今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
茂原駅から西側へ向かう通称「茂原街道」沿い。

お寺のお墓の近くに、「必ずシートベルト」と書かれた交通安全人形が建てられています。

手には、「注意」と書かれた黄色い旗。「飛び出し注意」などの横断旗人形としても使えそうです。

ご協力 實相寺。

今回は、茂原(千葉県茂原市)の町並みを散歩します。
茂原駅から西側へ向かう通称「茂原街道」沿い。

お寺のお墓の近くに、「必ずシートベルト」と書かれた交通安全人形が建てられています。

手には、「注意」と書かれた黄色い旗。「飛び出し注意」などの横断旗人形としても使えそうです。

ご協力 實相寺。

ホテルの建物※1から北へ一ノ宮川を渡った道路沿いに、めずらしいものがあります。

「ダチョウのたまごあります。」の看板。

ダチョウが3羽。

ダチョウを間近で見ることができます。

上総一宮から一ノ宮川を2Kmほどさかのぼったところにある北川橋。

北川橋の近くにホテルの廃墟が建っています。

中世ヨーロッパのお城を模したメルヘンチックな外観です。

入口の看板。

上総一ノ宮駅北西のしがさ通り。ここまで来ると観光客の姿はありません。

小金庵は、地元の方々でにぎわうそば屋さんです。

そば、丼ものが中心ですが、カレーライスや中華そばもあります。

中華そば(チャーシューをトッピング)とビールを注文。
おそば屋さんらしい和風だしの醤油味です。

風船爆弾は、第二次大戦で敗色が濃くなってきた日本軍が、風船爆弾によってアメリカ合衆国を直接攻撃する作戦を展開したものでした。*1

茨木県大津に部隊本部と放球攻撃の第一大隊を設営され、第二大隊は千葉県一宮。第三大隊は福島県勿来にあって、日本の三カ所から放球されました。*1

一宮の打上げ基地は、打ち上げのためのコンクリート台が数基あり、風船爆弾の運搬のために、打上げ基地に向かって上総一ノ宮駅から引込線(線路、現在の一宮停車線に沿う)が敷かれました。実際の打上げ基地は海側の一帯にありました。*2

看板には、満球テストの様子の写真が掲載されています。

P.232
アメリカ本土攻撃のマル秘部隊
第二次大戦で敗色…
一宮の打上げ基地は、打ち上げのためのコンクリート台が数基据えられたといい、…
長生郡睦沢町の中心部にある西門橋。

西門橋の欄干越しに瑞沢川が流れます。

川底から川面に向かって連続的に泡が噴出し発泡している様子をあちこちでみることができます。*1

南関東ガス田の天然ガスを視覚的に理解できる自然湧出現場です。*1

南関東ガス田の天然ガスのポテンシャルの高さを視覚的に理解できる天然ガスの自…
玉前神社の北側にある焼きそば専門店の「かさ屋」。看板や暖簾はありません。

簡素な店内。

メニューは、焼きそばのみです。

スーパージャンボを注文。

上総一宮の玉前神社の裏通り。

玉前神社周辺と門前の商店街には、江戸~昭和期までの歴史的建物が現存しています。*1

吉村理髪店は、江戸時代からの髪結い床で、現在の当主は5代目だそうです。*1

大正時代に改築し、当時のモダンな様子を今も留めています。

今回は、上総一ノ宮(千葉県長生郡)の町並みを散歩します。
JR外房線上総一ノ宮駅の西側の通りの美容室の隣。

井戸まわりはレンガ積みです。

玉前神社近くの三差路。

こちらも同様にレンガ積みですが、高さがあります。井戸の周囲もレンガが敷き詰められています。共同の井戸だったのかもしれません。

横芝から匝瑳市へ向かう国道126号線から北側に一本入った農道沿い。

ホテル「ラベンダー」の看板。

各部屋の位置を示した見取り図を兼ねた看板です。ランプの点滅で満空を表示していたようです。

隣は墓地です。

横芝駅前にあるお食事処「寿々喜」。

ゆったりとしたテーブル席で落ち着けます。

ここでは、地元グルメの「滋養めし」をいただくことができます。
もつは、日持ちしないため、通常はボイルして出荷されますが、横芝町には食肉センターがあるので、生もつのまま店で煮込みむことがでるので、味が格段に違います。*1

「滋養めし」の名前の由来は、横浜でドイツ人からハム・ソーセージの製造技術を学んだ横芝町出身の大木市蔵氏が、大正12年の関東大震災において、被災した方々にふるまった、塩漬け肉と野菜を使った汁かけ丼「滋養飯」から名付けられました。*1

今回は、横芝(千葉県山武郡横芝光町)の町並みを散歩します。
JR総武本線横芝駅は千葉県に現存する最古の駅舎です。1897年(明治30)6月1日に開業し、戦禍にも合わず建て替えられることなく現在に至っています。*1

