今回は、白山(東京都文京区)の町並みを散歩します。
西片2丁目7と14の間に、石段の坂の「曙坂」があります。

曙坂は、この場所から少し離れた場所の旧地名の曙町(江戸時代は、鶏声ヶ窪と呼ばれていた)に由来します。昭和22年に石段坂に改修されました。(案内板より)

坂の登り口の右横に建つ「曙坂 昭和二十二年竣工」と記されたた石標。

上から眺めた曙坂。

今回は、白山(東京都文京区)の町並みを散歩します。
西片2丁目7と14の間に、石段の坂の「曙坂」があります。
曙坂は、この場所から少し離れた場所の旧地名の曙町(江戸時代は、鶏声ヶ窪と呼ばれていた)に由来します。昭和22年に石段坂に改修されました。(案内板より)
坂の登り口の右横に建つ「曙坂 昭和二十二年竣工」と記されたた石標。
上から眺めた曙坂。
本八幡駅南口から徒歩約10分。南八幡1丁目の住宅街。
銭湯の柳湯があります。
コインランドリーが併設されています。
裏へ回ると高い煙突を望むことができます。
菅野1丁目にある白幡天神社は、荷風の自宅※1 からも近い場所にあり、荷風の散歩道でした。
ここに、荷風の文学碑が建立されています。*1
「露店にて雛卵を買い白幡天神祠畔の休茶屋にて牛乳を飲む、帰途緑蔭の垣根道を歩みつつユーゴ―の詩集をよむ、」*2
荷風は、ラジオや三味線などの騒音から逃れ、ここで小鳥の声を聞きながら読書をしました。*2
散歩道であった白幡天神社境内には、断腸亭日乗に書かれている一文「露店にて雛…
P.79
昭和21年5月11日。(中略)露店にて雛卵を買い白幡天神祠畔の休茶…
永井荷風の市川での生活は、昭和21年1月16日、菅野258番地(現菅野三丁目17番地)に、従兄の杵屋五叟(大島一雄)一家とともに暮らことから始まりましたが、長唄の三味線方の五叟と著述業の荷風は、あまりに違いすぎ、昭和23年には、荷風は、菅野1124番地(現東菅野2丁目9番11号)に古家を買い、独居生活を始めました。
東菅野2丁目9番の通り。
荷風旧居があったあたり。
荷風の旧居の周辺は、大学や私立高校が多く、文京の町です。
写真奥は昭和学院。
長谷章久(1918~1985)は、荷風の寓居から指呼の間にある昭和学院短大に非常勤で勤めていたため、彼の人間嫌いを承知の上で、荷風の門を叩き、“吉原の話を伺いたくて” と告げると、家に招き入れてくれたと語られています。*2*3
P.8
荷風の市川での生活は、昭和21年1月16日、菅野258番地(現菅野三丁目17…
長谷章久(1918~1985)
P.243
ある日、荷風寓居の門を叩いた。いきなり、「文学の話を御免だよ」と…
サイゼリヤ1号店教育記念館※1 の対面にある大衆食堂の「四季よし」。
ちゃんぽんなど、ながさきの味をコンセプトにした店です。
「本日のおかず」のメンチとビールを注文。
続いて、ちゃんぽんを注文。
今回は、本八幡(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
JR本八幡駅の北口の商店街「八幡一番街」は、飲食店が建ち並ぶ活気のある商店街です。
スナック「フレンド」が入るビルの2階は、以前入居していたと思われるパブクラブの屋号がそのまま残されています。
同じビルの東側には、「サイゼリヤ1号店教育記念館」。
多くの歴史を物語る建物と言えそうです。
京成本線中山駅近くの住宅地に、フェンスでふさがれた空間があります。
通路のような部分は暗渠(川跡)です(地理院地図に記載があります)。暗渠は、線路につきあたり、右側へ続いています(写真奥)。
京成本線の線路の反対側(南側)には、フェンスで囲まれた空間(暗渠)が今も残されています。
暗渠は、船橋市西部公民館の自転車置き場へと続いています。
下総中山駅から南側(京葉道路に沿ったあたり)は、住宅街の中に、郊外型の店舗や物流倉庫が点在する地域です。
東西線の原木中山駅近くに、中華料理「菜花」がポツンと1軒だけ営業しています。
年季の入った佇まい。
店内に貼られたメニュー。炒飯とラーメンが主力メニューのようです。
五目炒飯とビルーを注文。
中山法華経寺黒門前にある「たちばな寿司」。
1961の住宅地図にも記載されている寿し屋さんです。
店内。
ちらし寿しとビールを注文。小鉢がたくさんついてくるは嬉しいです。
中山三業組合に所属する置屋としては、吉田家 豊の家、鈴木、東家、一藤、米本、清井筒、梅の家、梅本、桝角家、新静本、福筒井、ことぶき、福田家、君の家、新ことぶき、新玉屋、があり、料理旅館としては、妙泉閣、中山荘、上角庄、三桝家、森田家、金福、壽美屋、がありました。*1
料理旅館の「妙泉閣」は、このあたりにありました。*2
中山競馬場方面へ向かう道の途中。背後は丘になっていて、このあたりは崖下の地形になっています。
さらに北へ向かった崖下には、料理旅館の「中山荘」がありました。*3
京成本線中山駅の近く。車窓からも見える場所に、看板建築の建物が残っています。
1961年の住宅地図*1 に、「理容オリンピック」と記載されている理容室の建物です。
