今回は、真金町・永楽町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
京浜急行の黄金町から5分ほどのところに横浜橋商店街があります。
商店街の中ほどで、鮮魚店や精肉店が並ぶ路地が交差します。

路地の中に入っていきます。短いですが幅が狭く、昭和の時代を感じる路地です。

路地を抜け、逆方向から見ると、「横浜橋市場」と書かれた看板があります。なぜか鉄腕アトムが描かれています。

隣では、一杯飲み屋が営業中です。

今回は、真金町・永楽町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
京浜急行の黄金町から5分ほどのところに横浜橋商店街があります。
商店街の中ほどで、鮮魚店や精肉店が並ぶ路地が交差します。

路地の中に入っていきます。短いですが幅が狭く、昭和の時代を感じる路地です。

路地を抜け、逆方向から見ると、「横浜橋市場」と書かれた看板があります。なぜか鉄腕アトムが描かれています。

隣では、一杯飲み屋が営業中です。

黒川金山は、武田信玄の軍資金を賄った金山として知られています。黒川金山へは、丹波山から青梅街道沿いに多摩川をさかのぼり、「おいらん渕」近くの三条新橋から水源林管理のための道を行きます。

「黒川金山循環歩道」は、戦国時代、「黒川千軒」と呼ばれた鉱山町跡を巡る歩道です。この歩道を登りきったあたりに、近代のものと思われる坑道の入口があります。*1

黒川山の頂上の東端は、その岩峰から、黒川鶏冠山と呼ばれています。黒川鶏冠山の山頂には、鶏冠権現社奥宮があります。*1

「黒川千軒」の近くには、金山杭夫慰安の遊女を置いた場所(女郎ゴー)がありました。場所は、黒川谷の北川の尾根を越えた黒川山の中腹とされています。*1

【参考文献】
*1 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.18
丹波山のバス停から、青梅街道を柳沢峠方面へ向かいます。このあたりは、丹波渓谷と呼ばれ、青梅街道が開通するまでは未開の地でしたが、今では、道路沿いの渓谷美と紅葉を楽しむことができます。
この写真の橋を渡った先に、おいらん渕があります。

道路がカーブしたところの小さな空き地に、案内板が立てられ、おいらん渕の由来が書かれています。おいらん渕は、戦国武将の武田家が滅亡する際、黒川金山の遊女たちがまとめて始末されたという悲しい伝説が残る場所です。
おいらん渕という名前は、明治時代、現場でこの話を聞いた東京都市議会議員の坪谷水哉議員が命名したという説があります。*1

付近は交通事故の多発地帯として知られていますが、おいらんの亡霊の呪によるものとも言われています。そのため、鎮魂供養の木柱が立てられています。*2

案内板は、どの場所がおいらん渕であるかを明確に示していません*3が、滝の下の極端に狭くなった深い暗いゴルジュがおいらん渕であったのではないでしょうか。

【参考文献】
*1 田島勝太郎:奥多摩・それを繞る山と渓と(山と渓谷社,1935)P.255
*2 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.25
*3 大藪宏:戦国武田の黒川金山(山日ライブラリー,1995)P.158
丹波山のバス停から15分ほど歩いた奥秋テント村の近くに、「おいらん堂」と呼ばれているお堂があります。

案内板によると、おいらん堂の由来は次の通りです。
戦国時代、甲斐の武田氏を支えた甲州金は、ここから西方約9Kmのところにある黒川金山から産出されたものといわれ、黒川金山には採掘坑夫の慰安のために遊女がいました。
金山閉山のとき、遊女たちから金山の秘密が漏れるのを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、慰安と称してその上で舞を舞わせました。舞の最中、ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも遊女たちを淵へ沈めました。このことから「おいらん淵」の伝説が生まれました。
下流にある奥秋部落には遊女の死体が多く流れつきました。哀れに思った村人たちは、遊女たちの亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬りました。
現在のお堂は昭和63年に再建されたものです。

お堂には、花魁と書かれた位牌が安置されています。

「デク」と呼ばれる木で彫った人形。

今回は、丹波山(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。JR奥多摩線の終点の奥多摩駅で下車し、そこから、丹波行きの西東京バスを乗りついで約1時間で丹波山に到着します。

バス停の近くにかつて飲食店だったと思われる建物があります。

2階の窓の部分に竹や鳥などの図案が彫り抜かれています。

1階の柱に残っていた鑑札。「二十才未満の者はおことわりします。上野原警察署」「営業時間は午後11時までなので、ご協力ください。」「山梨県公安委員会」と書かれています。

1991年5月、芝浦の空き倉庫に、「ジュリアナ東京」がオープンしました。ボディコンの女性が羽根扇子(ジュリ扇)を振り回しながら踊る、高さ1.2mのお立ち台が名物で、最初に扇子を持って踊りだした女性は、後に荒木師匠1 と呼ばれて有名になりました。2
「ジュリアナ東京」があった場所は、ボウリング場の「東京ポートボウル」の隣で、現在は、スポーツ用品店になっています。*3

スポーツ用品店は、当時の「ジュリアナ東京」の建物をそのまま使用しています。また、店内には、併設のカフェのカウンタ、正面の大型モニター、2階へ上がる階段など、当時のままで使用されています。3
1992年の夏頃からジュリアナ報道は過激の一途をたどりましたが、1993年4月に、お立ち台の下からの「パンチラ撮影」が禁止されると、報道は一歩進んで、「なぜ彼女たちはパンツを見せても平気なのか」と分析する方向に向かいました。4

「ジュリアナ東京」は、日商岩井の折口氏、イギリスのレジャー企業ウェムブリー社、そして東京倉庫運輸など、数社の寄り合い所帯でスタートしました。その後、数々の内紛があり、お立ち台が撤去されることにより客足が遠のき、1994年8月に閉店しました。*5
「ジュリアナ東京」があった場所(東京ポートボウルの隣)」には、東京倉庫運輸が芝浦に進出してきたときに建てた稲荷神社があります。案内板によると、進出当時、小さな祠があったものを東京倉庫運輸が稲荷神社として整備したそうです。

「ジュリアナ東京」をプロデュースした折口氏(現グッドウィルグループ6 会長)は、1994年に、六本木に巨大ディスコ「ヴェルファーレ」をオープンしましたが、やはりオーナーと意見が合わず経営から離脱。その後、人材サービス会社を起業し、介護事業の「コムスン」も傘下に収めましたが、三たびディスコ経営に乗り出す意思はないと公言しています。1
芝浦には、もう一つ、「芝浦ゴールド」というディスコがありましたが、今はマンション(下の写真)になっています。*3

