元町中華街の市場通りの北側。
中華街でよく見かける甘栗の店があります。

その隣にあるみやげもの店。

鮮やかなトタン建築です。

建物の後方から。

元町中華街の市場通りの北側。
中華街でよく見かける甘栗の店があります。

その隣にあるみやげもの店。

鮮やかなトタン建築です。

建物の後方から。

馬車道の繁華街。

交差点の角にあるアートビルは1階部分が広場になっている落ち着いた感じのビルです。

この1階に設置されてあったベンチは、白化粧のメリーさん※1 の指定席でもありました。

メリーさんを出入り禁止したビルが多かった中、アートビルのオーナーであり、かつてはビル1階に店舗を構えていた「アート宝飾」の代表、六川勝仁さんは、メリーさんを拒むことはしませんでした。
すでに、ベンチは取り外され、1階の「アート宝飾」の店舗は「スターバックスコーヒー」へと変わりました。

関内駅の南側の国道16号線沿のオフィス街。

神奈川中小企業センターのビルがある場所には、明治時代、新宿の遊女だったお倉が明治時代に開業した料亭「富貴楼」がありました。

お倉の才覚により、伊藤博文などの明治の元勲たちが集まり、富貴楼は、政治と経済の中心となりました。*3

桜木駅方向から。屋上が丸くなっているビルが、神奈川中小企業センターのビルです。

【参考文献】
*1 鳥居民:横浜富貴楼お倉(草思社,1997)P.9
今回は、関内(神奈川県横浜市中区)の町並みを散歩します。
横浜港の大桟橋近くにある開港広場

ここに「日米和親条約締結の地」の碑があります。

日米和親条約(1854年締結)は、鎖国制度が破られた歴史的条約です。*1

4年後(1858年)には、タウンゼント・ハリスと日米修好通商条約が締結され、このときのハリスの要請により、外国人の相手を目的とした港崎遊廓が関内(現在の横浜球場付近)に開業されました。※1

1854年3月31日(安政元年3月31日)江戸幕府がアメリカ使節ペリーと横浜で締結し…
野毛の繁華街の南側。このあたりまでくるとっ少し落ちついた雰囲気の町並みになります。

中華料理「萬福」。町中華の王道を行くような佇まいです。

メーニューは、すべて漢字表記が加えられています。

サンマー麺とビールを注文。

大岡川に沿って建つ都橋商店街の西隣の飲食店街の建物。

2階が居住部分です。

ビルの1階はのほとんどは飲食店ですが、1店舗だけ理容室があります。

レトロなドアと外壁。

野毛の中心部(野毛町一丁目)。

ラーメンの店 菊屋。

「看板による看板建築」と言えそうです。

隣に居酒屋「魂屋」。

野毛町2丁目の繁華街。

飲み屋の多い小路です。

建物の壁に直接手書きされた「鳥居のマーク」と「小便スルナ」注意書き。

反対側から。

野毛の繁華街の中心部。四つ角にホテルがあります。ホテルのビルの1階には、串カツ店などの飲食店舗が入っています。

入口。

西側の小路のホテル側は、木製板塀になっていて、そこには昭和を感じさせるホテルの裏口があります。

ホテルの裏口。

野毛三丁目は、野毛の中心部からは西側へはずれた場所ですが、動物園通りには、飲食店が建ち並んでいます。

中央部に横丁の入口がある建物。

スナック店が密集するビル小路。

奥行のある建物です。

今回は、野毛(神奈川県横浜市中区)の町並みを散歩します。
JR桜木町駅前には、戦前は桜川が流れていて錦橋~緑橋~瓦斯橋の間には、飲食物の露店小屋が発生していました。

