JRのガード下を有楽町から新橋駅へ向かう途中に、「新橋近道」と書かれた入口があります。

暗い地下道のようなガード下の通路が延々と続きます。

所々に、このような店舗があります。

階段を登ると、2階にも同じような通路が続いています。

JRのガード下を有楽町から新橋駅へ向かう途中に、「新橋近道」と書かれた入口があります。
暗い地下道のようなガード下の通路が延々と続きます。
所々に、このような店舗があります。
階段を登ると、2階にも同じような通路が続いています。
新橋と言えばガード下です。ここを通りかかったのは午後の3時頃でしたが、ガード下は、すでに夜のような雰囲気です。
ガード下のアダルトショップ。新橋は大人の町です。
品揃えも豊富です。
ショーウインドウ。
今回は、新橋(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
新橋駅周辺には、中国マッサージ店が多いせいか、客引き禁止看板が散在しています。
整然と並ぶ看板。
ニュー新橋ビルにて。
手書きの貼紙。
静養地だった森ヶ崎鉱泉に芸妓屋ができたのは大正11年(1922年)でした。この時の芸妓屋は8軒、28人の抱え芸妓を擁していました。*1
当時の旅館に「盛平館」、「平盛館」などがりましたが、現在、「森ヶ崎十字路」の交差点近くに「盛平」と「平盛」の屋号のある蕎麦屋と米屋があります。
森ヶ崎本通り。
他にも古い建物が何軒か残っています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
森ヶ崎本通りを南を進んだあたり。
「ポルノ雑誌追放モデル地区」の看板があります。「さあやろう愛の力で町の美化」と川柳調で書かれた看板も併設されています。
森ヶ崎公園近くの看板。日当たりのよい場所であるためか、文字が読みづらくなっています。
「美化進む街なごやかに明け暮れる」、こちらも川柳調です。
今回は、森ヶ崎(東京都大田区)の町並みと風俗を三歩します。
JR蒲田駅から森ヶ崎行きのバスに乗り、「森ヶ崎十字路」で下車すると目の前が大森寺です。
境内には森ヶ崎鉱泉碑があって、鉱泉の由来が記されています。*1
明治27年(1894年)、に地元の農民が灌漑用に掘った井戸からラジウムを含んだ鉱泉が湧出し、諸病に効能ありと人気を呼びました。*1
石碑の裏側には、「明治32年8月発見 仝33年3月試験」と刻まれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
足立区入谷にある舎人一号公園の隣に小規模なラブホテル街があります。
オウム(アレフ)断固反対ののぼり。この付近にアレフの施設がある模様です。
ホテルの入口。
裏側からの遠望。
【参考テレビ番組】
*1 NHK総合テレビ ニュース・気象情報(2010.11.28 21:15)
竹ノ塚の西側にある舎人公園は、都心北部に位置する広大な公園です。その広さ故に、トイレやあずまやなどが多数あります。
スポーツ施設近くにあるトイレ。他の場所と違ってここは静かです。
寝泊りは禁止です。(上の写真とは別のトイレです。)
スポーツ施設近くのあずまや。
東武線竹ノ塚駅の北東、伊興4丁目に、銭湯の「しのぶ湯」があります。
破風造りの立派な建物です。
入口に、ラドン発生機がど~んと置かれています。
待合室に入ると「見返り美人」がお出迎えです。
大鷲神社の石垣には、寄進者の名前がたくさん刻まれていますが、その中の一つに「東京新吉原貸座敷有志」と書かれた石垣があります。大鷲神社が吉原の関係者の信仰を集めていたことがわかります。
当時の楼名が刻まれています。
新吉原。
料亭の名前が刻まれています。
今回は、竹ノ塚(東京都足立区)の町並みと風俗を散歩します。
酉の市は江戸東京を代表する冬の祭りで、規模の大きさでは、浅草の鷲神社の酉の市か新宿の花園神社の酉の市が有名ですが。酉の市発祥の地は、両者のいずれでもなく、江戸から遠く北に離れた花畑の大鷲神社でした。*1
花畑の大鷲神社の当時の賑わいは大変なもので、花畑は江戸時代のレクレーションの中心地でした。人気の要因は信仰のほかに賭博があったことでした。しかし、九代将軍徳川家重のときに賭博が禁止され、また浅草でも酉の市が開かれるようになり吉原の遊里と結びついて繁盛したことから、本家の大鷲神社の酉の市はさびれてしまいました。*2
この日(11月19日)は、花畑の大鷲神社の酉の市の日です。
参道から鳥居のあるところまで、露天が建ち並びます。
熊手屋の出店数は、5~6軒と小規模です。
たこ焼き。
【参考文献】
*1 長沢利明:酉の市の起源(1) 東京都足立区大鷲神社(西郊民俗)[2004.6]
*2 菊地隆夫:竹の塚今昔物語(「竹の塚今昔物語」企画・編集制作委員会,2007)P.18-P.19,P140-P.142
日本橋本町四丁目は、かつての町並みや雰囲気が残るエリアです。
中でも「理髪久保田」は、昭和5年築の看板建築です。
モダンなデザインです。
現在も営業中です。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
東京駅前はオフィスビルが林立するビジネス街ですが、雀荘が密集しているエリアでもあります。
昭和の雰囲気そのままの「麻雀クラブ富士」。
昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。*1
玄関部分。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
建設中の八重洲一丁目のこの場所に、数年前まで料亭「安芸」*1 がありましたが、取り壊され新しいビルが建設中です。工事用フェンスに「八重洲一丁目飲食街」と書かれている通り、建設中のビルの裏手に飲み屋街があります。
看板が連なる飲み屋街。写真右側は工事用フェンスです。
工事用フェンスには、「八重洲のあの日」と題し、江戸時代から現在に至るまでのこの界隈の変遷が地図で示されています。
1950年頃の火災保険特殊地図。この地図によると、この付近は「中央ホテル別館」や料理屋が建ち並ぶ一画でした。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
日本の中心オフィス街の東京駅八重洲口にほど近い日本橋の繁華街。雑居ビルの中に入るビデオBOXの看板をあちこちに見かけます。
サラリーマンの仕事の疲れを癒す憩いの場になっているようです。
薬局の2階にあるビデオ見放題の店。
レトロな電飾看板。
東武日光線、家中駅から東へ約2.5Kmのところに、鷲宮神社があります。
合戦場遊廓の主人や遊女たちは、商売繁盛を祈ってお酉様を信仰しました。*1*2
この日(11月23日)は例大祭(酉の市)が行われました。
酉の市の日は鶏肉と卵を絶たなければなりません。
神楽(かぐら)も披露されます。
【参考文献】
*1 都賀町史編さん委員会:都賀町史(都賀町,1989)P.275
【参考URL】
*2 鷲宮神社:鷲宮神社ホームページ
合戦場は、日光例幣使街道の宿場町で、合戦場という地名はその名の通り、戦国時代の大永3年(1533年)、宇都宮忠綱と栃木城主皆川宗成の軍が戦った場所です(川原田合戦)。宿場は500mほど続きますが、宿場時代は、飯盛り女が置かれている旅籠屋もありました。*1
天保10年(1839年)関東取締出役(別名“八州廻り”)の汚職事件にかかわり、合戦場宿の多数の旅籠屋などが検挙されるという事件がおきました。この事件は、もともとは、関東取締出役の内藤賢一郎という人が飯盛女にあてた恋文が露見したことから、合戦場宿福村屋太六が捕らえられたことに端を発したもので、当時評判となった事件でした。取調べにあたったのは、遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)で、処分者は800余人に達し、八州廻りの黒い霧が一掃されました。*2
合戦場の町並みを西に入った東武日光線沿いの一画は、昭和33年まで遊廓だった地です。宿場時代の飯盛女を集めて遊女屋とし、ここにまとめられました。*1
玄関脇に丸窓があります。
道路脇に祠がありました。
【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.175,P.178
*2 本間清利:日光街道繁昌記 補訂版(埼玉新聞社,1980)P.102-P.103
