旧遊廓街の下諏訪町御田町の通り。

大衆浴場の「新湯」があります。

昔ながらの公衆浴場の雰囲気です。

入浴前には、排便をすませて、かけ湯をすませて入りましょう。

旧遊廓街の下諏訪町御田町の通り。
大衆浴場の「新湯」があります。
昔ながらの公衆浴場の雰囲気です。
入浴前には、排便をすませて、かけ湯をすませて入りましょう。
中山道を北上し、大岩不動の前過ぎて少し行った右側の斜面に眞清神社があります。現在は詣でる人も少なくなり忘れられた存在ですが、明治から昭和にかけ社前はには人の絶え間がなく、その大半は花街の姐さんたちでした。拝殿に向かい合って、あずまや風の舞殿がありますが、当時は竜や大黒さまや花魁などの華やかな飾り物に包まれ、艶めかしい歌弦のひびきや酒盛りなどが行われました。*1
拝殿の脇に、夫婦岩があります。
案内板によりと、下諏訪遊廓の真寿美楼の中庭あったものが、こちらに移されたそうです。
寄進者には、女性の名前がずらりと並んでいます。
【参考文献】
*1 両角俊一,増沢光男:下諏訪歴史散歩(下諏訪歴史散歩刊行会,1984)P.110
芸妓置屋指定地の区域内にある豊川稲荷社。「大正期の湯田町の復元図」*1 によると、豊川稲荷の両隣は、置屋の「八重木」、「末広料理」、さらにその隣に、置屋の「新喜久の家」が並び、通りの南側には、置屋の「金枡」「大寿」と置屋が密集していました。
玉垣には、「下諏訪料芸組合」と刻まれています。
狛犬の台座には、「下諏訪芸妓置屋」と刻まれており、置屋の名前が連なっています。
「常盤家」「住吉」「八重本」は、「大正期の湯田町の復元図」*1 に名がある置屋です。
【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.131
製糸華やかなりし大正期、湯田町は、芸妓屋指定地でした。*1
現在も旅館などの建物が建ち並んできます。
古久屋旅館、鉄鉱泉旅館は、当時から続く老舗旅館です。
置屋があったあたり。*1
【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.131
旧下諏訪遊廓内にある塚田神社。
遊廓が寄進したと思われる燈籠が2基あります。
「献燈 恵比寿」と書かれています。「下諏訪町明細図」*1 に記載されている遊廓の「エビス」が献燈したものでしょうか。
風化していますが、「大増樓」と書かれているように見えます。
【参考文献】
*1 下諏訪町明細図(玉港堂,1913)
明治13年、湯田仲町の西はずれの小字塚田地籍に下諏訪遊廓が建てられました。*1
大正2年の「下諏訪町明細図」*2 によると、下諏訪遊廓は、現在の御田町交差点の北西側の一画にあって、遊廓への入口は東側にありました。
入口に近い方から、南側に、ダイマス、ツカダ、コトブキ、北側に、シンツカダ、エビス、マスミがありました。*2
ダイマスがあったと思われる場所に、旅館「大増」があります。
現在は、旅館や飲食店が建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 小林茂樹:写真が語る下諏訪の百年(ヤマダ画廊,1979)P.41
*2 下諏訪町明細図(玉港堂,1913)
今回は、下諏訪(長野県諏訪郡)の町並みと風俗を散歩します。
西に塩尻峠、北に和田峠という難所をひかえ、さらに甲州街道も合流していた下諏訪宿は、中山道いちばんの宿場町でした。下諏訪町歴史民俗資料館(現:宿場街道資料館)は、下諏訪宿に関する展示が行われています。
2階の飯売女(めしもりおんな)に関する展示。
「飯賣り下女奉公人請け状の事」
1階に展示されている明治41年発行の「下諏訪町明細全図」には、下諏訪遊廓が描かれています。遊廓は、市街地から離れた場所にあり、周囲は田畑や製糸工場があるのみでした。
塩尻市街の大門一番町。広い通りに面して銭湯の看板があります。
普通の和風の民家の建物と間違えてしまいそうな佇まい。
側面から見ると銭湯らしい建物です。
裏側から見ると、工場の建物のようにも見えます。
塩尻市大門四番町にある映画館の東座。
映画館は、1号館と2号館に分かれています。
2号館は、成人向け映画館です。
2号館の入口の手前は、看板でふさがれていて、入口が見えないようになっています。
今回は、塩尻(長野県塩尻市)の町並みと風俗を散歩します。
中山道の要衝だったころの塩尻には、公許された遊女・飯盛女が230人もいて繁華し、旅人の旅情をなぐさめたと伝えられています。明治になって廃止となり、残った遊廓は一時松本の横田遊廓へ進出しましたが、その後許可されて塩尻の阿礼神社の隣接地八重垣町の六戸で開業しました。*1
大正15年の塩尻村の市街図*2 には、阿礼神社近くの中山道を北に入ったところに、遊廓の場所が記されています。
塩尻遊廓があったと思われるあたり。右側に大和楼、三喜楼、信陽楼、左側に弥生楼、壽楼、潮尾楼、三盛楼がありました。*2
現在は、平凡な住宅街になっています。
写真奥の森は、阿礼神社です。
【参考文献】
*1 郷土出版:思い出のアルバム塩尻(郷土出版,1980)P.40
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)「塩尻村」
長野駅前の繁華街にあるスパゲッティの店。
店の窓は、店主の趣味でしょうか、置き物のコーナーになっています。
木製の男根。
外国製の置き物でしょうか。
長野市諏訪町にある「亀の湯」。入口には1対の狛犬が置かれています。
白壁の木造建築の銭湯です。
古風な洋館を思わせる建物です。
脱衣場の男女の境界には、欄間の意匠が見られます。
権堂町の繁華街の路地。ホテルの裏口を示す看板があります。
表通りへ回っていると、青色のタイルに彩られたホテルが現れます。
