道頓堀橋の西側にある西道頓堀新戎橋の橋のたもとに「道頓堀出世地蔵尊」があります。
案内板によると、江戸時代、北岸の宗右衛門町と南岸の九郎右衛門町(現在地)が二大花街として町人文化の核となり、街の発展に伴い、多くの人が出世を願って地蔵尊に訪れるようになったそうです。
かに道楽などが寄進した玉垣があります。
「大阪特殊浴場協会」の名前もあります。
道頓堀橋の西側にある西道頓堀新戎橋の橋のたもとに「道頓堀出世地蔵尊」があります。
案内板によると、江戸時代、北岸の宗右衛門町と南岸の九郎右衛門町(現在地)が二大花街として町人文化の核となり、街の発展に伴い、多くの人が出世を願って地蔵尊に訪れるようになったそうです。
かに道楽などが寄進した玉垣があります。
「大阪特殊浴場協会」の名前もあります。
今回は、千日前(大阪市中央区)の町並みと風俗を散歩します。
道頓堀は原色のドハデ看板のオンパレードです。かつては、芝居小屋が並ぶ非日常のエンターテイメント・ゾーン。通行人の目を存分に楽しませてやろうという浪速の芝居っ気精神が現在に生きています。*1
動く看板の元祖、かに道楽道頓堀本店の巨大ガニ。
「つぼらや」の巨大フグ提灯。
昭和25年から道頓堀の栄枯盛衰を見てきた「くいだおれ太郎」。大阪のシンボル的存在です。くいだおれ太郎は口ベタなので、いつもフキダシで喋ってます。いちばんウケたのは平成4年の「わて泳げまへんねん」でした。昭和60年の阪神タイガース優勝のときの夜、興奮したファンの手によってカーネルサンダース人形が道頓堀川に投げ入れらるという事態が発生しました。平成4年は阪神タイガースが絶好調で10月になっても優勝争い中。そこで太郎は「わて泳げまへんねん」のフキダシで自身の危機を訴えました。*2
【参考文献】
*1 前田和男:市政研究(2004)P.78-P.81「なにわ路上観察紀行(3)心斎橋~難波界隈」
*2 くいだおれ太郎:くいだおれ太郎のつぶやき(マガジンハウス,2008)P.29-P.31
新宿駅南口近くの通り。ポルノ映画館や飲食店が建ち並ぶ繁華街です。
ファッションヘルス「クリスタル」の看板があります。
付近を捜してもヘルスらしい店はありません。
閉店後、看板だけが残ったものと思われます。
歌舞伎町のコマ劇場前の通り。
最近は見かけることが少なくなったピンクビラが、支柱や電話ボックスに張り付けられています。
一方通行の交通標識。
ピンピラは、何度も剥がされ・貼り付けられます。
渋谷駅からほど近い旧東邦生命ビル(現渋谷クロスタワー)の一角は、1992年に死去したミュージシャンの尾崎豊さんが夕陽を眺めていたとの伝承があった場所です。*1
三回忌法要の際にモニュメント(歌碑)が建立されました。*1
この場所を訪れた証明とも記念とも言うべき「落書き」が残されています。この落書きは、あたかも風景の一部として溶け込んでいます。*1
落書きは床面にも書かれています。
【参考文献】
*1 倉石忠彦:渋谷をくらす(雄山閣,2010)P.101-P.107
円山町のラブホテル街。昔は料亭街でした。
そのうちの1軒。建物の角に料亭時代の遺構の礎石が残っています。*1
京都の町並みなどでよく見かける鬼門除けの隅切りの三角地帯でしょうか。
自動車が角を曲がるときに塀を傷つけたり敷地に乗り入れたりするのを防ぐために置かれる「カドイシ」に似ています。
道路側から見ると、「料亭宮よし」の名前が彫られています。*1
【参考文献】
*1 村松伸,東京大学生産技術研究所村松研究室:シブヤ遺産(バジリコ,2010)P.175
百軒店の名曲喫茶の裏口へ通じる通路。
立小便禁止の貼紙。粗末な一物(いちもつ)をさらけ出すのはやめませう。
渋谷の道元坂上からラブホテル街への道を入ったところ。
カラーコーンには、「ゲロ禁止」「ゲロはくな」の貼り紙(ガムテープ)。
円山町のラブホテル街。
ホテルの壁面に公衆電話が備え付けられています。
ホテルの利用者は、公衆電話を使用することが多いことを見込んで備え付けられているのでしょうか。
ちらし等、はり紙、落書、おことわり。
道玄坂の中ほどに看板建築の商店の建物が残っています。
数棟ある建物には外壁崩落防止のネットがかけられています。
屋根裏に部屋をとって三階として利用できるようにしたマンサード屋根の構造をもつ建物もあります。マンサード屋根とは、下部の急勾配と上部の緩い勾配が組み合わさってひとつになった屋根で、「腰折屋根」ともいいます。フランスの建築家、F.マンサールの考案といわれています。*1
商店は営業していません。取り壊しの準備が始まっているようです。
【参考文献】
*1 初田亨:繁華街の近代(東京大学出版会,2004)P.236,P.272
飲食店や風俗店が密集する渋谷には、おとなのおもちゃ店が数店舗あります。
店の入口に置かれているランジェリを着たセクシーなマネキン。
百軒店の入口にて。
「成人向けおもちゃ」の看板。
今回は、渋谷(東京都渋谷区)の町並みと風俗を散歩します。
渋谷の「センター街」は、若者で混雑する繁華街です。
人通りの多い場所にコンドームショップがあります。明るくポップな雰囲気で、「コンドーム」と聞いたときに感じる暗さはここではまったくありません。*1
カラフルでさまざまな形状の商品が扱われています。
ガングロ女子高生にバカ売れした蛍光コンドームなども品揃えされています。*2
コンドームショップに若者が訪れ、楽しくコンドームを選ぶのはごく日常的な光景となっています。*1
【参考文献】
*1 今福 貴子:性と健康(2002.11)「ルポ コンドーム販売店 コンドマニアに学ぶ」P.28-P.30
*2 週刊ポスト:週刊ポスト(2000.04.14)P.54「ガングロ女子高生にバカ売れ!光るコンドーム」
花園神社境内に、末社として芸能浅間神社が祭られています。これは、江戸時代より盛んになった富士山信仰の富士講が元になっていて、ミニチュアの富士山と浅間神社を祭りしていたものを現代の芸能の神様として位置づけたものです。*1
八代亜紀さん、由美かおるさん、など多くの芸能人の名前が見えます。
宇多田ヒカルさんの母親として知られる藤圭子さんの「圭子の夢は夜ひらく」の歌碑。
芸能浅間神社の社号標は、歌手の八代亜紀さんによって奉納されました。八代亜紀さんは、デビューの1973年より花園神社にヒット祈願に訪れ、1980年に「雨の慕情」が大ヒットしました。
【参考文献】
*1 長浜淳之介:荷風!Vol.9(日本文芸社,2006)P.21「花園神社物語」
花園神社の境内の中にある威徳稲荷神社。赤い鳥居が連続します。
