花しょうぶ通りには、昔の建物が保存され今でも現役で営業中です。理容室や美容室が多く、奇抜なデザインは目を引きます。

2階の部分は洋館のデザインです。

和風の理容室もあります。

モダンなデザインの美容室。

花しょうぶ通りには、昔の建物が保存され今でも現役で営業中です。理容室や美容室が多く、奇抜なデザインは目を引きます。
2階の部分は洋館のデザインです。
和風の理容室もあります。
モダンなデザインの美容室。
彦根の東南隅にかつて遊廓だった袋町があります。その袋町の入り口にあたる花しょうぶ通りでは、江戸時代の寺院や町家、明治・大正の面影を伝える洋風の建物が一体となった町並みが整備され、歴史を活かした町づくりが試みられています。*1
花しょうぶ通りにある袋町の紹介看板。第一回のNHK大河ドラマの原作として用いられた舟橋聖一さんの歴史小説「花の生涯」の冒頭部分で、袋町遊廓が登場することを紹介しています。
通りの中央あたり。木造の商家が建ち並んでいます。
花しょうぶ通りの看板。
【参考文献】
*1 彦根史談会:城下町彦根 淡海文庫25(サンライズ出版,2002) P.130
今回は、彦根(滋賀県)の町並みと風俗を散歩します。
彦根駅を降りると、初代彦根藩主の井伊直政の銅像が出迎えてくれます。
駅の上りエスカレータの乗り口付近に、白ポストがあります。
駅前にもう一つありました。観光案内所の前です。
丸い形がユニークです。
枚方の桜町にある桜湯。
質素な入口です。
隣りは麻雀クラブです。
銭湯の建物側面に残る煉瓦塀。
旧枚方検番の脇は、「水面回廊」と呼ばれる整備された公園になっています。淀川からの用水路を整備したものだそうです。
地元の人の話によると、検番(写真の左側)の向かいにある立派な建物(写真の右側)は、レンタルビデオショップ「TSUTAYA」の創業者の増田宗昭さん(カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)の代表取締役社長)の自宅だそうです。
2階は全面ガラス貼りになっています。
「増田」と書かれた表札。住宅地図*1 で確認してみると、増田宗三(父親)の名前が記載されています。
社長宅の風格があります。
「TSUTAYA」という店名は、増田宗昭社長の祖父が置屋を経営していて、その屋号が「蔦屋」だったことから、「蔦谷書店」という店の名で1号店をオープンしたことに由来します。
1号店の開店当日、友人から江戸の出版人の蔦谷重三郎の話を聞かされ、「実は祖父がやっていた置屋の屋号でして」というより、「蔦谷重三郎の名にあやかりました。」といったほうが、重厚でよいのではと考え、以来、「TSUTAYA」は、蔦谷重三郎から名をとったということにしているそうです。*2
蔦谷重三郎は、吉原生まれ。安永2年(1773年)に吉原大門の前に書店を開き、はじめは吉原細見(店ごとに遊女の名を記した案内書)の出版・販売を手がけ、後に、本格的に出版業を拡大。洒落本や狂歌本などのヒット作を次々に刊行しました。
ちなみに、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)のホームページ*3 には、
①祖父が事業(置屋)を営んでいた際の屋号が「蔦屋」であったこと
②蔦屋重三郎にあやかり名付けたこと
の2つの理由から名付けられたと書かれています。
【参考文献】
*1 ゼンリン住宅地図 大阪府枚方市南部(ゼンリン,2005)P.15
*2 増田宗昭:情報楽園会社(徳間書店,1996)P.14
【参考URL】
*3 カルチュア・コンビニエンス・クラブ(株)ホームページ
旧枚方新地のメインの通りの奥まったあたりに、古い建物があります。
当時の面影を伝える建物が少ない旧枚方新地ですが、旧枚方検番の建物が現存しています。
現在は、会社の事務所として使用されているようです。
裏から見たところ。
旧枚方新地(桜新地)の入口あたり。
二階家が軒をつらねます。住宅は建て替えが進んでいて、昔からの建物はほとんど残っていません。
「赤線跡を歩く」*1 で、「中心部にあってひときわ目を引くお宅」と紹介されていた玉水旅館の建物は残念ながら取り壊され、さら地になっていました。
1階が洋風に装飾されている建物。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.202
今回は、枚方(大阪府枚方市)の町並みと風俗を散歩します。京阪本線枚方駅の一つ隣の枚方公園駅で下車。かつての枚方宿の名残を感じる通り。
宿鍵屋資料館。
かつの枚方宿のにぎわいに関する展示。
江戸時代の枚方宿は、現在の枚方公園駅から枚方駅の間の旧道沿いにあり、そこに飯盛女がいました。
天保9年(1838年)には、旅旅籠57軒に飯盛女78人となっており、その他に下女97人が存在していました。*1
その後、明治41年(1908年)に桜新地という行政区ができ、枚方遊廓の貸座敷は、桜新地への移転が進められました。*2
江戸時代後期のシーボルトの旅行記には、当時のにぎわいの様子が記されています。
【参考文献】
*1 宿場町枚方を考える会:枚方宿の今昔(宿場町枚方を考える会,1997)P.46
*2 京都橘女子大学女性歴史文化研究所:伝えたい想い 枚方の女性史(枚方市,1997)P.84
今回は、滝井(大阪府守口市)の町並みを散歩します。
滝井駅から線路沿いの道を歩き、すし屋のところを右折すると、スナックが建ち並ぶ一画があります。
風情のあるスナックの建物。1つの建物の中に4軒の店が同居しています。
スナック香住。
路地にもスナックの看板。
阪神尼崎駅の隣駅の出屋敷駅近くに出屋敷商店街があります。
なぜか多い理容室の看板。
「中通り理容」の看板。出屋敷商店街は別名「出屋敷中通り」とも呼ばれているようです。
「パーマ」と大きく書かれた看板。
尼崎の繁華街には、多数の風俗取締看板が設置されています。かんなみ新地の正面の通りの向かい側のフェンスに設置されている「悪質風俗・追放運動」の看板。
かんなみ新地からやや離れた商店街近くの交差点にある「風俗環境浄化活動実施中」の看板。
「毎月10日は少年を守る日」の看板。少年の非行防止を目的としている模様です。
二十才未満の方入場お断り(かんなみ新地)。
今回は、尼崎(兵庫県)の町並みと風俗を散歩します。
かんなみ新地の路地に入ってみます。生活感漂う路地です。この路地の奥まった所にその箱はあります。
路地に入ったところに、木製消火器箱があります。やはり木製は温かみがあります。
かんなみ新地は、かつて「パーク飲食店」と呼ばれていたようです。
消火器箱のある場所から、正面入口に抜ける通路を見たところ。
阪神尼崎駅から駅前の商店街を出屋敷駅方面に向かい、商店街のアーケードがつきるあたりから南へ折れると、かんなみ新地とよばれる風俗街があります。
駐車場からの遠景。3階建ての建物がびっしりと並んでいます。
2階は女性が住む部屋で、カーテンで仕切られた部屋の脇の狭い通路の先にハシゴがあり、それを登ると天井裏のような部分の3階のプレイルームに行き着くそうです。*1
写真右奥は、三和栄筋のアーケード。
「いらっしゃいませ」の看板。
【参考文献】
シーズ情報出版:日本裏風俗夜遊び読本(シーズ情報出版,1999)P.128-P.129
ラブホテルの入口。「この付近で客引き行為をしている外国人女性との入店はお断り申し上げます。」の看板。かつてこの付近に街娼がたむろしていたことを物語る看板です。
町内会の掲示板。「ビンクビラお断り」の貼り紙が貼られています。
「防犯パトロール実施中」の貼り紙。
西大久保公園内にある警察官立ち寄り所。「防犯パトロール実施中」の貼り紙がたくさん貼られています。
歌舞伎町の背後の百人町一丁目、大久保一丁目界隈は、通称「裏歌舞伎町」とか「裏新宿」と呼ばれていました。「裏歌舞伎町」を象徴的に露出してのが、「ハレルヤ通り」でした。
