富山(総曲輪通り)モガ・モボからやがてエロ・グロの時代へ

富山市街の商店街の総曲輪(そうがわ)通りは、長さ約450mの商店街で、アーケードの両側には、商店、飲食店が並びます。

大正中頃から昭和にかけて、繁華街につきものの食堂やカフェーが開店し、総曲輪通りは賑わいを見せました。昭和4年には、県内のカフェーは200軒、女給は563人を数え、モガ・モボからやがてエロ・グロの時代へと移ろいましたが、昭和2桁になると軍国化の波に飲まれて、赤い灯青い灯りは街からひとつずつ消えていきました。*1

ウスイ時計店のあたりには、カフェー・ユニオンがあって、女給7~8人で、女のサービスよりもむしろ料理に重点を置いていました。*1*2

トラヤ帽子店があったあたりには、カフェー「万歳」は、3階建ての堂々とした店で、女給も10人以上いました。*1*2

【参考文献】
*1 堀江節子:総曲輪物語(桂書房,2006)P.2,P14-P15,P.72-P.73「昭和34年発行の富山・高岡市住宅詳細図より総曲輪付近」
*2 八尾正治,水間直二,山岸曙光:総曲輪懐古館(巧玄出版,1977)P.113-P.114

参考文献

参考記事

富山(新世界)古びた横丁

いたち川にかかる東橋の西側。
古びた横丁があります。

「全国女性街ガイド」に名前の出てくる「新世界」の看板が掲げられています。*1

現在の居酒屋屋スナックが営業中です。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く2(自由国民社,2002)P.122-P.123

参考文献

参考記事

富山(犬糞看板)鼬川沿い

いたち川沿いの遊歩道は、散歩に最適です。

犬の散歩も多いため、あちこちに犬糞看板が立ってします。

犬糞看板は、町内会によってさまざまです。

「厳禁」と2文字だけの看板。

参考文献

参考記事

富山(石倉町商店街)東新地花柳街への通路

石倉町商店街は、道幅は狭いが、富山の中心地から東新地花柳街への通路にあたるいわゆる「東の道」の繁華の地でした。

終戦後9か月目の昭和21年5月1日、石倉商店街に富山座が開業しました。富山座は、戦前の長い歴史を持つ「新富座」と「大正座」の後を受けて、劇場として21年間も続きました。富山座は、地元富山の自主演劇活動に場所を提供した他、東京の歌舞伎もよくやってきました。もう一つの目はストリップで、昭和23年から空気座の「肉体の門」が来演。俗にパンパン劇といわれ、大衆に迎えられました。

タイルの円柱を持つ建物。

泉橋からみた石倉町商店街。

【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.198-P.203

参考文献

参考記事

富山(八清楼跡)富山市で一番だった料亭

富山市街を流れるいたち川は、宮本輝の芥川賞作「蛍川」で取り上げられた川です。この川に「花見橋」とい情緒のある名の橋があります。

花見橋の右岸北詰に、料亭の八清楼がありました。八清楼は明治の中頃から大正、昭和の初めにかけて、富山市で一番といわれた大きな料亭で、割烹、旅館、貸座敷、芸妓置屋という、いわゆる三枚鑑札を持っていて、抱え芸妓が5~6人いました。*1

八清楼の向かいには、分家の「八清スピード部」があって、自転車の販売を手掛けていました。*1

上流から見た花見橋。

【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.294-P.296

参考文献

参考記事

富山(遊女の供養塔)善久寺

今回は、富山(富山県富山市)の町並みと風俗を散歩します。
いたち川沿いには、遊廓や岡場所が散在していました。岡場所は私娼地で町の出入口や街道沿いに発生し、明治の初めまで、稲荷町、北新町、辰巳町などにありました。稲荷町は、藩庁から「女持旅籠」の免許を持っていたので、岡場所とはいえませんが、平旅籠と町屋が混在していました。*1

稲荷町の中心にある北陸街道から北に入ったところに善久寺があります。

墓地の一番奥まったところに、一基の自然石の供養塔が建っています。表の文字は「蓮の露」と記されています。*1

裏面には、「慶応四年戊辰七月茶屋仲間」と刻まれています。この石碑は、美しい遊女が殿様に見染められて身ごもったが、難産で母子ともに相い果てたので、それを悼んで建てられたものです。*1

【参考文献】
*1 原義三郎,中川達:鼬川の記憶(桂書房,2004)P.266-P.267

参考文献

参考記事

黒部(琴平社)旧遊廓内の稲荷神社。

三日市の桜町の旧遊廓内にある稲荷神社の琴平社。

境内には狛犬が鎮座しています。

狛犬の台座。「三日市検番組合」と読めます。

昭和十一年の建立です。

参考文献

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黒部(桜町の寿司店)かつては芸者さんで賑わいました。

かつての特殊飲食街の桜町にある寿司店。

朝日旅館(旧朝日楼)へ続く通り。

当時は、夜の11時頃になると客を連れた芸者さんで賑わったそうです。

にぎり寿司と日本酒を注文。

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参考文献

参考記事

黒部(特飲街跡)現在は料亭になっています。

桜町の北側の一画。一富士楼があったと思われるあたり。

現在は、料亭の一富士になっています。

長開楼、八本楼、大黒楼、帝石楼があったあたり。

八本楼付近には、古い建物は、現在は印刷所の事務所となっているようです。

参考文献

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黒部(旧朝日楼)三日市特飲街跡。

明治10年代頃から、黒部の三日市では、婦女に接待させる特殊飲食店ができ始め、第一次世界大戦終結の大正8年頃には、桜町を中心に、置屋、料亭あわせて20数軒ができ、繁栄を極めました。これは、明治になって産業が発達するにつれて、社交機関として利用され、他方農村の糸挽夜業宿がなくなり、青年の楽しみがなくなったためでもありました。*1

大正15年の市街図「三日市町案内」*2 によると、写真の朝日旅館は、旧朝日楼で、朝日楼の周囲には、石塚飲食店、朝日楼、みゆき楼、篭辰楼、長和亭、八木支店、中町屋、吾妻楼、大黒楼、金米楼、長開楼、八本楼、大黒楼、帝石楼、開花楼、荻野亭、がありました。

地元の方の話によると、朝日楼は、桜町の中では最も大きく、魚津の遊廓に引けを取らなかったそうです。

建物の裏側。



【参考文献】
*1 森田良作:黒部市荻生郷土史(森田良作,1980)P.122
*2 三日市町協賛会:我が三日市町(三日市町協賛会,1926)「三日市町案内」

参考文献

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黒部(東三日市駅)日本の名駅舎

黒部市街の東側に位置する東三日市駅。富山地方鉄道の黒部駅の隣の駅です。

風情のある駅舎です。

簡素な改札口。

富山地方鉄道は、特色のある車両が残っています。

参考文献

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黒部(ブロンズ像)駅前

今回は、黒部(富山県黒部市)の町並みと風俗を散歩します。
あいの風とやま鉄道線(旧JR北陸本線の一部)黒部駅前。

駅前の女性のブロンズ像が立っています。

黒部出身の彫刻家の浦山一雄さんの作品です。

側面から。

参考文献

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泊(立小便禁止看板)←公衆トイレ

朝日町荒川の近く。朝日町が作成したユニークな立小便看板があります。

近くに飲み屋横丁(写真右奥)があるので、立小便をする人がいるのかもしれません。

近くの公衆トイレへ誘導します。

公衆トイレは、ここから100mぐらい先(写真右奥)です。

 

