長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。
備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。
備前屋跡の碑。
備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156
長峯の山を登りきったあたりが、古市遊廓の中心部でした。
備前屋、杉本屋、油屋の三楼は古市三大妓楼と呼ばれていました。備前屋があった場所は、現在は駐車場になっています。
備前屋跡の碑。
備前屋は、牛車楼とも呼ばれました。これは、享保年間に名古屋に出店を持ったとき、さる高貴の者が牛車で来遊したことがあったためといわれています。*1
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.156
坂をを登っていくと、まるで城郭のような立派な石垣が見えてきます。この石垣は、坂道の斜面に立つ古い大きな家の土台を支えるものです。
この古い大きな家は、元旅館の「両口屋」です。明治30年頃の古市には、遊廓30軒(遊女250人)、料理屋6軒、うなぎ屋4軒、菓子屋5軒、旅館14軒がありましたが、「両口屋」は、そのうちの旅館の1軒でした。*1 かつて、この坂道の両側に広がっていた遊里の賑わいぶりを想像させる建物です。
坂を登り切ったところは、三叉路になっていて、この建物が三叉路の分岐点の目印のような存在になっています。この古い建物の玄関に乗用車が突入しているように見えますが、これは単に駐車しているだけです。玄関前の木が生長しすぎていて、建物の全容が窺いにくくなっているのがちょっと残念です。
建物は、かなり老朽化が進んでいます。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971) P.159
今回は、古市(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
古市には、かつて古市遊廓があり、お伊勢参りの人々で賑わっていました。近鉄線宇治山田駅から勢田川に向かって10分ほど歩いたところに、「古市参宮街道」の案内板があります。これによると、古市遊廓は日本三大遊廓の一つと紹介されています。
小田橋は、伊勢神宮の外宮と内宮を結ぶ参宮街道の入り口にあたり、江戸時代から勢田川にかかっていました。(「小田橋」の案内板より)
橋の欄干。
小田の橋の案内板。
伊勢といえば、誰もが古市遊廓を連想するほど、この色里は天下にその名が高く、年間数十万人と言われる旅客の落とす巨額の金銭のほとんどが、古市遊廓に吸収されたといわれています。*1
----「古市参宮街道」の案内板(抜粋)----
「伊勢に行きたい伊勢路がみたい、せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭にうたわれたように、江戸時代、伊勢参りは庶民の夢でした。全国津々浦々から胸躍らせて伊勢参りに向かう人々、特に、慶安3年(1650年)、宝永2年(1705年)、明和8年(1771年)、文政13年(1830年)、慶長3年(1867年)の「おかげ参り」には、全盛期を迎え、多いときには、半年間に約458万人に参詣者があったと記録に残されています。
外宮から内宮へ向かう古市街道は、伊勢参りと共に栄えました。その中でも古市は、江戸の吉原、京の島原と並ぶ三大遊廓で、全盛期には、妓楼70軒、遊女1000人を数えました。
【参考文献】
*1 中沢正:遊女物語(雄山閣出版,1971)P.142
渡鹿野島の北西側を進むと、道路下に小さな集落が見えてきます。
「わくわくランド」と書かれたゲート。
現在は草木で覆われています。
反対側の入江と一体となった娯楽施設だったのかもしれません。
渡鹿野島は、観光地化が進んでいます。渡鹿野港の近くに、パールビーチがあります。
猫の額ほどの広さの人口ビーチですが、いい雰囲気のビーチです。
まるで南国のリゾート地のような雰囲気です。写真の右側のセンスの良い建物は、実は更衣室です。左奥に、立派なホテルが見えますが、実は廃業しています。
廃業しているホテルにあったプール。渡鹿野島の観光開発は簡単ではないようです。
渡鹿野島の町の中心部の通りには、カラオケ店などのスナックが散在しています。
ホテルでの宴会の後の2次会に使用されるのだと思います。
コンパニオンの置屋あるらしいですが、昼間のうちは営業していません。
住居とスナックが混在しています。
今回は、渡鹿野島の町並みを散歩します。
渡鹿野島は、近年は観光地として発展を遂げています。
渡鹿野港近くの「シーサイドホテルつたや」は、渡鹿野島を代表する観光ホテルです。
宿泊した部屋。
ホテルの窓からは、渡鹿野港と周辺の美しい海が見渡せます。
昔、志摩には、「はしりがね」と呼ばれる船女郎がいましたが、渡鹿野島は、「はしりがね」の情緒を色濃く残しており、波止場に船がつくと媚を売る女達が、出迎えてくれる情景が見られたそうです。*1
【参考文献】
*1 岩田準一:志摩のはしりがね(1940)P.57
軒下に、明治の牛乳箱があります。
紅殻格子(べんがらごうし)*1 には、明治の藍色の木製牛乳箱がよく似合います。
木製消火器箱と木製牛乳箱。木製箱同士はお似合いです。
明治牛乳の牛乳箱は、縦書きと横書きがあります。上の写真の牛乳箱は、明治牛乳の文字が縦書き、下の写真の牛乳箱は横書きです。
手作り郵便受けと木製牛乳箱。こういうコラボレーションも面白いと思います。
【参考URL】
*1 京都市中京区社会福祉協議会:「ちょっと物知り帳」紅殻格子(べんがらごうし)
遊廓中央部を東西に貫くメインの通りは、「胴筋(どうすじ)」と呼ばれていました。胴筋の両側には、置屋、揚屋、茶屋などの遊廓特有の建築の他に、「素人屋」と呼ばれる一般市民生活に必要な物品の業者も入居していました。*1
胴筋を逆方向から見たところ。奥に見えるのは大門です。
洋風の建物もあります。
「きんせ」という名前の観光旅館。島原には、このような旅館が数軒あります。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣,2002)P.26
今回は、嶋原(京都府)の町並みと風俗を散歩します。
嶋原は、江戸時代に公認されていた花街で、寛永17年(1640年)に、嶋原の前身である六条三筋町から現在の地に移されました。その混乱の状況が九州で起きた島原の乱(寛永14~15年)を思わせたことから、新遊廓は嶋原と呼ばれるようになりました。*1
遊廓の入口には大門があります。
大門は木造で、堅固な屋根をつけています。門の左右の通路(袖門)は、門が閉まった後の急用通路として使われました。*2
時代劇でよく見かけるものと同じものがあります。
大門は、京都市登録有形文化財に指定されています。
【参考文献】
*1 明田鉄男:日本花街史(雄山閣,2002)P.25
*2 小野武雄:吉原と島原(講談社,2002)P.81
富士吉田は、唯一、富士山を一合目から上れる登山道の登山口です。まずは、遊歩道を歩いて、一合目を目指します。
三合目まで来ました。案内板によると、ここには、江戸時代から茶屋(山小屋)が2軒あり、ここからの見晴らしが良かったので、多くの登山者がここで休憩したそうです。現在は、2軒の廃屋があります。
