米が濱砲台は、明治23(1890)年から明治24(1891)にかけて建設され、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門が、旅順攻略のために運び出されました(案内板より)。
榴弾砲の土塁と砲台が整備され、公開されています。
砲台跡は、広場になっています。
砲台跡からの横須賀市街の眺望。写真右奥は猿島。
近くの電柱プレート。「砲台」の名が記されています。
米が濱砲台は、明治23(1890)年から明治24(1891)にかけて建設され、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門が、旅順攻略のために運び出されました(案内板より)。
榴弾砲の土塁と砲台が整備され、公開されています。
砲台跡は、広場になっています。
砲台跡からの横須賀市街の眺望。写真右奥は猿島。
近くの電柱プレート。「砲台」の名が記されています。
横須賀の町は、造船所や遊興地(大滝遊廓など)があった下町に対し、後背の丘陵上部に上町(うわまち)に多くの住宅が建てられました。上町と下町の通行は明治十年頃に作られた狭い坂道(平坂)しかありませんでしたが、その後、平坂が拡幅されて交通が改善されたことにより、横須賀の町は開発が進んでいきました。*1
急な坂ですが、なぜか「平坂」と呼ばれています。
上町へ向かう坂道。
坂の途中から見る横須賀中央駅方面。
横須賀市本町3丁目にある「延命地蔵尊」。
繁華街のどぶ板通りの西側にあります。
この地に祀られたのは大正12年の関東大震災の後でした(案内板より)。
「遊楽の場所」の項に「汐留地蔵尊」の記載があり、「汐留町に在り、朝夕、線香の煙絶えず茲(ここ)にも茶屋町の女どもが朝に夕に参詣して居る。」と紹介されています。*1
三笠ビル※1 の北側。「聖ヨゼフ病院入口」の交差点を入ったところに建つ共同ビル。
密集する看板。
横須賀らしく、「KARAOKE」と書かれた店もあります。
1階の中央部分に「大滝名店ビル」の入口があります。
ビルの反対側(南側)の入口。
三笠ビル商店街から「豊川稲荷」へ向かう参道を進みます。眼前にほぼ垂直な崖が立ちはだかります。
急な上り階段が延々と続きます。
崖下に、横須賀の町を見下ろすことができます。
登りきったところに、「大勝利山」と書かれた標柱が建っています。
三笠ビル商店街を縦断に貫く歩行者専用の中央通路は、ももともと横須賀市の市道、通称「三笠通り」でした。公道が、建物の中を縦断している例は希です。*1
商店街の中程に、「豊川稲荷」への道が分岐します。
商店街の中に参道があります。
「豊川稲荷」へ登る途中の階段から見た三笠ビル商店街。
今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
横須賀の下町地区(大滝町)に建つ三笠ビルは、「統一された都市美」を見せ、今日も横須賀中心市街地の顔として存在感を保ち続けています。*1
建物の中央を貫く「三笠ビル商店街」商店街の入口には、戦艦三笠のモニュメントが掲げられています。
三笠ビルは、1959年11月の竣工で、横須賀市で初めて耐火建築促進法が適用された防火建築帯のビルです。外観は一体の建築(通りに面するハファサード)に見えます。
建物の裏側からみると、実際は、数棟に分かれた鉄筋コンクリート造りの建築物であることが解ります。
P.142
横須賀は奇跡的に空襲から免れ、町の都市基盤と都市機能はほぼ無傷だ…
鶴見の本町通四丁目には、かつては多くの飲食店街※1 がありましたが、 現在はほとんど無くなっています。
奇跡的にこちらの一画だけが昔のままの姿で残っています。
スナック「はなぶさ」。3軒の店が連なっています。
側面はトタンです。
沖縄物産センターのある仲通り沿いにあるたばこ店。
四つ角に建つ看板建築です。
軒下部分に年季を感じます。
鮮やかなタイルの装飾は健在です。
沖縄物産センターの建物の中央のビル横丁は、「鶴見ハイサイ通り」と名付けられています。
軽食・喫茶「ゆうなの花」。
オリオンビール(缶)を頂きます。
ソーキそばを注文。よく煮込まれた肉は、とてもやわらかいです。
鶴見線浅野駅の北側。首都高速沿いにある環七商会。
作業服や安全靴などの製造直売の店舗です。
ふだん、あまり聞きなれない言葉が並んでいます。
店舗の軒先に商品が吊るされています。
軍手は種類が豊富です。
京急鶴見駅東側の繁華街にある「ラーメンいろは」。建物角の緑色の大看板が目印です。
「中華のお店」です。
年季の入ったメニュー看板。価格は安価です。
看板左側に書かれていますが、「ニュー・イロハ」という店名もあるようです。
チャーシューメンとビールを注文。チャーシューは、おいしく、量が多いです。
今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みを散歩します。
