高松(古天神味の店)華下天満宮の小路

今回は、高松(香川県高松市)の町並みを散歩します。
高松市街の百間町にある「華下天満宮」前の小規模な飲み屋街「古天神味の店」。

居酒屋やスナックが建ち並ぶメインの通り。

裏側の通り。

古びたスナックの入口。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

高松(ポルノショップ)熊ん子

高知(帯屋町の小路)窓に特徴のある店

高知市帯屋町1丁目の飲み屋小路。落ち着いた感じのスナック店が建ち並びます。

窓に特徴のある「壁」という店。

小路は、L字型になっていて、大通りへ抜けれます。

夜の様子。

参考文献

参考記事

高知(大人のおもちゃ屋さん)ピンク堂

堺町の中央緑地沿い。昼間は閑散としています。

大人のおもちゃ屋さん

陳列している商品。

「ピンク堂」の看板。

参考文献

参考記事

高知(美容室)狭小建物

高知市与力町(堺町の西側)の交差点の角にあるレトロな「マキ美容室」の建物。

横から見ると、驚くほど狭小な建物であることがわかります。

入口付近。こちらは、「サロンK」という屋号です。

カラフルなタイルの装飾。

参考文献

参考記事

高知(Rあんま)乳房マッサージ 

高知市南はりまや町。鏡川の堤防に近いあたり。

あん摩マッサージ屋さん。

インパクトのあるR(アール)あんま乳房マッサージの看板。

こちらが出入り口のようです。

参考文献

参考記事

高知(鏡川河畔のラブホ街)美しい夜景

潮江橋から見る鏡川河畔(高知市天神町)は、観光ホテルとラブホテルとが混在し、奇妙な風景をつくりだしてています。*1

派手な色のラブホテルの建物。

古城を模した建物もあります。

夜になると、鏡川におちるネオンの影が美しい夜景を演出します。

参考文献

*1
高知遺産プロジェクト高知遺産Art NPO TACO2005
鏡川河畔のラブホ街
p.95 天神町 観光ホテルとラブホテルとが混在する奇妙な風景。しかし、夕焼けの日に見ると、…

参考記事

高知(料亭「得月楼」)陽暉楼

高知市南はりまや町にある料亭「得月楼」は、宮尾登美子著の「陽暉楼」の舞台なった料亭です。*1

創業者の松岡寅八は、幼年時代から商売を仕込まれ、明治5年に独力で陽暉楼をはじめ、更に得月楼を創業(明治11年・1878・谷干城命名)。後に本店を稲荷町に移し、中店を浦戸に置いて、数カ所に出店して発展させました。現在の得月は中店です。*2*3

見事な庭園。

昼のランチはリーズナブルな価格で、個室でゆっくりできます。

参考文献

*1
得月楼得月楼 ご案内得月楼 リンク
得月楼は自由民権運動発祥の地として知らせる 高知の中心部、はりまや橋のたもとにあります。
*2
山本泰三土佐の墓 その2土佐史談会1987
松岡寅八
P.235 寅八は、水道町(旧横町、魚の棚)住、幼年時代から商売を仕込まれ、明治2年、友人と玉水新地で料…
*3
公文豪土佐の自由民権 : 史跡ガイド高知新聞社2013
思案橋(玉水新地跡):自由懇親会も開かれた紅燈の巷、玉水新地
P.19 明治2(1869年)、新地が新設されてから料亭が立ち並び、「上の新地」「玉水新地」と呼ばれるように…

参考記事

高知(スタンド小吉跡)堺町

かつての青線街「掛川町」※1 は、現在の堺町8,9,11,12,13付近と思われ、1983年の住宅地図を見ると、スタンドやスナック、トルコ風呂などが密集しています。*1
写真の左手前の交差点の角(現在は駐車場)には、スタンド朱美、スタンドひとみ、スタンド姿、がありました。

スタンド小吉の建物。
昭和33年の売春防止法施行以降、掛川町の特飲街は、旅館、スタンドなどに転業し、従来通りの賑わいを呈していました。(この建物が青線であったかどかは不明です。)*2

かろうじて「小」の文字が残っています。前回(2014年)、この付近を歩いたときの記憶では、「一品料理 スタンド小吉」と書かれていたと思います。

料亭の建物を思わせる2階部分。

参考文献

*1
ゼンリン高知市中央部 1983ゼンリン1982.9
堺町
P.67 堺町12 スタンド小吉、スタンド朱美、スタンドひとみ、スタンド姿、スナック鳥小屋、…
*2
高知市地方都市の暮らしとしあわせ高知市史 民俗編高知市2014
Ⅱ 売春防止法時代
婦人相談所の開設 P.264-P.265 1958年3月3日、市内の赤線(玉水町)と青線(掛川町)の両地区で、集団転…

参考記事

※1高知(掛川町)青線があった地域

高知(掛川町)青線があった地域

今回は、高知(高知県高知市)の町並みを散歩します。
高知市の掛川町は、かつて青線(非公認の特飲街)があった場所です。*1
現在はソープランドなどが建ち並ぶ風俗街になっています。

旧町名の掛川町の案内板。案内板によると、「掛川町」は、関ヶ原の合戦後、山之一豊が掛川(現在の静岡県掛川)から入国のとき、職人を移住させたことに由来する地名です。
青線があった時代は、玉水町の赤線※1※2※3と並んで、掛川町の青線と呼ばれていたようです。売春防止法施行により、赤線と青線は解散しましが、掛川町の青線については、半年後街娼がみうけられるようになり、転業した旅館のほとんどが連れ込み宿でした。*1※4

現在の町名は、堺町です。

「掛川」の電柱番号札。

鳴門(スナック跡)撫養駅近く

JR鳴門線撫養駅(鳴門駅の一つ隣)の東側の交差点。

古いスナックの建物があります。

スナック「青い鳥」。

現在は、休業中のようです。

参考文献

参考記事

鳴門(ボートレース鳴門近くの大衆食堂)徳島ラーメン

ボートレース鳴門近くには、昔ながらの大衆食堂が2軒あります。1軒は「うれしや食堂」※1 、そして、もう1軒がこちらの「うずしお食堂」です。

徳島ラーメンが名物のようです。

店内のショーケースには、小皿に取り分けられた料理。

徳島ラーメンを注文。

参考文献

参考記事

鳴門(コンクリゴミ箱)飲み屋街

前回※1 も散歩した撫養町南浜東浜の飲み屋街。コンクリゴミ箱が設置されています。

隣には、ポリバケツのゴミ箱。新旧のゴミ箱が並んでいます。

保存状態良好です。

きちんと清掃されています。

鳴門(東湯)煙突は東温泉

鳴門駅の北側。住宅街の中にある銭湯の東湯。

鳴門市撫養町小桑島日向谷。看板には、「桑島 東湯」とあります。

現在は、休業中のようです。(貼り紙有り。)

煙突には、「東温泉」と書かれています。

参考文献

参考記事

鳴門(林崎遊廓跡地)近世から続いた遊廓

林崎遊廓の起源は、近世末の商人船の多く出入る湊が賑わっていた頃にさかのぼります。松富楼、玉川楼、改進楼、菊水楼、村上楼、金時楼、喜楽楼、丸山楼、衆景楼、がありました。*1

現在、遊廓地の面影はありませんが、所々に大型の民家が残っています。

「一心」という屋号だった建物。*2

昭和4年の市街図*3によると、遊廓地は、道路を超えた東側にも広がっていたようです。(写真奥は撫養城)

参考文献

*1
西田素康撫養港の「みなと文化」みなと総合研究財団 リンク
P.88-22-P.88-24 遊里・料亭 廓 撫養港そばの林崎遊廓の起源は、近世末にさかのぼる。鳴門市史上巻(昭…
*2
日本住宅地図出版徳島市・鳴門市 1960日本住宅地図出版1960
P.80 旅館陣幕、旅館高松、多田席、スタンド国の山、清光亭、旅館春風館、の記載。
*3
東京交通社大日本職業別明細図 徳島縣及徳島縣 第164号洲本町 撫養町 福良町 板西町 板東町 堀江村東京交通社1929
撫養 林崎花街 長亭、淀川、検番、〇安亭、柳本、松廻家、いづか、うきよ、八木、清光座、陣幕支店、み…

参考記事

鳴門(林崎花街跡)撫養町

今回は、鳴門(徳島県鳴門市)の町並みを散歩します。
鳴門の撫養(むや)川岸の林崎花街※1 は、芝居小屋の清光座(戦後は映画演劇専門館)を中心にして、料亭、旅館、が建ち並んでいました。*1
高松家(高松席、のちの高松旅館)、みよし野(みよし亭)があったあたり。道を挟んだ反対側(写真左側)に「陣幕支店」「清光座」「八木亭」がありました。*1*2*3

