浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。
公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。
箱庭のような美しさです。
立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。
浅草寺の公衆トイレ。利用時間は、6:00~20:00。夜間は利用できません。
公衆トイレの建屋の脇に設置されている夜間専用トイレ。
箱庭のような美しさです。
立小便専用の男子トイレで、庭石のように美しい石に向かって気持ちよく放尿できます。
浅草五区にある遊園地の「花やしき」。
花やしき(花屋敷)は、150年以上も前に、楽しむための植物園として誕生したものでした。*1
「Beeタワー」「ヘリコプター」「スカイシップ」など、レトロな雰囲気を味わえる遊園地として存続しています。
花屋敷は、嘉永6年(1853年)に向島百花園の例にならって開園し、園内には「新登亭」という料理屋もありました。広重もこの花屋敷を画材としてとりあげています。*2
明治時代、花屋敷の新たな経営者となった山本金蔵は、明治20年、本所の材木商が所有する木造瓦葺き五階屋を一棟買収し、花やしきへ移築、「奥山閣」として公開し、凌雲閣(浅草十二階)*4 と人気を二分する浅草の新名所となりました。*1
明治30年刊行の「新撰東京名所図会」*3 によれば、「室内には、唐草模様を染めなせし紅の毛氈 (もうせん)一面に敷詰め、左右紫壇の床柱には、巖に瀧、松に雲を彫刻...」とあり、外観だけでなく内部も壮麗だったようです。
【参考文献】
*1 小沢詠美子:江戸ッ子と浅草花屋敷(小学館,2006)口絵,P.170-P.173
*2 内山正雄,蓑茂寿太郎:東京の遊園地(郷学舎,1981)P.3-P.5
*3 宮尾しげを:新撰東京名所図会 浅草公園・新吉原之部(睦書房,1968)P.83
【参考記事】
*4 風俗散歩(浅草):凌雲閣(浅草十二階)
今回は、浅草(東京都台東区)の町並みと風俗を散歩します。
浅草六区の交差点の角に「浅草東洋館」と「浅草演芸ホール」が併設された建物(写真左側)が建ちます。
渥美清やビートたけしなど、数多くの役者や芸人を輩出した「浅草フランス座」が平成12年より「浅草東洋館」として生まれ変わりました。(案内板より)
フランス座は、昭和26年にオープン。昭和34年に東洋劇場として、軽演劇とショーとストリップとなりましたが、昭和39年、寄席とストリップとなりました。*1
浅草フランス座出身の芸人。
昭和23年以来、浅草ロック座の楽屋へ通い続けた永井荷風は、昭和28年にフランス座の楽屋を初めて訪れています。*2
【参考文献】
*1 佐藤洋一:あの日の浅草(武揚堂,2007)附図
*2 堀切直人:浅草 戦後篇(右文書院,2005)P.232
小坂町は明治時代すでに水力発電、鉄道、電話、上下水道が揃っていて、当時の最先端をいく町でした。その技術と誇りをかけて建てられたのが康楽館(こうらくかん)です。*1
戦後のテレビの普及に伴い、昭和45年頃に、康楽館での一般興行は中止されます。老朽化が進み、取り壊しが懸念された康楽館の保存と活用を強く訴えたのが、芸能史研究で著名な俳優・小沢昭一氏でした。昭和62年の修復後は、歌舞伎や大衆演劇が上演されています。*2
二階は吹き抜けとなっていて、舞台を客席がコの字に囲んでいます。*2
楽屋には、役者たちの無数の落書きが残されています。*2
由美かおるさんの落書き。修復以降の2008年6月のもので、水戸黄門のキャラクター”疾風のお娟”のイラスト付きです。*2
【参考文献】
*1 沢美也子:にほん全国芝居小屋巡り(阪急コミュニケーションズ,2005)P.54
*2 康楽館:公式ガイドブック(秋田文化出版,2010)P.7,P.10,P.14-P.15,P.22-P.23
小坂町の中島橋近くにある花園館。
「小坂町史」*1 によると、大正4年頃には開業していました。
現在は休業中のようです。
建物の側面。
モダンな造りです。
【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
永楽町の東端。裏通りの入口です。
ゆるやかな曲線を描いて通りが続きます。
昭和元年の市街図*1 を見ると、裏通りに面して、料理屋の「二夕五家」「穂月」があります。
飲食店の建物の裏側。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸
小坂の永楽町は、明治16年頃から商家が建ち始め、明治40年代には、料理屋・劇場などがあって、鉱山に稼働する人たちの歓楽街として賑わいを見せ、明治42年刊の「小坂鉱山案内記」*1 によると、11軒の料理屋が「小坂料理屋組合」を作って営業していました。*2
写真手前は、廃線となった小坂鉄道の線路(線路の向こう側が永楽町)です。*3
大正6年刊の「秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図」*4 には、料理屋の「吉本倶楽部」「大亀館」「喜楽」の位置が示されており、「喜楽」は、酌婦の数30名を超え、春夏秋冬を問わず三味線の音が響きました。*2
昭和元年の市街図*5 には、料理屋の「吉本倶楽部」「恵比寿屋」「小原軒」「喜楽」「二夕五家」「穂月」「新藤家」とともに、芸妓家の「吉本」「泉家」の記載があり、永楽町は花街だったようです。
西側から見た永楽町。
永楽町の西側。「吉本倶楽部」は、この脇道の付近*5 にありました。
【参考文献】
*1 岩間淳:小坂鉱山案内記(彩雲堂出版部,1909)P.48-P.50
*2 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*3 岩崎清三:大館・鹿角・北秋田の今昔(郷土出版社,2011)P.83
*4 田中吉助:秋田県鹿角郡小坂鉱山明細地図(文洋堂,1917)
*5 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1926)第230號 秋田懸
今回は、小坂(秋田県鹿角郡小坂町)の町並みと風俗を散歩します。
小坂町は、JR奥羽線の大舘駅の東方(バスで約1時間)にあって、小坂鉱山で栄えた町です。