京急鶴見駅東側の一角は、防火帯建築の宝庫です。
鈴木ビルは、1階に多数の飲食店や風俗店が入居するビルです。
建物北側の角のスナック店。
ビルの裏側。いくつかの棟に分かれていることが解ります。
上町(うわまち)の商店街一体は、池之端と呼ばれていましたが、これは、昔ここに田戸溜池とよばれる大きな池があったためです。近隣の人々の憩いの場として、水田の灌漑用水として使われましたが、明治30年頃から埋め立てが始まり、明治の末期には姿を消しました。*1
上町(うわまち)商店街の南側の三叉路にある弁天公園。
この通りで菓子店を営んでいた「きくや」の先々代の小田寅之助さんが、池を埋め立てるときに蛇を助けことから、これを池の主として、「妙竜法徳弁財天」の名を江の島の弁財天(藤沢市)から授かり、商店街のシンボルとして小公園内に設置されました。*2
昭和42年、商店街にアーケードが建設され、弁天市の賑わいはさらに増しました。*2
池之端
税務署の前の商…
菓子店を営んでいた「きくや」の先々代の小田寅之助さんが、池を埋め立てるとき…
上町三丁目交番のある三叉路から不入斗公園へ側へ少し入ったところに、昭和の雰囲気を残す銭湯の「当り湯」があります。
入口の両脇には、塀が続いています。
建物も立派です。
入口。
かつての柏木田遊廓跡地に建つ稲荷神社(穴守稲荷大明神)の赤い鳥居をくぐった先にある祠。
祠の右手前に立派な手水舎があります。
背面には、寄進者の名が刻まれています。
「大正五年 大美樓」と読み取れます。
かつての柏木田遊廓があった場所※1 に建つ稲荷神社。
隣接する町内会の名に「柏木田」の名が残っています。
街路灯の支柱。
標識用のスタンドにも「柏木田」。
今回は、柏木田(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
京急線の県立大学駅の線路の下。このガード下が旧な坂道の入口です。
「どうみき坂」と呼ばれています。
道幅の狭い急傾斜の坂道が続きます。歩道は、片側のみです。
坂の終了地点から見たどうみき坂。
横須賀の米が浜通り入口交差点。北側を見ると、ビルとビルの間に飲食街のゲートが見えます。
飲食街の右側のビルがトニービルです。
趣きのある看板。
左側のビルとは壁で仕切られています。
横須賀市の米が浜通2丁目の歩道橋近くにある「小松遊雅亭」。かつての海軍料亭「小松」の跡地脇に建っています。
料亭「小松」は、日露戦争の日本海海戦の20年前、1885(明治18)年8月8日に創業、海軍御用達として、東郷元帥をはじめとする名だたる海軍提督に利用されました。残念ながら2016年5月16日の火災で建物は消失しました。*1
現在は門柱だけが残っています。
わずかに敷石だけが残っており、往時が偲ばれます。
料亭「小松」には、多くの書が残されていましたが、残念ながら2016年5月16日の火災でほとんど消失してしまいました。*1
料亭「小松」は、日露戦争の日本海海戦の20年前、1885(明治18)年8月8日に横…
上町(うわまち)1丁目の中里通り商店街に銭湯の建物が建っています。
現在は営業していないようです。
モダンなデザイン。
緑色のトタン7建築です。
上町2丁目の商店街にある立花食堂。
建物脇の路地。
メニューが豊富です。
サンマーメンとビールを注文。
今回は、横須賀の町並みを散歩します。
京急横須賀駅の南側。三崎街道沿いには、多数の看板建築の建物が残っています。
上町(うわまち)の商店街は、明治10年の平坂(ひらさか、京浜急行・横須賀中央駅の東側から南に上る坂)開削以来、主要な街道になった道路沿いに形成されました。その時に多く建てられたのが、上町に残る看板建築群です。*1
昭和初期の上町は看板建築が集積する商店街でした。
3階部分が斜めに配置されている銅板建築。
上町(うわまち)の商店街は、明治10年の平坂(ひらさか、京浜急行・横須賀中央…
三浦半島の南側の山並み。砲台山は、三浦富士と武山の間に位置します。
砲台山山頂には、無線中継所があって、展望はありません。
近くに、第二次世界大戦中に置かれた砲台の跡が残されています。
「砲台山展望台」からの眺め。
ペリー公園※1 の南。住宅街の中に銭湯の西の湯があります。
入母屋屋根の下に千鳥破風のような小さな三角屋根がのっているデザイン。
和風のトタン建築です。
入口の前面もトタンで覆われています。
定食は、魚のフライが中心です。
あじフライ定食とビールを注文。
店内からは、久里浜の海を見渡せます。
久里浜海岸近くにあるペリー公園に、「ぺるり上陸の地」の碑が建っています。黒船の来航は浦賀でしたが、ペリーが上陸したのは久里浜でした。
新しい日本の夜明けは、久里浜から始まりました。
太平洋戦争時には、敵性のものと憎まれ、1945年翼賛青年団によって引き倒されましたが、終戦後に復元されました(案内板より)。