古い建物も残っています。

旅館だったと思われる建物。*2。

元置屋の「陣幕」*1 と思われる「旅館陣幕」があったあたり*2

参考文献

*1
西田素康撫養港の「みなと文化」みなと総合研究財団 リンク
P.88-22-P.88-24 遊里・料亭 廓 撫養港そばの林崎遊廓の起源は、近世末にさかのぼる。鳴門市史上巻(昭…
*2
日本住宅地図出版徳島市・鳴門市 1960日本住宅地図出版1960
P.80 旅館陣幕、旅館高松、多田席、スタンド国の山、清光亭、旅館春風館、の記載。
*3
東京交通社大日本職業別明細図 徳島縣及徳島縣 第164号洲本町 撫養町 福良町 板西町 板東町 堀江村東京交通社1929
撫養 林崎花街 長亭、淀川、検番、〇安亭、柳本、松廻家、いづか、うきよ、八木、清光座、陣幕支店、み…

参考記事

※1鳴門(花街跡)撫養町林崎の足立寺の西側。花街の面影を感じる一画。

小作(無料案内所)飲み屋ビルの1階。看板が乱立。

小作駅前の飲食店ビル。このビルの1階に無料案内所が入っています。
かつての小作は、奥多摩方面では、数少ない風俗店のある町でした。*1

ビルには空き店舗もあるようです。

無料案内所。

派手な看板が乱立しています。

参考文献

参考記事

小作(駅周辺の歓楽街)居酒屋やパブ・クラブが入居する雑居ビルが乱立。

今回は、小作(おざく、東京都羽村市)の町並みを散歩します。
JR青梅線小作駅東口周辺には、居酒屋やパブ・クラブが入居する雑居ビルが乱立しています。

西方向にある巨大風俗ビル。

ラーメン屋などの飲食店が入るビル。

大通り沿いの大型ビル。

参考文献

参考記事

福生(スナック街)旧赤線街の東隣の通り。

福生の旧赤線街のメインの通り*1※1 の東隣の通り。道幅の狭い通りにスナックが密集しています。

通りの奥まったところ。

趣のあるの和風スナック。

南端は、メインの通りと繋がっています。

参考文献

*1
荒居直人ゴーゴー福生アメリカのフェンスのある東京の街からクレイン2002
P.8-P.10 福生で通称「赤線」と呼ばれているのは、福生駅の東口駅前ロータリーからわずか100m(原著では…

参考記事

※1福生(旧赤線街)昼間はほとんど人通りがありません。

福生(ホテル徳川跡)近代的なホテルに生まれ変わっています。

福生のスナック街の東側。古いホテルが建っています。神社が隣にある不思議な空間です。

「ホテル徳川入口」の看板。

神社から逆方向を見たところ。ホテルの裏側は段丘になっていて、建物は連続しています。

丘の上のホテルは、近代的なホテルに生まれ変わっています。

参考文献

参考記事

福生(横田トルコ跡地)東福生駅への五差路。

福生駅から東福生駅へ向かう五差路。

交差点の角には、かつて横田トルコがありました。現在は駐車場になっています。

1970年の住宅地図*1 によると、横田トルコには、「トルコレストラン」が併設されていました。

横田トルコの西隣には、横田ニューゲストホテルがありました。*1

参考文献

*1
公共施設地図航空福生市 1970年度版公共施設地図航空1970
武蔵野台二丁目の交差点(五差路)に、「横田トルコ」「トルコレストラン」「横田ニューゲストホテル」の…

参考記事

福生(福生アメリカンハウス)当時の様子を再現したコミュニティスペース。

牛浜駅の東側にある「福生アメリカンハウス」は、1958年に建てられたアメリカンハウスを使ったコミュニティスペースです。*1

内装も50年代当時の雰囲気が再現されています。*1

当時の珍しい写真も展示されています。

外人バー街には、空地があり、そこにはいつもアメリカ人の車が駐車していた。(解説文より)

参考文献

*1
福生市観光案内所福生アメリカンハウスのご案内福生市観光案内所 リンク
1958年に建てられ、当時のオリジナルに近い型で残されている珍しい米軍ハウスを利用したコミュニティース…

参考記事

福生(アメリカンハウス)朝鮮戦争の頃の米軍人家族用住宅。

今回は、福生(東京都福生市)の町並みを散歩します。
朝鮮戦争の頃の米国本土からの米軍人家族移住策により、基地内における米軍人家族用の新規居住が困難となったため、1951年、当時の基地の司令官が、米軍人家族用の一戸建て賃家である「ハウス」の建設を福生市に要請しました。これが、アメリカンハウスです。*1

ハウスは、米軍によって規格化された平屋の一軒家で、全室が洋間であることと、平均10畳のリビングと庭があることを特徴としていました。*1

外壁は、水色やピンク色に塗装されています。

最近は、店舗に転用されている事例もあるようです。

参考文献

*1
新井智一東京都福生市における在日米軍横田基地をめぐる「場所の政治」地学雑誌 114(5) (通号 1002) 2005東京地学協会2005
P.774 ハウス地区の形成 米国本土からの米軍人家族移住策と、朝鮮戦争に伴う横田基地への軍事力終結のた…

参考記事

武蔵小金井(看板建築展)江戸東京たてもの園。

江戸東京たてもの園には、展示室があって、「看板建築展」開催中です。
看板建築は、関東大震災後、人々は、自力でバラックを建て始めましたが、このとき、バラック美しくする活動(今和次郎など)や建築家のデザインにりょう仮設商店などが建ち始め、これが後の看板建築につながったそうです。*1

本来、2階建てであるべきところ、少しでも広く使うために屋根裏部屋を設けた事例の模型が展示されています。*1

こちらは、ほぼ完全に3階建ての建物。

中央区月島の旧玩具店の建物に飾られていた、だるまの部分が移設、展示されています。

参考文献

*1
江戸東京たてもの園東京150年記念 「看板建築展」 展示品説明文江戸東京たてもの園2018
バラックの街並み
被災者の多くは、焼け跡に自力で資材を集めて建てたバラックに暮らした。この様子を、「考現学…

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この記事を参照している記事

築地(西仲通り商店街)明治時代の埋め立て工事により出来上がった町。

武蔵小金井(鍵屋)木製の熱燗機。カブトビールのポスター。

江戸東京たてもの園に移築されている居酒屋の「鍵屋」。
鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられ、その後、明治から大正、昭和初期まで酒の小売り店を営み、戦後の1949年(昭和24)、本格的に居酒屋として営業を始めました。金杉通りと言問通りがぶつかる角近くにあり、地の利に恵まれていました。*1

戦後の「酒はカストリ」の時代から店のメニューはしだいに増え、鰻の子のくりから焼き(=うなぎの串)や煮奴(にやっこ)、味噌田楽などそれぞれの肴が絶品と言われました。主人の清水幸太郎氏は無口で黙々と仕事をし、この店では女性だけの客、飲みすぎの客は断られました。

木製の熱燗機。

カブトビールのポスター。
カブトビールは、明治時代に、既存4大ビールメーカーに挑戦した愛知県半田市のビールです。*2

参考文献

*1
東京都歴史文化財団江戸東京たてもの園 解説本東京都歴史文化財団2003
鍵屋(居酒屋)
P.42 鍵屋は、1856年(安政3)に居酒屋として建てられたと言い伝えられている。その頃の得意先には、上野…
*2
カブトビールカブトビール赤煉瓦倶楽部 リンク
明治時代に、大都市をひかえた既存4大ビールメーカーに挑戦した一地方都市のビール会社がありました。 そ…

参考記事

この記事を参照している記事

鶯谷(鍵屋)江戸時代創業の居酒屋。黒板塀に徳利。

武蔵小金井(防火用水と木製ゴミ箱の展示)丸二商店。

江戸東京たてもの園、丸二商店の建物。
銅板で装飾された看板建築の建物です。*1

建物脇の路地も当時の情景が再現されています。

防火用水とゴミ箱。

木製ゴミ箱。コンクリ製ゴミ箱と形状は同じです。

参考文献

*1
東京都歴史文化財団江戸東京たてもの園 解説本東京都歴史文化財団2003
丸二商店
P.56-P.57 丸二商店は、現在の千代田区神田神保町に昭和初期に建てられた看板建築と呼ばれる形式を持つ建…

参考記事

武蔵小金井(子宝湯)昭和4年の建築。「東京型銭湯」の特徴。

JR中央線武蔵小金井駅北口からバスで5分。小金井公園の敷地の中に、江戸東京たてもの園があります。
江戸東京たてもの園は、1993年、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元・保存・展示するとともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目的に開園しました。*1

商店などの建物が建ち並ぶ東ゾーンの奥にある銭湯の子宝湯。1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられました。*2

