水戸市街、南町1丁目の交差点から少し入ったところにある「富士食堂」。
昔ながらの大衆食堂です。
ラーメンから定食まで、幅広いメニュー。
タンメンとビールを注文。はじめに食券を買います。
水戸市街、南町1丁目の交差点から少し入ったところにある「富士食堂」。
昔ながらの大衆食堂です。
ラーメンから定食まで、幅広いメニュー。
タンメンとビールを注文。はじめに食券を買います。
大工町1丁目にある山口楼は、明治五年の創業の会席料理の老舗です。
明治時代、上市(うわいち)の花街は、大工町を中心に鳥見町、裡新願寺、泉町、裡五軒に散在し、鳥鍋、鰻屋、寿司屋などの飲食店も出現し、盛り場となりました。料亭には「中川楼」「山口楼」などが建っていました。*1*2
明治34年間の水戸案内は、市内の割烹18店を紹介していますが、この割烹18店のうち今も栄えているのは、山口楼のみです。*3
山口楼は、現在では大洗町などにも日本料理店を展開しています。*4
P.33
上市にも芸妓
上市の芸妓屋は、大工町を中心に鳥見町、狸新願寺、泉…
P.286
明治34年間の水戸案内は、市内の割烹18店を紹介。中でも垂楊亭は”水戸…
水戸市街の泉町2丁目に、レトロな建物が残る一画があります。
泉町会館は、昭和30(1955)年に建てられました。*1
1階はワインバーと水戸のおみやげ品を製造・加工できる場所に、2階は市民も使うことができるオープンスペースになっています。*1
泉町会館があった場所には、昭和の初め、水戸市警防団がありました。*2
泉町会館は、昭和30(1955)年に建てられました。1階はワインバーと水戸のおみ…
水戸市に警防団が結成されたのは昭和十四年五月。その後の戦時中の六年間、消防…
赤塚氷川神社の富士塚は、板橋の文化財一覧に指定されています。*1
この富士塚が造成されたのは、天保六年(1835)頃と考えられているそうです(案内板より)。
山頂からの眺め。
山頂の祠には、大黒様と恵比寿様がまつられています。
地下鉄成増駅の南。成増1丁目の住宅街。
中華料理「奥州軒」。
ビールを頼んだときに出てくる御新香は、小分けされた状態で冷蔵庫に準備されていて、パックのままでていきます。合理的です。
チャーハンを注文。
今回は、成増(東京都板橋区)の町並みを散歩します。
東武東上線成増駅前の「なりますスキップ村商店街」と「すずらん商店街」をつなぐ通りは、飲食店が連なる繁華街です。
和風の料理屋とスナックが入るビル。
スナックやパブが連なります。
通りの奥まったあたり。この先を左へ曲がると「すずらん通り」にでます。
板橋区宮本町にある「駄菓子屋ゲーム博物館」。
平成17年、板橋区の空き店舗活用コンテストに、館長の岸昭仁さんが、「ゲーム博物館」というアイディアで応募。翌年、現在とは別の場所で期間限定オープン。その後の反響もあり、常設の博物館として平成21年に開館しました。*1
店内には、貴重なレトロゲーム機が陳列され、実際に遊ぶことができます。
「新幹線ゲーム」は、昭和50年に東海道新幹線山陽新幹線が東京博多間で全線開通したのをきっかけに誕生しました。投入した10円をレバーで弾き、途中のアウト穴に落とさずに見事ゴールまで導くと「当たり券」が出て好きな駄菓子と交換できました。*2
「ポルル君の旅行」は、関西精機の「ミニドライブ」を縦型にしたもので、1987年に発売されました。走行コースが見やすくなり、設置面積が半分になったことなどが特徴でした。*3
初代「ミニドライブ」が登場したのは、1958年(昭和33)年でした。地面が動いて実際に車が走るという見た目の面白さと、ハンドル操作により実際の前輪の角度が変わるためコースを維持する絶妙な難しさとリアルな挙動が魅力でした。*4
平成17年、板橋区の空き店舗活用コンテストに、著者が「ゲーム博物館」というア…
このゲームは、昭和50年に東海道新幹線山陽新幹線が東京博多間で全線開通したの…
ドライブゲーム機「ポルルくんの旅行」が関西精機製作所から3月下旬発売となっ…
関西精機が生み出した「ミニドライブ」の歴史は思った以上に古い。初代ミニドラ…
仲宿商店街沿いにある中華「かさま」。黄色の大看板の外観に圧倒されます。
「半チャーハンラーメンセット」が人気です。
メニューは豊富です。
チャーハン(大盛)とビールを注文。
仲宿商店街の一角にひっそりと立つ「縁切榎」。
いつ頃からか、この木の下を嫁入り・婿入りの行列が通ると、必ず不縁になるという迷信が生まれていました。縁切り信仰が絶えなかったのは、この榎の樹皮を削って持ち帰り、離縁したくともできない夫に、密かに煎じて飲ませると、不思議と夫の方から離婚話が持ち出されるという信仰にまで発展したからと言われています。*1
敷地内に設置されている自動販売機で絵馬が販売されています。
絵馬には、個人情報が漏洩しないよう目隠しシールを貼ることができます。
近代では「悪縁は切ってくれるが、良縁は結んでくれる」ものとして礼拝の対象となっています。*2
東武東上線大山駅東口を出て、ハッピーロード大山商店街へ入ったすぐ右側に、「すずらん通り」と名付けられた飲食横丁があります。
手前は広く、奥の方へ行くと幅が狭くなっています。
居酒屋、料理屋、スナックなどが連なっています。
横丁をぬけた反対側から。
東武東上線のときわ台駅と上板橋駅の中間あたりの住宅街。
入口の上部には、町中華らしい風情の「慶修」の大看板。
角煮チャーハンとビールを注文。
チャーハン自体も具が多く、チャーシューがたくさん入っていますが、これに、大きめの角煮が3つ添えられています。
裏側は駐車場になっています。
今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みを散歩します。
地下鉄仙川駅から東武東上線大山駅へ向かう途中の道路を東へ入ったところ。
住宅街の中にビル7型の銭湯があります。
建物前面部分には、丸窓が並んでいる洋風のデザインです。
建物は、アパートを兼ねています。
つくば駅の北側の天久保1丁目の松見公園の東側。
通称「くいだおれ通り」と呼ばれる歓楽街があります。
パブやクラブが密集しています。
建物の脇の壁。
筑波神社のすぐそばにある土産物屋の「いしはま」。
スペースシャトルが描かれています。
店内は、南側から日が差し込んで、明るく暖かいです。
店内からの眺めは格別です。