「ペリー幹」の電柱プレート。
京急久里浜駅前の商店街の中に、銭湯の梅の湯があります。
粋な暖簾のかかる入口。
和風の建物には、紋がデザインされています。
煙突。
京急北久里浜駅前の通りを西へ、緩やかなカーブとなっているあたり。「そば・うどん」の暖簾のかかった食事処があります。「やきとり」の看板もあります。
昭和30年代の歌謡曲が流れる店内。
そば・うどんの店でありながら、お酒が飲めます。
やきとりを注文。
「そば・うどん」と飲み屋が合体した店です。鶯谷などにある「信濃路」※1 を思い出させます。
久里浜4丁目の夫婦橋※1 近くの飲み屋が建ち並ぶ一画。
ピンク色の建物の呑処。
木々に覆われた居酒屋。
奥にもスナックが建ち並びます。
今回は、久里浜の町並みを散歩します。
久里浜市街を流れる平作川にかかる夫婦橋。
横須賀風物百選に指定されています。
この橋には、人柱伝説というのがあります。
昔の夫婦橋は、平作川の洪水で幾度も流されていました。そこど、貧しい人夫の美しい娘が神の怒りを鎮めるために犠牲となって、橋の下に埋められました。その後夫婦橋は大雨が降り続いてもながされなくなったという悲しいお話です。(案内板より)
似たような話で、千葉、神奈川の各地にある「きみさらず伝説」を思い出しました。
松戸市役所交差点の角に、建つ京葉ガスのビル。
1階入り口に、裸婦像が建っています。
道路を挟んが向かい側(北側)にも京葉ガスのビルがあり、同じモチーフの像があります。
こちらの裸婦像は両手をを上に上げています。
松戸市根本にある岩山稲荷。隣には、松戸角海老根本店があります。
鳥居の脇には、岩山稲荷改修工事費寄付者の碑が建てられています。
寄付者の名に、角えび商事鈴木正雄の名が刻まれています。
鈴木正雄は、「角海老」グループの創始者です。*1※1
別の碑(改修工事の内容が書かれたもの)にも、角えび商事の名が刻まれています。
P.47
グループ企業の中には、ソープランド以外に宝石店やボクシングジムもあ…
松戸駅の北側(北松戸駅との中間のあたり)に、「角海老」グループの拠点「角海老商事」があります。
グループ企業の中には、ソープランド以外に宝石店やボクシングジムもあり、不動産賃貸の会社もあれば、タオルを洗浄する会社などもあります。*1
「角海老」創始者の鈴木正雄の自伝*1 によると、「公衆トイレと人生は後ろを向いたらやり直し」だそうです。
鈴木さんは、母が浅草の花柳界にいたことから、花柳界に馴染みがあり、敗戦から5年が経過していた頃、芸者さんを置屋から料亭に運ぶことを専門にした人力車の商売を始め、その後輪タクに転向。昭和29年、21歳の時に吉原の揚屋町の土地を手に入れ、輪タクの拠点にしました。*1
お世話になった角海老(吉原の総籬(そうまがき)の大見世だった)から、「『角海老』の名前を継いでもいい」と言われたそうです。*1
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グループ企業の中には、ソープランド以外に宝石店やボクシングジムもあ…
カレー「印度」※1 の向かい側にある純喫茶「若松」。
花柄のソファーシートの席。
店内は、家紋がデザインされた和風の雰囲気。
レモンティーと注文。
高砂通りに沿いの古い共同ビルの1階にあるカレー専門店「印度」。
日本語の「印度(あて字)」が店名です。
一般向けカレー。インドカレー。パキスタンカレーの3種に分類されています。
インドカレー(大辛)とビールを注文。カレーは、舌がぴりぴりとし痺れるほどの辛さです。
今回は、松戸(千葉県松戸市)の町並みを散歩します。
松戸駅の西側の高砂通り沿いに、古い共同ビルが建っています。
建物の中央部分は、狭い路地になっています。
飲食店が密集しています。
奥には、トイレもあります。
鶴見にある曹洞宗大本山總持寺。墓地を進むと「石原裕次郎氏の墓処」の看板が建っています。
没後35年経ちますが、この日も多くのファンが訪れていました。
入口には、「裕次郎」と彫られています。
石原まき子(北原三枝)さんが建てた歌碑。
鶴見三業共同ビルの南側の通り。ミュージックパブ「サテンドール」。
1階に飲食店、2階が居住スペースの共同ビルです。
提灯がぶら下がる風俗店跡。
入口には、セクシー女優の写真。
「三業共同ビル地下街」への入口看板。
以前は、このビルの周辺の街路には、「鶴見三業地会」の看板がありましたが、現在は撤去されてしまったようです。
このビルの南側の角には、「鶴見地下飲食街」への入口があります。※1
北側には、居酒屋が入るビルが隣接していますが、「鶴見三業共同ビル」と一体となったビルのように感じます。
今回は、鶴見(神奈川県横浜市鶴見区)の町並みを散歩します。
JR鶴見線高架下にあるレストラン「ばーく」。