小坂町の商業集落のはじまりは、明治4,5年頃の銀山町(小坂町の北側)で、次いで尾樽部(小坂町の南側)でした。*1
現在の尾樽部の通り。
銀山町には、現在も精錬所が稼働しています。
字名の「銀山町」は、小坂鉱山が銀山として栄えたことを示しています。*2
【参考文献】
*1 小坂町町史編さん委員会:小坂町史(小坂町,1975)P.552,P.559-P.560
*2 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.37
能代駅から北側へ向かって歩いていくと、銭湯の巴湯があります。
建物には、商店が併設です。
見事な看板建築です。
温泉マークの看板。
明治45年7月2日、柳町の稲荷小路から出火した大火により、柳町の遊廓は男鹿街道脇に移転することとなりました。*1
大正15年の市街図*2 に、「男鹿街道」の記載があり、その東隣に「新遊廓」の記載があります。
新柳町遊廓の通りの北側には、東側から、一力楼、桜庭徳次郎(商店)、常盤楼、が並び、南側には、竹の家、清好楼、大丸家、第二常盤楼、割烹あたか、若藤家、第四常盤楼と続いていました。*3
遊廓があった頃から続く、桜庭看板店。
通りの奥にある旅館。
ときわ食堂。
【参考文献】
*1 能代市史編纂委員会:能代市史稿.第7輯(能代市,1964)P.142-P.144
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)秋田懸
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図
西通町(旧出戸町本町)のスナック店。
スナック店の脇の「へいわ通り」。
軒下のスナック街。
「へいわ通り」を抜けるとスナック街の裏通りに出ます。
能代の西通町。*1
旧町名で出戸町本町というこの通りの両側には、料亭、食堂、カフェー、劇場などが建ち並ぶ歓楽街でした。*2
「能代港町明細案内図」*2 に記載されている割烹「宮茂登」が唯一、現存しています。
出戸町本町の南側の通り。
道の両側にスナックが建ち並んでいます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*2 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992) 能代港町明細案内図
柳町に隣接する稲荷小路のはかつての私娼の町でした。*1
現在は、スナックが建ち並ぶ繁華街になっています。
古い商業ビル。
商業ビル脇の小路。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
今回は、能代(秋田県能代市)の町並みと風俗を散歩します。
能代の遊女は、はじめのころは港に近い清助町や新町にありましたが、元禄のころに柳町に移りました。*1
八幡神社の参道をはさんで二軒の料亭が対峙しています。左には「全国花街めぐり」に代表的料亭として紹介されている「金勇」があります。*2
「金勇」の向かい側の料亭「魚松」。
柳町は、明治以降二回の大変革がありました。一回目は、明治45年7月の柳町大火とそれに続く遊廓の新柳町への移転(その後柳町は花街に変貌)。二回目は、平成元年の都市計画事業に伴うイオン(ジャスコ)の進出による町の変貌です。現在のイオン能代店の北側には、かつては、粋な看板が特徴の料亭の「二葉」、湯の色が赤いのが特徴の「アミダ湯」などがありました。*3
かつての善六小路。善六とは、旧羽後銀行(現在の北都銀行)能代支店の西向かいにあった遊女屋の屋号でした。*3
【参考文献】
*1 北羽新報社:能代港物語(北羽新報社,1974)P.67
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.64-P.65
*3 能代市:のしろ町名覚(能代市,1992)P.91-P.96
馬口労町の小路。
犬糞看板。
通りに面したところにある立ち小便禁止看板。
心理的に立小便をしたくなる誘惑にかられる溝のような形状。
馬口労町の南西側に、スナックや居酒屋が密集する居酒屋あがあります。
横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*1 によると、この場所に料亭と思われる「花月」がありました。
通りはカーブを描きながら続きます。
脇道のスナック。
【参考文献】
*1 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖
横手にいつごろ遊廓ができたのかは不明ですが、明治6年、娼妓の稼業が許可になり、翌7年に娼妓規則が出されました。また、明治40年の「横手案内」に、7軒の貸座敷が載っています。その後、昭和3年に県議会が公娼廃止を決議、貸座敷は廃止、料理屋となりましたが、その料理屋は娼妓を酌婦としておき、酌婦は酒の酌をするだけで、芸者のような歌ったり踊ったりはできませんでした。これらの料理屋は馬口労町(現在の中央町4~7)にありました。*1
横手町市街案内圖( 昭和8年刊)*2 によると、「千歳」「水月」「大黒屋」などの料理屋らしき店の屋号が確認できます。
夜の様子。
馬口労町の看板。
【参考文献】
*1 伊沢慶治:横手の歴史(東洋書院,1979)P.190-P.191
*2 横手市史編さん近代・現代部会近代班:横手絵地図資料(横手市,2003)横手町市街案内圖
現在は、暗渠となっている二ノ堰川の上流に、「きみまち橋」の遺構が保存されています。場所は、現在の「横手市ふれあいセンターかまくら館」の建物の脇です。
この橋は、昭和30年に旧農業用水路「二ノ堰」に架けられたコンクリート製の橋でした。(案内板より)
当時は、この橋を割ると両側に遊廓・飲食店が建ち並ぶ横手市唯一の歓楽街(馬口労町)だったため、別名親不孝橋とも言われていました。コンクリート製の橋はまだ珍しく、馬口労町にモダンな橋が架かったという話題性、また、市民公募により命名された粋な橋名から、当時を知る人には忘れられないドラマを持ったロマンチックな橋でした。(案内板より)
「きみまち橋」を渡ると馬口労町(写真左奥)です。
今回は、横手(秋田県横手市)の町並みと風俗を散歩します。
馬口労町の近く。現在は暗渠となっている二ノ堰川に橋が残されています。「赤線跡を歩く 完結編」*1 に紹介されている「きみまち橋」から約200mほど下流の橋です。
橋の欄干部分は、木製です。