「ハレルヤ通り」は、この通りは、中央線大久保駅南口を起点に、南米系街娼がたむろしていた山手線、埼京線、西部新宿線のガードを潜り抜け、区立西大久保公園を終点とします。*1
ハレルヤ通りと大久保通りからの通りが交差するあたり。かつてこの場所には街娼がたむろしていました。
同じ通りを大久保通り側から見たところ。つきあたりがハレル通りと合流する地点です。
西大久保公園の東側の通り。ラブホテルが集中する通りです。ここには、タイ、フィリピン系の女性がいつも2~5人のグループでいました。*2
「大空」、「ゴールド」といった昔からあるホテルが並んでいます。*3
やや職安通り寄りにある「ホワイトハウス」、「美里」。
【参考文献】
*1 山谷哲夫:じゃぱゆきさん(情報センター出版局,1985)
*2 野村 健,山口 一臣:朝日ジャーナル(1990,9)P.20-P.24 「潜入ルポ 裏新宿22時の入管法-新大久保”国際村”」
*3 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.63 (初出:別冊宝島(1987年)「都市のなかの異界・ラブホテル街の民俗学」)
職安通りからJR新大久保駅方面へ向かう細い道を行くと、フェンスに囲まれた西大久保公園があります。
数年前までは、夜になると外国人娼婦やイラン人がたむろしていて、一時はフェンスで囲われて立ち入り禁止の状態でした。
現在は、憩いの場となっていますが、少し陰気な雰囲気もあります。それには、訳があります。東京第空襲の後、身元不明の焼死体をここに集めて埋めたという事実です。戦後、その死体は掘り起こされ、墨田川の方にある都の慰霊塔に無縁仏として合葬されました。死体を掘り起こした後の空き地を新宿区は公園にしました。*1
都内の公園でよく見る看板です。
防犯カメラが設置されています。
*1 山谷哲夫:じゃぱゆきさん(情報センター出版局,1985)
今回は、新大久保の町並みと風俗を散歩します。
職安通りは、ここ数年で韓国の店が急増したようです。*1
「大使館」と大きく書かれた看板は、韓国の炭火焼肉店です。
韓流ショップの店。ブロマイドなど、韓流ブームにあやかったグッズ店が並らび、主婦層の客で賑わっています。「美容室」の看板には、ハングル文字の表記もあります。
ホトックとトッポッキのお店。ホトックは、アンコ、チーズ、ハチミツの味があり、値段も200円とお手頃です。
職安通りと言えば、数年前は外国人売春婦がたむろす通りといったイメージがありましたが、現在はまったく様変わりしています。
【参考文献】
*1 新谷尚紀,岩本通弥編:都市の光と闇(吉川弘文館,2006)P.174-P.188
歌舞伎町一丁目の繁華街。しゃぶしゃぶで有名な「ローラン」があります。
店員は、現役女子大生、OL、タレントの卵で、顔を見られると困るのでアイマスクを着用、制服の色は6色あります(看板より)。
姉妹店もあります。
女性募集。
ストリップ劇場の踊り子募集の電光掲示板。「プロダンサー、素人ダンサー募集」とのテロップが流れています。
DX歌舞伎町は、ひっそりとした路地にあります。
従業員通用口。「控え室」でななく、「楽屋」と呼ばれるようです。
「本日初日」の木製看板。大相撲などで、「本日初日」という言葉を耳にしますが、ストリップ劇場でも同じ言葉を使うということを知りました。
コマ劇場から東に入った通り。大人のおもちゃの店が軒を連ねています。
店の入口付近。マリリン・モンローのポスターが貼ってあります。
店のショーウィンドウ。
店の入口の自動ドア越しに見えたマネキン。「万引きは亀甲縛りで退場」の貼り紙。大人のおもちゃ店らしい貼り紙です。
久保の隣の長江一丁目の路地にある玩具店。
キュ-ピー人形が陳列されている棚の脇に牛乳箱が設置されています。
舟橋牛乳の牛乳箱。白い色の牛乳箱です。
箱の側面にも「舟橋牛乳」。
久保2丁目の西側。道幅の狭い小路です。
少し進むと、スナックが密集している一画です。
3階建ての飲食ビル。
小路の出口。ここから道幅が広くなります。
昭和33年3月31日時点の店名とその場所を記した「赤線消ゆる日の地図」*1 によると、以下の30店舗が営業していました。
1.金玉 2.村田 3.喜鶴 4.青い鳥 5.石川 6.東京 7.一力 8.曙 9.山海 10.自由亭 11.鶴亀 12.第一花乃家 13.山吉 14.第二花乃家 15.松千 16.吉口屋 17.鳩の家 18.晴美 19.森常 20.高橋 21.喜八 22.千舟 23.生駒 24.一二三 25.吉野屋 26.三島 27.村上 28.むさし 29.汐見 30.高砂
下の写真は、現在の地図ですが、これを見ると、現在も屋号を引き継いでいると思われる店があります。7.一力 13.山吉 の2軒です。
まず、「一力」ですが、「赤線消ゆる日の地図」*1 に示されている場所と同じ場所に、現在は寿司屋「一力」が営業しています。
現在は、近代的なビルに建て替わっています。
「山吉」があった場所には、現在は薬局の「山吉薬局」が営業中です。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.283
今回は久保(広島県尾道市)の町並みを散歩します。
国道2号線の「楽天地」の表示のある信号機を南側に折れた八坂神社の南西方向一帯は、旧久保遊郭がった場所です。現在でも飲食店が建ち並ぶ繁華街です。
旧遊廓(新開遊里)統括事務所跡。*1
建物の2階部分。
現在は、1階部分はスナックです。
昭和21年以後、2階部分は診療室として使用されました。*1
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.183,P.284
家老渡からバスに乗り、1km程北の三庄六区小用(こよう)に来ました。南側には、弓削島の古法皇山(279.4m)が見えます。
ここには、戦前、戦中の個人内科医院跡が残されています。*1
再び家老渡に戻ります。被免許地から北西500mぐらい行くと、徐々に坂道となります。
斜地に、赤線時代の個人医院がありました。*1 現在は、一般住宅になっています。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
旧遊廓だった場所には、何軒か木造建物が残されていますが、その中でも、忍甲一さんが、「国宝的遺構」*1と絶賛する建物があります。
1階は、家族用の部屋で、2階が娼妓の接遇部屋です。*1
同じ間取りの接客用の部屋が3部屋あります。
入口。*1
裏の小路。*1
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
旧遊廓街の通りには、牛乳箱も豊富です。
「ふるさと牛乳」の牛乳箱。牛乳箱の側面に、中国酪農協同(株)の社名が見えます。
有名ブランドでありながら、目にかかれることが少ないグリコ牛乳の牛乳箱。
こちらは、明治の牛乳箱との併設です。
土生港からバスに乗り、約10分で、因島の南西部の町、家老渡に着きます。
現在の住所でいうと、三庄(みつのしょう)九区です。
家老渡の遊廓の創設は、比較的新しく、大正8年の創設です。*1
広い通り。写真の奥に見えるのは、日立造船所の工場です。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.296
今回は、家老渡(広島県尾道市因島三庄町)の町並みと風俗を散歩します。
因島(いんのしま)は、かつては全国でも珍しい一島一市でしたが、2006年1月10日、尾道市に編入されました。島内には、村上水軍の史跡などもあり、観光地としても有名です。
家老渡(かろうと)は、島の南東部にあります。
三原港から高速船で31分で島の南部の土生(はぶ)港に到着します。
土生(はぶ)港は、近隣の島とのフェリー航路もある因島の玄関口です。
島の南部には、日立造船所の工場があります。
