を超える大ヒットを記録した地元出身の歌手です。生家もこの近くにあるそうです。

樋ノ口弁財天には、鳥居と祠の他に立派な庭園があります。大きく育った錦鯉が数匹泳いでいます。

周囲は住宅街です。

津田沼(鷺沼温泉)ディープな銭湯。朝風呂。

国道14号線(千葉街道)沿いの歩道にある「鷺沼温泉」。

昭和4年から80年間営業している銭湯です。

映画のセットでも見ているかのような脱衣場。
浴場は、さらにレトロです。

銭湯の裏側。地元の方の話によると、昔は重油で沸かしていたが、最近は供給が多い廃材で沸かしているとのことです。

参考文献

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津田沼(樋ノ口弁財天)地元歌手の中村晃子が再建。

津田沼(駅北口の繁華街)飲食店と風俗店が混在

今回は、津田沼(千葉県習志野市)の町並みを散歩します。
JR津田沼駅北口の大通りから西へ入ったところに、小規模ながら飲食店や風俗店が連なる繁華街があります。

1階が焼肉店。2階は風俗店。

繁華街の北側の奥まったあたり。

サロンの看板

参考文献

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根岸(美容室の建物)古い町並みが残る商店街の看板建築。

根岸柳通りは、古い町並みが残る商店街です。

商業ビル※1 の対面に残る看板建築の建物。

1階は美容室。

ドア横にある凝った意匠の小窓。

根岸(商業ビル)「婦人倶楽部」の看板のある書店。

根岸柳通りにある商業ビル。1階が店舗で2階が居住部分です。中央には、「婦人倶楽部」の看板のある商店。「婦人倶楽部」戦前・戦後を通じて発刊された婦人雑誌です。

女のよろこび・・・・・妻のしあわせ

建物の紋章。スッポンのように見えます。

建物の裏側、表側は、複数の店舗が一体感のある商業ビルに見えますが、裏側の構造は複雑です。


参考文献

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根岸(美容室の建物)古い町並みが残る商店街の看板建築。

根岸(不動尊)根岸三業会、料亭寄進の玉垣。

正岡子規文学碑(お行の松)がある場所にある不動尊。

寄進者の名が刻まれた玉垣。

根岸三業会の名が残っています。

料亭らしき屋号。

参考文献

参考記事

根岸(花街跡)通人の隠れ家遊び場所として流行った花街。

今回は、根岸(東京都台東区)の町並みを散歩します。
台東区根岸の根岸柳通り周辺には、かつて花街がありました。

往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。*1

根岸の花街は、通人の隠れ家遊び場所として流行った花街で、客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいました。*1

2階部分に花街だった頃の風情が残っています。

参考文献

*1
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
呉竹の根岸の里に咲いた花街
P.135 根岸の三業地が許可されたのは大正10(1922)年のことで、地元の矢野弦吉、伊木勝太郎ら数人が尽力…

参考記事

鶯谷(旧陸奥宗光邸)亮子夫人元新橋の名妓。

言問い通りから北へ入ったところに建つ洋館の建物。旧陸奥宗光邸です。陸奥宗光は、明治時代に活躍した外交官です。

陸奥宗光は、坂本龍馬、伊藤俊輔(伊藤博文)などと交友を持つ頃から、花柳界にも名を震わし、大阪の判事にとばった頃、堀江の唄女を正妻としました。神奈川県知事となった頃、正妻が死没し、亮子夫人が後妻となりました。亮子は、元新橋の名妓「小兼」で、板垣退助に愛された「小清」と並んで新橋の双美人と称されていました。*1

この屋敷は、陸奥宗光が1884年から1886年のロンドン留学中、「鹿鳴館の華」と称された妻の亮子夫人とその子供たちが暮らしました。(案内板より)


陸奥宗光と亮子夫人。(案内板より)

参考文献

*1
林泉社陸奥宗光未亡人没す『新聞集成明治編年史』第11巻、1936年 - 1940年 林泉社1900.8 リンク
陸奥伯未亡人の逝去せられしことは、尚世に勝れる美事多ければこれを紹介すべし。 ▲先妻も堀江の唄女 故…

参考記事

鶯谷(鍵屋)江戸時代創業の居酒屋。黒板塀に徳利。

鶯谷の居酒屋「鍵屋」は、江戸時代創業の居酒屋です。明治時代の建物は、江戸東京建物園に移築保存されています。※1

黒板塀に鍵屋の徳利。

熱燗を頂きました。

鍵屋の暖簾。

鶯谷(元三島神社)玉垣に鶯谷旅館組合、大塚角萬。

鶯谷の元三島神社。

ラブホテル街の中にあります。

神社の玉垣に鶯谷旅館組合の名前があります。

大塚角萬。テレビCM「おおつかあ かどまーん。」を思い出します。

参考文献

参考記事

鶯谷(無料情報館)セルフ案内所。ビルの1階に2軒。

鶯谷のラブホテル街の中にある無料案内所。12年前(2006年)のとき※1 と変わらず盛況です。

ビルの1階に2軒が建ち並んでいます。左側の店舗は、セルフ案内所。

駅近くの食堂「信濃路」近くにある無料案内所

無料案内所の看板。

鶯谷(駅前の待ち合わせ場所)交差点に張り紙。

今回は、鶯谷(東京都台東区)の町並みを散歩します。
JR鶯谷駅は、吉原ソープランド街への最寄り出来です。南口の駅前ロータリのタクシー乗り場は、吉原からの送迎者が発着する場所でもあります。