格天井(ごうてんじょう)など、脱衣場は日本の伝統建築の空間。浴室はタイル張りなど、洋風の雰囲気が強い、いわゆる「東京型銭湯」の特徴*2 を持ち合わせています。

ガラス戸を介した縁側。*2

参考文献

*1
東京都江戸東京博物館江戸東京たてもの園 概要・沿革・条例など東京都江戸東京博物館 リンク
たてもの園について 東京の歴史をふりかえると、江戸の昔から火事・水害・震災・戦災などによ…
*2
東京都歴史文化財団江戸東京たてもの園 解説本東京都歴史文化財団2003
子宝湯
P.44 子宝湯は、1929年(昭和4年)に足立区千住元町に建てられた。施主の小林東右衛門(こば…

参考記事

武蔵小金井(ぬくい湯)まるで軍艦のような外観。

東京学芸大の東側。道路沿いを進むとまるで軍艦のような外観の煙突を持つ建物が現れます。

鉄筋コンクリート3階建てです。

建物は、工事用事務所も兼ねているようです。

雑然とした感じの銭湯の入口。

参考文献

参考記事

武蔵小金井(名画座跡地)1970年代はポルノ映画を上映。

今回は、武蔵小金井(東京都小金井市)の町並みを散歩します。
JR中央線武蔵小金井駅北口を出て約300m。けいやき通りに映画館の名画座がありました。*1

名画座は、ふとん店の東隣の敷地にありました。

1970年代は、主にポルノ映画が上映されていました。
1977年の雑誌「ぴあ」を見ると《田中絹代さんを偲んで》と題し「サンダカン八番娼館・望郷」が上映されている他、《日活ロマンポルノ決定版》では、宮下順子さんや谷ナオミさんの作品が上映されています。*2

現在は、駐車場になっています。

参考文献

*1
ゼンリン小金井市ゼンリン1972
P.19 小金井市本町2-19に、「小金井名画座」の記載。
*2
ぴあぴあ No.58ぴあ1977.6.1
映画の街角
武蔵小金井
P.24 「小金井名画座」(北口4分ヒグチ薬局角右へ) 5月25日~31日 《日活ロマンポルノ決定版》 「…

参考記事

立川(ビラ禁止看板)泉体育館駅近くの公園。

多摩モノレール泉体育館駅近くの青柳公園へ向かう道の途中。

「青少年に有害なビラ・チラシお断り」の看板があります。

場所は、閑静な住宅街。

かつて、住宅街や商店街に貼られたピンクビラやチラシに反対する運動や禁止看板の設置が行われましたが*1、立川でも類似の運動があったのだと思われます。

参考文献

*1
風きよし古今東西風俗散歩歩いて知る日本の大衆文化史 トランスワールドジャパン2012 リンク

著者(風きよし)が独自の目線で書いた散歩本。

ビラ剥がし跡と都市の境界

P.120-P.121
ピンクピラとは、繁華街やラブホテルの電柱や標識柱に貼られて…

参考記事

立川(米軍キャバレー「玉川」跡地)黒人専用。

戦後の進駐軍の性処理問題へ対応は、米軍の人種差別のため、白人兵士用の羽衣町特飲街と、富士見町(西立川駅前)の黒人兵士専用のバーに2分されていました。*1
白人用の特飲街と黒人用特飲街が2分されるのは、かつての沖縄でも同様の状況が見られました。※1
立川の場合は、東の方は白人が、西立川寄りは黒人街にと変わりました。そして黒人専用のバーとして西立川駅の入口に「玉川」が誕生しました。*1

1970年の住宅地図*2 を見ると、駅近くに同じ屋号の「ホテル玉川」の記載があります。

「ホテル玉川」があった場所は、現在は、食品スーパーの建物が建っています。

屋上からの遠望。
昭和記念公園(戦後米軍が旧立川飛行場を接収した立川基地跡地)の緑が見えます。

参考文献

*1
三田鶴吉立川飛行場物語西武新聞社1987
P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎…
*2
公共施設地図航空立川市 1970年度版 (全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)公共施設地図航空1970
P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年…

参考記事

※1コザ(吉原特飲街)名前の由来は、東京の吉原です。

立川(羽衣特飲食街跡)格子状の道路の形状。

今回は、立川(東京都立川市)の町並みを散歩します。
立川の赤線は、錦町※1 と羽衣町の2ヶ所にありました。*1*2
戦後は、旧日本陸軍の将校宿舎に立川パラダイスが作られましたが、やがて閉鎖されると、兵隊達は羽衣町の特飲街へと流れ、戦前からの飲食店街までバーへと一変しました。*3
現在も格子状の道路の形状が残っています。

1970年の住宅地図*4 見ると、この付近には、荻原荘、稲生荘、千秋荘などの屋号の記載があります。転業アパートと思われる屋号の記載があります。

錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観でした。*5*6
写真は、旧特飲街の東端。

旧特飲街の南端は、商店街と接しています。

参考文献

*1
渡辺寛全国女性街・ガイド季節風書店1955
立川
P.66 中央線立川駅を降りると、黄色を尻目に米パンがバイキンのように泳いでいる。 その間を…
*2
上村敏彦花街・色街・艶な街 色街編街と暮らし社2008
基地の町立川の赤線跡
P.123 昭和23年当時の立川市の地図(観光の日本社発行)。2ヶ所の指定地がわかる。
*3
三田鶴吉立川飛行場物語西武新聞社1987
P.245 進駐軍の性処理問題については、GHQの要請によって立川パラダイスがあって旧日本陸軍の将校宿舎…
*4
公共施設地図航空立川市 1970年度版 (全国統一地形図式航空地図全住宅案内地図帳)公共施設地図航空1970
P.7521 羽衣町一丁目に、荻原荘、稲生荘、千秋荘、大橋寮、横田寮、石田寮、羽衣荘、東松寮、栄荘、萬年…
*5
木村聡赤線跡を歩く消えゆく夢の街を訪ねて自由国民社1998
立川
記録映画「赤線」を見ると、錦町はいわゆるカフェー調、羽衣町は平屋一戸建てが並ぶ都営住宅のような景観…
*6
睦書房人情講談 昭和27年9月号睦書房1952
東京赤線地帯・現地ルポ 立川
P.162 羽衣町から、国電立川駅へ行く途中の錦町。羽衣町はうっかりすると住宅街と間違える。

参考記事

※1立川(錦町赤線跡)電柱に「楽天地」の表示。現在は閑静な住宅街。

田無(松の湯)商店街のレトロ銭湯。ロケット型の煙突。

西東京市南町1丁目にある松の湯。商店街の中にあります。

都内では少なくなりつつあるレトロ銭湯です。

簡易な懸魚。

ロケットのような形をした煙突。

参考文献

参考記事

田無(フジカフェ)駅前の老舗喫茶店。5種類の中から選択できるトースト。

田無駅北口から田無小学校へ向かう道を入ります。

レトロな喫茶店の「フジカフェ」。

店内は、混雑しています。隣の席と隔てる板にメニューが貼られています。

トースト(ダブル焼きサンド)は、ツナ、ポテト7、ハムチーズエッグ、チキンカレー、ハンバークの5種類の中から2種類を選択できます。

参考文献

参考記事

東伏見(やぎさわセンター)レトロなパチンコ店。柳沢の商店街。

西武新宿線東伏見駅の西隣の柳沢(やぎさわ)駅の商店街にのレトロなパチンコ店。

モダンなデザインの建物です。

建物の裏側へ回ると駐車場からの出入口。

777ののネオン看板。

参考文献

参考記事

東伏見(伏見ホテル)広大な庭園。レトロな電飾看板。

東伏見4丁目交差点の看板※1 に導かれて、青梅街道を西へ進み、東伏見稲荷神社近くが、ホテルへの入口です。

広大な庭園を持つホテル。
かつては、モーテルだったようです。*1

レトロな電飾看板。

「旅荘」と書かれています。

参考文献

*1
住宅地図出版社保谷市住宅地図出版社1972
P.39 西東京市柳沢2丁目7−7に「モーテル伏見」の記載

参考記事

※1東伏見(謎のホテル看板)十字路の矢印。Uターン。

東伏見(謎のホテル看板)十字路の矢印。Uターン。

都道4号線(青梅街道)と都道7号線(五日市街道)が分岐する東伏見4丁目交差点から、南側の7号線へ入ります。

道路沿いに、伏見ホテルの看板が建っていますが、付近にホテルは見当たりません。

看板に記載された十字のマーク。「この先の十字路を右へ曲がる」ことを示しているようです。

看板の裏側を見ると納得できました。誤って7号線へ入ってしまったドライバー向けの看板のようです。

参考文献

参考記事

この記事を参照している記事

東伏見(伏見ホテル)広大な庭園。レトロな電飾看板。

東伏見(ちかん看板)北口ロータリー。重要な部分は、赤文字。

今回は、東伏見(東京都西東京市)の町並みを散歩します。
西武新宿線東伏見駅北口。この付近は、西東京市が合併する前は、保谷市だった地域です。

ロータリーには、バスが発着します。

ロータリーの向こう側からも見える「ちかん禁止」看板。

重要な部分は、赤文字です。

参考文献

参考記事

三鷹(春の湯)周囲をビルに囲まれた銭湯。ビル銭湯。

三鷹駅の南側。三鷹市下連雀3丁目に、周囲をビルに囲まれた銭湯の春の湯があります。

マンションの建物の1階のビル銭湯。

これより先、土足禁止です。

清潔な店内。

参考文献

参考記事

三鷹(喫茶店「ブルボン」)50年以上の歴史を持つ店。

三鷹駅北口の中町新道沿いにある喫茶店の「ブルボン」。昭和39年の住宅地図*1 にも掲載されている店です。

レトロな外観。

非常に落ち着きます。

ナポリタンとビールを注文。ボリューム満点です。

参考文献

*1
東都地図社武蔵野市商工住宅名鑑東都地図社1964
P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。「扇」「青島」「フ…

