柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。

思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。

スナックが密集する一画。

赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。

柳小路通りは、思案橋横丁の1本裏側の通りです。
思案橋横丁の賑やかさとは対照的に場末感が漂います。
スナックが密集する一画。
赤い提灯を店先に掲げた居酒屋もあります。
今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みと風俗を散歩します。
思案橋近くの思案橋横丁は、観光客も多い賑やかな通りです。
道の両側には、飲食店が建ち並んでいます。
1軒だけ風俗店があります。
ネオンが煌めく通りです。
篠山鉄道(現在は廃止)の篠山町駅前附近は、篠山銀座と呼ばれ、オノイ食堂、クロネコ、天女、太陽、ライオン等のカフェーが軒を並べていました。女給さんの数も多い店は、12~13人。その繁昌ぶりは、芸妓、仲居を遥かに凌ぐものがありました。*1
カフェー太陽、オノイ食堂が並んでいた通り。*2
現在もスナック店が点在しています。
料理店の裏側の路地。
この付近には、カフェーライオンがありました。*2
【参考文献】
*1 篠山町:篠山町七十五年史(篠山町,1955)P.282-284
*2 大日本職業別明細図 篠山町
アオイ通り商店街にあるスナック。店の名は「ごめん」。
店の正面は、赤く塗装されています。
城下通り近くの長屋風の建物に入居するスナック。
夜になると、あかりが灯ります。
月見町の旧花街には、スナックの店舗も点在しています。「スナック松葉」は和風スナックのようです。
落ち着いた感じの店舗。
西側の方には、お洒落な店舗が連なっています。
和風の建物スナック「ドン・ファン」。奥み見える和風の建物は、公民館です。
山側に平入りの母屋、道をへだてて海側に妻入りの舟屋がならびます。母屋のまん前の舟屋が同一人物の所有です。*1
海の中に建てられているように見える舟屋は、実は水際ぎりぎりに建てられ、舟をひきあげやすいように、地面が斜めに切り取られており、海水が2メートルほど中まで入り込む構造になっています。*1
舟屋は、舟や漁具の格納庫であり、漁具・漁網の干場であり、出漁準備の作業場でもあります。魚の料理場や干物の干場にもなります。
昔の舟屋は藁ぶきで、板や土の壁はつくらず、わらや古縄を下げた風通しのいい造りになっており、二階も低く床板をはらず、足場板を並べただけのものでした。*1
【参考文献】
*1 和久田幹夫:舟屋むかしいま(あまのはしだて出版,1989)P.4-P.8
宮津からバスで約1時間、丹後半島を北上していくと、伊根湾にたどり着きます。
深い入り江となった伊根湾を取り囲むように建ち並ぶ船小屋(舟屋)は、その数230軒。全国でも類を見ない船小屋のメッカです。*1
伊根の船小屋は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。*1
この地域では船小屋は「舟屋」と呼ばれ、特徴ある2階建ての小屋が水際ぎりぎりに建っています。*1
【参考文献】
*1 INAXギャラリー企画委員会:舟小屋(INAX出版,2007)P.58-P.60
旧花街街には、スナックも点在しています。
メインストリートと交差する通りに面したスナック。
カフェー風の玄関を持つお宅。*1
「酒場」のプレート。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.98-P.99
笠間稲荷神社のある町の中心部から南西方向に離れた場所に飲み屋街が密集する一画があります。
この付近は、旧町名で「荒町」と呼ばれていました。*1
古びた看板が連なり、場末感が漂います。
個性ある装飾の店舗が並んでいます。
飲み屋街の中心部。両側に平屋建ての飲み屋街が続きます。
西側の通り。
【参考文献】
*1 郵政省:笠間局郵便区全図(郵政省,1951)
門前通りから南側に延びる「横丁通り」には、古い旅館やスナックが点在しています。
横丁通りを抜けたところにある軽食屋。
お酒と軽食。
城山稲荷神社の近くのスナック店。
今回は、笠間(茨城県笠間市)の町並みと風俗を散歩します。
JR水戸線笠間駅前に「駅前横丁」の大看板があります。
笠間稲荷神社などがある笠間の中心街は、駅から約2kmぐらい離れた場所にあります。駅前ロータリー付近は閑散としていますが、唯一この「駅前横丁」に飲み屋が密集しています。
居酒屋やスナックが建ち並びます。
しゃれたお酒にいい女。
「巣鴨駅南口一番街」の南側は、飲み屋街になっています。
1階にスナックが入居し2階が居住スペースとなっている長屋風の建物。
昭和レトロなスナック店が連なります。
道を挟んだ反対側のビルの1階にもスナック店が入居しています。
今回は、巣鴨(東京都豊島区)の町並みと風俗を散歩します。
巣鴨地蔵通り商店街は、昔ながらのもてなしの心を大切にした商店街として愛され続けています。
巣鴨でかつて一大ブームとなった、赤パンツの店。
巣鴨名物「お地蔵様の赤パン」。
さまざまなタイプの赤い下着が販売されています。