額の後ろに木彫りの男根模型が飾られています。
祈願する女性が男根をなでやすいように、乗るための台が置かれています。*1
後ろ側には石でできた男根があります。2つの睾丸もリアルに表現されています。男根は修理した形跡があって、痛々しく感じます。
風俗ライターの松沢呉一によると、昔はこれが何本もあったが、酔っぱらいが折ってしまったそうです。*2
【参考文献】
*1 町田忍:東京ディープ散歩(アスペクト,2008)P.50
*2 松沢呉一:風俗見聞録(ポット出版,2003)P.126
新宿三丁目から歌舞伎町方面へ行く路地。
古い質屋があります。
入口のシャッター。
レトロなネオン管の「質」の看板。
昭和初期、新宿5丁目交差点の南東側に、「トルコ芳泉」がありました。*1
「トルコ芳泉」は、公衆浴場とサウナ風呂として昭和25年にオープンした日本最初のトルコ風呂でした。サウナ風呂には、一人の個室と三人一部屋の個室があって、それぞれ一人づつサウナ嬢が白いパンツにブラジャー姿で首だけ出るサウナボックスに入れ、汗が出ると冷たいタオルで拭いてくれました。時間がくるとボックスから出てベッドに横たわりマッサージをしてくれる健康的なもので、大体1時間ぐらいでした。初めての人は友人と連れ立って三人部屋を希望しますが、何故か二回目には一人個室を求め常連となる人が多かったそうです。その後トルコ風呂は大流行し、競争が激しくなり、スペシャルサービスを行うようになって、健全なサウナは風俗営業になってしまいました。*2
現在は商業施設のビルに建て替わっています。
当時の面影はありません。
【参考文献】
*1 住宅協会:新宿区東部(住宅協会,1960)P.35
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108
「新宿二丁目東」交差点は、ゲイの街「仲通り」の入口にあたる場所です。
その「新宿二丁目東」交差点の南側に、ガラス張りのビルがありますが、この場所には2006年頃まで「ラシントンパレス」という新宿二丁目の特殊性を象徴するようなテナントビルがありました。その最上階をまるまる占めていたのは、「スカイジム」というゲイ専用のサウナで、ハッテンバ(ゲイの性の社交場)でした。*1
ラシントンパレスは、戦後新宿二丁目では一番早く建てられた大きなビルで、羅府飯店が中国名でした。*1*2
ビルの裏の路地。
路地の反対側にはアーチがあって、昔の雰囲気を伝えています。
【参考文献】
*1 竜超:消える「新宿二丁目」(彩流社,2009)P.120,142-P.143
*2 武英雄:内藤新宿昭和史(武英雄,1998)P.108
「新宿二丁目」の仲通りの真ん中あたりに、木造商業施設「新千鳥街」があります。
レトロな呑み屋さんが集まっています。
赤線だった当時のムードを疑似体験できる数少ないスポットです。*1
「営業中」の看板。
【参考文献】
*1 竜超:消える「新宿二丁目」(彩流社,2009)P.40
今回は、新宿の町並みと風俗を散歩します。
新宿2丁目に大宗寺(だいそうじ)があります。江戸時代の内藤新宿の数少ない遺構の一つです。近くには新宿遊廓がありました。
新宿遊廓の楼名の玉垣があります。
不二川楼本店、第一港楼の名前があります。
新港楼。
国立市街の南東のはずれに、銭湯のはとの湯があります。建物の前は更地になっているので、道路から建物の全景が見えます。
「サウナ」「コインランドリー」と書かれた看板。上から裸電球で照らされるようになっています。
入口付近。
入口の下駄箱。休業日の前日には、「明日は休業」の札がかかります。
駅間のロータリーから南東方向の住宅街に、昭和26年頃、連れ込み旅館が急増しました。また、国立駅付近に稲荷神社をつくって、その門前町に特殊飲食街を建設しようとする計画もありました。*1
下宿屋が学生を追い出して旅館に鞍替えするところも現れ、また、子供が銭湯で性病に感染したことが、これは売春婦からうつされたものだという噂が流れました。*2
昭和26年、この連れ込み旅館を追放しようとする浄化運動が起こりました。避難の主な対象となったのは、付近の国立ホテルと新国立ホテルの2軒でした。安眠妨害になるほどの嬌声やダンス騒ぎ、出入りする自動車の爆音など、旅館の近くに住む主婦たちの訴えから持ち上がったものでした。*1
国立ホテルがあったあたり。*1
新国立ホテルがあったあたり。*1
浄化運動を推進する人々は「文教派」と呼ばれ、町議会で、国立の「文教地区指定」を決議することを目標にしました。一方、「反対派」は、「経済発展のためには文教地区指定は障害になる」「町がさびれ税金が高くなる」「文教派の運動は、反米の政治運動だ」だと非難し、一部の町民を動揺させました。これに対して文教派は、国会やマスコミにも訴え、世論で反対派を包囲することにより、町議会で議決を勝ち取りました。*2
【参考文献】
*1 りべらる(昭和26年9月号)P.86-P.93「学園都市『春の宿』追放騒動記」
*2 「くにたちの歴史」編さん専門委員会:くにたちの歴史(国立市,1995)P.207-P.211
今回は、国立(東京都国立市)の街並みと風俗を散歩します。
国立の学園都市は、神田にあった東京商科大学(現在の一ツ橋大学)の国立への移転を前提に開発が行われました。これに伴い、大正15年(1926年)に国立駅が開業しました。*1
国立駅前のロータリーに「国立文教地区」の看板が掲げられています。文教地区とは都条例で指定されるもので、風営法の適用を受ける料亭・キャバレーやホテル・旅館建築、劇場、遊技場や馬券発売所など、風俗を乱す恐れがあるものが規制されます。*1
昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発すると、隣の立川市には米軍基地に多数の米兵が進駐してきました。その影響は国立にも及び、米兵相手の簡易旅館や飲食店などが出現し、いかがわしい商売を始めたため、環境を守ろうとする市民や学生を中心に、浄化運動が始まりました。国立の浄化運動の特徴は、「文教地区指定」をかかげたことでした。昭和25年のに公布された東京都文教地区建築条例に注目して、この指定の実現を運動の柱にすえ、昭和27年(1952年)文教地区の指定を受けました。*1
現在の国立駅前の「大学通り」は、並木道が続く美しい町並みとなっています。
宮古島の市街の北側。
古い飲食店があります。
白い壁に、おにぎり、冷やし物、天ぷら、と書かれています。
ゴールデンウイスキーの看板。
イーザト近くの路地裏。
水色に塗られた古い床屋「なかま理容室」があります。
