白浜新地には、当時の料亭か遊廓だったと思われる建物が2軒残っています。
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見事な木造建築です。
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現在はアパートとして使われているようです。
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横から見ると、内部に中庭を有する構造であることが解ります。
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白浜新地には、当時の料亭か遊廓だったと思われる建物が2軒残っています。
見事な木造建築です。
現在はアパートとして使われているようです。
横から見ると、内部に中庭を有する構造であることが解ります。
白浜新地は、大正13年(1924年)に検番ができたのが、始まりで、翌大正14年(1925年)には、最初の置屋兼料亭ができました。*1
電柱に「新地」と書かれたプレートがありますので、この付近が白浜新地だったようです。
元料亭と想われる建物。
現役も営業中の料理店もあります。
【参考文献】
*1 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340-P.341
Tags:白浜/和歌山県
今回は、白浜(和歌山県西牟婁郡白浜町)の町並みと風俗を散歩します。
白浜温泉は、和歌山県の南西に位置する近畿で最も有名な温泉で、海水浴場もあります。
「魚政」(写真手前)は、昭和初期から続く老舗で、当時、浜通りには、「中村屋」「魚政」「大野屋」「温泉堂」「アシベ料亭」と商店が並んでいました。*1
現在は、温泉旅館とスナックが混在する町並みになっています。
白浜館は、白浜の開発が行われた大正時代からの歴史を誇り、美しい白良浜と大量の温泉にめぐまれ温泉地でした。しかし、何もない温泉地のただ1軒の旅館ではなんのメリットもないことから、田辺新地の置屋に依頼し、客が入ったとき、巡航船で芸妓を送ってもらうようになりました。しかし、これでは長続きせず、大正13年に検番を建て、1週間交代で数名の芸妓をここに宿泊させることにしました。これが白浜検番のはじまりで、昭和に入り、白浜新地が開発されることになりました。*2
【参考文献】
*1 白浜町誌編纂委員会:町のあゆみ 白浜町誌紀要. no.4 (白浜町誌編纂委員会,1981)口絵A
*2 白浜町誌編さん委員会:白浜町誌.本編下巻1(白浜町,1984)P.340
紀伊田辺の市街を流れる会津川の中州の東側に小さな水路流れています。
母屋が密集しています。
水路に張り出すように建ち並んでいます。
表側は、ごく普通の住宅街です。
田辺新地には、現在も料亭として営業中の情緒ある建物が残っています。
「ぼんぼり」をイメージしたデザイン。
古い建物が並ぶあたり。
洋風の建物もあります。
田辺検番の芸妓・舞妓は、明治2年頃には約30名、明治末~昭和初めには120~140名で、舞踏、三味線など、田辺検番は紀州で最も優秀とされました。*1
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
紀伊田辺は、古くから栄えた町だけに、昔のままの建物が多く残ります。駅周辺は地方都市らしく賑わう町ですが、奥へ踏み込むと情緒ある町並みがひろがります。
田辺新地は、大正6年、周囲に散在していた置屋や移転集合することによって出来上がりました。*1
田辺新地のゲートのところに古い建物があります。
1階はタバコ屋さんになっています。
タイル張りの壁が何ともレトロモダンです。
【参考文献】
*1 田辺商工会議所:熊野検定(田辺商工会議所,2009)P.81
今回は、紀伊田辺(和歌山県田辺市)の町並みと風俗を散歩します。
紀伊田辺は、JR和歌山駅から特急電車で約1時間の位置にある南紀地方の主要都市です。
駅前に「味小路」と呼ばれる飲食街があります。
飲食店の看板。
細い路地に看板が密集しています。
大久保駅前の病院。駅からもカラフルな看板が見えます。
細い路地にひっそりと病院があります。
看板は、大きくて目立ちます。
どこにあるかわからないほど小さく目立たない入口です。
大久保駅近くの住宅地街に、一軒の旅館があります。
風情のあるネオン管です。「旅荘」という呼び方も味わいがあります。
落ち着いた雰囲気の外観。
和風の玄関の装飾。
90年代、大久保は急増する外国人アパート需要と多発するトラブルで、外国人を受け入れるアパートは限定されていましたが、現在は外国人を歓迎する町に生まれ変わっています。町のあちこちに、「外国人OK」の看板があります。*1
不動産会社にとって、外国人はお客様です。*1
教科書会社が入っているビルの2階にある外国人OKの歯科医院。
外国人OKのワンルームマンション。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.55,P.69
大久保の町にラブホテル(当時の「連れ込み宿」)が進出したのは、1960年頃からでした。背景としては、1957年に売春防止法が施行されたことがあげられます。新宿二丁目で営業していた特殊飲食街の経営者がホテル業へ転業し、歌舞伎町から職安通りを超えて大久保にまで流れ込んできました。*1
「同伴旅館(ラブホテル)をどんなとこに建てたらよくはやるか、昔からジンクスがあって、墓地か病院のそばか、さもなくば質屋の真向かいだったら繁盛間違いなし。」と言われていて、大久保にに進出したホテル経営者も真向かいが墓地の地所を選びました。*2
大久保のラブホテル街には、長光寺と金龍禅寺の2つの寺があり、いずれも細長い墓地を有しています。この墓地の近隣にラブホテルが建ち並んでいます。
写真中央部に見える森が金龍禅寺の墓地です。墓地は南側に細長く伸びていてその東側(写真左側)に、1990年頃、ラブホテルが建ち並びました。
現在は「大久保の竹下通り」と呼ばれる韓流ショップとラブホテルが混在する町並みとなっています。
【参考文献】
*1 稲葉佳子:オオクボ都市の力(学芸出版社,2008)P.163-P.164
*2 朝倉喬司:ヤクザ・風俗・都市(現代書館,2003)P.62
大久保には100円のコインロッカーがたくさんあります。ざっと見て回っただけでも10ヶ所ぐらいあります。