今回は、衣浦(愛知県碧南市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次世界大戦の頃、山神町に、東端の海軍航空隊兵士の慰安所設置が要望され、昭和19年に15業者によって、特殊飲食店街が作られ、一時は、市内の一大歓楽街でした。終戦後の昭和29年頃から料理旅館への転業を計画した業者たちが昭和30年に温泉開発を計画してボーリングを行いました。昭和31年に温泉が認可され、温泉街として再スタートしました。当時は、湯本本館が各旅館に配湯していましたが、昭和60頃には湯量も減り、配湯は中止となりました。*1
現在も「衣浦温泉組合」と書かれた行灯が残り、温泉街の名残が見られます。
「寸楽」という屋号が書かれた行灯。
衣浦温泉の名が残る駐車場の看板。
【参考文献】
*1 碧南事典編さん会:碧南事典(碧南市,1993)P.81-P.82
黒川の歓楽街。色彩豊かなスナックの店舗が建ち並びます。
印象的な看板建築の建物。
長屋風の飲食店舗。
夜になると、看板に明かり灯ります。
黒川の歓楽街の入口に、古い木造建築の居酒屋があります。建物脇の路地を入るとその奥にも木造母屋建ち並んでいます。
「みづほ」という屋号。
裏側は、トタンの芸術です。
奥の木造母屋のガラス窓。「余市ビリヤード」と読めます。
歓楽街の中心部には、公園があります。
うきよ公園となづけられた公園の周囲には、飲食店ががみが密集しています。
この界隈は、大正時代に浮世通りと命名されました。
うきよ公園にある包丁塚の碑。
今回は、岩内(北海道岩内郡岩内町)の町並みと風俗を散歩します。
岩内は、積丹半島の南側に位置し、かつては鰊漁で繁栄した町です。海に近い「うきよ通り」には、スナックや居酒屋が密集しています。
新旧のスナック店が混在しています。
趣のあるスナック店の入口階段。
うきよ公園前のスナック街。
稚内市街を南北に貫く道道106号線(オロロライン)の港三丁目交差点付近(稚内駅と南稚内駅の中間あたり)に古い飲み屋街があります。
ほとんどの店舗は閉店しています。
かつては、賑やかな飲み屋横丁だったのだと思います。
北側の建物の裏側。
鶴橋商店街を歩くと、キムチなどの韓国文化と日本文化が混じりあったような印象を受けます。
その中で特徴的なのが、内臓肉を扱った精肉店です。さまざまな部位の内臓肉が販売されています。それだけ、需要が多いことを示していると言えます。
豚足などの肉を扱う専門店。
ホルモンの看板。「屠場直売」と書かれている通り、屠場から直接仕入れるルートを持っていることが強みです。
今回は、鶴橋(大阪市生野区)の町並みと風俗を散歩します。
駅近く(西側)の鶴橋は、焼肉やキムチの店が集まる商店街というイメージですが、これはこの三十年ほどの傾向で、元来の鶴橋は、東側の一画に見られるように、プロ向けの食材などが集まる卸売市場です。
小売商が、衣料、雑貨品を仕入れるために訪れる問屋街として発展してきたという鶴橋の歴史を感じます。*1
迷路のように入りくんだ商店街。
鶴橋卸売市場中央会と書かれた看板があります。
【参考文献】
*1 藤田綾子:大阪「鶴橋」物語(現代書館,2005)P.7
今回は、新世界(大阪市浪速区)の町並みを風俗を散歩します。
新世界は、明治時代、第5回内国勧業博覧会の跡地に計画された街区ですが、現在もその当時の道路の形が残っています。
新世界の北半分は、パリをモデルとした洋風の街区で、通天閣に通じる放射状の3つの道路があります。
3つの道路は、東から「合邦(かっぽう)通り」、「玉水通り」、「恵美須通り」と呼ばれ、各街路は、それぞれにテーマ性をもったショッピングモールでした。街路に面した1階部分をすべて洋風の店舗とし店舗様式は、近世ドイツ式に統一されていました。*1
東の「合邦通り」。現在は静かな住宅街になっています。
西の「恵美須通り」。現在は、商店街となっていて、地下鉄堺筋線恵美須駅の入口があります。
中央の「玉水通り(現春日通り)」には、かつてはお茶屋が建ち並んで、ぼんぼりが揺れ、奈良の春日大社の万灯籠のようだといわれ、春日通りと命名されました。*2
【参考文献】
*1 橋爪紳也:大阪モダン(NTT出版,1996)P.80
*2 通天閣観光株式会社:通天閣50年の歩み(通天閣観光,2007)P.8-P.9
京橋駅前の「サンピアザビル」。
1階の入口には、看板が乱立しています。
ビルの中央には、らせん階段があって豪華な雰囲気です。
全館が風俗店です。
今回は、京橋(大阪市都島区、城東区)の町並みと風俗を散歩します。
京橋駅前にランドマークのように建つ「グランシャトー」のビルがあります。外観は城郭を模した奇抜なデザンインになっています。
「グランシャトー」は、サウナ、パチコンコ、ゲームセンターなどが入る総合娯楽ビルです。ビル横には、「シャトー商店街」があります。
「ナイトクラブ香蘭」の中入口。
夜の様子。
JR桜ノ宮駅から、北側に徒歩約15分。大坂拘置所の手前に「差し入れ屋」があります。
「差し入れ屋」は、朝の面会の時間が近づくと大勢の人々の買い物姿が見受けられます。
「差し入れ屋」は数軒が並んでいます。こちらは「放免屋」という屋号の店。
大坂拘置所の入口。
現在の大阪で、川の土手沿いにあるラブホテル街を探すと、十三と桜ノ宮ということになりますが、そのうち桜ノ宮は、古典的なムードをたたえたリバーサイドのホテル街です。*1
桜ノ宮ホテル街の古典的ムードは、毛馬桜之宮(桜宮神社)によって演出されています。
このあたりは、昔から桜の名所として知られていて、明治18年の大洪水によって一度荒廃しましたが、その後、大阪市によって毛馬桜ノ宮公園として整備され、多くの市民に愛されています(案内板より)。
毛馬桜之宮の参道のすぐ近くまでラブホテルが迫っています。
土手から緩やかな坂を下るとラブホテル街の中心部です。(写真左側は、毛馬桜之宮)
【参考文献】
*1 中沢新一:大坂アースダイバー(講談社,2012)P.200
