西葛西の棒茅場(ぼうしば)通り。西葛西駅からは、都営バス「西葛26」が10分に1本程度の頻度で船堀駅まで通じています。
昭和初期は、十八軒川(灌漑用水)が流れていた場所で*1、この先は、宇喜多川(同じく現在は棒茅場通り)につながっていました。
飲食店が建ち並ぶ一画があります。
とんかつの名店「よしみ」。駅から遠いにもかかわらず、常連客でいつも賑わっています。
とんかつ定食とビールを注文。
西葛西の棒茅場(ぼうしば)通り。西葛西駅からは、都営バス「西葛26」が10分に1本程度の頻度で船堀駅まで通じています。
昭和初期は、十八軒川(灌漑用水)が流れていた場所で*1、この先は、宇喜多川(同じく現在は棒茅場通り)につながっていました。
飲食店が建ち並ぶ一画があります。
とんかつの名店「よしみ」。駅から遠いにもかかわらず、常連客でいつも賑わっています。
とんかつ定食とビールを注文。
小島湯※1 のある通りを荒川堤防のある方向へ進むと、中華料理の「第二萬福」があります。
木造の店舗併用住宅。2階部分の建物正面は洋風に装飾されています(=看板建築)。
赤を基調とした店内。
ラーメンとビールを注文。
西葛西の荒川堤防(写真奥)の近くの「かさいスーパー」のある通り。
銭湯の小島湯。
綺麗な暖簾のかかる入口。
蔦の絡まる白い煙突が魅力的です。
西葛西は、インド人が多く住む町です。町を歩いているとインド人をよく見かけます。インド料理やインド食材店も数多く営業しています。
そもそも西葛西がインド化したきっかけは、「2000年問題」でした。先に問題の対応に動いていたアメリカがインドのエンジニアに頼っていたことに倣って、日本政府もインドのエンジニアにはすぐにビザを発給できるようにしたため、インド人エンジニアが多く来日する流れができたわけです。大手町や茅場町、日本橋など東西線沿線の金融機関で働くエンジニアたちにとって西葛西はアクセスの面で魅力的でした*1
マンションの1階の商店街にあるインド食材店。
レトルトの製品が充実しています。
さとうきびジュース(タイ産ですが)を購入。
P.28-63
そもそも西葛西がインド化したきっかけは、世間を騒がせたあの「2000年問題」が…
今回は、西葛西(東京都江戸川区)の町並みを散歩します。
地下鉄東西線西葛西駅前を降りた喫煙所コナーの隣に、設置されている女性像。
作者は、彫刻家の高橋剛。
高橋剛は、バレリーナをモチーフとした作品で知られた彫刻家です。
小川方面と黒山方面の三差路の道標※1にしたがってさらに進むと、梅林入口への分かれ道に着きます。
ここにも尾張屋三が建てた道標があります。*1
右 志かう道 二里
(正面)左 子ノ権現 三里廿九町
高山不動 二里半
左 大平山 三瀧 一里十五町
元治二乙丑歳 二月吉祥日
(裏面) 新井三平 建之
助力 当村中
この道標が、他の道標と異なる点は、「吉原講中」と書かれていない点です。
尾張屋三平は吉原でますます人気が高まった頃、吉原の講を率いて故郷に錦を飾るのを夢見ました。その道中は、華美をきわめ、吉原の花魁道中の再現とまでいわれましが、生家のすぐ前の梅林入口の道しるべには、新井三平と彫り、新吉原講中の名を除きました。豪気の三平も生家の真ん前に、新吉原講中、講元尾張屋三平では、後世角上、新井家の人々へ迷惑が掛かりはしないかとの配慮がなされました。*2
側面には、左 大平山と書かれています。
P.198
越生町のはずれ…
P.204
尾張屋三平は吉…
越生町のはずれ、小川方面と黒山方面の三差路。
歩道橋の階段の下に高さ2mほどの石柱が建っています。
石柱には、以下のように書かれています。*1
(正面)日本無双 左 黒山三瀧道 二里
江戸 正木龍塘 書
(側面)東都 新吉原講中
建之 尾張屋三平
(裏面)慶応元乙丑歳 六月吉晨 助力当村中
側面(西側)。
側面(東側)。
越生市街を南北に縦断する県道30号線(飯能寄居線)沿いに、テーマパークのような場所があります。
越生酒造と書かれた看板。ここが越生酒造の跡地だということが解ります。
「来陽」は、越生酒造の銘柄だったようです。
建物一面にホーロー看板が貼られた建物。
「ライヨウ」と書かれた煙突。
越生市街のバス停「新宿」のところに、曙会館跡の碑が建っています。
曙会館は、昭和21年(1948)に地元有志らが開設した劇場で、最新の芸能文化を提供する娯楽の場として利用されました。昭和20年代後半からは、映画上映が主となりました。(案内板より)
昭和34年(1959)3月の上映プログラム。
当時の上映映画や料金(大人70~90円、子供20~30円)などが解ります。
「桃ぢりめん女大名」は、新東宝時代劇の看板女優の宇治みさ子の男装を売物とする企画。*1
P.72
宇治みさ子の男装を売物とする企画だが、新東宝の時代劇陣にあっては一…
大山阿夫利神社の浅間社の左側にある天満宮。
学問の神様としてひろく崇敬されている菅原社の石碑が建っていますが、その奥にたくさんの名が彫られた石塀があります。
石塀に、新吉原納地会幹部8名の名が刻まれています。ここに名を連ねているのは、他に、四ツ谷の花街など商売の関係者ばかりです。
吉原の実力者、水常楼の伊藤常吉※1~4 などの名が刻れています。
バス通りの「開亀橋」前から左に入り、「千代見橋」までの間は「とうふ坂」と呼ばれる約330mの旧参道で、道幅は昔のままです。ここは昭和40年まで石段のある坂道でした。その道を車が通れるよう舗装したので起伏が激しい急な坂道になっています。*1
道沿いには玉垣に囲われた重厚な構えの宿坊が建ち並んでいます。昔の面影が色濃く残る地区です。*1
道の始点と終点には「とうふ坂」の石碑が立っています。そこには「江戸時代より参拝者たちが豆腐を手のひらに乗せてすすりながらこの坂を上った。」とあります。*1
先導師旅館の軒下には、かつては板まねき(講員の屋号などを彫った板札)が掲げられていましたが、現在はそれに代わって「布まねき」が掲げられることが多くなっています。
藤栄会という名前の講の記念碑が建っています。
大山信仰の講には、老舗の大店とそこに出入する諸職人の講もあります。藤栄会は、現在の上野松坂屋(老舗呉服店)と出入りの人たちが作った講で、現在も続いている講中です。*1
松坂屋と大山との関わりは宝永4年(1707)、松坂屋の前身が上野に店を構えた時に、敷地内にすでに大の神が祀られていたために、大山に人を派遣して商売繁盛を祈願させたのがその始まりでした。*1
囲みの玉垣には、御料理「喜久家」の名が刻まれています。
「喜久家」は、東都芸妓名鑑 下谷花街の項にも記載があります。*2
P.75
老舗の大店を中心にその出入りの人々が一体となって大山信仰をしていた…
P.6
喜久家の記載。