廃屋に「ルミナコ治明」...ではなく、「明治コナミルク」(右から読みます)と書かれた木製ベンチが放置されていました。
明治コナミルクは、1923年に開発された歴史のある乳製品です。*1
五合目にから見る富士吉田市街。市街を南北に貫く本通り(写真中央)が見えます。
【参考URL】
*1 明治乳業(株):明治コナミルクの歴史
本通りの坂道を南へどんどん登っていくと、国道139号線(横町バイパス)へ出て、やがて富士浅間(せんげん)神社へ着きます。富士浅間神社の杉の巨木が神秘的です。
歩道に、償却炉があります。個人のお宅のものと思われます。左側のコンクリートブロック製の償却炉の脇にタイルでできたもう一つの償却炉?が置かれています。
全面タイル貼りで、懐かしい感じがします。
側面には、穴が二つあいています。おそらく、かつて浴槽として使われていたものを捨てずに何かの目的で使っているのだと思います。
下吉田の西裏通りで、武田牛乳の牛乳箱を見つけました。白色の牛乳箱に赤色の象のマークが印刷されています。
武田牛乳は、戦国大名の武田信虎(武田信玄の親)の末裔が、明治5年(1872年)にしょうゆ醸造業(テンヨ武田)を創業したのが、始まりで、 その後、テンヨ武田の姉妹会社の武田食品株式会社が昭和23年より市乳部門を設置し、象のマークの武田牛乳として販売しています。*1
牛乳箱の側面には、「ミネビタ牛乳」、「ホモゲ牛乳」と書かれています。「ミネビタ」は、ミネラル+ビタミンだと思われます。「ホモゲ」は、ホモジナイズのことだと思います。
牛乳箱の朽ち具合が絶妙です。
富士吉田は、町全体が斜面です。町を南北に縦断する本通りの坂道を登り、金鳥居を過ぎて、上吉田に入ります。
武田牛乳の販売店がありました。下吉田で見かけた牛乳箱の側面に書いてあった販売店です。建物に象のマークがあります。
牛乳の小売も行っています。もちろん、象のマークの武田牛乳も販売されています。「牛のマークの牛乳石鹸」というのがありますが、象のマークの牛乳は、象乳とでも呼んだらよいのでしょうか。
【参考URL】
テンヨ武田:「テンヨ武田の商標」
富士吉田には、制服専門店、ユニフォームショップ等の店舗が多数あります。
下吉田にある制服専門店。店の側面に、「制服専門」と大きく書かれた看板があります。制服を着たマネキンがずらりと並んでいますが、なぜか男子のマネキンはひとつもありません。
同じく下吉田にある別の制服専門店。高校名も書かれているので非常に判りやすい展示です。吉田高校の女子制服は、奇抜なデザインです。
富士吉田駅前の通りにあるユニフォームショップ。高校の制服だけでなく、業務用の制服も品揃えされています。看板の「女子事務服」だけが赤字で示されています。
女子事務服の品揃えが充実しています。
神田堀川の東隣にある西裏通りは、懐かしくもモダンな建物が残されています。貴重な財産ともいえるこの町並みを、富士吉田の人たちは、新たな顔として蘇らせることを計画しているそうです。 *1
西裏通りから路地を一本入ったところにある元旅館。レトロな文字で、「日昇旅館」と書かれており、まるで、赤線跡の建物のようにモダンな建築です。現在1階部分は飲食店となっています。
その隣にある「アポロ」という名前の飲食店の建物。こちらも人目をひくデザインです。
「新世界通り」と書かれたゲートを入ったところにあるスナック街。狭い曲がりくねった路地が続きます。
*1 富士吉田市観光協会:富士吉田市街案内ガイド「富士吉田今昔の旅」
今回は、富士吉田(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
JR中央線大月駅で、富士急行に乗り換え、富士吉田駅の一つ手前の月江寺(げっこうじ)駅で下車します。駅前の商店街の緩やかな坂道を下っていくと、左手にスナックが立ち並ぶ通りがあります。通りの名前は、リバーサイド通りと言います。
リバーサイド通りの裏手には、神田堀川の水路が流れています。建物と木々の緑が美しい風景です。
富士吉田は、昭和30年代、織物産業が盛んで、県内外から業者たちが集まりました。月江寺駅周辺の下吉田には、歓楽街の面影が、色濃く残っています。*1
神田堀川の東側に「ミリオン通り」と書かれたゲートがあります。
「ミリオン通り」には、レトロな雰囲気のスナックが残っています。
*1 富士吉田市観光協会:富士吉田市街案内ガイド「富士吉田今昔の旅」
大正12年の関東大震災では、弁天池(花園池)に多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起りました。*1
弁天祠の築山に立つ大きな観音様は、溺死した人々の供養のため、大正15年に創立されたものです。*1
観音様。
関東大震災80周年の碑。
【参考文献】
*1 風俗散歩(吉原):弁天池の案内板(2006.7)
吉原弁財天には、弁天池(花園池)が残されています。池にネットが被せられています。
池にネットが被せられているネットは、おそらく、池に泳いでいる金魚が盗まれるのを防止するためのもののようです。
金魚だけでなく、小さな緋鯉も泳いでいます。
日本橋の吉原遊廓(元吉原)が当時湿地だったこの地に移転(新吉原)しましたが、その際、湿地の一部を埋め立てた際、池の一部が残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼主たちの信仰をあつめました。現在は浅草七福神の一社として毎年正月に多くの参拝者が訪れています。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋め立て工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなりました。(案内板より)
吉原弁財天へ立ち寄りました。入口には大門のレプリカが立っています。
右の石柱に「春夢正濃満街桜雲(しゅんむまさにこまやかなりまんがいのおううん)」、これは仲之町通りに一夜で植えられた数千本の見事な桜樹を描写しています。*1
左の石柱には「秋信先通両行灯影(しゅうしんまさにつうずりょうこうのとうえい)」とあり、享保11年(1726年)の春に急逝した、角町中万字屋(なかまんじや)の玉菊という花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んでいます。*1 この燈篭は、俗に「玉菊燈篭」と呼ばれ、吉原の年中行事とされ、仲之町の桜、俄(にわか)とともに、吉原三大景容のひとつと数えられました。*2
石柱に彫られている詩は、これら「吉原三大景物」の一つづつを詠み込んだ福地桜痴の詩の復刻です。*1
*1 岡崎柾男:江戸東京伝説散歩(青蛙房,2005)P.143
*2 西山松之助:遊女(東京堂出版,1994)P.187
入谷を散歩した後は、吉原方面へ向かいます。国際通りを越え、鷲神社の裏手の通りに入りました。
T字路に、「散歩の達人」の特集「街に赤線があった頃」*1 に掲載された扇型の窓を持つお宅があります。雑誌掲載当時は、1階が「三好」という中華食堂でしたが、今は普通の住宅です。
「面白い造りの店だと言われて、映画の撮影に使われたこともあった。」そうです。*1
特徴のある扇型の窓は今でもの健在です。
【参考文献】
*1 大竹誠:散歩の達人(1996.11)P.21
