温泉街の中心部に、駅前DX劇場があります。周囲の山並みによく溶け込んでいます。
ハート型の窓が印象的です。
派手な電飾。
サーミロミロ。非常に解りやすいです。
温泉街の中心部に、駅前DX劇場があります。周囲の山並みによく溶け込んでいます。
ハート型の窓が印象的です。
派手な電飾。
サーミロミロ。非常に解りやすいです。
今回は、鳴子温泉(宮城県)の町並みと風俗を散歩します。
鳴子温泉は、平成19年6月8日付け交通新聞社発行の月刊「旅の手帖」温泉番付において、東の横綱に認定されました。*1
古い温泉番付を見ると、前頭7枚目にランキングされているものもあり*2 古くからも名湯であることが解ります。
温泉街の旅館に混じってスナック風の建物が並んでいます。
「洋酒 喫茶」と書かれた看板が残っていた店。
営業中のスナックがある通り。
【参考URL】
*1 鳴子温泉郷観光協会:”ゆったりくつろぐ湯と森の里”鳴子温泉郷
【参考文献】
*2 木暮金太夫:錦絵にみる日本の温泉(国書刊行会,2003)p.83 「大日本温泉一覧(明治29年)」
脇町には、古い建物が残されています。
貞光から吉野川を下流に下った脇町に、脇町劇場オデオン座があります。脇町劇場は昭和9年に芝居小屋として、建てられました。
貞光は、脇町とともに、「うだつのある町並み」として有名です。「うだつ(卯建)」は、二階の壁面から突き出した漆喰塗りの袖壁です。江戸時代は火よけ壁とも呼ばれ、防火の役目を果たしていましたが、明治時代になると防火よりも装飾に変わってきました。裕福は商家は、冨の象徴として、この「うだつ」を競ってあげました。「うだつがあがらぬ....」の語源にもなっています。*1
うだつのある町並みには、木製牛乳箱が似合います。
毎日牛乳の牛乳箱。
「毎日ボン牛乳」のうち、青色文字の「ボン」だけが鮮明に残っています。
【参考文献】
*1 清水安雄:美しい日本のふるさと 中国四国編(2008,産業編集センター)P.163-P.167
貞光町の中心部からやや南寄りに、貞光温泉があります。
駅前から続く成人映画の看板群*1 に釣られて歩いていくと、貞光劇場の入口のゲートに行き着きます。
昭和7年の開業以来、上映を続けています。建物の外観も内装もほぼ当時のままです。*2
1953年の「君の名は」が上映されたときは、連日、貞光駅まで行列ができ、劇場は全盛期を迎えました。しかし、その後テレビ放映が始まり、客足は遠のき、ここ十数年は、安くフィルムが借りられる成人映画が中心となっています。*2
建物の側面は、美しい黒板で覆われています。
【参考URL】
*1 風俗散歩(貞光~脇町):成人映画の看板(2009.6)
【参考文献】
*2 徳島新聞(2007.11.23)P.1 一宇街道物語(5)「貞光劇場 人々の笑い・涙を刻む」
今回は、貞光~脇町(徳島県美馬市)の町並みと風俗を散歩します。
JR貞光駅の駅前の通りに貞光劇場の映画のポスターが貼られています。
JR土讃線旭町駅で下車し、町並みを散歩します。旭町は、昔ながらの路地裏など、下町を感じさせる風景が残っています。
旭町駅近くのV字路。角のな建物は、昔は商店だったようです。*1
交差点の道の形そのままに建てられた不動産屋の建物。*1 まるで、船の舳先(船首)部分のようです。
旭上町の旭西部公民館の入口へ続く坂道と、写真右奥のV字路を含めると、五叉路ということになります。
その場所から約10m離れた地点から逆方向(北東方向)を見ると、こちらも路地が迷路のように入り組んでいます。*1
右側の路地は奥でさらに2叉に分岐していますので、それも含めると五叉路。まさに、「ラビリンス旭」です。
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.36-P.41
上町五丁目の通りに面して路地の入口があります。
建物に挟まれた細い空間が続きます。
路地を抜けると、突然、広場に出ます。
ここは、共同の物干し場のようです。現在の町では、忘れ去られてしまった「共同空間」が現在も健在です。*1
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.41
高知には、かつて「上の新地」と「下の新地」の2つの遊廓がありました。「上の新地」は、市街の西側(現在の玉水新地*1)に位置していたのに対し、「下の新地」は、市街の東側の市電「知寄町二丁目」停留所から、南側に5分ほど歩いた位置にありました。*2
県道35号桂浜宝永線に面した場所に駐車場があります。
駐車場の隅に小さなお稲荷さんがあります。
お稲荷さんの脇に、「昭和五年三月 植櫻樹記念」と刻まれた石碑が放置されています。*2
周囲の町並みに遊廓あったことの面影はありませんが、その中で、この石碑は唯一の下知遊廓の痕跡といえます。
【参考URL】
*1 風俗散歩(高知):玉水新地(2009.6)
【参考文献】
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.272-P.274
玉水新地には、洋風の建物もあります。
スナックの建物だったようです。
路地を入ったところに、鮮やかなタイルの装飾のスナックの建物がありました。
「カフエー」のプレート。
思案橋から水路沿いの道を行くと、和風旅館やモダンなデザインの建物が混在する一画に出ます。ここが旧玉水新地です。
高知市内には、旧町名の由来を説明する案内板があちこちにあります。
旧本町筋の西端を南に折れたところに、思案橋番所がありました。
実際にその場所に行ってみると、思案橋と書かれた小さな橋があります。橋の桁間は、わずか1m程です。
思案橋の名前の由来は、この橋から先は、いくつかの道が分岐していたので、どの道を通るか「思案」したのだとか、この橋の先にはる玉水新地に行くかどうか迷うので、「思案橋」になったのだとか、いろいろな説があります。*1
大正15年につくられた橋です。
【参考文献】
*1 高知遺産プロジェクト:高知遺産(グラフィティ,2005)P.88-P.89
今回は、高知(高知県高知市)の町並みと風俗を散歩します。
山内一豊が築いた高知城は、現在は高知県庁がある町の中心部です。旧本町筋は、城下町がつくられたとき、最初にできた基本となる道路です。現在も市電が走る高知市の中心市街地です。
交差点に、白ポストがあります。
白ポストは、駅前に設置されているケースが多いのですが、高知の白ポストは、県庁前の交差点に設置されています。
上部の帽子のような形状が、郵便ポストにそっくりです。