中央に、「オリンピック」を象徴する五輪のマーク。その両脇に、サインポールまでが石材風にデザインされています。
オリンピック・シンボル(五輪マーク)のカラー版は、左から順に青、黄、黒、緑、赤とし、上段に青、 黒、 赤の輪を、下段には黄、 緑の輪を配置することになっています。*2
が、このマークは、色の順がバラバラのうえ、上段に2つの輪、下段に3つの輪が配置されていて上下が逆になっています。
知的財産の問題を回避するために、五輪マークではないマークにしたのかもしれません。
若宮3丁目にある銭湯の「松の湯」。
サウナ、薬湯、ジェットバス、水風呂など、設備が充実しています。
現在は休業中のようです。
コインランドリーが併設されています。
今回は、下総中山(千葉県船橋市)の町並みを散歩します。
は、国道14号線(千葉街道)北側の丘陵地を涵養源とする葛飾湧水群の一つに、「二子藤の池」があります。国道南側崖下の浸み出しにより池が形成されています。*1
案内板には、松井天山が描いた鳥瞰図を用いて当時の様子が説明されています。
葛飾湧水群(水色の部分)。
北側の丘陵地の「中山温泉妙泉閣」。
妙泉閣は、中山三業組合に加盟する料理旅館でした。*2
100mほど東には、もう一つ「二子浦の池」があります。「二子藤の池」と同じように、国道南側崖下の浸み出しにより池が形成されています。
木下駅の北東。手賀川を渡る手前。うなぎ料理の「寿美吉」があります。
旧店名は香取屋。きそば、蒲焼の店です。
香取屋は、添田知道(そえだともみち)の「利根川随歩」に、登場する店です。*1
そば、うどんのメニューも充実しています。
ざるそばとビールを注文。
木下には、看板建築の商店の建物が多く残っています。
薬局の建物。
パラペット部分。
金鳥の琺瑯看板。
木下駅近くの老舗そば屋「柏屋」。
江戸時代、「木下河岸」が栄えた頃から、創業150年です。
天ぷら蕎麦とビールを注文。
奥の座敷からは庭園を眺めることができます。
木下駅の東側。「将門の井戸」の伝承地の小道を登りつめると、路傍に小さな祠がある場所に行きつきます。*1
祠の正面にはドアは閉められています。
祠の中には、石製・木製の大小さまざまな男根が祀られています。この祠は石神様と呼ばれていて、古くから遠近村々の女人から信仰されていました。特に水商売の女たちから信仰され、木下河岸の女たちをはじめ各地からの参詣客が後を絶たなかったそうです。*1
近くにあった石。男根の形をしているようにも見えます。
茂原駅前を南北に走る国道から少し入ったところにある天龍飯店。
壁面に貼られたメニュー。ラーメンが中心です。
その中に、名物の「横綱ラーメン」があります。
横綱ラーメンと日本酒を注文。
横綱ラーメンは特製の丼になみなみと盛られて登場です。具材は、トンカツと焼肉、餃子3つです。麺があっさりしているので、ボリュームのある具材とよく合います。
太平洋戦争が開始される前の昭和16(1941)年3月、旧日本陸軍は戦局の情報収集の訓練を主とした「陸軍下志津飛行学校八街分教場」(通称:八街飛行場)を開設しました。
ローソン 八街長谷店の敷地の角のところに、「陸軍八街飛行場跡」の案内板がたっています。
ここから、約30分ほど東へ行った場所に、「陸軍司令部偵察隊の碑」が建っています。
「八街飛行場跡」と記されています。
八街市の北側。文違に、「こえっぱの弁天」の案内板が建っています。
とても悲しいお話です。
土地の若者が発見し附近の寺(明治のはじめまで子の神神社の下にあった浄星院)に知らせたそうです。*1
現在は、池の痕跡はありません。
すぐ隣の広大な敷地に、調整池が造成されています。
今回は八街(千葉県八街市)の町並みを散歩します。
やちまたは、落花生の郷です(駅前の大看板)。
駅周辺には、落花生(ピーナッツ)販売店を見かけます。
駅北側の通り。
千葉半立。「ハンダチ」というと、「半勃ち」を想像しそうになりますが、千葉半立は落花生の品種です。
飯沼観音の五重塔の近くの「元祖今川焼さのや」の向かい側にある衣料店。
店の脇にコンクリゴミ箱が残されています。大型で、前面の木製扉など、保存状態良好です。
後ろ側から。
上蓋も開閉可能です。
圓福寺(飯沼観音)の五重塔の近くに、元祖今川焼さのやがあります。
さのやは、1907年の創業。さのやの今川焼は、銚子で知らない人はいないほどの名物となっていて、1日に1000個以上売れる日もあるそうです。*1
店内。
今川焼とかき氷を注文。
利根川に面した通町にある源長食堂。食堂だけでなく米穀店も営んでいるようです。
南側が店の入口です。
エアコンはありませんが、潮風が入る、ここちよい空間です。
冷やし中華そばとビールを注文。
国木田独歩詩碑※1 から、さら西へ向かいます(写真左奥は海鹿島海岸)。
坂を下る途中に、竹久夢二詩碑があります。
竹久夢二※2※3は、明治末期から大正にかけて活躍した叙情画家であり詩人です。宵待草(よいまちぐさ)は、海鹿島海岸にひっそりと咲き乱れる宵待草によせて、わが身の悲恋をうたった詞です。*1