参考文献

参考記事

泊(月見家)神田新地

置屋*1 のすぐそばの料亭「月見家」。料亭街は庶民の憩いの場所でした。*2

風情のある佇まいです。

料理屋だったと思われる「富士見軒」。

重厚な建物です。

【参考記事】
*1 風俗散歩(泊):泊料亭協同組合(2017.5)
【参考文献】
*2 読売新聞(2005.11.17)富山版 P.34「ひと紀行」

参考文献

参考記事

泊(新地創立記念碑)大正七年八月建立

神田新地と呼ばれている朝日町神田町の泊料亭組合*1 の前庭に「新地創立記念碑」と大書された石碑があります。*2

この石碑は、戦前の廃娼運動の高まり、戦争期、戦後の混乱期、そして赤線廃止という時代の波のなかに一度は解体され、長い間草木の仲に埋もれていましたが、昭和56年に泊料亭組合が現在地に移転したもので、移転時の組合員の名を刻した副碑が沿えてあります。*2

碑は、正面に「新地創立記念碑」右に「明治三十二年九月創立」左に「大正七年八月建立」と記されています。大正7年に神田新地ができてから20年になることを記念して当時の人達が建立したものです。*2

台座の正面から左にかけて創立者の名前が記されており、まだ左の面には、大正七年の建立世話人の名前が刻まれています。*2

【参考記事】
*1 風俗散歩(泊):泊料亭協同組合(2017.5)
【参考文献】
*2 森野稔:神田新地物語(森野稔,1991)P.2-P.3,P.24-P.25

参考文献

参考記事

泊(泊料亭協同組合)神田新地

今回は、泊(富山県下新川郡朝日町)の町並みと風俗を散歩します。 富山県内の東端に位置する朝日町の中心部にある泊駅は、その名の通り、かつて宿場町として栄えたところです。*1


泊料亭協同組合の建物。


100年以上の歴史を持つ「泊芸妓」は現在も伝統を受け継いでいます。*1

料亭の建築らしい丸窓。


【参考文献】
*1 読売新聞(2005.11.17)富山版 P.34「ひと紀行」

参考文献

参考記事

本牧(泉湯)入口にステンドガラス。

本牧の繁華街の北側。見晴トンネルの近くの閑静な住宅街。

細い道の奥まったところに銭湯の泉湯があります。

昔ながらの銭湯の佇まい。

ステンドガラスと暖簾。

参考文献

参考記事

本牧(大丸谷のチャブ屋街跡地)現在のJR石川駅近く。

チャブ屋の語源は、軽飲食店を指す「CHOP HOUSE」とされ、港の人力車夫たちの間で転訛していきました。これが明治初年のことで、大正年間、本牧小港*1 と大丸谷(おおまるだに)の2ヶ所に統合され、震災後は日本人の客も出入りするようになりました。*2

大丸谷のチャブ屋街は、現在のJR石川駅からすぐのところにありました。*2
1956年の住宅地図*3 によると、この付近には「バーオリエンタル」がありました。

「HOTEL第一」「HOTEL横浜」があったあたり。*3

この交差点の角には、「旅館ヒーロー」がありました。*3

淡谷のり子が歌った「別れのブルース」は、作曲家の服部良一が、私娼窟が密集している本牧のバーで洋酒を傾けていたときに思いつき、藤浦洸が作詞しました。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の 灯が見える....」*4

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):本牧小港のチャブ屋街跡地(2009.5)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*3 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*4 吉武輝子:別れのブルース(小学館,2003)P.205-P.206

参考文献

参考記事

本牧(ホテル近くの喫茶店)商業ビルの1階。

本牧町2丁目の「横浜ロイヤルホテル」*1の南側。

チャブ屋街だった頃は、「ルビー」という名のホテルがあった場所です。*2
現在は、商業ビルの1階に喫茶店が営業中です。

落ち着いた雰囲気の店内。

ナポリタンとビールを注文。

【参考記事】
*1 風俗散歩(本牧):チャブ屋街の名残(2017.5)
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)

参考文献

参考記事

本牧(チャブ屋街の名残)屋上に自由の女神像。

戦後営業を再開していた頃の本牧チャブ屋街。本牧町2丁目に名残があります。*1

横浜ロイヤルホテル。(昭和31年の住宅地図*2 では「ロイヤルパーク」)
この付近は、チャブ屋と思われるホテルが密集していました。*2

ホテルの屋上に設置されている自由の女神像。

自由の女神が立つホテルを見ていると、大正時代のチャブ屋が並ぶ町の姿が想像できます。*3

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,1998)P.70-P.71
*2 経済地図社:中区明細地図(経済地図社,1956)
*3 川本三郎:我もまた渚を枕(筑摩書房,2009)P.64

参考文献

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本牧(本牧十二天緑地)戦後は米軍が接収。

今回は、本牧(神奈川県横浜市)の町並みと風俗を散歩します。本牧十二天緑地は、横浜開港以来、外国人が訪れるようになった風光明媚な浜辺です。現在、その場所は公園になっていて、案内板が建っています。

戦後は、米軍に接収され、十二天山の上部には、給水タンクが設置されました。

案内板に掲示されていた「横浜全図(明治3年)」。
横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本牧の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。*2

十二天山の遠望。
本牧の海は、かつては十二天の海とも呼ばれ、外国人居留民は、この海で海水浴を楽しみました。それが次第に日本人の間にも伝わり、海辺には、茶店や脱衣場が開かれるようになりました。やがては酒と女が入り込むようになり、〇〇屋、△△楼と呼ばれていた屋号が、〇〇ホテル、△△ハウスと洋風に改められ、風俗営業へと移行し、明治の中頃に「チャブ屋」と呼ばれるようになりました。*2

【参考文献】
*2 重富昭夫:横浜「チャブ屋」物語(センチュリー,1995)

参考文献

*1
横浜市本牧十二天緑地 案内板横浜市
黒船来航と横浜開港2015

嘉永六(1853)年の黒船の来航と、それに続く安政六(1859)年の横浜開港は、…

参考記事

福富町(アダルト館「北欧」)ラーメン屋の隣。

長者町9丁目。福富町の歓楽街の中心部からは少しはずれたエリアです。

ラーメン店の隣にアダルトショップがあります。

隣は風俗店です。

アダルト館。

参考文献

参考記事

福富町(GMビル)メリーさんが過ごした場所。

福富町のGMビル。外国人専門の高級娼婦だったメリーさんが客を引いていた雑居ビルです。*1

GMビルのエントランス。

夜になると、ピンク色の看板にあかりが灯ります。

クラブなどの店舗が入居しています。

【参考文献】
*1 檀原照和:消えた横浜娼婦たち(データハウス,2009)P.153-P.156
*2 中村高寛 (監督) :ヨコハマメリー [DVD]

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

関内(アートビル)1階にあったベンチはメリーさんの指定席。

福富町(エイトセンター)31の酒の店が集まる夜のコーナー。

福富町の飲食ビル「エイトセンター」。

31の酒の店が集まる夜のコーナーです。

入口から一直線に延びる階段。

夜の様子。

参考文献

参考記事

福富町(長者町八丁目共同ビル)マッサージ店の看板。

長者町の通りに面して建つ長者町八丁目共同ビル。

戦後に建設されたと思われる大規模な商店街共同建築です。

マッサージ店の看板。

長者町の町並みが見渡せます。

参考文献

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福富町(福仲ビル)商店街共同建築。2階と3階は居住部分。