現在は休業中のようです。
「サンゴ礁」の看板。
田面稲荷神社の近くにある大人のオモチャ店。
ビデオ・ビニ本。関西、東京より大量入荷。
開店は、午後5時30分です。
屋根上の看板。
善光寺の近く、鶴賀田町に田面稲荷神社があります。
往時隆盛であった権堂遊廓の芸妓衆の信仰心に支えられ、 心願が叶う(願いが叶う)と鐘鋳(かねい)の叶うと同音であることから、「願が通ずる」と信じられ、 信仰を集めてきました。(案内板より)。
境内の奥まったところにある常夜燈。
「長野遊廓貸座敷中」。権堂遊廓の関係者が寄進したもののようです。
玉垣には、「長野料芸組合」「長野芸妓下宿組合」の名があります。
今回は、長野(長野県長野市)の町並みと風俗を散歩します。善光寺本堂の左側を進んだ突当りの位置に、吉原の遊女「高尾太夫」の供養塔があります。
高尾太夫とは、江戸時代、新吉原京町一丁目※1 の遊廓「三浦屋」の名妓につけられた名で、11人ほどが名乗ったことが判明しています。*1
銘文は、「浄誉林清善女 光誉道恵覚位 願主 三浦屋四朗左衛門 武州江戸浅草」。善女(ぜんにょ)とは、遊女だけに付けられた法名で、境内で善女という銘文は、この燈籠だけです。*2
灯籠は、江戸吉原の三浦屋が奉納したものです。*2
上田駅前の大通りを約2km北へ行った矢出澤川と交差するあたり。左折して川沿いの道へ入ります。
銭湯の「柳の湯」。
立派な屋号のプレートがはめ込まれています。
油田型の煙突。
上田市中央2丁目。上田の繁華街です。ここに「花やしき通り」と書かれたゲートがあります。ストリップ劇場併設の映画館でしょうか。
「あさくさ雷門ホール」。まるで、昭和の頃の浅草にタイムスリップしたようです。
建物の入口には「上田映劇」と書かれています。
実は、2014年の映画「青天の霹靂」の上田ロケの際、上田映劇通りに作られたオープンセットが現在もそのまま残されているものでした。
駅前の商店街の「マルブン堂文具店」に、上田城の櫓の買戻しに貢献した飯島新三郎の案内板があります。
飯島新三郎は、「みすゞ飴」の創業者で、上田城保存会の副会長でもあり、当時遊郭に転売されていた上田城の南櫓と北櫓を買い戻して元の位置に戻す運動(上田城址保存会)の中心人物でした。*1*2
上田城北櫓の再建の様子。
現在の「みすゞ飴本舗」
【参考文献】
*1 上田市立博物館:郷土の歴史 上田城(上田市立博物館,1988)P.80
【参考URL】
*2 飯島商店:ホームページ 会社概要
上田城本丸の南櫓と北櫓は、長野県内では数少ない江戸時代初期の城郭建築の貴重な遺構として、昭和34年に長野県宝に指定されましたが、明治維新後から今日に至るまでの変遷は、波乱に富んだものでした。
廃藩後、明治新政府は上田城を接収、土地や建物を民間に払い下げとした結果、建物のうち、2基の櫓(やぐら)は、上田遊廓の金州楼と万富楼の建物として移築されました。上田遊廓に売られた2棟の櫓は、昭和4・5年頃まで妓楼としての営業を続けた後、廃業しました。現在、本丸入口の左右に並んで立っている2基の櫓(南・北櫓)は昭和戦中から戦後にかけて、遊廓から上田城へ再移築したものです。*1
櫓の内部は見学できるようになっています。
南櫓の梁の下側には、遊廓の建物であったときの痕跡が残っています。
遊廓時代の鴨居あるいは敷居の溝の痕跡。
【参考文献】
*1 上田市立博物館:郷土の歴史 上田城(上田市立博物館,1988)P.77-P.82
今回は、上田(長野県上田市)の町並みと風俗を散歩します。
明治時代、上田地方の蚕糸業、製糸業、養蚕業の発展は、上田町に活気をもたらし、これら産業界の発展の中で、花柳界が盛況となり、上田町の芸妓は、明治30年頃には、100名を越し、丸堀、連歌町、下道などに芸妓置屋が広まっていました。明治11年、政府の政策もあって上田遊廓が上田町の郊外の常磐城地籍(新地)につくられました。遊廓は、ほぼ正方形の区画をしていて、遊廓内は、大通りと小路からなり、芸妓・娼妓がいる貸座敷楼を中心に、料理屋、菓子屋、人力車屋が周りにありました。*1
明治35年の「上田遊廓地図」*1 に記載されている「琴平神社」が現存します。
「琴平神社」前の大通り。「上田遊廓地図」によると、道の左側には、雑貨商の滝川、奥村、寺島、貸座敷の第二喜多川楼、新中村楼、右側には、料理屋の新月亭、貸座敷の葛城楼、大中村楼がありました。*1
「新地」と書かれた電柱番号札。
【参考文献】
*1 尾崎行也,佐々木清司:上田歴史地図(郷土出版社,1983)P.58-P.59,P.64-P.65,P.93
JR長野新幹線佐久平駅に併設された「プラザ佐久」。ここに、ウルトラマンの等身大の像が設置されています。
ウルトラマンジャック(帰ってきたウルトラマン)と思われる等身大の像。
右足のひざの部分には、何かの取り出し口のような穴があいています。
左足には、コインを入れる箱。ヒーローの等身大ガチャポン でしょうか。
岩村田駅近くの平屋建ての建物。
「好楽センター」と名付けられたスナック街です。
L字型の通路の両側に、スナックが並んでいます。
反対側の入口。
鼻顔神社近くの稲荷橋へ向かう途中にある銭湯の建物。
現在は休業中のようです。
油田型の煙突。
正面入口の中央部分には、券売機が設置されています。町営の銭湯だったのでしょうか。
岩村田の中心街の旧柳街あたり。昔の建物が残っている場所です。
叶牛乳の木製牛乳箱がありました。
木製の板壁に、木製の牛乳箱。
別の牛乳箱。こちらの箱の側面には、ホモ牛乳と書かれています。
岩村田市街の北側にスナックが連なる一画がありあります。
和風の民家。
店の入口は、水色を基調としたデザインです。
ハイボール、レモンジース、ビール、おにぎり。
岩村田の中心街に、レトロな横丁があります。
その名も「ゴールデン街」。
