乳牛通り※1 の入口の反対側(東側)は「ひがしみち」と呼ばれる通りが東へ続いています。
ひがしみちへ入ったすぐのところがY字路になっているのですが、ここに、印象的なカフェの建物があります。

建物一面ホルスタイン柄です。

みちの形状にあわせて建物の側面は湾曲しています。

「ひがしみち」は、弧を描くように東へ向かっています。

乳牛通り※1 の入口の反対側(東側)は「ひがしみち」と呼ばれる通りが東へ続いています。
ひがしみちへ入ったすぐのところがY字路になっているのですが、ここに、印象的なカフェの建物があります。
建物一面ホルスタイン柄です。
みちの形状にあわせて建物の側面は湾曲しています。
「ひがしみち」は、弧を描くように東へ向かっています。
秦野の市街には、古い通りに名前がつけられています。
本町四つ角から南西へ県道704号線を進むと、「乳牛通り」の入口があります。
「乳牛」は、「ちゅうし」と読みます。
入口には、「乳牛通り」を示す石柱が建っています。
歴史のある通りらしく、老舗の商店も建ち並んでいます。
防犯灯に記された「乳牛」。
付近には、醍醐みち、曽屋みち、があります。
「醍醐(だいご)←醍醐味の語源」とは牛乳を精製して作った今のクリームのようなもので、「乳牛(ちゅうし)」は乳牛を飼っているところ。醍醐道はその牛乳を精製したものを賞味できる道。そして曽屋は「曽(そ)」つまり牛乳を煮詰めて作る食品、今のチーズのようなものを生産する家のあるところと解釈されています。*1
片町第一商店街(本町四ツ角から片町通り沿い)には、歴史ある商店が建ち並びます。
その中でも、ひときわ目をひく写真店の建物。
80年代、フィルムカメラが全盛だった頃、フジ(緑)、コダック(黄)、さくら(赤)の3社が競っていましたが、こちらの商店は、フジカラーの色に塗られています。
隣には、黄色と赤の商店が並びます。
黄色看板のひな人形店。
イオン秦野店の入口の信号付近。
NTTの建物の脇に、「軽便(けいべん)みち」の石柱が建てられています。
軽便鉄道は、明治39年(1906)湘南馬車鉄道株式会社が秦野駅(現在の本町三丁目)から、吾妻村(現在の二宮町二宮)まで(9.6キロメートル)の馬車鉄道の運行が始まりでした。*1
イオン秦野店の入口近くに記念碑が建てられています。
馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車または貨車をひくもので、旅客は、秦野地方専売局の職員や大山への参拝者で、貨物は葉たばこ、たばこ製品、木材、製糸などで、秦野の産業発展に大きな役割を果たしました。(案内文より)
今回は、秦野(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
慶応年間(1865~68)より「秦野たばこ」は全国的に名前が知られ、秦野の重要産業でした。「秦野たばこ」は、終夜これを喫煙しても 風味が柔らかで喉にさわらぬたばこであるという理由から、特に江戸吉原遊里の遊女たちに好まれたと伝えられています。*1
現在のイオン秦野ショッピングセンターがある場所には、かつて、日本たばこ産業秦野工場(昭和62年3月閉鎖)がありました。*2
イベントなどが催される「くすの木広場」。
明治38年2月の秦野煙草製造所設置の際に植えられたくすの木が、シンボルとして現在も残されています。*2
「秦野たばこ」の名前が全国的に知れ渡るようになったのは 慶応年間(1865~68…
昭和62年3月に日本たばこ産業秦野工場が閉鎖され、その広大な跡地にオープンし…
鶴巻温泉駅前の「弘法の湯」の隣。美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦の美術館があります。
実家のある秦野市名古木にアトリエを構え、松坂屋百貨店銀座店宣伝部に勤務しながら、1946年(昭和21年)から15年間にわたり創作活動を続けました。*1
この日は、「たまゆら昭和を想う」と題し、レコードジャケット用の絵画の他、大型の純粋絵画の展示もありました。*2
『ぺんてるくれよん』のパッケージ(向かい合う男の子と女の子)や『小田急初代特急ロマンスカー』(3000形SE車)の内外装のデザインも手がたことで知られています。*1
『光と影の華麗なる世界』と称される美人画で知られる、洋画家・宮永岳彦。
…
「たまゆら(玉響)」とは、少しの間、ほんのしばらく、という意味の大和言葉で…
鶴巻温泉駅前に、高さ2m以上はあると思われる大きな石燈籠が残されています。
光鶴園は、かつての鶴巻温泉の名旅館です。
大山講の書かれています。光鶴園は大山講の定宿だったようです。
大山のことを詠んだ詩歌。作者に「黄庵」の文字があります。
「黄庵」は、鶴巻を発展させるために、昭和28年(1953年)に光鶴園の敷地内に開設された性風俗博物館です。*1
正式には、今昔民俗研究所と称し、原始宗教の信仰対象である和合神仏をはじめ、収集品は約3000点にも及び、特殊な研究家には紹介者のある限り公開するが、好奇心や未成年者、酔後の方々にはお断りしていました。*2
P.162
博物館・今昔民俗研究所「黄庵」設置
鶴巻をもっと発展させる方法…
今昔民族研究所は、一名を性風俗博物館とも称し、全日本博物館協会中唯一の特色…
渋沢駅南側の渋沢商店街。
オレンジ色のテント屋根と赤の暖簾の中華屋さん。
40年以上変わらない昭和の雰囲気が漂う店内。ラーメンや焼きそばに使われている麺はすべて手打ちの自家製麺です。*1
ビールとチャーシューワンタンメンを注文。
秦野市曲松にある追分道標追分道標※1 の正面の下部。「新吉原講中」と刻まれています。
矢倉沢往還の碑の説明文※1 でも紹介されている江戸屋喜平次の名前が確認できます。
新吉原の妓楼名と関係者の名前が刻まれています。この頃は、妓楼名は〇〇楼ではなく、〇〇屋と名付けられていたことが解ります。
人足二百人。
秦野市曲松の國栄稲荷神社の隣に、「大山道矢倉沢往還」の碑が建っています。
碑の説明文によりと、この場所は、江戸時代、小田原街道と矢倉沢往還の2つの古道が交差していた場所で、大山や富士参詣をする人々で賑わいました。
江戸屋喜平治の建てた道標。写真奥は、國栄稲荷神社のです。
碑の左面には、「小田原 いいすみ みち」と彫られています。
