秦野(カフェ「天一」)ホルスタイン柄。ひがしみち。

乳牛通り※1 の入口の反対側(東側)は「ひがしみち」と呼ばれる通りが東へ続いています。
ひがしみちへ入ったすぐのところがY字路になっているのですが、ここに、印象的なカフェの建物があります。

建物一面ホルスタイン柄です。

みちの形状にあわせて建物の側面は湾曲しています。

「ひがしみち」は、弧を描くように東へ向かっています。

参考文献

参考記事

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秦野(二業組合寄進の玉垣)曾屋神社。料理屋業組合。光鶴園。

秦野(乳牛通り)乳牛を飼っていた場所。付近に醍醐みち、曽屋みち。

秦野の市街には、古い通りに名前がつけられています。
本町四つ角から南西へ県道704号線を進むと、「乳牛通り」の入口があります。
「乳牛」は、「ちゅうし」と読みます。

入口には、「乳牛通り」を示す石柱が建っています。

歴史のある通りらしく、老舗の商店も建ち並んでいます。

防犯灯に記された「乳牛」。
付近には、醍醐みち、曽屋みち、があります。
「醍醐(だいご)←醍醐味の語源」とは牛乳を精製して作った今のクリームのようなもので、「乳牛(ちゅうし)」は乳牛を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は「曽(そ)」つまり牛乳を煮詰めて作る食品、今のチーズのようなものを生産する家のあるところと解釈されています。*1

参考文献

*1
秦野市秦野ふるさと探訪 2ぎょうせい1986.11
醍醐道

本町地区には、大道通り、曽屋通り、乳牛通りなど名前のついた道が多い。醍醐と…

参考記事

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秦野(明治牛乳の牛乳箱)乳牛みち。

秦野(片町第一商店街)緑、黄、赤。カラフルな看板建築。

片町第一商店街(本町四ツ角から片町通り沿い)には、歴史ある商店が建ち並びます。

その中でも、ひときわ目をひく写真店の建物。
80年代、フィルムカメラが全盛だった頃、フジ(緑)、コダック(黄)、さくら(赤)の3社が競っていましたが、こちらの商店は、フジカラーの色に塗られています。

隣には、黄色と赤の商店が並びます。

黄色看板のひな人形店。

参考文献

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秦野(軽便みち)馬車鉄道の運行が始まりでした。

イオン秦野店の入口の信号付近。

NTTの建物の脇に、「軽便(けいべん)みち」の石柱が建てられています。

軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)まで(9.6キロメートル)の馬車鉄道の運行が始まりでした。*1

イオン秦野店の入口近くに記念碑が建てられています。

馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車または貨車をひくもので、旅客は、秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、製糸などで、秦野の産業発展に大きな役割を果たしました。(案内文より)

参考文献

*1
秦野市秦野市 ホームページ秦野市 リンク
軽便鉄道歴史の旅 リンク

軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目…

参考記事

秦野(くすの木広場)吉原の遊女たちに好まれた「秦野たばこ」ゆかりの地。

今回は、秦野(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。

慶応年間(1865~68)より「秦野たばこ」は全国的に名前が知られ、秦野の重要産業でした。「秦野たばこ」は、終夜これを喫煙しても 風味が柔らかで喉にさわらぬたばこであるという理由から、特に江戸吉原遊里の遊女たちに好まれたと伝えられています。*1

現在のイオン秦野ショッピングセンターがある場所には、かつて、日本たばこ産業秦野工場(昭和62年3月閉鎖)がありました。*2

イベントなどが催される「くすの木広場」。

明治38年2月の秦野煙草製造所設置の際に植えられたくすの木が、シンボルとして現在も残されています。*2

参考文献

*1
星野隆夫秦野・伊勢原今昔写真帖 : 保存版郷土出版社2005.3
特集 秦野のたばこ栽培

「秦野たばこ」の名前が全国的に知れ渡るようになったのは 慶応年間(1865~68…

*2
星野隆夫秦野・伊勢原今昔写真帖 : 保存版郷土出版社2005.3
秦野専売支局事務所

昭和62年3月に日本たばこ産業秦野工場が閉鎖され、その広大な跡地にオープンし…

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鶴巻温泉(宮永岳彦記念美術館)美人画で知られる洋画家。

鶴巻温泉駅前の「弘法の湯」の隣。美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦の美術館があります。

実家のある秦野市名古木にアトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、1946年(昭和21年)から15年間にわたり創作活動を続けました。*1