昼間は閑散としています。
横丁の奥まったあたり。
養蚕・製糸業が隆盛期をむかえた大正時代から昭和初期にかけて、岩村田は商業と養蚕の神、鼻顔稲荷神社を中心として繁栄しました。稲荷橋の南西側には遊廓があり、夜ともなれば遊廓の赤い灯が夜空にくっきりと浮かびました。*1*2
遊廓の入口には、大門がありました。*3
遊廓は、明治22年に建築が始まり、大門は、明治41年に作られました。遊廓は、昭和12年に取り壊されるまで続きました。*3
大門建設にあたり、寄進した企業名でしょうか。
道路から見た大門。
【参考文献】
*1 楜沢 竜吉:思い出のアルバム佐久(郷土出版,1979)
*2 福井一喜:地域研究年報37(2015)「長野県佐久市岩村田地区における商業空間の変容」P.239
*3 金澤正昭:歴史に学ぶ岩村田の昔 岩村田小学校開校130周年記念(金澤正昭,2002)位置略図,P.36
今回は、佐久(長野県佐久市)の町並みと風俗を散歩します。
JR小海線の岩村田駅前の案内板「岩村田宿のみち案内」。
鼻顔稲荷神社近くに、「遊廓大門の跡」があることが示されています。
書かれているマークよると、「遊廓大門の跡」は、史跡・名所に分類されています。
かつての京町飲食街への入口。
以前の飲食街は、駐車場に変わっていました。
当時の面影を残す「新京町料飲協同組合」の貼り紙。
唯一、スナック「都」の周辺に、当時の面影が残っていました。
旦過飲食街は、2階建ての建物が向き合った狭い路地です。
入口を逆側から見たところ。
反対側の出口。
映画館の「昭和館」と旦過飲食街は、密接な関係があるようです。
今回は、小倉(北九州市小倉北区)の町並みと風俗を散歩します。
小倉北区の旦過市場付近にある映画館の昭和館があります。「昭和館1」「昭和館2」の2館からなっています。
昭和館の近くに、旦過市場入口があります。塀に、見取り図が描かれています。稲荷神社脇の入口から入ると飲食店街があって、その向こう側が、旦過市場です。
新旦過街の入口の稲荷神社。
鍵の手に曲がった路地を進むと、新旦過街です。
大村の繁華街。和風スナックや居酒屋などが建ち並びます。
看板建築のスナック店。
洋風のモダンな建築、
「ナルト」という店だったようです。
大村市街には、コンクリート製のゴミ箱が数多く残されています。ゴミ箱のふたの部分には、店の屋号が記されています。
箱の前面は木製です。
町並みによく溶け込んでいます。
ゴミ集積場にもコンクリート製のゴミ箱。A、B、Cと書かれています。
大村遊廓があったと思われる大村市武部町。現在は数軒の旅館が営業中です。
スナック「FUTABA」。古い住宅地図には、同名の二葉という旅館がありました。
通りに面した旅館「みきや」。
旅館「山陽」。
おおむら温泉ときわ旅館は、田の平にあって、当時大村地方の温泉旅館はここ1軒でした。近くには、遊廓街があったこともあり、町の有力者や軍人の将校などが多く利用し、賑わっていました。*1
おおむら温泉は、遊廓の北側に隣接していました。*2
田の平の名が残る電柱のプレート。
遊廓があったと思われる通り。
古い町並みが残っています。
【参考文献】
*1 郷土出版社:目で見る諌早・大村の100年(郷土出版社,2002)P.33
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)長崎県
大村駅の横に、人一人がようやく通れるほどの低いトンネルがあります。大村線開通の際、近在の篤志家の尽力により、交通の便をはかって作られましたが、武部地区が遊廓街として華やかなりし時は、人目を忍ぶ客の通り道になったともいいます。*1
トンネルの入口。
大人の背の高さでようやく通れるほどのトンネルです。
反対側の出口。
【参考文献】
*1 広報おおむら(1997.5)P.7
今回は、大村(長崎県大村市)の町並みと風俗を散歩します。
駅の入口の曲がり角に白ポストが設置されています。
有害雑誌回収ポスト。
ポストに描かれているロゴ「ココロねっこ運動」は、子どもたちの心のねっこを育てるために、大人のあり方を見直し、みんなで子どもを育てる県民運動です。*1
このポストをこわしたり、いたずらしたりした人は罰せられます。
【参考URL】
*1 長崎県ホームページ ココロねっこ運動
嬉野市塩田町大字大草野長谷。嬉野温泉からは、約4km北側の場所です。
数年前まで、この場所に、嬉野武雄観光秘宝館がありました。
現在は太陽光発電の施設になっています。
嬉野武雄観光秘宝館は、最新のエレクトロニクス技術の粋を集めた大セックスワンダーランドとして開館し、営業中の秘宝館の中では、展示数、内容、スケール、全てにおいてNo.1でした。*1
オープン当初から約10年間は、入館者数は順調に推移しましたが、1990年に高速道路・長崎自動車道の大村ICー武雄北方IC間が開通すると入館者数が次第に減っていきました。*2
P.34
現在、営業中の秘宝館の中では、展示数、内容、スケール、全てにおいて…
P.112
オープン当初から約10年間は、入館者数は順調に推移した。しかし、199…
嬉野温泉の野畠通り。
スナックや喫茶店などが「マンダム」。
スナック「マンダム」。店名に男性化粧品の名が使われているのは、めずらしいです。
チャールズ・ブロンソンがCMをやっていた頃(1970年)のロゴマークが使用されています。丹頂は、このCMのヒットのおかげで、社名まで「マンダム」に変更してしまいました。*1
温泉街のはずれに、かつてのストリップ劇場「関西ショー劇場」の遺構が残っています。
劇場の入口。「十八歳未満の方入店お断りします。」のプレートだけが残っています。
「関西ショー劇場」の看板は、白く塗りつぶされていました。