横芝駅舎は、寺社や武家屋敷で見られる入母屋造の屋根が特徴。通常の入母屋造とは違って軒を深くするために支柱を立て、広い屋外スペースを確保しています。*1

内部。

駅舎と電車。

JR総武本線松尾駅近くの国道126号線沿いにある「仲よしドライブイン」。看板の文字に歴史を感じます。

入口のドアに「かつお入荷しました」の張り紙。

店内はレトロ感満載です。

「かつおニンニク醤油づけ定食」を注文。器の中に厚切りのかつおが10切れぐらい浸かっていてボリューム満点です。

成東山不動院長勝寺本堂の直下に、「成東山不動鉱泉」の碑が建っています。

明治34年、ここに、鉱泉旅館「成東館」が開業。尾崎紅葉、伊藤佐千夫等多くの文人も滞在しました。現在は、「鉱泉井戸」の跡が残されています。*1

「成東館」は、昭和5年頃に廃業、わずか30年足らずで歴史に幕を閉じました。

成東山不動院長勝寺本堂からの眺め。

今回は、成東(千葉県山武市)の町並みを散歩します。
成東駅の南側。作田川近くに長屋風の建物があります。

居酒屋が営業中です。

5軒分ぐらいの規模の建物。現在は看板はまばらです。

建物脇のトイレ。

JR八日市場市から山側へしばらく行った小高(おだか)地区に八坂神社があります。

拝殿には、所狭しと男女の性器を形どった石や木が奉納されています。

形状や色はさまざまです。

江戸時代に奉納された大型の楕円の石もあったそうですが、*1、この石のことかもしれません。

春海の掩体壕の案内板に、「椿にも掩体壕が残っている」と書かれていますが※1、 干潟駅から国道126号線を西に進み、交差点を北に入ったところに、それらしきものが残っています。

住宅地の中の広場に残るコンクリート製の構造物。

形状は掩体壕と同じですが、戦闘機を格納するには小さすぎます。防空壕か弾薬などの保管庫だったのかもしれません。

内部。

干潟駅から北へ約2Km。旭市との境の田んぼの中に、2基の掩体壕が残っています。*1

保存状態は良好です。

案内板も設置されています。

秋田川から見た掩体壕。

八日市場本町(ほんまち)通りから路地を入った突きあたりに、昭和の雰囲気が残る甘味処「うれし野」があります。

ここの名物「じまん焼」は、匝瑳市で生まれ育った俳優の地井武男さんが、子供の頃から親しみ続けた味です。*1

じまん焼きは、こしあん、粒あん、白あん、カスタードの4種から選べます。

焼きそばとじまん焼きを注文。

5年前に70歳で亡くなった俳優の地井武男さん。生まれ育った匝瑳市(旧八日…
今回は、八日市場(千葉県匝瑳市)の町並みを散歩します。
八日市場本町通り商店街に匝瑳市の有形文化財の新井時計店の建物が建っています。昭和6年(1931)の建築で、木造2階建、瓦葺。洋風商家建築です。*1

正面には、縦長の形の窓を3つ並べているが、中央の窓だけがやや大きく、変化をつけた形となっています。

2階部分上部にイニシャルが見られます。*1

昭和初期の商店街の面影をうかがうことができます。

八日市場本町通り商店街に構えた店舗。
湯村温泉の温泉街のメインの通りから東側に入ったところに、「芸妓稲荷神社」と俗称されている湯志麻稲荷神社があります。

かつての湯村温泉には芸者衆が多数いて、「湯村芸妓組合」がありました。芸子さんたちは、お座敷がかかると、安全や商売繁盛を願い、毎回湯志麻稲荷神社にお詣りしたそうです。*1

稲荷神社は、斜面を見下ろすような位置に建っています。

稲荷神社からの南アルプス(鳳凰三山、甲斐駒ヶ岳)の遠望。

湯村温泉街を流れる湯川。

湯川にかかる赤い橋。

赤い橋を渡った先が和風スナック「赤い橋」の入口です。

現在は、休業している模様です。

湯村温泉街の中心部にあるスナック。

現在は休業中です。

ほうとう、すいとん。

スナック「鬼姫」の看板。

今回は、湯村(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
湯村は、古くは志麻荘という荘園内にあって、そこから湧き出した温泉だったため、湯志麻と言いました。やがて湯島となり、さらに湯村と称するようになりました(湯村温泉郷の案内看板より)。
湯村温泉は、葛飾北斎にも登場する江戸時代からの温泉地です。*1

甲府市街からバスで約10分。湯村温泉街の入口です。

開湯は、大同3年(808年)です。

湯村温泉の中心街。

甲府市の春日あべにゅう通り。「たき通り」は、左右に並ぶ2棟の建物間を覆うアーケードです。

居酒屋、バーなどの飲食店街です。
奥には、階段があって2階部分にも店舗があります。

「ありがとうございました」の看板。

奥の通路は細くなっていて、裏春日通りの別の飲食店街へつながっています。

甲府市中央1丁目の春日ビル。※1
「地下バー街」と書かれた矢印看板があります。

地下1階へ降りる階段。

薄暗いらせん階段が続いています。

地下1階のバー街。

甲府市の中央4丁目の繁華街の南のはずれに老舗の蕎麦屋の奥村本店があります。

奥村は、江戸時代寛文年間(四代将軍徳川家綱の時代)の創業。年貢に苦しむ村人のため、江戸へ直訴に行きました。死罪を覚悟していたため、自分たちが死んでも、生活してけるようにと、そば屋を開き、山奥の村から来たので、店の名前を『奥村』にしました。*1