宵待草の詞は、ヴァイオリン奏者・多忠亮が曲をつけることにより、唱歌として日本中で人気を得て、後々まで歌いつがれていきました。
国木田独歩詩碑
明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩をしのんで、海鹿島…
銚子電鉄に乗って海鹿島(あしかじま)駅で下車。徒歩約10分のところに、国木田独歩の碑があります。
自然石を活用した詩碑で、「山林に自由存す」の一節が刻まれています。*1
なつかしき わが故郷は何処ぞや 彼処にわれは 山林の児なりき
(懐かしい私の故郷はどこにあるのか。ここでは私は山林を愛する自由の児であったことよ。)*1
慶応4年9月播州龍野藩の神龍丸が銚子沖で難破しました。*2※1
この船に乗っていた国木田専八は、銚子に滞在中、新生村(現在の銚子市新生町)の淡路善太郎の妹まんと知り合い、明治4年7月、ふたりの間に独歩が生まれました(案内板より)。
国木田独歩詩碑
明治文壇に不朽の足跡を残した国木田独歩をしのんで、海鹿島…
P.399
怒涛さかまき暗礁乱立する銚子近海は、今もって難破するものが絶えな…
円福寺本殿の前庭一隅に「竜王殿」と呼ぶ小堂に、大きな外国婦人の立像が安置されています。*1
案内板によると、この立像は、国木田独歩の父である専八が乗船した龍野藩の神龍丸の船首像だそうです。
当時の像を写したと思われる写真。
現在、像は綺麗に修復されています。
この立像は、観音堂裏の花街、田中町※1 の女性たちの信仰を一手にあつめたそうです。*1
P.399
怒涛さかまき暗礁乱立する銚子近海は、今もって難破するものが絶えな…
銚子駅から観音駅方面へ向かう途中。
松の湯は、銚子で唯一残る銭湯です。昼間の時間帯から営業しています。
お湯で洗濯できます。
道路側にまわると煙突がよく見えます。
今回は、銚子(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
銚子駅前の通り「シンボルロード」の街路灯の柱の壁面には、国際信号旗の模様が埋め込まれています。
国際信号旗は、船舶の通信のために、世界共通で使われている旗で、 アルファベットの文字旗26枚、数字旗10枚、代表旗3枚、回答旗1枚の 40枚で構成されています。 一つの信号旗によってアルファベットや数字、街路灯には、銚子 「C H O S H I」、 シンボルロード 「S Y M B O L R O A D」 と表示されています(駅前の案内板より)。
柱に縦に配置された信号旗。「C H O S H I」と書かれています。
柱の周囲に配置された信号機。 「S Y M B O L R O A D」と書かれています。
せみの抜け殻。
松岸駅から利根水郷ラインを銚子方面へ向かうこと徒歩約20分。
海鮮丼が名物の郷土料理店です。
舟盛りの海鮮丼は、少し値が張って¥1,800です。
「海鮮丼(舟)」とビールを注文。
良福寺に松岸遊廓の開新楼の楼主だった宇野澤宇兵衛の墓が建っています。寺の中でも最も大きく作られています。*1
明治31年(1898)に銚港神社に奉納された石灯籠には松岸遊廓の貸座敷、開新楼、新盛楼、稲松楼、銚港楼の4軒が確認できるが、開新楼は経営不振に陥った貸座敷を買得した宇野澤宇兵衛によって開業されたと伝えられています。*1
明治後期以降、昭和16年(1941)の遊廓解散まで松岸遊廓において営業を続けていた貸座敷は、第一、第二開新楼の2軒であった。特に第二開新楼は、建物の壮麗さから、昭和初期の遊廓案内書(全国花街めぐり)では「龍宮城」などと形容されました。*1
92歳で去った宇野澤宇兵衛の墓には「遊廓再興居士」としるされています。*2
P.73
良福寺の過去帳に遊女の記載が初めてあらわれるのは享保9年(1724)の…
P.9
楼主宇野澤宇兵衛翁は、新盛楼を買収し、増築、造園、業務拡大、娘芝居…
松岸駅北口近くにある「銚子ちぢみ伝統工芸館」。
銚子縮(ちぢみ)は、江戸時代の中頃、銚子で多く生産され、全国にその名を知られた織物です。もとは利根川対岸の波崎で興った波崎縮をもとにつくられたものといわれています。江戸時代後期には40軒以上の機屋と、100軒以上の「出機」があって、「出機」の担い手は周辺の農家や漁家の女性達でした。各家で織った銚子縮は集荷され、利根川を遡り、江戸の花街などに出回りました。*1
銚子ちぢみ人形。
縮(ちぢみ)ハンカチを購入。
北仲通りの商店街に建つ看板建築。
米販売店の建物。
上部のパラペット部分。教会か宮殿のようです。
建物の後ろ側。物干し台があります。
私道への乗り入れをお断りするためのマネキンのようです。
体型から女性のマネキンと推察されます。
後ろ姿。
阿佐ヶ谷駅近くの銭湯の天徳泉(てんとくせん)は、北仲通りの住宅街にあります。
阿佐ヶ谷温泉「天徳泉」。
脱衣場には、休憩用の椅子があって、のんびりできます。
建物の東側は、トタンとコンクリート。
荻窪北口駅前の商店街。
ここの老舗純喫茶の「邪宗門」があります。
味わい深い純喫茶です。
コーヒーとトーストを注文。
荻窪北口の青梅街道沿いにある中華「三龍亭」。