唯一の遺構は、劇場から200mほど離れた場所に設置されたままになっている「関西ショー劇場」の看板です。隣には、嬉野小学校のスクールゾーンの交通標識があります。
武雄温泉の商店街にあるスナック「ぼんぼり」。
像の顔のような店舗デザイン。
鼻の部分に取り付けられた電球。
建物は3世帯住宅のようになっています。一番左がスナック「ぼんぼり」、真ん中が理容室のような店舗、右側は花屋さんです。
武雄温泉の商店街。子宝相談ののぼり旗のある薬局。
店舗の隅に小便小僧があります。
元気よく放尿。
先っぽには、管が取り付けられています。
「全国遊廓案内」*1 によると、武雄町温泉遊廓は武雄温泉場にあって、貸座敷は、花月、一楽、第三国明楼、第四国明楼、第四国明楼、小桜楼、改盛楼、文明楼などがありました。
昭和3年の市街図*2 によると、貸座敷「花月」は、正法寺へ向かう道の角にあって、現在、同じ場所には、旅館「花月」があります。
道の角に沿って、旅館「花月」の建物が長く連なっています。
裏側から見た旅館「花月」。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌.14(三一書房,1993)P.154-P.155 「全国遊廓案内」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)佐賀県
JR行橋駅から平成筑豊鉄道田川線で3つ目の駅の豊津で下車。そこから徒歩10分の行橋市天生田(あもうだ)に、清地(すがち)神社があります。
参道、一ノ鳥居の前に一対の狛犬が奉納されています。前肢を曲げて玉の上にのせているという容姿のもので、高さは1メートルぐらいです。
向かって左側の吽(うん)像(口を閉じている方)の股間には、20センチ程の男根が刻まれています。*1
向かって右側の阿(あ)像(口を開いている方)。
阿(あ)像の股間には、長さ4センチの陰物が刻まれています。*1
【参考文献】
*1 阿部通良:九州性崇拝資料(私家版,1963)P.241-P.242
今回は、行橋(福岡県行橋市、ゆくはし)の町並みと風俗を散歩します。
行橋は、JR小倉駅からJR日豊本線で約15分のところにあり、JR行橋駅からは、平成筑豊鉄道田川線で田川と結ばれています。
行橋の近・現代においては、筑豊の石炭・炭鉱とのかかわりが大きく、筑豊への農産物や坑木が供給されました。また、筑豊の炭鉱関係者にとっての保養地としての役割もあり、行橋には、かつて券番があり、50名ほどの芸者がいました。客は、地元の商店主や地主ばかりでなく、上客は田川の炭鉱主でした。*1
昭和10年発行の市街図によると、券番は、現在の行橋市大橋3丁目付近にありました。*2
付近には、割烹料亭があります。かつての名残かもしれません。
市街図*1 「芸妓券番」の記載があるのは、この路地の先の角のあたり。
道幅が急に狭くなって、鍵型に曲がっています。
角を回り込んだあたり。裏門のあるお宅。
【参考文献】
*1 山内小二:地方史ふくおか(2007.2.28)P.8-P.9「筑豊の炭鉱と京築 隣接地とのかかわりを見る」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第444号 福岡県
花巻に唯一残っている銭湯の高砂湯。コンクリート造りの建物です。
奥行はかなり大きくで、規模の大きさを感じさせます。
建物脇から見える煙突。
現在は臨時休業中です。
旧裏町の路地。
傍らに、手押しポンプがあります。
特製。川本式。
現在は使われていないようです。
地元では有名な百貨店の「マルカン」。
展望大食堂は、今では珍しくなった食券を買うタイプの食堂です。
マルカンラーメン(570円)と生ビール(580円)を注文。豆板醤入り辛口のあんかけラーメンです。ビールと良く合います。
名物の特大のソフートクリーム(170円)。割りばしで食べるのがマルカン流。
テレビでも紹介されています。カップルならふたりでひとつでもOKだそうです。*1
【参考文献】
*1 「賢治の広場」に設置されている花巻市街の案内図
双葉町の公衆トイレ。付近には、スナックなどの店舗が散在しています。
トイレ内には、多数の貼り紙。
便器の中に用をすませましょう。
下着類など、トイレに入れてはいけません。
花巻の双葉町を中心にスナックや居酒屋が散在しています。
この建物はアパートですが、建物の1階部分がスナックになっています。
「こいこい通り」と名付けられた飲み屋街。
建物の2階部分は居住スペース。1階はスナック街です。
明治18年、貸座敷免許地指定になるまでのの頃の裏町は、ほとんど百姓家ばかりしかなく、鍵町(坂本町)には、前々から小料理屋などがあったので、この方が指定地になりかかったところ、里川口町の有力者の滝川金太郎、八重樫治太郎、他が、県庁に運動した結果、翌19年に裏町が勝利を得て、明治22年には、八重樫治太郎が真っ先に「千歳楼」を開業、その後、続々開業者が出て繁盛しました。*1
遊廓の中心部と思われる十字路。
昭和20年の戦災後は、一軒もなくなって57年間の花柳界は終わりを告げました。*1
稲荷神社の案内板には、このあたりが激しい戦災にみまわれたことが書かれています。
貸座敷事務所があったあたり。*2
【参考文献】
*1 熊谷章一:花巻市上町の歴史 形成と発展(花巻市上町商業協同組合,1972)P.78-P.80
*2 東京交通社:大日本職業別明細図 第204号 岩手県(東京交通社,1937)
豊沢町の東側。裏町の南端に、御旅所跡があります。現在、この場所には、石柱が建っています。
御旅屋は、まつり(花巻祭)の間、神輿(ご神体)が神社を出て宿とする場所で、花巻まつりの際も、露店や見世物が、広場に集まり、賑わいをみせました。宮沢賢治の童話「祭りの晩」に登場する「お旅屋」は、この御旅屋モデルと考えられています(豊沢町の案内より)。