北口の駅前。こちらも待ち合わせ場所としてよく利用されます。

富士銀行前の交差点も送迎者の発着場所として利用されているようです。

張り紙。

参考文献

参考記事

三沢(第一食堂)1軒屋の大衆食堂。中央町の歓楽街近く。

三沢市中央町の歓楽街近くにある第一食堂

1軒屋の大衆食堂です。

なべやきうどん、ラーメン、丼もの、カレーが中心です。

なべ焼きうどんとビールを注文。

参考文献

参考記事

三沢(道頓堀)トタン建築の2階建て飲食街。

三沢の歓楽街の中で、ひときわ目をひく建物の「道頓堀」

道頓堀。

2階部分にもスナックが入居しています。

某スクリームチェーンと同名のスナック店。

参考文献

参考記事

三沢(公衆トイレ)飲食街の中心部を曲がったところ。

三沢の飲食街「狸小路」。※1

飲食街の中心部を曲がったところに、公衆トイレがあります。

飲み屋街には必須の公衆トイレ。ドアはピンク色です。

綺麗に清掃されたトイレ。

三沢(狸小路)入口のゲートが昭和の雰囲気。

三沢市中央町には、大規模な飲み屋小路が密集しています。中でも狸小路は、入口のゲートが昭和の雰囲気を醸し出しています。

狭い小路の両脇にスナックが連なります。

逆方向から。

小路の奥まったあたり。

参考文献

参考記事

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三沢(公衆トイレ)飲食街の中心部を曲がったところ。

三沢(三沢空港近くのホテル)コスモスロード沿い。

三沢空港前の道路。コスモスロードと名付けられている道路を東へ向かいます。

ホテルの電光掲示板。

入口には、18歳未満立ち入り禁止の張り紙。

西側から。

参考文献

参考記事

三沢(米軍基地)アメリカ村。バーが点在している一画。

三沢は基地の町です。基地の入口には、「U.S. AIR FORCE(アメリカ空軍)」と「航空自衛隊三沢基地」の2つの看板が並んでいます。

基地近くには、アメリカ村と呼ばる外国人のお客さんが多く集まるバーが点在している一画があります。

高層マンションのような外観の基地の宿舎。

米軍基地専用線跡。

参考文献

参考記事

三沢(駅そば)三沢駅の駅舎で営業中。スペシャルそば。

十和田観光電鉄線三沢駅の駅舎の中では、駅そばが営業中です。

十和田駅※1 と同じ、スペシャルそばがお勧めです。

味付けこんにゃく(50円)は、三沢駅のオリジナルメニューでしょうか。

スペシャルそば(天ぷら、山菜、月見)とビールを注文。さらに、味付けこんにゃくを注文。ビールのつまみに、山菜と味付けこんにゃくが良く合います。

三沢(三沢駅)十和田観光電鉄。2012年に廃線。

今回は、三沢(青森県三沢市)の町並みを散歩します。
青い森鉄道線三沢駅の西側に、2012年に廃線となった十和田観光電鉄線の三沢駅の駅舎が残っています。

北側の入口。

現在も残る切符売り場

現在は、使われていないプラットホーム。

参考文献

*1
東奥日報社駅物語86 十和田観光鉄道⑪ 三沢東奥日報東奥日報社2006.3.13

P.8
1922(大正11)年の開業。国鉄東北本線(現在青い森鉄道青い森鉄道線…

参考記事

野辺地(若葉温泉)昭和の雰囲気が残る大衆浴場。

北野辺地駅へ向かう道路の途中にある若葉温泉。

温泉地が多い青森県の大衆浴場です。

昭和の雰囲気を満喫できます。

煙突。

参考文献

参考記事

野辺地(アポロ理容室)助佐小路の交差点の角。

野辺地町助佐小路の交差点にレトロな美容室があります。

交差点の角に建っています。

隣の建物と繋がっていて、長屋の構造になっているようです。

ショーウィンドウ。

参考文献

参考記事

野辺地(スナック街)野辺地町役場の北側の通り。

野辺地町役場の北側の通りは、飲食店やスナックが連なる歓楽街です。

「銀座館」という名の商業ビル。

小路の奥まった場所にあるカラフルな建物。

1階が、美容室。2階がカラオケスナック店。

参考文献

参考記事

野辺地(旧金沢町の旅館)L字型の木造建築

大万旅館のある旧金沢町の旅館街。*1※1
木造建築の旅館がもう一軒あります。

旅館「福よし」。

1階部分は、洋風の佇まいです。

建物は、L字型に連なっていて、かなり大型です。

参考文献

*1
野辺地町文化財保護審議会あるくみるなっとく野辺地の自然と文化野辺地町文化財保護審議会2012
明治以後の野辺地
旧大萬(だいまん)旅館
P.52 旧大萬旅館は、入母屋屋根に玄関バルコニーを持つ2階建ての和洋折衷の木造建築です。1900年(明治3…

参考記事

※1野辺地(大萬旅館)和洋折衷の木造建築。旧大万楼。

野辺地(大萬旅館)和洋折衷の木造建築。旧大万楼。

明治時代以降、北海道のニシン漁などで働くため、野辺地湊から多くの人が海を渡りました。野辺地の旧金沢町には旅館街があって、北海道に渡る人たちでにぎわいました。*1

野辺地には、かつて、大万楼、旭楼、恵比寿楼、満月楼、柏楼、大黒楼、雲月楼、来盛楼、いろは楼等の遊廓がありました。*2
大万旅館は遊廓(屋号から「全国遊廓案内」に記載の大万楼と思われます)でした。*3

玄関バルコニー。和洋折衷の木造建築です。
大萬旅館は、1988年のフジテレビのドラマ「飢餓海峡」の撮影現場ともなりました。*1

玄関。

参考文献

*1
野辺地町文化財保護審議会あるくみるなっとく野辺地の自然と文化野辺地町文化財保護審議会2012
旧大萬(だいまん)旅館
P.52 旧大萬旅館は、入母屋屋根に玄関バルコニーを持つ2階建ての和洋折衷の木造建築です。1900年(明治3…
*2
日本遊覧社全国遊廓案内日本遊覧社1930 リンク
野辺地遊廓 リンク
野辺地遊廓は、青森県上北郡野辺地町にあって、東北本線野辺地駅で下車すれば北へ約三丁の地点にあたって…
*3
経済産業省東北経済産業局東北地域における映像産業の現状と課題及び振興の方向性に関する調査 報告書経済産業省東北経済産業局2008 リンク
P.104 <資料7>潜在的な素材 野辺地町 横浜町の菜の花畑、野辺地町の日本最古の常夜塔、昔の遊廓(大…