「全国女性街ガイド」*1によると、鬼怒川温泉には、花の町に16軒の赤線がありました。
現在も「花の町」という地名が存在し、道路の幅が広くなった一画があります。
1階がタバコ屋さんになっている建物。
飲み屋だったと思われる建物。
花の町。
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.103
京町の付近に掲示されてた住宅地図を見ると、かつては、スナックなどの飲食店舗が密集していたようです。
現在の京町は、歓楽街的な雰囲気はありません。カラオケスナックが1店舗だけあります。
「松葉」という屋号の店舗があったあたり。
この付近には、料理屋などがあったのかもしれません。
温泉街の中心部からやや南にはずれた場所にある「本町行灯(あんどん)通り」。
本町行灯(あんどん)通りから「京街坂」と名付けられた坂道があります。
「全国女性街ガイド」によると、鬼怒川温泉には、京町と花の町の2か所に赤線がありました。*1
電柱番号札に、「京町」の名があります。この付近に赤線があったのかもしれません。
現在の京街坂に歓楽街の面影はありません。
「全国女性街ガイド」には、「赤線は、”暴力の街”、”ヤマの女”として有名で花の町<通称ヤマという>に16軒52名。町はずれの京町に11軒27名いる。二つとも暴力的に引っ張り、最近は川のたもとまで客呼びにきているから要心。泊は宿へ呼ぶと二千円に素泊まり五百円<万事思い上がった暴利>とられるが、押しかけると千円でオンの字。情緒なし。」と紹介されています。*1
【参考文献】
*1 渡辺寛:全国女性街・ガイド(季節風書店,1955)P.103
今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みと風俗を散歩します。
板橋旧中山道が下り坂となり、石神井川をまたぐ小橋がありますが、これが区の名前にもなっている「板橋」です。
橋の右端にある日本橋からの距離表示だけが、明治時代と変わらぬ風景です。*1
石神井川の流れ。
現在の橋は、昭和47年に架け替えられたものです。*1
【参考文献】
*1 日本文芸社:荷風!Vol19(2009.3) P.86
黒磯遊廓に通じる新地通りは、現在は新地仲町通りと呼ばれています。
新地仲町通りに、丸大横丁と呼ばれる飲食店街があります。
ビルが1棟だけの横丁です。
スナックや飲食店が入居するビルです。
JR四日市駅の北側の国道164号を東に向かって、JR関西線の踏み切りを越えた浜町に「思案橋」があります。
日本中に「思案橋」と名づけられた橋は、多々ありますが、どれも遊廓と切っても切れない関係にあります。つまり、江戸吉原の思案橋をはじめとして、一般的には各地の遊里の入口近くに見られる橋を「思案橋」と称しています。それは、「遊廓へ行こうか戻ろうか思案を重ねて、そのあげくに渡らずにおれぬことから、この名がある。」と言われています。ところが、四日市「思案橋」については、遊廓との結びつきで考えると、遊廓があった場所と橋の場所が離れすぎていて、思案して決断する場所としては、不適当と言えます。*1
四日市「思案橋」は徳川家康に由来します。天正10年(1582)6月2日未明、本能寺に滞在していた織田信長が家臣の明智光秀による襲撃を受け50歳の生涯を終えた時、堺に滞在していた徳川家康は伊賀越によって伊勢に入り、海路にて駿河に逃げ帰る折に陸路で駿河に戻るか、もしくは海を渡るか「思案」したことが、その名の由来となっています。
現在は、橋のオブジェと碑があります。
【参考文献】
*1 四日市市港地区連合自治会:思案橋記念誌(四日市市港地区連合自治会,1988)P.16-P.39
三和商店街には、たくさんの出入口があります。食堂の看板がある路地のような通路も入口の一つです。
商店街の天井部分には、屋根の骨組の構造が見えます。
古い商店の看板。
夜になると飲み屋の看板に明かりが灯ります。
JR四日市駅の北側に、商店が集まる長屋があります。
東側に、商店街の入口があります。
明るい商店街。「三和商店街」と書かれた錆びた看板。地元の方の話によると、三和商店街は、かつてのマーケットで、商店などが集まっていたそうです。
西側の入口。
今回は、一身田(いしんでん、三重県津市一身田町)の町並みと風俗を散歩します。
この町は、弥生時代から続く農業集落でしたが、15世紀に専修寺が建てられると、それを中心に町が発展し、16世紀には町の周囲に壕が作られ、宗教都市(一般に寺内町と呼ばれます。)の様相を呈するようになりました。壕で囲まれた町への入口は3つしかなく、橋のたもとには、それぞれ、「黒門」「赤門」「桜門」と 呼ばれる門があって、夜は閉じられて不審者の侵入を許しませんでした。壕の外には、橋向と呼ばれる遊廓地域も生まれました(案内看板より)。
3つあった門のうち、南東側にあった黒門の跡。
黒門跡にあった「橋向通」の案内看板。遊廓街があったことが説明されています。
黒門の南側が遊廓街があった橋向と呼ばれた地域でした。
遊廓があった広小路の北側に、飲み屋横丁を思わせる路地があります。
長屋に居酒屋やスナックなどの店舗と住宅が混在しています。
飲み屋横丁を抜け、南側へ折れると、広小路の向こう側には、「玉突」や「多治見温泉」などがある一画に至ります。
「呑スケ止マレ」の看板。
多治見広小路の東寄りに、昭和の薫りただようかつての歓楽街 「銀座センター」があります。
幅の狭い路地が約50m続きます。
壁にハートのマークが描かれているスナック。
鮮やかに装飾されたドア。
浜松町駅の南側の金杉橋に、船宿が建ち並んでいる一画があります。
船宿の脇の路地。