鳥谷崎神社の碑。観音祭を起源とする花巻祭は、鳥谷崎神社の祭礼としてとして行われるようになりました。
お旅所の前には、芝居劇場の「朝日座」がありました。現在は、昭和50年代にオープンした「ホテル花城」が建っています。*1
遊廓があった裏町の通りを南下した突き当たりに御旅所あり、その隣に朝日座がありました。
【参考文献】
*1 鎌田雅夫:花巻・北上・遠野・西和賀の今昔(郷土出版社,2010)P.94
今回は、花巻(岩手県花巻市)の町並みと風俗を散歩します。
豊沢町(旧花巻川口町)は、明治から大正の初期にかけての花巻の商店街の中心で、その次の上町、それから鍛冶町の順でした。かつての豊沢町は、朝早くから活気のある町で、そして、夜は花巻一の歓楽街である裏町への通り道として遅くまで賑わいました。
豊沢町に、宮沢賢治の実家跡があります(写真左奥)。
宮沢賢治と豊沢町のことを説明した案内板。
「大正10年頃の豊沢町絵図」。*1
豊沢町の東側に「裏町」の記述があります。
豊沢町の案内板。花巻史談12号の「豊沢町今昔」*1 からの抜粋と思われます。
【参考文献】
*1 永田圭一:花巻史談(第12号,1987)P.31-P.35 「豊沢町今昔」
盛岡市街の中ノ橋通。写真奥が中ノ橋交番があるあたり。
スナック「あじさい」。
スナック「オーロラ」。
紺色と黄色の配色は斬新です。
盛岡市街の宮古街道(盛岡市と宮古市を結ぶ国道106号線)周辺は、商店街が連なる繁華街です。
通りから南側へ入ると、スナック店が入る雑居ビルや住宅地が混在します(写真は南大通り1丁目)。
場末感漂うミニクラブ(中ノ橋通一丁目の路地)。
ネオン看板。
現在は、休業している模様です。
盛岡の激渋銭湯の「菊の湯」。駅からは少し離れている(茶畑2丁目)ので、バスで行くのが無難です。
珍しい、朝風呂営業中の銭湯です。
裏へ回ると、立派な煙突が見えます。
脱衣場には、主人の趣味でしょうか。動物の人形がたくさん並んでいます。
盛岡市紺屋町にある「平興酒店」。店の中にテーブルが見えます。
「コップ酒やってます。」の貼り紙。いわゆる「かくうち」です。道路を挟んだ向かい側には、酒蔵の「菊の司」があって、ここでは、菊の司が飲めるようです。
酒屋の店内。菊の司をはじめ、いろいろなお酒があって、「菊の司辛口」210円、「にごり酒」220円、など10種類から選べます。おつまみは、豆腐、おでん、味噌でんがく、せんべい、チーズ、ソーセージ、缶詰類から選べます。お酒以外は持ち込み可だそうです。
「菊の司辛口」を注文。
市街の中心部にある盛岡バスセンター。
昭和レトロなビルディングです。
営業している店舗が少ない中、ラーメン屋だけが営業中です。
中華そば(550円)を注文。
桜山神社の門前の桜山神社前商店街(東大通商店街)は、戦後、大陸から引き揚げてきた人たちが、この境内にバラックを建てて住みつき、生計を立てるために店を出したのが始まりと言われ、一時は闇市として賑わいました。*1*2*3
開町当時は、160区画で始まり、盛岡厚生市場協同組合というのを作って団結しました。*1
昭和44年、お城側に並んでいた30数軒の桟橋店舗はすべて移動し、歩道から亀ヶ池やお城の石垣が眺められるようになりました。*2
盛岡の三大麺(わんこそば、盛岡冷麺、盛岡じゃじゃ麺)の一つである「じゃじゃ麺」の元祖の店「白龍(ばいろん、写真右)」は、桜山商店街にあります。*3
建物と建物の間の風景。
【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語9 内丸・大通かいわい(熊谷印刷出版部,1979)P.60-P.64
*2 真山重博:もりおか歴史散歩(東北堂,2009)P.195-P.196
*3 松田十刻:めん都もりおか(もりおか暮らし物語読本刊行委員会,2010)P.116-P.117
八幡町から盛岡劇場へ向かう通りに、料亭の「喜の字」があります。
建物の前に設置されている案内板に、「創業者の盛田キノはいろは楼で生まれた売れっ子芸妓」と説明があります。
「いろは楼」は、「喜の字」の隣にあった遊廓で、いろは楼の主人の盛田六太郎の娘さんが、「喜の字」をやっていました。*1
歴史を感じさせる佇まいです。
ちょうど、人力車が通りかかりました。
【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語第2集 八幡町かいわい(熊谷印刷出版部,1974)P.124
今回は、盛岡(岩手県盛岡市)の町並みと風俗を散歩します。
現在も繁華街となっている八幡町の始まりは、八幡宮に参詣する人たちに飲み食いさせるためのお茶屋からでした。八幡町が賑わい、町並みが整う頃には、津志田からの遊廓の移転もあり、明治時代になると、八幡は花柳街として繁栄しました。「明治末期の八幡町かいわいの町並み」を見ると、遊廓(貸座敷)と料亭が混在していたことがわかります。料亭と遊廓は、はっきりと区別されていました。*1
八幡宮には、盛岡の納札(千社札)の同好者の集まりの「万札会」が奉納した額が残されています。*1
その額を見ると、八幡町の遊廓の妓楼名がたくさん出ています。*1
八幡宮に設置されている案内板。八幡町が歓楽街として繁栄した経緯が書かれています。
【参考文献】
*1 盛岡の歴史を語る会:もりおか物語第2集 八幡町かいわい(熊谷印刷出版部,1974)P.30-P.31,P.90-P91,P.124,付図「明治末期の八幡町かいわいの町並み」
大沢温泉にある金精神社。
ここには、男根が2体祭られています。
金勢神社の御神体。重さ150kg、長さ1.4mのケヤキの金勢様と呼ばれる男根です。
こちらには、石でできた男根が祭られています。
今回は、大沢温泉(岩手県花巻市)の町並みを風俗を散歩します。