壁面には木材も使われています。
柱部分にお馴染みの赤と青と白の縞模様のマーク。
宮古島のイーザトの社交街の北側。
水色に塗られた木造2階建てのゲストハウスがあります。
この建物は、元は連れ込み旅館でした。エロ懐かしい雰囲気が漂います。*1
和風の部屋。
【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:ひたすら歩いた沖縄みちばた紀行(彩流社,2009)P.218
平良の旧料亭街の南側は、新興のスナック街です。
カラオケ店などが建ち並びます。
赤瓦屋根のスナック。
夜になると、艶っぽい町並みに変貌します。
宮古島には風俗は無いので、娯楽は、昼は野球、夜は酒です。
【参考文献】
*1 吉田直人:金なし、コネなし、沖縄暮らし!(イカロス出版,2006)P.249
宮古島の中心街である平良(ひらら)は、戦前から「寄留商人」と呼ばれる島外からの外来商人で賑わい、それに伴い、料亭街を形成していました。料亭はサカナヤーと呼ばれ、遊廓を兼ねている場合が多かったそうです。*1
現在は、スナック街になっています。
料亭が密集していたあたり。*1
旅館だった建物。
【参考文献】
*1 堂前亮平:沖縄の都市空間(古今書院,1997)P.107-120
日本軍司令部があった野原(現在、航空自衛隊宮古島分屯基地第53警戒隊)の近くには、長屋のかやぶき屋根の慰安所がありました。*1
宮原に、朝鮮人が掘った井戸(伊良部ガー)が今でも残っています。慰安所は、写真の建物がある方向にありました。*1
花切部落の慰安所跡地。*1
写真の建物は、比嘉の保育所ですが、ここから比嘉に入る道沿いに慰安所がありました。*1
【参考文献】
*1 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.79,P.128,P.165,P.171
今回は、宮古島(沖縄県宮古島市)の町並みと風俗を散歩します。
1943年、沖縄戦必須の情勢のもと日本軍が宮古島にも移駐してきました。約3万人の将兵が展開し、全島を要塞化しました。1944年10月から翌年8月まで、連日の空襲、艦砲射撃などでほとんどの集落は焦土と化し、輸送路を絶たれて、飢えとマラリアで多くの命が失われました。戦時中、日本軍の基地が置かれた野原(のばる)岳には、現在は航空自衛隊の通信施設(写真奥)があります。*1
自衛隊の正門前の道を西へ行ったところに、日本軍「慰安婦」の碑(アリランの碑)があります。*2
陸軍における慰安所の制度は、1932年(昭和7年)の上海事変の折に、長崎県から「慰安婦団」を招いたのがはじまりですが、その後の中国戦線の拡大に伴い日本軍隊の必需品となりました。はじめは九州の業者から売春婦を連れてきていましたが、性病経験者が多く、年をくいすぎていたので、当時日本の植民地支配下にあった朝鮮から慰安婦を集めるようになりました。*3
戦場となった沖縄県には、宮古島の11ヶ所を含む130ヶ所に「慰安所」があったことが確認されています。宮古島の慰安所のほとんどは集落近くにあったので、多くの住民が慰安婦と何らかの接触をしていました。特に共同井戸(ツガガー)での洗濯のときなど朝鮮の民謡「アリランの歌」を口ずさむのをたびたび耳にしたことが伝えられています。*4
「女たちへ・平和を愛する人たちへ」の碑は、2008年に建てられました。*4
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.265-P.275
*2 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.137
*3 山谷哲夫:沖縄のハルモニ(晩声社,1979)P.19-P.20
*4 日韓共同「日本軍慰安所」宮古島調査団:戦場の宮古島と「慰安所」(なんよう文庫, 2009)P.10-P.14,P.56-P.61
電柱に公衆トイレの看板。
社交業組合の裏手に公衆トイレがあります。
ドアが開いたままになっていました。
手洗い所。
辺野古の社交街には、「Club」、「Bar」と書かれたコンクリートの建物が数多く残っていています。
「バー」と「ホテル」の両方の名前が残る看板。どちらかに転業したのだと思います。
バーの後は、電気店に転業したようです。
派手な色のコンクリート製のバー跡。入口のドアは木製です。
辺野古の社交街には、現在もスナックが営業中です。
アメリカ合衆国の国旗。
曲線のデザイン。
鮮やかな黄色の建物。
今回は、辺野古(沖縄県名護市)の町並みと風俗を散歩します。
普天間飛行場の移転先の候補地として揺れる辺野古ですが、ベトナム戦争当時は、キャンプシュワブ近くのバー街として、賑わいました。*1
現在もスナックが営業中です。
バー街の入口近くに社交業組合の建物があります。
「地域と共に歩むが我らがねがい」と書かれています。
入口の壁の各国の国旗がデザインされています。
*1 高嶺朝一:知られざる沖縄の米兵(高文研,1984)P.185-P.190
うるま市の北側に、海兵隊基地のキャンプコートニーがあります。(写真右側)。
キャンプコートニーは、沖縄戦で戦死し、最高級の栄誉勲章を受けたコートニー少佐の名を基地名にとっています。*1
正門の前にコンクリート製の小さな建物が数軒並んでいます。
店名の「コートニー」の右側にうっすらと「BARBER」と書かれています。米兵向けの理容室だったようです。
現在は物置として使われているようです。
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.160
勝連半島の県道8号線沿いにバー跡と思われる建物が並ぶ一画があります。
米軍施設「ホワイトビーチ」からは距離が離れていますが、店名は英文字で書かれているので、かつては米人向けの飲食街だったのかもしれません。
「RESTAURAN」の文字。
判読できませんが、店名が英文字で書かれています。
今回はうるま(沖縄県うるま市)の町並みと風俗を散歩します。
琉映前バス停の近くに「石川社交街」と書かれたゲートがあります。
1956年の沖縄タイムスに、石川の盛り場についての次のような紹介記事があります。*1 「市場通りが大衆マーケットで庶民的なのにひきかえ13号線(現在の国道329号線)はいわゆる米人相手の特飲店が集まっている。バー、カフェーが約20軒、具志川村川崎、登川のマリン隊と金武駐屯のGIをねらっているが、コザ方面の盛り場とは趣が違い、一見落ち着いた遊廓である。」
現在、この付近はバーやスナックが立ち並ぶ飲食街となっています。