【参考文献】
*2 週刊文春(2005.8.11,13)P.191「ジュリアナ東京プロデューサーが告白「羽根扇子」大流行の謎」
*3 浅妻千映子:週刊文春(2000.12.28)P.173-P.175「ポストバブルは「ジュリアナ東京」で始まった(追跡 あの店は今・・・時代の主役はスターより店だった)」
*4 岩下 久美子:文芸春秋(1993,10)P.372-P.379「ジュリアナに豚印OLはいない」
*5 桐山秀樹:文芸春秋(1994.10)P.356-P.361「ジュリアナで踊った人踊らされた人–華やかなお立ち台の裏の金銭を巡るドロドロ」
【参考URL】
*1 荒木師匠ネット
*6 グッドウィルグループホームページ
芝浦が花街として発達を見たのは、明治時代からでした。昭和の初期には、芸者屋74軒、待合73軒、がありました。*1
JR田町駅から徒歩約10分、ヤナセ本社ビル近くに、芝浦花街の見番として使用されていた協働会館の建物があります。現在は、保存のため、建物全体にネットがかけられています。

協働会館は、当時の三業組合長であった細川力蔵氏が大半を出資し、三業組合に寄付したものといわれています。細川氏は、目黒雅叙園を築き上げた人です。
太平洋戦争が苛烈になるにしたがい、東京港付近に重要な倉庫が密集し、空襲の中心になる恐れから、芝浦花街は、疎開、移転し、三業組合も解散しました。*2

昭和20年に戦争が終わりましたが、協働会館の周辺は、幸運なことに空襲の被害から免れました。元の見番の建物は、東京都港湾局の所轄になり、港湾労働者の宿泊施設として管理され、「協働会館」と名付けられました。
この頃から、芝浦は花街ではなく港町の産業(倉庫・運輸など)・住宅地へと性格を変えていきました。*2

この建物の所有者である東京都港湾局は、一時期、解体計画を発表しましたが、地元の住民がこれに反対し、現在では保存運動が展開されています。*3
東京都では、小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存することなども検討しましたが、敷地や予算などの問題で実現していません。*4

【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930)
*2芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8-P.28
*3 THEMIS(2005.12)P.90-P.91「三信ビル、協働会館など 建物を守らない日本の建築文化を問う」
*4 東京人(2003.3)P.89「特集 たてもの保存再生物語」
今回は、芝浦の町並みと風俗を散歩します。
芝浦は運河の町です。この日(10月22日)は、今年で3回目を迎える「芝浦運河まつり」が開催されていました。

芝浦運河まつりの会場に、「協働会館コーナー」がありました。

協働会館は、昭和11年に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。*1

冊子「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(500円)が販売されているので、1冊購入しました。

【参考文献】
芝浦・協働会館を活かす会:協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8
北品川2丁目の商店街に天神湯という銭湯があります。品川には、お寺などに、赤レンガの塀が多く残っていますが、銭湯にも赤レンガの塀が残っています。

正面の入口。玄関の格子模様がいい感じです。

ここの銭湯は、手ぶらで入浴できるので、散歩に最適です。入浴セットは、タオルと石鹸、シャンプーがセットになって100円です。

中には、小さな庭があって、鯉が泳いでいました。木製の長いすや、木製の床などが光輝くほどきれいに磨かれています。昭和レトロのお手本のような銭湯です。

品川には、たくさんの寺がありますが、その中で、投込寺と呼ばれている寺が海蔵寺です。たたずまいは、静かで清楚な寺です。

かって、品川遊郭があった時代、この遊郭で死んだ遊女がこの寺に投込まれました。他に、寺には、品川京浜電鉄轢死者の碑や関東大震災横死者の碑などがあります。

たくさんの石仏や墓石を一つにまとめた供養塔があり、「無縁首塚」と名前がついています。

この供養等の墓誌には、次のように書かれています。
(1)鈴ヶ森刑場で処刑された罪人の首を埋葬
(2)品川遊郭の遊女の霊
(3)品川京浜電鉄轢(れき)死者の霊
(4)品川海岸溺死者の霊
(5)品川行路病横死者の霊
(6)関東大震災横死者の霊
いろいろな、無縁仏を一つにまとめたもののようです。

北品川公園周辺は、小泉長屋と言われる町並みが残っている場所ですが、ここには、公園の周囲だけでも4基の手押しポンプが残されています。

北品川公園裏にある手押しポンプ。このように道のど真ん中にあるのが特徴です。但し、このポンプは水ににごりがあり、使用禁止となっています。

北品川公園の入口付近の角地にある手押しポンプ。路地の風景とよく調和しています。北品川公園周辺には、もう1基、公園を回り込んだ路地に、手押しポンプがあります。

北品川1丁目ビジネスホテル清美荘近くの路地にある手押しポンプ。この他にも品川2丁目26の花屋の脇の路地を下った所にも1基ありました。

旧街道の両側には、横丁が何本もあります。そのうちの1本の路地を下ると、「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているビジネスホテルがポツンと1軒あります。
街道と交差する東側の横丁は、このようにすべて海側に向かって下っています。つまり、品川宿の街道は、斜面を通っているということになります。(写真の奥が街道側です。)

看板には、「ビジネスホテル」と書いてありますが、旅館の風情です。

裏手から見たところ。

旧街道沿いにも同じ名前のビジネスホテルがありました。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.37
明治時代、品川宿には、貸座敷が何軒も並んでいました。その中で、品川一の貸座敷と言われたのが島崎楼です。現在、跡地にはビルが建っています。*1

幕末に活躍した高杉晋作ら長州藩尊譲派が集合場所とした、歩行新宿の相模屋、通称「土蔵相模」は、品川宿有数の旅籠屋でした。明治以後は、貸座敷「相模楼」となり、戦後は、さがみホテルと名を変えました。1982年に取り壊され、現在は、コンビニのファミリーマートが入るビルとなっています。*2

コンビニの前に案内板があります。「土蔵のような海鼠壁だったので、土蔵相模と呼ばれていた。」と書かれています。

歩行新宿(北品川1丁目)。風情のある商店街です。
赤線跡を歩く*3 では、この写真の右側のコンビニが土蔵相模跡地と紹介されています。

【参考文献】
*1 秋谷勝三:品川宿遊里三代(1983,青蛙房)P.105-P.107
*2 品川区教育委員会:東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新(品川区立品川歴史館,1999)P.35
*3 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.38
「北品川の古い家並み」の南側の天王洲運河は、昔はここまでが海岸線だったところで、今でも海岸線の名残が感じられます。

この日はボラがたくさん泳いでいました。

運河の北側は、品川駅方面です。こちら側にも屋形舟がたくさん停泊しています。運河の向こうには、古い民家が数棟残っていますが、その向こうには、駅前の再開発によってできた高層ビル群が景観を圧倒しています。
写真左側には、都営北品川アパートが見えます。

都営北品川アパートから見た天王洲運河と屋形舟。手前には、「古い民家の家並み」が見えます。

「北品川の古い民家の家並み」。

そのうちの1軒の玄関脇に牛乳箱が残っていました。

明治牛乳の牛乳箱。

側面がガムテープで補強されています。

今回は、品川(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
品川宿は、北から、
①歩行(かち)新宿(現在の北品川1丁目)
②北品川宿(現在の北品川2丁目)
③南品川宿(南品川1~3丁目)
の3つの部分からなっていました。
品川宿は、江戸時代に出来ましたが、②北品川宿と③南品川宿が初めに出来て、後から①歩行新宿が作られました。①歩行新宿は、本宿(②)の手前に出来た新興の盛り場で、江戸に近かったため、最も賑わいました。*1
北品川1丁目に、「しながわ百景」に指定されている「古い家並み」が残っています。