参考記事

三鷹(八丁稲荷)八丁商和会。八丁の名が残る稲荷神社。

八丁通り(武蔵の警察署の前の通り)から三鷹駅北口に至る一画は、スナックや飲食店が集まる八丁商和会*1 のエリアで、かつての特飲街があった場所※1 もこのエリアに含まれます。
周囲は、高層マンションや居酒屋チェーンの本社ビルなどが建ち並びます。

駐車場脇に、ひっそりと佇む八丁稲荷。

八丁の名が残る稲荷神社です。

特飲街の女性たちも信仰したのかもしれません。

参考文献

*1
武蔵野市中央地区商店連合会商店会会員一覧武蔵野市中央地区商店連合会 リンク
八丁商和会の会員とエリア(地図)

参考記事

※1三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目。廃娼運動の結果、1957年に廃業。

三鷹(八丁通りの飲食店跡)アパートの建物。腰廻りに石材。

八丁特飲食街の北側。この通りを進むと横河電機の工場です。

古いアパートの建物。

ここには、飲食店「バークロンボ」「はしご」「紅鶴」がありました。*1

腰廻りの石材。

参考文献

*1
東都地図社武蔵野市商工住宅名鑑東都地図社1964
P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。「扇」「青島」「フ…

参考記事

三鷹(料亭らしき建物)八丁通り。交差点の角の、古い和風の建物。

八丁特飲街※1 があった飲み屋街の東側の交差点。交差点の角に、古い和風の建物が建っています。

八丁通り沿いにあります。

1972年の住宅地図*1 には、屋号と思われる「与名本」の記載があります。

2階部分。料亭らしき佇まいです。

参考文献

*1
ゼンリン三鷹市 '72ゼンリン1972
P.5 武蔵野市中町1丁目11-13に、「与名本」の記載。

参考記事

※1三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目。廃娼運動の結果、1957年に廃業。

三鷹(八丁特飲街跡)中町一丁目。廃娼運動の結果、1957年に廃業。

今回は、三鷹(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
三鷹駅の北側、現在の横川電機の工場へ向かう途中に、かつて「八丁特飲街」として賑わった飲み屋街があり、「松月」「ぼたん」「ひばり」「花月」「末広」「ふたば」などの店がありました。*1

南側の路地に入ると、現在もその雰囲気が残っています。

昭和39年(1964年)の住宅*2 には、「花月」「ふたば」など、特飲街時代の屋号を引き継いだ店が確認できます。

電柱番号札に残る「八丁」の名。

1956年5月、売春防止法が国会を通過し、全国各地の草の根からの廃娼運動の結果、1957年12月19日、業者側は遂に廃業声明を発表するに至りました。*3

参考文献

*1
上村敏彦花街・色街・艶な街 色街編街と暮らし社2008
三鷹八丁特飲街顛末記
P.120-P.121 戦後の混乱期がやや落ち着き始めた昭和24年(1949年)、中町二丁目の一画に八軒の木造の家が…
*2
東都地図社武蔵野市商工住宅名鑑東都地図社1964
P.31 八丁特飲街があった場所(武蔵野市中町1-19-9)に、下記屋号の記載。「扇」「青島」「フ…
*3
竹村民郎女の戦後史-45-売春防止法--婦人相談員の献身的努力に支えられて朝日ジャーナル 2月10日号朝日新聞社1984.2.10
P.33 1950年秋、東京都武蔵野市八丁(中央線三鷹駅北口)に、8軒の「青線」が出現した。業者たちは、5,28…

参考記事

この記事を参照している記事

三鷹(八丁稲荷)八丁商和会。八丁の名が残る稲荷神社。
三鷹(料亭らしき建物)八丁通り。交差点の角の、古い和風の建物。

中村(名古屋花壇跡)昭和初期の総合レジャーランド。

昭和初期、太閤通りの南側の現在のNTT西日本中村ビルと中村郵便局がある場所に、総合レジャーランドの「名古屋花壇」がありました。*1

名古屋花壇(中村温泉パラダイス)は、昭和3年(1928年)に開設された遊園地で、舞台付き大食堂、遊技施設などの大規模建物と、屋外の遊園地、花壇などが設置されていました。*2

昭和4年(1929年)の世界大恐慌の影響で廃園に追い込まれました。*2

跡地は昭和12年(1937年)に中村区の仮庁舎になり、現在は中村郵便局 になっています。*2

参考文献

*1
横地清中村区歴史余話中日出版社1992
P.111 昭和初期の中村区に吉田高郎が興した総合レジャーランドの「名古屋花壇」 当時のパンフレット *2
名古屋観光コンベンションビューローやっとかめ文化祭 歴史まち歩き 13 中村・大門名も無き人らの中村観音に遊郭跡、 歴史の光と影を今に伝えるディープなまちやっとかめ文化祭実行委員会2015.2 リンク
旧名古屋花壇(中村温泉パラダイス)址。昭和3年(1928年)に開設された遊園地。当時の資…

参考記事

中村(「福春」跡)建物の左側は洋風の店舗に改装。

旧中村遊廓。現在のピアゴ中村店の西側の一画に当時の妓楼と思われる建物が残っています。*1*2

建物の左側は改築されて洋風の店舗になっています。

「福春」の屋号。

「TSURUNOYA」と書かれています。*1

参考文献

*1
*歓楽の名古屋趣味春秋社1937
中村旭廓内明細図
P.42 「中村旭廓内明細図」に妓楼の屋号が記載。現在のピアゴ中村店の西側の一画に、鶴の家、…
*2
近藤正一中村遊廓における建築計画の類型日本建築学会計画系論文集 通号488 P.203-P.210日本建築学会1996.10
4.中村遊廓の一般的妓楼
P.206 中村遊廓において、当時の構造を残していると判断される建物は40件。 P.205 図6 中村…

参考記事

中村(電柱番号札)旧遊廓の南東から北東にかけて「遊廓北分」。

中村遊廓の特徴である四隅の廓の中心に向かう斜めの道。*1
現在は風俗店(旧「三角荘」)があります。

四隅のうちの南東部分にあたるこの場所の電柱番号札には、「遊廓北分1」と書かれています。

「遊廓北分1」の電柱番号札を起点に、旧遊廓の南東から北東にかけて、「遊廓北分2」「遊廓北分3」…..と続き、最後は「遊廓北分8」で終わっています。

ちょうど、四隅の北東部分にあたる場所です。写真の空地の部分は、「ホテル太閤」がありました。

参考文献

*1
近藤正一中村遊廓における建築計画の類型日本建築学会計画系論文集 通号488 P.203-P.210日本建築学会1996.10
3.中村遊廓の都市計画
P.205 廓の構造は、島原や吉原などと同様、縦1本、横3本の大通りを持った三筋構造を基本とし、さらにそ…

参考記事

中村(妓楼の建物)北側は看板建築のような造作。

かつての中村遊廓があった大門町。妓楼と思われる重厚な建物が残っています。*1
現在は風俗店として使われているためか、北側は看板建築のような造作となっています。

現存している遊廓時代の建物のうちの一つです。*1

裏入口はこちらです。

風俗店の看板。

参考文献

*1
近藤正一中村遊廓における建築計画の類型日本建築学会計画系論文集 通号488 P.203-P.210日本建築学会1996.10
4.中村遊廓の一般的妓楼
P.206 中村遊廓において、当時の構造を残していると判断される建物は40件。 P.205 図6 中村…

参考記事

中村(中村映劇)敬老優待割引。成人映画館。

中村遊廓の南東に、成人映画館の「中村映劇」があります。

敬老優待割引、あります。

レトロなネオン看板。

「汚物、生理用品など捨てる方」注意看板。

参考文献

参考記事

中村(お食事処「善ちゃん」)60年以上赤ちょうちんを守ってきた居酒屋。

旧中村遊廓の南側の一画。名古屋市中村区賑町。

60年以上も赤ちょうちんを守ってきた居酒屋「善ちゃん」。お世辞にもきれいな店とは言えません。*1

入口脇には、錆びた飲食店の看板。

お食事処「善ちゃん」の提灯。

参考文献

*1
毎日新聞社「善ちゃん」店主死去 森繁久弥、ミヤコ蝶々らに愛され毎日新聞 中部夕刊毎日新聞社2017.6.5 リンク
旧中村遊郭の一角の名古屋市中村区大門で60年以上も赤ちょうちんを守ってきた居酒屋「善ちゃん」の主人…