「つくばうどん」とビールを注文。
「つくばうどん」は、つくばの地名に沿い、筑波地鶏(つくね)、くろ野菜、下妻のローズポーク(バラ肉)とレンコン入りうどん(隣市の土浦産)を使用したものです。*1
P.186
1918年の土浦筑波間を結ぶ筑波鉄道の開通により、筑波から土浦まで約5…
明治初年の頃は、つくば道の一の鳥居※1 があったあたりから、道の両脇に土産物屋が並んでいて、つくば郵便局※2 があった門前町の1~3丁目を経て、筑波神社に至りました。現在は、中腹まで道路が通っているので、つくば道は衰退し、土産物屋は、筑波神社周辺に残っているのみです。
土産物屋は、筑波神社(写真右側)の東側に建ち並んでいます。
杉本屋は、「明治初年頃の筑波山門前町」*1 に掲載されており、現存する最古の土産物だと思われます。
最近は、冬季は休業が多いそうです(地元の方の話)。
P.190
fig.2 明治初年頃の筑波山門前町(地図)
筑波山中腹への道路が大きくカーブするあたり※1 から、南の道を下ると、月水石神社の看板があります。
月水石神社には、婦人病の神(イザナギ、イザナミのミコトの第四子イワナガヒメ)が祭られています。
つくば周辺は勿論のこと、他町村からの参詣の女性の姿が多く見られ、その中には筑波町の遊女もいたと言われています。*1
つくば周辺は勿論のこと、他町村からの参詣の女性の姿が多く見られ、その中には筑波町の遊女もいたと言われています。*1
神社の境内に大きな石(ご神体)月水石があり小さな割れ穴から月に一度、赤い水が滴り落ちるといわれ、月水石神社とむかしからいわれてきたそうです。*1
1918年(大正7年)の筑波鉄道の開通により、筑波から土浦まで約50分で行けるようになり、1922年には、つくば駅から標高200mの中腹まで自動車道路が開通しました。さらに、1925年(大正1)4年には、筑波山ケーブルが開通し、筑波山は、東京から気軽に行ける観光地として定着しました。*1
現在では、筑波山中腹へ向かう道路の途中には、ホテルが建ち、マイカーでの観光が定着しているように見えます。
富士山、スカイツリーも見える絶景ホテル。
ホテルの入口。
P.186
1918年の土浦筑波間を結ぶ筑波鉄道の開通により、筑波から土浦まで約5…
今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
茨城県道14号筑西つくば線から少し入ったあたりは、筑波山への登山口にあたる場所です。
ここには、2つの石碑が建っています。一つは、「茨城百景筑波山」の碑。
もう一つの石碑は、「従是筑波山道」です。
「明治三十七年二月」とあります。
この頃は、土浦まで電車で行き、人力車あるいは馬車を使用して北条経由で筑波山へ行く方法(従来のつくば道※1)、に加え下館まで電車(現在のJR水戸線)で行き、筑波町へ行く方法、などがありました。*1
「従是筑波山道」は、後者のルートが一般化されつつあることを物語っていると思われます。
P.588
1889(明治22)年には水戸と小山を結ぶ水戸鉄道水戸線(現在のJR水戸…
荒川沖宿の旧道沿い。交番の隣にある天満宮。
天満宮の裏手に遊女の墓があります。*1
空地の一角に、嘉永、寛政、安永と刻まれた約百基ほどの無縁仏が折り重なっています(北側の駐車場より)。*1
郷土史家の山本鉱太郎さんは、「墓は風化し、どれが遊女の墓かついてにわからなかった。」と記しています。*1
P.112
無縁仏となった遊女たち
荒川沖の街道沿いには、茅葺きの旧家が2軒残っています。
荒川沖郵便局の右隣にある佐野家は、現在も茅葺きのままです。*1
鶴町たばこ店。
江戸時代の荒川沖宿は、本陣がなかったせいか遊廓が栄えました。サカモトストアがあった場所には、女郎屋がありました。*1*2
駅前の飲み屋街 ※1 にあるCOFFEE SHOP「ニュ-フジ」。
店内は、昭和を彷彿とさせる雰囲気です。
サンドイッチと紅茶を注文。サンドイッチは「耳有りか耳無しか」を聞かれましたので、「耳有り」を注文。食パン3~4枚はありそうなボリュームです。
お食事・喫茶の他、カラオケ唄い放題。
荒川沖駅西口のすぐ近くに、小さな飲み屋街があります。地元の方の話によると、かつては川が流れていて、ときどき溢れていたそうです。
麻雀「つくば」。
ちょいのみ「宇宙人」など、飲み屋が連なっています。
パブもあります。
今回は、荒川沖(茨城県土浦市)の町並みを散歩します。
JR常磐線の荒川沖駅西口。
白ポストが設定されています。
側面には、「伸びよう伸ばそう青少年」の標語。
駅からの下り階段から目に入る場所に設置されています。
新大利根橋のたもとの土手に「七里ヶ渡跡の碑」が建っています。
実際に渡し場があった場所は、土手を降りたあたりで、こちらにも案内板が建っています。
かつての七里ヶ渡し(しちりがわたし)には、回船問屋や宿、旅人や、若い衆相手の茶店が軒を並べていました。*1
渡し小屋の写真。
関東三弁天の一つに数えられた「布施弁天」。
かつては、石段の両側には深川仲町の粋どころの名がずらりと刻まれていましたが*1、現在は風化したためか、見えなくなっています。
石段の上の石灯籠。
文化九年と読めます。
新吉原の関係者の寄進によるものです。
我孫子駅北口から徒歩15分。
アパート風の看板建築の「曙(アケボノ)食堂」があります。
地元の方々で賑わう大衆食堂です。
大衆食堂でありながら、ホッピーが飲めるのが魅力です。
タンメンを注文。
我孫子宿の脇本陣近くの旧水戸街道沿いに、「角松」という割烹料理屋があります。
長い塀。
ここには、明治43年頃、講道館を興し、東京高等師範の教授でもあった嘉納治五郎がよく訪れました。また、この料理屋の前身の松島屋という宿は、明治天皇も宿泊した由緒ある旅館でした。*1
入口。
今回は、我孫子(千葉県我孫子市)の町並みを散歩します。
我孫子駅は、常磐線の複々線区間にあって、乗降客も多い駅です。
我孫子駅の名物と言えば、「弥生軒」です。
近年、首都圏では「万葉」など駅そばの閉店が相次ぎ、代わりにNREなどJR系列会社のチェーン店が増え、個性が消えつつあります。そのような逆風の中でも昔ながらに頑張っているのが我孫子駅の「弥生軒」です。*1
画家の山下清が働いていたことでも有名です。山下清は、12歳の時、千葉の保護施設「八幡学園」に入園し、指先のリハビリを兼ねた貼り絵で天分を発揮しました。18歳のとき、園を脱走し、放浪するうちに、当時弁当屋だった弥生軒に拾われました。*2
