筑波(月水石神社)参詣者に筑波町の遊女も。

筑波山中腹への道路が大きくカーブするあたり※1 から、南の道を下ると、月水石神社の看板があります。

月水石神社には、婦人病の神(イザナギ、イザナミのミコトの第四子イワナガヒメ)が祭られています。

つくば周辺は勿論のこと、他町村からの参詣の女性の姿が多く見られ、その中には筑波町の遊女もいたと言われています。*1

つくば周辺は勿論のこと、他町村からの参詣の女性の姿が多く見られ、その中には筑波町の遊女もいたと言われています。*1

神社の境内に大きな石(ご神体)月水石があり小さな割れ穴から月に一度、赤い水が滴り落ちるといわれ、月水石神社とむかしからいわれてきたそうです。*1

参考文献

*1
仲田安夫筑波町の昔ばなし 上筑波書林
月水石神社と婦人病

月水石神社には旧暦、正月25日には、つくば周辺は勿論のこと、他町村からの参詣…

参考記事

※1筑波(ホテル)絶景ホテル。筑波山中腹へ向かう道路の途中。

筑波(ホテル)絶景ホテル。筑波山中腹へ向かう道路の途中。

1918年(大正7年)の筑波鉄道の開通により、筑波から土浦まで約50分で行けるようになり、1922年には、つくば駅から標高200mの中腹まで自動車道路が開通しました。さらに、1925年(大正1)4年には、筑波山ケーブルが開通し、筑波山は、東京から気軽に行ける観光地として定着しました。*1

現在では、筑波山中腹へ向かう道路の途中には、ホテルが建ち、マイカーでの観光が定着しているように見えます。

富士山、スカイツリーも見える絶景ホテル。

ホテルの入口。

参考文献

*1
筑波大学人文地理学・地誌学研究会地域研究年報
猪股泰広筑波山における観光空間の形成と変容山麓門前町の地域変化に着目して2018

P.186
1918年の土浦筑波間を結ぶ筑波鉄道の開通により、筑波から土浦まで約5…

参考記事

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筑波(月水石神社)参詣者に筑波町の遊女も。

筑波(「従是筑波山道」碑)茨城百景。筑波山への登山口。

今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
茨城県道14号筑西つくば線から少し入ったあたりは、筑波山への登山口にあたる場所です。

ここには、2つの石碑が建っています。一つは、「茨城百景筑波山」の碑。

もう一つの石碑は、「従是筑波山道」です。

「明治三十七年二月」とあります。

この頃は、土浦まで電車で行き、人力車あるいは馬車を使用して北条経由で筑波山へ行く方法(従来のつくば道※1)、に加え下館まで電車(現在のJR水戸線)で行き、筑波町へ行く方法、などがありました。*1
「従是筑波山道」は、後者のルートが一般化されつつあることを物語っていると思われます。

参考文献

*1
ランドスケープ研究日本造園学会
西邑雅未筑波山における観光ルートの変遷2015.3

P.588
1889(明治22)年には水戸と小山を結ぶ水戸鉄道水戸線(現在のJR水戸…

参考記事

※1筑波(つくば道道標)これよりつくは道。台座部分は八角柱の形状。

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筑波(ダイヤモンド)お食事、結婚式。手打ちそば。

荒川沖(遊女の墓)天満宮の裏手の空地の一角。

荒川沖宿の旧道沿い。交番の隣にある天満宮。

天満宮の裏手に遊女の墓があります。*1

空地の一角に、嘉永、寛政、安永と刻まれた約百基ほどの無縁仏が折り重なっています(北側の駐車場より)。*1

郷土史家の山本鉱太郎さんは、「墓は風化し、どれが遊女の墓かついてにわからなかった。」と記しています。*1

参考文献

*1
山本鉱太郎旧水戸街道繁盛記 下巻崙書房出版1995.4
牛久宿から城下町土浦へ

P.112
無縁仏となった遊女たち

荒川沖(旧沖宿跡)今も旧家がかなり残っています。

荒川沖の街道沿いには、茅葺きの旧家が2軒残っています。

荒川沖郵便局の右隣にある佐野家は、現在も茅葺きのままです。*1

鶴町たばこ店。

江戸時代の荒川沖宿は、本陣がなかったせいか遊廓が栄えました。サカモトストアがあった場所には、女郎屋がありました。*1*2

参考文献

*1
山本鉱太郎旧水戸街道繁盛記 下巻崙書房出版1995.4
牛久宿から城下町土浦へ

P.112
無縁仏となった遊女たち

サカモトストア。

参考記事

荒川沖(ニュ-フジ)駅前の飲み屋街。パブ。カラオケ。

駅前の飲み屋街 ※1 にあるCOFFEE SHOP「ニュ-フジ」。

店内は、昭和を彷彿とさせる雰囲気です。

サンドイッチと紅茶を注文。サンドイッチは「耳有りか耳無しか」を聞かれましたので、「耳有り」を注文。食パン3~4枚はありそうなボリュームです。

お食事・喫茶の他、カラオケ唄い放題。

参考文献

参考記事

荒川沖(駅前の飲み屋街)麻雀「つくば」。ちょいのみ「宇宙人」。

荒川沖駅西口のすぐ近くに、小さな飲み屋街があります。地元の方の話によると、かつては川が流れていて、ときどき溢れていたそうです。

麻雀「つくば」。

ちょいのみ「宇宙人」など、飲み屋が連なっています。

パブもあります。

参考文献

参考記事

荒川沖(白ポスト)荒川沖駅西口。伸びよう伸ばそう青少年。

今回は、荒川沖(茨城県土浦市)の町並みを散歩します。
JR常磐線の荒川沖駅西口。

白ポストが設定されています。

側面には、「伸びよう伸ばそう青少年」の標語。

駅からの下り階段から目に入る場所に設置されています。

参考文献

参考記事

我孫子(七里ヶ渡跡)かつては、回船問屋や宿、茶店が軒を並べていました。

新大利根橋のたもとの土手に「七里ヶ渡跡の碑」が建っています。

実際に渡し場があった場所は、土手を降りたあたりで、こちらにも案内板が建っています。

かつての七里ヶ渡し(しちりがわたし)には、回船問屋や宿、旅人や、若い衆相手の茶店が軒を並べていました。*1

渡し小屋の写真。

参考文献

*1
柏のむかしばなし リンク
七里ヶ渡し リンク

七里ヶ渡し(しちりがわたし)は、回船問屋(かいせんどんや)や宿が十数軒あり…

参考記事

我孫子(布施弁天)新吉原寄進の石灯籠。文化九年。

関東三弁天の一つに数えられた「布施弁天」。
かつては、石段の両側には深川仲町の粋どころの名がずらりと刻まれていましたが*1、現在は風化したためか、見えなくなっています。

石段の上の石灯籠。

文化九年と読めます。

新吉原の関係者の寄進によるものです。

参考文献

*1
山本鉱太郎旧水戸街道繁盛記 上巻崙書房出版1994.10
馬橋から新興都市柏へ
布施弁天繁盛記

P.206
布施弁天は、古来、江ノ島弁天様、上野不忍池畔の弁天様と共に関東三…

参考記事

我孫子(曙食堂)地元の方々で賑わう大衆食堂。

我孫子駅北口から徒歩15分。
アパート風の看板建築の「曙(アケボノ)食堂」があります。

地元の方々で賑わう大衆食堂です。

大衆食堂でありながら、ホッピーが飲めるのが魅力です。

タンメンを注文。

参考文献

参考記事

我孫子(旅館角松)嘉納治五郎がよく訪れた割烹料理屋。

我孫子宿の脇本陣近くの旧水戸街道沿いに、「角松」という割烹料理屋があります。

長い塀。

ここには、明治43年頃、講道館を興し、東京高等師範の教授でもあった嘉納治五郎がよく訪れました。また、この料理屋の前身の松島屋という宿は、明治天皇も宿泊した由緒ある旅館でした。*1

入口。

参考文献

*1
山本鉱太郎旧水戸街道繁盛記 下巻崙書房出版1995.4
我孫子宿と手賀沼
我孫子を愛した嘉納治五郎

P.14
旧脇本陣の小熊家の近くの旧水戸街道沿いに、「角松」という塀の長い割…

参考記事

我孫子(弥生軒)画家の山下清が働いていた老舗。

今回は、我孫子(千葉県我孫子市)の町並みを散歩します。
我孫子駅は、常磐線の複々線区間にあって、乗降客も多い駅です。

我孫子駅の名物と言えば、「弥生軒」です。
近年、首都圏では「万葉」など駅そばの閉店が相次ぎ、代わりにNREなどJR系列会社のチェーン店が増え、個性が消えつつあります。そのような逆風の中でも昔ながらに頑張っているのが我孫子駅の「弥生軒」です。*1

画家の山下清が働いていたことでも有名です。山下清は、12歳の時、千葉の保護施設「八幡学園」に入園し、指先のリハビリを兼ねた貼り絵で天分を発揮しました。18歳のとき、園を脱走し、放浪するうちに、当時弁当屋だった弥生軒に拾われました。*2