「大山道矢倉沢往還」の碑の説明文:
古道解説
ここは、東西に通る矢倉沢往還(江戸赤坂と駿河国吉原を結ぶ)と渋沢峠を経て小田原に至る小田原街道が南北に交差しており、大山や富士参詣をする人々で賑わった。曲松から北に進むと運動公園付近で水無川を渡り田原を経て大山に至る道を「どうしゃみち 」と称し、季節になると参詣や巡礼の人々が行き交った。また、大山参詣 や大山講 の人々によって数多く道標 が建てられ、近くに江戸屋喜平治の建てた道標もあり、宿屋も何軒かあったという。
碑の左面には、大山みち。
碑の背面には、寛政8年(1796年)の建立であることが刻まれています。
正面には、「右 ふし道 さい志やうじ 山の道 左 十日市場」
今回は、渋沢(神奈川県秦野市)の町並みを散歩します。
駅前ロータリーからは、丹沢山塊の塔ノ岳が望めます。
バス乗り場の近くに、列車接近案内放送に関する案内板が設置されています。
ZARDのボーカル故・坂井泉水さんは、秦野市に住んでいたこともあり、高校に通学する際には、最寄駅である小田急線渋沢駅(秦野市)を利用していました。
渋沢易では、到着列車が近づくと、「負けないで」(上りホーム)、「揺れる想い」(下りホーム)のメロディーが流れます。
茂原市街からジャパンディスプレイの工場へ向かう途中にある日進橋。
土橋慶光作「春雷」。
力強さを感じる作品です。
後ろ姿。
昭和32~3年ごろ、落合橋際の平安閣があったあたりに「茂原グリーンセンター」が開設しました。*1*2
ヨード温泉も兼ね、舞台村100畳の大広曲があって、芝居、手踊り、歌謡曲など各種の園芸が催され、大衆向きの娯楽場として賑わいました。*1
茂原グリンセンターは、太平洋戦争末期、海軍からの要請で開設された慰安所が、終戦後は一時進駐軍の慰安所となり、その後「茂原温泉郷」となったものが、昭和33年に、大衆娯楽場のグリンセンターに転業したものです。*3*4
現在、当時の面影はありません。
「茂原太平記」*4 には、「阿久川の流れにかかった落合橋を渡ると、六軒ばかり固まって割烹旅館式の作りの家が立ち並び、温泉マークがネオンに輝いている。弁天荘、大善、若松、松竹、松の家、深川という色どり。」と、茂原温泉郷の当時の様子が描写されています。
阿久川の流れ。
遠くにガスタンクとガス管橋※1 が見えます。
P.111
鈴木音三郎氏らが中心になり、昭和32~3年ごろ、落合橋際( 今の平安…
早野新田海軍慰安所設置
<…阿久川という川とは名ばかりの流れにかかった落合橋を渡ると、六軒ばかり固まっ…
茂原駅の北東にある三井化学茂原分工場。
現在、工場となっている敷地は、太平洋戦争末期、茂原海軍航空隊の飛行場があった場所です。
工場の東側を南北に縦断する道路は、滑走路跡の一部です。
茂原海軍航空隊の主力戦闘304飛行隊は、昭和20年(1945年)初頭に正式に発足しましたが、戦況悪化に伴い、沖縄戦への出動命令が下り、同年4月初旬、柳沢少佐を隊長とする神風特別攻撃隊第三御楯隊柳沢零戦隊が編成され、約40名が茂原基地から鹿児島県の国分基地に転出し、他の飛行隊と共に菊水三号作戦に参加しました。
柳沢零戦隊の戦死者(19名)のうちのほとんどは、予科練や予備学生の出身者でした。*1
昭和19年、海軍からの要請で、早野新田に慰安所が開設されました。終戦間際、特攻基地となった茂原からは、毎日の如く台湾沖へ若鷲が出発し、前日には必ず挨拶酒宴が催されました。*2※1
P.30
45年1月頃、第一線で消耗した戦闘304飛行隊が館山に復帰。3月にはある…
早野新田海軍慰安所設置
<…2号掩体壕※1 があった場所から県道293号線を東へ進むと、道路沿いに「掩体壕100m」の看板があります。
住宅地に残る3号掩体壕。
戦時下の飛行場施設は、「分散」「偽装・隠蔽」「耐弾化」が三原則とされました。掩体上に密生している草、後方の木々などは、これこそが「偽装・隠蔽」されたもともとの姿と言えます。*1
茂原市は、戦後50年事業の一環として、3号掩体壕の土地を借り上げて説明板をつけました。*1
P.9
茂原市文化財審議会では残された鉄網コンクリート製の掩体壕に、1号から…
P.3
太平洋戦争末期、…
太平洋戦争末期、陸海軍飛行場に建造された掩体壕のうち、1か所に多数の掩体壕が残存している例としては、茂原市の11基がを筆頭に木更津市の10基、大分県宇佐市の10基、高知県南国市の7基、北海道根室市6基などがあります。*1
茂原市の11基のうち、もっとも綺麗な状態で残っているものの1つが2号掩体壕です。
入口は補強されていて、良好な保存状態です。
横から見ると、徳利型であることが解ります。
内部の様子。
P.3
太平洋戦争末期、…
新茂原駅の南の神林踏切近く。
黄色のちかん看板。下の「注意」の文字が日焼けで見えなくなっています。
新茂原駅前。こちらの看板も「多発注意!!」の部分が日焼けしています。
朝日神社の近く。下の部分「に注意」が、見えなくなっています。
塗料の色によって日焼けの進行に差があるようです。※1
新茂原駅前の通り沿いには、飲食店が散在しています。
すし、天ぷら、うなぎの辰巳屋。
ランチメニューもあります。
ちらし寿司とビールを注文。
今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
外房線茂原駅の一つ手前の新茂原駅。
改札口へ。
紺地に白文字で書かれたホーロー駅名標。近年は姿を見かけなくなってきましたが、綺麗な状態で残っています。
駅舎もレトロな雰囲気です。
布田駅近く。旧甲州街道沿いにある常性寺。
境内の西側手前の隅に、「敷石碑」が建っています。
これは、五宿の貸座敷業の主人が、明治11年、境内の敷石を寄付した記念碑です。※1
「五宿貸座敷」。
五宿貸座敷の主人20名の名が刻まれています。*1
1865年、幕府は長州征伐を行ない、布田五宿に対し、軍用金5000両の献上を要求しましたが、五宿は、飯盛り旅籠の設置の許可を願い出、飯盛旅籠が認められれば、7000両の冥加金を上納することを申し出ました。その結果、1866年 7月以前には布田五宿に飯盛旅籠が許可されました。その後、貸座敷業者は、1875年には17件を数え、さらに1877年には21軒に増加しましたが、その後は衰退しました。※2
この「敷石碑」は、布田の貸座敷が全盛期のものといえます。