四つ角にあるスナック。
沖縄らしい穴あきブロックで装飾された建物。
【参考文献】
*1 沖縄タイムス(1956.10.3 夕刊)P.2
嘉数高台は、沖縄戦において最初の激戦地の一角で、20日間にわたって激しい戦闘がありました。*1
青丘之塔は、沖縄戦で軍夫などとして動員されて亡くなった朝鮮人の慰霊碑です。この場所には、朝鮮人女性が慰安婦として働く慰安所がありました。*2
青丘之塔の碑文。
「この塔にねむれる人は とつくにの えにしぞ深き 霊なりけり」と書かれています。
-----青丘之塔の碑文----
銘
嗚呼 ここ沖縄の地に太平洋戦争の末期、かつて日本軍たりし韓民族出身の軍人、軍属386柱が散華(さんげ)し侘(わび)しく眠っておられます ここに思いをいたし日本民主同志会は38度線板門店の小石38ヶを写経と共に碑礎に鎮め、イデオロギーと国境と民族を超越し人道主義を遵奉し、哀(かな)しき歴史を秘めたこれらの御霊(みたま)を慰霊顕彰するために、最も激烈なる戦闘を展開した戦跡嘉数の高地に志を同じくする諸賢、あわせて関係機関並びに地元嘉数地区の御協力を得て、韓民族出身沖縄戦没者慰霊碑「青丘の塔」を建立し永久に英勲を讃えます
昭和46年5月吉日
【参考文献】
*1 高教祖教育資料センター:沖縄の戦跡ブック・ガマ(沖縄時事出版,2009)P.55
*2 福地曠昭:オキナワ戦の女たち(海風社,1992)P.103-P.106
真栄原の高台にある嘉数高台(かかずたかだい)公園に、地球をデザインした展望台があります。沖縄本土が大き目に描かれて強調されています。
展望台からは、普天間基地が見わたせます。普天間航空基地は、第二次大戦の米軍の沖縄占領のとき、日本本土攻撃のためのB29爆撃機専用の滑走路を建設し、終戦後も海兵隊航空基地として整備されました。*1
宜野湾市のど真ん中を普天間基地が占め、周囲の土地に日本人の住宅がひしめいているのがよくわかります。米海軍・海兵隊の航空基地の設置基準に照らすと、「滑走路両端の延長線上4500メートルの範囲には住宅、学校、病院があってはならない。」定まられているので、普天間基地は、米本国ならば使用が禁じられる不適格が軍事施設です。*1
滑走路から飛び立った軍用機が轟音をたてて旋回しながら上昇していきます。
【参考文献】
*1 新崎盛暉、他:観光コースでない沖縄-第4版(高文研,2008)P.138-P.142
嘉数高台公園へ向かう途中の坂道。
「自動車ホテル」の看板があります。沖縄ではモーテルのことを「自動車ホテル」と呼ぶようです。
人間は常に若若しく 人の心は ひろく まるく 美しく
未成年者は入室禁止です。偽って入室すると補導されます。
真栄原の社交街は、県警と宜野湾市などが取り組んでいる浄化作戦により、現在は休業状態となっています。*1
軍普天間飛行場に隣接する真栄原は戦後、米兵相手の売買春が横行したため、1950年ごろ、当時は集落から離れていた現在の場所に作られました。*1
営業している店は1店舗もありません。
夜になっても営業している様子はありませんでした。
【参考文献】
*1 沖縄タイムス:沖縄タイムスニュース(2010.7.2)「売春根絶 なお課題 真栄原社交街」
真栄原社交街の入口付近。以前はこの道の入口(写真右側)に「真栄原社交街」と書かれた看板*1 がありましたが、現在は撤去されています。
社交街へ向かう道の途中にビデオ店があります。
ビデオ販売の看板
消えかかった「アダルトビデオ」「アダルトグッズ」の文字。
【参考記事】
風俗散歩(真栄原):真栄原社交街(2009.2)
今回は、真栄原(沖縄県宜野湾市)の町並みと風俗を散歩します。
全国各地に「×××発祥の地」というのは数多くありますが、真栄原は、「おもしろ看板発祥の地」です。
おもしろ看板というのは、このような「ダジャレ看板」のことで、防犯や交通安全の標語が書かれています。
こちらは「夜遊びはダメデス」の看板。
「キスに注意」の看板。
コザ十字路近くのバス停「安慶田(あげだ)」から路地を入ったところに、銭湯の中乃湯があります。中乃湯は、町田忍さんの「銭湯遺産」*1 の中で「全国選りすぐりの銭湯10選」に選ばれた名銭湯です。
入口にフロント形式の番台がありますが、その前にベッチがあって、近所の方と思われるおばさんたちが数名、ベンチに座って楽しそうに会話をしています。その前を通りすぎて入口に入ろうとすると、実はそのおばさんの一人が中乃湯のおかみさんだということが解りました。
中乃湯の創業は昭和35年頃です。沖縄の銭湯のすべてがそうであるように、脱衣場と浴室が同一空間にあるという本土にはない様式です。*1
「銭湯遺産」には、おかみさん自らが白セメントで補修したという真っ白な小判形の湯船の写真が掲載されていて、町田忍さんは、「沖縄の美しい海を表現するアート作品のよう」*1 とたたえていますが、現在はリニューアルされてタイルの湯船になっています。
カゴ類はなく、服は直接棚に入れます。*1
カランは家庭用のものを使用し、Y字形のゴムホースは、常連客の手作りです。*1
【参考文献】
*1 町田忍:銭湯遺産(戎光祥出版,2008)P.38-P.40
コザのゲート通りとBC通りの間には、数年前まで保健所があって、現在も保健所通りと呼ばれています。
旧保健所の近くを北西へ折れると、古いカラオケハウスがあります。
カラオケハウスの2階は旅館になっています。
2階部分。
ゲート通りの商店街に1960年から続く洋品店があります。
ショーウィンドウには派手なランジェリーが陳列されています。
セクシーランジェリーがディプレイされています。
ショーウィンドウの奥に鏡が置かれているので、背面のTバックの部分がよく見えます。
コザのゲート通りは、かつては米兵向けの歓楽街でした。現在もその名残として、英字看板の店舗が建ち並ぶ通りになっていて、バーやスナックも営業中です。
通りに面した場所にあるスナック喫茶「プリンス」の看板。
通りから路地に入ったところにあるバーの建物。
木造家屋を改装したスナック。
コザの銀天街の近くに映画館があります。
堂々としたコンクリート建築です。
成人映画上映中です。
ほとんど判読できませんが、おそらく「コザ琉映」と書かれていたのだと思います。
コザ十字路近くに、古いビジネスホテルがあります。
ホテルナポリ。
入口は赤瓦でデザインされています。
現在は、休業しているようです。
コザ十字路近くの美越通り沿いに、レトロな理容室があります。
古い木造の建物です。
すぐ近くにもう1軒、理容室があります。富士山のイラストが印象的です。