鈴川の上流。とうふ坂の入口手前にある開亀橋。
橋を渡ったところに、記念碑が並んで建てられています。
昭和2年建設の天婦羅の「大黒屋本店」の記念碑。
この頃は、「浅草公園」と呼ばれていたことが解ります。
御待合「花ひし家」の記念碑。
東都芸妓名鑑の向島花街の向島芸妓連名の項*1 に記載のある「花びし」でしょうか。
今回は、伊勢原(神奈川県伊勢原市)の町並みを散歩します。
大山駅バス停を下車すると、目の前に「丹沢大山国定公園」のゲートが現れます。
「丹沢大山国定公園」のゲートの近くにある先導師旅館の「高尾」刀の形をした記念碑が建っています。
「芝浦いけす」*1 が寄進した玉垣。
「芝浦いけす」は、明治14年頃に開業した芝浦花街の料亭です。*2
もう一つ「いけす女中連」の玉垣もあります。
御料理「いけす本店」。
P.213
この地は遠浅の砂地が広がっていたため、潮干狩りを楽しむ客や 芝明神…
竪川の北側の通り。
松の湯は60年以上続く銭湯です。*1
破風についている懸魚が立派です。
煙突。
立川4丁目の交差点。
榎稲荷神社。
菊川は、近くに菊川という川があったことから町名となり(元禄9年)、その川の畔に、遊女の宿が多く散在し、人々が集まり、多くの人が稲荷神社に詣でたそうです(碑文より)。
土手の内側にあったことから、土手稲荷とも呼ばれました(碑文より)。
菊川2丁目交差点。
「日本 外国 たばこ」の看板。
「日本 外国 たばこ」の看板の周辺には、灰皿が設置されていて、昼間は、桜の木の下は、近くのサラリーマン達の憩いの場となっています。
柏での風景※1 を思い出しました。
今回は菊川(東京都墨田区)の町並みを散歩します。
都営新宿線菊川駅を出てすぐのところにある中華「生駒菜館」。
野菜の旨味たっぷりのタンメンが看板メニューのようです。
まず、「変わり豆腐」とビール(大瓶)を注文。「変わり豆腐」は、ボリュームのある豆腐にザーサイやトマトなどがトッピンクされた逸品です。
続いて、タンメン(大盛)を注文。
武蔵高萩駅の北東方向にある日高団地。東西方向に中央通りがあり、町全体が格子状に区画されています。
交差点には、「〇〇条南」「〇〇条北」と書かれた木柱が残されています。現在の住所は高萩東1丁目~2丁目ですが、昔は「〇〇条南」「〇〇条北」と呼ばれていたようです。
地中に埋められているのではなく、既設の鉄柱などに、括り付けられて空中に浮いているようです。
「十二条支」と書かれた電柱番号札。
19条にある環状交差点。
武蔵高萩駅近くのゴルフ場「日高カントリークラブ」(写真右側)の南側の道路沿い。
ラーメン「高久」は、カウンターテーブルが中心の店です。車で来店する客で賑わっています。
ラーメンは400円、とリーズナブル。酒類の提供はありません。
チャーシューメン(大盛)を注文。
サイボクのテーマパーク※1 の裏手には、狭山茶の茶畑が広がっています。
畑の中に、カラオケスナックがあります。
かつて、ここには、劇場や浴場など、場末感漂う娯楽施設が隣接していました。*1
「劇場七蜂座」と書かれたゲートが建ってた敷地の入口あたり。*1
今回は、高萩(埼玉県日高市)の町並みを散歩します。
日高市下大谷沢にあるSAIBOKUは、豚のテーマパークです。
園内には、日本の養豚を牽引した株式会社埼玉種畜牧場(サイボク)の創業者と豚のモニュメント「心友の像」が建てられています。
親豚と子豚2匹。
株式会社埼玉種畜牧場は、昭和21年の創業。育種改良事業を中心とし、日本養豚の発展に寄与してきました。(案内板より)
「心友の像」の近くには、「畜魂の碑」があります。
越生駅前の通り沿いにある中華料理「永楽」。
建物の外観、暖簾は、ワインレッドで統一されています。
ラーメン、チャーハン、餃子など。アルコール類の提供はありません。
チャーハン(大盛)を注文。
黒山三滝入口のゲート※1 から10分ほど歩くと、天狗滝への道が分かれます。
さらに進むと、黒山三滝の男滝、女滝に到着です。
黒山三滝は、男滝、女滝、下流の天狗滝を総称して黒山三滝と呼びます。室町時代の応永5年(1398)、栄円は、この地に、関東の修験道の拠点「山本坊」を開きました。天狗滝奥の大平山には栄円の墓があり、修験道の開祖役行者の石像が祀られています。幕末期には、新吉原で成功を収めた尾張屋三平によって江戸市中に紹介されました。明治になると鉱泉が発見され、県内有数の観光地として知られるようになりました。(案内板より)
男滝と女滝。
「黒山三滝入口」のゲート手前の三差路。
半分ほど埋まりかかっていますが、尾張屋三平が寄進した道標が残されています。
正面は、判読できない状態ですが、「日本第一 大平山 三瀧入口」と刻まれています。*1
側面には、「東都 新吉原講中」と刻まれています。*1
越生駅前から黒山行きバス(1日7本運行)に乗り、終点の黒山で下車。バス停のつきあたりに、「黒山三滝入口」のゲートが建っています。
ゲートの袂には、尾張屋三平の案内板。
新吉原で「寒菊尾張」の暖簾を揚げた尾張屋三平(新井宗秀)は、故郷の黒山三滝の宣伝に尽力しました。
尾張屋三平は、津久根八幡神社の狛犬や道標を寄進しました。
今回は、越生(埼玉県入間郡越生町)の町並みを散歩します。
越生町の中心街。越辺川(おっぺがわ)に掛かる中央橋へ向かう通りの入口に、「二七の市」の碑が建っています。
越生町は、幕末の横浜開港以降、絹取引が盛んになり、明治・大正期に最盛期を迎えました。生絹商や糸繭商をはじめ、旅館、料理屋、芸者屋、人力車など、あらゆる業種が軒を連ね、市日は祭りのような賑わいでした。(案内板より)
当時の様子。(案内板より)
現在の通り。
新代田駅の北側。環七通りを東へ入ったところ。
先頭の宇田川湯があります。
「元気ハツラツ」の看板。
入口に、富士山の絵が掲げられていますが、風呂場のペンキ絵はみごとな赤富士でした。
北沢川緑道近くの交差点のい角に建つオレンジ色のビル。
中華そば「丸長」です。
チャーシュー麺とビールを注文。チャーシューはたっぷり5枚のっています。
椅子の背もたれには、「〇長」と彫りぬかれていて、歴史を感じます。
北沢川緑道は、せせらぎのある遊歩道です。北沢川緑道の北側(写真左側)は区立代沢小学校です。
坂口安吾が住んでいた家の門柱が残されていて、脇に安吾文学碑が建っています。
坂口安吾は、戦前・戦後に活躍した小説家・評論家で、「堕落論」「白痴」などの作品で時代の寵児となりました。
なかでも、「安吾巷談」は、戦後間もない時代の日本の姿を描いたエッセイ集で、「田園ハレム」では、小岩の「東京パレス」※1の様子を描いています。*1
安吾の名言「人間の尊さは自分を苦しめるところにある」。
鮨屋と鮨屋の向いの焼鳥屋(この店は親友の萩原葉子がつねに「寄ろうか」、或い…