宇和島市築地町の北側(住吉町2丁目)にあるホテルコーラル宇和島。
北新町から須賀川沿いを歩いていくと、凹凸神堂があります。
凹凸神堂は、世界最高の性文化財資料館です。*1
北新町にある料理屋「月ヶ瀬」の隣にある民家。
花街の時代を想わせます。
2階部分に手摺りがある家です。
玄関付近。
大正時代初頭、宇和島の商工業は著しく発達し、それに伴い須賀川の川端に花街が形成されました。川端花街の芸妓は、しだいに娼妓化したため、散在していた料理屋や置屋を須賀川左岸の藤江に集めて、川端遊廓(北陽花街)が作られました。*1
北陽花街は、「北新地」とも呼ばれました。同じ頃、元結掛には、「南新地」という花街がありました。*2*3
「北新地」の名残でしょうか。北陽花街があったと思われる場所は、旧町名では、北新町と呼ばれていました。
旧町名「北新町」の範囲。
かつては、藤江と呼ばれていた地域の一部でした。
【参考文献】
*1 栗本露村,浅井伯源:宇和島案内(宇和島案内発行所,1933) P.50-P.54
*2 河野一水,松本麟一:写真集明治大正昭和宇和島(国書刊行会,1983)p.106
*3 矢野和泉:目で見る宇和島・北宇和・南宇和の100年(郷土出版社,2003)p.46
道後温泉内の飲食店などが建ち並ぶ通りにストリップ劇場の「ニュー道後ミュージック」があります。
建物の左手にある事務所の入口。
入口付近。
ネオン看板が美しい劇場です。
今回は、道後温泉(愛媛県松山市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、夏目漱石「坊ちゃん」で描写された旧松ヶ枝遊廓跡地は、その後は、ネオン坂歓楽街と呼ばれるスナック街に生まれ変わりました。*1
現在は、そのネオン坂の看板も取り去られ、新しい町に生まれ変わろうとしているようです。
坂に沿って、かつての赤線跡の建物が建ちならんでいます。坂を登りきると、寺院の敷地につきあたります。*2
寺院の前にあったかつての妓楼の建物*1 は、無くなって駐車場になっていました。
坂の中ほどに残されていた妓楼の建物*1*2 も現在はありません。ここ数年で急激に様変わりしたようです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.90-P.91
*2 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005.6)P.283-P.285
国道437号線から通りを1本入ったところ(神田町付近)に、銭湯の煙突が見えます。
現代風のお洒落な建物です。
入口の電球。「女」の文字もモダンなデザインです。
残念ながら、本日は休業でした。
住吉町の商店街の北側。理容室脇に、商店街の入口と思われるゲートが残っています。
木造家屋が建ち並ぶ小路。
京都で見かけるようなトンネル状の小路です。ここを通り抜けると商店街に出ます。
トンネルの出口(商店街側)。
三津浜には、稲荷新地と呼ばれる遊廓がありました。場所は、旧お船場(現、住吉2丁目11)で、現在は住宅地や工場用地となっています。現在は埋め立てられていますが、当時は、この写真の道路部分(写真右側)は運河でした。*1*2
三津浜には、十軒茶屋と称する花街が住吉町にありました。伊予鉄道の三津駅が出来てから住吉町は賑わうようになり、貸座敷も開業されましたが、風紀上の理由から稲荷新地に移転し、三津の遊廓となり、大正から昭和初年が最も盛大でした。*3
こちらの寿司屋の付近までが、遊廓があった場所だったと思われます。*1
遊廓内には、稲荷神社があり、よく信仰されていました。*3
古地図*2 によると、稲荷神社があった場所は、内港へ向かうこの通りの東側(写真右側)です。
旧地名の名残と思われる「稲荷」と書かれた電柱のプレート。同じ場所に、「シンチ」と書かれた電柱もありました。
【参考文献】
*1 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.6
*2 松山市立中央図書館:御津の歴史移り変わり「三津濱町図」
*3 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.37
今回は、三津浜(愛媛県松山市)の町並みと風俗を散歩します。
三津浜は、戦国時代、水軍の根拠地で、江戸時代は軍港として栄えました。三津浜港の東側は、御船場(造船所)と呼ばれ、作事小屋、材木小屋、舟道具小屋などが建てられていました。*1
現在も、その名残として、造船所や材木置き場があります。
明治維新により、軍港だった御船場辺りが開放され、石油売買所や配電所などが出来ました。*1
近年は、フェリー船の進出により、トラック輸送が主流となりました。内港に着く渡海船は少なくなり、漁協の漁船がけい留されています。*2
【参考文献】
*1 三津浜郷土史研究会:三津浜誌稿(三津浜郷土史研究会,1960)P.36
*2 しあわせづくり三津浜地区推進委員会:三津浜ふるさと散歩道(しあわせづくり三津浜地区推進委員会,1999)P.8
1988年、日活、ポルノ映画から撤退し、「ロッポニカ」の新ネーミングの元に新たな映画製作配給がはじまり、これにより、にっかつ上映館は、「ロッポニカ」の名称に変更になりました。しかし、この「ロッポニカ」も半年で終了。映画館は譲渡もしくは閉館となりましたが、唯一、高松の映画館のみ「ロッポニカ」の名前が残っています。
片原駅前の通りを西へ進むと、三越別館の建物に突き当たります。
現在の三越別館があるあたりは、戦前までは「浮世小路」と呼ばれ、「笹まき」、「円まん」、「山水」といった料亭や劇場が建ち並び、エロ、グロの暗躍地帯でもありました。*1
OS劇場があったあたり。*1
付近にあった風俗店。
【参考文献】
*1 荒井とみ三:高松繁昌記.第1-2巻(讃岐郷土史研究会,1960-1963)P.67
*2 井上正夫:古地図で歩く香川の歴史(同成社,2008)付録地図
琴電片原駅前の飲み屋横丁は、かつて「パラダイス」と呼ばれていました。かつてのこのあたりに赤線がありました。*1
現在は、横丁らしい雰囲気が残るのは、この一画のみです。
再開発の計画があるのか、付近には空き地が目立ちます。
以前には、多数のスナックが密集していたようです。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記 その色町は今・・・・・・(ミリオン出版,2005)P.291-P.294
ソープランド街の南側に、東浜恵比寿神社があります。