「地酒のみくらべセット」を注文。

天ぷらそばを注文。

甲府市の桜町通りに、同じ高さの2棟の建物が並んで建っています。

バー「BLUEMOON」。

2棟のビルの間は、アーケードになっています。

2階への階段。

天神町にある玄法院。

入口を入ったところに、手水石が置かれています。

水盤の裏側に「新柳町 発起人」と書かれています。新柳町には、かつて遊廓がありました。新柳町遊廓があった場所は、ここから徒歩3分ぐらいの場所です。
明治3年(1870年)甲府役所からの命令で、旧来の柳町にあった旅籠屋が移り「新柳町遊廓」ができました。*1*2

明治9年、貸座敷制度ができると、遊廓の各業者は庭園などに趣向をこらし、知識人の社交の場としても利用されるようになり、甲府遊廓の隆盛時代となりました。その後、明治40年の大火をきっかけに穴切に移転しました。*1
手水石は、明治14年に奉納されたものです。新柳町の隆盛を感じるものと言えそうです。

今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府駅の北側の朝日5丁目にある飲食横丁の「新天街」※1。

以前※1 と比べ、看板の数が減っています。

客引き・暴力禁止看板。

北側の半分は空き地になっています。

久米川駅北側の都道226号線沿い。

最近、見かけなくなった「氷室」の看板。

氷屋の看板は「氷屋」「氷ヤ」「氷室」などあるようですが、この商店の場合は、「氷室」です。

ブロック塀に残る「氷」の看板。

久米川駅南口の交差点の角にあるそば処「巴屋本店」。

常に賑わっている蕎麦屋さんです。

そば処「巴屋」は天保元年(1830年)に麹町で創業。その後、戦争により疎開して 久米川に移転し、久米川では70年以上営業している老舗です。*1

「天ざる」とビールを注文。

西武新宿線久米川駅は東村山駅の一つ隣の駅です。
駅前にレトロなビルが建っています。

1階には飲食店、パブやスナック。

レトロな看板。

建物の裏側。

東村山駅前にある和菓子の「餅萬(もちまん)」は創業1876年の老舗です。
東村山の誇る志村けんさんのギャグ「だいじょぶだァー、だっふんだァー」に因んだユニークな銘菓が販売されています。*1

店内でお茶をいただくこともできます。
「だいじょぶだァー最中」と「だいじょぶだァーどら焼き」を購入。

「だいじょぶだァーどら焼き」は小倉餡。うぐいす餡の「だっふんだァーどら焼き」もあります。

店内には、志村さんの書籍などが展示されています。

太平洋戦争末期、東京都は、糞尿民の処理が行き詰まり、西武鉄道村山線は、昭和19年(1944)から10年間、夜間に糞尿輸送を行っていました。この糞尿専用列車は、俗に黄金列車と呼ばれました。*1

糞尿は始発駅のタンクに蓄えられ、これを糞尿列車が輸送し、終着駅(東村山)で列車のバルブを開けるとモノがタンクに落ちる仕掛けです。*2

東村山の糞尿タンクは、駅北方の現在の西武鉄道社員寮付近に設けられ、東村山の農家はリアカーやオート三輪で糞尿を汲みに来ました。*1

付近は、高架化の工事中です。

旭館の周辺(昭和5年ごろ)
演芸場「旭館」は、昭和3年に開館した。
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黄金列車
西武鉄道村山線は糞尿輸送を夜間に行っていた。昭和時代、…
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その頃農村は食糧増産に懸命な努力を続けながら肥料不足に困っていた。…
京急浦賀駅から南へ徒歩1分のところにある岩城屋。

店内には、日本酒、焼酎のボトルがずらりと並べられています。

魚を中心としたメニューが豊富です。

刺身定食と日本酒を注文。

浦賀は入江をはさんで、東西に町が形成されていて、この東西を結ぶ渡船(市道2073号線)があります。*1

お客さんが一人でもいれば、反対岸にいても迎えにきてくれます。

わずか3分たらずの船旅ですが、浦賀港の名物です。

交通機関としての渡船の歴史は古く、江戸時代も中期ころには始まっていたそうです。*1

P.66
浦賀は入江をはさんで、東西に町が形成されている。この東西を結ぶ市道…
今回は、浦賀(神奈川県横須賀市)の町並みを散歩します。
浦賀駅から東へ住宅の中の坂道を2km近く登っていくと、そこだけ森が残されている明神山に行き着きます。

鳥居をくぐると正面に鉄格子で囲まれたご神体が鎮座しています。

鉄格子の中にあるのは、長さ2mほどの長方体の大石です。安房口神社は性神で、もともと安産信仰の対象となっていたのは、この神石だけではなく、明治の末までは二つの陽石が現神石の前に祀られていました。*1