名物の「から揚げそば」(2個のせ)を注文。
から揚げは、駅近くの工場で調理していて、自家製で新鮮なのが売りです。*1

参考文献

*1
朝日新聞社朝日新聞 夕刊朝日新聞社2016.2.29
駅そば 時代の波 消えゆく老舗 JR系急増個性派奮闘 大手も試行錯誤

首都圏では駅そばの閉店が相次いでいる。千葉駅では、2017年6月、長く続いた「…

*2
産経新聞社正論 令和3年11月号産経新聞社2021.11
将口泰浩文人論客壺中之天(ぶんじんろんかくこちゅうのてん)(Vol.49)我孫子 弥生軒×山下清

我孫子界隈で一番有名な店が立ち食い蕎麦「弥生軒」である。電車を乗り継いでも…

参考記事

筑波(ユースホステル筑波山荘跡)昔は遊廓「なが楼」。

旧郵便局から先は、つくば道が県道にでる手前の最後の階段です。

奥に「ホテル青木屋」が見えます。

ユースホステル筑波山荘だった建物。*1
昔は、遊廓「なが楼」だったそうです。*2

県道にでる所に建つ「つくば道」の石柱。

参考文献

*1
ゼンリンつくば市筑波地区・大穂地区ゼンリンの住宅地図ゼンリン1989.12

P.4
旧郵便局の北側に、ユースホステルの記載。

*2
筑波大学人文地理学研究筑波大学地球科学系
佐々木博筑波山門前町の立地生態1983.03

P.190
fig.2 明治初年頃の筑波山門前町(地図)

参考記事

筑波(旧郵便局)昭和14年に建てられました。

「つくば道」沿い建つ筑波山旧郵便局。

洋風のおしゃれな建物です。

旧筑波山郵便局は、昭和14年に建てられました。昭和50年に郵便局を引退、平成20年に筑波大学生らの手によって改修されました(案内板より)。

旧郵便局は、急な石段を登った場所にあります。

参考文献

参考記事

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筑波(土産物屋)つくば道から続く筑波神社周辺。

筑波(旅籠跡)明治初年の建築。当初から旅籠。

つくば道の三叉路を過ぎたあたりから、道の傾斜も増してきます。

通りに面して建つ二階建ての建物。

明治初年の火災で焼失した直後に建てられたもので、建築当初から旅籠として使用されていました。*1

つくば道の年代が古い二階建ての建物は、旅館業を営んでいたものが多いそうです。*1

参考文献

*1
日本建築学会計画系論文集日本建築学会
湯本桂近世の筑波山門前における参詣道沿いの町並の変遷について二階建て家屋を中心に2005.12

P.228
大越家住宅は、短冊形の敷地内に通りに面して屋根の平側を向けて建つ…

参考記事

筑波(明治の牛乳箱)ビンは洗ってお返し下さい。

筑波山神社の「一の鳥居」の近く。つくば道沿いに民家が点在しています。

郵便箱の下に明治牛乳の木製牛乳箱が設置されています。

側面に「ビンは洗ってお返し下さい」の表記のある牛乳箱は、珍しいと思います。

保存状態良好です。

参考文献

参考記事

筑波(一の鳥居)つくば道。明治初期は、道の両側に土産物屋。

北条の道標※から「つくば道」を進むこと約3km。「一の鳥居」に着きます。
一の鳥居は宝暦9年に造られ、この鳥居から上が神域とされました(案内板より)。

明治時代初期、道の両側には土産物屋などが建ち並んでいました。*1

ふりかえると、北条方面が見下ろせます。

しばらく行くと、「つくば道三叉路」に出会います。右が「つくば道」です。

参考文献

*1
西海賢二筑波山と山岳信仰講集団の成立と展開崙書房出版2012.11
筑波山神社と筑波山信仰について

P.17
筑波山信仰は鎌倉期において形成され、徳川幕府の筑波山神社に対する信…

参考記事

※1筑波(つくば道道標)これよりつくは道。台座部分は八角柱の形状。

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筑波(土産物屋)つくば道から続く筑波神社周辺。

筑波(つくば道道標)これよりつくは道。台座部分は八角柱の形状。

今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
つくば市北条の三叉路には、高さ3メートルにも及ぶ大型の道標が建っています。*1

「これより つくは道」。
かつての北条の町が、筑波山の参拝者によって活況を呈した様子を偲ばれます。

道標の台座部分は八角柱の形状で、再建願主 野沢惣兵衛、同 山口武右衛門、同 武井仁右衛門と彫られています。再建願主のメンバーは、いずれも北条における有力商人です。*1

筑波山信仰は鎌倉期において形成され、三代将軍家光のときには、日光東照宮とともに、筑波山知足院が幕府の大鎮守とされました。*1

参考文献

*1
西海賢二筑波山と山岳信仰講集団の成立と展開崙書房出版2012.11
筑波山神社と筑波山信仰について

P.17
筑波山信仰は鎌倉期において形成され、徳川幕府の筑波山神社に対する信…

参考記事

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筑波(「従是筑波山道」碑)茨城百景。筑波山への登山口。
筑波(一の鳥居)つくば道。明治初期は、道の両側に土産物屋。

東武練馬(功泉湯)西台駅近く。首都高速5号線沿い。

都営地下鉄西台駅近く。首都高速5号線沿いにある功泉湯。

伝統的な宮造りの銭湯で、風格があります。

入口。

写真奥に見えるのは、都高速5号線。

参考文献

参考記事

東武練馬(御嶽塚)天祖神社の入口の階段脇。

天祖神社の入口の階段脇に、御嶽塚があります。

御嶽神社。

御嶽塚は、富士塚と同様、祭神などの石碑が配された人造物で、庶民が木曽御嶽を登拝するため組織された講によって造られました。板橋区には、赤塚氷川神社にも御嶽塚があります。*1

頂上からの眺め。

参考文献

*1
板橋区 リンク
赤塚氷川神社木曽御嶽塚 リンク

木曽御嶽塚は麓から山頂にかけて、御嶽山に関わる祭神などの石碑が配された人造…

参考記事

東武練馬(おしわぶきさま)天祖神社。男根の形をした石神。

板橋区西台にある天祖神社。

境内の奥に、金網に守られるようにして、男根の形をした石神が鎮座しています。

「石神」→「せき神」→「しゃく神」→「杓子神」となり、「しゃもじ」を奉納する風習がうまれました(案内板より)。

睾丸部分が2個の石で表現されていて、リアルです。

参考文献

参考記事

東武練馬(コの字の飲食街)東武東上線の線路沿い。

東武練馬駅近くには、 「北町アーケード」※1 や「北町楽天地」※2 などの歓楽街がありますが、駅西側の線路沿いにも、飲食店やスナック店が集まった小路があります。

小路の奥。

小路はコの字型になっています(写真右側は東武東上線)。

コの字を回り込んだところ。

東武練馬(下練馬の富士塚)富士嶽神社。

今回は、東武練馬(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
北町2丁目の商店街にある富士嶽神社の鳥居をくぐると、奥に「下練馬の富士塚」があります。
左側が「下練馬の富士塚(北町浅間神社)」、右側が「富士嶽神社」です。

「下練馬の富士塚」は、練馬区の有形民俗文化財です。

案内板に、「つづら折り道」と書かれている通り、登山道は、何度も折り返しながら頂上へ向かっています。

頂上から眺めは爽快です。

参考文献

参考記事

板橋(ときわ健康温泉)広い待合室には、水槽もあります。

上板橋駅から徒歩10分のところにあるときわ健康温泉。2階部分より上はマンションになっています。

入口は、東側、西側の両側にあります。

広い待合室には、水槽もあります。

銭湯脇の路地。

参考文献

参考記事

板橋(清水湯)後ろ側は、宮造りの意匠が残されています。

都営地下鉄線本蓮沼駅から西へ500mほど行くと、首都高速5号線が通る道路に出ます。

銭湯の清水湯。建物前面はリニューアルされていますが、後ろ側は、宮造りの意匠が残されています。

清水湯の煙突。

待合室は広々としていて、ゆったりできます。

参考文献

参考記事

板橋(延命寺)ずんぐりしたコンクリート製の石神。

板橋区の中台にある延命寺。
南側の駐車場から入って通路を進むと、石塔や菩薩像が並んでいます。

左側(西側)。

小さな祠があります。

祠の中には、ずんぐりしたした形の男根(石神)が安置されています。
残念ながらこの石神は、コンクリート製で、昭和初年に、旭化成の工場のところから移したもので、本来の石神は盗まれて現在のは模造品とのことです。*1

参考文献

*1
原浩三性神探訪八重岳書房1970
中台延命寺の石神

P.196
残念ながらこの石神は、あまり格好も良くないずんぐりしたコンクリー…

参考記事

板橋(紙風船)コンクリート造りの3軒長屋。

遍照寺※1 の参道の右隣り。緑色のファザードの喫茶「紙風船」。

コンクリート造りの3軒長屋で、隣に黄色のうどん店、赤い肉屋と続きます。喫茶側の側面の壁は緑色に塗られてメルヘンチックな感じがします。

建物角の部分の円柱。

トーストとコーヒーを注文。

板橋(大黒家)昔ながらのたたずまい。巨大なあなご天。

板橋区の中板橋商店街。

商店街の中でも老舗の「天麩羅 大黒家」。昔ながらのたたずまいです。

黄色い暖簾。

「えびあなご天丼」とビールを注文。巨大なあなご天には圧倒されます。

参考文献

参考記事

板橋(大谷口配水塔)バス停の名も「水道タンク前」。ロマネスク様式。

仙川から大山へ向かう途中。大きな水道タンクが建っています。

バス停の名も「水道タンク前」。

現在の水道タンクは、昭和47年に廃止した旧配水塔のデザインを引き継ぎ、地域のシンボルとして建て替えたものです。*1

旧配水塔(大谷口配水塔)の造形意匠は、ロマネスク様式です。
ロマネスク様式は、ローマ建築を疑似的に模した様式で、曲線が多く用いられています。配水塔の頂塔部(ドームの上のさらに小さい塔)もロマネスクの特徴で、彩光や通風と装飾の目的で設けられています。*2