参考記事

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野辺地(旧金沢町の旅館)L字型の木造建築

野辺地(さかもと食堂)のへじ北前ラーメン。

今回は、野辺地(のへじ、青森県上北郡)の町並みを散歩します。
野辺地の中心街は、駅からは1km近く北東へ向かった、かつて本町と呼ばれたエリアですが、野辺地駅前にも小規模な商店街があります。

ラーメンと丼物、定食が中心です。

駅前のさかもと食堂。

薬草茶「カワラケツメイ」を麺に練り込んだ「のへじ北前ラーメン」を注文。

参考文献

参考記事

神田(みますや)現存する日本最古の居酒屋。

神田小川町の靖国通りから南へ入ったところにある「みますや」。創業は、明治38年、現存する東京の居酒屋では最古といわれています。看板建築の建物は、昭和3年のたてものです。*1

昭和の雰囲気が残る店内。

昼間はランチ営業です。ごはんの大盛(100円)は、ものすごいボリュームです。

夜になると、居酒屋の営業が始まります。

参考文献

*1
大島健二*下町の名建築さんぽARCHITECTURAL HERITAGE GUIDE IN OLD TOWN OF TOKYO タイトルでNDLオンラインを再検索するエクスナレッジ2017
みますや東京最古の酒場は昭和の残党たちの聖地
P.112 創業は、明治38年、現存する東京の居酒屋では最古といわれ、その筋で知らぬ人はいない。その銅板葺…

参考記事

神田(3階建てのトタンビル)看板建築の特徴。

神田小川町2丁目のビル街。写真右手前は、以前のビルが取り壊され、建て替え予定となっている更地です。

更地の隣の3階建てのビル。正面から見ると2階建てのように見える点は、看板建築の特徴を有しています。

更地の方向から見た建物の側面。

少しだけ3階部分が垣間見えます。

参考文献

参考記事

神田(栄屋ミルクホール)昭和20年創業。銅板葺きの看板建築。

神田多町2丁目にある「栄屋ミルクホール」。銅板葺きの看板建築です。

創業は、昭和20年。*1

ラーメン。

カレーラーメンを頂きました。

参考文献

*1
スタジオワーク*東京さんぽ図鑑町や建物の"新しい見方"を超図解! 朝日新聞出版2017
神田
P.52 神田は、神田川と日本橋川まれた江戸の城下町である。江戸時代の物流は水運が中心だったので、2つ…

参考記事

神田(豆腐店「越後屋」)創業は明治末。正面部分のみ銅板。

神田多町周辺は、神田川と日本橋川まれ、この2つの川の水運により食料も集まりやすうい立地から「やっちゃば」と呼ばれる青物市場ができきました。「越後屋」は創業明治末。市場で買った荷物を揃え、配送する権利を持っていました。*1

正面部分のみ銅板が貼られています。

建物の奥を見ると、3階建てであることがわかります。

逆方向から。

参考文献

*1
スタジオワーク*東京さんぽ図鑑町や建物の"新しい見方"を超図解! 朝日新聞出版2017
神田
P.52 神田は、神田川と日本橋川まれた江戸の城下町である。江戸時代の物流は水運が中心だったので、2つ…

参考記事

駒込(喫茶「Rio」)昭和レトロな本格派純喫茶。

JR駒込駅北口から霜降橋交差点へ向かう道路の途中。

喫茶店のショーウィンドウが目に留まります。

昭和レトロな喫茶店です。

サンドイッチセットを注文。

参考文献

参考記事

駒込(旅館「江戸駒」)昭和30年代のオールドファッションスタイル。

今回は、駒込(東京都豊島区)の町並みを散歩します。
駒込駅の南側。線路沿いの坂道の途中に建つ旅館「江戸駒」。昭和30年代のオールドファッションスタイルです。


和風の佇まいは癒されます。


全室和室で、数寄屋造り。次の間付きです。


懐かしのスタイル。価格も安価です。

参考文献

参考記事

神保町(スマトラカレー)共栄堂。大正13年創業。

神保町の靖国通り沿いにある「スマトラカレー」は、大正13年創業の老舗カレー店です。*1

明治の末、広く東南アジアに遊び知見を広めた伊藤友治郎氏より、スマトラ島のカレー の作り方を教わり、日本人の口に合う様アレンジしたのが、共栄堂のカレーです。※1

ポークカレーとビールを注文。

デザートの焼きリンゴ。
リンゴは紅玉。10月から4月までの限定メニューです。*2

参考文献

*1
スマトラカレー共栄堂スマトラカレー共栄堂共栄堂 リンク
当店のカレーは、大正13年の創業当時より、スマトラカレーとしてお客様に親しまれてきました。 明治の末…
*2
杉本伸子老舗の味ー64共栄堂 スマトラカレーと焼きリンゴ潮 1996.4潮出版社
カレーは、ポーク、チキン、海老、ビーフ、タンの5種。 リンゴは紅玉。10月から4月までしかメニュー…

参考記事

神保町(ビデオ店)昔と変わらず健在です。

神保町の古書店街から水道橋にかけての道路沿いには、以前※1 と比べ数は減りましたが、アダルトビデオ店が健在です。

店舗脇の壁面。

古書店街にある店舗。

アダルト専門店です。

神保町(神保町シアター)「女たちの街」名作上映中。

今回は、神保町の町並みを散歩します。
神保町シアターは、古い邦画を中心に、上映している映画館です。

今月は、「女たちの街」と題し、色街、花街、ネオン街の名作17作が上映されています。

今回、鑑賞したのは、「赤坂の姉妹 夜の肌」川島雄三監督の昭和35年の作品です。

館内の壁面。

参考文献

参考記事

人形町(思案橋)吉原へ行こうか、芝居に行こうか。

日本橋小網町。現在の首都高速道路の江戸橋JCTの近くには、江戸時代、思案橋がありました。*1
思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓(元吉原)があり、この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二丁目の芝居に行こうかと思案したので、思案橋の名がつけられたと云われています。*2

近くには、小網神社があります。

しかし、「思案橋がこの場所にあったというのは誤まりで、正しい思案橋の場所は荒布橋があった場所。」とする論考があります。*3
荒布橋があったのは、現在の小舟町交差点のあたりです。