反対側(下流)は、二ノ堰川の痕跡が残されています。
写真奥に見える茶色の建物は、「横手市ふれあいセンターかまくら館」です。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.71
西勝楽町の南側にある神明社は、角館の総鎭守です。
石垣柵全部寄進と彫られた玉垣。
旧遊廓の西勝楽町の中で最も繁盛したのは竹屋で、常光院入口の北隣に建ち、この町で初めての木造三階という高楼でした。竹屋の楼主の藤田ツルは、太っ腹で温情の人でしたが、営業に逆らう行為に対しては厳竣でした。*1
晩年のツルは、因果な商売の罪滅ぼしと考えたのか、神社仏閣その他に多くの寄付を続けています。*1
【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.104-P.114
角館の市街にある富士通名店街。
モダンなデザインのスナック店。
スナック貴江子。
長さは100mに満たない小規模な飲食街ですが、昭和の雰囲気が残っています。
角館の遊廓があった西勝楽町(通称西街)で、その区域は、北は報身寺(写真右手前のあたり)の前、南は、本明寺の前のあたりでした。*1
割烹「登喜和」。
創業の大正時代は遊廓でした。(案内板より)
現在は料亭として営業中です。
【参考文献】
*1 小林定静:角館風土記(秋田文化出版社,1986)P.101-P.102
商店街に面した電器屋さん。
ショーウィンドウに、ペコちゃん人形。その隣に「ママ・ジューサー」の箱が置かれています。
アサヒ玩具の創業は、戦後の昭和23年。昭和44年に業界初の電源を使用し、実際に料理が出来るという「ママレンジ(3900円)」を発売。玩具の歴史に新しいページを加えました。次いで、昭和49年に、押すだけで水の出る「ママポット」、昭和50年に、コックをひねると本当に水が出る「ママナガシ」、続いて、「ママクッキー」「ママウォッシャー」を発売、ママシリーズを確固たるものとし、業界では”リビングトーイ”という新語が生まれました。*1
「ママ・ジューサー」も、そのシリーズの1点です。
本物のジューサーやミキサーのように、野菜や果物を圧搾・粉砕してジュースを作るのではなく、水を混ぜるだけの遊びです。(箱の説明書きより)
【参考文献】
*1 柳谷省吾:実業の世界(1979.4)P.118-P.120 モスクワ五輪のマスコット玩具で国内独占販売の”金メダル”を獲得
今回は、角館(秋田県仙北市)の町並みと風俗を散歩します。
角館駅前にある旅館「やまや」は、俳優の山谷初男の生家です。*1
山谷初男さんは、ポルノ界の珍優から「国盗り物語」の赤兵衛役でスターになった俳優です。*2
1階には食堂があって、店内には、山谷初男さんの写真が飾られています。
稲庭うどんと日本酒「出羽鶴」を注文。
【参考文献】
*1 「旅館やまや」カタログ
*2 松島利行:サンデー毎日(1973.2.25)ポルノ界の珍優が「国盗り物語」でスターになった!
森吉山野生鳥獣センターから、ブナの原生林をしばらく歩き、桃洞渓谷へ入りします。美しいナメ滝が連続します。
桃洞渓谷のシンボル「桃洞の滝」。別名を「女滝」といいます。その別名が示す通り、女性器の形に似た神秘的な美しい滝です。
一見すれば男子の本懐。*1
5月の桃洞の滝。*2
この時期は水量が多く”桃”はボウボウの状態で輪郭がはっきりしません。”桃”鑑賞は水量が少ない時期がお勧めです。
【参考文献】
*1 吉川栄一:岳人(1997.08)P.56-P.59 私を夢心地にしてくれる沢旅三選 白神山地・赤石川/南焼石連峰・小出川/森吉山・桃洞沢.
*2 森吉山野生鳥獣センター:森吉の自然 紹介ビデオ「ブナの森の楽しい仲間たち」より
秋田内陸線阿仁合駅から北へ3つ目の駅、阿仁前田駅で下車します。
駅前の商店街にある森吉山自然公園のゲート。
森吉山は阿仁マタギが活躍した山で、現在も日本有数の秘境に数えられます。その森吉山の北面にひっそりと隠れている「桃洞の滝」を目指します。
阿仁前田駅から車で約50分で、森吉山野生鳥獣センターへ到着。目指す「桃洞の滝」は、ここから徒歩で約1時間です。
阿仁町の商店街。
理容室と思われる昭和レトロな建物です。
いろいろな形の小さな窓が複雑に組み合わされています。
「押し売り物もらい一切お断り」のプレート
阿仁鉱山の盛んな時は、銀山上新町に料理店兼遊廓のような店が5軒位あり繁昌しました。昭和33年の売春防止法が実施されるまで、上新町には3軒の店が残っていました。*1
地元の方の話によると、写真左奥の食堂のところを入った通りが料理店のあった通りだったそうです。
大正15年の市街図*2 を見ると、この通りには、「芳野家」「柳家」「若松家」の3軒の屋号が確認できます。
地元の方の話によると、現在の寿司店の向かい側に、かつての料理屋だった建物が現存しているとのことです。
料理屋だった建物。
【参考文献】
*1 佐藤清一郎:秋田県遊里史(無明舎出版,1983)P.228
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)秋田県
今回は、阿仁(あに、秋田県北秋田市)の町並みと風俗を散歩します。
秋田内陸線阿仁合駅近くには、かつて、阿仁鉱山がありました。藩政時代に大規模に開発され、明治維新後は、従業員3000人の多きに達しましたが、その後は鉱量枯渇となり、昭和54年に閉山しました。
銀山下新町の郷土文化保存伝承館があります。
伝承館前に建てられている阿仁鉱山の碑。
伝承館には、鉱山関係資料や当時の風俗が展示されており、当時の民俗芸能の「阿仁からめ節(あにからめぶし) 」の展示もあります。
「阿仁からめ節」の歌詞のなかには江戸吉原の花魁であった高尾小紫(たかおこむらさき)の名がみえて、阿仁鉱山全盛時代ころの若い娘達が手拭いの頬被りと赤い紐のついた前掛け姿で働く様子が再現されています。*2
【参考文献】
*1 文化庁文化財部記念物課:近代遺跡調査報告書(ジアース教育新社,2002)P.39-P.42
【参考URL】
*2 国際教養大学地域環境研究センター:秋田民俗芸能アーカイブス「阿仁からめ節」
大曲市街の丸子川を渡ったあたり。
古いお菓子屋さんの建物が残っています。
モダンな装飾です。
鮮やかな緑色の円柱。
大曲には、明治に入ってから八幡町に遊廓が置かれました。*1
現在は、スナック、飲食店、ビジネスホテルなどが営業しています。