明神橋を渡ると、海に面した通りに出ます。ここには明神遊廓がりました。*1
妓館の面影をとどめています。
道幅の広い通りです。南側(写真右側)には海が広がっています。
海の見える店。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
明治17年の貸座敷娼妓営業取締規則によると、竹原の遊廓は、榎町、新町(現在の本町3丁目付近)と明神(現在の塩町付近)に定められていました。明神は、現在の竹原港の対岸に位置していて、瀬戸内の海を見渡せる場所にあります。
明神遊廓の名残とも言えるのが、遊廓の入口にあった明神橋です。明神橋は、吉原の大門に相当します。
写真は、近年になって車道用に作られた新明神橋から明神橋を見たところです。明神橋を渡ったその先に、明神遊廓がありました。
明神橋は、数年前までは、今にも崩壊しそうな橋でした。*1 しかし、最近になって、歩行者・自転車専用の橋として新しく架け替えられた模様です。昔の橋の橋げたが残されています。
写真の奥に見えるのは、シルバー人材センターです。
対岸から見た明神橋。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
今回は、竹原(広島県)の町並みと風俗を散歩します。
竹原は、安芸の小京都と呼ばれ、江戸時代の古い町並みが残されていて、当時を偲ばせてくれます。
明治17年の貸座敷娼妓営業取締規則によると、竹原の遊廓は、榎町、新町、明神と定められていました。*1 榎町、新町は、現在の本町3丁目付近、明神は、現在の塩町付近です。
本町3丁目付近を本川が流れます。江戸時代は、ここが港でした。*2
本川の北側は、「安芸の小京都」と呼ばれる古い町並みの残る場所で、現在は、観光スポットになっています。
楠神社付近。
木造3階建ての建物があります。
【参考資料】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.293
*2 竹原市:安芸の小京都たけはら(観光マップ)
大崎上島の北端に位置する鮴崎(めばるざき)に来ました。
鮴崎は、天満、宇浜と並び、おちょろ稼業が定着していました。*1
遊廓があったとされる通り。*1
民俗学者の沖浦先生は、その著書*2 の中で、「三味線や太鼓の音で明け方までさんざめいていた鮴崎の遊女街は、今でもその頃の町並みがほとんど残っている。瀬戸内の港町で、当時の面影がまだ見られるのはここだけだろう。」と述べていますが、町並みは、だいぶ新しくなっているようです。
木造3階建ての民家があります。迫力満点です。
盗賊返しのある民家。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.295,P.315
*2 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.221
木江の天満区とともに、宇浜区も、昭和初期の貸座敷の被免許地で、「おちょろ舟」も存在していました。*1
宇浜区は、木江港の北側。一貫目桟橋付近一帯です。
古い看板が残っています。
逆方向を振り返る。
塩月旅館。重厚な建物です。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.294
木江の厳島神社の隣。徳森旅館が入江にひっそり佇んでいます。
木江の町並みを代表する木造三階建ての建物です。
北側から。
入口。
町のやや北側、迷路のような小路を抜けていくと、突然パッとモダンな建物が現れます。木造建築の建物が多く残る木江の町並みの中では、異色の存在です。
この建物は、昭和8年に建築された映画館「昭栄館」の跡です。「昭栄館」は、昭和42年まで興行していました。*1
入口付近。当時は、たくさんのお客様で賑わっていたのでしょう。
タイル貼りで、ハイカラなデザインです。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.3
木江の農協から宇浜方面へ行く道の途中に、ひときわ目立つ建物があります。
何と、木造五階建ての豪邸です。
この建物は、大正2年、当時造船業を営んでいた長屋源吉さんが、船主などの接待用に建てた料亭です。主材は、木造船の建材だった松と杉。眺めのいい四階には、35畳敷きの大広間があるそうです。*1
昔は、木造船の建造技術があったので、このような建築が可能だったのかもしれません。
正面から見ると4階建てに見えますが、横から見ると小さな最上階部分があります。
たしかに五階建てです。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.3
木江港の南側の天満区には、昔の町並みが残されている通りがあります。
大崎上島の昭和初期の貸座敷の被免許地は、木江の天満区と宇浜区、そして東野の鮴崎(めばる)崎の3ヶ所でした。そして、木江と鮴崎崎にもオチョロ舟がありました。この通りには、遊郭がありました。*1
御手洗の遊郭跡の建物は、かなり修復されていて、観光地という印象でしたが、木江町並みは、当時のままの木造建築が残されており、本物の迫力があります。
一方、路地に入ると、廃屋となっている家もかなりあり、荒廃が進んでいることを感じさせます。
通りには、商店もあります。昔ながらの酒屋さんも多く、地元の醸造メーカーのブランドの看板が見えます。*2
玉屋旅館。
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.294
*2 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.3「特集 木江を歩く」P.4
木江の天満区の古い町並みを歩きます。こちらの建物は、1階が商店であったように見えます。
コカコーラなど、家のあちこちに看板やステッカーが貼ってあります。
オロナミンCのステッカー。残念ながら年代を特定できるような手がかりはありません。
月星(シューズメーカー)のセールのステッカー。
EXPO’70(大阪万国博覧会)ということは、37年間、貼られたままの状態ということでしょうか。保存状態は、良好です。
今回は、木江(広島県豊田郡大崎上島)の町並みと風俗を散歩します。前回散歩した大崎下島の大長(おおちょう)港から大崎上島の天満桟橋までは、高速船で14分です。
まず、大崎上島の最高峰、神峰山 (452.6m)に登ります。登山口である金剛寺から山道に取り付きます。
1時間弱で頂上の展望台に到着します。頂上からは、瀬戸内の眺めを堪能できます。北東方向には、大島上島の東野地区(鮴崎(めばるざき)方面)が見渡せます。
南側には、本州四国連絡橋(来島海峡大橋)と四国(今治)方面が見えます。
眼下には、深い入江状となっている木江港が見えます。高速船が着いた天満桟橋などの天満地区は、手前の山の斜面で隠れて見えませんが、入江の北側の宇浜地区の一貫目桟橋や造船所が見えます。
御手洗は、町並み保存地区(全国重要伝統的建造物群保存地区)に指定されていて、江戸時代の町並みが残されています。
そのうちの1軒。入口に木製牛乳箱があります。
同じブランドの牛乳箱が2つ並んでいます。大家族だったのでしょうか。
国広牛乳。
御手洗港から3分ほど歩いたところに蛭子神社があります。蛭子神社は、航海安全を祈って、元文(1736年)~寛保(1744年)代、豊前小倉から御神体を移して、建てられました。
案内板に、「御手洗港を素通りすれば、あの妓祈るか風変わる。チョロは出て行く、カモメは帰る、色の港に灯はうつる。」と書かれています。
道路一つ隔てた石碑には、「御手洗は居続けどころ、そして神興の据えどころ」と書かれています。「居続け」は、江戸時代では、数夜を差すこともあり、近代公娼期では、12~24時間の以内の滞留のことをいいました。*1