同じビルの2階はカラオケ店です。
巨大なラーメン丼のオブジェ。
タンメンとビールを注文。
今回は、荻窪(東京都杉並区)の町並みを散歩します。
荻窪駅北口の荻窪タウンセブンの裏側の通り。
風俗店や居酒屋が入るビルがあります。
カップル喫茶「夢の楽園」。
入口(3階)への階段。
旧北国街道は、柳町 ※1 から西へ折れ、矢出沢川(やでさわがわ)と並行して西へ続いています。
途中、矢出沢川を渡る場所に浮世橋が架けられています。
この橋を渡った先に上田遊廓※2 があることから、「浮世橋」と名付けられたのかもしれません。
同名の橋は、須坂の旧花街の入口にもあり※3、「浮世橋」歓楽街に因んだ橋名であると言えます。
橋の南側には、和田龍酒造があります(写真左奥)。
東側から見た浮世橋。
北国街道の柳町には、江戸時代末期からの町屋が建ち並びます。
老舗蕎麦屋の「おお西」。
店内には、歴史を感じさせる調度品の数々が現在も使われています。
名物の「発芽そば」とビールを注文。
「発芽そば」は、そばの実を発芽させ、搗き臼と店主考案の手打ち法によって完成しました。*1
袋町の歓楽街の入口。
緑色の客引き禁止看板。
「安全で安心な明るい街」と書かれています。
少し離れた場所に、別の看板。こちらは白い看板ですが、同じ標語「安全で安心な明るい街」と書かれています。
が、一部文字が消えて「女全」「女心」になっています。
袋町の歓楽街の路地の「公衆トイレ」を示すプレート。
ビルとビルの間の路地を進みます。
ビルの中を通り抜けます。
L字型に曲がった通路の先に、公衆トイレがありました。
袋町の歓楽街。
コンパ会館。
赤い服を着た女性の絵。
官能的なイラスト。
上田市の袋町の歓楽街。
ビルの北側の看板。
1F部分は「飲食センターパルコ上田」と名付けられた飲食店舗です。
西側の通り。
スナック店などの看板が密集しています。
上田で長年親しまれている富士アイスの「志”まん焼き」。
富士アイスは、長野県を中心に、数店舗あります。
看板商品の「志”まん焼き」は、「あんこ」と「カスタード」の2種類があります。
「ぢまんやき」を購入。
紙袋の底には、「経木(きょうぎ、=木材を薄く削って作った食品梱包材」が敷かれています。
上田映劇のある場所は、昔から上田の娯楽の拠点で、明治時代には末広座という芝居小屋があり、そこに大正6年に建てられたのが上田映劇の前身の「上田劇場」です。
平成25年(2013年)に、映画『青天の霹靂』のロケ地となり、その際、昭和40年代の浅草を再現したセットがそのまま残されたことで、ロケ地としても有名になりました。*1
平成29年(2017年)12月、上田映劇の定期上映が復活スタートしました。
新たに、上田映劇としてスタートをきったためか、『青天の霹靂』のロケ地のときに、「花やしき通り」と書かれていたゲートは、「上田映劇」に変わっています。
入口の上の「あさくさ雷門ホール」と書かれた電飾も現在は撤去されています。
しなの鉄道の大屋駅前に建つ看板建築の商店。「FU TA BA」の文字が印象的です。
紳士服の店舗です。
「個性美に輝く注文服」。
店舗のショーケースには注文服がディスプレイされています。
背景には、「服地はミユキ」のポスター。「ミユキ野球教室(日本テレビ系列、1957年~)」は、人気のスポーツ番組でした。
海野宿の道幅は広く、約10mで、中央部に水路が設けられています。この水路は、元来は生活防火用水で、洗濯、野菜洗い、洗面等に使われていました。現在は、柳、桜、や草花が植えられ、風情の町並みになっています。*1
海野宿資料館にもあった出桁造りの出窓。
海野宿には、飯盛女を抱えていた旅籠屋も存在しました。「海野格子」の家は京都の伏見あたりの女郎屋の造りと非常によく似ているものです。*2
旅籠屋の看板。
今回は、海野(長野県東御市)の町並みを散歩します。
海野宿は、寛永2年(1625年)に北国街道の宿駅として開設されました。海野宿の町並みは、江戸時代の旅籠造りと明治以降の蚕室造りの建物がよく調和して伝統的な家並みを形成しています(案内板より)。
海野宿資料館の建物は、江戸時代に建てられたの旅籠屋造りで、明治時代には、大きな部屋を利用して養蚕が始められました(案内板より)。
出桁造り(2階の窓の部分が出っ張っている)の出窓には、「海野格子」が見られます。
海野宿の風土・歴史・資料が展示されています。
外川3丁目にある大衆食堂の金兵衛(きんべえ)食堂。
テーブル席の他、座敷もあります。
そば・うどん、ごはんもの、中華、何でもあります。アルコール類の提供はありません。
人気の天ぷらラーメンを注文。麺もスープもあっさりしているので、天ぷらと良く合います。
銚子の外川は、コンクリごみ箱の宝庫です。
日当たりのよい場所に設置されています。
後ろ向きに設置されていますが、保存状態良好です。
一心通りのごみ箱。
外川は坂の多い町です。南側の外川漁港に向かっていく筋もの坂道があり、坂道には、一条通り、新浦通り、一心通り、本浦通り、条坊通りなど、名前が付けられています。