この日は、「たまゆら昭和を想う」と題し、レコードジャケット用の絵画の他、大型の純粋絵画の展示もありました。*2

『ぺんてるくれよん』のパッケージ(向かい合う男の子と女の子)や『小田急初代特急ロマンスカー』(3000形SE車)の内外装のデザインも手がたことで知られています。*1

参考文献

*1
秦野市秦野市 ホームページ秦野市 リンク
秦野市立宮永岳彦記念美術館 リンク

 

宮永岳彦アートの世界 プロフィール リンク

『光と影の華麗なる世界』と称される美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦。

*2
秦野市秦野市 ホームページ秦野市 リンク
秦野市立宮永岳彦記念美術館 リンク

 

宮永岳彦 たまゆら 昭和を想う 2022年3月16日から9月25日 リンク

「たまゆら(玉響)」とは、少しの間、ほんのしばらく、という意味の大和言葉で…

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下北沢(小田急線駅のレリーフ)宮永岳彦の作品。

鶴巻温泉(石燈籠)旅館「光鶴園」が建立。博物館「黄庵」。

鶴巻温泉駅前に、高さ2m以上はあると思われる大きな石燈籠が残されています。

光鶴園は、かつての鶴巻温泉の名旅館です。

大山講の書かれています。光鶴園は大山講の定宿だったようです。

大山のことを詠んだ詩歌。作者に「黄庵」の文字があります。

「黄庵」は、鶴巻を発展させるために、昭和28年(1953年)に光鶴園の敷地内に開設された性風俗博物館です。*1
正式には、今昔民俗研究所と称し、原始宗教の信仰対象である和合神仏をはじめ、収集品は約3000点にも及び、特殊な研究家には紹介者のある限り公開するが、好奇心や未成年者、酔後の方々にはお断りしていました。*2

参考文献

*1
柘山寿郎鶴巻温泉の歴史近代文藝社1988

P.162
博物館・今昔民俗研究所「黄庵」設置
鶴巻をもっと発展させる方法…

*2
中川時次郎黄庵什宝抄 第3集改訂鶴巻温泉光鶴園1964

今昔民族研究所は、一名を性風俗博物館とも称し、全日本博物館協会中唯一の特色…

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鶴巻温泉(吾妻山への登り口)光鶴園が建てた道標。
秦野(二業組合寄進の玉垣)曾屋神社。料理屋業組合。光鶴園。

渋沢(とき乃や)チャーシューワンタンメン。

渋沢駅南側の渋沢商店街。

オレンジ色のテント屋根と赤の暖簾の中華屋さん。

40年以上変わらない昭和の雰囲気が漂う店内。ラーメンや焼きそばに使われている麺はすべて手打ちの自家製麺です。*1

ビールとチャーシューワンタンメンを注文。

参考文献

*1
ぴあ湘南の絶品!町中華 : 炒飯、餃子、麻婆豆腐etc湘南のうまい町中華の名店ぴあMOOKぴあ

P.67
とき乃や
昭和の町中華を感じる赤い暖簾とのぼり旗
テント屋根に…

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渋沢(新吉原講寄進の道標)江戸屋喜平次の名前。人足二百人。

秦野市曲松にある追分道標追分道標※1 の正面の下部。「新吉原講中」と刻まれています。

矢倉沢往還の碑の説明文※1 でも紹介されている江戸屋喜平次の名前が確認できます。

新吉原の妓楼名と関係者の名前が刻まれています。この頃は、妓楼名は〇〇楼ではなく、〇〇屋と名付けられていたことが解ります。

人足二百人。

渋沢(追分道標)江戸時代、大山や富士参詣をする人々で賑わいました。

秦野市曲松の國栄稲荷神社の隣に、「大山道矢倉沢往還」の碑が建っています。
碑の説明文によりと、この場所は、江戸時代、小田原街道と矢倉沢往還の2つの古道が交差していた場所で、大山や富士参詣をする人々で賑わいました。

江戸屋喜平治の建てた道標。写真奥は、國栄稲荷神社のです。
碑の左面には、「小田原 いいすみ みち」と彫られています。

「大山道矢倉沢往還」の碑の説明文:

古道解説

ここは、東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が南北に交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち 」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣 や大山講 の人々によって数多く道標 が建てられ、近くに江戸屋喜平治の建てた道標もあり、宿屋も何軒かあったという。

碑の左面には、大山みち。
碑の背面には、寛政8年(1796年)の建立であることが刻まれています。

正面には、「右 ふし道 さい志やうじ 山の道 左 十日市場」

参考文献

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