石炭ビルと呼ばれていたビルがあったあたり。

桜川沿いの露店小屋の一部は、後にできた桜木町アパートに吸収されました。*1*2

この周辺は、カストリまたはクジラ横丁と呼ばれていました。

旧川崎宿の西端の日新町にある簡易宿泊所(ドヤ街)。

複数の簡易宿泊所が密集しています。

昭和28年に5軒の宿泊所が開業したのが始まりです。昭和35年には60軒になりました。

テレビ付き。

川崎南町の南側、貝塚二丁目の住宅街にある銭湯の「吉の湯」。

2つの建物(左側はコインランドリ)の間の通路の先が銭湯の入口です。

コインシャワー。

銭湯の建物は、道路の東側に面しています。

川崎南町の西側、市電通りの近く。数店舗の飲食店が散在する通りです。

ラーメンと書かれた大看板。

ラーメン中心のメニューです。

チャーシューメンとビールを注文。

川崎南町の北側の通り。

ストリップの川崎ロック座が営業中です。

レトロな大看板。nudetheater(ヌードシアタ)と書かれています。

建物側面の階段。

風俗店が散在する川崎南町にある小規模な飲み屋横丁。

小料理店など複数の店舗。

現在は、ほとんどの店舗が休業中のようです。

反対側。

かつて川崎宿の一部だった旧東海道沿いの通り(小川町通り)。この付近は、川崎遊廓があった場所です。
この付近は、小土呂新地と呼ばれ、大正11年には南町と呼ばれるようになりました。
江戸時代より飯盛女を抱えた旅籠屋は、風紀上問題が多く、明治35年、この地に移されました。

近くには「新地支」と書かれた電柱標識があります。

旧東海道から南へ入った場所にある南町公園。

ここにも「新地支」のプレートがあります。

旧東海道と駅前の大通り(新川通り)が交差する場所に、小土呂(こどろ)橋親柱の史跡があります。*1

親柱。

現在、小土呂の名は、交差点の名前に残っています。

小土呂バス停。

今回は、川崎南町(神奈川県川崎市川崎区)の町並みを散歩します。
チネチッタの東側にある商店街の名画通り。飲食店が建ち並ぶまっすぐな小路があります。

「名画通り商店会」の看板。

和風の飲食店。

まっすぐに伸びる側溝。

旧東海道川崎宿の通りに面したところに、「東海道かわさき宿交流館」があります。

3階と4階が展示室。

川崎宿の模型。ねずみ色の屋根は瓦屋根、茶色の屋根は茅葺き屋根を表しています。

江戸時代の雰囲気がよみがえってくるようです。

他に、幕末の安政4年(1857)に、アメリカの初代駐日総領事ハリスが宿泊した万年屋の展示などがあります。*2
今回は、川崎(神奈川県川崎市川崎区)の町並みを散歩します。
川崎市街を東西に横断する旧東海道。江戸時代は宿場町として繁栄しましたが、現在はその面影はありません。

現在の本町一丁目付近には、川崎宿を示す掲示が多く設置されています。

遊女の墓のある宗三寺周辺には、平旅籠の他に、飯盛旅籠も多く散在していました。*1

本陣近く。この付近も飯盛旅籠がありました。*1

権田原バス停の近く。

権田原のハッテンバの第一エリアだった公衆トイレは、最近リニューアルされたようです。

権田原の地名を冠した公衆便所です。

JR信濃町駅前の歩道橋から、権田原公衆便所方面への遠望。

JR信濃町駅を下車し、外苑東通りを南へ進むと、「権田原(ごんだわら)」の交差点があります。交差点の角には交番があって、交差点の北東側に、明治記念館。南東側に東宮御所、西側に明治神宮外苑が立地しています。

かつて、このエリアは、「権田原」という名のハッテンバでした。ハッテンバとは、ある一定の場とか施設が時間帯によってその機能を変質させられ、男性の同性愛者の性行動をうながす場となっているところを指しています。そこは、公園であり、公衆便所なのですが、夜になるとどこからともなく集まってくる男たちによって、開放的な性行動の場に変質させられました。権田原のハンテンバのエリアは、第一エリアから第三エリアと呼ばれる三ヶ所があって、その最盛期は、1961年から1971年までの10年間でした。第一エリアは、権田原バス停近くの公衆便所、第二エリアは、明治神宮外苑の森の入口の公衆便所で、第三エリアは、第二エリアの南側の前方の小公園でした。*1