参考記事

中村(大門小路)コの字型の呑み屋街。大門横丁の一本北側の通り。

大門横丁※1 の一本北側の通り。呑み屋街の入口を示す「大門小路」の大看板。

コの字型に呑み屋街が続いています。

反対側の入口にも「大門小路」の大看板。

西側にも入口があります。

中村(大門横丁)レトロ感漂うアーケード

今回は、中村(愛知県中村区)の町並みを散歩します。旧中村遊廓の南側。昭和の哀愁の残る大門横丁が今も健在です。

レトロ感漂うアーケード。

反対側から。緩やかにカーブしています。

近くには、高層マンション。

参考文献

参考記事

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中村(大門小路)コの字型の呑み屋街。大門横丁の一本北側の通り。

吉祥寺(大衆食堂「まるけん」)地元の人たちで満員。

吉祥寺東町1丁目。繁華街からはずれた住宅地にある「まるけん」。遠くからでも「まるけん」の看板を確認できます。

大衆食堂「まるけん」。

こじんまりした店内は、地元の人たちで満員です。

かつ丼とビールを注文。

参考文献

参考記事

吉祥寺(弁天湯)磨りガラスで描かれた裸婦。

東急百貨店の西側。商店やブティックもまばらになり、住宅街になるあたり。吉祥寺では、よろづ湯※1 と並ぶレトロ銭湯の弁天湯があります。

弁天湯の煙突。

脱衣場の窓には、裸婦が磨りガラスで描かれています。

レトロなかさ入れ。

吉祥寺(駅前のホテル)コリント式オーダー。

今回は、吉祥寺(東京都武蔵野市)の町並みを散歩します。
吉祥寺駅北東側の繁華街の狭い通り。「ニューヨーク」と書かれたラブホテルの看板が確認できます。

交差点の角に面した大きな建物です。

JR中央線の高架を挟んだ南側。ギリシャのコリント式オーダー(建築様式)の円柱を持つ建物が現れます。

以前は、駐車場でしたが、ホテルが出来たことにより、通り抜けできなくなっています。

参考文献

参考記事

西荻窪(純喫茶「DANTE」)レンガ造りのノスタルジックな喫茶店。

西荻窪駅前の呑み屋街※1 の南側にある純喫茶。

レンガ造りのノスタルジックな喫茶店です。

店内もは木とレンガ。クラッシク(バロック音楽)が流れ、まるで名曲喫茶のようです。

クロックムッシュ(ホットサンド)とカフェオレを注文。

西荻窪(駅前の呑み屋街)ディープな一画。2階建ての木造家屋。

今回は、西荻窪(東京都杉並区)の町並みを散歩します。
JR西荻窪駅南口を下車し、すぐ西側。ディープな呑み屋街があります。

南側の通り。2階建ての木造家屋が連なっています。

北側の通りへ抜ける通路。

北側の通り。

参考文献

参考記事

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西荻窪(純喫茶「DANTE」)レンガ造りのノスタルジックな喫茶店。

津島(苧之座)苧麻の商人たちの町。

現在の津島市天王通り三丁目あたりを苧之座または小之座と呼びました。

このまちは苧(イラクサ科の植物。丈夫な繊維として利用できる)を取り扱う商人たち(座)のまちであったことから名づけられたと考えられます(看板の説明書き)。

「苧」という文字を見ると、「口之津に「苧扱川(おこんご)」という地名があり、そこにあった遊廓は「おこんご遊廓」と呼ばれていた。」ことを思い出します。※1※2
「苧扱川」の地名も苧麻を栽培していたことに由来します。*1

苧麻は、17世紀前半に木綿が庶民の日常衣料としての地位を確立するまでは、庶民にとっての代表的な繊維原料でした。*2

参考文献

*1
西光知巳オコンゴ考口之津の歴史と風土 1号口之津史談会2007
口之津の行政区、南大泊に「オコンゴ」と呼ばれる地名がある。かつて遊廓があった所としても知られている…
*2
永原慶二苧麻・絹・木綿の社会史吉川弘文館2004
P.2-P.5 近代以前の日本の衣料原料で代表的なものは、苧麻(ちょま)・絹・木綿の三つであった。戦国時代…

参考記事

※1口之津(苧扱川)おこんご。木綿以前の代表的な繊維。おこぎばし。※2口之津(苧扱川遊廓跡地)市街から南側に峠を越えるた南大泊。

津島(朝日寿司)津島料理業組合の名簿にも掲載されている老舗。

津島の天王通り沿いにある朝日寿司。津島料理業組合の名簿*1 にも掲載されている老舗です。

「江戸前立喰寿司」の看板。今回は、左側にある正面の入口から入ります。

テーブル席と座敷。

ちらし寿司を注文。

参考文献

*1
津島商工会議所津島市商工名鑑 1963年版津島商工会議所1963
P.151 津島料理業組合(広告欄)  茨寅、魚源、魚島、太田屋、角屋、菊水、紀の昭、壽、三…

参考記事

津島(御料理「太田屋」跡)紅色の壁が際立っています。

まのや旅館の前の道を南下すると、料理屋の建物に行き当たります。

御料理「太田屋」跡。*1*2

紅色の壁が際立っています。

「料理店」のプレート

参考文献

*1
津島商工会議所津島市商工名鑑 1963年版津島商工会議所1963
P.151 津島料理業組合(広告欄)  茨寅、魚源、魚島、太田屋、角屋、菊水、紀の昭、壽、三…
*2
公共施設地図航空津島市 全住宅案内地図帳1970公共施設地図航空1970
料理屋、券番事務所、旅館、の記載 P.2643 料理玉船、旅館竹廻家、料理明月、旅館二葉、旅館…

参考記事

津島(料亭「松葉」跡)電柱に屋号。天王川公園の近く。

津島の天王川公園の近く、秋葉神社の裏側に料亭松葉の建物が残っています。*1*2

「松葉引込」と書かれた電柱番号札。

1本北側の通り。居酒屋があります。

反対側から見たところ。

参考文献

*1
津島商工会議所津島市商工名鑑 1963年版津島商工会議所1963
P.151 津島料理業組合(広告欄)  茨寅、魚源、魚島、太田屋、角屋、菊水、紀の昭、壽、三…
*2
公共施設地図航空津島市 全住宅案内地図帳1970公共施設地図航空1970
料理屋、券番事務所、旅館、の記載 P.2643 料理玉船、旅館竹廻家、料理明月、旅館二葉、旅館…

参考記事

津島(ゑびす旅館)昔の佇まいが残る一画。

池須町の北東方向。割烹「一力」の西側に、昔の佇まいが残る一画があります。

「ゑびす旅館」。地図によると現在は「ゑびす寮」となっています。

美しい黒板壁。

旧「桔梗屋」。*1
ゑびす旅館に隣接しています。

参考文献

*1
公共施設地図航空津島市 全住宅案内地図帳1970公共施設地図航空1970
料理屋、券番事務所、旅館、の記載 P.2643 料理玉船、旅館竹廻家、料理明月、旅館二葉、旅館…

参考記事

津島(料理玉船)かつての料理屋街の名残。

津島映画劇場があった一画※1 の北側の一画。

この通りの南側に料理「玉船」の建物が残っています。*1*2

玄関。

当時の電話番号。津島料理業組合の名簿*2 に記載の電話番号に一致しています。

参考文献

*1
公共施設地図航空津島市 全住宅案内地図帳1970公共施設地図航空1970
料理屋、券番事務所、旅館、の記載 P.2643 料理玉船、旅館竹廻家、料理明月、旅館二葉、旅館…
*2
津島商工会議所津島市商工名鑑 1963年版津島商工会議所1963
P.151 津島料理業組合(広告欄)  茨寅、魚源、魚島、太田屋、角屋、菊水、紀の昭、壽、三…

参考記事

※1津島(料理屋跡)大正末から一大歓楽街に発展。

津島(料理屋跡)大正末から一大歓楽街に発展。

今回は、津島(愛知県津島市)の町並みを散歩します。
津島は、江戸時代から「芸どころ津島」と評判だった花街で、昭和初期、津島町には池須を中心として24軒の芸妓置屋がありました。*1
当時、池須には蓮田と呼ばれる沼地がありましたが、都市計画において、埋め立てが必要との機運が高まり、大正8年に埋め立てが着手されました。埋め立て後、この地に、市場・カフエ・食堂・芸妓置屋・映画館などが次々に建設され、大正末からは津島の一大歓楽街に発展し、戦後も長く繁栄を続けました。*2
現在の「天王通1」交差点にあるマンション付近には、津島映画劇場がありました。*3