カツ、ハンバークなど、ボリューム満点のメニューばかりです。人気のハムカツは、4切れが1000円、2切れが800円。4切れの方が断然お得です。
ハムカツ(4切れ)とビール。そしてライス中盛を注文。
ライス中盛は550グラム。中盛なのに物凄い盛りです。大盛は1Kgだそうです。
京急生麦駅の近く。国道15号線沿いに、銭湯の朝日湯があります。
立派な千鳥破風の外観。
入口。
高い天井を持つ広い空間です。
幸手市街から大正新道を北へ進み、東武日光線の踏切を超えたところにある「そば処 薮」。
看板の錆び具合が年季を感じさせます。駐車場完備です。
建物の外観は、綺麗です。
レトロ感満載の店内。
けんちんそばとビールを注文。
桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、現在の堤は明治の洪水とのたたかいから生まれたものでした。*1
かつての権現堂川は、いったん洪水で決壊しようものなら、すぐさま首都・東京に洪水をもたらすおそれがあったため、明治政府は、ここに新たに堅固な堤防を築きました。しかし、重なる洪水に悩まされた政府は、権現堂川を廃川とすることにしました。この計画を知った地元の人々は、堤に桜の樹を植え始め、その桜は順調に成長し、権現堂堤は生まれ変わりました。*1
桜の名所として有名となったこのころには、花見のときには、東武線浅草駅から幸手駅まで、臨時電車が出て、露天商が軒を連ね小屋掛けをし芝居などの興行も行われ、幸手の町中には検番があり芸者を呼ぶ人たちもいました。芸者衆による観桜会流し踊りも行われました。*1*2
現在も、花見の時期になると、堤には露店が並びます。
今でこそ桜の名所として広く知られ幸手のシンボルとなっている権現堂堤ですが、…
大正14年4月
大正9年から植えられた桜は見事に育ち、シーズンには多数の人手…
宿場町として栄えた幸手宿は、近代に入ってからは「商業のまち」としてて発展していきました。*1
旧日光道中の表通りは、米穀商や肥料商、呉服商などが軒を連ね、近隣からそれらの物資を集荷し東京方面を中心に販売する問屋的性格をもっていました。*1
ビニールの青木商店、洋品のタムラは、当時の地図にも記載のある大正時代から続く店です。*2
このあたり(「NOGUCHIDO」※1 の向かい)には、芸妓置屋もありました。*2
宿場町として栄えた幸手宿は、近代に入って宿場としての役割を終えた後は、商工…
久喜新道の西側に芸妓業 石村きん
交差点近くに、
小間物商 田村、
荒…
旧幸手宿の通りは、古い建物が多く残っています。
洋風のモダンな建物。
「NOGUCHIDO」と読み取れます。「大正5年頃の幸手町街並み図」*1 に記載されている野口氏の「東京用達」と思われます。
道路面に沿っている建物の1階部分に対し、2階部分は角度がつけられています。
今回は幸手(埼玉県幸手市)の町並みを散歩します。
旧幸手宿の面影を残す通りは、明治期に栄えた頃の面影が残っています。
永文商店は、明治36年に創業しました。*1
日本酒「櫻冠(おうかん)」の大瓶が展示されています。
店の脇に残るトロッコ軌道。現在も使われているようです。*1
店舗の建物の側面には、松尾芭蕉の姿が描かれ、芭蕉が詠んだ句が添えられています。
千代ケ崎砲台は、日清戦争中の明治28年に竣工したもので、長時間の敵艦との砲撃戦と籠城戦に耐えられるようにつくられました。そのため、地下部分に、弾薬庫や居住地区等が堅固に作られています。*1
砲座へのトンネル通路。*1
敵艦の射撃から防御する目的で、周囲は厚い土塁で覆われ、そのため、砲座は12m底に置かれています。*1
砲台脇の桜が見頃をむかえています。
「柳町跡の碑」※1 が建っている通りは、かつては、「一松」「㐂楽」「三好」「玉川」「分久美八」「つちや」「宮蔵」「久美八」などの旅館が建ち並ぶ歓楽街でした。*1
旅館「くらや」があったあたり。*1
旅館の風情のある意匠が残っています。
東側に路地を入ったあたりには、「きみ子」「あたご」「ユー」などの飲み屋がありました。*1
カギ型に曲がった道の先が、かつての柳町の歓楽街です。
常福寺※の北側。柳町町内会館がある通りは、愛宕山麓から久里浜台へ向かう坂道です。
戦後、浦賀港が漁港として栄えた頃、このあたりは「柳町(やなぎちょう)」と呼ばれる歓楽街でした。
柳町の碑。
まちの風情を豊かにするため、部分的に柳の木が植えられ、そのまま町名になったといわれています(案内板より)。
東浦賀の愛宕山にある常福寺。境内へは長い階段を登っていきます。
「大乗妙典六十六部供養」の碑。(「妙典六十六部」とは、法華経を66部写経し、日本全国(66ヶ国)を巡る修行のこと)
願主、江戸屋半五郎と刻まれています。
江戸屋半五郎は、洗濯屋(遊廓)の主人でしたが、あるとき、江戸で、一人の僧に説教され、自分の商売の罪深さを知り、すべての財産を投げ売り、これを抱えていた遊女たちに分け与え、仏門に入り、修行僧として全国を行脚しました。*1