JR花巻駅からバスに乗って約30分。大沢温泉に到着します。温泉地の名前そのものが旅館の名前になっている大沢旅館。
玄関を入ったすぐ左側に、懐かしい雰囲気の売店があります。
年代を感じさせる廊下。
古い道具たちに囲まれた帳場待合。売店で買ったものであれば持ち込みOK。お風呂につかった後にのんびり休憩できます。
戦後の闇市の展示コーナー。
「代用うどん」の貼り紙が見えます。
「代用うどん」の説明。小麦粉の代わりに、穀物やところてんなどが使われていました。闇市では、このような代用品が数多く出回りました。
三味線。うどんが3本のみです。
昭和の歓楽街を再現した展示。
カフェーでしょうか。「女給募集」などの貼り紙が貼られています。
「衛生サック」「最新リン病治療薬」などの貼り紙が貼られた薬局。
「花柳病科」。
「性」の管理・身体の管理の展示コーナー。生理用品の普及や政府の産児制限に関する展示が行われています。
山本宣治著「山峨女史家族制限法批判」。表紙に極秘の文字が見えます。アメリカ人のマーガレット・サンガーは、女性が自分の体と避妊についての知識を獲得し、生む生まないを自分で選べるようになることが、女性の自由と解放のための絶対条件であると考え、「出産調整」の名のもとに避妊知識を広める運動を立ち上げました。「山峨女史家族制限法批判」は、性科学者の山本宣治が、学術研究用の非売品というかたちで出版したもので、5~6年のうちに、5万部以上が全国に出回りました。*1
その右隣に、「フレンド月経帯」の缶が展示されています。「フレンド月経帯」は、松竹の看板美人スター・高杉早苗を宣伝に起用し、「飛んでも跳ねても安全第一」というキャッチフレーズが都会の女性に受け、爆発的にヒットしました。*2
コンドームが普及する以前、産児調節運動の中で推奨されたのは、ペッサリーや避妊ピンでした。その避妊ピンの原理(子宮内に異物があると受精卵が着床しないという原理)をもとに、京都の医師太田典礼が開発したのが「太田リング」です。*1
娼妓稼高及び貸借調帳。
【参考文献】
*1 荻野美穂:「家族計画」への道(岩波書店,2008)P.29,P.43,P.45,P.61-P.62
*2 小野清美:アンネナプキンの社会史(JICC出版局,1992)P.89-P.90
佐倉城趾の一角にある国立歴史民俗博物館は、多数の特色のあるコレクションが展示されています。
日清・日露戦争のコーナー。日本が富国強兵を推し進めた時代です。
佐倉遊廓が作成した凱旋歓迎ハンカチ。
佐倉遊廓の名前が書かれています。
戦争と遊廓が密接な関係を持っていたこと示しています。
佐倉市街の成田街道沿いは、明治時代の古い町並みが保存されています。
明治時代の呉服屋の旧駿河屋。建物内部が公開されています。
「千葉県佐倉町鳥瞰」が展示されています。
弥勒新地付近。遊廓の若葉楼の名が確認できます。
今回は、佐倉(千葉県佐倉市)の町並みと風俗を散歩します。
佐倉市弥勒町の妙経寺の隣には、遊廓がありました。当時の町並みを再現した市街図によると、遊廓があった場所は、妙経寺の境内の裏手で、三谷屋ふとん店(写真奥)の手前です。
当時は、道路(弥勒通り)から入ったところに、大門がありました。*1
「弥勒新地」と呼ばれた遊廓がいつごろ開かれたかについての詳細は不明ですが、佐倉に歩兵部隊が屯営するようになった頃(明治16年頃)だと伝えられています*1
荒川(若葉)楼、成田楼、志村楼、弥勒楼、日暮楼、東楼がありました。
【参考文献】
*1 新佐倉真佐子を作る会:佐倉お茶の間風土記(新佐倉真佐子を作る会,1979)P.96-P.97,附図
深谷駅前にあるレディースファッション店。
バニーガールの写真。
建物の北側の側面には、ドレスを着たマネキンが陳列されています。
同じビルに入居しているのでしょうか。ランジェリーパブの看板がありました。
食堂の「伊勢屋」の隣にある銭湯の「姫の湯」。
深谷の激渋銭湯です。
脱衣所のロッカーは、大き目で使いやすいです。中庭もあります。
入口の石畳。風情があります。
深谷市西町の四つ角に、昔懐かしい佇まいの伊勢屋食堂があります。
昭和の雰囲気が残る大衆食堂です。
食堂の中の様子。
名物のカレーと生ビールを注文。黄色のカレーです。
深谷駅前の西島町3丁目にある割烹料理屋。この通りは、「ちょうちん横丁」と呼ばれる昔からの繁華街です。
深谷の貸座敷は、大正末期には、公娼制度の廃止と共に、その姿を消してしまいましたが、これに代わる芸者家街が趣向も場所も変えて新しく出現しました。場所は、現在の提灯(ちょうちん)横丁を中心として散在し、梅の家、三津基、蔦の家、末広、春本、月の家、千登世、森本、一梅、悟の家、寿々木、などという芸者家があって、一時は芸者の数が48人いました。*1
現在はスナック、旅館、食堂などの建物が建ち並ぶ繁華街になっています。
北側から見たちょうちん横丁。
【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.58-P.63
「見返りの松」は国道17号(写真右側)と旧中山道(写真左側)の交差点(深谷市原郷)に現存しています。江戸時代、深谷宿では「飯盛り女」と呼ばれる遊女が置かれ、宿場のはずれにあるこの松のから宿場の方を振り返り、前の晩の遊女との別れを惜しんだ旅人も多かったことから、「見返りの松」と呼ばれたようです。*1
「見返りの松」の石碑。
石碑の裏側には、青楼華やかな頃の様子が書かれています。
江戸時代、深谷宿のはずれに、松、杉あわせて400本があり、並木道となっていました。
【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22
今回は、深谷(埼玉県深谷市)の町並みと風俗を散歩します。