花魁の看板。
逆方向から見たところ。
【参考文献】
*1 木村聡:色街百景(彩流社,2014)P.214
今回は、大曲(秋田県大仙市)の町並みと風俗を散歩します。
JR大曲駅のエスカレータ前に白ポストが設置されています。
白ポストと各種ゴミ箱。
側面は、モスグリーンに塗装されています。
エスカレターから見る白ポスト。
黒石市の保福寺の近く。
「新興街入口」の看板があります。
入口には、飲食運転追放の標語が掲げらいます。掲げられています。
「新興街」と言えば、青森の「第三新興街」*1 を思い出しますが、黒石の「新興街」も味わいのある通りです。
【参考記事】
*1 風俗散歩(青森):第三新興街
甲徳兵衛町の通りからは、横丁の建物がいくつか建ち並んでいます。
両側から建物が覆いかぶさっていている呑みや屋横丁。
建物は2階建てです。
建物の背面。
黒石の歓楽街の甲徳兵衛町。規模は小さいですが、居酒屋やスナックが密集しています。
スナックの看板が乱立します。
夜になるとタクシーが行列を作ります。
艶やかなネオン街。
中村旅館(旧遊廓)の前の通りを南側へ進むと商店が建ち並んでいる一画があります。
年代を感じる理容室の建物。
水色のタイルで統一されています。
軒下のテントは、理容室のサインポールと同じ配色。
中村旅館の玄関を入ると、目の前に赤い漆塗の階段があります。
漆がすり減った手摺はとても低く、遊女がここに並んでお客様を出迎える顔見せの場所だったともいわれています。*1
2階から階段を見下ろすと、急な階段であることを実感できます。
2階の階段部分。
【参考文献】
*1 まるごと青森:遊郭の雰囲気残る、黒石市の「中村旅館」
黒石のこみせ通りの南東方向の浦町1丁目にある中村旅館。木造の建物が印象的です。
昭和9年の諸統計*1 によると、黒石には、「松年楼」「大盛楼」「一金楼」「花月楼」の4軒の遊廓がありました。地元の方の話によると「松年楼」は誤りで「松月楼」が正しく、中村旅館の前身は、この「松月楼」でした。
歴史を感じる玄関の門。
地元の方の話によると、当時は、この通り沿いに遊廓が建ち並んでいました。
「産業の黒石(昭和13年刊)」*2 によると、裏町花街の青楼は、「松月楼」「村上楼」「相金楼」の3軒で、量より質といったかたちで十数名の酌女が競っていました。
【参考文献】
*1 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.87
*2 津軽実業新報社: 産業の黒石(津軽実業新報社,1938)P.39
今回は、黒石(青森県黒石市)の町並みと風俗を散歩します。
「こみせ」と呼ばれる庇屋根(アーケード)が続く黒石の「こみせ通り」は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
通りの両側に庇屋根が続きます。
古い民家に牛乳箱が2つ並んでいます。
横開きの箱なので、横向きに設置されています。
弘前市街にある石場旅館は、明治12年小間物屋と旅籠を兼ねた店として開業されました。*1
地元の方の話によると、戦争中は、出征する兵士を送る家族と面会するための旅館として使われたそうです。
玄関を入ると、柱時計が出迎えてくれます。
木製の太鼓橋は圧巻です。
夜の様子。
弘前の歓楽街の中心部にあるMEJIYAゴールデン街。
ビルの中の小路は、複雑に入り組み、階段があったり、独特の雰囲気です。
この通路から、明治屋グランドビル、ニュー明治屋センター、VIVID、さらに明治屋会館につながっています。
ニュー明治屋センター。飲食店や風俗店がびっしりです。;
弘前の遊廓は、現在の北横町にありました。八稿薬舗(現在の八木橋薬局)から東側が遊廓があった場所です。*1
現在は、当時の面影はありません。
掘りが横断するあたりが遊廓の西端です。*1
北横町から東へ折れた道の左側には、高田楼、長栄楼、第二曙楼がありました。*1
【参考記事】
*1 風俗散歩(弘前):ひろさき懐かし地図
弘前市土手町の商店街にある一戸時計店(写真右側)は、「ひろさき懐かし地図」*1 にも記載されている趣のある建物です。
一戸時計店の左側に弘前中央食品市場の入口があります。
生鮮は惣菜などの食糧品が販売されています。
市場は奥まで続いています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(弘前):ひろさき懐かし地図
今回は、弘前(青森県弘前市)の町並みと風俗を散歩します。
駅前の観光案内所で配布されている「ひろさき懐かし地図(マップ)」。昭和10年の弘前の街へタイムスリップすることができます。
昭和10年に発行された「弘前市案内圖」の復刻版です。現存する商店などの建物が色分けされて示されています。
北横町にあった遊廓の妓楼名が記載されています。
田名部川沿いに油田型の銭湯の煙突が二基見えます。
銭湯の「葦の湯」。
銭湯の設備は重厚です。
脱衣場の丸籠と体重計。
田名部川の新大橋近くにある銭湯の寿湯。温泉浴場です。
銭湯の前の畳屋の建物に、寿湯の看板があります。
銭湯脇の材木置き場。
レトロな煙突。
田名部川にかかる大橋を渡ると、徳玄寺があります。
山門をくぐった境内の中に、日本映画の異才と言われた映画監督川島雄三の碑が建っています。
横並びに彫られた井伏鱒二の訳詞が森繁久彌の揮毫で刻まれています。*1
川島雄三は、むつ市に生まれ、松竹大船撮影所に入社し、その後、日活、東京映画、宝塚映画などを渡り歩きました。*1
代表作には、「洲崎パラダイス赤信号」などがあります。芝木好子原作の「洲崎パラダイス」を映画化したもので、赤線地帯「洲崎」を描いた作品です。
【参考文献】
*1 阿部誠也:あおもり文学の旅(北方新社,2006)P.147-p.149
田名部市街を国道279線を北側へ進むと、やがてむつ市立第一田名部小学校がある小高い丘に突当ります。
昭和9年の統計 *1 によると、田名部には、「新喜楼」「大万楼」の2軒の遊廓がありました。
昭和6年の市街図では、小学校の東側の麓に「新喜楼」の記載があります。*2 (裏面に記載されている実業名では、料理屋に分類)
現在は、かつての歓楽街の名残はありません。
小学校がある丘からの遠望。
【参考文献】
*1 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.89 「昭和九年公娼廃止時の諸統計」