大規模なコインロッカー群。すべて100円コインロッカーです。
薬局とコインロッカー。
自販機とコインロッカー
彦左小路裏の通り。
レトロな旅館が2軒建ち並んでいます。
玄関のタイルの円柱。
入口には、「いらっしゃいませ」の看板。
今回は、大久保(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
彦左小路は歌舞伎町の北、職安通りを渡った線路沿いにあった二棟の長屋からなる飲み屋街でした。職安通りには、彦左小路の入口を示す看板の支柱が残されています。(写真左)*1
金網で囲われている彦左小路の跡地。場末酒場の面影はありません。
「おとめ荘」の看板が今も残されています。
このあたり一帯は、道路の拡幅工事が予定されています。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.74-P.75
JR東中野駅近くにある正見寺。
正見寺の墓地に、笠森お仙の墓があります。
笠森お仙は、江戸時代、谷中の笠森稲荷の門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘で、絶世の美人でした。*1
お仙は、幕府の御休息御庭者支配の倉地正之助の妻となったので、現在の倉地家の墓地にお仙の墓があります。
墓碑に倉地家のことが書かれています。
【参考文献】
*1 佐藤要人:江戸水茶屋風俗考(三樹書房,1993)P.160-P.172
新井薬師近く(上高田二丁目)の住宅街。
銭湯の花園湯があります。
コインランドリーとして営業中です。廃業してしまったのでしょうか。
裏側へ回ってみると、解体された煙突が見えました。
新井薬師の門前には、江戸時代から参拝客相手の料理屋が軒を連ねていましたが、関東大震災以前から料理屋と芸妓屋が盛んになり、大正14年に新井三業組合が創立されました。現在の柳通りの商店街の東側(写真の左側)が料亭街で、昭和初期に全盛期を迎えました。*1
現在、花街らしい雰囲気はほとんど残っていません。
芸妓置屋街は、柳通りの西側にありました。三業組合事務所(見番)は、現在の防災広場(写真奥)のあたりにありました。*1
住宅地図に記載されている旅館「おくみ」(現在はありません)は、料亭の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.187-P.188
中野駅の北側。早稲田通り手前に「四十五番街」という飲食街があります。この飲食街の成立は昭和20年代末で、通りに屋台やバラック店舗が並んでいた時代でした。*1
現在、小路の大半は解体され、再開発を待つ状態です。
写真右奥は、中野ブロードウェイマンションです。
朽ちかけた店舗の建物が残っています。
北側の通り。
【参考文献】
*1 藤木TDC、イシワタフミアキ:昭和幻景(ミリオン出版,2009)P.48-P.49
中野駅北口の繁華街「昭和新道」
「アダルトコンビニ」の看板があります。
店の入口のドアは、ランジェリーなどの写真で覆われています。
ココロに染みる名言集。
今回は、中野(東京都中野区)の町並みと風俗を散歩します。
中野新仲見世商店街に、客引き禁止看板が集中して設置されている一画があります。
通りのあちこちに看板が設置されています。看板の下部には、「新仲見世商店会」と書かれています。
狸小路と呼ばれている飲み屋街。看板の下部には、「狸小路商店会」と書かれています。
こちらは、別のデザインの看板。消火器ボックスに隠れて見えづらくなっています。
東武東上線朝霞台駅(JR北朝霞駅)近くの三原2丁目の住宅街に、銭湯の「志木浴場」があります。
銭湯では珍しい男女別々の入口。
女湯入口。
脱衣場にはテレビゲームがあって、ゆっくりくつろげます。
かつての南栄通りには、バーやキャバレーが約70軒ありました。通りの中央部に、1949年に開店した魚屋「魚太」は、南栄通りあったすべてのバー、キャバレーに氷を卸していました。*1
現在、その魚屋「魚太」はありませんが、その名残と思われる商店があります。
レトロな雰囲気の店構え。
ゲームと氷の店です。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.92-P.94
朝鮮戦争の激戦のさなか、朝霞の南栄通りは最も繁栄する時代を迎えました。基地の周辺には米兵相手の大きなキャバレーやクラブがそこかしこにできました。「キャバレー・サンフランシスコ」の跡地には、現在大きなマンションが建っています。*1
現在の朝霞第四中学校の正門前に、大きなマンションが建っていますが、「アメリカンリージョンクラブ」と呼ばれたキャバレーがありました。アメリカ独立記念日の7月4日には打ち上げ花火が上がりました。*2
現在、中華屋とコンビニになっているあたりには、「バー・タイガー」、「バー・ニイト」がありました。*1
「キャバレー・フラミンゴ」があった場所は、駐車場になっています。「キャバレー・フラミンゴ」は南栄第1号のキャバレー(ダンスホール)でした。*1
米軍基地があったおかげで、朝霞には、フランク永井、江利チエミ、雪村いずみ、ダークダックスという当時の新進気鋭の歌手が来ました。*1
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.74-P.75,P.92-P.93,P.104
*2 郷土出版社:目で見る朝霞・志木・新座・和光の100年(郷土出版社,2007)P.91
今回は、朝霞(埼玉県朝霞市)の町並みと風俗を散歩します。
第二次大戦の敗戦(1945年)により、全国各地に米軍が進駐しましたが、朝霞にも米軍が進駐し、建設された米軍基地は「キャンプ・ドレイク」と呼ばれました。
その後、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、全国各地の米軍部隊が入れ替わり立ち替わり朝霞に駐留するようになり、その結果、全国から女性売春者が、米兵の後を追うようにして朝霞に集まってきました。朝霞駅南側の南栄通りは、米兵、夜の女、ポン引き、やくざ、第三国人が闊歩し、売買春は日常茶飯事の世界となっていました。当時の埼玉新聞は、朝霞を「売春の街」(1952.8.7)と報じています。*1
現在の南栄通りの交差点の角に、当時の名残の建物(「バー・コーナー」の跡)が残されています。*1
