一丁目の星宿燈を過ぎると、参道の道路は、徐々に傾斜を増していきます。
道路際の星宿燈。
しっかりとワイヤーで電柱にくくりつけられています。
「新吉原 新明楼」と刻まれています。
一丁目の星宿燈を過ぎると、参道の道路は、徐々に傾斜を増していきます。
道路際の星宿燈。
しっかりとワイヤーで電柱にくくりつけられています。
「新吉原 新明楼」と刻まれています。
今回は、大雄山(神奈川県南足柄市)の町並みを散歩します。
最乗寺へ向かう参道には、星の名前のついた道しるべ星宿燈(せいしゅくとう)が建てられています。※1
星宿燈は2種類があります。火室の大きさの違いがポイントです。口がやや小さめの方は「明治40年建之」の銘が刻まれ、東京浅草新吉原の遊廓の店や人名が記されています。もう一方の建立者には現在の小田原市の旧村名が記されてしています。つまりこれらの星宿燈は二十八宿をセットに二次にわたって建てられたものなのです。*1
参道一丁目バス停の近く、保育園の手前に、「日月星宿」の星宿燈が地面に半分近く埋まった状態で残っています。
「明治40年建之」の星宿燈のうち、例外的に町名が振られていないものが2つありますが、「日月星宿」はそのうちの一つです。*1
発起世話人 東京新吉原 新龍ヶ㟢樓 岡本樓 長金花樓 と刻まれています。*1
吉原京二 辰小松楼。*1
星宿燈を詳しく観察すると、主に2種類があることがわかります。形状では火室の…
東葛西7丁目交差点の近くにある銭湯の仲の湯。
風格のある昔ながらの銭湯の建物です。
残念ながら、2022年9月に閉店となりました。
仲の湯の煙突。
妙見島(江戸川の中州)※1の南端部に建っているラブホテルが建っています。江戸川を渡る浦安橋のちょうど中間あたりに位置します。
浦安橋から中間から分岐する妙見島への降り口がホテルへの入口です。
ホテルの入口。
東京都で唯一、島に立地するホテルです。
妙見島に住宅街はなく、工場や物流倉庫の用地となっています。
島の北よりの月島食品の工場の近くに妙見神社があります。
妙見宮が島にまつられていたことが、妙見島の名前の由来と考えられています。*1
この妙見神社も妙見宮に関連するものかもしれません。
後ろ側のお堂から。
地下鉄東西線の浦安駅から葛西駅へ向かう途中。車窓から妙見島の南側の突端部分を見ることができます。
妙見島は、浦安橋の途中にあります。徒歩で向かう場合は、歩道橋を進み、歩道橋から階段を下りて妙見島へ上陸することができます。
浦安橋から見た妙見島の東側。高い堤防で囲まれています。
浦安川から見た妙見島の遠望。
山本周五郎が浦安に住んでいた昭和のはじめ頃は、ヨシが一面に生えた川の中州でしたが、現在はほとんどコンクリートに覆われた工場だけの島です。*1
今回は東葛西(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
浦安橋へ向かう通りの途中。
そば処「やぶ忠」。
天ぷらそばとビールを注文。
乳酸菌飲料の「ピルクル」がつきます。昔、フルーツをつけていたことの名残だそうです。
現在は、休業している模様です。
煙突。「松の湯」と書かれています。
境川沿いに立地しています。昔は、漁師さんたちで賑わっていたのだと思います。
猫実2丁目の住宅街の細い路地の先に、左右天命辨財天(さゆうてんのみことべんざいてん)があります。
浦安には、「くるわ」と名の付く旧地名が2つあります。一つは、「柳町のくるわ」で、柳町という人が最初住家を数軒建てたのでこう呼ぶようになりました。※1 もう一つは、「へいやのくるわ」で昔、川島という貝灰工場があったところから名付けられました。へいやというのは、はいや(灰屋)のまなりです。
猫実の弁天様は、明治十七年十月(1884)川島という人が建立しました。弁天様は「灰やのくるわ」に災害が起る前には、女の姿になって現われ、災害を未然に教えたり、大津波の襲来を予告したりして常にくるわの人達を救ってくれ、特にくるわの人々は付近の守り神として崇拝しています。(案内板より)。
池の中に社殿があります。水音が常に聞こえます。
当代島3丁目の稲荷神社の境内の奥。浅間神社の鳥居の後ろには富士塚がそびえています。
登り口は、何本かありますが、いずれも急です。
高さがあり、富士塚の頂上から下を見ると恐怖を感じます。
遠方の眺め。
当代島3丁目の住宅街の中に稲荷神社があります。
玉垣には、水産関連の名前が多く見れらます。
柳町の小料理屋「いくの家」※1 と思われる寄進の玉垣。
「いくの家」は、昭和33年に柳町に開業しましたが、その後、昭和48年に駅の近くに、「ホテルいくの家」を開業しました。浦安は昔から家に風呂がなかったので、風呂つきの清潔な部屋は重宝されました。*1
P.148
敗戦後の混乱の中、昭和21年、GHQの主導で公娼制度が廃止になりました…
昭和24年、町の9人の有志により、歓楽街がつくられました。当時そのあたりに住んでいた柳町さんという人の名前をとって柳町と名付けられました。長さ50mほどの路地が三本。その両側に「おしず」「仲よし」「福の家」「千鳥」「菊水」「ひげの家」「ハッピ」「大和」「おしげ」の店が開店しました。*1
熊川いくさんの回想録によると、柳町に焼き鳥屋「いくの家」を開業し、その後、昭和33年に店を2階建ての広い座敷に改装。小料理屋「いくの家」を開業しました。*1