P.265
国領二丁目から一丁目に入ると、右手に常性寺がある。境内隅には敷石…
P.73
甲州街道筋では、内藤新宿、高井戸、府中、八王子が飯盛女を置いていた…
調布駅北側の商店街「調布銀座」にある台北飯店。
台北飯店は、ウルトラセブンにアンヌ隊員役として出演したひし美ゆり子さんが経営されている店です。※1
ランチメニューは種類が豊富です。
チャーハン・スープ餃子とビールを注文。
アンヌ隊員は、セブンファンだけではなく、多くの人々にとって永遠のあこがれです。※1
調布駅の北側。旧甲州街道沿いにある名糖牛乳宮川販売店。
名糖牛乳のマーク。
名糖牛乳の商品が並んでいます。
横から見ると、看板建築であることが解ります。
調布駅の北、武蔵野の森公園。
園内に掩体壕の遺構が残されています。
戦闘機「飛燕」のモニュメント。
「飛燕」は、第2次世界大戦中、川崎航空機工業(現在の川崎重工業)が製作した戦闘機で、唯一の水冷式戦闘機として開発され、最大速度610km/時、高度1万メートルでも編隊飛行が可能であるなど、当時の世界水準をいく高性能機でした。※1
掩体壕の前面は、ふさがれていますが、そこには、「飛燕」が描かれています。
調布駅前公園は昭和47(1972)年に開園し、タコのすべり台があったことから「タコ公園」として親しまれてきましたが、京王線の地下化に伴う駅前広場や地下駐輪場などの整備のため、平成28(2016)年9月30日に閉園しました。*1
現在の「タコ公園(通称)」は、令和2(2020)年4月、調布市役所裏の京王相模原線の跡地に、鉄道敷地公園(仮称)が開園したもので、ここに、かつてのタコ公園のシンボルだった「タコのすべり台」が再建されました。*1
多くの市民からの復活の要望を受け、先代のタコの頭の一部が現在のタコの頭に埋め込まれているそうです。*1
すべり台は、迫力満点です。
桜堤通り沿いにある日活調布撮影所。近くには、多摩川自然観察緑地があって、水と緑の環境に恵まれた場所です。
撮影所の建物の東隣(写真右手前の塀のある場所)に、ぬのた公園への通り抜け通路の入口があります。
曲がりくねった通路を進むと、調布市立ぬの多公園への敷。(写真中央)地につながっていますが、この場所に小さな石碑があります
日活撮影所の碑。日活映画全盛時代を象徴する石碑です。
説明文によると、撮影所ができた頃は、周囲に住宅は無く、田園風景が広がっていたそうです。
1962年には銀座の並木通りとみゆき通り等の町並みを再現したオープンセットが完成し、同年3月公開の「銀座の恋の物語」「上を向いて歩こう」で使用されたそうです。
今回は、調布(東京都調布市)の町並みを散歩します。
多摩川5丁目の「角川大映スタジオ」(写真の左奥に見える建物)の近くに映画俳優之碑があります。
昭和の映画界を代表する俳優の名前が刻まれています。
映画俳優之碑のすぐ近く。多摩川5丁目児童遊園の敷地内には、調布映画発祥の碑。
碑の説明文によると、昭和8年1月、この地(調布市多摩川)の「水と緑と澄んだ空気」が映画産業に欠かすことのできない条件であったことから、最適地に選ばれ、日本映画株式会社が設立され、多摩川スタジオが完成したそうです。
吉原弁財天のお堂※1 の中に掲げられている奉納額。
当時の店舗の屋号が解る貴重な資料です。
額の左側は、料亭などの店舗の名が連なっています。
昭和30年3月、発起人は「水常」と記されています。
吉原弁財天の花吉原名残碑のあるあたり。最近、。椅子とテーブルが設置され、ここで、ゆっくりとできるようになりました。
テーブル近くにある「大震火災十週年記念月桂樹」の碑。※1
昭和7(1932)年3月に、水常楼の伊藤常吉が寄進しています。
月桂樹。
吉原弁財天の入口にある水常楼伊藤常吉が寄進玉垣。その大きさから、吉原の実力者であったことが解ります。
「水常」と刻まれた石柱が建つあたりには、さまざま石碑が密集しています。水常楼伊藤常吉が関係している石碑群と思われます。
奥にある吉原講の石碑。
伊藤常吉は、吉原を仕切った大物で、大雄山二十一丁目星宿燈を建てました。*1※1
十七回忌追善碑。※2
発起人に、伊藤常吉の名があります。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
桜鍋料理の「中江」※1 や「土手の伊勢屋」※2などの名店が建ち並ぶ土手通り※3※4。
とんかつ専門店の美乃屋。
落ち着ける店内。
かつ丼とビールを注文。
かつ丼は。さやえんどう、しいたけなども入っていて絶品です。
大雄山最乗寺境内の多宝塔への登り口の近くに、大きな石碑が2つ並んでいる場所があります。
石碑の裏側に、二十八丁目星宿燈があります。一丁目から数え歩いて最後の星宿燈です。
東京市浅草新吉原中米(なかごめ)楼と刻まれています。
二十八丁目星宿燈を建てた中米楼は、吉原の道了信仰の指導的立場にありました。*1
中米楼の関係者が出版した本として『吉原夜話』(青蛙房,1964)があります。初代市川猿之助(1855-1922、)の妻である吉原妓楼(中米楼)の女主人・喜熨斗古登子が、幕末から明治にかけての吉原の様子について口述したものです。*2*3
森の中に、苔に覆われた星宿燈が建つ姿は、幻想的です。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
P.164
俳優の関係者が出版した本として『吉原夜話』(1964・青蛙房)が…
母は自分の名を琴ともまた古登も書いていましたが、晩年、私がよくもらう手紙に…
仁王門から「天狗のこみち」を歩くこと数十分。道了尊バス停の手前で道路に合流します。
参二十一丁目の星宿燈。「参」は星座の名前です。
水常楼伊藤常吉が建てた星宿燈。伊藤常吉は、吉原を仕切った大物でした。吉原各所の石造物に名を残しています。*1※1
星宿燈は古く、苔の緑に覆われています。
参廿一丁目の水常楼伊藤常吉は三業組合取締役等の公職に着いてはいなかったよう…
仁王門を過ぎ、さらに参道を進むと、やがて「てんぐのこみち」と名付けられた遊歩道に入ります。杉林の中を曲がりくねる坂道を登っていくと、100mおきぐらいに古びた石の道標が建っています。
石の道標の表面には一丁目から二十八丁目までが記され、人々に道程を知らせています。これらの道標はお寺が発行した古い案内書には「星宿燈」と紹介されています。*1