下北沢の代沢5丁目繁華街。路地が複雑に交差して6叉路になっているところがあります。
西側から2本の路地が合流しY字路になっています。Y字路のところには、狭小建物が建っていて、古着屋の店舗になっています。
もともと、この道は、北沢川の支流が流れていました。*1
このあたりの戦前の状況は、「少年が何とか飛び込せた5尺くらいの幅で、平時の水深は約一尺。しかし岸から水面まではもっと深く、10段の木の階段が設けられている深さ」だったそうです。*1
小田急線世田谷代田駅の駅前広場。
代田は、巨人(ダイダラボッチ)伝説の中心地です。この伝説は民俗学者柳田国男の論考「ダイダラ坊の足跡*2」によって世に広められました。*1
駅近くに掲示されている「下北沢文士町文化地図」
ダイダラボッチの足跡の場所が示されています。*3
東京市は、わが日本の巨人伝説の一箇の中心地ということができる。われわれの前…
京王井の頭線の新代田駅北口から徒歩5分の道路沿い。
ラーメンの吉田屋があります。中華屋らしい店構えです。
ラーメンとご飯もののセットメニューが充実しています。
半チャーハン半ラーメンセットとビールを注文。セット専用のユニークな器に盛られています。
今回は、下北沢(東京都世田谷区)の町並みを散歩します。
小田急線下北沢駅構内。壁面全体がレリーフで覆われた一画があります。
昭和を代表する洋画家・宮永岳彦氏※1は、油絵のみならず、デザイナーとしても活躍しました(案内文より)。
小田急電鉄の観光ポスターなどを数多く手がけましたが、このレリーフは、それらを再構成したものです(案内文より)。
特急ロマンスカー・LSE(7000形)。2018年7月10日に、定期運行を終了しました。*1
大山山頂近くの最後の鳥居。
二十八丁目の石柱が、ここが山頂であることを教えてくれます。
大山山頂の碑。
山頂からの眺めは格別です。
追分の道標をもう少し見ていきます。
右側面には、「従是右富士浅間道 東口洌走(すばしり)江十四里 小田原最乗寺江七里」。大山詣と最乗寺(大雄山)や富士山への参詣がセットで行われていたことが解ります。
左側面の下部には「宿坊寶壽院(宝寿院)」と刻まれています。*1
大山詣の際、先導師(御師)は、自分の宿坊に檀家(講)を宿泊させ、参拝祈祷の便宜を図りました。この宿坊機能は近代に至って「先導師旅館」として残りました。*2
宝寿院は、大山11坊のうちの宝寿院*3 と思われます。
道標の囲い石。「京町一丁目」と刻まれています。
新吉原三業組合。これらの囲い石は、再建のときに建てられたものと思われます。
P.14
「とうふ坂」と呼ばれる道はバス通りの「開亀橋」前から左に入り「千代…
明治初期、それまでの修験者・僧侶・神職を神仏分離に伴って「大山阿夫利神社…
大山阿夫利神社(1丁目)から大山頂上(28丁目)を目指し、登山を開始します。登山道には、1丁目、2丁目……..と、標識が建っているので、どれくらい登ったのかを知ることができます。この点は、大雄山の二十八宿石燈籠※1に似ています。
1時間近く歩き、16丁目の追分に到着です。広場になっているので、ゆっくり休憩できる場所です。
ここに、大きな道標が建っています。
道標は、1716年に初建され、3m68cmもあります。麓から強力たちが担ぎ上げたそうです(案内板より)。
道標の正面に、「奉献石尊大権現大天狗、小天狗御寶前」、左側面に「新吉原町講中」と刻まれています。*1
当時の新吉原関係者が力を持っていたこが想像できます。
新吉原関係者が寄進した大山詣の道標は、他に渋沢の道標※2がありますが、それよりもはるかに大きいものです。
裏面には、複数の世話人の名前と「京町一丁目」などの吉原遊廓の町名が刻まれています。
その左側には、「…〇年再建」と記されています。案内板に書かれている通り、この道標は、1716年に初建され、その後再建されたようです。
P.14
「とうふ坂」と呼ばれる道はバス通りの「開亀橋」前から左に入り「千代…
バスに乗って大山ケーブル駅へ到着。
大山ケーブルは、1931年に開通。戦争中に線路などを供出してしまい営業は中断しましたが、1965年に再開され、現在に至っています。*1
大山ケーブル駅から、中腹の阿夫利神社駅までは、全長0.8km。標高差278mの急勾配を所要時間約6分で結びます。*1
(写真は、大山寺駅からの眺め)
阿夫利神社駅。
阿夫利神社駅からは、大山山頂へは登山道が続いています。
今回は、伊勢原(神奈川県伊勢原市)の町並みを散歩します。
小田急線伊勢原駅から伊勢原大神宮方面を向かう通りの途中。眼前には、ピラミッド型の美しい山容を誇る大山(1,252 m)が見えます。
お食事処ぼんち。
チキンカツ定食(800円)とビールを注文。安くてボリューミーです。
チキンカツのボリュームに感動したので、追加でハムエッグ(280円)を注文。
ひがしみちのカフェ「天一」※1 のY字路を進んだ先にあるビル。
ビルの入口付近に「グローリ」と書かれた看板。
パブの入口を示す看板。
近くには、ファッションサルーンの 看板もあります。風俗店が入る雑居ビルだったようです。
乳牛通り※1 の入口の反対側(東側)は「ひがしみち」と呼ばれる通りが東へ続いています。
ひがしみちへ入ったすぐのところがY字路になっているのですが、ここに、印象的なカフェの建物があります。
建物一面ホルスタイン柄です。
みちの形状にあわせて建物の側面は湾曲しています。
「ひがしみち」は、弧を描くように東へ向かっています。
秦野の市街には、古い通りに名前がつけられています。
本町四つ角から南西へ県道704号線を進むと、「乳牛通り」の入口があります。
「乳牛」は、「ちゅうし」と読みます。
入口には、「乳牛通り」を示す石柱が建っています。
歴史のある通りらしく、老舗の商店も建ち並んでいます。
防犯灯に記された「乳牛」。
付近には、醍醐みち、曽屋みち、があります。
「醍醐(だいご)←醍醐味の語源」とは牛乳を精製して作った今のクリームのようなもので、「乳牛(ちゅうし)」は乳牛を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は「曽(そ)」つまり牛乳を煮詰めて作る食品、今のチーズのようなものを生産する家のあるところと解釈されています。*1
片町第一商店街(本町四ツ角から片町通り沿い)には、歴史ある商店が建ち並びます。
その中でも、ひときわ目をひく写真店の建物。
80年代、フィルムカメラが全盛だった頃、フジ(緑)、コダック(黄)、さくら(赤)の3社が競っていましたが、こちらの商店は、フジカラーの色に塗られています。
隣には、黄色と赤の商店が並びます。
黄色看板のひな人形店。
イオン秦野店の入口の信号付近。