1971の住宅地図を見ると、このあたりに「小料理いくの家 熊川」の記載があります。*2
現在、その場所(当代島1丁目)に当時の名残はありません。
1985年の住宅地図によると、「いく家」はこのあたりに移転したようです。*3
この路地の奥のあたりには、「浦安トルコ」がありました。*3
P.148
敗戦後の混乱の中、昭和21年、GHQの主導で公娼制度が廃止になりました…
浦安の海は遠浅で、アサリ、ハマグリ、ハゼなどの水産物に恵まれ、潮干狩りやハゼ釣りに適し、都心から一時間前後のところにあることから東京方面からの行楽客がで賑わいました。特に大正8年から高橋、浦安間に通船が往復するようになってからは、ますます来遊する者が多くなりました。*1
旧江戸川沿いは、現在も船宿が建ち並んでいます。
船宿の前の釣り物看板。
吉野家は、山本周五郎「青べか物語」に登場する船宿「千本」のモデルとなりました。※1
映画のセットのような佇まいの「岩田屋」。
浦安の海は一帯に遠浅で、アサリ、ハマグリ、ハゼなどの水産物に恵まれ、潮干狩…
浦安橋近くの旧江戸川沿い。釣船や屋形船の発着所になっています。
東西線の鉄橋の下を船が行き交います。
このあたりは。かつて蒸気船「通運丸」※1 の発着所があったところで、「蒸気河岸」と呼ばれていました(案内板より)。
明治27(1894)年に島尻の一軒家(浦安の最北端の先、現市川市)に汽船発着所ができ、通運丸が両国からこの島尻の発着所を経て行徳に寄港したため、東京方面や行徳に行くのに通運丸を利用するものが多くなりました。*1
大正8(1919)年、通運丸に代わって東京通船株式会社が経営する定期船が深川から就航するようになり、浦安の人はこの定期船を通船と呼びました。*1
写真左奥は妙見島のラブホテル。
今回は、浦安(千葉県浦安市)の町並みを散歩します。
浦安市猫実1丁目にある郷土博物館の敷地内に、漁師町としてもっとも活気に満ちあふれていた昭和27年頃の「浦安のまち」が再現されています。*1
「船宿 江戸川」は、江戸川沿いの船宿をモデルに再現した建物です。*1
天ぷら屋「天鉄」は、堀江フラワー通りにあった天ぷら屋「天鉄」を再現したもので、作家山本周五郎が浦安をモデルに書いた小説「青べか物語」の中では、主人公がよく行く店として登場します。*1
「青べか物語」で登場する「べか船」が再現されています。
秦野の今泉地区には、子が授かるよう、男根の形をした石が道祖神として祀った祀られています。昔から、マラセエの神と呼ばれているそうです。*1
住宅地の三差路の角に、石の男根が祀られています。
マラセエの神の道祖神行事をやっている家はこの地区の中の34軒で、現在でも「またぎの時間」と言って夜中の12時から1時の間に夫婦でお参りに来る人がいるそうです。*1
延亨〇〇年、と彫られています。
上宿通りから西側の「乳牛通り」※へ入ったところ。
明治牛乳の木製牛乳箱が貼りついています。
保存状態良好です。
斜め上から。
境内に御神水「井之明神水」(いのみょうじんすい)が湧き出ていて、水を汲みにくる人々で賑わっています。
御神水の水鉢は、凹状の形状で、「女石」と命名されています。
隣には、凸状の形状の男石。
妹背(いもせ)とは“夫婦・男女”のことです。御神水復活にあたり、水鉢を探していたところ、縁あって珍しい石に出会いました。その石は真鶴で採石された「小松石」です。元は「楕円形」であり、石工さんが石を割ろうと矢を一回打ったところ、中が綺麗な凹凸状になっていたそうです。この男女・雌雄一対の、珍しく縁起のよい形状から「妹背石」と命名し、それぞれを「男石」「女石」と呼びます。(案内板より)
秦野市曽屋1丁目にある曾谷神社の参道から境内へ登る階段に秦野二業組合が寄進した玉垣が残っています。
料理屋業組合。
明治43年の「秦野名鑑」には、「東道(ひがしみち)は料理飲食店3、旅人宿2、芸妓置屋2、席亭1、その他に医者、風呂屋、理髪店各1。乳牛(ちゅうし)では料理飲食店4、芸妓置屋1があり、上宿の裏町はちょっとした料芸飲食店街の趣を持っていた。」とあります。
現在も、上宿通りから東へ入った通り(「ひがしみち」)には、歓楽街の名残を感じる風景が残っています。※2※2
光鶴園※1の名前も刻まれています(左から二つ目)。秦野市街だけでなく、鶴巻温泉も含まれているようです。広範な範囲から
P.291
秦野町に住む人々の事情を記した著書が明治43年に出版されている。和…
今回は、秦野(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
秦野の市街から20分ほど歩くと、権現山への登山口です。
急な登山道を登ると。開けた場所に着きます。
頂上の展望台。
展望台からの秦野市街と富士山の眺望。
地下鉄住吉駅近くの通り沿い。
歩道に面して書店があります。
店の入口脇には、最近は見かけることが少なくなった雑誌自販機が設置されています。
夜になると、明かりが灯ります。
錦糸町駅南口の首都高速道路入口付近の交差点の角に、てんぷら「丸中」のビルが建っています。
天ぷら「まるなか」は、明治38年、吉原大門近くの浅草日本堤に割烹料理屋として創業し、その後昭和13年に江東楽天地に天ぷら専門店として開業した歴史を持ちます。
入口には、天ぷら「まるなか」の丸い看板。
天丼とビールを注文。
今回は、錦糸町の町並みを散歩します。
JR錦糸町駅の南側。墨田区立錦糸堀公園の北側の角に、河童の石像が建っています。
