かつての柳橋の花街は、墨田川沿いにありました。
「昭和37年の柳橋マップ」*1 によると、この通りの東側(写真左側)に、「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭はやし」「料亭津久松」「料亭柳水」がありました。

佃煮屋の「小松屋」のマーク

反対側(南側)から。

墨田川からの遠望。現在はビルが建ち並んでいます。

かがい・かふぇー
かつての柳橋の花街は、墨田川沿いにありました。
「昭和37年の柳橋マップ」*1 によると、この通りの東側(写真左側)に、「料亭深川亭」「料亭子安」「料亭卯の木」「料亭はやし」「料亭津久松」「料亭柳水」がありました。
佃煮屋の「小松屋」のマーク
反対側(南側)から。
墨田川からの遠望。現在はビルが建ち並んでいます。
関内駅の南側の国道16号線沿のオフィス街。
神奈川中小企業センターのビルがある場所には、明治時代、新宿の遊女だったお倉が明治時代に開業した料亭「富貴楼」がありました。
お倉の才覚により、伊藤博文などの明治の元勲たちが集まり、富貴楼は、政治と経済の中心となりました。*3
桜木駅方向から。屋上が丸くなっているビルが、神奈川中小企業センターのビルです。
【参考文献】
*1 鳥居民:横浜富貴楼お倉(草思社,1997)P.9
旭町が花柳界として賑わい始めたのは、大正4年頃からで、助川駅(現在の日立駅)の周辺には、旅館、料理店、芸妓置屋が出来、この辺一帯は、海水浴場と共に、日鉱・日製社員等の憩いの場所となりました。三業組合ができて本格的な三業地として世に知られるようになったのは昭和4年頃から7年にかけてでした。*1
日立三業組合があったあたり(写真右奥)*2 は、現在は駐車場になっています。
明治時代からあった旅館「天地閣」は、現在はホテル「天地閣」になっています。
天地閣の北側(写真手前)には、割烹旅館「うめかわ」がありました。*2
天地閣脇の路地。
下館の羽黒神社※1 の東側に位置する稲荷町は、かつては繁華街でした。*1
この付近に大きな料亭の建物*2 がありました(写真右側)が、現在は取り壊されています。
崖の上からの遠望。
反対方向(南側)から。
花街があった中町の西隣の南町。
八王子三業組合の建物があります。
提灯。
三業会館の奥にある「三業稲荷」。
料理屋「すゞ香」*1 の北側。
黒塀に囲まれた置屋の「ゆき乃恵」。
建物脇の柳の木。
近くには、昭和30年代の花街の地図が掲示されています。
今回は、八王子(東京都八王子市)の町並みを散歩します。
かつて、織物業で栄えた八王子には、明治時代から花街がありました。現在も現役の花街として、中町には、料理屋が営業中です。
近年、黒塀が整備されるなどして、花街の風情が復活しました。
「すゞ香」は、当時の芸者衆の待合だった建物を改築したもので、今でも当時の面影が残っています(「すゞ香」の張り紙より)。
「八王子花街・黒塀通り」の説明書き。
今回は、白山(東京都文京区)の町並みを散歩します。
旧白山花街の中心部の通り。花街時代からあった染物屋「伊勢屋」は現在も営業中です。
「伊勢屋」の脇の石畳の路地。
料亭だったと思われる木造家屋。
この付近には、料亭が密集していました。*1
厚木の芸妓の存在は、江戸末期にはあったとされ、江戸時代中期以降の大山参りの隆盛に伴い、遊興の地となりました。戦後、昭和29年には、「厚木三業組合」が結成されました。*1
厚木花街のあった寿町一丁目。北側の通りは飲食街になっています。
寿司屋や居酒屋が建ち並びます。
道がカーブしている場所。
料理屋と思わわれる屋号が残るお宅。
1970年代、厚木の料亭街には、芸者が150人ほどいました。*2
浅草寺病院の北側。浅草3丁目5−7のあたり。この付近には、料理屋が建ち並んでいました。
現在の浅草一文別館のあたり。
料亭「都鳥」。
新しいビルに建て替わっています。
浅草花街の風情が残る通り。
明治十一年の創業の老舗料理店の一直(写真左手前)*1 は、「全国花街めぐり」*2 にも登場する老舗です。
道を挟んだ反対側にある料亭の「桜の家」。
風情のある玄関。
木々に囲まれています。
浅草花街の歴史は古く、参詣客を集めた浅草観音の門前の茶屋に由来し、その時代は、明暦年間(1655~1657)にさかのぼります。*1
浅草花街の中心部に浅草三業会館の建物があります。
提灯。
レスリングの浜口京子選手の銅メダル獲得記念樹。会館の前に植えられています。
料理屋「寿茂登」※1 の裏側は、地元の方の話によると、かつての花街の中心地だったそうです。
小路の両側には、現在も料理屋が建ち並んでいます。
営業中の飲食店。
風情のある料理屋。
小路は、ぐるりと1周していて、元の大通りへ出ます。
今回は、佐原(千葉県香取市)の町並みを散歩します。
佐原信用金庫のある通りは、かつては、置屋や料理屋などが建ち並ぶ通りでした(地元の方の話)。
現在も割烹料理屋が散在し、当時の名残を感じます。
料理屋らしき建物。
上野写真の料理屋の脇の路地。
小川路地の北側の入口。
飲食店街を抜けると空地に出ます。
飲食店だったと思われる建物。
軒下に掲げられている屋号。
「昭和はじめの佐原の町並み」鳥瞰図と案内板※1 に記載の旧二業見番があったあたり。馬場本店酒造の東側の路地です。案内板に記載では、ここは小川路地と呼ばれていたそうです。鳥瞰図に記載のある、この路地の出口にある小川薬局(現存)が路地の名前の由来と思われます。
長く続く板壁を持ったお宅。
古い建物のようです。
逆方向(北側)から見たところ。
今回は、佐原(千葉県佐原市)の町並みを散歩します。
JR成田線、佐原駅前に「昭和初めの佐原の町並み」地図が掲示されています。隣に現在の地図も同じ方角で掲示されているので、解りやすいです。
当時の町並みが鳥瞰図で表されています。
馬場本店酒造の東側に「二業組合」と記されています。
隣の現代版の地図にも、「旧二業組合」の記載
柳橋の花街跡。現在はビル街になっていて面影はありません。
当時の料亭と思われる建物。
当時の住宅地図には、料亭「宮城」と記されています。
旧料亭の建物は、次々とビルに建て替わっていく中、当時の建物が残っているのは、貴重と言えます。
今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の八重洲一丁目付近は、江戸時代の市街造成期からの古い町並みです。明治維新後は、新時代を代表するような近代諸会社とこれと全く対照的な下町の商店や芸者屋・待合が奇妙に混在する町でした。*1