たしかに、ここからだと現在の人形町交差点までは、一本道です。

参考文献

*1
吉原健一郎復元・江戸情報地図朝日新聞社1996
26 神田川御蔵可・神田一円・日本橋・八丁堀北 台東区/干代田区/墨田区/中央区/江東区
P.59 思案橋、荒布(あらめ)橋の位置の記載。
*2
石本馨*大江戸橋ものがたり学研2008
思案橋
P.108 思案橋の近くには、浅草移転前の吉原遊廓があった。この橋の上に立ち、吉原へ行こうか、それとも二…
*3
秋田書店江戸名所100選秋田書店1973
P.78 思案橋の疑問 思案橋は、一に小網橋ともいう。日本橋から、東堀留川へ分岐する、その分岐点に架け…

参考記事

人形町(桃乳舎)芸術的な看板建築。桃のマーク。

日本橋小網町の首都高速江戸橋ジャンクション近く。閑静なビル街の中に佇む芸術的な看板建築。

桃乳舎。

上部には、桃のマーク。

カレーライスを注文。

参考文献

参考記事

人形町(高尾稲荷社)高尾大夫の霊を祭っている稲荷神社。

人形町の南。日本橋箱崎町のビル街の中に高尾稲荷社があります。

吉原の遊女、高尾大夫の霊を祭っている稲荷神社です。*1

石柱は、掘削の際に土中から掘り出された遺物を転用しているそうです。

箱崎北新堀町会が設置した縁起。

参考文献

*1
新人物往来社江戸史跡事典 上巻千代田区・中央区・品川区・目黒区・大田区・世田谷区・北区新人物往来社2007
高尾稲荷社
P.95 (日本橋箱崎町10-7) 万治2年(1659)12月のことだったという。かつて吉原の三浦屋で評判だった才…

参考記事

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人形町(問屋橋跡北側の路地)日本橋富沢町。浜町川跡の商店街。
人形町(真砂座の碑)明治39年、夏目漱石「猫」上演。

人形町(キラク)1951年開業。年季の入った看板と暖簾。

人形町交差点。地下鉄の入口のすぐ隣にある洋食店の「キラク」は、1951年開業の老舗です。*1

年季の入ったキラクの看板と暖簾。

一番人気のビーフカツ。*1(これだけで2,600円もします。)

今回は、ハンバーグとビールを注文。
マカロニサラダと千切りキャベツ、パセリが添えてあるのは、昔と変わっていません。*1

参考文献

*1
新潮社週刊新潮 8月30日号ビーフカツ40年人形町「キラク」人気の秘密新潮社1990
人形町の交差点にほど近い、今の場所に店を開いたのが昭和26年のことだそうだ。この店一番の人気メニュー…

参考記事

人形町(歯科医院のゴミ箱)特注の備え付けタイプ。

喜寿司の隣の歯科医院の建物※1。傍らにコンクリゴミ箱が設置されています。(写真右下)

備え付けタイプです。

左側は、ゴミ箱スペース。上蓋が付いています。

右側のボックスは、上部からゴミが落ちてくる仕組みです。

人形町(㐂寿司)かつての花街の記憶が残る建物。

人形町2丁目。かつての花街だったエリアです。喜寿司(㐂寿司)は、花街の面影が残る建物です。

たくさんの大きな看板。

隣の歯科医として使われていた建物は、もとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」でした。*1

物干し台。

参考文献

*1
大島健二*下町の名建築さんぽARCHITECTURAL HERITAGE GUIDE IN OLD TOWN OF TOKYO タイトルでNDLオンラインを再検索するエクスナレッジ2017
日本橋 㐂寿司 わずかに残る花街の記憶ARCHITECTURAL HERITAGE GUIDE IN OLD TOWN OF TOKYO2017
P.140 奥のたてものは歯科医として使われていたがもともとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」であったという。…

参考記事

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人形町(歯科医院のゴミ箱)特注の備え付けタイプ。

人形町(よし梅本店)戦火を免れて残った店。

今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
大観音寺脇の路地※1 にひっそりと佇む「よし梅本店」。戦火を免れて残った店の風情は江戸の粋が薫る人形町ならではです。*1

入口が路地になっていています。

かすれて、かろうじて「よし梅」と判読できる門標。

反対側の通りから。

参考文献

参考記事

大塚(天平食堂)蒲昭和の雰囲気が漂う焼の店。

大塚駅北口から都電荒川線の庚申塚駅方面へ向かう道の途中。

昭和の雰囲気が漂う大衆食堂の「天平食堂」。

看板メニューはうなぎ蒲焼です。

野菜いため定食とビールを注文。

参考文献

参考記事

大塚(記念湯)脱衣場の天井には宇宙の絵。

大塚駅南口。サンモール商店街を進み、天祖神社のさらに先にビル銭湯の記念湯があります。マンションの1階が銭湯の入口です。

シンプルな記念湯の看板。

脱衣場の天井には宇宙の絵が描かれています。

玄関マットにも宇宙の絵。

参考文献

参考記事

大塚(鈴本キネマ跡地)邦画と成人映画が上映されていました。

大塚駅南口のサンモール商店街のゲートを入り、50mほど進むと、五差路になった広場に出ます。交差点の角に大塚鈴本ビル(写真左側)が建っています。

交差点角にある大塚鈴本ビル*1

地下1Fに「鈴本キネマ」。3Fに「大塚名画座」がありました。*1*2
1977年の雑誌「ぴあ」*2 によると、「大塚名画座」は洋画。「鈴本キネマ」は、邦画と成人映画が上映されていたようです。

現在も、ビル名に鈴本の名が残ります。

参考文献

*1
ゼンリン豊島区 ゼンリンの住宅地図ゼンリン1980
P.33 大塚鈴本ビルの記載 別記P.14 大塚鈴本ビル 別記 B1 鈴本キネマ 3F 大塚名画座
*2
ぴあぴあ No.58ぴあ1977.6.1
映画の街角
大塚
P.22 「大塚名画座」(南口1分商店街ビル3F) 5月24日~30日 「タクシー・ドライバー」 「追憶」…