今回は、福富町(神奈川県横浜市中区)の町並みと風俗を散歩します。福富町は、「商店街共同建築」が多く見られる町です。

中心部にある福仲ビル。中心部にある福仲ビル。

2階と3階は居住部分です。

ビルの裏側。

参考文献

参考記事

和田町(呑み屋街)L字型の小路。2階は居住スペース。

和田町駅の南側。和田町商店街沿いの横丁。

1階は、居酒屋や料理店が入居する店舗。2階が居住スペースです。

スナックやカラオケパブ。

西側から。

参考文献

参考記事

和田町(楽天地カフエー)町の発展を促進するために建設。

今回は、和田町(神奈川県横浜市保土ヶ谷区)の町並みと風俗を散歩します。
和田町の楽天地は、昭和6年に町の発展を促進するためにできました。はじめはカフェー(現在の喫茶店)として許可を受け、その後風俗営業として、嘆願書が提出され同年夏に許可されました。
楽天地の設立により和田町の名声と繁栄は浅間町の新天地と趣をかえ、田の中の不夜城となりました。一軒あたりの接客婦は4名程度で客室は3室でした。

現在の和田町商店街付近が、楽天地があった場所です。

「楽天地」の電柱番号札。

当時の略図*1 によると、「きらく」「さわ久」「金港」「みかさ」「わか梅」「かとり」「らくゆう」「いろは」「ちどり」等が軒を連ねていました。

【参考文献】
*1 青木正晴:和田町思考(青木正晴,1971)P.42-P.46
*2 経済地図社:保土ヶ谷区明細地図(経済地図社,1960)P.78

参考文献

参考記事

和田町(横浜温泉黄金湯)天然化石海水型。

和田町駅の西側の仏向町にある横浜温泉黄金湯。

「天然化石海水型」と看板に書かれています。

落ち着いた感じの脱衣場。

風呂釜。

参考文献

参考記事

天王町(大人のおもちゃ店)居酒屋に併設。

天王町の橘樹(たちばな)神社近くの居酒屋。大人のおもちゃ店が併設されています。

店の入口。

上部の大看板。

風情のある木造母屋です。

参考文献

参考記事

天王町(横浜洪福寺松原商店街)朝獲れの鯖。

天王町駅前から旧東海道を北へ進み、国道16号を渡ると横浜洪福寺松原商店街の入口です。

商店街は、歩行者天国になっています。

生鮮品のマーケットが建ち並びます。

朝獲れの鮮魚。

【参考URL】*1 横浜洪福寺松原商店街:公式

参考文献

参考記事

天王町(稲荷神社)新天地カフエー組合寄進の玉垣。

新天地カフエー街の中心部にある稲荷神社*1 玉垣は、新天地カフエー組合が寄進したものです。

第二千鳥、二葉、高砂、ハトバの屋号が刻まれいます。

大和、三笠、三ツ和、ラッキー。

若松、笹本、スカイ。

参考文献

参考記事

天王町(新天地カフエー街跡)稲荷神社近く

稲荷神社*1 の脇の路地にはカフエーが密集していました。左側に「ユカイ」「さつき」「はとば」「三笠」、右側に「ちどり本店」「高砂」「ラッキー」がありました。

現在の岩本ビルの場所には、「岩ふじ」その奥に「いろは」がありました。

北西側の一画。左側に、「第二ちどり」「三好」」「紅梅」、右側に、「岩松」がありました。

「カフエーラッキー」があったあたり。

参考文献

参考記事

天王町(「新天地」の電柱番号札)新天地カフエー街の名残。

今回は、天王町(神奈川県横浜市保土ケ谷区)の町並みと風俗を散歩します。 かつての新天地カフエー*1 の西側。

カフエー時代の名残と思われる「新天地」と書かれた電柱番号札があります。

昭和31年の住宅地図*2 によると、この道路の左側に「カフエーささもと」「カフエー㐂久芳」、右側に、「カフエーちどり本店」「カフエーユカイ」がありました。

「チドリ荘」の電柱番号札。電柱番号札の名称に店の屋号が使われるのは珍しいケースです。

【参考文献】
経済地図社:保土ヶ谷区明細地図(経済地図社,1956)P.64

参考文献

参考記事

上大岡(駅前のラブホテル)国道21号線沿い。

上大岡駅前の国道21号線沿い。旧道と合流する三角形の部分に巨大なラブホテルが建っています。

先端の緑地帯部分の看板。

京急線の高架と交差する場所にある狭小ラブホテル。

男女の看板。

参考文献

参考記事

上大岡(スナック店)かつての花街。派手な外装のスナック店。

花街だった大久保地区の通り。

スナック店が連なっています。

かつては料亭街だったあたり。

派手な外装のスナック店。

参考文献

参考記事

上大岡(花街跡)昭和10年頃が全盛。終戦後は米兵も出入り。

今回は、上大岡(奈川県横浜市港南区)の町並みと風俗を散歩します。 大正の終わり頃から戦後の昭和33年まで、上大岡駅から大岡川を挟んだ大久保(旧久保村)の地に花街がありました。その発端の記録は、大正11年に久保地区から神奈川県に真金町遊廓の移転先として提出された請願書で、その後、正式に「三業地」として指定され、昭和10年頃には芸妓屋、待合、料理屋が30数件もできて大いに賑わいました。花街は、戦局の悪化に伴って営業停止となりましたが、終戦後は米兵も出入りし再び賑わいを取り戻しました。大久保の花街は、昭和33年の売春防止法により、街の灯が消えました。*1


現在、花街があった大久保地区は、スナックが散在する住宅街になっています。


料亭「君の星」があったあたりは、現在は駐車場になっています。*1


料亭「竹の家」があったあたり(現在の佐藤歯科)。*1

【参考文献】
*1 港南歴史協議会:こうなんの歴史アルバム(港南歴史協議会,2010)P.30-P.31

参考文献

参考記事

磯子(浜マーケットの公衆トイレ)同じ形のトイレが二つ。

浜マーケットの頭上に「TOIRET」の看板。

トイレへは狭い通路を進みます。

同じ形のトイレが二つ。まるで鏡に写したように対峙しています。

天井部分。

参考文献

参考記事

磯子(浜マーケット)戦後の闇市が発展してできました。

国道16号線沿い、バス停「浜」の近くに、浜マーケットがあります。 浜マーケットは、戦後の闇市が発展してできました。 戦後まもなくの昭和20年(1945年)の暮れ頃、戦時中に戦車が通れるように作ってそのまま空地になっていた 「疎開道路」の一部分に、10軒ほど店が並んだのが、浜マーケットの始まりでした。*1


食料品や日用品の店が並んでいます。


闇市の頃の雰囲気が残っています。


反対側の出口。

参考文献

*1
浜マーケット「浜マーケット」公式ページ浜マーケット リンク

参考記事

磯子(花街跡地)旧芦名川河口近く。

磯子の花街は、今のバス停「浜」から磯子区役所の南まで海浜に沿って料亭が並び、独自な風情がありました。旧芦名川河口(現在の芦名橋公園)近く。16線から東へ入ったあたり。現在のマンション「ナイスアーバン磯子」のあたりに磯子検番がありました。*1