正面の鳥居の左右の柱には、「一天泰平」、「萬民快楽」と刻まれています。*1
玉垣には、新地睦会に所属する戦後の特飲店45軒の屋号が刻まれています。*1
右から、「敷島」、「三日月」、と彫られています。「敷島」は、八重垣遊廓時代にもあった妓楼の屋号です。*2
「三日月」は、1970年の住宅地図*3 に記されている「旅館三日月」*4のことでしょうか。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.84
*2 南博:近代庶民生活誌.第14巻(三一書房,1993)P.143 「全国遊廓案内」
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 高松市(善隣出版社,1971)P.13
*4 風俗散歩(高松):城東町の赤線時代の建物(2009.5)
現在、ソープランド街となっている城東町には、かつては八重垣遊廓がありました。
この一帯は、明治維新後に埋め立てされ、明治5、6年の頃に八重垣遊廓が新設されました。*1
八重垣遊は、昭和20年の空襲で全焼しましたが、赤線の時代をへて昭和40年代の後半にソープ街へと変貌を遂げました。*2
ソープランドに混じって、赤線時代のものと思われる古い建物が残っています。
パラダイスビルの隣にある民家。1970年の住宅地図*3 には、「旅館三日月」と記されていますが、売防法施行以前は、赤線の建物であったと思われます。
「バーバラ」という屋号の店があったあたり。*3
料亭のような雰囲気です。
【参考文献】
*1 長尾折三:高松新繁昌史(宮脇開益堂,1902)P.65,P.68
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.84
*3 善隣出版社:ゼンリンの住宅地図 高松市(善隣出版社,1971)P.13
城東の風俗街の東浜港寄りの風俗ビルの1階に無料案内所があります。
土庄町の通称「迷路のまち」と呼ばれているあたり。
肥田牛乳の牛乳箱。肥田牛乳は、小豆島地元の乳業メーカーです。
別の場所にあった肥田牛乳の牛乳箱。
こちらの箱は、牛乳瓶入りです。
土庄町本町の西光寺から南西にむけて、迷路のような曲がりくねった路地が続いています。
この界隈は、「迷路のまち」として紹介されています。*1
木製消化器箱のある民家。
大ぶりの箱は迫力があります。
消火栓もレトロです。
【参考URL】
*1 小豆島迷路のまち実行委員会:迷路のまちホームページ
土庄町本町には、昭和の初期、花街があり、赤松楼など有名な料亭がありました。*1
土庄町の中心部を縦断する県道26号線沿いに、狭いの路地の入口があります。
今回は、土庄(香川県小豆郡)の町並みと風俗を散歩します。土庄(とのしょう)は、瀬戸内海に浮かぶ小豆島の西北部に位置します。
土庄港のバスターミナル脇には、「二十四の瞳」に登場する大石先生と12人の子供たちのブロンズ像があります。
土庄へは、高松港からフェリーで約1時間です。
土庄港に、白ポストがあります。大石先生がこれを見たら、さぞかし、びっくりされることでしょう。
横から見ると、ピサの斜塔のように傾いています。
かつては、本牧の代名詞ともなったチャブ屋(外国人を客とした娼館)ですが、その起源は、江戸時代末期、外国人遊歩新道沿いにできた茶屋にさかのぼると言われています。*1
「横浜チャブ屋物語」*1 には、山手警察署裏手の通りに本牧のチャブ屋街があったと書かれていますが、少し南側に寄りすぎているような気がします。
昭和8年の「本牧・小港方面街並図」*2によると、チャブ屋があったのは、旧東泉橋と旧西泉橋のY字路(写真の奥のあたり。当時の道路の形状が残されている場所)付近で、このY字路から東側に延びる通りがチャブ屋街のメインの通りでした。
イトーヨーカドーがあるこのあたりが、チャブ屋街のメインの通りがあった場所と思われます。
大通り沿いには、モリヤホテル、バイオレットホテルがありました。*2 チャブ屋が密集するメインの通りとは別に少し離れた場所にもチャブ屋は散在していたようです。
【参考文献】
*1 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)P.11-P.12,P.86
*2 中区制50周年記念事業実行委員会:横浜・中区史(中区制50周年記念事業実行委員会,1985)P.687
本牧通りを北側に入った路地。奥にアパートがあります。
奥行きのあるアパートです。前面はモダンなデザインになっています。
1階には、スナックの店舗が入っています。
入口のドアがたてかけてありました。
本牧通り沿いに、レンストランの「ゴールデンカップ」があります。1960年代、グループサウンズ(GS)の「ザ・ゴールデン・カップス」は、ここで誕生したました。 *1
本牧には、かつて”アメリカ”がありました。第二次大戦直後から1982年3月に返還されるまでの36年間、本牧は、約70万平方メートルに及ぶ広大な土地を米軍に接収されていました。ベトナム戦争時以降、本牧にGIがくりだすようになり、夜になると、米兵や米兵目当ての女たちがたむろして異様な雰囲気の町となりました。米兵の中には、プロやアマチュアのミュージシャンもいて、「ゴールデンカップ」は夜毎にぎわうようになっていきました。*2
建物の裏側。時代を感じさせます。
物置に、「ゴールデンカップ」の文字。
【参考URL】
*1 「ゴールデンカップ」ホームページ
*2 和久井光司:ザ・ゴールデン・カップスのすべて(河出書房新社,2005)P.21-P.22,P.30
JR京浜東北線山手駅のすぐ近くにある根岸外国人墓地。
明治35年に開設されました根岸外国人墓地は、現在は、きれいに整備されていますが、長い間、忘れ去られていた外国人墓地でした。昔、ここには小さな木の十字架がびっしりと立てられていました。そのほとんどは、戦後間もない時期に死んだ嬰児で、進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれたハーフです。その数900体。*1
1999年、片翼だけの「天使の翼」を模した像が建立されました。*1
おびただしい数の十字架は一掃されましたが、片翼の天使は、歴史の真実を語り伝えてくれています。*1
*1 横浜タイムトリップ・ガイド制作委員会:横浜タイムトリップ・ガイド(講談社,2008)P.116,P.127
根岸森林公園近くの通り。落ち着いた感じの住宅街です。
古い理容室の建物を発見。
木造の作りは、温かみがあります。