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1931)第243號 青森県 田名部町
田名部神社の西側に位置する神社横丁は、もともとは戦後の闇市があった場所で、昭和の時代は、数軒の魚屋を中心に、餅屋、古本屋、駄菓子屋、食堂などが軒を連ねていました。*1
呑みや横丁の雰囲気は十分です。
裏側の通り。
神社横丁の北側のスナック街。
【参考文献】
*1 まるごと青森:神社横丁はしご酒
今回は、田名部(たなぶ、青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
市街の南側(横迎町1丁目)の国道沿いに、「はまなす通り」「天きん通り飲食街」の横丁の建物が建ち並んでいます。
さらに西へ進むと、「ミナト通り遊飲街」。
横丁の裏側は、雰囲気のある路地でつながっています。
田名部神社の南側にある「田名部横丁」。
明治35年、海軍基地の設置が決まると、遊廓設置の動きが活発化し、最終的には、明治38年に現在の大湊新町に小松野遊廓が開かれ、昭和33年の売春防止法が施行されるまで続きました。*1
映画「飢餓海峡」の中で、八重と犬養の二人が一夜を共にした小松野川沿いに並んでいた娼館の建物はすでになく、現在は、きれいな住宅が続いています。*2
唯一、「山港楼橋」という橋の名前に、わずかに歓楽街の名残を見つけることができます。*2*3
昭和9年の統計*4 によると、大湊には、山港楼、新盛楼、竹家楼の3軒の遊廓がありました。
山港楼は、この辺りでは一番大きな遊廓でしたが、いまは人手に渡って更地になっています。*3
山港楼の跡地の北側からの遠望。眼下に陸奥湾(写真左奥)が見渡せます。
【参考文献】
*1 むつ市史編さん委員会:むつ市史 近代編 明治・大正時代(むつ市,1986)P.583-P.585
*2 紀平重成:毎日新聞(1992.11.1 日曜くらぶ )P.1,P.4-P.5 「名作映画を歩く 飢餓海峡」
*3 斎藤作治,鳴海健太郎:はまなす 第25号(2009.11)P.13-P.21「映画『飢餓海峡』ゆかりの地を訪ねて」
*4 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.89「昭和九年公娼廃止時の諸統計」
大湊新町のスナック街は、小松野川沿いから西側へ続いています。
「三善通り」のゲート。
カラフルなスナックの建物が建ち並ぶ歓楽街です。
反対側の「三善通り」のゲート。
今回は、大湊(青森県むつ市)の町並みと風俗を散歩します。
大湊の市街の中心部を小松野川が流れます。
小松野川と国道338号線が交差するあたりの三叉路付近には、スナックが密集しています。
西側の通り。スナック店の共同建築。
明治35年(1902年)に、海軍基地が設置されてから、今日に至るまで、軍隊(自衛隊)と歓楽街は、密接な関係を持っています。
七戸市街の南西部にある「さかた温泉」。
源泉かけ流しの温泉銭湯です。
館内は、広くてくつろげます。
青森県の銭湯でよく見かける券売機。年中無休。朝5時から夜10時までで、入浴料は良心的な値段(270円)です。
スナック熱海の建物。1階には、別のスナックが3店舗ほど。
スナック熱海(2階)への入口。
階段を上るとスナック熱海です。
大型の店舗です。
七戸町の遊廓跡地の近くにある「ふれあい横丁」。
スナックが密集しています。
夜になると、ネオン看板が灯ります。
入口のゲート。
七戸の遊廓(新地)は、現在の東大町にあり、戦後は赤線区域となりました。*1
西側に、開新楼、半月楼、八幡楼、朝日楼、新月楼、東側に、常磐楼、長谷川カフェー、第二四ツ目屋、清月楼、高栄楼がありました。*2
1937年(昭和12年)の日中戦争の頃に、新地に大火があり、大部分が焼失しました。その中で、清月楼の建物は昭和14年に新築され、最後まで残りました。*1
七戸町市街案内俯瞰図*3 に「新地遊廓」の記載があるあたり。
【参考文献】
*1 奥山由蔵:七戸町営業写真家のあゆみ(奥山由蔵,1991)P.7-P.8
*2 大日本職業別明細図
【参考記事】
*3 風俗散歩(七戸):七戸町市街案内俯瞰図
今回は、七戸(青森県上北郡七戸町)の町並みと風俗を散歩します。
JR七戸十和田駅に併設の七戸町観光交流センターには、大正天皇が皇太子時代に同町を訪れた時に使われたとされる「高等官馬車」が展示されています。
他にも、当時の写真や市街の鳥瞰図が展示されています。
七戸町市街案内俯瞰図。大正8年当時の市街の様子が示されています。
町の東側のはずれに、「新地遊廓」の記載があります。
三戸の市街には、古い建物が多く残っています。塔のような形のデザインを持つ建物の隣には、洋風の理容室があります。
長屋風の建物。鮮魚店の隣に美容室。
カラフルなデザインの理容室。
モダンな美容室。
松月旅館の脇。
祠の隣に、碑が立っています。
明治10年に立てられたもので、金勢大明神と書かれています。*1
桐萩に女郎屋ができた頃に立てられたものです。*1
【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.384-P.385
現在、桐萩にある「松月」は、かつて遊廓であり、後には旅館を営み今日では貸屋となっています。*1
遊廓があった頃、検査所と呼ばれる性病検査の場所は、「松月」の向かいにありました。*1
松月旅館だった頃は、料理屋兼旅館だったのだと思います。
松月旅館は、現在は売物件になっています。
【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.384,P.390
明治後半から大正にかけては、女郎屋も増え、桐萩の名は広汎な地域で語られてきました。昭和に入り、戦争が激しくなると、桐萩は衰退し、終戦直後の女郎屋は、「よか樓」「松月」「福徳」「旭樓」の4軒だけとなりましたが、戦後は「赤線」として再び隆盛を極め、昭和33年まで続きました。この時期は、飲食店も充実し、ダンスホールも作られました。*1
昭和33年に売春防止法が実施されましたが、それ以後も料理屋やバー・キャバレーの名で私娼は生き残りました。昭和40年代に入ると、桐萩は次第に振るわなくなり、「函館屋」「カトレア」「ぜん」「とも子」「黒猫」「タンポポ」など、いろいろに工夫された店ができては消えていきました。*1
この頃の住宅地図*2 に、「スナックゼン」「やきとりたんぽぽ」「スナックともこ」などの名を確認できます。