遊女屋の主人、若胡子屋権左衛門が寄進した燈籠。*2
【参考文献】
*1 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.295
*2 豊町観光協会:お茶屋若胡屋遺跡と御手洗(豊町観光協会,2003 )P.44-P.45
住吉町の船宿跡に、御手洗最後の船大工で、おちょろ舟のミニチュアをつくりつづける宮本さんの工房があります。*1
工房の中には、遊女やおちょろ舟などの貴重な資料が展示されています。
御手洗遊女の原型は、碇泊する船に対して小舟に積んだ薪、水、食料品(特に野菜などの菜っ葉)などを売って回った菜売り女(なうりめ)と呼ばれる娘や未亡人たちでした。やがて、菜売り女は、小舟から碇泊する大船に乗り移って客をとって回る遊女となり、遊女を乗せた小舟はおちょろ舟と呼ばれるようになりました。*2*7
工房に、作成中のおちょろ舟の模型があります。
この中に5~6人が冬はこたつに入っていて、ちょろ押しと呼ばれる男が一人櫓をこいで、御手洗に入ってきた船に近づき、船に近づいたら遊女が顔を出して、指名をもらったら船に乗り移って、朝までいたそうです。*1
つまり、おちょろ舟の特色は、船に出向いて、客の濯ぎものから煮炊きまで面倒をみる一夜妻にありました。*3
おちょろ舟は海上遊廓であり、動く張店であって、翌日の日の出になると、女を引きさらって来る遣手婆でもありました。*4
おちょろ舟の最も古い記録としては、元禄4年(1691年)の「ケンペル江戸参府紀行」の「御手洗寄港紀文」に、「旅する人のために愛の女神を乗せてこぎ廻りたり」と記されています。*5
工房の中におちょろ舟の大漁旗が展示されています。
おちょろの語源については、諸説あるようです。
①小さいという意味の「チョロこい」から名付けられたとする説*7
②「お女郎」が訛ったとする説*6
③「大言海」に出てくる「おちよ舟」が訛ったする説*3
などがあります。
【参考文献】
*1 豊町商工会:みたらい通志(2003.3)P.3-P.6
*2 別冊宝島:行ってはいけない!ニッポン不思議島異聞(2006,宝島社)P.76-P.80
*3 真鍋鱗二郎:海棠記(讃文社,1986)P.219-P.220
*4 井伏鱒二:消えたオチョロ舟(加太こうじ編:日本の名随筆 別巻15 色街(作品社,1992)P.146)
*5 豊町観光協会:お茶屋若胡屋遺跡と御手洗(2003, 豊町観光協会)P.6-P.7
*6 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2002)P.92-P.93
【参考CD】
*7 緩急車雲助:巷談 御手洗港の遊女哀歌(2003,KS-music)
近世中期、沖乗り航路の開発に伴い、新興港湾都市として御手洗港が建設され、大崎下島は注目されるようになりました。*1*2
瀬戸内の港町では「おちょろ舟」が付きもので、その中でも、御手洗の「おちょろ」がいちばん有名でした。「おちょろ舟」は、遊女たちを乗せた小さな舟のことです。*1*2
江戸時代に作られた防波堤である「千砂子波止(ちさごはと)」は、チョロ稼業を通年安定させました。*3
御手洗港のある住吉町には、船宿や置屋が建ち並び、歓楽街として発展をとげました。船宿は、御手洗に入港した船の積荷の取引をはじめ、水や薪等の供給、船乗りの宿泊等の一切の世話をするもので、藩ごとに指定の船宿がありました。*4
現在も船宿の建物が残されています。
【参考文献】
*1 沖浦和光:瀬戸内の民俗誌 海民史の深層をたずねて:(岩波書店,1998)P.200-P.226
*2 五木寛之、沖浦和光:辺界の輝き(講談社,2006)P.153
*3 忍甲一:近代広島・尾道遊廓志稿(日本火炎資料出版,2000)P.316
*4 谷沢明:瀬戸内の町並み(未来社,1991)P.116
今回は、御手洗(広島県豊田郡大崎下島)の町並みと風俗を散歩します。御手洗(みたらい)は、瀬戸内海のほぼ真ん中に浮かぶ大崎下島の港町です。
JR山陽新幹線で三原まで行き、JR呉線に乗換えて竹原駅で下車、駅から、タクシーかバスに乗り約5分で竹原港につきます。竹原港から高速船で約40分、御手洗港に到着します。高速船は、1日8往復運行されています。
御手洗は、江戸時代に潮待ち風待ちの港として栄えた港町でした。江戸時代から昭和初期にかけての貴重な建物も残されており、町並み保存地区に指定されています。*1
現在は、観光地として整備されています。絵地図で書かれた観光スポットの案内板があります。
【参考文献】
*1 中尾醸造株式会社:蔵元だよりNo.2(2003)P.4
第一京浜の裏手に昔の赤線時代の建物がごっそり残る路地があります。その路地に、さらに細い路地が直交しています。
かつては、この路地は賑わい見せていたのかもしれません。
アーケードが痕跡が残っています。
使われていない旅館の入口。
今回は、曙町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。日の出町の駅から伊勢佐木町方面へ向かう途中の末吉町のあたり。古い雑居ビルがあります。
1階に、料理店があります。
料理店のプレートが残っています。
一見さんお断りの注意書き。
思い出横丁の中ほどに、公衆トイレの看板があります。公衆トイレは、この看板のところを右に曲がったところにあります。
隣の狭い路地には、立小便禁止の看板。昔、この横丁がしょんべん横丁と呼ばれていたのは、小便臭かったからかもしれません。
狭い路地の奥まったところに、公衆トイレがあります。
きちんと掃除されていて、綺麗です。
新宿駅前に「思い出横丁」、「やきとり横丁」と看板が掲げられた飲み屋街があります。昔は「しょんべん横丁」と呼ばれていました。
もつ煮がおいしそうな飲み屋や、やきとり屋が軒をつらねています。
線路沿いの横丁は、「やきとり横丁」と呼ばれています。こちらは、明るい雰囲気です。
横丁を横断する狭い路地。人ひとりがやっと通れる幅です。
【参考文献】
*1 泉麻人:青春の東京地図(晶文社,2001)P.209
十二社(西新宿2丁目)には、再開発を免れた一画があり、昔の花街の面影が残っています。
写真は十二社通り西側のビルの裏側ですが、階段の下までが弁天池で、ホテルや旅館のある高くなっている所が池畔で、このあたりに料亭が並んでいました。*1
落ち着いた感じのこじんまりとしたホテルです。
もう1軒旅館がありました。
坂道を下ったところが十二社通りです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.114
新宿中央公園に隣接する場所に熊野神社があります。このあたりは、かつては十二社(じゅうにそう)という地名でした。
境内に案内板があります。これによると、十二社は、池や滝を擁した江戸時代からの景勝地で、明治時代からは遊興地として発展し、第一次大戦後は、約60軒の料亭があったそうです。
案内板に掲載されていた「十二社の池」の写真
「十二社の池」は、十二社通りをへだてて建つ現在はビルが建っているあたりにありました。 *1
現在、「十二社の池」は、バスの停留所の名前に名残を見ることができます。
【参考文献】
*1 熊野神社:「十二社 熊野神社の文化財」案内パンフレット
西新宿8丁目は、昭和の時代の民家やアパートが数多く残る静かな住宅街です。
「ピンクビラお断り」の貼り紙が貼られています。ということは、このような住宅街までピンクビラを貼りに来る業者がいるということでしょうか。
アパートの入口付近。
古いアパートの入口にある郵便受け。
今回は、西新宿(東京都)の町並みと風俗を散歩します。
西新宿と言えば、広大な地下街をイメージします。かつてこのあたりは、ホームレスの人たちの居住地区でした。
新宿エルタワー近くの地下道に、「新宿区立新宿西口地下第二公衆便所」があります。一見何の変哲もない公衆トイレですが....