カラオケパセラのある交差点近くに取り壊し直前の古い建物があります。1階にカラオケパブ、2階に旅行会社の事務所が入っています。
「トリスバー 夜の貴婦人」と書かれた看板が残っています。トリスバーは、昭和30年(1955年)前後に生まれた庶民的なバーで、トリスウイスキーをソーダで割ったハイボールが主力製品でした。トリスのハイボールは大阪では「トリハイ」、東京では「Tハイ」という愛称で呼ばれました。*1
残念ながら、この建物は、今月中に取り壊され、跡地には9階建てのビルが来年9月に完成するそうです。(「建築計画のお知らせ」の看板より)
もう1軒、取り壊し予定の建物がありました。昭和30年代に建築されたスナックです。立入禁止を示す黄色のテープが貼られています。
張り紙に書かれている内容によると、この建物は、昭和30年代に建築されたものだそうですが、老朽化が進んでいるため、取り壊しが検討されているそうです。
【参考URL】
*1 サントリー(株):お酒・飲料大事典「トリスバー」
池袋駅北口の文化通り。
大人のおもちゃの店。
池袋二丁目の田中ビル付近にあるランジェリー・コスチューム店
看板と木製ゴミ箱。
今回は、池袋の町並みと風俗を散歩します。
池袋北口を出て徒歩5分ほどのときわ通り周辺の繁華街には、無料案内所が密集しています。派手な看板が目立ちます。こちらの店舗は、「夜の王様」というのがお店の屋号のようです。
どの店舗も「無料案内所」という呼び方は一致しているようです。店舗の名前「男の楽園」は小さく表示されています。
VIP。
「アパマン」との併設店。
中村には、銭湯が沢山有ります。そのうちの一つの寿湯。
横に回ってみると、立派な煙突を見ることができます。
入口は、アーチ型のモダンなデザインになっています。
津村順天堂の「中将湯温泉」の広告看板。
旧中村遊廓の中心部。大門近くにスパーのユニーがありますが、ユニーの向かい側(写真右側)にはソープランドが並んでいます。
ユニーの屋上の駐車場から見た南側の風景。写真左手前から、ソープランドの「インペリアル福岡」、ビジネス旅館の「牛わか」、洋風の建物、ソープランドの「ファースト」、「ニュー令女」と並んでいます。改装前は、瓦屋根の日本建築だったことがわかります。
ユニーの裏手(北側)にある「およし」の屋号を持つ建物。瓦屋根の建物は、中央部に中庭がある構造になっています。
北側の風景。写真右手前に旧屋号「およし」の建物。遠くに、デイサービスセンター松岡、料亭の稲本等、旧遊郭の建物が見渡せます。
大門の近く(スーパーのユニーの裏手)にある以前遊郭だったと思われる建物。現在は、民家になっているようです。
建物の右側の側面はトタン板のようなもので補強されています。
玄関のところに、「およし」という屋号が確認できます。
建物の下部の緑色のタイルの装飾が鮮やかです。ラーメンのどんぶりの渦巻き模様に似たデザインがあります。
今回は中村(愛知県名古屋市)の町並みと風俗を散歩します。
中村日赤駅から徒歩10ほどのところにある大門通り。この一角には、かつて中村遊廓がありました。中村遊郭は、それまで大須観音近くにあった旭廓が一斉移転して造られた花街で、大正12年(1923年)に一挙にできあがりました。*1
金属でできた「OMON」と書かれた新しいタイプのゲートもあります。近くには、昔、遊郭であったと思われる古い建物(「長寿庵」)があります。
町の中心部にスーパーマーケットのユニーがあり、全体的には普通の町と変わりません。しかし、よく見ると、ユニーの前にソープランドがあったりと一味違った雰囲気を感じさせます。
歩道にあった装飾。大門の絵が描かれています。
【参考文献】
*1 若山滋:遊蕩の空間(INAX出版,1993)P.13
ソープ街の中に古い旅館があります。「想い出」という屋号の旅館です。旅館の隣(写真奥)には同じ「想い出」という屋号のソープランドがあります。
緑のタイルの装飾がある立派な建物です。こちらも同じく「想い出」という屋号です。新館と旧館という位置づけでしょうか。
旅館の入口。左側の円柱に「旅館想い出」、右側の円柱に「お気軽にどうぞお泊りください」と書かれたプレートが貼ってあります。
ソープランド「エデン」の看板が右手前に見えます。新旧店舗を対比させてみました。
水野町公園近く。ソープランド「AAライン」のある通り。
ソープランドの向かいに古い建物が残っています。
入口に屋号が見えますが、何と読むのかはよくわかりません。入口と窓枠に緑色の鮮やかなタイルの装飾があります。
4つある窓には、富士山の装飾が施されています。
ソープ街の裏手には、古い建物が残っています。
1階は喫茶店になっている建物。
全体は、ピンクのタイルで装飾されていますが、中央の庇部分は白と黒のタイルで装飾されています。喫茶店の看板は新しいです。
鳩の街などで見かけるタイルの円柱を思い出しました。
ソープ街の中に、自販機が設置された一角があります。「三楽」と書かれていて、一見、売店のようです。
正面から見ると「自動販売機コーナー」と書かれています。散歩に疲れたときに、一息つくには最適です。
自動販売機コーナーには金津図園の案内看板があります。
上記とは別の場所ですが、自販機が並んで設置されている場所がありました。
錦三の町並みを散歩していたら、公衆トイレを見つけました。「こんな所に公衆トイレがあったのか...」と言いたくなるような場所にあります。公衆トイレとしては、かなりの狭小建築だと思います。
三角屋根の小さな建物です。
ここの通りは、ツルシゲ通りという名前がつけられているためか、トイレの入口には鶴がデザインされています。
中を覗いてみると、以外にも綺麗で、落書きは少なく、こちらの1箇所だけでした。
今回は、(愛知県名古屋市中区)の町並みと風俗を散歩します。
錦三丁目、通称・錦三(きんさん)は、名古屋市を代表する歓楽街の一つです。
「錦三」のコンビニの雑誌コーナーにうずたかく積まれた雑誌が目につきましたので、さっそく購入してみました。名古屋の風俗雑誌「シティヘブン」です。大判の時刻表以上の厚さ(約1,300頁)で重さは2.5Kgぐらいあります。片手で持つと、その重さのために手が震えてきます。
「シティヘブン」編集長の話によると、「名古屋人は保守的で警戒心が強く、ボッタクリに遭わないように風俗雑誌を見て行くので、名古屋の町は(ボッタクリのない)健全な町になった。」と名古屋には独自の文化圏が存在するそうです。*1
風俗店専用の広告掲示板。まだ出来上がったばかりと思われ広告募集中です。名古屋は広告ビジネスが成り立ちやすい土地柄なのでしょうか。
【参考文献】
*1 文野石平:現代(1997.11.27)P.86 「東西性風俗街道 名古屋編」
駅から県道102号線(長沢水戸線)を少し行くと、料理屋だったという楼閣*1 があります。
玄関があったと思われる*1 建物の側面。
料理店の入り口*1
料理店と書かれた納税証が残っています。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.164-P.166
玉川村の駅前のメインストリートは、商店が3軒ぐらいあるだけです。
「赤線跡を歩く」*1 に掲載されていた家がまだ残っていました。
入口に装飾のある窓硝子があります。
店の屋号でしょうか。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.167