十一番目の道標。
寄進者の「新吉原江戸町二丁目 元鴨井楼 鴨志田かね」の名が刻まれています。
十一番目であることを示す「十一丁目」と刻まれたその上にもう一文字「虚」という漢字が冠されています。
これは、日本や中国で用いていた古い星座(星宿)名です。*1
上部に四角い口を開け、背中にも丸い穴があるので、かつては桟をはめ、灯をともして、道のありかを知らせる石灯籠だったとわかります。*1
仁王門前左側にある道了大薩埵碑。道了大薩埵(どうりょうだいさった)は、大雄山最乗寺の守護神。
台石に、「新吉原講」と大きく刻まれています。
吉原道了尊参拝の講の人たちが道標を建立したことがわかります。*1
道標の後ろ側に、由緒を示す石碑が建っています。
石碑の銘文を要約すると、遊廓吉原が開かれた元和年間に吉原講が結成され、以来、大雄山に詣でていて、天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建したが、その道標が明治35年の海嘯(かいしょう)で崩壊したため、36年に松田に再建したということです。吉原講がかなり古くからも有力な講であったことが解ります。明治40年の星宿燈建立※1も、この吉原講が行ったと考えられます。*1
吉原講は、吉原遊廓が開かれた元和年間に結成され、以来、大雄山に詣でていました。天明2年に国府津に道標を建て、明治13年に再建、さらに明治36年に松田に再建されました。明治40年の星宿燈建立も、この吉原講が行ったと考えられています。*1
P.30
参道四丁目の仁王門の前には高さ2mを超える大きな石の道標が参道をはさ…
大雄山駅から最乗寺へ向かう道を1kmほど行くと、道了尊仁王門があります。(道了尊は最乗寺の別名です。)
階段脇に案内板があります。
仁王門があるこの場所までは、道路を歩きますが、仁王門から先は「天狗の小径」と呼ばれる杉林の中の参道が分岐していて、歩いて登ることもできます。参道には、一丁目から二十八丁目までを数える道標(二十八宿石燈籠)が建っています。
二十八宿石燈籠は、中国式の星座名を冠した石燈籠型の道しるべです。一丁目から二十八丁目の道程を知らせるとともに、宵祭りの参道を照らし参拝者を安全に導く燈籠として設けられたものです。燈籠は、元治元年(1864年)小田原誠信社中、及び明治40年(1907)東京浅草新吉原講中によって建てられました。
仁王門から最乗寺へは、およそ2kmの道のりです。
今回は、大雄山(だいゆうざん、神奈川県南足柄市)の町並みを散歩します。
伊豆箱根鉄道大雄山線の終着駅の大雄山駅。電車はここで折り返して小田原へ戻っていきます。
大雄山線には、長年(1962年-1996年)にわたり「赤電」の名で親しまれた「150系電車」がありましたが、創立100周年を迎えた2016年に、復刻版の運行が開始されました。*1
車両前面の「小田原←→大雄山」の行先系統板。 いい味出してます。
東京都台東区橋場2丁目にある「平賀源内の墓」の石碑。
実際の墓所は、ここから1本南側の通り沿いにあります。
平賀源内といえば、「エレキテル(摩擦起電機)」を復元制作したことで有名ですが、文筆においても実績を残しており、後の式亭三馬や十返舎一九にも影響を及ぼした戯作の開祖として評価されています。*1
案内板より:
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる。高松藩士白石良房の三男で名は国倫(くにとも)。源内は通称である。寛永2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を用いた。本草学、医学、儒学、絵学を学び、事業面では成功しなかったが、物産開発に尽力した。 物産会の主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などを行ない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火かん布(かかんぷ)(石綿耐火布)を発明した。一方で風来山人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名を持ち、「風流志道軒伝(ふうりゅうしどうけんでん)」などの滑稽本や浄瑠璃「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)などの作品を残している。
源内の文筆における代表作である「風流志道軒伝」は、主人公が巨人国、小人国、女護島、などを遍歴するもので、「ガリヴァー旅行記」を思わせる風刺とファンタジーの快作と評されています。*1
吉原神社。吉原遊廓ゆかりの神社です。
境内にある石燈籠。
かつての吉原の有力者が寄進したものです。
水常は、大正期からある妓楼で、昭和33年の廃止時まで続きました。
鳥居に名が刻まれている伊藤常吉は、水常楼の楼主です。
今回は吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
金美館通り沿いの交差点の角。
天ぷらの「いせや」が営業中です。
暖簾には、〇に「天」の字。「土手のいせや」と同じです。
天丼とビールを注文。
人車軌道(人が車両を手で押す軌道)の展示。
茂原と長南の間の人車軌道が開通したのは明治42年10月。茂原駅前を起点にして 長南の台向(現在の愛宕バス停)までの 約9kmの単線軌道が県道沿いに敷設されました。
人が車両を手で押していた頃の写真が残されています。
車両の内部。
茂原公園内にある茂原市郷土資料館へは、茂原駅から徒歩(約1.5km)か、藻原寺バス停で下車し、向かいます。
展示室に入ると、天然ガスの説明コーナーがあります。
右手前にある昭和の茶の間の展示。
エポック社のサッカーゲーム(初期のモデル)の展示。
初期のモデルでは、ボールのコントロールが難しいものでしたが、最新版では、改良が加えられています。*1
スコアボードなど、リアル感を演出しています。
茂原の榎町通り商店街。
交差点の角に、大正時代から続く定食屋の大和屋食堂があります。*1
映画のロケにも使われたこともあるノスタルジックな雰囲気の店内。*1
メンチカツ定食とビールを注文。
大和屋食堂。
