網走市街の南側の郊外(網走市南11条西2丁目)。ここに、網走市名誉市民の中川イセ※1 に関連すると思われる「中川記念武道館」があります。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1
日本大東流合気武道本部の建物として利用されています。
中川イセは、柔道三段。荒くれ人夫を一本背負いで投げ飛ばしたことがあるほど腕前でした。*1
網走市街の南側の郊外(網走市南11条西2丁目)。ここに、網走市名誉市民の中川イセ※1 に関連すると思われる「中川記念武道館」があります。
中川イセは、1901年(明治34年)山形県天童市生まれで、網走の遊廓「金松楼」にいましたが、戦後、網走市議に当選し、その後連続7回当選。網走監獄保存財団理事長を務めました。*1
日本大東流合気武道本部の建物として利用されています。
中川イセは、柔道三段。荒くれ人夫を一本背負いで投げ飛ばしたことがあるほど腕前でした。*1
網走市街の中心部にある銭湯のときわ湯。
最近改装されたのでしょうか。綺麗な銭湯です。
年季の入った煙突。
夜の銭湯。
網走市街にある飲食街の楽天地ビル。隣の建物が撤去され更地になったため、壁面がむき出しの状態となっています。
老朽化が目立ちます。
天井部分。
奥まった場所にある公衆トイレ。
明治時代に繁栄した網走遊廓は、昭和に入ると繁栄は影を秘め、それに替わってそば屋と料亭が繁昌し、料亭では北盛亭が網走では一番大きく、当時野付牛(北見市)の梅の家と並んで、道東でも屈指と言われていました。*1
北盛亭は、南3東4交差点付近にありました。*2
北盛亭があった場所には、現在、石碑が建てれています。
石碑には、「2階建ての豪華な造りで、花街の象徴だった。」と書かれています。
近くには、網走川が流れています。
今回は、網走(北海道網走市)の町並みを散歩します。
JR石北本線の網走駅前にある、老舗大衆食堂「長浜」。市街の中心部には本店があります。
麺類や丼物など、和食のメニューが中心です。
和風の店内は、ゆったりとしていてくつろげます。
かつ丼とビールを注文。
宗谷本線の風連駅から約300m。名寄市風連町仲町にある松葉屋食堂。
元祖札幌ラーメンの認定証。
ラーメンの種類は豊富です。
チャーシューラーメンを注文。
名寄市西3条南6丁目。現在も市街の中心部で、その中には古い商店街が残っています。
「どんぐり小路」。1階には居酒屋などの飲食店が入っています。
建物の裏側。屋根裏部屋もあり、一部は3階建てです。
大規模なトタン建築です。
名寄の有楽センター※1 の向かい側には、スナック店が建ち並んでいます。
一軒屋の建物の1階がスナックです。
木造の建物。
南側に西側へ入ったところにあるスナック。
名寄のかつての花街だった場所(現在の西4条南5丁目付近)の南北の通りは、「錦通り」と命名されています。
錦通りに建つ飲食ビルの「遊楽センター」
1階が店舗。2階が居住スペースです。
夜の様子。
明治36年には、名寄には、りっぱな料烹街が名劇(現在のグランドホテル藤花、写真左奥)付近に出現していました。創設者は、その後の割烹「むらさき」の初代村崎久治と名劇先々代の沢井仁十郎で、所有していた旭川の遊廓街を売り払い、遊廓街の建設を目的に名寄に乗り込んできました。*1
割烹「むらさき」は、写真の右手前の道を入ったところにありました。*2
ところが、当時、遊廓街から遊廓街まで二十里以上なければならないという法律があり、遊廓街の建設計画はオジャンになり、料烹街になり、桜木町と命名されました。*1
当時4条通りには、川が流れていて、付近には、カマメシの天豊、料亭の平、北見屋、端、むらさき、清野、丸吉、花菱、丸福、などがありました。*3*4
検番(のちの芦口商店の場所)があったあたり。*2*3
今回は、名寄(北海道名寄市)の町並みを散歩します。
JR宗谷本線名寄駅前。駅前から西に2本目の通り(西1条)を入ったところ。
隣の美容室の建物に寄り添うようにして、ラーメン屋の建物が建っています。地図によると、「ふなちゃん」という屋号の店のようです。この日は暖簾は出ていませんでした。
看板には、「ラーメン、おでん」と書かれています。
北海道らしさが残る煙突のあるトタン屋根の木造建築です。
西7条本通り北四丁目付近は、廓への通りでした。*1
紀の川楼があったあたり。*2 のちに国鉄寮となりました。*1
昭和30年頃と思われる住宅地図*3 には、「鉄輪荘」の記載があります。
日の出楼があったあたり(写真右側)。*2