屋形船の船着場。ここから隅田川方面へ向かう屋形船に乗船できます。
金杉橋から見る風景。江戸時代の情緒を感じる風景です。
熊本市の北東部に位置する子飼(こかい)商店街。
歌手の水前寺清子さんの出身地です。
昔ながらの商店街です。
上野のアメ横に似た雰囲気の商店街です。
河原町にある繊維問屋街。
繊維問屋街の入口。
昭和に建てられた問屋街がそのままの姿で残っています。
学生服の看板。
別府の栄町の銀座裏通り。緩やかなカーブを描いて幅の狭い路地が続きます。
昭和30年代、別府温泉には、7,000人のホステスがいて、情こまやかな接客ぶりは評判でした。中でも意にかなったホステスを自由に選択できる「セレクト喫茶」なるバーが人気で、銀座裏通りや柳町のバー街にありました。*1
現在は、居酒屋やスナックとファッションヘルスなどの風俗店が混在する通りになっています。
新宮通りに近いあたり。
【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.108-P.119
門司市街は、格子状に整然と区画されているのが特徴ですが、例外的に昔のままの小路が残っている場所があります。栄小路はその一つで、小路への入口はY字路のようになっています。
栄小路は、中央部分で大きくカーブしています。
バー、居酒屋などのが建ち並んでいます。
栄小路がカーブしているところにあるスタンドバー「直湖」。
現在、地蔵寺にある遊女の墓は、バー「直湖」の女性経営者が、田の浦にあった遊女の墓の見捨てられたような状態を悲しみ、地蔵寺の住職に頼んで墓を移設してもらったものです。*1
【参考文献】
*1 羽原清雅:「門司港」発展と栄光の軌跡(書肆侃侃房,2011)P.352
神楽坂の魅力は、石畳と黒塀にあります。兵庫横丁は、神楽坂情緒を醸し出す通りです。
旅館「和可菜」。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所として知られる、往年の名女優小暮実千代が経営していた旅館です。
現在でも芸者さんが出てきそうな路地です。
人がすれ違うのがやっとという石畳の階段。
【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版角川出版企画センター ,2010)P.202
渋谷の道玄坂(東急本店へ向かう道)は、若者で賑わう通りです。
現在のヤマダ電機裏には、恋文横丁と呼ばれた路地がありました。
飲食店とヤマダ電機の建物の間が恋文横丁の入口だった場所で、「恋文横丁 此処にあり き」と書かれた木柱が設置されています。
戦後、代々木にワシントンハイツ(在日米軍施設)ができた時、渋谷の街でアメリカ兵と日本人女性が恋仲になることも少なくありませんでした。しかし、そこには、言葉の壁があり、ラブレターを書こうにも、当時の多くの日本人女性は英文が書けませんでした。そこでこの横丁にあった小さな商店主の菅谷さんという男性が代筆していました。この手紙がもとになり、多くの女性が国籍を超えて結ばれました。史実がもとになって物語ができたのは、1953年。丹波文雄が小説「恋文」を新聞に連載したことが最初でした。のちに、田中絹代監督によって映画化されたことで、話は全国に広まりました。*1
【参考文献】
*1 村松伸,東京大学生産技術研究所村松研究室:シブヤ遺産(バジリコ,2010)P.156-P.157
検番(渋谷三業会館)があった円山町の坂道から神泉駅へ向か下り坂が分岐しています。
円山町の背後は急な坂道になっていて渋谷の深い谷底に続いています。かつて、そこに「新泉」という泉が湧いていました。この谷の全域がかつての火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が多数住み着いていました。彼らは泉の湯をわかして「弘法湯」という癒しの湯を提供していました。*1
「弘法湯」は、江戸時代の文献にも出てくる古い共同浴場で、明治18年に佐藤豊蔵という人が経営権を譲りうけ、本格的なお風呂屋として機能し始めました。佐藤家は、のちに弘法湯の近隣地に神泉館という料理旅館を開業しました。料亭ができることによって芸妓屋が開業し、それから円山の花街が広く世間に知られるようになりました。神泉館は空襲で消失し、廃業。その後は銭湯としての「弘法湯」の営業となりました。*2
火災保険地図*3 によると、この駐車場の奥のあたりに銭湯の建物がありました。
道路沿いに、「弘法大師 右 神泉湯道」と書かれた道標のような石碑が残っています。
「明治19年」と刻まれています。
【参考文献】
*1 中沢新一:アースダイバー(講談社,2005)P.64-P.65
*2 倉石忠彦:渋谷をくらす(雄山閣,2010)P.214-P.216
*3 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)
文化村通りから道玄坂に抜ける「道玄坂小路」には飲食店や風俗店が密集しています。
老舗の台湾料理店「麗郷」。ここから登る坂道の途中にもヘルス店がありあす。
「麗郷」脇の坂道を登ると老舗のヘルス店の入口があります。
坂の上から見たところ、写真の左手前がヘルス店の入口です。
高砂町の中心部に、入口に「高砂センター街」と書かれた看板のあるアーケードがあります。
アーチ部分は、明るい黄色で覆われていて、生鮮食料品店などが営業している活気のある商店街です。
店の上部にはレトロな看板が残されていて、歴史を感じさせます。
反対側のアーケードの入口。「次郎助町センター」と書かれています。
高砂駅の駅ビルの裏側の旧国鉄高砂線の跡地が緩やかなカーブを描いて続いています。現在は、駐輪場になっています。