現在ある神石は陰石であり、穴のある形状は明らかにそれを示しています。*1

西浅草のどぜう「飯田屋」の南側の通り。

マンションのビルの1階に3軒のガールズバーが並んでいます。

水着ガールズバー。

サメのオブジェ。

「どぜう飯田屋」の南側の通り。

中華屋の「来集軒」。 地元の方々で常に賑わっています。

年季の入った看板。

醤油ラーメンとビールを注文。

浅草駅の西側の雷門通り。

通りに面して相撲グッズ専門店があります。

店の入口上部には力士のオブジェ。

力士のオブジェは、軒下にぶら下るように取り付けられています。

浅草の本法寺。

塀には、噺家や演芸関係者の名が刻まれています。

1940(昭和15)年、「講談落語協会」は、時勢にふさわしくない53席の落語(女郎買い物、酒飲み物、間男物、美人局(つつもたせ)物、泥棒物)を「禁演落語」として制定し、政府に届け出をしました。具体的には、を選定しました。翌年の1941(昭和16)年、浅草の本法寺に「はなし塚」が建てられました。*1

最終的には、違反した場合の処分や取り締まりのための教育の問題を懸念し、政府は「参考としての受理」という形を取ったそうです。1945(昭和20)年の東京大空襲の際には、寺の本堂は焼失したにもかかわらず、この「はなし塚」だけは残りました。*1

案内板にある「明烏(あけがらす)」「五人廻し(ごにんまわし」「木乃伊取(みいらとり)」は、いずれも女郎買い物(廓噺)に分類される演題です。
「木乃伊取」は、「ミイラ取りがミイラになる(人を連れ戻しに行った者が先方に留まってしまうこと)」ことを題材としてものです。*2
浅草寺の南側にある弁天山。山には、老女弁財天を祀る弁天堂と鐘楼が建っています。

山の横腹には、芭蕉句碑、都都逸碑など多くの碑が取り囲んでいます。そのうちの一つ、「扇塚の碑」。

この碑は、花柳徳太郎が永眠した昭和38年の翌39年に建立さらた碑です。花柳徳太郎は明治11年、浅草に生まれ、同38年に柳櫻会(日本舞踊の流派)を創立。昭和34年、舞踊界に長年尽力した功により紫綬褒賞を授を授与されました(碑文より)。

扇。

浅草神社の裏手に、金網で囲まれた像が建っています。

蓮の花びらの上に乗り、楫(かじ)を持ち、笠をかぶっています。(案内板より)

この像は、寛政9(1797)年、新吉原江戸町1丁目質両替商、万字屋の妻佐野ひでにより建立され寄進されました。彼女には久次郎という子がいましたが、14歳のとき舟遊びをしているときに水難死してしまいました。彼女は霊を弔うために一葉観音像を建立しました。*1

「新吉原江戸町萬字屋」と刻まれています。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
浅草神社(三社様)の境内に歌碑が建っています。

この歌碑は、文化3年(1806年)8月の建立で、筆者は吉原角町松葉の花魁(遊女)の粧太夫(よそおいだゆう)蕋雲(ずいうん)女史です。*1*2

粧太夫は、当時の錦絵にも描かれているそうです(案内板より)。

「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島かくれゆく船をしぞ思う」という柿本人麻呂の歌が雄渾(ゆうこん)な筆致で碑に記されています。*1
昔の遊女が教養豊かであった証として、この碑は引き合いに出されます。*3

浅草の三社さまの境内に、。「ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島かくれゆく船をし…
この歌碑は、かつて被官稲荷の裏手にあった人丸社に献納されたもの。
昔の遊…
三ノ輪の浄閑寺近く。

飲食店が連なる看板建築の建物。

周囲と異なり、ここだけが奇跡的に古い佇まいが残っています。

建物の裏側。

三ノ輪一丁目にある銭湯の日の出湯。

重厚な宮造り銭湯です。

玄関前には、石畳が敷き詰められています。
最近になって閉店した模様です。

隣の駐車場から。

千束3丁目。旧吉原遊郭の北端の交差点の角。

ビルの1階に、風情を感じる佇まいの蕎麦店があります。

そば類の他、丼ものも充実しています。

ざるそばと日本酒を注文。

一葉記念館※1 の近くにある「一葉煎餅」。

創業は昭和27年です。

名物のお札せんべい。
現在の樋口一葉の5千円札は、2004年に刷新され、20年が経過しました。

電柱プレートにも「一葉」。

一葉記念館は、昭和36年(1961)に開館。当時、女流作家の単独資料館としてはわが国で初めてのものでした。その後、館の老朽化が進んだことや樋口一葉が新五千円札の肖像に採用されたことを機に、平成18年(2006)11月1日にリニューアルオープンしましたされました。*1

吉原遊廓の地図。
「おはぐろどぶ」と呼ばれた水路は、遊廓の周囲だけでなく、内部にも2本通っていたようです。

一葉が使用していた机などのゆかりの品々が展示されています。

当時の一葉宅周辺の地図。

一葉記念館建設の経緯について
旧吉原遊廓の入口にあった「見返り柳」は、遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊廓を振り返ったというところから名付けられた名所でした。*1
現在は、柳の脇に記念碑が建てられています。