当時の赤線(もしくは青線)の流れを受け継いだと思われる「スナックともこ」の建物が残っています。
スナックともこの看板。女性の笑顔が印象的です。
店の前に横たわる看板。
【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.387-P.390
*2 日本住宅地図出版:三戸郡三戸町(日本住宅地図出版,1983)P.18
今回は、三戸(青森県三戸郡三戸町)の町並みを風俗を散歩します。
三戸の町並みについて述べる時、どうしても外すことのできないのは、紅灯の巷といわれた「桐萩」です。「桐萩」は、公娼の街として開かれ、昭和33年までは、女郎屋、飲食店などが多くあり、「不夜城」を思わせるものがありました。「桐萩」という名前は、遊廓ができてからつけられたものであるといわれています。「三戸城」築城時の永禄年間(1560年頃)に、今の「城山」を削り、梅内、泉山方面に通れるようにした切通しを「切接ぎ」と呼んだといわれています。*1
写真の左奥が城山。写真右側の道が「桐萩」への入口です。
三戸町通史(1979年)*2 に、「遊廓があった桐萩は、今は二、三の飲食店、食料品店があり、そのほか三戸印刷社があって他はほとんど住宅街となっている。」との記述があります。
城山(写真左奥)の急斜面が迫っています。
同じ頃の住宅地図*3 には、スナックゼン、やきとりたんぽぽ、スナックともこ、酒場しろやま、沖田商店、中村商店、三戸印刷社、などの記載がありますが、今は、三戸印刷社が現存する以外は住宅街になっています。
城山から桐萩を見下ろすと、かなりの急斜面であることを実感できます。
【参考文献】
*1 三戸町史編集委員会:三戸町史 中巻(三戸町,1997)P.383,P.385
*2 三戸町史編纂委員会:三戸町通史(三戸町,1979)
*3 日本住宅地図出版:三戸郡三戸町(日本住宅地図出版,1983)P.18
男根の神輿の後に、各町内会の山車が続きます。先頭は「二戸駅前中央町内会」です。
山車の背面には、「がんばろう岩手 金勢様」と書かれ、鳥居、二戸の地酒「南部美人」の酒樽、そして、木製の男根が配置されています。
続く、「前田町内会」の山車の背面には、4本の木製男根。
最後の「六区町内会」。浦島太郎をモチーフにした背面の飾りつけには、男根が配置されています。
枋ノ木神社「金勢祭」の行列は、全酪工場前から出発します。
行列の先頭を行くのは、木製男根の神輿です。
亀頭部分。
約1時間で二戸駅に到着です。
金勢祭の時期、坊ノ木神社周辺には、大人向けの川柳が書かれた短冊が道のあちこちにぶら下げられます。
石の上にも3年。
老いも若きも69。
ウイスキーはトリス。
金勢祭の時期、坊ノ木神社周辺に手作りの行燈が飾られます。行燈の側面に書かれている標語がとてもユニークです。
坊ノ木神社周辺は、スクールゾーンになっている道沿いに、多数の標語が並びます。
「四十八手」は、「相撲の決まり手」や「性愛の体位」を教示してくれるもので、「ありったけのかけひきや秘術(広辞苑)」という意味から生じたものとされています。*1*2
AKB48やNMB48の「48」の由来は、諸説あるようです。
昔、アダルトビデオのタイトルに、「セーラー服と一晩中 (主演:よく締まるひろ子)」というのがあったような気がします。
【参考文献】
*1 三橋順子:性的なことば(講談社,2010)P.182-P.189
*2 白倉敬彦:春画で読む江戸の色恋 増補新版(洋泉社,2011)P.16
今回は、二戸(岩手県二戸市)の町並みと風俗を散歩します。
9月第3土・日曜日は、”やっちゃえ”枋ノ木(こぶのき)神社「金勢祭」です。
「金勢大明神」は、玉山村巻掘(まきぼり)に鎮座している金勢神社から御分神を持ち帰り、奉斉したと伝えられるもので、子宝の神様として広く信仰を集めています。(案内板より)
枋ノ木神社の御神体。金色に輝く男根です。
祠の近くにある男根。
JR釧路線の遠矢駅近くにある「南蛮酊 」。
もともとは、釧路市の歓楽街、末広町で開業した洋風居酒屋「なんばん亭」でした。*1
名物のザンタレ定食に挑戦。
北海道では、鶏のから揚げをザンギといいます。そのザンギをでタレにからめているのでザンタレというのでが、「南蛮酊 」のザンタレは、1人前に使う鶏もも肉が4枚分(約700グラム)もあって、一人で一人前を食べきるのは不可能な量です。*1
ザンタレ定食は1300円ですが、これはザンタレ950円と定食350円を足した金額です。通常は、ザンタレハーフ(600円)を3~4人で頼んで、これにライスを一人づつつけてちょうど良い量です。
【参考文献】
*1 北室かず子:いとしの大衆食堂(北海道新聞社,2013)P.264-265
「ホテル遠矢」の建物は、直木賞受賞作「ホテルローヤル」*1 で描かれている構造(一階が車庫、二階が客室)と同じです。
「ホテルローヤルは、一階が車庫で、二階が客室になっていた。」(第2話「本日開店」)
「建物には、六つの客室があるが、どれもみな同じ間取りだ。一階は車庫で、二階が客室になっている。」(第3話「えっち屋」)
入口付近。
ホテルの塀に沿って設置されている灯籠風のオブジェ。
わらび団地町内案内図に記載されている「ホテル遠矢」。
【参考文献】
*1 桜木紫乃:ホテルローヤル(集英社,2015.6)P.51,P.79
JR釧網本線の踏切(遠矢駅数えて4番目)を渡ったところにある「ホテル遠矢」。
入口のレトロな看板が人目をひきます。
HOTELの「O」の字の部分が温泉マークになっています。
現在は休業していて、土木会社の事務所になっています。
「ホテルローヤル」の建物は現在は無くなっていますが、付近には、2軒のラブホテルが営業中です。場所は、JR釧網本線の踏切(遠矢駅数えて4番目)を渡ったところ(「ホテルローヤル」があった高台の下)です。*1
高台からの眺め。
遠矢駅数えて2番目の踏切。
踏切を渡った先に、「ホテル静」*2 の遺構と思われる「入口の門」があります。
【参考文献】
*1 国土地理院:遠矢1:25000地形図(国土地理院,2009)
*2 ゼンリン:釧路郡釧路町(ゼンリン,1987)P.20
「ホテルローヤル」は、小説「ホテルローヤル」が発表された2013年1月の直前に廃業しました。*1
現在、建物は無くなっていて売地になっています。
舗装されている部分が東側に残っています。ここがホテルへの入口だったのでしょうか。