表側から見ると2階建てに見えた建物は3階建ての奥行の狭い建物です。
絵に描いたようなトタンの芸術。
錆びついた階段が、いい味を出しています。
今回は、高砂(兵庫県高砂市)の町並みと風俗を散歩します。
結婚式やめでたいとき謡われる、「たかさごやこの浦舟に帆を上げて・・」ではじまる謡曲「高砂」の発祥の地である高砂市では、昭和63年7月にブライダル都市宣言を行いました。*1
駅ビルは曲線を描いています。このビルの後方(現在は駐輪場)には、かつて国鉄高砂線の線路が曲線を描いて通っていました。
ブライダル都市らしく、駅前の古いビルには、高砂良縁センターの看板があります。
ビルの脇に橋のように見える遺構があります。水路がビルの下を流れていたのか、それとも、ここに何かの洗い場があって、それと道路を隔てるためのものでしょうか。
【参考文献】
*1 高砂市:ホームページ「ブライダル都市」
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
京急蒲田駅前の歓楽街「柳通り」。
京急蒲田駅前の一画は再開発計画が進んでいます。
道の両側にスナックが建ち並んでいますが、現在は閉店している店舗が多いようです。
「御自由にどうぞ」と書かれた貼り紙(写真左下)とともに、LPレコードが路上に並べられていました。
ハモニカ横丁は、右から「仲見世通り商店街」「中央通り商店街」「朝日通り商店街」と続き、最後に通りのサインのない「祥和会」と続きます。ただし、この「祥和会」の一部は、かつては小さな飲み屋が連なっていた横丁だったことから、「のれん小路」と称して、今のそのサインは残されたままです。*1
「のれん小路」の飲み屋連店は、新宿東口の和田組マーケットの建て方を参考にしているように見受けられます。間口一間、奥行1.5間の簡易なバラックは、L字型のカウンターの中におかみさんやご主人が一人入り、客は4~5人程度が座るサイズでした。*1
飲み屋が連なっていた頃の雰囲気が残っています。
「のれん小路」 と中央の通りが交差するあたり。
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.35-P.36
吉祥寺駅前のハモニカ横丁は、終戦直後の闇市の姿がそのまま残っている横丁です。
漬物屋の清水屋がある通り。
鮮魚店もあります。
ハモニカ横丁の周囲を高いビルが取り囲んでいます。
吉祥寺の近鉄百貨店(現在のヨドバシカメラ)裏には、1960年代の再開発以前の時期から社交飲食店が集積していました。その姿は、「本町ビル飲食店街」という飲み屋横丁にみることができます。、「本町ビル飲食店街」の看板の下には、ビルの1階部分に通路をとった横丁が続いています。*1
奥行のある飲み屋横丁。
横丁の向こう側には、小路をはさんでさらに次のビルも同じように横丁が続いています。
向こう側のビルから本町ビル飲食店街を見たところ。
建物と建物を貫通してできた20世紀初頭のパリのパサージュ(路地)と仕組みは同じです。*1
【参考文献】
*1 桑原才介:吉祥寺横丁の逆襲(言視舎,2011)P.82-P.94
今回は、忠海(広島県竹原市)の町並みと風俗を散歩します。
忠海は、竹原市の東に位置し、瀬戸内海を結ぶ重要な港として発展しました。忠海駅前には、江戸時代の面影を残す商家が残っています。
明治17年示達の貸座敷営業許可地に、忠海村向町(現在の竹原市忠海中町2-4)が指定されましたが、街中であったため、川下地区へ移転となりました。
旅館の建物。
スナックが1軒あります。
今回は、呉(広島県呉市)の町並みと風俗を散歩します。
呉市は、明治後期を通じて軍港を有する都市としての性格を強めつつ都市化が進みました。「麗女通」と名付けられた通りは、「夜の歓楽郷」と呼ばれた「中通」のなかでも「カフェー喫茶店街」を形づくっていた通りで、作家の菊池寛が遊んだことでも知られています。*1
「麗女通」は「うるめどおり」と読みます。
軍港内にあった麗女(うるめ)島にちなんで名付けられました。1
麗女(うるめ)島は、神話に登場する市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、紫式部(源氏物語の著者)、弁天様(七福神の一つで海辺や水辺にまつられる美しい女神)などのうるわしい女性がかかわり持った島で、このことが、「うるめ島」の地名の由来であるとされています。2
現在は、海上保安大学校の沖合に、大麗女島と小麗女島があります。
現在の麗女通は風俗店や飲食店が密集する歓楽街の中心地になっています。
麗女通はれんが通りと交差し、東側へ続いています。
【参考文献】
*1 加藤政洋:(朝日新聞社,2005)P.36-P.42
*2 久保田利數:川原石ものがたり(呉尚古の会,1972)P.1-P.10
岩国のローカル新聞である「興風時報」の記事によると、岩国では登富町界隈に遊廓があって、大正末までに8軒ほどの貸座敷がありました。日中戦争が始まる頃になると、帝人や東洋紡などの大工場の操業もあって、岩国の町は景気が良く、遊廓は賑わっていました。*1
登富町商店街の奥まったあたりには、古い町並みが残されています。
氷屋さんのあるあたり。
旧町名「新地」の看板があります。
【参考文献】
*1 藤目ゆき:女性史からみた岩国米軍基地(ひろしま女性学研究所,2010)P.22
岩国の錦帯橋の近くの岩国二丁目に、登富町商店街と呼ばれるレトロな商店街があります。
商店が建ち並んでいた頃の案内板。
現在は、静かな商店街です。
反対側のアーチ。岩国市小売市場と呼ばれていたようです。