NTTの建物の脇に、「軽便(けいべん)みち」の石柱が建てられています。
軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)まで(9.6キロメートル)の馬車鉄道の運行が始まりでした。*1
イオン秦野店の入口近くに記念碑が建てられています。
馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車または貨車をひくもので、旅客は、秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、製糸などで、秦野の産業発展に大きな役割を果たしました。(案内文より)
今回は、秦野(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
慶応年間(1865~68)より「秦野たばこ」は全国的に名前が知られ、秦野の重要産業でした。「秦野たばこ」は、終夜これを喫煙しても 風味が柔らかで喉にさわらぬたばこであるという理由から、特に江戸吉原遊里の遊女たちに好まれたと伝えられています。*1
現在のイオン秦野ショッピングセンターがある場所には、かつて、日本たばこ産業秦野工場(昭和62年3月閉鎖)がありました。*2
イベントなどが催される「くすの木広場」。
明治38年2月の秦野煙草製造所設置の際に植えられたくすの木が、シンボルとして現在も残されています。*2
「秦野たばこ」の名前が全国的に知れ渡るようになったのは 慶応年間(1865~68…
昭和62年3月に日本たばこ産業秦野工場が閉鎖され、その広大な跡地にオープンし…
鶴巻温泉駅前の「弘法の湯」の隣。美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦の美術館があります。
実家のある秦野市名古木にアトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、1946年(昭和21年)から15年間にわたり創作活動を続けました。*1
この日は、「たまゆら昭和を想う」と題し、レコードジャケット用の絵画の他、大型の純粋絵画の展示もありました。*2
『ぺんてるくれよん』のパッケージ(向かい合う男の子と女の子)や『小田急初代特急ロマンスカー』(3000形SE車)の内外装のデザインも手がたことで知られています。*1
『光と影の華麗なる世界』と称される美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦。
…
「たまゆら(玉響)」とは、少しの間、ほんのしばらく、という意味の大和言葉で…
鶴巻温泉駅前に、高さ2m以上はあると思われる大きな石燈籠が残されています。
光鶴園は、かつての鶴巻温泉の名旅館です。
大山講の書かれています。光鶴園は大山講の定宿だったようです。
大山のことを詠んだ詩歌。作者に「黄庵」の文字があります。
「黄庵」は、鶴巻を発展させるために、昭和28年(1953年)に光鶴園の敷地内に開設された性風俗博物館です。*1
正式には、今昔民俗研究所と称し、原始宗教の信仰対象である和合神仏をはじめ、収集品は約3000点にも及び、特殊な研究家には紹介者のある限り公開するが、好奇心や未成年者、酔後の方々にはお断りしていました。*2
P.162
博物館・今昔民俗研究所「黄庵」設置
鶴巻をもっと発展させる方法…
今昔民族研究所は、一名を性風俗博物館とも称し、全日本博物館協会中唯一の特色…
渋沢駅南側の渋沢商店街。
オレンジ色のテント屋根と赤の暖簾の中華屋さん。
40年以上変わらない昭和の雰囲気が漂う店内。ラーメンや焼きそばに使われている麺はすべて手打ちの自家製麺です。*1
ビールとチャーシューワンタンメンを注文。
秦野市曲松にある追分道標追分道標※1 の正面の下部。「新吉原講中」と刻まれています。
矢倉沢往還の碑の説明文※1 でも紹介されている江戸屋喜平次の名前が確認できます。
新吉原の妓楼名と関係者の名前が刻まれています。この頃は、妓楼名は〇〇楼ではなく、〇〇屋と名付けられていたことが解ります。
人足二百人。
秦野市曲松の國栄稲荷神社の隣に、「大山道矢倉沢往還」の碑が建っています。
碑の説明文によりと、この場所は、江戸時代、小田原街道と矢倉沢往還の2つの古道が交差していた場所で、大山や富士参詣をする人々で賑わいました。
江戸屋喜平治の建てた道標。写真奥は、國栄稲荷神社のです。
碑の左面には、「小田原 いいすみ みち」と彫られています。
「大山道矢倉沢往還」の碑の説明文:
古道解説
ここは、東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が南北に交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち 」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣 や大山講 の人々によって数多く道標 が建てられ、近くに江戸屋喜平治の建てた道標もあり、宿屋も何軒かあったという。
碑の左面には、大山みち。
碑の背面には、寛政8年(1796年)の建立であることが刻まれています。
正面には、「右 ふし道 さい志やうじ 山の道 左 十日市場」
今回は、渋沢(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
駅前ロータリーからは、丹沢山塊の塔ノ岳が望めます。
バス乗り場の近くに、列車接近案内放送に関する案内板が設置されています。
ZARDのボーカル故・坂井泉水さんは、秦野市に住んでいたこともあり、高校に通学する際には、最寄駅である小田急線渋沢駅(秦野市)を利用していました。
渋沢易では、到着列車が近づくと、「負けないで」(上りホーム)、「揺れる想い」(下りホーム)のメロディーが流れます。
茂原市街からジャパンディスプレイの工場へ向かう途中にある日進橋。
土橋慶光作「春雷」。
力強さを感じる作品です。
後ろ姿。
昭和32~3年ごろ、落合橋際の平安閣があったあたりに「茂原グリーンセンター」が開設しました。*1*2
ヨード温泉も兼ね、舞台村100畳の大広曲があって、芝居、手踊り、歌謡曲など各種の園芸が催され、大衆向きの娯楽場として賑わいました。*1
茂原グリンセンターは、太平洋戦争末期、海軍からの要請で開設された慰安所が、終戦後は一時進駐軍の慰安所となり、その後「茂原温泉郷」となったものが、昭和33年に、大衆娯楽場のグリンセンターに転業したものです。*3*4
現在、当時の面影はありません。