小さめですが、レトロ感があります。
今回は、根岸~本牧の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線根岸駅の北側に、横浜の都心では最大級の根岸森林公園があります。この公園は、本格的な近代競馬の先駆となった根岸競馬場の跡地です。
公園の北側に、根岸競馬場の一等観覧席が残されています。
根岸競馬の初開催は、1880年(明治13年)で、このとき、現在の天皇賞の先触れとも言える天皇花瓶競争が創設されました。観覧席には、有栖川宮、伊藤博文、各国外交官や居留外国人などで、鹿鳴館外交の一翼を担っていました。*1
案内板。
【参考文献】
*1 馬の博物館 編:根岸の森の物語(神奈川新聞社,1995)P.43
割烹「まじま」や料亭跡の建物が残っているエリアの東側は、スナックや飲食店が建ち並ぶ繁華街になっています。
スナックが密集する路地。
四つ角にあるスナック。
スナックの建物脇に、「包丁、ハサミ、研ぎます」の看板。
割烹「まじま」の近くに、料亭だったと思われる建物が2軒ほど残されています。
奇抜なデザインの塀です。
隣の路地にあった別の建物。
玄関の電球。
今回は、平井(東京都江戸川区)の町並みと風俗を散歩します。
平井三業組合は1937~38頃に組織され、戦前は、芸妓250人、芸者置屋45軒、待合30軒以上あり、かなりの規模の花街でした。太平洋戦争時の空襲で壊滅状態となりましたが、その後復興しましたが、時代とともに、接待の仕方や遊び方が変わったため、昭和50年代の中頃に幕を閉じました。
現在は「まじま」だけが、当時の面影を残したまま割烹として営業中です。
高い塀で囲まれています。
当時のままと思われる中庭。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.239-P.240
国道23号線から1本海側の通り、この通りをまっすぐ行くと、若宮公園を経て三谷海水浴場へ行き着きます。
道路沿いの民家に、西宝牛乳の牛乳箱があります。
西宝牛乳は、三河三谷の乳業メーカーです。
牧場直営。
料理旅館「青柳」の近くに、芸妓組合の建物があります。
1階にコンパニオン募集の看板が取り付けられています。
温泉に、お座敷コンパニオンはなくてはならない存在です。
正式には、「三河温泉芸妓屋業協同組合」といいます。
三谷温泉の近くに、料理旅館などが建ち並ぶ花街の風情を残した通りがあります。
料理旅館「青柳」。現役で営業中です。
玄関脇の丸窓。
裏口付近の路地。
明山荘のある中心部から北へ向かって坂を下ります。
坂の途中にレトロなバーの建物が連なっています。
バー「田園」の入口。
バー街の建物を後ろから見るとこんな感じです。
三谷温泉の中心部にあるホテル明山荘。多くの客が訪れる名門のホテルです。
ホテル明山荘の奥の駐車場となっている敷地に、昭和40年に開業した本格的なキャバレー「みなと」の建物が残っています。
「全調査東海道酒・女・女の店」には、「『みなと』は、夜になると赤、青のネオンが点滅し、三谷へきたときは、まずここへ繰り込んで酒と女に浮かれてから、アバンチュールを求めて小さなバーへくりこむのが客たちのコースになっている。」と紹介されています。
2階建てで、1階にはステージがあり、専属バンドの演奏やダンスも楽しめました。*1
【参考文献】
*1 梅田晴夫:全調査東海道酒・女・女の店(有紀書房,1967)P.216-P.217
三河温泉は、三河湾に面した風光明媚な地にある由緒ある温泉地です。
三河温泉バス亭のある場所が温泉街の中心地です。みやげもの屋さんが並びます。
「海の観光地」として愛知県下でも有名です。
松風園。
今回は三河三谷(愛知県蒲郡市)の町並みと風俗を散歩します。JR三河三谷駅は、蒲郡駅にあり、三谷温泉などの観光地があります。駅前から海に向かって寂れた商店街があります。
通りに面して、閉店した商店の建物があります。
看板に書かれている「デジボーグ」「アストロン」は、時計メーカーのセイコーのブランド名です。
1980年。「聖子のピコレ」の頃の松田聖子さんでしょうか。ペンキ絵はかなり磨耗しています。
神宮小路の一画にある共同便所。
手書きで「便所」と書かれた木製看板。
手洗い場。
便所から見た神宮小路。
神宮前駅の北側すぐのところに、神宮小路の入口のゲートがあります。
石畳の呑み屋小路が続きます。
東西の通り。ラーメン屋が営業中です。
反対側(北側)の入口。
今回は、熱田( 愛知県名古屋市熱田区)の町並みと風俗を散歩します。
JR熱田駅をおりると、南側に神宮前商店街があります。すぐ隣(写真左側)は熱田図書館です。
周囲は近代的な町並みですが、神宮前商店街だけがレトロな雰囲気を残しています。
熱田図書館から神宮前商店街の建物の裏側をみると、木造3階建てであることがわかります。
建物の裏側。
北区水切町7丁目。古い町並みが残ります。
「バスハウス水切温泉」。銭湯を「バスハウス」と呼んでいます。
煙突に「バスハウス」「水」の看板。「切温泉」が無くなってしまったようです。
バスハウスの全景。
杉栄町の通りから、1本入った路地。
鮮やかな緑色の建物が残されています。城東園の遺構でしょうか。
細かな装飾もあります。
円柱部分は、薄いピンク色です。
杉栄町の通りから西の路地を入ったところに、妓楼風の建物があります。
城東園の名残の建物でしょうか。
現在は、「恋多人」という名のスナックとして営業中です。
昔の雰囲気の残る町並みです。
大曽根(松竹コーヒー)杉栄町5丁目バス停近く かつて、名古屋には、八幡園、城東園、港陽園の3ヶ所に赤線があり、その中でも北区長田町にあった城東園は、156軒、360名の最大規模でした。*1
長田町の北側に位置する杉栄町5丁目。
古い住宅地図*2 には、この建物は「松竹コーヒー」と記載されています。
モダンな造りの入口です。
松竹の屋号が現在も残されています。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.91
*2 善隣出版社:名古屋市北区(善隣出版社,1972) P.120
大曽根駅西側に料理旅館の十州楼があります。ここは、かつて市電(東新町-大曽根)が走っていた頃の終着駅付近で、賑わいを見せていた場所です。
十州楼は、有名な料理旅館です。
この建物は、文化庁の登録有形文化財に指定されています。
現在は、文化財保護のための修復工事のため休業中です。
女子大小路から脇道にはいったところ。
街の風運動。
コンドームの自販機です。
ストップエイズ。