碑の側面。

京都島原遊廓の出入り口には柳が植えられていて「出口の柳」と呼ばれていましたが、それを真似て吉原でも柳を植えたそうです。*1

京都の島原と異なり、江戸っ子は出口の柳ではなく「見返り柳」と艶っぽい名前を付けました。*1

吉原から明治通りを超えた荒川区にある石浜神社。
境内にある真先(まっさき)稲荷は、江戸時代、墨田川を望む名勝の地にあって、吉原帰りの客が賑わいました。なかでも「吉原豆腐」を材料にした甲子屋(きのえねや)の「豆腐田楽」は有名で、境内の茶屋は随分と繁盛したと伝えられます。*1

真先稲荷神社由緒の碑が建ち、その隣に2基の燈籠が建っています。

石浜神明社社地に天神様の勧請のあった明和4年、吉原仲の町で、”にわか”(俄、即興で仕組む一種の仮装行列・踊り)が盛大に催されました。燈籠は、「吉原にわか」を記念して建てられたものと考えられます。*2

銘には、(表)天満宮、(側面)新吉原二丁目玉屋庄兵衛(側面)明和四丁亥八月吉日、とあります。*2

今回は、吉原(東京都台東区)の町並みを散歩します。
日蓮宗正法寺の正面の本堂の裏手にまわると黒い石碑が立っています。

これは、石川雅望が撰文した重三郎の死を悼んだ石碑です。*1

住職の話では、大震災までは墓も存在していて、墓は震災のときに避難してきた人たちの荷物とともに焼け崩れてしまったそうです。*1

蔦屋の紋も刻まれています。

甲府駅の近く。丸の内2丁目にある旅館「萬集閣」。

昭和初期の風情を残すレトロな旅館です。*1

「ビジネス宿まんしゅうかく」。

蔦のからまる旅館です。*1

甲府市の歓楽街「裏春日通り」通りの東隣に「南銀座」と名付けられた通りがあります。入口には、水色にピンクの文字で「minamiGinza」と書かれたゲートが建っています。

南銀座の案内看板。飲食店が集まっています。

南銀座の中ほどにある飲食店。

北側の入口。

「仲見世」※1 の正面側を見ると、建物は、3~4階建ての建物になっています。

お座敷サロン「桃太郎」の看板。

隣には、かなり煤けたミニクラブ「ぶりっ娘」の看板。

入口は、仲見世のアーケードの中にあります。2階が「桃太郎」、3階が「ぶりっ娘」。

甲府市の中心街。桜町通り。
ここに、「仲見世」と書かれた看板のあるアーケードがあります。入口には、年季を感じる「NAKMISE」の文字。

昼間でも薄暗い商店街。

L字型の角をまがったあたり。喫茶店が営業中です。

反対側の出口。

甲府市の南、太田町の住宅街。

ビル銭湯の新遊亀温泉があります。

近くには遊亀公園があります。

金色の文字。

若松町の濁川添い※1 を進むと交差点の角に、黒駒楼があります。

店内。

黒駒楼の創業は江戸時代の後期で、現存する鰻屋の中では甲府最古です。黒駒楼は空襲で焼失してしまいましたが、昭和35年に再建した店の2階大広間には見事な松を描いた舞台があり、宴会に若松町の芸者さんを呼んで賑わった往時を、今もしのぶことができます。*1

ランチ丼とビールを注文。

甲府最後の鰻屋
土橋南側の黒駒屋佐兵衛は明治時代に黒駒楼と改称し、現在も…
今回は、甲府(山梨県甲府市)の町並みを散歩します。
甲府市の若松町は、駅前の歓楽街のさらの南側に位置する住宅街です。

若松町の町名の由来を記した道標。
「明治9年、甲府の西一条と信立寺町が合併してできた町で、西一条通りに若松座という劇場があった。」と記されています。

若松座は、斎藤建設のあった場所(現在は駐車場)にありました。*1
若松座の前身、亀屋座は、関東八座の一つで、1764年(明和元年)の開業。1803年の鳥羽屋火災で被災のため、1805年(文化2年)に若松町に移転、大劇場をつくり、隆盛期を迎えました。明治になり、1883(明治16)年、若松座と改称しましたが、三井座(のちの桜座)の影響もあり、経営難となったうえ、1892(明治25)年1月の火災に遭い、その後、春日町に再興するも振るわず、2~3年後に姿を消しました。*2

濁川。写真奥は南アルプス鳳凰三山。

P.394
若松町・緑町
⑲斎藤建設のあった場所に、若松座があった。
P.164
前身を亀屋座といい関東八座の一つで有名。1764年(明和元年)に亀屋…
江戸時代、守谷地区では水運が開け、坂戸井、大木、野木崎など沿岸各所に河岸ができました。河岸とともに発展したのは、その河岸に停泊する船の船頭を相手にする水茶屋でした。水海道河岸にはその水茶屋が数件あり、また、坂戸井河岸、清滝神社の下、俗にいう滝下にも、増屋、花屋などという料亭がありました。*1
(写真は、鬼怒川にかかる滝下橋から見る清滝神社方面。)

江戸時代、清滝神社では毎年秋の取り入れが終わった10月、村芝居が興行されていました。娘っ子たちは、その日になると板戸井にただ一軒ある髪結へ出かけ、綺麗に身づくろいをして祭りに出かけました。*2