本所七不思議のひとつ「おいてけ堀」の由来看板と河童の石像です。
堀の中からの「おいてけ」「おいてけ」の声の主は「河童」と伝えられています。(案内板より)
「おいてけ」の声の主は、ギバチという魚という説、狸という説などがあります。*1
魚を背負っている姿がリアルに再現されています。
P.133
この堀はよく魚が釣れたところだったが、夕方になって釣り人が帰ろう…
江戸川区の荒川近く。船堀2丁目の下町の風情が残る通り。
江戸川区は銭湯が多い区です。船堀駅近くには、船堀3丁目にあけぼの湯、そして、船堀2丁目に鶴の湯があります。
鶴の湯の看板。
天然黒湯温泉です。
日枝船堀の日枝神社境内。溶岩が積み上げられた台座の上に狛犬が乗っています。
境内の奥まった場所(写真左奥)に、溶岩できできた富士塚があります。
富士塚は、江戸末期から明治時代にかけて関東各地で築かれ、江戸川区では特に盛んでした。日枝神社境内にある「船堀の富士塚」(江戸川区登録有形民俗文化財)は明治25年に地元の登山講によって築造されました。*1
頂上には、浅間神社をまつり、五合目には浅間神社の石碑があります。(案内板より)
富士塚の頂上より。
船堀駅の近く。新川沿いに、あけぼの湯の白い煙突が見えます。
天然温泉「あけぼの湯」のアーケード。
アーケードの奥に入口があります。
郷愁を誘う丸看板。
「BOATRACE江戸川(江戸川競艇場)」の向かいに、「大川原商店」と「富士食堂」の2軒の店舗が連なっています。
左側が「富士食堂」です。昼間から営業していて、競艇場へ来場しいた客でにぎわっています。
缶ビール、もつ煮込み、おでん、を注文。
店内のテレビには、レースが中継されています。
都営新宿線船堀駅の「船堀メトロ商店街」。ガード下の商店街です。
商店街の看板が建っています。
都営新宿線のガードと道路が斜めに交差する三角形のエリアと逆三角形のエリアに商店街が配置されています。
夜にになると看板に灯りがともります。
今回は、船堀(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
都営新宿線船堀駅前にある「船堀タワー」は、江戸川区のシンボルです。
展望台からは、東京都の町並みが遠望できます。
「船堀タワー」と「タワーホール船堀」の模型が施設内に展示してあります。つっかえ棒のように3本の鉄骨がタワーを支える構造です。
「タワーホール船堀」のコンセプトは、水辺都市・江戸川区にちなんで「区民の乗合船」をコンセプトに造られました。*1
たしかに、船の形に見えます。
夜はライトアップされます。
越生町の市街から南の郊外に、大宅壮一文庫の越生分館があります。
大宅壮一文庫は日本で初めての雑誌図書館で、評論家・大宅壮一(1900-1970)の雑誌コレクションを引き継いで、明治時代以降130年余りの雑誌を所蔵しています。*1(本館は東京都世田谷区八幡山にあります。)
越生分館は、1997年4月に新築開館。大宅壮一の写真・生原稿・著作・愛用の机・筆記用具等を常設展示、評論活動が幅広く紹介されています。*1
コロナ禍のため、現在は休館となっています。
公益財団法人大宅壮一文庫は日本で初めての雑誌図書館です。評論家・大宅壮一…
1997年4月新築開館。大宅壮一の写真・生原稿・著作・愛用の机・筆記用具等を常…
三滝入口の交差点近くにある黒田屋。看板には、「手打ちうどん、だんご」。明治5年創業です。
メニューは、「あたたかいうどん」「つめたいうどん」が中心ですが、丼物、やきそば、だんご、もあります。
明治33年の引札(広告)。
鍋焼きうどんとビールを注文。
越生町には、町のあちこちに「文化財解説版・標柱」が設置されています。*1※1※2
「フーセン爆弾工場跡」もそのうちの一つで、住宅街の中に設置されています。
風船爆弾(気球爆弾)は太平洋戦争中に日本陸軍が開発した兵器で、気球に爆弾を搭載し、ジェット気流に乗せてアメリカ本土を空爆するもので、小川町の薄くて丈夫な細川紙から「気球紙」が開発されました。*1
越生町でも生繭(せいけん)の共同乾燥施設である乾繭所(かんけんじょ)の施設を利用して兵器製造会社の中外加工品越生作業所が製造にあたりました。*1
「乾繭所」の広間で、巨大風船が製造されました。
越生町内の様々な場所にある文化財について、解説板を設置しています。 六町内…
風船爆弾(気球爆弾)は太平洋戦争中に日本陸軍が「ふ号兵器」の名称で密かに開…
越生梅林の一つ南側の谷を西へ入った先に、麦原川の支流の赤坂川が合流します。
赤坂川沿いに旧な林道を登ると、小便小僧のある場所にたどり着きます。
この小便小僧は県民に親しみやすい砂防事業をPRするため、「赤坂堰堤」の整備に合わせ、埼玉県が平成3年に造ったものです。(案内板より)
小便小僧から出る水は、堰堤の約100m上流の沢を水源とし、水源地と小便小僧の高低差を利用して流れ出る仕組みとなっています。(案内板より)
30年近く水を流し続けてきた小便小僧も「高齢化」により導水管などのところどころが傷んできており、土砂の目詰まり、空気の混入などにより水の出が悪くなることがあるそうです。(案内板より)
今回は、越生(埼玉県越生町)の町並みを散歩します。
越生梅林の八幡神社には、尾張屋三平が寄進した狛犬が残っています。