「茂原太平記」*4 には、「阿久川の流れにかかった落合橋を渡ると、六軒ばかり固まって割烹旅館式の作りの家が立ち並び、温泉マークがネオンに輝いている。弁天荘、大善、若松、松竹、松の家、深川という色どり。」と、茂原温泉郷の当時の様子が描写されています。
阿久川の流れ。
遠くにガスタンクとガス管橋※1 が見えます。
P.111
鈴木音三郎氏らが中心になり、昭和32~3年ごろ、落合橋際( 今の平安…
早野新田海軍慰安所設置
<…阿久川という川とは名ばかりの流れにかかった落合橋を渡ると、六軒ばかり固まっ…
茂原駅の北東にある三井化学茂原分工場。
現在、工場となっている敷地は、太平洋戦争末期、茂原海軍航空隊の飛行場があった場所です。
工場の東側を南北に縦断する道路は、滑走路跡の一部です。
茂原海軍航空隊の主力戦闘304飛行隊は、昭和20年(1945年)初頭に正式に発足しましたが、戦況悪化に伴い、沖縄戦への出動命令が下り、同年4月初旬、柳沢少佐を隊長とする神風特別攻撃隊第三御楯隊柳沢零戦隊が編成され、約40名が茂原基地から鹿児島県の国分基地に転出し、他の飛行隊と共に菊水三号作戦に参加しました。
柳沢零戦隊の戦死者(19名)のうちのほとんどは、予科練や予備学生の出身者でした。*1
昭和19年、海軍からの要請で、早野新田に慰安所が開設されました。終戦間際、特攻基地となった茂原からは、毎日の如く台湾沖へ若鷲が出発し、前日には必ず挨拶酒宴が催されました。*2※1
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45年1月頃、第一線で消耗した戦闘304飛行隊が館山に復帰。3月にはある…
早野新田海軍慰安所設置
<…2号掩体壕※1 があった場所から県道293号線を東へ進むと、道路沿いに「掩体壕100m」の看板があります。
住宅地に残る3号掩体壕。
戦時下の飛行場施設は、「分散」「偽装・隠蔽」「耐弾化」が三原則とされました。掩体上に密生している草、後方の木々などは、これこそが「偽装・隠蔽」されたもともとの姿と言えます。*1
茂原市は、戦後50年事業の一環として、3号掩体壕の土地を借り上げて説明板をつけました。*1
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茂原市文化財審議会では残された鉄網コンクリート製の掩体壕に、1号から…
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太平洋戦争末期、…
太平洋戦争末期、陸海軍飛行場に建造された掩体壕のうち、1か所に多数の掩体壕が残存している例としては、茂原市の11基がを筆頭に木更津市の10基、大分県宇佐市の10基、高知県南国市の7基、北海道根室市6基などがあります。*1
茂原市の11基のうち、もっとも綺麗な状態で残っているものの1つが2号掩体壕です。
入口は補強されていて、良好な保存状態です。
横から見ると、徳利型であることが解ります。
内部の様子。
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太平洋戦争末期、…
新茂原駅の南の神林踏切近く。
黄色のちかん看板。下の「注意」の文字が日焼けで見えなくなっています。
新茂原駅前。こちらの看板も「多発注意!!」の部分が日焼けしています。
朝日神社の近く。下の部分「に注意」が、見えなくなっています。
塗料の色によって日焼けの進行に差があるようです。※1
新茂原駅前の通り沿いには、飲食店が散在しています。
すし、天ぷら、うなぎの辰巳屋。
ランチメニューもあります。
ちらし寿司とビールを注文。
今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
外房線茂原駅の一つ手前の新茂原駅。
改札口へ。
紺地に白文字で書かれたホーロー駅名標。近年は姿を見かけなくなってきましたが、綺麗な状態で残っています。
駅舎もレトロな雰囲気です。
布田駅近く。旧甲州街道沿いにある常性寺。
境内の西側手前の隅に、「敷石碑」が建っています。
これは、五宿の貸座敷業の主人が、明治11年、境内の敷石を寄付した記念碑です。※1
「五宿貸座敷」。
五宿貸座敷の主人20名の名が刻まれています。*1
1865年、幕府は長州征伐を行ない、布田五宿に対し、軍用金5000両の献上を要求しましたが、五宿は、飯盛り旅籠の設置の許可を願い出、飯盛旅籠が認められれば、7000両の冥加金を上納することを申し出ました。その結果、1866年 7月以前には布田五宿に飯盛旅籠が許可されました。その後、貸座敷業者は、1875年には17件を数え、さらに1877年には21軒に増加しましたが、その後は衰退しました。※2
この「敷石碑」は、布田の貸座敷が全盛期のものといえます。
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国領二丁目から一丁目に入ると、右手に常性寺がある。境内隅には敷石…
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甲州街道筋では、内藤新宿、高井戸、府中、八王子が飯盛女を置いていた…
調布駅北側の商店街「調布銀座」にある台北飯店。
台北飯店は、ウルトラセブンにアンヌ隊員役として出演したひし美ゆり子さんが経営されている店です。※1
ランチメニューは種類が豊富です。
チャーハン・スープ餃子とビールを注文。
アンヌ隊員は、セブンファンだけではなく、多くの人々にとって永遠のあこがれです。※1
調布駅の北側。旧甲州街道沿いにある名糖牛乳宮川販売店。
名糖牛乳のマーク。
名糖牛乳の商品が並んでいます。
横から見ると、看板建築であることが解ります。
調布駅の北、武蔵野の森公園。
園内に掩体壕の遺構が残されています。
戦闘機「飛燕」のモニュメント。
「飛燕」は、第2次世界大戦中、川崎航空機工業(現在の川崎重工業)が製作した戦闘機で、唯一の水冷式戦闘機として開発され、最大速度610km/時、高度1万メートルでも編隊飛行が可能であるなど、当時の世界水準をいく高性能機でした。※1
掩体壕の前面は、ふさがれていますが、そこには、「飛燕」が描かれています。
調布駅前公園は昭和47(1972)年に開園し、タコのすべり台があったことから「タコ公園」として親しまれてきましたが、京王線の地下化に伴う駅前広場や地下駐輪場などの整備のため、平成28(2016)年9月30日に閉園しました。*1
現在の「タコ公園(通称)」は、令和2(2020)年4月、調布市役所裏の京王相模原線の跡地に、鉄道敷地公園(仮称)が開園したもので、ここに、かつてのタコ公園のシンボルだった「タコのすべり台」が再建されました。*1