参考記事

大塚(和風スナック)アパートの建物の1階部分が店舗。

大塚三業通りには、料亭や割烹の他に和風のスナック店も点在します。

アパートの建物の1階部分が店舗です。

夜の三業通り。

スナック店が営業中です。

参考文献

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大塚(料亭「和可月」「まきしま」)三業通り沿い。

三業通り沿いにある老舗料亭の「和可月」。

落ち着いた佇まいです。

三業通りから一本路地を入ったところにある料理屋の「まきしま」。

漢字では「巻島」。

参考文献

参考記事

大塚(料亭「浅元」)花街らしい雰囲気。青色の板塀。

大塚三業通りには、花街らしい雰囲気が見られます。

割烹。

老舗料亭の浅元。

青色の板塀。

参考文献

参考記事

大塚(三業通り)看板がリニューアル。芸者さんのモニュメント。

かつての花街だった大塚三業通りの入口。大塚駅南口から見えるバッティングセンター脇に「大塚三業通り」の看板が取り付けられています。以前は、白地に赤文字のシンプルな看板※1 でしたが、最近、ピンク色を基調としたものにリニューアルされました。

看板の上部には、芸者さんのモニュメント。

以前の看板と比べ、華やかなものになりました。

「三業」の電柱標識板。「花町」というプレートも取り付けられています。

錦糸町(ラブホテル街)竪川第一公園沿いの通り。

錦糸町駅の南側。錦糸堀公園裏から首都高速7号線にかけて、錦糸町のラブホテル街が広がっています。中でも竪川第一公園沿いの通りは、高級感のある建物が建ち並びます。

北側の通り。ホテル街のメインの通りです。

錦糸町には、珍しい和風の店。

夜の様子。

参考文献

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錦糸町(花壇街)緑色の看板。高層マンション。

錦糸町駅南側の国道14号線沿い。花壇街と書かれた緑色の看板があります。

飲食店街の「花壇街」です。

1階が花壇街となっている高層マンション。(錦糸堀公園からの遠望)

居酒屋がスナックが営業中です。

参考文献

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錦糸町(旅館の建物)建物の屋上のネオン看板。

今回は、錦糸町(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
錦糸町駅の北口の駅前ロータりーから道を1本入ったところ、繁華街の中に旅館の建物があります。建物の屋上には、旅館「草分け」のネオン看板。

1階に焼き鳥やが入る交差点の角の建物の西側の建物が、旅館「草分」けだったのでしょうか。

旅館草分。

1階の焼き鳥屋は、現在も営業中です。

参考文献

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新橋(烏森花街跡)花街の雰囲気が残る通り。

烏森神社前の通りから南側へ一本入った通りんには、わずかに花街だった頃の雰囲気が残っています。

写真の「たきもと」は、戦後の火災保険地図*1 では「多㐂本」と記されています。

創業明治27年の「古今亭」。*2
夜の烏森神社前の横丁。

この付近(写真中央の「すしざんまい」があるあたり)には、新橋芸妓組合がありました。*1

参考文献

*1
都市整図社港区 新橋方面 [1948-1953] (火災保険特殊地図(戦後分) )都市整図社
古今亭、末源、新橋芸妓組合、等の記載。
*2
岩動景爾*東京風物名物誌・普及版魚住書店1956
新橋
P.187 鳥の古今亭も元通り料亭街の中、烏森神社の傍に立派に復興している。浅草金田と並称された味の店。…

参考記事

新橋(18禁マークのビル)謎の狭小ビル。新橋駅ガード脇。

新橋駅ガード脇に、屋号の表示の無い謎のビルがあります。

18禁マークがずらりと貼られています。

入口。店の屋号の表記はありません。2階が入口です。

近くにもう一つ、18禁マークだけの看板。こちらは地下1階です。

参考文献

参考記事

新橋(南地花街跡)烏森神社付近

今回は、新橋(東京都港区)の町並みを散歩します。
新橋南地花街は、明治5年の銀座の大火で、金春付近にあった芸妓置屋が汐留川より南の烏森方面に引っ越したのが始まりです。*1
写真左手前にある「末源」は、明治42年創業の老舗です。*2*3

新橋南地花街(烏森花街)は、元は、同じ花街で、新橋駅を境に、煉瓦地芸者(京橋)と南地芸者(新橋)と芸者街が二つに分かれていたものが、大正11年に分離して「烏森」あるいは「新橋南地」となったものです。*4

烏森神社前の参道。平成13年頃までは、両側理に飲食店が建ちならんでいましたが、現在、左側は整備されて飲食店はありません。*1

参道右側に、わずかに残る飲食店。

参考文献

*1
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
伝統の芸を誇る新橋花柳界
新橋南地の烏森花柳界(一)
P.36 銀座の明治5年の大火は、金春付近にあった芸妓置屋も焼き尽くした。そこで、芸妓屋や芸妓は、一部…
*2
都市整図社港区 新橋方面 [1948-1953] (火災保険特殊地図(戦後分) )都市整図社
古今亭、末源、新橋芸妓組合、等の記載。
*3
新橋料理業組合新橋 末げん新橋料理業組合 リンク
三島由紀夫が最後の晩餐にした明治42年創業の老舗、「新橋末げん」。ほかにも原敬、六代目菊五郎などの…
*4
松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
新橋
P.17 新橋の花街は元は烏森と一つの花街で、京橋と芝の区界である「新橋」を真ん中に、煉瓦地芸者・南地…

参考記事

築地(日の出湯)佃小橋から見える煙突付きマンション。

月島西仲通り商店街※1 の北側に位置する佃島は、関東大震災にも第二次世界大戦にも被害を免れた。昔ながらの下町の面影を残す地域です。*1
佃小橋から大きな煙突付きマンションが見えます。

近くには「つり船」の店。

ビルの1階が銭湯です。

大栄マンションの東側は堀(佃川支川)です。

参考文献

*1
林順信*東京路上細見2日本橋・人形町・銀座・築地・佃島平凡社1987
東京ふるさと佃島
佃島の由来を簡単に記しておこう。徳川家康が天下人となるに及んで、佃村の漁民を江戸に招き、海川漁獲の…