1964年、東京オリンピック開催のため、第一エリア周辺が道路整備事業の対象区域となると、人々は向かい側の第二エリアに移動しました。やがて第二エリアも柵がめぐらされ、入口が閉ざされてしまうと、人々は第三エリアに移動しました。
ところが、第三エリアに隣接した都営住宅の住民の騒音拒否運動の抵抗にあい、住民の都への働きかけによって、東京都公園管理事務所は、夜間は閉門の措置をとったため、権田原のハッテンバは消滅しました。*1

現在も、そのためか、夕方16:30以降、公園の門は閉ざされます。

【参考文献】
*1 現代風俗研究会:現代遺跡・現代風俗91(リブロポート,1990)P.168-P.175
信濃町駅前の駅ビルの「味の名店街」には、歴史のある飲食店が集まっています。

地下1階の老舗カレー店。

メニューは、ポークカレー(並、中、大)のみです。

カレー(大)とビールを注文。キャベツは食べ放題です。

今回は、信濃町(東京都新宿区)の町並みを散歩します。
信濃町駅北口にそびえるトーシン信濃町駅前ビル。

1階には、レトロ感漂う名店街の入口があります。

「地下街入口」の看板

飲食店の名店の名が並びます。

たくさんの公衆トイレが整備されている飲み屋街の「塙山キャバレー」ですが、一方で、小便禁止看板もあちこちに建っています。

立小便の標的になりそうな空地。

赤文字の部分はかすれています。

中央の広場の看板。

塙山キャバレーの飲み屋街。トタン建築の店舗が建ち並びます。

国道沿いに隣接して、建物が弧を描いています。

塙山キャバレーには、トイレが数か所あります。

女性用トイレもあります。

常陸多賀駅の南西約1km。国道6号線の交差点「塙山十字路」。

交差点の角に飲み屋群が忽然と姿を現します。

飲み屋群は、「塙山キャバレー」と呼ばれているようです。

交差点の南東側の一画にトタン建築の飲み屋が密集しています。

常陸多賀駅の駅前の商店街の裏側。この付近はスナックや風俗店が散在するエリアです。

レトロな感じの風俗店ビル。

入口。

道を挟んだ向かい側の店舗。

今回は、常陸多賀(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
JR常磐線常陸多賀駅前の商店街にあるひかり食堂

大衆食堂です。

レトロな店内。

この店の名物「背脂ラーメン(麺大盛り、野菜増し、ニンニク有り)」とビール(大瓶)を注文。
盛りの大きさには驚愕です。麺とスープにたどり着くまでは、野菜炒めを食べている状態です。

旭町が花柳界として賑わい始めたのは、大正4年頃からで、助川駅(現在の日立駅)の周辺には、旅館、料理店、芸妓置屋が出来、この辺一帯は、海水浴場と共に、日鉱・日製社員等の憩いの場所となりました。三業組合ができて本格的な三業地として世に知られるようになったのは昭和4年頃から7年にかけてでした。*1
日立三業組合があったあたり(写真右奥)*2 は、現在は駐車場になっています。