多くの市民からの復活の要望を受け、先代のタコの頭の一部が現在のタコの頭に埋め込まれているそうです。*1
すべり台は、迫力満点です。
桜堤通り沿いにある日活調布撮影所。近くには、多摩川自然観察緑地があって、水と緑の環境に恵まれた場所です。
撮影所の建物の東隣(写真右手前の塀のある場所)に、ぬのた公園への通り抜け通路の入口があります。
曲がりくねった通路を進むと、調布市立ぬの多公園への敷。(写真中央)地につながっていますが、この場所に小さな石碑があります
日活撮影所の碑。日活映画全盛時代を象徴する石碑です。
説明文によると、撮影所ができた頃は、周囲に住宅は無く、田園風景が広がっていたそうです。
1962年には銀座の並木通りとみゆき通り等の町並みを再現したオープンセットが完成し、同年3月公開の「銀座の恋の物語」「上を向いて歩こう」で使用されたそうです。
今回は、調布(東京都調布市)の町並みを散歩します。
多摩川5丁目の「角川大映スタジオ」(写真の左奥に見える建物)の近くに映画俳優之碑があります。
昭和の映画界を代表する俳優の名前が刻まれています。
映画俳優之碑のすぐ近く。多摩川5丁目児童遊園の敷地内には、調布映画発祥の碑。
碑の説明文によると、昭和8年1月、この地(調布市多摩川)の「水と緑と澄んだ空気」が映画産業に欠かすことのできない条件であったことから、最適地に選ばれ、日本映画株式会社が設立され、多摩川スタジオが完成したそうです。
吉原弁財天のお堂※1 の中に掲げられている奉納額。
当時の店舗の屋号が解る貴重な資料です。
額の左側は、料亭などの店舗の名が連なっています。
昭和30年3月、発起人は「水常」と記されています。
吉原弁財天の花吉原名残碑のあるあたり。最近、。椅子とテーブルが設置され、ここで、ゆっくりとできるようになりました。
テーブル近くにある「大震火災十週年記念月桂樹」の碑。※1
昭和7(1932)年3月に、水常楼の伊藤常吉が寄進しています。
月桂樹。
吉原弁財天の入口にある水常楼伊藤常吉が寄進玉垣。その大きさから、吉原の実力者であったことが解ります。
「水常」と刻まれた石柱が建つあたりには、さまざま石碑が密集しています。水常楼伊藤常吉が関係している石碑群と思われます。
奥にある吉原講の石碑。
伊藤常吉は、吉原を仕切った大物で、大雄山二十一丁目星宿燈を建てました。*1※1
十七回忌追善碑。※2
発起人に、伊藤常吉の名があります。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
桜鍋料理の「中江」※1 や「土手の伊勢屋」※2などの名店が建ち並ぶ土手通り※3※4。
とんかつ専門店の美乃屋。
落ち着ける店内。
かつ丼とビールを注文。
かつ丼は。さやえんどう、しいたけなども入っていて絶品です。
大雄山最乗寺境内の多宝塔への登り口の近くに、大きな石碑が2つ並んでいる場所があります。
石碑の裏側に、二十八丁目星宿燈があります。一丁目から数え歩いて最後の星宿燈です。
東京市浅草新吉原中米(なかごめ)楼と刻まれています。
二十八丁目星宿燈を建てた中米楼は、吉原の道了信仰の指導的立場にありました。*1
中米楼の関係者が出版した本として『吉原夜話』(青蛙房,1964)があります。初代市川猿之助(1855-1922、)の妻である吉原妓楼(中米楼)の女主人・喜熨斗古登子が、幕末から明治にかけての吉原の様子について口述したものです。*2*3
森の中に、苔に覆われた星宿燈が建つ姿は、幻想的です。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
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俳優の関係者が出版した本として『吉原夜話』(1964・青蛙房)が…
母は自分の名を琴ともまた古登も書いていましたが、晩年、私がよくもらう手紙に…
仁王門から「天狗のこみち」を歩くこと数十分。道了尊バス停の手前で道路に合流します。
参二十一丁目の星宿燈。「参」は星座の名前です。
水常楼伊藤常吉が建てた星宿燈。伊藤常吉は、吉原を仕切った大物でした。吉原各所の石造物に名を残しています。*1※1
星宿燈は古く、苔の緑に覆われています。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
仁王門を過ぎ、さらに参道を進むと、やがて「てんぐのこみち」と名付けられた遊歩道に入ります。杉林の中を曲がりくねる坂道を登っていくと、100mおきぐらいに古びた石の道標が建っています。
石の道標の表面には一丁目から二十八丁目までが記され、人々に道程を知らせています。これらの道標はお寺が発行した古い案内書には「星宿燈」と紹介されています。*1
十一番目の道標。
寄進者の「新吉原江戸町二丁目 元鴨井楼 鴨志田かね」の名が刻まれています。
十一番目であることを示す「十一丁目」と刻まれたその上にもう一文字「虚」という漢字が冠されています。
これは、日本や中国で用いていた古い星座(星宿)名です。*1
上部に四角い口を開け、背中にも丸い穴があるので、かつては桟をはめ、灯をともして、道のありかを知らせる石灯籠だったとわかります。*1
仁王門前左側にある道了大薩埵碑。道了大薩埵(どうりょうだいさった)は、大雄山最乗寺の守護神。
台石に、「新吉原講」と大きく刻まれています。
吉原道了尊参拝の講の人たちが道標を建立したことがわかります。*1
道標の後ろ側に、由緒を示す石碑が建っています。
石碑の銘文を要約すると、遊廓吉原が開かれた元和年間に吉原講が結成され、以来、大雄山に詣でていて、天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建したが、その道標が明治35年の海嘯(かいしょう)で崩壊したため、36年に松田に再建したということです。吉原講がかなり古くからも有力な講であったことが解ります。明治40年の星宿燈建立※1も、この吉原講が行ったと考えられます。*1
吉原講は、吉原遊廓が開かれた元和年間に結成され、以来、大雄山に詣でていました。天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建、さらに明治36年に松田に再建されました。明治40年の星宿燈建立も、この吉原講が行ったと考えられています。*1
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参道四丁目の仁王門の前には高さ2mを超える大きな石の道標が参道をはさ…
大雄山駅から最乗寺へ向かう道を1kmほど行くと、道了尊仁王門があります。(道了尊は最乗寺の別名です。)
階段脇に案内板があります。