旧配水塔では、階段室最上部の窓は同一の形が3つ並んで(「トリフォリウム」と呼ばれる)いました。*2
が、新しい水道タンクでは、機能やコストを重視したためでしょうか。「トリフォリウム」は再現されておらず、全体的にシンプルなデザインになっています。

参考文献

*1
全日本建設技術協会平成22年度全建賞全日本建設技術協会 リンク
大谷口給水所整備事業 リンク

本事業は、昭和47年に廃止した配水塔跡地に、新たな拠点給水所となる大谷口給…

*2
土木史研究. 論文集
窪田陽一大谷口配水塔の設計の過程と技術的特徴2006 リンク

P.85
大谷口配水塔の造形意匠は、ローマ建築を疑似的に模したロマネスク様…

参考記事

板橋(裸像)豊島体育館前。旧豊島区庁舎のシンボル。

今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みを散歩します。
地下鉄有楽町線仙川駅の北側。豊島体育館の前に、「力」「いづみ」の2体の裸像があります。

左側の「力」は、男性裸像で両手拳をガッツポーズのように握りしめ、力強さを感じる作品です。

下半身は、ふんどしのみ。

もともとは、豊島区の旧庁舎のシンボル(昭和36年制作)でしたが、旧庁舎の解体に伴い、こちらに移設されました(案内板より)。

参考文献

参考記事

水戸(交通安全人形)婦警さんと子供。横断旗入れ。

水戸市の「常陸山橋」バス停※1 の近く。

色褪せが進行した「婦警さんと子供の交通安全人形」が立っています。
開いている穴は、横断旗を入れるためのものだと思いますが、現在はゴミ箱代わりになっています。

婦警さん、正面。

後ろから見ると、子供の頭の部分が左右に割れ、婦警さんの背中に貼りついているように見えます。

水戸(常陸山橋)横綱常陸山がつくった橋。

水戸市本町から、酒門町へ向かう途中、備前堀に、コンクリートづくりの「常陸山橋」が架かっています。

この橋は、大正初期、横綱常陸山が祖先の墓が、祖先の墓が酒門町にあったので、その縁故からつくったものです。*1

橋には、常陸山のイラストが描かれています。

近くには、「常陸山橋」という名のバス停もあります。

常陸山「ちゃんこ鍋」を発明した人でもあります。
弟子が多くなって一品料理だと手間がかかるので、みんなで丸く囲んで食べられるようにしました。*2

参考文献

*1
金子竹酔明治後半期と大正時代の下市回顧録新いばらきタイムス社1975.5
常陸山橋

今の浜町から酒門村方面に通ずる備前堀に架設されてあるコンクリートづくりの橋…

*2
山本保彦ちゃんこ鍋の秘訣手づくりの味付・相撲ちゃんこの話新星出版社1975

P.137
「ちゃんこ」の元祖は、名横綱常陸山
「ちゃんこ…

参考記事

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水戸(常陸山像)堀原運動公園。日本近代相撲の父。
水戸(交通安全人形)婦警さんと子供。横断旗入れ。

水戸(いづみや食堂)ノスタルジックな一軒家の大衆食堂。

水戸市泉町3丁目6にある「いづみや食堂」

カレー、めん類、定食など。昔からながらの食堂です。

かつカレーとビールを注文。

ノスタルジックな一軒家のお店です。

参考文献

参考記事

水戸(水雷稲荷神社)富田新地から青木新地へ。

泉町二丁目の「中央ビル」の裏手のパーキングの近く※1 にある水雷稲荷神社。

水雷稲荷神社は、青木新地(富田新地)の昔を語る唯一のものです。この稲荷は、はじめ下市の蓮池町(現在の城東四丁目)にあった。明治の豪商・豊田彦一がこの地を買収して富田新地とした際、移したものでした。*1

明治28年奉納の手水石。*1

その頃、裡信願寺辺りにあった芸妓屋の名が刻まれています。*1

その後、富田新地の土地をゆずりうけたのが青木才次郎※1 で、中央ビルの角地の隣にあった青木材木店は、青木康夫さん(青木才次郎の孫)の父親が経営していました。*1

参考文献

*1
網代茂水府巷談新いばらきタイムス社
明治、大正期の歓楽郷 富田、青木新地 芸者衆にモテた水雷稲荷

P.331
今も残っている水雷稲荷神社が、青木新地(富田新地)の昔を語る唯一…

参考記事

※1水戸(青木新地)かつての歓楽街富田新地。

水戸(水道低区配水塔)ゴシック風の装飾。まるで、西洋の城郭建築の塔のよう。

今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
茨城県庁三の丸庁舎の北側に建つ配水塔は、ゴシック風の装飾が施された建造物です。
水戸市街の低地部分に給水を行うために、1932年(昭和7年)に建設されました。*1

1階入口部分にも装飾があります。

バルコニー部分の張りだしは、まるで、西洋の城郭建築の塔のようです。

内部には、螺旋階段があります。

参考文献

*1
文化庁文化遺産オンライン文化庁 リンク
水戸市水道低区配水塔 リンク

昭和前/1932
鉄筋コンクリート造、高さ21.6m、直径11.2m
登録有形文化財…

参考記事

日立(栄座跡地)かつては歓楽街、夜の街。日立煎餅。

日立食堂※1 の四つ角の西側。市毛魚店のある通りは、かつて隆盛を誇った芝居小屋の「栄座」があった場所です。*1*2

地元の方の話によると、栄座はこのあたりにあったそうです。

国道6号線より西側、宮田町三丁目と四丁目の各一部分を取り込む栄座を中心とした通称栄町は、庶民の街として、酌婦や女給たちの住む歓楽街、夜の街として、独自の風俗文化圏を形づくりました。栄町は旭町が芸妓の街であったのとは対照的で、ここは酌婦と女給の町でした。日立のカフェの女給が全員総出で歌や踊りの芸をやるのも栄座でした。*3

同じ通りを北側から見たところ。
「日立煎餅」で有名な袋屋煎餅店は、大正時代の創業で、日立の文字入りです。*4
上下左右にツノがあるのは、どこか、日立製作所の亀の甲マークに似ています。

参考文献

*1
帝都日日新聞日立市局最新日立市全圖帝都日日新聞日立市局1941

「日立栄座」の記載。

*2
東交出版社日立市 住宅明細図東交出版社1968
25 高鈴町、白銀町、宮田町

市毛魚店、袋屋煎餅店。

*3
鉱山の歴史を記録する市民の会鉱山と市民聞き取り日立鉱山の歴史日立市役所1988
花柳界宮田栄町界隈

P.169
日立鉱山の発展に伴って形づくられていった日立の花柳界は、大きく分…

*4
日立市地域ブランド推進協議会日立市地域ブランド推進協議会日立商工会議所 リンク
日立煎餅 リンク

大正時代創業以来、80年以上にわたり昔ながらの瓦煎餅を作り続けてきました。…

参考記事

※1日立(日立食堂)お食事の店。大雄院通り沿い。

日立(旧共楽館)日立武道館。正面に千鳥破風、唐破風屋根。

日立市白銀町2丁目にある日立武道館は、もとは、日立鉱山(現在のJX金属)が従業員や地域住民のために建設した劇場です。*1

共楽館の設計に影響を与えたのは明治44年秋にリフォームを終えたばかりの歌舞伎座でした。正面の千鳥破風に加え、正面左右隅の階段室には、唐破風屋根を載せています。*2

裏に回ると妻壁上部に丸い「ガラリ(換気口)」が見えます。設計者は建築家ではなく鉱山会社の技師だったそうで、その個性(工場建築のよう)が出ています。*2

建築まもない頃(大正8年)の共楽館の写真(案内板より)。

共楽館は、現在では「芝居小屋」と呼ばれあす。芝居小屋は近年は、四国(琴平)の金丸座(日本最古)、小坂町の康楽館(こうらくかん)※1、内子町の内子座のように、地域振興活動の一環として見直されています。

参考文献

*1
文化庁文化遺産オンライン文化庁 リンク
旧共楽館(日立武道館) リンク

日立鉱山が従業員や地域住民のために建設した大規模な妻入の劇場で、歌舞伎座(…

*2
共楽館史料調査会史料集共楽館地域と共に歩んだ五十年日立市郷土博物館1999.3
共楽館の建築

P.16
共楽館の設計に影響を与えたのは明治44年秋にリフォームを終えたばかり…

参考記事

※1小坂(康楽館)役者たちの無数の落書きが残されています。

日立(神峰山)山頂には日立鉱山の観測所。

大煙突展望台※1 から約2時間。神峰山に到着です。

日立市街と太平洋が見渡せます。

明治43年から昭和27年まで、山頂には、日立鉱山の観測所が置かれ、大煙突の煙の観測をしていました。(「神峰山観測所の由来」案内板より)。

平成5年2月19日、大煙突が倒壊しました。翌年の平成6年9月に、在りし日の台煙突の雄志を刻して記念碑が建立されました(碑文より)。

日立(大煙突展望台)煙害問題を克服した歴史。

かつて、日立鉱山の煙害で、この辺り一帯から緑が消え、荒れ果てていたことがありましたが、試行錯誤の末、世界一高い大煙突が建設されました。煙害は激減し、自然環境は少しずつ回復していきました。*1