女子大には、ドレスショップが何店舗かあります。パブやクラブが沢山あるため、ニーズがあるのだと思います。
派手なドレスがズラリと並びます。
歩道にも陳列されています。
価格は安価なほうだと思います。(手前の赤いドレスは2900円)
かつては女子大小路と呼ばれていた通りは、クラブの密集地帯です。現在は、「栄ウォーク街」と呼ばれています。
もともと、このあたりは学生街でした。県一高女、中京女子、育英、名電工、淑徳、も遠くなく、昼は学生たちで賑わっていました。
それが戦後になると、ぼつぼつ連れ込み旅館が増えてきて、昭和50年頃には、バー、キャバレー、飲食店、約700軒、働く女性の数、約3千人、特にバーの大型化ともいえるクラブの密集地帯となりました。
現在は、フィリピンパブが多いようです。
昼間の静まりは薄気味悪いほどですが、夜になると賑わいます。
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.286-P.292
「女子大」という地名は、近くに女子大があったことに由来しています。
店名に「女子大」の名が使われているコンビニ。
世界のやまちゃんの店名も「女子大店」です。
女子大らーめん。今でも「女子大」の名は健在です。
今回は、女子大(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
栄ウォーク街(別名、女子大)の無料案内所。
「女子大無料案内所」。
こちらは、別の無料案内所。
女子大♡無料案内所。
仁王門湯の隣に駐車場となっている空き地があります。銭湯の煙突が見えます。
銭湯の脇は、路地になっています。
生活感あふれる路地です。
昔はこういう雰囲気の路地がたくさんあったのだと思います。
大須観音の東側の仁王門通りは、現在は人通りの多い商店街として賑わっていますが、路地を一本入ると昔の雰囲気が残っています。
銭湯の仁王門湯。
清潔感のある入口。
明るい雰囲気の銭湯です。
明治6年、名古屋に遊廓を設置することが、愛知県議会によって許可されました。大須の北側一帯が指定地で、「北野新地」と呼ばれていました。その後、大須観音堂裏からまっすぐ西へ一帯の広い地域が旭遊廓として、新しく生まれ変わることとなり、以前の北野新地は、元新地と呼びかえられるようになりました。旭遊廓の地域は、吾妻町が南の端で、北へ若松町、花園町、音羽町、東角町、東角町と坂を下り、紫川が北の端で、西は常盤町、東は富岡町、城代町の南北約400m、東西約200mが遊廓の地帯でした。*1
現在も、「常盤通り」という名前の通りがあります。写真の奥に見えるのは、名古屋都市高速道路ですが、このあたりが紫川があったあたり(旭遊廓の北端)でしょうか。
若宮大通りから見た常盤通り。
現在は遊廓の面影はなく、閑散としています。
旭遊廓は、時勢の進展とともに、地域の中央部にあるとの風紀上の問題が論ぜられるようになり、大正8年、旭遊廓の中村への移転の県令が出され、大正12年に歴史の幕を閉じました。*1
【参考文献】
*1 服部鉦太郎:明治・名古屋の顔(六法出版社,1973)P.63-P.67
今回は、大須(愛知県中区)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代、初代尾張藩主の徳川義直は質素倹約の施政方針であったため、遊女屋を禁止していましたが、料亭や芝居小屋まで禁止していたわけではありませんでした。2代藩主光友の頃には、名古屋の最初の芝居小屋である橘座ができました。
橘座があった場所は、現在の愛知産業大学工業高校のあたりです。*1
愛知産業大学工業高校の前には、橘座跡の立札があります。*1
尾張7代藩主の徳川宗春は、それまで禁止されていた遊女屋を公認し、西小路、葛(かずら)町、富士見原の3地区に遊廓ができました。3廓のうち、葛町の廓は、橘座があった愛知産業大学工業高校から約200mの古渡稲荷神社の西南に接したあたりにありました。*2
古渡稲荷神社から南西の方角を見たところ。
【参考文献】
*1 川本文彦:街道への誘い. 続(風媒社,2002)P.119-P.125
*2 斉藤光次郎:今昔名古屋旭廓(名古屋豆本第37集)P.2-P.8
駅西のビックカメラの脇の通りを行くと、「椿神社前」の交差点があります。この交差点をまっすぐ行くと「駅西銀座」です。
交差点の角には、「椿神社」があります。
駅裏が都市計画の俎上(そじょう)に上がったのは、昭和34年のことでした。もはや駅裏ではなく、新しい駅西が出現しました。*1
駅西のカナメとなって鎮座する椿神明社は、古くから椿の森として親しまれてきましたが、椿の群生は今はありません。境内のわずかな椿の花が、駅西のさまざまな幻想を盛り上げてくれます。*1
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.268-P.271
今回は、駅西(愛知県名古屋市中村区)の町並みと風俗を散歩します。
「駅西」は、名古屋駅西口を中心に半径900メートルの半円に抱かれる椿町などを指し、終戦直後は駅裏のヤミ市地区として名を響かせていました。*1
名古屋駅の西側のビルに囲まれて、古い建物が残されている一画があります。(写真右下)
駅へ向かう横断歩道を渡ったところにある理容室の建物。
大衆食堂の看板だけが残っています。
めし、みそ汁、おかず...。かつての駅西のエネルギーを感じさせます。
【参考文献】
*1 大野一英:名古屋ケチケチ繁盛記(講談社,1977)P.268
武蔵新田の商店街にある食品スーパーのマルエツ。このマルエツの裏側にカフェー街がありました。*1
終戦直前の昭和20年7月。当時の警視庁、憲兵隊、区長、区議会が中心となって、軍需工場で働く産業戦士相手の慰安所をつくろうと、羽田の穴守で戦災にあった業者たちに呼びかけてつくらせたのがはじまりでした。*2
昭和27年刊行の風俗雑誌*3 には、「ここの特色は、1軒の大きなアパートのような店の中に27軒の店がそれぞれに商売をしている集団的売春の家である。」と、武蔵新田の特徴が述べられています。
北西の方向から見た旧武蔵新田カフェー街全景。*1
腰廻りに石材を配しています。*1
「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていたお宅は(写真右側)は、建て換わっていました。
現在は閑静な住宅地になっています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.44-P.45