現在は、看板の文字は読み取れなくなっています。
入口付近。
【参考文献】
*1 中條克俊:君たちに伝えたい朝霞、そこは基地の街だった。(梨の木舎,2006)P.71-P.83
木辻のスーパーの「ビッグナラ」のゲートの近くに、書店があります。
店の壁面は、多数の貼紙で埋め尽くされています。
ほしのあきのポスター。その下に、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」の宮沢賢治の詩、加山雄三さんの三つの「かん」の話など。
DVD、ビデオ、何でもあります。
木辻遊廓跡に銭湯の扇湯があります。
窓の部分にも「扇湯」と書かれています。
風格のある煙突です。
レトロな雰囲気の玄関。
木辻遊廓跡。格子のある古い建物があります。
玄関に、中野牛乳の牛乳箱があります。
中野牛乳は、大正元年に大正牧場として創業。昭和28年に中野牧場に改称。個人経営の牛乳屋として続きましたが、平成3年に廃業しました。奈良町あたりの散策でよく見かける牛乳箱です。三重の中野牛乳*1 とは関係ありません。*2
箱の側面には、特徴のある行書体で「毎度有難う御座います」と書かれています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(伊勢):中野牛乳の牛乳箱(2010.5)
*2 横溝健志:思い出牛乳箱(ビー・エヌ・エヌ新社,2008)P.171
木辻遊廓跡の近くにある称念寺。
称念寺の境内に、たくさんの無縁仏の墓石があります。
これらの墓石の中には、木辻遊廓の遊女たちのものが含まれていると言われています。
裏側。
【参考URL】
*1 奈良県ホームページ:「奈良県人権サイトガイドブック2」木辻遊郭跡と遊女の墓
元林院町の南側に位置する木辻町(きつじまち)には、遊廓がありました。昭和八年(1933年)発行の「大日本職業別明細図 第316号 奈良県」*1 には、木辻遊廓と思われる妓楼の屋号が記されています。
木辻遊廓は、養老2年(718年)に元興寺を建立する際、工人、人足等の足留め策として木辻の地に「奴婢(ぬひ)」(律令制における奴隷)を置いたことが起源で、わが国における最も古い遊廓の一つです。*2
現在、旅館として建物が残っている静観荘は、静観荘は本家岩谷楼です。*3
付近に遊廓の面影はほとんど残っていません。
玄関。
【参考文献】
*1 大日本職業別明細図(東京交通社,1937)
*2 松川二郎:全国花街めぐり(誠文堂,1929)p.535
【参考URL】
*3 Architectural Map「旅館静観荘」
元林院町の路地に「萬玉楼」の建物が、往時の面影をとどめています。
萬玉楼は、元林院町で広く名が知られた芸妓置屋の一つで、絹谷家五世代にわたって引き継がれました。伊藤博文ら政界人や文豪・志賀直哉ら多くの文化人がここで遊芸を楽しんでいます。*1
萬玉楼の基盤は、京都で周旋人から買い求め「歌鶴」と名付けた彦根藩士族の娘で財をなし、作られました。*1
奈良町で現存する最も古い町家の一つです。
【参考文献】
*1 勝部月子:奈良学研究.(8)(2006.1)「萬玉楼」P.107,P.112
今回は、奈良(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
元林院町が花街として形づくられたのは、明治5年、元林院に芸妓置屋(後に娼妓も置く)開業の許可を得た頃からでした。明治維新後、生活困窮者が都市農村を問わずあふれ、それだけでなく、士族制度の崩壊による士族の妻子の身売りもありました。「大枚80両をはたいて買い、それも彦根の士族の娘であった。十八歳、美人。」という触れ込みは、当時の人々に大いなる興味を抱かせました。*1
明治創業の料亭、明秀館のたたずまいが町並みに彩りを添えます。
正面奥の建物は、猿沢池畔にある魚佐旅館ですが、現在は鉄筋コンクリートのホテルになっています。*3
町家の格子や白壁は当時のままです。*3
【参考文献】
*1 勝部月子:花街の成立-奈良元林院の事例を通して(日本文化史研究.通号31,1999)P.45.P.48
*2 学習研究社:週刊日本の町並みNo.7(学習研究社,2004.12)P.16
*3 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.95
大正15年に開園した菖蒲池遊園(あやめ池遊園地)*1 の特徴は、戦前「あやめ新地」という花街が隣接していたことです。場所は、菖蒲池駅の南側です。つまり、駅を挟んで、北側にレジャーランド、南側に歓楽街が立地していたわけです。*2
現在、花街の面影はありませんが、昭和4年に開業したあやめ池温泉の跡地*1 のすぐ隣に古い建物が残っています。
料亭か旅館だったのかもしれません。
1階は改装されて医院になっています。
【参考記事】
*1 風俗散歩(大和西大寺):あやめ池遊園地(2010.6)
【参考文献】
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.240-P.243
大和西大寺から一駅隣の菖蒲池駅の北側に、大正15年あやめ池遊園地が開園しました。大軌(現在の近鉄)が線路買収時に購入した土地を利用したもので、現在の東京ディズニーランドの敷地よりも広大でした。(約50万㎡)*1*2
開園当初の遊園地は、上池と下池の周辺に娯楽施設がつくられました。子どもの汽車、魔法の島、ウォーターシュート、野外劇場などはその代表的なものでしたが、平成16年、惜しまれながら閉園しました。*1
現在の上池周辺。現在、再開発中です。
昭和4年、あやめ池遊園地の拡張計画の一環として、遊園地の南側にあやめ池温泉が開業しました。男女大浴場のほか、娯楽室、小劇場、食堂がありました。あやめ池温泉は、昭和32年頃に廃業し、その後大阪松竹歌劇団(OSK)の学校となり、現在はマンションになっています。*1
*1 奈良市今昔写真集(樹林舎,2008)P.53-P.54
*2 奈良女子大学文学部なら学プロジェクト:大学的奈良ガイド(昭和堂,2009)P.241-P.243
今回は、大和西大寺~菖蒲池(奈良県奈良市)の町並みと風俗を散歩します。
今年は、平城遷都1300年にあたりますが、戦後、この古都奈良の平城京址に突然「西部の街」が出現した時期がありました。
昭和25年、朝鮮戦争が始まると、日米協定に基づく施設「奈良RRセンター(NARA Rest And Recuperation Center)と呼ばれる米軍の慰安施設が建設されました。*1