大煙突の建設は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』により、その存在が広く知られるようになりました。※1

現在、煙突は倒壊し、当時の高さの3分の1の高さになっています。

鞍掛山から神峰山へ向かう登山道の途中にある「大煙突展望台」を目指します。

40分ほどで「大煙突展望台」へ到着。

企業と地域住民が共存共栄をめざし、煙害問題の克服と自然環境の回復に取り組んできた歴史が今も大煙突に生き続けています。*1

参考文献

*1
JX金属日鉱記念館JX金属 リンク
日立の大煙突 リンク

目の前に広がる緑豊かな山々。かつてこの辺り一帯から緑が消え、荒れ果てていた…

参考記事

※1日立(大煙突記念碑)新田次郎文学碑。日立市のシンボル。

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日立(神峰山)山頂には日立鉱山の観測所。

日立(大煙突記念碑)新田次郎文学碑。日立市のシンボル。

今回は、常陸(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
かみねレジャーランドから鞍掛山へ向かう途中に、「大煙突記念碑」と「新田次郎文学碑」が建っています。

大煙突は、日立市のシンボルです。

新田次郎文学碑。

「三郎は祈るような気持ちで大煙突を見上げていた。高い、高い煙突の上には青空があった。いつまでも煙突を見上げていると、眩舞いがしそうだった。」

参考文献

参考記事

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日立(大煙突展望台)煙害問題を克服した歴史。

東武練馬(喫茶ボタン)昔ながらのレトロな喫茶店。

東武練馬駅の南口から細い路地を抜けたところにある喫茶ボタン。石材やステンドグラスが使われている概観は人目を引きます。

昔ながらのレトロな喫茶店です。

昭和感のある店内。

ジャンボオムライスとビールを注文。

参考文献

参考記事

東武練馬(北町アーケード)ショッピングセンター。

北町楽天地の50mくらい東に、大きな電飾看板の「北町アーケード ショッピングセンター」の入口があります。

昼間でも薄暗い感じの商店街です。

商店街の奥の方には、居酒屋やスナックもあります。

商店街はコの字型になっていて、西側にも出入口があります。

参考文献

参考記事

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東武練馬(コの字の飲食街)東武東上線の線路沿い。

東武練馬(北町楽天地)昭和にタイムスリップしたかのような小さな飲み屋横丁。

今回は、東武練馬(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
東武東上線、東武練馬駅前の旧川越街道沿いに、昭和にタイムスリップしたかのような小さな飲み屋横丁があります。

左右に、2階建ての建物が並び、横丁を形成しています。

横丁の上部には左右に支柱がわたされています。

大衆スナック。

参考文献

参考記事

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東武練馬(コの字の飲食街)東武東上線の線路沿い。

常陸太田(たか松)南側と西側の2面に装飾があります。

鯨ヶ丘の北側。棚倉街道をさらに北へ進んだ馬場町にも商店街が続いています。

事務用品の「たか松」。

南側と西側の2面に装飾があります。

南側の壁面。

参考文献

参考記事

常陸太田(大森文具店)セーラー万年筆の看板。

常陸太田の鯨ヶ丘の北側の商店街にも、古い商店の建物が残っています。

セーラー万年筆の看板のある文具店。
セーラー万年筆株式会社(本店:広島県呉市)は、1948年(昭和23)、国産初のボールペンを発売しました。*1

重厚感のある木製の切り文字。

セーラーのロゴ。
軍港都市・呉から、将来は自らの製品を船によって輸出したいという念願と、ひとりの提督より多くの「水兵(セーラー)」が大切だとの思想により、「セーラー」と命名されました。*1

参考文献

*1
セーラー万年筆SAILORセーラー万年筆 リンク
セーラー万年筆の歴史

「SAILOR」の由来

常陸太田(昇龍)パラペット部分には、太陽の意匠。

東二町の商店街にある「昇龍」。支那そばが名物の店です。

パラペット部分には、太陽の意匠が施されています。屋号の「昇龍」にふさわしい看板建築です。

テーブル席と、座敷があります。

チャーシューメンとビールを注文。

参考文献

参考記事

常陸太田(板谷稲荷神社)南側は切れ落ちた崖。芸妓たちが信仰。

板谷坂(ばんやざか)の下り口の脇に、板谷稲荷神社の参道の入口を示す石柱が建っています。

参道を進むと、奥に稲荷神社の鳥居が見えてきます。南側(写真右側)は、切れ落ちた崖になっています。

板屋稲荷神社は、1394から1427年(応永年間)に建立されたもので、佐竹氏累代の氏神です。かつて、芸妓たちは新年の初午にお参りしました。芸妓がいなくなった今では、東町二丁目の氏神様となっています。*1

傍らの石碑には、大雨のたびに何度も繰り返されていた崖の崩壊を防ぐため、明治33年に石垣による大工事が行われた経緯が記されています。

参考文献

*1
額賀せつ子水戸と太田の芸妓たち : 芸妓の今昔(公財) いばらき文化振興財団助成事業K5 ART DESIGN OFFICE.2015.12
太田の芸妓たち

P.90
板屋坂の中間地に板屋稲荷神社がある。かつて芸妓たちは新年の初午にお…

参考記事

常陸太田(狸横丁)芸妓置屋「若小磯」があったあたり。

かつての歓楽街だった東三町の広場になっている場所がありますが、このあたりには、芸妓置屋「若小磯」がありました。*1
若小磯は当時全盛で、常に十余人の芸者がいました。*2

東三町と西三町とをつなぐ路地は二つあって、狢(むじな)横丁※1 と呼ばれる通りがその一つで、もう一つは、狸横丁で、曲がりくねった道で西町へ通じ、待合や芸妓置屋が多い所でした。*2

曲がりくねった道の先は、まっすぐな道が西町へ通じています。

西町側から見たところ。

参考文献

*1
岩間実思い出小学校卒業まで茨城出版企画センター1993.11
表通りの思い出

P.88
東三丁目表通りの家並

P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…

参考記事

※1常陸太田(狢横丁)待合があった通り。東三町と西三町とをつなぐ路地。

常陸太田(若宮八幡宮)割烹料亭寄進の玉垣。

常陸太田の鯨ヶ丘の北側にある若宮八幡宮。

大正時代初期。祭りや祝い事があると、芸妓の出番になっていました。若宮八幡宮の例祭には、山車が出て、芸妓が山車に乗りました。*1
境内の西側に並ぶ玉垣には、「釜萬」※1(東三町の板谷坂のところにあった割烹料亭)や「㐂可久」の名が刻まれています。

割烹「若柳」。※2

玉垣は、新しいものも混在しています。梶山清六は、常陸太田出身の国会議員(元自民党幹事長)です。

参考文献

*1
額賀せつ子水戸と太田の芸妓たち : 芸妓の今昔(公財) いばらき文化振興財団助成事業K5 ART DESIGN OFFICE.2015.12
太田の芸妓たち

P.90
板屋坂の中間地に板屋稲荷神社がある。かつて芸妓たちは新年の初午にお…

参考記事

※1常陸太田(「若柳」跡)急峻な地形の上に建つ割烹旅館跡。※2常陸太田(「釜萬」跡地)かつての歓楽街。東通り商店街。

常陸太田(都々逸坊の石像)都々逸節の元祖。

JR常陸太田駅の前を水戸方面に向かって南へ約3kmほど。

道路沿いに数本の松の木に囲まれた「都々逸坊扇歌の石像と石碑」がひっそりと立っているのを見つけることができます。*1

都々一坊扇歌は、都々逸節(どどいつぶし)の元祖といわれ、生まれながらの美声と才能を生かして、江戸に出て寄席芸人となり、都々逸節を全国に流行させました。*1

石碑には「磯部田んぼの バラバラ松は 風も吹かぬに 気がもめる」という歌(生まれ故郷の風景を唄ったもの)が書かれています。この歌は都々一坊扇歌が少年時代につくった歌で、当時扇歌が村中を唄い歩き、磯部で流行したと伝えられています。*1

参考文献

*1
常陸太田市教育委員会常陸太田の礎を築いた人たち 2常陸太田市教育委員会2014.3
都々逸坊扇歌

P.7
都々逸節(どどいつぶし)の元祖といわれるのが、江戸時代の終わりに久…

参考記事

江古田(富士塚)江古田浅間神社。国の重要有形民俗文化財。

江古田駅北側にある浅間神社。境内の奥に、国の重要有形民俗文化財に指定されている富士塚があります。

富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートル。築かれたのは、天保10年(1839年)で、都内に残る富士塚の中では、規模が大きなものです。*1