仁王門があるこの場所までは、道路を歩きますが、仁王門から先は「天狗の小径」と呼ばれる杉林の中の参道が分岐していて、歩いて登ることもできます。参道には、一丁目から二十八丁目までを数える道標(二十八宿石燈籠)が建っています。
二十八宿石燈籠は、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道しるべです。一丁目から二十八丁目の道程を知らせるとともに、宵祭りの参道を照らし参拝者を安全に導く燈籠として設けられたものです。燈籠は、元治元年(1864年)小田原誠信社中、及び明治40年(1907)東京浅草新吉原講中によって建てられました。
仁王門から最乗寺へは、およそ2kmの道のりです。
今回は、大雄山(だいゆうざん、神奈川県南足柄市)の町並みを散歩します。
伊豆箱根鉄道大雄山線の終着駅の大雄山駅。電車はここで折り返して小田原へ戻っていきます。
大雄山線には、長年(1962年-1996年)にわたり「赤電」の名で親しまれた「150系電車」がありましたが、創立100周年を迎えた2016年に、復刻版の運行が開始されました。*1
車両前面の「小田原←→大雄山」の行先系統板。 いい味出してます。
東京都台東区橋場2丁目にある「平賀源内の墓」の石碑。
実際の墓所は、ここから1本南側の通り沿いにあります。
平賀源内といえば、「エレキテル(摩擦起電機)」を復元制作したことで有名ですが、文筆においても実績を残しており、後の式亭三馬や十返舎一九にも影響を及ぼした戯作の開祖として評価されています。*1
案内板より:
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる。高松藩士白石良房の三男で名は国倫(くにとも)。源内は通称である。寛永2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学、医学、儒学、絵学を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。 物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などを行ない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火かん布(かかんぷ)(石綿耐火布)を発明した。一方で風来山人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名を持ち、「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの滑稽本や浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)などの作品を残している。
源内の文筆における代表作である「風流志道軒伝」は、主人公が巨人国、小人国、女護島、などを遍歴するもので、「ガリヴァー旅行記」を思わせる風刺とファンタジーの快作と評されています。*1
吉原神社。吉原遊廓ゆかりの神社です。
境内にある石燈籠。
かつての吉原の有力者が寄進したものです。
水常は、大正期からある妓楼で、昭和33年の廃止時まで続きました。
鳥居に名が刻まれている伊藤常吉は、水常楼の楼主です。
今回は吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
金美館通り沿いの交差点の角。
天ぷらの「いせや」が営業中です。
暖簾には、〇に「天」の字。「土手のいせや」と同じです。
天丼とビールを注文。
人車軌道(人が車両を手で押す軌道)の展示。
茂原と長南の間の人車軌道が開通したのは明治42年10月。茂原駅前を起点にして 長南の台向(現在の愛宕バス停)までの 約9kmの単線軌道が県道沿いに敷設されました。
人が車両を手で押していた頃の写真が残されています。
車両の内部。
茂原公園内にある茂原市郷土資料館へは、茂原駅から徒歩(約1.5km)か、藻原寺バス停で下車し、向かいます。
展示室に入ると、天然ガスの説明コーナーがあります。
右手前にある昭和の茶の間の展示。
エポック社のサッカーゲーム(初期のモデル)の展示。
初期のモデルでは、ボールのコントロールが難しいものでしたが、最新版では、改良が加えられています。*1
スコアボードなど、リアル感を演出しています。
茂原の榎町通り商店街。
交差点の角に、大正時代から続く定食屋の大和屋食堂があります。*1
映画のロケにも使われたこともあるノスタルジックな雰囲気の店内。*1
メンチカツ定食とビールを注文。
大和屋食堂。
大正時代から続く定食屋。ノスタルジックな雰囲気が伝わってく…
茂原では、明治時代、自家用の天然ガス井戸が数多く掘られ、「利用組合」という組織による天然ガス事業が営まれていました。昌平町稲荷神社の境内に、「茂原昌平町天然瓦斯組合」の痕跡が残されています。*1
境内に設置されたガス溜めの基礎(赤レンガ造り)の跡。40m³ほどの円形のタンクでした。*1
上から見ると、円形であることが解ります。
そばの石碑に、当時の「茂原昌平町天然瓦斯組合」の経緯、記録、組合員名が刻まれています。*1
JR線と並行する荒瀬橋から南側の遠望。
近くにガスタンク(現在塗装中)がある場所から、阿久川にガス管橋が架かっています。
太いパイプが3本。「天然ガスの町」茂原を象徴する風景です。
正式には「瓦斯輸送管専用橋」と呼ぶようです。昭和50年に作られました。
茂原駅から一宮川に架かる「日進橋」を渡ると、通称「日立通り」と呼ばれる広いまっすぐな通りが続きます。
「日立正門」バス停。かつての日立製作所茂原工場の遺構とも解釈できるバス停です。
バス停の隣に、日立安房神社があります。
昭和29年10月13日、館山市の安房神社からの分霊により、日立安房神社が建立されました。*1
日立製作所茂原工場や関連会社の名が刻まれています。
今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
駅前の通り沿いにある「浮世風呂」。式亭三馬の滑稽本「浮世風呂」からの連想でしょうか。
10室近くありそうな建物です。
現在は、改装中のようです。
入口を入ってすぐのところに、2階へ上る赤色の階段があります。
木更津市吾妻1丁目にある極楽寺(平等院)。
ここに、幕末に幕府軍の一人として、官軍と戦い戦士した浅野作造の墓があります。
戦死した浅野作造の首級は木更津へ運ばれ、吾妻神社境内の路傍にさらされると、村人がその哀れさを忍び、路のほとりに小さな石をたて、お線香をあげて弔ったのが、いつの間にか「浅野様」と呼ばれ、民間信仰の対象になりました。*1