年季の入った入口のドア。
普天間から北へ向かってバスに乗って4つ目の停留所の屋宜原(やぎばる、中頭郡北中城村)は、周囲を山に囲まれた集落ですが、山の斜面にはラブホテルが数軒建ち並んでいます。
坂の途中にラブホテルがあります。
円形のホテル。
夜になると、綺麗です。
今回は、普天間(沖縄県宜野湾市)の町並みと風俗を散歩します。
普天間は、普天間宮の門前町として栄えた場所ですが、町の南側には普天間飛行場が位置し、北側には、同じく米軍のキャンプフォスターがあって、古くからの町と基地の町という2つ顔を持った町です。
町の奥まったところにスナックが密集しているエリアがあります。
木造のスナックの建物。
すすけたコンクリートの大看板。かつてはここに英文字で店名が書かれていたのだと思います。
建物正面に入口を持つスナック。
屋富祖大通りの東側。
レトロな理容室「東京理容館」があります。
建物の側面。パンチパーマ、ニグロ、アイパー...。
建物の全景。
屋富祖大通りから路地に入ったところに、百メートル前後の飲食街があります。
1996年の芥川賞受賞作、又吉栄喜さんの「豚の報い」は、スナックに豚がちん入する奇想天外な場面から始まる奇妙な作品です。この作品は、1999年に映画化されましたが、「豚ちん入」のロケは、この横丁の入口にさくをして二、三十頭の豚を追いたてて行われました。撮影は、2日間かけて行われましたが、何回もくりかえすので豚も人もへとへとになったそうです。*1
屋富祖の飲み屋街は、一般に開店が遅く、明け方まで営業しています。*1
数年前まで、営業していた24時間営業のヤギ料理店*1 は、現在は看板が取り外されています。
【参考文献】
*1 琉球新報社:沖縄名作の舞台(琉球新報社,2003)P.94-P.97
屋富祖大通りの坂を登りきったあたりに、長屋の飲み屋街があります。
周囲は開発が進んでいますが、ここだけが時間が止まっているような雰囲気です。
小路の両側に飲み屋が並んでいます。
飲み屋街の路地は、L字型に続いています。
今回は、浦添(沖縄県浦添市)の町並みと風俗を散歩します。
浦添市の屋富祖・城間は、キャンプキンザーのメインゲートに直面していることから、屋富祖・城間の大通り周辺には、米兵相手の飲食店や雑貨店が多く建ち並びました。*1
屋富祖大通りは、一帯で最も賑やかな目抜き通りで、通りの路地にはAサインバーが集中していて、白人専用の特飲街を形成していました。*1
一方、城間大通りは、2~3軒の雑貨店、1~2軒の沖縄人相手の料亭を有する歓楽街でした。*1
(下の写真は、屋富祖大通りと城間大通りが合流するあたりです。)
通りの中心部付近に黒人相手の大規模店「バーアラスカ」があったことから、城間大通りは黒人たちが闊歩するようになりました。米兵相手の娼婦に間借りをさせている家庭もあって、米兵の部落への出入りは盛んでした。*1
屋富祖のAサインバーに黒人が飲みに来るということはなく、それどころか黒人のハーニー(愛人)が屋富祖で間借りすることが許されないほど、この一帯の白黒の区別は徹底されていました。しかし、黒人相手の「バーアラスカ」が倒産すると、黒人兵たちは城間から姿を消しました。*1
【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.70「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
那覇港に近い東町に料理店の「山海」があります。
沖縄ではもう数少ない貴重な山羊料理の専門店です。*1
ヤギは、非常に生殖欲の強い動物として知られています。このことが世の男性諸君からヤギ肉は精力剤として評価されている理由です。フィリピン、ベトナム、インドネシア、インド、韓国などの国々でも同様な評価を受けています。特にベトナムでは「ヤギ」と「スケベ」は同じ「Con de」(コンゼー)と表記・発音します。面白いことに沖縄では泡盛にハブをつけたハブ酒があるように、ベトナムではヤギの睾丸を焼酎に漬けた睾丸酒があります。*2
有名人も数多く訪れている名店で、高円宮様ご一家も訪れています。店内にご一家の写真が飾られています。
ここの名物はヤギ玉(山羊の睾丸の刺身)です。始め、1人前を注文しようとしましたが、お店のおばさんから、「1人前食べると精力つきすぎます。鼻血出ますからやめといた方がいいです。」とアドバイスされ、特別に、ヤギ刺し半人前とヤギ玉半人前の刺身盛り合わせを作ってくれました。
これと、ヤギの血を固めて短冊に切ったものとヤギのいろいろな部位の肉や内臓、野菜を具にした炒め物「チーイリチャー」と泡盛を注文しました。
血の固まりは、やわらかい厚切りハムのようで、大変美味しいです。にんにくがきいていて、精力がつきそうな感じです。ヤギ刺しは、皮付きのものとそうでないものの2種類があって、皮付きの方があっさりしている感じです。
さて、いよいよヤギ玉ですが、こちらはコリコリとした食感で、あわびをやわらかくしたような感じですが、さすがに、少しヤギ臭いです。まるで自分の睾丸が食べられているような気分になり、思わず股間をおさえました。(写真の丸い6個にスライスされたものがヤギ玉です。)
【参考文献】
*1 カベルナリア吉田:沖縄ディープインパクト食堂(アスペクト,2010)P.16-P.21
*2 平川宗隆:沖縄でなぜヤギが愛されるのか(ボーダーインク,2009)P.12-P.13
沖縄は、コンクリート製の住宅が普及しています。
コンクリート住宅のバルコニー部分に使用されている穴あきブロック(花ブロック)は、沖縄では日常的な風景ですが、古い建物の場合は、ブロック塀の穴あきブロックと同一のものが使用されています。
穴あきブロックは、”三つ山”などシンプルなデザインのものが好まれているようです。穴あきブロックは上下反転させて3段に配置されています。
階段部分の穴あきブロック。
那覇市の樋川に、スナックが密集する路地があります。周囲は閑静な住宅街ですが、この路地だけがスナックが建ち並んでいます。
色とりどりのスナックの店舗。
古い木造建築の建物です。
別の路地に残るスナックの建物。
那覇市の小禄半島の西には、航空自衛隊の那覇基地がありますが、この近くには小禄新辻町(新町)という特飲街がありました。*1
現在の那覇市宇栄原に「新町入口」という名のバス停があります。
新辻町は、コザの八重島と同様、米兵による強姦事件や民家の不法侵入など、犯罪の多発防止を目的に1952年につくられ、最盛期には70軒余りの店がありました。コザ同様、小禄半島の特飲街にも米軍の「人種別指定制度」が導入され、新辻町は白人専門、黒人はペリー区というテリトリーがありました。*1