旅館紀乃昭、料理持高屋があったあたり。*3*4

この付近には、旅館二葉がありました。*3*4

この道の北側には、旅館竹廻家、料理明月がありました。*3*4

また、終戦後の池須町には、カフェー(いわゆる特殊飲食店)が散在的に営業し、「新天地」と呼ばれていました。*5

参考文献

*1
津島市立図書津島 : 歴史写真集 第2輯 明治・大正・昭和前期の学校写真津島市立図書2013
江戸時代から「芸どころ津島」と評判であった津島の花街。昭和初期、津島町には池須を中心とし…
*2
まちづくり津島海部津島郷土研究 第1号まちづくり津島2016.3
P.92-P.93 大正8年、津島町は池須蓮田の埋め立てに着手した。この内容は「尾陽新報」(大正8…
*3
公共施設地図航空津島市 全住宅案内地図帳1970公共施設地図航空1970
料理屋、券番事務所、旅館、の記載 P.2643 料理玉船、旅館竹廻家、料理明月、旅館二葉、旅館…
*4
津島商工会議所津島市商工名鑑 1963年版津島商工会議所1963
P.151 津島料理業組合(広告欄)  茨寅、魚源、魚島、太田屋、角屋、菊水、紀の昭、壽、三…
*5
愛知県警察本部愛知県警察史 第3巻愛知県警察本部1975
P.392 第四九表 カフェー(いわゆる特殊飲食店)の営業地帯形成状況 1.集団的に一画を形…

参考記事

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津島(料理玉船)かつての料理屋街の名残。

大垣(エビス食堂)昭和の雰囲気が残るとんかつ店

大垣駅近くにある「エビス食堂」は、昭和の雰囲気が残るとんかつ店です。

レトロ食堂に必ずあるショーウインドウ。とんかつを中心としたメニュー。

落ち着いた店内。

とんかつ定食とビールを注文。

参考文献

参考記事

大垣(都湯)小便小僧

大垣駅近くにある銭湯の都湯。洋風の建物です。

手書きで書かれた屋号。

木製の棚。白く塗られています。

脱衣場には、なぜか小便小僧。

参考文献

参考記事

大垣(割烹旅館「菊水」)戦前は料亭

大垣城近くにある割烹旅館「菊水」。地元の方の話によると戦前は料亭を営んでいたそうです。

鉄筋コンクリート造りでありながら、みごとな和風の佇まいです。

夜の様子。

部屋はとにかく広いです。

参考文献

参考記事

大垣(エグロ会館)ビリーヤード

大垣市郭町にある大垣城。名実ともに城下町大垣のシンボルです。

その大垣城の前にビリヤード場のエグロ会館があります。

1階には、ビリヤードエグロの看板。

「玉突」。

参考文献

参考記事

大垣(うどん「鶴丸」)創業明治17年

大垣駅北口から約200m。林町2丁目にある鶴丸食堂。雰囲気のある建物です。

うどん、丼物が中心のメニューです。

創業明治17年。創業当時からのうどんの値段の移り変わりが掲示されています。幕末は18文、終戦直後は15円です。

てんぷらうどんを注文。

参考文献

参考記事

大垣(お城街のひち屋)金融品 貸流品

お城街※1 のある城南アパートの西側。ひち屋の看板が見えます。

ひち屋の入口。

入口の看板に、「金融品 貸流品 廉売」と書かれています。

別の金融の店。

参考文献

参考記事

※1大垣(お城街)レトロな呑み屋街

大垣(お城街)レトロな呑み屋街

今回は、大垣(岐阜県大垣市)の町並みを散歩します。
大垣城の東側。城南アパートの建物。

1階に、レトロな呑み屋街があります。入口右側には、喫茶「古城」。

看板の右側の「街」の文字が隠れて見えづらくなっていますが、「お城街」と読み取れます。

和風の飲み屋が連なります。

参考文献

参考記事

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美濃太田(坪内逍遥の銅像)根津遊廓

美濃太田駅前の広場。

坪内逍遥の銅像が鎮座しています。

坪内逍遥は、日本最初の近代的文学論『小説真髄』(1885~1886)とその実践となる小説『当世書生気質』(1885~1886)を著し、文壇の中心的存在となりました。

逍遥は、大学時代の同級生に誘われて、根津遊廓の大八幡楼(おおやわたろう)にあがり、ここで出逢った遊女の花紫と明治十九年十月二十二日に結婚しました。*1
しかし、逍遥自身はこれが原因となって、鬱憂になったといわれています。*2

参考文献

*1
矢田山聖子坪内逍遥の妻 大八幡楼の恋作品社2004
P.10 逍遥は、大学時代の同級生に誘われて、根津遊廓のなかでもひときわ格式のある権現裏の大八幡楼(お…
*2
松本清張文豪文芸春秋新社1974
P.44-P.45 逍遥がおセンさんといっしょになったのは二十八歳の秋、それからそろそろ初期鬱憂現象の神経衰…

参考記事

美濃太田(森山の旅館・料理屋街跡)明治時代から料亭や芸者置屋がありました

美濃太田駅から高山本線で一つ隣の駅、古井駅で下車し、北東へ500mほど行くと古い道標があります。右へ行くと、八百津、木曽路、左へ行くと飛騨高山です。

この付近(古井地区の森山)は、かつての加茂郡の中心で、群役所・警察署などの官庁があったことも関係して、明治時代から料亭や芸者置屋がありました。「大正年代森山元町ノ街並」によると、青柳橋近くに、「料理」「満寿や」の記述があります。

イサバや角周の隣には末広座があり*1、この付近が歓楽街であったことが想像できます。

「平井酒や」の近くに「置屋昭月」がありました。*1

参考文献

*1
美濃加茂市美濃加茂市史 通史編美濃加茂市1980
P.852 太田は、中山道の宿場であった関係から、江戸時代より旅籠が約20軒を数えたというが、明治になって…

参考記事

美濃太田(音羽浴場)ビニールのテント

中山道、大田本町一丁目交差点近くに、銭湯の煙突が見えます。

一見、駄菓子屋か何かの商店かと思える緑色のビニールのテントですが、銭湯の音羽浴場です。

煙突。

夜の様子。

参考文献

参考記事

美濃太田(太田町の呑み屋街)和風の名前

美濃太田駅の南側、太田町に、小規模ですが、居酒屋やスナックが集まる呑み屋街があります。

雪椿、えん、けい、あさこ、つむぎ、年輪、さっちゃん、等、和風の名前が多いです。

四つ角のあたり。

夜の様子。

参考文献

参考記事

美濃太田(大楽通り)駅前の旅館街

今回は、美濃太田(岐阜県美濃加茂市)の町並みを散歩します。
JR高山本線美濃太田駅前から南東方向にまっすぐな道が伸びています。

大楽通り。歓楽街を思わせるような通り名です。

旅館「いろは」。

少し先に別の旅館。

参考文献

参考記事

金津園(ヤマヨ温泉)洗って・絞って・乾燥

岐阜西通りと南本庄一条通りの交差点付近。「ヤマヨ温泉」の看板が見えます。

近代的な2階建てのビル銭湯は、多くの人で賑わっています。

煙突の上部に「ゆ」のマーク。

洗って・絞って・乾燥

参考文献

参考記事

金津園(コンクリゴミ箱)赤と白

古い家並みが残っている旧加納宿。旧中山道が緩やかにカーブして続いています。

民家の前にあるコンクリゴミ箱。堂々とした大型のゴミ箱です。全面部分は赤色。ひび割れ等老朽化している部分がほとんど見られません。

加納宿は、コンクリゴミ箱の宝庫です。

コンクリ部分が白く塗られたお洒落なゴミ箱。形もスリムです。

参考文献

参考記事

金津園(コンクリゴミ箱)秋葉神社前

水野町公園の南側にある秋葉神社。加納宿があった旧中山道沿いです。

「秋葉神社」の石柱の隣にコンクリゴミ箱があります。

頑丈そうな箱です。

上部の蓋には、取っ手がついています。現在も使われているのかもしれません。

参考文献

参考記事

金津園(加納宿の民家)加納本町9丁目

JR岐阜駅の南側は、江戸時代はかつての中山道加納宿があったあたりです。

加納本町9丁目のかつての中山道沿いに、古い民家の建物が残っています。

丸窓などの装飾。料理屋等を営んでいたのかもしれません。

玄関付近。

参考文献

参考記事

金津園(道路拡幅工事の現場)忠節橋通り

長良川の忠節橋から、岐阜駅へ向かう忠節橋通り(国道157号)は、岐阜市の三大通りのひとつですが、この通りの南端は、金津園の入口にあたります。

この通りをさらに、南進させる計画なのでしょうか。金津園の中央を通り抜けるための拡幅工事が行われています。

拡幅工事のために、立ち退いた店舗もあるようです。
写真中央奥の高層ビルは、「岐阜シティ・タワー」*1

完成すれば、ソープランド街の中央を4車線の道路が貫通することになります。

金津園(岐阜駅前の展望室)岐阜シティ・タワー

今回は、金津園(岐阜県岐阜市)の町並みを散歩します。岐阜駅前から見える高層マンションの「岐阜シティ・タワー」。
現代の岐阜市を象徴するランドマーク的存在です。*1