尾張屋三平は、本名を新井宗秀といい、越生梅林の近くの旧家に生まれ、波乱万丈の生涯を送った人ですが、幕末の江戸で吉原の遊廓の親分格となり、故郷を江戸にひろめました。
*1※1※2※3
狛犬の台座には、「東都新吉原住 尾張屋三平」と刻まれています。※1
風化が進んでいますが、「尾張屋三平」の文字が、かろうじて読み取れます。
P.198
越生町のはずれ…
最乗寺※1 を開いた了庵禅師は糟谷庄(現在の伊勢原市)の出身で、伊勢原に高森道了尊があります。*1
高森道了尊境内に江戸時代の陰陽師の手による星図を描いた石碑が建っています。周縁を二十八宿が囲む図案は星曼荼羅(密教における宇宙観を示すもの)に類似します。*1
星図には「北極連珠」と表題があります。*1
銘に嘉永5年(1852)の記載があります。*1
とうふ坂への分岐点近くの道路脇の斜面の記念碑。
「江戸浅草と組大太刀奉納」と書かれています。
大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木太刀を江戸から担いで運び、滝で身を清めてから奉納と山頂を目指すといった、他に例をみない庶民参拝でした。*1
東京浅草。
雷門、駒形、新吉原などの地名が確認できます。
大山詣りは、鳶などの職人たちが巨大な木太刀を江戸から担いで運び、滝で身を清…
「式部旅館」の玉垣には、当時の実力者の名が刻まれています。右側の角の大きな玉垣には鳩山一郎(元内閣総理大臣)の名があります。
左側の角の大きな玉垣には、白山三業株式会社社長の秋本鐵五郎の名。
秋本鉄五郎は、白山に三業地を開設するために中心的役割を果たしました。*1
東京白山「もみぢ」の玉垣。
新玉橋を渡ってすぐ右手に「式部旅館」。*1
入口には、「先導師 内海式部」の木製看板。
先導師旅館だった頃の面影が漂います。
旅館の前の玉垣。古くて重厚感があります。
先導師旅館「高尾」。玉垣が並ぶ石垣が建つ厳粛な構えです。
旅館「高尾」の南側の玉垣は、芝八雲講の関係者寄進の玉垣でしたが※1、北側の玉垣には、「東京木場筏協同組合」と木場の筏業者の名前が刻まれています。
石垣には四角形の記念碑が組み込まれています。寄進者の名が刻まれています。洲崎遊廓の関係者かもしれません。
昭和9年の「深川狭斜史」には、「深川仲町の三業は、料理店としては、伊勢平、一力、宮川、はつね、新濱、金月、みなき、小川屋、島峰、天金、待合茶屋は、真砂、蔦屋、奥山、松葉屋、ふじ家、末廣、登茂栄…..」と記載されています。
木場の旦那衆が深川や洲崎の賑わいを支えていたことが想像できます。
今回は、伊勢原の町並みを散歩します。
小田急線伊勢原駅北口を出ると、商店街の入口に大山阿夫利神社の「一の鳥居」が建っています。大山登山の入口です。
鳥居の脇に小さな喫茶店。隣のたばこ店と同じ経営のようです。
少し暗めの店内。落ち着いて過ごせます。
ハムトーストとコーヒーを注文。
江東区を東西に流れる小名木川の西隅田川に近いところに架かる「高橋(たかばし)」の周辺から猿江にかけては昭和30年代まで労働者を相手にする木賃宿、簡易旅館が多く、「高橋のドヤ街」と呼ばれていました。小名木川の水運に従事する労働者のために古くから旅館が作られていったようです。*1
宮部みゆきの「理由」*2は、この高橋にある片倉ハウスという簡易旅館の中学生の娘が近くの交番に、「殺人事件の重要参考人がうちに泊まっている。でも、おじさんは犯人ではない。」と言いに来るとことから始まり、荒川区でおきた「一家四人殺し」事件が多角的に検証されることになります。
現在も、多くのビジネスホテルが営業中です。
飲食店の並びにあるビジネスホテル。
昔の面影を残すアパート。
江東区を東西に流れる小名木川の西隅田川に近いところに高橋が架かる。「ばし」…
P.7
東京都江東区高橋(たかばし)二丁目の警視庁深川警察署高橋第二交番に…
森下三丁目の都営高橋アパート※1 のある交差点の対角に赤いビルの中華料理店。
中華料理「楽楽」。
五目チャーハン、揚げワンタンがお勧めです。
五目チャーハンとビールを注文。五目チャーハンのてっぺんに、海老と錦糸卵がのっています。
高橋夜店通りの交差点の角にある都営高橋アパート。かなり年数が経過している建築です。
1階部分は、商業施設。
住居部分へつながる階段。
レトロなホーロー看板。
吉良邸跡があった本所松坂町公園(写真奥)の東隣には、伊勢ノ海部屋がありました。伊勢ノ海部屋は、遠く江戸勧進相撲(かんじんずもう)のゆりかご時代・・約220年も前の寛保時代から続き、そして栄えてきた由緒深い角界の名門です。*1
両国4丁目24附近には、「伊勢の海」と記された電柱番号札をみることができます。
伊勢ノ海部屋の所在地は、五代目は向両国、七代目、八代目、九代目は、本庄元町、十代目になって、墨田区東両国に移転しました。11代目は江戸川区春江町です。九代目の昭和初期に崩壊しましたが、その後は、第二次大戦後に台頭する双葉山の興した時津風一門に所属するようになりました。*2
本庄元町(今の墨田区東両国の回向院の正門前)にあったのは、大正12年の関東大震災までで、天井の低い、昔ながらの稽古場を持つ建物がそびえていました。*1
堅川(墨田川と中川を東西につなぐ川)を渡ると、墨田区千歳です。
千歳2丁目には、銭湯の弁天湯がありました。
創業明治十三年。現在は、弁天湯の看板がだけが残されています。
隣の駐車場の側から見ると、銭湯があった頃のものと思われる庭石に痕跡が。..