生活感のある路地。

長屋の建物が続きます。

昭和の風景が現在も残されています。

【参考文献】
*1 海野弘:ユリイカ(1994.7)P.8「品川宿繁昌記」
終戦直後、政府の要請で、連合軍将兵のセックス処理を目的とした、R・A・A(特殊慰安施設協会)が発足しました。資金の貸付の保証と慰安婦募集の黙認を国家から約束されたR・A・A(実際には業者が運営)は、銀座通りなどに大看板を掲げて堂々と女性を集め始めました。*1
「新日本女性に告ぐ。戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」
「女事務員募集。年齢18才以上25才まで。宿舎・被服・食糧など全部支給」
こうして集められた慰安婦の第一陣が、慰安所第一号の「小町園」に送り込まれ、昭和20年8月27日に開店しました。*1 場所は、現在の大森のいすゞ本社近くのあたりでした。

「小町園」があった場所*2 は、現在はマンションが建ち、当時の面影はありません。

近くに、料亭風の建物が残っていました。「小町園」は、こんな感じの建物だったのかもしれません。

「小町園」の女性たちの中には、耐え切れなくなって京浜急行の線路に飛び込んで自殺した人もいたそうです。*1 現在、京浜急行の線路は高架化されています。
その後、慰安所の数は激増し、R・A・Aが解散した後は、そのほとんどが、赤線地帯として残り、売春防止法によってネオンが消されるまで繁栄しました。*1

【参考文献】
*1 小林大治郎,村瀬明:国家売春命令(雄山閣出版, 1992)P.12-P.23
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.119
今回は、大森(東京都大田区)の町並みと風俗を散歩します。
ビジネス雑誌の「プレジデント」に次のような記事が掲載されていました。*1
「米兵専用慰安所・小町園があった場所には、今、マンションが立っている。近隣のマンションの1階には、その時の名残か、『こまち』という名の店があった。」
実際に、この店に行ってみました。「小町園」があったとされる場所*2 からは、京浜急行の線路をまたいだ反対側にあり、距離も少し離れています。

入口に、「秋田地鳥 比内鳥...」と書かれています。

お好み焼きともんじゃ焼きの店のようですが、ランチタイムは、稲庭うどんと定食が主力メニューです。

「こまち」は「小町園」の名残というよりは、「秋田小町」の「こまち」であるような気がしますが、余計な詮索はせずに、この店が「小町園」の名残と思って、入ってみることにしました。
稲庭うどんセットと瓶ビールを注文。そうめんのように細い稲庭うどんは絶品でした。

【参考文献】
*1 下川耿史:プレジデント(1999,10)「敗戦国の女たちが見た夢RAAとパンパンガールの時代」P.250
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002) P.119
秋葉原の石丸電気の隣に講武稲荷神社があります。

講武稲荷神社は、花街の繁栄に貢献顕著だと言われ、近隣の関係者はもちろん、向島からも参詣者があったとされています。(説明文より)

このあたりは、旧町名で、旅籠町と呼ばれていました。旅籠町は、もとは、昌平橋外河岸通りにあって、そこは板橋宿・川口宿への街道筋にあたって旅籠屋が多かったことから旅籠町と名づけられました。その後、移転や合併により、現在の外神田1・3丁目の一部となりました。*1
稲荷神社に旅籠町町会と書かれた街路灯が記念に残されています。

今でも、旅籠町の名残を見ることができます。(古美術茶廊「伊万里」にて)

【参考文献】
*1 竹内誠:東京の地名由来辞典(2006,東京堂出版)P.326
秋葉原のメインの通りから少し奥へ入ったあたり(外神田三丁目)は、パソコンのパーツの店などが並びます。その通りから路地一本入ったところに牛乳箱があります。

なんと、牛乳箱が2つ付けられています。以前、大和郡山で、縦に2つ並んだ牛乳箱を見かけましたが、今回の牛乳箱は、前面と背面が合体しています。

駅前に最近できたUDXビルの前に、昔の路地の雰囲気が残る場所があります。右側の古い商家の軒下に森永牛乳の牛乳箱があります。

京都で見かけた森永の牛乳箱と違い、ロゴや名称がはっきりと読めます。「ビタミン入り」や「ホモ牛乳」のロゴがあるのは、東京の森永牛乳の牛乳箱の特徴であると思われます。保存状態も良く、名品です。

秋葉原駅前にあるゲーマーズ本店限定のキャラクター缶ジュースの自販機は、5種類の絵柄からランダムで出てきます。どれが出てくるかは、買ってみないとわからないという点では、ガチャポンのような自販機です。

1本購入してみました。中身は、普通のオレンジジュースです。

ガチャポン会館。1Fのフロアはすべてガチャポンで埋め尽くされています。

ガチャポン会館には「エロポン」と呼ばれるアダルト向けのガチャポンもあります。エロポンは、店内の奥まったところに2台あります。
エロポンは組み立て式になっていて、説明書に組立て方が書かれています。説明書によると、このシリーズ「美牝・淫虐の館 縄艶妖花」は全8種で、今回出てきたのは、「⑥恥辱の媚肉花器(ちじょくのびにくかき)」というタイトルのものでした。

裏通りの古いビルにも、アキバ文化は進出しています。こちらの○○商店と書かれたビルは、1階は自販機置き場になっていますが、2階、3階はメイド系の店舗が入っています。

3階のドール販売店の看板。抱き枕やダッチワイフが大量に展示されています。

秋葉原は、メイド系の店にもさまざまな業態があります。こちらは、メイドのめがね屋さん。本物のメガネを売っています。店員の女の子は高級メイド服を着て、ハイヒールを履いています。

1階と2階がメガネ売場。3階が高級メイド服売場になっています。

総武線のガード下。日曜日は歩行者天国となる秋葉原のメインの通りです。家電量販店に混じってアダルトショップのチェーン店があります。

店の入口の右側には、、「エプロンブルマ」なるコスプレを着たマネキンがあり、「18歳未満及び高校生の入店不可」と書かれています。「入店不可」と書かれると、逆に入りたくなる衝動にかられます。

店の入口の左側には、「スク水エプロン」。スクール水着とエプロンが合体したものと思われます。

股間の部分にチャックがあるデザインです。

歩行者天国にある人寄せ行為禁止看板。

外神田3丁目の公園の近くにあるゴミ捨て禁止の看板。「あなたに公徳心はありますか。」と書かれています。「ゴミ捨て場ではありません。ゴミ容器置き場です。」と書かれているのも非常に解りやすいと思います。
公徳:社会生活をするうえで守るべき道徳(「大辞泉」より)

外神田3丁目の公園にあるもう一つの看板。
「護美」は、漢文風に訓読すると「美を護(まも)る箱」という意味*1 ですが、この看板では、さらに、くさかんむりがついています。

