吉原弁財天の花吉原名残碑のあるあたり。最近、。椅子とテーブルが設置され、ここで、ゆっくりとできるようになりました。

テーブル近くにある「大震火災十週年記念月桂樹」の碑。※1

昭和7(1932)年3月に、水常楼の伊藤常吉が寄進しています。

月桂樹。

吉原弁財天の花吉原名残碑のあるあたり。最近、。椅子とテーブルが設置され、ここで、ゆっくりとできるようになりました。

テーブル近くにある「大震火災十週年記念月桂樹」の碑。※1

昭和7(1932)年3月に、水常楼の伊藤常吉が寄進しています。

月桂樹。

吉原弁財天の入口にある水常楼伊藤常吉が寄進玉垣。その大きさから、吉原の実力者であったことが解ります。

「水常」と刻まれた石柱が建つあたりには、さまざま石碑が密集しています。水常楼伊藤常吉が関係している石碑群と思われます。

奥にある吉原講の石碑。
伊藤常吉は、吉原を仕切った大物で、大雄山二十一丁目星宿燈を建てました。*1※1

十七回忌追善碑。※2
発起人に、伊藤常吉の名があります。

参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
桜鍋料理の「中江」※1 や「土手の伊勢屋」※2などの名店が建ち並ぶ土手通り※3※4。

とんかつ専門店の美乃屋。

落ち着ける店内。

かつ丼とビールを注文。
かつ丼は。さやえんどう、しいたけなども入っていて絶品です。

大雄山最乗寺境内の多宝塔への登り口の近くに、大きな石碑が2つ並んでいる場所があります。

石碑の裏側に、二十八丁目星宿燈があります。一丁目から数え歩いて最後の星宿燈です。

東京市浅草新吉原中米(なかごめ)楼と刻まれています。
二十八丁目星宿燈を建てた中米楼は、吉原の道了信仰の指導的立場にありました。*1
中米楼の関係者が出版した本として『吉原夜話』(青蛙房,1964)があります。初代市川猿之助(1855-1922、)の妻である吉原妓楼(中米楼)の女主人・喜熨斗古登子が、幕末から明治にかけての吉原の様子について口述したものです。*2*3

森の中に、苔に覆われた星宿燈が建つ姿は、幻想的です。

参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
P.164
俳優の関係者が出版した本として『吉原夜話』(1964・青蛙房)が…
母は自分の名を琴ともまた古登も書いていましたが、晩年、私がよくもらう手紙に…
仁王門から「天狗のこみち」を歩くこと数十分。道了尊バス停の手前で道路に合流します。

参二十一丁目の星宿燈。「参」は星座の名前です。

水常楼伊藤常吉が建てた星宿燈。伊藤常吉は、吉原を仕切った大物でした。吉原各所の石造物に名を残しています。*1※1

星宿燈は古く、苔の緑に覆われています。

参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
仁王門を過ぎ、さらに参道を進むと、やがて「てんぐのこみち」と名付けられた遊歩道に入ります。杉林の中を曲がりくねる坂道を登っていくと、100mおきぐらいに古びた石の道標が建っています。
石の道標の表面には一丁目から二十八丁目までが記され、人々に道程を知らせています。これらの道標はお寺が発行した古い案内書には「星宿燈」と紹介されています。*1

十一番目の道標。
寄進者の「新吉原江戸町二丁目 元鴨井楼 鴨志田かね」の名が刻まれています。

十一番目であることを示す「十一丁目」と刻まれたその上にもう一文字「虚」という漢字が冠されています。
これは、日本や中国で用いていた古い星座(星宿)名です。*1

上部に四角い口を開け、背中にも丸い穴があるので、かつては桟をはめ、灯をともして、道のありかを知らせる石灯籠だったとわかります。*1

仁王門前左側にある道了大薩埵碑。道了大薩埵(どうりょうだいさった)は、大雄山最乗寺の守護神。

台石に、「新吉原講」と大きく刻まれています。
吉原道了尊参拝の講の人たちが道標を建立したことがわかります。*1

道標の後ろ側に、由緒を示す石碑が建っています。

石碑の銘文を要約すると、遊廓吉原が開かれた元和年間に吉原講が結成され、以来、大雄山に詣でていて、天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建したが、その道標が明治35年の海嘯(かいしょう)で崩壊したため、36年に松田に再建したということです。吉原講がかなり古くからも有力な講であったことが解ります。明治40年の星宿燈建立※1も、この吉原講が行ったと考えられます。*1

吉原講は、吉原遊廓が開かれた元和年間に結成され、以来、大雄山に詣でていました。天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建、さらに明治36年に松田に再建されました。明治40年の星宿燈建立も、この吉原講が行ったと考えられています。*1
P.30
参道四丁目の仁王門の前には高さ2mを超える大きな石の道標が参道をはさ…
大雄山駅から最乗寺へ向かう道を1kmほど行くと、道了尊仁王門があります。(道了尊は最乗寺の別名です。)

階段脇に案内板があります。

仁王門があるこの場所までは、道路を歩きますが、仁王門から先は「天狗の小径」と呼ばれる杉林の中の参道が分岐していて、歩いて登ることもできます。参道には、一丁目から二十八丁目までを数える道標(二十八宿石燈籠)が建っています。

二十八宿石燈籠は、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道しるべです。一丁目から二十八丁目の道程を知らせるとともに、宵祭りの参道を照らし参拝者を安全に導く燈籠として設けられたものです。燈籠は、元治元年(1864年)小田原誠信社中、及び明治40年(1907)東京浅草新吉原講中によって建てられました。
仁王門から最乗寺へは、およそ2kmの道のりです。

今回は、大雄山(だいゆうざん、神奈川県南足柄市)の町並みを散歩します。

伊豆箱根鉄道大雄山線の終着駅の大雄山駅。電車はここで折り返して小田原へ戻っていきます。

大雄山線には、長年(1962年-1996年)にわたり「赤電」の名で親しまれた「150系電車」がありましたが、創立100周年を迎えた2016年に、復刻版の運行が開始されました。*1

車両前面の「小田原←→大雄山」の行先系統板。 いい味出してます。

東京都台東区橋場2丁目にある「平賀源内の墓」の石碑。

実際の墓所は、ここから1本南側の通り沿いにあります。

平賀源内といえば、「エレキテル(摩擦起電機)」を復元制作したことで有名ですが、文筆においても実績を残しており、後の式亭三馬や十返舎一九にも影響を及ぼした戯作の開祖として評価されています。*1
案内板より:
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる。高松藩士白石良房の三男で名は国倫(くにとも)。源内は通称である。寛永2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学、医学、儒学、絵学を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。 物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などを行ない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火かん布(かかんぷ)(石綿耐火布)を発明した。一方で風来山人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名を持ち、「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの滑稽本や浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)などの作品を残している。

源内の文筆における代表作である「風流志道軒伝」は、主人公が巨人国、小人国、女護島、などを遍歴するもので、「ガリヴァー旅行記」を思わせる風刺とファンタジーの快作と評されています。*1