料理屋「磯川」があったあたり。*1

この付近には、料亭「竹みどり」「浜の家」がありました。

料亭「中志満」があったあたり。

【参考文献】
*1 葛城峻:やぶにらみ磯子郷土誌(2014,磯子区郷土研究ネットワーク)P.113-P.117

参考文献

参考記事

磯子(レトロ電柱)花街の入口。1本だけだけ残っています。

磯子の葦名橋近く。かつての磯子の花街の入口にあたる場所に、レトロ電柱が1本だけだけ残っています。


しっかりと建っています。


街路灯として、現在も使用されているようです。


電柱の中央部のプーレート部分。何と書かれていたのでしょうか。

参考文献

参考記事

磯子(ジュータンスナック)八幡橋近く。

八幡橋近くの長屋の建物。


レトロ屋中華屋さん。


中華屋の隣にあるジュータンスナック。


その隣には、和風スナック。

参考文献

参考記事

磯子(久木町の理容店)鮮やかな水色の看板。

磯子区久木町の住宅街。


レトロな理容室。


鮮やかな水色の看板に、サインポールが映えます。


店の前に置かれている鉢植えも水色に統一されています。

参考文献

参考記事

磯子(丸山市場)美空ひばりの生家の近く。

磯子の八幡橋から横須賀街道を北上した横浜市電保存館の近くに丸山市場があります。


小規模な市場ですが、昭和の雰囲気が色濃く残ります。


歌手の美空ひばりさんの生家は、この付近にありました。*1


東側の入口。

【参考文献】
葛城峻:やぶにらみ磯子郷土誌(2014,磯子区郷土研究ネットワーク)P.220

参考文献

参考記事

磯子(八幡神社の石碑)磯子二業組合の名。

今回は、磯子(神奈川県磯子区)の町並みと風俗を散歩します。 JR根岸駅から東へ約500m。八幡橋近くにある八幡神社。


境内にある大きな石碑。上部に鉄球が載っている奇妙な形のです。


磯子「二業組合」「芸妓組合」の名が刻まれています。


磯子二業組合の組合長の葦名金之助などの名前が刻まれています。

参考文献

参考記事

平塚(よねの湯)特殊な形状の煙突。

平塚市立野町にある銭湯のよねの湯


郊外の住宅地の中にある銭湯です。


水色の暖簾をくぐると、男湯と女湯で左右に分かれています。


煙突。上部が火の見櫓のような特殊な形状をしています。

参考文献

参考記事

平塚(看板の残る廃屋)スナックの入口。

平塚市街を横断する国道一号線。崇善小学校交差点に廃屋の建物があります。

カー用品店の看板とギター教室の看板が残っています。

タレントの小倉優子の看板。

建物の側面には、スナックのような入口。

参考文献

参考記事

平塚(寿司店)旧平塚遊廓近く。40年前から営業。

旧平塚遊廓の南側。

寿司店。

40年前から営業している店です。

ちらし寿司とビールを注文。

参考文献

参考記事

平塚(震災遭難者供養碑)平塚貸座敷組合が建立。

旧平塚遊廓の東端にある大鷲神社。


祠の脇に、震災遭難者供養碑があります


大正12年の(1923年)の関東大震災によって、平塚の花柳街、平塚遊廓は全半壊し完全なる家屋はありませんでした。被害を受けた平塚の遊廓は、復興に着手し、震災以後の平塚の妓楼は、福岡楼、新笹楼、相模楼、旭楼、東楼、平田楼、京友楼、金鱗楼、蛭子楼、第一松栄楼、第二松栄楼の11軒で、娼妓は130人が在住していました。*1


震災遭難者供養碑の裏側には、「平塚貸座敷組合一同」と刻まれています。

【参考文献】
今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 104-P.105

参考文献

参考記事

平塚(特殊カフエーの名残)看板、鬼瓦。

旅館「うろこや」があった場所には、特殊カフエーの「金鱗」がありました。*1*2

ウロコ(鱗)駐車場。

特殊カフエー「東」があったあたり。*2

「東」の鬼瓦。

【参考文献】
*1 明細地図社:平塚市明細地図(明細地図社,1967)P.38
*2 今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 128-P.129(特殊カフェーの屋号と経営者姓名の並び順の記載)

参考文献

参考記事

平塚(平塚遊廓跡地)終戦後は進駐軍の特殊慰安施設が作られました。

今回は、平塚(神奈川県平塚市)の町並みと風俗を散歩します。 平塚遊廓は、現在の大鷲神社(平塚2丁目)の西側に一画にありました。*1 平塚遊廓は、昭和20年の米軍の空襲によって跡形も無くなり、終戦後、旧遊廓には、進駐軍の特殊慰安施設が作られました。昭和21年以降、旧遊廓は赤線区域となりました。*2

平塚の特殊カフェーは、大鷲神社の隣から東から西へ豊香、松葉、松栄、武蔵、喜本、千代本、相模、笹屋(以上、道路の北側)、道路の南側には、東から寿、組合事務所、都、金鱗、東、旭、福岡、村田、と建ち並んでいました。

売春防止法施行後、これらの特殊カフェーの一部は、旅館に転業したと思われ、昭和42年の住宅地図には、カフェーと同名の屋号の旅館も確認できます。写真は、旅館むさしがあったあたり。

この付近には、旅館きみの、旅館ともき、旅館ひさのやの3軒がありました。

遊廓の裏通り。

【参考文献】
*1 平塚市博物館市史編さん担当:平塚市史(平塚市,2011)附図「平塚復興都市計画図」
*2 今泉義廣:平塚花まち色まち物語(湘泉堂,2007)P. 122-P.129
*3 明細地図社:平塚市明細地図(明細地図社,1967)P.38

参考文献

参考記事

久慈(寿湯)男湯と女湯の間に螺旋階段のある珍しい建物。

久慈の歓楽街の北側(久慈市巽町1丁目)にある銭湯の寿湯。

建物の中央部分(男湯と女湯の間)に螺旋階段のある珍しい建物です。

入口部分のタイルの装飾。

裏側から見た銭湯の外観。大きな建物です。

参考文献

参考記事

久慈(スナックビル)ビルの中央に通り抜けのできる横丁。

久慈市本町1丁目。

小規模なスナックビル。

看板が密集しています。

ビルの中央は通り抜けのできる横丁です。

参考文献

参考記事

久慈(丸窓のあるスナック店)久慈の歓楽街。

久慈の歓楽街は、巽町1丁目の北東と本町2丁目の北側に集まっています。

丸窓のモダンなデザインのスナック店。

建物の右側に別の店の入口への通路があります。

通路を進むと、スナック店の入口です。

参考文献

参考記事

久慈(遊廓跡地)道路がクランク状になっている先。


久慈の市街を西側の荒町(道路がクランク状になっている先)。
「大正末期の久慈町見取図」*1*2 によると、荒町には、いろは楼、みどり楼、ゑびす楼がありました。

遊廓があったと思われるあたりには、現在、旅館(ビジネスホテル)が2軒あります。

ビジネスホテル「いろは」。「いろは楼」の名残でしょうか。

当時の遊廓内のにぎわいを撮影した写真によると、ビールは「日本ビール(ニッポンビール)」でした。*2

【参考文献】
*1 久慈市史編纂委員会:久慈市史 第3巻 通史.近代(久慈市史刊行会,1998)
*2 久慈青年会議所:大正末期の久慈 写真集人々とくらし(久慈青年会議所,1978)P.23,P.41

参考文献

参考記事

久慈(喫茶「モカ」)喫茶兼スナックの「リアス」のモデル。

久慈駅近くにある「喫茶モカ」。 連続テレビ小説「あまちゃん」に登場する喫茶兼スナックの「リアス」のモデルとなったとされる喫茶店です。*1*2

店内には、あまちゃんの出演者のサイン色紙などが多数あります。

名物のナポリンタンを頂きました。

もう一つの名物のたまごサンドをテイクアウト(JR八戸線の車内にて)。

【参考文献】
*1 おとなの週末 11巻 12号 通巻134号 (2013年12月)P.74-P.75
*2 岩手日報(2016.9.15)