駅前のラジオセンター横の路地の壁の注意書き。JRは民営化される以前は、「国鉄」と呼ばれていました。

※1『朝日新聞』の1962(昭和37)年12月10日付夕刊の「今日の問題」という記事に、「護美箱」に関する記述があります。
今回は、秋葉原(東京都)の町並みと風俗を散歩します。
JR秋葉原電気街口を出たところのアキハバラデパート前の広場は、多くの人たちで賑わっています。

駅前の電気街は、昔も今も人通りが多い場所です。

駅前の広場には、店への誘導を目的とした立て看板を多く見かけます。中にはベニア板の手作り製の看板もあります。

自転車を利用した立て看板があります。ベニヤ板の看板を角材2本で挟み、自転車の後ろの荷台に、ゴム製のロープでがっちりと固定されています。

旧遊廓の北側の駐車場の角に石仏があります。昔の町らしい風景です。

八日市新地遊廓の中には、無縁仏供養の石仏群がありました。今は移転されていますが、大正末期頃までは、遊廓の中にあり、石仏群の裏には、生蓮寺という寺と寺墓がありました。*1
(写真の石仏が旧遊廓内にあったものかどうかは不明です。)

小さな石仏群。

裏側から見たところ。多数の植木が置かれています。

旧清里楼。この家の道を挟んだ向かい(写真左側)に、無縁仏石仏と寺墓がありました。現在は、移転しているそうです。*1

旧三玉楼。*1 紅柄格子が美しいお宅です。

旧東楼。*1 こちらのお宅の紅柄格子も立派です。軒下になぜかコンクリートブロックが置かれています。

旧浅常楼。*1 庭木との対比が美しいお宅です。

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427
八日市には、かつて遊廓がありました。明治30年の記録では、貸座敷業25軒、料理業47軒、飲食店203軒がありました。遊廓への入口には、大門があり、この門をくぐり抜けると招福楼の黒塀(写真右側)がありました。黒塀の中に入ると玉砂利が敷かれてあって、招福楼の正面玄関には、舞子と芸者が招き入れてくれたそうです。*1
現在は黒塀はなく、代わりにコンクリートの塀があります。

招福楼の裏口のあたり。コンクリートの塀で囲まれた敷地は広大です。当時の招福楼がかなり大規模であったことが解ります。

旧大正楼。*1

旧角正楼。*1

【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌13(三一書房,1992)P.383-P.427
旧遊廓内には、スナック店が点在しています。ほとんどは本町12番地の一画です。

旧招福楼南東の四つ角付近。

スナックマナミの路地。

東側の通り。

今回は、八日市(滋賀県)の町並みと風俗を散歩します。
八日市の駅舎は、関西の名駅100選に選ばれました。

駅前に、金属製の洒落たデザインの箱があります。

水色のラインがアクセントになっています。脚の部分に、プレートが貼られていて、「『青少年に良い環境を』滋賀県青少年育成県民会議」と書かれています。

アダルトビデオが氾濫する今日、白ポストは無意味なものかと思っていましたが、八日市の白ポストは、マルチメディア対応済みです。「子どもに有害な図書やHビデオを入れてください。」と書かれています。「アダルトビデオ」ではなく、「Hビデオ」と解りやすく表現されています。

今里新地近くの牛乳販売店。

森永自販機脇に見える「白バラ牛乳」の文字。

「白バラ牛乳」は、鳥取県大山乳業農業組合が生産する牛乳で、鳥取県民には、広く浸透しています。白ばらの花言葉は、「わたしはあなたにふさわしい」で、白い牛乳のイメージにぴったりであることから、この名前になったそうです。*1

近くで見かけた白バラ牛乳の牛乳箱。中央にバラの絵が配置されています。

*1 鳥取県大山乳業農業組合:農林経済(2000.3.30)P.8
生野小路郵便局の近く、大阪府道159号平野守口線の住宅街。

商店がまばらに建ち並ぶ通り沿いに、銭湯の朝日湯があります。

温泉マークのある看板。

朝日湯と書かれた煙突。

新今里公園の片隅に、今里稲荷があります。今里稲荷は、新地開設直後の昭和5年、今里土地株式会社が、土地繁栄を祈願するために、伏見より勧請して稲荷さんを祀ったのが起こりです。以後、新地の守護神として崇められています。*1

鳥居には、「今里新地」。

玉垣に、「今里土地株式会社」の名があります。
指定地発表の当時、この辺りは湿地帯で、一帯の土地は、大阪電気軌道株式会社(現在の近鉄)が所有していました。
大阪電気軌道株式会社は、所有地の土地を現物出資して、今里土地株式会社という子会社を設立して、新地建設に乗り出しました。*1

鳥居のすぐ近くの柵にある「小便スルナ」の看板。

【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.195 P.197
今里新地に隣接し、新今里公園があります。新今里公園は、新地開発の一環として、景観の確保と万一の際の住民の避難所を目的に作られ、近代都市として理想的な新市街を現出しました。*1

公園内には、昭和14年、区画整理完了を顕彰した碑(高さ:5間)が建てられましたが、今は「大阪市片江中川土地区画整理組合竣工記念碑」という刻文と記念碑の写真を掲げた石碑があるのみです。*1

かつての碑の写真。

区画整理完了を顕彰した碑は、公園の広場中央のこのあたりにありました。

今里新地は、区画整理事業として建設されたため、東西南北碁盤の目のように整然と区画され、その中央部分に新今里公園が配置されています。*1
【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.196 P.199
今里新地の南北に走るメインの通りには、飲食店が並んでいます。

今里新地内の古い旅館の佇まいの中に飲食店が混在しています。韓国焼肉店、韓国食料品店など、韓国パワーを感じます。

韓国食堂(写真右手前)。

韓国焼肉の店。

新地の中心部に「今里花街協同組合」の看板を掲げた事務所があります。

この組合の前身(と思われる)「今里新地芸妓組合」は、昭和5年3月26日に設立されました。

「今里花街協同組合」が、お店を管理しているためか、お店の提灯などは、すべて統一されています。

「今里花街協同組合」と書かれた提灯があります。

今回は、今里(大阪府)の町並みと風俗を散歩します。
近鉄今里駅を下車し、商店街を5分程歩き、右へ曲がったところに今里新地があります。入り口には、「今里新地」とかかれたゲートがあります。夜になると赤いネオンで光ります。

現在でも、数十件の店が現役の風俗店として営業しています。人通りは少なく、落ち着いた料亭の佇まいが続きます。

料亭は、普通の家を改造したのではなく、最初からお茶屋向きに建築されたものばかりです。*1

大阪の他の新地と比べると、町そのものが緑化されているので、明るく、ごく普通の町並みといった感じがします。

【参考文献】
*1 南博(編):近代庶民生活誌第13巻「今里新地十年史」P.194
旅館「松栄」は、東岡町の遊廓跡の中でも最も大型の三層楼の遺構です。(写真の右点前は北側の入口)

建物は、南側の道にも面しています。

周囲が住宅街に変貌していくなか、この建物だけが異彩を放っています。

南側にも入口があります。(写真右奥)