*2 小林大治郎,村瀬明:みんなは知らない(雄山閣出版,1961)P.114
*3 人情講談(睦書房,1952.8)P.164 「東京赤線地帯・現地ルポ」
今回は、武蔵新田(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
JR京浜東北線から東急多摩川線(旧目蒲線)に乗り換えて2駅目の武蔵新田駅で下車します。駅前の商店街は、買い物客で賑わっています。
駅から徒歩1分の商店街に面した場所に銭湯の森の湯があります。
銭湯らしい、大きな建物です。
鶴の絵が描かれています。
鶴見駅から鶴見線で一駅目の国道駅は、鉄道ファンに人気のある駅です。カーブを描いている鶴見線の高架下に駅の改札口があります。
トンネルのような独特の形状をしています。
改札口は、木製です。
ガード下は、ここだけが昭和のまま時間が止まった様な雰囲気です。
本町通4丁目交差点から南西に延びる通りを100mほどいったところに、銭湯の末広湯があります。
「サウナ」のネオン看板。
入口付近。
脱衣場に入ると、広い庭園が出迎えてくれます。
本町通り4丁目に、ひときわ目をひく飲食店の建物があります。
スナック店のような店構えです。
鮮やかな緑色のタイルで装飾されています。
入口付近。
鶴見駅東口の繁華街を抜け、鶴見川を渡った本町通4丁目に、飲食街があります。
右側は空き地(駐車場)になっていますが、昔は狭い路地だったのかもしれません。
雰囲気のある入口。
「料理店」のプレートがありました。
今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みと風俗を散歩します。
京急鶴見駅東口の「鶴見三業共同ビル」の南側の角。
地下街への階段の入口があります。
パブやバーなどの飲食店専門の「鶴見地下飲食街」。
この付近一帯には、「鶴見三業地会」の看板があります。
東上野2~3丁目に、キムチ横丁と呼ばれるコリアンタウンがあります。
終戦直後、各地の残留朝鮮人たちは、ひと旗あげようと続々と上京し、凄まじい勢いでアメ横のマーケットに参入しました。彼らは公権力にも果敢に抵抗したため、これに手を焼いた警察当局は、千葉県の実業家・近藤広吉に頼み込み、アメ横に近藤マーケットをオーオプンさせて、浄化作戦に乗り出しました。*1*2
近藤マーケットに追い出された朝鮮人は、東上野2丁目付近に「国際親善マーケット」を建設し、これがコリアンタウンになりました。*2*3
焼肉店をはじめとして、キムチ、漬物、乾物などを売る店などが、密集しています。
各店毎に異なる味つけを楽しめるのも魅力です。*2
キムチ横丁の北側。2棟の建物の間が生活通路になっています。
【参考文献】
*1 塩満一:アメ横三十五年の激史(東京稿房出版,1982)P.107-P.108
*2 山野車輪:在日の地図(海王社,2006)P.106,P.112-P.113
*3 東京焼け跡ヤミ市を記録する会:東京闇市興亡史(草風社,1978)P.94
御徒町駅近くにある芳賀書房上野支店。
店の入口。
2階へ上がる階段。
オリジナルガチャポン。
アメ横の上野駅寄りにビデオボックスがあります。
「ビデオBOX」という屋号のビデオボックスです。
看板に「全自動」と書かれています。
初期のビデオボックスでよく見かけた個室タイプです。
店内には、ボックス(個室)がずらっと並んでいます。ボックスの上部に貼り付けられているビデオのパッケジーを見て、客は気に入ったボックスの中に入って鍵を閉めます。千円札を入れると自動的にアダルトビデオの再生が始まる仕組みです。
アメ横のおとなのおもちゃ屋さん。
店の側面はガラス張りになっていて、商品が陳列されています。逆立ちになっている看板が面白いです。
ビニール製のダッチワイフ。
前と後、2穴です。
御徒町駅近くの昭和通り沿いに、オリエント工業(有限会社ツチヤ商会)のショールームがあります。オリエント工業は、ラブドール(ダッチワイフ)のトップブランドです。
ダッチワイフが注目されるようになったのは、1956年の日本初の南極観測隊が越冬の間の性欲処理方法として、ダッチワイフが使用されたことでした。このミス南極(隊員たちの間では「弁天さん」と呼ばれていました。)はイグルー(氷で作った簡易住居)の中に置かれましたが、使用した隊員は一人もいなかったそうです。*1*2*3
ショールームの入口。
カタログは有償(300円)です。
南極観測隊以降、ダッチワイフの研究は急速に進みました。*3
1979年、上野に創業したオリエント工業は、第一号製品の「微笑」から2007年の発売の「キャンディーガールジュエルディーバ」まで豊富なラインナップを持っています。
ラブドールのカタログには、素材の見本が添付されていますので、実際の感触を確かめることができます。
「ソフトビニール」製と「シリコン」製の2種類があります。シリコン製は、リアルな質感が得られる反面、価格が高い、破損しやすい、などの難点があります。
【参考文献】
*1 高月靖:南極1号伝説(バジリコ,2008)p.26-P.29
*2 日本風俗史新聞編纂委員会:日本風俗史新聞(日本文芸社,1999)p.175
*3 下川耿史:男性の見た昭和性相史 part2(第三書館,1993)P.208-P.209
上野には、パチンコ関連企業の事務所が集中しています。
「秘密戦隊ゴレンジャー」は、いわゆる「戦隊もの」と呼ばれるチームによるヒーロー番組の元祖です。アカレンジャー、アオレンジャー、キレンジャー、モモレンジャー、ミドレンジャーと、ヒーローを色分けしたのが特徴でした。
八代亜紀さん。心の故郷です。
ご存知、遠山の金さん。
逃亡者(のがれもの)おりん。
JR上野駅近くの昭和通り沿いに、スナックが並ぶ小さな路地があります。
ゲイバーなどが多い路地です。*1
江戸時代、上野に隣接する湯島天神界隈は、男色を売る少年たちの陰間茶屋が多い場所でした。また、敗戦後の上野には、街娼(パンパン)など1300人の商売女と約100人の男娼(オスパン)がいました。*1
男の酒場。
【参考文献】
*1 新人物往来社:歴史の中の遊女・被差別民 別冊歴史読本45(新人物往来社,2006)P.271-P.272
今回は、上野(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
JR上野駅東側の正面玄関口付近
大きな看板の薬屋さん。
その薬屋さんの看板に負けないくらい大きな「男ビデオ」の看板。
1Fから4Fまでがアダルトショップですが、男ビデオのコーナーがある模様です。