今は昔、大正末期まであった深谷の遊廓、「深谷と云えば女郎屋、女郎屋と云えば深谷」と知れわたり、近在は元より、相当遠隔の地からも遥々毎日毎夜多くの人たちが遊びにきました。大正の頃の遊廓は、相生町に9軒、本町に1軒、稲荷町に6軒ありました。*1
明治35年の市街図*2 によると、相生町の安中商店付近には、貸席(貸座敷)の関口楼がありました。
松本楼があったあたり。
酒蔵の田中藤左衛門のあたり、須藤染物店の隣には、芸妓屋と貸席がありました。*2
貸席(貸座敷)があったと思われる場所は、駐車場になっています。
【参考文献】
*1 松島英雄:深谷今昔物語(武陽民報社,1960)P.15-P.22
*2 田口浪三,高柳鶴太郎:埼玉県営業便覧(全国営業便覧発行所)P.49
国分町にある銭湯の駒の湯。
1階にコインランドリーが併設されたビル型の銭湯です。
1階の入口から階段で浴場のある2階へ向かいます。
2階には券売機とレトロな公衆電話。
国分町の勾当台公園駅近くにある東一市場。入口には、赤色のゲートがあります。
居酒屋などの飲食店が軒をつらねます。
夜の様子。
東一市場の反対側(西側)は商店街になっています。
今回は、国分町(宮城県仙台市青葉区)の町並みと風俗を散歩します。
仙台一の歓楽街、国分町の中心街に、ストリップ劇場の「仙台ロック」があります。
入口付近。
夜の「仙台ロック」の看板。
入口には、ヌード劇場の看板がたっています。
阿武隈急行鉄道の福島駅の入口。
入口の通路脇に白ポストが設置されています。
各型の白ポストです。
箱の上部の水色の帯がアクセントになっています。
福島駅前の大通りの「商店街共同建築」。
1階には、商店や飲食店などが入居しています。2階と3階は居住スペースです。
ビルの中ほどにある階段。
逆側から見たところ。写真右奥は、JR福島駅です。
福島市の繁華街の南側に位置する大町。歓楽街の新町や置賜町からは少し離れていて、落ち着いた雰囲気です。
道路沿いに和風ホテルの入口があります。
満室/空室の掲示板。ホテルは、ビルの2階です。
1階の玄関。和風の佇まいです。
JR福島駅の東側。福島市新町に、昭和の時代のものと思われる「商店街共同建築」があります。
たくさんの看板が道路側に突き出ています。
「新町ビル街」の看板。
建物の中央部の階段。
福島市民家園の展示コーナー。民家のくらしをメインテーマにした展示が行われています。
高さ50cmはありそうな、大型の木製の男根。
男根についての説明書きはありません。
数本の男根が陳列されています。
今回は、福島(福島県福島市)の町並みと風俗を散歩します。
福島市民家園は、福島市街の西方約10kmにある「県あづま総合運動公園」内にあります。
園内には、会津地方の民家、芝居小屋、商人宿、料亭、などが移築復元されています。
かつての芝居小屋だった「広瀬座」の建物は、国の重要文化財に指定されている貴重な建物です。
広瀬座は、明治20年に建築工事が竣工し、当時としては最も近代的な劇場建築の様式を取り入れ、廻り舞台なども装置した県北一の娯楽の殿堂に相応しい立派な建物でした。*1
【参考文献】
*1 石井孝平:郷土やながわ第一号(1984)P.7-P.11 「広瀬座界隈の今昔」
広瀬橋周辺には、多くの裸像が設置されています。裸像はすべて梁川出身の彫刻家の太田良平さんの作品です。
広瀬橋の中央に設置されている両手を上げた女性像。
広瀬橋近くの福祉会館前の女性像。洋服を着ています。
伊達市役所梁川庁舎前の女性3人の像。裸像の胸は、勢いよく天を向いています。
今回は、梁川(福島県伊達市)の町並みと風俗を散歩します。
明治十年代、田町の保原街道入口(現在の田町の十字路近辺)に数軒の遊廓が営業を行っていましたが、明治30年頃から北本町3番地に遊廓が集められることになり、明治36年の記録によると、木羽楼、角輪楼、大豆楼、田川楼、新田川楼の5軒が営業していました。*1
遊廓の北隣は広瀬川で、当時は両岸は小高い土手で、すぐ道路から川岸に下りられました。お不動様(写真左側)の北隣(写真右側)には、「広瀬座」(明治20年竣工)があって、歌舞伎芝居や芝居が演じられました。*2
現在は、大きな堤防が築かれ、昔を偲ぶことができないほど変貌しています。
大正13年頃の新町遊廓の様子を描いた図「大正13年頃の新町かいわい」*3 によると、遊廓は、角輪(かくわ)楼、木羽楼、があって、遊廓の南側は広場になっていて、桜の木が植えられていました。
広場があったと思われるあたりは、現在は製材所の敷地になっています。
遊廓裏の通り。ゆるやかなカーブを描いています。
旧遊廓の敷地の南端にある旅館。
【参考文献】
*1 中村敏男:郷土やながわ第六号(1991)P.7-P.15 「明治~大正 梁川花街繁盛由来」
*2 石井孝平:郷土やながわ第一号(1984)P.7-P.11 「広瀬座界隈の今昔」
*3 八巻一:郷土やながわ第三号(1987)P.85-P.89 「梁川の遊廓考」
会津若松の現在の繁華街は栄町(市役所の北側)が中心ですが、上町2丁目周辺にも新しい歓楽街ができています。
交差点に設置された大看板。
バブやクラブなどの風俗店が入居しています。
夜の様子。
会津若松には2軒の銭湯があります。
上町7丁目にある銭湯の竹之湯は、大きな四角い煙突が特徴です。
暖簾のかかった銭湯の入口。
超音波浴場。
脱衣場には、大きな丸籠が並べられています。
野口英世青春通り沿いにある野口英世青春広場。野口英世の銅像が設置されています。
野口英世(本名野口清作)は、23歳のとき、坪内逍遥の流行小説「当世書生気質」を読んだところ、「野々口精作」という人物が出てくるのにぶつかりました。野々口精作は、医学書生でありながら、ふとしたことから酒と女に身を持ち崩し、遊蕩三昧の生活に溺れるという設定でした。野口、野々口と一字違いでしたが、当時、研究所の差別待遇に嫌気がさし、人々から借金を重ねては遊廓を遊び歩いていた清作は、一読して自分のことかと驚き、「英世」に改名しました。*1