検番があったあたり。*2
旧花街の南端。「浮舟」は、昭和の初めからある老舗です。*3
日本橋芸者の起源は、安永6年(1777年)、平松町(現高島屋辺り)に芸者がいたことが、「妓者呼子鳥(げいしゃよぶこどり)」に書かれています。*2
高田馬場駅前のJR山の手線と西部線に囲まれた飲食街(旧柳小路)※1。
1960年代の頃、この一画の一番奥まったところには、アングラ芝居のバラック小屋がありましたが、その後、浅草千束をおもわせる料亭とバーの街に変身しました。*1
地元の方の話によると、この場所には料理屋の「海の家」*2があって、女性の接客のある店だったそうです。
現在は、1階に「DVD鑑賞」店が入っています。
夜になると、看板に灯りが灯ります。
神田川からみた飲み屋街方面。川と線路に囲まれた一画であることが解ります。
1950年代に特飲街が計画されたこの一画*3※1 は、高田馬場の歴史が凝縮された場所と言えそうです。
向嶋墨堤組合*1 の南側。
待合の建物が当時のままで残っています。
待合らしい細工が施されています。
塀の腰廻り部分に木材を配しています。
向島見番の前の通り。
交差点の角にある古い木造家屋は菓子の「いりむら」です。*1
その隣。料亭「波むら」との間に、待合「桝の家」の建物が残っています。(写真左側)
玄関。
待合だった頃の風情が残っています。
向島を代表する老舗料亭の「入舟」。
昭和20年創業。建物は50年前に建てられたものです。*1
通用口。
料亭きよし。
昭和24年開業の老舗料亭です。*2
老舗料亭です。
今回は、向島(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
墨田区向島2丁目にある向嶋墨堤組合。
前の通りは、「見番通り」と呼ばれています。
向島は、江戸の時代から「花街」(料亭街)として栄えた街です。*1
東京から遠出で遊びにくる客の座敷に招ばれ、向島芸妓は生まれました。*2
今なお料亭の伝統芸能が脈々と継承されています。
千住宿の史跡、市郎兵衛本陣跡近く。
本陣跡の近くに、千住見番がありました。
見番の玄関には「千住芸妓組合千住支部」「全国芸妓組合千住支部」といった看板が掲げられていました。*1
明治時代、千住芸妓組合が成立し、その事務所(見番)がこの地に置かれ、花街が千住柳町に移転した大正8年以降も昭和18まで営業していました。この通りを見番横丁といっていました(説明文)。
見番があったあたり。
猿之助横町は、昭和の初期までは、芸妓・待合が集まる一画でした。*1
料理屋らしき建物。
国際通り近くにある和風の建物。
ヘルストロンの路地※1 の1本隣り(西側)の風情のある路地。
最近、事件で報道された「海喜館」。
五反田三業の面影を唯一残す旅館の建物です。10年前は、入口も開放されていて、「海喜館」の看板もありました※1 が、現在、入口は閉鎖され、看板も取り外されました。
建物は、老朽化が進んでいます。
建物の周囲はシートで囲われています。
目黒川の対岸から。
五反田花柳界は、三業組合と呼ばれていたた当時までは、盛んであったが、戦後は売春防止法の制定によって、「待合い」に於ける売春の取り締まりと共に、「待合い制度」が廃止され、二業組合に衰退の一途をたどりました。*1
待合が密集していた通り。
現在は、マンションが建ち並ぶ町並みとなっており、花街の名残はありません。
一本南側の通り。この通りにも両側に待合が建ち並んでいました。
目黒不動の門前には、関東大震災直後、隣接町村の目覚ましい発展に伴い、花街ができました。主な料理屋は、「角伊勢」と「大国家」で、その他は、待合形式の家がありました。*1
現在の商店街に見番がありました。*2
見番脇の路地を下ったところ。「ちとせ」「一力」がありました。*1
大国家があったあたり。*2
目黒園があったあたり。*2
今回は、西小山(東京都品川区)の町並みを散歩します。
西小山花柳界の全盛は昭和10年前後で、芸妓は120人がいましがた、太平洋戦争が始まると戦時体制が強化のため、料亭・待合は営業停止となり、戦後再出発しましたが、戦前の勢いは失われていました。*1
料亭「寿づき」があったあたり。
その奥にも料亭がありました。
料亭「小港」「川よし」があったあたり。
神田川の北側(本町3-9)。
最後まで残った料亭「亀太川」の建物があります。*1
玄関付近。
花街らしい雰囲気が塀に残っています。
今回は、中野新橋(東京都中野区)の町並みを散歩します。
神田川に架かる中野新橋は、中野新橋の名前の由来となった橋です。この橋の北側には、三業会館の建物がありました。*1
立派な擬宝珠が橋の四隅にあります。
橋の北側に当時の青銅製の擬宝珠が残されています。案内板によると、擬宝珠は、地下鉄丸の内線が開業した1961年に橋が架けれたときのもので、2011年まで、親橋の頂部に取り付けられていたそうです。
神田川。
王子の豊島に指定地(芸妓屋待合)が公許されたのは昭和四年で、「王子新地」の俗称で呼ばれました。しかし、料理屋は、指定地内の他、駅前の代表的料亭「扇屋」、音無橋畔、御殿下に「養老館」、王子稲荷などに散在していました。*1
写真は、料理屋の「君の家」があった場所*2 に建つ食堂。
芸妓屋の浪の家があったあたり。*2
塀横の意匠。
逆方向から。
かつての品川三業地。※1
写真の通りが三業地の中心部で、芸妓屋の清河、菊の家、冨久家、金吉田、福よし、宇田、由多か、米原、料理屋の菊の家、がありました。*1
現在は住宅地となっていて名残はありません。
唯一、電柱に「三業支」と書かれたプレートを確認することができます。
西側の通り。芸妓屋の梅家、春本、田中、新春本、一富士、料理屋のみかど、根岸、新福がありました。*1
写真奥には、品川の高層ビル。
今回は、品川(東京都品川区)の町並みを散歩します。
品川三業地は、昭和7年に、街道沿いから現在の東品川1丁目の一画に移転し、品川海岸三業株式会社を設立しました。*1
三業地の北側の交差点の角に建つ料亭「文の家」の遺構。*2
当時の雰囲気が残っています。
2階部分。
今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
浜町・芳町は明治の始め頃から賑わったいわゆる三業(待合、置屋、料理屋)地でした。*1