外川の町並みは、和歌山から移住してきた崎山次郎右衛門が1658年(万治元年)に、碁盤目状の町作りをしたものです。かつてイワシがたくさんとれた頃は、「外川千軒大繁盛」といわれたほど賑わいました。*1
南斜面に沿って建てられた戸川の町並みは江戸時代からの町らしく、石が多く使われていて、かつての面影を残しています。*1
写真は条坊通り。
条坊通りの西側の通り。
戸川は釣り船の基地でもあり、周辺地域には約30軒の釣り船屋さんがあり、外川港から出港しています。*1
戸川港へ下る坂道を横断する生活道路も整備されています。
中央町の大新旅館※1 の西隣。
かつて、この場所には、うなぎ蒲焼「十五屋」(後に、十五屋旅館)がありました。*1*2*3
十五屋は、江戸期には仙台藩御用の廻船問屋(船の名を十五屋丸)として、大いに栄え、文化十三年(1816)、十返舎一九が狂歌を残し、その歌が、うな重の箸袋を飾っていました。*1
十返舎一九が銚子地方の紀行をまとめた「南総紀行旅眼石」には、この地を巡遊したときの狂歌が記されていて、その中に、十五屋旅館の祖にあたる十五屋丸や幾人かの遊女が名をつらねています。*2
路地には、稲荷神社(萬右ェ門稲荷大明神)があります。
利根川べりの中央町の一角から、うまそうな匂いを漂わせてくるうなぎ蒲焼十五屋…
P.442
十返舎一九が銚子地方の紀行をまとめた「南総紀行旅眼石」は東下総を…
今回は、銚子(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
銚子駅から銚子大橋方面へ向かう途中の若宮町。
斬新なデザインの看板建築が残っています。
中央部分の矢羽根のようなデザインが印象的です。
奥の方に現在の建物が隣接しています。
八街市街から榎戸駅方面へ向かう道の途中。交差点近くの2階建ての集合住宅風の建物。
1階には、ラーメン店など飲食店。
2階には、パブや風俗店が入居しています。八街で唯一の遊興施設と言えそうです。
2階からの眺め。
昭和30年代、八街には2つの映画館(八街第一銀映・第二銀映)があり歓楽街も備わって印旛・山武地域を代表する繁華街を形成していました。*1
2つの八街銀映は、2棟が隣り合って建っていましたが*1、そのうちの1棟の建物が奇跡的に残っています。
青のタイルが鮮やかです。
前面上部のパラペット部分(裏側)。
駅前商店街(写真右側)のある通り。
「小川家そば店」は、明治27年創業です。
歴史を感じる店内。
天婦羅そばとビールを注文。
今回は、八街(千葉県八街市)の町並みを散歩します。
駅前ロータリーにある商店街。
弧を描いて商店街が続いています。
入口部分だけに屋根があって、レトロ感を醸し出しています。
商店街の道路に面した側は、緩やかな弧を描いています。
波崎町の利根公園の北側にある「いずみや」。
そば・うどんの他、ご飯物もあります。ほとんどの人が名物のカレーそばを注文していました。
そば・うどんの大盛は150円増しです。
カレーそばの大盛を注文。大盛専用のどんぶりになみなみと盛られ、ものすごいボリュームでした。
波崎町の東部東町。
この付近は、洲鼻地区と呼ばれ、波崎漁港整備や宅地造成に伴って埋め立てられるまでは、周りは全て砂浜で、樽で3杯も4杯もハマグリが採れるような浜辺でした。*1
昭和60 年に建立された「海難漁船員慰霊の塔」が建っています。毎月26 日前後に、ここで「水難供養」が行われますが、戒名用紙には、水難者の戒名の他、遊女の戒名も含まれており、遊女や妊産婦、水子についても水難供養の対象とされていることがうかがえます。*1
「海難漁船員慰霊の塔」の隣には、大亀大明神(カメノコサマ)の祠(ウミガメ供養碑)が隣接しています。昔から利根川河口に位置する洲鼻は、さまざまなものが寄り集まる場所でした。*1*2
銚子の海難史
P.130
*2
APPENDIX
P.72
No.215 ウミガメ、昭和61年旧11月1日建立 儀津屋丸他計24…
今回は、波崎(茨城県神栖市)の町並みを散歩します。
波崎へは銚子大橋を渡って向かいます。
利根川を渡ると、茨城県の波崎町です。
利根川河口付近は、かつては、日本三大海難所の一つとして恐れられました。近代の海難事故としては、明治 43(1910)年に発生した「二月遭難」が、今も哀話として語られており、銚子だけでも 109 隻の漁船が遭難し、死者 912 名・行方不明者 1,054 名を数える未曽有の海難が発生しました。*1
波崎町側から見た銚子大橋。
銚子の海難史
P.130
追浜(おっぱま)駅前の夏島貝塚通りを進むと、中華、定食の「浜食堂」があります。
渋い佇まいの大衆食堂です。
中華、ラーメン、丼もの、何でもあります。
かつ丼とビールを注文。中華スープがつきます。
京急田浦駅の隣駅の追浜駅前。交差点の角にある「追浜ショッピングセンター(第一共同ビル)」は、小規模ですが、味わいのあるビルです。
2Fは飲食街。
2階の飲食街へは正面の階段を登ります。
立ち飲み屋などが営業中です。
田浦の住宅街。京急田浦駅から北西方向に5分ほど歩くと、鷹取山への分岐点です。