岩国の下川地区は、基地の影響を大きく受けた地域で、看板がアルファベットで書かれた商店が米軍基地の正門まで続いています。
基地正門前の通り。
洋服屋は特に、アルファベットで書かれた商店が目立ちます。
パブ・スナックが建ち並ぶ一画。
【参考文献】
*1 宮田伊津美:岩国・柳井今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.23
駅前横丁の西側に続く通りは、岩国の歓楽街の中心です。
外国人パブなどを中心に、スナックや飲食店が建ち並びます。
中国美人の店。入口の上部には自動車のオブジェ。
アルファベットで書かれた看板で飾られたスナック店。
岩国駅前に、「10番町」と呼ばれていたバー街がありました。
かつてのバー街は、現在は長屋風の住宅地に変貌しています。
わずかにバー街の痕跡が残っています。
一つ奥の通り。スナックの看板が一つだけ残っていました。
【参考文献】
*1 J.F.モンゴメリ:夜のニッポン探検(東都書房,1967)P.208-P.213
糸崎港に面した遊廓跡の裏手には、古い町並みが残っています。
海辺近くの町並み。
壊れた母屋がそのままの状態で放置されていました。
医院だった建物。糸崎遊廓の検梅は、尾道遊廓の駆梅院からの出張検梅でした。*1
【参考文献】
*1 忍甲一 編:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296-P.298,P.322-P.324
野里の商店街の南端に位置する「野里銀座商店街」。
看板には、「いつも楽しいお買い物センター」と書かれてして、楽しそうな雰囲気です。
この日は土曜日だったためか、シャッター通りと化しています。
魚屋さんが1軒だけ営業中です。
明石駅前の桜町には、高度成長期に、旅館、スタンド、スナック、バー、そしてキャバレーなどが集まって一大「社交街」を形成しました。*1
現在は、居酒屋やスナック店などが営業しています。
「花街ビル」という名前のビルもあります。
「銀座横丁」、「さくら小路」、「白雲通り」などの通りや小路が連なっています。
【参考文献】
*1 現代風俗研究会:20世紀の遺跡(河出書房新社,2002)P.34-P.38111
津山遊廓があった通り(写真奥は津山城址)。
通りに面して木造のスナックの建物があります。
現在は、営業していないようです。
スタンド「ひとみ」の看板。清酒「加茂五葉」は津山の地酒です。
今回は、湯原温泉(岡山県真庭市)の町並みと風俗を散歩します。
湯原温泉は、JR姫新線、中国勝山駅からバスで1時間、中国山脈の山ふところ、旭川の上流にある温泉郷です。
温泉郷の北西側は旅館街で、昔ながらの射的もあります。
湯原温泉の宿泊者数は、昭和40年代にピークを迎え、狭い温泉街の中に飲食店やスナックなどが20軒程、ストリップ小屋が12軒と言った様相でした。芸者の置屋や検番も多く、芸者数は120名を越えたこともあり、夕刻ともなると旅館のお座敷に向かう芸者衆の艶姿が温泉街の風情を盛り上げました。*1
案内板には、ストリップ劇場だった湯原観光劇場が記載されています。
北東側の町並み。
【参考URL】
*1 プチホテルゆばらリゾートホームページ「湯原温泉の近代史」
湯郷温泉の表通りは、レジャー施設中心の家族的雰囲気ですが、温泉街の中心部には、居酒屋やスナックが点在し、大人の雰囲気です。
和風の建物のスナック。昔の温泉街の面影を残しています。
夜の動物園。
ナイトシアターもあります。
今回は、湯郷(ゆのごう)温泉(岡山県真庭市)の町並みと風俗を散歩します。
湯郷温泉は、湯原温泉、奥津温泉とともに美作三湯と呼ばれています。JR姫新線の林野駅から吉野川沿いに進むと、湯郷温泉の入口です。
湯郷温泉は、古くは湯治客温泉として栄え、共同浴場の庶民的ムードでしたが、中国自動車道の開通により拡大戦略をとったために、一時期は遊興色が強くなりましたが、現在は、「家族で楽しめる温泉街」を通しての街づくりを推進しています。
温泉街には、ボーリング場、パチンコ店などのレジャー施設が点在しています。
温泉街の中心部。レトロな雰囲気も残っています。
桑名駅前の錦通り。スナックや風俗店が集まる繁華街です。
3階建ての共同ビルが両側に並んでいます。1階に居酒屋やスナックが入居し、2~3階は事務所か居住スペースになっているようです。
密集するスナックの看板。
稲荷神社もあります。
当番表。
大門商店街の2階と3階は居住スペースになっています。
2階から3階への階段。
3階からさらにその上にも階段が続いています。
屋上の上にも小さなな部屋が作られています。
大門商店街は、中央の商店街のアーケードとその両側(南北)の飲食店街で構成されています。
北通りの飲食店街は、東西に入口があります。
北通りの飲食店街。
居酒屋やスナックが密集しています。
南通りの飲食店街。2階の居住スペースへつながる階段があります。
今回は、津(三重県津市)の町並みと風俗を散歩します。
江戸時代から第二次世界大戦末期の昭和20年7月の津大空襲により、旧市街地全てが焼き尽くされるまで津観音を中心とした一帯は津の商業の拠点として栄え呉服屋をはじめ、一流の店が軒を連ねていました。戦後、大門商店街は復興し、昭和30年頃には、賑わいを見せていました。*1
大門商店街のアーケードの北側に、商業ビルが隣接しています。
このビルは、1階が飲食店、2~3階が居住スペースとなっている長屋型の商店街協同建築で、昭和31年に、津市大門商店街商業協同組合によって建てられました。
建物の奥行は、東西約70mぐらいの大規模なものです。1階部分は、スナックや居酒屋が集中する飲食店街になっています。