最上階の43階スカイラウンジ(地上152メートル)には、無料展望室が設けられています*1

展望室へのエレベータ搭乗口。

展望室から見えるのは、駅北側の岐阜市街や金華山で、南側はレストランになっているため、南側の展望を望むことはできません。が、わずかに金津園の一部を見下ろすことができます。

参考文献

*1
岐阜市「岐阜シティ・タワー43」 43階展望室岐阜市 リンク
岐阜シティ・タワー43は、JR岐阜駅から西に徒歩3分の場所にある地上43階、地下1階の超高層再開発ビルです…

参考記事

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金津園(道路拡幅工事の現場)忠節橋通り

美濃(八幡屋)明治30 年代に建てられた料理旅館

大正時代に入ると、小倉公園から「うだつの 上がる町並み」に延びる御嶽新道界隈には、 多くの料亭、小料理屋が軒を並べ、大衆歌舞伎、剣劇等が上演された小倉座や 検番があり、花街が形成され、一時新富町 と呼ばれた時期もありました。*1

俵町の円通寺南には、「八幡屋」が営まれています。*2

「八幡屋」は、明治30 年代に建てられた料理旅館として朝日楼が営業していましたが、昭和8 年(1933)、八幡屋に店主が代わり、今は料亭として営まれ親しまれています。*2

南側には長い塀が続いています。

参考文献

*1
美濃市美濃市歴史的風致維持向上計画美濃市2011 リンク
第2章 美濃市の歴史的風致形成の背景
花街界隈 大正時代に入ると、小倉公園は桜の名所 として県内で名が高くなり、多くの花見客 が集うように…
*2
美濃市美濃市歴史的風致維持向上計画美濃市2011 リンク
第3章 美濃の維持向上すべき歴史的風致
俵町の円通寺南には、「八幡屋」が営まれている。明治30 年代に建てられた料理旅館として朝日…

参考記事

美濃(美濃町花街)新民謡が流行

今回は、美濃(岐阜県美濃市)の町並みを散歩します。
大正年代から昭和初期にかけては、美濃町花街が最も盛んな時で料亭も多く芸妓数も30余名を数えるほどでした。当時、新民謡(昔からの民謡に対し各地で新しい民謡をつくること)が流行し、美濃町も料芸組合によって、美濃町音頭と美濃町ナントショ(小唄)がつくられました。*1

芸妓置屋「文の家」があったあたり。*2

芸妓置屋「喜久乃家」があったあたり。*2

昭和5年の市街図*2 に、料理屋と思われる、「古金家」「山口家」「玉本屋」「八幡屋」の記載のある通り。「八幡屋」は、同じ屋号で営業している料亭が別の場所にあります。

参考文献

*1
市原三三ふるさと美濃市明治大正よもやま話市原三三1981
P.149-P.152 大正年代から昭和初期にかけては、美濃町花街が最も盛んだった時代で、料亭も多くあり、芸妓…
*2
東京交通社大日本職業別明細図.第200號.岐阜縣東京交通社1927
美濃町1930
・芸妓置屋 文の家、芸妓置屋 喜久乃家 の記載 ・料理屋と思われる、古金家、山口家、玉本屋、八幡屋 の…

参考記事

三本木(とうてつ駅そば)地元に愛されるお蕎麦屋さん。

かつての十和田観光電鉄、十和田駅の「駅そば」は、廃線後、十和田市中央バス停前に移転しましたが、そのとき駅そば「とうてつ駅そば」が現在も営業中です。*1

懐かしさ、温かさを感じる地元に愛されるお蕎麦屋さんです。*2

1日5食限定のチキンかつカレーは、売り切れていました。

お勧めの「スぺシャルそば」(天ぷら、山菜、玉子)を注文。

参考文献

*1
十和田市観光協会十和田市観光情報 アーツトワダ ウェブとうてつ駅そば十和田市観光協会 リンク
十和田にはかつて十和田観光電鉄という鉄道路線があり、十和田駅という駅も存在しました。この…

参考記事

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三沢(駅そば)三沢駅の駅舎で営業中。スペシャルそば。

三本木(キャバレー花園)飲み屋街のビックスリー。

東三番街のスナック街にあるキャバレー花園。

戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業したのが当たって、昭和38年、東三番街に進出。「サロン花園」と「割烹大坂屋」を新築開店しました。*1

菊地正一氏の「クラブこけし」「割烹こけし」、そしてマダム(田鶴子女史)の「湖畔グループ」と併せ、飲み屋街のビックスリーと呼ばれました。*1

花園の看板。外国人芸能人は公演活動しか行わないので、お客様の応対はできません。

参考文献

*1
江渡武多朗十和田市流通業界今昔物語附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記 皆さんの新聞社1976
P.60-P.61 飲み屋街のビックスリー
 戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業…

参考記事

三本木(東三番街)昭和40年代に発達した呑み屋街

大正初期以降、戦時中を除き昭和三十年代中期まで、花柳街の老舗が繁栄しましたが、昭和40年代になると、キャバレー、スナック、バー等の登場となり、呑み屋街が発達しました。*1
その中で、東三番街は、現在も残る呑み屋街です。写真右側の焼肉の「食堂園」は、1977年の住宅地図*2 にも掲載されている店です。

カラフルなスナックの店舗が建ち並びます。

看板が密集。

反対側の入口。一方通行の出口です。

参考文献

*1
江渡武多朗十和田市流通業界今昔物語附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記 皆さんの新聞社1976
P.60-P.61 飲み屋街のビックスリー
 戦後間もない頃、浜田恵美子女史が、京都、大阪の美人ホステスを動員して産馬通りに「民謡酒場」を開業…
*2
日興出版社十和田市住宅地図日興出版社1977
P.27 産馬通り。東三番街。

参考記事

※1三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地。町の中心街。

三本木(産馬通り)料亭「一心亭」跡地。町の中心街。

三本木町(現在の十和田市)は馬産の町として知られ、に、明治17年(1884)に陸軍省軍馬育成所が設置され、馬せり(馬市)のときは、まるでお祭りのように人が集まり、周辺の旅館・商店は産馬で潤いました。馬主は、料亭に上がり込み、百円の札ビラを切るので料亭の主人は釣り銭に困るほどでした。*1
産場通りは、町の中心街で、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)がありました。*2

当時、本通り現東映付近に料亭「一心亭」がありました。*3
現在、その面影はありません。
「一心亭」は、魚屋の「一心太助」からとって「一心亭」と名付けられました。*4

「産馬通りでサンバを!」というアイディアで、毎年、「十和田サンバカーニバル」が開催されています。

産馬通りから北へ入った通りは、かつての料亭街でした。

参考文献

*1
むつ小川原産業活性化センターむつ小川原ガイド馬と歩む奥州路むつ小川原産業活性化センター リンク
馬市と産馬通り  馬産の町として知られていた十和田市(当時は三本木町)に、陸軍省軍馬育成所が設置さ…
*2
江渡武多朗十和田市流通業界今昔物語附・十和田市流通業界のぞきみて歩きの記 皆さんの新聞社1976
P.15 料亭方面
料亭方面を探訪すると、代表的なものに、一心亭(産馬通り)、忍亭(五丁目東裏)があった。共…
*3
日刊東北社写真集「なつかしの三本木」 のしおり日刊東北社1977
P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十…
*4
太素顕彰会十和田(旧三本木)開拓の秘話太素顕彰会1986
P.32 「一心亭」は、新潟の方の人で、舟で料理か何かの商売をしていたと言いますが、三本木に来て、その…

参考記事

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三本木(東三番街)昭和40年代に発達した呑み屋街

三本木(国際会館パチンコ中央店)1950年創業。2階は「三十番街」。

十和田市稲生町の繁華街。道路沿いにレトロなパチンコ店。

同じビルにスナックや飲食店も同居しています。

ビルの2階は、「三十番街」という飲食街になっています。

1951年創業。

参考文献

参考記事

三本木(三本木町遊廓跡地)「新地通」と書かれた電柱番号札。

今回は、三本木(青森県十和田市)の町並みを散歩します。
「全国遊廓案内」*1 によると、三本木町遊廓は、三本木町新地(しんち)に、貸座敷が3軒ありました。昭和29年の地形図*2 を見ると、西一番町の理念寺(写真右側)の西側に「新地」の記載があり、昭和9年の警察関連の資料*3 には、三本木町の貸座敷として、金助屋、島田楼、近盛楼の3軒が記載されています。