入口に、「この便所での寝泊りゃいかがわしい行為を禁止します。」の看板があります。看板は女子トイレ側に設置されているので、主に、「寝泊りゃいかがわしい行為」は女子トイレで発生しているのでしょうか。
男子トイレの内部は、それほど広いスペースではありません。
メインストリートから路地を入ったところに、飲食店やスナックが建ち並ぶ歓楽街があります。
スナックなどの店舗が営業しています。
2階建ての建物。
看板が密集しています。
小姓町にある東前稲荷神社。
案内板に小姓町遊廓の歴史が紹介されています。これによると、文政4年(1821年)に山形城主の秋元涼朝(すけとも)により、城下に遊女屋が置かれたのがはじまりで、明治17年に貸座敷業者が終結し、小姓町遊廓となりました。
イチョウの落ち葉が一面を覆っていました。この稲荷神社もイチョウの木と共に歴史を刻んでいるようです。
昔は町の中を、このような小川が縦横に流れていたのかもしれません。
小姓町の石畳のメインストリートの突き当たりに、駆楳院と呼ばれていた遊廓の女性たちの性病検査をしていた病院の建物が残されています。駆楳院は、明治30年に建築されましたが、昭和21年に遊廓の歴史にピリオドが打たれ、娼妓診療所の役割を終えた後は、昭和30年前後から山形県立職業訓練校の女子寮「白菊寮」に転用されました。職業訓練校が廃止となった昭和55年以降は、山形県生活衛生会館として、山形県の社交業の5組合の事務所となっています。*1
入口の前には、井戸がありました*1 が、今ではスファルトの駐車場で覆われています。懐かしい木造校舎のような匂いがあります。
窓の装飾。
後ろから見ると立派な建物であったことが解ります。
【参考文献】
*1 千葉由香:別冊東北学(2003.7)「小田原遊廓物語 常盤町に封印された女たちの記憶(6)P.430-P.443
今回は、小姓町(山形県山形市)の町並みと風俗を散歩します。小姓町(こしょうまち)には、かつて遊廓がありました。現在は、旅館や料理店もあり、かつての賑わいを想像させます。
石畳で整備された道路が旧遊廓のメインストリートです。道路の脇に案内板があり、かつての遊廓の様子や歴史が記されています。
案内板によると、この道の両側には十数軒の妓楼が建ち並んでいました。小姓町の遊廓は、明治時代に貸座敷の許可を得、花街時代まで約70年間繁栄したそうです。
美しい町並みです。
清浄光院は、小田原遊廓があった場所から15分ぐらい歩いたところにあります。
ここに、かつて小田原遊廓に身を置き、遊廓の中で死んでいった娼妓たちの墓があります。*1*2
非常にいい字で墓碑が刻まれています。
墓碑銘は、「仙台睦之墓」とあり、台座には、町内会長や幹事の名前が刻まれています。*1
墓石の裏に回ると、「心照妙喜信女 明治26年8月16日死」という法名がたった一つだけ刻まれています。
【参考文献】
*1 千葉 由香:別冊東北学(2000.9)「小田原遊廓物語(3)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.389-P.397
【参考URL】
*2 河北新報社:時を語れ東北の20世紀「わかれっぱ/壱千参百円 望郷の念売り払い 苦界に沈む」
常盤町遊廓が廃止され後は、常盤町は旅籠町と改められました。小田原町の西側には、「旅籠町公園」があります。
公園の名前に旧町名の名残を見ることができます。
「はだご町町内会」の掲示板。ここにも旧町名が残っていました。
公園のすぐ裏手には、旅籠町町会の集会所があります。
常盤町遊廓は、最初は、町の西側(現在の支倉町)にありましたが、明治27年に宮町の東側の小田原に移転しました。*1
明治45年の地図では、遊廓は青く塗られ、30近くの屋号が書き込まれており、一大観光地でした。*2
宮町には、当時の賑わいの面影を残す商家が今でも残っています。
宮町に残る古い商家の一つに、「大瀧履物店」があります。*2
「大瀧履物店」の奥さんの話によると、座売りの形態を残した店は、百年以上経つもので、昭和20年代まで桐下駄作りに追われていたそうです。昭和33年に廃止されるまで、遊廓の賑わいは、髪結屋、魚屋、味噌屋、乾物屋など多くの商店をうるおしました。*2
現在の「大瀧履物店」は、小学校指定靴やナースサンダルなどを販売しています。
【参考文献】
*1 千葉 由香:別冊東北学(2000.9)「小田原遊廓物語(1)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.262-P.271
*2 西大立目祥子:仙台とっておき散歩道(無明舎出版,2003)P.173-P.174
今回は、常盤町(宮城県仙台市)の町並みと風俗を散歩します。
東北随一とうたわれた仙台小田原遊廓。正確な町名は常盤町といいました。*1 現在の青葉区小田原6丁目付近です。遊廓の入口だった北一番丁には、大門がつくられ、2、3階建ての妓楼がずらりと軒を連ねていました。*2
「仙台花街繁昌記」*3 には、妓楼だった建物が「あさかや」という屋号の旅館に転業した写真が掲載されていますが、現在は、遊廓跡地の北側に同じ名前のアパート「コーポラスあさかや」が建っています。
南北の縦断する大門通りは道幅が広く一直線に伸びていて、ここに遊廓があったことを想像させます。「小田原遊廓地図」*1 によると、現在、亀谷商店がある場所(写真右側)には、亀屋という屋号の店がありました。
遊廓の北側には、「駆楳院(くばいいん)」と呼ばれる病院がありました。*4 現在、この場所は住宅地になっていて、昔の面影はありません。
遊廓の南側の通り。「小田原遊廓地図」*1 によると、ここには食品店や飲み屋が建ち並んでいました。現在もその面影が残っているように思え、想像力をかきたててくれます。
【参考文献】
*1 千葉 由香:別冊東北学(2000.9)「小田原遊廓物語(1)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.262-P.271
*2 西大立目祥子:仙台とっておき散歩道(無明舎出版,2003)P.173
*3 田村昭:仙台花街繁昌記(宝文堂,1974)P.18
*4 千葉 由香:別冊東北学(2002.1)「小田原遊廓物語(3)常盤町に封印された女たちの記憶」 P.389-P.398
飲み屋街の路地にお手洗いがあります。
大便と小便の区別はありますが、男女の区別はありません。
蝿とり紙がぶら下がっていました。
手洗い場付近。
虎屋横丁近くの小路。昔の雰囲気が残っています。
ちょうちんのある飲み屋は風情があります。
看板が乱立するあたり。
ある飲食店の入口のドア。
定禅寺通りに近い路地にあるスチワーデスサロン。懐かしい風俗店です。
レトロな看板です。店の名前は「日本空航」。某航空会社の社名に似ています。
某航空会社のマークにそっくりです。J・A・Sは、ジャパン・エア・サロンの略でしょうか。
入口(地下1階)の階段にある看板。
定禅寺通りに近いあたり。この付近には風俗店が集中しています。
「千松島パーキング」の前にピンクチラシ回収ボックスがありました。
黄緑色のデザインです。ピンクチラシの文字はピンク色で書かれています。
投入口に描かれているチラシの色もピンク色です。
今回は、国分町(宮城県仙台市)の町並みと風俗を散歩します。国分町は、JR仙台駅から地下鉄で2駅目の勾当台公園駅で下車し、すぐのところにあります。
国分町は東北一の歓楽街です。飲食店や風俗店が集中する定禅寺通りと広瀬通り付近には、張り紙などの勧誘行為を禁止する看板があります。
駐車場の前にあった看板。
ビルが独自に設置している看板も数多くあります。
こちらは、手書きの張り紙。これらの張り紙を功を奏したのでしょうか、ピンクチラシ等の張り紙は1枚もありませんでした。
大鷲神社では、今年の酉の市が行われていました。熊手には有名人の売約済みの札がつけられています。
江戸時代、宝暦・明和年間(1750~60)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていました。*1
演歌歌手の北島三郎。
平沢勝栄副大臣
石原都知事とその息子たち。
吉原弁財天の中に弁天堂があります。
鉄柵に囲まれている弁天堂には、酉の市の熊手が飾られていました。
弁天堂の鉄柵内の左右に、小さな石の花立が立っています。右側の花立には、「吉原飲食店組合」の文字が読み取れます。