【参考URL】
*1 三重ふるさと新聞 大門商店街
かつて待合などがあったあたりは、現在は住宅地になっていますが、ところどころにスナックの建物があって、花街の風情がわずかに感じられます。
寿司屋とカラオケスナック。昭和の雰囲気が残っています。
商店街にある「喫茶&スナック」。
演歌歌手のポスターが所狭しと貼られています。
今回は、新橋(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
JR新橋駅の西口には、ニュー新橋ビルという巨大な雑居ビルが存在します。ここには、かつて1960年代まで、闇市に起源を持つ東京でも最大規模のバラック飲み屋街が存在しましたが、1961年から71年にかけて市街地改造法に基づく再開発が行われ、ニュー新橋ビルが誕生しました。*1
ビル内には、間口の狭い飲食店やチケットショップが立ち並んでいます。
2階の商店街には、マッサージ店やアダルトビデオショップ、ファッションヘルスなどが建ち並びます。
ニュー新橋ビルができる前にあったバラック飲み屋街は、一般飲食店159軒の他、風俗店(バー、キャバレー、スナックなど)が66軒と飲食・娯楽関係の業態が大半を占めていました。*1
現在も当時のバラック飲み屋街の業態を継承していると言えそうです。
2階には、マッサージ店が乱立しています。店員のほとんどはアジア系です。
【参考文献】
*1 初田香成:都市の戦後(東京大学出版会,2011)P.361-P.383
鴻之舞金山があった山あいの道路沿いに、「鴻之舞金山資料館」があります。資料館の建物は、廃屋同然だった上藻別駅逓(かみもべつえきてい)の建物を復活させたもので、2009年に国の登録有形文化財に指定されました。駅逓とは、開拓時代の北海道の特有の官設の宿泊施設で、郵便物の輸送の役割も持っていました。*1*2
館内には、当時の鴻之舞金山の様子がジオラマで再現されています。
芸者「金八」の展示。
鴻之舞からの交通路を遠軽路線か丸瀬布路線かのどちらを選ぶか問題になったとき、現地に派遣された調査官をあらゆる努力をはらってもてなしたのが「金八姐さん」でした。そして、道路誘致は丸瀬布に決まり、開通した道路の峠に金八峠とその名をつけることになりました。*2
住友鴻之舞鉱業所では鉱山街地域には風俗営業の出店を認めなかったため、鉱山街に隣接した民間の昭和区に11軒の遊廓をはじめ、第一館と呼ばれる劇場、遊技場、飲食店などが建ち、鉱山労働者にはなくてはならない存在になっていました。華やかになった昭和区は百戸を超えました。*2
泉町までが、鉱山街で、昭和区は、手前から1号、2号、3号…と名付けられ、繁華街は1号にありました。
【参考文献】
*1 黒沼秀一:鴻之舞北深く(黒沼秀一事務所,2012)P.32
*2 黒沼秀一:望郷の鴻之舞(黒沼秀一事務所,2012)P172,P.198,P.214
紋別市街から丸瀬布(まるせっぷ)方面に向かって約30kmほど内陸部に入ったところに、かつて東洋一を誇った金山「鴻之舞金山」」がありました。全盛期は、戦前・戦中で、細長く伸びる山あいに沿って住宅、商店が軒を連ね、テニスコートやプール、劇場までありました。*1
旧鉱山町の中心部にあった製錬所に、高さ約50m大煙突の遺構が残っています。この煙突は、「望郷の煙突(徴用された労働者から通称)」と呼ばれ、遺跡のシンボルとなっています。*2
煙突の周囲に残る建物の遺構。
火力発電所などの複合施設でした。*2
【参考文献】
*1 北海道新聞(1995.1.8)P.3 「写された記録14 鴻之舞金山」
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.82
紋別市街にある廉売(れんばい)飲食街。
建物の中は、まるで映画のセットのような飲食街です。
屋根つきの飲食街。寒い日でも暖かそうです。
建物はL字型になっていて、もう一つの入口も道路に面しています。
紋別の歓楽街「はまなす通り2番街」の北側には、1番街があります。
1番街にある「ニュースナック桂子(けいこ)」の路地。スナックが密集しています。
夜の様子(1番街)。
「ニュースナック桂子(けいこ)」の路地。オホーツクの寒さが染み渡ります。
今回は、紋別(北海道紋別市)の町並みと風俗を散歩します。
紋別には、歓楽街の「はまなす通り」があります。北側に、「はまなす通り一番街」のゲートがあります。
一番街の南側に続く二番街は、飲食店が密集した賑やかな通りです。
看板の密集度が高い一画があります。
楽天地ビル。
網走市南五条西に、楽天地と呼ばれる飲食ビルがあります。
横丁の奥には、「楽天地組合」と書かれた看板があります。
夜の様子。
スナック、居酒屋がびっしり。
夜になると、網走の歓楽街は、賑わいを見せます。
ネオン看板が煌々と輝きます。
魅惑的な店構え。
レトロなスナック店もあります。
築港寄せ場は、1950年代初頭に形成されはじめました。寄せ場とは、路上労働市場(タチンボ)とそれを取り囲む日雇い労働者相手の簡易宿や食堂などからなる空間のことです。*1
このあたりに、築港寄せ場がありました。*1
現在は、それらしい施設は見あたりません。
信号より手前で港湾労働者の手配が、信号より奥で土木・建設労働者の手配がそれぞれ行われていました。*1
「タチンボ」付近。*1
現在は、コンビニの駐車場になっています。
*1 島村恭則:〈生きる方法〉の民俗誌(関西学院大学出版会,2010)P.227-P.239
今回は、大川(福岡県大川市)の町並みと風俗を散歩します。
大川の象徴とも言えるのが、筑後川昇開橋(ちくごがわしょうかいきょう)です。