大正時代から続く定食屋。ノスタルジックな雰囲気が伝わってく…
茂原では、明治時代、自家用の天然ガス井戸が数多く掘られ、「利用組合」という組織による天然ガス事業が営まれていました。昌平町稲荷神社の境内に、「茂原昌平町天然瓦斯組合」の痕跡が残されています。*1
境内に設置されたガス溜めの基礎(赤レンガ造り)の跡。40m³ほどの円形のタンクでした。*1
上から見ると、円形であることが解ります。
そばの石碑に、当時の「茂原昌平町天然瓦斯組合」の経緯、記録、組合員名が刻まれています。*1
JR線と並行する荒瀬橋から南側の遠望。
近くにガスタンク(現在塗装中)がある場所から、阿久川にガス管橋が架かっています。
太いパイプが3本。「天然ガスの町」茂原を象徴する風景です。
正式には「瓦斯輸送管専用橋」と呼ぶようです。昭和50年に作られました。
茂原駅から一宮川に架かる「日進橋」を渡ると、通称「日立通り」と呼ばれる広いまっすぐな通りが続きます。
「日立正門」バス停。かつての日立製作所茂原工場の遺構とも解釈できるバス停です。
バス停の隣に、日立安房神社があります。
昭和29年10月13日、館山市の安房神社からの分霊により、日立安房神社が建立されました。*1
日立製作所茂原工場や関連会社の名が刻まれています。
今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
駅前の通り沿いにある「浮世風呂」。式亭三馬の滑稽本「浮世風呂」からの連想でしょうか。
10室近くありそうな建物です。
現在は、改装中のようです。
入口を入ってすぐのところに、2階へ上る赤色の階段があります。
木更津市吾妻1丁目にある極楽寺(平等院)。
ここに、幕末に幕府軍の一人として、官軍と戦い戦士した浅野作造の墓があります。
戦死した浅野作造の首級は木更津へ運ばれ、吾妻神社境内の路傍にさらされると、村人がその哀れさを忍び、路のほとりに小さな石をたて、お線香をあげて弔ったのが、いつの間にか「浅野様」と呼ばれ、民間信仰の対象になりました。*1
「浅野作造 源頼房」と刻まれています。
裏には「慶応四年辰年六月四日」「大正五年三月十八日改葬?」とあります。
大正時代になって、この地に墓が建てられたことが解ります。
木更津町鳥瞰図*2を見ると、吾妻神社の隣に、「浅野様」に記載があり、信仰を集めていた当時の様子が解ります。
木更津遊廓の遊女たちは、開店前のひととき、吾妻の浅野様へ参詣しました。*3
木更津市街東部の木更津2丁目。旧地名で、「元新地」と呼ばれていた地域の近くです。
周囲がコンクリートで固められたこの場所は、稲荷森古墳(前方後円墳)の前方部がわずかに残った部分です。明治14年に貸座敷を新設する時に鈴、鏡の破片、金銅装の刀、土器等が出土しました。*1
稲荷森古墳の上に高台稲荷神社が建っています。
古墳の頂上部分に建つ鳥居。
太田山公園の山頂にある橘神社。
橘神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国征伐のとき亡くなった妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)を慕って建てられた橘神社と言われています。
案内板に「恋の森」の由来が書かれています。
尊は、この山頂から海を見下ろし、媛を偲んでしばしこの地を去りかねたと伝えられています(写真は「きみさらずタワー」からの遠望)。
「きみさらず伝説」は房総各地に残されており、木更津には、弟橘媛を祭神とする吾妻神社※1があります。
富士見2丁目の南側。
ここに、江戸初期の海の痕跡である護岸が残っています。*1
大きな商家だったと思われるお宅。
しっかりとした石垣が残っています。
隣の駐車場にも石垣が続いています。
富士見通り近くの飲食街※1 から、東へ抜ける細道。
木更津会館(木更津芸寮組合、旧二業組合*1)のある通りに出ます。
「木更津会館」の建物の脇には、さらに、風情のある路地が続いています。
歩いてきた路地を振り返って見たところ。
【参考文献】
*1 石川空山,石崎白水:大木更津(木更津日報社,1939)付録「大木更津全図」
あ〇くらのうち、1枚欠落していますが、下の看板から「朝倉」と読み取れます。
特徴的な形状の軒下部分。
奥行のある建物です。
木更津駅に近い「みまち通り」商店街を少し行ったところにあるお鮨屋さん。
かつての商店街の繁栄ぶりが想像できる店構えです。
狭い店内ですが、落ち着ける空間です。
チラシ寿司とビールを注文。
今回は、木更津(千葉県木更津市)の町並みを散歩します。
木更津駅西口より徒歩10分。矢那川ほとりにある証城寺。
狸塚は、昭和4年、童謡「證誠寺の狸ばやし」の流行を記念し、建立されました。(案内板より)
證誠寺の狸塚:
この辺りが昼でも暗い程茂っていた昔のこと、寺の和尚さんが夜中に目を覚ますと庭の方が大変賑やかです。そっと節穴からのぞいて見ますと外は月夜で昼間のようです。折から秋のこととて萩の花盛り、ところが驚いたことには大小の狸数十匹が輪になり、
證誠寺山のペンぺコペン
俺らの友達やドンドコドン
と腹を打ちながら踊っています。和尚さんもついおもしろくなり一緒になって踊りました。 こうして毎晩踊りましたが 或夜狸達が全く姿を消してしまったので不思議に思って居りますとかわいそうにもお腹をたたき破って薮の中で死んでいました。和尚さんはこの友達をあわれに思ってねんごろに葬ってやったのがこの狸塚です。
この伝説が野口雨情先生によって狸ばやしの童謡が生まれ、さらに中山晋平先生の作曲により今や天下に広まりました。
童謡碑。
野口雨情・中山晋平先生の直筆が発見されたのを機に、昭和31年、建立されました。(案内板より)
1946年に放送が開始されたNHKのラジオ番組「英語講座」のテーマソングとして用いられ、最近では、2021年度後期のNHK朝ドラ「カムカムエヴリバディ」の劇中歌として登場しました。
英語歌詞:
Come come everybody.
How do you do, and how are you?
Won’t you have some candy?
One and two and three, four, five.
Let’s all sing a happy song.
Sing trala la la la.