近鉄郡山駅を線路沿いに南へ5分ほど歩くと、東岡町です。ここにも遊廓がありました。三階建ての木造建築が連なっています。

大衆居酒屋「義」のある通り。道の両側に大型の木造の建物が連なっています。

くの字を描いて東西に続いています。

大衆居酒屋「義」の看板があるあたりから東側を見たところ。

明治25年制定の「貸座敷娼妓営業取締規則」では、大和郡山市の洞泉寺町、東岡の2箇所に貸座敷娼妓営業の区域がありました。*1
洞泉寺の周辺には、木造の建物が残っています(写真右奥は洞泉寺)。

大信寺の北隣にある木造の建物。木造3階建ての建物は迫力があります。

同じ建物を正面から見たところ。

ハート型の窓。

【参考文献】
*1 奈良県警察史編集委員会編:奈良県警察史. 明治・大正編(奈良県警察本部,1977) P.428
今回は、大和郡山(奈良県)の町並みと風俗を散歩します。
町の南側には、金魚を養殖する池が広がっています。心温まる田園風景です。
大和郡山の金魚養殖は、奈良盆地の気候条件が養殖に適していることと、溜め池が多いことから、発展しました。
その起源は、宝永年間に佐藤三左衛門という商人が、飼育に精通し、その業を伝えたのが始まりとされ、明治維新後に本格的に名声を勝ち得るようになりました。*1*2

金魚池(正しくは金魚田と呼ぶそうです。)のそばを走る近鉄電車。
郡山市内には、金魚田は、全部で100ha、養殖農家は、約80戸あり、年間8,000万匹の金魚を出荷しているそうです。*3

出荷を待つ金魚(金魚資料館にて)。

金魚池に立つ「ちかん注意看板」。理由は解りませんが、金魚池には、ちかんが出没する模様です。

【参考文献】
*1 柳沢文庫専門委員会:大和郡山市史(大和郡山市,1966)P.831,P.833
*2 三木 理史:総合研究所所報(2006)「大和郡山金魚史料について」P.111
*3 Front(2003.7)「金魚のまち大和郡山を行く」P.7
古市には、牛乳箱も残されています。
森永牛乳の牛乳箱は、普通は縦長ですが、今回見かけたのは横長です。「森永牛乳の4文字があるだけで、「エンゼルマーク」や「ウルトラプロセス」などのロゴはありません。

牛乳箱、ヤクルト、郵便ポストの3点セット。

地元の牛乳メーカーでしょうか。山村牛乳の牛乳箱。コンセプトは、「濃厚牛乳」のようです。

こちらの牛乳箱は、道具箱として2次利用されています。物を大切にする住人の気持ちが伝わってきます。

長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。

備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。

備前屋跡の碑。

備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156
坂をを登っていくと、まるで城郭のような立派な石垣が見えてきます。この石垣は、坂道の斜面に立つ古い大きな家の土台を支えるものです。

この古い大きな家は、元旅館の「両口屋」です。明治30年頃の古市には、遊廓30軒(遊女250人)、料理屋6軒、うなぎ屋4軒、菓子屋5軒、旅館14軒がありましたが、「両口屋」は、そのうちの旅館の1軒でした。*1 かつて、この坂道の両側に広がっていた遊里の賑わいぶりを想像させる建物です。

坂を登り切ったところは、三叉路になっていて、この建物が三叉路の分岐点の目印のような存在になっています。この古い建物の玄関に乗用車が突入しているように見えますが、これは単に駐車しているだけです。玄関前の木が生長しすぎていて、建物の全容が窺いにくくなっているのがちょっと残念です。

建物は、かなり老朽化が進んでいます。

【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971) P.159
今回は、古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
古市には、かつて古市遊廓があり、お伊勢参りの人々で賑わっていました。
近鉄線宇治山田駅から勢田川に向かって10分ほど歩いたところに、「古市参宮街道」の案内板があります。これによると、古市遊廓は日本三大遊廓の一つと紹介されています。

橋の欄干。

小田橋は、伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶ参宮街道の入り口にあたり、江戸時代から勢田川にかかっていました。(「小田橋」の案内板より)

小田の橋の案内板。
伊勢といえば、誰もが古市遊廓を連想するほど、この色里は天下にその名が高く、年間数十万人と言われる旅客の落とす巨額の金銭のほとんどが、古市遊廓に吸収されたといわれています。*1

----「古市参宮街道」の案内板(抜粋)----
「伊勢に行きたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭にうたわれたように、江戸時代、伊勢参りは庶民の夢でした。全国津々浦々から胸躍らせて伊勢参りに向かう人々、特に、慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)、慶長3年(1867年)の「おかげ参り」には、全盛期を迎え、多いときには、半年間に約458万人に参詣者があったと記録に残されています。
外宮から内宮へ向かう古市街道は、伊勢参りと共に栄えました。その中でも古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊廓で、全盛期には、妓楼70軒、遊女1000人を数えました。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.142
渡鹿野島の北西側を進むと、道路下に小さな集落が見えてきます。

「わくわくランド」と書かれたゲート。

現在は草木で覆われています。

反対側の入江と一体となった娯楽施設だったのかもしれません。

渡鹿野島は、観光地化が進んでいます。渡鹿野港の近くに、パールビーチがあります。

小規模なビーチですが、いい雰囲気のビーチです。

近隣には、ホテルが数棟あります。

中には廃業しているホテルもあるようです。

渡鹿野島の町の中心部の通りには、カラオケ店などのスナックが散在しています。

ホテルでの宴会の後の2次会に使用されるのだと思います。

コンパニオンの置屋あるらしいですが、昼間のうちは営業していません。

住居とスナックが混在しています。

今回は、渡鹿野島の町並みを散歩します。

渡鹿野島は、近年は観光地として発展を遂げています。
渡鹿野港近くの「シーサイドホテルつたや」は、渡鹿野島を代表する観光ホテルです。

宿泊した部屋。

ホテルの窓からは、渡鹿野港と周辺の美しい海が見渡せます。
昔、志摩には、「はしりがね」と呼ばれる船女郎がいましたが、渡鹿野島は、「はしりがね」の情緒を色濃く残しており、波止場に船がつくと媚を売る女達が、出迎えてくれる情景が見られたそうです。*1

【参考文献】
*1 岩田準一:志摩のはしりがね(1940)P.57
駅から県道102号線(長沢水戸線)を少し行くと、料理屋だったという楼閣*1 があります。

建物の側面。洋風と和風がミックスされています。

料理店の入り口。

料理店と書かれた納税証が残っています。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.92-P.93
玉川村の駅前のメインストリート。

「赤線跡を歩く」*1 に掲載されていた家がまだ残っていました。

入口に装飾のある窓硝子があります。

店の屋号でしょうか。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.92-P.93
今回は、玉川村(茨城県)の町並みと風俗を散歩します。 玉川村は水戸からJR水郡線で11駅約50分のところにあります。

水郡線は単線で、車両はディーゼル車です。

駅のホームのところどころに、このような面白い形に剪定された木が植えてあります。

駅舎は、山間にとけ込んだロッジ風の駅舎にコミュニティ施設を併設した駅です。「鉄道の日」の関連事業の関東の駅百選に選ばれています。

【参考URL】
関東の駅百選(国土交通省関東運輸局ホームページ)
富士吉田は、唯一、富士山を一合目から上れる登山道の登山口です。まずは、遊歩道を歩いて、一合目を目指します。