今回は、玉川村(茨城県)の町並みと風俗を散歩します。 玉川村は水戸からJR水郡線で11駅約50分のところにあります。
水郡線は単線で、車両はディーゼル車です。
駅のところどころに、このような面白い形の木が植えてあります。
駅舎は、山間にとけ込んだロッジ風の駅舎にコミュニティ施設を併設した駅です。「鉄道の日」の関連事業の関東の駅百選に選ばれています。
【参考URL】
関東の駅百選(国土交通省関東運輸局ホームページ)
甲府市内の城東通り沿いのNTT山梨支店の近くに、ユニホームメーカーのビルがあります。
ビルの入口には、ナース服等のユニホームが展示されています。写真中央のナース服は、ピンク色で、襟が白。前チャックのデザインです。
弁天通りと交差する銀座通り商店街。山梨英和学院(明治22年(1989年)の設立)専門の制服ショップがあります。
山梨英和学院の生徒達は昔から流行に敏感で、明治33年(1900年)には、ほぼ全員がはかまを着用していたそうです。はかまを胸高くはいて歩く姿はそのころの甲府市内でも人目をひく存在でした。*1
現在の制服は、1928年に考案され、夏服は、海外から日本に入ってきたセーラー服の原型といわれています。ネイビーブルーのタイ、襟元と袖口に入っている白の3本線が特徴です。*2
【参考文献】
*1 山梨英和学院:山梨英和学院八十年史(1969)P.122-123
【参考URL】
*2 山梨英和学院:セーラー服の原型を守る制服
甲府市の錦通り。中央1丁目の繁華街です。1階や地下に飲食店が入るビルが建ち並びます。
飲食街の中に、マッサージ店が混在しています。
エステ「ハワイ」。
赤い色の健康エステの看板。
甲府市中央4丁目。ビル街に「柳小路」の入口があります。
柳小路飲食店街。
狭い小路に飲食店が建ち並んでいます。
小路はL字型になっていて、北側の通りに抜けています。
甲府の繁華街の中心部。春日ビルの中にある「一番街」。
ビル内の路地の飲食街。
韓国エステの看板。
反対側の入口。
今回は、甲府(山梨県)の町並みと風俗を散歩します。
甲府の中心街にあるオリンピック通り。青色のゲートが印象的です。
案内図。
飲食店がひしめき合っています。
反対側から。
神栖から潮来有料道路で潮来方面へ向かい、鰐川を渡ってすぐのところに石材店の展示場があります。
仏様の手と思われる石のオブジェなど、さまざまな石材の見本が展示されています。
その中で、ひときは目をひくのが、こちらのちんこ石です。亀頭の部分の皺がリアルに再現されています。
ペニスの反り具合もGOODです。残念ながら、まんこ石はありませんでした。
潮来駅の北側の長勝寺の隣に西円寺があります。長勝寺は観光地として有名ですが、西円寺を訪れる人はほとんどいません。
西円寺には、遊女の供養塔があります。
衆生済度(しゅじょう-さいど)遊女の墓と書かれています。大辞泉によると、衆生済度とは、仏語で、「迷いの苦しみから衆生を救って、悟りの世界に渡し導くこと。」だそうです。
墓の隣に遊女の碑(衆生済度遊女の墓建立の誌)があります。
----衆生済度遊女の墓建立の誌----
かつて、一世を風靡した野口雨情の哀感の詩「舟頭小唄」もその背景が遊廓の町潮来であったからこそ、いっそう世の人々の情をさそったのではなかろうか。古書の一文をかりれば、菖蒲咲く潮来の里は、奥州から中山道に通ずる要津にあたり、銚子より鉾田より凡そ内海に入る者皆ここを過ぎりければ、水駅として世に顕る。されば、古くから艶色をひさぎて、旅情を慰むるものななどありしならん。
徳川氏、府を江戸に開き、この地水戸の領となりし後は、その盛り旧にも倍し、交通益々頻繁にして、諸大名の蔵屋敷建ち、朝夕に出船入船落込客も多かりければ、藩治殊に意を用い、水戸藤柄の娼家を移し、江戸の制に倣ひて浜一丁目に公娼を許し、地方の繁栄を支える傍ら、罪人の検挙等に資せらるとあり、延宝7年(1679年)潮来の一画に正式なる遊廓が誕生したのである。明治維新後の明治5年、娼妓解放令が出され改革が行われたかに見えたが、実際は、空文化した公娼制度は、賃座敷業に変形し、却って繁栄をみた。
不夜城の妓楼に連ねる源氏名の数々、だが彼女達は好んで入籍したわけではない。年貢の上納に事欠く農家の娘、両親を失った孤児、高利の返金に迫られて親のために観念した孝行娘、義理ある人のために身を沈めた年若き妻女、かどわかされ汚されて売り飛ばされた非力な女等、殆どが善良なる子女であった。彼女達の末路は薄幸であり、殊に病を得て死んだりすると余計憐れであった。墓に刻まれることは稀で、大ていは露の世を生きた証として厄介になった寺の過去帳にひっそりと眠るのが普通だった。中には、畜生道に落ちたとして坂の途中に穴を掘り馬の轡がちゃがちゃ鳴らして埋めたものもあったとか。
遊里の巷に咲いては泡のごとく消えていった哀しい命、これこそ今日の潮来が観光の潮来として全国津々浦々に至るまで人口に及んだ礎であったろうと感慨を深くするものである。
(後略)
江戸時代、潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっていたころ、この地には遊廓がありました。三社詣は、いわば男たちの隠れミノでした。*1
浜町通りには、かつて妓楼や待合が立ち並んでいました。通りの入口には復元した大門があります。*2
今は当時の面影はありません。わずかに一軒のみ当時の威容を保っているのが、旧妓楼の「あやめ楼」です。*2
入口の造りも立派です。
通りを逆方向から見たところ。
P.319
潮来が香取、鹿島、息栖(いきす)の三社詣の上り下りの船便で賑わっ…
P.115
唯一の遺構で威容を誇る旧妓楼の「あやめ楼」
P.119
角菱旅館は…
前川あやめ園から潮来下町通りを行くと、角菱旅館があります。昔はここが船着き場でした。*1
今回は、潮来(茨城県潮来市)の町並みと風俗を散歩します。潮来は、「水郷」という名で呼ばれる通り、古くから歓楽郷と知られる所です。現在は、JRの潮来駅近くに前川あやめ園があり、6月になるとあやめ祭りが開催されます。
あやめ娘の皆さんが出迎えてくれます。
あやめ祭りの呼び物は、何と言っても、嫁入り舟です。舟に乗っているのは、募集した本物の花嫁さんだそうです。かなり綺麗な方でした。観光客からは、「おめでとう!」の声がかかります。嫁入り舟は、そのまま北利根川まで出ます。おそらく、そこから花婿さんが待つホテルに向かうのだと思います。
名物の「あやめ踊り」。この踊りは、もともとは、娼妓が踊っていたものです。*1
【参考文献】
*1 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)P.197
息栖小学校と神栖第二中学校に挟まれた通りを北上すると、居酒屋と風俗店のある看板に出会います。
右(南東)へ曲がると広い通りが続いています。
黄色い建物の風俗店。
こじんまりとした店の入口。
今回は、神栖(茨城県神栖市)の町並みを散歩します。
国道124号線沿いの木崎のバス停のあるあたりは、牛丼家などの飲食店やホテルがある町の中心部です。
牛丼屋の脇の道を入ると、営業していないサウナ(ソープランド)があります。ピンクの看板は塗りつぶされています。
ピーチガールという店名が塗りつぶされたブルーの看板。
店の入口付近。
熊谷駅の西側。JRの線路と市役所通りが交差する地下道の南側の出口付近にある大衆クラブ「ビッグサルーン」。