「市民ホールやたべ」前に「みなのね」と題する像が設置されています。
茨城県出身の一色邦彦さんの作品です。
男女の裸像です。
後ろから。
四つ角。
今ではほとんど見かけなくなった牛乳店。
モダンな意匠の2階部分。
明治ビタ牛乳。左側には、「日の出」に「乳」のマーク。
筑波学園病院から南へ進むと、常磐自動車道を渡る橋に出会います。
「飛行場橋」と命名されています。
飛行場橋は1980年に建造。常磐自動車道の開通は1981年です。飛行場を偲んで命名されたのだと思います。
橋を渡った先はかつての飛行場の敷地です。現在は、「農林さくら通り」となっています。
飛行場橋の遠望。
谷田部の市街から約2Kmのところにある筑波学園病院。
筑波学園病院は、旧日本海軍航空隊谷田部飛行場の跡地に建てられており、筑波学園病院の前身である谷田部協同病院はその兵舎を病棟として設立、平成11年頃まで利用されていました。*1
北西側の駐車場の脇に記念碑が建っています。
高さ約メートルの記念碑の上部には、零戦のモニュメントが配置されています。*2
碑文
谷田部海軍航空隊は、昭和七年霞ヶ浦海軍航空隊(予科練)の補助飛行場としてこの地に開設され、練習機による飛行士養成を目的としていたが、昭和十四年独立し、零戦や紫電を主力として首都防空の実戦部隊となった。その後昭和十九年戦闘機操縦訓練隊となり沖縄方面の特攻作戦に従事した。戦後、跡地の一部建物(兵舎)を筑波学園病院の病棟として利用し、平成十一年に解体し現在に至っている。ここに恒久の世界平和を願いこの碑を建立するものである。
平成二十五年三月吉日
財団法人筑波麓仁会
石造りでありながら、細部まで表現されています。
終戦の年の1945年には神風特攻隊「昭和隊」も編成され、沖縄方面の作戦で多くの若者が命を落としました。*2
記念碑は、「昭和隊」出撃時に隊員を見送ったとされる桜の木の下に設置されています。*2
谷田部海軍航空隊記念碑除幕式が2013年5月19日(日)筑波学園病院敷地内で行われ…
旧日本海軍の飛行搭乗員を養成する練習航空隊が置かれ、特攻要員の訓練も行われ…
飲食ビル※1 の敷地の脇の公衆トイレ。
白地に大きくな文字でWC(water closet=水洗トイレ)と書かれています。
水洗トイレ(WC)は、昭和30(1955)年に発足した日本住宅公団が広く普及させたものの一つです。*1
昭和30~40年代は、公衆トイレにWCと表記されているのをよく見かけた記憶がありますが、最近は、「Toilet」、「Restroom」やさまざまなピクトグラム(絵文字)で表記されることが一般的なようです。
隣はブロック塀で仕切られています。
今回は、谷田部(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
谷田部の旧道沿いの郵便局近くの曲がり角に、飲食ビルがあります。
派手な装飾の飲食店。
居酒屋、クラブ、マッサージ店などが連なります。
飲食ビル口の看板。
日本橋富沢町の浜町川の水路跡※1 はさらに、北側へ続いています。
しかし、さきほどの商店街のような風景は全く無く、ビル裏側の殺風景な通路です。
水路跡の中央がやや窪んだ通路が延々と続きます。
通路は、「都有地」となっており、東京都下水道局が管理しています。
浜町川跡の地下に、公共下水道の「馬喰町幹線」がつくられているのは、「江戸の下水道が現代に引き継がれている。」といえます。※1
かつての浜町川は、千代田区岩本町まで続き、神田川に合流していました。
P.29
浜町川跡の地下に、公共下水道の「馬喰町幹線」がつくられているのは、…
江戸時代、水路として活用されていた浜町川は、戦後、埋め立てられ、跡地のほとんどは、オフィスビルが連なるビルの裏側の路地となっていますが、日本橋富沢町の部分だけは、商店街の雰囲気が残っています。
「梅の家」の屋号が残るお宅。
昭和の雰囲気が残る通りです。
北側から見たところ。飲食店も営業中です。
今回は、人形町(東京都中央区)の町並みを散歩します。
「日本橋中洲(にほんばしなかす)」という地名で呼ばれているこの付近は、もともとは、文字通り、隅田川の中州でした。
1695年(万治2年)、吉原の遊女高尾太夫がこの付近の船上で吊り斬りにされ、遺体が北新堀河岸(日本橋箱崎町)に漂着し、高尾稲荷に祀られたという逸話があります。※1
中洲は、江戸時代から明治にかけて、歓楽街として賑わいました。
マンション脇に鎮座する真砂座跡の碑。
漱石「猫」上演。真砂座跡、と刻まれています。
夏目漱石の「猫」は、小山内薫によって脚色された演劇で、明治39年に真砂座で上演されました。
碑文:
夏目漱石の「我輩ハ猫デアル」は、小山内薫によって脚色された。伊井蓉峰らが出演し、日本橋中洲の眞砂座跡で明治三十九(一九〇六)年十一月三日から三十日にかけて上演された。
平成十五年十月吉日
早稲田大学 第十四代総長 奥島孝康 識
日本橋室町1丁目。
ランチ営業中の老舗てんぷら店。
「てんぷら天松」は、1936年(昭和11年)に渋谷にて創業しました。
てんどんとビールを注文。
日本橋室町の通り。
ビルの谷間に佇む理容室。昭和の情緒が残っています。
1階が理容。2階が美容です。
懐かしい感じのする店構えです。
日本橋の美術店のある交差点。
ここに、美術店などの有志が建てた「十軒店(じっけんだな)跡」の碑があります。
「十軒店」は、江戸時代の仮設専門店街(人形市)のことで、当初、同業者が十軒あったことから、こう呼ばれるようになりました。*1
隣の「コレド室町テラス」には、中央区教育委員会が建てた別の案内板。
三月の上巳(桃)の節句には、内裏雛・禿人形・飾道具等を、五月の端午の節句には、冑人形、鯉のぼり等を商う人形市が立ち、十二月の歳暮の破魔矢・羽子板等を商う市とあわせて、大変なにぎわいを見せていました。
「十軒店」の人形市が、葛飾北斎の「画本東都遊」に描かれていることが紹介されています。
今回は、日本橋(東京都中央区)の町並みを散歩します。
日本橋のCOREDO室町北側に、「浮世小路(うきよしょうじ)」と名づけられた通りがあります(写真下)。近くには、「浮世小路千疋屋ビル」というのもあり、江戸切絵図にも記載のある「浮世小路」の名称は、最近、人気のようです。
現在の浮世小路。写真左奥に見える鳥居は、日本橋福徳神社(芽吹稲荷)。
福徳神社の敷地に、「浮世小路と料亭百川(ももかわ)」の案内板があります。
案内板より:
福徳神社南側の通りは江戸時代「浮世小路」と呼ばれていました。浮世小路の東端北側には 落語噺の舞台としても知られる料亭百川があったとされています。百川は江戸屈指の料理茶屋として繁盛し、幕末にペリー艦隊が来航した時には、乗組員全員にすべて自前で本膳を提供したほどの力がある料亭でした。
掩体壕には、有蓋(ゆうがい)のタイプと無蓋(むがい)のタイプがありますが、柏飛行場にあったのは、無蓋のタイプです。
こんぶくろ池のところに、1基残っています。