左側の花立てには、「新吉原女子保健組合」の文字が読み取れます。
戦後、GHQの命令により、公娼制度が廃止された結果、前借金で奴隷的に娼妓の身分を拘束することができなくなりました。売笑は自由意志となったので、性病予防制度も従業婦の自主的運営に任されることになりました。これによって誕生したのが「新吉原女子保健組合」です。*1
【参考文献】
*1 新吉原女子保健組合:赤線従業婦の手記(復刻版「明るい谷間」)(土曜美術社,1990)P.189
伏見通りは、転業アパートが連なる通りですが、半年前に散歩したときに、この場所にあった旧「金よし」*1 は取り壊され、さら地になっていました。赤線時代の名建築がまた一つ消えました。
以前は、旧「金よし」とT字路に向かい合うようにして、建っている旧「プリンセス」の建物。
独特のデザインの建物です。
遠くから眺めても、ひと目でそれと解ります。
【参考記事】
*1 風俗散歩(吉原):旧「金よし」(2006.4)
昭和33年の売春防止法施行後、吉原の赤線業者は旅館に転業し、ひところは修学旅行の学童も泊まりました。*1
旅館「喜久本」の建物が残っています。吉原今昔図*2 によると、この場所には赤線時代、「新久喜」という屋号の店がありました。
入口には、「吉原観光旅館組合員」と書かれたプレートが貼られています。
旅館「稲本」。稲本楼の関係者が開業した旅館でしょうか。
旧花街の中心部に花岡神社があります。
案内板によると、花岡神社は、花街の守護神としていくつかのエピソードが伝えられているそうです。
狛犬の裏側には、花街関係者と思われる寄付人の名前が記されています。
鳥居の裏側にも店の屋号や女性の名前が刻まれています。
かつて花街であった花岡町には、古い旅館が残っています。なかには、ビジネス旅館に転業している旅館もあります。
塀の装飾と瓦屋根が美しい旅館。
和風の建物の隣には、ファッションヘルスがあります。
「えいらく」という名の屋号の旧旅館。
今回は、尾張一宮の町並みと風俗を散歩します。
JR尾張一宮駅から東へ約1km。泉2丁目に、居酒屋やスナック店が密集する歓楽街があります。
スナックが連なる一画。
風俗店とスナック店が混在しています(上の写真の反対側)。
上の写真の通りを抜けたところによあるスナック横丁の「HANAOKAGINZA」。
八幡園の入り口にあたる場所に、八幡温泉があります。サウナの看板もありますが、銭湯です。
名古屋の銭湯の特徴だと思いますが、太くで立派な煙突です。
銭湯の入口付近
中には待合室があるので、入浴後は、ここでのんびりすることができます。
八幡園の赤線跡の建物の中で、ひときわ人目をひく存在が、旧床元の建物です。和風の建築ですが、1階正面の部分に装飾がほどこされています。
ピンクのタイルで装飾された円柱と屋号の「床元(Tokomoto)」の文字が印象的です。
丸型の窓。こちらもピンクのタイルで装飾されています。
建物の側面には、「とこもと」と彫り抜かれています。
尾頭橋公園を中心にかつての赤線街の八幡園の街路がデザインされています。*1
十字路の角にたばこ屋のある古い建物がありました。
現在は、建物の角のところにたばこの自動販売機が置かれていますが、その前は、たばこ屋さんであったようです。カフエー調の円柱の装飾があるので、たばこ屋になる以前は、この角の部分に入口のあるカフエーの建物であった可能性もあります。
2階の窓の部分に木彫りの装飾があります。
建物の側面に、女性の図柄ののれんがありました。
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.98-P.99
尾頭橋駅の西側に尾頭橋公園があります。ここは、旧赤線の八幡園があった場所です。公園の遊戯施設の向こうに旧赤線の建物が見えます。
公園の中央には噴水があり、憩いの場となっています。
公園の北側。
公園の北東にはステージがあります。旧赤線の建物との対比が印象的です。
今回は、尾頭橋(愛知県名古屋市)の町並みと風俗を散歩します。JR尾頭橋駅前にJRAの場外馬券売場が入っているウインズ名古屋があります。尾頭橋は、競馬の町です。
ウインズ名古屋から路地を入ったところのブロック塀に明治の牛乳箱があります。
明治の牛乳箱は、中央に楕円形のマークがあるデザインが普通ですが、この牛乳箱は、中央に赤文字でアルファベットの「MEIJI」のロゴがデザインされています。
ブロック塀にしっかりと固定されています。でも、どこかおかしいと思ったら、上蓋が無くなっていることに気づきました。
上蓋が無いので、内部を覗かせて頂きました。
JR本八幡駅前に老舗のキャバレーチェーンの「ハワイ」があります。この赤い看板は、よく見かけます。ハワイチェーンは、F・C(のれん分けシステム)の導入により、全国制覇を成し遂げました。*1
入口の階段に「いらっしゃいませ!」の手書きの文字。隣には、なぜか質屋の看板。
隣にはもう1軒、別のキャバレーがあります。本日「キャミソール・デー」です。
JR本八幡駅のプラットフォームから、キャバレー「ハワイ」の看板が見えます。看板の周りのランプの歯抜け具合が、店の歴史を感じさせます。
【参考文献】
*1 緒方小夜子:女の目がみたキャバレーハワイ(東京経済,1977)P.101
京成八幡駅前の永井荷風が毎日渡ったであろう踏み切りがあります。荷風の晩年の浅草通いは、ここを通って京成電車を使いました。*1
通りには、森永キャラメルの看板のある商店の建物が残っていました。
この通りは、「荷風の散歩道」と呼ばれています。荷風終焉の家は、この通りを右に入った八幡3丁目にありました。*1
荷風終焉の家は、この写真の手前の路地の奥にありました。*1
「荷風2時間ウォーキング」*2 に記されている荷風終焉の家のあった場所は、おそらくこの路地だと思いますが、永井さんの表札は見つかりませんでした。
【参考文献】
*1 JTB:永井荷風の愛した東京下町(JTBブックス,1996)P.100-P.101
*2 井上明久:荷風2時間ウォーキング(中央公論新社,2004)P.145
今回は、本八幡(千葉県市川市)の町並みと風俗を散歩します。京成電鉄の八幡駅は、特急列車が停車する駅です。
八幡駅のすぐそばに、永井荷風が、晩年、毎日通った通った*1 料理屋の「大黒屋」があります。
店の前には、荷風が通った店であることを説明するパネルがあります。
荷風は、大黒屋では決まってかつ丼と日本酒1本を注文しました。*1 現在は、「荷風セット」として、メニュー化されています。
荷風セットの内容:①かつ丼、②上新香、③日本酒1本(菊正宗)
【参考文献】
*1 JTB:永井荷風の愛した東京下町(JTBブックス,1996)P.100-P.101
永楽町にある銭湯の永楽湯に立ち寄りました。静かな住宅街の中にあって、レトロな感じの外観です。
入口に「永楽湯」と書かれていますが、このタイルの装飾がいい感じです。
美しい煙突。
内装は、外観に比べるとレトロ感はありませんが、脱衣所、浴室ともに天井が高く、風情があります。
真金町・永楽町の遊廓は、昭和33年の売春防止法をもって、その歴史を閉じました。娼家の多くは、カフエ、バーなどの飲食店に転業しました。*1
遊廓時代にきちんと区画された道路には、緑地帯が残っています。
「赤線跡を歩く」*1 で紹介されている「美船」という屋号の建物は既に無く、駐車場になっていました。
同じく、「タイガー」という店名のカフェーだった建物も建て替えられ、今では近代的な住宅となています。
真金町二丁目の通り。写真の左側の建物はスナック、中央の建物は酒屋でしたが、現在は改装されて、住宅になっています。旧スナックの建物の左隣の路地を入っていくと、旧「美船」があった場所に行き着きます。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.124-P.125
大鷲神社の玉垣は、最近作られたと思われる新しいものですが、右の角に一本だけ黒御影石でできた古い玉垣があります。
表面の上部には、「遊廓」の二文字が刻まれています。
裏面には、3cm四方の枠入れの穴があり、奉納した年月「明治四十壱年四月納」が刻まれています。大鷲神社は、関東大震災と横浜大空襲により、遊廓とともに消失しましたが、玉垣のうち完全なものを一本だけ再利用したものと推察されています。*1