今回は、合戦場(栃木下都賀郡都賀町)の町並みと風俗を散歩します。
合戦場宿に、日立製作所創業者の小平浪平(おだいらなみへい)の生家があります。
「小平浪平生誕地」の碑
小平浪平は、合戦場の宿場町に生まれ、秋田県の小坂鉱山へ入社。明治43年に日立製作所を創設しました(案内板より)。
「私の家には酒飲みや酒飲み運転をする人はおりません」と書かれたプレート。
八丁堀二丁目に、雀荘の建物があります。水色の建物が幻想的です。
入口付近。
玄関の部分もモダンです。
建物脇の路地もいい雰囲気です。
地下鉄八丁堀駅近く。ビル街の中に戦前の看板建築がひっそりと残る一画があります。写真の一番右側の建物は、旧神田美容院の建物です。*1
路地の入口。
銅板建築の建物。
都会のど真ん中にして、この石畳の路地。自販機の安室奈美恵さんのポスターとのアンバランスが何ともいえません。国旗掲揚塔があります。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
都営地下鉄浅草線宝町駅の出口前は、昭和通りと鍛冶橋通りが交差する宝町三丁目交差点です。
江戸時代初期、この交差点の角の秋田銀行が入っているビルと昭和通りを挟んだ向かい側のビルの京橋二丁目東南部の地域に、京橋柳町遊里がありました。12
関が原の合戦(1600年)後、徳川家康が江戸開発に着手してすぐの頃に、麹町八丁目、鎌倉河岸、京橋に遊里ができ、その後、京橋の遊里は、人形町に移転し「よし原町」と呼ばれました。つまり、京橋の遊里と人形町の「よし原町」は、同時に存在しなかったことになりますが、一部は京橋に残って酒肴を出しながら売春をかねる家や、柳の下にたたずんで男に声をかける比丘尼もいました。炭町には、なかなか人形町の吉原へ行きたがらないメンバーが寛永3年(1626年)まで残っていました。*3
京橋川(現在の首都高速環状線)の西寄り(現在の首都高速西銀座JCT付近)には、「比丘尼橋」という名前の橋がかかっていて、この一帯は歓楽街でした。*3
【参考文献】
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 新創社:東京時代map.大江戸編(光村推古書院,2005)P.48,P.50
*3 塩見鮮一郎:吉原という異界(現代書館,2008)P.27,P.30
今回は、宝町~八丁堀(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
八重洲通りと中央通りの交差点(日本橋と京橋の中間)には、「中橋」がかかっていました。中橋は、江戸歌舞伎発祥の地とされています。これを記念して京橋に「江戸歌舞伎発祥の地」の碑が建てられてあります。*1
寛永元年(1624年)、猿若中村勘三郎がこの地に「中村座」の芝居櫓をあげ、ここが江戸歌舞伎発祥の地となりました。
中橋の歌舞伎は、慶長期(1596年~1615年)は遊女歌舞伎で、派手に売笑していました。*2
その後、猿若座は、江戸城に近いという理由から今の人形町に移転しました。*3
*1 金山正好,金山るみ:中央区史跡散歩(学生社,1993)P.110
*2 石崎芳男:元吉原考(近代文芸社,1994)P.64-P.65
*3 足立直郎:歌舞伎劇場女形風俗細見(展望社,1976)P.32-P.33
地下鉄有楽町駅を地上に出ると、皇居を望む丸の内です。
ここには、第一生命本館、帝国劇場、明治生命ビルなど、昭和の激動期を見つめてきた近代建築物が多く残っています。
明治生命ビルは、昭和9年(1934年)竣工。ギリシヤ・ローマ建築を思わせる建築形式です。敗戦後、マッカーサーが一部会議室として使用しました。*1
マッカーサーがGHQ(連合軍最高司令部)の本部を置いたのは、明治生命ビルの300m南にある第一生命ビル(現DNタワー21)です。マッカーサーの執務室なども保存されています。*1
東京宝塚劇場は、1934年、東京での宝塚歌劇の拠点となる劇場として誕生。その後、立替工事を行い、2001年、リニューアルオープンしました。3
敗戦後は、アニー・パイル劇場と改名された宝塚劇場は、他の接収施設とは多少事情が異なりました。観客は米軍の将校、兵隊でしたが、舞台上や舞台裏で日本人が活躍し、戦後の日本のエンターテイメントの発祥の地となりました。2
【参考文献】
*1 小林一郎:目利きの東京建築散歩(朝日新聞出版,2010)
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.149-P.153
【参考URL】
*2 宝塚歌劇団:宝塚歌劇ホームページ劇場案内
有楽町駅の南側のガード下は、飲み屋が密集する場所です。
店からあふれた客たち用に、道路に丸イスが並べられています。
ガード下の通路を南側へ進むと「ホッピー」のノボリとおびただしい数の提灯。
トンネル型ガードは、「焼き鳥横丁」と呼ばれ、わずか30,40mのかいわいに10軒ほどの店が並んでいますが、やはりこの一角では漂う煙が主役です。*1
「小松」、「登運とん」、「ふじ」、「金陵本店」は、昭和中頃から現在も続いている店です。
トンネル内には、濃い煙が立ち込めています。
【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.81-P.85
JR線が走る遊楽町のガード下にある“有楽町コンコース”に、昭和の時代をそのままに再現した飲食店があります。
丹下左膳のポスターとミルクホールの看板。
「ミルクホール」は、明治30年(1897年)頃に各地の大学街などに現れました。当初は「新聞・官報縦覧所」と言われ、手頃な価格でミルクを飲みドーナツなどの軽食を食べながら、備え付けられた新聞や雑誌を閲覧することができました。まだ飲み慣れなかった牛乳の乳臭さを消すためにコーヒーが加えられ、一般大衆にコーヒーメニューが受け入れられることにもつながりました。*1
トリスバーの看板と理髪店。
性病科の診療所の看板。
【参考URL】
*1 UCC上島珈琲株式会社:時代を映す愛すべき空間~カフェはじめて物語・日本篇~
有楽町駅の南側のガード下。
ここに、サラリーマンの憩いの場所があります。
清涼飲料水の自販機コーナー。
ビール(炭酸飲料)も販売しています。
自販機前にはテーブルがあって、自販機で買ったビールをその場で飲むことができます。
有楽町で書き落としてならないのは、すし屋横丁(通称:スシ横)です。現在の交通会館と新幹線の間には、「ヤミ市」の名残として、二階建てのすし屋横丁が昭和30年代まで残っていました。「スシ横」は、近隣のサラリーマンの手軽な安息所として人気を集めましたが、建物は年とともに老朽化し、汲み取り式の共同便所は異臭を放っていました。東京オリンピック開催を控えた時期、新幹線を日本の技術の粋として世界に紹介しようということになり、「スシ横」の撤去を断行するため、「東京交通会館」の設立が決定されました。*1
当時、すし屋横丁には、「ミルクワンタン」という店があって、店名にもなっているミルクワンタは、ワンタンの汁が牛乳で、モツの煮込みが入れてあるというものでした。カウンターには、油虫がはってて、床にはニワトリの足だの首だの落ちていましたが、味は最高でした。*2
現在の「ミルクワンタン」は、東海道線ガード下に移転しています。1968年、すし屋横丁の立ち退きの際、民間会社の倉庫だった物件が売りに出されると聞きつけて、主人の藤波さんは、金額よりは有楽町かいわいにあるかないかが問題だと考え、飛びつきました。*2
「ミルクワンタン」と赤い文字で書かれた看板。
ミルクワンタンは、若いころシベリアを放浪した藤波さんが、ボルシチにヒントをえて創作した料理で、和風スタミナ・シチューと考えればよく、胃にもなじみやすく、二日酔いにも効く、と評判をよびました。*2
【参考文献】
*1 木村毅:有楽町今と昔(東京交通会館,1980)P.271-P.272
*2 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.109,P.122-P.126
JR有楽町京橋口から徒歩0分のところに、「有楽町高架下センター商店会」の入口があります。
夜になると、看板に明かりが灯ります。
高架下を北に1分ほど歩くと、丸三横丁の看板があります。
JT高架を横切るわずか50mのトンネル状の小道に、味わい深い飲み屋群がぎゅ~っと詰まっています。場所は、東京国際フォーラムのすぐ隣。凄いギャップです。*1