参考文献

参考記事

久慈(駅前デパート)NHK連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台。

今回は、久慈(岩手県久慈市)の町並みと風俗を散歩します。
久慈のランドマーク的存在の商店街共同建築「駅前デパート」。

2013年度上半期のNHK連続テレビ小説「あまちゃん」の舞台となったビルです。

建物の中央部分に「駅前デパート」と書かれています。

1階のコミュニケーションギャラリー「ひまわり」。

参考文献

参考記事

瀬棚(瀬棚遊廓跡地)大正12年頃に全盛期。サヨナラ橋。

瀬棚遊廓は、明治27年に官許となり、大正12年頃の全盛期には、妓楼6軒、料理屋8軒で、一晩に200~300の標客が訪れました。*1

当時、瀬棚の浜は鰊漁で賑わい、有数の漁場として、また利別平野の農産物の移輸出港として交通が発展しました。遊廓街の入口には、5~6寸の角材の門柱が両側に立てられ、上部に当時としては珍しいガス灯が点され、遊廓街特有の雰囲気がただよっていました。しかし、大正5年の豊漁を最後に次第に不漁となり、遊興業も衰退の道を辿り、昭和になると40年続いた貸座敷業は終焉を迎えました。*2

遊廓の入口付近にあるサヨナラ橋。*2

かつての遊廓通りは、現在ははまなす団地と民家が建ち並ぶ通りになっています。*3*4

遊廓通りの南側からは、立像山の展望台*5 が見えます。

【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海ブックス,1983)P.25
*2 瀬棚町:瀬棚町史(瀬棚町史編纂委員会,1991)P.938,P.945-P.946
*3 林郁夫:懐かしの瀬棚旧地図 昭和9年頃の資料もとに書き起こし(林郁夫,2000)
*4 ゼンリン:北海道桧山支庁(ゼンリン,1991)P.54
*5 風俗散歩(瀬棚):立象山公園(2017.3)

参考文献

参考記事

瀬棚(立象山公園 )展望台からの眺める市街。

今回は、瀬棚(北海道久遠郡せたな町)の町並みと風俗を散歩します。
瀬棚市街から見える立象山。特徴的な形をしています。

立象山の頂上部分は、公園になっていて、展望台からは市街を一望できます。

写真中央奥に見える直線道路の場所には瀬棚遊廓がありました。*1

瀬棚遊廓があった通り。

【参考文献】
*1 川嶋康男:北風に遊女哀歌を聴いた(総北海ブックス,1983)P.25

参考文献

参考記事

室蘭(老舗そば屋)裏浜町。昭和の初期から続く老舗です。

裏浜町の通り。

そば屋の「更科」。昭和の初期から続く老舗です。

落ち着いた雰囲気の店内。

天ぷらそばと日本酒を注文。

参考文献

参考記事

室蘭(裏浜町の料理屋の建物)其の筋のお達しにより、二十歳未満の方の御入店固くお断り。

裏浜町の繁華街。

古い料理屋の建物が残されています。

「味の一平」の屋号。

其の筋のお達しにより、二十歳未満の方の御入店固くお断り致します。

参考文献

参考記事

室蘭(裏浜町に抜ける小路)かつての私娼窟。地下街「ランランタウン」。

昭和のはじめ、浜町界隈にあった私娼窟、いわゆる”ゴケ屋”は、小公園から拓銀室蘭支店(現在、コンビニのローソン)までの右側の小路に散在し、特に多いのは、「浪花」(現在、哲屋中央店)から国道へ抜ける小路、元大国館(写真左側)前から裏浜町に抜ける小路、裏浜町の多田薬局から郵便局までで、店の数は約45軒ぐらいといわれていました。*1

元大国館(写真左側)前から裏浜町に抜ける小路。

「地下街ランランタウン」の入口。

昭和の雰囲気が残る焼き鳥屋。

【参考文献】
*1 平林正一,久末進一:聞き書室蘭風俗物語(袖珍書林,1986)P.145-P.146

参考文献

参考記事

室蘭(浜町の小路)大衆的な歓楽街。現在の浜町の室蘭郵便局の南側。

札幌の薄野遊廓が栄えたおかげで、もっと大衆的な狸小路が出現したように、幕西遊廓ではちょっと遊べない庶民が楽しめる、より安価で大衆的な歓楽街が浜町で、”三等小路”と呼ばれた私娼街もありました。*1
現在の浜町の室蘭郵便局の南側に、スナックが密集する一画があります。

道幅の狭い小路が続きます。

オレンジ色のドア。

ゆりちゃん。

【参考文献】
*1 平林正一,久末進一:聞き書室蘭風俗物語(袖珍書林,1986)P.120

参考文献

参考記事

室蘭(幕西遊廓跡地)幕西の坂の上部。石垣が残る旅館跡地。

遊廓があった幕西坂の上部。*1

「赤線跡を歩く.完結編」*1 に掲載されている石垣が残る旅館跡地(旧旅館「ふみの」)。かつての鈴木楼、栄太楼があったあたりです。*2*3*4

清川楼(旧旅館「清川」)があったあたり。*2*3

幕西坂の上部からの遠望。

【参考文献】
*1 木村聡:赤線跡を歩く(自由国民社,2007)P.40-P.41
*2 平林正一,久末進一:聞き書室蘭風俗物語(袖珍書林,1986)P.75-P.77
*3 日本地図編集社:室蘭市住宅明細地図 (日本地図編集社,1961)P.3-P.4
*4 室蘭商工会議所:室蘭商工名録(室蘭商工会議所,1940)P.151(0146)

参考文献

参考記事

室蘭(幕西遊廓跡地)幕西の坂の途中。”人殺し坂”の異名。

今回は、室蘭(北海道室蘭市)の町並みと風俗を散歩します。 室蘭の遊廓は、幕西(まくにし)の坂にあって、明治5年の札幌本道工事に従事した数千人の男たちが、終始この場所に通い、殴り合いのけんかが絶えず、幕西坂は”人殺し坂”と異名をとるほどでした。*1
室蘭の遊廓は、幕西(まくにし)の坂にあって、明治5年の札幌本道工事に従事した数千人の男たちが、終始この場所に通い、殴り合いのけんかが絶えず、幕西坂は”人殺し坂”と異名をとるほどでした。*1

坂を上っていくと、右手の坂道途中に室蘭八幡宮神社の裏階段があって、「室蘭見番」事務所(写真右側)と座敷「菊栄楼」(写真左側)が階段を挟んでありました。*2

坂道の左手には、「菊栄楼」に対面して「富山楼」(後の割烹「粋月」の位置3 、現在は、プリンスホテル駐車場)があり、その奥に「芸備楼」がありました。2*4

南側の奥には、老舗の蛇の目楼(後の割烹「常盤」3 の位置)がありました。2

【参考文献】
*1 室蘭市:広報むろらん(2011.11)P.4
*2 平林正一,久末進一:聞き書室蘭風俗物語(袖珍書林,1986)P.75-P.77
*3 日本地図編集社:室蘭市住宅明細地図 (日本地図編集社,1961)P.3-P.4
*4 室蘭商工会議所:室蘭商工名録(室蘭商工会議所,1940)P.151(0146)

参考文献

参考記事

苫小牧(松乃湯)苫小牧橋の袂にある銭湯。

浜町の苫小牧橋の袂にある銭湯の松の湯。

苫小牧で現在も残る数少ない銭湯のうちの1軒です。

北海道らしい佇まいです。

夜の様子。

参考文献

参考記事

苫小牧(遊廓跡地)浜町。王子製紙の進出に伴い繁栄。

苫小牧の遊廓は、当初は幸町にあって、王子製紙の進出に伴い繁栄しました。その後、大正10年5月1日の大火を契機として、遊廓は、大正11年末に浜町に移転しました。*1