富士塚には、毎年7月1日の山開きの日や正月など、限られた日しか登ることができません(案内板より)。

頂上の鳥居。

参考文献

*1
練馬区練馬区練馬区 リンク
江古田の富士塚

江古田の富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田…

参考記事

江古田(江戸清)レトロな店構え。「そば」の看板。

旭丘1丁目の通り沿い。「そば」の看板。

レトロな店構えの「江戸清」。

そば・うどんの他、丼ものもあります。

天ぷらそばとビールを注文。

参考文献

参考記事

江古田(江古田湯)昔ながらの薪で沸かす銭湯。

練馬区旭丘1丁目にあるビル型銭湯の江古田湯。

昔ながらの薪で沸かす銭湯です。

入口。

縁側から眺める庭園。

参考文献

参考記事

江古田(野方配水塔)ドーム型の屋根。東京近郊都市化のシンボル。

中野区の哲学堂公園の北側。「水道タンク前」のバス停。バス停の名前の通り、水道タンク(野方配水塔)が建っています。

野方配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治(なかじまえいじ)博士(1858-1925)の設計です。着工は昭和二年(1927)で、竣工は同4年です。

ドーム型の屋根は、地域の特徴ある景観をかたちづくっています。東京近郊都市化のシンボルです。*1

「江古田の水道タンク」「水の塔」「給水塔」などと親しまれてきました。

参考文献

*1
中野区教育委員会野方配水塔(案内板より)中野区教育委員会2014.2

野方配水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は、大正12年(…

参考記事

江古田(お食事処)住宅街にある大衆酒場食堂。

江古田から都営新宿線新江古田駅へ向かう途中の四つ角にある「お食事処かなっぺ」。

食堂ですが、酒場のような雰囲気です。

飲み物を頼むとお通しがついてきます。

やきとりを注文。

参考文献

参考記事

江古田(自販機コーナー)1000円ガチャ。18歳未満専用の自販機。

今回は、江古田(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
西部池袋線江古田駅から東長崎へ向かう通り沿い。旭丘1丁目に、自販機コーナーがあります。

歩道に面した場所には、食料や飲料の自販機が設置されています。

2列目の自販機は、レアアイテムなどの1000円ガチャ。

3列目は、18歳未満専用の自販機です。自販機前に立つと自動的に明かりが灯ります。

参考文献

参考記事

国府台(柳原水閘)美しい4連アーチの土木遺産。

矢切の低湿地を流れる坂川が江戸川に合流する地点に、柳原水閘(やなぎはらすいこう)の遺構が残されています。坂川は、古記録では「逆川」と記され、洪水時には合流する江戸川から水が逆流し、しばしば湛水状態に陥れました。これを防ぐために建設されたのが柳原水閘です。*1

現在は、その役目を柳原水門が担っています。

柳原水閘は、1904(明治37)年、美しい4連アーチを誇る煉瓦づくり樋門(ひもん)として、建設されました。

ゲートの上部には、柳原水閘(やなぎはらすいこう)と刻まれています。

反対側(南側)から見た柳原水閘

参考文献

*1
土木学会選奨土木遺産土木学会 リンク
柳原水閘 リンク

千葉県松戸市の西部、江戸川左岸の低湿地を流れる坂川は、水運路や農業用水路と…

参考記事

国府台(栗山配水塔)「野菊支」と書かれた電柱プレート。

北総線矢切り駅からも見える栗山配水塔は、1937(昭和12)年竣工した配水塔で、千葉県営水道の要となった施設です。*1

近傍に新設された「ちば野菊の里浄水場」の稼働により、2007(平成19)年度に古ヶ崎浄水場は閉鎖されましたが、栗山浄水場と栗山配水塔は、現役施設として活躍しています。*1

配水塔の円筒形の胴体には、ドーム状の塔屋が被さり、さらに頭頂部には四本の柱で支えられた換気口が備わっています。また、ドームの周囲にはバルコニーがめぐらされた意匠になっています。*1

平成19年に、栗山配水塔の西隣にできた「ちば野菊の里浄水場」の名前は、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」に由来しているそうです。*2
栗山配水塔の敷地周辺の電柱プレートには、「野菊支」と書かれています。

参考文献

*1
土木学会選奨土木遺産土木学会 リンク
栗山配水塔 リンク

1934(昭和九)年3月31日、内務省の認可を受け、千葉県営水道がスタートした。…

*2
千葉県千葉県千葉県 リンク
ちばコレchannel リンク
ようこそ!浄水場へ(5)ちば野菊の里浄水場 リンク

現在、千葉県水道局には5つの浄水場があります。ちば野菊の里浄水場はその中で…

参考記事

国府台(矢切の渡し)寛永八年に幕府が始めた公営の渡し場。

「野菊の墓の碑」から西へ徒歩15分。江戸川が見えてきます。

「矢切の渡し」は、寛永八年に幕府が始めた公営の渡し場で、近郷の木こり、草刈、工作人のみが利用できる渡し船でした。今も残る「観光渡船」矢切の渡しは、都内唯一の渡し船となっています。*1

矢切りの渡しは、小説「野菊の墓」の政夫と民子の別れの場面にも登場します。*2
「船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個ひとつにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。」

時刻表などはなく、渡し場に客がくれば一人でも運航します。

参考文献

*1
新人物往来社江戸史跡事典 下巻谷根千地区・文京区・台東区・墨田区・江東区・荒川区・葛飾区・江戸川区新人物往来社2007
矢切の渡し

矢切の渡しは、寛永八年に関東郡代伊奈半十郎を管理者として幕府が始めた公営の…

*2
青空文庫青空文庫青空文庫 リンク
伊藤左千夫野菊の墓 リンク

 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎり…

参考記事

国府台(野菊の墓文学碑)「政夫が民子を待った大きな銀杏の樹」の場所。

北総線矢切駅から徒歩10ほどの場所に、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の文学碑が建てられています。

伊藤左千夫は、農家の四男として生まれ、明治法律学校(明治大学の前身)を眼疾のため退学帰郷。再び上京して、二十五才のときに牛乳搾取業を開業し、その後、正岡子規に師事しました。そのときに詠んだ歌
 牛飼いが歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる
(身分が高くもなく雅な職業でもない牛飼い(牛乳搾取業を営む自分)が歌を詠むような世の中には、新しい歌がたくさん生まれる)には、左千夫の和歌に対する気概がこめられています。左千夫は、和歌のほか、歌論、新体詞、写生文、小説等があり、「野菊の墓」は、伊藤左千夫の処女作の小説です。*1

文学碑の前面には、「野菊の墓」*2 の一節が刻まれています。(物語のはじめ、3ヵ所の抜粋)

碑の裏面*1 によると、「政夫が民子を待った大きな銀杏の樹」は、この文学碑があった場所だそうです。

参考文献

*1
野菊の墓文学碑 裏面碑文

伊藤左千夫の略歴
元治元年1864 8月18日千葉県山武郡成東町殿台に生れた。本…

*2
青空文庫青空文庫青空文庫 リンク
伊藤左千夫野菊の墓 リンク

 僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切やぎり…

参考記事

国府台(陸軍の石柱)「陸軍」の文字が刻まれています。

里見公園の北側から江戸川へ下る道の途中。

ガードレールの脇に石柱が1本、建っています。

草むらの中の四角柱の石柱。

石柱は風化していますが、「陸軍」の文字が刻まれています。
国府台は、陸軍で発展した町です。
1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、その後、歩兵大隊が移転しました。*1
「市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録」*2 に、「里見公園の裏門を出て約500メートル歩くと、下り坂があって江戸川ぞいの道と合流する。坂を下る手前左の台地に、陸軍の用地を示す石柱が一本ある。」との記述がありますが、この石柱のことかもしれません。

参考文献

*1

P.1
1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、市川…

*2

P.24
⑩高射砲の台座跡 国府台四丁目
里見公園の裏門を出て約500メートル…

参考記事

国府台(朝日湯)ビルの谷間の奥の銭湯。油田型の煙突。

国府台駅から松戸街道を市川駅方面へ向かって進むと、道路沿いに朝日湯の看板があります。

ビルの谷間の奥に銭湯の入口があります。

油田型の煙突。

銭湯脇の路地。

参考文献

参考記事

国府台(割烹料亭跡地)国府台三業組合。大正道路。

「市川名鑑(1930年)」によると、国府台三業組合の割烹料亭は、大正通り(大正道路)、根本、国府台大観台下、などに散在していました。*1
大正道路:市柳別館、華の江、田浦、嬉し乃
大正通横入:一力

国府台三業組合の割烹料亭のうち、割烹「華の江」は、昭和30年代まで営業していました。*2

大正通りの電柱プレート。

割烹「華の江」があったあたり。

参考文献

*1
臼淵天鴻市川名鑑郷土社1930

P.218
国府台三業組合は、京成電車国府台停留場を中心とする附近一円の地、…

*2
日本都市協会市川市動態図鑑日本都市協会1961.8
11図~20図根本町、市川町、真間町、国府台町

13図
・市川二業組合

<…

参考記事

国府台(里見公園の案内板)江戸名所図会の「国府台断岸之図」。

今回は、国府台(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
京成電鉄国府台駅に里見公園※1※2 の案内板があります。