川べりの鳥居。かつては、河岸からこの鳥居めがけて登る道があったのでしょうか。

船頭の船主が寄進したものと思われます。

水運が開け、舟の往来が激しくなると、沿岸の各所に河岸ができた。守谷地区では…
(1)板戸井の村芝居
江戸時代、働くことを強制されていた百姓たちは娯楽に…
今回葉、守谷(茨城県守谷市)の町並みを散歩します。
石神神社は、「乙子の石神様」とも呼ばれ、オオヒビヤイナソンジャを祭神としたもので、創建は享和三年(1803)と伝えられています。明治43年に村内にあった駒形神社を合祀し、社殿も神殿風に造り変えられました。*1
神殿の前には、大小2体の男根が安置されています。

小さい方の男根の方が古く、「石神」と刻まれています。

大きい方の男根は、「平成5年9月」と刻まれており、新しいものです。

神殿の周囲には、おびただしい数の男根が安置されています。

(1)板戸井の村芝居
江戸時代、働くことを強制されていた百姓たちは娯楽に…
峠坂※1 を上りきり、さらに南下すると神明坂があります。
このあたりは、旧取手宿本陣の裏手にあたります。

左側に石標が建っていますが、右側にもう一つ、古い石標が建っています。

石段の坂です。

坂の上部にも石標が2本建っています。

取手駅東側口の長禅寺があるたりは、小高い丘になっていますが、その北側の道は低地になっています。その道を南下すると峠坂に出会います。道が二股に分かれていますが、右側が峠坂です。

手すりが欲しくなるほどの急坂です。

坂の上部から見ると急坂であることを実感できます。

半分埋もれてしまっていますが、峠坂の石の道標が残っています。

取手駅から西に約1km。
青柳本願寺は、徳川家康の重臣の本多重次の菩提寺です(案内板より)。

本堂の手前左側に、石神様が3体祭られています。

金精神。

こちらの2体は「石神」と刻まれています。

取手駅から競輪場方面へ向かう道の途中。

こじんまりとした焼きそばの店があります。

メニューは焼きそばのみです。アルコール類はありません。

やきそばの「特大たまご入り」とジンジャエールを注文。

今回は、取手(茨城県取手市)の町並みを散歩します。
取手競輪場の入口のすぐ近くに、レトロな食堂があります。

お食事処「さかえや」。

店内では、競輪を観戦できます。競輪好きのお客さんは、店と競輪場の間を何往復もします。(競輪場内ではお酒は飲めません。)

もつ煮と日本酒(熱燗)を注文。日本酒はガラスの徳利で出てきます。

水戸駅の東側。国道51号線沿い。

大衆食堂の「ともべ食堂」。

ちゃんぽんが自慢の店です。

ちゃんぽんとビールを注文。

水戸市の末広町2丁目。バス停の近くに「若い力」と題した裸像が建っています。

碑文には、「新修道路開通記念」と書かれています。

碑文によると、このあたりは宝暦年間から続く歴史のある通りで、かつては、谷中※1 などの町名で呼ばれていましたが、昭和20年8月1日の戦禍を免れたことから、その後の交通量の増加に耐えられなくなり、新たに、道路や上下水道などを改修し、この像は昭和39(1964)年7月31日建立されたそうです。

背面から。

堀原運動公園にある東日本技術研究所武道館。

武道館の前に常陸山※1※2 の銅像が建っています。

日本近代相撲の父、常陸山は、1920年、焼失した国技館を再建するなど、今日の角界隆盛の基礎を築き、不動の功績を残しました。1922年、48歳の生涯を終えました。この像は水戸市制百周年を記念して建てられたものです。(碑文より)

背面より。

今回は、水戸(茨城県水戸市)の町並みを散歩します。
水戸駅から茨城大学方面へ向かうバスに乗り、袴塚2丁目バス停で下車。交差点を南に折れると、銀星映画劇場があります。

土曜日は、オールナイト営業です。

爆笑、アクション、エロチシズム。

「水戸銀星」と呼ばれていたようです。

浅草の菊屋橋交差点の角に建つ「ニイミ洋食器店」。

屋上の巨大コック像は、圧巻です。

横から見ると、首の後ろ側に枕のような物体がついています。

かっぱ橋道具街の通りに面した店舗では、食器や厨房器具などが販売されています。

合羽橋(かっぱ橋)道具街にある東京美研は、食品サンプルの製造・販売を行っている会社です。

ひと昔前まで、食品サンプルの材質は蝋(ロウ)でしたが、蝋だと、温度差により縮みや変形が起こりやすいため、現在は、塩化ビニール(塩ビ)で制作されています。*1

フルーツのコーナー。

白い大豚。

浅草寺の北側。塀の向こう側(写真左側)には浅草寺の支院が集まっています。

ここに、「山東京伝机塚(さんとうきょうでんつくえづか)の碑」が建っています。
山東京伝(1761.8.15~1816.9.7)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著しました。この碑は、京伝の弟京山が文化14年(1871)に、建立したものです(案内板より)。