【参考文献】
*1 散歩の達人:散歩の達人(1999.11)P.8-P.9
今回は、有楽町(東京都千代田区)の町並みと風俗を散歩します。
有楽町駅の日比谷口を出て、すぐ左手に折れるとガード下です。頭上をJRの電車が走り抜けます。
敗戦直後、このあたりは、パンパンガール(街娼)のかせぎ場でした。*1
東京に進駐した占領軍は、日比谷の第一生命ビルにGHQを設置し、焼け残った建物は次々と接収されました。有楽町から日劇の周辺には、進駐軍将校や靴みがき少年、浮浪児、パンパンガールなどが街にあふれていました。東京におけるパンパンガールの発祥地はこの有楽町で、「ラク町ガール」とも呼ばれました。*2
パンパンガールは、旧日劇前や数寄屋橋交差点を周辺にも分布していました。
有楽町のガード下は、現在でも、昼なお暗い場所です。
【参考文献】
*1 朝日新聞社会部:有楽町有情(未来社,1981)P.12-P.17
*2 桑原稲敏:戦後史の生き証人たち(伝統と現代社,1982)P.12
赤坂にある豊川稲荷は、商売繁盛・盗難除けの御利益で有名ですが、芸事も上達すると言われ、赤坂芸者の信仰を集めました。*1
青山通りに面した石垣(大正15年建立)には、寄進者の名前が彫られています。
新吉原「大黒」。
洲崎遊廓の楼主たちは、赤坂の豊川稲荷を信仰していました。荒川楼、高橋楼、花井楼、北川楼などが判読できます。*2
【参考文献】
*1 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
*2 岡崎柾男:洲崎遊廓物語(青蛙房,1988)P.286
赤坂には、多くのキャバレーが存在しました。昭和の中頃、料亭と芸妓の減少は、同時にキャバレーやクラブの増加を意味していました。世界第一と言われたキャバレー「ミカド」は隆盛時の昭和50年中期には500人のホステスを抱え、しかもいずれも若く美人揃いでした。「美人を見たければ、夕方出勤時の赤坂ミカドの楽屋口に立て」と言われたほどに、若く美しい女性がミカドに集まりました。*1
キャバレー「ミカド」は、昭和60年に閉店し、現在は商業ビルになっています。
キャバレー「CABANA」があった付近。手前には、旧料亭の「浅田」がありました。*1
ディスコ「ムゲン」は、日本で最初のディスコとして昭和43年にオープンしました。店の前には、ローマから運んだ2体の石造が立っていて赤坂の名物となっていました。*1
「ムゲン」は、ゴーゴーダンス、モンキーダンスのメッカとなり、いい女はここで踊るのが定番となりました。客層も芸能人だけでなく、三島由紀夫、川端康成などの文化人も来訪していました。「ムゲン」は、昭和62年に幕を閉じました。*2
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.133-P.141
外堀通りを一本西へ入るとと、点々と割烹が残る一画があります。
旧料亭は、赤坂の街の中に混在しています。
「木の下」、「つる中」など、当時の料亭の屋号が現在も残されています。
風情のある小路。向こう側は外堀通りです。
赤坂は、日本の政治の中心である永田町から最も近い位置にあり、明治から昭和中期までの間、日本の中枢部の人々の社交場として発展しました。*1
昭和5年になると、赤坂の芸妓家は140軒、芸妓数は408名、この他に、待合、料理屋111軒となり、新橋に勝るとも劣らない規模を備えました。*2
昭和47年の調査では、赤坂2丁目交番の隣に人力車夫溜り「大新」があって、写真の右側の坂道には、人力車が数台並んでいました。*1
赤坂見番があったあたり。*1
田町通り(現在はエスペラナード赤坂)は、かつては料亭街でしたが、現在は芸者衆の姿は皆無で、クラブやスナックが建ち並ぶ町に変貌しています。*3
この付近には、赤坂屈指の名門料亭だった「川崎」がありました。*2
田中角栄元首相は、1970年11月25日の昼、料亭「千代新」(現在はファミレス)に週刊誌「女性自身」の関係者を招きました。同誌が田中氏との間に3人の子をもうけた元神楽坂芸者を取材、書こうとしたのを阻止するのが目的でした。結果として、「女性自身」は折れましたが、編集長代理として同席していた児玉隆也氏は、このとき「もう一人の女」の存在を知り、数年後、そのレポート「淋しき越山会の女王」が脚光を浴び、田中政権崩壊につながりました。*2
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 金賢:荷風!Vol.17(2008.9)P.24-P.28「東京オリンピックが変えた街③赤坂」
*3 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
赤坂の東側。永田町にある首相官邸は、日本の政治の中枢です。
昭和41年、この首相官邸の裏にトルコ風呂の建設が申請されました。当時、トルコ風呂の営業地域は特定されておらず、許可さえ受ければどこでも開業できた時代だったため、トルコ風呂業者が永田町の首相官邸の近くでの営業を申請したわけです。ところが、それを知った佐藤栄作首相が大激怒。関係省庁にハッパをかけ、第15回国会に「風俗営業等取締法の一部改正」を上程して通過させ、開業を阻止しました。風俗ジャーナリストの広岡敬一さんは、どこの誰による開業申請かを探るため、所轄と思われる麹町保健所で申請書を探しましたが、書類は破棄されて不明だったそうです。*1
トルコ風呂の建設が申請された「官邸裏」とはどこだったのか、手がかりが無く不明ですが、この問題を議題としてとりあげた昭和41年6月27日の参議院地方行政委員会*2 で、市川房枝議員は「総理官邸の下」と表現しています。おそらくトルコ風呂は、官邸のある高台よりも地形的に低い場所に計画されていたのでしょう。首相官邸の南東側は崖になっていて、現在、この付近には、東横イン官邸南店などの民間のビルが建ち並んでいます。
また、同委員会で、松澤兼人委員は、「参議院会館の窓からのぞくと、大きなたれビラが、屋上から下に下がっていて、『サウナ・バス、八月一日オープン』と書いてあった。」とこのときの状況を国会で説明しています。*2
さらに、松澤兼人委員は、「きのうヒルトンホテル(現在のキャピトル東急ホテル)に参りましたら、あの角のところに何とかというビルがある。そこにサウナ・バスとかいう大きなたれビラがたれまして、八月一日オープンと、こう書いてある。」と述べています。*2
「大きなたれビラ」があったと思われる場所は、首相官邸からは少し離れていますが、官邸の北西に位置し、地形的にも低い場所にあります。この付近にトルコ風呂が計画されていた可能性もあります。
【参考文献】
*1 広岡敬一:戦後性風俗大系(朝日出版社,2000)P.211-P.212
【参考URL】
*2 国会会議録検索システム:第051回国会地方行政委員会第32号(1966.6.27)
今回は、赤坂(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
赤坂は美しい自然をもっています。赤坂見附方面から見上げると、緑の森の丘の上に白いホテルが続いて建っていて、都心とは思えない落ち着いたムードをかもし出しています。*1
弁慶橋と弁慶濠は、「江戸城外堀跡」として文化財に指定されています。
橋の欄干や擬宝珠(ぎぼし)に、無数のピンクチラシ剥がし跡があります。
デリヘルのチラシでしょうか。
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
千葉街道(国道14号線)沿いの商店。
アダルトショップです。
入口のドアは、アダルトショップらいしい雰囲気です。
看板。
京成電鉄の中山駅から中山法華経寺までの参道が続いています。普通の商店街のような雰囲気で風情があります。
参道から東側の路地に、銭湯の国見湯があります。建物は場所柄、お寺のような重厚な建物です。
入口付近。脱衣場、浴場とも普通の銭湯よりはひとまわり広い立派な銭湯です。
建物を側面から見ると、その大きさを実感できます。
下総中山は銭湯密集地域です。駅周辺だけでも、松竹湯、国見湯、桔梗湯、寿湯、滝の湯、栄浴場など6軒あります。
駅近くにある松竹湯。
周囲はビルに囲まれています。
脱衣場はやや狭いですが、大きな鏡があるので広く感じます。サウナは無料です。
歌舞伎町公園の隣に、喫茶店「王城」だった建物があります。