奈良RRセンターが建設された場所は、旧尼ヶ辻町出屋敷三条通(現在の三条大路三・四・五丁目から尼ヶ辻にかけて)で、RRセンターの中央門は、現在のセキスイの南門あたりにありました。*1
RRセンターの東西300mにわたって、またたく間にカフエ。バー、ギフトショップ、飲食店(パンパン、ポン引き用)キャバレー、写真店、洋服店、ストリップショウ店、靴屋、美容室、射的など、ほとんどがベニヤづくり、しかも毒々しい原色の80軒あまりが並びました。その店のほとんどが「元気回復の狂宴」へのつなぎ役となりました。*1
パンパンと言われた売春婦は、3000人に上り、ほとんどの帰休兵がこの店で商談しました。商談成立後は店の裏に急遽建てられた「パンパンハウス」に迎えられました。「時間」、「一夜」のパンパン商売だけでなく、オンリーと呼ばれる「5日間専属オンリー」の契約をする者も多く、付近だけでなく、奈良市内に多くの「オンリー部屋」での売春も行われました。彼らの「狂宴」は、室内に止まらず、地域の神社の森や物陰が売春の場となり、避妊具が醜く散乱することが常態化する始末でした。*1
【参考文献】
*1 大阪奈良戦争遺跡ガイドマップ2 P.56,P.76-P.78
近鉄線下市口駅に近い商店街に、古い小路があります。小路の入口では居酒屋の店舗が営業中です。
この一画は「下渕マーケット」と呼ばれていたようです。薄暗いアーケードになっていて奥へ続いています。ほとんどの店舗は休業中のようです。
味わい深いアーケード。
小路はL字型に曲がって、もう一方の出口とつながっています。
大峯山の登山口にあたる下市は、かつては吉野郡最大の商都でした。下市市街から洞川方面へ向かう国道309号線を20分ほど歩くと、川沿いに、銭湯の「日の出湯」が見えてきます。
現在の建物は、昭和元年に建てられたもので、玄関周辺のモダンな意匠が目を引きます。*1
残念ながら、この日は臨時休業でした。
日の出湯の前の橋から川辺の町並み。
【参考文献】
*1 松本康治:関西のレトロ銭湯(戎光祥出版,2009)P.88-P.89
洞川温泉は、大峯山(山上ヶ岳)の西麓の標高820mの山間小盆地で、修験道龍泉寺の門前町として発達してきました。*1
江戸時代末期には大規模な旅館が建てられ、沿道に並ぶ旅館には「精進落とし」の客を相手とする遊女などもいて夜遅くまで賑わいました。*1
これは、女人禁制での性の抑圧に耐え、それを乗り越えた修行者たちの一夜妻となることにより、女性もその力にあやかれることであり、洞川にはその名残の遊女宿がありました。修行者との交わりは、豊かな山の力を身体に取り込む営為がありましたが、近代には売春や婚外交渉と見なされ、悲劇も生じました。*2
現在は、温泉街として賑わっています。
旅館街の中心部の本町には、江戸期に存続した花屋徳兵衛の子孫が経営すると思われる花徳旅館があります。*1
洞川の西側に位置するの南ノ町の商家。
【参考文献】
*1 浅香勝輔:歴史がつくった景観(古今書院,1982)P.237-P.238
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.112
今回は、洞川~下市(奈良県吉野郡)の町並みと風俗を散歩します。
2004年7月、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。①熊野信仰の中心地「熊野三山」、②修験道の拠点「吉野、大峯」、③真言密教の根本道場「高野山」の三つの大霊場とこれらを結ぶ「熊野参詣道(三重県、和歌山県)」、「大峯奥駈道(奈良県)」、「高野山町石道(和歌山県)」と呼ばれる参詣道が、世界で2例目の「道」の文化遺産としてユネスコから認定を受けました。*1
大峯山(山上ヶ岳、標高1719m)は、修験道(しゅげんどう)の霊場で、現在も女人禁制を守る山として知らています。女人禁制(にょにんきんせい)とは、狭い意味では信仰にかかわる慣行で、女性に対して社寺や山岳の霊地や祭場への立入りを禁じるもので、山の境界は「女人結界(にょにんけっかい)」と呼ばれました。*2
「女人禁制」は、江戸時代以降、奇妙な性風俗を生み出しました。女性を聖地から排除しておきながら、聖地で修行を終えた男性は、聖地の近くに設けられた遊廓で「精進落とし」と称して買春をしました。*3
「女人禁制」については、「伝統文化」か「女性差別」かの議論が現在も続いています。
山を神聖視し修行の場とする修験道の本質は、険しい山岳を駈けゆく決死行にあります。*1
日本三大荒行のひとつである山上ヶ岳の「西の覗き」は、肩に命綱をかけられ断崖絶壁の上から逆さまに下ろされた状態で合掌しなければならないのですが、その状態でいろいろな訓戒をして、それをよく守るという約束をさせられます。*1*3
「親孝行するかッ!」「奥さんを大事にするかッ!」「女遊びしないかッ!」などの質問に、必死で「ハーイ、ハーイ」と絶叫します。
【参考文献】
*1 伊勢文化舎:聖地巡礼 熊野・吉野・高野山と参詣道(伊勢文化舎,2004)P.23,P.110-P.114
*2 鈴木正崇:女人禁制(吉川弘文館,2002)P.2
*3 源淳子:「女人禁制」Q&A(解放出版社,2005)P.8,P.134
西所沢駅近くの金山町にある弘法の湯。
住宅街の中にある銭湯です。
銭湯の裏側にある水門。市街地を流れる東川が流れています。
脱衣場には、洗濯機が3台、乾燥機が2台。
旧銀座通り(小金井街道)に面して「盃横丁」の入口があります。入口には、「男はつらいよ」の映画の看板。
横丁へ入ると、こんどは「エレキの若大将」の映画看板。
南側は、高層マンションがせまっています。
石原裕次郎さん主演の「夜霧よ今夜もありがとう」の映画看板。
所沢は、江戸時代に綿織物の集散地として栄え、国内初の飛行場ができたことでも知られます。旧市街地・銀座通りに並行するように流れる東川沿いには、かつて浦町とよばれ、花街でした。*1
現在、かつての浦町は静かな住宅街となっていますが、華やいだ昔をしのばせる建物が今も残っています。*1
矢羽根の戸袋などに、往時の名残を見ることができます。*1
屋号の「三好亭」の文字が残っています。
【参考文献】
*1 朝日新聞さいたま総局:さいたま文学紀行 作家たちの描いた風景(さきたま出版会,2009)p.148-P.149
今回は、所沢(埼玉県所沢市)の町並みと風俗を散歩します。