碑の表には、「書案之紀」と刻まれています。「書案」とは、机のことで、京伝は、9歳のときに親が買ってくれた机を生涯愛用しました(案内板より)。

山東京伝は、遊女を妻にするほど遊里に精通し、1784年~91年(天明4~寛政3)の7年間に16種の洒落本を発表しました。

安政元年(1854年)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷に祈願し、その効果あって病気が全快したので、辰五郎は、同2年、伏見から勧請し、被官稲荷を創建しました(案内板より)。

吉原の福来楼、岩井楼の名があります。

吉原の芸者の名でしょうか。*1

「浅草公園待合業組合」寄進の玉垣。

今回は、浅草(東京都台東区)の町並みを散歩します。
浅草地下商店街は、浅草駅の交差点と地下鉄改札口を結ぶ地下街です。※1

浅草やきそば「ふくちゃん」。

ラーメン、やきそば、丼もの。昼間からお酒が飲めます。

ほとんどのお客さんが頼むやきそば。目玉焼のトッピングができます。今回は「2個のせ」でお願いしました。

東村山駅の隣駅の久米川駅の東口に「久米川北口商店街」のゲートがあります。
「憩いの街8店舗」の店名がずらりと記載(9店舗)されていて賑やかな雰囲気です。

矢印の方向に進むと、「楽しい憩いの待」の看板。「待」と書いて「まち」と読むようです。

路地はL字型になっています。

昭和の雰囲気の残るスナック。

西武新宿線久米川駅の東、約1kmのところに大岱稲荷神社があります。

その隣にの祠の手前に、「社吹堂」と名付けられた小さな祠。

「社吹堂」には、2個の石神が安置されています。
五輪塔の頭部をそのままもってきたものではないかとの説もあります。*1

昔から存在していた石仏信仰で、東村山の文化遺産として整備されています(案内板より)。

東村山の熊野神社の裏にある富士塚(久米川富士)は、円墳のような形状をしています。

久米川富士は、東村山市の史跡に指定されています。

通常の富士塚は、黒ボクとよばれる富士山の溶岩や自然石で覆われていることが多いのですが、久米川富士で使われている石材は、階段部分の土留め用コンクリート板のみです。

頂上からの眺め。

東村山駅の北側。西武新宿線の踏切の近くに昭和の風情を残す大衆食堂があります。

たけうち食堂。

丼ものから定食まで、メニューは豊富です。

天丼とビールを注文。
どんぶり山盛りのごはんは、食べ応えがあります。

東村山駅西口の交差点付近。
かつて、このあたりには、旅館や飲食店が建ち並ぶ繁華街でした。※1

交差点の先には、映画館(演芸場)の「旭館」、カフェー「武蔵軒」がありました。*1*2

駅前にあった料理店「松月」があったたり*1※1は、現在は駐輪場になっています。

駅の北側。芸者屋「オタマ」があったあたり。*1

大正末~昭和初期の東村山駅西口
古老の方々からの聞き取りと大日本職業別明…
旭館の周辺(昭和5年ごろ)
演芸場「旭館」は、昭和3年に開館した。
P.24
黄金列車
西武鉄道村山線は糞尿輸送を夜間に行っていた。昭和時代、…
東村山ふるさと歴史館。

大正末期の東村山駅西口のジオラマが展示されています。

駅前には、旅館や飲食店があり、交差点の先には、映画館やカフェーもありました(案内板より)。

駅前の料理店「松月」が見えます。(写真右)

今回は、東村山(東京都東村山市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東村山駅東口の駅前。ケヤキの木の隣に志村けんの銅像が建っています。

志村けんさんは、昭和25年東村山市生まれ。東村山市名誉市民です。昭和51年、「8時だョ!全員集合」の人気コーナー「少年少女合唱隊」で「東村山音頭」をアレンジして披露し、「東村山」の地名を全国に知らしめました。*1

令和2年(2020年)3月29日、志村けんさんは、新型コロナウイルスによる肺炎のため亡くなりました。
同年6月市議会の同意を得て東村山市名誉市民の称号が贈られました。*1

「あいーん」のポーズ。

守谷市本町にある石神稲荷神社。石神神社と稲荷神社の2つの祠があります。

石神神社の「根勢社」と書かれた祠。

大小2本の石の男根が安置されています。

ここには、昔、「石神の松」と呼ばれる名木が生育していました。

東京から守谷へのアクセスは、つくばエクスプレスが便利ですが、守谷駅には、もう一つ、関東鉄道の常総線(下館駅~取手駅)が通っています。

写真の車両は、復刻塗装車両(キハ2401)。昭和40年代~60年代頃に、運行していた2色塗装を施した車両です。*1

1両編成のディーゼル車両ですが、線路は複線です。

隣の南守谷駅に到着。

今回は、守谷(茨城県守谷史)の町並みを散歩します。
守谷駅近くの住宅街にある「自由軒」。

「中華」「洋食」の二刀流です。

メニューの数は中華が多めです。

今回は、洋食のオムライスとビールを注文。

関東鉄道の西取手駅。

駅の隅に、木製消火器が鎮座しています。

赤色が鮮やかです。

改札口からの遠望。

藤代駅近くの谷中交差点の近くにある熊野神社。

大きな台座の上にコンクリート製の男根があります。

先端部分。

小泉市右衛門と刻まれています。

取手駅西口から競輪場へ向かう道の途中。

駐車場。

中国語の看板。「请不要在停车场内上网和吸烟」
(駐車場でのインターネット閲覧や喫煙はご遠慮ください。)