名物の「から揚げそば」(2個のせ)を注文。
から揚げは、駅近くの工場で調理していて、自家製で新鮮なのが売りです。*1
首都圏では駅そばの閉店が相次いでいる。千葉駅では、2017年6月、長く続いた「…
我孫子界隈で一番有名な店が立ち食い蕎麦「弥生軒」である。電車を乗り継いでも…
旧郵便局から先は、つくば道が県道にでる手前の最後の階段です。
奥に「ホテル青木屋」が見えます。
ユースホステル筑波山荘だった建物。*1
昔は、遊廓「なが楼」だったそうです。*2
県道にでる所に建つ「つくば道」の石柱。
P.4
旧郵便局の北側に、ユースホステルの記載。
P.190
fig.2 明治初年頃の筑波山門前町(地図)
「つくば道」沿い建つ筑波山旧郵便局。
洋風のおしゃれな建物です。
旧筑波山郵便局は、昭和14年に建てられました。昭和50年に郵便局を引退、平成20年に筑波大学生らの手によって改修されました(案内板より)。
旧郵便局は、急な石段を登った場所にあります。
つくば道の三叉路を過ぎたあたりから、道の傾斜も増してきます。
通りに面して建つ二階建ての建物。
明治初年の火災で焼失した直後に建てられたもので、建築当初から旅籠として使用されていました。*1
つくば道の年代が古い二階建ての建物は、旅館業を営んでいたものが多いそうです。*1
P.228
大越家住宅は、短冊形の敷地内に通りに面して屋根の平側を向けて建つ…
筑波山神社の「一の鳥居」の近く。つくば道沿いに民家が点在しています。
郵便箱の下に明治牛乳の木製牛乳箱が設置されています。
側面に「ビンは洗ってお返し下さい」の表記のある牛乳箱は、珍しいと思います。
保存状態良好です。
北条の道標※から「つくば道」を進むこと約3km。「一の鳥居」に着きます。
一の鳥居は宝暦9年に造られ、この鳥居から上が神域とされました(案内板より)。
明治時代初期、道の両側には土産物屋などが建ち並んでいました。*1
ふりかえると、北条方面が見下ろせます。
しばらく行くと、「つくば道三叉路」に出会います。右が「つくば道」です。
P.17
筑波山信仰は鎌倉期において形成され、徳川幕府の筑波山神社に対する信…
今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
つくば市北条の三叉路には、高さ3メートルにも及ぶ大型の道標が建っています。*1
「これより つくは道」。
かつての北条の町が、筑波山の参拝者によって活況を呈した様子を偲ばれます。
道標の台座部分は八角柱の形状で、再建願主 野沢惣兵衛、同 山口武右衛門、同 武井仁右衛門と彫られています。再建願主のメンバーは、いずれも北条における有力商人です。*1
筑波山信仰は鎌倉期において形成され、三代将軍家光のときには、日光東照宮とともに、筑波山知足院が幕府の大鎮守とされました。*1
都営地下鉄西台駅近く。首都高速5号線沿いにある功泉湯。
伝統的な宮造りの銭湯で、風格があります。
入口。
写真奥に見えるのは、都高速5号線。
天祖神社の入口の階段脇に、御嶽塚があります。
御嶽神社。
御嶽塚は、富士塚と同様、祭神などの石碑が配された人造物で、庶民が木曽御嶽を登拝するため組織された講によって造られました。板橋区には、赤塚氷川神社にも御嶽塚があります。*1
頂上からの眺め。
板橋区西台にある天祖神社。
境内の奥に、金網に守られるようにして、男根の形をした石神が鎮座しています。
「石神」→「せき神」→「しゃく神」→「杓子神」となり、「しゃもじ」を奉納する風習がうまれました(案内板より)。
睾丸部分が2個の石で表現されていて、リアルです。
東武練馬駅近くには、 「北町アーケード」※1 や「北町楽天地」※2 などの歓楽街がありますが、駅西側の線路沿いにも、飲食店やスナック店が集まった小路があります。
小路の奥。
小路はコの字型になっています(写真右側は東武東上線)。
コの字を回り込んだところ。
今回は、東武練馬(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
北町2丁目の商店街にある富士嶽神社の鳥居をくぐると、奥に「下練馬の富士塚」があります。
左側が「下練馬の富士塚(北町浅間神社)」、右側が「富士嶽神社」です。
「下練馬の富士塚」は、練馬区の有形民俗文化財です。
案内板に、「つづら折り道」と書かれている通り、登山道は、何度も折り返しながら頂上へ向かっています。
頂上から眺めは爽快です。
上板橋駅から徒歩10分のところにあるときわ健康温泉。2階部分より上はマンションになっています。
入口は、東側、西側の両側にあります。
広い待合室には、水槽もあります。
銭湯脇の路地。
都営地下鉄線本蓮沼駅から西へ500mほど行くと、首都高速5号線が通る道路に出ます。
銭湯の清水湯。建物前面はリニューアルされていますが、後ろ側は、宮造りの意匠が残されています。
清水湯の煙突。
待合室は広々としていて、ゆったりできます。
板橋区の中台にある延命寺。
南側の駐車場から入って通路を進むと、石塔や菩薩像が並んでいます。
左側(西側)。
小さな祠があります。
祠の中には、ずんぐりしたした形の男根(石神)が安置されています。
残念ながらこの石神は、コンクリート製で、昭和初年に、旭化成の工場のところから移したもので、本来の石神は盗まれて現在のは模造品とのことです。*1
遍照寺※1 の参道の右隣り。緑色のファザードの喫茶「紙風船」。
コンクリート造りの3軒長屋で、隣に黄色のうどん店、赤い肉屋と続きます。喫茶側の側面の壁は緑色に塗られてメルヘンチックな感じがします。
建物角の部分の円柱。
トーストとコーヒーを注文。
板橋区の中板橋商店街。
商店街の中でも老舗の「天麩羅 大黒家」。昔ながらのたたずまいです。
黄色い暖簾。
「えびあなご天丼」とビールを注文。巨大なあなご天には圧倒されます。
仙川から大山へ向かう途中。大きな水道タンクが建っています。
バス停の名も「水道タンク前」。
現在の水道タンクは、昭和47年に廃止した旧配水塔のデザインを引き継ぎ、地域のシンボルとして建て替えたものです。*1
旧配水塔(大谷口配水塔)の造形意匠は、ロマネスク様式です。