小金井街道沿いは、高層マンションが建ち並ぶ一画ですが、そこから一歩北側に入ったかつて浦町と呼ばれたあたりには、現在も食堂や飲食店などの古い建物が残っています。
高層マンションと木造家屋が混在する特異な景観です。
焼肉店の建物。
この界隈も、やがては高層マンションの町並みにのみこまれてしまうのでしょうか。
浜島のバス停近くに、休業したスナックがあります。
大きな文字で「蘭」と書かれてあります。
ヌードショーの看板があります。ストリップ劇場だったようです。
入り口には、三重県の「バー」のプレートがありました。
浜島の商店街には、レトロは理容室がたくさんあります。
Y字路にある理容室とパーマ屋さん。
鮮やかな緑色に塗られています。
こじんまりとした建物ですが、いい雰囲気です。
商店街から一本入いると、スナックや飲食店が連なる路地があります。
和洋折衷の建物です。
スナックの看板が掲げられた和風の木造家屋。
飲食店と古い木造の建物が混在しています。
浜島の商店街の奥まったところにある銭湯の松波湯。
まるで妓楼のような建物です。ピンク色に塗られています。
玄関付近。
現在は、休業している模様です。
戦国時代、浜島城主の小野田筑後は、九鬼水軍の九鬼嘉隆に随身しましたが、そのときに残した兵士の子女が船員相手の洗濯を請け負ったことが春を売ることに変化し「はしりかね」となり、明治時代に遊廓になりました。遊廓は、田端楼、一万楼、三光楼、常盤楼、光月楼、吾妻楼、吉川楼、大成楼、のまやの9軒がありました。*1
浜島港に大成楼の建物が現存しています。*2
当時の面影を残す玄関部分。
神社町遊廓(北廓)に対し、浜島遊廓は、南廓と呼ばれていました。
建物の側面部分。
今回は、浜島(三重県志摩市浜島町)の町並みと風俗を散歩します。
浜島は、伊勢志摩の美しい海に囲まれた港町で、温泉が楽しめる旅館や民宿が建ち並びます。
民宿や商店が建ち並ぶメインストリート。
浜島港。この付近に遊廓がありました。
魚市場もあります(写真奥)。
伊勢市駅の北西約4kmにある明野駅付近。参宮道と呼ばれた伊勢参詣の旅人が歩いた道です。
中野牛乳の牛乳箱。両脇には、ヤクルト箱と郵便ポスト。
小さな小川が流れています。古い家に牛乳箱が3つ並んで取り付けられています。
3つの牛乳箱。
柏屋旅館の隣に廃業した銭湯の「新玉湯」の建物があります。銭湯ではめずらしく門柱があります。
門柱に取り付けられたプレート。モダンなデザインです。ここでは「新玉湯」ではなく「新珠湯」と書かれているようです。
門柱に取り付けられた照明器具。
建物は和風ですが、随所に洋風の装飾が施されている建物です。
昭和5年刊行の「全国遊廓案内」によると、神社町遊廓は、承応年間に町内にあった船宿に針仕女(はりしめ)という女を置いたのが初まりで、娼楼は、引本楼、豊盛楼、小田屋、花月楼、誘心楼、愛国楼、真砂楼、美咲楼の8軒がありました。*1
地元のNPO法人「神社みなとまち再生グループ」が作成した案内板によると、この場所は、居酒屋、料理店、商人宿、遊廓などが道の両側に建ち並ぶメインストリートでした。
ここには、引本楼だった建物が数年前まで現存していました*2 が、 現在は新しい住宅に建て変わっています。
裏側から見たところ。
案内板には、「すっかり変わった町通りで昔の面影が残るのは、柏屋旅館(写真奥)他わずかしか稼動していません。」とかつて賑わいぶりが説明されています。
【参考文献】
*1 南博:近代庶民生活誌 第14巻(三一書房,1993)P.112「全国遊廓案内」
*2 忍甲一:近代日本遊廓志稿(日本炎災資料出版,2007)p.741,P.754-P.756
今回は、伊勢(三重県伊勢市)の町並みと風俗を散歩します。
神社(かみやしろ)港は、伊勢市街を流れる勢田川の河口に位置します。
神社港には、江戸時代から遊廓がありましたが、こちらの案内板では旧花街通りと書かれています。
一色大橋から見た神社港。桟橋の奥が花街通りです。*1
清雲院(写真の地図の上中央)は、遊女が埋葬された寺院として知られています。*1
【参考文献】
*1 忍甲一:近代日本遊廓志稿(日本炎災資料出版,2007)p.741,P.754-P.756
川西町の通りに面して「橘湯」があります。
外観は洋風ですが....。
玄関を入ると年季の入った木製の下駄箱があります。
脱衣場はさらにびっくりです。木製ロッカーも年代ものです。
川西町の旧遊廓街で見かけた「らくれん牛乳」の牛乳箱。
「らくれん」は、四国乳業株式会社によって製造、販売される牛乳・乳製品の代表的なブランド名です。「緑美しい四葉のクローバーと白いハト」のシンボルマークは、「四国は一つ。新鮮な牛乳によって皆様の幸せ(健康と平和)を」そんな思いがこめられています。*1
箱の横に書かれている「アイミー」は乳酸菌飲料の商品名です。*2
こちらは青汁の宅配箱です。牛乳ではありませんので、「青汁箱」とでも呼ぶのでしょうか。当然のことながら、箱の色は緑です。
遠藤青汁グリーンライフ(本社:岡山県倉敷市)は、「青汁」の創始者・遠藤仁郎博士が設立した会社です。*3
【参考URL】
*1 らくれん:ホームページ会社案内
*2 らくれん:ホームページアイミー
*3 遠藤青汁グリーンライフ:ホームページ会社概要
川西町の商店街には、自販機が似合います。
酒屋さんには、お酒の自販機です。
ここへ来れば、どんなお酒も手に入りそうです。
角にある自販機。右は川。左は旧遊廓街です。
川西橋近くの大きな木造家屋。かつての遊廓の建物です。*1
1階の格子窓越しに遊女が顔見世をし、2階の個室で客の相手をしました。*1
窓には装飾が施されています。
同じ建物を裏から見たところ。何度も増築を重ねたのでしょうか。継ぎはぎだらけの状態になっています。
【参考文献】
*1 福田忍:おかやま街歩きノオト第6号(福田忍,2009)P.14-P.17
川西町の旧遊廓街は、現在はスナック街になっています。
こじんまりとしたスナックの建物が建ち並んでいます。
和風の木造家屋の一部がスナックに改築されています。
上の写真のスナックの建物の上部。ここに看板があったようですが、今は蛍光灯がむき出しの状態になっています。
今回は、倉敷(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
倉敷駅前から南側に延びる商店街のアーケードがつきるあたり。
川西町には、かつて遊廓があって、この川西橋が遊廓の入口でした。*1