掩体壕の案内板。無蓋タイプは、周囲が土手で囲まれているイメージです。
観察路にしたがって進みます。
掩体壕跡。周囲が土手で囲まれていることが解ります。
柏の県道47号線沿いにある「ジャンボ蛇口」。まるで空を飛んでいるようです。
蛇口から水が出ていますが、後ろ側には何もありません。
蛇口は、近くにある水道などの設備会社の敷地に建つモニュメントです。蛇口から出る水の部分が支柱となっています。
支柱の根元部分は、きれいな花壇になっています。
現在の柏の葉公園一帯は、戦争中、旧日本陸軍の柏飛行場があった場所でした。
現在も旧陸軍東部第105部隊の営門が当時のまま残されています。*1
案内板には、飛行場の滑走路と誘導路の見取り図が示されています。*1
運動公園のあるあたりに、「飛行場跡地」の案内板があります。
つくばエクスプレス開通に伴う区画整理の中で、掩体壕や秋水の燃料庫などの新たな発見があったことが記されています。
豊四季台団地は、かつての柏競馬場跡地にできた団地です。
団地の中にある商店街のお肉屋さん。
揚げたてのコロッケが頂けます。
懐かしいオリエンタルカレー。通常は名古屋でしか買えません(一部の通販やカルディで購入できるそうですが)この店で買うことができます。
昭和45(1970)年頃、南利明※1 が名古屋弁のアクセントで、「ハヤシもあるでよう」とオリエンタル・スナックカレーのCFに登場するや、たちまち流行語になりました。*1
南利明が名古屋弁のアクセントで、「ハヤシもあるでよう」とオリエンタル・スナ…
柏の豊四季台団地。
かつて、ここには、地方競馬としては最大・最新の「柏競馬場」がありました。*1
競馬場は1段高い場所にあったため、その段差にかつての名残を見ることができます。写真は、団地の北東部分。
南西部分。こちらにもはっきりとした段差が認められます。
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千葉県畜産組合連合会が大正末期、千葉市外の椿森で草競馬を行ってい…
日本光学工業(現在のニコン)は、昭和18(1943年)年2月、陸軍航空本部発注の…
昭和23年7月13日に競馬法が公布され、県では日本光学工業から競馬場を賃借して …
経済不況が深刻化するなか、第一回春季柏競馬が昭和3年5月6日から3日間、県畜産…
JR柏駅東口の柏銀座通り。
柏神社前は柏市の中心地で、このあたりは、老舗や飲み屋が多いところです。*1
1F,2Fに飲食店が入るビル。
「柏銀座商店会」の看板。
賑やかな通りは、奥まで続いています。
木更津市街の東のはずれ。国道16号線と国道409号線が交差するあたり。
この付近は貝塚の遺跡で、貝塚の発掘報告書に、「発掘場所(永井作豆造279番地)は、俗称「六軒町」と呼ばれる遊廓の屋敷跡」と記されています。*1*2
昭和34年頃までは、発掘場所の西側に、旅館や料理店が散在しており*3、歓楽街の名残があったようです。
南側の通り。
本遺跡は木更津駅の北東方1500mの地点に位置し、現在の行政区分に依れば木更津…
木更津の名店「富士見亭」。焼きそば専門店です。
矢那川の河口近くの交差点に1軒だけ建っています。
メニューは、「焼きそば」「焼きそば大盛」「缶ビール」の3品目のみ。
「焼きそば大盛」と「缶ビール」を注文。
木更津駅前から西へ延びる通り(富士見通り)に面して、飲食店のビルが建ち並んでいます。
クラブやバーが入るビル。
反対側から見たところ。
古びた広告看板。「こぶたの館」と書かれています。年数が経過しているためか、看板が著しく日焼けしています。
「お好み通り」は、ビルの裏側へ抜けられます。
富士見通りから、交差点を南へ入ったところにある越路ビル。
ビルの1階左寄りは、横丁になっていて「お好み通り」と名付けられています。
「お好み通り」は、ビルの裏側へ抜けられます。
江川海岸へ向かうの道路の南側(写真の左側)は、陸上自衛隊木更津駐屯地(旧日本海軍木更津海軍航飛行場)です。
フェンス越しに掩体壕(えんたいごう。戦時中の戦闘機用の壕)が見えます。
「木更津市郷土博物館 金のすず」の展示物によると、飛行場の北西部に単発機(発動機が1基)用の掩体壕が、飛行場の北側に中型機用の掩体壕が、それぞれ数基づつありました。
掩体壕を出て、この道路を移動し、滑走路から飛び立っていく姿が想像できそうです。
附近には、他にも遺構らしきものが見えます。
今回は、木更津の町並みを散歩します。
「日本のウユニ塩湖」と呼ばれ、人気のスポットとなっている江川海岸ですが、海岸の入口脇にある船堀は、昭和の雰囲気を醸し出している場所です。
船堀の中に出島のように突き出した場所にある綿津見神社。
高度成長期、東京湾岸の漁業協同組合は、莫大な補償金と引き換えに、次々と漁業権を放棄してきましたが、江川漁業協同組合は、東京湾岸で唯一残る自然干潟の潮干狩りをはじめ、現在も漁業が存続しています。
綿津見神社の敷地に、「江川船堀改修記念」の碑が建っています。
碑文:
遠き昔より海の幸を生業としきた私達は昭和十一年、旧海軍飛行場の建設に伴いこの地に移り、漁業の基地とした。以来四十有余年変遷著しい歴史の歩みの中に整備改修は、ままならず今日に至った。この船堀りの充実が多年に亘る組合員総ての願望であった。防衛施設庁、千葉県、木更津市の援助により、八千五百余万円の巨費を投入し、完成した。
昭和三十六年 江川漁業協同組合
綿津見神社から見た江川海岸方向。水門の向こうが潮干狩り場です。
街道沿いにあった梅屋旅館※1 からすぐの場所にホテルニュー梅屋が営業中です。
明治に梅屋旅館※1 として創業し、ホテルニュー梅屋を昭和55年にオープンしてから36年、今もつくば市谷田部で続く老舗のホテルです。*1
HOTELUMEYAの屋上看板。
東側の運動場からの眺め。1階は、レストラン「ミルキーウエイ」。
谷田川の橋から少し行ったところには、梅屋旅館(現在の梅屋ホテルの前身)がありました。旅館、料亭で芸者も置いていて繁盛していました。*1
梅屋旅館の建物は、しばらくの間、旧街道沿いに残っていました。ガラス戸に「梅屋」の文字が描かれていました。*1
現在も残る「梅屋旅館」の看板。
谷田川方面(西側)の遠望。
四つ角のバス停のところにある老舗和洋菓子店の玉川堂。
玉川堂は、かつては、「玉川館」という映画館を経営していました。*1
「玉川館」は、現在の和菓子屋玉川堂の裏手にあり、谷田部の海軍の飛行場の航空隊の人たちが沢山来ていたそうです。*2
大福、柏餅など購入。餡子は非常にあっさりとしていて、いくつでも食べれます。
この付近は、旧町名で「内町」と呼ばれていました。
昭和 4 年~6 年の繁盛記によると、内町には、二業の料理旅館が存在していました。*3
P.74
その裏側には「大正十三年七月二十二日建立という建立年月日と,建立に…
橋から少し行ったところが旧梅屋で、現在の梅屋ホテルの前身があった。旅館、料…