参考記事

※1築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

築地(和風スナック)沢の鶴の看板。月島三丁目。

月島三丁目。もんじゃストリートから通りを入ったところ。

和風の建物。

沢の鶴の看板。和風スナックなので、日本酒でしょうか。

月島の商業の発展*1 とともに、歓楽街的な要素も出現したのだと思われます。

参考文献

*1
京橋月島新聞社月島発展史京橋月島新聞社1940 リンク
第三編 明治以後の月島
第八章 月島の商業 リンク
P.191 日露戦争に因る軍需工業の躍進に伴って月島全島の好況と人口の増加を招来せしものと考えられる。

参考記事

※1築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

西仲通り商店街(もんじゃストリート*2)は、日露戦争後の人口に伴い、自然発生的にできたもので、道の真ん中に露店が出ていたのが特徴でした。*1
西仲通り商店街には、2階部分に昔ながらの屋号が残っている「看板建築」商店が残っています。*2※1

一歩路地に入ると、昔ながらの生活空間の雰囲気が残っています。

渡り廊下のある路地。

最近は、開発が進み、周辺は高層マンションが林立しています。

参考文献

*1
京橋月島新聞社月島発展史京橋月島新聞社1940 リンク
第三編 明治以後の月島
第八章 月島の商業 リンク
P.191 日露戦争に因る軍需工業の躍進に伴って月島全島の好況と人口の増加を招来せしものと考えられる。*2
志村秀明月島再発見学まちづくり視点で楽しむ歴史と未来アニカ2013
P.151-P.153 長屋の配列と間取り 路地一本あたりに、二十四軒の長屋住宅が建つのが標準である。二軒長屋…

参考記事

※1武蔵小金井(看板建築展)江戸東京たてもの園。

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築地(日の出湯)佃小橋から見える煙突付きマンション。
築地(和風スナック)沢の鶴の看板。月島三丁目。

築地(旅館大宗)純和風。周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

築地7丁目のアパホテルのある通り。

純和風の旅館があります。

周囲は、高層ビルが建ちち並びます。

丸い竹に書かれた「旅館大宗」

参考文献

参考記事

築地(看板建築)3階建て。正面から見ると2階建て。

築地市場の東側。築地6丁目、7丁目付近には、看板建築が多く残っています。
こちらの商店だったと思われる建物は、正面から見ると2階建てです。

背面から見ると、屋根裏部屋部分*1 は、3階建て部分であることがわかります。

こちらも正面は2階建て、横から見ると3階建てです。

三角屋根部分が3階部分になっている食品会社の建物。

参考文献

*1
江戸東京たてもの園東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文江戸東京たてもの園2018
バラックの街並み
被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学…

参考記事

築地(築地場外市場)寺院の建物と市場の建物がつながっています。

築地場外市場。豊洲移転後も賑わっています。

古い建物が建ち並びます。

築地場外市場の中にある円正寺。寺院の建物と市場の建物がつながっているように見えます。

最近、火災で焼失した付近。マンサード屋根を持つ3階建ての建物です。

参考文献

参考記事

築地(天婦ら「おかめ」)昭和初期からある料理屋です。

築地2丁目の通り。現在はビル街ですが、かつては築地の花街の中心部だったあたりです。この付近には、待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」がありました。*1

ビル街の中の一軒家。

現在も営業中です。

入口の丸窓。

参考文献

*1
都市整図社火災保険特殊地図 中央区[11]魚市場方面 1947年 築地方面 1949~55年 明石町方面 1950年都市整図社
現在の中央区築地2丁目に、 待合の「常盤」、料亭の「国の家」「米田中」の記載。 現在の築地駅北西の…

参考記事

築地(料亭「新喜楽」)芥川賞や直木賞の選考会場。

今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1

高い塀が続きます。

表札は、「割烹」となっています。

裏口。

参考文献

*1
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
伝統の芸を誇る新橋花柳界
花街の復興と演舞場再建
P.51 戦時中には強制疎開で取り壊されたり、廃業した料亭・待合も多く、戦災で被害を受けなかったのはわ…

参考記事

亀戸(亀七通り商店街)大看板。両側にゲート。

江東区亀戸7丁目にある亀七通り。インパクトのある大看板。

看板の派手さに比べると、通りは殺風景です。

飲食店の他、商店が建ち並びます。

反対側(国道14号線沿い)のゲート。

参考文献

参考記事

亀戸(天神裏の張り紙)犬糞禁止。ビルの間の生活用の通路。

亀戸天神裏。ビルの間の生活用の通路。

人目につきずらい幅の狭い通路です。

犬の糞禁止の張り紙。

反対側にも同じ張り紙が貼られています。

参考文献

参考記事

亀戸(旧遊廓跡地の蕎麦屋)3階建て。4階建てにも見えます。

亀戸の旧赤線区域。特殊喫茶店「大福」があった場所に建つ蕎麦屋の建物。

3階建てだと思いますが、4階建てにも見えます。

1階は、蕎麦屋さん。

ざる蕎麦を注文しました。

参考文献

参考記事

亀戸(赤線跡)可憐な概観を持つ建物。奥行のあるアパートの建物。

亀戸の旧銘酒屋街。
「赤線跡を歩く」*1 で紹介されている「可憐な概観を持つ建物」が現在も残っています。

当時は、建物の左上部分に「双葉」と書かれていました。*2

タイルの装飾をコンクリートでくりぬいたような窓のデザインは同時のままです。*2

奥行のあるアパートの建物。

参考文献

*1
木村聡赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて自由国民社1998
亀戸
P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイ…
*2
小沢昭一珍奇絶倫小沢大写真館筑摩書房2006
つわものどもが夢の跡 東京・旧赤線跡めぐり
P.224 亀戸 赤線跡「双葉」の写真。 売春防止法で、一番最初に完全転業した街。外は昔を偲べても内は工…