戦後の復興が生んだ1950年代の都市文化と言えば、ロックンロールに代表される明るいアメリカのイメージが強いのですが、喫茶店については、ヨーロッパのイメージが強い傾向があります。*1
外観は、ヨ-ロッパの城や山小屋のイメージを表現していて、建物は、塔のようなデザインがされ、ステンドグラスも使われていました。*1
現在は、カラオケボックス店として営業中です。
【参考文献】
*1 陣内秀信,法政大学・東京のまち研究会:江戸東京のみかた調べかた(鹿島出版会,1989)P.181-P.184
靖国通りから北側に1本入ったソープランド街。数年前と比べるとヘルスに転業している店舗もあって、時代の移り変わりを感じます。
歌舞伎町は、トルコ風呂改名(1984年)にまつわる都市伝説の舞台にもなりました。1975年11月14日の毎日新聞(夕刊)のコラム記事「赤でんわ」によると、当時、歌舞伎町に「大使館」という名のトルコ風呂がオープンしましたが、それ以来、毎夜、大使公邸に「いま、すいてますか。」「Aちゃんいる?」といった調子で、怪しげな電話がかかってくるようになり、職員は夜も眠れないありさまとなりました。104番にトルコ大使館の電話番号を問い合わせたのを交換嬢が「トルコ風呂大使館」としばしば間違え、トルコ大使館の番号を教えたのが真相ですが、たまりかねたトルコ大使館は、1975年6月に外務省を通じ大使名で正式に電話番号の変更を申し入れ、トルコ風呂「大使館」は、「古城」と名を変えることになりました。*1
「わが国にはこの種のトルコ風呂はありません。まぎらわしい名前を使われては国のイメージにかかわるので」と大使館。「外務省から圧力があったから変えたわけではないですよ」とすました顔のトルコ風呂側。まずは、国際問題にもならず、メデタシというお話でした。*1
1975年版(昭和50年版)の電話帳で確認してみると、歌舞伎町に「ルームサウナ『大使館』」の電話番号が掲載されています。場所は、歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、209-1645となっています。それが、1976年版(昭和51年版)の電話帳では、「ルームサウナ『大使館』」の名は無く、「トルコ『古城』」の名前があり、場所は同じ歌舞伎東京第18ビルで、電話番号は、208-9774に変更になっています。*2*3*4
毎日新聞の記事の「トルコの大使館」の舞台は、この場所だったと考えられます。
1984年にトルコ人留学生の働きかけがきっかけとなって、「トルコ風呂」が「ソープランド」に改名*5 されましたが、それより10年も前に、すでに改名の働きかけあったわけです。
【参考文献】
*1 毎日新聞社:毎日新聞夕刊(1975.11.14)P.8「赤でんわ『トルコの大使館』 」
*2 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和49年12月1日現在(1975,東京電気通信局)P.404
*3 日本電信電話公社:東京23区電話帳 職業別(生活篇 下)昭和51年6月1日現在(1976,東京電気通信局)P.429
*4 日本住宅地図出版:ゼンリンの住宅地図 新宿区(1976,日本住宅地図出版)
【参考記事】
*5 風俗散歩(原宿):トルコ共和国大使館(2010.10)
今回は、歌舞伎町(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
「演歌の殿堂」として広く知られた新宿コマ劇場は、2008年12月31日に閉館しました。
現在、工事用フェンスには、コマ劇場が賑わっていた頃の写真が掲載されていて、歌舞伎町の歴史を知ることができます。
一番右端には、「写真で見る歌舞伎町の歴史」と題するパネルがあって、歌舞伎町の歴史が説明されています。
戦災復興当時、「歌舞伎劇場」の設置を目玉にしていましたが、結果的に設置は実現せず、名前だけが残って「歌舞伎町」という町名になりました。
喫茶店「王城」の夜の写真。手前には、名曲喫茶「スカラ座」の看板が見えます。
西早稲田2丁目。早稲田通りを南側に入った路地。
木々に囲まれたこの一画は、閑静な住宅になっています。
下宿屋の「渡辺館」。
今では少なくなった賄い付きの下宿です。
都内で、名画座と呼ばれる映画館で残っているのは15軒ほどです。高田馬場の「早稲田松竹」は、毎回2本立て旧作名画を流し、朝から晩までのんびりと楽しめる空間です。*1
「早稲田松竹」は、昭和26年に、松竹の封切館としてスタートし、昭和50年に2本立て名画座に路線変更しました。平成14年にいったんは休館しましたが、その後、早稲田大学の学生が中心となって、復活させました。*1
穴八幡宮の近くに、映画館の「早稲田全線座」が昭和30年代までありました。「早稲田全線座」は、映画館でしたが、実は映画館とストリップの2本立てで、上映されていました。*1*2
「早稲田全線座」で上映されたストリップは、「全スト」(一糸まとわぬストリップ)でした。劇場の前には、「憎いほど見せます!悶えます!」とお色気たっぷりの看板が立掛けられました。*2
閉館後は、自動車販売会社のショールームになりましたが、現在は空きビルとなっています。
【参考文献】
*1 散歩の達人(2006.7)P.33「復活の名画座ものがたり」,P.49「昭和33年地図で歩く」
*2 実話と秘録(広晴社,1963)P.22-P.23
早稲田大学演劇博物館は、英文学者の坪内逍遥の業績を記念して建てられた日本で唯一の演劇博物館です。*1
民俗芸能展示室(2階)。
近代展示室(3階)には、ストリップの展示もあります。(下の写真は、館内で発売(¥500.-)されている「演劇博物館」の冊子*1 のP.15)
ストリップをも芸能の一分野と認定し、歴史的資料を展示しているのは、さすが演劇博物館です。案内板のストリップという片仮名の下には、Burlesque(バーレスク)と英語が記されていて、学術研究としての対面を保っています。日本初のストリップは、1947年に帝都座五階劇場で上演されました。*2
同年に上演された「女の学校」というタイトルのストリップのポスターが常設展示されています。
森繁久彌さんの企画展示が行われていて、コミックオペラ「モルガンお雪」のポスターなどが展示されています。
【参考文献】
*1 早稲田大学演劇博物館:早稲田大学坪内博士記念演劇博物館(早稲田大学演劇博物館,2001)P.4,P.14-P.15,P.20-P.21
*2 荒俣宏:万博とストリップ(集英社,2000)P.14-P.17
昭和48年(1973年)に大ヒットした南こうせつとかぐや姫の名曲「神田川」は、”四畳半フォーク”の代表曲で、これまでのメッセージ・フォークにはっきり別れを告げた曲でした。哀愁をおびたバイオリンの音をともないながらの「ただあなたの優しさが怖かった...」というくだりが、同棲生活のあやうさをよくあらわしていました。*1
「神田川」の歌詞は、作詞をした喜多条忠さんの自らの学生時代の体験に基づくものです。喜多条忠さんは、2年生になると新入生のみち子さんと知り合い、神田川沿いの3畳一間のアパートで同棲するようになりました。写真の左側の5階建ての建物のあたりが同棲していた「神田川」のアパート跡です。*2
「神田川」の歌詞の最後「若かったあの頃、何もこわくなかった」と書き上げるまでわずか15分しかかからなかったといいます。当時、大学は、ベトナム反戦運動と授業料値上げ・管理反対闘争で揺れていて、喜多条忠さんもヘルメットをかぶり学生運動に加わり、機動隊とぶつかり、殴られたり催涙弾を浴びました。しかし、若い喜多条さんに失うものはなく、何も恐くありませんでした。「逆に恐いのは何か」と考えました。泥だらけになって、みち子さんが待つ部屋に帰ると、いつもと変わらず台所でカレーを作っている彼女の背中が見え、「俺はこういう日常にいつか埋没するのだろうか。俺にとって恐いのは、彼女の変わらぬ優しさかもしれない。」と考えました。そして、日本の自由詩の歴史上もっとも有名で、悲しく、せつない詩句が、このとき誕生しました。--ただあなたのやさしさがこわかった。*2*3
昭和49年(1974年)に公開された映画「神田川」は、この名曲「神田川」が原案となっています。大学生の誠のアパートがあったロケ地跡の石段は当時とほとんど変わっていません。*2
「神田川」の歌詞に登場する横丁の風呂屋のモデルは、西早稲田にあった「安兵衛湯」と言われています。*3