江戸屋半五郎の墓。
「大誉果向深本法子」の法名が刻まれています。半五郎は、修行僧として全国を行脚の折、紀州の山中で徳本上人に出会い、子弟の関係を結び、「深本」の名をもらいました。*1
西浦賀1丁目の「ペリー歯科」の看板。鳥居を抜けた先であることが示されています。
叶神社の鳥居の向こう側にあります。
ペリー歯科。
下田のペリーロード※1 や那覇のペリーの名を冠した店舗※2 など、ペリーは親しまれています。
今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
浦賀5丁目の「梅本」。蒲焼の専門店です。
明治初頭に鰻割烹の店として創業し、当時は勝海舟も訪れたそうです。*1
「三浦繁昌記」によると、当時は、離座敷や浴室も完備されていたようです。*2
「蒲焼」の看板。代々受け継がれてきたものだと思います。
浦賀の散歩地図も掲載されています。*3
うな丼とビールを注文。
明治初頭に鰻割烹の店として創業。当時は勝海舟も訪れたという。飾り気のない店…
弊店蒲焼は、名代にして数年来営業罷在(まかりあり)候事とて其料理に至っては汎…
馬込沢の商店街※1 のスナック店。
「花束」と書いて「ブーケ」と読みます。
花柄模様の看板。
夜の様子。
今回は、鎌ヶ谷(千葉県鎌ヶ谷市)の町並みを散歩します。
二和川が流れる谷沿いに発達している馬込沢の商店街は、馬込沢駅の西側にも延びています。
電化ショップ。
飲食店もあります。
そば処「大文字」。
川越市の西小仙波町1丁目は、かつての花街で、現在も旅館の建物が残っています。※1
天婦羅「てんぬま」。風情があります。
店の前に生える1本松が目印。40年以上続く当店の外観は、当時の面影を残したままの作りです。*1
天丼と日本酒を注文。
弁天横丁※1 の奥には、長屋の建物が残っています。
丸窓に竹を配し、2階部分に手すりのある意匠を凝らした置屋の雰囲気をもつ建物が現存しています。
建物の中央部はトンネル路地になっていて、向こう側へ抜けられます。
逆方向から。
現在の札の辻の交差点の北側に、レトロなゲートが残る路地の入口があります。
クラブ浮世、ロートレック、小料理悦、パブ河。
「ロートレック」は、現在も営業中です。
かつて、置屋があった頃の雰囲気が残る路地。細い路地は、微妙に折れ曲がっています。*1
川越の花柳界は明治10年前後に起こり、明治26年の川越大火後にさかんになりました。本町(現元町1丁目)の裏宿あたりに芸妓置屋と待合茶屋が雑居し、「川越遊園地」と呼ばれていました。*1
一番街商店街から東へ入った通りに、映画館のスカラ座があります。
スカラ座は、1905年(明治38年)「一力亭」(寄席)としてスタートした歴史ある映画館です。*1
入口。
建物は、1945年(昭和20年)築で、建物側面をトタン板とモルタルで覆った倉庫、または小屋のような造りになっています。その外装は1986年(昭和61年)に変更され、建物の正面と側面の一部は白いタイルで覆われています。*2
1905年(明治38年)「一力亭」(寄席)としてスタート
1907年(明治40年)「…
P.53
川越市内にはかつて9館もの映画館がありましたが、年々数が減り、「川…
川越街道沿いにある石材店。1階はショールームになっていて、商品の石材が陳列されています。
小便小僧も販売しているようです。
小便小僧の前には、日本庭園でみかける「ししおどし」(竹筒の水がいっぱいになると、重みでパッタンとなる仕組み)があり、ここに、小便が注ぎ込まれるよう配置されています。
この日は、水が出ておらず、少し残念でした。
川越の商店街沿いにある寿司店。
江戸前寿司の暖簾。
「入りづらい店。」「勇気の一歩お願い。」と書かれた貼り紙を見ると、入りたくなります。
ちらし寿司と日本酒を注文。
今回は、川越(埼玉県川越市)の町並みを散歩します。
丸広百貨店の川越本店は、地域に密着した老舗百貨店です。
以前は、屋上に遊園地がありましたが、残念ながら閉園し、現在は人工芝生の広場になっています。
稲荷神社もあります。
近くにあった「丸広」の電柱番号札。
常盤平団地の展示※1 は台所の内部の詳細まで再現されています。
「ハイミー」は、1962年(昭和37年)に発売された複合調味料です。「昔懐かしい昭和の時代の商品」という印象がありますが、いまもなお高級料亭などでも使われている調味料だそうです。*1
ナショナルの冷蔵庫。懐かしい楕円形の丸取っ手のモデルです。
木製の風呂。
常盤平団地は、日本住宅公団(現在のUR都市再生機構)が建設した初期の代表的な団地の一つです。1960(昭和35)年4月に入居を開始ししました。*1
松戸市立博物館に、この常盤平団地を再現した展示があります。
スズキの原付バイクの展示。
洗濯物が干されているなど、団地の雰囲気が出ています。