現在はスナック街になっています。
東側の通りには、木造の建物も残っています。
【参考文献】
*1 沖縄市:KOZA BUNKA BOX 3号(沖縄市企画部平和文化振興課,2007)P.71「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」
今回は、那覇(沖縄県那覇市)の町並みと風俗を散歩します。
終戦直後、米軍は那覇軍港の整備に着手し、現在の山下町一帯は港湾従事者で活気に満ちていました。ところが、この「山下」という名は太平洋戦争の緒戦で「マレーのトラ」と異名をとった山下奉文将軍と同じ名であったため、米軍の政府政治部長だったポスト大佐がこの一帯をペリーという地名に改めました。*1
ペリーは、黒船の来航(1853年)で有名なペリーのことですが、実は、浦賀に来航する前に、那覇に来航していました。そのときのペリーの狼藉ぶりは目に余るもので、通りすがり女性の乳房を触ったり、民家に侵入してトートーメー(位牌)を奪うなどやりたい放題で、その後、婦女暴行を起こした水兵が殺害される事件まで起きました。話を冒頭の山下町に戻すと、山下町は、ペリー上陸地とは離れていますがが、米軍の意向でペリーにちなみ「ペリー区」と改名されました。*2
下の写真は、国道331号線(小禄バイパス)と県道7号線が交差するあたりで、右側が那覇軍港、左側が山下町です。
ペリー区は、軍港前を中心に米兵相手のバーが次第に増え、完全な赤線地帯となっていました。コザの町には黒人街と白人街がありましたが、黒人街の始まりは、このペリー区でした。バー街ではいざこざが絶えず、1952年には、「MP射殺事件」が発生、ついに米兵立ち入り禁止の”オフリミッツ”が発令され、これを境にペリーのバーは立ち消え、住宅街になりました。かつては、ペリーという名のバス停もありました。*1
現在も山下町には、商店などにペリーの呼び名が残っています。
ぺりー美容室。
ペリーもち屋。写真の右奥に見えるのは、「沖縄セルラースタジアム那覇」です。
1957年、琉球政府法務局は、戦後使用されなくなっていた地名を戦前の地籍どおり呼ぶことを全琉に通達、この日からペリー区も再び山下町に戻りました。*1
【参考文献】
*1 琉球新報社:ことばに見る沖縄戦後史 パート1(ニライ社,1992)P.173-P.179
*2 カベルナリア吉田:日本の島で驚いた(交通新聞社,2010)P.221-P.227
阪堺電軌阪堺線高須神社駅(写真左)近く。駅のすぐ北には、高須神社が鎮座しています。付近は、木造家屋が多く残る町並みです。
森永乳業の牛乳箱。
明治牛乳。
箱の側面には、明治バターと書かれています。
堺市街の北西から南東にかけて、フェニックス通りと呼ばれる幅50mの大通りがあります。フェニックス通りの名称の由来は、堺大空襲からの復興の象徴として植えた、126本のフェニックスの苗木です。
このフェニックス通りから1本道路を入ったところにフェニックス横丁があります。
2つの建物の間に計画的に作られた横丁です。
50mぐらい離れたところに、もう一つのフェニックス横丁があります。
2つの建物の間に路地があるという構造や看板の取り付け方も同じです。
新地にある神明神社は、堺のお伊勢さんと呼ばれている神社です。
龍神遊廓の楼主が寄進した玉垣が残されています。
「艶乃家」。
「愛乃家」など、艶っぽい屋号の玉垣がたくさんあります。
新地内のこの付近には、栄橋遊廓の事務所がありました。*1
かつての栄橋遊廓の事務所があったあたりに、古い旅館があります。
周囲は近代的なビルに建て代わっている中で、この旅館は昔のままです。
艶っぽい窓です。
【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)
かつて遊廓があった新地は、現在は住宅街となっていてその面影はありません。
レトロな旅館があります。
このあたりには、龍神遊廓の事務所がありました。*1
玄関は、美しい水色のタイルで装飾されています。
「いずみ荘」の看板。
【参考文献】
*1 今井清治郎:堺市實測地圖 訂正3版(文岳堂編輯部,1912)
天保年間(1830年~1843年)、戎島(現在のイトーヨーカド周辺)の南に水路を隔てて新しい埋立地ができ、ここに茶屋などが続々と集まって俗に新地と呼ばれるようになりました。
新地の東側には、栄橋と龍神橋の二つの橋がかかっています。
新地は地の利を得て次第に発展し、遂に龍龍遊廓と栄橋遊廓となりました。*1
龍龍遊廓は貸座敷108軒、芸妓395名、娼婦20名。栄橋遊廓は60軒、娼婦654名。府下でも有数の遊廓となりました。*1
【参考文献】
*1 松本壮吉:堺あれこれ(堺商工会議所,1972)P.84
今回は、堺(大阪府堺市)の町並みと風俗を散歩します。
堺は、堀で囲まれた町です。戦国時代に築かれた環濠は、自治都市堺の象徴でもありました。
町の南端の堀に山ノ口橋があります。この橋の袂には、かつて、乳守遊廓がありました。
室町時代より、町の北側には高須遊廓がありましたが、これに対抗して町の南側にできたのが乳守遊廓でした。元禄8年には高須は15軒の遊女屋に97人の遊女がいましたが、乳守の方には、24軒に167人の遊女がいました。*1
乳守遊廓事務所があった付近。
【参考文献】
*1 松本壮吉:堺あれこれ(堺商工会議所,1972)P.60,P.84
港陽三丁目の民家。趣きのあるブロック塀です。
穴あきブロックが規則正しく配列されています。
2個づつ上下反転させて組み合わせることにより、四葉のクローバーのような模様を演出しています。
穴あきブロックの部分を避けて、ペイントがされています。
港陽3丁目付近はマンションが建ち並ぶ住宅地です。
1軒だけ、周囲と趣きを異にするアパート風の建物があります。
1階にはスナック。2階部分はタイルで装飾されています。
洋風の入口と和風の入口が隣り合って並んでいます。
その名が示すとおり、名古屋港に近い港区にあった「港陽園」。全国女性街ガイドによれば「戦前の稲永遊廓がちょっと移転したもので47軒に220名」の規模でした。「港新世界商店街」の看板のあるロータリーに、「かもめアパート(旧かもめ)」があります。
「かもめアパート」の名前が残る看板。
暖色系のタイルが鮮やかです。
現在もアパートとして利用されています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.100-P.101