江戸名所図会の「国府台断岸之図」*1 をアレンジしたものです。

南郭の漢詩は、江戸名所図会*1 に書かれているものと同じです。

「國府臺断岸之図」は、江戸名所図会の通りですが、その左側の説明文は、オリジナルの案内文です。

参考文献

*1
斎藤長秋江戸名所図会 二十天保5~7年刊 (須原屋伊八蔵版) の後刷博文館 リンク

総寧寺晩眺
荒城千仞(せんじん)没し
蕭寺(しょうじ)上方開く
山断…

参考記事

※1国府台(「鴻月」跡地)里見八景園の一事業。1976年まで営業。※2国府台(里見公園)大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地。

日立(郷土博物館)日立鉱山と日立製作所の創業。

かみね公園のふもとにある日立市郷土博物館。
2階には、「日立鉱山と日立製作所の創業」に関する常設展示があります(写真は建設中の大煙突)。*1

「日立製作所の創業」の展示。
日立鉱山の電気機械修理工場が日立製作所のはじまりです(案内板より)。

家電品の展示。ほとんどが日立製作所製です。

1959年発売の洗濯機(SH-AT30)。洗濯容量は2Kg。絞り機は大型の圧力調整式で、薄物から厚物まで好適な絞りができるよう工夫されていました。*2

参考文献

*1
日立市郷土博物館日立市郷土博物館日立市郷土博物館 リンク

2階 日立の民俗と産業

*2
日立製作所日立評論日立評論社 リンク

P.80-P.81
SH-AT30形撹拌式洗濯機
本機は従来の撹拌式を脱却し、捩れ羽根…

参考記事

日立(日立食堂)お食事の店。大雄院通り沿い。

日立駅から国道6号を北に行き、交差点を山側へ左折して大雄院通りを100mくらい行ったところにある「日立食堂」。

昭和の雰囲気漂う大衆食堂です。

ラーメン、そば・うどん、ご飯物、定食など、メニューは豊富です。

五目ワンタンメンとビールを注文。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

日立(弁天町の飲食ビル)2階建ての防火帯建築。

日立市の弁天町バス停の西側。左側(南側)は空地になっていますが、右側(北側)は飲食店街のビルが連なっています。

2階建ての防火帯建築の飲食街。2階部分は、白い壁面で統一されています。

統一された長大な建物ですが、よく見ると3つの棟に分かれています。(写真は、中央と東側の建物の間)

白い壁面で統一されている建物表側と比べ、建物裏側(北側)は、増改築を繰り返している様子が見て取れます。

参考文献

参考記事

日立(福乃湯)ビル型の銭湯。日立駅西口前。

今回は、日立(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
JR常磐線日立駅西口前のロータリー(写真左奥)の北側に、銭湯の福乃湯があります。

ビル型の銭湯。

2階3階はアパートになっていて、駐車場もあります。

入口を入ると男湯、女湯、左右に分かれます。

参考文献

参考記事

水戸(ミナミ食堂)昭和21年創業。主力はラーメン。

南町一丁目交差点の角にあるミナミ食堂。
創業は昭和21年だそうです。最近テレビ放映があって、お客様が急増したそうです。

テイクアウトもやっています。

主力はラーメンです。

タンメンとビールを注文。

参考文献

参考記事

水戸(青木新地)かつての歓楽街富田新地。

泉町二丁目(泉町一丁目交差点の西側)、「中央ビル」の裏手のパーキングが建つあたりは、泉町近辺では一種特別な雰囲気を持った歓楽街でした。


明治の末、豪商富田彦市という人が、ここに稲荷神社を勧進して水雷稲荷という社を建て、その南方一帯に、料理屋(待合)や芸妓屋を置いて、夜の歓楽街(富田新地)ができました。その後、明治45年に、この一帯は青木才次郎という建設業者のものとなり、名も富田新地から青木新地に変りました。当時の水雷稲荷は、写真のあたりにありました。*1

現在の中央ビルの場所には、旅館「伊勢彦」、青木材木店(青木才次郎の子が経営)がありました。*2*3

常陽銀行泉町支店(その前は第一勧業銀行水戸支店)脇の路地は、かつては「富田横丁」と呼ばれていました(富田新地の名残でしょうか)。*3

参考文献

*1
望月安雄泉町物語水戸の今昔泉町商店会1995.8

P.146
泉町二丁目、今の第一勧業水戸支店横の路地を入ると、五軒町の日本た…

*2
網代茂水府巷談新いばらきタイムス社

P.331
今も残っている水雷稲荷神社が、青木新地(富田新地)の昔を語る唯一…

*3
望月安雄泉町物語水戸の今昔泉町商店会1995.8

P.40-P.41
泉町2丁目の地図
旅館「伊勢彦」、青木材木店
富田横丁:…

参考記事

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水戸(常陸山の碑)内臓は、普通人より約一倍半の大きさ。

水戸東照宮の安神車が保管されている建屋(写真右奥)の隣に、巨大な石碑が建っています。

常陸山之碑。

常陸山(水戸市出身、第19代横綱)は、大正11年6月19日、49歳で急逝しました。昭和16年4月、常陸山没後20周年に際し、水戸東照宮境内に「常陸山の碑」が建立されました。*1

石碑前面には、遺体解剖のくだりが書かれています。「わが身を解剖、力士の体の組織を知れば、いささか以てこの道に貢献することができよう」との常陸山本人の希望により、慶応大学にて解剖が行われました。内臓は、普通人より約一倍半の大きさ。しかも完全に頑強で真に力士として理想的でした。*1

参考文献

*1
網代茂水府綺談新いばらきタイムス社1992.7

P.375
常陸山は、大正11年6月19日、49歳で急逝した。昭和16年4月、常陸山没…

参考記事

この記事を参照している記事

水戸(水戸黄門像)テレビドラマでおなじみ。助さん格さん。

今回は水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
水戸駅北口に、テレビドラマでおなじみの「水戸黄門 助さん格さん像」が建っています。

水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり、御三家水戸藩の第二代藩主です。*1


明治以降、光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されました。お供の助さん格さんは佐々木助三郎、安積覚兵衛がそのモデルと言われ、共に大日本史編さんに尽力した学者でした。3人が揃って旅したことはありませんが、光圀の命で助三郎らが資料収集のため全国を旅しているので、それが漫遊物語に発展したと考えられています。*1

中央が水戸黄門、左が助さん、右が格さんをイメージしています。*1
TBSの「水戸黄門」第一回が放映されたのは、昭和44年8月4日。身分を明かす目的で印籠を示す場面が定着したのは、シリーズ第八部(昭和52年)の頃でした。*2

参考文献

*1
水戸黄門と助さん格さん水戸駅前の「水戸黄門 助さん 格さん 像」の解説文

水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり、御三家水…

*2
金海南水戸黄門「漫遊」考新人物往来社1999.1
「黄門漫遊記」の発展映画とテレビ

P.303
大正・昭和になると、「黄門漫遊記」の主流は講談から映画、さらにテ…

参考記事

常陸太田(和田薬局)みやこ染のホーロー看板。

2階部分には、酒屋でみかけるような看板が並んでいます。「くだり腹とめヘルプ」「浅田飴」「家庭染料みやこ染」

みやこ染のホーロー看板。
「みやこ染め」は、明治時代に創業した染料商(桂屋)のブランド名で、都(東京)に由来しています。みやこ染の「こ」の字体は、明治まで使われていた旧平仮名(変体仮名)をそのまま引き継いでいます。*1

桂屋の染料は衣類、とりわけ着物、背広、軍服などの家庭での染め替え需要に大いに合致し、染料の種類も綿や絹から毛にも染まるものに広げていきました。衣類の染色は家庭の嗜みとして、学校の家庭科教科にも取り入れられるほどでした。*1
昭和16年(第二次大戦勃発の年)の広告には、「私達銃後の女性は、まず廃品を活かして生活の無駄を省くこと。誰にも手軽にできる廃品衣服の更生は、みやこ染めで染め替え。二度のお役に立てることです。」と、染め替えがお国へのご奉公であることが述べられています。*2

参考文献

*1
桂屋ファイングッズみやこ染創業1890年。日本生まれの染料、顔料ブランド桂屋ファイングッズ リンク

創業者である青山力之助は、12歳の時に染料商家の家に奉公に出て、東京日本橋で…

*2
万年社広告年鑑 昭和16年万年社1941

みやこ染
興亜奉公日 五月一日。今日は興亜奉公日。私達銃後の女性は、今日…

参考記事

常陸太田(コンクリゴミ箱)狢横丁の入口。

狢(むじな)横丁※1 の入口。

コンクリゴミ箱が遺っています。

前面には木製の扉があったようです。金属製の上蓋はきれいに残っています。

側面のコンクリートに若干の亀裂が入っていますが、原形を留めています。

常陸太田(狢横丁)待合があった通り。東三町と西三町とをつなぐ路地。

東三町と西三町とをつなぐ路地が二つあって、待合や芸妓置屋が多い所でした。そのうちの一つ、狢(むじな)横丁と呼ばれる通りは、東町から入り、「新柳」や「釜平」※1 を経由して西町の旧千代本の横に出る通りです。*1