明治時代からあった旅館「天地閣」は、現在はホテル「天地閣」になっています。

天地閣の北側(写真手前)には、割烹旅館「うめかわ」がありました。*2

天地閣脇の路地。

今回は、日立(茨城県日立市)の町並みを散歩します。
日立駅の南側の海岸沿い(写真奥)は、かつては行楽地で、旅館や料亭が建ち並ぶ賑わいのある町並みでした。

改札口を出たところに、昔の日立の写真が展示されています。

昭和14年の助川新道通り(現在の日立銀座通り)の様子。

日立鉱山で使用する機械の修理製造部門から日立製作所が誕生し、その後の日立市の発展を支えました。

下館の稲荷町にある映画館の「シネマ1」。

遠くからでもこの看板を見つけることができます。

入口とチケット売り場。

大映映画の系列だったのでしょうか。

しもだて美術館の北側にある老舗の蕎麦店。

屋号は「三代目 塙屋」。歴史を感じさせます。

まずは、日本酒を注文。

蕎麦は独特の細麺です。

羽黒神社の東側の住宅街。レトロな食堂がある通りです。

銭湯の松の湯。
本格的な宮型銭湯とは言えませんが、入口部分に唐破風のようにデザインされた庇。

現在は休業中のようです。

煙突。

稲荷町の旧花街。料亭があった通り(写真奥)※1から路地を入ったところ。

趣きのある建物。

看板建築です。

従業員募集の貼り紙

下館の羽黒神社※1 の東側に位置する稲荷町は、かつては繁華街でした。*1

この付近に大きな料亭の建物*2 がありました(写真右側)が、現在は取り壊されています。

崖の上からの遠望。

反対方向(南側)から。

下館の高台の商店街。
見事な看板建築の「中澤時計店」の建物があります。

パラペット部分には、時計が埋め込まれています。

中央部分には、中澤時計店の看板。

背面から。

今回は、下館(茨城県筑西市)の町並みを散歩します。
羽黒神社周辺は、大正のはじめごろ(1913)に待合や料理店ができ、稲荷町の繁華街が開発されまでの間、賑わいました。*1

羽黒神社の鳥居。

御大典記念。

洲崎遊廓楼主の小島長次郎*2 が寄進した燈籠。昭和天皇の御大典(昭和3年11月、即位の礼)のときです。

今回は、玉戸(たまど、茨城県筑西市)の町並みを散歩します。
JR線水戸線の下館駅の東隣の玉戸駅から国道50号線を西へ約1Km。国道沿いに2階建ての建物があります。

1階はスナック街です。

東端には、マッサージ店の看板。

東側から。

藤沢市の本町四丁目の永勝寺に、藤沢宿があった頃の遊女の墓があります。

この寺内の小松屋の墓地には奉公人である下男、抱え女の墓石が、家族の墓石(写真左奥)より一段低い位置に並んでいます。*1

飯盛女の墓石の数は39ですが、これらの没年を調べると、41年間に、39人の飯盛女が死亡しています。飯盛女の生命をむしばんだ原因は瘡気(梅毒)と、それの余病でした。*1

墓石には、施主小松屋の名前と遊女の俗名が彫られています。

藤沢駅北口の小路。

札幌ラーメンの店「こぐま」があります。

店内には、木彫りの子熊。

名物の牛乳ラーメンを注文。

マンションが林立する藤沢の繁華街跡の西側。

道路沿いに2階建ての飲食店ビルがあります。

飲食店は1階と2階の両方にあって、ビルの入口中央には2階への上る階段があります。

レトロな看板。

以前は、両側に和風スナックや小料理屋が並んでいましたが、現在、片側にはマンションが建っています。

いざかや「ひよこ」※1は、小鳥の街にも同じ屋号の店舗がありました。こちらに移転してきたのかもしれません。

サロンの看板。

かつての藤沢の歓楽街の中で、唯一残っている飲み屋街です。

藤沢のかつての歓楽街は、現在は多数のマンションが林立する町並みに一変しています。

スナック街の「小鳥の街」※1、「湯房ふじさわ」※2などがあった場所は、駐車場になっています。

仙成旅館と和風スナックが建ちならんでいた場所※3 もマンションに建て替わっています。

かつての面影はありません。

今回は、藤沢(神奈川県藤沢市)の町並みを散歩します。
駅の北側。藤沢銀座通りから50mぐらい入ったところにある飲食街。

2006年に訪れたとき※1 と比べかなり荒廃が進んでいます。

店舗の内部は意外と綺麗です。

この飲食街の北側にはスナックが営業中です。

長崎市街の「中央橋」バス停。名前の通り長崎市の中心地にある橋です。

バス亭「中央橋」に設置されている白ポスト。

有害図書類回収ポスト。

丸型です。

長崎市街の思案橋近くにある「ツル茶ん」。

大正14年創業の老舗喫茶店です。

名物はトルコライスです。

ミルクセーキ。

長崎市街の思案橋横丁※1 にある中華レストラン「よこはま」。

創業60年だそうです(店の看板より)。

長崎チャンポンは、明治時代、長崎に住んでいた中国人たちによって作られ、中国からの留学生たちに栄養がありしかもボリュームもあるので大変喜ばれていました。その後、長崎ならではの新鮮な山海の幸と工夫が加えられて、長崎中に広まり、長崎の郷土料理として育ちました。※1