さらに、住宅街を進むと登山道の入口です。
鷹取山頂上付近は公園になっていて、人工的に切り取られた岩肌はロッククライミングの練習場として賑わっています。
頂上には展望台もあります(写真左奥)。
展望台からは東京湾を一望できます。
JR田浦駅から、のの字坂※1 を登り、さらに十三峠へ向かう途中に、UFOのような構造物に出会います。
十三峠配水池。昔は池だったようです。
水色の給水塔。
塚山公園から見た給水塔。
JR田浦駅を下りて、まっすぐに山の方向へ歩くと、道路が「の」の字に交差している場所「のの字坂」に行き当たります。戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路でした。*1
のの字の中は児童公園(田浦1丁目公園)になっています。
道をつなぐ陸橋は、「のの字橋」と呼ばれています。*1
登り切ったところから見た「のの字坂」方面。
船越町の仲通り商店会の通り。
レストラン「らんぶる」。
レトロな店内。
オムライスとビールを注文。本格的な洋食を味わえます。
今回は、田浦(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
船越町の仲通り商店会の通りから、南へ折れたところに、割烹料亭の建物が残っています。
「昭和8年ころの船越商店街の家並み」*1 にも記載のある割烹料亭の飯田屋。
華やかな雰囲気が残されています。
昭和初期の船越商店街は、約500の店舗が建ち並ぶ繁華街で、料亭や芸者置屋などが連なる一角もあり、夜遅くまで明かりの消えることがない町でした。*1
千日通商店街は、横須賀の三笠ビル※1前の通りから、若松町1丁目までの広範な商店街です。
三笠ビルの南東側に、趣のある路地があります。
SENNICHI通り。
3階建ての建物もあります。
飲食店が建ち並ぶ通りです。
横須賀市深田台にある「横須賀市立自然・人文博物館」に木製冷蔵庫※1 が展示されています。
逸見の居酒屋「今長」で使われていたもので、上段に大きな氷を入れ、その冷気で下段を冷やす仕組みです(案内板より)。
奥津式。昭和冷蔵器研究所製。
居酒屋で使用されていたテーブルも展示されています。
若松マーケットのメインの通りの北側には、いくつかの飲食ビルが密集しています。
そのうちの一つ。中勝ビル。
東側へ回り込んだところ。
横須賀ブラジャー。
若松飲食店街の入口に諏訪神社があります。
大正10年に建てれた玉垣。商店や芸妓家、待合の名が刻まれています。
三河亭は、「三浦繁昌記」*1 に記載のある待合です。
まからぬや洋品店。
猿島は、「記念艦館三笠」のある三笠公園隣の三笠桟橋(猿島渡船乗船場)から、約10分のところにある無人島です。
猿島は、江戸末期、江戸湾防備の一要点として、1846(弘化3)年に砲3門が設置された。ペリー来航の7年前である。明治政府による沿岸防備は、1878(明治11)年に海岸防禦取調委員会が設置され、「東京湾海門を最先とし、順序は観音崎・猿島・富津」とする意見を上申した。*1
島の北端に、砲台跡が残っています。
猿島砲台の起工は1881(明治14)年11月5日。竣工は1884(明治17)年6月30日。関東大震災によって被害を受けた猿島砲台は、一度も使用されることなく1925(大正14)年に除籍。その後、海軍に移管されて高角砲陣地となり、終戦を迎える。戦後は、観光拠点として注目され、1949(昭和24)年に海上公園として開園した。*1
今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
戦艦三笠は1902(明治35)年、英国で竣工、1905(明治38)年、日露戦争の日本海海戦で歴史的勝利をおさめ、その後、記念艦として保存されました。
最上艦橋。日本海海戦において東郷平八郎連合艦隊司令長官が戦闘の指揮をとった場所です。*1
上甲板中部の両舷にはそれぞれ4門の8cm砲が展示されています。*1
Z旗とその説明。
銚子の本城町。
周囲は立派な石垣で囲まれています。
宝永元年、大阪の豪商仲内家はこの地に来て大阪屋を号し、3つに分家して、その中で飲食を業とした方は大藤屋利兵衛を称して多いに繁盛しました。次いで東海道三島宿から三島屋三平が移り住み、また江戸近在から川口屋太平が転じ来たって、各々商売を始め、のちにこれらが大藤屋と共議して字下町に遊女屋を営業するようになりました。*1
仲内家は、移住商人たちが図って遊女屋を開く際、地所を提供しました。遊女屋は大いに盛り、松岸遊廓と並んで本城の名を挙げ、面影は戦前ごろまで残っていました。仲内家先祖が、移住の際に、下町に祀った社は大阪屋稲荷として親しまれました。*2*3
P.828
宝永元年、大阪の豪商仲内家はこの地に来て大阪屋を号し、3つに分家…
仲内清右衛門家は銚子本城(ほんじょう)町の代々の名主で、屋号が大阪屋である…
松岸駅から利根川へ向かって進むと、道沿いに、「居酒屋、カラオケバー」の看板が現れます。
スナック「ぼうがつる」。