この交差点の角(写真右側)には、元「寿楼」の旅館「山水館」がありました。遊廓が廃止されたのちは、王子製紙の社宅アパート「碧水荘」*2 を経て「山水館」となりました。現在は閑静な住宅街になっています。*3

大正楼があったあたり。大火後の新設遊廓地には、12軒の貸座敷が入って経営を開始しましたが、昭和に入って経済状況が悪化し昭和6年には、開月楼、深川楼、寿楼、大正楼、栄盛楼、松月楼、大和楼の7軒だけとなりました。*1

遊廓街の南側の通り。海側(写真左側)は漁家でした。*1

【参考文献】
*1 苫小牧市:苫小牧市史(苫小牧市,1976)P.198-P.199,P.202-P.204,「浜町遊廓街略図(昭和9年)」
*2 住宅地図出版社:苫小牧市(1969,住宅地図出版社)P.37-P.38
*3 山本融定:苫小牧・東胆振今昔写真帖(郷土出版社,2011)P.45-P.46

参考文献

参考記事

苫小牧(長屋風の建築)新一條通り。カラフルなスナックの建物。

新一條通りから、北へ折れた飲食街。

長屋風の建築。

カラフルなスナックの建物が連なります。

建物の北側。

参考文献

参考記事

苫小牧(新一條通り)「親不孝通り」と呼ばれた通り。

今回は、苫小牧(北海道苫小牧市)の町並みと風俗を散歩します。

苫小牧の繁華街は、駅の南側の錦町に集中しています。大通りの一本北側に、「飲食店街 新一條通り」と書かれたゲートがあります。

新一條通りは、通称・親不孝通りとよばれる小路で、かつては多くの飲食店が並ぶ夜の繁華街でした。

戦後、親不孝通りには、「乙女」「都」「君万歳」などが特殊飲食店として赤いネオンの灯をともしました。*2

【参考文献】
*1 山本融定:苫小牧・東胆振今昔写真帖(郷土出版社,2011)P.42
*2 苫小牧市:苫小牧市史(苫小牧市,1976)P.207-P.208

参考文献

参考記事

磐田(中泉歴史公園の公衆トイレ)心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。

中泉歴史公園にある公衆トイレ。お洒落な形状です。

清潔感のあるトイレです。

大便器の前に掲げられている標語。心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。

標語の上部に「急ぐとも」の落書き。つなげると、五・七・五・七・七の短歌になります。
急ぐとも・心静かに・手を添えて・外に零すな・松茸の露。

参考文献

参考記事

磐田(中泉遊廓跡地)秋鹿屋敷内を借用し建設。

中泉遊廓があったあたり。手前から、第三常盤楼、三浦楼、第二常盤楼、第一常盤楼と並んでいました。*1

西側の高台からの遠望。

北側から。東側(写真左側)には、磐田日活がありました。*1

中泉歴史公園の入口付近には、公園の歴史について詳しく書かれています。それによると、遊廓は、遊廓は大正8年頃に、秋鹿屋敷内を借用し建設されました。この遊廓は戦後に娼婦制度が廃止(売春防止法施行)された後、小料理店や旅館へと転向し、平成に入ってからは皆解体されました。

【参考文献】
善隣出版社:磐田市住宅地図(善隣出版社,1969)

参考文献

参考記事

磐田(中泉歴史公園)門柱に使用されていた石柱は、現在は公園のベンチ。

磐田市田町にある中泉歴史公園は、中泉の郷士(江戸時代の武士階級)であった秋鹿(あいか)家の庭園だった場所で、公園内には、扇子池があります。*1

公園に設置されている案内看板。

中泉には、明治30年に遊廓が設置され、昭和の初期の貸座敷には、常盤楼、新常盤楼、三浦楼、森徹栄、などがありました。*2
1969年の住宅地図*3 には、現在の中泉歴史公園の北側に、森幸一、第一常盤楼、第二常盤楼、三浦楼、第三常盤楼の名があります。
このうちの1軒であったと思われる建物の入口の門柱の写真が掲示されています。

門柱に使用されていた石柱は、現在は公園のベンチとして使用されています。

【参考文献】
*1 磐田史談会:磐田ものがたり(谷島屋書店,1988)P.34-P.35
*2 日本遊覧社:全国遊廓案内(日本遊覧社,1930)P.219(0115)
*3 善隣出版社:磐田市住宅地図(善隣出版社,1969)

参考文献

参考記事

磐田(ミニクラブ)和風の建物です。中泉の西町の通り沿い。

今回は、磐田(静岡県磐田市)の町並みと風俗を散歩します。 中泉の西町の通り沿いにあるクラブ。

和風の建物です。

入口付近。

姫ちゃんの看板。

参考文献

参考記事

浜松(夏目食堂)地元の餃子屋さん。客席は2卓。

遠州鉄道の助信駅の東側。中区新津町ある「夏目食堂」。地元の浜松餃子の店です。

老夫婦が2人でやっている小さな店です。客席は2卓しかありません。そのうちの1卓はほぼ荷物で覆われているため、実質は1卓です。

焼き餃子は、1人前300円。持ち帰り餃子(冷凍餃子)は200円です。

焼き餃子とビールを注文。ビールは缶ビールです。

参考文献

参考記事

浜松(ランプ横丁)豚と銭湯。居酒屋の裏口。

浜松市中区田町のランプ横丁。

居酒屋やスナックが連なります。

豚と銭湯をモチーフにした居酒屋の裏口。

逆方向から見たランプ横丁。

参考文献

参考記事

浜松(味の十八番街)中区田町。道幅の狭い横丁。

浜松の有楽街(浜松市中区田町)。

「味の十八番街」の入口のゲートがあります。

道幅の狭い横丁が続きます。

飲み屋と風俗店が混在する通り。

参考文献

参考記事

浜松(門井ビル)ステッキガール生みの親にして育ての親。

浜松市中区田町にある門井ビルは、ステッキガール生みの親にして育ての親である門井襄三(かどいじょうぞう)氏のビルです。*1

門井氏は、”配膳会”という出張配膳婦の組織をつくた人物です。ゆくゆくは第二ステッキガール組織にする気ではないか、といったチマタの声がありました。*1

ビルの5階には、門井薬局がありましたが、開店休業のカタチでした。*1

門井ビルは、浜松市の一等地にあります。

【参考文献】
*1 扶桑社:週刊サンケイ(1971.8.9)P.69-P.71「おいろけ浜松にまた新名物〝出張配膳婦〟ステッキガール育ての親の薬剤師が想も新たに」

参考文献

参考記事

浜松(二葉園跡)ビジネスホテルの裏木戸。「宝来」の屋号。

二葉遊廓は戦災で焼けましたが、戦後いちはやく再建され、不夜城としてネオンの輝きを見せました。入口には、「二葉園」と書かれたがゲートがありました。しかし、このネオンも売春防止法によって昭和33年には灯が消えました。*1 当時の名残の旅館が現在も営業中です。

ビジネスホテルの裏木戸(東側)。

当時の屋号。

「宝来」の屋号が残る看板。

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107

参考文献

参考記事

浜松(二葉遊廓跡)高台に遊廓地を造成。「鴨江旅館街」の看板。

今回は、浜松(静岡県浜松市)の町並みと風俗を散歩します。 浜松の遊廓は、明治から大正にかけて伝馬町と旅籠町にありましたが、市街地の中心にあったため、大正11年に鴨江の高台に集団移転しました。*1
鴨江旅館街の大看板*2 は、現在は撤去されていいますが、「鴨江旅館街平成通り」の看板は、今も残っています。