「よこはま」のネオン塔。

銅座町の繁華街に、「シバヤンジ通り」と名付けられた飲み屋の路地があります。
銅座付近には以前、芝居小屋が点在しており、当時の人は「芝居小屋の地」を「シバヤンジ」と呼んでいたそうです(案内看板より)。

路地はL字型に曲がって続いています。

反対側(西側)から。

夜の様子(上の写真と同じ場所)。

長崎市街の銅座町の繁華街。「永見徳太郎通り」と名付けられた通りがあります。

通りの奥まった場所。

側溝のある塀。

小便禁止の貼り紙。

数年前まで、この付近にあった銅座市場は、現在は解体され、市場の下の動座川が見える景観になっています。

川の両脇の建物は残されたままです。

銅座川。

逆方向から。

長崎丸山町から船大工町へ通じる小路。

階段を下りながら角を曲がっていきます。

風情のある石段。

反対方向から。

今回は、長崎丸山(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
かつての遊廓だった丸山。寄合町に玉泉神社があります。

この玉泉神社の南側と東側には、遊廓時代からあった石塀が現在残っています。

南側の石塀。

東側の石塀。

マタロス休息所※1 が発展して出来上がった稲佐遊廓。現在はその名残はありません。

遊廓の東側のメインの通り。亀姫楼、玉姫楼、三好楼、二見楼、支楽楼、千歳楼、明月楼が道の両側に建ち並んでいました。*1

旅館松月

逆方向(東側)から。

国際親善の女傑と言われた「稲佐お栄」※1 の本宅は、旭町から稲佐山への急斜面を上ったところにある鳥岩(からすいわ)神社の近くにありました。*1

当時、日露戦争において旅順のロシア軍が降伏し、ステッセル将軍(旅順要塞地区司令官)は捕虜として長崎に到着。お栄宅に滞在しました。*1

お栄本宅跡の敷石。*1

鳥岩神社からの遠望。

幕末から日露戦争の前年(明治36年)までは船津浦・稲佐郷はロシア海軍士官の止宿地域で「ロシア村」と呼ばれていました。*1

ロシア村の案内板。

平戸小屋郷異国人休息所*1 があった場所(写真右側)。

女傑、稲佐お栄が建てたホテル「ヴェナス」跡地。
ロシア語を話せるお栄は、女実業家、社交界の花形として君臨し、ホテルル・ヴェスナを建設。幕僚たちの酒宴とダンスの歓楽の宿場となりました。*2

今回は、長崎稲佐(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。
長崎湾に近い旭町には、古くからの商店街があります。

似たようなデザインの店舗が連なっています。

美容室の部分だけが看板建築です。

長屋風の商店街の1階の美容室。

遊廓街だった戸町一丁目の通りにある理容室。

「調髪館」と書かれています。

入口のドアには取っ手が斜め取り付けられています。

水色の窓枠。

遊廓跡と思われる木造3階建物※1 の隣にある2階建ての木造家屋。
こちらも奥行のある建物です。

町屋風の建物。

2階部分。

華やいだ雰囲気です。

戸町一丁目の海岸一帯は昭和初期までここは遊廓地帯で、狭い道を挟んで木造三階建てを主とした大きな家が二十軒ほども競い建っていました。*1
現在もその名残と思われる木造三階建ての建物が残っています。