「浅野作造 源頼房」と刻まれています。
裏には「慶応四年辰年六月四日」「大正五年三月十八日改葬?」とあります。
大正時代になって、この地に墓が建てられたことが解ります。
木更津町鳥瞰図*2を見ると、吾妻神社の隣に、「浅野様」に記載があり、信仰を集めていた当時の様子が解ります。
木更津遊廓の遊女たちは、開店前のひととき、吾妻の浅野様へ参詣しました。*3
木更津市街東部の木更津2丁目。旧地名で、「元新地」と呼ばれていた地域の近くです。
周囲がコンクリートで固められたこの場所は、稲荷森古墳(前方後円墳)の前方部がわずかに残った部分です。明治14年に貸座敷を新設する時に鈴、鏡の破片、金銅装の刀、土器等が出土しました。*1
稲荷森古墳の上に高台稲荷神社が建っています。
古墳の頂上部分に建つ鳥居。
太田山公園の山頂にある橘神社。
橘神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国征伐のとき亡くなった妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を慕って建てられた橘神社と言われています。
案内板に「恋の森」の由来が書かれています。
尊は、この山頂から海を見下ろし、媛を偲んでしばしこの地を去りかねたと伝えられています(写真は「きみさらずタワー」からの遠望)。
「きみさらず伝説」は房総各地に残されており、木更津には、弟橘媛を祭神とする吾妻神社※1があります。
富士見2丁目の南側。
ここに、江戸初期の海の痕跡である護岸が残っています。*1
大きな商家だったと思われるお宅。
しっかりとした石垣が残っています。
隣の駐車場にも石垣が続いています。
富士見通り近くの飲食街※1 から、東へ抜ける細道。
木更津会館(木更津芸寮組合、旧二業組合*1)のある通りに出ます。
「木更津会館」の建物の脇には、さらに、風情のある路地が続いています。
歩いてきた路地を振り返って見たところ。
【参考文献】
*1 石川空山,石崎白水:大木更津(木更津日報社,1939)付録「大木更津全図」
あ〇くらのうち、1枚欠落していますが、下の看板から「朝倉」と読み取れます。
特徴的な形状の軒下部分。
奥行のある建物です。
木更津駅に近い「みまち通り」商店街を少し行ったところにあるお鮨屋さん。
かつての商店街の繁栄ぶりが想像できる店構えです。
狭い店内ですが、落ち着ける空間です。
チラシ寿司とビールを注文。
今回は、木更津(千葉県木更津市)の町並みを散歩します。
木更津駅西口より徒歩10分。矢那川ほとりにある証城寺。
狸塚は、昭和4年、童謡「證誠寺の狸ばやし」の流行を記念し、建立されました。(案内板より)
證誠寺の狸塚:
この辺りが昼でも暗い程茂っていた昔のこと、寺の和尚さんが夜中に目を覚ますと庭の方が大変賑やかです。そっと節穴からのぞいて見ますと外は月夜で昼間のようです。折から秋のこととて萩の花盛り、ところが驚いたことには大小の狸数十匹が輪になり、
證誠寺山のペンぺコペン
俺らの友達やドンドコドン
と腹を打ちながら踊っています。和尚さんもついおもしろくなり一緒になって踊りました。 こうして毎晩踊りましたが 或夜狸達が全く姿を消してしまったので不思議に思って居りますとかわいそうにもお腹をたたき破って薮の中で死んでいました。和尚さんはこの友達をあわれに思ってねんごろに葬ってやったのがこの狸塚です。
この伝説が野口雨情先生によって狸ばやしの童謡が生まれ、さらに中山晋平先生の作曲により今や天下に広まりました。
童謡碑。
野口雨情・中山晋平先生の直筆が発見されたのを機に、昭和31年、建立されました。(案内板より)
1946年に放送が開始されたNHKのラジオ番組「英語講座」のテーマソングとして用いられ、最近では、2021年度後期のNHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の劇中歌として登場しました。
英語歌詞:
Come come everybody.
How do you do, and how are you?
Won’t you have some candy?
One and two and three, four, five.
Let’s all sing a happy song.
Sing trala la la la.
「市民ホールやたべ」前に「みなのね」と題する像が設置されています。
茨城県出身の一色邦彦さんの作品です。
男女の裸像です。
後ろから。
四つ角。
今ではほとんど見かけなくなった牛乳店。
モダンな意匠の2階部分。
明治ビタ牛乳。左側には、「日の出」に「乳」のマーク。
筑波学園病院から南へ進むと、常磐自動車道を渡る橋に出会います。
「飛行場橋」と命名されています。
飛行場橋は1980年に建造。常磐自動車道の開通は1981年です。飛行場を偲んで命名されたのだと思います。
橋を渡った先はかつての飛行場の敷地です。現在は、「農林さくら通り」となっています。
飛行場橋の遠望。
谷田部の市街から約2Kmのところにある筑波学園病院。
筑波学園病院は、旧日本海軍航空隊谷田部飛行場の跡地に建てられており、筑波学園病院の前身である谷田部協同病院はその兵舎を病棟として設立、平成11年頃まで利用されていました。*1
北西側の駐車場の脇に記念碑が建っています。
高さ約メートルの記念碑の上部には、零戦のモニュメントが配置されています。*2
碑文
谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。
平成二十五年三月吉日
財団法人筑波麓仁会
石造りでありながら、細部まで表現されています。
終戦の年の1945年には神風特攻隊「昭和隊」も編成され、沖縄方面の作戦で多くの若者が命を落としました。*2
記念碑は、「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置されています。*2
谷田部海軍航空隊記念碑除幕式が2013年5月19日(日)筑波学園病院敷地内で行われ…
旧日本海軍の飛行搭乗員を養成する練習航空隊が置かれ、特攻要員の訓練も行われ…
飲食ビル※1 の敷地の脇の公衆トイレ。
白地に大きくな文字でWC(water closet=水洗トイレ)と書かれています。
水洗トイレ(WC)は、昭和30(1955)年に発足した日本住宅公団が広く普及させたものの一つです。*1
昭和30~40年代は、公衆トイレにWCと表記されているのをよく見かけた記憶がありますが、最近は、「Toilet」、「Restroom」やさまざまなピクトグラム(絵文字)で表記されることが一般的なようです。
隣はブロック塀で仕切られています。