「山の方にあった『ホテルローヤル』って知ってるか」
「ええ、近くにお墓があるところでしたね」
第2話「本日開店」の主人公の幹子は、貧乏寺の住職の夫人で、寺を維持してゆくために、檀家の男たちと寝ることが当たり前になっている常識はずれの話です。*2
このお墓のことかどうかは不明ですが、近くに「床丹墓地」があります。
第7話「ギフト」では、主人公の大吉が己の夢を託してラブホテルを開業しようとします。
「るり子、すげぇだろうこの景色。ここにラブホテルなんか建てちゃったら、みんな列を作って遊びに来ると思わねぇか。」*2
「ホテルローヤル」跡の西側には雄大な釧路湿原の景色が広がっています。
【参考文献】
*1 桜木 紫乃:青春と読書48(1)(集英社,2013.1)P.18-P.21 インタビュー『ホテルローヤル』刊行記念 自分の思う理想の一編が書けたと思います
*2 桜木紫乃:ホテルローヤル(集英社,2015.6)P.50,P.183,P.213
今回は、遠矢(とおや、北海道釧路郡釧路町)の町並みと風俗を散歩します。
桜木紫乃さんの小説「ホテルローヤル」(第149回直木賞受賞作)は、釧路郊外にあった実名のラブホテルが舞台とした7つの短編から成っています。*1
JR釧網本線の遠矢駅から国道を南下すると、随所に踏み切りがありますが、遠矢駅から数えて5番目の踏切のあたり*2 は釧路湿原と国道が接しており、このあたりが原作*3 で登場する「湿原脇の国道」と考えられます。
第1話の「シャッターチャンス」に登場する踏切と思われる場所。
「車は湿原脇の国道を右へと曲がり、踏切を超えて坂道を上った。」*3 ということは、釧路市街方面から国道を北上し、この踏切を右に曲がったのだと思います。
踏切を超えて坂道を上ります。
古い住宅地図*4 によると、坂を上り切ったあたり(住所:釧路町別保原野南19線)に、「ホテールローヤル」がありました。
【参考文献】
*1 桜木 紫乃:青春と読書48(1)(集英社,2013.1)P.18-P.21 インタビュー『ホテルローヤル』刊行記念 自分の思う理想の一編が書けたと思います
*2 国土地理院:遠矢1:25000地形図(国土地理院,2009)
*3 桜木紫乃:ホテルローヤル(集英社,2015.6)P.13
*4 ゼンリン:釧路郡釧路町(ゼンリン,1987)P.27
第一次世界大戦の好景気に支えられ、士別市街には、12軒の不夜城が軒を並べました。美濃家、都亭、大正軒、松月亭、竹の家、清川、日の出庵、松の家、吉野亭、喜楽亭、いたみや、東京亭などが数えられ、これらの酒楼には芸妓22人、酌婦42人を擁しました。*1
料亭「松の家」があったあたり*2 は、スナック街になっています。
花街の風情は現在はありません。
横から見ると、極端な看板建築であることがわかります。
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第385號
*2 士別市:士別市史(士別市,1969)P.945
大通東7丁目にある寿センター。スナックや居酒屋が集積する横丁風のビルです。
サッポロビールの大看板。
昭和9年の市街図*1 によると、この付近は「壽町」と呼ばれていました。
夜の寿センター。
大正時代、士別にも遊廓の開業計画があり、その場所は寿町と予定されましたが、実現されませんでした。これは、隣接遊廓との距離制限があって、旭川遊廓から二十里(80キロ)以上はなれていなければならぬ、という規制があったためです。*2*3
【参考文献】
*1 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第385號
*2 士別市郷土研究会:士別よもやま話 続(1977,士別市郷土研究会)P.120
*3 泉真泉,荒川荊城:士別発達史(士別発達史編纂事務所,1914)P.127
士別市の歓楽街(東1条5丁目)。「すずらん街」と書かれたアーチ型の看板が連続しています。
スナックや居酒屋などのカラフルな建物が建ち並びます。
歓楽街を西側へ回り込んだあたり。
広告看板が連なっています。
士別の国道40号線沿いの喫茶店。
店の前に等身大のスーパーマン像。足元には、コンクリートブロックとソフトクリーム。
スーパーマンは、惑星クリプトンからの遺児で、普段は新聞社デイリープラネット社で記者として働いているという設定です。
2階には、ギターを演奏する女性のフィギュア。
今回は、士別(北海道士別市)の町並みと風俗を散歩します。
JR北海道宗谷本線の士別駅を下車し、東側へ300mの大通西8丁目に三角屋根の横丁の建物があります。
つくも横丁。
「つくも横丁」は、国道40号線に面した商業ビル「サンシャイン8ビル」につながっています。
夜の「つくも横丁」。
焼尻郷土館は、道指定有形文化財の小納家の建物をそっくりそのまま郷土館として解放しているものです。洋風の木造建築です。
トイレも当時のまままです。
有田焼の便器。
大便器の装飾も見事です。
昭和の初期、焼尻島は、にしん景気で笑いが止まらない時期がありました。昭和8,9年の羽幌町の記録によると、にしんの水揚げが年間1億円を越し、漁民のタンスは札束でぎっしり詰まってしまい、人口3000人のこの小島に料亭や飲み屋が13軒もでき、酌婦の数も40人を越しました。*1
地元の方の話によると、ハート柄の急な坂道(1枚目の写真)を登り 、厳島神社へ向かう坂道の手前を右折した工兵街道記念碑に至るまでの道*2 は、かつての歓楽街で、映画館や遊廓もあったそうです。遊廓は、昭和33年まで続きました。
かつての遊廓跡*3 を偲ぶものは残っていません。
建物の合間からの遠望。
【参考文献】
*1 茂木慎雄,柞木田竜善:島への旅行案内(秋元書房,1962)P.24
*2 羽幌町観光協会:公式ホームページ「天売島・焼尻島手書きまっぷ」
*3 北海道新聞社:「フォト海道」写真データベース「羽幌町 焼尻の遊郭跡」
今回は、焼尻(やぎしり、北海道苫前郡羽幌町焼尻)の町並みを散歩します。
焼尻島へは、羽幌港から「高速船さんらいなぁ2」で35分。焼尻フェーリーターミナルに到着します。
ターミナルは、待合室と管理事務所になっています。
管理事務所の柱には、温度計がかけられています。
温度計に、角海老宝石の名があります。角海老宝石は、ソープランド、ボクシングジムなどを経営する角海老グループの宝石店です。