かつての雰囲気と名残を感じます。

奥行のある建物です。

高台の上る道路の途中から。

戸町一丁目の旧繁華街は、丸い半島の形状に合わせて、道路が弧を描いています。

3階建ての店舗。

道路の形状に合わせて建物もカーブしています。

国分町近くにある造船所。

今回は、長崎戸町(長崎県長崎市)の町並みを散歩します。国道交差点からほんのわずかに歩いたときにかかる鶴見橋から戸町港が見えます。

中小の造船所があります。

小菅修船場跡。船を乗せて曳揚げる台の形状から「そろばん」ドックと呼ばれました。

高台から見た戸町港。写真奥は女神橋です。

小城の旧遊廓のメインの通り。

通りの奥(北側)に、娼婦達が参ったお稲荷さんがあります。

煉瓦が使われています。

お稲荷さんの周囲は、堀で囲まれています。

現在は、住宅街となっている住ノ江遊廓跡に、1軒だけ、当時の三階建ての妓楼の建物が残っています。*1

遊廓の面影を残す塀。*1

玄関付近。

北側に隣接する敷地にも立派な塀が残されています。

住ノ江遊廓の開業は大正9年11月3日で、八軒の遊廓が軒を並べてどの遊女屋も5~10人の娼妓を抱えていました。*1*2

メインの通り(北側から)。写真奥は住ノ江橋です。*3

東側に入ったところには、検査所がありました。*3

六角川の堤防から旧遊廓地の遠望。

六角川の河口の住ノ江港は、かつては石炭で栄えた貿易港でした。*1

現在は漁港になっています。

住ノ江橋。

住ノ江橋の東側(写真左奥)には、住ノ江遊廓がありました。*1

今回は、小城(佐賀県小城市)の町並みを散歩します。
JR唐津線小城駅の北側の通りは、スナックが散在する住宅街になっています。

スナックと割烹料理店。

この付近には、映画館の桜座がありました。*1

桜座があった敷地の隣に建つスナック。

キムチ横丁※1 の中央。通路が交差するあたりに公衆トイレがあります。

広々としたトイレ。

男子小便器の中国語の貼り紙。漢字から、だいたい意味は想像がつきます。

「文明にとっては大きな一歩だ。」

東上野2丁目の「キムチ横丁」と呼ばれるコリアンタウン。※1
2棟の建物の間が生活通路になっています(南側より)。

ディープな雰囲気の通路。

逆方向から。

横丁の中央部。通路が交差するあたりに公衆トイレがあります。

今回は、上野(東京都台東区)の町並みを散歩します。
JR上野駅近くのガード沿いの繁華街。

大人のコンビニ店があります。

つい、見上げてしまう大看板。

入口のマネキン。マリリンモンローでしょうか。

JR板橋駅の北西側は飲食ビルが密集する繁華街です。

1階が飲食街の入口になっているビル。

通路はL字型になっていて続いています。

反対側の出口。

志村坂上の城山通りを西へ進むと、銭湯の「熊の湯」に行きつきます。

前面部分は改装され、「湯ーとぴあ熊の湯」という名称になっています。

西側から見た外観。後方部分は昔のままの建築が残されています。

東側から。

板橋の台地の上の志村坂上に対し、その北側の台地の下には、坂下、東坂下という地名があります。
その坂下1丁目の交差点の北東にある「坂下マーケット」は、看板に書かれている通り、かつては、精肉、鮮魚、青果、食料品、酒類、蒲鉾、菓子類の店が並ぶマーケットだったようです。現在は、入口付近の精肉店とリサイクルショップが営業中です。

マーケットの中央の通路。

かつての鮮魚店の名残。

反対方向(北東側)の入口。マーケットはL字型になっています。

都営三田線の志村坂上駅で下車。城山通りを100mほど進んだところにある1階に立喰いそば屋のビル。

立喰いそば屋脇に、通称「トンネルマーケット」と呼ばれる商店街があります。

ビルの1階の商店街は、さらに奥のビルへと続いています。

いつくかの連なったビルの1階が長い商店街になっています。

志村坂上駅から南へ800m。

住宅街の中にある大衆食堂。

暖簾に書かれているとおり、「大衆食堂」と言える店内。

かつ丼とビールを注文。

中山道から、南へ10分ほど歩くと「遊座大山商店街」の入口です。

商店街を歩いていると、やきとりのいい匂いが漂ってきます。

やきとり、鳥レバー、すなぎも、鳥かわ、つくね、すべて110円です。

やきとり5本と日本酒を注文。

スーパー「ライフ」(板橋宿の本陣跡)の先の十字路はかつての宿場の中心地で、ここから右(東)に向かったところに、文殊院があります。本堂の浦の墓地に宿場女郎の墓があります。*1