昭和レトロな外観です。
入口には、ショーガール。
「6つのエリアとゆとりの空間」と説明されています。
かつては、大通りの左右には旅館が立ち並んでいたと思われますが、今は、わずかに古い家並みが残るのみです。
旅館だったと思われるどっしりとした建物が残っています。
旅館の脇の路地。
軒下に入ると、古い建物の雰囲気が伝わってきます。
今回は、熊谷(埼玉県)の町並みと風俗を散歩します。駅の西側の伊勢町には、かつて遊廓がありました。場所は、秩父鉄道の上熊谷駅よりもさらに西側の新幹線の高架下(南側)です。
「赤線跡を歩く」に写真が載っていた*1 「旅館あき山」は、今は無く、住宅が建っていました。
「旅館あき山」は新幹線の高架下に移動していました。
現在、電話帳に「旅館あき山」の登録はなく、現在は、営業していないようです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.152-P.157
平潟遊廓の形跡を残すものに、平潟神社があります。
九十九楼(後の三井家)の名前が刻まれています。
鶴宝菜の楼主、山田文蔵が狛犬を奉納しています。山田文蔵は、立石の農家の出身で、下肥を船で運んで来て、平潟遊廓で遊びを覚えて儲かることを知り、娼婦のおつるを囲い鶴宝菜の名で店を持ちました。*1
もう一つの狛犬は、逢菜家の鈴木亀右衛門が奉納していますが、鈴木亀右衛門は、娼妓が首を吊って死んだので、それを機に廃業しました。*1
【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.39
平潟遊廓跡のすぐ近くに来迎寺があります。
覚月清澄信女という戒名の墓があります。
九十九楼(後の三井家)が建てた、大正13年に亡くなった娼妓の墓です。
墓の側面には、娼妓一同、見世二階一同、と書かれています。今尚、三井家の後裔(菊池丸子さん)が弔っているそうです。*1
【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.42
平潟遊廓の裏手には、排水川(現樋古根川)が流れていました。昔は、この排水川が江戸川の本流だったそうです。当時は、川沿いに平潟遊廓の建物を眺めることができたのだと思います。(写真は、樋野口橋から見たところ。)
樋野口橋から見た樋古根川の上流。美しい流れです。
排水川沿いに見た平潟遊廓跡のマンション群。
江戸川との合流点に「坂川排水碑」があります。ここに設置された排水機によって、水害が解消され、人々は安心して暮らせるようになったそうです。
平潟という地名は旧町名のため、現在は使われていません。平潟の地名を受け継いでいるのは、平潟公園ぐらいですが、他にも、いたるところに旧町名を見ることができます。
マンションの「スチューデントプラザ松戸」(妓楼の三井家があったところ)の隣のアパートに貼ってあった平潟のプレート。
電柱にも平潟と書かれています。
自治会の名前に平潟の旧地名が受け継がれています。しかし、現在の住人は、定住しない人が多いため、自治会費が入らず自治会の運営すら難しくなっているそうです。*1 写真は、平潟自治会の掲示板です。犬のフン看板が邪魔をして見づらくなっていますが、掲示板の下部に「平潟自治会」と書かれています。)
渡邉幸三郎さんの平潟の町並み図*1 によると、妓楼の「宝塚」の隣に「高村タクシー」があったことになっていますが、ちょうどこのあたりに、高村自動車工業(株)と書かれた看板があります。タクシー会社は移転し、代わりにこの場所に事務所がおかれているようです。
【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.44
松戸駅西口から旧水戸街道を横切って江戸川方面へ行ったところに、かつて平潟遊廓がありました。江戸川の土手からすぐのところに、日大歯学部の校舎がありますが、このあたりに、平潟遊廓の西側大門がありました。*1
平潟遊廓が出来上がったのは、明治半ばの頃で、関東大震災以降さかんになり、戦争の激化とともに消えました。*2
かつての柳並木のうち一本だけ残された柳の木。この柳の木の向かいに妓楼の「三井家」がありましたが、19994年に取り壊されて、跡地には、マンションの「スチューデントプラザ松戸」が立てられました (写真の左端)。「三井家」は、内藤新宿の資産家内藤新太郎が開いた店で、初め、「九十九楼」と称していました。*2
唯一、当時の妓楼の建物が転用され残されていた柳仙育英センター(司法試験のための学生寮)の7号館の建物(旧豊川楼)*1 も今は無くなって駐車場になっています。
お稲荷さんだけが残る元妓楼の敷地。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(筑摩書房,2002)P.100-P.103
*2 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.33
松戸駅近くの旧水戸街道沿い。特に春雨橋周辺は、古い商家が立ち並び、宿場町の風情を感じる通りです。その中で、「トンボ学生服」の看板を見つけました。
地元の中学・高校の制服専門店です。
可愛いブラウスの制服があります。なぜかマネキンは女子制服ばかりです。
もちろん、セーラー服もあります。
松戸駅前のソープランド「角海老」から5分ほど歩いた所に、松戸市役所がありますが、市役所の隣の京葉ガスビルのビルの谷間に池田弁財天があります。
鳥居のトンネルがあります。
池田弁財天は、平潟遊廓の娼妓が、下の病気にかからぬよう、お客がうんと入るよう祈った弁天様です。*1 きりん亭猿像さんの、遊女の祈願(池田弁財天霊験記)*2 が紹介されています。
願をかける時は、奉納してある石の蛇の頭を欠いて持って帰り、めでたく成就した時は、新しい石蛇を奉納する慣わしだそうです。*1
現在は、手芸の神とも言われ、華道の先生やお弟子さんが詣でているそうです。*2
【参考文献】
*1 渡邉幸三郎:昭和の松戸誌(崙書房出版,2005)P.43
*2 きりん亭猿像:遊女の祈願(池田弁財天霊験記)(松戸史談17号)P.31
雄琴のソープランド街を散歩した後は、比叡山を登山することにします。比叡山鉄道(坂本ケーブル)の坂本駅で、切符を買います。切符には、ケーブルカーの車両の名前である「縁」と「福」の文字が書かれています。切符の裏面の説明書きによると、「皆様と良いご縁が結ばれ、また、福が授かるよう願って」名付けたそうです。
ケーブルカーの車両は、落ち着いた和風のデザインです。比叡山の山頂に延暦寺があるので、ケーブルカーもそれに合わせたデザインとなっているのだと思います。山頂に遊園地がある生駒山のケーブルカーとは対照的です。
山頂から雄琴方面の眺め。さきほどまで、散歩したソープランド街が遠くに見下ろせます。(この写真の中央あたり)
雄琴のソープ街の建物が見えます。写真の手前側が国道161号線。右側が川筋通りです。
国道沿いのバス停近くに無料紹介所があります。
最近風俗街でよく見かける紹介所ですが、雄琴の無料紹介所はユニークです。紹介の内容が、①観光、②旅館、③ホテル、④特殊浴場の4点セットになっています。さすがは、観光地、雄琴です。「ソープランド」ではなく、「特殊浴場」と書いてあるのも特徴的です。
いくつかある紹介所は、風俗情報誌を見せながら、お勧めの店を紹介するというものです。