川西町の集会所の建物が水路をまたぐように建っています。
この水路の南側(写真右側)が遊廓があったエリアです。*1
【参考文献】
*1 福田忍:おかやま街歩きノオト第6号(福田忍,2009)P.14-P.17
羽黒神社の石段脇に昭和2年に建てられた銭湯の「みなと湯」があります。かなり目立つレンガ色の洋風の建物です。
入口には賑やかな雰囲気の暖簾。
中に入って、まず目につくのが、脱衣棚の扉に大きな白い文字で書かれた旧漢字の番号です。
浴室のペンキ絵と看板は創業当時の雰囲気そのままです。
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.124
仲買町から西町の方へ歩きます。この付近は町並み保存地区に指定されていて、歴史的な遺蹟については、看板が立てられています。
川でもないのになにやら橋らしきものがあります。石に刻まれた文字は「夢の浮橋」と読み、ここから先には遊廓がありました。*1*2
江戸の末期の回船問屋の名前が彫られています。*2
遊廓が途切れたところにも橋があって、その橋は「地獄橋」と呼ばれています。*1
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.136
*2 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.62
天満町の通りを南へ進むと、木造三階建ての建物が見えてきます。
「中村」という遊廓跡と思われる三階建ての建物。(「歴史散歩玉島町並み保存地区」*1 によると、「天満宮(写真右側)の右側に行くと...三階建ての建物」と説明されていますが、たぶんこの建物だと思います。)
建物の壁面に、鬼瓦だけが取り付けられて保存されています。
二・三階部分には、遊廓時代の面影が感じられます。
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.78
玉島市街の南側に位置する天満町の町並みは、曲がりくねった道路が続いて、とてもミステリアスです。*1
道が回っているので、何が出てくるかわからない感じです。
旅館か料亭として使われていたのでしょうか。
天満町公会堂の建物。「堂會公」と書かれています。
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二,2007)P.77-P.78
昭和30年代を題材にしたノスタルジックな映画「ALWAYS三丁目の夕日」の撮影が行われたその事実がしめすとおり、玉島はどこか懐かしい風景、心地よい生活感が漂っています。港水門がある場所からすぐ目につくのが通町商店街の入口です。左側にはパチンコ屋さんだった看板「パチンコ」「思ひで」があります。*1
古い商店の建物が並んでいます。
中華食堂だった建物。
理容室、仏具店。
【参考文献】
*1 小野敏也:玉島界隈ぶらり散策(日本文教出版,2007)P.130
今回は、玉島(岡山県倉敷市)の町並みと風俗を散歩します。
水郷の町玉島には、かつて大小多数の水門がありました。これらの水門は、時代の推移とともに技術革新などで次第に統廃合されてきました。
昭和23年に造られた「港水門」も、今は使命を終え使われていません。*1
反対側から見た港水門。
映画「ALWAYS三丁目の夕日」の夜のシーンはここで撮影されました。*1
【参考文献】
*1 虫明徳二:歴史散歩玉島町並み保存地区(虫明徳二, 2007) P.35-P.36
吉備津駅背後の山の斜面に共同墓地があります。
その西側の一画に、多数の無縁墓が整理されています。この中には、遊女の墓も含まれています。
墓地最上部段には、宮内の豪商と言われた真野家の墓があります。
共同墓地から見た宮内。
【参考文献】
*1 岡山市教育委員会文化課:岡山市の歴史みてあるき(岡山市教育委員会,1977)P.293
「吉備の中山」の山麓に、吉備津神社が鎮座しています。
巨大な本殿。室町時代に再建されました。
江戸時代の都会のシンボルは「遊廓」と「芝居」の2つですが、吉備津神社の門前町の宮内でもすでに江戸時代初期からさかんに芝居が行われていました。*1
ところが、天保年間、水野忠邦の「天保の改革」により、芝居など華美な遊興施設の廃止が断行されたため、名優たちは、生活にも困るようになりました。この窮地を救ったのが、宮内の大親分の岡田屋熊次郎で、熊次郎親分は、銭にものをいわせて、名優たちを宮内に迎え入れたことから、当時の名優のほとんどは宮内に集まりました。北随身門近くの玉垣には、寛政頃の名優たちの名前が刻まれています。*2
中村歌六、嵐冠十郎が寄進した玉垣。*2
【参考文献】
*1 藤井駿:おかやま風土記(日本文教出版,1956)P.141-P.146「江戸時代の遊里としての備中の宮内」
*2 荒木祐臣:備前池田藩秘史(日本文教出版,1976)P.46,P.48
今回は、宮内(岡山県岡山市)の町並みと風俗を散歩します。
吉備津神社の門前町である宮内(みやうち)は、明治維新前までは山陽道でも屈指の花街でした。天保11年版の「諸国遊所番附」では、前頭として宮内が京都の先斗町や遠州の浜松の遊廓と肩を並べています。*1
宮内が遊里としてはじめて史上に名を出したのは、天正十年(1582年)、豊臣秀吉の高松城水攻めのときです。このとき備中に乗り込んだ兵士が付近の民家を荒らし、子女を犯すものが多くでたため、その取締りに困り、上方より多数の遊女を招致して宮内において花街としました。最盛期には、約100軒の花街が軒を連ね、300人の遊女を擁していました。*2
鳥居が残っている辻小路のあたりが宮内の中心街でした。*3
辻小路の西側に民家があります。
かつての遊女屋は、このような家屋だったのかもしれません。*4
【参考文献】
*1 藤井駿:おかやま風土記(日本文教出版,1956)P.141-P.146「江戸時代の遊里としての備中の宮内」
*2 荒木祐臣:備前池田藩秘史(日本文教出版,1976)P.44-P.45
*3 岡山市教育委員会文化課:岡山市の歴史みてあるき(岡山市教育委員会,1977)P.282,P.294
*4 三室清子:岡山大学教育学部研究集録 通号40(1974.08)「盆踊りの研究–岡山市吉備津の宮内踊りを中心として」P.39
秩父市中町の路地。
小岩井牛乳の牛乳箱があります。
小岩井と言えば、岩手県のブランドですが、なぜ秩父に...?