スナック「ぼうがつる」の奥に見える建物が、カラオケバー「クリスタル」でしょうか。
「坊がつる讃歌」(ぼうがつるさんか)は、くじゅう山群の坊がつるの「あせび小屋」の小屋番をしていた「九州山小屋の会」の大学生3人が、雨の日の退屈しのぎにつくった替え歌の「賛歌」でした。*1
1978年、芹洋子さんが歌って大ヒットしました。
人みな花に酔うときも
残雪(ざんせつ) 恋し 山に入り
涙をながす 山男雪 …
今回は、松岸(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
松岸駅前にあるワンコップ宮内食堂。
佇まいに惹かれます。
麺類、丼もの。なんでもあります。
カツカレーとビールを注文。
銚子電鉄観音駅近く。
路上に保存状態のよいコンクリごみ箱があります。
上蓋と前面の蓋は木製です。
「昭和」な風景が残っています。
銚子駅前東側の通り。
味の店「吉原食堂」。
定食などのメニューが豊富です。
カツカレーとビールを注文。
銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や茶店で、この順礼者のために発達した門前町の茶店・旅籠屋等に、田中特飲街ができました。*1
銚子駅南側にある淨國寺の墓地に、「本銚子町料理店組合」(田中の旧称*2)が建立した「寄付碑」があります。*3
碑の上部には、「本銚子町料理店組合寄附連名」と書かれ、店名が刻まれています。
その下には、「外川浦料理店組合」。
外川にも、昔は遊廓がありました。*4
碑の下部。発起人。
P.394
銚子花街の濫觴は飯沼観音を中心として発生した札所順礼相手の宿屋や…
松岸遊廓の廃亡と田中
…
銚子の海難史
P.130
利根川河口に位置する大新旅館は、江戸の昔より360年の伝統をもちます。
大新旅館の7代目政次は、大新旅館を発展させた人物であった。7代目政次の時代には、徳川慶喜、伊藤博文など中央政府の要人、島崎藤村や竹久夢二といった文人など、著名な人物が大新旅館へ多数来泊しました。大新旅館は、銚子の外からの要人を迎える「迎賓館」であり、銚子の旦那衆の「社交場」としての役割を果たしていました。*1
昭和20年(1945)の空襲によって、その大部分を消失しましたが、昭和23年(1948)頃には再建し、玄関の脇にはサロンを設け、外国人を雇って営業しました。*1
大新旅館の経営者である垣内家は、紀州移民※1 を先祖とする家のひとつです。*1
紀州移民の定着
P.136<…
今回は、銚子(千葉県銚子市)の町並みを散歩します。
17世紀に入る頃、房総半島では、紀伊、和泉、摂津をはじめとする関西からの漁民の出漁が盛んに行われるようになり、高神村(銚子の南東)に紀州移民が進出しました。*1
明治31年(1898)、紀州移民の同郷会組織である木国会が結成されました。*2
妙福寺には、「紀国人移住碑」が建立されています。
揮毫は、旧紀州藩主徳川茂承によるものです。
「僻遠の地であった銚子へ、紀州人の崎山某らが寛永・正保期にやってきて漁場を開くことに成功し、その後紀州から銚子へ移住する人が増加した。これをきっかけとして商工業者が各地から集任した結果、銚子港は関東屈指の要港となった。」と碑文に書かれています。*2
P.193
17世紀に入る頃、房総半島では、紀伊、和泉、摂津をはじめとする関西…
紀州移民の定着
P.136<…
浦賀駅から観音崎公園へ向かう通りの途中に、銭湯の銀泉浴場があります。
営業は午後4時からです。
太めの煙突。
周囲は材木置き場になっています。
浦賀の東側の観音崎は、半島全体が県立公園になっています。園内のあちこちに砲台などの戦跡が残されています。
北門第二砲台跡。
明治17年に完成しました。(案内板より)
北門第一砲台跡。
2つの砲台が並んでいて、両砲台は、トンネルで通じています。
今回は、浦賀の町並みを散歩します。
東浦賀の東林寺の前にあるの三浦稲荷社。
鳥居の前に、江戸屋半五郎が建てた「六字念仏塔」が建っています。前面には「南無阿弥陀佛」の六文字が深く彫らています。*1※1
江戸屋半五郎は、洗濯屋(遊廓)の主人でしたが、あるとき、自分の商売の罪深さを知り、仏門に入りました。*2※1
左側面には、「大誉果向深心信士 俗名伴五郎」と彫られています。*1
江戸屋半五郎関連の石造物
…P.173
浦賀の遊女屋は、洗濯屋と呼ばれ、この港に出入りする船舶の船乗り仲…
大楠山の麓にある阿部倉温泉。由来は奈良時代にさかのぼります。
奈良時代、行基菩薩がこの地に来訪したことからはじまり、鎌倉時代、衣笠城主三浦大介義明公も、この湯を城にとり寄せ、湯冶をしたそうです。
大正九年には、湯治の客も寝泊りできるよう五部屋の長屋風の家屋(湯の沢旅館)も出来たそうです。*1
現在、湯の沢旅館は休業中です。
三浦半島には、3つの山並みがあり、北側は二子山から畠山、南側は武山から三浦富士※1、そして中央に最高峰の大楠山が連なっています。
平作川の源流に沿って整備された道が続きます。
傾斜は次第にきつくなり、最後の250段の階段を登りきると、大楠山頂上に到着です。