遊廓跡地の西側。高台に遊廓地を造成したためでしょうか。段差が形成されています。

現在、公園になっている遊廓地の東側とは、レンガ塀で仕切られています。

フタバと書かれたの電柱番号札。

【参考文献】
*1 谷昌志:懐かしの浜松(羽衣出版,2012)P.107

参考文献

参考記事

新居(飲み処かちどき)ボートレース浜名湖。

新居駅北川にある「ボートレース浜名湖」。

入口へ向かう途中に飲み喰い処「かちどき」があります。

店の名物の「かちどき」は、常連さんのほとんどが頼みます。今回はトマト杯でいただきました。

アルコール度数20度。360ml。強烈です。

参考文献

参考記事

新居(小松楼まちづくり交流館)元芸妓置屋。建物の内部は当時のそのままの状態。

今回は、新居(静岡県湖西市新居町)の町並みと風俗を散歩します。 元芸妓置屋の小松楼は、「小松楼まちづくり交流館」として一般に公開されています。

建物の内部は当時のそのままの状態で保存されていて、国登録有形文化財に登録されています。

二階からの眺め。

当時の様子を伝える貴重な資料が展示されています。

【参考URL】
*1 NPO法人新居まちネット:「小松楼まちづくり交流館」公式ホームページ

参考文献

参考記事

大鰐(若松会館)公衆浴場。橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所。

大鰐温泉の入口にあたる相生橋。

橋端の湯「大鰐ホテル」があった場所は、現在は、大鰐若松会館に建て替わっています。

1階は、公衆浴場「若松会館」になっています。

大人入浴200円です。

参考文献

参考記事

大鰐(大鰐見番事務所跡地)昭和40年設立。

売春防止法が施行され、置屋は全面廃止となり、芸妓たちは行き場を失いました。そこで、旅館組合の提案で、昭和35年、芸妓、お酌、民謡など約60名の会員で、大鰐温泉風俗営業連合会が設立されました。この会は、昭和40年、発展的に解消され、大鰐温泉見番組合が設立されました。*1

この付近に大鰐見番事務所がありました。

現在は駐車場になっています。

北側を流れる平川。

【参考文献】
*1 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(大鰐町,1997)P.770
*2 ゼンリン:南津軽郡大鰐町(ゼンリン,1984)P.7

参考文献

参考記事

大鰐(大正5年の「大鰐温泉図」)加賀助旅館の跡地。

今回は、大鰐(おおわに、青森県南津軽郡)の町並みと風俗を散歩します。 大鰐温泉には、明治時代から続く古い旅館(加賀助、後藤、福津(大鰐ホテル)、山二(仙遊館))がりましたが、大正のはじめ頃、「温泉の発展には、料理屋がつきものだ」という持論を持つ外川平八が開拓を進め、大正のはじめ頃に紅灯街「外川町」が形成されました。*1

加賀助旅館の跡地には、大正10年に加賀助旅館に投宿した大町桂月の碑が建てられています。

大正5年の「大鰐温泉図」。翌年の大正6年の大火で相生橋から津軽味噌会社(マルシチ津軽味噌正油)までが全焼しましたが、すぐに復興し、6年後の大正12年には、料理屋は4倍の16軒に大増加しました。*2

特に、福津旅館の後の三階建ての大鰐ホテルや、後藤旅館やいくつかの料亭は、弘前の料亭や旅館を購入し解体して移転し、新式に立派に復興したことが大評判となりました。*2  「外川町」は、大鰐名物、鴈鍋(がんなべ、売春婦の異名)を抱えるあいまい料理屋の集娼地となりました。*3

藩政から明治時代にかけて、鰺ヶ沢4 や深浦の遊女たちは、港に船のいなくなる秋になると4人5人と連れ立って旅立ち、大鰐で稼ぎました。「大鰐のガンナベ」は、渡り鳥のような女たちをもじったものです。ある旅人が「大鰐に行ったらガンナベを食べて来い」といわれ、大鰐駅で「ガンナベはどこで売っているか」と駅員に聞いたという笑い話もあります。2

*1 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.106-P.107 *2 大鰐町:大鰐町史下巻(1)(1997,大鰐町)表紙前の見返し図,P.758 *3 陸奥新報社:陸奥新報(1984.5.4)P.6「津軽紅灯譚252 大鰐の料理屋(上)」 【参考記事】 *4 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)

参考文献

参考記事

木造(佐野商店)ニッポンビールの琺瑯看板。

木造桜川の商店。

歴史を感じさせる大きな木造建築です。

玄関脇のたばこ屋。

酒類の琺瑯看板。
「ニッポンビール」は、「サッポロビール」の前身です。

【参考URL】
*1 サッポロビール(株):公式ホームページ 歴史・沿革

参考文献

参考記事

木造(傾いたスナックの建物)木造千代町。

木造千代町の通りにスナックの建物が連なっています。

建物が傾いています。

スナックの看板。

入口付近。

参考文献

参考記事

木造(音屋食堂)趣のある木造母屋。丸い電灯。

木造有楽町に残る音屋食堂の建物。

入口の丸い電灯。

趣のある木造母屋です。

音屋食堂の看板。

参考文献

参考記事

木造(旅館銀嶺)戦前のカフェー銀嶺を建て替え。

木造町の中心街の有楽町(うらくまち)。

戦前に営業していたカフェー銀嶺は、戦後まもなく食堂喜楽として創業しました。カフェー当時のモダンな建物の一部を利用して営業していたのですが、昭和33年に旅館銀嶺として営業をはじめ、同58年に全面改装して現在に至っています。*1

レストランも併設されているようです。

旅館銀嶺の看板。

【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.116

参考文献

参考記事

木造(遊廓跡地)馬市がさかんだった頃が賑わいました。

木造の松原で馬市がさかんだったのは、明治の末期から大正にかけてで、博労たちの商いはハデなので、付近の遊廓や飲食店が賑わいました。遊廓はクラブ(三貞)大幸、高砂などがありました。*1

伊藤パンがあった場所*2 の近くには、(昭和50年頃まで)当時の遊廓の面影を残す大きな2階建ての家が残っていました。*3

昭和9年の諸統計*4 によると、木造町の遊廓として、大幸楼、岩木楼、高砂楼の記載があります。 この付近には、高砂楼(氏名:竹鼻きぬ)からの転業と思われる「竹鼻アパート」がありました。*2

反対(北西)方向から見た遊廓跡地。

【参考文献】
*1 山上笙介:ふるさとのあゆみ西津軽(津軽書房,1982)P.186
*2 日本住宅地図出版:西津軽郡木造町(日本住宅地図出版,1982)
*3 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28
*4 中村元吉:警察史余話第一集 売春三百年史(中村元吉,1959)P.87

参考文献

参考記事

木造(馬市で繁栄した松原)かつての飲食店街。

木造町松原は、馬市の町として知られ、明治36年、馬市の開設とともに繁栄してきました。陸奥鉄道(現在の五能線の一部)開通前は、弘前から五所川原を経て、馬の尾を手綱でつないで行列を組み、松原入りしました。これに伴い、博労(馬の売買をする人)たちが泊まるマトヤ(馬宿)がたくさんでき、西北畜産農協のそばには、(昭和50年頃まで)マトヤが残っていました。*1