三合目まで来ました。

案内板によると、ここには、江戸時代から茶屋(山小屋)が2軒あり、ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者がここで休憩したそうです。

廃屋に「ルミナコ治明」...ではなく、「明治コナミルク」(右から読みます)と書かれた木製ベンチが放置されていました。
明治コナミルクは、1923年に開発された歴史のある乳製品です。*1

【参考URL】
*1 明治乳業(株):明治コナミルクの歴史
本通りの坂道を南へどんどん登っていくと、国道139号線(横町バイパス)へ出て、やがて富士浅間(せんげん)神社へ着きます。富士浅間神社の杉の巨木が神秘的です。

歩道に、償却炉があります。右側のコンクリートブロック製の償却炉の脇にタイルでできたもう一つの償却炉?が置かれています。

側面には、穴が二つあいています。おそらく、かつて浴槽として使われていたものを捨てずに何かの目的で使っているのだと思います。

懐かしい全面タイル貼りの浴槽です。

北裏通りのうどん屋が2軒(べんけい、さいぐさ)建ち並ぶところから東側に入った路地。

山田屋販売店※1 の名が書かれた牛乳箱。

白地に箱に、赤の像のマーク。

武田ホモゲ牛乳、武田ミネビタ牛乳。

下吉田3丁目の商店街。店の側面に、「制服専門」と大きく書かれています。

つちや洋装店は、制服専門店です。

制服を着たマネキンがずらりと並んでいます。

2体のマネキン。

西裏通りから路地を一本入ったところにある元旅館。

まるで、赤線跡の建物のようなモダンな建築です。

パラペット部分のランプ。

隣接する飲食店の建物の丸窓。

富士吉田は、昭和30年代、織物産業が盛んで、県内外から業者たちが集まりました。月江寺駅周辺には、歓楽街の面影が、色濃く残っています。*1
神田堀川の東側にある「ミリオン通り」には、レトロな雰囲気のスナックが残っています。

韓国食品の店ですが、入口の看板にはビデオと書かれています。

ホルモン焼の店。

逆方向(南東側)から。

*1 富士吉田市観光協会:富士吉田市街案内ガイド「富士吉田今昔の旅」
今回は、富士吉田(山梨県)の町並みを散歩します。
富士急行線富士吉田駅を下車してすぐのとこにある食堂の熱海屋。

建物の裏口。

歴史を感じます。

名物の吉田うどんを注文。
富士吉田では、織物産業の最盛期、機織から手を離せない女性に代わって男性がうどんを打っていました。*1

大正12年の関東大震災では、弁天池(花園池)に多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起りました。*1

弁天祠の築山に立つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため、大正15年に創立されたものです。*1

観音様。

関東大震災80周年の碑。

【参考文献】
*1 風俗散歩(吉原):弁天池の案内板(2006.7)
吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。

池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。

金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。

日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)

吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。

右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1

左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2

石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1

*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187
今回は、吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
国際通りを越え、鷲神社の裏手の通りに入りました。

T字路に、「散歩の達人」の特集「街に赤線があった頃」*1 に掲載された扇型の窓を持つお宅があります。雑誌掲載当時は、1階が「三好」という中華食堂でしたが、今は普通の住宅です。

「面白い造りの店だと言われて、映画の撮影に使われたこともあった。」そうです。*1

特徴のある扇型の窓は今でもの健在です。

【参考文献】
*1 大竹誠:散歩の達人(1996.11)P.21
ピンクキャバレーの「日の丸」。独特の派手なネオンは今も健在です。

「自衛隊/学生の方割引」も昔と変わりません。

日の丸が入っている5階建てのビルを裏側から見たところ。1~2階部分にクーラーの機材が集中して設置されています。

ビルの裏側にも「日の丸」の看板があります。

カラオケパセラのある交差点近くに取り壊し直前の古い建物があります。1階にカラオケパブ、2階に旅行会社の事務所が入っています。

「トリスバー 夜の貴婦人」と書かれた看板が残っています。トリスバーは、昭和30年(1955年)前後に生まれた庶民的なバーで、トリスウイスキーをソーダで割ったハイボールが主力製品でした。トリスのハイボールは大阪では「トリハイ」、東京では「Tハイ」という愛称で呼ばれました。*1
残念ながら、この建物は、今月中に取り壊され、跡地には9階建てのビルが来年9月に完成するそうです。(「建築計画のお知らせ」の看板より)

もう1軒、取り壊し予定の建物がありました。昭和30年代に建築されたスナックです。立入禁止を示す黄色のテープが貼られています。

張り紙に書かれている内容によると、この建物は、昭和30年代に建築されたものだそうですが、老朽化が進んでいるため、取り壊しが検討されているそうです。

【参考URL】
*1 サントリー(株):お酒・飲料大事典「トリスバー」
池袋駅北口の文化通り。

大人のおもちゃの店。

池袋二丁目の田中ビル付近にあるランジェリー・コスチューム店

看板と木製ゴミ箱。

今回は、池袋の町並みと風俗を散歩します。
池袋北口を出て徒歩5分ほどのときわ通り周辺の繁華街には、無料案内所が密集しています。派手な看板が目立ちます。こちらの店舗は、「夜の王様」というのがお店の屋号のようです。

どの店舗も「無料案内所」という呼び方は一致しているようです。店舗の名前「男の楽園」は小さく表示されています。

VIP。

「アパマン」との併設店。

中村には、銭湯が沢山有ります。そのうちの一つの寿湯。

横に回ってみると、立派な煙突を見ることができます。

入口は、アーチ型のモダンなデザインになっています。

津村順天堂の「中将湯温泉」の広告看板。

旧中村遊廓の中心部。大門近くにスパーのユニーがありますが、ユニーの向かい側(写真右側)にはソープランドが並んでいます。

ユニーの屋上の駐車場から見た南側の風景。写真左手前から、ソープランドの「インペリアル福岡」、ビジネス旅館の「牛わか」、洋風の建物、ソープランドの「ファースト」、「ニュー令女」と並んでいます。改装前は、瓦屋根の日本建築だったことがわかります。

ユニーの裏手(北側)にある「およし」の屋号を持つ建物。瓦屋根の建物は、中央部に中庭がある構造になっています。

北側の風景。写真右手前に旧屋号「およし」の建物。遠くに、デイサービスセンター松岡、料亭の稲本等、旧遊郭の建物が見渡せます。

大門の近く(スーパーのユニーの裏手)にある以前遊郭だったと思われる建物。現在は、民家になっているようです。

建物の右側の側面はトタン板のようなもので補強されています。

玄関のところに、「およし」という屋号が確認できます。

建物の下部の緑色のタイルの装飾が鮮やかです。ラーメンのどんぶりの渦巻き模様に似たデザインがあります。

今回は中村(愛知県名古屋市)の町並みと風俗を散歩します。
中村日赤駅から徒歩10ほどのところにある大門通り。この一角には、かつて中村遊廓がありました。中村遊郭は、それまで大須観音近くにあった旭廓が一斉移転して造られた花街で、大正12年(1923年)に一挙にできあがりました。*1