二子新地の最盛期には、芸者はたくさんあって、芸者衆は100人くらい、待合は30軒くらいありました。当時、町内会(南第四町内会)は、全部三業組合でしめていました。*1
料亭「春日」は、数年前まで当時の建物と黒板塀の遺構*2 が残っていましたが、つい最近取り壊されて駐車場になったようです。
料亭「やよい」があったあたり。*3
「草紫庵」と書かれた石柱があります。
待合ではなく、料亭だったのは、「仙寅」のみでした。料亭「仙寅」の跡地には、現在はマンションが建っています。
【参考文献】
*1 神奈川県立婦人総合センター かながわ女性史編集委員会:夜明けの航跡(ドメス出版,1987)P.250-P.251
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.174
*3 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
1970年の住宅地図*1 を見ると、二子新地の料亭は、10軒ぐらいが営業中だったようです。
そのうち、唯一現在も営業を続けているのが、こちらの料亭「やよい」です。
料亭「やよい」の看板。
美しい黒板壁が、当時の様子を偲ばせます。
【参考文献】
*1 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
二子橋が開通した大正14年頃、建設関係者を相手にした小料理屋が神奈川側の堤防沿いにできはじめ、三業地ができました。
二子神社近くには、「二子三業組合」の銘の入った街路灯が残っています。
三業地は、二子神社西側一帯にありましたが、現在は住宅地になっています。
二子三業組合、二子芸能学校があったあたり。*2
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.12
*2 高津区明細地図(経済地図社,1970)P.79
今回は、二子新地(神奈川県高津区)の町並みと風俗を散歩します。田園都市線の二子新地駅は、かつて花街だった頃の「二子新地」という呼び名がそのまま駅名になっています。
ちなみに、当時は、「二子新地前」という駅名でしたが、「双子死んじまえ」に聞こえたりするので、現在の駅名に変更されました。*1
案内板を見ると、二子神社の近くには、花街の名残と思われる料亭の名前があります。
二子新地駅前の大山街道。大山街道は江戸を起点として、大山(神奈川県伊勢原市)までを結ぶ街道で、江戸時代中期には、「大山詣」がブームになりました。
「旧大山街道二子の渡し場入口」と書かれた白い案内標柱があります。大正14年に二子橋ができるまでは、二子の渡しから多摩川を渡りました。
あるビルの壁面に、二子の渡しのレリーフがあります。
【参考文献】
*1 散歩の達人(交通新聞社,2005.4)P.16
旧五軒町界隈には、花街の痕跡とも言える料亭や旅館だったと思われる建物が残っています。
緑色の建物。
スナック喫茶。
3階建ての旅館。
落合橋を渡り、上り坂を登りきった高台に、芸者屋の「仲乃屋」があります。
湯河原の温泉芸者の船岡なかさんの半生を描いた「温泉芸者一代記」*1 によると、「仲乃屋」は、昭和8年頃に建てられました。
船岡なかさんは、大正13年、17歳のときに「赤ペン」に売られてきました。船岡さんの年季は昭和3年に明けましたが、すでに、そのとき、この土地で生涯、温泉芸者としていきることを決めていたそうです。ペン街は、昭和5,6年頃から遊里らしい賑わいを見せ始め、ぺン店や料亭、待合、旅館などが増えました。*1
現在も「仲乃屋」は、健在です。
「仲乃屋」東側の目の前に、「赤ペン」がありました。*1
【参考文献】
*1 井田真木子:温泉芸者一代記(かのう書房,1989)P.10,P.60,P.126
今回は、湯河原(神奈川県足柄下郡湯河原町)の町並みと風俗を散歩します。
湯河原駅の西側、千歳川と藤木川が合流する地点に落合橋があります。
この橋の南側の高台には、かつて「五軒町」と呼ばれた花柳街がありました。湯河原温泉の発展は五軒町をぬきにしては語れない程、往時殷賑をきわめていました。*1
五軒町の由来は、次の通りです。
日露戦争後、湯河原駅の西側に陸軍病院ができ、その病院の米を作るため、落合橋のふもとに水車小屋ができました。水車小屋周辺には、傷病兵の散歩場として公園ができ、人家も出来始めました。そのうちの1軒に、高等馬車の別当をしていた岩崎忠次郎という男がいました。その女房のキヌさんは、なかなの美人で、小料理屋を始めました(大正3年)。たまたま主人が馬車に塗った赤いペンキの残りを、その店の塀に塗ったことから、店は「赤いペンキの家」と呼ばれるようになりました。けれどもそれが幸いしたのか急に店は繁盛し、女房だけでは間に合わなくなり、女の子を5、6人置くようになり、増築もし、栄える一方でした。*1
「赤いペンキの家」通称「赤ペン」を真似て、新しい飲み屋も増えてきました。「白ペン」、「黒ペン」、「金ペン」、「銀ペン」といい、ペン街が形づくられました。しかし、町の人は、「ペン街」という呼び名を好まなかったため、料理屋が五軒できたので、「五軒町」と呼びました。*1
【参考文献】
*1 湯河原若葉会:湯河原のはなし 其の二(湯河原温泉観光協会,1978)P.14 「五軒町由来」
新開地に残るホテルの建物。
沖縄にあるのに、なぜか「ホテル東京」です。
歴史を感じさせる看板。
四つ角にあるホテルだったと思われる建物。
金武・新開地では、コザのような「白人街」、「黒人街」といったテリトリはありませんでしたが、白人専用の店、黒人専用の店が存在しました。白人・黒人とも自分たちの好みの音楽がかかっている店に集まり、店が気に入ると自分たちの専用の店にしました。黒人が集まる店に白人が入店したり、その逆でもケンカが発生しました。沖縄復帰が近づきつつあった頃、新開地を力づくで「黒人街」にしようという黒人集団の動きがありましたが、軍のパトロール強化により、その野望は阻まれました。*1
当時のものと思われる建物が残っています。1992年の写真*2 と比べると、道路が舗装されたこと以外は、ほとんど町並みに変化はありません。
新開地のメインの通り。
クラブSHIMA。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71
*2 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.192 「二十年目の生き残った歓楽街の姿」