おそば「玉屋」の看板が目に入ります。
大正8年の創業の老舗です。
昔ながらの街の蕎麦屋という風情の外観。
天ぷらそばとビールを注文。
都営地下鉄新宿線の森下駅の近くに建つ理容「タカハシ」。右側が駐車場になっているので、風情のある一軒家に見えます。
青色の建物が印象的なBARBER。
奥行のある建物です。物干し台もあります。(写真左上)
側面は、鉢植えが並べられています。
今回は、両国(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
両国駅近くの墨田川沿い。
案内板が3つ並んでいます。一番手前が「旧両国橋、広小路跡」。
両国橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側は「両国広小路」といわれ、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物小屋、食べ物小屋の屋台が軒を連る繁華街となりました。(案内板より)
広小路における水仕掛け大からくり引札。
「江戸東京年表」の宝永元年(1704)に、「大川端で大からくり興業や花火が禁じられた。」とある(禁令が出るというのは、逆に言えば、すでにからくり芝居小屋や花火打ち上げが行われていた。)ので、元禄期(宝永の前)には大道芸や小屋掛けの見世物は始まっていたようです。*1
新川近くの住宅街にある中華料理の「山久」。
テーブル席。
東京山久会、山久のれん会所属の店名が掲げられています。
天津丼とビールを注文。
古川親水公園の清流沿いに、銭湯の宝来湯が佇んでいます。
散歩の休憩場所としてはちょうど良い場所です。
瓦屋根の建物。
軒下の電球。
環七通り沿いの「古川親水公園」バス停近く。歩道橋から見ると、古川親水公園の木々が東西に延びています。
古川親水公園は、「親水」という新たな概念に基づき川を再生させた全国初の事業により誕生しました(案内板より)。
古川はその昔、船堀川と呼ばれていて、徳川家康の江戸入府により、行徳の塩などを江戸に運ぶ重要な水路でした。明治になると、地元の産物を運ぶ身近な川として地域の生活を支えましたが、水運の衰退と都市化の波によりドブ川と化しました(案内板より)。
まるで庭園のようです。
今回は、東葛西(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
葛西駅北口近く。口を開けたカバのモニュメントがある通り。
BIGWESTビル。西葛西駅のビル※1 と同じビル名称です。
バーやスナック専用の娯楽ビルです。
夜の様子。塔のようなネオン看板。
西葛西駅南口から徒歩約2分。
スナック・バーが入居する雑居ビル(ビックウエストビル)。
ビルの1階から最上階までがすべてクラブ、パブなどの店舗です。
夜の様子。
西葛西の棒茅場(ぼうしば)通り。西葛西駅からは、都営バス「西葛26」が10分に1本程度の頻度で船堀駅まで通じています。
昭和初期は、十八軒川(灌漑用水)が流れていた場所で*1、この先は、宇喜多川(同じく現在は棒茅場通り)につながっていました。
飲食店が建ち並ぶ一画があります。
とんかつの名店「よしみ」。駅から遠いにもかかわらず、常連客でいつも賑わっています。
とんかつ定食とビールを注文。
小島湯※1 のある通りを荒川堤防のある方向へ進むと、中華料理の「第二萬福」があります。
木造の店舗併用住宅。2階部分の建物正面は洋風に装飾されています(=看板建築)。
赤を基調とした店内。
ラーメンとビールを注文。
西葛西の荒川堤防(写真奥)の近くの「かさいスーパー」のある通り。
銭湯の小島湯。
綺麗な暖簾のかかる入口。
蔦の絡まる白い煙突が魅力的です。
西葛西は、インド人が多く住む町です。町を歩いているとインド人をよく見かけます。インド料理やインド食材店も数多く営業しています。
そもそも西葛西がインド化したきっかけは、「2000年問題」でした。先に問題の対応に動いていたアメリカがインドのエンジニアに頼っていたことに倣って、日本政府もインドのエンジニアにはすぐにビザを発給できるようにしたため、インド人エンジニアが多く来日する流れができたわけです。大手町や茅場町、日本橋など東西線沿線の金融機関で働くエンジニアたちにとって西葛西はアクセスの面で魅力的でした*1
マンションの1階の商店街にあるインド食材店。
レトルトの製品が充実しています。
さとうきびジュース(タイ産ですが)を購入。
P.28-63
そもそも西葛西がインド化したきっかけは、世間を騒がせたあの「2000年問題」が…
今回は、西葛西(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
地下鉄東西線西葛西駅前を降りた喫煙所コナーの隣に、設置されている女性像。
作者は、彫刻家の高橋剛。
高橋剛は、バレリーナをモチーフとした作品で知られた彫刻家です。
小川方面と黒山方面の三差路の道標※1にしたがってさらに進むと、梅林入口への分かれ道に着きます。
ここにも尾張屋三が建てた道標があります。*1
右 志かう道 二里
(正面)左 子ノ権現 三里廿九町
高山不動 二里半
左 大平山 三瀧 一里十五町
元治二乙丑歳 二月吉祥日
(裏面) 新井三平 建之
助力 当村中
この道標が、他の道標と異なる点は、「吉原講中」と書かれていない点です。
尾張屋三平は吉原でますます人気が高まった頃、吉原の講を率いて故郷に錦を飾るのを夢見ました。その道中は、華美をきわめ、吉原の花魁道中の再現とまでいわれましが、生家のすぐ前の梅林入口の道しるべには、新井三平と彫り、新吉原講中の名を除きました。豪気の三平も生家の真ん前に、新吉原講中、講元尾張屋三平では、後世角上、新井家の人々へ迷惑が掛かりはしないかとの配慮がなされました。*2
側面には、左 大平山と書かれています。
P.198
越生町のはずれ…
P.204
尾張屋三平は吉…
越生町のはずれ、小川方面と黒山方面の三差路。
歩道橋の階段の下に高さ2mほどの石柱が建っています。
石柱には、以下のように書かれています。*1
(正面)日本無双 左 黒山三瀧道 二里
江戸 正木龍塘 書
(側面)東都 新吉原講中
建之 尾張屋三平
(裏面)慶応元乙丑歳 六月吉晨 助力当村中
側面(西側)。
側面(東側)。
越生市街を南北に縦断する県道30号線(飯能寄居線)沿いに、テーマパークのような場所があります。
越生酒造と書かれた看板。ここが越生酒造の跡地だということが解ります。