現在、一軒のみ営業する料亭「玄治店(げんやだな)濱田家」。
建物の東側。
夜の様子。
蒲田の二業地跡の電柱標識。当時の名残を示す「二業」の名前が確認できます。
手書きの「二業」。
かつての待合が集中していた一画。問題の電柱標識はここにありました。
この一画はすべて「二業」と書かれていますが、1本だけ「二葉」がありました。。おそらく、何かの都合で取り換えたときに誤記が発生したのでしょう。
電柱標識プレートには、遊廓の「廓」を廊下の「廊」と誤記した事例などを見かけることがあります。※1※2
かつての蒲田二業地は、現在は、住宅地となっていて、当時の名残はありません。
唯一、旅館だったと思われる建物が残っています。
石の塀。
かつての待合の雰囲気が残る建物。*1
今回は、蒲田(東京都大田区)の町並みを散歩します。
蒲田の二業地は、京急蒲田駅から南へ500mほど離れた場所(現在の南蒲田四丁目20-24番地)に昭和2年に開設の許可が出されました。*1
現在も旧見番の建物が残っています。*2
かなり大きな2階建ての建物です。
花街の雰囲気が残っています。
今回は、根岸(東京都台東区)の町並みを散歩します。
台東区根岸の根岸柳通り周辺には、かつて花街がありました。
往時の面影を残す「浜本」という料亭だったお宅。*1
根岸の花街は、通人の隠れ家遊び場所として流行った花街で、客筋は根岸、金杉、坂本など近隣の旦那衆が多く、人力車で遊びに来る者もいました。*1
2階部分に花街だった頃の風情が残っています。
人形町2丁目。かつての花街だったエリアです。喜寿司(㐂寿司)は、花街の面影が残る建物です。
たくさんの大きな看板。
隣の歯科医として使われていた建物は、もとは「待合(芸妓と遊ぶ場所)」でした。*1
物干し台。
今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
大観音寺脇の路地※1 にひっそりと佇む「よし梅本店」。戦火を免れて残った店の風情は江戸の粋が薫る人形町ならではです。*1
入口が路地になっていています。
かすれて、かろうじて「よし梅」と判読できる門標。
反対側の通りから。
三業通り沿いにある老舗料亭の「和可月」。
落ち着いた佇まいです。
三業通りから一本路地を入ったところにある料理屋の「まきしま」。
漢字では「巻島」。
大塚三業通りには、花街らしい雰囲気が見られます。
割烹。
老舗料亭の浅元。
青色の板塀。
烏森神社前の通りから南側へ一本入った通りんには、わずかに花街だった頃の雰囲気が残っています。
写真の「たきもと」は、戦後の火災保険地図*1 では「多㐂本」と記されています。
創業明治27年の「古今亭」。*2
夜の烏森神社前の横丁。
この付近(写真中央の「すしざんまい」があるあたり)には、新橋芸妓組合がありました。*1
今回は、新橋(東京都港区)の町並みを散歩します。
新橋南地花街は、明治5年の銀座の大火で、金春付近にあった芸妓置屋が汐留川より南の烏森方面に引っ越したのが始まりです。*1
写真左手前にある「末源」は、明治42年創業の老舗です。*2*3
新橋南地花街(烏森花街)は、元は、同じ花街で、新橋駅を境に、煉瓦地芸者(京橋)と南地芸者(新橋)と芸者街が二つに分かれていたものが、大正11年に分離して「烏森」あるいは「新橋南地」となったものです。*4
烏森神社前の参道。平成13年頃までは、両側理に飲食店が建ちならんでいましたが、現在、左側は整備されて飲食店はありません。*1
参道右側に、わずかに残る飲食店。
今回は、築地(東京都中央区)の町並みを散歩します。
築地場外市場のある市場橋交差点の角にある「新喜楽」は、芥川賞や直木賞の選考会場としても有名な築地の料亭です。新橋花街の中では、戦災で被害を受けなかったうちの1軒でした。*1
高い塀が続きます。
表札は、「割烹」となっています。
裏口。
かつて、亀戸天神裏の通りには、三業地が広がっていました。*1
料亭「寿々代」。
以前は、この建物の東隣の交差点の角にありました。*1*2
旧三業組合の建物※1 の隣にある料亭「七福」。
写真左手には、数年前まで、富久家の建物*1*2※2がありましたが、現在は更地になっています。
今回は、亀戸の町並みを散歩します。
亀戸天神社裏のこの通りは、かつては、料亭が建ち並ぶ亀戸花街の中心部でした。*1
城東三業組合事務所(見番)があった建物。*2
現在は、亀戸三丁目自治会館として使われています。
この通りの北側が旧亀戸の赤線地帯です。
かつて男坂の途中には、料亭「開化楼」の高楼がそびえたっていました。*1
現在、男坂の途中には、オフィスビル「KAIKA」が建っています。
料亭「開化(新開化)」があったたり。
料亭「開化」の前には、神田芸組合の事務所が建っていました。*1
写真奥は、神田川本店がる方角です。※1
かつて、神田明神下同明町に花柳界があって、この三業地を俗に講武所、ここの芸者を講武所芸者と言いました(講武所とは、幕末に創設された幕府の武術教育所のこと)。*1
花街のことを「講武所」と呼んだのは、
・講武所の運営費捻出のため、現在の秋葉原駅の万世橋通り付近の土地を町屋に編入して地代を取るようになり、安政期(1854-59年)にこの地に芸者が姿を現したため、講武所芸者と称されるようになった。*2
・旗本、御家人などの二男・三男が武芸鍛錬のため講武所へ行くと言って家を出てここで遊んでいたとか、客に講武所の生徒が多かったため、*1
など諸説あります。
また、明治3年)頃に、芝居茶屋が出現し、同時に草分け芸者が生まれ、花街となった。*3 とする説もあります。
男坂の通りの北側の通りにある料理屋。右側の建物もかつての料理屋です。
料理屋「あら喜」
元料理屋の建物。
「章太郎」は、明神したの艶っぽさを残す名店です。*2
今回は、四谷大木戸(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
四谷大木戸にに花街ができたは大正11年で、当時、東京では一番新しい花街でしたが、関東大震災で下町の花街が一時全滅の姿に陥った機に乗じて、四谷大木戸は膨張し、震災後一時は、百五十人を超す芸妓が登録されていました。*1*2
現在も営業を続けているのは、「多満川」のみで、他はマンションや駐車場になっています。
*3大木戸芸妓組合事務所は現在のホテルがある辺りにありました。*3