今回は金武(沖縄県国頭郡)の町並みと風俗を散歩します。「金武入口」のバス停で下車。道路の向かい側は、世界最強を誇る米軍海兵隊の拠点「キャンプハンセン」です。
近年、沖縄の米兵は少なくなったものの中東戦争、イラン・イラク戦争そして湾岸戦争において、沖縄の米軍基地は後方支援や偵察など大きな役割を果たし、日米安保による基地提供とは米軍の世界戦略の一貫であったことが、現在では明白になっています。*1
「キャンプハンセン」の向かい側には、「新開地」と呼ばれる米兵相手の歓楽街があり、現在も盛況です。
「キャンプハンセン」の入口の前の通り。
西部劇の映画に出てきそうな町並みです。
繁華街への入口のゲートには、日米国旗がデザインされています。
【参考文献】
*1 池宮城晃,池宮城拓:沖縄返還(池宮商会,1998)P.190
コザの西側、中頭郡嘉手納町の国道58号線の途中に比謝橋があります。
ここに吉屋チルーの歌碑があります。
吉屋チルーは、1650年、現在の恩納村に生まれました。家ははじめは裕福でしたが、父親が尾類(ジュリ)買いに精を出しすぎて、たちまち貧困になり、そのため、13才の吉屋チルーは、仲島遊廓*2 に売られることになりました。*1
「恨む比謝橋や 情けないぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら」という歌が刻まれています。これは、吉屋チルーが、父親に手を引かれてはるばる売られていく道中に詠んだものです。街道の比謝川にかけられた木橋、この比謝橋は、きっと無情な人が私を渡らせようと思って、かけておいたのだろう。この橋さえなければ、私は尾類(ジュリ)になぞ売られて行くこともなかったろうに、とうたっています。1
吉屋チルーは、現在でも沖縄では知らない人のない天才歌人でした。*1
【参考文献】
*1 富村順一:琉球慰安婦 天皇制下の闇の性(玄曜社,1977)P.27-P.28
【参考記事】
*2 風俗散歩(那覇):仲島の大石(2009.1)
胡屋十字路からサンサン通り(国道330号線)を南西にパラダイス通り*1 があります。すぐ隣に諸見百軒通りがあります。現在は繁華街の面影はありませんが、1978年の住宅地図*2 を見ると、クラブやカフエーが、道の両脇にずらっと並んでいます。沖縄返還後、しばらくは繁華街であったようです。
かつての繁華街の面影を残すクラブの建物。
「CLUB DIYA」。特飲街時代の建物でしょうか。
元飲食店であったと思われる民家。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 善隣出版社:沖縄市・北谷村(善隣出版社,1978)P.71
センター通りと接する場所に、かつて、「ワイキキ通り」*1 と呼ばれていた通りがあります。現在は閑静な住宅街ですが、かつてのワイキキ通りは、特飲街でした。*2
1953年、米軍は、特飲街で売春行為が行われ、性病が蔓延していることから、米軍人の立ち入りを禁止(オフ・リミッツ)の措置をとりました。こうしたオフ・リミッツは、米兵向け商売で暮らしを立てていくほかない人々にとっては死活問題であったため、オフリミッツ解除のためのさまざまな努力が行われました。こうしたさなかの1956年、風俗営業にAサイン制度が導入されました。Aサインとは、「米軍による許可済み」のことで、衛生管理や従業員の健康証明などが必要でした。*3
Aサイン取得のためには、改善のための設備投資が必要であり、資金のある業者のみが申請を行ったため、風俗店の数は減少していきました。コザの諸里百軒通り、胡屋(ごや)通り、ワイキキ通りなどでは、業者が沖縄向け(日本人向け)向けの営業に転業しました。*2
飲食店だったと思われる建物。
「KOZA BUNKA BOX」*2 に写真が掲載されている白瓦屋根の民家。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.11 「歓楽街分布図(1960年頃)」
*2 山崎孝史:KOZA BUNKA BOX 4号(沖縄市企画部平和文化振興課,2008)p.42-P.44「USCAR文書からみたAサイン制度とオフ・リミッツ」
*3 那覇市歴史博物館:戦後をたどる(琉球新報社,2007)P.203-P.204「小野沢あかね:Aサインバーとオフ・リミッツ」
コザ十字路から美越通り(国道329号線)を300mほど進むとバス停の「吉原入口」があります。このバス停の南東側に吉原の風俗街が広がっています。
1950年代はじめ、基地建設に伴い、沖縄各地に米兵相手の特飲街が次々とつくられていきましたが、コザ十字路の南側に後に、「照屋黒人街」と呼ばれる特飲街が成立すると、白人と黒人の対立が目立つようになりました。1952年末頃には照屋の特飲街は、黒人の縄張りとなりましたが、白人相手に商売をしていた一部の業者は、コザ十字路北東にそびえる手付かずの高台に目をつけ、そこに新特飲街が建設され、吉原が誕生しました。つまり、吉原は照屋の特飲街の黒人街化によって誕生した街といえます。*1
「吉原」という名の由来は、東京の有名な遊廓である吉原にあやかったものだそうです。名前の候補として、「美島」、「沖の島」、「三島」などがありましたが、最終的に「吉原」に決定しました。吉原創設の目的は、「白人相手の特飲街」でしたが、1954年7月8日に発令されたオフリミッツが長期化したため、苦境に追い込まれた吉原の業者たちが思いついたのが「沖縄人相手」の商売でした。*1
吉原は、現在は、風俗街として存続しています。「吉原」と書かれた信号機がある交差点は、唯一、美越通りから風俗街を一望できる場所です。ここから高台に向かって一直線に広い通りが延びています。
高台の奥まったあたり。道路が縦横に走り、風俗店が道の両側にびっしりと並んでいます。
木造の建物もあります。
【参考文献】
*1 廣山洋一:KOZA BUNKA BOX 2号(沖縄市企画部平和文化振興課,2000) P.41-P.47 「特飲街・吉原」
八重島特飲街跡の名残を伝える唯一の遺構が1軒あります。
「Waltz(ワルツ)」のネオン看板が残っています。
建物の脇には、駐車場があります。
駐車場の地面には、タイルでハートが描かれています。
八重島特飲街は、1953年の長期オフリミッツなどで打撃を受け、衰退しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市平和文化振興課:Koza ひと・まち・こと 写真がとらえた1970年前後 あなたが歴史の目撃者(沖縄市,1997)P.112