滋賀県特殊浴場協会の事務所。協会が運営する「雄琴ソープランド情報公式サイト」のトップページには、「無料案内所の利用はやめましょう」と書かれています。どうやら、無料紹介所は、協会加盟ではないようです。
今回は、雄琴(滋賀県)の町並みを散歩します。
はじめに、雄琴港に立ち寄りました。雄琴港は、琵琶湖に面し、釣りやヨットを楽しめる観光スポットです。雄琴温泉が隣接しており、家族づれの宿泊客観光客で賑わっています。
港からは、比叡山を望むことができます。バス釣りのスポットとしても有名です。
ヨットが停泊しています。
雄琴港からは、雄琴のソープ街が見えます。観光地にソープ街が隣接している不思議な光景です。
古い町並みが保存されている橋本は、牛乳箱の保存状態も良好です。
森永の牛乳箱は、保存状態の良いものが少ないのですが、こちらの牛乳箱は、エンゼルマークの部分もしっかりと残っています。郵便ポストの下に設置されたため、日焼けをまぬがれたのかもしれません。
明治牛乳の青色の牛乳箱。
八幡牛乳の緑色の牛乳箱。八幡乳業は、地元の牛乳メーカーです。
別のお宅の八幡牛乳の牛乳箱。木の壁に木製牛乳箱がよくマッチしています。
街道沿いの旅館街の先に、橋本湯があります。
レトロな作りの入り口です。
玄関は、赤いタイルで装飾されています。
裏側にまわってみました。川の風景に煙突がよく似合います。
街道沿いにある多津美旅館。正面の看板は、多津美の津の字が欠落してしまっていますが、右側の看板には、「淀川温泉 旅館 多津美」と書かれています。
旅館の外壁には、規模は小さいですが、美しいステンドグラスがはめ込まれています。
旅館の玄関には、金の襖があります。
玄関の左側には、ダンスを踊る男女のステンドグラスがあります。
駅前にある旅館。京阪電車踏み切りのすぐそばにあります。
橋本は京街道の宿場町としての機能も持っていました。京街道沿いに風情のある旅館の建物が残っています。
橋本は、江戸時代から遊廓でしたが、明治初年に東京遷都により、徐々に衰退、人口も減少しましたが、明治21年に遊廓を再興し、京阪電車の開通とともに、再び繁盛しました。*1
大谷川から見た旅館街の裏手。川の流れに旅館の建物がよく似合います。右側には淀川の堤防があります。
*1 渡会恵介:京の花街(大陸書房,1977)P.276
今回は、橋本(京都府八幡市)の町並みと風俗を散歩します。橋本は、京都府八幡市の西部に位置し、西側には木津川・宇治川・桂川の三川が流れていて、橋本付近でそれぞれの川が合流し、淀川となります。
大阪方面行き改札口前には、かつて橋本の渡しがあった名残として、「橋本渡舟場 三丁」、「山崎停車場 十丁」、「柳谷観音 一里一丁」と場所と距離が書かれた石柱があります。
駅前に地図が掲示してあります。駅前には、洋食の店「やをりき」をはじめ数軒の商店があります。大谷川方面へ行くと、松永歯科医院、淀川温泉「多津美旅館」、銭湯の「橋本湯」などがあります。
踏み切りに「しゃだんきをくぐってはいけません。」の看板。子供向けに書かれています。たぶん大人達がしゃだんきをくぐるので、それを真似する子供が危険にさらされているのだと思います。
「きんせい」という名のビリヤード店。その脇に路地があります。
家と家の間の空間に屋根のある路地が続いています。
路地は、家の中を突き抜けて、通りに出て、その通りを越えた先に、さらに路地が続いています。まるで迷宮のようです。
路地はコの字型になっていて、ぐるっと回ると元の通りに出ます。家の車庫のように見えたところは、実は、通り抜けできる私有地の路地でした。
東柳町周辺には、往時の町並みを残す旅館の建物が残っています。
壁の装飾に特徴があります。
「赤線跡を歩く」に写真が掲載されてる円柱を持つ建物*1 があった場所は、今では、住宅地になっています。
風情のある旅館「まつば」の入口。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.107
中書島の駅舎の2階からの眺め。瓦屋根に銭湯の煙突がよく似合ってます。
新地湯という名前の銭湯は、駅前の商店街にありました。建物の2階部分の装飾がレトロな雰囲気をかもし出しています。
関西の銭湯は、煙突が太く、迫力があります。
伏見の名水で沸かした銭湯です。
今回は、中書島(京都府)の町並みと風俗を散歩します。京阪電車で中書島駅で下車します。
京阪電車のこの色が気に入りました。車両もユニークです。ラッシュ時は5扉電車ですが、閑散時間帯は2扉を閉め切って格納していた座席を戻して、座席定員を増やす離れ業ができます。*1
中書島は、高浜虚子の句に「花人の落合ふ駅や中書島」と詠まれ、京阪本線と京阪宇治線の分岐点でもあります。
中書島は、寺田屋や伏見の酒蔵群など、観光地として有名です。
【参考URL】
*1 京阪電気鉄道(株):車両資料館
広沢池近くの珍石をよく観察してみることにします。
黒い男性器。ペニスに観音様が描かれています。
赤い男性器。玉袋のフサフサ感がリアルに再現されています。
赤い女性器。両側に観音様が描かれています。
黒い女性器。こちらは、仏足石のようです。上部の平らな部分に、仏様の足の裏が描かれています。
ところで、なぜ、このような珍石がなぜこの場所に置かれているかについてですが、この付近の土地の所有者が石材屋を経営しており、未加工の石材や加工した石灯籠や石柱、置物などを置いているものだそうです。ちんこまんこ石は、商売のために制作し、主に温泉地や風俗店に納入していますが、商売で余った石たちをこの場所に置いているそうです。*1
【参考URL】
*1 怪しげ探検隊:エログロ調査報告集「チンマン王国」
広沢池から自転車で5分ほど鳴滝方面へ向かったところに珍石があります。写真に写っているレンタサイルクルの自転車が置いてある道路沿いから10mほど林の中に入ったところです。
「不許葷辛酒肉入山門」と書かれた石碑があります。この石碑は、銀閣寺の南に法然院などで見かける石碑と同じです。「不許葷辛酒肉入山門」(くんしんしゅにく、山門に入るを許さず)とは、「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉などなまぐさものを食べたもの、酒を飲んだものは、山門に入るのを禁止する」という意味だそうです。
しかし、ここは、お寺ではなさそうです。地図を見ると、造園家のお宅があるあたりです。
林の中には、女性器と男性器の形の奇妙な石がたくさん並んでいます。
嵯峨嵐山駅からレンタサイクルに乗ってで嵯峨野を散歩します。美しい田園風景がひろがります。嵯峨野は、歴史的風土特別保護地区に指定されています。写真に写っている自転車は、レンタサイクルです。
府道宇多野嵐山山田線を東へ行くと、広沢池に到着します。
広沢池は、日本三沢の一つと言われます。奈良の猿沢池、大分県宇佐市の初沢池、そして広沢池です。
広沢池は、朝霧が立ち昇るときの風景がすばらしいと言われます。今回、訪れたのは昼ですが、十分に幻想的で美しい風景です。
今回は、嵯峨野(京都府)の町並みと風俗を散歩します。
嵯峨野へは、四条大宮駅から嵐電(京福電鉄)に乗って行く事にします。「嵐電1日フリーきっぷ」を購入しました。
途中、西院駅で下車し、西院車庫の横を走る嵐電を撮影しました。
山ノ内駅で下車。このあたりは、道路併用軌道の区間です。市電と同じ光景です。