今回は、港陽園(名古屋市港区)の町並みと風俗を散歩します。
地下鉄名城線の築地口駅を下車し、しばらく行くと「港新世界商店街」のアーチが見えてきます。*1
商店街といっても、商店らしい町並みはほとんど残っていません。
しばらく行くとロータリーがある場所に行きつきます。
「港新世界商店街」と書かれた大きな看板だけが残っています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.100-P.101
岐阜市日ノ本町に銭湯のイトシン湯があります。鉄筋コンクリートの建物です。
1階は駐車場になっていて、この階段を登った2階が銭湯です。肌にやさしい「軟水風呂」です。
浴場入口の看板。
脱衣場は広々としています。
名鉄岐阜駅に近い羽根町に、75年前から当時の姿で今現在も存在している建物があります。
芸文ダンスホール。建物全体が白いタイルで覆われています。
現在は、イタリア料理店*1 となっています。
建物側面の通用口。
【参考URL】
*1 イタリア料理「Ristorante BucaLupo」:ホームページ
国際園跡の南側の新栄町。すぐ近くは岐阜駅前の大通りです。
お茶漬け屋さんの建物。
ここも何かの商店だったのでしょうか。
長屋風の建物。角の穴あきブロック塀がアクセントになっています。
飲み屋が入る古い長屋の建物があります。
「ミカド」という屋号だった店。
建物のコーナーの部分に入口があります。
長屋には3つの店が同居していますが、それぞれ趣きがあります。
国際園は、戦後にマーケットの一部として発展した集娼地区でした。国際園は、はじめ国際街と呼ばれ、岐阜市の中心に位置する金(こがね)神社の境内にありました。大宅壮一さんは、「日本の裏街道を行く」*1 の中で、「神社の入口に、公衆便所と並んで”国際街”とネオンで書いたアーチをくぐると、その中はまるで娼家のトンネルであった。」と語っています。昭和31年国際街の移転が決まりましたが、その土地区画は、鉄道(JR)を挟んで金津園(現ソープランド)とは真向かいに位置していました。*2
花園町のあたりの電柱には、「国際」と書かれたプレートがあり、この付近が国際園があった場所だと思われます。
スナック風の建物が並ぶあたり。
玄関部分がタイルで装飾されています。
和風の建物。
【参考文献】
*1 宅壮一:日本の裏街道を行く(文芸春秋新社,1957)
*2 加藤政洋:敗戦と赤線(光文社,2009)P.136-P.142
今回は、岐阜(岐阜県岐阜市)の町並みと風俗を散歩します。
岐阜駅北側の問屋町は、看板が重なる通りが続きます。
商店街から突き出た看板。
シンプルな「3丁目」の看板。
問屋町の遠望。古い町並みです。
新橋のガード下近くには、大人のおもちゃ屋さんもあります。
存在感のある看板。
1階に大人のおもちゃ屋とビデオ店が並んでいて、2階には焼き鳥屋が入っています。
アダルトグッズは、お土産やゲームの賞品に最適です。
風俗店が密集する新橋駅烏森口の飲み屋街には、無料案内所もたくさんあります。
派手なネオンの案内所。
こちらは、ピンク色の看板です。
こちらは、ピンク色の看板です。
裏口のドア。
「新橋方面近道」のビルの通路※1。中央部分あたりに、2階へ上る階段があります。
階段脇にあるトイレ。
ドアは開けられたままです。
女子専用。
新橋と言えば、ガード下です。
居酒屋が建ち並ぶガード下に理容室があります。時が止まったような昭和のたたずまいです。
「バーバーホマレ」は、1953年開業。店主の加藤寿賀さんの“顔剃り”は、かつての花柳界で鍛えられた職人技でした。15歳から94歳まで働き続けた寿賀さんの人生は、テレビ番組で紹介され、「94歳女性理容師の遺言 なぜ、はたらくのか」と題する本も出版もされました。*1
2階は居住空間になっています。加藤寿賀さんは、ここで二人の娘を育てあげ、仕事で疲れた体を休めました。
【参考文献】
*1 加藤寿賀:なぜ、はたらくのか(主婦の友社,2010)P.8-P.46
JRのガード下を有楽町から新橋駅へ向かう途中に、「新橋近道」と書かれた入口があります。
暗い地下道のようなガード下の通路が延々と続きます。
所々に、このような店舗があります。
階段を登ると、2階にも同じような通路が続いています。
新橋と言えばガード下です。ここを通りかかったのは午後の3時頃でしたが、ガード下は、すでに夜のような雰囲気です。
ガード下のアダルトショップ。新橋は大人の町です。
品揃えも豊富です。
ショーウインドウ。
今回は、新橋(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
新橋駅周辺には、中国マッサージ店が多いせいか、客引き禁止看板が散在しています。
整然と並ぶ看板。
ニュー新橋ビルにて。
手書きの貼紙。
静養地だった森ヶ崎鉱泉に芸妓屋ができたのは大正11年(1922年)でした。この時の芸妓屋は8軒、28人の抱え芸妓を擁していました。*1
当時の旅館に「盛平館」、「平盛館」などがりましたが、現在、「森ヶ崎十字路」の交差点近くに「盛平」と「平盛」の屋号のある蕎麦屋と米屋があります。
森ヶ崎本通り。
他にも古い建物が何軒か残っています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
森ヶ崎本通りを南を進んだあたり。
「ポルノ雑誌追放モデル地区」の看板があります。「さあやろう愛の力で町の美化」と川柳調で書かれた看板も併設されています。
森ヶ崎公園近くの看板。日当たりのよい場所であるためか、文字が読みづらくなっています。
「美化進む街なごやかに明け暮れる」、こちらも川柳調です。
今回は、森ヶ崎(東京都大田区)の町並みと風俗を三歩します。
JR蒲田駅から森ヶ崎行きのバスに乗り、「森ヶ崎十字路」で下車すると目の前が大森寺です。
境内には森ヶ崎鉱泉碑があって、鉱泉の由来が記されています。*1
明治27年(1894年)、に地元の農民が灌漑用に掘った井戸からラジウムを含んだ鉱泉が湧出し、諸病に効能ありと人気を呼びました。*1
石碑の裏側には、「明治32年8月発見 仝33年3月試験」と刻まれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
足立区入谷にある舎人一号公園の隣に小規模なラブホテル街があります。
オウム(アレフ)断固反対ののぼり。この付近にアレフの施設がある模様です。
ホテルの入口。
裏側からの遠望。
【参考テレビ番組】
*1 NHK総合テレビ ニュース・気象情報(2010.11.28 21:15)