ロマネスク様式は、ローマ建築を疑似的に模した様式で、曲線が多く用いられています。配水塔の頂塔部(ドームの上のさらに小さい塔)もロマネスクの特徴で、彩光や通風と装飾の目的で設けられています。*2
旧配水塔では、階段室最上部の窓は同一の形が3つ並んで(「トリフォリウム」と呼ばれる)いました。*2
が、新しい水道タンクでは、機能やコストを重視したためでしょうか。「トリフォリウム」は再現されておらず、全体的にシンプルなデザインになっています。
本事業は、昭和47年に廃止した配水塔跡地に、新たな拠点給水所となる大谷口給…
P.85
大谷口配水塔の造形意匠は、ローマ建築を疑似的に模したロマネスク様…
今回は、板橋(東京都板橋区)の町並みを散歩します。
地下鉄有楽町線仙川駅の北側。豊島体育館の前に、「力」「いづみ」の2体の裸像があります。
左側の「力」は、男性裸像で両手拳をガッツポーズのように握りしめ、力強さを感じる作品です。
下半身は、ふんどしのみ。
もともとは、豊島区の旧庁舎のシンボル(昭和36年制作)でしたが、旧庁舎の解体に伴い、こちらに移設されました(案内板より)。
水戸市の「常陸山橋」バス停※1 の近く。
色褪せが進行した「婦警さんと子供の交通安全人形」が立っています。
開いている穴は、横断旗を入れるためのものだと思いますが、現在はゴミ箱代わりになっています。
婦警さん、正面。
後ろから見ると、子供の頭の部分が左右に割れ、婦警さんの背中に貼りついているように見えます。
水戸市本町から、酒門町へ向かう途中、備前堀に、コンクリートづくりの「常陸山橋」が架かっています。
この橋は、大正初期、横綱常陸山が祖先の墓が、祖先の墓が酒門町にあったので、その縁故からつくったものです。*1
橋には、常陸山のイラストが描かれています。
近くには、「常陸山橋」という名のバス停もあります。
常陸山「ちゃんこ鍋」を発明した人でもあります。
弟子が多くなって一品料理だと手間がかかるので、みんなで丸く囲んで食べられるようにしました。*2
今の浜町から酒門村方面に通ずる備前堀に架設されてあるコンクリートづくりの橋…
P.137
「ちゃんこ」の元祖は、名横綱常陸山
「ちゃんこ…
水戸市泉町3丁目6にある「いづみや食堂」
カレー、めん類、定食など。昔からながらの食堂です。
かつカレーとビールを注文。
ノスタルジックな一軒家のお店です。
泉町二丁目の「中央ビル」の裏手のパーキングの近く※1 にある水雷稲荷神社。
水雷稲荷神社は、青木新地(富田新地)の昔を語る唯一のものです。この稲荷は、はじめ下市の蓮池町(現在の城東四丁目)にあった。明治の豪商・豊田彦一がこの地を買収して富田新地とした際、移したものでした。*1
明治28年奉納の手水石。*1
その頃、裡信願寺辺りにあった芸妓屋の名が刻まれています。*1
その後、富田新地の土地をゆずりうけたのが青木才次郎※1 で、中央ビルの角地の隣にあった青木材木店は、青木康夫さん(青木才次郎の孫)の父親が経営していました。*1
今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
茨城県庁三の丸庁舎の北側に建つ配水塔は、ゴシック風の装飾が施された建造物です。
水戸市街の低地部分に給水を行うために、1932年(昭和7年)に建設されました。*1
1階入口部分にも装飾があります。
バルコニー部分の張りだしは、まるで、西洋の城郭建築の塔のようです。
内部には、螺旋階段があります。
日立食堂※1 の四つ角の西側。市毛魚店のある通りは、かつて隆盛を誇った芝居小屋の「栄座」があった場所です。*1*2
地元の方の話によると、栄座はこのあたりにあったそうです。
国道6号線より西側、宮田町三丁目と四丁目の各一部分を取り込む栄座を中心とした通称栄町は、庶民の街として、酌婦や女給たちの住む歓楽街、夜の街として、独自の風俗文化圏を形づくりました。栄町は旭町が芸妓の街であったのとは対照的で、ここは酌婦と女給の町でした。日立のカフェの女給が全員総出で歌や踊りの芸をやるのも栄座でした。*3
同じ通りを北側から見たところ。
「日立煎餅」で有名な袋屋煎餅店は、大正時代の創業で、日立の文字入りです。*4
上下左右にツノがあるのは、どこか、日立製作所の亀の甲マークに似ています。
「日立栄座」の記載。
市毛魚店、袋屋煎餅店。
P.169
日立鉱山の発展に伴って形づくられていった日立の花柳界は、大きく分…
大正時代創業以来、80年以上にわたり昔ながらの瓦煎餅を作り続けてきました。…
日立市白銀町2丁目にある日立武道館は、もとは、日立鉱山(現在のJX金属)が従業員や地域住民のために建設した劇場です。*1
共楽館の設計に影響を与えたのは明治44年秋にリフォームを終えたばかりの歌舞伎座でした。正面の千鳥破風に加え、正面左右隅の階段室には、唐破風屋根を載せています。*2
裏に回ると妻壁上部に丸い「ガラリ(換気口)」が見えます。設計者は建築家ではなく鉱山会社の技師だったそうで、その個性(工場建築のよう)が出ています。*2
建築まもない頃(大正8年)の共楽館の写真(案内板より)。
共楽館は、現在では「芝居小屋」と呼ばれあす。芝居小屋は近年は、四国(琴平)の金丸座(日本最古)、小坂町の康楽館(こうらくかん)※1、内子町の内子座のように、地域振興活動の一環として見直されています。
日立鉱山が従業員や地域住民のために建設した大規模な妻入の劇場で、歌舞伎座(…
P.16
共楽館の設計に影響を与えたのは明治44年秋にリフォームを終えたばかり…
大煙突展望台※1 から約2時間。神峰山に到着です。
日立市街と太平洋が見渡せます。
明治43年から昭和27年まで、山頂には、日立鉱山の観測所が置かれ、大煙突の煙の観測をしていました。(「神峰山観測所の由来」案内板より)。
平成5年2月19日、大煙突が倒壊しました。翌年の平成6年9月に、在りし日の台煙突の雄志を刻して記念碑が建立されました(碑文より)。
かつて、日立鉱山の煙害で、この辺り一帯から緑が消え、荒れ果てていたことがありましたが、試行錯誤の末、世界一高い大煙突が建設されました。煙害は激減し、自然環境は少しずつ回復していきました。*1
大煙突の建設は新田次郎の小説『ある町の高い煙突』により、その存在が広く知られるようになりました。※1
現在、煙突は倒壊し、当時の高さの3分の1の高さになっています。
鞍掛山から神峰山へ向かう登山道の途中にある「大煙突展望台」を目指します。