参考記事

亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。

かつて、亀戸天神裏の通りには、三業地が広がっていました。*1

料亭「寿々代」。
以前は、この建物の東隣の交差点の角にありました。*1*2

旧三業組合の建物※1 の隣にある料亭「七福」。

写真左手には、数年前まで、富久家の建物*1*2※2がありましたが、現在は更地になっています。

参考文献

*1
木村聡赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて自由国民社1998
亀戸
P.27 ・可憐な概観を持つ建物。コンクリートをくり抜いたような窓。 ・何気なくのぞいた倉庫の中にタイ…
*2
都市整図社火災保険特殊地図(戦後分)江東区[25] 亀戸天神方面 [1953-1959年]都市整図社2002
亀戸三業組合 料亭「富久家」「七福」「寿々代」 天狗湯 の記載

参考記事

※1亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。※2亀戸(料亭「富久家」)亀戸花街。天神裏の通り。

亀戸(城東三業組合事務所跡)江戸時代から発展。

今回は、亀戸の町並みを散歩します。
亀戸天神社裏のこの通りは、かつては、料亭が建ち並ぶ亀戸花街の中心部でした。*1

城東三業組合事務所(見番)があった建物。*2

現在は、亀戸三丁目自治会館として使われています。

この通りの北側が旧亀戸の赤線地帯です。

参考文献

*1
南桜社東都芸妓名鑑南桜社1930 リンク
亀戸花街の沿革 リンク
この地が花街として発展したのは、寛政年間からであって、各所に散在していたのがいつの頃よりか、今日の…
*2
上村敏彦花街・色街・艶な街 色街編街と暮らし社2008
亀戸天神裏の花街と赤線跡
P.100 城東三業組合事務所(見番)があった建物。現在は、亀戸三丁目自治会館として使われている。

参考記事

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亀戸(料亭「寿々代」「七福」)三業地跡。亀戸天神の裏の通り。

神田明神下(開化楼跡)高楼がそびえたっていました。

かつて男坂の途中には、料亭「開化楼」の高楼がそびえたっていました。*1

現在、男坂の途中には、オフィスビル「KAIKA」が建っています。

料亭「開化(新開化)」があったたり。

料亭「開化」の前には、神田芸組合の事務所が建っていました。*1
写真奥は、神田川本店がる方角です。※1

参考文献

*1
林順信東京路上細見1湯島・本郷・根津・千駄木・神田平凡社1987
花街をひかえた神田明神下の賑わい
P.275 外神田二―六―三の表札を見ると、大きな看板の下がった家がある。看板には、「神田芸妓・芸妓置屋組…

参考記事

※1神田明神下(神田川本店)かつての花街のころの雰囲気が残っています。

神田明神下(神田川本店)かつての花街のころの雰囲気が残っています。

神田明神下の南側の一画にある神田川本店。美しい黒板塀のある老舗料亭です。

創業は文化2年。代々受け継がれている辛口のタレは、江戸幕府の賄い方だった初代が万世橋の際で開いたときからのものだそうです。*1

神田川本店の裏手の路地。このあたりは、かつての花街のころの雰囲気が残っています。

現在は、神田川本店の倉庫となっている一画。

参考文献

*1
交通新聞社散歩の達人 No.179交通新聞社2011
老舗の味わい方
P.23-P.24 創業文化2年 明神下神田川本店(うなぎ) 空間もさることながら、神田さんが一番大事なもの…

参考記事

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神田明神下(開化楼跡)高楼がそびえたっていました。

神田明神下(花街跡)安政期に芸者が出現。講武所芸者。

かつて、神田明神下同明町に花柳界があって、この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者と言いました(講武所とは、幕末に創設された幕府の武術教育所のこと)。*1
花街のことを「講武所」と呼んだのは、
・講武所の運営費捻出のため、現在の秋葉原駅の万世橋通り付近の土地を町屋に編入して地代を取るようになり、安政期(1854-59年)にこの地に芸者が姿を現したため、講武所芸者と称されるようになった。*2
・旗本、御家人などの二男・三男が武芸鍛錬のため講武所へ行くと言って家を出てここで遊んでいたとか、客に講武所の生徒が多かったため、*1
など諸説あります。
また、明治3年)頃に、芝居茶屋が出現し、同時に草分け芸者が生まれ、花街となった。*3 とする説もあります。
男坂の通りの北側の通りにある料理屋。右側の建物もかつての料理屋です。

料理屋「あら喜」

元料理屋の建物。

「章太郎」は、明神したの艶っぽさを残す名店です。*2

参考文献

*1
北村一夫江戸東京地名辞典講談社2008
講武所
神田明神下同明町に花柳界があった。この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者といった。 明神下…
*2
日本文芸社荷風!vol.23日本文芸社2010.1
荷風の神田を往く
P.39 コラム講武所芸者 講武所とは、江戸幕府が武術修練のために設けた講習所で、もともと築地にあった…
*3
南桜社東都芸妓名鑑南桜社1930 リンク
神田花街の沿革 リンク
花街の創設 芝居茶屋が出現するど同時に草分け芸者として生まれ、翌年(明治3年)頃に二十三、四人の芸…

参考記事

神田明神下(ビリヤード場「淡路亭」)創業50年の老舗。

JR御茶ノ水駅の北側の外堀通り。神田川沿いに建ち並ぶ4階建ての建物※1 の裏側にあたります。

「玉台家具製作所」の木製の文字看板。昔は、ビリヤード台のことを「玉台」呼んでいたようです。

創業50年の老舗ビリヤード場です。*1

カラフルな看板。

参考文献

*1
FREE AWAJI BOOK 8890FREE AWAJI BOOK 8890ノスタルジーに酔いながら、玉突き勝負といきましょう。ワテラス2015.12 リンク
 JR中央線の線路沿いにある古いコンクリート ビルの2階に、創業50年のビリヤード場「淡路亭」 はある。こ…

参考記事

※1神田明神下(御茶ノ水駅)川沿いの4階建て。

神田明神下(御茶ノ水駅)川沿いの4階建て。

今回は、神田明神下(東京都千代田区)の町並みを散歩します。
JR御茶ノ水駅の東側。神田川に架かる聖橋からみたJR総武線、JR中央線、地下鉄丸の内線が立体交差します。ずっと眺めていても飽きない景観です。