「来陽」は、越生酒造の銘柄だったようです。
建物一面にホーロー看板が貼られた建物。
「ライヨウ」と書かれた煙突。
越生市街のバス停「新宿」のところに、曙会館跡の碑が建っています。
曙会館は、昭和21年(1948)に地元有志らが開設した劇場で、最新の芸能文化を提供する娯楽の場として利用されました。昭和20年代後半からは、映画上映が主となりました。(案内板より)
昭和34年(1959)3月の上映プログラム。
当時の上映映画や料金(大人70~90円、子供20~30円)などが解ります。
「桃ぢりめん女大名」は、新東宝時代劇の看板女優の宇治みさ子の男装を売物とする企画。*1
P.72
宇治みさ子の男装を売物とする企画だが、新東宝の時代劇陣にあっては一…
大山阿夫利神社の浅間社の左側にある天満宮。
学問の神様としてひろく崇敬されている菅原社の石碑が建っていますが、その奥にたくさんの名が彫られた石塀があります。
石塀に、新吉原納地会幹部8名の名が刻まれています。ここに名を連ねているのは、他に、四ツ谷の花街など商売の関係者ばかりです。
吉原の実力者、水常楼の伊藤常吉※1~4 などの名が刻れています。
バス通りの「開亀橋」前から左に入り、「千代見橋」までの間は「とうふ坂」と呼ばれる約330mの旧参道で、道幅は昔のままです。ここは昭和40年まで石段のある坂道でした。その道を車が通れるよう舗装したので起伏が激しい急な坂道になっています。*1
道沿いには玉垣に囲われた重厚な構えの宿坊が建ち並んでいます。昔の面影が色濃く残る地区です。*1
道の始点と終点には「とうふ坂」の石碑が立っています。そこには「江戸時代より参拝者たちが豆腐を手のひらに乗せてすすりながらこの坂を上った。」とあります。*1
先導師旅館の軒下には、かつては板まねき(講員の屋号などを彫った板札)が掲げられていましたが、現在はそれに代わって「布まねき」が掲げられることが多くなっています。
藤栄会という名前の講の記念碑が建っています。
大山信仰の講には、老舗の大店とそこに出入する諸職人の講もあります。藤栄会は、現在の上野松坂屋(老舗呉服店)と出入りの人たちが作った講で、現在も続いている講中です。*1
松坂屋と大山との関わりは宝永4年(1707)、松坂屋の前身が上野に店を構えた時に、敷地内にすでに大の神が祀られていたために、大山に人を派遣して商売繁盛を祈願させたのがその始まりでした。*1
囲みの玉垣には、御料理「喜久家」の名が刻まれています。
「喜久家」は、東都芸妓名鑑 下谷花街の項にも記載があります。*2
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老舗の大店を中心にその出入りの人々が一体となって大山信仰をしていた…
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喜久家の記載。
鈴川の上流。とうふ坂の入口手前にある開亀橋。
橋を渡ったところに、記念碑が並んで建てられています。
昭和2年建設の天婦羅の「大黒屋本店」の記念碑。
この頃は、「浅草公園」と呼ばれていたことが解ります。
御待合「花ひし家」の記念碑。
東都芸妓名鑑の向島花街の向島芸妓連名の項*1 に記載のある「花びし」でしょうか。
今回は、伊勢原(神奈川県伊勢原市)の町並みを散歩します。
大山駅バス停を下車すると、目の前に「丹沢大山国定公園」のゲートが現れます。
「丹沢大山国定公園」のゲートの近くにある先導師旅館の「高尾」刀の形をした記念碑が建っています。
「芝浦いけす」*1 が寄進した玉垣。
「芝浦いけす」は、明治14年頃に開業した芝浦花街の料亭です。*2
もう一つ「いけす女中連」の玉垣もあります。
御料理「いけす本店」。
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この地は遠浅の砂地が広がっていたため、潮干狩りを楽しむ客や 芝明神…
竪川の北側の通り。
松の湯は60年以上続く銭湯です。*1
破風についている懸魚が立派です。
煙突。
立川4丁目の交差点。
榎稲荷神社。
菊川は、近くに菊川という川があったことから町名となり(元禄9年)、その川の畔に、遊女の宿が多く散在し、人々が集まり、多くの人が稲荷神社に詣でたそうです(碑文より)。
土手の内側にあったことから、土手稲荷とも呼ばれました(碑文より)。
菊川2丁目交差点。
「日本 外国 たばこ」の看板。
「日本 外国 たばこ」の看板の周辺には、灰皿が設置されていて、昼間は、桜の木の下は、近くのサラリーマン達の憩いの場となっています。
柏での風景※1 を思い出しました。
今回は菊川(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
都営新宿線菊川駅を出てすぐのところにある中華「生駒菜館」。
野菜の旨味たっぷりのタンメンが看板メニューのようです。
まず、「変わり豆腐」とビール(大瓶)を注文。「変わり豆腐」は、ボリュームのある豆腐にザーサイやトマトなどがトッピンクされた逸品です。
続いて、タンメン(大盛)を注文。
武蔵高萩駅の北東方向にある日高団地。東西方向に中央通りがあり、町全体が格子状に区画されています。
交差点には、「〇〇条南」「〇〇条北」と書かれた木柱が残されています。現在の住所は高萩東1丁目~2丁目ですが、昔は「〇〇条南」「〇〇条北」と呼ばれていたようです。
地中に埋められているのではなく、既設の鉄柱などに、括り付けられて空中に浮いているようです。
「十二条支」と書かれた電柱番号札。
19条にある環状交差点。
武蔵高萩駅近くのゴルフ場「日高カントリークラブ」(写真右側)の南側の道路沿い。
ラーメン「高久」は、カウンターテーブルが中心の店です。車で来店する客で賑わっています。
ラーメンは400円、とリーズナブル。酒類の提供はありません。
チャーシューメン(大盛)を注文。
サイボクのテーマパーク※1 の裏手には、狭山茶の茶畑が広がっています。
畑の中に、カラオケスナックがあります。
かつて、ここには、劇場や浴場など、場末感漂う娯楽施設が隣接していました。*1
「劇場七蜂座」と書かれたゲートが建ってた敷地の入口あたり。*1
今回は、高萩(埼玉県日高市)の町並みを散歩します。
日高市下大谷沢にあるSAIBOKUは、豚のテーマパークです。
園内には、日本の養豚を牽引した株式会社埼玉種畜牧場(サイボク)の創業者と豚のモニュメント「心友の像」が建てられています。