40分ほどで「大煙突展望台」へ到着。
企業と地域住民が共存共栄をめざし、煙害問題の克服と自然環境の回復に取り組んできた歴史が今も大煙突に生き続けています。*1
今回は、常陸(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
かみねレジャーランドから鞍掛山へ向かう途中に、「大煙突記念碑」と「新田次郎文学碑」が建っています。
大煙突は、日立市のシンボルです。
新田次郎文学碑。
「三郎は祈るような気持ちで大煙突を見上げていた。高い、高い煙突の上には青空があった。いつまでも煙突を見上げていると、眩舞いがしそうだった。」
東武練馬駅の南口から細い路地を抜けたところにある喫茶ボタン。石材やステンドグラスが使われている概観は人目を引きます。
昔ながらのレトロな喫茶店です。
昭和感のある店内。
ジャンボオムライスとビールを注文。
北町楽天地の50mくらい東に、大きな電飾看板の「北町アーケード ショッピングセンター」の入口があります。
昼間でも薄暗い感じの商店街です。
商店街の奥の方には、居酒屋やスナックもあります。
商店街はコの字型になっていて、西側にも出入口があります。
今回は、東武練馬(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
東武東上線、東武練馬駅前の旧川越街道沿いに、昭和にタイムスリップしたかのような小さな飲み屋横丁があります。
左右に、2階建ての建物が並び、横丁を形成しています。
横丁の上部には左右に支柱がわたされています。
大衆スナック。
鯨ヶ丘の北側。棚倉街道をさらに北へ進んだ馬場町にも商店街が続いています。
事務用品の「たか松」。
南側と西側の2面に装飾があります。
南側の壁面。
常陸太田の鯨ヶ丘の北側の商店街にも、古い商店の建物が残っています。
セーラー万年筆の看板のある文具店。
セーラー万年筆株式会社(本店:広島県呉市)は、1948年(昭和23)、国産初のボールペンを発売しました。*1
重厚感のある木製の切り文字。
セーラーのロゴ。
軍港都市・呉から、将来は自らの製品を船によって輸出したいという念願と、ひとりの提督より多くの「水兵(セーラー)」が大切だとの思想により、「セーラー」と命名されました。*1
「SAILOR」の由来
東二町の商店街にある「昇龍」。支那そばが名物の店です。
パラペット部分には、太陽の意匠が施されています。屋号の「昇龍」にふさわしい看板建築です。
テーブル席と、座敷があります。
チャーシューメンとビールを注文。
板谷坂(ばんやざか)の下り口の脇に、板谷稲荷神社の参道の入口を示す石柱が建っています。
参道を進むと、奥に稲荷神社の鳥居が見えてきます。南側(写真右側)は、切れ落ちた崖になっています。
板屋稲荷神社は、1394から1427年(応永年間)に建立されたもので、佐竹氏累代の氏神です。かつて、芸妓たちは新年の初午にお参りしました。芸妓がいなくなった今では、東町二丁目の氏神様となっています。*1
傍らの石碑には、大雨のたびに何度も繰り返されていた崖の崩壊を防ぐため、明治33年に石垣による大工事が行われた経緯が記されています。
P.90
板屋坂の中間地に板屋稲荷神社がある。かつて芸妓たちは新年の初午にお…
かつての歓楽街だった東三町の広場になっている場所がありますが、このあたりには、芸妓置屋「若小磯」がありました。*1
若小磯は当時全盛で、常に十余人の芸者がいました。*2
東三町と西三町とをつなぐ路地は二つあって、狢(むじな)横丁※1 と呼ばれる通りがその一つで、もう一つは、狸横丁で、曲がりくねった道で西町へ通じ、待合や芸妓置屋が多い所でした。*2
曲がりくねった道の先は、まっすぐな道が西町へ通じています。
西町側から見たところ。
P.88
東三丁目表通りの家並
P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…
常陸太田の鯨ヶ丘の北側にある若宮八幡宮。
大正時代初期。祭りや祝い事があると、芸妓の出番になっていました。若宮八幡宮の例祭には、山車が出て、芸妓が山車に乗りました。*1
境内の西側に並ぶ玉垣には、「釜萬」※1(東三町の板谷坂のところにあった割烹料亭)や「㐂可久」の名が刻まれています。
割烹「若柳」。※2
玉垣は、新しいものも混在しています。梶山清六は、常陸太田出身の国会議員(元自民党幹事長)です。
P.90
板屋坂の中間地に板屋稲荷神社がある。かつて芸妓たちは新年の初午にお…
JR常陸太田駅の前を水戸方面に向かって南へ約3kmほど。
道路沿いに数本の松の木に囲まれた「都々逸坊扇歌の石像と石碑」がひっそりと立っているのを見つけることができます。*1
都々一坊扇歌は、都々逸節(どどいつぶし)の元祖といわれ、生まれながらの美声と才能を生かして、江戸に出て寄席芸人となり、都々逸節を全国に流行させました。*1
石碑には「磯部田んぼの バラバラ松は 風も吹かぬに 気がもめる」という歌(生まれ故郷の風景を唄ったもの)が書かれています。この歌は都々一坊扇歌が少年時代につくった歌で、当時扇歌が村中を唄い歩き、磯部で流行したと伝えられています。*1
江古田駅北側にある浅間神社。境内の奥に、国の重要有形民俗文化財に指定されている富士塚があります。
富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートル。築かれたのは、天保10年(1839年)で、都内に残る富士塚の中では、規模が大きなものです。*1
富士塚には、毎年7月1日の山開きの日や正月など、限られた日しか登ることができません(案内板より)。
頂上の鳥居。
旭丘1丁目の通り沿い。「そば」の看板。
レトロな店構えの「江戸清」。
そば・うどんの他、丼ものもあります。
天ぷらそばとビールを注文。
練馬区旭丘1丁目にあるビル型銭湯の江古田湯。
昔ながらの薪で沸かす銭湯です。
入口。
縁側から眺める庭園。
中野区の哲学堂公園の北側。「水道タンク前」のバス停。バス停の名前の通り、水道タンク(野方配水塔)が建っています。
野方配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場をつくった「近代上水道の父」中島鋭治(なかじまえいじ)博士(1858-1925)の設計です。着工は昭和二年(1927)で、竣工は同4年です。