全国花街めぐり*1 には、料理店 三軒(自慢本店、同支店、みやこ鳥)が紹介されています。このうち、自慢本店は、現在の「多満川」から北へ行った突き当りにあるマンション「新宿御苑」の場所にありました。*4
1階部分は料亭の名残を感じさせる石塀に囲まれています。
花街の東側の、崖沿いには「和楽」「清月」など待合が7,8軒ズラリと軒を連ねていました。*3
八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。
八丁通り沿いにあります。
1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。
2階部分。料亭らしき佇まいです。
旧見番のある通りに、かつての花街の雰囲気を感じさせる建物が残っています。
奥行のある立派な建築です。
旧見番近くの住宅街。
貸席「ゆたか」の建物。*1
今回は、井土ヶ谷(神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、井土ヶ谷町には、芸妓屋組合事務所(見番)がありました。
現在は、閑静な住宅街となっている場所に、かつての見番の建物が残されています。*2
1937年建築の木造2階建て。見番の建物は、横浜市の歴史的建造物に登録されています。*2
現在は、井土ヶ谷上町第一町内会館になっています。
蒔田の花街の中心だった榎田町の南側(蒔田町)にある旅館「松島」。
旅館の隣には、「料理処・松風苑」が併設されています。
現在も営業中の「松島」は、永真遊廓の妓楼「松島」が戦時中に疎開したものです。*1
旅館脇の庭園。
今回は、蒔田(まいた、神奈川県横浜市南区)の町並みを散歩します。
「横浜市史稿(風俗編)」*1 によると、蒔田の花街は、中区(昭和18年より南区)榎町二丁目にありました。この付近にあった料亭「平作」は、この地区最大の料亭で、戦後も長い間営業していました。*2*3
現在は、マンションになっています。
蒔田見番があった場所。*3
料亭「万二菊」があったあたり。*3
寿司店。
今回は、上大岡(奈川県横浜市港南区)の町並みと風俗を散歩します。 大正の終わり頃から戦後の昭和33年まで、上大岡駅から大岡川を挟んだ大久保(旧久保村)の地に花街がありました。その発端の記録は、大正11年に久保地区から神奈川県に真金町遊廓の移転先として提出された請願書で、その後、正式に「三業地」として指定され、昭和10年頃には芸妓屋、待合、料理屋が30数件もできて大いに賑わいました。花街は、戦局の悪化に伴って営業停止となりましたが、終戦後は米兵も出入りし再び賑わいを取り戻しました。大久保の花街は、昭和33年の売春防止法により、街の灯が消えました。*1
現在、花街があった大久保地区は、スナックが散在する住宅街になっています。
料亭「君の星」があったあたりは、現在は駐車場になっています。*1
料亭「竹の家」があったあたり(現在の佐藤歯科)。*1
【参考文献】
*1 港南歴史協議会:こうなんの歴史アルバム(港南歴史協議会,2010)P.30-P.31
磯子の花街は、今のバス停「浜」から磯子区役所の南まで海浜に沿って料亭が並び、独自な風情がありました。旧芦名川河口(現在の芦名橋公園)近く。16線から東へ入ったあたり。現在のマンション「ナイスアーバン磯子」のあたりに磯子検番がありました。*1
料理屋「磯川」があったあたり。*1
この付近には、料亭「竹みどり」「浜の家」がありました。
料亭「中志満」があったあたり。
【参考文献】
*1 葛城峻:やぶにらみ磯子郷土誌(2014,磯子区郷土研究ネットワーク)P.113-P.117
今回は、磯子(神奈川県磯子区)の町並みと風俗を散歩します。 JR根岸駅から東へ約500m。八幡橋近くにある八幡神社。
境内にある大きな石碑。上部に鉄球が載っている奇妙な形のです。
磯子「二業組合」「芸妓組合」の名が刻まれています。
磯子二業組合の組合長の葦名金之助などの名前が刻まれています。
今回は、新川(東京都中央区)の町並みと風俗を散歩します。
新川の花街は、昭和10年頃が最も活気がありました。日本橋川に架かる湊橋を霊岸橋の間の河岸沿い(新川1-1,1-2)に料理屋の「大和屋」と待合「大国屋」「おつね」など14軒が、永代通り南側の新川1-3には「増田ヤ」と待合1軒がありました。*1
写真は、霊岸橋から亀島川を南西方向(下流)に見たところで、この写真の左側が、新川1-3のあたりです。
川沿いに面した和を感じる1軒屋。1953年の住宅地図*2 によると、この場所には、料理屋の「増田や」がありました。
和風の佇まい。
現在は、居酒屋チェーンの店舗になっています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.118
*2 都市製図社:火災保険特殊地図 中央区越前堀方面(1953年, 都市製図社)
長者町のレストラン「ザ・カワブン・ナゴヤ」の南側を東西に魚ノ棚通りが交差しています。
魚ノ棚通りを東側に入ったところに老舗料亭の「河文」が昔の佇まいそのままの姿で建っています。
登録有形文化財に指定されている建物。
建物の壁面に、「魚ノ棚通り」の説明が書かれています。江戸時代(元禄年間)は、料亭がありました。
玄関の奥には、葵の紋。
当時は、お昼から三味線の稽古の音がして、このあたりは大変賑やかでした。夜は芸妓さんを呼んで、本当に線香を立てていたそうです。「花代(線香代)」は、一本十二銭でした。*1
【参考文献】
*1 名古屋タイムズ・アーカイブス委員会:名古屋なつかしの商店街(風媒社,2014)P.126-P.127
旧青梅街道から北へ続く北山公園通り。
この通りの左先にかつての見番がありました。*1
青梅線の線路を渡ったあたり。
旧料亭の「魚久」。現在はレストランになっています。*1
和洋折衷の建物の料亭「和田市」。右手に和風木造建築が続きます。*1
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.242-P.243
荒木町は、石畳の通りが保存されています。
花街らしい雰囲気が残されています。
料理屋が建ち並ぶ通り。
下り坂。
策の池近くにある旧料亭の「雪むら」。
奥行のある大きな建物です。
「雪むら」の屋号が残る店の入口。
逆方向(南側)から。
荒木公園から坂を下ったところにある津の守弁財天。
弁財天の祠の脇には、策(むち)の池があります。