一品料理「新柳」。

新柳の奥(西側)には、待合がありました。*2

西三町側から振り返ったところ。

参考文献

*1
常陸太田市史編さん委員会常陸太田市史 通史編 下常陸太田市1983.3

P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…

参考記事

※1常陸太田(釜平)ソースかつ丼の名店。大盛りは、ものすごいボリューム。

この記事を参照している記事

常陸太田(牛乳店)森永ホモ牛乳の看板。山下町交差点付近。

今回は、常陸太田(茨城県常陸太田市)の町並みを散歩します。
常陸太田駅から市街へ向かう道路(山下町交差点付近)。右側の坂道を登ると鯨ヶ丘の市街です。

山下町交差点の近くに建つ牛乳販売店。以前は、両側にも商店が建ち並び商店街を形成していたのだと思います。

森永ホモ牛乳の看板。

ホモ牛乳(均質化された牛乳)は、森永牛乳のキャラクター「ホモちゃん」※1※2※3 を生み出しました。

平潟(風船爆弾放球基地跡)9,300個が放流され、約280個が到達。

わすれじの碑※1 のある場所から平潟駅へ向かう道の途中に、「風船爆弾放球基地跡」があります。看板が建っているのみで、遺構らしきものはありません。

風船爆弾の風船部分は直径10m。手漉き和紙(気球紙)をこんにゃく糊で貼り合わせた、世界史上に見られない仕掛けでした。日本の三ヵ所(平潟、福島県勿来、千葉県一宮)から、9,300個が放流され、そのうち、アメリカ合衆国などに届いた風船爆弾は約280個ほどでした。*1

風船爆弾の「気球紙」は、埼玉県小川町の薄くて丈夫な細川紙を使って開発されました。※2

風船爆弾放球基地跡の奥に供養塔が建っています。

昭和19(1944)年、初の放球時、装置の故障による誤爆で3名の兵士が死亡しました。風船爆弾は、重要秘密事項だったため、亡くなられた兵士の名前は明らかではありませんが、菩提を弔うため地元の方々により建立されました(案内板より)。

参考文献

*1
北茨城市史編さん委員会図説北茨城市史北茨城市1973

P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…

参考記事

※1平潟(わすれじ平和の碑)風船爆弾放流地跡。※2越生(フーセン爆弾工場跡)「乾繭所」の広間で、巨大風船が製造されました。

平潟(わすれじ平和の碑)風船爆弾放流地跡。

平潟の五浦の海岸線に、「わすれじ平和の碑(風船爆弾放流地跡)」が建っています。
風船爆弾は、第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍が、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する作戦を展開したものでした。晩秋から約五ヶ月間が最も強くふく偏西風(太平洋上空のジェット気流)にのせて、爆弾・焼夷弾を吊るしたおびただしい数の巨大な気球を放流させましたが、戦局を左右させるほどの効果はありませんでした。*1

しかし、トルーマン大統領は、風船爆弾によって、細菌攻撃がおこなれるのでは(当時、日本の第731細菌戦部隊は、ペスト菌兵器を開発済み)との恐怖感を持っていました。再び日本からアメリカへ偏西風が吹き始める9月に入る前に戦争の決着をつけるため、トルーマン大統領は、原子爆弾使用に踏み切ったのではないか、との考察があります。*2

最終的に、日本は、ペスト菌をアメリカに散布しませんでした。それは、人道的な観点からでなく、使用した場合の敵のすさまじい報復を恐れたからです。そして大きな皮肉が起きました。細菌攻撃を恐れたアメリカは、原子爆弾という非人道的最新兵器を最後に用いました。*2

碑の台座部分の「新しい誓い」には、
 殺意の武器はいらない
 さようなら戦争
と刻まれています。

参考文献

*1
北茨城市史編さん委員会図説北茨城市史北茨城市1973

P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…

*2

P.9
トルーマン大統領が原子爆弾使用に踏み切った心理的原因の一つには、風…

参考記事

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平潟(小さな鳥居)ごみ捨て禁止の看板の近。

平潟港から、海沿いを南へくだっていく道路の中。ごみ捨て禁止の看板がたっています。

ごみ捨て禁止の看板の近くにある赤色の小さな鳥居。

立小便禁止を意味しているものと思われます。

手作り感のある鳥居です。

参考文献

参考記事

平潟(保養館)平潟港近く。明治末期から営業。

平潟港近くに建つ保養館。

木造三階建ての建物です。

旅館「保養館」。

明治末期の平潟港から本町通り方面を撮影した絵ハガキによると、平潟港側左側に薬局、その奥に和泉屋呉服店があり、右側に保養館、奥に遊女屋の大きな建物がありました。*1

参考文献

*1
びばじょいふる編集室びばじょいふるびばじょいふる編集室
菊池半ノスタルジック平潟今昔物語(その1)絵ハガキに見るなつかしの風景

・明治末期の本町通り
向かって左側が薬局、その奥が和泉屋呉服店、右側が保…

参考記事

平潟(砥上屋)元来は高級料亭。戦後は旅館に転業。

平潟港の港に面した通り沿いに建つ老舗旅館の「砥上屋」。

現存する建物は、明治43年に建築したもので、玄関先に少し手を入れただけで、当時のままだそうです。旅館業になったのは戦後のことで、元来は高級料亭でした。*1

当時の遊女屋を思わせる木造三階建て。二階から遊女に声を掛けられそうな感じをうけます。*2

食事は、あんこう料理と磯料理。

参考文献

*1
びばじょいふる編集室びばじょいふるびばじょいふる編集室

・平潟町砥上屋
現存する建物は、明治43年に建築したもの。玄関先に少し手を…

*2
北茨城市北茨城史壇北茨城市
第11号1993.10

P.62
当時の遊女屋を思わせる木造三階建の「砥上屋旅館」があり、二階から遊…

参考記事

平潟(八幡神社)「鷹岡八幡宮再造記」の碑。再建に洗濯屋が寄付。

八幡神社の社殿は、天保6年(1835)に、焼失しましたが、嘉永6年(1853)に再建されました。*1

社殿に右奥に「鷹岡八幡宮再造記」の碑が建っています。

百両以上の寄付者には、この再建の中心人物の菊池半兵衛の他、洗濯屋仲間(120両)、仲宿中(100両)の名が含まれています。*2
一金百両 菊池半兵衛
一金百両 外金百両増金 村方
一金百両 寅年金百両増金 五十集会所
一金百両 外弐拾両増 洗濯屋仲間
一金百両 仲宿中

平潟の遊女屋は洗濯屋と呼ばれていました。文政12年(1830)には、洗濯屋の数は8軒で、これに不可分に結びつく仲宿43軒が仲間を結成、隆盛を極めました。*1
小宮山楓軒は、文政10年(1827)奥州への旅の途中、「狭い所だけれど200余りの家がある。遊女屋も7軒ある。瓦屋根の家々がまるで魚の鱗のようにつながっており、まるっきり都会のようだ。」とその繁栄ぶりを書きとめています。*1*3

八幡神社は、高台にあるので、平潟港を見渡すことができます。(地元の方の話によると、現在、海沿いに建っている木造3階建ての旅館のほとんどは、元は遊女屋だったそうです。)

境内から登ってきた階段を見下ろすと、その高度を実感できます。

参考文献

*1

P.67
社殿は、天保6年(1835)に、焼失してしまったが、現社殿は、嘉永6年(…

*2
北茨城市北茨城史壇北茨城市
第5号1985.3

八幡宮は、天保6年(1835)、焼失せりより嘉永3年(1850)に至るまで16年間、こ…

*3
森銑三随筆百花苑 第3巻中央公論社
小宮山楓軒浴陸奥温泉記 一

P.316
繁栄の地ナリ、狭小ノ所ナレド二百餘戸アリ。遊女肆モ七家アリ、富商…

参考記事

平潟(娼妓々夫供養碑)海徳寺岸光坊墓地。12軒の貸座敷。

今回は、平潟(茨城県北茨木市)の町並みを散歩します。
平潟郵便局のある交差点から、西の「友の湯温泉」へ向かう道を100mくらい行き、国道6号線の下を通り抜けた右手に岸光坊というお堂があります。そのお堂の前の一角に海徳寺の墓地があり、ここに、「娼妓々夫供養碑」が建っています。*1

寄進者の楼名や氏名が刻まれています。

碑の裏面。

碑の建立は、明治45年4月15日。建立者は、泉州楼、開盛楼、福島楼、砥上楼、など12軒の貸座敷と芸妓一同です。*1*2

参考文献

*1
北茨城市北茨城史壇北茨城市
第11号1993.10

P.62
当時の遊女屋を思わせる木造三階建の「砥上屋旅館」があり、二階から遊…

*2
渡辺憲司江戸遊里盛衰記講談社1994.10

P.109

参考記事

市川(幸栄軒)日焼けが進んだ食品サンプル。

市川市真間2丁目。寿し「林屋」※1 のすぐ近く。

昔ながらの中華料理店の「幸栄軒」。

炒飯の食品サンプル。かなり日焼けが進んでいます。

炒飯の大盛を注文。

市川(恵比寿湯)中には日本庭園。池には金魚も泳いでいます。

市川市の新田3丁目にある恵比寿湯。

煙突は、思わず見上げていますほど高いです。

ビル型の銭湯。

縁側には日本庭園。池には金魚が泳いでいます。

参考文献

参考記事

市川(田中屋)伝統的日本家屋。古くからのそば屋。

市川駅から石乃湯へ向かう途中。

伝統的日本家屋の建物が建っています。

屋号の「田中家」が入口にはめ込まれいます。

田中屋は、古くからのそば屋でした。*1

参考文献

*1
日本都市協会市川市動態図鑑日本都市協会1961.8
21図~30図菅野町、真間町、国府台町

21図:田中屋(そば)