ドーム型の屋根は、地域の特徴ある景観をかたちづくっています。東京近郊都市化のシンボルです。*1
「江古田の水道タンク」「水の塔」「給水塔」などと親しまれてきました。
江古田から都営新宿線新江古田駅へ向かう途中の四つ角にある「お食事処かなっぺ」。
食堂ですが、酒場のような雰囲気です。
飲み物を頼むとお通しがついてきます。
やきとりを注文。
今回は、江古田(東京都練馬区)の町並みを散歩します。
西部池袋線江古田駅から東長崎へ向かう通り沿い。旭丘1丁目に、自販機コーナーがあります。
歩道に面した場所には、食料や飲料の自販機が設置されています。
2列目の自販機は、レアアイテムなどの1000円ガチャ。
3列目は、18歳未満専用の自販機です。自販機前に立つと自動的に明かりが灯ります。
矢切の低湿地を流れる坂川が江戸川に合流する地点に、柳原水閘(やなぎはらすいこう)の遺構が残されています。坂川は、古記録では「逆川」と記され、洪水時には合流する江戸川から水が逆流し、しばしば湛水状態に陥れました。これを防ぐために建設されたのが柳原水閘です。*1
現在は、その役目を柳原水門が担っています。
柳原水閘は、1904(明治37)年、美しい4連アーチを誇る煉瓦づくり樋門(ひもん)として、建設されました。
ゲートの上部には、柳原水閘(やなぎはらすいこう)と刻まれています。
反対側(南側)から見た柳原水閘
北総線矢切り駅からも見える栗山配水塔は、1937(昭和12)年竣工した配水塔で、千葉県営水道の要となった施設です。*1
近傍に新設された「ちば野菊の里浄水場」の稼働により、2007(平成19)年度に古ヶ崎浄水場は閉鎖されましたが、栗山浄水場と栗山配水塔は、現役施設として活躍しています。*1
配水塔の円筒形の胴体には、ドーム状の塔屋が被さり、さらに頭頂部には四本の柱で支えられた換気口が備わっています。また、ドームの周囲にはバルコニーがめぐらされた意匠になっています。*1
平成19年に、栗山配水塔の西隣にできた「ちば野菊の里浄水場」の名前は、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」に由来しているそうです。*2
栗山配水塔の敷地周辺の電柱プレートには、「野菊支」と書かれています。
1934(昭和九)年3月31日、内務省の認可を受け、千葉県営水道がスタートした。…
現在、千葉県水道局には5つの浄水場があります。ちば野菊の里浄水場はその中で…
「野菊の墓の碑」から西へ徒歩15分。江戸川が見えてきます。
「矢切の渡し」は、寛永八年に幕府が始めた公営の渡し場で、近郷の木こり、草刈、工作人のみが利用できる渡し船でした。今も残る「観光渡船」矢切の渡しは、都内唯一の渡し船となっています。*1
矢切りの渡しは、小説「野菊の墓」の政夫と民子の別れの場面にも登場します。*2
「船で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持物をカバン一個につめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。」
時刻表などはなく、渡し場に客がくれば一人でも運航します。
北総線矢切駅から徒歩10ほどの場所に、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の文学碑が建てられています。
伊藤左千夫は、農家の四男として生まれ、明治法律学校(明治大学の前身)を眼疾のため退学帰郷。再び上京して、二十五才のときに牛乳搾取業を開業し、その後、正岡子規に師事しました。そのときに詠んだ歌
牛飼いが歌よむ時に世の中の新しき歌大いに起こる
(身分が高くもなく雅な職業でもない牛飼い(牛乳搾取業を営む自分)が歌を詠むような世の中には、新しい歌がたくさん生まれる)には、左千夫の和歌に対する気概がこめられています。左千夫は、和歌のほか、歌論、新体詞、写生文、小説等があり、「野菊の墓」は、伊藤左千夫の処女作の小説です。*1
文学碑の前面には、「野菊の墓」*2 の一節が刻まれています。(物語のはじめ、3ヵ所の抜粋)
碑の裏面*1 によると、「政夫が民子を待った大きな銀杏の樹」は、この文学碑があった場所だそうです。
伊藤左千夫の略歴
元治元年1864 8月18日千葉県山武郡成東町殿台に生れた。本…
僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切
里見公園の北側から江戸川へ下る道の途中。
ガードレールの脇に石柱が1本、建っています。
草むらの中の四角柱の石柱。
石柱は風化していますが、「陸軍」の文字が刻まれています。
国府台は、陸軍で発展した町です。
1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、その後、歩兵大隊が移転しました。*1
「市川市国府台における砲兵隊・工作隊の記録」*2 に、「里見公園の裏門を出て約500メートル歩くと、下り坂があって江戸川ぞいの道と合流する。坂を下る手前左の台地に、陸軍の用地を示す石柱が一本ある。」との記述がありますが、この石柱のことかもしれません。
P.1
1886年(明治18年)、東京から陸軍教導団が市川市国府台に移転し、市川…
P.24
⑩高射砲の台座跡 国府台四丁目
里見公園の裏門を出て約500メートル…
国府台駅から松戸街道を市川駅方面へ向かって進むと、道路沿いに朝日湯の看板があります。
ビルの谷間の奥に銭湯の入口があります。
油田型の煙突。
銭湯脇の路地。
「市川名鑑(1930年)」によると、国府台三業組合の割烹料亭は、大正通り(大正道路)、根本、国府台大観台下、などに散在していました。*1
大正道路:市柳別館、華の江、田浦、嬉し乃
大正通横入:一力
国府台三業組合の割烹料亭のうち、割烹「華の江」は、昭和30年代まで営業していました。*2
大正通りの電柱プレート。
割烹「華の江」があったあたり。
今回は、国府台(千葉県市川市)の町並みを散歩します。
京成電鉄国府台駅に里見公園※1※2 の案内板があります。
江戸名所図会の「国府台断岸之図」*1 をアレンジしたものです。
南郭の漢詩は、江戸名所図会*1 に書かれているものと同じです。