竹ノ塚の西側にある舎人公園は、都心北部に位置する広大な公園です。その広さ故に、トイレやあずまやなどが多数あります。
スポーツ施設近くにあるトイレ。他の場所と違ってここは静かです。
寝泊りは禁止です。(上の写真とは別のトイレです。)
スポーツ施設近くのあずまや。
東武線竹ノ塚駅の北東、伊興4丁目に、銭湯の「しのぶ湯」があります。
破風造りの立派な建物です。
入口に、ラドン発生機がど~んと置かれています。
待合室に入ると「見返り美人」がお出迎えです。
大鷲神社の石垣には、寄進者の名前がたくさん刻まれていますが、その中の一つに「東京新吉原貸座敷有志」と書かれた石垣があります。大鷲神社が吉原の関係者の信仰を集めていたことがわかります。
当時の楼名が刻まれています。
新吉原。
料亭の名前が刻まれています。
今回は、竹ノ塚(東京都足立区)の町並みと風俗を散歩します。
酉の市は江戸東京を代表する冬の祭りで、規模の大きさでは、浅草の鷲神社の酉の市か新宿の花園神社の酉の市が有名ですが。酉の市発祥の地は、両者のいずれでもなく、江戸から遠く北に離れた花畑の大鷲神社でした。*1
花畑の大鷲神社の当時の賑わいは大変なもので、花畑は江戸時代のレクレーションの中心地でした。人気の要因は信仰のほかに賭博があったことでした。しかし、九代将軍徳川家重のときに賭博が禁止され、また浅草でも酉の市が開かれるようになり吉原の遊里と結びついて繁盛したことから、本家の大鷲神社の酉の市はさびれてしまいました。*2
この日(11月19日)は、花畑の大鷲神社の酉の市の日です。
参道から鳥居のあるところまで、露天が建ち並びます。
熊手屋の出店数は、5~6軒と小規模です。
たこ焼き。
【参考文献】
*1 長沢利明:酉の市の起源(1) 東京都足立区大鷲神社(西郊民俗)[2004.6]
*2 菊地隆夫:竹の塚今昔物語(「竹の塚今昔物語」企画・編集制作委員会,2007)P.18-P.19,P140-P.142
日本橋本町四丁目は、かつての町並みや雰囲気が残るエリアです。
中でも「理髪久保田」は、昭和5年築の看板建築です。
モダンなデザインです。
現在も営業中です。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
東京駅前はオフィスビルが林立するビジネス街ですが、雀荘が密集しているエリアでもあります。
昭和の雰囲気そのままの「麻雀クラブ富士」。
昭和25年頃は「パチンコ富士」でした。*1
玄関部分。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
建設中の八重洲一丁目のこの場所に、数年前まで料亭「安芸」*1 がありましたが、取り壊され新しいビルが建設中です。工事用フェンスに「八重洲一丁目飲食街」と書かれている通り、建設中のビルの裏手に飲み屋街があります。
看板が連なる飲み屋街。写真右側は工事用フェンスです。
工事用フェンスには、「八重洲のあの日」と題し、江戸時代から現在に至るまでのこの界隈の変遷が地図で示されています。
1950年頃の火災保険特殊地図。この地図によると、この付近は「中央ホテル別館」や料理屋が建ち並ぶ一画でした。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」
今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
日本の中心オフィス街の東京駅八重洲口にほど近い日本橋の繁華街。雑居ビルの中に入るビデオBOXの看板をあちこちに見かけます。
サラリーマンの仕事の疲れを癒す憩いの場になっているようです。
薬局の2階にあるビデオ見放題の店。
レトロな電飾看板。
東武日光線、家中駅から東へ約2.5Kmのところに、鷲宮神社があります。
合戦場遊廓の主人や遊女たちは、商売繁盛を祈ってお酉様を信仰しました。*1*2
この日(11月23日)は例大祭(酉の市)が行われました。
酉の市の日は鶏肉と卵を絶たなければなりません。
神楽(かぐら)も披露されます。
【参考文献】
*1 都賀町史編さん委員会:都賀町史(都賀町,1989)P.275
【参考URL】
*2 鷲宮神社:鷲宮神社ホームページ
合戦場は、日光例幣使街道の宿場町で、合戦場という地名はその名の通り、戦国時代の大永3年(1533年)、宇都宮忠綱と栃木城主皆川宗成の軍が戦った場所です(川原田合戦)。宿場は500mほど続きますが、宿場時代は、飯盛り女が置かれている旅籠屋もありました。*1
天保10年(1839年)関東取締出役(別名“八州廻り”)の汚職事件にかかわり、合戦場宿の多数の旅籠屋などが検挙されるという事件がおきました。この事件は、もともとは、関東取締出役の内藤賢一郎という人が飯盛女にあてた恋文が露見したことから、合戦場宿福村屋太六が捕らえられたことに端を発したもので、当時評判となった事件でした。取調べにあたったのは、遠山左衛門尉景元(遠山の金さん)で、処分者は800余人に達し、八州廻りの黒い霧が一掃されました。*2
合戦場の町並みを西に入った東武日光線沿いの一画は、昭和33年まで遊廓だった地です。宿場時代の飯盛女を集めて遊女屋とし、ここにまとめられました。*1
玄関脇に丸窓があります。
道路脇に祠がありました。
【参考文献】
*1 今井金吾:今昔三道中独案内 新装版(JTB出版事業局,2004)P.175,P.178
*2 本間清利:日光街道繁昌記 補訂版(埼玉新聞社,1980)P.102-P.103
今回は、合戦場(栃木下都賀郡都賀町)の町並みと風俗を散歩します。
合戦場宿に、日立製作所創業者の小平浪平(おだいらなみへい)の生家があります。
「小平浪平生誕地」の碑
小平浪平は、合戦場の宿場町に生まれ、秋田県の小坂鉱山へ入社。明治43年に日立製作所を創設しました(案内板より)。
「私の家には酒飲みや酒飲み運転をする人はおりません」と書かれたプレート。
八丁堀二丁目に、雀荘の建物があります。水色の建物が幻想的です。
入口付近。
玄関の部分もモダンです。
建物脇の路地もいい雰囲気です。
地下鉄八丁堀駅近く。ビル街の中に戦前の看板建築がひっそりと残る一画があります。写真の一番右側の建物は、旧神田美容院の建物です。*1
路地の入口。
銅板建築の建物。
都会のど真ん中にして、この石畳の路地。自販機の安室奈美恵さんのポスターとのアンバランスが何ともいえません。国旗掲揚塔があります。
【参考文献】
*1 佐藤洋一,武揚堂編集部:あの日の日本橋(武揚堂,2007)「火災保険特殊地図」