参考記事

※1市川(石乃湯)映画「アンダーカレント」のロケで使用されました。

市川(石乃湯)映画「アンダーカレント」のロケで使用されました。

市川市の国分2丁目。県道の西側に石乃湯への入口があります。

めずらしい形状の煙突。

入口。

石乃湯は、2023年10月公開の映画「アンダーカレント」のロケに使用されました。*1

参考文献

*1
全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会全浴連 全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会全国公衆浴場業生活衛生同業組合連合会 リンク

市川(寿し「林屋」)創業明治7年。赤色の建物。

市川手児奈通りの真間川近くの交差点にある寿し「林屋」。創業明治7年の老舗です。

建物は、赤色に塗られています。

奥には、座敷もあります。

ちらし寿しとビールを注文。箸袋に書いてある「鮨会館林屋」が正式店名のようです。

参考文献

参考記事

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市川(八幡神社)二業組合寄進の玉垣。

今回は、市川(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR市川駅の北側にある八幡神社。周囲は玉垣に囲まれています。

「市川睦会」と刻まれた玉垣。
昭和36(1961)年の住宅地図*1 に、睦会マーケットの見取り図が掲載されています。現在のダイエーがあるあたりで、睦会の事務所は、駅前寄りの場所にありました。
永井荷風は、ここに越して間もない昭和21年からしばしば食料品(わかさぎの佃煮・衣かつぎ・てんぷら・鰻蒲焼など)を買いにマーケットに出掛けました。*2

「市川二業組合」と刻まれた玉垣。
現在の真間2丁目11の手児奈通りに面したところにありました。*3

「白藤」。風化して読み取れませんが、店の前に建っている石柱※1 と同じ「関西料理白藤」と書かれていると思われます。

参考文献

*1
日本都市協会市川市動態図鑑日本都市協会1961.8
1図~10図市川町、新田町、平田町

何でもそろい何でも安いマーケットサービス本位の睦会
駅前に睦会の事務所*2

市川市市川市市川市 リンク

市川
荷風が市川に越してきた昭和21年頃は、現在のJRは省線と呼ばれ、市川…

*3
日本都市協会市川市動態図鑑日本都市協会1961.8
11図~20図根本町、市川町、真間町、国府台町

13図
・市川二業組合

<…

参考記事

※1市川(料亭「白藤」)関西料理

常陸太田(釜平)ソースかつ丼の名店。大盛りは、ものすごいボリューム。

西三町にあるかつ丼と鰻の店「釜平」。

暖簾には、かつ丼、うなぎと書かれていますが、実はソースかつ丼の名店です。

ソースかつ丼(大盛)とビールを注文。

丼に山盛りのご飯とかつは、ものすごいボリュームでした。

常陸太田(「若柳」跡)急峻な地形の上に建つ割烹旅館跡。

板谷坂から、北側へ入ったところに、旅館の建物が残っています。

割烹旅館「若柳」。
「若柳」は、大正11年元日の「いはらき新聞」の広告欄に「大田町割烹店組合」として紹介されています。*1

建物は、崖の途中に建てられています。

東側から見ると、「若柳」の建物が急峻な地形の上に建っていることがわかります。

参考文献

*1
常陸太田市史編さん委員会常陸太田市史 通史編 下常陸太田市1983.3

P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…

参考記事

この記事を参照している記事

常陸太田(3階建て)板谷坂の北側の高度感のある建物。

板谷坂※1 の北側の崖に建つ建物。

地上部分は2階建て。

南側は切れ落ちているので、高度を感じます。

坂の下から見上げると、3階建て以上の高度を感じます。

参考文献

参考記事

常陸太田(板谷坂)眉美千石と言われたすばらしい眺め。

常陸太田市中心部は、「鯨ケ岡」と呼ばれる台地の上に成り立っているため、台地に登り降りする道はいずれも急傾斜です。*1
板谷坂は、常陸太田の代表的な坂道です。

ここからの眺めはすばらしく、眉美千石とも言われていました。「番屋」と書かれた古文書もあることから、佐竹時代は、東方から街へ入るときの見付として役割もあったと考えられています(石柱の説明文より)。

かなりの急傾斜で下っています。

東側から見た板谷坂。

参考文献

参考記事

常陸太田(「釜萬」跡地)かつての歓楽街。東通り商店街。

今回は、常陸太田(茨城県常陸太田市)の町並みを散歩します。
常陸太田市中心部は、台地(高低差は30m以上)の上に位置し、台地の姿が鯨の形に似ていることから、台地は「鯨ケ岡」と呼ばれおり、台地上に位置する商店街は、古くからの中心商店街です。*1

「鯨ヶ丘ふれあい広場」の先にある東三町の商店街は、現在は「東通り商店街」と呼ばれています。
東三町は西三町とともに歓楽街を形成していました。*1

大正末期から昭和初期にかけての太田町は、商業隆盛と相まって花街も繁盛しました。大正11年元日のいばらき新聞の広告欄の「大田町割烹店組合」には、「釜萬楼」「万泉」「万梅」「二ツ木」「一寸亭」「若富十」「若柳」「朝日座」の名が紹介されていています。*2
元「釜萬楼」と思われる「釜萬」は東三町の板谷坂(ばんやさか)との交差点の角にありました*3

「釜萬」の隣には、「一寸亭」と芸妓置屋の「大黒屋」がありました。*4

参考文献

*1
筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ地域調査報告筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ リンク

P.3
常陸太田市中心部は、久慈川の沖積低地に阿武隈山地の南端部から細長く…

*2
常陸太田市史編さん委員会常陸太田市史 通史編 下常陸太田市1983.3

P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…

*3
日本住宅地図出版常陸太田市 1980ゼンリンの住宅地図日本住宅地図出版1980.4

交差点の角に「釜萬」、少し入ったところに「割烹旅館若柳」

P.88
東三丁目表通りの家並

国府台(「鴻月」跡地)里見八景園の一事業。1976年まで営業。

里見公園駐車場。里見公園のお花見広場※1 の東側に位置します(写真奥は江戸川)。

駐車場の東側は、里見公園の崖が迫っています。
駐車場があったあたりには、1976(昭和51)年まで、料理旅館「鴻月」が営業していました。*1*2

鴻月は当初、里見八景園の一事業でしたが、閉園・終戦後も営業を続けていました。*1

遊覧客の多くは、鴻月が経営していた渡し舟を使ってやって来たため、鴻月では桟橋をのばして客を迎え入れました。また、渡しの他にも遊船事業を行っており、鴻月は、遊覧船も数隻所有していました。*1

参考文献

*1
木ノ内博道市川 里見公園新聞木ノ内博道 リンク

■遊園地事業
現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけ…

*2
ゼンリン市川市 1972ゼンリン1972.1

参考記事

※1国府台(里見公園)大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地。

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国府台(里見公園)大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地。

現在、里見公園となっている場所には、大正末期から昭和初期にかけて「里見八景園」という遊園地(当時の遊園地は庭園や池泉、演芸場、茶店、動物小屋、見世物小屋等を主とする娯楽施設)がありました。*1
当時の遊覧客は、里見八景園や江戸川土手等を散策し、は、足休めに国府台三業へ立ち寄ることが多く、花柳界は年中不断に繁昌しました。*2

「里見八景園」だった頃の名残でしょうか。園内には、庭園のような景観が残されています。

お花見広場(花器使用可能区域)。
「里見八景園」は、創業と同時に千本の桜を植樹し、春には花見客で大変賑わったそうです。*1

里見公園の南側の塀に掲示された絵図(玉蘭斉貞秀「利根川人東岸一覧」、明治元年)。国府台の崖の部分(写真左側)は、かなり誇張された表現になっています。

参考文献

*1
木ノ内博道市川 里見公園新聞木ノ内博道 リンク

■遊園地事業
現在里見公園となっている場所には大正末期から昭和初期にかけ…

参考記事

この記事を参照している記事

国府台(ブロンズ像)スポーツセンター前。

市川市スポーツセンターの入口。

ここに、筋骨隆々としたスポーツマン2人のブロンズ像が建っています。

「感激」と名付けられたこの作品は、1952年のヘルシンキオリンピックで日本唯一の金メダリストの石井庄八(レスリング)同ギンメダリスト上迫忠夫(体操)の両選手が共に当時市川市在住者であったので、感激をこめて制作されたものです(案内板より)。

ヘルシンキオリンピックは、日本にとっては、第二次世界大戦後初(16年ぶり)の参加でした。

参考文献

参考記事

国府台(根本発展会)常盤湯跡地。かつての賑わいの跡。

今回は、国府台(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
市川市は、軍隊がきて発展した町で、その中心は国府台の根本商店街でした。「根本」とは、根の本であり、一番はじめを意味しています。*1

駅前の商店街「根本発展会」。

常盤湯があったあたり。*2
現在は駐車場となっています。

常盤湯の裏側に、2~3軒飲み屋があり、兵を相手とする女達がいた。「モンパリー」という店があり、ぜんざい屋も2軒位ありましした。*1

参考文献

*1

市川市は、軍隊がきて発展した町である。その中心が根本商店街である。「根本」…

*2
日本都市協会市川市動態図鑑日本都市協会1961.8
11図~20図根本町、市川町、真間町、国府台町

13図
・市川二業組合

<…

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