現在はマンションになっています。*4
【参考文献】
*1 世相風俗観察会:代世相風俗史年表1945→2008(河出書房新社,2009)P.195
*2 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.53-P.72
*3 テリー伊藤:歌謡Gメンあのヒット曲の舞台はここだ!(宝島社,2005)P.19
*4 新宿区住宅地図(1990)P.17
高田馬場と言えば、神田川です。高田馬場の町を東西に流れ、早稲田方面へ続いています。
高田馬場駅近くの神田川は、繁華街が隣接しているので、このような「小便・嘔吐等厳禁」の看板があります。
神田川沿いに歩いていくと、木々が生い茂る場所があります。
大便等禁止の貼紙。消えかかっていますが、「軽犯罪法違反」と書かれています。
さかえ通りに、昭和を感じさせる美容室の建物があります。
古い看板が連なっています。
2階はアパートになっていて、1階の美容室の隣がアパートの入口です。
1階の右側半分は、タイ料理の店になっています。
今回は、高田馬場(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
高田馬場駅前の繁華街の「さかえ通り」。通りの奥まったあたりに、元ビデオ店だったと思われる建物があります。
「ビデオ」の看板だけが残されています。
個室鑑賞の店も数軒あります。
個室ビデオ店の貼紙。
JR代々木駅前に国旗掲揚塔があります。
昭和39年10月吉日と書かれています。東京オリンピックの開催は、昭和39年(1964年)10月にですので、この国旗掲揚塔はこれにあわせて作られたものと思われます。
代々木駅近くの交差点にも同様の国旗掲揚塔があります。
「昭和39年8月20日 通り町会国旗掲揚塔」と書かれています。
千駄ヶ谷の鳩の森神社近くに、千駄ヶ谷が旅館街だった頃に営業していたと思われる旅館の看板があります。
1959年の住宅地図*1 を見ると、旅館「喜鶴(きかく)」と記されています。
現在は、営業していません。
看板は、「旅館」でしたが、その後「ホテル」として営業していたようです。
現在は、周囲に旅館街の面影はありません。
【参考文献】
*1 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4
昭和25年(1950年)に勃発した朝鮮戦争によって、米兵の往来は激しくなり、売春業も繁盛しました。しかし、昭和20年代後半には、まだ新宿歌舞伎町界隈に連れ込み旅館が密集するという状態ではありませんでした。当時、連れ込み旅館の代名詞ともなった地名は、千駄ヶ谷でした。*1
旅館「白樺荘」*2 があったあたり。現在は、マンションが建っています。
千駄ヶ谷の「温泉マーク」を舞台にした梶山季之の小説「朝は死んでいた」によると、昭和30年代前半の千駄ヶ谷の旅館は、一夜の泊まり料金が高いせいもあって、夜の客は、銀座、新宿、渋谷といった一流の店に勤めている女性たちがほんどでした。一方、昼間の客は、人妻と大学生、重役と女秘書、商店主と女事務員など、時間決めの客がほとんどでした。*1
旅館「もみじ」があった場所。現在は駐車場になっています。
隆盛を誇った千駄ヶ谷ですが、昭和33年(1958年)の第三回アジア大会の開催を契機に、凋落(ちょうらく)の運命をたどることになります。アジア大会の開催は、1964年の東京オリンピック開催を射程に入れていたので、場所は千駄ヶ谷周辺。日本にとっては、戦後から脱却するワンステップという大きな意味を持っていたため、渋谷区は、「風紀がみだれていてはまずい」という理由で、千駄ヶ谷の温泉マークに自粛をうながしました。*1
これかがきっかけとなって、鳩森小学校のPTAの活動が起こりました。「鳩の森騒動」とも呼ばれるこの運動の結果、昭和32年(1957年)に代々木千駄ヶ谷地区が文教地区に指定され、連れ込み旅館の自壊は時間の問題となりました。*1*3
【参考文献】
*1 保田一章:ラブホテル学入門(晩聲社,1983)P.63-P.66
*2 住宅協会:渋谷区東部(住宅協会,1959)P.4,P.6
【参考URL】
*3 代々木商店街ホームページ:代々木まち語り
千駄ヶ谷の東京能楽堂の南側に銭湯の鶴の湯があります。
玄関付近。黄緑色のタイルがアクセントになっています。
美しい黒板塀が銭湯の東側を囲っています。
おなじみの温泉マーク。国土地理院の地形図の温泉記号で使用されているマークですが、銭湯でも定番です。
温泉マークは本来、地図のうえで、ここに温泉がありますよと示すためのマークですが、戦後、温泉マークが温泉以外の風俗営業施設に利用された時代がありました。温泉マークがくらげを逆さまにしたような形をしていることから「さかさくらげ」という隠語が発生し、「温泉マーク」「さかさくらげ」というと、当時の連れ込み旅館だと認識されていました。*1
【参考文献】
*1 金益見:ラブホテル進化論(文藝春秋,2008)P.10
原宿から明治通りを北へ行った神宮前一丁目交差点付近。
ここに、トルコ共和国大使館があります。
1984年、元トルコ人留学生が厚生大臣に直訴状を手渡しました。その内容は、「日本にあるトルコ風呂(現在のソープランド)とわが国のトルコ風呂とは全然違うのだから、トルコという名称を使うのは、やめて欲しい。」というものでした。「トルコ風呂」は、あくまで俗称であるので、厚生省としては、何もできませんでしたが、国際問題に発展しかねないこの問題に対して、トルコ風呂の業界団体である東京都特殊浴場協会がトルコ風呂に代わる新名称を公募しました。公募によって集まった2400以上の名称の中から、当時24歳の会社員の男性の「ソープランド」が採用されました。*1
一方、トルコ風呂改名には、別の都市伝説も存在します。かつて「大使館」というトルコ風呂があったという話です。電話帳に、「トルコ(風呂)・大使館」と「トルコ大使館」が併記されていたたため、本物の大使館に、トルコ風呂「大使館」あての電話がしばしばかかってきました。また、新任のトルコ大使館員が、(タクシーで)空港から大使館へ向かおうとしたところ、トルコ風呂「大使館」へ連れて行かれました。こうしたことが重なって、激怒したトルコ大使館は日本の外務省へ講義し、名称を変更することになりました。*1
【参考文献】
*1 井上章一,斎藤光,澁谷知美,三橋順子:性的なことば(講談社,2010)P.234-236
原宿駅の西側に広大な敷地を持つ代々木公園があります。代々木公園は、敗戦後の1945年にアメリカ軍に接収されたワシントンハイツが、1964年に東京オリンピックの選手村となった後、1967年に都市公園として開園したものです。
広大な敷地の中には、サイクリングコースがあります。
公園の北部にあるサイクリングセンター(通称自転車小屋)で自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。
この自転車小屋の裏手は、都内では有名な野外ハッテンバでした。ネットの掲示板には、「筋肉系」とジャンルを絞って、毎夜書き込みがされていました。*1
幼児車向け自転車乗り場の奥の広場もハッテンバでした。*1
【参考文献】
*1 Badi(2002.8)P.36-P.37「野外ハッテンスポット厳選紹介」
代々木公園に、東京オリンピック開催を記念した掲示があります。
アーチの奥に東京オリンピック記念宿舎があります。
この建物は、東京オリンピックのときにオランダの選手団宿舎として使用された建物です。木立にたたずむ姿は軽井沢を思わせます。*1
1964年、第18回オリンピック大会が東京で開催されましたが、そのときの選手村の跡が代々木公園になりました。
【参考文献】
*1 本橋信宏:60年代郷愁の東京(主婦の友社,2010)P.5-P.8
1964年の東京オリンピック開催後、日本の未来をいちばん鮮明に見ることができたのが原宿でした。戦後、次々に現れた「族」のうち、最新の種族として「原宿族」という言葉が聞かれ始めたのもこの頃でした。彼らは、スポーツカーや改造車、あるいはオートバイを連ねて表参道をわが物顔に走り回りました。*1