当時の茶の間を再現した展示。
1960(昭和35)年4月に入居を開始した常盤平団地(約5,000戸)は、今年4月に6…
北松戸駅北口から徒歩5分のところに松戸競輪場があります(写真右奥)。
競輪場前の通りにある大衆そば処「やまわ」。
店内にはテレビが設置されていて、競輪のレースの模様を放映中です。
天婦羅そばとビールを注文。
松戸市根本の松ノ木橋近く。川沿いに、やきとりやと居酒屋が入る商業ビルがあります。
和みの店「さんちゃん」居酒屋です。
ブラジャーと言えば、ブランデーをジンジャーエールで割った、横須賀の若松マーケット生まれのカクテルが有名ですが、同様のものが松戸にもあります。*1*2
無料の貸し傘もあります。
ブランデーをジンジャーエールで割った、若松マーケット生まれのカクテルです。…
登録ならず
居酒屋「さんちゃん」の入口にはられた「ブラジャーあります」と…
松ノ木通り近くの交差点にある商店だった建物。
「東京堂薬局」と書かれています。
前面の看板建築部分に残るマンダムの看板。
マンダムのロゴ看板。※1
チャールズ・ブロンソンがCM「うーんマンダム」(1970年)は、外国人CMのはしりでした。*1
三船敏郎がタンカーの上でビールを飲むだけという<男はだまって>サッポロビー…
かつて、平潟遊廓があった通り。マンションの建物の脇にレトロ電柱が残っています。
しっかりと建っているように見えます。
背面にあるスイッチの格納部分。
錆びた鉄骨がむき出しになっており、老朽化が進んでいる模様です。
今回は、松戸(千葉県松戸市)の町並みを散歩します。
来迎寺※1 の入口に一風変わった石塔が建っています。
この石塔が一風変わっているのは、正面下部を縦長の長方形にくりぬいて、六道輪廻を意味する石車が取り付けられた痕があることから「車地蔵」と呼ばれています。*1
石車を入れたくり抜きの痕。
風化して、ほとんど読み取れませんが、女人(おみの おつや おろく はな)の名が刻まれています。この「車地蔵」は、飯盛女供養のために建てられた地蔵尊であると考えられています。*1
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墓地入口に地蔵菩薩が安置されている。手前にあるのが一風変わってい…
ニコニコ横丁飲食店街の奥に、「公衆浴場ニコニコ湯」の看板が見えます。
西側は開けていて、銭湯の建物の全景を見ることができます。
銭湯の南側には、二和川が流れています。
銭湯の入口。
残念ながら、令和4年9月30日を持って、閉店となりました(貼り紙より)。
馬込沢にある飲食店街。横丁風の共同建築です。
1階が飲食店街。2階が居住部分です。
天井部分。
最近、改修されたらしく、きれに塗装されています。
東道野辺6丁目のアカシア児童遊園内に、巨大なコンクリートの構造物が遺跡のように建っています。
遺跡のようにそびえたっています。
この橋梁(史跡)は、旧日本軍の鉄道大隊が建設した鉄道の一部です(案内板より)。
戦後、線路の大部分は、新京成電鉄に移管されましたが、一部のルートが変更となっため、橋脚のみが残ったようです。
遠くから眺めると、この辺りの窪地の地形を回避するための橋りょうだったことが解ります。
今回は、鎌ヶ谷(千葉県鎌ヶ谷市)の町並みを散歩します。
東武線鎌ヶ谷駅近く。新京成電鉄沿いに位置する右京塚神社の境内に、「夫婦稲荷」の案内板があります。
夫婦稲荷。
珍しい形をしたケヤキの丸太がご神木です。*1
もとともは、造園業を営む地元の方の自宅近くにあった高さ7メートル直径1メートルの木だったそうです。*1
珍しい形をしたケヤキの丸太がご神木。
造園業を営む鈴木さんの自宅近くにあ…
杉戸には、高橋屋、和泉屋など、老舗のうなぎ割烹料理店がありますが、愛宕神社近くの「あとごや」は、こじんまりとした庶民的な店です。
店内。
国産なまず入荷!!
なまず天ぷら定食とビールを注文。
なまずは、昔は近くの田んぼで捕れましたが、最近は養殖だそうです。
杉戸宿があった旧日光街道沿い。
このあたりに、杉戸宿の旅籠屋「釘屋」がありました。*1
十返舎一九の滑稽本として知られる「東海道中膝栗毛」の奥羽版と言える「奥羽一覧道中膝栗毛」に、杉戸宿の旅籠屋「釘屋」に泊まった時のことが記されています。夕食の料理は江戸の名だたる料理屋にも引けを取らないほど見事なものだったようです。時に娼妓 4 人を呼ぶよう頼みましたが、その内の 1 人は河内屋のお駒にしてもらいたいと言っています。作者である十返舎一九は杉戸宿の旅籠屋釘屋に泊まったと推定されます。*1
鍵屋後の東側の路地。
杉戸宿の中心部の問屋場の近くに伊奈稲荷神社(別名「問屋場稲荷」)があります。
問屋は、杉戸宿に来る予定の大名の必要な旅籠や人馬の数などの情報が集まる場所でした。*1