津の守とは、江戸時代、このあたり一帯に松平摂津守(美濃高須三万石)の屋敷があり、邸内に滝があったことから、摂津守の一字を略して「津の守の滝」と呼びました。また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があり、滝壺の池を「策の池」と呼びました。*1
明治になってこの庭園が庶民に公開されると、天然の滝があることが評判になり、池の周辺に茶屋が開店し、明治6年、この滝の上に「桐座」という芝居小屋ができたのをきっかけに、料理店が次々と開店し、これが後年の「荒木町三業地」に発展しました。このようにして周辺地が市街地化されたためか、滝の水量が減り、池の周辺は急速に寂れていきました。*1
【参考文献】
*1 安本直弘:四谷散歩(みくに書房,1989)P.32-P.33
大森海岸駅(写真右奥)の南西側の一画(大森北2丁目14~17)は、現在はラブホテル街になっていますが、かつては、料理屋街でした。京急線沿いのこのあたりには、料亭の「三平」「鈴木」などがありました。*1
料亭「梅の家」があったあたり。*1
西側には、料亭の「久の家」「福田家」「松川」などがありました。*1
そば屋の「松登久」。この付近が料理屋街だった頃から営業していました。*1
【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分) 大田区[2]大森方面 2(都市整図社 ,2003)
gsi.go.jp/#18/35.585965/139.736657/&ba今回は、大森(東京都品川区)の町並みと風俗を散歩します。
大森海岸の芸妓屋は、明治26年5月に八幡橋際に開業した料理屋の伊勢原が隆盛し、魚栄、松浅、八幡楼等引き続き開店し、間もなく芸妓屋が開業したのが始まりでした。*1
現在八幡橋は無く、八幡橋があった場所は「八幡橋児童公園」になっています。
八幡橋の東側には、競艇場の「ボートレース平和島」が見えます。
八幡橋近くには、待合だった「梅元」の建物が現在も残っています。*2
現在は、オフィスビルが乱立するエリアになっています。
【参考文献】
*1 東京市大森区:大森区史(東京市大森区,1939)P.1138-P.1139
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.220
今回は、水郷田名(神奈川県相模原市)の町並みと風俗を散歩します。
水郷田名は、相模川に面して発達した地域で、ここに「渡し場」があり、大山詣りの参詣者たちにがこの「渡し」利用しました。その後、もともと盛んだった鮎漁や鵜飼などの観光的要素が加わり、兼業旅館などが建ち並ぶ歓楽街となって繁盛し、「水郷」と呼ばれる所以となりました。*1
JR相模原駅から、バスで約30分。水郷田名に到着です。
昭和4年の田名村の市街図*2 には、割烹旅館の旭屋、川口家、多喜乃家、登喜本、などの芸妓家、三業組合などが記されています。
旭屋旅館は当時の場所で、現在も営業中です。
花街の中心街だったと思われる通り。コンビニがあった場所には、芸妓家の「川口家」がありました。*2
三業組合の事務所があったあたり。*2
【参考情報】
*1 相模川河岸に設置されている「水郷田名の歴史」看板。
【参考文献】
*2 東京交通社:大日本職業別明細図(東京交通社,1937)第261号 東京府 神奈川県
三社稲荷前の通りの1本東側の通り。
竹が使われている塀。
料亭「寿々代」の建物です。
東京料亭組合連合会のプレート。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193
JR池袋駅西口から北へ向かって進み、トキワ通りを超えて北へ進むと、「三業通り」と呼ばれる北西へ向かう通りがあります。この通りの西側に昭和3年から始まった花柳界がありました。
町会の名前に「三業」の名前が見られます。
三業通りというのは、この通りに面して池袋三業会館(見番)の建物があったからです。(写真のビルが旧池袋三業組合があった場所)
当時の面影を残す割烹料理店の建物。
「三業支」の電柱のプレート。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.189-P.193
中原街道の丸子橋近くに大きなラブホテルの看板があります。
Y字路を右に入るとホテルの入口です。
道路に面して、菓子卸の企業の建物があり、ホテルは、その向こう側に建っています。
裏側の入口から。付近は閑静な住宅街です。
この場所には、料亭「丸子園」がありました。「丸子園」は、多摩川を利用した川遊び(たから船)の料亭として、大正13年に開店しました。約三千坪の敷地を持つ「丸子園」の開業は、新丸子三業地のきっかけを作りました。百畳敷の大広間と大浴場があり、広々とした庭には、離れが点々と建っていて、それぞれ風呂がついていて「へちま風呂」という名前で呼ばれていました。しかし、戦争のため、昭和16年に日本電気に買収され「丸子園」は姿を消しました。*1
その後は、日本電気の女子寮「千草寮」として使われました。*2
料亭→女子寮→ラブホテルという変遷をたどったこの土地は、女性に縁の深い土地と言えそうです。
【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79
今回は、新丸子(神奈川県川崎市中原区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の新丸子東と上丸子八幡町の町界あたる通りは、かつては、新丸子三業として栄えていた「料亭通り」でした。この付近には、「新丸子料亭組合」と書かれたアーチがあり、丸子荘、吉田家、よね家、一直、繁の井、錦水、伏見などの料亭の名が掲げられていました。*1
割烹「錦水」があったあたり。
「花本」の名が刻まれた電柱の標識。
昭和20年4月、5月の大空襲により新丸子三業地一帯は、4~5軒を残すのみで全焼しました。戦後、一時営業を中止していましたが、「花本」は、昭和20年12月に開店しました。許可不明のまま喫茶店として、温泉マークを付けて営業を始めましたが、昭和23年に許可がおり、昭和36年頃まで繁栄しました。しかし、昭和51年(1976年)頃には、「一直」、「丸子荘」、「伏見」等3軒となり、芸妓も10名ほどとなり、次第にさびれ、姿を消していきました。*1丸子芸妓組合の事務所があった場所のあたり。*2
【参考文献】