頂上からの眺め。「かながわの景勝50選」に選ばれています。
衣笠大通り商店街に面して建つ和食店の「玉寿々」。そば、天ぷら、釜めし、定食がメインですが、とんかつのメニューも充実しています。
座敷もあって、落ち着けます。
とんかつ定食を注文。
南側(仲通り商店街※1)にも出入口があります。
平作川沿いの共同ビル※1 の隣に、年季の入った飲食ビルが建っています。
建物の外周部分は緩やかなカーブを描いています。
1階部分は、飲食街になっています。
昼間でも夜のような雰囲気です。
衣笠駅の北側の平作川沿いの共同ビル。
1階部分には、居酒屋やカラオケパブ、スナック、理容室などがはいっています。
ビルの中を抜ける通路があります。
通路を抜けた北側に建つ別のビルと階段部分がつながっています。
今回は、衣笠(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
戦後、衣笠駅周辺には、衣笠十字路から現在の三雄堂書店のあたりにかけて自然発生的に生まれた露天や青空市場がありましたが、昭和41年3月、衣笠駅東北側の旧国鉄用地の払下げを受け、昭和43年6月に「仲通り商店街」が竣工しました。*1*2
通りに面した商店街(大通り商店街)と南側に1本入った仲通り商店街は一体化され、駅前の商店街を形成しています。
多くの客で賑わっています。
裏側(駅側)から見た仲通り商店街。
終戦直後の衣笠駅周辺
戦後、横須賀市は下町方面で連合軍将兵相手の土産品販…
横須賀市の「自然・人文博物館」の近く。
「おすい」のマンホール。
横須賀市の「市の木」のオオシマザクラがデザインされています。*1
「うすい」のマンホール。
ハマユウがデザインされています。*1
合流用のマンホールには、黒船とペリーがデザインされています。*1
米が濱砲台は、明治23(1890)年から明治24(1891)にかけて建設され、明治37(1904)年に開戦した日露戦争では28cm榴弾砲6門が、旅順攻略のために運び出されました(案内板より)。
榴弾砲の土塁と砲台が整備され、公開されています。
砲台跡は、広場になっています。
砲台跡からの横須賀市街の眺望。写真右奥は猿島。
近くの電柱プレート。「砲台」の名が記されています。
横須賀の町は、造船所や遊興地(大滝遊廓など)があった下町に対し、後背の丘陵上部に上町(うわまち)に多くの住宅が建てられました。上町と下町の通行は明治十年頃に作られた狭い坂道(平坂)しかありませんでしたが、その後、平坂が拡幅されて交通が改善されたことにより、横須賀の町は開発が進んでいきました。*1
急な坂ですが、なぜか「平坂」と呼ばれています。
上町へ向かう坂道。
坂の途中から見る横須賀中央駅方面。
横須賀市本町3丁目にある「延命地蔵尊」。
繁華街のどぶ板通りの西側にあります。
この地に祀られたのは大正12年の関東大震災の後でした(案内板より)。
「遊楽の場所」の項に「汐留地蔵尊」の記載があり、「汐留町に在り、朝夕、線香の煙絶えず茲(ここ)にも茶屋町の女どもが朝に夕に参詣して居る。」と紹介されています。*1
三笠ビル※1 の北側。「聖ヨゼフ病院入口」の交差点を入ったところに建つ共同ビル。
密集する看板。
横須賀らしく、「KARAOKE」と書かれた店もあります。
1階の中央部分に「大滝名店ビル」の入口があります。
ビルの反対側(南側)の入口。
三笠ビル商店街から「豊川稲荷」へ向かう参道を進みます。眼前にほぼ垂直な崖が立ちはだかります。
急な上り階段が延々と続きます。
崖下に、横須賀の町を見下ろすことができます。
登りきったところに、「大勝利山」と書かれた標柱が建っています。
三笠ビル商店街を縦断に貫く歩行者専用の中央通路は、ももともと横須賀市の市道、通称「三笠通り」でした。公道が、建物の中を縦断している例は希です。*1
商店街の中程に、「豊川稲荷」への道が分岐します。
商店街の中に参道があります。
「豊川稲荷」へ登る途中の階段から見た三笠ビル商店街。
今回は、横須賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
横須賀の下町地区(大滝町)に建つ三笠ビルは、「統一された都市美」を見せ、今日も横須賀中心市街地の顔として存在感を保ち続けています。*1
建物の中央を貫く「三笠ビル商店街」商店街の入口には、戦艦三笠のモニュメントが掲げられています。
三笠ビルは、1959年11月の竣工で、横須賀市で初めて耐火建築促進法が適用された防火建築帯のビルです。外観は一体の建築(通りに面するハファサード)に見えます。
建物の裏側からみると、実際は、数棟に分かれた鉄筋コンクリート造りの建築物であることが解ります。
P.142
横須賀は奇跡的に空襲から免れ、町の都市基盤と都市機能はほぼ無傷だ…
鶴見の本町通四丁目には、かつては多くの飲食店街※1 がありましたが、 現在はほとんど無くなっています。
奇跡的にこちらの一画だけが昔のままの姿で残っています。
スナック「はなぶさ」。3軒の店が連なっています。
側面はトタンです。