この原宿族は1967年頃に去り、原宿は、新宿の影に隠れて足踏み状態が続きました。ヒッピーファッションやミニスカートの流行の後、次に原宿に現れた「族」は暴走族でしたが、この頃既に銀座や新宿で始まっていた歩行者天国を導入により、暴走族は締め出されました。その歩行者天国に、今度は目立ちたがり屋のロックンローラー(ローラー)が1977年にフィフティーズファッション(男はリーゼントにTシャツ、女はポニーテールにサーキュラー風のスカート)で登場し、ツイストやジルバを踊りはじめました。*2
現在も、日曜日になると、ロックンローラーが代々木公園入口付近で踊っています。
踊るとスカートが大きく広がります。
ローラーの次には、「竹の子族」が登場(1979年)しました。竹の子族の特色は、「ブティック竹の子」の派手な衣装を着て、ラジカセの曲に合わせて独特の竹の子踊りを踊ったことでした。*2
【参考文献】
*1 エドワード・サイデンステッカー,他:立ちあがる東京(早川書房,1992)P.202-P.204
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.243-P.246
ブティックが密集する竹下通りは、若者で賑わっています。
真っ赤な店構えがよく目立つ「ブテッィク竹の子」。
この店の衣装(ハーレムスーツ)をユニホームのように着ていた「竹の子族」は、一世を風靡しました。ブームが終わった後も、日本をモチーフにしたオリジナルファッションを提案。いまも根強いファンを持っています。*1*2
現在の竹下通りは、下着ショップの多さが際立っています。
路上に立つ派手なマネキン。
【参考文献】
*1 加藤明,他:原宿物語(草思社,1986)P.224
*2 馬淵公介:「族」たちの戦後史(三省堂,1989)P.249
今回は、原宿(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
原宿の繁華街の歴史は、進駐軍時代にさかのぼります。終戦になると、代々木の練兵場に進駐軍将校の宿舎「ワシントンハイツ」(現在の代々木公園)ができ、この進駐軍将校とその家族が買い物をする店が、原宿の表参道に発生しました。中でも人気を集めたのが、昭和25年に原宿の渋谷川(穏田川)のほとりに出てスーペニアショップ(進駐軍相手のみやげ店)の看板をあげた「キディランド」でした。兵士たちは、朝鮮戦争が始まってからは、日本を休息地としていたので、パーティが多く催され、そのときの仮装用品をまかなうキディランドは人気のある店で、帰国するときのみやげものもこの店で調達していました。このように、原宿に英字看板の店ができると、娘たちの人気を集め、たちまちのうちに原宿は新しい街となっていきました。*1
表参道の歩道に、「さんどうばし」と書かれた石柱があります。これは、穏田川が流れていた頃の橋の名残です。
穏田川は、現在は暗渠になって上はコンクリートで固められて、「キャットストリート」と呼ばれています。
部分的に石垣が残っていて、かつては川が流れていたことを伝えています。
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.121-P.147
旧花街の東側に理髪店だった古い建物があります。
当時のままの状態で残されています。
入口には、斜め取っ手のドアがあって、美容室らしいモダンなデザインです。
サインポール。
白山花街の南側には、現在も当時の料亭の建物がわずかに残っています。
旧花街の南端に、元料亭の濱乃家の建物があります。
美しい木造建築です。
玄関付近。
2階部分に、「濱乃家」と彫り抜かれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.139
白山に商家が建ち始めたのは日清戦争の頃で、現在の柳町仲通りに「新開地」と呼ばれる歓楽郷ができ、陸軍砲兵工廠(現在は東京ドーム)に通う職工さんなどの往来で賑わいました。日露戦争の頃になると、樋口一葉の「にごりえ」の舞台にもなった銘酒屋ができて、はじめて酌婦がホステスとして現れるようになったのが、白山花街ができるまでの濫觴(らんしょう)でした。*1
「大正時代における白山花街分布図」*1 を見ると、現在の白山仲通りにある商店街付近は、花街の北側に位置します。
現在、その面影はありません。
花街の北東側。住宅街になっています。
付近の電柱には、「三業」と書かれたプレートがあり、当時この一帯が花街だったことが解ります。
【参考文献】
*1 浪江洋二:白山三業沿革史(雄山閣出版,1961)P.9,P.159
樋口一葉の住まいがあった白山通りを横切ると、柳町仲通り商店街に入ります。
一葉の住まいからこのあたりまでの一帯は、銘酒屋と称する私娼宿が並ぶ色町でした。一葉の「にごりえ」は、この銘酒屋を舞台とした小説で、「空壜(あきびん)か何か知らず、銘酒あまた棚の上にならべて・・・」と銘酒屋のことが描写されています。1
銘酒屋とは、酒を並べてはいるものの店の奥や2階で娼婦たちが客を遊ばせ、春をひさぐ場所。そんな女たちが一葉に手紙の代筆を頼みにくるようになりました。2
一葉日記「しのぶぐさに、次のような一節があります。*1
「となりに酒うる家あり 女子あまた居て客のとぎ(伽)をする事うたひめのごとく遊びめに似たり つねに文かきて給われとて わがもとに来る」
昔、デパートの屋上遊園地などにあった乗り物が何台も並んでいて、楽しそうな商店街です。
商店街の周囲は開発が進んで、高層マンションが間近にせまっています。
【参考文献】
*1 槐一男:一葉の面影を歩く(大月書店,1995)P.84-P.89
*2 野口碩:樋口一葉と歩く明治・東京(小学館,2004)P.55
今回は、白山(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
都営三田線春日駅の小石川方面口からでると白山通りがほぼ南北に走っています。しばらく北上すると右側に興陽社ビル(1階は紳士服コナカが出店)があります。
ビル前の右手に「一葉 樋口夏子碑」がたっています。
一葉の終いの住まいは、この碑の後方で、文京区円山福山町四番地にありました。*1
この文学碑は、樋口一葉の明治27年4月28日、5月1日の日記より筆跡を写して記念としたもので、昭和27年9月7日に建てられました(案内板より)。
碑の下には、「一葉のパンフレット、ご希望の方ご自由にお取りください。」と書かれた立て札があります。箱の中をあけてみると、興陽社が作成したパンフレット*1 があります。
JR南仙台駅から東へ2.5Kmhほど行った袋原に、スナック街があります。
長屋風の建物の1階にスナックが並んでいます。
周囲は閑静な住宅街ですが、この一画だけがスナック街になっています。
スナック、居酒屋、カラオケの店舗が営業中です。
複合文化施設「たいはっくる」の北側から西の方向を見ると、道路がゆるやかなカーブを描いて続いています。
現在、キャバレーとなっているこの建物は、かつてはミリオン劇場という名の映画館でした。
周囲には高層マンションが建ち、開発が進んでいますが、この建物だけは当時のままです。
事務所入口。
2番街の隣に、長町マーケットのアーチがあります。
戦後から昭和30年代まで、現在の2番街を含めた範囲が長町マーケットでした。近くには、青果市場があって、町の人と農家の人で賑わいました。
アーチをくぐると、古いアーケードが続いています。
「商」の1文字だけが残っています。
アーケード内部。ハートのマークの看板
2番街は、居酒屋やスナック、焼肉屋、ホルモン屋などが軒を連ねます。
もともとは、魚屋、茶屋、お菓子屋、洋装店、時計屋などの店が軒を連ねる商店街で、昭和40年頃は、現在のような飲み屋は数えるほどでした。*1
もともとは、長町マーケットと呼ばれていたようです。*1
「PUB豚」。めずらしい屋号の店です。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
今回は長町~南仙台(仙台市太白区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄長町駅から歩いてすぐ。路地入口にかかるアーチ状の看板に「2番街」の3文字が目に飛び込んできます。中には小さな飲み屋街が並んでいるようです。
上に王冠のようなデザインがあって、レトロな雰囲気です。
裏側には、「有難うございます」の文字。
飲み屋街は、L字状になっていて、逆側の出口にも同じようなアーチがあります。
【参考文献】
*1 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.78-P.79