*1 羽田猛:写真で見る中原街道(羽田猛,2000)P.36-P.39
*2 経済地図社:中原区明細地図(経済地図社,1973)P.76,P.79
綱島駅の西側は、割烹旅館や温泉施設が密集するエリアでした。工事中のマンションのフェンスに、綱島の由来の説明書きがあります。大正15年に東急東横線の綱島駅が開業し、駅前にラジウム温泉浴場ができたことが書かれています。
現在のニックハイム第一(写真左側の工事中の建物)付近には、温泉施設の「行楽園」がありました。「行楽園」は、旅館の梅島、水明、甲子園、ひさごの4館の共同出資で、ラジオで「百円天国」と宣伝し、大繁盛しました。大浴場、大食堂、屋上の子供天国、ビヤホールを備え、お客は、芸能人の音楽や園芸を楽しめて1日大人100円。今日のヘルスセンターのはしりとなりました。*1
旅館の相川屋本館、梅島館、水明があったあたりは、現在は高層マンションとイトーヨーカ堂を中心としたショッピングロードに変わり、当時の面影はありません。*1
現在のパデュ通りを北側に入ったあたり(写真右側)に、検番がありました。*1
綱島温泉の中で最後まで残った旅館の「浜京」が地図に載っています。
【参考文献】
*1 「とうよこ沿線」編集室:わが町の昔と今1(「とうよこ沿線」編集室,2000)P.36,P.42-P.45
現在も残る料亭入船の遺構。
船のマークが鮮やかです。
現在は駐車場になっているこの場所には、料亭「新水」がありました。*1
駐車場の名前に料亭時代の屋号「新水」が使用されています。
【参考文献】
*1 「とうよこ沿線」編集室:わが町の昔と今1(「とうよこ沿線」編集室,2000)P.36,P.42-P.45
九段南三丁目の東側の九段南二丁目の区画も、花街でした。
こちらには、現役の料亭などは無く、住宅街となっていますが、かつての花街を思わせる住宅がいくつか残っています。
料理屋だった建物。*1
料理屋だった頃の屋号が残っています。
【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)千代田区 九段坂上方面・靖国神社方面(都市整図社,1954年)
今回は、九段(東京都千代田区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の九段三丁目は、旧町名で「上三番町」と呼ばれ、料亭などが集まって発展した町でした(掲示板より)。
かつての料亭街の中心部。道の両側に料亭が建ち並んでいました。*1
三業会の事務所があった場所*1 は、チュニジア大使館になっています。
唯一、当時の屋号で営業中だった、「酒亭田むら」は、閉店して跡地は駐車場になっています。
【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)千代田区 九段坂上方面・靖国神社方面(都市整図社,1954年)
丸山の見番の裏手の台地には、古い建物が残っている一画です。
生活感の漂う路地。
古いモルタルの建物。
店の屋号が書かれています。*1
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.66
新島原遊廓が廃止となった後もこの地に踏みとどまる芸妓や置屋があり、引手茶屋で残った者たちは旅館を開業したので芸妓の出先となりました。やがて新富座の開業とともに芸妓、置屋が増え、花街は脚光を浴びました。*1
現在も花街時代の名残の料亭「躍金楼(てっきんろう)」が営業中です。
料亭「松し満 」。
見番があったあたり。*2
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.111
*2 中央区火災保険特殊地図(戦後)新富町方面(1950,都市整図社)
今回は、麻布(東京都港区)の町並みと風俗を散歩します。
麻布三業地は、大正2年に許可され、戦前は、昭和12~13頃が最も賑わいました。空襲により麻布十番のほとんど全域が消失しましたが、昭和31年頃から2~3年間は、戦後で最も繁盛した時期でした。*1
花街は、現在の網代公園の南側(現在の麻布十番2丁目~3丁目)にありました。数年前まで、この付近に「白水」という屋号の料亭だったお宅の塀がかろうじて残っていましたが*2、現在はマンションに建て替わっています。
このあたりには、見番(麻布三業組合)がありました。*3
見番の南側の路地にも両側に料亭がありました。*3
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.151-P.154
*2 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.118
*3 都市整図社:火災保険特殊地図(戦後分)港区 麻布十番方面・溜池方面
芝大神宮の前の通りの1本東側の通り。
ここにも、芝神明の料亭街がありました。*1
道路を隔てた南側の芝大門2丁目にも料亭が点在していました。*1
料亭が建ち並んでいた路地。*1
【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 港区芝浜松町・東京湾口方面(1951~1961)
芝大神宮の境内は都内随一の盛り場があった場所で、江戸時代は、芝海老芸者と呼ばれていました。*1
芝大神宮の前の通りの両側には料亭が並び、写真の左奥に神明三業組合がありました。*2*3
料亭だった建物。
黒板塀に囲まれた木造の建物。かつての花街の雰囲気が残っています。
神明三業組合があったあたり。
【参考文献】
*1 加藤藤吉:日本花街志(四季社,1956)P.332-P.333
*2 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.210-212
*3 都市整図社:火災保険特殊地図 港区芝浜松町・東京湾口方面(1951~1961)
日本橋花街の南側のエリア(現在の二葉町2丁目付近)にも料亭や置屋が密集していました。1957年の住宅地図を見ると、レストラン「モリヤ」は当時からこの場所で営業しており、その隣には、日本橋三業組合兼日本橋芸妓学校がありました。さらにその隣には、料亭「鈴本」があって、現在は屋号を受け継いだ鈴本ビル(写真右奥の工事中の建物)が建っています。*1
「日本橋三業組合」と思われる建物。
周囲は、マンションなどに建て替わっていますが、1軒だけ当時のままで残っています。