落語家の桂歌丸さんの玉垣があります。桂歌丸さんが住んでいた家は、真金町の遊廓「富士楼」でした。椎名巌(いわお)少年(本名)は、富士楼を切り盛りしていた祖母に遊廓内で育てられました。巌少年は、店の女の子たちに、「坊や、坊や」と可愛がられたそうです。*2
【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.40,P.77
*2 桂歌丸:週刊文春(2002.11.7)「家の履歴書397」P.70-P.73
大鷲神社は、はじめ高島町遊廓の中にありましたが、高島町遊廓が真金町・永楽町に移転されることに伴い、明治15年にこの地に移されました。
大鷲神社の祭事に、酉の市があります。今年の酉の市は、11月4日、16日、28日です。
大鷲神社の中に、稲荷神社があります。
稲荷神社の賽銭箱のところに、遊廓の楼主と思われる2名の寄進者の名前が書かれています。
狛犬の裏側にも寄進者の名前が書かれています。松葉本店の松葉幸次郎は、理容館「永真軒」の顧客名簿(昭和18年7月付)に記載されており*1、当時の松葉楼の楼主であった人物であると思われます。
灯篭にも寄進者の名前が書かれています。「第三長盛」と右から書かれています。理容館「永真軒」の顧客名簿に長盛(支店)の名前があります*1 ので、「長盛の三番目の支店」という意味だと思います。下に書かれている名前は、楼主の名前であると推察されますが、判読が困難です。
横浜の遊廓建設は、「開港条約の締結(1856年)に伴い、必須条件の施設の一要素の一つとして、遊里の設置は、幕府の当事者と某領事との間の非公式折衝に成ったもの*2」とされており、都市建設の中で遊廓が建設されました。*1
作家の山崎洋子さんは、第32回江戸川乱歩賞を受賞した「花園の迷宮」の中で、横浜の遊廓と真金町・永楽町の遊廓について、次のように紹介しています。*3
「横浜の遊廓は、港崎(みよざき)遊廓(万延元年,1860年)に始まる。現在の横浜公園がその場所だ。-中略-だが、色街につきものの大火に何度か襲われ、遊廓はその都度移転した。吉田新田、高島町、そして明治15年に現在の真金町と永楽町の一部に落ち着いた。運河(現在は埋め立てられて大通り公園)を渡った向こうには、私娼街の曙町があり、そこは東京の玉の井同様、迷路のように道が入り組んでいる。しかし真金町は、柳並木の整然とした通りで区切られていた。」
【参考文献】
*1 中村数男:横浜の遊廓の研究(横浜開港資料館)P.1,P.77
*2 横浜市:横浜市史稿風俗編(臨川書店,1985)
*3 山崎洋子:花園の迷宮(1989,講談社文庫)P.32-P.34
横浜橋商店街の西側の高根町は、昔の風情が残る町並みですが、ここに、森永の牛乳箱が残っていました。
木々緑に囲まれて、郵便受けの下に牛乳箱があります。今まで見てきた森永の牛乳箱とは少し違っています。黄色でなはく、やや黄土色がかった黄色です。
最大の特徴は、白塗りのエンゼルマークです。
ロゴもはっきりと残っています。「ウルトラ・プロセス」に加え、ホモ牛乳の「ホモ」の文字があります。保存状態の良い名品です。
真金町・永楽町には、理容室、美容室がたくさんあります。ざっと数えただけでも10軒ぐらいあります。
横浜橋商店街にある理容室。レトロな感じです。
横浜橋商店街と交差する狭い路地にある美容院。ピンクのタイルの装飾が特徴です。
横浜橋商店街の西側の高根町1丁目の美容院。2階には工務店の看板があります。
入口には、「パーマ」と手書きで書かれた看板があります。
今回は、真金町・永楽町(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。
京浜急行の黄金町から5分ほどのところに横浜橋商店街があります。
商店街の中ほどで、鮮魚店や精肉店が並ぶ路地が交差します。
路地の中に入っていきます。短いですが幅が狭く、昭和の時代を感じる路地です。
路地を抜け、逆方向から見ると、「横浜橋市場」と書かれた看板があります。なぜか鉄腕アトムが描かれています。
隣では、一杯飲み屋が営業中です。
黒川金山は、武田信玄の軍資金を賄った金山として知られています。黒川金山へは、丹波山から青梅街道沿いに多摩川をさかのぼり、「おいらん渕」近くの三条新橋から水源林管理のための道を行きます。
「黒川金山循環歩道」は、戦国時代、「黒川千軒」と呼ばれた鉱山町跡を巡る歩道です。この歩道を登りきったあたりに、近代のものと思われる坑道の入口があります。*1
黒川山の頂上の東端は、その岩峰から、黒川鶏冠山と呼ばれています。黒川鶏冠山の山頂には、鶏冠権現社奥宮があります。*1
「黒川千軒」の近くには、金山杭夫慰安の遊女を置いた場所(女郎ゴー)がありました。場所は、黒川谷の北川の尾根を越えた黒川山の中腹とされています。*1
【参考文献】
*1 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.18
丹波山のバス停から、青梅街道を柳沢峠方面へ向かいます。このあたりは、丹波渓谷と呼ばれ、青梅街道が開通するまでは未開の地でしたが、今では、道路沿いの渓谷美と紅葉を楽しむことができます。
この写真の橋を渡った先に、おいらん渕があります。
道路がカーブしたところの小さな空き地に、案内板が立てられ、おいらん渕の由来が書かれています。おいらん渕は、戦国武将の武田家が滅亡する際、黒川金山の遊女たちがまとめて始末されたという悲しい伝説が残る場所です。
おいらん渕という名前は、明治時代、現場でこの話を聞いた東京都市議会議員の坪谷水哉議員が命名したという説があります。*1
付近は交通事故の多発地帯として知られていますが、おいらんの亡霊の呪によるものとも言われています。そのため、鎮魂供養の木柱が立てられています。*2
案内板は、どの場所がおいらん渕であるかを明確に示していません*3が、滝の下の極端に狭くなった深い暗いゴルジュがおいらん渕であったのではないでしょうか。
【参考文献】
*1 田島勝太郎:奥多摩・それを繞る山と渓と(山と渓谷社,1935)P.255
*2 今村啓爾:戦国金山伝説を掘る(平凡社,1997)P.25
*3 大藪宏:戦国武田の黒川金山(山日ライブラリー,1995)P.158
丹波山のバス停から15分ほど歩いた奥秋テント村の近くに、「おいらん堂」と呼ばれているお堂があります。
案内板によると、おいらん堂の由来は次の通りです。
戦国時代、甲斐の武田氏を支えた甲州金は、ここから西方約9Kmのところにある黒川金山から産出されたものといわれ、黒川金山には採掘坑夫の慰安のために遊女がいました。
金山閉山のとき、遊女たちから金山の秘密が漏れるのを防ぐため、柳沢川の渓谷に宴台を作り、慰安と称してその上で舞を舞わせました。舞の最中、ころをはかり宴台を吊っていた藤づるを切って、宴台もろとも遊女たちを淵へ沈めました。このことから「おいらん淵」の伝説が生まれました。
下流にある奥秋部落には遊女の死体が多く流れつきました。哀れに思った村人たちは、遊女たちの亡骸を引き上げ、お堂を建てて手厚く葬りました。
現在のお堂は昭和63年に再建されたものです。
お堂には、花魁と書かれた位牌が安置されています。
「デク」と呼ばれる木で彫った人形。
今回は、丹波山(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。JR奥多摩線の終点の奥多摩駅で下車し、そこから、丹波行きの西東京バスを乗りついで約1時間で丹波山に到着します。
バス停の近くにかつて飲食店だったと思われる建物があります。
2階の窓の部分に竹や鳥などの図案が彫り抜かれています。
1階の柱に残っていた鑑札。「二十才未満の者はおことわりします。上野原警察署」「営業時間は午後11時までなので、ご協力ください。」「山梨県公安委員会」と書かれています。
1991年5月、芝浦の空き倉庫に、「ジュリアナ東京」がオープンしました。ボディコンの女性が羽根扇子(ジュリ扇)を振り回しながら踊る、高さ1.2mのお立ち台が名物で、最初に扇子を持って踊りだした女性は、後に荒木師匠1 と呼ばれて有名になりました。2
「ジュリアナ東京」があった場所は、ボウリング場の「東京ポートボウル」の隣で、現在は、スポーツ用品店になっています。*3
スポーツ用品店は、当時の「ジュリアナ東京」の建物をそのまま使用しています。また、店内には、併設のカフェのカウンタ、正面の大型モニター、2階へ上がる階段など、当時のままで使用されています。3