「國府臺断岸之図」は、江戸名所図会の通りですが、その左側の説明文は、オリジナルの案内文です。
総寧寺晩眺
荒城千仞(せんじん)没し
蕭寺(しょうじ)上方開く
山断…
かみね公園のふもとにある日立市郷土博物館。
2階には、「日立鉱山と日立製作所の創業」に関する常設展示があります(写真は建設中の大煙突)。*1
「日立製作所の創業」の展示。
日立鉱山の電気機械修理工場が日立製作所のはじまりです(案内板より)。
家電品の展示。ほとんどが日立製作所製です。
1959年発売の洗濯機(SH-AT30)。洗濯容量は2Kg。絞り機は大型の圧力調整式で、薄物から厚物まで好適な絞りができるよう工夫されていました。*2
日立駅から国道6号を北に行き、交差点を山側へ左折して大雄院通りを100mくらい行ったところにある「日立食堂」。
昭和の雰囲気漂う大衆食堂です。
ラーメン、そば・うどん、ご飯物、定食など、メニューは豊富です。
五目ワンタンメンとビールを注文。
日立市の弁天町バス停の西側。左側(南側)は空地になっていますが、右側(北側)は飲食店街のビルが連なっています。
2階建ての防火帯建築の飲食街。2階部分は、白い壁面で統一されています。
統一された長大な建物ですが、よく見ると3つの棟に分かれています。(写真は、中央と東側の建物の間)
白い壁面で統一されている建物表側と比べ、建物裏側(北側)は、増改築を繰り返している様子が見て取れます。
今回は、日立(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
JR常磐線日立駅西口前のロータリー(写真左奥)の北側に、銭湯の福乃湯があります。
ビル型の銭湯。
2階3階はアパートになっていて、駐車場もあります。
入口を入ると男湯、女湯、左右に分かれます。
南町一丁目交差点の角にあるミナミ食堂。
創業は昭和21年だそうです。最近テレビ放映があって、お客様が急増したそうです。
テイクアウトもやっています。
主力はラーメンです。
タンメンとビールを注文。
泉町二丁目(泉町一丁目交差点の西側)、「中央ビル」の裏手のパーキングが建つあたりは、泉町近辺では一種特別な雰囲気を持った歓楽街でした。
明治の末、豪商富田彦市という人が、ここに稲荷神社を勧進して水雷稲荷という社を建て、その南方一帯に、料理屋(待合)や芸妓屋を置いて、夜の歓楽街(富田新地)ができました。その後、明治45年に、この一帯は青木才次郎という建設業者のものとなり、名も富田新地から青木新地に変りました。当時の水雷稲荷は、写真のあたりにありました。*1
現在の中央ビルの場所には、旅館「伊勢彦」、青木材木店(青木才次郎の子が経営)がありました。*2*3
常陽銀行泉町支店(その前は第一勧業銀行水戸支店)脇の路地は、かつては「富田横丁」と呼ばれていました(富田新地の名残でしょうか)。*3
水戸東照宮の安神車が保管されている建屋(写真右奥)の隣に、巨大な石碑が建っています。
常陸山之碑。
常陸山(水戸市出身、第19代横綱)は、大正11年6月19日、49歳で急逝しました。昭和16年4月、常陸山没後20周年に際し、水戸東照宮境内に「常陸山の碑」が建立されました。*1
石碑前面には、遺体解剖のくだりが書かれています。「わが身を解剖、力士の体の組織を知れば、いささか以てこの道に貢献することができよう」との常陸山本人の希望により、慶応大学にて解剖が行われました。内臓は、普通人より約一倍半の大きさ。しかも完全に頑強で真に力士として理想的でした。*1
今回は水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
水戸駅北口に、テレビドラマでおなじみの「水戸黄門 助さん格さん像」が建っています。
水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり、御三家水戸藩の第二代藩主です。*1
明治以降、光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されました。お供の助さん格さんは佐々木助三郎、安積覚兵衛がそのモデルと言われ、共に大日本史編さんに尽力した学者でした。3人が揃って旅したことはありませんが、光圀の命で助三郎らが資料収集のため全国を旅しているので、それが漫遊物語に発展したと考えられています。*1
中央が水戸黄門、左が助さん、右が格さんをイメージしています。*1
TBSの「水戸黄門」第一回が放映されたのは、昭和44年8月4日。身分を明かす目的で印籠を示す場面が定着したのは、シリーズ第八部(昭和52年)の頃でした。*2
水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり、御三家水…
P.303
大正・昭和になると、「黄門漫遊記」の主流は講談から映画、さらにテ…
2階部分には、酒屋でみかけるような看板が並んでいます。「くだり腹とめヘルプ」「浅田飴」「家庭染料みやこ染」
みやこ染のホーロー看板。
「みやこ染め」は、明治時代に創業した染料商(桂屋)のブランド名で、都(東京)に由来しています。みやこ染の「こ」の字体は、明治まで使われていた旧平仮名(変体仮名)をそのまま引き継いでいます。*1
桂屋の染料は衣類、とりわけ着物、背広、軍服などの家庭での染め替え需要に大いに合致し、染料の種類も綿や絹から毛にも染まるものに広げていきました。衣類の染色は家庭の嗜みとして、学校の家庭科教科にも取り入れられるほどでした。*1
昭和16年(第二次大戦勃発の年)の広告には、「私達銃後の女性は、まず廃品を活かして生活の無駄を省くこと。誰にも手軽にできる廃品衣服の更生は、みやこ染めで染め替え。二度のお役に立てることです。」と、染め替えがお国へのご奉公であることが述べられています。*2
創業者である青山力之助は、12歳の時に染料商家の家に奉公に出て、東京日本橋で…
みやこ染
興亜奉公日 五月一日。今日は興亜奉公日。私達銃後の女性は、今日…
狢(むじな)横丁※1 の入口。
コンクリゴミ箱が遺っています。
前面には木製の扉があったようです。金属製の上蓋はきれいに残っています。
側面のコンクリートに若干の亀裂が入っていますが、原形を留めています。
東三町と西三町とをつなぐ路地が二つあって、待合や芸妓置屋が多い所でした。そのうちの一つ、狢(むじな)横丁と呼ばれる通りは、東町から入り、「新柳」や「釜平」※1 を経由して西町の旧千代本の横に出る通りです。*1