平尾宿の大盛川楼主が建て、正面が家族、側面が遊女の墓と説明が書かれています。
正面。「大」「盛」の文字が読み取れます。

側面の遊女の名。戒名の下に、俗名が彫られています。出身地が〇〇産と表現されています。*1
大阪産 俗名 うの
江戸産 俗名 やす
江戸産 俗名 かね

墓石には、文化、天保、嘉永などの年号が刻まれています。

今回は、板橋の町並みを散歩します。
旧中山道沿い(現在は商店街)の中程。板橋遊廓最大と言われた新藤楼は、明治16年の開業で昭和10年頃まで営業していました。新藤楼があった場所には、現在はマンションが建っています。
新藤楼の玄関部分の遺構は郷土資料館 ※1 に移築・保存されています。

新藤楼の建物は、昭和47年まで都病院の建物として残っていました。現在のマンションの1階には、同名の屋号の写真館が営業中です。

旧道をさらに西へ進み、王子新道を超えたあたりにも妓楼がありました。

逆方向から見たところ。

京成電鉄谷津駅近くにある谷津公園。公園の奥には「谷津バラ園」があります。

バラ園の入口脇にある「読売巨人軍発祥の地」の碑。

川上哲治、長嶋茂雄、王貞治氏など、往年の名選手の手形が並べられています。

この場所にあった谷津球場から日本のプロ野球は始まりました。

今回は、津田沼(千葉県習志野市)の町並みを散歩します。JR津田沼駅の西側。JRの線路と御成街道ど斜めに交差する地点に、ラブホテルが建っています。ビルの前面が広告スペースになっている狭小建物です。