この付近には、「新地通」と書かれた電柱番号札が広範囲に分布しています。

当時、「新地通り」という通り名が、現在の西十一番町に存在し、そこには島田楼がありました。*4

西十一番町付近。

参考文献

*1
日本遊覧社全国遊廓案内日本遊覧社1930 リンク
三本木町遊廓
P.51  三本木町遊廓は、青森県三本木町新地にあつて、東北線古間木駅で十和田鉄道に乗換へ三本木駅で下…
*2
地理調査所三本木 応急修正版 (五万分一地形圖 ; 八戸 13號)地理調査所1954
理念寺の西側、北園小学校の東側に、「新地」の記載。
*3
中村元吉警察史余話第一集売春三百年史中村元吉1959
昭和九年公娼廃止時の諸統計 三本木町
屋号  氏名   娼妓数 三本木 金助屋 大坂ミヨ 二 島田楼 昆ソメ  二 近盛楼 武部サシ 三 …
*4
日刊東北社写真集「なつかしの三本木」 のしおり日刊東北社1977
P.10 ◎料亭一心亭 今は裏手にあるが当時本通り現東映付近にあった一心亭。 ◎島田楼 元新地通り現西十…

参考記事

青森(旭町の旅館跡)旭町遊廓跡地。「旭旅館」の屋号が残る建物。

かつて旭町遊廓があった青森市旭町1丁目。
戦後は、遊廓はカフェーや料理屋となり「赤線」地帯として残存しましたが、昭和33年に売春防止法が施行。遊廓は旅館や居酒屋となりました。今は当時の面影はほとんどありません。*1*2
「旭旅館」の屋号が残る建物。

現在は、企業の事務所として使われているようです。

元旅館「豊川」。*3

腰廻りには、鮮やかな青色の石材。

参考文献

*1
中園裕青森・東津軽今昔写真帖 : 保存版郷土出版社2010
P.32 明治43年の大火で柳原(現・港町)にあった遊廓は全焼、その後、旭町に復活する。戦後、…
*2
青森市常盤町町会常盤町発展史町会創立六十周年記念青森市常盤町町会1986
P.15-P.17 旭町一帯の発展のきっかけとなったのは、明治43年の青森大火である。当時堤川端柳原にあった遊…
*3
東交出版社最新青森市住宅明細図東交出版社1966
P.59 宝来町。旅館が密集している一画。旅館吉福、旅館第二吉福、旅館第三吉福、みやぎ荘(み…

参考記事

青森(煮干しラーメンの店)青い森鉄道のガードをくぐった道路沿い。

青森市街を南下する旭町通り。青い森鉄道のガードをくぐって約200m。道路沿いにラーメン店があります。

とにかく大きな文字です。木村屋ラーメン。

外は氷点下ですが、店内はしっかり暖房がきいていてポカポカです。

煮干しのだしがきいたラーメンは350円。大盛りを頼んでも450円です。

参考文献

参考記事

青森(中央古川通りの風俗店)呑み屋横丁の1階。

中央古川通り沿いの呑み屋横丁※1 の1階の風俗店。看板が密集しています。

サロンタイガー。

女性募集の看板。

路地の電飾看板。

青森(中央古川通り沿いの横丁)商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側。

今回は、青森(青森県青森市)の町並みを散歩します。
駅前の商業施設「フェスティバルシティアウガ」の東側の商店街「中央古川通り」沿い。1階に風俗店が入る横丁があります。

建物の右側の路地を進むと、スナックが2軒あります。

左側の通り。

奥まったところにあるスナック。

参考文献

参考記事

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青森(中央古川通りの風俗店)呑み屋横丁の1階。

武雄(スナック店)温泉街

武雄温泉の温泉街の北東側にスナック街があります。温泉街の中心部からは少し離れた場所です。

静かな住宅街の中のスナック。

フロンティア横丁。

ピンク色の建物。

参考文献

参考記事

武雄(旅館「白さぎ荘」)現在も残る太鼓橋

かつての満州楼の旅館「白さぎ荘」。旅館内部には当時の面影が残っています。

中庭に架かる太鼓橋。遊廓の特徴的な構造を残しています。終戦の1年ほど前、満州楼は海軍の病舎になったときの「兵隊さんがお礼に毎朝、太鼓橋を拭き掃除してくれて、お陰で漆がはげた」という話が旅館に伝わっています。*1

中庭を有しているのも遊廓の特徴的な構造です。ここからも太鼓橋が見えます(写真右下)。

宿泊した部屋。

参考文献

*1
朝日新聞社染めた看護服 太平洋戦争下、国内医療の現実朝日新聞.西部版朝日新聞社2015.8.2
P.4 終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は…

参考記事

※1武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡

武雄(旅館「白さぎ荘」)満州楼跡

今回は、武雄温泉(佐賀県武雄市)の町並みを散歩します。
かつて、武雄温泉場には遊廓がありました。旅館「白さぎ荘」(旅館「花月」※1 の隣)は、かつての満州楼です。*1

地元の方の話によると、改修はしているが建物の基本部分は当時のままだそうです。

レンガ造りの塀。

夜の白さぎ荘。

参考文献

*1
朝日新聞社染めた看護服 太平洋戦争下、国内医療の現実朝日新聞.西部版朝日新聞社2015.8.2
P.4 終戦の1年ほど前。武雄の女郎屋さんを全部、海軍が借り上げて病舎にしていましたですね。私の病舎は…

参考記事

※1武雄(武雄遊廓跡)旅館「花月」。正法寺へ向かう道の角。

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佐世保(ちかん注意看板)祇園町

祇園町のバス停。

バス停の待合わせ用の椅子の隣にちかん注意看板。

赤文字で強調されています。

裏側から。

参考文献

参考記事

佐世保(花園遊廓跡地)現在は公共施設と道路

日清・日露戦争により、海軍と佐世保市は大きくなり、明治42年頃になると、新たに名切遊廓(花園遊廓ともいった)ができました。*1

現在は、公共施設と道路になり、当時の面影はありません。

名切川の川の流れは現在も残っています。川と道路が交差するあたりには、松月楼、開明楼、本家高砂楼などがありました。*2*3

遊廓の中心部だったと思われる場所には、市民会館の近代的な建物が建っています。

参考文献

*1
山口日都志女性哀史 佐世保遊里考-遊女・芸者・娼妓・女給・夜の女- 懸命に生きた女たち芸文堂2017
P.46 花園遊廓の開設
P.48 軍港設置と殆ど時を同じくしてできた木風遊廓は、小佐世保に移転してからいよいよ繫昌し、日露戦争…
*2
平岡昭利地図でみる佐世保芸文堂1997
P.72 「花園町の図」に、松月楼、開明楼、本家高砂楼など楼名の記載。 写真72 佐世保の遊…
*3
佐世保市史編さん委員会佐世保事典佐世保市2002
花園遊廓 明治時代後期の佐世保には、遊廓といえば小佐世保(勝富)だけであった。一方、宮田町や太田町…

参考記事

佐世保(高天原のホテル)奥まった場所にあります。

高天原の住宅街にひっそりと建つラブホテル。
この付近には、戦後、外国人相手の貸席(ハウス)が分布していました。*1*2

当時の名残かもしれません。

広い通りに面した場所にあるホテル。

路地を入った奥まった場所に入口があります。

参考文献

*1
吉田容子敗戦後長崎県佐世保市の歓楽街形成史-遊興空間をめぐる各主体の関係性に着目して都市地理学vol.10日本都市地理学会2015 リンク
P.70 1954年の2月~3月頃、貸席はどこに存在していたのか。住宅地図で「〇〇ハウス」とある標…
*2
佐世保地理研究社佐世保地理詳解図 昭和29年度佐世保地理研究社1954
P.21

参考記事

佐世保(旧ハウス跡地)外国人相手の貸席

終戦後、佐世保の高天原から祇園町にかけては、外国人相手の貸席(ハウス)が分布していました。*1
1954年の住宅地図*2 によると、現在の新公園の北東側には、「〇〇ハウス」と記載されたホテルが密集していました。

現在、ビジネスホテルがあるあたり。この付近にも数軒のハウスがありました。*2

割烹店があるあたり。「ホテルヴィナス」などのホテルがありました。*2

1本北側の通り。道路沿いにハウスが建ち並んでいました。*2

参考文献

*1
吉田容子敗戦後長崎県佐世保市の歓楽街形成史-遊興空間をめぐる各主体の関係性に着目して都市地理学vol.10日本都市地理学会2015 リンク
P.70 1954年の2月~3月頃、貸席はどこに存在していたのか。住宅地図で「〇〇ハウス」とある標…
*2
佐世保地理研究社佐世保地理詳解図 昭和29年度佐世保地理研究社1954
P.21

参考記事