親豚と子豚2匹。
株式会社埼玉種畜牧場は、昭和21年の創業。育種改良事業を中心とし、日本養豚の発展に寄与してきました。(案内板より)
「心友の像」の近くには、「畜魂の碑」があります。
越生駅前の通り沿いにある中華料理「永楽」。
建物の外観、暖簾は、ワインレッドで統一されています。
ラーメン、チャーハン、餃子など。アルコール類の提供はありません。
チャーハン(大盛)を注文。
黒山三滝入口のゲート※1 から10分ほど歩くと、天狗滝への道が分かれます。
さらに進むと、黒山三滝の男滝、女滝に到着です。
黒山三滝は、男滝、女滝、下流の天狗滝を総称して黒山三滝と呼びます。室町時代の応永5年(1398)、栄円は、この地に、関東の修験道の拠点「山本坊」を開きました。天狗滝奥の大平山には栄円の墓があり、修験道の開祖役行者の石像が祀られています。幕末期には、新吉原で成功を収めた尾張屋三平によって江戸市中に紹介されました。明治になると鉱泉が発見され、県内有数の観光地として知られるようになりました。(案内板より)
男滝と女滝。
「黒山三滝入口」のゲート手前の三差路。
半分ほど埋まりかかっていますが、尾張屋三平が寄進した道標が残されています。
正面は、判読できない状態ですが、「日本第一 大平山 三瀧入口」と刻まれています。*1
側面には、「東都 新吉原講中」と刻まれています。*1
越生駅前から黒山行きバス(1日7本運行)に乗り、終点の黒山で下車。バス停のつきあたりに、「黒山三滝入口」のゲートが建っています。
ゲートの袂には、尾張屋三平の案内板。
新吉原で「寒菊尾張」の暖簾を揚げた尾張屋三平(新井宗秀)は、故郷の黒山三滝の宣伝に尽力しました。
尾張屋三平は、津久根八幡神社の狛犬や道標を寄進しました。
今回は、越生(埼玉県入間郡越生町)の町並みを散歩します。
越生町の中心街。越辺川(おっぺがわ)に掛かる中央橋へ向かう通りの入口に、「二七の市」の碑が建っています。
越生町は、幕末の横浜開港以降、絹取引が盛んになり、明治・大正期に最盛期を迎えました。生絹商や糸繭商をはじめ、旅館、料理屋、芸者屋、人力車など、あらゆる業種が軒を連ね、市日は祭りのような賑わいでした。(案内板より)
当時の様子。(案内板より)
現在の通り。
新代田駅の北側。環七通りを東へ入ったところ。
先頭の宇田川湯があります。
「元気ハツラツ」の看板。
入口に、富士山の絵が掲げられていますが、風呂場のペンキ絵はみごとな赤富士でした。
北沢川緑道近くの交差点のい角に建つオレンジ色のビル。
中華そば「丸長」です。
チャーシュー麺とビールを注文。チャーシューはたっぷり5枚のっています。
椅子の背もたれには、「〇長」と彫りぬかれていて、歴史を感じます。
北沢川緑道は、せせらぎのある遊歩道です。北沢川緑道の北側(写真左側)は区立代沢小学校です。
坂口安吾が住んでいた家の門柱が残されていて、脇に安吾文学碑が建っています。
坂口安吾は、戦前・戦後に活躍した小説家・評論家で、「堕落論」「白痴」などの作品で時代の寵児となりました。
なかでも、「安吾巷談」は、戦後間もない時代の日本の姿を描いたエッセイ集で、「田園ハレム」では、小岩の「東京パレス」※1の様子を描いています。*1
安吾の名言「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」。
鮨屋と鮨屋の向いの焼鳥屋(この店は親友の萩原葉子がつねに「寄ろうか」、或い…
下北沢の代沢5丁目繁華街。路地が複雑に交差して6叉路になっているところがあります。
西側から2本の路地が合流しY字路になっています。Y字路のところには、狭小建物が建っていて、古着屋の店舗になっています。
もともと、この道は、北沢川の支流が流れていました。*1
このあたりの戦前の状況は、「少年が何とか飛び込せた5尺くらいの幅で、平時の水深は約一尺。しかし岸から水面まではもっと深く、10段の木の階段が設けられている深さ」だったそうです。*1
小田急線世田谷代田駅の駅前広場。
代田は、巨人(ダイダラボッチ)伝説の中心地です。この伝説は民俗学者柳田国男の論考「ダイダラ坊の足跡*2」によって世に広められました。*1
駅近くに掲示されている「下北沢文士町文化地図」
ダイダラボッチの足跡の場所が示されています。*3
東京市は、わが日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前…
京王井の頭線の新代田駅北口から徒歩5分の道路沿い。
ラーメンの吉田屋があります。中華屋らしい店構えです。
ラーメンとご飯もののセットメニューが充実しています。
半チャーハン半ラーメンセットとビールを注文。セット専用のユニークな器に盛られています。
今回は、下北沢(東京都世田谷区)の町並みを散歩します。
小田急線下北沢駅構内。壁面全体がレリーフで覆われた一画があります。
昭和を代表する洋画家・宮永岳彦氏※1は、油絵のみならず、デザイナーとしても活躍しました(案内文より)。
小田急電鉄の観光ポスターなどを数多く手がけましたが、このレリーフは、それらを再構成したものです(案内文より)。
特急ロマンスカー・LSE(7000形)。2018年7月10日に、定期運行を終了しました。*1
大山山頂近くの最後の鳥居。
二十八丁目の石柱が、ここが山頂であることを教えてくれます。
大山山頂の碑。
山頂からの眺めは格別です。
追分の道標をもう少し見ていきます。
右側面には、「従是右富士浅間道 東口洌走(すばしり)江十四里 小田原最乗寺江七里」。大山詣と最乗寺(大雄山)や富士山への参詣がセットで行われていたことが解ります。
左側面の下部には「宿坊寶壽院(宝寿院)」と刻まれています。*1
大山詣の際、先導師(御師)は、自分の宿坊に檀家(講)を宿泊させ、参拝祈祷の便宜を図りました。この宿坊機能は近代に至って「先導師旅館」として残りました。*2
宝寿院は、大山11坊のうちの宝寿院*3 と思われます。
道標の囲い石。「京町一丁目」と刻まれています。
新吉原三業組合。これらの囲い石は、再建のときに建てられたものと思われます。
P.14
「とうふ坂」と呼ばれる道はバス通りの「開亀橋」前から左に入り「千代…
明治初期、それまでの修験者・僧侶・神職を神仏分離に伴って「大山阿夫利神社…
大山阿夫利神社(1丁目)から大山頂上(28丁目)を目指し、登山を開始します。登山道には、1丁目、2丁目……..と、標識が建っているので、どれくらい登ったのかを知ることができます。この点は、大雄山の二十八宿石燈籠※1に似ています。