西北畜産農協があったあたり*1 は、現在は更地になっています。

スナックだった建物。

昭和50年頃までは、料飲店や大きな旅館が残っていて、松原というと飲食店街というイメージが残っていました。*1

【参考文献】
*1 陸奥新報(1975.2.24)津軽の町内今昔記28

参考文献

参考記事

木造(神武食堂)駅前の店。人気メニューの担々麺。

今回は、木造(青森県つがる市)の町並みと風俗を散歩します。木造駅の駅舎の外壁には、遮光器土偶が貼り付けてあります。

駅前にある神武食堂。

森沢明夫氏の著書「津軽百年食堂」にも取り上げられた食堂で、煮干し風味の中華そばなどが人気を博しています。*1

人気メニューの担々麺を注文。ボリュームのある挽き肉が特徴です。

【参考文献】
*1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.111

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(白八幡宮の石製女陰)境内には、さまざまな石碑。比羅夫石。

鯵ヶ沢町の白八幡宮。

境内には、さまざまな石碑があります。

「比羅夫石」と称され、阿部比羅夫が腰を掛けて休んだとされます。*1

直径50cmほどのいびつな円型の中央にくぼみがあり、ちょうど女陰のように見えます。*1

【参考文献】
*1 増田公寧:青森県立郷土館研究紀要(2012.3)P.40「青森県における生殖器崇拝資料」

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(水天閣)「割烹中むら」の名が入った徳利。

鰺ヶ沢町本町にあった水天閣は、現在は海側へ50m寄った場所へ移転し現在も営業中です。*1

和風の店内。

鯵ヶ沢の地酒を注文。「割烹中むら」の名が入った徳利です。

鯵ヶ沢名物のヒラメのヅケ丼を注文。

【参考記事】*1 風俗散歩(鰺ヶ沢):割烹「水天閣」跡(2017.1)

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(割烹「水天閣」跡)中村楼の主人が開業。

鰺ヶ沢町本町。写真右奥の木造の建物は、現在も営業を続ける大沢醸造店。昭和20年代、大沢醸造店の隣(写真中央)に、町を代表する料亭である中村食堂(水天閣)の入口がありました。*1

青森銀行鯵ケ沢支店付近に残っていた商工地図には、「中むら」の記載があります。

新地町にあった遊廓の中村楼が、昭和7年の大火により廃業し、その後、この場所で割烹「水天閣」を開業したものと思われます。*2

水天閣は、現在は別の場所に移転しています。

【参考文献】
1 岩崎繁芳:五所川原・つがる・西北津軽今昔写真帖(郷土出版社,2009)P.49-P.50
【参考記事】
2 風俗散歩(鰺ヶ沢):新地町(2017.1)

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(防火用水桶)水色のタイル。浴槽を転用?

漁師町の建物*1 から新地町へ通じる道。

赤線跡を歩く*2 に掲載されている防火用の水桶が残っていました。

鮮やかな水色のタイル。

背面に2つの穴があいています。おそらく、かつて浴槽として使われていたものを防火用の水桶として使用しているのだと思います。*3

【参考記事】
*1 風俗散歩(鰺ヶ沢):漁師町の建物(2017.01)
*3 風俗散歩(富士吉田):タイルの浴槽(2006.8)
【参考文献】
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.60-P.61

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(漁師町の建物)新地町の北側の海沿いの町。

鯵ヶ沢町漁師町。新地町の北側の海沿いの町です。

大間越街道沿いに、古い建物が建ち並んでいます。

大きな木造の建物です。

新地町に通じる道。

参考文献

参考記事

鰺ヶ沢(稲荷神社)かつての遊女町が見渡せます。寄進者に中村楼の関係者。

新地町にある稲荷神社。

昭和13年に建てられた石柱。

寄進者に、中村楼の関係者と思われる中村喜左衛門*1 の名があります。

境内からは、かつての遊女町が見渡せます。

【参考文献】
*1 陸奥新報社:写真でみる弘前市70年(陸奥新報社,1959)P.90(新地遊廓街の写真の説明文に「中村喜左衛門氏所蔵」と記されています。)

参考文献

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鰺ヶ沢(鰺ヶ沢遊廓跡地)津軽の吉原と言われ、遊女町として栄えました。

今回は、鰺ヶ沢(青森県西津軽郡鰺ヶ沢町)の町並みと風俗を散歩します。
鰺ヶ沢の新地は、昔有名な遊廓街でした。藩政時代は、旅人、船頭、荷主たちで賑わい、津軽の吉原と言われました。*1

新地町の標柱。次のように書かれています。「古くは海士町(漁師町)の一部。後町や青楼ともいわれ、元禄16年(1703)の絵図に新地町戸数31とある。鯵ヶ沢の盆踊りの唄「鯵ヶ沢くどき」の中に、「奥州津軽の鯵ヶ沢港、新地開いた狐のくどき」と唄われ、遊女町として栄えた。」

「赤線跡を歩く」に掲載されていた妓楼らしき建物*2 は、無くなていました。

中村楼、西港楼、丸海老楼、一二三館、などの妓楼が建ち並んでいました。*3
中村楼は、新地で随一の遊廓で、200年以上続き、その昔、加賀の豪商銭屋五兵衛が鰺ヶ沢に来た時中村楼に泊り、取引のかたわら豪遊した話は有名でした。*1
中村楼は、昭和7年の大火で新地が焼けるとともに廃業。主人の中村さんはその後、割烹「水天閣」を開業、現在に至っています。*4

【参考文献】
*1 陸奥新報社:写真でみる弘前市70年(陸奥新報社,1959)P.90
*2 木村聡:赤線跡を歩く 完結編(自由国民社,2007)P.60-P.61
*3 東京交通社:大日本職業別明細図 第243号 青森県(東京交通社,1937)
*4 陸奥新報社:わがふるさと第一編(陸奥新報社,1960)P.14

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相良(岡本楼跡地)相良遊廓。後の山本旅館があった場所。

貸座敷の岡本楼(後の山本旅館)は、明治20年に開業。その後、資金を調達し、昭和3年に、千鳥造りの豪華な建築美の建物を完成させ、永く多くの人の話題に上がりました。造作は、大欅の一本で賄われ、二階を含む廊下の縁板は一枚板の見事なものでした。*1

岡本楼(旧山本旅館)があった場所。*2

翌昭和21年に、公娼制度は廃止されましたが、売春そのものは黙認され、岡本楼にも私娼が5,6人就業していました。昭和33年、売春防止法施行により、岡本楼は80年の歴史を閉じ、山本旅館として再発足しました。*1

敷地の裏側の階段の遺構。

【参考文献】
*1 川原崎次郎:城下町相良区史(城下町相良区史刊行会,1986)P.375-P.383
*2 日本住宅地図出版:相良町・御前崎町・浜岡町(日本住宅地図出版,1976)P.23

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相良(遊女屋跡地)相良パーキングの所。廃業後は宿屋業。

今回は、相良(静岡県牧之原市)の町並みと風俗を散歩します。
相良の新町、相良パーキング(菓子長の隣)の所に、蔦屋という遊女屋がありました。蔦屋は近世からの飯盛旅籠で明治期も早い頃からの貸座敷でした。*1

蔦屋が貸座敷を廃業して料理店を始めたのは、明治40年で、その後は宿屋業を営みました。*1

弦波楼は、中川玩具店があった場所*2 にありました。開業は明治16年頃で、昭和2年頃まで続きました。建物は慶応の頃に建てた古物で、階下に一~六番、二階七~十三番までの部屋がありました。*1

現在は、商店街となっており、当時の面影はありません。

【参考文献】
*1 川原崎次郎:城下町相良区史(城下町相良区史刊行会,1986)P.372-P.375
*2 日本住宅地図出版:相良町・御前崎町・浜岡町(日本住宅地図出版,1976)P.23,相良区内全世帯地図

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