金属でできた「OMON」と書かれた新しいタイプのゲートもあります。近くには、昔、遊郭であったと思われる古い建物(「長寿庵」)があります。

町の中心部にスーパーマーケットのユニーがあり、全体的には普通の町と変わりません。しかし、よく見ると、ユニーの前にソープランドがあったりと一味違った雰囲気を感じさせます。

歩道にあった装飾。大門の絵が描かれています。

【参考文献】
*1 若山滋:遊蕩の空間(INAX出版,1993)P.13
ソープ街の中に古い旅館があります。「想い出」という屋号の旅館です。旅館の隣(写真奥)には同じ「想い出」という屋号のソープランドがあります。

緑のタイルの装飾がある立派な建物です。こちらも同じく「想い出」という屋号です。新館と旧館という位置づけでしょうか。

旅館の入口。左側の円柱に「旅館想い出」、右側の円柱に「お気軽にどうぞお泊りください」と書かれたプレートが貼ってあります。

ソープランド「エデン」の看板が右手前に見えます。新旧店舗を対比させてみました。

水野町公園近く。ソープランド「AAライン」のある通り。

ソープランドの向かいに古い建物が残っています。

入口に屋号が見えますが、何と読むのかはよくわかりません。入口と窓枠に緑色の鮮やかなタイルの装飾があります。

4つある窓には、富士山の装飾が施されています。

ソープ街の裏手には、古い建物が残っています。

1階は喫茶店になっている建物。

全体は、ピンクのタイルで装飾されていますが、中央の庇部分は白と黒のタイルで装飾されています。喫茶店の看板は新しいです。

鳩の街などで見かけるタイルの円柱を思い出しました。

ソープ街の中に、自販機が設置された一角があります。「三楽」と書かれていて、一見、売店のようです。

正面から見ると「自動販売機コーナー」と書かれています。散歩に疲れたときに、一息つくには最適です。

自動販売機コーナーには金津図園の案内看板があります。

上記とは別の場所ですが、自販機が並んで設置されている場所がありました。

錦三の町並みを散歩していたら、公衆トイレを見つけました。「こんな所に公衆トイレがあったのか...」と言いたくなるような場所にあります。公衆トイレとしては、かなりの狭小建築だと思います。

三角屋根の小さな建物です。

ここの通りは、ツルシゲ通りという名前がつけられているためか、トイレの入口には鶴がデザインされています。

中を覗いてみると、以外にも綺麗で、落書きは少なく、こちらの1箇所だけでした。

今回は、(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦三丁目、通称・錦三(きんさん)は、名古屋市を代表する歓楽街の一つです。

「錦三」のコンビニの雑誌コーナーにうずたかく積まれた雑誌が目につきましたので、さっそく購入してみました。名古屋の風俗雑誌「シティヘブン」です。大判の時刻表以上の厚さ(約1,300頁)で重さは2.5Kgぐらいあります。片手で持つと、その重さのために手が震えてきます。

「シティヘブン」編集長の話によると、「名古屋人は保守的で警戒心が強く、ボッタクリに遭わないように風俗雑誌を見て行くので、名古屋の町は(ボッタクリのない)健全な町になった。」と名古屋には独自の文化圏が存在するそうです。*1

風俗店専用の広告掲示板。まだ出来上がったばかりと思われ広告募集中です。名古屋は広告ビジネスが成り立ちやすい土地柄なのでしょうか。

【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.27)P.86 「東西性風俗街道 名古屋編」
金鳥居から坂を少し上ったところにある山田屋牛乳店は、武田牛乳の販売店です。

ロゴは、白地に赤色の象。

武田牛乳は、戦国大名の武田信虎(武田信玄の親)の末裔が、明治5年(1872年)にしょうゆ醸造業(テンヨ武田)を創業したのが、始まりで、 その後、テンヨ武田の姉妹会社の武田食品株式会社が昭和23年より市乳部門を設置し、象のマークの武田牛乳として販売しています。*1

武田牛乳の販売車。

【参考URL】
テンヨ武田:「テンヨ武田の商標」
本町2丁目商店街の西側。

長屋風の建物が建っています。

「一富士」という屋号のようです。

こちらは、久之家と読めそうです。

本町2丁目商店街。

緑で縁取られたドアと窓。

軒下のランプ。

ドアの取っ手もお洒落です。

月江寺駅の東側。西裏通りのゲートがあります。

昭和20から40年にかけて、織物産業は、富士吉田で隆盛を誇りました。そして買い付けに集まってきたバイヤーたちや労働者の娯楽の場だったところが西裏地区でした。*1

通りの両側には大小さまざまな路地が派生しています。味の店「新田川」のある路地は、上の写真の右手(西側)から入ります。

さらに、坂を下りたとろの東側に「新世界通り」のゲート。

甲斐絹をはじめとする織物産業は、昭和20から40年にかけて近代化され隆盛を誇っ…
今回は、富士吉田(山梨県富士吉田市)の町並みを散歩します。
甲斐絹をはじめとする織物産業は、昭和20から40年にかけて近代化され隆盛を誇ってきました。*1

山梨県織物整理株式会社の工場があります。

現在は別の場所(都留信用金庫の近く)に移転しています(張り紙より)。

鋸型の屋根。工場らしい風景です。

甲府市内の城東通り沿いのNTT山梨支店の近くに、ユニホームメーカーのビルがあります。

ビルの入口には、ナース服等のユニホームが展示されています。写真中央のナース服は、ピンク色で、襟が白。前チャックのデザインです。

弁天通りと交差する銀座通り商店街。山梨英和学院(明治22年(1989年)の設立)専門の制服ショップがあります。

山梨英和学院の生徒達は昔から流行に敏感で、明治33年(1900年)には、ほぼ全員がはかまを着用していたそうです。はかまを胸高くはいて歩く姿はそのころの甲府市内でも人目をひく存在でした。*1
現在の制服は、1928年に考案され、夏服は、海外から日本に入ってきたセーラー服の原型といわれています。ネイビーブルーのタイ、襟元と袖口に入っている白の3本線が特徴です。*2

【参考文献】
*1 山梨英和学院:山梨英和学院八十年史(1969)P.122-123
【参考URL】
*2 山梨英和学院:セーラー服の原型を守る制服
甲府市の錦通り。中央1丁目の繁華街です。1階や地下に飲食店が入るビルが建ち並びます。

飲食街の中に、マッサージ店が混在しています。

エステ「ハワイ」。

赤い色の健康エステの看板。

甲府市中央4丁目。ビル街に「柳小路」の入口があります。

柳小路飲食店街。

狭い小路に飲食店が建ち並んでいます。

小路はL字型になっていて、北側の通りに抜けています。

甲府の繁華街の中心部。春日ビルの中にある「一番街」。

ビル内の路地の飲食街。

韓国エステの看板。

反対側の入口。

今回は、甲府(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
甲府の中心街にあるオリンピック通り。青色のゲートが印象的です。