突端部分に入口。狭小建物の特徴※1 です。

入口を廻り込むようにして裏側へ回る通路があります。

地元の人のみが利用するホテル裏側の通路。写真右側のフェンスの向こう側はJRの用地です。

成増駅から練馬駅行きのバスに乗って約10分。埼玉県和光市の白子川に近い場所に銭湯の「浩乃湯」があります。

昭和レトロな銭湯です。

玄関。

内部も昭和レトロです。

板橋区赤塚5丁目にある板橋区立郷土資料館。入口に旧板橋遊廓「新藤楼」の玄関部分がここに移築、展示されています。

玄関部分のみですが、かなり大きな遺構です。

銅板の説明書き。

唐破風の屋根の中央の意匠。

成増駅の南西側の旭町三丁目。ここからは練馬区です。川越街道から南へ少し入ったところに、小規模なスナック街があります。

スナック星。

四つ角のスナックビル。

白い壁のスナック店。

成増駅南口駅前のすずらん通り。古くからある商店街です。

すずらん通りにある成増マーケット

昭和な空間が残っています。

飲食店が営業中です。

成増駅前の立ち食いそば屋の「どん亭」。

名物は、焼肉ライスです。

券売機には、各種そばのボタンが並びますが、上部に焼肉ライス、特盛焼肉ライス、特々盛り焼肉ライスの大型ボタン。

焼肉ライス(普通盛り、500円)を注文。普通盛りでありながら、このボリュームです。

今回は、成増(東京都板橋区)の町並みを散歩します。
成増駅南側は、駅前の繁華街です。

現在、成増会館がある場所には、映画館の成増国際劇場がありました。

踏切を渡って、線路沿いを北西方向へ進んだあたりには、映画館の「成増東映」がありました。

近くには、「成増北口商店街」のゲートがありますが、商店街らいしい雰囲気はありません。

八王子駅前のビル。

純喫茶「田園」は、このビルの2階にあります。

レトロな店内。一人でものんびり過ごせます。

クリームソーダを注文。

花街があった中町の西隣の南町。

八王子三業組合の建物があります。

提灯。

三業会館の奥にある「三業稲荷」。

八王子の中町東側のエリアでは花街の風情が復活*1*2 していますが、西側はスナック街になっています。

南側の富士見通りに近いあたり。

韓国パブとフィリピンスナック。

逆方向(北側)から。

料理屋「すゞ香」*1 の北側。

黒塀に囲まれた置屋の「ゆき乃恵」。

建物脇の柳の木。

近くには、昭和30年代の花街の地図が掲示されています。

今回は、八王子(東京都八王子市)の町並みを散歩します。
かつて、織物業で栄えた八王子には、明治時代から花街がありました。現在も現役の花街として、中町には、料理屋が営業中です。

近年、黒塀が整備されるなどして、花街の風情が復活しました。

「すゞ香」は、当時の芸者衆の待合だった建物を改築したもので、今でも当時の面影が残っています(「すゞ香」の張り紙より)。

「八王子花街・黒塀通り」の説明書き。

大宮公園の園内にある動物園・遊園地。

遊園地(児童スポーツランド)。

動物園が隣接しています。

現在の動物園から遊園地にかけての一帯は、高級料亭「萬松楼」があった場所です(案内板より)。
萬松楼は、敷地内に鉱泉を掘り当てたことから明治二十一年に開業した料亭・旅館です。明治二十四年十月には正岡子規と夏目漱石が滞在しました。*1

「大宮公園」は大宮駅の東北、約1.5kmに位置しています。明治6年の太政官布達を受け、明治18年に氷川公園の名称で誕生しました。*1

木々に囲まれた美しい公園です。

「ブラタモリ」でも放映された料亭跡の庭石。
明治四十三年に、大宮公園に三業組合が組織されました。*2

「含翠楼(がんすいろう)」は、氷川公園開設当初(明治18年)に建設されました。
含翠楼の建築費は、吉田県令の機密費(本庄、深谷の遊廓から徴収された税金)により賄われました(案内板より)。

大宮の南銀座*1 の裏通り(線路沿い)。かつては風俗店だったと思われる電飾看板が残るビルがあります。

その隣にある「明朗会計」の大看板。

ビルの脇の路地。

ビルの表側。このビル全体が明朗会計店です。

大宮の南銀座。南銀座通り、ナンギンの通称で知られる繁華街です。

奇抜なデザインのアイスビル。

バーや居酒屋が入居しています。

「なんぎん」の呼び名は、昭和23年にアイスビルにより名付けられました。

今回は、大宮(埼玉県さいたま市)の町並みを散歩します。
大宮駅東口の高島屋裏の通り。

アパート風の建物の1階にある食堂。

食事処「多万里」。

ラーメン(大盛)とビール(中瓶)を注文。

菊坂の商店街。

コロッケで有名な「まるや肉店」。散歩をしていると、コロッケだ食べたくなります。

揚げたての「菊坂コロッケ」は120円。たくさん並んでいます。

菊坂コロッケ2個とハムカツ1枚を購入。

菊坂通りを北への登りきったところにある老舗旅館「鳳明館」。
本郷には、昔ながらの旅館が残っています。そのほとんどは、東大の学生目当てに始めた下宿屋が発端と言われています。*1

道路を挟んだ向かい側にある別館。

別館の玄関。

本郷界隈の旅館の大方は、岐阜県出身の種田一族と小池一族が興したものらしい。「鳳明館」の創業者も小池英夫という人で、昭和11年に、現在の「鳳明館」(本館)で営業を始めました。*1

菊坂の樋口一葉旧居跡。このあたりは、古い木造建築が多く残っています。

樋口一葉も使ったと言われる井戸。

現在は、防火用水として使われています。

逆方向から井戸のある方向の眺め。