苦竹のかつての歓楽街は、現在区画整理が行われていますが、西側の一画には、飲食店街が残っています。
石畳の小路。
隣には、もう一本の小路。
エーワン。
現在は更地となっているかつてのキヤンプシモフネの歓楽街の名残と思われる建物が残されています。
左側のスナック「デコプチ」。
右側は居酒屋「ぴーちゃん」。
建物の背面は蔦に覆われています。
今回は、苦竹(宮城県仙台市宮城野区)の町並みを散歩します。
R仙石線で仙台駅から4つ目の苦竹(にがたけ)駅で下車します。
「苦竹」の地名は、この地に「真竹」がたくさん生えていて、えぐ味があって湯替えをして炊かないと食べられないほどだったことかが由来だそうです。
すると、国道45号線沿いに近くに、突如、ゴーストタウンのような飲み屋街が現れます。
ここはには、かつて苦竹小路の呼ばれた2本の路地がありました。苦竹は、敗戦後、進駐軍の苦竹キャンプ(キャンプシモフネ)があった場所で、苦竹小路は、米兵たちのために基地の目の前の田んぼを埋めて建設した歓楽街でした。進駐軍向けのスーベニアショップ(外国人向けのみやげもの店)やバー、クラブなどの他に、飲み屋でありながら2階で売春もする、いわゆる曖昧屋と呼ばれる店もありました。*1*2
【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.124-P.127
*2 別冊東北学編集:仙台学v. 1 (別冊東北学編集室,2005)P.93
仙台市の南部の若林区に石名坂と呼ばれる坂道があります。400年近く前、江戸、吉原で名を売った「石名」という遊女がいました。石名は、九州の武士の娘で、浪人した父とともに仙台に来ました。生活苦から船着場の遊女宿で働いていましたが、美貌のうえ学問もあったため、有力者の口効きで、吉原に鞍替えしました。その石名が住んでいたので、石名坂と呼ばれるようになりました。*1
現在は、閑静な住宅街です。
坂の途中に円福寺があります。
境内に石名の石碑があります。
【参考文献】
*1 河北新報出版センター:忘れかけの街・仙台(河北新報出版センター,2005)P.176-P.177
仙台駅の北側に、通称X(エックス)橋と呼ばれる橋があります。X橋は、明治22年の鉄道開通で分断された東側の鉄砲町と二十人町、西側の元寺小路と名掛町の二本の通りを一本で結ぶ橋として大正7年に完成しました。正式には宮城野橋といいますが、そう呼ぶ仙台市民はほとんどいないそうです。*1
敗戦直後、仙台にも米軍が進駐し、元の小田原遊郭に米兵用の慰安施設(RAA「特殊施設協会」)が開設されました。まもなくRAAが閉鎖されると、慰安婦たちは、どっと街は出てきて、いわゆるパンパンガール(街娼)となって、X橋の周辺に集まるようになりました。*1*2
平成10年(1998年)、「アエル」(写真中央の構想ビル)の建設によって、付近の様相は一変しました。*1
付近には風俗関連の店も数軒ありましたが、建物は残らず撤去され、開発が進んでいます。
「アエル」の展望台から見たX橋(写真下部)。周辺の開発が進んでいるのがよくわかります。
X橋自体も、都市計画道路の一部として架け替えが予定されていて、完成すれば広瀬通りとほぼ同じ幅員40メートルで仙台東部に達することになります。*1
【参考文献】
*1 小野幹,高橋こうけん:40年前の仙台(無明舎出版,2010)P.42,P.72
*2 熊谷達也:懐郷(新潮社,2008)「X橋にガール」P.242
横丁には必須の公衆トイレですが、壱弐参横丁の場合も、しっかりと準備されています。
公衆トイレは、横丁のあちこちにあります。
奥まったところにある公衆トイレの入口。トイレ表示がありません。従業員用でしょうか。
外の自転車置き場の風景と、よく調和しています。
壱弐参横丁内部には、生活に関するあらゆるものが揃っています。
長い年月を経て、いかにも古びた感じに見える洗い場もその一つです。
洗い場には井戸があります。
戦後闇市の姿をそのまま残している貴重な横丁です。
今回は仙台(宮城県仙台市)の町並みと風俗を散歩します。
仙台市街の中心に、壱弐参(いろは)横丁があります。
壱弐参横丁の原形は、太平洋戦争の終戦直後、路上に現れたバラック商店や露天の集合体、すなわち、戦後の闇市です。平行する2本の路地を中心に、細い路地が入り組んで迷路状に広がって、狭い店がびっしりと並んでいます。*1*2
壱弐参横丁は、昭和21年、戦後の仙台市の公設中央市場として誕生したマーケットが原形です。*1
近年は、壱弐参横丁を活性化する動きがあって、案内図などが整備されています。案内図の隣に、「中央市場」と書かれた当時のものと思われる看板があります。
増改築をくり返した結果、約40棟の戸建ての店舗や長屋の集合体となりました。トタン屋根に混沌の歴史がにじんでいます。*1
【参考文献】
*1 藤木TDC:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.128-P.131
【参考URL】
*2 NPO法人まちづくりcom:ふれあい百店街・壱弐参(いろは)横丁
水戸市街の中心部。南町にショッピングセンターの「MIMO」があります。
普通は、駅前でしか目にすることがない白ポストが、ここに設置されています。
オーソドックスなタイプの箱です。
背面には、ライオンズクラブの名が書かれています。
泉町2丁目に、映画館だったと思われる「スカラ座」の痕跡を残すビルが建っています。
「ラ座」の部分だけが残った看板。
崩れ落ちた看板。
建物の裏側から。
大工町の「旦那横丁飲食店街」の西側の通り。
「ニューブルームーン」の入口階段。
看板はブルー(水色)です。
飲酒運転禁止です。
泉町3丁目の歓楽街の中心は、国道50号線の北側に集中していますが、かつては南側も歓楽街だったようです。
「第三岩崎ビル飲食街」の看板。
建物の角の部分に取り付けられた電飾看板。
側面の意匠。
大工町のソープランド街に、かつてのソープランド「クイーン・シャトー」の廃墟があります。
敷地面積600坪という都内では考えられない規模です。建物は5階建てと巨大でありながら、客室は16(1フロアあたり4室)と少なく、1部屋の広さは20畳近くありました。*1*2
「クイーン・シャトー」がオープンしたのは、1980年の9月(当時は「トルコ風呂」と呼ばれていた時代です)。総工費8億円(当時)をかけた外観、内装の豪華さは、他に類をみないものでした。待合室は4つあって、3つはこれからプレーするお客様用、1つはプレー後に休憩するお客様用でした。エレベータは行きと帰りの2基。エレベータの中にはソファーが一つ置いてありました。*3
お城のような建物の中央のトランプのクイーンの絵が描かれていて、一層豪華さをかもしだしています。
1,2階はふき抜けになっていて、8千万円もする黄金のシャンデリアが天井からぶらさがっていて、その下には噴水がありました。*3
建物へは立ち入り禁止です。
【参考文献】
*1 酒井竜次:ニッポンの廃墟(インディヴィジョン,2007)P.130
*2 中田薫:廃墟探訪(二見書房,2002)P.88
*3 ミリオン出版:全国高級トルコ・ガイド(1981,ミリオン出版)口絵,P.160-P.161
大工町のソープランド街の入口。ここには数年前まで「水戸大工町三業組合」と書かれたアーチがありましたが、現在は撤去されています。
ソープランド街には、かつてここが花街であったことの名残と思われる料理屋などが現在も営業中です。写真の寿司屋さんの隣はソープランドです。
「ムサシ」と書かれた黒板塀。
「ムサシ」の隣にあった和風のスナック。
今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みと風俗を散歩します。
水戸市大工町には、ソープランド街があります。
周囲はソープランドた建ち並ぶ一画ですが、その中に三業組合の建物があります。
入口付近。近代的な鉄筋コンクリ-ト造りの建物ですが、料亭の風情を感じるデザインです。
建物の後側。
柴又駅近くの踏み切りの脇にコインランドリーがあります。
一見なんの変哲もないコインランドリーですが、実は、ここは似顔絵ランドリーです。壁と天井に似顔絵がびっしりと貼られています。
たいていは一人1枚ですが、寅さんの似顔絵は数枚あります。
新聞でも紹介されました。
柴又駅近くのレトロな看板建築の酒屋さん(現在は自販機)の向こうに、煙突が見えます。