清作(英世)が女を抱いたのは、東京遊学の途についた21歳の頃で、洲崎に行ったのが初めてでした。特定の女のためにというより、一種のエネルギーのはけ口といった感じが強く、金がないときは、向島から玉の井、少し金が入ると吉原と決まっていました。*1
後年、英世は、麻布の斉藤家から結婚を前提に支度金としてもらった二百円の大金を友人全員を引き連れて横浜の料亭(遊廓)の神風楼で遊び明かし、一晩で使いきったことがありました。*1
【参考文献】
*1 渡辺淳一:遠き落日(講談社,2013)P.60-P.62,P.120-P.121,P.144-P.145,P.170,P.285-P.286
会津若松市街には、大正~昭和の貴重な近代建築が数多く残されています。
滝谷建設工業の洋館(円柱が配置されている建物)は、昭和2年の建築。その左隣の白木屋漆器店は大正3年の建築です。
右隣には、理容室の建物。
「美髪」と書かれています。
入口のドアには、屋号の「ヤマグチ」。
笠間稲荷神社の敷地の隣に、石碑が建っています。
この石碑は、大正4年秋の大正天皇即位を記念した植樹の際、磐見町で営業していた山田楼、小松楼、菊勢楼、八幡楼、泉楼、吉田楼、新小松楼、松島楼、松風亭、常磐の十店が、建てたものです。*1
磐見町遊廓と軍隊とは持ちつ持たれつのあいだがらで、その石碑の題額は「六十五聯隊長陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級山内正生」となっています。*1
市中に散在していた娼家を磐見町に集めたことなどが書かれいます。
石碑の下部に「堀江町」の名が確認できます。
会津若松の遊里は、鶴ヶ城築城、城下町形成時に、遊女町として堀江町ができましたが、会津藩初代藩主の保科正之の代(承応元年)に廃止されました。*1
【参考文献】
*1 中村とし: 民衆史研究3号(1979.01)P.2-P.17 「会津遊廓史」
荒木呉服店の建物の裏側へ回ると稲荷神社の鳥居が見えます。
笠間稲荷神社。
笠間稲荷神社は、案内板の説明によると、かつての遊廓街旧磐見町にある荒木呉服店の屋敷社で、商売繁盛の神様として遊女たちをはじめ多くの参拝客を集めていました。
お堂の内部。願主に荒木氏の名前が見えます。
今回は、会津若松(福島県会津若松市)の町並みを風俗を散歩します。
会津若松の七日町(なぬかまち)には、磐見町遊廓がありました。*1
明治29年2月、若松市は市の発展のために、兵営設置の建白書を陸軍大臣に提出しました。早晩軍隊が若松市に常駐するのを見越した業者は、明治34年、磐見町遊廓をつくり、市内のところどころに散らばっている娼家を一ヶ所に集めて、「新地区(しんちく)」と呼ばれる一区画ができあがりました。*2
町の真ん中には川が流れ柳の木が植えられ、多くの検番や遊廓がありました。*3
旅館だっと思われる建物。
遊廓街の西端にある荒木商店の建物。
呉服屋さんの名残の看板。
【参考文献】
*1 鈴木三郎:最新若松市地圖.改訂14版(鈴木屋書店,1933)
*2 中村とし: 民衆史研究3号(1979.01)P.2-P.17 「会津遊廓史」
*3 七日町通りまちなみ協議会:七日町のいまむかし(七日町通りまちなみ協議会,1983)P.3
武蔵小山駅の西側。目黒本町5丁目にある銭湯の富士の湯。
落ち着いた感じの入口。
裏へ回ると立派な煙突を間近で見ることができます。
脱衣場から見る庭園。
武蔵小山駅前のやきとりの「鳥勇」。
大量の焼き鳥が、お皿に孤を描いて並べられています。
店の側面は、立呑みスペースになっています。
立呑みの場合は、お皿を渡され、焼き鳥を自由にとることができます。ぬる燗を注文。暖められた「高清水」のワンカップが出てきました。
焼きたてが優先的に置かれますので、好みで自分でタレにつけて食べます。お会計は、最後に串の本数を数えて清算です。
武蔵小山飲食街「りゅえる」にある立ち呑み屋の「晩杯屋」さん。小規模な店舗で、いつも賑わっています。
チューハイ類の品ぞろえが豊富です。チュウハイの元祖とされる幻の酒「ホイス」、こだま飲料のバイスなど希少なお酒も味わえます。
「ホイス」は、昭和24年、ホッピー同様、終戦直後の物資不足の時代に、洋酒屋の後藤商店が、ウイスキーの代用品を造ろうと内外の様々な原料を調合し、試行錯誤の末に出来上がりました。*1
「バイス」は、株式会社コダマ飲料が販売する清涼飲料水を焼酎を割った飲み物です。
バイス(セット)370円とおでん(5種)150円 を注文。料金は、あらかじめ小銭を置いておく(写真左上)のが暗黙のルールです。
「晩杯屋」さんの最大の特徴は、つまみの安さです。煮込み130円、マグロ刺し200円、アジフライ(ダブル)180円などほとんどが130円~200円です。
【参考文献】
*1 弘済出版社:散歩の達人(1998.7)P.87 「ホッピー大研究」
武蔵小山飲食街「りゅえる」の北側の通り。
手作り感のある立小便禁止の鳥居。
犬糞看板もあります。
コンクリートの壁で隔てられているため、周囲からは見えにくくなっています。
武蔵小山飲食街「りゅえる」の飲食街を進むと、ピンクサロンと思われる風俗店の建物があります。
入口の電飾。
水色の風俗看板。
「サロン」のロの字の部分はハートマークがデザインされています。
飲食店街「りゅえる」の中心部。昭和の雰囲気が残る建物が残っています。十字路の「スナック喫茶アモール」の看板に導かれて進むと、...
「喫茶アモール」の隣の赤色の建物。1階は、スナックと立ち飲み中華です。
その向かいにある和風のスナック店。
奥まった場所にあるスナックが建ち並ぶ一画。