国鉄佐賀線の鉄道用可動式橋梁として昭和10年に建設されました。現在は、重要文化財および機械遺産に指定されています。
夜になるとライトアップされます。
温泉大通りから東へ一本入った元湯通り。
現在は商店街となっていますが、映画の看板が商店のいたるところに貼られています。
三船敏郎、石原裕次郎、マリリン・モンロー主演の映画看板。
美容室に飾られたローマの休日の看板。
国道325号線沿いにある和風スナック。
建物の角にタイルで装飾された2本の円柱があります。
鮮やかな緑色と黒のタイルです。
建物の裏側の路地。
今回は、山鹿(熊本県山鹿市)の町並みと風俗を散歩します。
山鹿温泉は、九州指折りの温泉地で、江戸時代から続く芝居小屋の八千代座や山鹿温泉の元湯である「さくら湯」(現在建て替え中。11月23日に開湯予定)などの観光名勝もあります。
近代的なホテルの周辺には、歓楽街もあります。
国道325線沿いにあるスナック街には、艶っぽい雰囲気が漂います。
「艶」という名前の居酒屋。
風情のある飲み屋小路。
鳥取市弥生町は、居酒屋やスナックが集中する歓楽街です。
入り組んだ感じはありませんが、飲み屋の集積度が高い歓楽街です。
長屋風の建物にスナックの店舗が並んでいます。
四つ角のスナック。
遊廓「衆楽園」跡地には、旅館の他、スナックなどの飲食店も建ち並んでいます。
横丁が建物を貫いています。
入口の「松屋横丁」の看板。
横丁を抜けると商店街に出ます。
松江の繁華街は、新大橋の北側の東本町にもあります。
居酒屋やスナックの店舗が密集しています。
キャバクラなどの風俗店もあります。
夜の東本町。
伊勢宮町の歓楽街のメインの通り。
クラブなどの風俗店が密集しています。
キャバクラなどの看板が華やかです。
階段を登ったところにある看板。
今回は、玉造温泉(島根県松江市)の町並みと風俗を散歩します。
玉造温泉は、古くから知られた温泉街です。
勾玉橋のかかる玉湯川の両側に旅館などが立ち並びます。情緒のある風景です。
田山花袋の「温泉めぐり」*1 には、「松江の人達たちがよく妓を伴(つ)れて行つたりするやうなところで...」と紹介されていますが、現在は歓楽街的要素はありません。
居酒屋やカフェなどが温泉街の中に散在しています。
【参考文献】
*1 田山花袋:復刻版 温泉めぐり(博文館新社,1991)P.451
出雲駅の駅北側の今市町は、大規模な歓楽街です。
モダンなデザインの建物。
小路の奥まったとこにあるカラフルな建物。
逆方向(東側)から。道幅の狭い小路の両側に店舗が建ち並んでいます。
温泉街の裏手には、山がせまっています。山には何ヶ所かの登り道があって、温泉街を望むのに格好の場所です。瓦屋根の茶色が美しい景観をつくっています。瓦屋根の茶色は、ひと色ではなく、赤っぽいものや色の薄いものなどが混在しています。
温泉街から、北側に延びる谷あい。「金剛院の裏手の尾根道は、温泉津の中でも最高の眺め。」と地元の方が教えてくれました。
坂を登りきると、苔むした尾根道が続いています。尾根の左右は急峻な崖になっています。
尾根道の終点にある愛宕神社付近から見た温泉津港方面。石見らしい風景です。
大牟田市栄町の北側に三池炭鉱専用鉄道のガードが残っています。
三池炭鉱専用鉄道と鹿児島本線が交差するあたり。
「ガード」という屋号の小料理屋があります。
商店や飲食店が建ち並んでいたと思われる一画。写真奥に見える線路は鹿児島本線です。
大牟田市栄町に「浅草街」と書かれた古びたアーチがあります。
スナックなどの飲食店が軒を連ねています。
かつては、繁華街として栄えていたのでしょうか。
入口付近を反対側から見たところ。写真右下に入口のアーチが見えます。
「新銀座」は、大牟田川沿いにそって約300m続く商店街です。
衣料品や雑貨店などが営業中です。
屋根のトラス部分を見上げると、レトロな看板が目に入ります。
外側から見た「新銀座」の建物。
日吉町に残る「浮世小路」。
日吉町は、かつての花街の中心地でした。*1
現在は、休業中の店舗が多くなっているようです。
空き地越しに見た飲み屋街の建物。
小路は、L字型になっていて、すぐに出口に出ます。
【参考文献】
*1 都市計畫福岡地方委員會:大久留米市街地圖(都市計畫福岡地方委員會,1937)裏面
六ツ門町の「新世界」。昭和の時代にタイムスリップしたかのような光景です。
居酒屋などの飲食店に混じって、スナック店も営業しています。
路地の奥まった所に進むにつれ、スナック店が多くなります。
餃子店の隣のスナック店。
今回は、久留米(福岡県久留米市)の町並みと風俗を散歩します。
久留米市街の六ツ門町に「新世界」と呼ばれる路地裏があります。
国道209号線に面した飲食店街が「新世界」です。奥には、高層マンションが建ち、この界隈も開発の波が押し寄せているようです。
一歩足を踏み入れると、そこは、昭和のまま時間がとまったかのような路地裏が残っています。
一番北側の通り。
若松区浜町には、ゑびす市場、丸仁市場、大黒市場、共栄市場など、いくつかの市場が集まる一画があります。その中の一つ「ゑびす市場」。
市場の建物は大きく、奥行もあります。
新鮮な野菜や魚介類が並びます。
歴史を感じるトタンの建物(市場の建物を横から見たところです)。
今回は、若松(福岡県北九州市)の町並みと風俗を散歩します。
洞海湾によって隔てられた若松区と戸畑区を結ぶ若戸大橋が出来る以前は、若戸渡船(わかととせん)航路(渡し船)である。 若松渡場が両者を結ぶ航路(渡し船)でした。
渡し船に乗り込みます。
戸畑から若松までは、あっという間(約3分)に到着です。
若松側から見た若戸大橋と洞海湾。貨物船が行き来します。