一品料理「新柳」。
新柳の奥(西側)には、待合がありました。*2
西三町側から振り返ったところ。
P.530
大正14年(1925)から昭和10年(1935)頃までの太田町ついて次のよう…
今回は、常陸太田(茨城県常陸太田市)の町並みを散歩します。
常陸太田駅から市街へ向かう道路(山下町交差点付近)。右側の坂道を登ると鯨ヶ丘の市街です。
山下町交差点の近くに建つ牛乳販売店。以前は、両側にも商店が建ち並び商店街を形成していたのだと思います。
森永ホモ牛乳の看板。
ホモ牛乳(均質化された牛乳)は、森永牛乳のキャラクター「ホモちゃん」※1※2※3 を生み出しました。
平潟港のある大津港駅から常磐線で一駅乗り継いで、磯原駅で下車。駅前にある玉川屋。
鍋焼きうどんが名物らしいです。
店内。
鍋焼きうどんとビールを注文。
わすれじの碑※1 のある場所から平潟駅へ向かう道の途中に、「風船爆弾放球基地跡」があります。看板が建っているのみで、遺構らしきものはありません。
風船爆弾の風船部分は直径10m。手漉き和紙(気球紙)をこんにゃく糊で貼り合わせた、世界史上に見られない仕掛けでした。日本の三ヵ所(平潟、福島県勿来、千葉県一宮)から、9,300個が放流され、そのうち、アメリカ合衆国などに届いた風船爆弾は約280個ほどでした。*1
風船爆弾の「気球紙」は、埼玉県小川町の薄くて丈夫な細川紙を使って開発されました。※2
風船爆弾放球基地跡の奥に供養塔が建っています。
昭和19(1944)年、初の放球時、装置の故障による誤爆で3名の兵士が死亡しました。風船爆弾は、重要秘密事項だったため、亡くなられた兵士の名前は明らかではありませんが、菩提を弔うため地元の方々により建立されました(案内板より)。
P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…
平潟の五浦の海岸線に、「わすれじ平和の碑(風船爆弾放流地跡)」が建っています。
風船爆弾は、第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍が、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する作戦を展開したものでした。晩秋から約五ヶ月間が最も強くふく偏西風(太平洋上空のジェット気流)にのせて、爆弾・焼夷弾を吊るしたおびただしい数の巨大な気球を放流させましたが、戦局を左右させるほどの効果はありませんでした。*1
しかし、トルーマン大統領は、風船爆弾によって、細菌攻撃がおこなれるのでは(当時、日本の第731細菌戦部隊は、ペスト菌兵器を開発済み)との恐怖感を持っていました。再び日本からアメリカへ偏西風が吹き始める9月に入る前に戦争の決着をつけるため、トルーマン大統領は、原子爆弾使用に踏み切ったのではないか、との考察があります。*2
最終的に、日本は、ペスト菌をアメリカに散布しませんでした。それは、人道的な観点からでなく、使用した場合の敵のすさまじい報復を恐れたからです。そして大きな皮肉が起きました。細菌攻撃を恐れたアメリカは、原子爆弾という非人道的最新兵器を最後に用いました。*2
碑の台座部分の「新しい誓い」には、
殺意の武器はいらない
さようなら戦争
と刻まれています。
P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…
P.9
トルーマン大統領が原子爆弾使用に踏み切った心理的原因の一つには、風…
平潟港から、海沿いを南へくだっていく道路の中。ごみ捨て禁止の看板がたっています。
ごみ捨て禁止の看板の近くにある赤色の小さな鳥居。
立小便禁止を意味しているものと思われます。
手作り感のある鳥居です。
平潟港近くに建つ保養館。
木造三階建ての建物です。
旅館「保養館」。
明治末期の平潟港から本町通り方面を撮影した絵ハガキによると、平潟港側左側に薬局、その奥に和泉屋呉服店があり、右側に保養館、奥に遊女屋の大きな建物がありました。*1
・明治末期の本町通り
向かって左側が薬局、その奥が和泉屋呉服店、右側が保…
平潟港の港に面した通り沿いに建つ老舗旅館の「砥上屋」。
現存する建物は、明治43年に建築したもので、玄関先に少し手を入れただけで、当時のままだそうです。旅館業になったのは戦後のことで、元来は高級料亭でした。*1
当時の遊女屋を思わせる木造三階建て。二階から遊女に声を掛けられそうな感じをうけます。*2
食事は、あんこう料理と磯料理。
八幡神社の社殿は、天保6年(1835)に、焼失しましたが、嘉永6年(1853)に再建されました。*1
社殿に右奥に「鷹岡八幡宮再造記」の碑が建っています。
百両以上の寄付者には、この再建の中心人物の菊池半兵衛の他、洗濯屋仲間(120両)、仲宿中(100両)の名が含まれています。*2
一金百両 菊池半兵衛
一金百両 外金百両増金 村方
一金百両 寅年金百両増金 五十集会所
一金百両 外弐拾両増 洗濯屋仲間
一金百両 仲宿中
平潟の遊女屋は洗濯屋と呼ばれていました。文政12年(1830)には、洗濯屋の数は8軒で、これに不可分に結びつく仲宿43軒が仲間を結成、隆盛を極めました。*1
小宮山楓軒は、文政10年(1827)奥州への旅の途中、「狭い所だけれど200余りの家がある。遊女屋も7軒ある。瓦屋根の家々がまるで魚の鱗のようにつながっており、まるっきり都会のようだ。」とその繁栄ぶりを書きとめています。*1*3
八幡神社は、高台にあるので、平潟港を見渡すことができます。(地元の方の話によると、現在、海沿いに建っている木造3階建ての旅館のほとんどは、元は遊女屋だったそうです。)
境内から登ってきた階段を見下ろすと、その高度を実感できます。
今回は、平潟(茨城県北茨木市)の町並みを散歩します。
平潟郵便局のある交差点から、西の「友の湯温泉」へ向かう道を100mくらい行き、国道6号線の下を通り抜けた右手に岸光坊というお堂があります。そのお堂の前の一角に海徳寺の墓地があり、ここに、「娼妓々夫供養碑」が建っています。*1
寄進者の楼名や氏名が刻まれています。
碑の裏面。
碑の建立は、明治45年4月15日。建立者は、泉州楼、開盛楼、福島楼、砥上楼、など12軒の貸座敷と芸妓一同です。*1*2