羽幌町南大通にある理容室の「太田理容院」。
地元の方の話によると、建て替えられていますが、建物のデザインは当時のままだそうです。
手のこんだ意匠。
鮮やかな青色が印象的です。
旧遊廓街は、現在はスナックや居酒屋が密集する歓楽街になっています。
「リップ」という名のスナック。
脇道を入ったところにあるスナック。
夜の様子。
旧遊廓街から脇道を入ったところにある居酒屋「ほろ」。赤線建築のような意匠です。
建物の後ろ側は木造建築です。
建物の脇のタイルの装飾。
隣の道路からの遠望。
南3条の羽幌川沿いの通り。旧遊廓街の1本北側の通りです。
飲み屋横丁の建物。
「その筋の達に依り...」
同じ通りの南東方向にある居酒屋「いこい」。印象的な看板建築です。
今回は、羽幌(北海道苫前郡羽幌町)の町並みと風俗を散歩します。
羽幌は、北海道北部の西海岸にある町で、かつては、道内有数の炭鉱の街でもありました。
明治27年、道庁告示第94号羽幌市街地の羽幌川沿いの南四条、南五条、南六条の地域が貸座敷免許地に規定されました。*1
地元の方の話によると、現在の南三条、南四条にかけてが、遊廓があった場所で、お食事の店「みずほ」の左隣には、つい数年前まで遊廓の建物が残っていたそうです。
料理屋や旅館に混じって、遊廓の建物が残っていたそうです。
いくつかの場所を教えて頂きましたが、現在その面影はありません。
【参考文献】
*1 羽幌町史編纂委員会:羽幌町史(羽幌町,1968)P.570
「北のカナリアパーク」は、2012年制作の映画「北のカナリアたち」を記念した施設です。礼文島の南端に位置し、利尻富士の眺めがすばらしい場所です。
映画ロケのために建てられた校舎ロケセットがそのまま残されています。
校舎内にはロケ時の写真や衣装などが展示されています。
パークから見る利尻富士の絶景。
香深の市街には、名物の「ウニ」や「ホッケのちゃんちゃん焼き」が食べれる飲食店が軒を連ねます。
「海鮮処かふか」に、「礼文町全町明細図(昭和37年)」が掲示されていました。
かつての遊廓があった通りの西側(写真上部)は、この頃は住宅地になっています。
船泊港遊廓があったと思われるあたりは、この頃は、割烹料亭などが散在していたようです。
「礼文島明細地図」に記述のある久種湖畔の「新遊廓(船泊港遊廓)」*1 があったあたり。日本最北(樺太を除く)の遊廓です。
久種湖畔展望台に登ると、船泊市街を遠望できます。
遊廓があったと思われるあたりは、現在は久種湖畔キャンプ場になっています。
周囲は、山と湖に囲まれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(礼文):礼文町郷土資料館
礼文町の船泊は、稚内の市街よりも、北に位置するので、日本最北の町と言うことができます。
最北の町にある銭湯の「船泊湯」は、日本最北の銭湯です。
営業は、午後4:00からです。
銭湯の裏側。
香深にある「礼文町郷土資料館」。
明細36年に制作された「礼文島明細地図」が展示されています。当時の人口は礼文村5028人、香深村4850人で、計9878人で、両村とも、鰊(にしん)と昆布が主産物でした。(案内板より)
久種湖の近くに、「新遊廓」と記載のある一画があります。遊廓内には、料理屋もあった模様です。
地図の裏面に記載されている実業人名。「新廓内」と記載のある料理屋もあります。
香深の市街にある渡辺旅館。
古い建物が目を引きます。
旅館の1階には、ランプ、そろばん、蓄音機など、当時使われていた道具や器具が展示されていて、まるで博物館のようです。
渡辺旅館の焼印。
今回は、礼文(北海道礼文郡礼文町)の町並みと風俗を散歩します。
香深は、礼文島の東海岸に位置し、香深港は、現在では礼文島唯一の玄関口です。
昭和15年の資料*1 に、香深の貸座敷業「三浦屋」「金盛楼」の記載があります。
礼文島南側の香深の市街地から道道765号線の坂道を登りと、右手に厳島神社の鳥居が見えてきますが、この先が貸座敷があった場所です。*2
北側(写真右側)に、「三浦屋」「金盛楼」、南側(写真左側)に松月楼がありました。*2
松月楼があったと思われるあたり。*2
この坂を上ったところには、劇場がありました。*2
【参考文献】
*1 渡辺利三郎:銃後の香深(渡辺利三郎,1940)広告欄
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第395號
蒲田駅南口の「ホテル末広」は、昭和27年開業で、当時は「温泉旅館」でした。開業時は「玉屋」という旅館でしたが、手相占いに見てもらったところ「末広」が良いというのですぐに名前を、「末広旅館」変えました。当時、隣には「白蘭」というキャバレー(後のキャバレー「モンテカルロ」)があって、バンドの生演奏が旅館にも聞こえ、華やかな雰囲気でした。*1
日帰り温泉(90分1100円)は、銭湯のように黒湯温泉を味わえます。
待合室には、小沢昭一さんが少年だった頃のふるさと蒲田の地図などが展示されています。
待合室では、冷たい麦茶がサービスです。
参考文献】
*1 交通新聞社:散歩の達人(2012.6)P.9 「ホテル末広が語るあの頃の活気と風情」
西蒲田6丁目。通りの向こう側にホテルの看板が見えます。
多摩堤通り。ホテルへの入口を示す多数の看板。
趣のある路地。隠れ家的な雰囲気のラブホテルです。
屋上の看板には、ビジネスホテルと書かれていますが、「ビジネス」の部分が白く塗られて消された跡があります。
西蒲田7丁目の東京蒲田病院の南側に、小規模なスナック街があります。
昭和レトロな店舗が建ち並びます。
建物の角がR形状となっているアパート。
長屋風の建物のつなぎ目の部分の意匠。ウイスキーの瓶のような形状にデザインされています。
蒲田駅東口の繁華街の交差点の角にある建物。
建物の側面には大衆割烹「川和路」。かつては料理屋だったようです。
建物の右側半分は、アパートのような造り。
昔、お風呂場で見かけたようなタイルです。
蒲田東口中央通りにある激安自販機。黄色で目立っています。
自販機の脇には、ラブドールと思われる女性の人形。名前は「みなみ」さんだそうです。
激安の理由は、1日1000本売れているためです。
「1本買って♡」。
蒲田東口中央通りの先にある歓楽街。カラフルな飲食ビルが建ち並びます。
小規模ですが、スナックや居酒屋が密集しています。
さかさ横丁と呼ばれているようです。
「大女優」。映画の町らしい店名です。