伊奈稲荷神社は当時の花柳界の人たちから深く信仰されていました。本殿に見られる鰐口に、下町で働く22名の世話人の名が刻書されています(案内板より)。
女人世話人の名が刻まれています。
天保15年。
駅前の通りから旧杉戸宿へ向かう途中にある銭湯の弥生湯。
現在は、営業を休止しているようです。
3本線のオブジェ。
入口の温泉マーク。
今回は、杉戸(埼玉県北葛飾郡杉戸町)の町並みを散歩します。
東武線の東武動物公園駅北口に「駅前一番街」があります。
レトロなアーチ。
パチンコ杉戸会館(すでに無くなっている模様)の看板。
東武動物園駅の北側は、江戸時代は杉戸宿があった場所で、東武鉄道が開業した当初は、杉戸駅という名称でした。
居酒屋などが建ちならんでいます。
藤沢駅の南。鵠沼石上1丁目の奥田センター飲食街にある中華そばの「つるや食堂」。真っ赤な暖簾が印象的です。
ラーメン中心のメンヒュー。
チャーシューメンとビールを注文。チャーシューが見えないほど、たくさんのネギとメンマが乗っています。
ゴジラの置物。「つるや食堂」と刻印されています。
フジサワ名店ビルの北西側の入口近くの遊具コーナーに設置されている消防車。
しょうぼうしゃ。
2人乗りで、ハンドルも2つ。
ナンバーは、119です。
フジサワ名店ビルの1Fの奥まったところにあるコーヒーショップ海(KAI)。
昭和な感じが満載です。
パフェ類が充実しています。
クリームあんみつを注文。
遊行寺(清浄光寺)の門前に、江戸時代に建立された青銅製の大型の燈籠があります。
青銅製の台座には、浅草、千住宿、戸塚宿など、広範囲かつ多数の寄進者の名刻まれています。
浅草連名の「浅草」は、旧字体で「淺艸」と刻まれています。(写真右)
新吉原連名。
松葉屋智賀蔵、大黒屋庄六、万字屋佐助、などの名が刻まれています。*1
新吉原連名
松葉屋智賀蔵、大黒屋庄六、万字屋佐助、など
「江の島弁財天」の道標※1 がある遊行寺橋を渡ってすぐのところに、ふじさわ宿交流館があります。
ここには、かつての藤沢宿の展示が行われています。
遊行寺橋の西側一帯がかつての藤沢宿でした。
藤沢宿の模型。
江の島一の鳥居と江の島弁財天の道標も再現されていて、当時の情景がよみがえってくるようです。
遊行寺へ向かう藤沢橋の手前に、江の島弁財天」道標が建っています。
かつてこのあたりには、「江の島弁財天」の一ノ鳥居があり、ここからが「江の島道」でした。*1
「ゑのしま道」と刻まれた道標は、現在も道沿いなどに10数基残っています(案内板より)。
一ノ鳥居と道標は、歌川広重の東海道五十三次にも登場します。
300mほど南の交差点に、もう一基あります。
P.98
一の鳥居
広重の東海道五十三次藤沢宿の版画に出てくる遊行寺橋際の…
江ノ島駅から腰越駅までの区間は、江ノ電と一般道が並走する路面電車のような光景が見れる場所です。
沿線には、看板建築の商店が建っており、レトロ感満載です。
平戸輪業店と星野写真館。
写真館のモダンな丸窓。
輪業店の看板は圧巻です。
江の島から江ノ電江の島駅へ向かう道の途中。
古い旅館の建物があります。
窓ガラスには、「旅館、貸席」の文字。
地元の方の話によると、この旅館は、大山詣が盛んだった頃、繁昌した旅館で、隣の紀伊国屋旅館も同様の歴史を持っているそうです。
江島の「瑞心門」の手前にある無熱池(むねつち)の石垣には、巳待講(新吉原仲の町の引手茶屋と廓内の芸者幇間の連中を以て明治18年5月に組織されたという講中)の連名が彫りつけられていました。*1
これとは別に、「瑞心門」へ向かう途中の崖(無熱池の上部)に、新吉原の関係者が寄進した石碑が建っています。
発起人の長崎屋、吉村屋、山口巴屋、尾張屋は、上述の巳待講*1 のメンバーでもあります。
この石碑「最勝銘碑」は、巳待講が組織される1年前の明治17年(1884)に建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の原担山の撰による文言が刻まれています。*2
最勝無匹至妙匪名
起滅来去香味色声
事物蕭寂真空崢嶸
顕露漠々暗裡明明
「最勝銘碑」については、南方熊楠の紀行文「江島紀行」 の中で、「東都吉原妓家の建つるところ、書していわく、『最勝の銘。最勝匹(たぐい)なく……』と紹介されています。*3
新吉原仲の町の引手茶屋と廓内…
明治17年(1884)に建てられたもので、東京大学でインド哲学を教えた曹洞宗の僧の…
P.12
浜と江島の間、潮水これを遮る、その間半町に足らず、渉人、往来を弁す…
富士見亭※1 から稚児ヶ淵へ向かう階段を降りていくと、途中に、芭蕉の句碑など複数の石碑がまとめられた場所があります。
一番左側に、深川新地の五明楼から寄進された「竜灯松碑」が建っています。*1*2
台座部分には、右から「深川五名楼」と刻まれていたようです。*2
石工の名前が刻まれているようですが判読できません。
P.173