1時間近く歩き、16丁目の追分に到着です。広場になっているので、ゆっくり休憩できる場所です。
ここに、大きな道標が建っています。
道標は、1716年に初建され、3m68cmもあります。麓から強力たちが担ぎ上げたそうです(案内板より)。
道標の正面に、「奉献石尊大権現大天狗、小天狗御寶前」、左側面に「新吉原町講中」と刻まれています。*1
当時の新吉原関係者が力を持っていたこが想像できます。
新吉原関係者が寄進した大山詣の道標は、他に渋沢の道標※2がありますが、それよりもはるかに大きいものです。
裏面には、複数の世話人の名前と「京町一丁目」などの吉原遊廓の町名が刻まれています。
その左側には、「…〇年再建」と記されています。案内板に書かれている通り、この道標は、1716年に初建され、その後再建されたようです。
P.14
「とうふ坂」と呼ばれる道はバス通りの「開亀橋」前から左に入り「千代…
バスに乗って大山ケーブル駅へ到着。
大山ケーブルは、1931年に開通。戦争中に線路などを供出してしまい営業は中断しましたが、1965年に再開され、現在に至っています。*1
大山ケーブル駅から、中腹の阿夫利神社駅までは、全長0.8km。標高差278mの急勾配を所要時間約6分で結びます。*1
(写真は、大山寺駅からの眺め)
阿夫利神社駅。
阿夫利神社駅からは、大山山頂へは登山道が続いています。
今回は、伊勢原(神奈川県伊勢原市)の町並みを散歩します。
小田急線伊勢原駅から伊勢原大神宮方面を向かう通りの途中。眼前には、ピラミッド型の美しい山容を誇る大山(1,252 m)が見えます。
お食事処ぼんち。
チキンカツ定食(800円)とビールを注文。安くてボリューミーです。
チキンカツのボリュームに感動したので、追加でハムエッグ(280円)を注文。
ひがしみちのカフェ「天一」※1 のY字路を進んだ先にあるビル。
ビルの入口付近に「グローリ」と書かれた看板。
パブの入口を示す看板。
近くには、ファッションサルーンの 看板もあります。風俗店が入る雑居ビルだったようです。
乳牛通り※1 の入口の反対側(東側)は「ひがしみち」と呼ばれる通りが東へ続いています。
ひがしみちへ入ったすぐのところがY字路になっているのですが、ここに、印象的なカフェの建物があります。
建物一面ホルスタイン柄です。
みちの形状にあわせて建物の側面は湾曲しています。
「ひがしみち」は、弧を描くように東へ向かっています。
秦野の市街には、古い通りに名前がつけられています。
本町四つ角から南西へ県道704号線を進むと、「乳牛通り」の入口があります。
「乳牛」は、「ちゅうし」と読みます。
入口には、「乳牛通り」を示す石柱が建っています。
歴史のある通りらしく、老舗の商店も建ち並んでいます。
防犯灯に記された「乳牛」。
付近には、醍醐みち、曽屋みち、があります。
「醍醐(だいご)←醍醐味の語源」とは牛乳を精製して作った今のクリームのようなもので、「乳牛(ちゅうし)」は乳牛を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は「曽(そ)」つまり牛乳を煮詰めて作る食品、今のチーズのようなものを生産する家のあるところと解釈されています。*1
片町第一商店街(本町四ツ角から片町通り沿い)には、歴史ある商店が建ち並びます。
その中でも、ひときわ目をひく写真店の建物。
80年代、フィルムカメラが全盛だった頃、フジ(緑)、コダック(黄)、さくら(赤)の3社が競っていましたが、こちらの商店は、フジカラーの色に塗られています。
隣には、黄色と赤の商店が並びます。
黄色看板のひな人形店。
イオン秦野店の入口の信号付近。
NTTの建物の脇に、「軽便(けいべん)みち」の石柱が建てられています。
軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)まで(9.6キロメートル)の馬車鉄道の運行が始まりでした。*1
イオン秦野店の入口近くに記念碑が建てられています。
馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車または貨車をひくもので、旅客は、秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、製糸などで、秦野の産業発展に大きな役割を果たしました。(案内文より)
今回は、秦野(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
慶応年間(1865~68)より「秦野たばこ」は全国的に名前が知られ、秦野の重要産業でした。「秦野たばこ」は、終夜これを喫煙しても 風味が柔らかで喉にさわらぬたばこであるという理由から、特に江戸吉原遊里の遊女たちに好まれたと伝えられています。*1
現在のイオン秦野ショッピングセンターがある場所には、かつて、日本たばこ産業秦野工場(昭和62年3月閉鎖)がありました。*2
イベントなどが催される「くすの木広場」。
明治38年2月の秦野煙草製造所設置の際に植えられたくすの木が、シンボルとして現在も残されています。*2
「秦野たばこ」の名前が全国的に知れ渡るようになったのは 慶応年間(1865~68…
昭和62年3月に日本たばこ産業秦野工場が閉鎖され、その広大な跡地にオープンし…
鶴巻温泉駅前の「弘法の湯」の隣。美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦の美術館があります。
実家のある秦野市名古木にアトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、1946年(昭和21年)から15年間にわたり創作活動を続けました。*1
この日は、「たまゆら昭和を想う」と題し、レコードジャケット用の絵画の他、大型の純粋絵画の展示もありました。*2
『ぺんてるくれよん』のパッケージ(向かい合う男の子と女の子)や『小田急初代特急ロマンスカー』(3000形SE車)の内外装のデザインも手がたことで知られています。*1
『光と影の華麗なる世界』と称される美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦。
…
「たまゆら(玉響)」とは、少しの間、ほんのしばらく、という意味の大和言葉で…