嵯峨駅前で下車し、JR嵯峨嵐山駅へ向かいます。トロッコ列車に乗る観光客で賑わっています。レンタサイクルの看板があります。ここからは、自転車で嵯峨野を散歩することとします。
宮川町の北側の亀井町。
軒下に「居住者見取図」が掲げられている古い建物のお宅。
玄関脇に雪印牛乳の牛乳箱が設置されています。
こちらは、井上牛乳の牛乳箱。府立病院指定と書かれているのが特徴です。井上乳業は、右京区花園に本社がありましたが、現在は廃業しています。
毎日牛乳の牛乳箱。「毎日のんで毎日健康」がキャッチフレーズです。
宮川筋7丁目に手押しポンプが2基残るお宅があります。 花壇、植木ポット、雨樋、ひさし等風情があります。
植木ポットに囲まれて、井戸ポンプがあります。
ポンプは鴨川の伏流水を汲み上げ、道路散水、花への水やり等に利用されています。*1
株式会社慶和製作所*2 の井戸ポンプ
もう一つのポンプは色が黄色に塗られています。
【参考文献】
*1 大島忠剛:手押しポンプ探訪録(信山社,2006)P.128-P.129
【参考文献】
*2 株式会社慶和製作所:慶和製作所ホームページ
木造の風情のあるお茶屋が並ぶ中、「舞香」という看板のある変身処があります。
舞妓変身サービスは、雑誌の記事に紹介されています。
店の前には座布団が置かれています。変身した舞妓さんがここに座るのかもしれません。
店の前の張り紙には、「変身してお散歩されるお客様は、喫煙、飲食、寄り道は、しないで下さい。花街の風情を壊すような行動は謹んで下さい。」と書かれています。たしかに、10代の少女でしかなれない舞妓が喫煙をするのは、つじつまが合いません。
今回は、宮川町(京都市東山区)の町並みと風俗を散歩します。
宮川筋三丁目から六丁目の市街地は、お茶屋が建ち並び江戸情緒ある通りで、京都市は平成11年に歴史的景観保全修景地区に指定しました。祇園甲部界隈に比べ、観光客は少なく静かに散策できる場所でもあります。*1
宮川筋の四条・五条間の南北約800メートル、東西最大150メートルの細長い地が、宮川町遊廓の区域いでした。具体的には、宮川筋二丁目から六丁目までが宝暦元年(1752年)に遊廓地の指定を受け、宮川筋七丁目が安政6年(1859年)に遊廓地に編入されました。*2
写真は、現在の宮川筋2丁目付近から3~4丁目方向を見たところですが、現在は、宮川筋2丁目~4丁目付近が花街となっていて、お茶屋さんが建ち並んでいます。
お茶屋さんのプレート。
宮川筋七丁目付近までくると、花街の風情は無くなりますが、スナックや寿司屋などが散在しています。(写真は、八丁目付近から七丁目方向を見たところ)
【参考文献】
*1 相原恭子:京都 舞妓と芸妓の奥座敷(文藝春秋,2001)P.22
*2 明田鉄男:日本花街史(雄山閣出版,1990)P.101-P.103
五条楽園の中にある旅館「平岩」。
玄関は南側です。
現在は、外国人観光客用の観光旅館になっているようです。
東側の通り。
五条楽園の近くに任天堂旧本社ビルが当時のままで保存されています。任天堂と言えば、現在では、ファミコンの企業として有名ですが、創業は五条楽園のすぐそばだったとは知りませんでした。
タイルが美しい建物です。
入口に「山内任天堂」と書かれたプレートがあります。最初は、トランプとかるたの会社から始まったようです。プレートは、右から左に書かれていますが、「トランプ」の文字だけ左から書かれています。
横から見ると、建物は、3つの部分に分かれています。かなり奥行きのある建物です。真ん中の建物が建築的に最も美しいように思います。
五条楽園には、木製牛乳箱が沢山あります。但し、販売店が頑張ったせいか、なぜか森永ばっかりです。
旅館HIRAIWAにあった森永の牛乳箱。日に焼けて印刷が見えなくなっています。森永の牛乳箱は日焼けに弱いようです。
同型の牛乳箱。横に森永マミーと書かれています。森永マミーは昭和40年に発売が開始された乳酸菌飲料です。当時は90ccのビンに入っていて、「森永マミーもう1本プレゼント」は、キャップを利用した現品引き換えによるスピードくじで、注目されました。*1
ウルトラプロセスの文字だけが残っている森永の牛乳箱。黒インクは日焼けに強いのでしょうか。
森永ビヒダスの牛乳箱。こちらは、新しい牛乳箱のため、保存状態は良好です。
【参考文献】
*1 森永乳業50年史編纂委員会:森永乳業五十年史(森永乳業,1967)P.300-301
五条楽園には、タイルで装飾された洋風の建物が数多くあります。緑や赤など色合いが鮮やかです。
円柱のタイルを持つ建物。
タイルで装飾された玄関。
お茶屋のプレート。
六軒橋周辺の広場に面して「本家三友(旧三友楼)」があります。
五条楽園の中では最大級の建物です。
新緑に木造建築が映えます。
お茶屋のプレート。
五条楽園のお茶屋は、路地の中にひっそりと佇んでいます。お茶屋「八千代」のある通り。
営業中のお茶屋の入口には提灯と暖簾が掲げられています。
六軒橋の近くの開けた場所にあるお茶屋。
洋風のお茶屋の建物の提灯。
五条楽園の中心街。
今回は五条(京都市下京区)の町並みと風俗を散歩します。
五条大橋の西側に高瀬川が流れています。すぐ近くに「五条楽園」の看板があり、そこが楽園の入口であることがわかります。
木々の緑が美しい流れです。
高瀬川は、豊臣秀吉の天下統一後、資材の運搬のためにつくられた水路(運河)です。案内板には、五条ー七条間に架かる橋は、人が橋の下を通れるように高くしてあって、中でも、六軒橋、上の口橋は階段式(10段ほどの石段)であったと説明されています。
その上の口橋ですが、現在は「五条楽園」の大きなアーチがあって、五条楽園の象徴的な場所の一つになっています。
水戸市街は、中央が盛り上がった馬の背のような地形をしており、そこから坂を下ったところに奈良屋町があります。「赤線跡を歩く」に掲載されている「坂の途中にあった『弘月』」*1 は、今は無く、駐車場になっていました。
水戸の繁華街から別の道を下ったところにある建物。角が丸くなっているのが特徴です。落書きされているのが残念です。
そのすぐ近で道は二股に分かれます。
緑のある東照宮方面と水戸市街(写真の左側)は、共に、標高が高く、このあたりが窪地であることがわかります。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.159
奈良屋町の路地にある旅館「ほおずき」。古い自動販売機があります。
さらに、その隣に雰囲気のあるお宅があります。
よく見ると、「二十歳未満のお客様の店内立入を堅くお断りいたします」のプレートが貼られています。以前、古河市ので見かけたプレート*1 と同じものです。「赤線跡を歩く」に掲載されている「桂願寺門前の飲み屋横丁跡の写真」*2 にも同じプレートが見かけられます。たぶん茨城県共通仕様のプレートだと思います。
プレートの下部には、「水戸警察署水戸料飲支部」と書かれています。
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.160
【関連記事】
*1 中央町の飲食店(風俗散歩 2006,3)
奈良屋町(現在の宮町)は、カフェー街であったそうです。
「赤線跡を歩く」に掲載されていた「往時のたたずまいをとどめるお宅」は、今は無くなって、駐車場になっています。
料理屋だったと思われる建物。
「料理店」のプレートがあります。