付近を散歩してみると、小岩井牛乳の販売店がありました。
下町(もとまち)の旧花街近く。銭湯の「たから湯」があります。
入口には、赤い暖簾。
これで「たから湯」と読みます。
外観はビル型の建物ですが、内部は木材がふんだんに使用されています。
下町(もとまち)の旧花街の一画に、稲荷神社があります。
周囲は住宅地となっていて、花街の名残はありません。
寄進者に「芸妓組合」や「料理店組合」の名前があります。
狛狐の台座に「秩父町料理店組合」の名前が彫られています。
秩父市街の番場町は、古い建物が保存されている町並みです。「カフェ・パリー」の建物は登録有形文化財として保存されています。
入口の暖簾、アサヒビールの看板など、いい雰囲気です。
建物の2階部分に取り付けてあるネオン看板。
オムライスと瓶ビールを注文。野菜がたっぷり添えられていてボリュームもあり、大満足でした。
近世(明治時代)の秩父の町並みは、北から下町(もとまち)、中町、上町に分かれていました。このうち、下町では、織物業や自動車修理業などの商工業者が集まり、下町の西側の段丘崖を下りた地区には料亭や芸者置屋が軒を並べていました。*1
かつてこの付近が花街であったことを説明する看板。
料亭だったと思われる建物。現在はヨガ教室になっています。
大正14年(1925年)の「大日本職業別明細図 秩父及び其の付近」*1 を見ると、この場所には「花月」という屋号の建物がありました。現在もその屋号が引き継がれているようです。
【参考文献】
*1 石井英也:景観形成の歴史地理学(二宮書店,2008)P.103,P.115-P.117
今回は、秩父(埼玉県秩父市)の町並みと風俗を散歩します。
秩父は、幕末以降に蚕糸業や織物業が活発となり、大正12年には秩父セメント株式会社が設立され、石灰石工業が盛んになりました。*1
秩父鉄道の秩父駅からは、武甲山が雄大な姿を見せています。
武甲山は、高純度の石灰石を豊富に埋蔵する日本屈指の大鉱床で、秩父の石灰石工業を支えてきました。*2
その武甲山を望む秩父鉄道の線路沿いに犬フン看板があります。
秩父鉄道と言えばSLです。土曜・日曜・祝日を中心に走ります。
秩父市街で見かけた賑やかな犬フンの貼紙。
「犬」とだけ書かれた貼紙。
【参考文献】
*1 石井英也:景観形成の歴史地理学(二宮書店,2008)P.60
【参考URL】
*2 秩父石灰工業株式会社ホームページ「武甲山の石灰岩」
十条駅近くにある銭湯の久保の湯。
住宅街にある堂々とした構えの建物です。
特徴的なのは、入口に傘を入れる棚。
ミニ庭園もあって、のんびりできる銭湯です。
JR埼京線十条駅の近く。電信柱に貼紙があります。
貼紙は、電信柱の根元に近い部分に貼られています。
パートナー紹介。
女性は無料。有償行為は厳禁です。
東十条4丁目の交差点。
エロ本自販機と思われる自販機があります。*1
残念ながら現在は稼動していませんが、当時の雰囲気が伝わってきます。
隣には、週刊誌の自販機もありました。
【参考文献】
*1 末井昭:パチスロ必勝ガイド(白夜書房,2008.10)P.109「泉麻人の80年代流行物しりとり」
今回は十条(東京都北区)の町並みと風俗を散歩します。
JR東十条の線路沿い。新幹線、東北本線、京浜東北線が平行して走っています。
線路沿いの店舗のような事務所。アイデア商品を販売店でしょうか。
「大人のオモチャ」屋さんのようです。
当然のことながら、18才未満入店お断りです。
目白台(音羽の西側)にある月の湯。この日は「第4回 月の湯古本まつり」の会場として使用されました。
昭和の雰囲気漂う銭湯の内部。
富士山のペンキ絵が見事です。鯉のタイル絵もすばらしいです。
洗い場。
今回は、音羽(東京都文京区)の町並みと風俗を散歩します。
護国寺の門前すぐそばの音羽町の大通りは、江戸時代は1丁目から九丁目まであって、特に六丁目から九丁目にかけてが女と遊べる江戸有数の盛り場でした。道の両側には、水茶屋と料理屋が軒をつらね、ひとつ奥に入った路地や裏通りには、局見世や子供屋が並んでいました。女郎のことを「子供」と称するなど遊興は深川を模倣したものでした。*1
天保度には、八・九丁目に料理屋が3軒あって、九丁目の子供屋2軒から女を送りました。*2
3軒の料理屋(吉田屋、紅屋、住吉屋)は、現在の音羽通りと目白通りが交差するあたり(現在は音羽一丁目)にありました。*3*4
旧音羽八丁目の裏通り。
音羽町九丁目の東側の桜木町と呼ばれていた一帯にも岡場所がありました。還国寺近くから北側に見える崖下に私娼宿が並んでいました。*1
【参考文献】
*1 江戸の性を考える会:大江戸岡場所細見(三一書房,1998)P.192-P.194
*2 花咲一男:江戸岡場所遊女百姿(三樹書房,1992)P.83-P.85
*3 岸井良衞:江戸・町づくし稿. 中巻(青蛙房,2003)
*4 児玉幸多:復元・江戸情報地図 14.音羽町・小石川一円(朝日新聞社,1996)
秩父鉄道の上熊谷駅近く。
「森牛乳」と書かれた黄色の牛乳箱があります。「森永」ではなく「森」です。
森乳業(株)は、明治20年創業の埼玉県行田市の乳業メーカーです。*1
牛乳箱は、住宅の側面の中央部分に取り付けられています。
木の暖かみを感じる風景です。
【参考文献】
*1 横溝健志:思い出牛乳箱(ビー・エヌ・エヌ新社,2008)P.167
前回(2006年)も訪れた伊勢町の遊廓跡を散歩します。
通りの南側には、当時の建物が3軒並んでいましたが*1、現在はそのうちの両側の2軒の建物が残っています。
どっしりとした構えの元妓楼の建物。*1
「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていた「まねき猫」は取り去られていました。
右側の建物は、改装されているようです。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.84-P.87
にし茶屋街の南側。北陸鉄道石川線の野町駅前に、銭湯の野町湯があります。
「野町湯」と書かれた大きな看板があります。
看板に導かれて進みますが、どうも入口らしくありません。
裏側へ回ると銭湯の入口らしい雰囲気です。
機械の故障のため、しばらくの間お休みです。
にし茶屋街周辺には数軒の美容院や理容室があります。
鮮やかな彩りの建物です。
にし茶屋街の通りをそのまま南へ行ったところにある美容院。
掘割に面した理容室。
犀川大橋南詰の交差点近くにある雨宝院は、「故郷(ふるさと)は遠くにありて思うもの・・・」という詩で有名な室生犀星(むろうさいせい)が幼少期を過ごした寺です。
寺の入口脇には碑があります。
室生犀星の自伝的小説「性に眼覚める頃」は、主人公の17歳の男子の性的衝動を描いた作品です。娘が賽銭箱から銭を盗み出すのを寺の記帳場の節穴から覗いて「性欲的な興奮と発作」を感じ、その娘の家をつきとめ、玄関先に脱ぎ捨てられた紅い鼻緒の雪駄(せった)を見て、「そこに足をのせれば、まるで彼女の全身の温味を感じられる」と思い、ついにその雪駄の片方を盗んでしまいます。*1