当時の様子が偲ばれます。
【参考文献】
*1 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.24
今回は、吉野町(神奈川県横浜市南区)の町並みと風俗を散歩します。
現在の吉野町二丁目交差点に、花街だった頃の遺構と言える「日本橋」と書かれた花街の入口を示すアーチがありました(現在は、撤去されています)。*1
日本橋花街は、大正初年頃から市内各所に増えだした横浜の花街の一つでした。*2
「赤線跡を歩く」*1 に写真が掲載されていた旅館「明美」の建物はなくなり、現在は駐車場になっています。
料亭「みどり」があった付近。*3
「料理店」のプレート。
【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.71
*2 横浜市:横浜市史稿(臨川書店,1985)P.545
*3 経済地図社:南区明細地図(経済地図社,1957)P.22-P.24
神楽坂の魅力は、石畳と黒塀にあります。兵庫横丁は、神楽坂情緒を醸し出す通りです。
旅館「和可菜」。山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズのシナリオ執筆場所として知られる、往年の名女優小暮実千代が経営していた旅館です。
現在でも芸者さんが出てきそうな路地です。
人がすれ違うのがやっとという石畳の階段。
【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版角川出版企画センター ,2010)P.202
神楽坂通り(早稲田通り)から、南側に路地を入ったところに、見番横丁があります。
神楽坂の三業組合は、新検(牛込三業会)と旧検(神楽坂検番)に分かれていました。両検番は戦後に統合して、昭和24年(1949年)に東京神楽坂組合となりました。*1
東京神楽坂組合の建物。
かつては、この道の両側に置屋や料理屋が建ち並んでいました。
【参考文献】
*1 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.68
今回は、神楽坂(東京都新宿区)の町並みと風俗を散歩します。
神楽坂を登ると毘沙門天(善国寺)の斜め右側に、平安時代初期から明治の終わり頃まで続く行元寺という由緒ある寺がありました。行元寺の門前町には、岡場所があって、売女は「山猫」と呼ばれ江戸市中に知られていました。神楽坂に花柳界ができたのは、幕末に近い安政4年で、場所はこの行元寺門前町と伝えられていますが、神楽坂芸者の発祥が山猫であったかどうか詳しいことは分かりません。*1
2000年頃、行元寺跡地に超高層マンションを建設する話が持ち上がり、反対運動が起きましたが、結局マンションは計画通り完成しました。*2
この場所には、行元寺が武家地として借地していた時の路地が区道として生きていましたが、マンションの建設により、区道(路地裏)はまとめて消失し、マンション脇に新しい区道が付け替えられました。区道の付け替えで生まれたささやかな新宿区立公園を地元民たちは、行元寺にちなみ「寺内公園」と命名しました。*3
寺内公園には、その由来を記した案内板が設置されています。明治33年、寺内(じない)公園あたりに待合の「吾妻屋」が開業し、これをさかいに、寺内の貸武家地跡は置屋、料理屋、待合ができ花柳界が形成されていきました。*3
【参考文献】
*1 西村和夫:雑学神楽坂(角川学芸出版,2010)P.111-P.113
*2 松井 大輔,窪田 亜矢:日本建築学会計画系論文集(2012.10)P.2407-P.2414 「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」
*3 渡辺功一:神楽坂がまるごとわかる本(展望社,2007)P.54-P.55,P.69,P.211-P.213
かつて花街であった円山町一帯は、現在はラブホテル街となっていて古い建物はほとんど残っていません。
ラビホテル街に、唯一1軒だけ当時の頃からの建物と思われる民家があります。
風情のある木造建物です。
火災保険地図*1 に「春富久井」という屋号が記載されている場所に残る建物。
玄関先には、庭園があります。
【参考文献】
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)
渋谷の道元坂上付近は、かつては置屋や料亭が建ち並ぶ花街でした。花街の中心となる検番は、道玄坂上の路地を入った場所にありました。
写真の右手前は、戦後からあった氷屋さんです。*1
検番(渋谷三業会館)があった場所には、現在はマンションが建っています。*1
その隣の松木屋は、当時から営業している割烹料亭です。*1
花街らしい雰囲気が残る「万安」。
*1 都市整図社:火災保険特殊地図 渋谷区(3)道玄坂方面(都市整図社,1955-1958)
尾久の東京女子医科大学く。周囲は、商店街と住宅地です。
このあたりは、尾久三業の待合などがあったエリアです。
待合の「満佐喜」があったあたり。阿部定事件の舞台となった場所です。阿部定事件とは、昭和11年、阿部定という31歳の女性が、待合「満佐喜」で男と一週間もいつづけた末にその男を絞殺し、さらに、その股間のイチモツを根元から切り落として懐に携え逃亡したという事件です。*1
現在は、このような事件があった現場とは思えない閑静な住宅街となっています。
【参考文献】
*1 壬生篤:荷風!vol.2(日本文芸社,2004)P.75-P.79 阿部定事件の現場をゆく
現在の花咲町(掃部山公園の東側一帯)付近には、掃部山(かもんやま)と呼ばれる花街がありました。*1
横浜駅(現在の桜木町駅周辺)周辺は、明治末期から商業の町として発展を続け、中でも横浜船渠株式会社(後の三菱重工業株式会社横浜造船所の創立は、ドック周辺の店の繁盛につながっていき、岩亀横丁などを中心に飲食店ができるようになりました。さらに会社の応接室のように、掃部花街の利用も多くなっていき、掃部山の芸妓組合は35店をもって顧客に好評でした。*2
地元の方の話によると、写真の通りには料亭が建ち並び、三味線の音が漏れ聞こえ、とても情緒があったそうです。
現在は、住宅地となっていて花街の面影はありません。
昭和31年(1956年)の住宅地図によると、この付近には、料亭の「ぼたん」「みどり」「雅の家」や芸妓置屋が建ち並んでいました。*3