国道118号線に面したビルの脇に、旧町名を示す石柱があります。石柱の側面に、次のような谷中の地名の由来の説明があります。「地形が谷間であったためにつけられた常葉村の小字名で、享保の頃、城下町と町続きになった。明治22年市制施行に当たり、水戸市に編入された。」
「赤線跡を歩く」に写真が掲載されていた「通りの奥に残る建物」*1 は、今はありません。かろうじて、「路地をはさんで向かいにある旅館」が今も残っていました。
「路地をはさんで向かいにある旅館」は、「喜楽荘」という名の立派な旅館です。
「喜楽荘」のある桂岸寺の西側(回天神社の前あたり)に、料亭や待合が並んでいたのだと思います。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.161
水戸駅前から茨城大学行きのバスに乗ります。バスは、大工町から右に曲がり、国道118号線へ入ります。末広町三丁目で下車したところに、桂岸寺があります。「赤線跡を歩く」*1 に掲載されている写真に、「桂願寺門前の飲み屋横丁跡」とのコメントが付けられていますが、石柱は、「桂願寺」ではなく、「桂岸寺」となっています。
桂岸寺周辺(市の北西部)を、ロマンチックゾーンと呼ぶそうです。「赤線跡を歩く」*1 には、「水戸には、大工町と竹隈町に花街があり、のちに市の西方、練兵場近くの近くの料理屋にも芸者が入るようになり、谷中花街が生まれた。」と書かれています。
案内板に、次のような解説があります。
「市街地の北西部、水戸八幡宮から曝井(さらしい)の一帯に、太古の昔から近代までの歴史的遺産が、あたかも時の流れを忘れたかのようにその姿を止めている。訪れる人々の心に安らぎを与えてくれる恵まれた緑と湧き水。また、古くから寺町・花街として栄えた商業地が広がり、古い店舗や土蔵が見られ、昔の栄華を今なお偲ぶことができる。この辺りを水戸のロマンチックゾーンと呼ぶ。」
案内板にある「花街」は、谷中花街のことを言っているものと思われます。
桂岸寺の隣にある回天神社には、格さんの墓があります。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(ちくま書房,2002)P.160-163
今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
水戸駅から徒歩5分のところにある宮下銀座商店街は、昭和37年の東照宮再建の際に整備された商店街でした。*1
昭和37年頃は、アーケードはまだ無く、よしずのようなひさしが掛かっていましたが、青果店、レストラン、電器店、さまざまな店が立ち並び、市場のような雰囲気で、宮下銀座をめぐれば、揃わないものは無いといわれるほど品揃えも豊富でした。*1
光があまり差し込まないため、昼でも薄暗く、ディープな雰囲気です。
東照宮の石段から見下ろしたアーケードの突端部分。
利根川は、このあたりは川幅が広いので、川というよりは湖のようです。護岸は、コンクリートで固められています。
河口(太平洋)の方向には、銚子大橋が見えます。
護岸には、ヨットがたくさん引き上げられています。
護岸の近くは芝生の公園になっていて、お年寄りがゲートボールを楽しんでいます。
結婚式場「モアパーク」の隣に広い駐車場がありますが、ここには、龍宮城と形容された二軒の妓楼(松岸遊廓)がありました。*1
松岸遊廓の最盛期は、銚子汽船と総武線開通によって客の範囲の広がった明治後期から大正期で、明治5年(1872)の資料によると貸座敷4軒が営業し、娼妓数は64名でした。*2
昭和40年頃までは建物が残っていたそうです。ひと頃、演芸ホールに改装されて芝居や歌謡ショーの興行がおこなれていたこともありました。*1
別の角度からも撮影してみました。
る護岸は後年できたもので、以前は妓楼のすぐ下までおだやかな利根川の流れが打ち寄せ、建物の周りには掘割がめぐらされていました。*1
龍宮城の雰囲気を味わいたいと思い、利根川の桟橋から妓楼跡を眺めてみました。
「全国花街めぐり」*3 では、『青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のごとく一大楼閣の浮き上がってくるのを望んだとき、「まるで繪(ゑ、かい)のやうだね」「(まるで)龍宮といった態(かたち)だね。」、誰しもそう言って歓喜のこえを放つのである。』と紹介されています。
P.118
昭和40年頃までは建物が残っていた。(写真:2軒の妓楼はこのあたりに…
P.73
良福寺の過去帳に遊女の記載が初めてあらわれるのは享保9年(1724)の…
その一すぢ青い水線の上にポッカリと、宛(さなが)ら蜃気楼(しんきろう)のご…
今回は、松岸(千葉県銚子市)の町並みと風俗を散歩します。
JR松岸駅は、総武本線銚子駅の一つ隣の駅です。駅から利根川の方向へ10分ほど歩くと、「松岸町北」と書かれた信号のある交差点に出ます。八百屋や薬局などの商店が何軒かある以外は、特に目立ったものはありません。
近くにあった煙草屋。カラフルなタイルが印象的ですが、休業中のようです。
しばらく行くと、前方に利根川が見えてきます。同時に、壮大な王宮のようなピンク色の建物が左手に現れます。
制服を着た若い女性が玄関の掃除をしています。どうやら、ピンクの建物は、「モアパーク」という名の結婚式場のようです。
神田駅西口近くの路地。
コスプレ焼肉「OK牧場」があります。
ガッツ石松さんが流行らせた「OK牧場!(私もあなたもOK)」を思い出します。
メイド服等のコスプレ姿のおねえさんが席の隣に座って、焼肉を食べさせてくれるそうです。
風俗店ではないのに、なぜか、18歳未満入店お断りです。
神田には、ビデオ鑑賞店が密集しています。
「ホテルがライバル」と書かれた大型のビデオ鑑賞店。
「太郎と花子」。新種のビデオ鑑賞の店でしょうか。
詳しい説明があります。
神田はパチンコの町です。神田駅西口の改札口を出ると、まず目につくのが、パチンコ店の広告です。
西口近くのゲーム店。お店入口のオブジェがボコボコにされていて、ちょっと可愛そう。
スロット専門店の「GOLD」。ここのお店の女性従業員の制服は、白のジャッケットに黒の超ミニスカートです。
「でちゃう!ガールズ(略称:でちゃガ)」というパチンコガールのおねえさんが来店する日があります。写真のミニスカの制服を着た女の子が来店し、お客様を応援するというタイアップ企画で、おしぼりやキャンディーのサービスがある模様です。
今回は、神田(東京都)の町並みと風俗を散歩します。南口の交差点から見た神田駅。中央線の高架を挟んで、両側に商店街が並びます。
最近はあまり見かけませんが、このあたりには、夜になるとアジア人のマッサージ嬢が出現していました。
駅前に、「違法客引取締中」の看板があります。看板は新しく、最近、設置された模様です。韓国語、中国語でも書かれています。
西口にも同じ看板があります。
西口にある古いバージョンの看板。「神田の街から違法エステを追放しよう!」と書かれています。かなりくたびれていますが、「違法エステ」という具体的な業種名が示されており(しかも赤字で強調)、かつての神田の状況を伝えています。
JR早川駅。前小田原駅の一つ隣の駅
駅前に白ポストがあります。
投函口は水色に塗られています。
箱の側面に「青少年に有害な本はこのポストへ」の表記。取り出し口は箱の側面下部にあります。