銭湯の北野浴場です。
存在感の煙突。
現在は、コインランドリーとして営業中です。
「男はつらいよ」の撮影にも使われた団子屋の「とらや」に裏手に、数年前までソープランドがありました。音楽家の戸塚省三さんの著書「東京路地裏観光」によると、ここには、「特殊浴場ソープランド『柴又キング』入口」と書かれた看板がありました。*1
ソープランドが普通の住宅の中にポツンと一軒だけ建っていて、田舎の湯治場のような雰囲気の建物でした。*1
「入口を入ると左手に洗濯機が置かれた物置みたいな部屋があって、その脇の通用口のような通路を通り抜けると、昭和三十年代の喫茶店で流行ったようなオレンジ色のアクリル扉が半開きになっていてそこが待合室だった。*1」と戸塚省三さんは当時の様子を語っています。
当時の名残と思われるプレートが残っていました。
【参考文献】
*1 戸塚省三:東京路地裏観光(二玄社,1996)P.235-P.239
今回は、柴又(東京都葛飾区)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の広場には、「男はつらいよ」でおなじみの寅さんの銅像があります。
松竹映画「男はつらいよ」シリーズは、山田洋次原作・脚本・監督、渥美清主演で1969年に第1作が公開され、以後1995年までの26年間に全48作品が公開された国民的人気シリーズです。*1
「わたくし、うまれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎。人よんで、フーテンの寅と発します。」という、おなじみの寅さんの口上が思い出されます。
(余談になりますが、わたくし風俗散歩は、姓は風俗、名は散歩。人よんで、フーさんと発します)
銅像の台座には、「寅さんは損ばかりしながら生きている。江戸っ子とはそういうものだと、別に後悔もしていない。(中略)ごめんよさくら、いつかはきっと偉い、兄貴になるからなー。車寅次郎はそう心に念じつつ、故郷柴又の町をふりかえるのである」と山田洋次郎監督の言葉が書かれています。
帝釈天参道の入口は、駅からすぐです。
【参考URL】
*1 松竹株式会社:男はつらいよ 松竹公式サイト「男はつらいよ」とは
松阪市愛宕町に小津安二郎青春館があります。映画監督の小津安二郎さんは、9歳から19歳までの思春期を松阪で過ごしました。
当時、花街として賑わった愛宕町で遊んだ経験は、小津さんの人生に大きな影響を与えました。*1
小津安二郎青春館は、生誕100年を記念して松阪市が開設したものです。
館内には、小津安二郎さんに関する展示があります。
代表作の「東京物語」
【参考資料】
*1 小津安二郎青春館の展示資料
松阪市湊町の商店街。
鮨屋さんに成人映画のポスター。
3本立ての成人映画が上映されています。
映画館の建物の背面。松阪大映のマークが描かれています。
松阪の愛宕町には、大正から昭和にかけて20軒ほどの遊廓がありましたが、現在はバーやキャバレーが建ち並ぶ歓楽街となっています。*1
古い建物に混じって、風俗案内所などの最近の建物もあります。
和風の建物のスナック。
新旧の建物が混在する歓楽街です。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
松阪には、西の廓・東の廓の二ヶ所がありました。西、すなわち松阪の入口を川井町(かわいまち)、出口すなわち東を愛宕町といいました。双方ともに参宮街道(旧伊勢街道)沿いにあったため相当賑わったようです。特に川井町の方が町全体が遊廓で、一丁目から三丁目まで旅籠屋と遊女屋が街道の両側に向かい合わせ並んでいました。明治十年頃の遊女屋は大小合わせると20軒ほどでした。*1
松阪は戦災にあっていないため、川井町は、わずかではありますが昔のよすがを見ることができます。*1
琺瑯(ホーロー)看板のある酒屋さん。
逆方向(北西側)から。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.184-P.187
旧伊勢街道沿いの川井町。
古い町並みが残っています。
民家の前にある木製消火器箱。古い町並みに溶け込んでいます。
木箱の前面に「消火器」と書かれた木札が取り付けられています。
松阪駅の北西にある岡寺山継松寺。*1
北側の通用門の両側に古い商店街があります。
トタン建築の商店街が延々と続きます。
2階建ての長屋の建物。
めし。大衆食堂。
【参考URL】
*1 岡寺山継松寺:公式ホームページ「寺院概要・地図」
駅前の交差点の角に、開発から取り残された一画があります。
飲み屋が建ち並ぶ小路。規模は小さいです。
L字型に曲がって、駅前の大通りに出ます。
閉店の貼紙。昭和27年から営業していた居酒屋さんです。
今回は、松阪(三重県松阪市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松阪駅前に白ポストがあります。
箱は、2つ並んでいます。
やぎの箱。悪書を食べてしまいます。紙の本だけでなくビデオやDVDも食べてしまいます。
箱の側面にはやぎのデザイン。
古市遊廓があった古市参宮街道に、資料館があります。
ここには、遊廓関連の資料が展示されています。
古市の娼妓たちの写真。
昭和初期まで存在していた大安旅館の展示。
麻吉(あさきち)旅館は、古市で現在も営業する昔ながらの唯一の旅館です。*1
当時、ここは麻吉料理店といって明治初年において第一級の料亭で、置いている芸者は20人あまりもいました。芸者はみな美人で、ここでの芸者は他の店にはでないほど麻吉は全盛をきわめました。*1
旅館は崖の上にたっていて、石段を下ると旅館の建物の裏側へ降りることができます。
崖下の伊勢自動車道から見た麻吉旅館。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.126,P.134
古市にある大林寺。
ここには、孫福斎(まごふくいつき)と遊女お紺の墓が立てられています。
この墓は「油屋騒動」の芝居を演じた四代目坂東彦三郎が建立したものです。「油屋騒動」は、寛永8年(1759年)、宇治に住む医者の孫福斎が古市の遊廓の油屋にあがって、ふとしたことから怒り出し、数人を死傷させた事件で、この事件は「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば)という芝居に脚色されて上演され、非常な人気を得ました。*1*2
お紺は49才で病死しました。*1
墓石に油屋の文字があります。
【参考URL】
*1 大林寺:公式ホームページ「油屋騒動」
【参考文献】
*2 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.119-P.123
今回は古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。古市遊廓跡の入口にあたるのが「間の山」の坂道です。遊廓が全盛だった大正時代の間の山は、今よりも坂が急でしたが、人力車は威勢よく行き来しました。*1
間の山の坂の途中に、「お杉・お玉の碑」があります。
お杉・お玉というのは、二人の女性が三味線を引きながら演技をしているのに対して、お客がほんのすぐ近くから小銭を投げるのですが、それを女たちがたくみにバチで受け止め、これを避けたりして体にあたらないようにする遊び場で、古市の見世物のひとつでした。*1
間の山は、井原西鶴の「西鶴織留」や中山介山の「大菩薩峠」にも登場します。*1
間の山の近くの「まちづくり実行委員会」の民家に、当時の古市の写真が掲載されています。
【参考文献】
*1 中村菊男:伊勢志摩歴史紀行(秋田書店,1975)P.108 -P.110
新宮市春日に新宮出身の小説家の中上健次さんの生家跡の案内板があります。*1*2
中上健二さんの代表作のほとんどは、故郷の新宮を中心に、熊野・紀州の風土を背景としたもので、浮島遊廓や女郎などの題材も頻繁に登場します。
小説「千年の愉楽」に登場する「天地の辻」。*1
写真の建物(新宮市人権教育センター)には、中上健二さんの展示があります。
小説「枯木灘」「奇蹟」、「地の果て 至上の時」で登場する「新地」と呼ばれた歓楽街があったあたり。*1
【参考文献】
*1 和賀正樹:熊野・被差別ブルース(現代書館,2010)P.12,P.74,P.132
*2 上原善広:日本の路地を旅する(文藝春秋,2009)P.12