昌平橋から聖橋方面の遠望。

川沿いに4階建ての建物が建ちならんでいます(JR御茶ノ水駅より)。

ビリヤードの建物。

参考文献

参考記事

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神田明神下(ビリヤード場「淡路亭」)創業50年の老舗。

四谷大木戸(蓬莱湯跡)現在はコインランドリーが営業中。

旅荘※1 があった小路を抜けると大木戸子ども園の前の商店街に出ます。

新宿区の都心にありながら、レトロ感満載の銭湯です。

現在は、銭湯は休業し、商店の建物として活用されているようです。銭湯脇のコインランドリーは営業中です。

脇の小路。

四谷大木戸(旅荘)旅荘への入口看板。旧大木戸花街の東側。

四谷四丁目の外苑西通り。旧大木戸花街の東側に、旅荘への入口があります。看板には、旧花街※1 にある2つのホテルの位置も示されていますので、経営が同じなのかもしれません。

現在も「旅荘」という呼び名で営業中です。

北側の入口。

閑静な住宅街(写真右手は、大木戸子ども園)の中にあります。写真の奥の鳥居は、田安稲荷神社。

四谷大木戸(花街跡)大正11年にできた花街。

今回は、四谷大木戸(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
四谷大木戸にに花街ができたは大正11年で、当時、東京では一番新しい花街でしたが、関東大震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて、四谷大木戸は膨張し、震災後一時は、百五十人を超す芸妓が登録されていました。*1*2
現在も営業を続けているのは、「多満川」のみで、他はマンションや駐車場になっています。

*3大木戸芸妓組合事務所は現在のホテルがある辺りにありました。*3

全国花街めぐり*1 には、料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)が紹介されています。このうち、自慢本店は、現在の「多満川」から北へ行った突き当りにあるマンション「新宿御苑」の場所にありました。*4
1階部分は料亭の名残を感じさせる石塀に囲まれています。

花街の東側の、崖沿いには「和楽」「清月」など待合が7,8軒ズラリと軒を連ねていました。*3

参考文献

*1
松川二郎全国花街めぐり誠文堂1929
四谷大木戸
P.80 ここに花街のできたのは大正11年、東京では一番新しい花街であるが、、そこへ丁度彼の大震災で下町…
*2
安本直弘四谷散歩みくに書房1989
大木戸かいわい
P.47 大木戸花街 大正11年頃、大国座裏に三業地が開かれた。場所は以前ここにあった理性寺の墓地跡で、…
*3
上村敏彦東京花街・粋な街街と暮らし社2008
四谷大木戸の花街
P.179 昭和2年の「全国芸妓同盟会総員名簿」によると、大木戸芸妓組合事務所は旧永住町36番地。(現ホテ…
*4
都市整図社新宿区[4] 新宿通方面 1火災保険特殊地図(戦後分) [2]都市整図社1951
四谷四丁目に、料理屋の「自慢本店」「徳万家」「美よし乃」「布袋家」「胡月」「美津橋」「正月」「重勝…

参考記事

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四谷大木戸(旅荘)旅荘への入口看板。旧大木戸花街の東側。

秋葉原(ガールズバー)駅近くの昭和通り沿い。

秋葉原の昭和通り沿い。1本入った通りには、ガールズバーやカフェバーなどがひしめいています。

上から下までガールズバーがはいるビル。

秋葉原駅南口。最近、アダルトビデオ製作会社が運営する居酒屋がオープンしました。

立ち飲み屋。

参考文献

参考記事

秋葉原(ビデオ店)車窓から見える張り紙。

今回は、秋葉原(東京都千代田区)の町並みを散歩します。JR秋葉原駅の東側の昭和通り沿いは、裏秋葉原とも言えそうなエリアです。ビデオ店の巨大看板や風俗店の派手な看板が密集しています。

レトロな雰囲気のビデオ店の看板。

ビルを見上げると、はるか上方に張り紙。写真左側は総武線の高架です。

総武線の車窓から。張り紙がよく見えます。

参考文献

参考記事

神田須田町(メイドカフェ)大人の遊園地。コスチュームの展示・販売。

2000年代初め、秋葉原に続々と開店したメイド喫茶は、現在も盛況です。秋葉原から神田川を渡った神田須田町にもメイド喫茶の店舗が進出しています。
写真の店は、1階がバーで、地下1階がアニソン(アニメソングのこと)専門のカラオケ店。

同じく神田須田町のメイド喫茶。

コスチュームの展示・販売。

「大人の遊園地」がコンセプトのメイド喫茶。

参考文献

参考記事

神田須田町(ラジオガァデン)飲食コーナーに、肉の万世の開業当時の写真。

万世橋近くにあるラジオガァデン。その名の通り、電機部品の店舗です。かつての秋葉原の電気屋街を思わせる風景です。

ラジオガァデンの中になる飲食コーナー。肉の万世の直営店です。

生ビールを注文。写真左側のかつサンドは、見本品です。

店内には、肉の万世の開業当時の写真は、当時の秋葉原の写真が展示されています。

参考文献

参考記事

神田須田町(木造3階建ての建物)正面から見ると2階建て。

関東大震災以後の商業建築の多くは2階建てで、3階部分に屋根裏部屋を持つものが多く、これは木造3階建ての禁令をクリアするための抜け穴的構造でした。*1
神田須田町では、看板建築のような奇抜なデザインの商業建築以外にも、この「一見2階建て、実は3階建て」の建物を見かけます。

写真の建物は正面から見ると2階建てですが、横から見ると3階建てであることが解ります。

こちらも、一見何の変哲もない2階建て。

横から見ると3階建てです。

参考文献

*1
日本文芸社荷風!vol.23日本文芸社2010.1
神田界隈「建物」探訪旧・神田区に戦前の建築物を探して
P.30 看板建築は、関東大震災以後、急速に広がった商業建築で、防災を考慮して木造家屋の正面を銅板やタ…
*2
江戸東京たてもの園東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文江戸東京たてもの園2018
バラックの街並み
被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学…

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神田須田町(自販機コーナー)珍しいポップコーンの自販機。

神田須田町の「肉の万世秋葉原本店」の東隣にある狭小建物。1階に多数の自販機が並んでいます。

珍しいポップコーンの自販機。

中身が不明な怪しげ商品も販売されています。

看板。

参考文献

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