掃部山公園の入口。「掃部山」の名前が唯一残っている場所です。井伊直弼が名乗った「井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼」に因んで「掃部山」と呼ばれるようになりました。
【参考文献】
*1 横浜市:横浜市史稿.風俗編(横浜市,1932)P.545-P.546
*2 中区制50周年記念事業実行委員会:横浜・中区史(中区制50周年記念事業実行委員会,1985)P.490-P.492,P.515
*3 経済地図社:西区明細地図(経済地図社,1956)P.41
円山町のラブホテル街。昔は料亭街でした。
そのうちの1軒。建物の角に料亭時代の遺構の礎石が残っています。*1
京都の町並みなどでよく見かける鬼門除けの隅切りの三角地帯でしょうか。
自動車が角を曲がるときに塀を傷つけたり敷地に乗り入れたりするのを防ぐために置かれる「カドイシ」に似ています。
道路側から見ると、「料亭宮よし」の名前が彫られています。*1
【参考文献】
*1 村松伸,東京大学生産技術研究所村松研究室:シブヤ遺産(バジリコ,2010)P.175
静養地だった森ヶ崎鉱泉に芸妓屋ができたのは大正11年(1922年)でした。この時の芸妓屋は8軒、28人の抱え芸妓を擁していました。*1
当時の旅館に「盛平館」、「平盛館」などがりましたが、現在、「森ヶ崎十字路」の交差点近くに「盛平」と「平盛」の屋号のある蕎麦屋と米屋があります。
森ヶ崎本通り。
他にも古い建物が何軒か残っています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
今回は、森ヶ崎(東京都大田区)の町並みと風俗を三歩します。
JR蒲田駅から森ヶ崎行きのバスに乗り、「森ヶ崎十字路」で下車すると目の前が大森寺です。
境内には森ヶ崎鉱泉碑があって、鉱泉の由来が記されています。*1
明治27年(1894年)、に地元の農民が灌漑用に掘った井戸からラジウムを含んだ鉱泉が湧出し、諸病に効能ありと人気を呼びました。*1
石碑の裏側には、「明治32年8月発見 仝33年3月試験」と刻まれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.236-P.238
外堀通りを一本西へ入るとと、点々と割烹が残る一画があります。
旧料亭は、赤坂の街の中に混在しています。
「木の下」、「つる中」など、当時の料亭の屋号が現在も残されています。
風情のある小路。向こう側は外堀通りです。
赤坂は、日本の政治の中心である永田町から最も近い位置にあり、明治から昭和中期までの間、日本の中枢部の人々の社交場として発展しました。*1
昭和5年になると、赤坂の芸妓家は140軒、芸妓数は408名、この他に、待合、料理屋111軒となり、新橋に勝るとも劣らない規模を備えました。*2
昭和47年の調査では、赤坂2丁目交番の隣に人力車夫溜り「大新」があって、写真の右側の坂道には、人力車が数台並んでいました。*1
赤坂見番があったあたり。*1
田町通り(現在はエスペラナード赤坂)は、かつては料亭街でしたが、現在は芸者衆の姿は皆無で、クラブやスナックが建ち並ぶ町に変貌しています。*3
この付近には、赤坂屈指の名門料亭だった「川崎」がありました。*2
田中角栄元首相は、1970年11月25日の昼、料亭「千代新」(現在はファミレス)に週刊誌「女性自身」の関係者を招きました。同誌が田中氏との間に3人の子をもうけた元神楽坂芸者を取材、書こうとしたのを阻止するのが目的でした。結果として、「女性自身」は折れましたが、編集長代理として同席していた児玉隆也氏は、このとき「もう一人の女」の存在を知り、数年後、そのレポート「淋しき越山会の女王」が脚光を浴び、田中政権崩壊につながりました。*2
【参考文献】
*1 松沢光雄:繁華街を歩く東京編(綜合ユニコム,1986)P.171-P.195
*2 金賢:荷風!Vol.17(2008.9)P.24-P.28「東京オリンピックが変えた街③赤坂」
*3 小林奈津子:散歩の達人(1999.6)P.30-P.31「どこか一線を画す大人の赤坂」
白山花街の南側には、現在も当時の料亭の建物がわずかに残っています。
旧花街の南端に、元料亭の濱乃家の建物があります。
美しい木造建築です。
玄関付近。
2階部分に、「濱乃家」と彫り抜かれています。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.139
白山に商家が建ち始めたのは日清戦争の頃で、現在の柳町仲通りに「新開地」と呼ばれる歓楽郷ができ、陸軍砲兵工廠(現在は東京ドーム)に通う職工さんなどの往来で賑わいました。日露戦争の頃になると、樋口一葉の「にごりえ」の舞台にもなった銘酒屋ができて、はじめて酌婦がホステスとして現れるようになったのが、白山花街ができるまでの濫觴(らんしょう)でした。*1
「大正時代における白山花街分布図」*1 を見ると、現在の白山仲通りにある商店街付近は、花街の北側に位置します。
現在、その面影はありません。
花街の北東側。住宅街になっています。
付近の電柱には、「三業」と書かれたプレートがあり、当時この一帯が花街だったことが解ります。
【参考文献】
*1 浪江洋二:白山三業沿革史(雄山閣出版,1961)P.9,P.159
新井薬師の門前には、江戸時代から参拝客相手の料理屋が軒を連ねていましたが、関東大震災以前から料理屋と芸妓屋が盛んになり、大正14年に新井三業組合が創立されました。現在の柳通りの商店街の東側(写真の左側)が料亭街で、昭和初期に全盛期を迎えました。*1
現在、花街らしい雰囲気はほとんど残っていません。
芸妓置屋街は、柳通りの西側にありました。三業組合事務所(見番)は、現在の防災広場(写真奥)のあたりにありました。*1
住宅地図に記載されている旅館「おくみ」(現在はありません)は、料亭の名残かもしれません。
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.187-P.188
大森新地の入口付近。写真の左側の植え込み部分がかつての西堀跡です。*1
塀に囲まれています。
こちらもかつて料亭だった建物です。*1
昭和40年頃までは、芸妓は約60名いました。*1
【参考文献】
*1 上村敏彦:東京花街・粋な街(街と暮らし社,2008)P.227-P.229