案内図。

飲食店がひしめき合っています。

反対側から。

神栖から潮来有料道路で潮来方面へ向かい、鰐川を渡ってすぐのところに石材店の展示場があります。

仏様の手と思われる石のオブジェなど、さまざまな石材の見本が展示されています。

その中で、ひときは目をひくのが、こちらのちんこ石です。亀頭の部分の皺がリアルに再現されています。

ペニスの反り具合もGOODです。残念ながら、まんこ石はありませんでした。

潮来駅の北側の長勝寺の隣に西円寺があります。長勝寺は観光地として有名ですが、西円寺を訪れる人はほとんどいません。

西円寺には、遊女の供養塔があります。

衆生済度(しゅじょう-さいど)遊女の墓と書かれています。大辞泉によると、衆生済度とは、仏語で、「迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと。」だそうです。

墓の隣に遊女の碑(衆生済度遊女の墓建立の誌)があります。

----衆生済度遊女の墓建立の誌----
かつて、一世を風靡した野口雨情の哀感の詩「舟頭小唄」もその背景が遊廓の町潮来であったからこそ、いっそう世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は、奥州から中山道に通ずる要津にあたり、銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆ここを過ぎりければ、水駅として世に顕る。されば、古くから艶色をひさぎて、旅情を慰むるものななどありしならん。
徳川氏、府を江戸に開き、この地水戸の領となりし後は、その盛り旧にも倍し、交通益々頻繁にして、諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ、藩治殊に意を用い、水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し、地方の繁栄を支える傍ら、罪人の検挙等に資せらるとあり、延宝7年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治5年、娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが、実際は、空文化した公娼制度は、賃座敷業に変形し、却って繁栄をみた。
不夜城の妓楼に連ねる源氏名の数々、だが彼女達は好んで入籍したわけではない。年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若き妻女、かどわかされ汚されて売り飛ばされた非力な女等、殆どが善良なる子女であった。彼女達の末路は薄幸であり、殊に病を得て死んだりすると余計憐れであった。墓に刻まれることは稀で、大ていは露の世を生きた証として厄介になった寺の過去帳にひっそりと眠るのが普通だった。中には、畜生道に落ちたとして坂の途中に穴を掘り馬の轡がちゃがちゃ鳴らして埋めたものもあったとか。
遊里の巷に咲いては泡のごとく消えていった哀しい命、これこそ今日の潮来が観光の潮来として全国津々浦々に至るまで人口に及んだ礎であったろうと感慨を深くするものである。
(後略)
江戸時代、潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっていたころ、この地には遊廓がありました。三社詣は、いわば男たちの隠れミノでした。*1
浜町通りには、かつて妓楼や待合が立ち並んでいました。通りの入口には復元した大門があります。*2

今は当時の面影はありません。わずかに一軒のみ当時の威容を保っているのが、旧妓楼の「あやめ楼」です。*2

入口の造りも立派です。

通りを逆方向から見たところ。

P.319
潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっ…
P.115
唯一の遺構で威容を誇る旧妓楼の「あやめ楼」
P.119
角菱旅館は…
前川あやめ園から潮来下町通りを行くと、角菱旅館があります。昔はここが船着き場でした。*1




今回は、潮来(茨城県潮来市)の町並みと風俗を散歩します。潮来は、「水郷」という名で呼ばれる通り、古くから歓楽郷と知られる所です。現在は、JRの潮来駅近くに前川あやめ園があり、6月になるとあやめ祭りが開催されます。

あやめ娘の皆さんが出迎えてくれます。

あやめ祭りの呼び物は、何と言っても、嫁入り舟です。舟に乗っているのは、募集した本物の花嫁さんだそうです。かなり綺麗な方でした。観光客からは、「おめでとう!」の声がかかります。嫁入り舟は、そのまま北利根川まで出ます。おそらく、そこから花婿さんが待つホテルに向かうのだと思います。

名物の「あやめ踊り」。この踊りは、もともとは、娼妓が踊っていたものです。*1

【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.197
息栖小学校と神栖第二中学校に挟まれた通りを北上すると、居酒屋と風俗店のある看板に出会います。

右(南東)へ曲がると広い通りが続いています。

黄色い建物の風俗店。

こじんまりとした店の入口。

今回は、神栖(茨城県神栖市)の町並みを散歩します。
国道124号線沿いの木崎のバス停のあるあたりは、牛丼家などの飲食店やホテルがある町の中心部です。

牛丼屋の脇の道を入ると、営業していないサウナ(ソープランド)があります。ピンクの看板は塗りつぶされています。

ピーチガールという店名が塗りつぶされたブルーの看板。

店の入口付近。

熊谷駅の西側。JRの線路と市役所通りが交差する地下道の南側の出口付近にある大衆クラブ「ビッグサルーン」。

昭和レトロな外観です。

入口には、ショーガール。

「6つのエリアとゆとりの空間」と説明されています。

かつては、大通りの左右には旅館が立ち並んでいたと思われますが、今は、わずかに古い家並みが残るのみです。

旅館だったと思われるどっしりとした建物が残っています。

旅館の脇の路地。

軒下に入ると、古い建物の雰囲気が伝わってきます。

今回は、熊谷(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。駅の西側の伊勢町には、かつて遊廓がありました。場所は、秩父鉄道の上熊谷駅よりもさらに西側の新幹線の高架下(南側)です。

「赤線跡を歩く」に写真が載っていた*1 「旅館あき山」は、今は無く、住宅が建っていました。

「旅館あき山」は新幹線の高架下に移動していました。

現在、電話帳に「旅館あき山」の登録はなく、現在は、営業していないようです。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.152-P.157
平潟遊廓の形跡を残すものに、平潟神社があります。

九十九楼(後の三井家)の名前が刻まれています。

鶴宝菜の楼主、山田文蔵が狛犬を奉納しています。山田文蔵は、立石の農家の出身で、下肥を船で運んで来て、平潟遊廓で遊びを覚えて儲かることを知り、娼婦のおつるを囲い鶴宝菜の名で店を持ちました。*1

もう一つの狛犬は、逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納していますが、鈴木亀右衛門は、娼妓が首を吊って死んだので、それを機に廃業しました。*1

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.39
平潟遊廓跡のすぐ近くに来迎寺があります。

覚月清澄信女という戒名の墓があります。

九十九楼(後の三井家)が建てた、大正13年に亡くなった娼妓の墓です。

墓の側面には、娼妓一同、見世二階一同、と書かれています。今尚、三井家の後裔(菊池丸子さん)が弔っているそうです。*1

【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.42
平潟遊廓の裏手には、排水川(現樋古根川)が流れていました。昔は、この排水川が江戸川の本流だったそうです。当時は、川沿いに平潟遊廓の建物を眺めることができたのだと思います。(写真は、樋野口橋から見たところ。)

樋野口橋から見た樋古根川の上流。美しい流れです。

排水川沿いに見た平潟遊廓跡のマンション群。

江戸川との合流点に「坂川排水碑」があります。ここに設置された排水機によって、水害が解消され、人々は安心して暮らせるようになったそうです。