1992年の夏頃からジュリアナ報道は過激の一途をたどりましたが、1993年4月に、お立ち台の下からの「パンチラ撮影」が禁止されると、報道は一歩進んで、「なぜ彼女たちはパンツを見せても平気なのか」と分析する方向に向かいました。4
「ジュリアナ東京」は、日商岩井の折口氏、イギリスのレジャー企業ウェムブリー社、そして東京倉庫運輸など、数社の寄り合い所帯でスタートしました。その後、数々の内紛があり、お立ち台が撤去されることにより客足が遠のき、1994年8月に閉店しました。*5
「ジュリアナ東京」があった場所(東京ポートボウルの隣)」には、東京倉庫運輸が芝浦に進出してきたときに建てた稲荷神社があります。案内板によると、進出当時、小さな祠があったものを東京倉庫運輸が稲荷神社として整備したそうです。
「ジュリアナ東京」をプロデュースした折口氏(現グッドウィルグループ6 会長)は、1994年に、六本木に巨大ディスコ「ヴェルファーレ」をオープンしましたが、やはりオーナーと意見が合わず経営から離脱。その後、人材サービス会社を起業し、介護事業の「コムスン」も傘下に収めましたが、三たびディスコ経営に乗り出す意思はないと公言しています。1
芝浦には、もう一つ、「芝浦ゴールド」というディスコがありましたが、今はマンション(下の写真)になっています。*3
【参考文献】
*2 週刊文春(2005.8.11,13)P.191「ジュリアナ東京プロデューサーが告白「羽根扇子」大流行の謎」
*3 浅妻千映子:週刊文春(2000.12.28)P.173-P.175「ポストバブルは「ジュリアナ東京」で始まった(追跡 あの店は今・・・時代の主役はスターより店だった)」
*4 岩下 久美子:文芸春秋(1993,10)P.372-P.379「ジュリアナに豚印OLはいない」
*5 桐山秀樹:文芸春秋(1994.10)P.356-P.361「ジュリアナで踊った人踊らされた人–華やかなお立ち台の裏の金銭を巡るドロドロ」
【参考URL】
*1 荒木師匠ネット
*6 グッドウィルグループホームページ
芝浦が花街として発達を見たのは、明治時代からでした。昭和の初期には、芸者屋74軒、待合73軒、がありました。*1
JR田町駅から徒歩約10分、ヤナセ本社ビル近くに、芝浦花街の見番として使用されていた協働会館の建物があります。現在は、保存のため、建物全体にネットがかけられています。
協働会館は、当時の三業組合長であった細川力蔵氏が大半を出資し、三業組合に寄付したものといわれています。細川氏は、目黒雅叙園を築き上げた人です。
太平洋戦争が苛烈になるにしたがい、東京港付近に重要な倉庫が密集し、空襲の中心になる恐れから、芝浦花街は、疎開、移転し、三業組合も解散しました。*2
昭和20年に戦争が終わりましたが、協働会館の周辺は、幸運なことに空襲の被害から免れました。元の見番の建物は、東京都港湾局の所轄になり、港湾労働者の宿泊施設として管理され、「協働会館」と名付けられました。
この頃から、芝浦は花街ではなく港町の産業(倉庫・運輸など)・住宅地へと性格を変えていきました。*2
この建物の所有者である東京都港湾局は、一時期、解体計画を発表しましたが、地元の住民がこれに反対し、現在では保存運動が展開されています。*3
東京都では、小金井市の江戸東京たてもの園に移築保存することなども検討しましたが、敷地や予算などの問題で実現していません。*4
【参考文献】
*1 東都芸妓名鑑(南桜社,1930)
*2芝浦・協働会館を活かす会:「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8-P.28
*3 THEMIS(2005.12)P.90-P.91「三信ビル、協働会館など 建物を守らない日本の建築文化を問う」
*4 東京人(2003.3)P.89「特集 たてもの保存再生物語」
今回は、芝浦の町並みと風俗を散歩します。
芝浦は運河の町です。この日(10月22日)は、今年で3回目を迎える「芝浦運河まつり」が開催されていました。
芝浦運河まつりの会場に、「協働会館コーナー」がありました。
協働会館は、昭和11年に建てられた近代和風建築です。もともとは、芝浦花柳界の見番(検番とも書く)として建てられました。*1
冊子「協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築」(500円)が販売されているので、1冊購入しました。
【参考文献】
芝浦・協働会館を活かす会:協働会館 華やかなりし花柳界の面影を伝える近代和風建築(芝浦・協働会館を活かす会,1999)P.8
北品川2丁目の商店街に天神湯という銭湯があります。品川には、お寺などに、赤レンガの塀が多く残っていますが、銭湯にも赤レンガの塀が残っています。
正面の入口。玄関の格子模様がいい感じです。
ここの銭湯は、手ぶらで入浴できるので、散歩に最適です。入浴セットは、タオルと石鹸、シャンプーがセットになって100円です。
中には、小さな庭があって、鯉が泳いでいました。木製の長いすや、木製の床などが光輝くほどきれいに磨かれています。昭和レトロのお手本のような銭湯です。
品川には、たくさんの寺がありますが、その中で、投込寺と呼ばれている寺が海蔵寺です。たたずまいは、静かで清楚な寺です。
かって、品川遊郭があった時代、この遊郭で死んだ遊女がこの寺に投込まれました。他に、寺には、品川京浜電鉄轢死者の碑や関東大震災横死者の碑などがあります。
たくさんの石仏や墓石を一つにまとめた供養塔があり、「無縁首塚」と名前がついています。
この供養等の墓誌には、次のように書かれています。
(1)鈴ヶ森刑場で処刑された罪人の首を埋葬
(2)品川遊郭の遊女の霊
(3)品川京浜電鉄轢(れき)死者の霊
(4)品川海岸溺死者の霊
(5)品川行路病横死者の霊
(6)関東大震災横死者の霊
いろいろな、無縁仏を一つにまとめたもののようです。
北品川公園周辺は、小泉長屋と言われる町並みが残っている場所ですが、ここには、公園の周囲だけでも4基の手押しポンプが残されています。
北品川公園裏にある手押しポンプ。このように道のど真ん中にあるのが特徴です。但し、このポンプは水ににごりがあり、使用禁止となっています。
北品川公園の入口付近の角地にある手押しポンプ。路地の風景とよく調和しています。北品川公園周辺には、もう1基、公園を回り込んだ路地に、手押しポンプがあります。
北品川1丁目ビジネスホテル清美荘近くの路地にある手押しポンプ。この他にも品川2丁目26の花屋の脇の路地を下った所にも1基ありました。
旧街道の両側には、横丁が何本もあります。そのうちの1本の路地を下ると、「赤線跡を歩く」*1 に掲載されているビジネスホテルがポツンと1軒あります。
街道と交差する東側の横丁は、このようにすべて海側に向かって下っています。つまり、品川宿の街道は、斜面を通っているということになります。(写真の奥が街道側です。)
看板には、「ビジネスホテル」と書いてありますが、旅館の風情です。
裏手から見たところ。
旧街道沿いにも同じ名前のビジネスホテルがありました。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.37
明治時代、品川宿には、貸座敷が何軒も並んでいました。その中で、品川一の貸座敷と言われたのが島崎楼です。現在、跡地にはビルが建っています。*1
幕末に活躍した高杉晋作ら長州藩尊譲派が集合場所とした、歩行新宿の相模屋、通称「土蔵相模」は、品川宿有数の旅籠屋でした。明治以後は、貸座敷「相模楼」となり、戦後は、さがみホテルと名を変えました。1982年に取り壊され、現在は、コンビニのファミリーマートが入るビルとなっています。*2
コンビニの前に案内板があります。「土蔵のような海鼠壁だったので、土蔵相模と呼ばれていた。」と書かれています。
歩行新宿(北品川1丁目)。風情のある商店街です。
赤線跡を歩く*3 では、この写真の右側のコンビニが土蔵相模跡地と紹介されています。
【参考文献】
*1 秋谷勝三:品川宿遊里三代(1983,青蛙房)P.105-P.107
*2 品川区教育委員会:東海道・品川宿を駆け抜けた幕末維新(品川区立品川歴史館,1999)P.35
*3 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.38