「谷田部商人繁昌記」(以下,原文)
谷田部四つ角の交差点近くに、獣霊碑(牛馬の供養塔)が建っています。*1
碑の裏面には、寄付者として、谷田部町料理店として 11名,谷田部町芸妓営業として1名の名前があり、当時の賑わいが想定されます。*1
「大正13年建立」と刻まれています。
周囲は綺麗に整備されています。
P.74
その裏側には「大正十三年七月二十二日建立という建立年月日と,建立に…
今回は、谷田部(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
つくばエクスプレス線みどりの駅からバスで約5分で谷田部四つ角の交差点へ到着です。
交差点の近く。
中華料理店のような店名のですが、理容室です。
地元の方の話によると、創業120年だそうです。
野田銀座※1 の通り沿いのそば店「住吉」。
昭和の商工名鑑*1 や商工地図*2 にも載っている老舗です。
店内。
かつ丼の定食とビールを注文。
P.199
芸妓置屋 中…
かつて野田銀座*1 と呼ばれていた通り。
昭和38年の「野田商工名鑑」によると、この付近には芸妓置屋がありました。*2
国際パブ。
明治~大正の頃は、近くに醸造工場(粕谷第五醸造場)があり、この通りには人車鉄道が通っていました。*3
P.199
芸妓置屋 中…
千葉県野田町全図(大正四年)をもとに作図。
香取神社の北側の十字路。
旅館の入口は交差点の角に面しています。
「馬酔木」。スナック店などでよく見かける屋号です。
北側の道はゆるやかに弧を描いています。
野田市上花輪の香取神社。かつては、この付近に多くの醸造所が密集していました。
境内の奥にある富士塚。3mぐらいはありそうな大きなものです。
麓に安置されている粟嶋大神。
頂上からは、反対側の道路の交差点が望めます。
醤油発祥の地の碑のあるあたりから東側へ延びる通り。
商店だったと思われるお宅。
木造家屋に木製の牛乳箱はよく似合います。
横開きタイプです。
今回は、野田(千葉県野田市)の町並みを散歩します。
野田市街の中心部。野田郵便局の流山街道を挟んだ反対側の路地を少し入ったところに、野田醤油発祥の地の碑があります。
この地は、室町時代に飯田家が初めて野田で醤油を醸造した場所です(碑の案内文より)。
野田市の文化財に指定されています。
鳥居に、茂木房五郎(野田醤油(現キッコーマン)社長)の名が刻まれています。
吾妻神社社殿の左側(道路側)。
富士塚があります。
高さ2m近くありそうな富士塚です。
富士浅間大神。
日本神話に登場する木花咲耶姫(このはなさくやひめ)、邇邇芸命(ににぎのみこと)、磐長姫命(いわながたらしめのみこと)が祀られています。
陸上自衛隊駐屯地の近く、木更津市吾妻2丁目にある吾妻神社。
吾妻神社の祭神は、弟橘媛(おとたちばなひめ)。弟橘媛は、日本書紀に登場する伝説上の英雄「日本武尊(やまとたけるのみこと)」の妃です(吾妻神社 案内板より)。
入口に建つ石柱の側面には、「君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を 見るぞ悲しき」の歌が刻まれています。
社伝には、日本武尊が東征の際。相模から上総へ海を渡ろうとした時、荒れた海に身を投じた弟橘媛の袖がこの近くの海岸に漂着したので、これを納めて吾妻神社を建てたとあります(吾妻神社 案内板より)。
「君不去」=きみさらず=木更津と呼ぶようになったといわれています(きみさらず伝説)。*1
この「きみさらず伝説」にあやかったのでしょうか、吾妻神社には、遊廓寄進の石塔があります。
右側の石塔には、「第一京都樓」と刻まれています(写真右下)。
左側には「第二京都樓」。
木更津遊廓の遊女たちは、開店前のひととき、吾妻へ参詣したそうです。*2
本町四つ角から少し入ったところにある紅雲堂書店。昔の佇まいのままの建物です。
軒下の屋号。
2010年頃から、まち歩きを目的とした鳥瞰図パネルが設置されるようになったためでしょうか。こちらの書店では、木更津町鳥瞰図の販売も行われています。
紅雲堂の位置が記されています。
本町四つ角(中央2丁目)の角に残る看板建築。
「本町通り」には呉服屋などのお店や銀行などが軒を連ね、木更津の商業の中心地として栄えていました。*1
現在の建物は昭和7年に建てられた看板建築です。*1
モダンな外観は今も本町四つ角の目印として異彩を放っています。*1
現在は、時計修理・ラジオメーター・アンティークの専門店「金田屋リヒトミューレ」となっています。(前回(2007年)、訪れたときは、「レディースサークル ひまわり」でした。)
昭和4年の絵図で金田屋洋品店のところが本町四つ角と呼ばれ、ここから南に「九…
木更津市中央1丁目の田面通り(たもどおり)。
かつては田んぼであった通りにたくさんの商店が並ぶようになったことから、「田面通り」と呼ばれるようになりました。*1
交差点の角に3階建ての防火帯建築が建っています。
1階には、「森田屋本店」。
江戸時代からの老舗生そば店です。*1
入口前には、かすれて、ほとんど読み取れない看板が立っています。
生そばの他に、洋食、中華、も。
天ぷらそばとビールを注文。
木更津の街中から久留里へ通ずる街道は近郷からの人々で賑わい、かつては…
今回は、木更津の町並みを散歩します。
木更津市中央1丁目にある選擇寺。
境内の奥まったところに、こうもり安の墓があります。
「こうもり安」は、木更津の油屋「紀の国屋」の次男として生まれ、男ぶりがよく、天性の美声に加え金回りもよく、花柳界の寵児と言われるほどの人物でした(案内板より)。
「こうもり安」は、歌舞伎「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の主人公の与三郎※1 の相棒(脇役)としておなじみでした(案内板より)。
昭和6年に、チャップリンの「街の灯」の主人公を「与話情浮名横櫛」のこうもり安に当てはめた「蝙蝠の安さん」が初演されました。
気象大学校近くの狭小建物。
長屋風の共同建物です。写真右奥は、東武野田線の踏切。
居酒屋、スナックなどが連なっています。
建物の裏側。わずかに曲線を描いています。
JR南柏駅から徒歩10分。松が丘団地へ向かう途中の寺院の敷地に重要文化財となっている街路灯(レトロ電柱)が保存されています。
電柱は柵で囲まれ、隣には、教育委員会の説明板があります。
プレートの文字も読め、保存状態は極めて良好です。
蓋を開けた中には、スイッチが納められています。
商店街の脇道を入ったところにあるカラオケスナック。
その奥に、質店の暖簾が見えます。
質店の看板。
質店脇の路地。
柏駅西口から北側へ柏市立柏第一小学校向かう方向に、柏一小通り商店街が連なっています。
商店や居酒屋などが建ち並びます。
スナック「トミー」。「コーヒー」とも書かれていますが、飲食業柏連合会のホームページでは、業種は居酒屋となっています。
柏第一小学校側から。