こちらは、日本語の看板です。

取手市台宿の住宅街。

「越後屋」の大看板。

店内に掲げられている暖簾には、「餃子の店」と書かれています。

「餃子2人前定食」とビールを注文。
(餃子2人前定食は、通常メニューにはありません。)

「従是筑波山道」碑※1 の近くの県道沿い。
お食事、結婚式。手打ちそばの看板。

モーテルのような2階建ての商業施設の建物が建っています。

お食事処。

天ぷら蕎麦とビールを注文。

蚕影神社の参道の入口に、一軒の茶店(「春喜屋」)が残っています。*1

戦前までは三軒ほどの茶店があって、三月から五月にかけての代参時期にはかなりの参拝者で賑わいました。*1

土産物の「蚕影羊羹」の看板。

自然湧水。

北条から筑波山神社へ向かう「つくば道」の中間点あたりに、蚕影神社の道標がありますが、ここから西へ進んだ山腹に蚕影山神社が鎮座しています。
蚕影山信仰は、養蚕が盛んになった頃から、全国各地に流布されていました。*1

奉納額のほとんどは、大正時代から昭和初期にかけてのものです。

額殿新築寄付者の石碑。寄付者は関東各地や東北地方まで広範囲に及んでいます。

金色姫伝説(病で亡くなった金色姫の遺骸が繭になり、繭から糸を取ることを教えられた)が日本の養蚕の始まりとされています(案内板より)。

夫女原の歌碑※1の南側に「夫女ヶ石」があります。

矢印の方向に進むと、大きな自然石が2つ。

陰陽石とも言われる奇石で、その形が男女並んでいるようにみえるため「夫女ヶ石」の名が付けられました(案内板より)。

割れ目があるので、こちらが陰石でしょうか。

今回は、筑波(茨城県つくば市)の町並みを散歩します。
筑波山の麓。筑波ふれあいの里の前に、大きな石碑が建てられています。

当時、常陸の国府の役人であった高橋虫麻呂が筑波山の嬥歌会(かがい)に参加したときに詠んだ歌です(案内板より)。

嬥歌会(かがい)とは、筑波の国の裳羽服津(モハキツ)のほとりに、男も女も誘い合って集まり、歌を掛け合わせて、性の解放におよぶことは、をいい、これは、筑波の山の神がその昔から認めてきた行事だと、詠みあがています。*1

筑波山の嬥歌が行われたモハキツについては、次の5説があるそうです。*1
1.夫女原(ぶじょがはら):旧六所神社の裏山、筑波山神社の南東方8丁余の麓
2.飯名岡(いなおか):筑波町臼井、飯名神社の丘陵
3.蚕影山(こかげやま):筑波町神郡、蚕影山神社の山
4.真壁町羽鳥
5.御幸原(みゆきがはら):男体山と女体山の鞍部
たしかに、ここ夫女原は、多くの男女が集まれそうな広い場所です。

土浦駅西口のバスターミナルに建つ裸婦像。

デッキの上からも見ることができます。

後ろから。

豊かな体格の裸婦像です。

土浦駅前の桜小路の隣の通は、居酒屋やスナック・パブなどが密集する歓楽街です。

ものまね芸人が出演する居酒屋。

パブの看板が乱立しています。

ショータイムを売りにする店。

土浦市中央1丁目の交差点の角にある「保立食堂」は、明治二年、魚問屋と食堂を兼ねて開業したもので、予科練※1 の指定食堂でした。*1

現在は、天ぷら屋ですが、建物の外観は予科練習生が来ていた当時と同じ店構えです。*1

当時、土浦市にはこの保立食堂の他、保長食堂、富久善本店、豊島百貨店食堂、桝屋そば店、吾妻庵等、計7店の予科練指定食堂があり、このうち、現在も残っているのは、土浦市中央にある桝屋そば店、吾妻庵とこの保立食堂の3軒です。*1

天ぷら定食とビールを注文。

「保立食堂」は、明治二年、魚問屋と食堂を兼ねて開業したもので、予科練の指定…
阿見坂上の「さとう衣料品店」前。

道路の角に、「海軍用地」の標識が残っています。*1

中郷東の旧中印刷前の道路沿いにも同様の道路標識が残っています。*1

残念ながら、表面は風化して判読不能です。

現在、陸上自衛隊土浦駐屯地ある場所は、戦時中、土浦海軍航空隊の本部がありました。*1
その敷地の一角に、予科練の碑(予科練二人像)が建っています。

「予科練」とは「海軍飛行予科練習生」の略称で、戦時中、14才半から17才までの少年を全国から選抜し、搭乗員としての訓練をし、このうち約2万4千人が飛行練習生課程を経て戦地へ赴きました。なかには特別攻撃隊として出撃したものも多く、戦死者は8割の1万9千人にのぼりました。*2

予科練二人像。左側に「七つボタン」の制服姿、右側に飛行服姿の像。

『若鷲の歌』では「七つボタンは桜に錨・・・」と歌われたことから、七つボタンの制服は、当時の少年たちの憧れとなりました。*3