小説の後半では、主人公が遊廓に登楼する場面が描かれています。
「私はひっそりと寺をぬけ出て、ひとりで或る神社の裏手から、廓町(現在の「にし茶屋街」)の方へ出て行った。」*1*2
雨宝院裏側から見る犀川。
現在は、川幅が広くなっていて雨宝院の後ろはすぐ川になっていますが、室生犀星がいたころの寺域は広くて、木立もうっそうと茂っていました。*3
【参考文献】
*1 室生犀星:或る少女の死まで(岩波書店,2003)P.158,P.285
*2 (財)金沢文化振興財団:かなざわ文学散策((財)金沢文化振興財団,2005)P.16
*3 「文学への旅金沢・名作の舞台」編集委員会:金沢・名作の舞台(金沢市,2000)P.148
金沢市街の南部にある「にし茶屋町」は、金沢の花街です。
かつての遊里ですが、現在は観光地化しています。
にし茶屋町の沿革を書いた碑があります。これによると、西茶屋町は、文政3年(1820年)に妓楼を区域限定で集め、石坂茶屋町が出来上がったのが始まりだそうです。
にち茶屋町から西側に坂を下っていくと、石坂のスナック街にたどりつきます。
赤線があった石坂の路地。
こちらにも凝った意匠の建物が残されています。
入口部分。和洋折衷のデザインです。
鮮やかなタイル。
赤線があった石坂には、タイルで彩られた建物が数多く残っています。
こちらの建物は、1・2階部分にそれぞれ和洋折衷の装飾が施されています。
2階部分。
1階部分。玄関はタイルで鮮やかに装飾されています。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.14
今回は、金沢(石川県金沢市)の町並みと風俗を散歩します。
金沢市街の南側に位置する石坂(いしさか)は、戦前は西廓と呼ばれた遊廓があった場所で、戦後は赤線として栄えました。「にし茶屋資料館」の角を右に曲がってしばらく行くと、掘割にかかる小橋が見えます。*1
この付近はスナックが多いエリアです。
掘割に沿って歩くと公園にでます。
公園に隣接しているスナックの建物。
【参考文献】
*1 木村聡:消えた赤線放浪記(ミリオン出版,2005)P.193-P.199
宇出津市街の中心部にある湊湯。レトロな木造の佇まいが目をひきます。
歴史を感じさせる暖簾。その上には、「湊湯」と書かれた木の看板。
暖簾をくぐると、正面には、富士山、松、宝船が描かれたタイルが貼られています。
脱衣場の神棚には、「千客万来」の文字。右上には、10カ条の「入浴者心得事項」の貼紙があります。
棚木遊廓の近くにある塩谷寺。
高台にある塩谷寺までは、長い階段を上ります。
遊廓があった頃、塩谷寺の六ツの鐘が鳴り始めると、遊女たちは格子(こうし)越しに店先に居並んで、客を出迎えました。*1
塩谷寺の高台からは、宇出津港と棚木遊廓跡地が一望できます。
【参考文献】
*1 数馬公:能州能登町物語3(北國新聞社出版局,2008)P.148
棚木の遊廓へ足を運ぶには、笹谷川にかかる橋を渡らなければなりません。地元ではこの橋を「さよなら橋(別名:未練橋)」と呼ぶようになりました。
遊廓は、治安や風俗の取り締まりなどの目的から、人々が住む土地から隔離され、定められた一つの地域に許可されました。棚木遊廓の周囲の大部分は笹谷川で仕切られ、客は木橋を渡って往来しました。
当時の遊廓の建物の前にかかる橋。
小さな地蔵堂は、遊女たちの心の拠りどころとなる確かな存在仏でした。*1
【参考文献】
*1 数馬公:能州能登町物語3(北國新聞社出版局,2008)P.156
宇出津の棚木遊廓の妓楼は、宇出津湾に注ぐ笹谷川仕切られ、整備されていました。
笹谷川から、遊廓が軒をつらねる広場への入口に、古い民宿の建物があります。
風情のある玄関。
宇出津・棚木遊廓(メンキチ)界隈図(1937年)*1 に記載されている当時の妓楼の屋号を引き継いでいます。
【参考文献】
*1 数馬公:能州能登町物語3(北國新聞社出版局,2008)P.155
宇出津は、昔から漁業が盛んで、海上交通の拠点としても発展したため、自然発生的に茶屋や旅籠が生まれ、茶屋女や飯盛女などの売春婦が現れました。明治に入り、宇出津の町は国の許可を得て棚木地区の一画に遊廓が生まれました。宇出津の棚木の遊廓は、奥能登一の賑わいを見せ、その繫昌ぶりを芸者の奏でる三味の音にたとえ、常に耐えることがなかったということから、この地域を音羽町(おとわちょう)と名付けられました。地元の人々は遊廓界隈を「政府から免許を得た地」、即ち「メンキョチ」または「メンキチ」と呼びました。*1
かつて遊廓として使われていた建物が現在も残っています。*1
建物側面の入口。
建物の前の庭。
【参考文献】
*1 数馬公:能州能登町物語3(北國新聞社出版局,2008)P.140-P.148,P.156
宇出津の市街の中心部を流れる梶川。町の景観に趣きを添えています。
町の中をぐるりとめぐっている水路のような笹谷川。道路から対岸の建物へのかけ橋が連なっています。
宇出津港近くの港大橋から梶川を見たところ。港町らしい景観です。
宇出津港。
今回は、宇出津(石川県鳳珠郡能登町)の町並みと風俗を散歩します。
宇出津(うしつ)駅は、のと鉄道の能登線の廃止により2005年3月いっぱいで廃駅となりました。
現在は、街の駅として利用されています。
駅前にある観光案内板。町の南側に宇出津港を有し、市街を梶川と笹谷川が流れています。
数馬酒造近くにある「さよなら橋」は、別名「未練橋」とも呼ばれ、宇出津の遊廓の入口にありました。*1
【参考文献】
*1 数馬公:能州能登町物語3(北國新聞社出版局,2008)P.167
七尾市街地の中央に位置する一本杉通りには、古くからの卸・小売の老舗の建物が残っています。呉服店の前の路上に制服のマネキンがあります。
お父さんの背広よりも良い生地が使われています。
三島町の金刀比羅神社近くの洋服店。
セーラ服のマネキン。
遊廓があった常盤町の南隣。
銭湯の「たから湯」があります。
レトロな雰囲気のネオン管。
清潔感あふれる銭湯です。
七尾市米町の飲み屋街に隣接する駐車場。
駐車場のフェンスに犬糞看板があります。
駐車場の奥まったところ。人目につきにくい場所です。
「ゲロを吐くな!」の看板。
常盤町遊廓跡地には、色町だった名残と思われる居酒屋や料亭、スナックなどが現在も営業中です。
通りの南側。料亭と喫茶・スナックが建ち並んでいます。
通りの北側。ニュー十番街。建物の両側は駐車場になっています。
西側の端にあるスナック。
今回は、七尾(石川県七尾市)の町並みと風俗を散歩します。
七尾の遊廓は、明治はじめに埋め立てされた常盤町へ移り、その後、昭和32年の売春防止法が施行されてなくなりました。*1
道幅が少しひろくなっているこのあたりが遊廓があった場所です。*1
元旅館だった建物。
元旅館の玄関前。
【参考文献】
*1 七尾市:目で見る七尾の100年(七尾市,1969)p.60-P.61