新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と並んでいた(写真左側)通り。*2
木賊原遊廓は、いまの西5条から西7条にかけての北4丁目にありました。*1
北3丁目線に面して東から西に大正楼、一心楼、日の出楼、と並び、その北側小路を挟んで、新盛楼、笹島本店、いろは楼、開盛楼と東から西に並んでいました。*1
西6条北3丁目の遊園地になっているところには駆梅院がありました。*1
その後帯広保健所寮になっていたが、いまはありません。*1
今回は、帯広(北海道帯広市)の町並みを散歩します。
帯広駅前にある豚丼専門店の「ぱんちょう」。元祖豚丼の店として知られています。*1
ばんちょうは、中国語で飯屋の意味。鰻丼。鰻のように甘辛いタレにヒントを得て、「ぱんちょう」の主人が思いついたのが豚丼のはじまりだそうです。*1
店の建物の壁面には、古い市街図。
豚肉8枚のせ、ごはん大盛を注文。満足のボリュームでした。
すすきのの交差点(札幌市中央区南5条西5丁目)にある老舗ラーメン店。
創業は昭和28年です。
東宝後楽(映画館)横で、多くの屋台ラーメン屋と並んでいた頃から営業しています。*1
暖簾には、「サッポロ西山ラーメン」の文字。
醤油ラーメンと缶ビールを注文。
すすきの市場※1 の建物の地下1階部分は飲食店街になっています。
バーや小料理屋がひしめく飲食店街。*1
まさに、昭和の歴史空間です。
通路の両側からは、歌声が漏れ聞こえてきます。
ススキノのネオン街ど真ん中に、東西百メートルにわたる地上五階地下一階の細長いビル「すすきの市場」の建物があります。*1
2階-5階は住宅公団のアパートになっています。*1
長く続く廊下。
1階は、市場機能を有しています。
京成電鉄市川真間駅。
の線路沿いに、鏡石(夫婦石)があります。
案内板の説明によると、わが国では古くから、男女の性器に似た石を並べ、その年の豊穣を祈祷する風習があり、この石は、その男女の性器に似た石、つまり夫婦石の片割れの女性器の方ではないか、ということです。
中央部分が窪んでいます。
真間川沿いにある浮嶋弁財天(市川市真間2丁目)のお堂の左脇に、「名妓の碑」が建っています。
市川の花柳界を支えてきた、今はなき名妓たちに思いを馳せ、昭和60年に建立されました。*1*2
蓜島正次氏(「里見八景園」の創設者の子息*3)らが世話人となり建立を呼びかけ、1986(昭和 60)年4月13日に建立されました。碑文は、国府台女子学院院長の平田博永氏が撰し、料亭栃木屋※1 の女将で書家でもある鈴木アイ子さんが揮毫しました。*1*2
碑には 24 名の芸妓の名も連ねられています。*2
京成電鉄の線路沿いの大松パーキング(駐車場)。
駐車場の片隅に、大松の建物が残されています。
現在は、カルチャーサロンの建物として利用されているようです。
料亭として営業中の頃の住宅地図。
市川真間駅へ向かう道沿いに建つ「白藤」。
庭へ続く美しい石畳。
入口の白藤の石柱。「関西料理」と彫られています。
白藤の初代は昭和5年に関西から関東へやってきた最初の関西料理人の一人でした。*1
黒板壁が見事です。
料亭栃木家※1 の西側。ビル街の路地を入ると、隠れ家的なホテルが佇んでいます。
周囲には木々が植えられていて、温かみのある雰囲気です。
ちょうど、果樹が見頃です。
レトロなネオン看板。
国道14号線沿いの北側。京成電鉄市川真間駅までの間がかつての市川花柳界の料亭であったエリア場所です。
ビル街の中の料亭の黒壁。
料亭栃木家。現在も営業中です。
入口。
市川駅前のアイ・リンクタウン展望施設は無料の展望施設です。*1
駅前からも見える※1 高層マンションの45階にあります。
展望施設のフロアに「昭和3年の市川町全景」が掲示されています。
明治18年に国府台に陸軍教導団が移転し、市川の町の発展の契機となりました。古地図には、導団が廃止されたあとに駐屯した陸軍の野戦重砲大7連隊の名が見えます。*2
市川の花柳界は戦前まで、夜の社交場、文化サロンとして賑わいました。*3
古地図には、料理屋の栃木屋、大松の名があります。
P.22-P.29
『県内にひとつとなった見番』
市川の花柳界は戦前まで、夜の…
今回は、市川(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR市川駅北口を出て西側へ線路沿いの路地を入ったところにあるホテルシャトー。
隠れ家的で静かな雰囲気です。
線路を挟んだ南側には、高層マンション「アイ・リンクタウン」。
高層マンション「アイ・リンクタウン」のエレベータから見たシャトー。本館と別館に分かれています。