江戸の諸商人、歌舞伎・芸能関係者からの奉納が目立つ。
奉納年は…
文化六巳四月 深川新地
五明楼喜兵衛立
楼明五川深(右から)
江の島の岩屋への途中には、海上亭※1 、魚見亭、見晴亭などの飲食店が建ち並んでいます。
古風なメニューの「富士見亭」。
江の島丼(サザエを使った丼物)と江の島ビールを注文。
昔は親子丼は、地元の弁天様に対して、殺生は申し訳ないといので作らず、地場で取れた魚介類のみを使ったそうです。*1
テラス席からの絶景。
P.39
昔は親子丼は、地元の弁天様に対して、殺生は申し訳ないといので作らず…
今回は、江の島(神奈川県藤沢市)の町並みを散歩します。
漁師町としての面影を残す東町の路地※1 から、頂上への道が延びています。
急な階段が続きます。
途中、平坦な場所がありますが、すぐに、急階段が続きます。
江の島ヨットハーバー方面の展望。
国道51号線の土木事務所のところを北へか入ると正面に高さ20mほどの台地が見えます。
山に登る道(途中に、「潮来鎮台(陣屋)跡 天狗党潮来勢集結の地 潮来弁天山」も木柱あり。)を進むと、弁財天のお堂に行きつきます。
この弁財天には、信仰の証として土製の「かめ」が奉納されています。*1(写真下。手前)
弁財天のおつかいが蛇なので、そのすみかにするために「かめ」を奉納するそうです。戦前まであった大きな「男かめ」と「女かめ」も芸を競った二人の潮来芸者が、願いが叶って奉納したものと言われています。*1
「商売繁盛 芸達者(裏側には「姫黄金」)」と書かれています。
潮来弁天は商売繁盛と芸達者、それに美人になることをお祈りし、特に江戸時代から加害に関係のある女郎や芸妓たちの信仰の中心でした。*1
常陸利根川沿いを霞ヶ浦方面へ向かい、北利根橋を渡った先に、「あらいやオートコーナー」があります。
附近にスーパーなどの店舗がないためか、地元の人々の憩いの場になっているようです。
年季の入ったお弁当の自販機。全品330円です。
ゲームコーナーもあります。
今回は、潮来(茨城県潮来市)の町並みを散歩します。
水郷潮来あやめ園は、毎年5月下旬~6月下旬に開催される
「水郷潮来あやめまつり大会」の会場となっていて、開催時期になると、多くの人で賑わいます。※1
この時期は、あやめも咲いておらず、訪れる人はいません。
遊覧船乗り場の前に「潮来笠記念碑」が建っています。
1960年7月5日、「潮来笠」でデビューした橋幸夫さんは、同曲で、日本レコード大賞新人賞の第1回受賞者となりました。 更に「いつでも夢を」「霧氷」で2度のレコード大賞を受賞し、舟木一夫氏、西郷輝彦氏らと共に「御三家」として人気を集めました。*1
1943年、東京都荒川区で呉服屋の9人兄弟の末っ子として誕生。 中学2年より歌を…
佐原の八坂神社の本殿の左側に、豊川稲荷を勧請した稲荷神社の石宮が祀られています。*1
その神前に手水石が奉納されています。*1
明治28年(1895)奉納の手水石。*1
この手水石は、木内支店、菊川楼、里川楼、清光楼、住吉楼、一楽亭、及川、新及川、本毛久屋といった芸者置屋、料理屋など河岸の繁栄を陰で支えていた女たちによって奉納されたものです。
かすかに、木内支店・・などの文字が判読できます。*1
食堂「桶松」※1 のある通りの西隣の通り。
「東洋軒」は、大正15年創業の老舗洋食店です。
ビール(黒ラベル)をグラスで頂きます。
トンカツ定食を注文。
佐原の運河沿いに建つ「みやじま美容院」。
水色の窓枠とタイル張りのデザインです。
2階部分には「パーマ」の文字。
入口ドア部分には、曲線を描いた取っ手。
今回は、佐原(千葉県香取市)の町並みを散歩します。
佐原の運河沿いの町並みは、重要伝統的建物群保存地区に指定されていることもあり、観光のメインではない、商店の建物にも、古いものが残されています。
多くの看板が残る大野酒店。
明治牛乳の牛乳箱があります。保存状態は良好です。
側面には、「大野販売所」と書かれています。
牛乳の販売も手掛けていたのでしょうか。
木下駅東側の成田線の踏切近く。
正面部分に看板建築の趣きを呈している倉庫。
「山」に「七」の屋号。
木造・トタン屋根の建物です。
木下万葉公園の近く。
木下では、大衆食堂が比較的少ないので、貴重です。
ラーメン・定食などが中心です。
ラーメンとビールを注文。
木下河岸から南へ少し入った、竹袋の稲荷神社に、女人信仰の風習を物語る一基の常夜燈があります。
この常夜燈は文政9年(1826)の寄進で、竹袋村の元右エ門と新吉原の平吉、喜助が願主になっています。
江戸の新吉原の平吉、喜助が願主になっています。平吉、喜助は、木下河岸船頭小宿の召し抱え遊女の斡旋者のような立場と考えられます。*1
船頭小宿の布川屋喜助、新若松屋伊三吉や遊女の名前が刻まれています。木下河岸船頭小宿には新吉原の遊女と深川岡場所の遊女の二つの系統がありました。*1